精風門 ミラン

文字数 5,856文字

 火霊宮は異様な緊張感に包まれていた。ミランは廊下を歩きながら、その異様な緊張が自分の肌に突き刺さるのを感じていた。それは、彼女の背後について来る、三名の部下たちの緊張であったのかもしれない。
 この火霊宮も随分と歩き慣れてしまった。今では自分の門派の風霊宮よりも、構造をよく知っている。そう言えば、リュードに仕えて五年になるのだ。

 五年前、精火門と精風門の間で小さな争いがあった。ミランは精風門の元素術使いとして、幾度となく精火門と争った。ミランはその時に深傷を負い、倒れていたところをリュードに拾われたのだ。
 リュードは精火門の長の息子という立場にもかかわらず、ミランに対し精火門の人間となに一つ変わらぬ対応をしてくれた。ミランが起き上がれるようになると、リュードは外へ連れ出してくれた。ミランに向けられる刺さるような視線もリュードが庇ってくれた。

 最初はミランも警戒していた。いくら怪我人とはいえ、敵対する門派の人間に対して優しすぎる。謀略の一部ではないのかと疑っていた。しかし、リュードはミランを騙していたわけではなかった。
 五年前と言えばリュードは十八歳。少年を卒業し青年にさしかかる年ごろだ。そういった微妙な心情のリュードには、父親の持つ権力欲はまだ理解できないものだった。だから、リュードは父親に反抗した。そしてリュードには、傷ついたミランを敵として見ることがどうしてもできなかったのだ。
 未だ純粋なリュードの心が、ミランの持つ警戒心を溶かしていった。そんな状況で過ごしていたある日、ミランを今の状況へと導いた決定的な瞬間が起こった。

        ★

 その日の夜、ミランは庭を散歩していた。傷もかなり癒え、リュードのはからいで火霊宮の中をある程度歩くことも許されていた。なかなか寝つけなかったミランはふらりと部屋を出たのだ。
 庭にについた時、月明かりに包まれた赤毛の男が立っているのが見えた。ミランはそちらに近づいていく。リュードが足音に気づいて振り向いた。

「ミラン……?」

 少しだけ驚いた表情のリュードが、ミランを見つめていた。

「なかなか寝つけなくて……」
「そう。僕は……」

 言いかけて、リュードは口を閉じた。ミランが不思議そうにリュードを見る。見つめられてリュードが再び口を開いた。

「…………父上と喧嘩をしたんだ」
「また、ですか?」

 優しくミランが言った。

「父上は、死んだ兄上と僕をすぐに比べる。僕は兄上じゃないんだ。違ってあたりまえじゃないか」
「…………」
「僕は兄上みたいにすごくない……」

 うつむいて、苦しそうにリュードは呟いた。
 そこには死んでしまった兄の影に苦しむ弟の姿があった。精火門の始祖の生まれ変わりとまで言われた兄。両親の期待を一身に背負っていた兄。落石からリュードを守って死んでいった兄。その偉大な兄の影にリュードは悩まされていた。
 まだ、子供なのだ。少年から抜け切っていないのだ。そんなリュードを見つめるミランの表情が、限りなく優しくなった。リュードに近づきそっと抱擁した。驚いたリュードの体がこわばるのが判った。

「大丈夫です。リュード様はリュード様です。ご自分の思うように生きていけばよいのです。そうすれば、きっとみんな判ってくれます。リュード様は敵である私に優しくしてくれる。それだけですごい人だと私は思いますよ。お兄様に負けないぐらい、ね」

 夜着とその上に羽織った薄い上着を通して、ミランの体温がリュードに伝わった。リュードの肩が震えた。泣いているのかもしれない。
 ミランを非難する人間から守ってくれた強いリュードは、こんなにも弱いところを持っていたのだ。

「ありがとう、ミラン」

 リュードの声は震えていた。
 あの時リュードに見つけてもらわなかったら、今頃ミランは精火門の人間によって殺されていたはずだ。リュードを抱き締めながら、ミランは自分を救ってくれた少年を支えていこうと決心した。だから、自分から和解の使者をかってでた。精風門からは反逆者と罵られ、精火門からは売女と蔑まれた。それでも、リュードのそばで手伝えれば苦とも思わなかった。
 それは母性にきわめて近い、しかしそれとは決定的に異なった愛だったのかもしれない。
 その時ミランは二十歳。思えば年下である。自分より生きた年月が僅かばかり少ないこの少年をミランは見守る決心をしたのだ。

        ★

 廊下の突き当たりにリュードがいた。ミランはその前に立ち止まった。

「用意はできたかい?」

 リュードが訊いた。

「はい。レストーグ様の私兵はすべて捕らえました」
「エスティに護衛は?」
「信用のおける者を、部屋の前に配置しています」
「グレンとフィンナはちゃんと閉じ込めているね?」
「はい。確認してきました」

 ミランの答えに、リュードは満足気に頷いた。

「しかし、本当によろしいのですか?」

 ミランが心配そうな表情を向けた。

「エスティを守るには、これが一番いい方法なんだ」

 二人は黙った。もう、後には退けないのだ。自分を信じて進むしかない。
 リュードが扉をノックした。

「父上。リュードです」

 リュードは返事を待たずに扉を開けて入った。ミランがその後について入る。部下の三人はミランの合図で扉の外に待機する。
 中にはレストーグが一人、机に向かって書き物をしていた。

「どうした?」

 顔を上げることもしないで、レストーグが問う。リュードはレストーグのもとに歩み寄った。
 父を見る瞳には冷たいものが宿っている。後ろに続いていたミランが、部屋の扉を閉めた。

「どうしたのだと、聞いている」

 答えないリュードに業を煮やしたのか、レストーグはようやく顔を上げる。リュードと目が合い、僅かに戸惑ったような表情を浮かべた。

「父上にお願いがあってきました」
「なんだ? 言って見ろ。お前は見事エスティを捕らえてきた。何でも叶えてやろう」

 その言葉を聞いてリュードは冷たく笑った。それを見たレストーグの背筋か凍る。

「何でも、とおっしゃいましたね」
「ああ」

 リュードと目が合った時に感じた戸惑いは、得体の知らない恐怖へと変わる。
 リュードはさらにレストーグに近づいた。父と息子を隔てている机を回りこみ、椅子に座るレストーグの前に立った。

「では、精火門の長の座を、僕に譲ってもらいたい」
「何だと?」

 レストーグの顔色が変わった。立ち上りリュードを睨みつける。

「お前のような若造が何を言うか」
「しかし、『何でも』とさっきおっしゃいましたが」

 レストーグの一喝にリュードは臆した様子もない。部屋に入ってきた時と同じ、冷たい瞳でレストーグを見ている。

「戯けた事を抜かすな! セストスならばまだしも、お前のような未熟者に何ができる」

 リュードの目が細まった。

「死んだ兄であれば、譲ったと?」
「当たり前だ。セストスはお前と違って優秀だった。なんで、お前の変わりにあの子が死んだのだ! お前など……!」

 言葉の途中で首筋に鋭い痛みを感じ、レストーグは言葉を止めた。手に握られた短剣の刃がレストーグの首に当てられている。その手はリュードヘと伸びていた。
 感じた痛みは僅かに切れたためか。

「リュード……貴様…なにを」

 いつ短剣を抜いたのかすら、レストーグには分からなかった。刃は僅かでも力を加えれば急所を切り裂く位置にピタリと当てられていた。これでは動くどころか、元素術すら使えない。
 レストーグとて歴戦の強者だ。それが我が子相手にに油断していたとは言え、あっさりと動けなくされてしまったのだ。恐怖がレストーグの体を支配する。

「父上が悪いのですよ。素直に譲ってくだされば、このようなことをしなくて済んだのに」

 その言葉が合図であったかのように、ミランが扉を開けた。待機していたミランの部下たちが入ってくる。三人の部下のうち二人がレストーグを左右から抑えた。残りの一人が銀色の鉄に紋印の刻まれた手枷を精火門の長に嵌める。

「精霊封じの手枷か。用意周到だな、息子よ」

 レストーグが口の端をゆがめて言う。

「これでも一応、精火門の長であった父上に敬意を表しているのですよ?
 連れて行け」

 リュードの言葉に、部下たちはレストーグを部屋から連れだそうとする。レストーグは僅かに抵抗して、リュードを睨みつける。

「権力を嫌っていたお前が、なぜ今頃?」
「エスティを守る為ですよ。それに、父上。いまの貴方では元素術の門派を統べることな不可能です。貴方には昔ほどの覇気がない。
 元素術を統べるのは、父上でも死んだ兄上でもない。この僕です。そして、エスティを守るのも〝兄〟ではない。僕が守るんです」

 強い決意を覗かせる表情で、リュードは父親を見据える。

「言うてくれるわ、リュード。いい面構えをするようになった」

 レストーグは笑った。大きくなった子供を頼もしげに見る父親の顔で。
 それがあまりに意外だったのか、リュードの表情が一瞬揺れる。だがすぐに元の冷たい表情に戻ると部下に目で合図した。
 今度はレストーグもおとなしく従った。

「父上。今頃そんなことを言っても遅いですよ」

 出て行った扉を見つめながら、寂しそうにリュードは呟いた。

『あなた!? 何ですかこれは?』

 扉の向こうで女性の声がした。リュードの母イルーナだ。
 リュードがミランを見る。

「部屋にいらしたはずです」

 視線の意味を察したミランがすぐに答える。
 リュードは慌てて部屋を出た。部屋の外ではレストーグを連れた部下たちがイルーナに足止めをされていた。

「リュード、何かあったのですか?」

 部屋から出てきたリュードを見て、イルーアが寄って来る。

「母上」
「リュード! これは一体どうしたのです!?

 イルーナは怒ったようにリュードに問いただす。

「あまり興奮されるとお体に障りますよ」
「答えなさい!」
「見ての通りですよ、母上。私の指示で父上を拘束させていただきました」
「なんてことを」

 ショックのあまり、イルーナが胸を押さえて床に崩れた。

「母上」

 リュードが手を差し出す。しかし、イルーナは差し出された手をぴしゃりと撥ねのけた。

「母上……」
「あなたは何をしたのか、分かっているのですか!?

 苦しそうに喘ぎながらも、イルーナは瞳でリュードを拒絶していた。

「何を考えているのです。何のためにこんな莫迦げたことを……」

 母親の反応に、リュードは戸惑ったような表情を浮かべた。

「父上が精火門の長の座を譲らないとごねられたのでね」
「だから、実の父親を拘束したというのですか? こんなことをしなくても、いずれあなたが選ばれると決まっていたものを」
「いずれでは遅い。今、必要なのです。エスティを守る為にね」

 リュードは冷たく突き放すように言った。

「……あの人をはなしなさい」

 イルーナが母親の威厳を込めて言い放つ。

「断る、と言ったら?」

 リュードはそれを冷たい表情で撥ね付けた。

「リュード、お前という子は――」
「見苦しいぞ、イルーナ」

 母親に責められる息子に救いの手を差し延べたのは、意外にも拘束されたレストーグだった。

「あなた!?

 思いがけない人間からの言葉に、イルーナは半狂乱になりながら叫んだ。

「取り乱すな。わしにこれだけのことをしてくれたのだ、お前も覚悟は出来ているのだろう?」

 そう言って、レストーグは不敵に笑って見せる。それは強がりだったのかもしれない。だがその笑みは往年のレストーグを思い起こさせるほど、彼を強く見せる。

「もとより覚悟の上ですよ、父上」

 リュードも挑戦的な表情で見返した。そうしてしばらく睨み合ったあと、レストーグは連れていかれた。

「ああ!」

 イルーナは両手に顔を埋めて泣き始める。リュードはしばらくそれを見ていたが、何も言葉をかけずに歩き出した。

「なんでこんなことに。セストスが生きていれば、こんな不幸は起こらなかったのに」

 母親の元を去ろうとするリュードの耳に、イルーナの嘆きが飛び込んできた。

「母上は最後まで兄上の味方なのですね……」

 歩きながら、リュードは寂しそうに呟く。ミランがそのすぐ後に続く。
 廊下を曲がっても、しばらくの間イルーナの泣き声はリュードの耳に届いた。だがそれも、遠ざかるごとに薄れていった。

「ミラン。すまないが母上を頼む。僕は完全に嫌われてしまったみたいだからね」

 リュードが言った。心無しか台詞の語尾が震えている。背中をミランに向けたまま、リュードは立ち止まった。

「リュード様……」

 ミランが近寄って、リュードを背中からそっと抱きしめた。ミランのぬくもりがリュードに伝わった。
 初めてリュードの弱さを知ったあの日と同じように、ミランはリュードを抱き締めていた。あの時と同じくリュードの肩が震えている。違うのは、ミランより少しだけ低かったリュード背が、今では頭一つ分高くなっていることだけだった。

「分かりました。イルーナ様はわたしが責任をもって部屋までお連れします」
「いつもすまないミラン。僕は君に苦労をかけてばかりいる」
「いいんです。私はリュード様に助けていただいた時から、いっしょについて行くことを決めたのですから」

 優しい声でミランは言う。

「もう、君だけだな。エスティにも嫌われてしまったよ。エスティを守りたい一心で、いままでやってきたのに。
 兄上が生きていれば、もう少しうまくやっただろうに」

 前に回したミランの手に、暖かい滴が当たった。リュードを抱き締めるミランの腕に、力がこもった。

「リュード様はリュード様です。ご自分の思うように生きていけばよいのです。私はどんなことがあっても、リュード様のそばにいますから」
「ありがとう」

 なかなか言い出せなかった一言が、ようやくリュードの口から出た。二人ともそのままの姿勢で、しばらくの間立ち尽くしていた。

「さぁ、最後の仕上げに取りかかろう」

 リュードが言った。すでにいつもの調子を取り戻していた。ミランがゆっくりとリュードから離れる。

「他門派への宣誓はどうなさいますか?」
「事が終わってからでいいよ。現時点で邪魔をしてくるとすれば精水門だけだろうが、できるだけ障害は少ない方がいい」
「分かりました」
「あと、グレンには気をつけるんだ。どうやったのかは知らないが、意識封じの魔導具から逃れている。今のところ何の動きもないが、必ず何かするはずた」

 それだけ言い残して、リュードは歩いていった。
 ミランはその姿が見えなくなるまで、ずっとそこを動かなかった。
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