文字数 2,039文字


 彼女、いや、美貴は、わたしが首に手をかけても抗わなかった。むしろそれを望んでいたかのように、じっとしていた。
 わたしは、彼女の顔が次第にどす思くなっていくのを見て、手を緩めた。できない。そんなことはできない。翻意させようとして、その格好をしてみただけだった。
 これでは、本当に美貴を殺してしまう。
 わたしは、手を離した。
「すまん。ぼくが悪かった。許してくれ」
「帰っていいの……」
 彼女は、わたしの顔を真正面に見据えて言った。「あのひとのところへ、帰っていいのね……」
 殺せない以上、認めないわけにはいかなかった。わたしは無言で頷いた。
「ありがとう。やっと、わかってくれたのね。わたしはこれで帰るけど、風邪は治して、早くよくなってね。あなたの活躍を、心から祈ってるわ――」
 身支度を整えながら言う彼女に、わたしは、真意を測りかねていた。幼いときから親切にされたり、温かく励まされたりした覚えのないわたしには、そのことばが皮肉から出たものとしか思えなかった。思えば、彼女を除いて、誰ひとりとして自分を人間と認め、優しいことばをかけてくれた者はいなかった。
 わたしはそれまで、人間ではなかった。単なる記号だった。人間という名前のついた記号に過ぎなかった。
 それが記号ではなく、自分も他のひとと同じ、生身の人間だと思わせてくれたのが美貴という女だった。
 彼女の登場がなければ、わたしはただの記号だった。彼女にとって、またもや記号でしかなくなってしまったわたしに、彼女を呼び止める資格はないのかもしれない。
 しかし、帰したくはなかった。帰ってほしくなかった。
 どうやれば、彼女はここに残ってくれるのだろう。どうあれば、彼女は自分を振り向いてくれるのか……。
 考えろ。考えるんだ――。さもないと、お前を訪れた幸運の女神は、永遠に去ってしまう。二度と、お前の許には戻ってこない存在になるんだ。
「じゃ、わたし、帰るね」
 彼女は、玄関口でペこりとお辞儀をして言った。「お元気でね。わたしも頑張るから、あなたも頑張ってね」
 そのことばを聞いて、愛おしさがこみ上げてきた。この声だ。この声を聞いて、わたしはこの女に魅かれたのだ。
 帰してはいけない。しかし、帰さなければいけない。
 彼女には、彼女を待っている娘さんもいるんだ。旦那さんもいるんだ。いまが大切な時期なんだ。経済的にも、将来的にも、あちらのほうが安泰なんだ。彼女は母親なんだ。
 わたしは感極まっていた。失も楯も堪らず、彼女を抱き寄せた。その肩は、以前より細くなっていた。彼女も痩せていた。
「痩せてるでしょ」
 彼女はわたしを見上げて言った。「ずっと、あなたのことを考えていたの。どう言えば、あなたが納得してくれるか、どうすれば、あなたはわたしを許してくれるか、そればっかり考えていたわ……」
 わたしは、それ以上言わせまいとして、彼女の口を自分の唇で塞いだ。彼女の両手が、わたしの身体を抱きしめる……。
「あなたも細くなっているのね」
 彼女が自分から唇を離し、小さく笑って言った。そしてハンカチをとりだし、口紅がついてしまったわねと、わたしの唇を拭った。
「じゃ。さようなら。ほんとにお元気でね」
 彼女は子どもがするように、片手をにぎにぎするように前へ突き出して言った。「もう送らないでいいからね……」
 彼女が去ってしまったあと、わたしは呆然と、その場に座り込んだまま、立ち上がることができなかった。行ってしまった。わたしの幸運の女神は、去ってしまった……。
 それからの日々は、それこそ蝉の抜け殻同然だった。
 なにをしても、なにを見ても楽しくなかった。すべてが虚しかった。街を歩く女性が、何度も彼女に見えた。その度にわたしは、駆け寄っていきたくなる衝動を抑えた。
 違うに決まっている――。
 美貴は、あの女神は、昼日中にショッピングや観劇なんかに現を抜かすような女じゃないんだ。高知出身の、男に対しては忠節を尽くすタイプの女なんだ。いまごろは、花を相手に対話し、どうすれば、お客さんに喜んでもらえるか、どうあればよき母、よき妻として愛されるかを考えている女なんだ。
 わたしは何度も、自分に言い聞かせた。
 彼女はいない。諦めるんだ。彼女はもう、わたしを記号としてしか見ていない。わたしは記号にしか過ぎないんだ。人間じゃないんだ……。
 だが、生まれて初めて幸せというものを味わい、その旨さを知ったわたしは、自分のことしか考えられなかった。彼女のように自分を犠牲にして、相手の幸せを願うことなどできなかった。上っ面の綺麗ごとで済ませられるほど、心が美しくできていなかった。生まれついての利己主義者だった。
 わたしは、彼女の店を訪れた。彼女は、わたしを見て、一瞬驚いたような顔をしたが、決して取り乱すようなことはなかった。
「きてしまったのね……」
 それが、彼女の第一声だった。
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