第1話

文字数 5,125文字

『この地上のどこにも優しい世界なんてない』

 深東京都市老緑町(しんとうきょうとしおいみどりまち)、地下鉄『老緑学園』駅から下車して十五分。背の高い影が夕焼けの街に伸びる。分厚い教科書を抱えながら今日の疲れとともに、櫻葉晴翔(さくらばはると)は自宅アパートに帰宅した。呼び鈴を鳴らしてすぐに部屋の中から鍵を開ける音がする。

「おかえりなさいませ、晴翔さん」

 肩につきそうなくらい伸ばされた長い髪を結いあげて、青年の少しくたびれた白いシャツに後れ毛が落ちる。晴翔を笑顔で迎えた志葉都(しばみやこ)を見て少し彼はほっとした。ずっとこの顔が見たかったんだ。
 晴翔の荷物を受け取って、都は初夏の街を歩いてきた晴翔の疲れを労うように氷の入った麦茶のグラスを盆に乗せて彼のもとへ。晴翔は黙ってそれを飲み干して、長いため息をついた。

「暑いな、今日は」
「天気予報じゃ雨が降るって言っていたんですけどね。こんなに一日中良いお天気なら、布団でも干せばよかったな」
「夕飯は?」
「お昼にお隣さんからとれたてのきゅうりを分けていただいたんです。ひやむぎに添えましょうか、いま冷蔵庫で冷やしているんですよ」
「すっかり夏だな……学校でも夏休みの話題で持ちきりだよ」

 晴翔は今年医学を学ぶために実家から都をともに連れてこの深東京都市に上京した。故郷の九宮ノ市女郎花村(きゅうみやのしおみなえしむら)から四時間ほど汽車に揺られて訪れたこの街の夏は思ったよりも早い。

「晴翔さん夏休みはどこかに行かれるのですか?」
「お前を置いて? そんなこと考えられない」

 そう言って晴翔は都のくちびるに触れて頬ずりをする。その顔は都以外には見せない非常に『個人的な』表情だった。

「でも晴翔さん人気者なのに……この前だって飲み会続きだったじゃないですか。皆さんお友達なんでしょう?」
「未成年が酒も飲めないのに飲み会とか抜かすのもどうかと思うんだけどな。別にただの付き合いだよ、未成年はジュースを酒がわりに仕方がなく行っていただけだ。もうしばらく行かない」

 そのまま二人は畳になだれ込んで、しっかりとお互いの存在を確認するかのように身体を合わせて、抱き合いしばらくの間目を閉じた。そこに感情は確かにある、恋愛と言うにはここまでが少し長すぎるくらいの時間ではあったが。

「晴翔さん、天井の目が見てますよ」
「あの染みだろう? 少し大きくなって来た気がするな。そのうち雨漏りでもしたら面倒だ」
「でもそろそろ雨が降ります。今夜は雲で月が見えない」

 薄いガラス窓の向こうでは暗雲立ち込める夜空。それでもアスファルトで覆われて乾いたこの街には少し涼しさも必要だろう。

「夕飯にしましょう、そろそろ準備を」
「まだ良いだろう、しばらくこうしていたい」
「……この姿を晴翔さんの学校のお友達が見たらびっくりしそうですね」
「何か言ったか?」
「いいえ、ではもう少しだけ」

 二人が初めて会ったのは十年ほど前、幼くして流行病で母を失った御曹司と住み込みの家庭教師の連れ子。同い年でも身分差だけはある二人は、なかなか会話をする機会もなく……。
 晴翔の父が社長を務める櫻葉製薬はここ二十年ほどで旧成長した、流行していた肺病の特効薬が開発されたからだ。『シロカタクリ』の花びらは薬に変わる、しかし晴翔の母は間に合わなかったが……その事実がいまでも彼の心の中で傷になっているのは間違いない。

「……国語の問題集がなんであるんだ」
「ああ、お小遣いで購入したんです。漢字、読めるようになりたくって」

 本棚の隅に無造作に置かれた問題集。都の母親は厳しくも優しい聡明な家庭教師であったのに、肝心の実の子供の都は中学校にも行けていない。それは都と晴翔が十三歳になる年に、使用人だった三十路の男と都の母親が二人で駆け落ちしたからだ。さすがに他に身寄りのない残された都を追い出すようなことはしなかったが、彼に対する態度はすっかりと変わった。小学校までは普通の子供だった、それが下働きの底辺、皆が嫌がる仕事ばかり都に押し付けて、勉強どころか睡眠時間すら与えられない。

「本屋で人気の小説本を見かけると読みたくなって手にとるんですが、けれど少し難しい展開になると良いところで文章が読めないんですよね。でもこれくらいの知識は現代の教育では皆持っているものでしょう? 僕は常識すらなくて恥ずかしい」

 晴翔に触れる都の手のひらはずっと荒れっぱなし。水仕事や掃除に追われ、開いた時間では内職までしている。季節にあった造花を作って得た、微々たるその収入は都のもお小遣いだがすぐになくなってしまう。それほどに同じ家で育ったのに二人の環境は違いすぎた。
 医学を学ぶ名門とも言われる『深東京学園専門校医学専攻(しんとうきょうがくえんせんもんこういがくせんこう)』にトップクラスの成績で合格した晴翔は、実家から年の離れた兄に続く後継として期待されている。しかし彼が上京する際に望んだものは金や高級マンションでもない、志葉都の存在だった。

「問題集解いたら俺が採点してやるよ、漢字なんか簡単だから」
「そうですか? 意外と読めないものですよ、でも晴翔さんは秀才ですものね」
「でもお前は記憶力が俺よりもあるから、一回答えを見たら覚えるだろう? 俺は商店街の八百屋の野菜の昨日の値段なんか覚えていない」
「日によってお得な価格は違いますからね。節約生活、意外と楽しいです」
「俺には向いてない」

 ようやく身体を離した二人は、夕飯に向けての準備を始める。晴翔が沸かしたての風呂に入っている間に都はきゅうりを刻んで冷麦を茹でてめんつゆを冷蔵庫から出す。この時期は氷がすぐになくなってしまう。上京するときに買い与えられた冷凍室のある高級な冷蔵庫には助けられていることが多かった。もうすぐ夏がやって来る。
 食事の準備は整った。風呂上がりの晴翔はその食卓を見て上機嫌になる。

「いただきます」

 やはり外では雨が降り出した。晴翔が食事をしている間に都は雨が入らないように窓を閉めて扇風機を回す。小さな部屋での二人暮らし、そこまで豊かではなくともそれはそれで幸せでもある。

 ***

「晴翔! 悪いけどノート貸してくれよ」
「市川、またか? 全く試験前だけ友人が増えるな……」
「だってお前付き合い悪いもん! そろそろアパートに呼んでくれよ」
「アパートは、無理だ。もう良いよ持っていけ、ノート」

 深東京医専の一年生も試験間際、晴翔のノートは無欠席で授業を余す所なく記入していて、こう言うときばかり重宝される。晴翔は上京以来学校から徒歩十分のアパートに都と同居している。しかしアパートには誰も呼んだことはない。それは晴翔の独占欲にも似た感情で、『愛おしい都』を誰にも見せたくないと。もしもいま都がいなくなればそれこそ晴翔は周りを見失うほどに絶望するだろう。都は他の誰でもない晴翔のものだ。幼い日、二人が出会ったその瞬間から……。

「じゃあさお礼に今日は昼飯、学食奢ってやるよ! ああ、お前また今度飲み会にも来いよなあ、クラスの女子期待してるぞ」
「勝手に期待されてもな、騒がしいのは苦手なんだよ」
「女嫌い?」
「別に、興味がないだけだ」
「変わったやつ!」

 一年次はそれこそ座学が多い。進級するごとに実習も増えていくのだろうが、学べば学ぶほど『いのち』にそれは密着していて、晴翔は心に秘めた誰にも言えない不安があった。櫻葉製薬とシロカタクリの花。しかし数グラムの違いでシロカタクリは毒薬にもなる植物だ。
 もう誰も失いたくない。いま晴翔の脳裏に浮かぶのは母じゃなくて、他の誰でもない都の笑顔だった。

 ***

 九宮ノ市女郎花村、この島国では海がない数少ない地域で駅までが遠いのどかな田舎だった。そこに櫻葉製薬女郎花工場(さくらばせいやくおみなえしこうじょう)がある。その女郎花村から百年前、櫻葉製薬が始まった。
 全国の中でも大規模な製薬会社。現在の社長は晴翔の父で、次期社長候補として晴翔の兄の櫻葉蒼司(さくらばそうじ)が勤務している。彼は晴翔の十個上で、晴翔と同じ深東京医専を卒業した。晴翔に兄に対するコンプレックスがないと言えば嘘になる。優秀な彼はいくら追いかけようとも距離をとって先を行く。
 櫻葉製薬深東京本社は深東京都市白百合(しんとうきょうとししらゆり)にある。現在本社勤務の兄、蒼司とは近々会わねばならないと晴翔は思っていた。幼い頃からいまいち相容れない関係とは言え、一応兄だ。だからと言って都のいるアパートには呼びたくないし、そんな時間をとって話すこともない。
 白百合までは老緑から地下鉄で乗り換えて二十分。決して遠い距離ではなかった。実家で聞いて連絡先として一応控えていた電話番号に電話をかけると、本社の事務を名乗る女性が出た。この番号は会社のものだったらしい。

「晴翔か、悪いな。自宅にはほとんど帰らないから会社の番号で」
「忙しいんですか、兄さん」
「それなりには」

 電話をかけたその日彼と会うことになった。なんでも出張の予定が入っていて、明日からしばらく白百合を離れると言う。授業終わりのそのままで晴翔は蒼司と約束した会社側の喫茶店へ。時刻は午後五時過ぎ、都には先に夕飯を食べているように伝えてある。

「ふうん、老緑に住んでいるのか、あそこはずいぶん田舎だった気がするが。俺が学生の頃の話だからだいぶ前のことにはなるだろうけれど、不自由はしていないか? 店も少ないから外食もままならないだろう」
「食事は、大丈夫。その辺りは困っていないよ」
「……まさかお前、都を連れて来たのか」

 思わず晴翔は蒼司と目があった。前髪を上げた漆黒の瞳で彼は晴翔の動揺を見て笑う。

「ああ、都がいたら困らないだろうなあ。料理も掃除も子供の頃からやらせていたし、文句も言わずに言うことは聞くだろう」
「……都はモノじゃない」
「下働きが、教養も浅く反抗もしない、飽きたら捨てれば良いのだから。お前もよく考えたな」
「……」
「せいぜい勉強して知識を身につけろ、何年後かな、一緒に働く時を楽しみにしているぞ」

 そして蒼司はスーツの胸ポケットから名刺入れを取り出して一枚晴翔に渡した。その裏面に蒼司の自宅と電話番号を書き入れて。

「いつか遊びに来ると良い、何なら都を連れて来ても構わないよ。歓迎しよう」

 仕事が忙しいから職場に戻ると二人分のコーヒー代を置いて蒼司は早々に去って行く。ぼんやりと彼の背中を見送って、晴翔はここで蒼司に会ったことを心から後悔した。やはり彼とは意見が合わない、都に対するその暴言とも言えるとらえかた。幼い頃から彼は都に冷たい当たり方をしていて、晴翔は嫌悪感を抱いていたのを忘れていた。
 もう会わない。名刺を半分に折って乱暴にポケットに入れて、わざと足音を立ててひどくイラつきながら彼は老緑の自宅へ帰ることにした。

 ***

「晴翔さんおかえりなさい、遅かったですね。白百合は人が多かったでしょう?」
「まあな、もうしばらくは行かない」
「……なにか、ありましたか?」
「別に何も。風呂に入るよ、湯を沸かしてくれるか?」
「あ、お湯はもう沸かしてあります」
「ありがとう」

 白百合で何もないことはなかった、それくらいは都にだってわかっている。昔から都に対して冷たい態度を取る蒼司は苦手だったが、櫻葉の家で都に優しく接する者のほうが少なかったからそこまで過剰に反応するようなことではない。
 そう、晴翔は優しいのだ。下働きのような蔑まれる身分の都を大切にしてくれる人。あの冷たい家で彼に会えた奇跡、都はそれだけで十分恵まれていた。

「っ、……く……」

 急に胸元に疼痛を感じ、思わず都は畳の上に座り込む。多少の息のしづらさを感じながら数回深呼吸をしたら痛みはすぐに落ち着いた。この頃たまにこういう事がある。それでも都は晴翔に相談することは出来なかった、彼はああ見えて少し心配性なところがあるから。
 都が窓の外を見れば今夜はすっかり晴れ模様、今日の晴翔の心とはきっと正反対なのだろうけれど。しかし疼痛が治まれば少し眩暈がした、そこへ風呂上がりの晴翔がやって来る。

「都?」
「……ああ、あがりましたか晴翔さん。お湯熱くありませんでした?」
「いや、ちょうど良かったが……顔色が悪いな」
「いえその、夕飯を食べそこねてしまったせいでしょう」
「だから先に食べておけって」
「すみません、大丈夫ですよ。お腹が空かなかっただけです……ちょっと横になろうかな」
「来い」

 都を抱き寄せてひざまくらをした晴翔は、心配そうな表情をして都の頬を優しく撫でる。それは都以外の誰にも見せない表情だった。
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