第5話

文字数 1,989文字

 空気はひんやり冷たく、空は満天の星たちに埋め尽くされている。残念ながら天の川は見えなかったが、それでも宮本は日常とは違う趣を存分に味わうことができた。
 懐中電灯を照らしながら、西村かなえの先導で細い野道を歩いていくと、やがて街灯に照らされた小さな広場に出た。中央からやや奥に木製の枠にロープで吊るしたブランコが二つ並んでいる。
 ポケットを探ると除菌シートが無いことに気づき、宮本は焦った。しまった、これではブランコに座れない。
 かなえは戸惑う宮本の手を引き、無理矢理ブランコに乗せると、彼女も横に腰を下ろした。

 沈黙が二人を包み、遠くから聞こえる虫の声と、揺れるブランコのきしむ音だけが辺りを支配する。

 やがてかなえは静かに口を開いた。
「宮本君……あなた、潔癖症よね」
 かなえの声を聞きながら、宮本はゆっくりと頷く。
「別に隠していたわけじゃないけど、なんだか言い出せなくて」
 するとかなえはブランコを止め、遠い目をしながら星空を見上げた。
「……実は私も昔はそうだったの……学生の頃付き合っていた彼氏が極度の潔癖症で、その影響を受けたのね」
 意外だった。普段の彼女からは、そんな様子は微塵も感じられない。
 かなえは物憂げな声で話を続ける。
「結局その彼氏とは二年もしないうちに別れたんだけど、潔癖症の方は治らずじまい。それどころか症状は徐々に悪化し、世の中の物が全て不潔に思えてきて、一日中手を洗っていたの。大学も中退して家に引きこもるようになり、やがて鬱になって……自殺も考えたことがあるわ」
 ハッとした宮本は、かなえの顔に視線を向ける。潔癖症に悩んではいたが、さすがに自殺まで考えたことは無かった。彼女の苦しみは一体どんなものだったのだろうと、宮本は想像を巡らせながら、ゆっくりとうつむいた。
「引いたでしょう? 私ね、そんな自分が嫌で嫌でしょうがなかった。それで潔癖症を治そうと努力したわ。ある日、三ヶ月ぶりに思い切って外に出てみたけど、どうしても周りがバイ菌だらけに感じた。体中が汚染されていく感じがして、たまらず家に引っ込んだわ。そしてシャワーを浴びて部屋に戻ると、布団に潜り込んで涙が止まらなくなった……このまま一生家から出られなくなると思うと、ついカミソリに手が伸びたのよ。幸い、その時は思いとどまって事なきを得たけれど、自殺願望が消えることはなかった」
 いつの間にか、西村かなえの目には涙がこぼれていた。なんと声を掛けていいか判らずに、宮本は、ただじっと押し黙っていることしかできなかった。
「……それからずいぶん経った頃、テレビでソマリアという東アフリカの国の特集があったの。画面の向こうの人たちは、牛のふんで出来た家に住んでいたわ。みな貧困にあえぎ、痩せ細った体で土の上に置かれた僅かな豆を必死でかき集めては、夢中で口に放り込んでいた。泥水をすすり、懸命に生きようとする彼らの映像を目の当たりにしているうちに、私たちが如何に恵まれているかが身に染みたわ。もし、彼らの立場になっていたら、潔癖症なんて言っていられない。自分がどれだけちっぽけな事で悩んでいたのか馬鹿らしくなって、思い切って外に出て、公園で砂まみれになってみたの……そしたらどうなったと思う? とっても清々しい気持ちになったわ。なんだか生まれ変わったような気持ちになって、人目もはばからずに大声で叫んだの。『私はもう大丈夫!』って」
 かなえは顔を向けると宮本の両手をしっかりと握り、瞳の奥の光で彼を照らす。宮本の中で何かが弾けると、いきなり立ち上がって地面に寝転んでみた。
 不思議と不快感は無い。むしろ解放感に包まれて、無意識に手についた泥を顔に当ててみる。かなえも横に寝そべり、二人して星空に向かって手を伸ばし、大声を上げた。
「僕はもう大丈夫だ!」
「私はもう大丈夫!」
「僕はもう大丈夫だ!」
「私はもう大丈夫!」
 やがて二人は大声で笑いだし、土の上を転がりまわった。全身泥まみれになったが、もう気にならない。宮本は、今までの自分が嘘のように思えた。
 夜空をもう一度見上げてみると、さっきは見えなかった天の川が姿を現し、流れ星が三回、輝きながら夜空を切った。

 コテージに戻り、二人は交互にトイレに入り、除菌シートで体についた泥を拭き取った。寝巻きに着替え、二人はおやすみなさいと笑顔を交わし、それぞれベッドに入った。

 翌朝、伊丹と真壁明菜が起きてくると、二日酔いのせいか二人とも頭が痛いと言い出してきた。フラフラと酔い覚ましのドリンクを飲み、二人は再度ベッドへ潜りだす。
 宮本と西村かなえは、トーストとコーヒーだけの簡単な朝食を済ませた。
 宮本はリュックを開くと、マスクと除菌グッズをゴミ箱に放り込んだ。

 昼近くになり、ようやく伊丹と明菜がベッドから起きだすと、四人は帰り支度を済ませてバンガローを出た。
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