第1話

文字数 2,000文字

「いくら願っても、もう時間は巻き戻せないんだよね」
 時という白い砂が、降り注いできれいな小山を作っていた砂時計を再び逆さにして「いづみ」はため息をついた。一筋の砂が、淡い想い出を埋めてしまうのを見つめながら。
 
 いずみは、子供の頃から大人しい性格で、一人でいるのが好きだったせいか他の人間と関わるのが苦手だった。
「いづみ、おはよう」
 背中から声をかけたのは、幼なじみで唯一の親しい友達の佳奈だ。
「おはよう」
 振り返ると、朝の光にも薄まらない笑顔が駆け寄ってきた。
「なあに、元気なさそう」
「そんなことないよ、いつも通りだよ」
 佳奈は、いつも優しくて気にかけてくれる。私も、こんなふうになれたらなといづみはいつも思っていた。

 高校生活のある日のこと、校外活動でキャンプに行くことになった。佳奈とは別の班になってしまって不安だったが「大丈夫。がんばれ」と励まされた。班は男女4人ずつのグループだった。みんなでバスからキャンプスペースまで荷物を運んでいるとき、突然強い風が吹いていづみの帽子が飛ばされてしまった。運悪く川沿いを歩いているときだったために、風に奪われた帽子は川面に落ちてしまった。
「これちょっと持ってて」
 同じ班の男子が、いづみの手に荷物を渡して川に駆けていった。なんの躊躇もなく、キラキラ光る川に入っていき帽子を拾い上げた。
「はい」
「あ、ありがとう」
「うん、いいよ。ボクもも人と喋るの得意じゃないから」
 ドギマギして帽子を受け取るいづみを見て「小林拓海」は静かに言った。いままで朝の挨拶くらいしかしたことなかった拓海に申し訳なさいっぱいで言葉を続けた。
「ごめんなさい、濡れちゃったね」
「そのうち乾くから」
 水の雫がポタポタ落ちるズボンの裾を絞りながら、優しそうな笑みを返してきた。いづみに預けていた荷物を手に取り拓海は歩き出す。いづみも、乾いたアスファルトに記されていく水滴の跡を追った。キャンプの間、いづみは拓海のことを目で追っていることを気づいていた。拓海の静かな優しさが、少しシミが残ったズボンと自分の帽子と共に消えてしまう恐れるているかのように。

 文化祭も終わったある日、クラスの模擬店で裏方をしていたメンバーで打ち上げをやろうということになった。土曜日の午後、いづみは駅前のカラオケ店にいた。他のみんなは次々と曲を歌っていった。そのうち誰かが言いだした。
「あれ、拓海といづみさん、歌ってないよね」
「ボクは、こういうの苦手で」
「わたしも、ちょっと」
 と二人で遠慮していると
「じゃあ、二人で歌えばいいじゃない。超有名な曲なら唄えるでしょ」
 助け船といえるかどうかわからない提案をしたのは佳奈だった。いづみと拓海は困惑して顔を見合わせたが、すでに選曲されたカラオケが流れだした。聞き覚えのあるイントロは『First Love』だった。いづみは自分の鼓動がうるさいほど緊張して、無意識に同じ画面を見て唄っている拓海を視界の端に入れていた。長く感じられた曲もようやく終わりを迎え、ふぅーっと息を吐いて、お互いの顔を見つめ合い笑顔になった。少しでも拓海と心を重ねられたみたいでしあわせだった。しかしいづみは、心の想いを言い出せないまま高校生活は終わりを迎えた。

 大学生になったいづみは、カフェでアルバイトをはじめていた。立ち止まるだけで後悔する自分に別れを告げたい、そんな思いからだった。家を出て一人暮らしをはじめ、一番苦手だった接客のバイトに就いた。失敗することもあったけれど、もどかしく思い悩む時間は私にはもういらないと心に誓ってがんばっていた。
 バイトにも少し慣れて、お客様にも少しずつ笑顔になれてきたある日のことだった。テーブルのカップを片付けていると、ドアベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
 いづみは、そう言って入り口に視線を移した。そこには若い男性がひとり立っていた。たくさんの本を抱えた男性は、窓際の席に座った。いづみは、水とおしぼりを持って男性の元に行った。
「いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか」
「コーヒーを」
 と言って顔を上げた男性は驚いた。
「いづみさん?」
「えっ、小林君?」
 お互いに少し大人になっていることを確認していると、拓海は急に上を指差して言った。
「これ、あの時二人で唄った」
「あーカラオケ行ったときのね」
 店内に流れていたBGMはドキドキした記憶の『First Love』だった。
「すごい偶然ね」
 オーダーのコーヒーを持って行き、少しだけ近況報告をしていづみは仕事に戻った。忙しくなり気がつくと、拓海は店を出るところだった。
「ちょっと、ごめんなさい」
 店長にそう告げて、いづみは店の外に出て拓海の背中を追って叫んだ。
「拓海くーん、わたし今でもあなたに初恋なの!」
 その声に拓海も振り返り応えた。
「ボクもだよ。また、あの曲をキミと一緒に歌いたい」と。
 
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