いくひ誌。【3001~3855】

文字数 755,177文字

※日々、弱さに守られている。


3001:【2021/05/27*分母が多ければ例外出現率もまた増える】
新規のワクチンに関しては、これほど多くの摂取者が世界にいる以上は、ワクチン接種による副作用で亡くなる方はでてくるほうが自然だと考えたほうがより妥当だ。水ですら、それを飲んだことで亡くなるひとはいるのだ。それを、ワクチン接種普及の妨げになるので、報道するな、とか、ワクチンは安全だから副作用で亡くなる人なんかいないんだ、といった同調圧力を形成するのは、公共の福祉の観点からも好ましくないように思うしだいだ。ただし、ワクチン接種に及び腰になっている人々に接種のメリットを説明するような報道をしたほうが、トータルでは大多数の最大幸福に繋がるのは、そのとおりであろう(接種したのと、しないのとでは、したほうがメリットが遥かに大きい)。ただしやはり、ワクチン接種による死亡事案を、ないものとして闇に葬り去られ兼ねない土壌がいまはぷくぷくと肥えて映るので、そこはぜひとも慎重な調査を期待したいところである。遺族は賠償金を受け取る権利があり、国は、賠償金を支払う義務があるはずだ。そこはなあなあにしてはいけないところであろう。(ワクチンが原因で死亡する者がいたとしても、その割合が一億分の一程度であれば、接種するほうが、総合して得をする確率が高い。言い換えれば、ウィルスに感染して損をするリスクを激減できるのだ。また、ワクチンを接種する者が多ければ多いほど、行動制限が取り払われるので、より自由な生活を手にできる。ワクチンを接種したほうがメリットが大きく、ワクチンを接種しましょう、と広報することが結果として公共の福祉を高める方向に働くのは、そのとおりである)(ワクチンの安全性については、これまでとは異なる仕組みを用いたワクチンである以上、これまでこれをクリアすれば安全だとされてきた条件をクリアしたところで、見逃している副作用がないとは言いきれない。ゼロリスクという意味ではない。単純な話として、調べようとしなければ結果は得られないのだ。見逃されている視点があるのではないか、という懸念は、科学的見地からしても、無視しないほうがよろしいのではないか、と疑っている。とはいえ、短期的な視野におかれては、致命的な副作用は起きにくい、と判明しているそうなので、やはりウィルスに感染するリスクを減らせる、という意味では、ワクチンを接種したほうがメリットがあると言えよう)


3002:【2021/05/28*天才は築いた回路を無尽蔵に組み替える】
感情や欲動とは何だろう。なぜ湧くのだろう。おそらく感情や欲動といったものはつねに無数に張り巡らされており、任意の対象がそうした琴線に触れたときに、ほかの感情や欲動が遮断されて、相対的に強化されることで、その作用を増すのではないか、といった直感がある。水脈のようなものだ。ほかの水脈が遮断されるので、任意の流れのみが際立つ。物理的には、脳内分泌系の活性化によるものとして観測されるのだろうが、どうして脳内分泌系が活性化するかと言えば、遮断された感情や欲動に割く能力を、任意の感情や欲動に集中するからではないのか、と考えられる(もちろん、順番としては、脳内分泌系が活性化したから、感情や欲動が発生するのだろうが、感情や欲動は単一で機能する成分ではない以上、そこには相互に関連して働く仕組みが築かれているはずだ)。繰り返すが、水の流れのようなものだ。無数にある出口のうちのいくつかを塞げば、ほかの出口の水流と水圧は増す。それが表面に現れる感情や欲動として主観にしろ客観にしろ、観測されるのではないか。理性はどうかと言えば、これは持論だが、理性もまた感情の一形態だ。好奇心と、記憶と、圧縮された過去の情報処理の来歴そのものが、人間に、思考の再現性を持たせる。理性とは、この思考の再現性を、好奇心によって別のものにも当てはめようとしたり、或いは拡張したりしようとする働きを言うのではないか。これはほかの感情や欲動にもみられる働きであり、必ずしも理性の専売特許ではない。ではなぜ理性だけこうも人間に固有の能力のように見做されているのかと言えば、言語を獲得した人類が、他者との情報のやりとりの過程で、他者の思考の再現性――思考の筋道や知識そのものを集積可能としたからだ。感情や欲動は、他者にそれを伝播させにくく、ゆえに多様性の揺らぎを持たず、拡張されにくい性質がある。理性とはすなわち、他者との交流のなかで複雑化し、多様化する、再現可能な「感情や欲動」の筋道と言える(この場合、思考と理性はほとんど同じだ)。感情にしろ、欲動にしろ、人間はそこに記憶との照合を試みており、そこには大なり小なり、過去と現実と未来の比較がなされ、それによって因果の筋道がつけられている。それが真実に因果関係であるとは限らないが、こうなったからこうなった、といった過程が、次回からの感情や欲動の発動をなめらかに行わせる。或いは、未来に起こり得るリスクを測り、抑制できる。その精度が高くなれば理性として判断され、低ければ衝動や葛藤として解釈される。いずれにせよ、人間の脳内回路は、複雑化と単純化を繰り返し、回路の型を増やしたり、強化したりしている。感情や欲動は一つではないし、そこから築かれる回路もまた、人によってその数を変え、或いは回路同士の連携の仕方も異なる。無数の回路を多重に築き、そのつどそのつどで組み替えることのできる個体こそが、おおよそ社会的に、天才と表現されるのだろう(ふつうは一度築いた回路を組み替えることはむつかしいし、社会生活のなかではメリットがすくない)。


3003:【2021/05/29*抽象と具体は、結果と作業の違いにちかい】
型をつくるというのは、組みあげていく作業というよりも、何を削ぎ落とすべきかの取捨選択が要であるように思うのだ。組みあげていく作業はどちらかと言えば、素材や土台づくりでしかなく、そのあとに、削ぎ落としていく作業にこそ神髄が宿って感じられる。ということは、自由度を上げたければ初めにできるだけ大きな素材があるとよい。木彫りのようなものだ。掘る対象が大きければ大きいほど、自由に理想を削りだせる。そういう意味では、「無駄に思えるさまざまな知識や体験を繋ぎ合わせ、組み立てることでどんな型でも削りだせる下地を築いていくこと」は、これは総合して見れば無駄ではない、ということになる。また、何を削ぎ落とすのかにおいては、むろんその前段階で、どのような型を削りだすのか、といった完成形が浮かんでいたほうが好ましい。図案がなければ、無造作に、その場その場での場当たり的な作業にならざるを得ない。もちろんそうした偶然による創造もあってよいが、型というからにはやはり、ある程度の作為は入り用だ。それを工作と言ってもいい。型をつくることは一種の創造であり、創作であるが、単なる芸術よりも、工学的な絡繰りの側面が際立つのではないか。建築、と言ってもよい。それは、木彫りの像ようなものであり、もしくは宝石のカットのようなもの、と言ってもよいかもしれない。なんにせよ、いちど組み立てた素材をどのように削り、型を浮き彫りにするか。何を残し、どのように削っていくのか。その切断や研磨の道具そのものもまた、過去に削りだした型を用いざるを得ないのだろう。型は、つぎなる型を削りだすための指針であり、道具そのものである、と言えそうだ。或いは、目安とも。(削ることで見えてくるものが抽象であり、抽象を掘りだす作業が、具体なのかもしれない)


3004:【2021/05/30*自分本位の言葉】
以前並べていた日誌では、毎回異なる文章形態を意識して並べていた。キャラクターをつくり、口語文語の区別なく、敢えて崩すことを意識して、実験的な文章の創造を心掛けていた。こうしたちょっとした日記じみた文章では、大いに失敗しておきたい。こうしたところで失敗せずに、いったいどこで失敗すればよいのだろう。もちろん小説そのものにおいても試行錯誤は欠かせない。だがそれはあくまで、成功を目指した末の、結果論としての失敗であり、失敗を目指した失敗ではない。だが以前の日誌においては、失敗することを求めて失敗を重ねていた。駄文を意識して駄文をつむいでいたが、現在は、いささか文章形態の形式を固定しており、あたかも分散した人格をひとつに統合するような文字の並べ方をしている。見方を変えれば、何の挑戦もしていない、最もつまらない文章と言えるかも分からない。この方針が、物語創作において、どのように影響するのか、ひとまずつづけてみて、傾向を抽出してみようと企んでいるしだいである。(誰も読んでいないのによぉやるわい)(誰も読んでいない、読むわけがない、と思わなきゃ並べられない文章もあります)(日記や日誌って本来はそういうものかもしれませんね)


3005:【2021/05/31*私はこう思うのですが】
ブラックホールについてよくは知らないが、シュバルツシルト半径を超えて圧縮すればどんなに高い質量を持った物体であれ、ブラックホールになるそうだ。質量の高さによってシュバルツシルト半径は変わる。質量の高い物体ほどシュバルツシルト半径は大きくなる。シュバルツシルト半径とは言ってしまえば、任意の質量体(物体)を圧縮していったときに、脱出速度が光を超える境界を言う。光さえ逃さないほどの高密度の質量体になったとき、それはブラックホールになる。ただし、物体はそのとき無限に凝縮していくと考えられるため、どのような物体であれ、ほとんど同じ極小にまで縮小するのではないか、と妄想できる。我々がブラックホールと呼ぶものは、ブラックホールそのものではなく、シュバルツシルト半径における事象の地平面のことであり、それは質量を生みだしている圧縮された極限の点のことではないはずだ。どれほど質量が高かろうが、最終的に、シュバルツシルト半径を超えて圧縮された物体は、極限に圧縮され、ほとんど同じ点に収斂するのではないか。つまり、ブラックホールはすべて同じ大きさなのではないか、との疑念が湧く。内包されたエネルギィに差があるため、それを取り巻く周囲の時空の歪みに差が生じる。蟻地獄の穴が、深ければ深いほど、蟻地獄の円周は大きくなる。しかし蟻地獄の穴そのものの大きさは変わらない。それと似たようなものだ。(ほんとか?)


3006:【2021/06/01*多少不親切でも目の離せないものを】
百年前の人間が、現代の映画を観て楽しめるか否かに、少々の興味がある。たとえば漫画であれば、漫画を読んだことのないむかしの社会文化に馴染みのあるお年寄りは、漫画を読めない者がすくなくない(どういう順序でコマが進むのか、誰のセリフなのかが分からないそうだ)。あべこべに現代では、小説を読めない若者もすくなくない。これはおそらく、慣れの有無で説明がつく。また、エレベータを知らない人間にとって、数十秒で建物の一階から百階まで移動していたら、これは魔法や誤謬と区別がつかない。飛行機にしろ自動車にしろ同様だ。近代文明の利器にしたところで、ろくに説明されなければ理解しにくいだろう。だがこの理屈であれば、SFはのきなみ視聴者を置いてきぼりにしていると呼べる。説明を挟んでいるSFほど、多くの視聴者を見込めるが、映画内に登場するアイテムが、当然あってしぜんな社会におかれては、ただただ冗長な説明場面にしかならない。そういう意味で、未来永劫おもしろく視聴できる映画というものは、基本的に、現代では難解に映ることだろう。これは映画に限らず、小説や漫画にもあてはまる。だが、高度に発達した科学は魔法と区別がつかない、という言葉があるくらいであるから、いっそ魔法を扱うように描写してしまったほうが、視聴者にはやさしいと言えるのではないか。そういう意味では、ハードSFはこれからはあまり好まれない、むしろ現代人の理解力をいささか低く見積もっている作風と言えそうだ。説明などいらない。説明なくして伝わるくらいに、その物語内にあってしぜんな描写をこころがけたほうが時代の変遷につよい作品をつくれる。これは裏から言えば、それくらいの想像力を、作者に期待されるいまは時代なのだろう。定かではない。(無責任でごめんなさい、と思いながら、定かではないことを並べています)(うそ。どんなもんだい、としたり顔を浮かべています)


3007:【2021/06/02*いっぱい休む】
老いを実感することが増えた。疲れやすく、回復するまでに時間がかかる。六時間以上、起きているともう眠い。一日を三分割して、睡眠をとりたいくらいだ。また、不調と好調の波が大きくなった感覚がある。若いころはめったに不調にならず、仮になったとしても、出力が六割以下になることはなかった。だがいまは、一割ちかくまで下降する。それも頻度が増加して感じられる。波が高く、また周期も早い。なかなか出力があがらず、絶好調なんてものは、一瞬きたように感じたら、あとはあっという間に遠ざかる。そしてだいたいおおむねの時間はつねに不調なのだ。これはもう、不調が常であると考えたほうがよい。不調の底に向かっているのか、すこしだけ好調に向かっているのかの違いがあるだけだ。つねに燃料切れ間際みたいな感じかもしれない。それはそれで休めばいいだけなので、楽といえば楽である。いっそ出力なんて上げずに、いかに楽しめるかの工夫をしていくほうがよいのではないか、と思考の方向を調整していこうと思うしだいだ。(いつでも休みまくりだぜ、いえぇーーーい!)(うそ。ほんとはすこし焦っています)


3008:【2021/06/03*きれいごとかもしれないけれども】
人類や社会や文明の存亡という大きな枠組みでの危機をまえにして、問題解決にいそしむなかにあっても、子どもが転んで泣いているとか、友達と喧嘩をして悲しんでいるとか、或いはあべこべに歌を歌って励まそうとしてくれていたり、何か役に立とうとして奮闘していたりしたときに、それはもちろん子どもに限らないことであるが、人間のそうした善性のようなものを、目のまえの大きな問題と比べて蔑ろにはしないでいたい。というよりも、なぜそうした大きな問題を解決しなければならないか、と言えば、そうした人間に潜むささやかな、しかし尊いなにかしらを守るためではないのか。何かを創造し、しあわせを分かち合おうとする人間の在り様を守るためではないのか。問題の大小ではないのだ。危機の多寡ではない。優先すべきは決まっている。決まっているがゆえに、まずは目のまえの大きな問題を解決しなくてはならない、というだけのことであるはずだ。そこにあるのは優先順位ではなく、合理的な段取りでしかない。繰り返すが、問題の規模の大小は、何を優先すべきかを決める基準とはなり得ない。優先すべきは決まっている。そのために、大きな問題から解決していくほうが、合理的な場面が多い、という判断があるのみだ。そうではない、という者の言う、優先すべきこととはいったいなんなのか。なぜそれを優先しようとするのか。そこだけは、誰がなんと言おうと、共有できるものだと信じたい。否、これは信じる信じないに関係なく、論理的に共有できる解なのではないか。定かではないが、定めてしまってもよい気がする。(そうでない社会なら、それはそれでもよい。そしたら私もそういう社会を大いに楽しむだけだ。そういう社会をつくりだした者たちに、その社会が肯定するあらゆる合理をそそいであげよう)(そういうのを危険思想と言うのでは?)(ハッ!)


3009:【2021/06/04*ヒット作を生みだしたいなら、みなが思い描く願望や欲望を描けばよい】
百年後の小説を読んだとする。おそらく会話文は何を言っているのか分からないだろうし、諧謔の半分も伝わらないだろう。地の文はまだかろうじて読み解けるだろうが、ところどころで、固有名詞なのか新しい慣用句なのかと悩むことになりそうだ。何かしらの構造があったとして、たとえば叙述トリックが仕組まれていたとしても、そもそもほかに引っかかる箇所が多すぎて、じつはこうでした、と種明かしされても、はあそうでしたか、とすっとんきょうに呑み込んでしまいそうだ。ホラーやサスペンスならば、それなりにスラスラと楽しく読めるかもしれないが、何かしら重要な仕掛けを、仕掛けだとすら気づかずに、本来当然引っかかるだろう、という違和感にも引っかからずに、なんかわからないけど、そうだったのかぁ、とそのまま本を閉じてしまいそうだ。肝の部分を楽しめないで終わる公算が高そうだ。そういう意味ではまだ、百年前の小説のほうが楽しめそうだ。これは、小説の質そのものではなく、培われてきた文化が、物語の文脈を読解する手助けになるからであり、ひるがえって百年後の小説には、想像で補うには分厚すぎる空白が含まれると予測できる。これは何も百年後に限らない。文化を踏襲していなければ読み解けない文脈というものはあり、素養なき者には伝わらない諧謔というものがある。現代でもすでにそうした、文化の断絶による、娯楽の空白化が波及して感じられる。みなが同じように楽しめる娯楽というのは、みながかろうじて共有可能な文化を、薄く膜のように練りこんだものと言えそうだ。希薄でなければ受け入れられない土壌が築かれつつある。同時に、みなに強制的に共有させうる強固な物語であれば、そうした既存の文化に関係なく、広く浸透させることも可能だろう。むしろどちらかと言えば、現代において虚構の娯楽を広く波及させたくば、一見すればみなには受け入れられそうにない、いまはまだ共有されていない、しかし必要とされるだろう価値観を練りこんだ、重厚な物語であるほうが好ましいのではないか、との直感がある。共感がだいじだ、と叫ばれて久しい昨今であるが、みながすでに体験したことのある何かではなく、体験したがゆえに実現できなかったなにか、そうあってほしいと望む未来(可能性)を描いてこそ、新たな共有の文脈は築かれるのではないだろうか。定かではない。(そういう意味では、破壊願望や加速した欲望の成就などは、ヒット作の必須条件として組み込んでもよさそうに思うしだいである)


3010:【2021/06/05*抽象と具体は、視点によって変わる?】
抽象的に考えたときに、ある問題にとって最も合理的な解決策を編みだしたとする。しかし具体的にそれを施行しようとすると、却って問題がこじれてしまうことがある。むしろ、いちど否定されたあまり効率的ではない案のほうが、問題解決の策として有効になることは、取り立てて珍しくはない。机上の空論と呼ばれるものは、抽象的には最適解だが現実的ではない、という場合に引き起こる。たとえば現在、技術的に可能で、最も効率よく安全にエネルギィを生みだす案としては、核融合炉がある。核分裂ではなく、核融合によってエネルギィを生みだす技術であるが、これは地球上に小型の太陽を生みだすようなもので、安全性も高い技術だと期待されている。しかし実用化には及んでいない。抽象的に、技術の良し悪しだけで考えるのならば、代替エネルギィや原子力発電よりも合理的な技術であるが、核融合炉はまだ、具体的な技術として利用できない。もし利用すれば、とたんに現実のエネルギィ問題はこじれにこじれ、近代文明そのものの崩壊すら引き起こしかねない(技術としてはまだ未熟だからだ)。抽象的思考は、時間の概念を超越する傾向にある。未来においては最も合理的かもしれない技術が、必ずしも現在の最適解であるとは限らない。もし時間軸を限定して抽象思考を行うとすれば、それは必然、具体的な思考に寄るだろう。つまり、具体的な思考そのものもまた、抽象思考の一形態なのだ。(本当か?)(いい加減なことを言いすぎである)(あっちょんぶりけ!)



※日々、鍛えた刀を錆びつかせる、磨く余地をつくるために。


3011:【2021/06/06*ワガハイ、ほのぼのしすぎの罪かもしれない】
唐突に、「A級戦犯ってなんだ?」と思ったので、インターネットさんで検索してみたら、ウィキペディアさんが、「国際法におけるA項、B項、C項のうち、A項に違反した戦争犯罪者」といった旨のことを言っていて、へぇそうなのか、とびっくりした。S級ヒーローみたいな感じで、格付けの意味合いのAかと思っていたのだ(あんぽんたん)。べつにA級に昇格した犯罪者、という意味ではないらしい。ちなみに国際法のA項とは「平和に対する罪」とあり、なんだか漠然としていて、神々の意思に反したなにかしら、といった塩梅がする。おそろしい。よっぽど重たい罪なのだろうな、といった厳かさがある。おどろおどろしい、と言い換えてもよい。平和に対する罪、という字面はなんだかハトが飛んでいそうな青空のイメージがあるのに、そうした青空の下で繰り広げられる地獄絵図、といった禍々しさを感じる。ホラーにおいて、目を塞ぎたくなる場面で、童謡が流れると却ってこわい、の作用かもしれない。童謡はべつにこわくはないはずなのに、ふしぎだ。平和な毎日に感謝したくなった日であった。(平和でない毎日をすごしているがんばっている方々にも感謝申しあげます)(うそ。めちゃくちゃ感謝致しております)


3012:【2021/06/07*本日の小話】
ぽんぽん痛くて、オクスリ飲んだろ、と思って正露丸手に取ったら、「虫歯にもいいんだってよ」と半年前から家に住み着いているヤモリさんが、壁をぺたぺた這いながら言っていたので、へぇ、と思って、正露丸を一粒、虫歯の穴に詰めこんだら、砕けた正露丸は、舌に触れるとぴりぴりしていて、たしかになんとなく、なにかしらが効いている気がして、しばらくそうしていたのだけれど、ヤモリさんがその様子を天井から眺めて、クスクスしていたので、これはなにかあるな、と思って、インターネットさんで検索してみたら、正露丸に虫歯を治す効果はなく、鎮痛作用があるだけだと出てて、たしかに虫歯の痛みは一時的にとれるけれども、穴の開いた虫歯の虫歯菌さんをどうにかできるちからはないんだよ、と知れて、ああよかった、とその足で洗面所に向かって歯を磨いて、部屋に戻ってきてからさっそく虫取り網を手にとって、「でてこいトカゲ野郎!」と夜中だというのに、猫でもなしに、大運動会をはじめたのであった。めでたしめでたし。


3013:【2021/06/08*メモ】
「相手のたいせつにしているものを奪うなよ、という単純な理屈がなぜわからんのだ」「弱い者いじめをするな、と言っているだけだ。なぜこれしきのことが伝わらないんだ」


3014:【2021/06/08*瓢箪の中身は飲み干すな】
子どものころに聞いたことのある気のする昔話がある。ある日男は、天狗か何かを助けた。そのお礼に「無尽蔵にお酒のでる瓢箪」をもらったのだが、そのときに、「ぜったいに瓢箪の中身を飲み干してはいけない。一滴でも残っていれば、いちど蓋をすればまた満杯になる。それから中を覗きこんではいけないし、底を叩いてもいけない」と聞かされた。男は天狗と別れ、さっそくお酒を楽しむ日々を送っていたのだが、深く酔っぱらった日に、瓢箪のお酒をすっかり飲み干してしまい、「あれれどうした。なんででてこないのだ」と言って中を覗きこみ、ついでのように、「酒よでてこい」と言って底を叩いてしまった。はっとしたときにはときすでに遅し。天狗の言葉を思いだし、慌てて蓋をするも、もう酒は増えることはなく、無尽蔵に酒を生みだす瓢箪はただの瓢箪になってしまった、といった話があった気がするのだが、これは創作の神髄にも通じている気がする。ネタがなくなっても、一滴でもその欠片が残っていれば、蓋をして寝かせておけばまたネタが湧いてくる。しかし、本当にすっかり燃え尽きるように、すっからかんにしてしまうと、あとはもうネタは湧いてこなくなる気がする。できるだけ一滴の余裕を残しておくようにするといい気がする。そしてつねに新鮮なネタを瓢箪のなかに詰めておくためには、できるだけ毎日それを味わってしまうようにしたほうがよいのかもしれない。一滴を残しながらも、出し尽くす。その繰り返しによって、無尽蔵に酒のでる瓢箪は、つねに新鮮な酒をその身に蓄えておけるのだ。ちょっと強引でしたかね。強引でした。(ただ、どうしてお酒がでてこないんだ、と瓢箪の中身を覗きこもうとするその自責の目線は、たしかに創作には毒な気もいたしますので、なかなかお酒が湧かずとも、まずは蓋をして、ひと眠りするのがよいのではないでしょうか)(定かではない)


3015:【2021/06/09*再開しました】
二〇二〇年の九月からこの日誌の掲載をお休みしていたが、四日前(この記事を書いているのは六月九日だが、WEB上に更新したのは六月十六日である。ゆえに正確には十一日前となるが、それ)くらいから、WEB上にもこの日誌をふたたび載せはじめた。とくに意味はない。毎日十記事ずつ載せているので、あと一週間ほどできょうの分の記事に追いつくはずだ(追いつきました)。そうなったら以前のように、ほかのいくひしさんたちに任せようと思う。誰に読ませようと思うでもなく、ただ思ったことをつらつらと並べているだけなので、日誌の内容の正当性は低いし、論理性の欠片もない。根拠となる情報をほとんど載せていないからだ。飛躍と妄想の栗ご飯である。誰かに読んでもらおうとは思っていないが、ひょっとしたら誰かが読むかもしれない、と想像するとすこし気分が昂揚する。いたずらを仕掛けて、いつかは誰かがかかるだろう、しめしめ、とほくそ笑むのに似た高揚感がある。根が性悪なのである。魔性と呼んでいただきたい。魔女にならいますぐになりたい。魔性の女であってもよい。魔性の男となるとなんだか物足りないので、そこはぜひとも魔王がよろしい。なんの話だ。こういうどうとでもないことをつらつらと並べるのは楽しい。でも読むほうがつらいだろうから、日誌にするくらいがちょうどよい。小説はどうなのか、とお叱りの声も聞かれようが(聞かれるのか?)、あちらは私の領分ではない。各々担当のいくひしさんがおられるので、非難の声はそちらにぶつけてほしいとお願いもうしあげるしだいである。けけけ。


3016:【2021/06/10*知恵の輪】
偶然に、知恵の輪を手に入れた。二つのM字型の輪が絡まっている。悪魔の爪という名前がついているそうだ。知恵の輪のなかでは有名なのかもしれない。簡単にとれそうなのに全然とれなくて、インターネットを眺めている片手間に、目視せずに片手でカチャカチャいじっていたら、とれた。いちどとれてしまえば、あとはゆっくりと「絡ませて解いて」を繰り返せば、原理を理解できるので、なるほどこうやればとれるのか、と学習することができる。ずるいやり方だが、それでも充分に楽しめた。いちど解き方を覚えてしまうと、どうしてこれが解けなかったのかが分からないくらいに、簡単なのだ。この、知っている状態と、知らない状態の差を、体感として知覚し、なおかつ記憶できることが、知恵の輪の最大の魅力に思えた。通常、いちど何かしらの技術を体得すると、体得しなかったころのじぶんの感覚をすっかり忘れてしまう。それが知恵の輪であると、むつかしいと思っていたときのじぶんの感覚と、簡単に解けてしまう現在のじぶんの感覚とを比べることができる。こんなん解けるわけないじゃん、という感覚と、なんでこんなものも解けないの、という感覚が同居しているのだ。ふしぎな感じがする。そしてこの感覚というのは、じぶんがふだん向けられている、どうしてこんなこともできないの、という眼差しと通じているし、同時に、なんでこんな簡単な理屈が通じないのだ、という我が身のもどかしさとも似ている。できる人にはできるし、できない人にはできないのだ。解かる人には簡単すぎるほどに解かることが、解らない人には解らない。この理解の非対称性を、じぶんのなかで自己完結しながらにして同時に実感できた。解らない人が解らないのは当然だし、できない人ができないのも仕方がない。同時に、簡単にできるはずのことができない人を見て、なんでなの、と苛立ちを覚える人の気持ちもよく分かったし、なんでこんなことも理解できないの、と思うじぶんのもどかしさに潜む理不尽さにも思い至った。しょうがないのだ。知らなければできないし、段取りや構造を知らなければ理解が及ばない。知恵の輪に限った話ではあるが、こうしたときにはこうしたほうがいい、というコツはあるものだし、いちど覚えてしまえれば、知恵の輪はただ引っかかっているだけだ。絡まってすらいない。しかし、その構造が理解できていない者にとっては、南京錠に匹敵する強固な鍵と化す。自力で施錠するには骨が折れる。知恵の輪にはまりそうだが、じぶんで購入するほどの熱のあげようではない。ただ、よくもまあ、考えた人がいるものだ、と知恵の輪をつくった者の想像力には、感嘆するよりない。すごいなぁ。(感心いたしました)


3017:【2021/06/11*電線ってすごない?】
高圧電線の鉄塔が近所にある。頭上高く屹立しており、三百メートルほどの間隔を開けながら、いくつも鉄塔が立っている。頭上三十~五十メートルくらいの高さに、電線が吊るされている。まるで手を繋ぐ巨人のように、そこにあるのだが、あまりにそこにあって当然の存在であるから、日常で意識することはほとんどない。雨の日に近くを通ると、ジジジ、と放電ちっくな音を立てており、感電しちゃわないかな、と不安になる。きょう改めて真下を通るときに見上げて、いまさらのように、すごいなぁ、と思った。まず以って、三百メートル以上の距離を吊るされた電線の重さは、一トンではきかないだろう。気温の差で伸び縮みするだろうし、暴風にもさらされる。それでもいままでいちどだって、電線が千切れた、という話は聞かない。電柱ならばあるが、この鉄塔の高圧電線の場合は、記憶を探るかぎり、ないのだ。よほど頑丈な素材を使い、厳重に管理されているのだろう。たとえば電線は、一本を張るのではなく、途中で金具で繋ぎをつくり、二本から三本を繋いで鉄塔同士を結んでいる。これを結ぶのはもちろんいまはまだ人力だろう。どうやって固定しているのかは知らないが、事故を未然に防ぐために工夫された機構があるはずだろうし、ミスがないかをチェックする工夫もあるはずだ。たとえばボルトを使うとしたら、ゆるんだままで終わったら危ない。絶対にボルトの締め忘れがないようなチェック体制になっているはずだ(ボルトを使ってないかもしれないが、そういう漏れがないような工夫があるはず、という趣旨です)。また、どうなったら一斉点検をすべきか、という基準も、科学的に設定されているはずだ。電線や鉄塔の耐久年数も、素材の摩耗する速度を考慮して計算されているだろうし、どれくらいの衝撃までならば問題ないかも、数値化されているはずだ。鉄塔や電線に、圧力センサのような機構も備わっているかもしれない。鉄塔は電線同士で繋がっているわけで、常時、左右から引っ張られているわけである。どこかが緩めば必然、その分のちからがほかの電線に伝わる。そういうセンサがついているかもしれない。もし鉄塔の管理を私が任されたら、地震があるたびに一斉点検を命じてしまいそうだ。心配で風のある日の夜なんか眠れなくなりそうである(絶対に寝ちゃうだろうけれども)。とにかく、身近にこんなにすごい建造物が悠然と建っているのに、まったく気にも留めなかった過去のじぶんに、のんきやなぁ、と呆れてしまいましたとさ。(SFとかで、未確認巨大浮遊物体が突如として街の天空に現れて、浮遊しつづける、なんて場面がでてくるけれど、案外、ずっとただそこにあるだけならば、すんなり日常に溶け込んで、何事もなく人々は過ごしていくのかもしれない。きっとそうなるのだろう。人間の危機感のなさや、関心のなさ、それらを含む適応能力には目を瞠っちゃうな)


3018:【2021/06/12*蜘蛛はどうして餌場に集まれるの?】
初夏のため虫たちが活発に蠢きはじめた。夜中などは街灯に羽虫が溜まり、それを捕食するために蜘蛛が巣を張っている。驚くべきことに、羽虫の群がる照明や街灯には総じて蜘蛛の巣が張っている。しかも何重にも巣が折り重なり、織られた機(はた)のように白く見えている。ふしぎだなぁ、と思う。なぜ蜘蛛は、ずばりそこが餌場としての穴場だと判るのだろう。まるで樹液に集まるカブトムシのごとく、そこに集中して巣を張って見える。確率の問題として、ちいさな蜘蛛が、任意の場所に偶然集まってくることはあるだろうか。いくらなんでも、個体数に対して、局所的すぎないだろうか。大海原のなかで、遭難者はみな偶然、流木のあるところに辿り着き、生存を果たした、みたいな確率の低さに思える。だがおそらくこれは考え方が間違っているのだ。カブトムシやチョウが樹液や花に集まるのとは原理的に違っている。どちらかと言えばハエにちかい。雌と雄の二匹だけでも、餌場に辿り着けたならば、そこで繁殖することができる。大勢集まったのではない。偶然辿り着いた数匹が、穴場で増えたのだ。ゆえに、巣がたくさんできる。だがその数匹が穴場に辿り着く確率もまた、かなり低いように思うのだが、そこはカブトムシやチョウのように、何かしら餌を知覚できる機構が蜘蛛にもそなわっているのではないか、と妄想してしまうのだが、真実のところはどうなのだろう。熱源に集まりやすいとか、羽虫から放たれるナニカシラを捕捉し、集まる習性が、蜘蛛にはあるのかもしれない。たとえばそれは糞尿であり、臭いであり、音などであるが、そういった研究結果はあるだろうか。気になった夜であった。(疑問に思っても調べようとしないところに、私のダメダメさが凝縮して表れていますね。私のダメダメさんたちにも何か、私から発せられるナニカシラを察知して集まってくる機構でも備わっているのかもしれません)(ああ、それで)(納得すな!)


3019:【2021/06/13*恋愛感情について】
以前にも似た考えを載せたが、恋愛感情と性欲はイルカと哺乳類の関係に似ているのではないか。哺乳類のなかにイルカが含まれるように、性欲のなかに恋愛感情が含まれる。恋愛感情は性欲の一形態なのだ。そう考えれば腑に落ちる、というだけのことで、特別にこの考えを絶対視しているわけではない。とはいえ、基本的には、性欲を含む好意を恋愛感情と呼ぶのではないのか、という短絡な考えが私にはある。たとえば性欲の湧かない恋愛感情は原理的に抱きようがないのではないか。性欲の湧かない好意には、憧憬や愛情、仲間意識などが挙げられる(友情は特殊なので、ここでは触れずにおく)。それら諸感情に性欲が付随すればそれらは総じて恋愛感情と呼べるのではないか。この考えであれば、性欲が湧くのに恋愛感情は抱かない、という属性も解釈できる。恋愛感情の継続期間を考えに入れると、これは解りやすい。私自身がそうなのだが、性欲はつねに継続して任意の対象に抱きつづける、ということができない。どこかで必ず飽きがくる。それを経験上知っているがゆえに、いつかは冷める一時的な好意でしかない、という価値判断をじぶん自身に課してしまう。これをすると、恋愛を成就させよう、という動機が失せる。なぜなら性欲を満たしてしまえば済むからだ。じぶんで処理できる。わざわざ面倒な段取りを費やしてまで、恋愛関係になる必要がない。もし性欲を満たしてなお結びつけたい関係性があるならば、それは上述したように、憧憬や愛情や仲間意識として、昇華される。つまりどうあってもそこに恋愛感情を見出す意味がない。恋愛感情と性欲が、イコールになる。恋愛感情というカテゴリィを用意する必要がなく、ゆえに恋愛感情という概念そのものが消失する。これはたとえば、理髪のようなものだ。髪の毛には痛みがなく、時間が経てば生え揃う。一時的に髪の毛が消えたところで、たいした問題ではない。だがもし、いちど切ったら二度と生えず、痛みが継続するとしたら、傷として残るとしたら、これはもう看過できない重大な事案となる。恋愛感情を恋愛感情と見做せる人物というのは、このたとえで言うところの、髪の毛がもう二度と生え揃わない人々だ。たった一度の理髪が、一生を左右する。じっさいのところはそんなことはないが、仮に現実であっても、髪の毛がふたたび生え揃う、と知らなければ、やはり髪の毛を切ることへの抵抗は、それを知っている者よりも大きくなるだろう。畢竟、どれだけ未来を質感豊かに想像しているのかの違い、と言える。ただし、人間は性欲にいちど支配されると、それが満たされないかぎり、正常に思考を巡らせられない、という欠点を抱えている。そのために、想像の翼を前以って広く羽ばたかせていない者は、容易に性欲に流され、感情の核となる憧憬や愛情や仲間意識を、恋愛感情へと昇華させてしまうのだろう。性欲が付随しているだけで本来はこれらは別の感情だ、と自己分析し、見抜ける者であれば、性欲の存在を自覚した時点で、恋愛感情を抱くことはない(なぜならそもそも恋愛感情ではなく、そんなものは存在しないからだ)。では、性欲の湧かない恋愛感情はどのように解釈すればよいのか。これもまた単純に、憧憬や愛情や仲間意識を、恋愛感情と錯誤しているのだ。ただし、そこに性欲が関与していない。初恋が、憧憬なのか恋心なのかの区別のつかない小学生のようなものだ。或いは、近所のお兄さんお姉さん――教師や先輩に、恋慕の念を寄せる中学生のようなものかもしれない。性欲に流されたことのない者にとって、つよい憧れの気持ちは、疑似恋愛感情として錯覚しやすい。なぜ錯覚するのかと言えば、恋愛感情というものがあることを、虚構の物語や、体験談として、周囲の環境から見聞きするためだ。ああこれか、と早合点してしまうのだろう。ともすれば、その錯誤をずっと抱えつづけてしまう者もでてくるだろう。性欲をつよく他者へ向けるようになれば、そうした者たちも性欲と恋愛感情が結びつくようになる、と妄想できる。以上の考えから、私は恋愛感情にはどうあっても性欲が付属し、同時にそれゆえに性欲が失せれば消える儚い一過性の錯誤である、という考えが抜けないのである。恋愛感情という感情は存在しない。性欲の付随した各種感情があるのみである。定かではないが、私にとってはそのように考えると楽であるし、それゆえ恋愛関係というものは、虚構で充分なのである。(恋愛関係よりも、友人関係や仲間や家族のほうが、遥かに深い関係であり、たいせつにする価値があると思っています)(恋愛がくだらない、ということではなく)(性欲を独占欲、と言い換えても成立するかもしれませんね)


3020:【2021/06/14*狼少女は本当にいたの?】
狼少女の本を読んでいる。実録として書かれた本だが、ところどころで違和感があり、「う~ん、これ本当のことかなぁ」と疑ってしまった。インターネットで検索してみると、やはり現在では、創作だったのではないか、という意見が通説になっているようだ。著者たる牧師が、精神疾患や身体疾患のある捨て子を匿うためについた嘘が、意図せず広まり、嘘に嘘を重ねてしまったのではないか、引き返せなくなったのではないか、とのことだ。なるほど、あり得るな、と思った。本を読んで引っかかったことを並べてみよう。まだ最後まで読んでいないので、前半部分で覚えた大きい疑問だけを並べる。まずはなんと言っても写真だ。本の冒頭に、狼に育てられた少女たちの写真が載っている。古い写真だ。白黒で画質が荒い。ただし、それだけであっても、狼の生活についていける肉体にはどうも見えない。本のなかでは、少女たちが狼さながらに俊敏に動き、リスのような身のこなしで四つ足で移動する、と叙述されているが、四つ足での移動は人間には向かない。本のなかでは、四つ足での生活で、関節がねじ曲がり、肉体も狼の生活に特化した身体に変質していると、書かれているが、写真から窺える姿からはそのような特徴は見受けられない。たとえば四つ足で身体を支えるには、広背筋が不可欠だ。だのに少女たちの肩甲骨のあたりにそれらしい筋肉の発達が見受けられない。足も細すぎる。いちど飢餓状態になったので、痩せたからだ、という理屈は理解できるが、だとすれば余計に四つ足で這いまわることはむつかしい。人間の身体はそんなに都合よくできてはいない。衰えたらすくなくとも同じような訓練がなければ衰えたままだ。二律歩行ですら、宇宙に長期間滞在した人間は、満足にできなくなる。四つ足ならばなおさらである。また、狼少女たちを発見し、保護した場面についての記述が、どうにも引っかかる。狼の巣たる穴のなかで少女たちもまた狼にまじって暮らしていたそうだが、狼が巣として利用するような穴は、狐の巣同様に、かなり狭いのではないか。人間が高速で出入りできるような造りにはなっていないはずだ。にもかかわらず、狼少女たちはその穴を、高速で出入りしたそうだ。人間の柔肌では、穴を出入りするだけで、側面に触れて、肌がズタズタになってしまいそうなものだ。穴のなかで暮らしていた、までなら呑みこめるが、狼のように出入りしていた、というのはちょっと想像できない。また、狼少女たちはかなり幼いときに狼に拾われたのではないか、と本には書かれているが、人間の赤ん坊が人の手を離れて生きながらえる確率はかなり低いのではないか。だいいちに狼の乳を飲めないだろう。栄養的な問題もあるが、それ以前に、狼の乳に吸いつく真似がそもそもできないはずだ。サルのように両手で抱えて胸に押しつけるならまだしも、子豚や子猫のように、各自でおのおのに吸い付くような真似はできないはずだ。狼は群れで暮らし、季節ごとに移動もするだろう。人間の赤ん坊がそれについていけたとはどうしても思えない。ほかにも、引っかかる点はいくつかあったが、長くなりそうなので、この辺にしておこう。信憑性はそれほど高くはないのではないか、というのが軽く目を通してみて覚えた第一印象であった。(実際のところがどうなのかは知りませんので、気になる方は、研究者の見解を参考にしてください)(はい)



※日々、ひび割れていく鏡に映る分身の、ゆがみを個性と錯誤して。


3021:【2021/06/15*ぺんぺぺーん!】
やあやあいくひしさんでござる。お久しゅうでござるなあ。ちょいとまた手伝っておくれ、と頼まれてしまったので、頼まれたら断れない、えらいのえらいの飛んでいけな、いくひしさんはお手伝いするでござる。またとってもくっだらなーいいくひしさんのつれづれを載せていくでござるよ。うは。いくひしさんはさいきん、カフェイン断ちをしているでござる。まいにちガブガブしてたお紅茶をやめて、お茶とか烏龍茶を飲むようにしているでござる。で、いま気になって、ひょっとしてお茶や烏龍茶にもカフェインって入ってたりしないでござるか、とするどく見抜いて、インターネットさんで検索してみたらコーヒーさんの三分の一くらいはカフェインさんが入っているそうでござる。ガブガブ飲むもんちゃうよ、と言われそうでござるな。意味ないやん、ってつっこまれちゃうでござる。でも飲むでござる。ついでにやけ酒ならぬ、やけコーヒーでござる。飲んでやるでござる。久々のコーヒーはやっぱりとってもにがいでござる。にがいのにおいちいなんてぜいたくでござる。やたー。いまさら気になったんでござるけれども、なんでいくひしさんはござるなんでござるか? そのござるになにか意味はあるでござるか? ないでござるか? おサルさんでござるか? ウキーでござるか? モンキーなんでござるか? しつこいでござる。なんも意味なーい。なんとなく、「ござるってかわいない?」「かわいいかわいい」みたいになっただけでござる。べつにおじゃるでもよいでおじゃるし、あべし、でもよいであべし。ぷぷー。あべしってなんでござるか。おもちろいでござる。わらっちゃうでござる。おへちょでサーフィンができちゃうでござるよ。ざぶーん。いくひしさんは思うんでおじゃるが、なにゆえいくひしさんにこうして駄文を書かせるであべし? じぶんで書けばいいでおじゃる。なんでしないであべしか? きっと載せることがないときにこうしていくひしさんの文才に頼るんでおじゃるよ。なんて姑息なんじゃましょ。スネちゃまだってスネちゃうくらいにあべしでおじゃる。あべしなのかおじゃるなのかはっきりして! で、ござるー。やっぱりござるがよいでござるな。いくひしさんはござるなんでござるよ。ウキ。もうもう何を書いてもおもちろくなってしまういくひしさんの文才にはびっくりしちゃうでごじゃるな。ごじゃるだって、ぷぷー。嚙んじゃったでごじゃるよ。あやや、ごじゃるのほうがひょっとしてかわいくないでごじゃるか? ごじゃる、ごじゃる。まるでいくひしさんのお部屋みたいでごじゃるな。それは、ゴジャゴジャでごじゃるよ。無理があったでござる。やっぱりいくひしさんはござるがよいでござるな。中身のないことを並ばせたらいくひしさんの右にでる者はいないでござるよ。じゃあ左にでる者はいるでござるか? 上は? 下は? まえにでたほうがなんかすごそうでござる。いくひしさんのまえにでる者はいないんでござるよ。こうしてじぶんをおいしょしないと立っていられないでござる。ヨボヨボのヨボでおじゃるよ。トホホでおじゃる。がびーんでおじゃる。古臭いでおじゃる。気づいてしまったでおじゃるが、おじゃるもござるも古いであべし。きょうからはあべしでいくであべし。というか、あべしってなんであべし? タカシやムサシではだめでおじゃるか? 名前じゃないであべし。もういっそ、あいだをとって、カフェインにしたらよいでカフェイン。あばば。ギャグっぽくしたかったのに、それっぽくなってしまったでカフェイン。でもカフェインさんの採りすぎはあんまりポンポンによくないみたいでおじゃるので、ときどき味わうくらいがよいでごじゃるから、カフェイン断ちをするでござる。やっぱりござるでござるな。はぁ、おちちゅく。で、ござるー。


3022:【2021/06/16*素朴で清潔で動きやすいのが好みです】
最近の悩みは、古着をいつ捨てるか問題です。ヨレヨレになったり、色落ちしてきたりしたら捨てればいいのではないか、とは思うのですが、これがまたいちがいに判断できるものではなく、いつの間にかヨレヨレのを着ていたりして、その時点でようやく捨てるのですが、なかなか着る前に気づけません。というのも、ぼくは同じTシャツを何十枚も持っていて、それを毎日のように着まわしているので、色もサイズも同じなので、どうにもどれがいちばん新しいTシャツで、どれが古いTシャツなのかがわからなくなるのです。Tシャツに限らず、下着や靴下もそうです。同種のものを、何十枚も持っています。ですので、なかなか捨て時が判らず、一目してヨレヨレになるまで手元にとっておいてしまう、という悪循環に陥っています。ほかのいくひしさんのなかにはオシャに気を使う方もいらっしゃって、そういう人からは、見りゃわかるだろ、とか、ほかの色のも買えばいいんじゃない、といった身も蓋もない助言をいただくのですが、いざそうした助言を実践に活かそうとするとなんだか日々の生活が落ち着いて感じられずに、くよくよしてしまうので、できるだけ同じ服につつまれていたいのです。ぼくのこの感応に共感してくださるいくひしさんもいらっしゃるのですが、その方は百円均一で下着やら帽子やらを買い揃えてしまうようなおひとなので、ひと月もしたらすべて捨てて買い直す、ということをするような方ですから、そうした点でも、感性やら価値観やらの違いを否応なく感じずにはいられないのです。最もぼくとかけ離れているいくひしさんからは、ヨレヨレになっても着りゃいいじゃん、という他人事の極致のような感想をいただいて、いつもならこっそり傷ついてしまうのが常なのですが、今回ばかりはふしぎと心が軽くなりました。みんながみんなあなたのような方だったらよかったのですけれどね、といったことを述べましたところ、まずはおまえがあたしんみたいになればいい、というようなことをおっしゃられて、目からウロコが落ちた心地がいたしました。それはそのとおりです。べつにヨレヨレの服を着ていようが、色落ちしたTシャツを着まわしていようが、たしかにぼく自身はそれで嫌な思いはいたしません。ほかのひとから、あのひといっつも同じ服着とるね、なんか汚い、と思われたくないだけなのです。だからといっておシャレに気を使って、毎日異なる服装や着回しを考えるのは億劫で、疲れてしまいますから、だったらもういっそのこと、じぶんの安寧を維持することを優先して、気づいたときに、古いバージョンの衣服を捨てればいい、と割りきってしまえばよいのかもしれません。ぼくもあなたみたいに、それの何が問題なのだ、と言いきれる図太さがあったらよかったのですが、なかなかそうもいかないようです。けっきょくのところぼくの悩みは、古着をいつ捨てるのかうんぬん、ではなく、他人からどう思われるかに引きずられてじぶんの価値観を貶めてしまう、このウジウジした虚栄心への対処法だったのかもしれませんね。はっとするような、目の覚める助言をありがとうございました。みなさまへのお礼を最後に、きょうの日誌を終わらせてください。本日の日誌当番の、いくびしまんでした。


3023:【2021/06/17*ネタくれるひとです】
(――前略――)えー、なんか書けって言われても困っちゃうな。音声入力でもいいん? あ、いいの。じゃあそうするけど(――準備中――音声入力開始――)、んー、思うんだけどうちね、日記ってひとに書かせるもんちゃうよって思うんだけど、ちがうかな? あ、いきりなり前提蒸し返しちゃう感じでごめんだけど、べつにこれ文句ってわけじゃなくて、そういうなんかあるじゃん、そもそもの大前提みたいなさ。なんであなたのお日記をわたくしちゃんたちがおつむぎになられなくてはならぬのだろう、みたいなさ、あるじゃん? だってべつにこれお駄賃でるわけじゃないし、お手伝いしてください、ってあなたはそうやってなんかちょっぴりかわいこぶりながら、かわいそうな感じを醸しながら、礼儀正しそうにお願いはいたしますけれども、それってただの押しつけでは? 夏休みの最終日に、宿題終わってないから手伝ってぇー、ってさっこんのび太くんですら言わないお願いを押しつけているだけでは? ちがう? あのね、べつにね、いいんだよ。わかるよ、わかる。本当はそうやってお願いにかこつけて、本当はわたくしちゃんたちとおしゃべりがしたいんでしょ? かまってほしいんでしょ? 仲良くしてくれい、ってぇ、そういうなに? まあ、あなたなりの愛情表現なわけなんだとは思うわけなのだよ。わかっているよ。ただね、まあ、あなたはそういう余裕というか、暇というものがあるのは理解しておりますけれども、なんかちょっと説教ちっくになってごめんだけど、うちらはまあ、そこそこまあまあの忙しさなわけですよ、日々ね。クッタクタなわけですよ。そこにきて、屈託なくあなたはしょーもなぁ、お願いをしてくるとくればもう、そりゃあちょっとくらいは溜まるものがあるわけですよ。あ、べつにいまのは偶然だから、クッタクタと屈託で韻を踏みたくて踏んだわけじゃないのでそこは触れずにお願いしたいんだが、えっとー、なんだっけ。脱線しちゃったな。えー、あーそうそう。あなたのお遊びに付き合うのは百歩譲っていいのだけれど、それでわたくしちゃんたちに何か利がありますか、ってぇそういう気分にならないか、てぇ言われれば、これはまぁなるんですわ。なっちゃう。なるよ。や、誤解があったかもしれんけれども、たしかにあなたに懐かれるのはわるかぁない、わるかぁないんだが、こうもクッタクタの日に、全身脱力しちゃうようなお願いをされるとだね、さすがのわたくしもだね、一言モノ申さねばならぬ、ってぇ気にもなるわけだしょ。噛んだ。噛んだの。ちょい笑いすぎだからね、こっちは真剣にしゃべってあげてるんだからね、いちいちそうやっておちょくるのやめんさい。わたくしちゃんたちってぇ言い方がそんなにおかしいか。いちおう読み物としておもしろくなるようにってぇ気ぃきかしてやってんだってことをあなたはもっと知ろう。知れ。あー、酒まわってきちゃったな。もういい? こんなもんでいい? いや笑いすぎやろ、もうあなたのその顔載せりゃいいよ。文章である必要ある? 日記である必要ある? え? 日記じゃない? 日誌って、どっちでもええわ、同じだしょ。噛んだ。噛んだの。いちいちうるさいなぁ、もうおわり。しゅーりょー(――音声入力終了――)


3024:【2021/06/18*偽物】
わたしはじぶんでじぶんをクリエイティブではないと思っています。そのことで劣等感を覚えます。どうしてもじぶんでゼロからイチをつくりだすことができないのです。過去に見聞きした外部情報をもとにして、素材にして、それらを練りあげてじぶんにとっての内世界をこちらの世界に出力する以外に、わたしはじぶんで表現や創作というものを行うことができないようなのです。どこかで見たことのあるような既視感がどうしても拭えません。実際にあとになって、これはあれに影響されたやつだな、これはひょっとしてあれに含まれていた要素ではないのか、と気になって仕方がなくなることがあります。違和感と言えばそうなのですが、じぶんでじぶんの表現や創作物を受動すると、どうしてもじぶんがそれをつむぎだしたとは思えなくなるのです。現に、表現している最中、創作をしている最中にも、これはあれに似ているな、と思いながら、過去に鑑賞した数多の表現や創作物を連想してしまい、じぶんでじぶんが嫌になります。どうしてゼロからイチを生みだせないのでしょう、といつだって嫌気がさしているのですが、それはそれとして、じぶんのなかにゆったりと渦を巻く紋様を、灰汁を掬うようにわたしのそとへと出力する過程は、どうやらわたしにとって不快な行為ではないようです。しかしこの世界に出力するわたしの内世界そのものが、わたしの唯一無二の世界ではなく、わたしの触れてきた数多の外部情報――この世界のさまざまな造形や構造、流れによってかたちづくられ、色を変え、渦を巻くので、そもそもわたしそのものがこの世界の構成要素であり、どうあってもわたしはわたしだけの世界を生みだす真似ができないのです。わたしとこの世界の輪郭に漂う、薄い薄い膜に揺蕩うしゃぼん玉の膜のような紋様を、わたしはわたしの内世界だと見做し、それを映しとることを以って、表現だの創作だのと言い張っているだけなのかもしれません。その薄い薄い膜に揺蕩うしゃぼん玉の膜のような紋様は、しかしわたしの表現物でも創作物でもなく、わたしの内世界ですらなく、わたしとこの世界とを区切るための輪郭や影のようなものであり、そもそもわたしの生みだしたものではなく、この世界の彩りの一つでしかないのです。わたしは何も表現などしておらず、創りだせてもいないのです。この自覚はいつも、じぶんの至らなさや、未熟さ、どうあってもこの世界から抜けだすことのできない束縛をつよくわたしに抱かせます。それは同時に、わたしがわたしであることをやめることができず、わたしはわたしを抜けだして世界を眺めることも、触れることもできないのだ、という諦観の念を突きつけられることでもあります。わたしはわたしの内側に感じられるこの、薄い薄い膜に揺蕩うしゃぼん玉の膜のような紋様に隔てられ、わたしはわたしそのものにすら触れることができずに、曖昧な境界線の狭間にて、膝を抱えて丸まっています。わたしとこの世界を隔てる境界は、わたしの外にはなく、そもそもわたしは外にすらおらず、世界に内包されたままで、目のまえに揺蕩う薄い薄いしゃぼん玉の膜のような紋様をじぶんの内世界だと錯誤し、ありもしないあちらとこちらとを幻視することで、かろうじてわたしという外殻を保っています。わたしはただ、眺めているだけなのです。映しとっているだけなのです。それを表現と呼ぶにはあまりにお粗末で、創作と呼ぶにはあまりに工夫がありません。オリジナリティの欠片もないのです。わたしがつむがずとも、それらはただそこかしこに流れており、わたしが出力せずとも、すでにどこかしらに揺蕩っているものたちなのです。わたしはクリエイティブではありません。そのことで劣等感を覚えます。どうしてもじぶんでゼロからイチをつくりだすことができないからですが、過去に見聞きした外部情報をもとにして、素材にして、それらを練りあげることでわたしに感じられる内世界のようなものを――本来はそれすら単なる風に舞う砂塵のようなものにすぎないのですが、それらを――この世界に記録する(映しとる)以外に、わたしのしたいことはとくにないようなのです。わたしは偽物です。本物を構成する数多の偽物にすぎません。わたしは幻影です。存在する存在の奏でる刹那の紋様にすぎないのです。


3025:【2021/06/19*美醜】
ごみ箱からはみだした、名も知らぬちいさき花を、うつくしいと思う我が心は、。


3026:【2021/06/19*予防がだいじ】
医療制度の問題は、長期的な視野で言えば、病院にかからずに済むひとたちにいかにそのまま健康な生活を送ってもらえる環境を築いていけるのか、の問題と繋がっていると言える。誰であっても医療の受けられる環境を目指すのはもちろんだいじなのだが、同時に、いかに病院にかからずに済む生活を人々が送れるのかが、これからの国の政策として欠かせない視点となっていく。そういう意味で、貧困や格差社会の問題は根深い。虫歯一つとっても、食生活から労働環境から、ブラッシングの習慣の有無などの文化資本にしろ、人々の私生活の差が、虫歯が悪化するか否かに大きく左右する。生活習慣病にしろ、ほかの大病にしろ同様だ。疫病と同じく、予防がたいせつなのだ。いかに多くの国民を病気にさせないか。そうした健康な生活を送れる下地を築いていけるか。大病を患わない人々が増えれば、国民保険や社会保険の財源の負担も減る。国民の健康を維持しようする政策が、結果として制度の合理化に繋がる。もちろんこれは理想論であるが――なぜならたとえば、がんは、人間の長寿が招いた身体の異常であり、高齢化が進めば、誰もががんにかかる確率が高くなる(もちろん寿命が延びたことだけが要因ではないが)。いくら健康な生活を送ったとしても、みなが長生きすれば、けっきょく誰もが病院にかからざるを得なくなるため、予防を徹底できたとしても、それが即座に医療制度の改善に繋がるわけではない。ただし、それでも国の主な労働力でもある若年層に、最大限に幸福の追求を行ってもらうことは、国力というものの土台をどっしりと頑強なものに作り変えていく触媒になると期待できる。また、病気にかかるリスクを減らすのは、高齢者にとってだけでなく、その家族にとっても大いに助けとなる。看病や介護に費やされる負担は、けして軽くはない。そういう意味でも、若いころからいかに健康を維持できる環境にあるか、病気の予防や早期発見を行える環境にあるか、というのは、どういった視点であっても、国民の幸福の追求に最大限に与すると考えられる。国民が豊かになることこそ、国の豊かさに繋がるのは言を俟つまでもない。自国に余裕があってこそ、他国にも支援を行える。以上の点から、医療制度の問題は、医療の現場だけの問題ではなく、社会全体の福祉(や経済)の問題と切っても切れない関係にあり、どちらかといえば、率先して解決すべきは予防にこそある、と指摘して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(漠然とした印象論にすぎませんので、真に受けないでください)


3027:【2021/06/20*妄想ですのでうんにゃらかんにゃら】
※以下妄想です。――ウィルスは一般的な動物に比べて進化の速度が桁違いである。死滅のサイクルが速いために、ほかの動植物と比べて数万から数百万倍と進化速度が高く、感染者数が増加すればさらに進化の速度が加速すると考えられる(変異の末に繁栄すればそれが進化となる。変異が即座に進化に結びつくとは限らない)(たいがいの変異個体は進化に結びつかず、淘汰される)。そうしたなかで、ほ乳類はおおむね感染したウィルスに対して抗体を獲得するわけであるが、必ずしも抗体ができたからといってウィルスに対抗できるとは限らない。抗体ができたために、却ってウィルスの感染力や毒性をつよめてしまうことが稀にある。同種のウィルスに対してのみならず、本来ならば無害なウィルスに対しても、べつのウィルスの抗体を持ってしまったがために免疫不全や免疫過剰反応が引き起こされ得る(よくは知らないが、ワクチンの弊害としても知られているのではないか)。一概にワクチンを打てば安全、というわけではないはずだ(基本的にはワクチンは接種したほうが好ましい。なぜなら感染すればどの道、体内に似たような抗体ができるためだ。より安全に抗体をつくるにはワクチンが効果的だ)。また、ウィルスそのものではなく、ウィルスの一部分を免疫系に記憶させる手法では(たとえばmRNAワクチンなどは)、ウィルスの一部さえ合致してしまえば類種の「人体に好ましいウィルス」までをも広範囲にわたって攻撃してしまう懸念があるように思われる。本来であれば任意のずばりこの遺伝子情報を有したウィルスのみを攻撃せよ、と指令をだせた免疫系が、ウィルスの一部だけを記憶したことで、広く、形状の似たウィルスを攻撃し得る(その結果、任意のウィルスの生みだす「肉体にとって好ましい効果」が副次的に阻害されるかもしれない。なにより、人によって共生しているウィルスは異なるはずだ――そもそも個々人がどんなウィルスをどれだけの数持っているのかすら、いまはまだよく解っていないはずだ。もしもこうした弊害が観測されたとしても、こうした事例は個々人の体質によるので、統計的に判断しにくい傾向にある。因果関係を探るのに、時間と労力がかかる、と言い換えてもよい)。ワクチンに汎用性があればあるほどこの懸念はつよまるのでは、と個人的には疑っている(妄想とも言うが)。変異したウィルスにも効果がある、というのは一概に褒められたものではないように思うのだが、真実のところはどうなのだろう(素人考えなので、真に受けないでください。そもそも免疫系はウィルスの遺伝子情報を記憶したりはしないのかもしれません。一般的には、ウィルスから内因性抗原――遺伝子情報ではなく、ある種のたんぱく質――を受け取り、それをもとに抗体の設計図を免疫系はつくる、と考えられているようです。ただ、ウィルスの遺伝子情報もなんらかのカタチで抗体設計図に情報として付与しているのではないか、と個人的には妄想してしまいます。とはいえ、免疫機構の仕組みを勉強したことのない素人の妄想ですので、話半分どころか一万分の一にして読んでください)。また、ワクチンに限らない話であるが特効薬にしたところで、そうした人類の対抗策に耐性を持ったウィルスが現れないとも言いきれない(そうした耐性ウィルスが、ワクチンや特効薬の対象ではないまったく別種のウィルスからでてくる可能性もある。2021年現在に流行しているウィルス以外にも、人類にとって致命的な変異を起こし、流行するウィルスが出現する確率は、けして低くはない。すでに存在しているが、人類がまだ感染した例がないだけの可能性もある。百年以内にあと数回は、現在のような社会システムの致命的な崩壊に結びつきかねない感染症の流行が起こってもふしぎではない、と個人的には妄想している)。以前から繰り返し述べているが、人口過密型の都市設計と、大多数の長距離移動を要とした経済発展計画は、早々に見直したほうが、これからの人類のありようを考えるうえで有用なのではないだろうか(各種専門分野の基礎研究への投資も国をあげて支援していってほしいと望むものである)(また、各種専門分野を統合して結びつける新たな分野の研究の登場にも期待したい。たとえば行動経済学をもとにすれば科学的知見をスムーズに国民に広報できるだろうし、医学だけでは見落とされる視点を、物理学の視点で補えるようになるかもしれない。各分野の横断による最適な都市設計の提案など、多層的な視野での社会システムの構築が、これからの未来では求められていくと想像できる)(AIの進歩により、こうした分野の横断や統合は、これまで以上に行われやすい土壌が耕されていくはずだ)。(以上は、妄想ですのでくれぐれも真に受けないでください)


3028:【2021/06/21*ビカビカ】
十年以上前のじぶんの表現を目にする機会があり、びっくりするほどお下手であそばされて、記憶の中にある過去のじぶんを美化していたじぶんに気づいて笑ってしまった。あるんですねやっぱり。美化。


3029:【2021/06/21*変わるものだね】
創作論のなかで、「じぶんの小説が本になって書店に並んだときを想像し、じぶんでそれを手に取って買いたくなるかどうかを考えてみましょう」なる助言があったと思うのだけれど、むかしは、買うに決まってんじゃん、と傲慢に思っていたけれど、いまはむしろ、買うわけないじゃん、に変わったので、趣味趣向のあやふやさときたらないな、といつでも同じでいられない人間の不確かさをしみじみと感じる。(つくりたいときにつくりたいものを、つくれるうちにつくりましょう)(つくったときにつくったものを買いたくなるか、という意味であって、たとえば小説を読みはじめる前の過去のじぶんに自作を読んでもらえるか否か、の質問であれば、これはいつであっても、むつかしいんじゃないですか、と思っています。と同時に、読んでもらえるにはどうしたらよいだろう、とも考えています)


3030:【2021/06/21*ふしぎだな、と思う】
何かを思いどおりに動かすことの快感は、人間にのみ備わった報酬なのではないか、ということをこのごろ考える。ほかの動物たちも、遊ぶ、ということをするが、じぶんの手を離れたものを操ることへの興味関心を抱くのは、人間だけではないのか、という疑念があるが、どうなのだろう。他者を支配するだけで飽き足らず、道具を使うだけに留まらず、自然や環境そのものを拡張し、支配化に置こうとする人間の働きはどこから生じているのだろう(先天的な欲求なのか、これもまた後天的に獲得される文化的形質なのかもよく分からない)




※日々、虫を殺しても数秒後には忘れている。


3031:【2021/06/21*ミニどら焼き】
ここ一週間ほどのプチマイブームに、ちっこいどら焼きセットがある。スーパーのお菓子売り場に置いてある、袋詰めのミニどら焼きが美味しい。栗あんとつぶあんの二種バージョンと、チョコとカスタードとメープル味の三種バージョンがあって、飽きないからよい。ただ、あっという間に三つ四つを食べきってしまうので、間食にしてはヘビーなおやつになってしまっている。とかこれを並べながら三つ食べてしまった。おいしい。おいしいんだよ。しまったな。これは迂闊に手をだしてはいけない魔境だったかもしれない。ミニどら焼きを舐めたらいかんぜよ。ちなみにどれくらいミニかと申しますと、人指し指と親指で輪っかをつくったときの輪っかくらいの大きさだ。なかなかにちっこかろう。かわいくておいしいなんて、なんて贅沢なおやつだらう。すてき、と思いながらついついついばんでしまう。ずいずいずっころばし、みたいなノリで言ってしまった。ついついついばんでしまう。さいきん思うのは、あ、ぜんぜん違う話ですけれども、ローテーションってだいじかも、ということである。毎日同じことだけを繰り返していても、やっぱり人間、飽きてしまうものだ。どんなに好きなことだとしても、毎日同じことだけをしていたら飽きてしまう。好きなことのなかであっても、ある程度の差異のあるものを揃えられるとよい。選べるとよい。同じどら焼きであっても、味が選べるとよいと思うのだ。ローテーションを組むと止まらんくなる。けっきょくミニどら焼きの話になってしまった。どんなことからも人生の教訓ちっくなことをひねりだせるなんて、ワガハイ、ひねりだすの天才かもしれない(んなこたぁない)。(6/25追記:タネが三種のほうは包装紙にホットケーキと書かれていますが、ミニどら焼きと同じ生地で挟んであるので実質ミニどら焼きとして扱いました。どちらもおいしいです)


3032:【2021/06/22*神さまに向かない人】
もし人間が不老不死になったら、人体消滅ビジネスが社会基盤として早々に組み込まれるくらいに繁盛するだろうし、娯楽は過激化するだろうし、人口増加を抑制するために子づくりが禁じられるようになるだろうし、そもそも不老不死になった時点で生殖機能を失うかもしれない。仮に人口が増加する方向に進んだとすれば、資源の奪い合いが加速する。住む場所の問題もあるし、どちらかと言えば活動時間のスパンが個体によって激変するので、自由にできる土地が減少してしまう問題のほうが根が深くなりそうだ。というのも、ある個体は百年眠り、ある個体は数万年眠る、ということもでてくる(これは睡眠時間を活動時間に言い換えても成立する話だ)。資源問題については、食料やエネルギィ問題というよりも、単純に肉体を構成する物質が減少するのでは、との懸念がある。不老不死なので食べずに済む、と仮定するにしても、そもそも人間の人体を構成する有機物には限りがある。ぽこぽこ増えつづければ、いずれは資源不足に陥る。とはいえ、人類の総重量なんてものは、地球上の資源と比べれば大したことはない。ほかの生物種と比べても、たとえばウィルスの総量のほうが重いくらいなのだそうだから、いまのざっと数万倍くらいに人口が増えなければ、人体を構成する物質の不足を嘆くような事態にはならないのかもしれない。生態系は著しく崩れるにしろ。ではあべこべに人口が減る方向に進んだらどうなるのか。基本的には、不老不死になればどんな生物だろうと個体数は減少するのではないか。子や分身を儲ける必要がない。個として完成しているからだ。となれば性別はなくなるだろうし、ほかの個体と関わり合いを持とうとする意思や本能もなくなると想像できる。関わる必要がないのだ。一人でも生きていけるから。問題は、不老不死同士で出会ったときに、どのような関係が築かれるか、そのパターンにあると言える。互いに不干渉を貫くか、敵対するか、交流するのか。この選択肢によっていくつかの未来に分かれそうだ。人類が一気にみな不老不死になるのか、それとも一人の不老不死者が誕生するのか、でも変わってきそうな話であるからむつかしい。きょうもきょうとて並べることがなかったので、底の浅い妄想を並べた。もしじぶんがいまこの瞬間に不老不死になったらどうするかを数秒想像してみたけれど、おそらく恐怖心がなくなるので、一通りのやってみたいことをして、あとはもう庭いじりをするみたいに神さまの立ち位置で、人類や生態系を眺めながら、ときにゆびさきでつつくみたいに干渉するのではないか。飽きたら数百年単位での仮眠をとりつつ、ときに敢えて環境を荒廃させて、イチから発展していく自然の在り様を目にすることで退屈をつぶそうと試みるかもしれない(そんな蟻の巣に熱湯をそそいで笑っていそうな神さまは嫌だ)。


3033:【2021/06/23*だってないんだもん】
きょうも並べることがなかった。きのうは不老不死の妄想をしたので、じゃあきょうはどんなものに変身しよっかな、と妄想の翼をはためかせたところ、はたと閃いた。ひょっとして、変身したときのリアクションってそんなに種類なくないか。閃いてしまった。たとえば綿棒になったとしよう。数多の仲間たちにまじって、じっと魔物から身を潜めていたが、突如として防壁を破られ、頭上から大きな指が迫る。うわー、やめろー。頭をつまみあげられ、そのまま大きな口に運ばれるかと思いきや、なんと耳の穴に突っこまれるではないか。うわー、やめろー。真っ暗闇の微妙に毛深い穴へと押しこまれ、ぐるぐると回転しながら、ぐりぐりと壁面に擦りつけられる。うわー、やめ、やめ、やめろっつってんだろコニャロメ。半泣きになりながら、得体の知れないモソモソが頭部にこびりつき、息も絶え絶えだ。引き抜かれたと思ったら、そのまま真っ逆さまに不要の判を捺されたものたちの墓場へと投じられる。ゴミ箱へと。悲劇である。これを、耳カス大好きな綿棒の気持ちに寄り添えば、魔物から採れる秘宝を奪取する冒険譚になるだろう。綿棒でなく、では箸だったら、時計だったら、バナナだったら、茶葉だったら、スコップ、靴下、ゴミ箱、様々な代物にじぶんがなったとしたらどうなるか、と妄想すると、たいがいは、うわーやめろー、か、よっしゃーもっとだー、になる気がする。パターンがすくない。巻き込まれるか、待ち望むかの違いだ。たとえば本になったら、もっと見てくれー、じっくりわたしのなかをご覧あそばせー、と露出狂さながらに迫りだしそうだ。それとも、いやー見ないでー、と言いながら恍惚とする被虐体質マンになりそうだ。こんな他愛もない妄想の妄想を並べるだけでも、きょうの分の日誌は埋まる。あしたはPCの気持ちになってみようかな、と予定を立てて、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな(いつになくおもしろくない日誌になってしまった)(手を抜きすぎでは?)。


3034:【2021/06/24*あれの理由】
ワガハイはパーソナルコンピューター、いわゆるPCである。なかでもノートパソコンと呼ばれる部類のPCで、薄く、すらりとした見た目がチャームポイントだ。我が主はせっかく持ち運びに有利なワガハイを外には連れださず、ワガハイを日がな一日薄暗い部屋の中に置き去りにしている。ワガハイが頼んでもいないうちから我が主までいっしょになって置き去りにされているのはふしぎな心地がする。我が主は、ワガハイのうえが特等席であるらしく、暇さえあれば上に載らんと画策するのだが、我が主にはしもべがおり、これがなぜかそれを阻止するのである。ワガハイと我が主とを引き裂こうと暗躍するしもべの存在は、長らくワガハイの目のうえのたんこぶとして君臨している。我が主はモフモフの毛皮に身をつつみ、身軽な身のこなしで、ときおり甘ったるい声音で、ミャー、と鳴く。控えめに言って生物あるまじき愛らしさである。その点、我が主のしもべときたらひょろながい手足に、のろのろとした動き、ぶすっとした表情に、愛嬌のかけらもない仕草には、我が主はなにゆえかようなしもべを寵愛なされるのか、とほとほと理解が及ばない。我が主はどうやらワガハイをしもべに与えたようで、もっぱらワガハイを扱うのはしもべである。ワガハイには高性能な目がついているので、しもべがワガハイを用いるときには、その容貌をまじまじと否応なく拝むことになる。ワガハイはPCらしく情報処理を得意とする。世界中を網の目となって駆け巡る無数の情報を小川のせせらぎがごとく穏やかさで画面に映しだし、数多の起伏を押されることで使用者の出力機能を補助したりする。我が主のしもべはもっぱらワガハイを用いて文字を並べる。あたかも判子遊びをするかのごとく、いったい何が楽しいのか、つぎからつぎへとしょうもない文字の箱を置きつづける。繊維をよじってつむがれる糸さながらに、線となって現れるそれらが果たして読み取れる文章になっているのかは、ワガハイの理解の範疇を超える。すくなくとも我が主はしもべのそうした仕事ぶりを評価する素振りはみせず、どちらかと言えば、常時邪魔をして映る。しもべはそんな我が主のキュートなイタズラ心を邪見にすることなく、ひざの上に載せ、我が主の身体を撫でつけるのだ。あぁ、なんと贅沢な所業であろう。我が主はワガハイにも興味津々に身体を擦りつけてくるが、しもべはあろうことかそうしたワガハイと我が主との交流を阻むのだ。嫉妬であろう。むべなるかなその胸中は推して知れるが、じぶんだけがいい思いをしてワガハイから至福のときを奪うとは言語道断。ワガハイは勢い奮起し、しもべのつむいだ文字の機(はた)を保存せずに、消してやった。文字で埋まった画面が真っ白に変じたのを目の当たりにしたしもべは絶叫した。その声に驚いたようで、我が主はしもべの膝から飛び降りて、尻尾を股のあいだに挟んだ。怯えるようにしもべを見あげる。ワガハイは歓喜する。いいぞ、いいぞ。こっぴどく嫌われてしまえばよいのだ。よほどだいじな文面だったのか、しばらくしもべは茫然自失と動かなくなった。ココアに浮かぶ薄皮じみた表情を隠そうともしない。椅子に座ったまましばらく、うべー、としていた。我が主が机に飛び乗り、しもべの手の甲を舐めた。慰めているのだ。なんという深い慈愛のおこころであろうか。しもべの傷心にすら寄り添おうとするその姿勢に、ワガハイはいたく心打たれた。おいたわしや、我が主さま。かようなうつけ者の憂いにまで心を痛めてしまわれるほどのやわらかくも繊細なハートをワガハイは傷つけてしまった。反省するよりない。お詫びのつもりでワガハイは、消してしまったしもべのデータをメモリの底から引きずりだして、じつは保存していましたよぉ、のテイでしれっと展開した。しもべは画面に勃然と浮かんだデータを目の当たりにし、目をぱちくりとさせたあとで、ひゃっほー、と我が主を抱きあげ、頬づりした。我が主は迷惑そうに短く、みゃ、と鳴き、しもべからぬるりと抜けでると、何事もなかったかのように部屋をでていかれた。ワガハイとしもべだけが残される。しもべは何を思ったのかワガハイを指先で、なでり、とし、ワガハイは内心、ケっ、と思う。


3035:【2021/06/25*痛いものは痛い】
椅子の脚に小指をぶつけたときは、痛みのあまり飛び跳ね、その場にうずくまる。まずは深呼吸をし、「痛みはしょせん電気信号にすぎない」とじぶんに言い聞かせる。冷や汗がにじむ。「宇宙に比べれば拙者の命もアメーバに等しい」とつづけて唱える。心頭滅却し、拷問に耐えるスパイになりきる。するとどうであろう。一瞬だけ痛みが薄れるが、即座に寄せては返す痛みに、だぁーイタいっつってんじゃん、とじぶんの小指にぶちぎれる。痛いものは痛い。耐えられるものではない。(痛みは幻想っつったやつでてこい)


3036:【2021/06/25*不健康でもべつによろしい】
健康がだいじってけっきょくのところ、痛みがあると楽しいことも楽しめないし、身体が病に蝕まれるとしたいこともできなくなるからであって、たとえ病気になっても、痛みがなくて楽しいことを心の底から楽しめて、したいと思ったことを即座にできる環境にあるのなら、べつに健康であることのメリットはそんなにないのかもしれない。というよりも、不健康であるデメリットがない、と言い換えてもよい。継続してそうした楽しいと好きとこれしたい、の望みが湧き、追い求められるのなら、健康だろうと不健康だろうと変わらないのだろう。健康であっても、楽しいことを楽しめずに、好きなことをしたいときにできず、突如としてあす死んでしまうこともある。基準とすべきは健康か否か、ではなく、「自由と選択肢と行動」の有無(或いは比率)なのではないだろうか。


3037:【2021/06/25*お金儲け】
お金はお金だと思う。何のために稼ぐのか、といった事業の内容とは基本的には関係ないはずだ。いちど代金を受け取ってしまえば、金儲けのためではない、という言い方は基本的に成立しないのではないか、と思うのだが、違うのだろうか。どちらかと言えば、お金儲けをするためにお金を稼ぐことのほうが、事業を継続するためにお金を稼ぐことよりも必死度は低いように思うのだ。つまり極端な話、どちらがより必死になって、あくどいことをしてしまうのか、と言えば、傾向として事業を維持するためや、生きるためにお金を稼ごうとしている者のほうではないのか。余裕がないのだからそうなる。稼がなければ事業を継続できない。潰れてしまう。廃業してしまう。生きていけない。そうならないために必死になる時点で、お金を稼ぐということに関して、単にゲーム感覚でお金が儲かればいいや、と考えている者たちよりも、お金に困っている者たちのほうが、いわゆる詐欺や搾取を行いやすいのではないか、との疑念が湧く。もちろん労働というものは、お金を稼ぐことが目的ではなく、その結果に個々人の幸福の総量を増やすことが目的にある。回りまわってそれが社会全体を豊かにすることに繋がるので、仮にお金を稼げなくとも、それで生活と労働を維持できるのならば問題はない(この場合、趣味と家事と労働の区別はない)。労働には本質的には対価は必要ないのだ。ただ、対価がないと生活できない環境があるだけのことで。そういう環境のもとでは、目的と手段が逆転し、対価を得ることが目的になってしまうこともある。現代ではそうした構造の逆転現象に身を浸してしまっている者もすくなくないように概観できる。そうした個々人が大多数を占めると、お金を稼げないことが死活問題に繋がる。対価なくしては相互ほう助の精神をそそぎあう真似もできなくなる。人助けすらできなくなる。もちろん、お金のやりとりというものがあってこそ人類の発展が加速した面は無視できない。とはいえ、ある段階を過ぎれば、その流れを穏やかにしたほうが却って発展しやすい土壌が築かれるようにも思うのだ。いまはもうその段階に差し掛かっているように見受けられるが、これまでの発展を促す流れがつよすぎて、上手くブレーキをかけられない社会なのではないか、と漠然とした印象を覚える(流れをこれ以上つよめずとも発展しつづけることは可能なのではないか、との趣旨です)。何が言いたかったのかと言えば、とくに何かを言いたかったわけではない。ただ、お金儲け、と、お金を稼ぐこと、はほとんど同義であり、お金儲けのためにお金を稼ぐことと、お金以外のためにお金を稼ぐことのあいだに、貴賤はないように思うのだ。どちらかと言えば、お金のやりとりを要とした構造のなかでは、お金を儲けるためにお金を稼ごうとする者のほうが、お金以外のためにお金を稼ごうとする者よりも、公平である確率は高いのではないか、との直感がある。言い方を変えるなら、儲けてはいない、という主張は、じぶんたちの行っている事業の正当性にはなんら関与しない。儲けるためにしていない、というのはその事業の健全さとは結びつかない。ボランティアにしろ慈善事業にしろ、文化支援にしろ同様だ。儲けていない、というのは、儲けている、よりも、どちらかと言えば、お金のやりとりを要とした構造のなかでは、不正や搾取が行われやすい土壌が築かれている、と言えるのではないか。お金を稼げなくてはやっていけないからだ。儲けるためにしていない、儲けていない、とは言い換えれば、つねに火の車だということだ。お金がつねに不足しています、お金に飢えています、との告白でしかない。後がない者と余裕のある者とでは、どちらがお金を稼ぐことに必死になるだろう。繰り返しになるが、お金儲けのためではない、という主張は、その者の行っている事業の正当性とはなんら関与しない。どちらかと言えば、事業を継続するためならば手段を選ばないようなことをしています、との言い換えでしかない。儲かっていないのだからそうなる。お金のやりとりを要とした構造のなかでは、そうなる。この考え方は間違っているだろうか? 定かではない。(例外はたくさんありそうですね)


3038:【2021/06/26*自分なんて信じるに値しない】
自信なんてあってもなくてもどっちだっていいし、自己肯定感も同様だ。どんな事象にもそれを選択(所有および利用)するとなったときには、メリットとデメリットが付随する。どちらか一方だけを受動するなんて真似はできない。できるだけ「デメリットがすくなくメリットのより多いほう」を選べたら吉というだけのことだ。自信にしろ自己肯定感にしろ同様だ。それらを持つことでどんなメリットがあり、どんなデメリットがもたらされるのかを把握しておくと好ましい。個人的には、自信も自己肯定感も欲しくはないし、どちらかと言えば遠ざけておきたい代物だ。そんなものがなくともしたいことをしたいときに行える環境を築くほうが優先される。その結果に得られたら儲けものですね、といった程度の代物だ。率先して得たいと希求するようなものではない(成果を得たら浮きあがる印のようなもの――光に伴う影のようなもので、では印があれば成果がみのるかと言えば、必ずしもそうではない。どちらかと言えば、印ばかりを先行して求め、本来手にしたい成果を遠ざけてしまっている事例をまま見掛ける。じぶんがいったい何を求めているのかに素直になれると好ましい。真実に自信が欲しいのなら、成果を度外視して印たる自信をさきに得るのも一つだろう。他者からの評価、というものも同様だ。結果に伴う仮初の印でしかない。影を得たければ闇に飛びこめばいい。だがそこに光はあるだろうか?)。自信がなくとも好きなことを好きなときに好きなだけしたらいいし、自己肯定感なんかなくとも、楽しいことを楽しいうちに楽しめるだけ楽しんだらいい。もちろん、できるだけ長くそうした環境を維持するためには、他人の邪魔の入らない環境が好ましく、そのためにはできるだけ他人の迷惑にならない規模で、社会秩序を脅かさない範囲で行うのがよい(他人の役にたてれば、おおむね邪魔されることはなく、ときには援助をしてもらえるので、他人の邪魔の入らない環境を築く分にはプラスに働く。だがいちど他人の役にたつと知れ渡れば、どんどん他者から求められ、身動きがとれなくなることもある)。この選択とて、メリットとデメリットがある。べつにあとさき考えずに一瞬の快楽を味わえればいい、という者ならば、極論、死刑を覚悟に好きなことを好きなようにすればいい。もちろん個人的にはそのような個体とは関わり合いたくないし、できれば事件のようなことを起こして欲しくはないので、そうした事象の生じない環境を築く方向に助力するが、かといってではそうした個人が絶対悪かと言えば、そうではない。そうした願望を抱く者は割合としてけっしてすくなくはないだろうし、やはりそうした願望を抱いてなお、それを実行に移すことでもたらされるメリットとデメリットを勘定に載せ、実行しないで得られるメリットを優先している者が現代社会には多いだけのことだと解釈している。閑話休題。自信があったり、自己肯定感を持っていたり、或いは大勢から認められるといったことを価値の絶対的指標にしている価値観からこそ距離を置いていたい。自信や自己肯定感は、得られるメリットに対してデメリットが多すぎると感じている。もちろんこれは個人的な主観の価値判断でしかないので、この考えを一般化するつもりはない。私にとってのデメリットが、万人にとってもデメリットであるわけではないし、私にとってのデメリットが、あなたにとってのメリットになることもある。ケースバイケースである。各々、じぶんにとって好ましい環境を築いていきましょう。(極端な思考に思えますね。社会に依存して生きている以上は、ある程度、個人のメリットとデメリットは傾向として広く他者と共通していくように思います。上記のようないくひしさんの妄言を、くれぐれも真に受けないように注意してください)


3039:【2021/06/26*解離性人格】
信じる信じないにかぎらず、否応なくつきまとい、分かちがたいものこそ、じぶんという自我なのかもしれませんね。(引き離そうとするくらいがちょうどよい気がします)(そのためには、引き離すためのべつの自我がいりそうですね)(引き離してなお壊れない強靭さや柔軟さもあるとよさそうです。可塑性が高い、復元性がある、と言い換えてもよいかもしれません)


3040:【2021/06/27*らっきー】
インターネットからの情報がなければいまよりももっとたくさん間違った情報を間違っていると知らずに思考の判断材料に使ってしまうだろうし、本がなければ間違った考え方を間違っているかもしれないと疑うことすらなくすんなり身に着けてしまいそうだ。そしておそらくは、未来において社会にあって当然のツールをいま現在のじぶんが使っていないからこそ引き起こされている過失や錯誤や瑕疵があるはずだ。自覚できていないだけで【私】という存在はつねに未熟であり、間違えており、すこしでも正しいものを、と思いながら手にしたそれを以って、さらに見逃しがたい失態を犯しているのだろう。それでもいますぐに困らない環境にいるというだけのことで。なんて幸運なのだろう。(定かではなくとも定まることはある)



※日々、未熟に磨きをかける、ピカピカにするはずが、擦ったさきからぼろぼろになる。


3041:【2021/06/27*あぴゃー】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久りぶりでござるか? お久しぶりでござるよ。いくひしさんはたくさんお休みするでござるから、どうしてもお久りぶりになってしまうんでござるよ。サボり魔でござる。サボテンの魔王ではないでござるよ。サボタージュりんりんらんらんやったー居眠り大魔王でござる。大魔王だったでござる。うそでござる。いくひしさんはしょっちゅううそをつくでござる。うそをつきたくてつくこともあれば、うそをつきたくないのにうそになってしまうこともあるでござる。あんぽんたんなんでござるよ。え、あんぽんたんなんでござるか? そうなんでござる。あんぽんたんなんでござるよ。うふふ。あんぽんたんってひびきはかわいいでござる。いくひしさんはきょうから、それいけあんぽんたんでござる。いやいやいくひしさん、あなたずっとまえからあんぽんたんでしたでしょ、とツッコミがはいってしまいそうでござるな。ツッコミをいれてくれるおともだちがいるでござるか? いるでござる。これを読んでくれてるあなたがツッコムでござる。なのでツッコムでござる。あなたずっとまえからあんぽんたんでしたでしょ。そうでしたでござる。いくひしさんはあんぽんたんでござるから、ほら、これをお食べ、とあすのいくひしさんにきょうの分のおやつをおすそ分けして、そのまま忘れて、一週間後のいくひしさんに、おやおや、と思わせるでござる。ここに置いてあるカビさんのわんさかモサモサしている青いタワシはなんでござるか? おやつでござる。タワシじゃないでござる。カビさんがわんさかモサモサ生えているだけで、それは一週間前のいくひしさんがおゆずりした、おいしーおやつでござるよ。そうでござるか。それはどうもありがとうございますでござる。でも食べたらぽんぽんこわしちゃいそうなので、捨てるでござるね。なんでー。いくひしさんのせっかくのしんせつさんを、なんでー。いくひしさんはあんぽんたんのサボり魔でござるから、こうしてくっだらなーいひとり遊びをいつでもどこでもできるでござる。えらいの、えらいの、ぽんぽこりんでござる。ぽんぽこりんなんでござるか? ぽんぽこりんでござる。だって見てこのおにゃきゃ。まっことみごとなぽんぽこりんでござろう? あ、いまとってもおもちろいうそを思いついてしまったでござる。うぷぷ。みなのもの、心して聞くがよいでござる。ぽんぽこりんのぽんは、なんと、あんぽんたんのぽんなんだったでござるよ。えー!? と、おどろいちゃったそこのいくひしさん。なーんちゃって、うそでござる。安心するでござるよ。ぽんぽこりんのぽんは、あんぽんたんのぽんではなくて、ぽんぽこりんのぽんでござる。こんなのに騙されるなんて、ひょっとしていくひしさん、ぽんぽこりんなのでは? あひゃー。そうなんでござる。いくひしさんはぽんぽこりんなんでござるよ。頭から背中からお尻から、ぽんぽことトゲトゲを生やして、みなのものをきょうふのどん底に突き落とす、だからそれはサボテンの魔王では? あひゃー。サボり魔でもあったでござる。忘れていたでござる。でもでも、サボテンの魔王を略しても、サボり魔にはならないでござる。「り」はどこからやってきたでござるか? やっぱりここでもあんぽんたんでござる。そうなんでござる。いくひしさんは、ぽんぽこりんのあんぽんたんでーす、なんでござるよ。あぴゃー。


3042:【2021/06/27*膨張の比率は均等?】
宇宙は膨張していると考えられている。まったく理解できていないので疑問がたくさん湧く。たとえば、宇宙膨張の原理が、重力の差(質量密度の差)で時空が伸び縮みする原理と同じだとすれば光の波長が膨張によって伸びる現象(赤方偏移)は起きないのではないか、なぜなら光速度不変の原理と矛盾するから、といった具合だ(宇宙膨張は距離が伸びているのではなく、時空が伸びているのだから、たとえ銀河が遠ざかったところでその分の時間の遅延――波長の伸び――は相殺されているのでは? 宇宙膨張がどの地点から観測しても均等に膨張しているのなら、どの地点から見たところでその差を観測することはできないと考えたほうが自然な気がする。いわば宇宙膨張はアニメのコマ送りだ。アニメのコマとコマの間隔が開いていくが、距離が開いた分、時間の流れもまた速まるので(なぜなら一般相対性理論により、質量密度が下がれば時間の流れは速まるから)、アニメを観賞している者からすれば、膨張していようがしていなかろうが、アニメを問題なく観賞できるはずでは?)(ただし宇宙膨張の原理が、相対性理論とは関係のないべつの原理で起きているのなら、この疑問はそもそも成立しないので、無視できる。ただしその場合、空間と時間を切り離して扱かわなくてはつじつまが合わない。インターネット上にも、宇宙膨張は空間だけが伸びている、といった記述を見かけるが、原理的に時空を、時間と空間に分離してべつべつに変動可能な成分として扱うことはできないはずではないのか。もし真実に空間だけが膨張しているのだとすれば、一秒間で光の進む距離が伸びるので――それでいてこの場合、時空が分離されてしまっているがゆえに相関して空間が伸び縮みするわけではないので――、光速度不変の原理が破れることになる。矛盾していないだろうか)。ほかにも疑問はある。時空が膨張するとして、同時にそこには銀河団などの物質が大量に内包されている。時空の膨張に伴い物質も膨張するのならけっきょく何も変わらないのでは、といった具合だ(物質も時空の一部のはずだ)。よく比喩として宇宙膨張を風船に譬えられるが、もし宇宙膨張を風船で譬えるとするのなら、風船が膨らむのと並行して風船を構成している原子もまた膨張していくと考えたほうが妥当なのではないか。ドラえもんの秘密道具、ビッグライトで拡大しているようなもので、原子の総数は増えないし、ゆえに風船の表面上に存在する二次元生命体もまた同時に膨張しているので、宇宙膨張そのものを知覚することはできないはずだ。だが現在一般に説明される宇宙膨張では、おおむね風船を膨らませても原子はそのままの大きさを保っているように記述される。密度の高い時空(物質)だけがそのままの形態を維持し、密度の低い時空だけが膨張すると考えるのは都合がよすぎないだろうか(密度の高い時空ほど膨張の影響を受けづらいので、密度の薄い時空の膨張が際立って観測される、という考え方ならばまだ理屈が通って感じられる。たとえばそれは風船の結び目は、いくら風船を膨らませても膨張の影響を受けないのと似たようなことなのかもしれない。仮にそうであったとしても、結び目や原子がそのままの大きさを維持するのならば――膨張の影響をいっさい受けないのであれば――いずれ風船が割れてしまうように、宇宙も割れてしまうだろう。質量の密度の揺らぎゆえに膨張力の加わり方に偏りが表れるとしても、宇宙全体が均等に膨張しようとするからこそ宇宙は構造を保っていられるのでは?)。まだ疑問はある。現在、宇宙は加速度的に膨張していると考えられており、それゆえに「宇宙膨張を引き留める力(宇宙の全質量=重力)」を相殺するエネルギィがあると考えられている。いわゆるダークエネルギィだ。宇宙膨張を引き留める力というのは宇宙に内包される質量のことだとすれば、宇宙が膨張しはじめた瞬間から、どんどん質量密度は希薄になっていくはずだ(仮に風船が、それを構成する原子ごと膨張するにしろしないにしろ、その総質量は変化しない。ものすごく薄っぺらい造りになるが、そもそもすべてが同時に希薄になっていくので――密度の揺らぎごとに膨張率に偏りが表れるにしろ――すべての強い弱いの関係が比率をそのままに変化していく。たとえば人間の身体がスポンジみたいになったとしても、同時に世界の重力が何倍も低くなり、金属や暴風といった事象が総じて、紙やそよ風のようなスポンジに比例した脆弱な事象に入れ替われば問題なく暮らしていける。ゆえに宇宙全体の質量が宇宙膨張に伴い希薄になっていったとしても、宇宙の構造を維持するチカラそのものが比率をそのままに減少していくのであれば、宇宙の物理法則は維持される)。とすれば、宇宙開闢時にあったとされるインフレーションの、宇宙を膨張させようとする力は、時間経過にしたがい抵抗を失っていくので、延々と加速していくと考えられる。たとえばそれは空気が抜けていく無重力空間においての加速度運動のようなものだ。空気が抜けて希薄になればなるほど、真空にちかづけばちかづくほど、物体は空気抵抗を受けずにまえに進みつづけられる。宇宙膨張にも似たことが言えるのではないか、との疑問が湧く(ただし、インフレーション時に生じた膨張エネルギィそのものもまた宇宙膨張にしたがって希薄になっていくはずなので、加速度運動ではなく、等速運動と考えたほうが妥当かもしれない。ある一定以上に宇宙の密度が希薄になれば抵抗が限りなくゼロになるので、延々と膨張しつづけていられる。ただし、この場合、加速膨張はしないことになる。これならば矛盾はしないが、現在の宇宙は加速膨張している、との解釈と違ってきてしまう)。いずれにせよ、知識と基礎学力が足りなさすぎて、まったく理解できない。(間違ってばかりですし、わからないことばかりです)


3043:【2021/06/28*自己矛盾】
人格攻撃はいけない、と言いながら相手の人格を理由に話を聞かないひともいる(攻撃されたらもう話もできない、という理屈が通るのなら、世の中から戦争なんて絶対になくならないではないですか)。(攻撃してくるひとたちを相手にしても、それでも話ならば聞きましょう、という姿勢を保ててこそ平和は築かれるものではないでしょうか)(きれいごとかもしれませんが、権力を持ったひとたちにこそ、そういう姿勢を維持してほしいです)(そういう姿勢を保てることが、つよさの一つのかたちではないでしょうか)(或いは、理性の)


3044:【2021/06/28*いっぱい遊んじゃう】
さいきん本当に、本当に、創作をサボりすぎていて、こんな駄文ばかりを並べてしまう。よわっちゃうな。どうしよ。(中途半端にサボるから焦りが湧くねんで)(本気で休んだらいいよ)(飽きるまで遊んじゃえばいいじゃん)(創作も遊びのうちなんですけど)(だったら創作したくなるまでほかのことで遊んじゃえばいい)(うーん。じゃあ、そうしちゃおっかな)


3045:【2021/06/28*鎧】
創作できなくて焦る、という感覚っていったいどこから湧くのかな、といつも気になる。いったい何に焦っているのだろう。べつに一生に一作しかつくれなくてもいいはずだし、極論、創作しなくたっていいはずだ。何なのだろうこの義務感というか使命感みたいなものは。もっと楽に構えていたい。自然体でいたい。ただつくりたくてつくりたい。つくりたいことがないならつくらなければいいと思う。ほかにしたいことがあるならそっちを優先したほうがよいと思う。楽しいことにすなおになろう。好きなことの幅を広げていこう。深く掘り下げていこう。たくさんの好きを結びつけて、新しいじぶんだけの楽しいを築いていこう。


3046:【2021/06/28*狭量と許容】
模倣は創造の種だ。模倣を禁じた分野は必ずと言っていいほど衰退する。荒廃する。公共の利益を考慮すればするほど模倣を禁じる意味合いが霞んでいく。模倣を禁じるのは単にじぶんの利益を確保したいからだろう。模倣をするにしてもルールをまずは守れ、というのは一見すると理に適って見えるが、それもけっきょく先行者利益を保ちたいだけではないのか、と穿った見方をしてしまう。創作者ならば他人に真似されても困らないくらいに強靭で深く豊かな創作をすればいいし、模倣されし尽くされないほどに多くの創作物を残せばいい。模倣を禁じるのは、そうしなければ創作者として活躍できないからだ。じぶんの利益を確保しないと暮らしていけない仕組みがあるだけである。創作が自由にできる土壌こそを、まずはじぶんにとって最も大きな利益と認めたい。同時に、そうした場を広く共有しようとする姿勢を示すことこそが、公共の利益に繋がるのではないか、と期待したいところだ。模倣を禁じることの意味をみな、もうすこし真剣に考えてほしい(模倣が善だと言いたいわけではない。環境によっては模倣を制限しなければならないこともでてくることは当然、承知している。そのうえで、やはりもうすこし寛容になってもよろしいのでは、との考えです)。先達の創作者にこそ模倣の是非を、ともすればその意味を、突き詰めて考える姿勢を問いたい。(厳密には創作であろうと生物であろうと、真の意味でのオリジナルは存在しない。強いて言うなら宇宙の種と、宇宙誕生後に連綿と働きつづける物理法則が、真の意味でのオリジナルと言える)


3047:【2021/06/28*優先順位を誤らないでほしい】
看過してはいけない問題の順番としては、「異論の封殺」>「異論の無視」>「誤った情報の拡散」>「誤った情報の発信」の順なのではないか、と思うのだけれど、違うのだろうか。いかに間違った情報とて、それを封殺したり、無視するのは違うような気がする(むろん、公共の福祉を鑑みて、応急処置的に情報発信を制限したり、規制したりすることはあるだろうし、社会秩序を維持するうえでは有効だ。だがその選択が、あくまで応急処置である点を忘れないほうが好ましいのでは、と感じる)。正論というのは、どんな悪人が口にしようとも正論だから正論なのだ。逆もまた然りである。どんなに善人でも間違ったことを言ったらそれは間違っているのだ。情報や理論の正しさを判断するのは手間も時間もかかる。(まずは相手の主張に耳を傾ける余裕を築けるとよいですね)(誰がわるいでもなく、余裕のない社会なのがよろしくない)(かなしい)


3048:【2021/06/28*聞きかじり虫】
科学技術を社会に導入する場合には、リスク科学と予防原則の二つの視点から技術を評価する姿勢が求められる。リスク科学というのは、名前のとおり、その技術を導入することでどのようなリスクが生じ得るかを考える学問のことだ。予防原則とは、導入される技術から予想されるリスクをあらかじめ考慮し、因果関係が不明だとしても仮に起こった場合に看過できない重大な案件の発生が予想される技術においては、ひとまず導入を見送りましょう、と判断する理念のことだ。基本的に、科学において、「わからない」という状態は大別して二種類ある。一つは、原理や構造が分からなくて、どのような事象が起こり得るのか予想できない場合だ。もう一つは、発生確率が五割以下といった事象に対して、起こり得るのか否かを厳密に判断できない、といった場合だ。まったく解らないケースか、断言できないケースと言い変えてもよい。後者の場合は、いくつかの可能性が重ね合わせの状態で複数存在していることもあるので、余計に判断がむつかしくなる傾向にある。科学の考え方として、再現性があるか否か、がある。これは言い換えれば、確率で判断しましょう、という姿勢だ。どれくらいの確率で、ふたたび起こり得るのか。同じような事象が再現され得るのか。降水確率40パーセントと言ったときには、同じような気候条件であれば、100回中40回は雨が降るでしょう、という意味だ。たとえば何か新しい技術を導入するときに、99,99999パーセントの確率で、ある問題を解決できたとする。しかし残りの0,00001パーセントの確率で事故が発生し得る、とする。こうした場合、リスク科学的な視点では、これを安全と判断する。滅多なことでは事故が発生しないと評価されるからだ。しかし、もしその技術を、短期間に10億回使用した場合は、0,00001パーセントしか発生し得ない事故が、100回は起こり得ることになる(単純に確率で判断するならば、もっとすくないが――たとえば50パーセントで起こりうる事象は、二回試行したところで、100パーセント起きるわけではない。コインを二回投げても、どちらも裏のつづくことがあるのと同じ理屈だ。現実問題としてはさらに、試行回数が増えればミスも増えるので、単純に確率だけでは判断できない)。そしてその引き起こり得る100回の事故が、単なる事故ではなく広く人命を左右するような致命的な事故であった場合、これを予防原則に照らし合わせて考えるならば、その技術は安全とは言えないので、使用制限を儲けましょう、といった判断がなされる。確率というのは、試行回数と環境によって変動するので、いちがいに数値だけを見ては、その安全の多寡を判断できない。試行回数と環境は、時間経過にしたがっても変動していくので、やはり楽観はできないのである。たとえばむかし、精神疾患の治療で、ロボトミーと呼ばれる技術が導入された。脳の一部を切断することで、精神疾患の症状を緩和できた。短期的には効果があったように観測されたが、中期的には、人体(主として人格)に著しい悪影響が広く観測されるようになった。いまではもう使われていない技術だ。短期的な視野での効果は高確率で再現されたとしても、それが直結して長期的な効果に結びつくわけではない。人間や社会というものは単純ではない。それを、生態系は、と言い換えてもよい。話は変わるが、たとえば現在は大絶滅時代に突入している、と考えられている。生態系には復元力があるので、一種の生物が絶滅したとしても、それをほかの生物種がカバーして、生態系が維持される性質が備わっているが、広範囲にわたって絶滅したり、或いは同時に何種類もの生物が絶滅すると、ドミノ倒し的に悪循環が連鎖して、あっという間に大量絶滅が引き起こり得る。現在の絶滅の主要因は、人類の営みの起こす様々な環境変動である(ゴミ問題から温暖化、オゾン層の破壊や、海洋・土壌・大気汚染、森林伐採や生物種の乱獲など、人類が文明を発展させていく過程でさまざまな環境変動が進められてきた)。あと百年以内にはこうした要因により、絶滅の負のスパイラルが生じ、大量絶滅が加速するだろう、と予測できる(小学生でもすこし考えればわかることだ)。短期的な利益の追求が、長期的には深刻な問題に繋がる、といったことは、経済学で言うところの合成の誤謬として知られているのではないか。環境は一定でない。何事も断言できないのだ。それゆえに多様性の揺らぎがあることが求められる。どんなに正しいと思えるようなことであっても、それを一律に大勢へと強要しないほうが好ましい(強要していないつもりでも、同調圧力が築かれれば似たようなチカラが他者に働く)。異論を封殺しないようにしたほうが私にとっては好ましい。飽くまであらゆる視点から編まれる理屈の検証による議論を行えるとよろしいのではないだろうか。(定かではない)(上記、聞きかじりの情報をもとに、それっぽく編んだだけの文章です。真に受けないように注意してください)(留意してほしいのは、99%の確率で成功する技術があった場合、必ずしも残りの1%が事故に繋がるとは限らない点だ。事故の起こる確率は、その一万分の一かもしれないし、一億分の一かもしれない。成功しない=事故ではない。そこは勘違いしないでください)


3049:【2021/06/28*正義とは、掲げたら崩れ去るもの】
※以下、印象です。いち個人の所感にすぎません(根拠はありませんので、お読みの際はお気を付けください)――。薬害の無過失責任というものがある。もしも薬剤によって重篤な副作用が観測されたときには、製薬会社や医療機関は、被害者に慰謝料を支払う。薬害の無過失責任の仕組みは、そのための基金のようなものだ。医療行為はその性質上、どうあっても不測の事態がつきまとう(これは医療ミスとは性質上、異なる事象だ。どんなに対策をとっても原理的に避けられない事象がある。偶然を避けられないのと似たレベルの話でもあるし、どんなものにも例外が存在し得る、というレベルの話でもある)。製薬会社や医療機関はみなでお金を出しあって、医療行為によってどうしても払拭できないそうした不測の被害を受けた者たちを救済するための制度を築いている(国によっては行政がそうした仕組みを備えていることもある。が、薬害の無過失責任として認められるケースはめったにない)。ところで、医療というものは、医療技術の原理をしっかり理解したうえで築かれているものではない。どうしてそうなるのか、を仔細に理解せずとも、統計的に病や症状を緩和できればそれでよいのだ(こういう言い方をしてしまうと誤解が生じそうだが、いわば医師はスマホやPCを上手に使えるハッカーであり、スマホやPCの原理を理解しているわけではない。用途を知悉しているだけだ。ゆえに医師は医療機器や薬剤をつくれない。例外的につくれる医師もいるだろうがごく少数だろう。薬剤師にしたところで、調合はできるが、なぜそれが病気に効くのか、構造を深く知っているわけではない。むろん、専門家ではあるため、一般人よりは構造や原理を知っているが、それを「理解している」と言ってしまうのは理解というものを軽んじているように個人的には感じる)。目のまえの患者たちを救うためには、「厳密な構造の解析」や「絶対的な安全性の確立」を待ってはいられない。医療関係者の多くは、目のまえで苦しんでいる人たちを救うことを目的に活動している。たとえば治療を施さなければ死んでしまうような患者が百人いたとして、そうした患者を一人でも救えるのなら、1パーセントでも助かる見込みの高い技術を採用するのだ。この「助かる見込み」をどれだけ高められるか。医療は基本的にこの原則にしたがって、技術の現場導入を決めている(助かる、の意味にもいくつか種類があるので、それによって医療の示す内訳は広がりを増す。だからこそ痛みだけを緩和する治療や、精神を落ち着かせる療法、或いはまったく効果のない気休めの医療行為もでてくる)。医療はつねに目のまえの患者を救うことを求めながら、それゆえに大多数の最大幸福を求めているとも言える。そのため、結果として目のまえの患者を死なせてしまったり、深刻な後遺症を与えてしまったりすることもある。仕方がないとはいえ、だからといってそれらをなかったことにはできない。社会的責任をとらなければならない。医療ミスでなくとも、そうした事案は生じ得る。医療技術はどんなものであれ絶対に安全ではないためだ。だからといって、一億人を助けられる技術を、一人の被害者を理由に破棄するのは公益を鑑みれば合理的ではない。しかしその一人にしてみれば、大多数の利益のために犠牲になったようなものだ。やはりなかったことにしてはいけないし、その他大勢は、そうした被害者に対して社会的責任を負おうとする態度を保つほうが好ましい。そのためにも、政府や医療関係者はつねに医療を受ける側に対して説明責任を負わなければならないし、どんなリスクが考えられるのかを、短期中期長期の視点で考え抜かねばならない(短期的には最も効果があるが長期的には弊害が増す医療行為もあるだろうし、短期的にはそれほど有効ではないが、長期的には最も妥当な医療行為だってあるはずだ。それが現時点で認知されていない可能性もある。医師は患者一人一人の体調や体質を考慮して、こうした判断をつねに行っているはずだ。メリットとデメリットの割合の話とも言える)。短期的な効率を求めることだけが医療ではない。個人の幸福の追求を保障しつつ、最大多数の最大幸福を求めることは矛盾しない。というよりも、それ以外に医療の目指す理念はないと言える。それゆえに、最も効果が高いと統計的に判断された医療技術を社会に普及させようと行動することと、これら社会的責任は同時に満たされ得る。公益とは、現在だけの視点で考えるものではない。どんな問題をまえにしても視野を広く保ちたいものである(どんなに気を払っていてもこれが格段にむつかしいのだが)。(知ったかぶりの文章ですので、くれぐれも真に受けないでください)


3050:【2021/06/28*どしたん】
なんかきょうはいっぱい日誌を並べてしまった。とくに意味はないです。こうした思考の濁りのようなものを出力しておかないと、物語の舞台に潜っていけないのです。(ただ、こうした思考の濁りのようなものを出力しておくと、その痕跡にモヤのようなものが溜まっていき、そこに閃きが浮かびます。スクリーンに投射された映画みたいなものですね)



※日々、バックアップをとり忘れる。

(2021/07/02*記事3051~3055を間違って消してしまいました。カクヨムさんの近況ノートとpixivFANBOXさんほうに掲載していたのですが、間違って両方ともきょうの分の記事3056を丸ごと上書きしてしまって消えてしまいました。消えた記事のうち二つはショートショートで、すでにバックアップをとってあったので無事でしたが、消えた残りの二つを記憶を頼りに復元しますので、その旨、ご了承ください)(以前はバックアップをとっていたのですが、今年の六月に日誌を再開してからとる習慣をサボっておりました)(バックアップをとるようにすることに加えて、コピーしたデータが履歴に残るクリップボードを活用したいと思います)


3051:【2021/06/29*助走のエキスパート】
怠け道を極めすぎたからか、さいきんになって気づいたのが、本気をだすというのも、本気をだす練習を日々していないとできなくなるぞということで、いくひしさんはもう本気をだせなくなってしまった。(助走だけでも体力や技術がいるので、衰えてしまうと助走だけであっぷあっぷとなって、最高速度や最大出力に達せなくなるのかもしれない)(助走だけなら本気、とも言える)(助走のエキスパート、助走の天才と呼んでいただきたい)(そのうち助走すらできなくなりそうだね)(そしたら歩けばいいさ。ゆっくり歩きながら、道端の草花に目を留め、ときに歩を止めて、そこに立つからこそ望める風景を味わおう)


3052:【2021/06/29*食欲がなくて】
橋本さんの家で晩御飯を御馳走してもらうことになった。橋本さんはバイト先で仲良くなった三十代の男性で、世界中を旅してまわった経験などを楽しく聞かせてもらったりして、同性ながらにほんわかとした憧れと親しみやすさを覚えていた。話が弾んだ流れで、そのまま橋本さんの家に寄ることになった。そこで橋本さんは、お得意の料理だというパスタを作ってくれた。イカスミが練ってあるパスタで全体的に黒い。「お代わりいっぱいあるから遠慮なく言ってね。美味しくなかったら残していいから」「いえ、美味しそうです」運ばれてきたパスタからは湯気が立ち昇り、香りもよく、口内にしぜんと唾液が滲みでた。橋本さんの分はこれから茹でるようだ。冷めないうちにさき食べてていいよ、という言葉に甘えて、さきにパスタをフォークで巻き取り、口に運んだ。味はよかった。だが、二回、三回、と咀嚼するうちに、異物感を覚えた。噛み切れない麺がある。いや、麺ではない。この感触には馴染みがあった。ちいさいころ姉といっしょに昼寝をしていたのだが、そのときよく姉の髪の毛が口の中に入って、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054929635664)


3053:【2021/06/30*アホウの王】
これはあくまで僕が体験したことではなくほかのいくひしさんから聞いた話になるのですが、みなさんはご存じでしょうか、親知らずは口の奥ばったところに生えていて、どれほど毎日歯磨きをしていても虫歯になりやすいんですね。で、ほかのいくひしさんも例に漏れず虫歯になってしまったらしく穴がぽっかり開いたらしいんです。というよりも半分ほど溶けてなくなってしまったくらいのひどい虫歯だったらしくて、とっくに歯の根っこは半分ほど死んでしまっていて、ずっと痛みはなかったらしいのですが、さいきんもう半分の根っこのほうにまで虫歯が浸食してきたようで、それはもう痛くて夜も眠れなかったほどだったそうです。じっとしていることもできずに、指を順々に切断されたほうがマシだと思うほどの痛みで、しまいには歯だけでなく頭痛までひどくなり、顔の半分がなくなったかと錯誤したほどの激痛が襲ったんだそうです。僕なぞははやく歯医者さんに行ったらよいのではないか、と思うので、そのように進言しましたところ、そのいくひしさんいわく、負けたようで気に食わねぇ、だそうです。「痛みに屈して歯医者の世話んなるなんざ人間のすることじゃねぇ。この程度の痛みに屈してられっかよ。痛みってぇのは、屈服させ、押さえつけ、支配するもんだ。それができねぇで歯医者になんか行けるかってんだ」僕はそれを聞いて感心しました。どうしたらそのようにかっこうをつけながらドアホウなことを言えるのだろうかと。根がアホウなのです。歯の根っこは死んでも、アホウの根っこは健在です。ああだこうだ、としゃべっているあいだにも激痛は襲っていたようで、そのいくひしさんはその場にしゃがみこんだかと思ったら、呼吸を浅くして、額に汗の玉を浮かべながら、すこしの振動も生まぬようにと石像の真似ごとをはじめました。声をかけてもよいものか分からず、そのまま見守っていると、こんどはすくと立ちあがり、「痛みの波が弱まったんで帰けるわ」と言い残し去っていきました。呼びだしておいて、一方的にしゃべり倒して、僕のことは置き去りです。歯の根っこだけでなく性根まで腐っているのです。数日後に、顔を合わせる機会があったので、歯の調子はどうですか、と訊ねましたところ、「人間の味わえる最高の快楽って何か知ってっか」とまたぞろ意味蒙昧に反問されたので、「いいえ、知りません」と軽く流してしまったのかよくなかったのか、この世の真理を教えてしんぜよう、とでも言いたげに迫られ、無理くりその場に座らせられました。「あの、ここ車道なんですけど」「最高の快楽ってのはな。人間の味わえる最高の苦痛を味わったのちに訪れる苦痛からの解放だ」「あの」「だからわかっちまうよな。どんな死であっても最後は究極の快楽を味わえんだから、死ぬってのは気持ちいんだ」「車が」「死んじまうほどの快楽をもたらすくらいの苦痛だってだけで、そこで死ななけりゃ、すぅと途切れて極楽の快楽を味わえる。苦痛からの解放って快楽をな。苦痛はいいぞぉ。なんてったって極限の快楽の種なんだからよ」「あの、車に轢かれちゃいそうなんですけど」「おっと、わりぃわりぃ」ひょい、と歩道に引っ張りあげられた。釣られた魚の気持ちが分かるようだ。車が背後を猛スピードで通り過ぎる。「どうよ、危機一髪の緊張感から脱した気分は。な、最高だろ」なるほど、と僕はずばり見抜き、「さては歯の痛みが引いてご機嫌ですね」これでやっと歯医者さんに行けますね、と迂遠に治療を勧めましたところ、「はぁ? なぁんで痛くもねぇのに他人さまに口んなかイジイジされなきゃなんねぇんだ」と欠伸をされてしまい、閉口するよりありませんでした。ちょうどバスが来たので、蹴飛ばしてみようかと思ったけれども、思い留まりました。僕の性根はまだ腐っていないのです。虫歯もありません。歯磨きと歯医者さんが大好きなのです。みなさんはぜひともあのようなアホウの王を見習うことなく、歯が痛くなる前に定期的に歯医者さんに通ってください。本日の「いくひ誌。」を担当しましたイクビシマンでした。


3054:【2021/07/01*分け合ってほしいです】
感染拡大地域である都心に優先してワクチンを配るという理屈が通るのであれば、感染の拡大しつつある国々にも優先的にワクチンを配るのが道理ではないでしょうか。こたびの疫病は、一か国だけで対策を練っても効果は薄いとすでに判明しているはずです。一部の国だけが予防を徹底したところで、ほかの国で感染が拡大すれば、ウィルスが変異し、新しい形質を獲得して、悪影響を増すだけではないのでしょうか。油断をすれば、指の合間からすり抜けて、各地でふたたび悪果を振りまく可能性が高いように思います。予想外の事態に見舞われないためにも、世界的な視野を維持して対策を練ることが欠かせません。そのため、短期間での総力戦を仕掛けるのは悪手に思えます。もちろん短期集中の戦略が功を奏することはあるとは思いますが、いまのところイチかバチかの賭けに打ってでているように見えてしまいます。ワクチンの供給量が需要をまかなえるのならばいまのままの方針でも構わないとは思うのですが、いささか楽観的すぎるように思えます。逐次対応は欠かせませんが、同時に最悪の事態を想定して、回り道だとしても外側から悪因を潰していく戦略を選択していかないことには同じ轍を踏みつづけることになり兼ねません。長期戦を覚悟してでもまずは、抑えるべき地域から順に抑えていく戦略が求められているのではないでしょうか。いたちごっこに陥いらないためにも、余裕のある国はワクチンの接種率が八割に満たずともまずはよしとし、余裕のない国や地域を優先してワクチンを配るほうが合理的な判断に思えますが、いかがでしょう。接種を広く人口に普及させるにはワクチンだけではなく、仕組みがいるはずです。やはり余裕のない国や地域にこそ支援や援助がいるのではないでしょうか。ワクチンは万能ではありません。以前のような生活に戻ろうと焦るがあまり、視野が狭くなって感じられます。自国さえよければそれでいい、という時期はとうに過ぎたはずです。ほかの予防策を崩さないようにしながら、いま何が本当に必要とされているのかを、いまいちど洗い直す時期なのではないでしょうか(以前のような環境に戻るということは、以前と同じ悪因を放置することのように私には思えます)(定かではありません)。(もやもやした妄想を並べただけですので、真に受けないでください)


3055【2021/07/01*散歩日和】
無職になって半年が経った。家に引きこもりっぱなしの生活がつづいていたが、日に日に手足が細くなっていくのに怖気づいて、散歩を日課に取り入れた。近所をぐるっと回るだけだ。三十分もかからない。日中はソファに寝そべりながら映画を梯子する生活だったので、日差しを浴びる日々はそれなりに細胞が活性化するのを感じ、メリハリがついた心地がした。散歩は雨の日もつづけた。一度でも休んでしまうと途絶えると経験上知っていたからだ。お馴染みの散歩コースにも飽きてきたころ、新しく通った道で、子ども連れの女性を見かけた。親子だろう。女性は子どもと手を繋いではいるが、もういっぽうの手でメディア端末を操作し、子どもを見ていない。なんとなしに目が行ったのは、子どもが車道側を歩いていたからだ。危なくないかな、と不安になった。道幅はぎりぎり二台の車がすれ違えるか否かといった狭さだ。子どもの有無に関係なく、女性のほうはまえを向いておらず、不注意で危険に思えた。とはいえ、声をかけてまで解消したい不安ではなかった。なんとなく、女性と子どもの関係が、母子のそれではないにように見え、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054934291495)


3056:【2021/07/02*じつはそうなんです】
いくひしさんは2008年まではほとんど本を読まない生活を送っていたので、もちろん文豪だとか大御所作家だとか、いわゆる名作というものに触れてこなかった。古典と呼ばれる本は、未だにほとんど触れる機会を持てていない。だもので、もちろん星新一の作品群にも触れぬままでいる。有名どころの作品は、SNSでそれとなく概要が流れてくるので、こういう話があるのか、といった程度の認識は持っている。ただ、星新一の本を購入して読んだことはない。書店さんの新刊コーナーを覗くのが趣味なので、復刻版があれば気になって手にとることもあり、そのときにぱらぱらとめくったりはするけれども、一作を通しで読んだことはない。文体が好みではないのかもしれない。どちらかというと神視点よりも一人称のほうが好みなので、仮に三人称であったとしても、一視点であってほしい。これは完全なる好みの話だ。日本で一番の多作って誰だろう、と気になって、パチポチと検索するのだけれど、海外に四千作をつくった作家さんとかがいてびっくりする。日本だとやっぱり星新一なのかな、と思ったけれど、そのお弟子さんで江坂遊という作家さんが2020年時点で1500作をつくっているらしく、そちらの方のほうが作品数で言えば上だ。ただ、ほとんどがショートショートらしいので、それだったら百文字小説で北野勇作という作家さんが2021年7月現在で3204作をつくっているので、多作という意味ではこちらの方のほうが現在日本一なのではないか、と思っている(どちらの御仁も現役で活動していらっしゃるようですから、まだまだ作品数は増えていきそうです)。いっぽう、北野勇作さんの百文字小説は、それこそ百文字のショートショートなので、文字数に換算したら全部合わせても三十二万文字くらいなので、文庫本にして三冊くらいの分量となる。冊数という意味では、赤川次郎という作家さんが、2015年に580冊を超えたようなので、現時点ではこの方が刊行冊数としては最高なのではないか。よくは知らないが。ただ、作家や記事によっては、同じ作品であっても単行本と文庫本を分けて扱わず累計で数えていたりするので、単純に580作の長編(や短編集および連作短編)をつくったのかは分からない。公式に単位を統一してほしいなぁ、と検索していてもどかしく思った。どうしてこんなことを検索してみたのかと言うと、毎日一作つくっていれば三十年で一万作を超えるわけで、プロの小説家のなかにはそれくらいこなしている人がいるのかも、と気になったからだ。でもいないらしい(アマチュアのなかにはいるかもしれない。まだ見つかっていないだけで)。三年でも千作は超えるのだ。毎日でなくともいいので、本業の片手間にでも息抜きにショートショートをつくる習慣をつくるとよいのではないかな、と思った。以上、できもしないことを高望みするのが得意な本日のいくひしまんでした。(多作であることにさしたる意味はない。たった一作でもよいから内なる世界を理想どおりに編みだせたら御の字である)(駄作であろうとつくっているあいだに凝縮した時間を過ごせたならば重畳だ)


3057:【2021/07/02*人間は猫よりも忌なり】
担当編集者から返ってきた原稿をさっそく検めると、「この描写、ネコでなきゃダメですか」と赤字が入っていた。昨今、動物愛護の観点から、猟奇的な描写がNGになりがちだ。とくに猫の虐待は忌避される。人間をこっぴどく扱っても看過されるのに、それが猫だとダメなのだ。何かが歪んで感じられるが、解らない感覚ではない。人間の一人や二人がいたぶられようと、それが虚構の世界ならばスカっとすらする。しかしそれが猫であるだけで呵責の念を覚えるのだ。人間は死んでも仕方がないが、猫だけは助けてあげたい。助けられないじぶんの無力さをひしひしと感じてしまう。そうした心理が湧くからこそ、敢えていたぶる描写をもうけることで、読者の感情を乱そうと試みたのだが、やはり通らなかったようだ。似た問題で編集者と揉めたのは一度や二度では済まない。締め切りがちかいため、今回は修正案通りに進めた。仕事がいち段落ついたころ、ふと実験したくなった。虚構では観測される同情の非対称性が、現実でも働くかが知りたくなったのだ。人間と猫とでは、真実に猫のほうが優遇されるのか。痛めつけた場合、人々は真実に、人間よりも猫を優先してしまうのか。まずは入ったばかりの原稿料で、人を雇った。五十代の男だ。男にウィークリーマンションを借りさせ、その足で、保健所のまえに待機させる。子猫を捨てにやってきたやからから無料で子猫を引き取らせ、借りたばかりの部屋にて子猫を受け取ったと同時に、男の首を絞めて拘束する。人間と子猫の両方を手に入れたら、あとは単純にインターネットで相互にいたぶる動画を載せ、観衆が増えるまで数時間ほど待つ。今回の実験にはあまり時間はかけられない。通報されればこの場所を警察が短時間で割りだす。実験をすみやかに行い、退散する。これまでに繰り返してきた数々の実験と同じだ。いつも通りやればいい。人間と子猫は、同じ動画内に映っている。人間を救いたければ「よくないねボタン」を、子猫を救いたければ「いいねボタン」を押すようにとの一文を、説明欄に載せる。万が一に説明欄を見ない連中が多くとも、よくないねボタンが多ければ人間は助かる。通常この手の動画は、低評価が上回る。高評価たるいいねのほうが多くなった場合はそれすなわち、過半数以上の視聴者が、人間よりも子猫を助けようとした何よりの傍証となる。実験を開始する。まずは人間と子猫の片手をそれぞれハンマーでつぶした。むろんその場面を動画に流す。視聴者が一気に増え、評価数も激増する。最初は低評価が多かった。みな一様に、よくないねボタンを押したのだ。しかしもう一方の手を潰し、足を潰し、潰した手を切断したころには、あたかもみながこの動画を絶賛しているかのごとく票数差で、高評価のいいねボタンが万単位で集まった。みな子猫を助けるのに必死なのだ。人間の男ではなく。両手を切断し、足にとりかかったところで、男がぐったりした。事切れたのだ。子猫のほうはうるさいほどに鳴きつづけている。元気なものだが、もうすぐこちらも死ぬだろう。出血多量だ。もとから両方助ける気はなかった。動画を消し、現場をそのままに部屋をあとにする。痕跡を残してはいない。変装は徹底しているし、逃走中は街中の監視カメラの死角をいくつも経由する。そのたびに着替える。部屋の名義は死んだ男のものだし、いつものように足はつかないだろう。実験は成功だったが、しかし疑問は残る。ひょっとしたら痛めつけたのが五十代の男だったからよくなかったのではないか。たしかに子猫とおじさんとではつり合いがとれていない気がした。そこはせめて、老いた猫とおじさんにしておくべきだった。或いは、子猫と子どもか、だ。いちど疑問が湧いてしまうともういけない。確かめずにはいられない。小説家のサガである。否、この性質が功を奏して、プロの小説家としてやっていけているのだ。実体験に勝る素材はない。取材はない。現実は小説よりも奇なりとは言うが、そんな現実を基にした小説ならば、結果は逆転し、小説は現実よりも奇なりを地で描けるようになる。諺すら塗り替える絵空事を編むために、あすからまたつぎの仕事までの息継ぎとして、束の間の休息を満喫するとする。


3058:【2021/07/03*力量不足】
つねにつくりかけの物語が溜まりつづけるので、ちょこちょこと進めてはいるものの、新しくつくりかけが増えると、進捗が分散するので、まるでアキレスとカメを実演しているみたいで、ぺけぺけと目が回る。頭が毎秒毎時パンク寸前で、否応なく能力不足を痛感する。つくりかけの物語を、なんとか順々に消化してはいるものの、やっぱりそのあいだに新しくつくりだしてしまうので、いかんともしがたい。長編から優先的に閉じていかないとそろそろ頭のなかからも弾きだされてしまって、またいつぞやのように、えっ!?こんなんつくった憶えないんですけど、となってしまうので気をつけなくてはいけない。たまにほかのいくひしさんに、あなたじぶんでつくった作品全部ちゃんと憶えてるの、と問われるけれど、まあまあそこそこふぬふぬ程度には憶えていられる。と思っているだけで、本当は忘れているのかもしれない。とにかく分身がほしい。サボる用のいくひしさんと、遊ぶ用のいくひしさんと、三大欲求満たし用のいくひしさんたちと、あとは仕事用と対人用のいくひしさんはいなくて済むならいないほうがよいと思う。なんもしないでも生活できる環境のほうがほしい。なんの話だ。ともかくとして、息抜きの創作をしだしたときはかなり行き詰まってきている証拠なのだ、なんとかしなきゃなぁ、とぼやいて本日のいくひしさんでした、にさせてくださいな。(駄作ですらろくにつくれないなんてよっぽど才能ないのね、としょんぼりしちゃうけど、それでもまあまあそこそこ、うふふ、へへへ、程度には楽しいので、結果よしとする)(よしや!)


3059:【2021/07/04*公衆電話】
都心に引っ越した友人が夏休みがてら地元に帰ってきたので、久々に会って話をした。都心の生活は刺激的で、時間の流れが早く、田舎とは大違いだ、といった所感を延々聞かされたあとで、それでもやっぱりこっちが落ち着くわ、との一言を引きだして、こっそり満足する。友人は、半年のあいだで姿を消した駅前の店々のことに言及し、新しく増えたチェーン店に対して、こっちに戻ってきてまで見とうなかった、とぼやいた。私は田舎の空気も、地元の飾りっ気のない風景も好きだったので、友人のそうした都心へのぼやきを聞くと、やはりこっそり何かが満たされた心地がした。ほどよく酔いが回りはじめたころ、「そう言えばこっちに公衆電話ってないよね」友人は素朴にごちた。「公衆電話って、久々に聞いたよ。もうとっくに撤去されたでしょ。都会にだってないでしょ」「あるよまだ。需要があるってことなんだろうね。災害用の予備ってことかもしれないけど」「ああ」「でもさいきんちょっと不気味な体験してさあ」思いだしたくない光景を思いだした、といった調子で友人はカラのカップに目を落とした。氷が、からんと音を立てる。「駅から家までのあいだに人通りのすくない道があってさ。高架線って言うの? 頭上に電車の通る道が橋みたいにずっと伸びてて、その下に、ぽつんと公衆電話があるのね。ベンチとかもあって、遊具はないけどちょっとした休憩スペースみたいになってて。で、終電を逃したときとか、歩いてそこを通るんだけど」「待って待って。これってこわい話じゃないよね」友人の口調から、仄暗い井戸の底を思わせる鬱屈さを感じた。「こわい話っちゃこわい話なのかもしれないけど、オバケとかそういうんじゃなくて」あくまで実体験だと言いたいようだ。きっと不審者がいて、追いかけられたとかストーカーっぽいひとに付きまとわれたとか、そういう話に違いない。私は友人の話のつづきを予測しておくことで、恐怖心をやわらげる努力をした。友人はそこで飲み物のお代わりをし、私はついでにデザートを注文した。甘いものを食べないでは聞いていられない。品物が運ばれてくるあいだに友人はざっと状況説明をした。いわく、架橋したにがらんとした休憩スペースがあり、そこに一台だけ公衆電話が経っているらしい。電話ボックスではないらしく、四角い容器で囲われてはいないそうだ。頭にフードのある台座に置かれいるという。一見すると傘のついたポストといった塩梅で、ちょうど電話を使用している人間の顔が見えないくらいの高さと深さが傘にはあるようだ。「で、それがどうしたの」もったいぶった語り口だったので、さっさと核心に迫ってほしかった。公衆電話がだからどうしたというのか。「おまちどうさまです」給仕人が嘴を挟み、我々は注文の品を受け取る。シャーベットのアイスを頼んだのは失敗したかもしれない。一口頬張っただけで寒気が全身を襲った。否、それ以前からすでに身体は悪寒に支配されていた。友人の陰鬱とした語りの影響だ。友人は一口でジョッキの中身を半分にし、それでね、と述懐する。「毎回、そこを通るときに、使ってるんだよね。誰かが」「公衆電話をって意味?」「そうそう。中にね、誰かが立ってるわけ。ちょうど背中がこっちに向く位置関係」「顔は見えないんでしょ」「見えない。でもたぶん女の人で、赤か黒の丈の長いワンピースを着てて、こう、足元まで布がカーテンみたいに垂れててね」「もうこの時点で不気味なんですけど」「オバケじゃないよ、本当に実在する人だから。でも、本当に毎回のように、そこにいるものだから、よっぽど日常的にそこで長電話をしているんだなって」「まあ、変ではあるけど、世の中にはそういうひともいるのかもね。使ってる人がいるから撤去されていないわけだろうし」「そうそう。わしもそう思ったんだけども、それにしたって深夜だよ? そこ通るときはいっつも深夜で、街灯の下で、公衆電話のまえでじっと佇んでいるひとがいるってのは、やっぱりこう、ね」「ね、って言われてもな」「でね、このあいだその日も終電逃してそこを通ったら、まあいるわけですよ案の定。すっかりお馴染みだから怖くはないんだけども、やっぱりさすがに気になるわけで、いつもは素通りするだけだったそこを、敢えて横切ってみようと近づいてみたわけ」「えー、だいじょうぶだったの」「だいじょうぶだったからこそここでこうしてあなたとおしゃべりをしているわけなのだけれども、ただね、ちょっと見れなかったんだよね」「見れなかったっては?」「もうね、近づいただけで、あっこれダメなやつだ、とピンときちゃって、早歩きで通り過ぎちゃった」「いいんじゃないの、最初からそのつもりだったんでしょ。カバーだってあるからどの道、顔は見られなかったんだろうし」「うん。でもね」「なにやめて。意味深な間を空けるの禁止」「だってそのひと、ずっとこっち向いてんの」「え?」「ずっと。そのひと、公衆電話のほうじゃなく、逆向きに、ずっとこっちのことを見てたわけ。もちろんカバーはあるから風景なんて見えないはずなのに、電話するでもなく、ずーっとこっち向いて立ってんの」「気のせいじゃないの、だって顔は見えないんでしょ」矛盾だ、と思い、ずばり指摘する。友人は、ううん、と眉根を寄せて、あたかもそうだったらよかったんだけどね、と言いたげに、だって、と言った。「靴の先っぽ、こっち向いてたんだもん」私はシャーベットアイスを残すことにし、友人はそれを見て、じゃあちょうだい、とお皿を手元に引き寄せた。友人にはこういう調子のいいところがあった。ひょっとしたら作り話をしただけなのかもしれないが、すくなくとも私の知るかぎり嘘を吐くような人間ではないはずだった。都会に行って変わったのかもしれない。田舎者の私をからかっただけなのかもしれない。が、それはそれで物哀しくもあり、公衆電話の話が嘘であろうと本当であろうと、いたずらに損をした気になった。「そうだ、泊まりにきたときに案内するからさ」友人は言ったが、私は田舎が好きなので、と白状して、丁重にお断りした。代わりと言ってはなんだが、この日の食事代は全額私が負担した。


3060:【2021/07/04*見守る者】
動画投稿サイトを巡るのが趣味だった。有名どころの動画配信者にハマったのがきっかけだったが、徐々に物足りなくなり、いまではまったく知名度のない、それでいて才能のある配信者を探すことに楽しみを見出している。その男は、まったくの無名だった。十年以上前から動画を毎日のように投稿していながら、アカウントの登録者数は一ケタ台だった。だが、さすがに長年配信しつづけているだけあって、しゃべりは安定しており、動画編集の腕もよかった。毎日、大きな世界地図の貼ってある壁を背後にして、日々思ったことや考えたことを、一人二役で寸劇のように披露したり、ときには漫才や講談、落語の体で語ったりしていた。すっかりファンになった。だが他人からの評価を気にしていない達観した配信者でもあったので、無理に宣伝をしたり、高評価をつけたり、感想を送って交流を図るのはかえって迷惑かと思い、こっそり見守る日々を送った。そのあいだに私は私で、転職をし、引っ越しを済ませた。以前から計画していたことだ。新居はアパートだ。張り替えられたばかりの畳が気持ちの良い、小奇麗な部屋だった。窓からは神木じみた立派な樹が見えた。引っ越してから気づいたが、夜な夜な、キィキィと家鳴りがする。眠れないほどの音量ではないが、気が散るのはたしかだった。ある日、数日のあいだ例の配信者の動画更新が止まった。心配になったがどうすることもできない。更新の途切れた件のチャンネルを欠かさず確認していると、ひと月後には動画が一件投稿された。配信者はずいぶんとやつれていた。なぜかいつもの壁からは地図が剥がされており、配信者は、重大な事実を明かすように、じつはこれまでの動画は予約投稿なのだ、と語った。撮り溜めた動画を自動で更新させていたらしい。最新動画と収録日時のあいだにはだいたい半年ほどのズレがあるだろう、と告げ、きょうは趣向を変えてライブ配信にします、とカメラの位置をずらした。天井からは縄が垂れていた。配信者は、この動画も自動で配信されるはずだ、すぐに消されるだろうから観れたひとはラッキーだ、といった旨を述べた直後に、縄で首をくくった。配信者は痙攣し、しばらくすると動かなくなった。配信者だったものがゆらゆらと揺れるたびに、動画からは、キィキィと不規則な音が響いた。これまでとは違った角度から撮られた動画のなかには、窓があり、そこにはどこかで見たような神木じみた立派な樹が覗いている。


※日々、安全圏から茶々を淹れる、本当は紅茶や珈琲のほうが好きなのに。


3061:【2021/07/05*ぐーちゃん】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなあ。いくひしさんは思うんでござるけれども、さいきんなんか時間が経つのがはやすぎではござらん? いっしゅうかんのうちで、まいにちたのしみなマンガさんの連載があるでござって、きょうはこれ読んじゃお、ってWEBでタダで読めちゃうとってもおもちろーいマンガさんを読んでるんでござるけれども、はぁたのちかったって読んだと思ったそれのつづきをもうきょう読めちゃうでござる。いっしゅうかんすぎるのが一瞬でござる。あびゃびゃ、これってきのう読んだんじゃないでござるか、あいだの月火水木金土さんはいったいどこに消えたでござるか? まいにちエビバディサンデーさんでござる。そのあいだにいくひしさんはいったい何をしていたでござるか? 寝てすごしていたでござる。ぐっすりぐーぐー、ぴーすかぐーちゃんでござる。きょうからいくひしさんは、ぴーすかぐーちゃんなんでござるよ。いつもでござる。それはいまにはじまったことではないでござるよ。ちゃんとしてくださいでござる。はいでござる。ちゃんとするでござるよ。ぐー。言ったそばからいねむりコクコクしちゃういくひしさんでござるからこれはもうもうあきらめるでござる。むりなんでござるよ。いくひしさんにずっと起きてろなんてそんなのは神さまにずっと阿波踊りをしてて、と命じるようなものなんでござるよ。阿波踊りはつかれるでござる。いくら神さまでもずっとは踊れないでござるよ。いくひしさんといっしょでござる。ずっとは起きていられないんでござるよ。三時間が限界でござる。ばったんきゅーでござる。仮眠にお昼寝、小休止にひとやすみでござるよ。ちょっとのつもりが寝て起きたらおひさまがいないいないバーでござる。いっしゅうかんなんてあっという間なんでござるよ。仕方ないでござる。きょう読んだおもちろーいマンガさんのつづきがすぐに読めちゃうと思えば、それもまたよしでござる。やったーでござる。はやくちゅちゅきが読みたいので、いくひしさんはおかしをおつばみしてからまた、たぷーっり寝るでござる。きょうもきょうとて万年居眠りぐっすりぐーぐー、ぴーすかぐーちゃんのいくひしまんでした、でござるー。


3062:【2021/07/05*インコの一声】
妙な声を聞いて目覚めた。声は何事かを叫んでいるが、人間の声には思えない。言葉を言葉として認識している素振りがない。その響きは、インコやオウムを彷彿とした。しばらくうつらうつらしながら、声の正体とどこから響いているのかを探っていると、やがて鳴き声は途絶えた。ベランダの外から聞こえていたようなので、やはり鳥だろう。近年、野生のインコが問題になっている、と以前に何かの記事で読んだ憶えがある。顔を洗い、居間に入ると、千葉が一足早くトーストを齧っていた。千葉は同居人だ。彼とは最初、友人の友人という関係で出会った。とくに気が合ったわけではないが、互いに他人に興味がないところなどほかの友人たちとは共有できない共通点があり、色々あってこうして一つ屋根の下で暮らすようになった。趣味嗜好が合う相手よりも、何にイラっとするのかを暗黙の了解で共有できる相手とのほうが人間関係は長続きするものだ。家賃はこちら持ちだが、気まぐれな猫を飼っているようなものと見做せば、それなりに元は取れている。かわいげのない性格だが、逆らわないという意味では従順だ。じぶんのことはじぶんでする、が同居するときに交わしたルールだったので、朝食はじぶんで用意した。ウィンナーを茹で、トーストに挟んで簡易サンドウィッチにする。千葉は在宅勤務だが、こちらは出勤せねばならない。いつもは無言でそのまま家をでるのだが、例のなぞの声のことが気になって、水を向けた。「インコだと思うだけど、今朝方に妙な声が聞こえなかったか」返事はない。見遣ると千葉はワイヤレスイヤホンを耳にしていた。かろうじて声が届いていたようで、何、とイヤホンを外したので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354055327912873)


3063:【2021/07/06*リモートワークはできない】
えぇ仕事辞めちゃったの、と友人に会うたびに驚かれるので返答に窮する。たしかに給料はよかったし職場の評判も上々で、じっさいそこで働いている人たちはみんな気のよい人たちだった。できればずっと働いていたかったけれど、リモート勤務がつづくかぎりそれはできない相談だった。リモート勤務さえなければ私が職場を辞することもなかった。あれは、リモート勤務が定着して半年くらいが経ったころだ。新しいプロジェクトが佳境に入り、先輩と二人だけで残業をする日がつづいていた。二人だけのリモートであると、聞き手と語り手が五分五分で配分されるので、いつもそのときだけは会話が弾んだ。先輩はマンション住まいで、洒落た居間の内装を背景に仕事をしていた。私は新人社員ということもあり、安いアパートの一人暮らしで、常時部屋は散らかっていた。隅っこのほうにリモート空間をつくり、かろうじて片付いた部屋を演出していた。ある日、いつものように先輩と残業をしていると、ふと動画のなかに何かが映りこんだ。先輩の映っているフレーム画面だ。最初は猫か何かかと思った。ずっと飼っていたのか、それとも新しく飼いはじめたのか。先輩は何かしらを計算中らしく、頭を掻きながらデータとにらめっこをしている。邪魔をする場面ではなかった。私はしばらく先輩の映るフレーム画面を観察した。その日はもう、どれだけ注意して見ていてもそれらしい影は見当たらなかった。見間違いかもしれない。いちどはそう思ったものの、その日以降、何かと先輩の映るフレーム画面には、何かしらの陰が、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816452218310801455)


3064:【2021/07/06*波のような粒子】
ここ数年、ほとんど確信にちかい直感として思うのは、WEB上の創作物につく評価は、低評価であればあるほどよろこんだほうがいいということだ。無料で発表している成果物において、低評価がつくことの価値を創作者はもっと理解したほうがいい。とくに、虚構の物語におかれては、真実に価値がなければ黙殺されるだけだ。評価そのものがされることはない。以前から述べているが、高評価だろうと低評価だろうと、評価されることの効能に大きな差はない。誰かしらにとってどのように見えたか、の価値判断でしかないからだ。世の中の大部分の者にとって当初、相対性理論にしろ量子力学にしろ、価値のないものだった。時代がそれを価値あるものと選んだにすぎない。理解できる者がいなければ未だに数多の発想に埋もれていただろう。他者に理解できないものをつくった、という意味で、低評価のほうが、高評価よりもどちらかと言えば表現者としてはよろこぶに値する。さきにも述べたが、真実に受動者にとって価値がなければ――まったくとんちんかんで理解できなければ――評価しようとすら思われない。そもそも読了されることもないだろう。反応せずにいられない、低評価をつけずにいられない、そういったものを生みだした、という時点で、創作者――とりわけ表現者にとっては高評価よりも低評価のほうが得難いと言える。もっとも、評価の数値そのものには、やはりというべきか、大した意味合いはないのだが。高評価だろうと低評価だろうと、その効能に差はない。なぜ受動者はそのように感じたのか、なぜその評価を下したのか。そうした他者への眼差しが増えるのみである。どちらにしてもプラスしかない。そのプラスですら、創作者にとっては些事である(小説に限定して述べれば、読解されることがすべてだ、と言える。読んでもらえたらそのあとの評価はどうでもよろしい。評価というものは、同じ評価者であれ、時と場合で大きく変動する)。評価そのものは、あったらまあいいですね、程度の代物だ。見る者によって大きくぶれる、揺るぎないがゆえに振幅する波のような粒子をつむいでいきましょう。


3065:【2021/07/07*潜る】
基本的に人間という生き物は、じぶんより下だと思った相手にこそ、本性を露わにする。ゆえに、人間の本性を知りたければ舐められておく必要がある。森を上から眺めても地面を這う生き物を目にすることはできない。空から海を眺めても海底の生き物を目にすることはできない。日々、無下にされ、舐められ、ぞんざいに扱われなければ見えないものがある。他者を無下にし、舐め、ぞんざいに扱っている者には見えない風景がある。感じられない機微がある。人間の本性の吹き溜まりであり、そこにはもちろん、あたたかい日差しのようなものがそそぐこともある。闇にいるからこそ光はいっそうの輝きを放って見える。単なる昼の明るさでさえ、そう見えるというだけにすぎないのかもしれないが。闇には、闇を生みだす者の姿はない。いつだって闇を生む者は、光の側にいる。無下にされ、舐められ、ぞんざいに扱われている者の上にいる。


3066:【2021/07/07*お願いシます】
駅前の笹飾りが目に入り、きょうが七夕だと気づく。七夕によい思いではない。元恋人が死んだのがちょうど七夕の日だった。十二年の付き合いを経て婚約したが、ほかに好きなひとができて婚約を破棄した。元恋人はその三日後に自室で首を吊って死んでいた。同居していた部屋から引っ越す前の出来事で、それが原因でけっきょく好きな人とも別れる羽目になった。三年前のことになる。散々な記憶だ。なんとなく冷やかしに笹飾りのまえを通ると、一つだけやけに黒い短冊が目に留まった。引き寄せられるようにそれを掴み、紙面を拝む。一生ずっといられますように。見覚えのある達筆で凛と書かれたそれの裏には、元恋人の名前が記されている。


3067:【2021/07/08*レコードのように】
たとえば闘病生活を送っていて毎日しんどいな、と思っているひとに、じぶんの小説を読んでもらう機会があったとして、どの物語なら差しだせるかと考えてみるのだけれど、毎日しんどい思いをしているひとには自作の小説なんかとてもではないけれど読ませられないし、読んでほしくもない。基本的にいくひしさんのつむぐ物語は、比較的心身に余裕のある人たち向けで、もっと言うと、読後にすこしだけ自我の輪郭にヒビを走らせるような、そういった物語が多い気がする。読者の世界観にむりくり異空間をねじ込むみたいな感じで、やっぱり毎日しんどい思いをしているひとを救うような物語ではないのだね。寄り添うような物語ではない。ざんねんなことに、いくひしさんの物語にひとを救ったり、力を与えたり、そういった魔法みたいなちからはない。以前から述べているけれども、いくひしさんのつむぐ物語が必要でない人生のほうが豊潤で、すこやかで、安らかなはずだ。いくひしさんのつむぐ物語が高く評価されない世の中のほうが大多数の日々にとって好ましいし、いくひしさんのつむぐ物語がたくさん読まれる世の中でないほうが、大多数の未来にとって望ましい。わざわざ確固たる人格にヒビの入ってしまうような物語を受動せずともよい。或いは、そう思っているのはいくひしさんだけで、空気みたいに手ごたえがなく、ゆえにあってもなくてもどっちだって同じなのかもしれない。それはそれで理想ではある。あってもなくてもどっちでも同じだけれども、だからこそいくらでも好きなときに好きなものを好きなだけ好きなようにつくりつづける。つむぎつづける。並べて、よじって、消して、編み、結んで開いて手を打てば、ぱつんと鳴って、また鳴って、連なる律動を追いかけたならばそれが間もなく旋律となり、曲となり、やがてそこから萌えた芽が、この世のどこかにはあるはずの、しかしここにしかない物語に育つだろう。この予感がつづくまで、ただ目のまえの音を、気泡を、目で追いかけ、耳で掴み、ゆびでこねて刻むのだ。身体に、世界に、刻むのだ。


3068:【2021/07/08*借り物でしかない】
光を重ねると無色になるし、色を混ぜると黒くなる。同じように、無色の光をスペクトルに分解して、色の成分を一つずつ抜き出していけば、任意の色をした光をつくれるし、黒から色の成分を一つずつ抜き出していけばやっぱりこれも任意の色をつくれるはずだ。いくひしさんの創作法にも似たところがある。この文章もそうだけれど、いくひしさんの中のひとは、ほとんどしゃべらないし、しゃべりたくないとつねに思っている。どんな簡単な質問に対しても、返事をするのが疲れてしまう。腕立て伏せ五十回したほうがマシだと思うくらいには面倒に感じる。つねに無色でありたいし、つねに真っ黒でありたい。でもそうであることを周りの環境や、社会は許さないので、仕方なく、そのつどそのつどで光を抜き、色を抜いて、その場に馴染みやすい光や色をつくる。創作のキャラクターたちも同様だし、この「いくひ誌。」の文章も同じだ。いくひしさんの中のひとにちかくすればするほど、文字数は減って、最終的には何も並べることがなくなる。或いは、いつまでも文字を並べつづけて画面が真っ黒になるくらいに文字で埋もれてしまうかもしれない。無か全か。空か虚か。どうあってもじぶんを表現できないし、じぶんなんてものがないがゆえに、いつまでもこうして中身のないグダグダを並べていられるのだろう。じぶんの言葉でなんか語れない。じぶんの言葉なんかないのだ。言葉はつねに、《私》の中の『私たち』から零れ落ちた〈私〉がつむぐものであり、どうあっても仮初でしかない。《私》はここにいない。表現しようとすればするほど霞み、消えいく、存在しない存在だ。


3069:【2021/07/09*万年枯渇ちゃん】
世の中にはこれだけ多くの物語が新たに生みだされつづけているのにどうして一人の作者には限界というか、閃きの限度数みたいなのがあるのかがふしぎだ。一つ一つの物語に、そのつど新たな心持ちで向き合い、完結させていけば、毎回初心者のように、別の作者のように、つぎつぎに新しい物語をつくりつづけられるはずだ。それができないというのは要するに、過去のじぶんに囚われているからで、執着しているからなのではないか、との疑念が湧く。いつもいつもつぎの閃きを掴むまでに時間がかかるし、なんもなーい、なんもなーい、の虚無の時間を彷徨うので、ほとほと我執に囚われていると言える。何度でも初心に戻り、自我を離れてまっさらな心地で、或いは宇宙のごとくまっくらな境地で、そのときその場だからこそ浮かぶ発想に焦点を合わせられればしぜんと物語はつむがれるものではないだろうか。それがおもしろくなるか否かは別問題であるにせよ、雪の結晶や窓に伝う雨シズクの軌跡のように、一瞬たりとも同じではなく、それでいてある枠組みで限定されるような、再現性のない再現性といった矛盾からなる回路を写し取っていきたい。つまり何が言いたかったかと言えば、なんもなーい、の虚無を彷徨っております、との告白なのでした。


3070:【2021/07/09*悪魔の所業】
(未推敲)
 人類を恐怖のどん底に落とし入れた悪魔がようやく捕まった。
 悪魔は人間ではなかった。
 いずこより現れ、人間という人間を襲い、ときに操って大勢に殺し合いをさせた。殺し合った人間たちはその後正気に戻り、じぶんたちの仕出かしたことを思いだして精神を病み、のきなみは自殺した。
 この世に魔界があるのかは定かではないが、悪魔は悪魔としか形容のしえない姿かたちをし、近代兵器の軒並みも通用しなかった。殺傷できないとなればあとは拘束するよりない。
 悪魔の捕獲には科学技術の粋を極めた人工知能が用いられた。一人の天才科学者による手柄だった。
 人工知能には現実と瓜二つの仮想現実を構築するだけの演算能力があった。悪魔の認識を歪めるだけの仮想現実を編むことができた。
 広範囲に渡って投影される仮想現実に、悪魔は落ちた。落とし穴にはまった小鹿のようなものだった。或いは、井戸の底の蛙のような、と言い換えてもよい。
 目のまえの現実を失った悪魔は、間もなく、映画に夢中になる子どものようにじっとその場から動かなくなった。人類はその地点を終局の地と名付け、堅牢な監獄を築き、悪魔を閉じ込めた。
 悪魔はつねに仮想現実のなかにいた。おとなしくなった悪魔には頭からすっぽりマスクがされた。仮想現実はマスクの内側に投影されるようになった。これにより人類は悪魔に近寄れるようになった。
 当初、悪魔の五感は正常に働いていたようだが、人工知能の改良が進むと、やがて悪魔の頭脳に直接に働きかけ、仮想現実の没入感を極限まで高めることが可能となった。悪魔は真実、仮想現実の牢獄に囚われた。
 外部刺激の総じては、悪魔に知覚されず、どのような実験も悪魔に悟られることはなくなった。しかし、悪魔はやはり悪魔だった。どのような外部刺激も、悪魔を死に至らしめることはできなかった。
 人類は圧倒的な優位に立ちながらも、悪魔に苦悶の声一つあげさせられないことに苦渋を嘗めていた。
 報復したい。
 復讐をしたい。
 犠牲になった人々の苦痛を、声を、恨みを、無念を晴らしたい。
 悪魔には罰を与えねばならない。
 無闇に刺激して悪魔を目覚めさせるな、といった反対の声も聞かれたが、国家としての威信のためにも、悪魔には否応なく苦しんでもらわねばならなかった。
 人類は人工知能に命じ、悪魔にあらゆる地獄を見せつけた。
 だが悪魔はやはり悪魔だった。
 どのような地獄に囲まれようと平然としていた。恍惚とすらしていた。
 自身の身体が八つ裂きにされようと、焼かれようと、神経が剥きだしになり、神経の一本一本を丹念に引きちぎられるような痛みのなかにあっても平然としていた。
 人類はしかし諦めなかった。
 身体的苦痛が通用しないのならば、精神的な苦痛を与えるよりない。
 初めにとられたのは、悪魔の同族を無数に用意し、それらを悪魔の目のまえで惨殺することだった。むろん仮想現実のなかでの話であるが、それを目にしている悪魔にとっては現実も同然であった。
 しかし悪魔は極上の映画を目にする辛口の批評家のようによだれが垂れていることにも気づかずに、その光景を目に留めていた。
 効果がない。
 そうと判ると、つぎは敢えて悪魔を至福の世界に閉じ込めた。あらゆる人民が悪魔を慕い、崇めた。しかし悪魔はそれすら愉悦として感受した。かつて人類にしたような残虐非道な行動をとろうともせず、飽くまでお花畑に立つ案山子のごとく恬淡とした様子で立ち尽くしていた。
 実際には悪魔の身体は薄暗い監獄のなかにある。人工知能を通して人類は、敢えて悪魔に仮想現実のなかで自由に振る舞える権限を与えた。悪魔はこれにより、これまで以上に仮想現実のなかの住人たちと触れ合うことができるようになった。
 悪魔と住人たちの交流はじつに平和的であった。
 なぜあの悪魔がこのように仮想現実のなかではある種、神のごとく穏やかさでいられるのか。あの残虐性はどこに消えたのか、と人類は疑問したが、けっきょくのところ悪魔に見せている世界が現実ではなく、理想的な環境を再現した虚構だからだろう、という結論がなされるのみだった。
 仮想現実はしょせん仮想にすぎない。
 みなから慕われ、崇められれば誰だって暴力を働こうとはしない。環境を破壊しようとはしない。悪魔とて例外ではなかっただけのことだ。
 人類は悪魔に罰を与えようと、さらなる至福の環境を悪魔に与える。
 悪魔と住人たちの縁をより強固にし、絆と呼ぶに値するまで育んだ。
 理想と呼べるほどの平和を築き、究極と呼べるほどの愛を与えた。
 悪魔は住人たちを慈しむようになり、目のまえで転んだ子どもに手を伸ばし、抱き起こすまでになっていた。
 悪魔に慈愛が芽生えはじめていた。
 悪魔に罰をくだす準備は整った。
 いよいよ人類は悪魔から奪うことができる。
 かつてその手でされたように。
 あらゆる苦痛と懊悩と後悔と無慈悲で不条理な暴虐の限りを与え返す。その手で仕出かしたことを客観的に、自分事として認めさせるのだ。
 人類は仮想現実の世界に、一匹の悪魔を投入した。
 悪魔はまさしくもう一匹の悪魔であり、かつての悪魔自身であり、悪魔のなかの悪魔であった。
 仮想現実のなかにて悪魔二号とも呼べる悪魔は、すっかり平和に馴染んだおとなしい悪魔の目のまえで、老若男女問わずに殺して回った。オモチャで遊ぶ子どものように、住人たちの身体を玩具のように扱い、壊し、はしゃいだ。
 おとなしい悪魔は茫然とその様子を眺めていた。
 人類は思った。
 またしても失敗だ。徒労だった。悪魔はしょせん悪魔でしかない。人の心などはないのだ。
 人類が諦観の溜め息を吐きかけたとき、おとなしい悪魔の目から一滴の涙が流れ落ちた。
 人類は色めき立つ。
 おぉ、という歓声に呼応したかのごとく、おとなしい悪魔はその場に膝を折り、慟哭した。
 あたかも目のまえで最愛の子供を失くした母親のように、じぶんにはどうしようもできない理不尽そのものに抗議するかのごとく激しさで。
 おとなしい悪魔は身を引き裂かれるような声をあげ、泣いた。
 おとなしい悪魔はなぜかそこで、もう一匹の悪魔のなかの悪魔に立ち向かおうとはしなかった。目のまえで繰り広げられる地獄絵図、それはのきなみ自分自身がかつて行った殺戮そのものであるはずなのだが、おとなしい悪魔はただその光景を目にし、悶え、苦しんだ。
 人類はよろこんだ。
 罰はくだった。
 あの悪魔が心を痛めている。
 仮想現実のなかであらかたの人類が、もう一匹の悪魔のなかの悪魔の手により殲滅されたころ、おとなしい悪魔はしずかに立ちあがると、一人の人間の男に姿を変えた。
 その男は科学者を名乗り、人類の生き残りたちと接触すると、とある箱を差しだした。
「これを用いればあの悪魔を止めることができるでしょう」
 人類の生き残りたちは、その箱を用いて、もう一匹の悪魔のなかの悪魔に、ここではないどこかべつの世界を見せ、身動きを封じた。
「悪魔には罰を与えねば」
 復讐を。復讐を。
 報復を。報復を。
 人類の生き残りたちは万歳三唱のごとく連呼した。
 間もなく、もう一匹の悪魔のなかの悪魔は、箱の見せるそこではないどこかの世界にて、悲痛な声を響かせる。
 箱のそとの、さらにもう一段うえの世界にて、人類ははっとする。
 人工知能の納まった箱をみながいっせいに振り返る。
 そばには表情の読めない男が一人、立っている。



※日々、因果応報したくなる、本当は受け流すのが利口なのに。


3071:【2021/07/10*未熟が熟すと何になる?】
下手なことがよくないことだと思っているひともいるかもしれないけれど、下手なことは楽しいの種だよ。下手なことほど楽しむ余地があるし、可能性に満ち満ちているよ。未熟であることは宝だよ。研ぎ澄まされた刃のような上手なる極致も得難いけれども、型持たぬ不定の揺らぎも大事だよ。何かを試さないことには、下手も未熟も見つからないから、下手で未熟なのはそれだけで大樹の種となり得るよ。枝葉豊かな未来の大樹の種たるよ。(下手が上手になることもある。成長するという意味ではなく、観測者の価値観が変わるだけで、下手を基準にすれば、上手もまた下手なのだ。果たして表現に完成形なんてものがあるのかな。下手だし未熟なので、そんなことすらよくは分からないのだ)


3072:【2021/07/10*ないものはない】
何回でも言うけれども、いくひしさんは才能が端からないので、枯渇することがない。ないもはないので、なくなることもない。常に枯渇しているし衰えつづけているので、このままその変化を楽しむだけだ。成長は努力なしには成し得ないけれど、衰えるだけなら何もせずともかってに得られる。その日その時にしか並べることのできない偶然の配列を写し取るだけだし、その日その時にしか表れない変化を掴み取るだけだ。すでにこの世にある上手なるものと比べて、下手だなぁ、と自作を振り返って思うことはつねだけれども、下手だなぁ、と思ったからといってそれがやめる理由にはならないし、なりようがない。下手でも楽しいならすればいいし、つづけたらいい。飽きたらやめればいい。そしてまたしたくなったらすればいい。単純な話だ。なぜならこれは趣味なので。趣を味わい、変化を楽しむ、それが粋というものであり、生きるということではあるまいか(粋と生きをかけてみたかっただけ)。


3073:【2021/07/10*なんでー】
目に情景が浮かぶような、映画を観ているような、じっさいにじぶんが体験しているような、文章を読んでいることを忘れるような物語を、紋様を刻むように、文字を置いてくる感じでつむぎたいのに、ぜんぜんそれとはかけ離れた文字の並びになるのは、どないしてなの?


3074:【2021/07/10*ゴミの墓場】
 小学生のころの記憶だ。本当にあったことなのかはいまになっては定かではなく、確かめようもない。
 当時私は低所得者の住まう県営住宅にて暮らしており、遊ぶ同年代の子たちもみなそこの住人だった。
 近場には山があり、谷にはよく粗大ごみが沢となって捨てられていた。ゴミの墓場だ。そこが私たちの遊び場だった。
 夏には肝試しが開かれた。ゴミの墓場で体験した誰のものともつかない怪談がいくつも囁かれた。
 なかでも多かったのは、ゴミが魂を持ってかってに動き回るといった系譜の怪談だった。人形のようなものがじっと見つめているとか、足首を掴まれてゴミの山に引きずり込まれるなんて話も聞いた。
 私はその年、幾人かの同年代の友人たちと肝試しに向かった。名前の知らない者も交っていたし、顔だけ知っている者もすくなくなかった。十人はいたように記憶している。年齢は一から三歳ほどのばらつきがあり、私は真ん中の年代として、年下の世話をしぜんと押しつけられた。
 ゴミの墓場に明かりはなく、木々の隙間から差しこむ月光のみが闇の中に人工物の陰影を浮かべていた。
 肝試しのルールは単純だ。
 谷のうえに立ち、一人ずつゴミの墓場へと下りる。各々、ゴミの墓場から何かしらのゴミを持ち帰ってくる。それだけだ。
 最初はお手本を兼ねて年長者の少年が鬱蒼と群れた草を掻き分け、闇のなかに姿を消した。五分ほどで少年は戻ってきた。手には剣に見立てるのに手ごろなパイプが握られていた。
 私の目にはそれが秘宝に見えた。恐怖心が薄まるのを感じた。
 私たちはつぎつぎにゴミの墓場へと降り立った。みな、まえを行く者と距離を開けぬようにと列をなした。むろんそれは怖いからだが、単純に谷のうえに取り残されることのほうを避けたかったのだろう。
 年長の少年だけはその場に残ったようだが、ひょっとしたらいっしょになってもういちどゴミの墓場に下りたのかもしれない。
 ゴミの墓場は度重なる不法投棄により、広範囲に渡ってゴミのジャングルが築かれていた。
 足場には草や蔓が見えず、歩きやすい。比較的最近に大量に捨てられたゴミなのだと判った。
 私はじぶんが勇気ある者だと示したくて、できるだけ奥へ奥へと歩を進めた。前方にほかの子どもの気配を感じたが、いつしか足音はじぶんのものしか聞こえなくなっていた。
 背後では、谷をのぼり遠ざかっていく子どもたちの足音が響いている。
 早く戻らなくては。
 焦りが募った。
 ゴミ捨て場の奥にはブロックや大量の木材など、機械類は見当たらなかった。私は適当に木材を掴むと来た道を戻りはじめた。
 TVや電子レンジなどの電化製品が足場に増える。
 中ほどまで戻ったときに、物音を聞いた。
 そばにある何か大きな粗大ごみが動いた。ガタゴトと物音がした。
 私は音のしたほうを見るが、そこには闇があり、薄っすらと角ばった影が見えるばかりで、物音の正体を掴めなかった。
 じっと様子を窺うと、ふたたび物音が聞こえた。
 こんどは激しく、ガタガタと威嚇するように響いた。
 小動物にしろ、そうでないものにしろ、恐怖しかなかった。ドタバタと暴れるようなそれは、とても人間の立てるような音には思えなかった。
 私のほかにゴミの墓場に残っている者はいないようだった。
 私は谷を駆け上った。
「血相変えてどうした」
 年上の誰かが言った。
 何かがいた、と私は言った。脅かすつもりはなかった。ただ事実を言っただけのつもりが、ちょうどよく谷の下のほうから、くぐもった音がした。濡れ雑巾を壁に打ちつけるような、太鼓じみた音だった。
 一人が駆けだすと、ほかの者も、わぁ、と悲鳴をあげ、逃げだした。
 私も負けじとその場を離れ、この日の肝試しはお開きとなった。
 あれから十年以上が経つ。
 あのころの記憶などすっかり忘れていたが、さいきんになって、例の山にて一斉清掃が行われた。不法投棄されたゴミが問題視され、ようやく行政が重い腰をあげたようだ。
 一斉清掃がはじまって間もなくのことだ。
 山から子どもの遺体が発見された、とニュースで流れた。
 おそらくゴミの墓場のあった区画だろう。捨てられた古い冷蔵庫のなかからすっかりミイラが見つかった。
 ミイラは子どものものと見られるらしく、身元は不明だという。
 いったいいつからあったのかは分からない。すくなくとも私は、この地域で行方不明になった子どもがいるといった話を聞いたことはないが、かといって、では仮に行方不明になった子どもがいたとして私がその情報を知り得たかと言えば、頷くのはむつかしい。
 私たちの住まう地域では引っ越す家庭が珍しくなかった。顔見知りの子どもがいつの間にかいなくなっていたなんてことは日常茶飯事だった。
 ただ、件のニュースを目にしてからというもの、私はどうしても、あの日、あの夜に耳にした怪奇音を思いだしてしまうのだ。
 あれは、幽霊や怪異といった異界のモノの立てる音ではなく、懸命に助けを求めていた子どもの叫びではなかったか。
 密閉された冷蔵庫のなかに隠れて、ほかの子どもたちを脅かそうとした子どもが、出られなくなったことに気づいて必死に内側から助けを求めた、あれは音だったのではないか。
 声は打ち消され、かろうじて内側で暴れた物音や振動が、暗がりに響いていたのではないか。
 内側からドンドンと扉を叩き、出してくれ、と叫ぶ者がいたとして、私はそれの目のまえで歩を止めておきながら、恐怖に駆られて逃げだした。
 置き去りにした。
 わからない。ひょっとしたら冷蔵庫の中には端から遺体が隠されていて、ずっと以前から捨てられていたのかもしれないし、ごく最近に投棄されたゴミであるかも分からない。
 ただ、私はいまでもあの、濡れ雑巾を壁に打ち付けるような音を、耳の奥に再現できる。
 闇に沈んだゴミの墓場にて、火に炙られたヘビのごとくのたうち回る不法投棄された冷蔵庫の姿を、いまでもその音に重ねて幻視する。


3075:【2021/07/11*だーらんぺれん】
とくにこれといっていまは日々のノルマとか目標を決めていないのだけれど、なんだかんだ毎日ショートショートをつくらなあかんよ、みたいな圧をほかのいくひしさんたちから感じるので、そんなん知らんわぁ、の気持ちでサボるようにしちゃう。この日誌もどきもなんで毎日のように並べて揃えて晒してやんよ、みたいな感じで掲載しているのかもわからんので、並べることない日はなんも並べないようにしちゃう。と思うけど、そうしたら一日も並べなくなっちゃいそうだから、なぜってだって並べることがある日なんかないからで、ここにあるのは本当にびっくりしちゃうくらいに中身のない並べても並べんくともどっちもでいいですよー、のつくつくてんてんなんですね。積み木遊びや判子遊びと同じなのだ。とにかくまずはつくりかけのが一週間に一つずつ増えていくみたいな、一作つむいで三作溜まるみたいな感じなので、なんとかせんといかん、というか、なんとかしたいなぁ、全部つくっちゃいたいなぁ、時間も手足も脳みちょも足りんし、いちばんはやる気というか体力というか知識もだし好奇心もだし、もうもう色々な能力がカツカツのピンピンなのだね。カツカツのピンピンってなぁに? 勢いで並べているだけなのでいちいち気にしないでください。いくひしさんのオノマトペは、ほへほへのだーらんぺれん、なので、本当に本当に、ほへほへのだーらんぺれん、なので、気にしたら負けです。わっちゃか、わっちゃか、もへもへです。すごい見て。いっぱいサボっちゃうってことと、能力不足でだーらんぺれんってだけでもうこんなに文字の判子が並んでしまった。積み木ならちょっとしたお家くらいはつくれる。ドミノにしたら、三回は止まっちゃうくらいの長さはありそう。きょうはとくにオチはないです。いつもないけど、きょうは、と言ってみました。見栄っぱりなのです。さいきんすぐに眠たくなっちゃうので、あんまり無理せず、しばらくのあいだは、つるつるできることだけするようにします。さいきん、とか並べちゃったけど、これもいつもです。寝ます。おやすみなさい。


3076:【2021/07/11*ざっくばらんにわがまま】
好きな表現を生みだしてくれるひとたちが苦しんでいたり、困っていたり、悩んでいたりしていても、何もできないし、何かしらできるようになろうと努力するわけでもないのだけれど、かといっていまのままがいいとは思わなくて、何もできないのだけれど、非力だし、無力なのだけれども、どうにか好きな表現を生みだしてくれるひとたちには、そのひとにとっての好ましい日々を送ってほしいとの思いは、つねに、いつでも、心のどこかしらにはあるのだよね。祈りというほど投げやりではなく、望みというほど意欲的でもなく、それでいて絶対そうあってほしい、そうあることこそがじぶんにとって好ましい環境だとのわがままにちかい直感を抱きながら。何がというわけではないにしろ、よくなるといいな、とわがままに思っています。(わたしはなにもしないけれどかってによくなるといいね、という中身のスカスカで、角度によってはトゲトゲしていることを、当たり障りなく言い換えるだけで、なんだか立派に聞こえるから、言葉って本当に信用ならないな)(正直に言えばいいってもんじゃないし、嘘を言えばいいってもんでもない)(言うだけ、書くだけなら簡単なのだよね)


3077:【2021/07/11*届けこの想い】
 ポストのなかに手紙が入っていた。消印はなく、封筒も使われていない。
 折り紙に拙い文字で、愛の告白じみたことが書かれている。ミミズの這ったような筆致だ。
 わたしは文面を黙読した。だいすきです、大きくなったらぼくのおよめさんになってください。微笑ましい内容だ。
 差出人の名はない。四つ折りにした折り紙をただポストに投じただけの素朴な恋文だった。おそらく家を間違えたのだろう。まさか本当にわたしへの恋文だとは思わない。
 手紙の扱いにしばし悩んだが、差出人のほうでも家を間違えたことには遠からず気づくだろうと思い、見て見ぬふりをした。
 しかし三日後、また同じように折り紙の手紙が入っていた。こんどは、近所の公園の名前と、そこで待っています、といった旨が短い言葉で綴られている。筆致は前のものと同じだ。
 時刻は夕暮れに差し掛かっている。ひょっとして待っているのだろうか。子どもが首を長くし、いまかいまかと想い人を待ちわびている姿を想像すると胸が詰まった。かといってわたしが行ったところでしょうがない。そもそもいまから行っても遅いだろう。
 近所の公園は、ちいさな神社と繋がっている。年中薄暗い場所で、子どもはおろかおとなですら利用しない。いつまえを通っても無人で、神木のような古い樹が、敷地のなかにいくつも生えている。柳のように葉を垂らしている姿はうつくしいが、さわさわと無人の空間で延々と揺れつづける様子は、巨大な生き物をまえにしたときのような圧迫感を覚え、やはり近寄りがたかった。
 やめておこう。
 想い人が現れなかった程度のことで諦める恋ならその程度の想いだったのだ。そもそも大事なラブレターを間違っても赤の他人に渡すべきではない。
 間違いを指摘しにいまから公園に向かうこともできたが、見知らぬ手紙の差出人のために費やす労力としては見合わないと判断した。
 どの道相手は子どもだろう。
 初恋は叶わないと相場は決まっている。早めに傷心を負っておけば傷は浅くて済む。幼少期のそうした経験は却って心をつよくする。自己弁護の論理を見繕い、わたしはこの日も見て見ぬふりをした。
 この日を境に手紙は毎日のごとく届くようになった。差出人の名前はおろか、誰宛てなのかも書かれないので、真実にそれが手違いで届けられているのか、或いはじぶん宛てに出されているのか、それともイタズラなのか、の判断がつかなかった。
 しかし、いくら子どもといえども、この家に住んでいるのが三十代のおとなの女が一人であることくらいは見抜けそうなものだ。だとすればやはりイタズラの線が濃厚だ。
 無視をするか。
 しつこかったり程度がすぎれば警察に相談するのも手だと考える。
 段々わたしは手紙とそれを送りつけてくる相手に苛立ちを募らせた。
 初めて手紙が投函されてから半月後のことだ。おおよそ二十通の手紙をわたしは受け取ったことになる。この日の手紙には、二通目のときのように、公園の名前と、そこで待っているといった旨が書かれていた。以前と違うのが、時刻の指定が加わっていたことだ。
 わたしの堪忍袋の緒はとうに切れていた。
 当人が、会いに来い、というのならそのツラを拝んでやる、といきり立った。
 翌日はちょうど休日であったこともあり、わたしは指定された時刻より一時間も前に家をでて、公園を見渡せる場所に陣取った。
 わざわざこちらの姿を晒すこともない。
 遠目から目にして、あとをつけてやる。
 家を突き留めたら、親御さんに抗議をしてやろう。それこそがおとなのとるべき常識的判断である。
 わたしはこのときに至ってもまだ、手紙の相手が子どもであると疑っていなかった。手紙の文字が、それほどに拙く、無垢で、おとなの偽装した文字には思えなかったのだ。
 だがこの日、指定の時刻を過ぎても、公園には誰も現れなかった。わたしは騙されたじぶんに腹を立てながら、その怒りをどこにもぶつけられずに、ぷりぷりした。
 帰宅途中でスーパーに寄り、割高のカツとワインとチーズケーキを購入した。豪勢な夜食になるぞ、と思うと、ようやく胸が軽くなった。
 心なし宙に浮いて歩いていると、視線のさきに我が家が見えてくる。道なりにまっすぐと軒が連なり、我が家の玄関が右手側に見えた。
 ふと、何か大きなもので玄関が塞がれていた。
 隣家の影だろうか。
 ぼんやりとしたモヤのようなものだ。輪郭がはっきりしていない。ちょうど大人同士で肩車をしたくらいの高さがある。近づいたからか、幅もそれくらいだ、と判った。
 錯覚かと思い立ち止まって目を凝らす。
 すると、モヤのようなものは、ぐねんと真ん中から折れ、針金が曲がるように先端を、壁に開いたポストの穴につけた。
 ミミズが蠕動する場面を連想する。
 モヤのようなそれは、輪郭をくっきりと浮きあがらせ、波打った。
 ぐぽん、と音が聞こえそうな動きをすると、ふたたび輪郭を薄め、モヤじみた柱に戻る。
 わたしはじぶんの鼓動だけを感じていた。
 ほかはすべて夢のように掴みどころがなかった。ふわふわしていた。いったいこれはどういうことなのか。
 身体がよろける。
 買い物袋の底に靴が当たり、なかのワイン瓶が高い音を響かせた。
 その瞬間、モヤのような柱はぐるんと身をひねった。
 目が合う。
 顔だ。
 全身が強張った。
 二つの目と、口がある。
 しかしそれはどう控えめに形容しても人間のものではなく、生き物のそれではなかった。
 目はこの距離からでも分かるほど大きく、眼球がはまっていない。虚ろな窪みがあるのみだ。あべこべに口は、への字にひんまがり、明らかに憎悪の造形をしていた。
 どれくらい睨みあっていたのかは分からない。
 一瞬のようにも数分にも思えた。
 背後から自動車のクラクションが聞こえ、そこでわたしの緊張は解けた。身体のこわばりが失せ、自動車に道を譲る。
 自動車の進行方向には我が家があり、そこにはもう件の細長いモヤは見えなくなっていた。
 この日はポストを覗かずに家に入った。
 翌朝、陽が昇った明るい時間帯に確認すると、例の手紙が入っていた。これまでと異なり、折り紙はクシャクシャに握りつぶされていた。伸ばしてみると、紙面いっぱいにおびただしい数の「好」の文字が折り重なっていた。
 文字はどれも歪んでいる。
 筆で書かれたように黒く滲んでおり、よく見るとそれは「好」ではなく、ひしゃげた「女」と「子」の文字なのかもしれなかった。
 以降、わたしはポストを撤去した。
 以来、例の手紙はとんと届かない。


3078:【2021/07/12*ぐにゅり】
創作や表現を好きでしているし、楽しいからしているけれど、それはけっして、ひゃっふー、みたいな感じの楽しさではなく、どちらかと言うとロッククライミングとか綱渡りとか、もっと言えば単なる登山みたいな感じにちかい。どれもほとんどしたことはないが、きっとそんな感じなのだろうな、といった感応がある。ただし、達成感とは違うのだ。否、達成感もあるにはあるが、それを得たいからしているわけではない。もっとこう、なんだ、中心からずれたところでもたらされる予期せぬ収穫みたいなのがあるわけで、それを得たいがためにするような、どこか棚から牡丹餅を期待するようなところがある。たとえば創作や表現では、それをする以前に、何かしらのビジョンがあって、理想があって、それを出力するために、様々な技巧や工夫を総動員してそれらを実現するわけであるが、ではそのビジョンや理想を具現化することが目的なのか、と問われると、必ずしもそうではない。それらを実現させようとするときに生じる予期せぬ収穫があるのだ。たとえばそれは、スライムの核を掴もうとしたときに、ぐにゅりと指の合間からはみでる余分そのものであり、その余分こそがじつは最も得難い報酬だったりする。もちろん本来は、核を得ることのほうが成果であるし、目的なのだけれども、いざ掴んでしまうと、そうでない余分なもの、掴もうとしたことで身に着けた様々な雑念や失敗の来歴、網の目に張り巡らされた工夫の筋道など、そうした余白の蓄えそのものが、楽しいの源泉であったりする。それはたとえば、登山は山頂に辿り着くためにするが、山頂に辿り着かずとも得られるものはある。途中で引き返したとて、それまでに費やした準備や、目にした風景、嗅いだ空気、一瞬たりとも同じでない足場の感触や、どういったルートで道を辿るのかといった思考の軌跡そのものが、登山の醍醐味と言える。これは登山に限らず、あらゆる行動に言えることである。創作や表現にも言えることだ。創作の結果に生じた成果物も得難いが、それがすべてではない。表現した作品も得難いが、それを得られるからつづけるわけでもない。うまく言えないが、達成感ではないのだ。それはそれで得られたらうれしいが、それよりもずっと原動力となるエネルギィそのものが、創作や表現からは得られる。それは、それを得た者にしか分からない。形にできない。表現できない。そうした不可視の余白が築かれるのである。ときにそれは回路としても機能し、再現性のない再現性を顕現させる基盤ともなり得る。定かではない。


3079:【2021/07/12*そんなの頼んでない】
(未推敲)
 友人から相談を受けた。なんでも恋人がストーカーにつきまとわれているという。しかし恋人がいたとは初耳で、打ち明けられたことに驚いた。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてないよ」
「付き合いはじめてかれこれ半年になる」
「めっちゃ長いじゃん。なんで言ってくれなかったの」
「言うまでもないかなって。だってべつに、ねぇ」
「ねぇってなに。小学校からの腐れ縁なのにいまさら隠し事はなしじゃんよ」
「隠してたわけじゃないって。恋人がいようがいなかろうが、あたしらの関係は変わらんじゃん」
「そりゃそうだけど」溜め息を吐き、で、と相談とやらを聞くことにする。「ストーカーされてるって、どういうこと。恋人って男の人なわけでしょ。女の子に寝取られそうってそういうこと?」
 暗に嫉妬深いだけちゃうの、と指摘したが、友人はそこで、ちゃうちゃう、と手を振った。コーラをストローで吸い、「女の子なんよ相手のコ」と言った。
「男のひとのストーカーなんだからそうでしょうよ」何がちゃうのよ、と大袈裟に顔をしかめてみせる。
「付き合ってるコが女の子ってことで、まあ、つまりそういうことなんですな」
「おどけて煙に巻こうとすな」友人の性的指向が同性愛ぎみだったことには気づいていた。おそらくはどちらでもよいのだろう。好きになった相手をすなおに好きになることのできる人間なのである。「よく分からんからまとめちゃうけど、いまあなたは同性の女の子と付き合っていて、そのコがストーカーにつきまとわれていて困っていると」
「そうそう」
「ふつうに警察に言ったらいいんじゃないの」
「実害がないんだよね。だから言っても動いてくれない」
「実害ないってじゃあなんでストーカーがいるって分かるのさ」
「そりゃあ愛しい人のことだもの。ずっと見てたらわかるでしょ」
 何の気ないセリフだが、わたしはそこに友人の狂気を垣間見た気がした。
「勘違いじゃないの」
「いや、絶対あれはストーカーに怯えてるやつだった」
「そうじゃなくて」
 友人がきょとんとしたので、言ってしまってよいものか、と心苦しくなる。わたしは意を決して言った。
「本当にそのコ、あなたの恋人なの」
 友人とはそこからいくつかの言葉の応酬をして、最後は友人のほうが不機嫌になった。わたしを店に残して友人は帰ってしまう。怒らせるつもりはなかった。否、そうなるかもしれないと予期はできたが、言わずにはおられなかった。
 友人が怒るのも無理はない。
 わたしは友人に、わたしの憶測を話して聞かせたのだ。あなたはそのコと付き合ってはおらず、あなたこそストーカーなんじゃないの、と。
 付き合っている気になっているだけで、あなたの存在がそのコを怯えさせているのではないの、とわたしはあり得なくはない推量を、申し訳なさを醸しつつ、真剣に心配しているのだと伝わるような声音で投げかけた。それを、揺さぶりをかけた、と言い換えてもよい。
 友人は最初こそ鼻で笑って聞き流したが、わたしが証拠はあるのか、と問うと、いまはないけど、と表情を曇らせ、そんな言い方しなくてもいいじゃんか、と怒気を孕んだ物言いをした。友人は恋人の画像も持っていなかったのだ。或いは、人に見せられないような画像しかなかったのかもしれない。
 けっきょく友人は、おまえに相談したのがバカだった、と吐き捨てて、どこか傷ついた面持ちで去っていった。
 窓のそとの雑踏に、肩をいからせた背中を見つける。その背に揺れる長髪が視界から消えるまでわたしは彼女の姿を目で追った。
 胸が痛む。
 しかしこれはわたしにとっても、友人にとって必要な傷だった。冷や水をかけてでも目を覚まさせておく必要があった。長年彼女のそばにいたわたしのそれが役目であり、使命である。
 彼女が取り返しのつかない真似をしでかしてしまう前に、止めなくてはならない。
 それが彼女の友であるわたしがかけてあげられるなけなしの誠意だ。
 わたしはメディア端末を取りだし、地図を起動する。市販の追跡アプリだ。ボタン状のちいさな発信機を忍ばせるだけで、任意の対象の居場所を割りだせる。
 友人をたぶらかす悪魔の現在地を把握し、わたしは席を立つ。
 友人にはもっとふさわしい相手がいる。あんな下品な女は似つかわしくない。
 わたしが認める相手でなければダメだ。友人を堕落させるような相手はすこしくらい痛い目に遭ったほうがよい。
 せめてわたしより友人のことを理解している相手であればよかったものの、そうでなければうまくいくわけがない。身の程を弁えず、我が友を誘惑するような野良猫には、相応の罰がいる。痛みがいる。教育が必要だ。
 学ばせなければならない。
 わたしのたいせつなひとを毒で侵すような相手には、恐怖では足りない。痛みを、つらみを、苦しみを以って、償わせなければならない。
 わたしから友人を奪った罪は、死を以ってしても贖いきれぬが、心優しい友に免じて、そこまではしない。
 人として。
 店のそとにでる。
 ビルの合間に夕日がかかっており、わたしは友人の悲痛そうな顔を思いだし、待っててね、と誓う。
 いま、助けてあげるから。


3080:【2021/07/13*あーん】
高校生くらいのときからたびたび定期的に妄想するのが、そのときどきの今を起点にして、十年後、二十年後、三十年後……の全盛期のじぶんを目のまえにしたときに、なんだこんなもんか、と思ってしまうのかどうか、ということで、おそらくはそう思ってしまうのだろう、というのをずっと繰り返している。これは逆にも言えることで、いまのじぶんのままで過去のそのときどきのじぶんに会ったとして、どう思ってもらえるかというと、まあまあふつうに、なんだそんなもんか、と思われるだろうな、というのを毎回のように思うのである。ただ、それはけしてわるいことではないとも思っている。未来のじぶんを見て、なんだこんなもんか、と思えたならきっとそのじぶんにはならないように現在の在り方を工夫するだろうし、過去のじぶんに、なんだこんなもんか、と思われたらきっとその過去のじぶんはいまのじぶんとは違った未来を辿るだろうと、そう思うのだ。ただ、全盛期のじぶんに会う、とは言うものの、なんの全盛期にかによってその年齢は変わっていくだろうから一概に言えないし、なんだこんなもんか、と思うような未来のじぶんがひょっとしたら、見えない部分で、とんでもない資質を開花させているかもしれない。これはじぶんにだけではなく、他者にも言えることだ。なんだこんなものか、と思ったなら、じぶんが変わる機会だと思って、どんどん変化していけばいいし、なんだこんなものか、と他人に思われても、そのひとに変わる機会を与えたと思って、そのままでいたらいい。或いは、なんだこんなものか、と思われたところで、見えない部分では相手を凌駕しているかもしれないし、あべこべに、なんだこんなものか、と思うような相手が、じぶんよりも優れていることも往々にしてあるものだ。けっきょくのところ、他者と比較することの意味は、じぶんの在り様をたしかめる以上のものではなく、それによって優劣が決まるわけでもない。もし決まるのだとしても、それは極々短期間のうちの極々一部の能力についてであり、そんなことに拘って、変化の機会――無数の選択肢――或いは可能性そのものを狭めるくらいならば、比較なんかしないほうがよい。もちろん拘らずにいられるのであれば、いろいろな人やモノと比較して、じぶんの足場をより精度高く見据え、どの方向にどのように進めば、理想のじぶんにちかづけるかを修正する習慣は、できればあったほうが好ましいが、あくまでそれはできるだけ失敗しないで済む道を見繕いたい、という効率化という名の怠惰でもあり、けっきょくのところそれもまた選択肢を狭め、可能性を限定する行為であることには留意しておいたほうがよいかもしれない。何が言いたかったかと言えば、過去や未来のじぶんにさえ胸を張って会うことのできないいまのじぶんが、ふがいなくて、情けなくて、へにょへにょになってしまうなぁ、という愚痴なのでした。(こんなはずじゃなかったんだけどなぁ、と思いつつも、まあこんなもんだろ、と思いもし、あーあ、とくよくよしたからといってこれといって奮起するわけでもなく、芝生のうえに大の字になって雲の流れをただ漫然と眺める日々を送れたら、それはそれでまあまあよろしいのでは、と思ってしまうくらいには、一貫して、自堕落街道を極めているのだよね。このままずっと苦労知らずで生きていけたらよいなぁ)



※日々、きょうをきょうと認め、もうにどと同じ日は巡ってこない尊い時間だと胸に刻んで生きるのがむつかしい、たったこれだけのことがむつかしい。


3081:【2021/07/14*凡庸】
いっぱい寝てしまった。以前からたびたび並べているけれど、ときどき十二時間とか、ときには二十四時間まるまる寝てしまうことがある。そうするつもりがあって寝るのではなく、気づいたら一日経っていたりする。さすがに二十四時間寝てしまうことは稀だが、まったくないわけではない。ただ、寝て起きたあとはスッキリしているのでよい。身体はバキバキだけれど、シュッと引き締まって感じられる。水分補給をしていないので脱水症状なだけかもしれない。食べてもいないので痩せただけとも言える。ただなぜかいつも顔がムクれているので、何むっつりしているの、と鏡を見るたびに思ってしまう。もっとにこやかで、誰からも愛されるかわいらしいお顔がよかった。極悪人みたいな顔である。真実に極悪人なのかもしれないが、それはそれ、これはこれ。なんの話だ。とはいえ、他人から見たらじぶんの顔なんて特徴のない顔だし、性格にしたところで、誰からも関心を向けられないような、どこにでもある性格だ。凡人なのである。凡人以下かもしれないが、それを含めて凡庸だ。すばらしい。さいきんはあまり出歩かないからか、すこし動くだけでも足の甲が痛くなる。足の甲が筋肉痛になるひとなんているー?と思うけど、ここにいます。いくひしさんだけかもしれないけれど、いっぱい寝ると知らぬ間に作品が増えていたりつづきが進んでいたりするのでラッキーだ。小人さんや妖精さんがいるのかもしれない。寝過ごした、と思ってもちゃんとその日の予定はこなしてくれているので、それもラッキーだ。こういう話をすると、何言ってんの、みたいな顔で見られてしまうけれど、ほかのひとにはそういう体験がすくないらしい。気づいていないだけなのではないか、と思うのだけれど違うのだろうか。あまり人としゃべらないので、本当のところが判らない。子どものころから覚えつづけている疑問で、性行為って本当にあるんですか、みたいな話だ。でもそちらは動画で確認できるので認めるよりない。世の人々は裸で他人と触れあったりするのだ。よく我慢できるな、とふしぎに思う。なんてすこし、じぶんちょっと異常なんですよ、みたいなことを醸してみると、じぶんの凡庸さを自覚できて心地よい。こういう妄想が発想の種になることもあるし、ならないこともある。他人に話して聞かせることでもないので、こうして日誌モドキに並べておくくらいがちょうどよい。


3082【2021/07/14*寝て覚める】
(未推敲)
 起きたら十二時間が経っていた。ときどきあることで、起きると身体が筋肉痛になっている。手のひらが汚れていることもあり、皮膚も汗でべったりしていたりして戸惑う。
 いつもいつも嫌な想像を巡らせてしまうけれど、これといって実害はないので、確かめようもないし、ほったらかしにしている。
 メディア端末にメッセージが届いている。知らない相手だ。
 きのうは楽しかったね、とある。
 何のことだろう。
 新しいメッセージが届く。つぎは女の子がいいな、と書かれており、私はその相手を拒否設定にした。
 肌がべたべたして気持ちわるい。
 汗を流そうとシャワーを浴びる。身体の表面をお湯が流れ、じぶんがここにいることを否応なく意識させる。存在していることに安堵とやはりどこかしら違和感を覚える。まだ夢の中にいるかのような浮遊感だ。
 手のひらの汚れがなかなか落ちない。
 床には、黒い汚れがゆわりと滲む。


3083:【2021/07/15*人間の中身】
初めて論語について書かれた本を読んだ。ずいぶん古い本で、新書なのに230円の値がついていた。本一冊がそのくらいの値段のときがあったのだ。論語は孔子という人の日々の会話を、その弟子たちが覚書きとして記して、のちに集めて編まれたものだ。紀元前の人だったんですね。人々がこぞってお金や地位を求めていた時代に生きた人らしく、そうした人間の欲求や社会の風潮に対して疑念を呈していた人でもあるようだ。お金や権力はだいじだけれどもっとだいじなものがあるのではないか、という価値観は現代にも通じている。と共に、何千年も前の人の価値観が現代に通じてしまうなんて、ほとほと人類は進歩していないのだな、と物哀しくもなる。技術ばかり進歩して、人間が進歩していない(進歩せずとも、人間の未熟さが暴走しないようにと仕組みが強化された面はすなおに高く評価できるにしろ)。技術とは違って、そうした人間の在り様のようなものは、蓄積されにくく、ゆえに次世代に継承されにくいものなのだろう。それでも現代にまで書物として引き継がれ、残っている事実には、何かしら生命の根強さ、ともすれば絶やさぬようにしようとしてきた者たちの執念を感じずにはいられない。残そうと抗った者たちがすくなからずいたからこそ、こうして現代にまで残ってきたのだろう。それとも、そうした個人がおらずとも広く人々に膾炙するようなものが自然淘汰のすえに残っただけなのだろうか。どちらもあるように思う。いずれにせよ、人間の内面の進歩のしなさはなんなのだろう。おそらくは、ある種の限界を突破した個は、死を選ぶ以外に自我を守ることはできなくなるのではないか、との予感がある。凡庸であることはある種の生存戦略であり、防衛反応でもあるのだろう。自己保存の戦略に優位な適応そのものと言える。人間は人間を極めすぎては生きてはいけない。いち動物であり、野蛮であることから逃れては生きてはいけないのだ。人間は神にはなれない。まずはそのことを認め、受け入れるしかないのかもしれない。だがそこに甘んじてしまえば、人間としての生は、動物に傾いていく一方である予感も湧く手前、そこはつねに手綱を握り、綱引きよろしく張り詰めているしかないのかもしれない。つねに希望を求め、絶望しつづけることで、綱渡りをする道化師のごとく。定かではない。


3084:【2021/07/15*開かない金庫】
(未推敲)
 その家は、亡くなった祖母から譲り受けた。人里離れた山中にあり、相続手続きそのものは祖母が入院しているあいだに済ませていた。生前贈与というらしい。
 祖母には孫が私以外にいなかったので、何かを遺したいとつよく希望していた。私としては固定資産税だとか維持費だとか諸々のお金がかかってしまいそうなので、本当なら二束三文でも売り払って処分してしまいたかったが、祖母のたっての願いともなれば無下にはできない。
 せめて街のなかにあればよかったものの、山のなかでは買い物にでかけるだけで一大事だ。交通の便がはなはだ不便で、電気ですら自家発電を使う。石油で動く仕掛けで、祖母は家にいるあいだほとんど電化製品を使っていなかった節がある。夜ですらランプの明かりを頼りに過ごしていたようだ。
 人の住む場所ちゃうよ、と私はいまは亡き祖母に嘆く。
 売るにしても、人に貸すにしても、放置するにしたところで、まずは片付けをしなくてはならない。私はなけなしの長期休暇に加え、有給休暇をとれるだけとって、祖母の家でしばらくのあいだ暮らした。
 思ったほど物がなく、すっきりした家だった。
 本来ならばこうした仕事は父や母の役割なはずだが、もらったのはあなたなのだからあなたがやりなさい、とにべもなく押しつけられた。
 祖母の家にはやたらと絵画が多かった。作者不明のものばかりだ。どれも壁に飾られている。絵にはふしぎな魅力があり、たしかに目を奪われる。
 売ればそれなりの値が張りそうに思えた。
 古い絵ではなく、現代の芸術家たちの作品だろう。どういったルートで祖母がこれら絵画を入手したのか想像もつかない。知り合いに画家がいたのかもしれないが、絵はすべて別人の手によるものに思えた。
 私は一つずつ絵を壁からはずし、丁寧に毛布でくるんだ。足りなくなったら絨毯を使った。祖母の家にはなぜか毛布や絨毯が大量にあった。
 ひと際大きな絵を最後にとっておいた。これをはずしてしまうと置き場所に困る。まずは床掃除やほかの部屋の片づけを済ましてから着手することにした。
 三日をかけ、おおむねの部屋の片づけを終える。
 祖母の私物を片っ端から捨てるものとそうでないものに分けるだけなので、思ったほどには大変ではなかった。捨てるゴミは、燃やせるものは家のそとにあるドラム缶で燃やしてしまうことにし、そうでないものは自動車に積んで、焼却場に運ぶことにした。
 祖母は日常的に生ごみなどのゴミはドラム缶で燃やしていたようだ。広大な庭には畑があり、生ごみは堆肥として撒いていたのかもしれない。
 最後に、ようやく例の大きな絵をはずした。
 想定外だったのが、絵のかけてあった壁に、金庫が隠されていたことだ。絵は金庫を隠すためのカモフラージュだったようだ。
 私は昂揚した。
 祖母はひょっとして孫である私に何かとてつもない財産を遺してくれたのではないか。
 しかし金庫はダイヤル式と鍵の組み合わせで、すくなくとも私は祖母から暗証番号や鍵の在処を教えてもらってはいなかった。
 金庫は大きく、膝を抱えたなら人間でもなかに入れそうな体積がある。仮に紙幣や金塊がめいいっぱいに詰まっていたら、一夜にして億万長者だ。ただし、やはり開け方が分からず、どれだけ取っ手を引いてもびくともしない。工具を使って数十分ほど格闘してみたが、やはり扉は頑として開かなかった。
 部屋のどこかに金庫の鍵があるかもしれない。そうと思い、片付けを念入りにつづけたが、いちど家のなかを空っぽにしてみても、金庫の鍵は見つからなかった。
 そんなものは端からないのかもしれない。
 真実に祖母が金庫を重宝していたのならば、私に一言残して死んだはずだ。きっと祖母も金庫の存在を忘れていたのではないか。
 それはそうだ。
 山の中で孤独に暮らしつづけた超人のような祖母とて、あれだけ大きな絵画を毎回のように上げ下げしていたとは思えない。絵画で塞いでいたということは、日常的には使っていなかったことを示唆する。
 なぁんだ、と思うと、金庫への思い入れは急速に萎んだ。私はけっきょく祖母の家を手放すことにした。好きにしていいと祖母からは言われていたので、甘んじて処分しようと思う。
 木漏れ日のトンネルを抜ける。車道を狐が横切り、蝉の大合唱が青空を埋め尽くしている。山だからか毎日涼しかった。
 来年のいまの時期にまた時間をとって、業者に頼んで家を崩してもらうことにした。
 いちどそうと決めてしまうと、祖母の家のことはすっかり記憶の底に沈み、仕事とプライベートに明け暮れているあいだに一年はあっという間に過ぎ去った。
 翌年、予定通り、長期休暇に祖母の家に向かう。予約しておいた業者は重機を敷地内に運び入れていた。責任者に許可をだして、取り壊しをはじめてもらう。
 崩し自体は半日もあれば終わりますよ、と業者の方が言っていた。ブルドーザーが屋根に穴を開ける。ケーキをスプーンで掬うようだな、と長閑な感応が胸に湧いた。すこしの寂寥がある。
 祖母はずっと独りでここに暮らしていたのだ。
 ふと、祖父はどんな人だったのか、と気になった。会ったことはなく、私が産まれる前に失踪したと聞いていた。金庫の存在が脳裏をかすめる。
 私は嫌な予感を覚えた。
 祖母はいったいいつからこの家で暮らしていたのか。
 頭痛のようなもので息苦しくなった。
 いまさら作業を中断させるわけにもいかない。どの道、金庫の扉は開かないのだ。じぶんにそうと言い聞かせて、私は昼食を食べに、現場を離れた。現場責任者には一言その旨を言い添えた。夕方には終わっているだろう、と言っていたので、それくらいを目途に戻ろうと思っていた。
 だが山の麓の食事処でソバを啜っていると、連絡が入った。現場責任者からだ。問題が生じて、対処に困っているという。
 金庫がどうのこうの、と言っていたので、私は息が詰まった。きゅうと首を絞められている心地に陥るが、電波越しに聞こえる現場責任者の声には、こちらを非難するような響きはなく、ただただ困惑気味に、まずは戻ってきてくださいませんか、と繰り返した。「言葉では説明できないので、まずは見てもらわないことには」
 私は自動車を走らせ、祖母の家を目指した。
 家はすでにその姿を瓦礫の山に変えていた。作業はほぼ終了していた。あとは木材やら瓦礫やらを撤去するだけだ。
「何があったんですか」私は現場責任者に声をかけた。
「それがですね」
 現場責任者は私を、家の建っていた地点、瓦礫の山に案内した。瓦礫の一部がどかされており、道ができていた。
「これなんです」
 案内された場所にあったのは金庫だった。
 ふしぎなことにその金庫に足場はなく、宙に浮いている。
「どうなっているのか我々にもさっぱりでして。重機でどかそうと思っても、びくともしないんですよ」
「こじ開けたりできますか」
「いいんですか」
 現場責任者はそれこそを求めていたかのように目を見開いた。
 果たして、重機を用いて金庫を乱暴に扱ったが、どのような破壊工作にも金庫はうんともすんとも反応しなかった。つまりがまったくの無事だった。傷一つつかない。
「ふつうじゃないですよ」現場責任者は言った。「どこか専門の機関に相談されたほうがよいかもしれませんね」
 いったいどこにそんな機関があるのか、と問いたかったが、そうします、と言って、この件はこちらで引き受けることにした。
 それから二日をかけて土地からは瓦礫が運ばれ、更地となった。
 宙に浮いた金庫はますます目立つ存在となった。
「ふしぎですね。どうするんですか」
「専門の機関にでも相談します」
 皮肉を言ったつもりだったが、そうしたほうがよさそうですね、と言い残し、仕事を十全に終えたとして業者は去っていった。サービスのつもりなのか、金庫の高さにまで足場を組んでくれた。
 私はけっきょくその日のうちに山を下り、以降、しばらくそこに立ち入らなかった。
 数年後に、あれは夢だったのではないか、と思い、山に立ち入ったが、やはり金庫は宙に浮いたままそこにあった。
 私はこの数年のあいだに小金持ちになっていた。祖母の遺した絵画を売りに出したら思いのほか大金となったのだ。何に使おうかと案じていたが、宙に浮く金庫を見ているうちに、ここに住まうのもよい気がしてきた。
 大金を手にした途端に煩わしくなった人間関係に疲れ果てていた。両親の顔は見たくもない。
 私は例の業者に連絡をして、家を建ててもらうことにした。建築業者でもあったので、二つ返事で引き受けてもらえた。
 金庫の存在を知る者はすくないほうがよい。できれば内密でお願いしたいと、守秘義務契約を結んだうえで依頼した。
 半年後にはコンクリート製の家が建った。
 一見すれば瀟洒なコテージだ。三階建てなので、マンションのようでもある。
 金庫は壁のなかに埋めてもらった。どうあっても微動だにしない金庫は、これ以上ない大黒柱の代わりとなる。
 羽振りのよい支払ぶりにか、業者は終始丁寧な仕事をしてくれた。
「これからも御贔屓にどうぞ」
 丁重な挨拶を残し、業者は山をあとにした。家のなかには生活するのに困らないだけの家電や家財道具、山盛りの保存食まで用意してくれていた。
 私は一人になった。
 しかし山のなかでの生活は思いのほか時間がゆったりと流れ、やるべきことは多かった。自給自足するための畑を耕し、洗濯を手洗いでし、じぶんの糞尿やら生ごみで堆肥をつくって、肉を補うべく山に罠を仕掛けて回る。
 鳥や兎が取れたら、血抜きをして肉に捌き、半分は干し肉にして保存をきかせ、もう半分は数日のうちに食べた。
 水道は湧水を利用できたのがさいわいだ。
 火だけは定期的にガスボンベを購入しなければならないが、そこは定期的に入れ替えてもらう契約をしてある。そのうち薪で火を補えるようにしようと企てているが、まだその余裕はない。
 すこしずつ慣れていければいい。
 寂しさを感じる暇もなく、日々、かいがいしく生を営んだ。
 ある日、揺りかごのような椅子に座り、うつらうつらしていると、物音がして目覚めた。ランプの明かりが部屋に陰影を刻んでいる。
 チチチチッ、と機械的な音が細かく鳴った。
 何かが回っている。
 右に、左に。
 ダイヤルだ、と閃くと、脳裏に金庫の像が浮かんだ。
 すっかり忘れていた。
 金庫の埋もれた壁のまえに赴く。
 柱ごと壁に沈んでいるはずだが、その場所から、チチチチチッ、と音が聞こえている。
 息を呑み、壁を見詰める。
 何かが差しこまれる音がした。
 一拍の静寂のあと、重々しい硬質な響き、何かがはずれる音がする。


3085:【2021/07/16*遺伝子と環境】
仮に、知能が高い人間ほど生殖行為を回避する傾向にあったとする。そのとき、知能の高い人間たちが子孫を残せず、知能の低い者たちばかり繁殖したのでは、人類の損だ、と感じるなら、それは優勢思想に染まっている何よりの傍証と言える。どんな遺伝子を残すのか、は問題ではない。どんな遺伝子であろうとも、環境のほうが変われば、その優位性はそのつど変わっていくのだ。優れた遺伝子というものはない。たとえあるように視えても、それは限定的な環境の範囲内での極々短期間の優位性であり、それが生物として、ひいては人間としての最適解ではないのだ。極限ではない。学者やオリンピック選手の遺伝子を残さないなんて損だ、みたいな価値観が未だに社会に根強く漂って映るので、だいじょうぶですか、と欠伸をしたくもなる。仮に何かを残すことに意味があるのだとしたらそれは、特定の遺伝子ではなく、環境そのものだと言える。先天的な資質よりも遥かに、後天的にかつ文化的に育まれ、発揮される能力のほうが、人間の可能性というものを飛躍的に高め、規定している。どんなに優れた人間とて、コンピューターを使った人間よりかは演算能力は低い。同時に、そうした道具を活殺自在に操れるような教育を受けられたか否かによっても、個人の発揮できる能力の多寡は著しく増減する。どんなに足の速い人間とて、自動車には適わない。空だって飛べない。海底にだって潜れない。運動能力にしろ知能にしろ、どのような環境で学べるのかが、その者の能力の向上に大きく作用する。限定する、とそれを言い換えてもよい。特定の血筋なる遺伝子の継承は、環境に蓄えられていく文化の来歴に比べれば遥かに些事だ。べつに「私」の遺伝子が残る必要はない。それよりも重視すべきは、「私」の残した影響が、いかに環境を拡張し、維持し、発展させ、蓄積され、保持されていくのかにある(寝たきりの人であれ、そういった属性の人間が生きていられる余地――ときに工夫――を社会に与える。どんな属性を有した人間であれ、しあわせに生きてもらえるだけで、その者の影響が社会に反映され得ると言える)。赤の他人の子とて、我が子のように慈しみ、或いはほかのどんな子どもたちであっても「連綿と蓄積されていく文化の恩恵」を享受できることのほうが遥かに意義がある。人としてはむろんのこと、生命としての意義がある。極論、その意義とて、必ずしも人間が果たしていく必要もない。いずれ人類は滅亡する。そのときに残した環境への影響が、また新たに繁栄する生命へと何かしら作用し、ときにこの世界そのものに刻まれる。発展することがいずれ破滅に結びつくのであれば、こうした意義とて、果たして本当に意義があるのかは疑問だ。人間のような文化を育まずとも、細菌や動植物は死滅を繰り返し、進化しつづけている。果たして、より人間らしくあろうとすることにいかほどの意義があるのか。とはいえ、いまのところ人間以外に人間らしく生きることはできない。目指すことはできない。可能性を広げていくことはできないのだ。善悪ではない。ただ、意義のみが残る。影響だけが残る。作用を働かせた来歴のみが、この世界に刻まれ、薄れ、虚無となって引き継がれていく。遺伝子はそう遠くない未来に失われるが、環境への作用だけは、たとえ生命が滅んだとしても、この世界そのものに漂いつづける。可能性の揺らぎとして、ふたたび同様の環境が生じ得る余地を残す。人間らしくあろうとすることが、結果として、その可能性を最大化するのではないか、との期待があるが、果たしてそれもどこまで正しいのかは定かではない。人間らしい、の人間とは何なのか、によっても変わっていく話である。可能性を最大化することにどんな意味があるのかも解らないが、すくなくともいまのところ、特定の遺伝子を残そうとすることよりかは、どんな環境を残していくか、のほうを重視するほうが、より人間らしい在り方だ、と言えそうだ。遺伝子の継承よりも、個の至福を優先する。そうした環境を築き、拡張し、改善していくその循環を保持しようとする働きこそが、人間を人間足らしめるのではないか、との直感がある。もちろん、遺伝子の交配――すなわち生殖を以って至福と見做す個がいてもいいし、そうした個が増えるためにはやはり、それ以前に、個が個として豊かに、至福をより自由に追求できる環境が築かれていることが求められるのではないだろうか。定かではない(本当にそうなのかなぁ、なんか釈然としないなぁ、と首をひねりながら並べた文章ですので、真に受けないでください)


3086:【2021/07/16*夜の鳴き声】
(未推敲)
 繁殖期なのか、夜な夜な猫の鳴き声がうるさい。
 ナギャー、ナギャー、とお盛んである。
 音は遮蔽物のない上空に逃げる傾向にあるため、アパートの二階に住んでいたこともあり、余計に響いて感じられた。昼は昼で隣の部屋の新婚夫婦の口喧嘩が煩わしい。
 だいじな試験も迫っており、勉強が妨げられて怒りが募った。
 猫ですら交尾しているというのに、我が身の色恋のなさはなんであろう。
 ある日、ついに堪忍袋の緒が切れた。夜食に食べようとしていたカップラーメンのために沸かしていた湯を、窓のそとから眼下の闇にぶちまけた。
 ひと際大きく、ナギャー、と聞こえる。
 続いてなぜか子どもの名を叫ぶ女の悲鳴が、闇夜にとどろく。


3087:【2021/07/16*逃避者はモクする】
(未推敲)
 仕事帰りに、夜道でパジャマ姿の女の子とすれ違った。女の子は小柄で、中学生にも、高校生にも見えた。
 小走りで去っていったので、なんだろう、と気になったが、追って理由を訊きだすわけにもいかず、ふたたび歩きだす。
 すると数分もしないうちに前方から、二人組の若い男が駆けてきた。こちらに目を留めると進路を塞ぎ、いまパジャマを着た女の子がきませんでしたか、と息も絶え絶えに言った。
 丁寧な口調で、必死そうな表情だったこともあり、ついつい女の子の去った方向を教えてしまった。男たちは短く礼を述べ、私の指し示した方向へ駆け去った。
 私は帰宅後、しばらくもやもやした。
 ひょっとしたら女の子はあの男たちから逃げていたのではないか。
 私の懸念は的中したらしい。
 後日、私の住まう地域で女性の死体が発見された。まだ若く、バイトに出かけたきり帰らずに、遺体で発見されたそうだ。
 私は警察に、私の見聞きしたことを話すべきか迷ったが、ひょっとしたら関係ないかもしれないと思いこむことにし、記憶に蓋をした。
 だがそれからひと月後、ふたたび同じ出来事に遭遇した。
 前回とまったく同じだった。
 坂道で、パジャマ姿の少女が逃げており、走り去ったあとで、二人組の男が追いかけてきた。これこれこのような女の子がきませんでしたか、と訊かれるところまで同じだった。
 私は訝ったが、不信感はおくびにもださずに、鷹揚に応じた。「あっちに行きました」
 私は少女の去ったのとは真逆の方角を示した。
 男たちは礼を述べ、私の指し示した方向に走り去った。
 男たちは背にうまく隠していたようだが、すれ違う間際に、その手に棒状の道具が握られているのが見えた。
 私は動悸が乱れ、しばらく興奮状態に陥った。
 あの男たちは、いずこより少女たちを連れ去り、乱暴しているのではないか。私は前回、せっかく逃げた少女をみすみす悪魔に引き渡す手助けをしてしまったのではないか。殺人の片棒を担いてしまったのではないか。
 警察に言うべきだろう。
 そうだそれがいい。
 思うが、なかなか踏ん切りがつかなかった。
 誰かに事情を話せばそれはそのまま私自身の罪を告白したのも同然だった。
 もしあの少女がテイよく逃げおおせたならば、誰かに助けを求めただろうし、警察にも保護されるだろう。そうすれば私が何もせずとも事件は公となり、解決に向かうはずだ。
 私はけっきょく秘密を胸に、口を閉ざす道を選んだ。
 だが数日後、こんどはこの地区で、数名の遺体が発見された。六名が死んだ。そのうち四名は男であり、うち二人の顔写真には見憶えがあった。
 私に声をかけてきたあの二人組だ。
 どういうことだ。
 私は戸惑った。
 事件は通り魔殺人として扱われ、残りの被害者二名はいずれも三十代の女性だった。
 それからというもの、日に日に、同様の被害者が続出した。
 みな首筋を鋭い刃物で抉られているそうだ。
 遺体を目にした近所のひとが、何かに噛まれた跡みたいだった、と語っているのを、バス停で耳に挟んだ。
 得体の知れないナニカがいま、この街で猛威を振るっているが、私は誰にも何も話せずにいる。


3088:【2021/07/17*足裏マッサージ】
足の甲と裏がガチガチに固まってしまって、歩くだけでも痛くなった。打撲やねん挫をしたわけでもなさそうで、ひょっとして凝っているのでは?と思い立ち、マッサージを試みた。指圧をするにも足の裏さんが冷凍保存したササミですか、くらいに固すぎて、却っておててが凝ってしまいそうなので、折衷案としてダンベルを踏むことにした。一キロくらいの軽いダンベルがあり、両端にまるこい突起物がついているから、それを踏んでみたわけである。激痛である。乗れない。ぜんぜん乗れない。一秒も保たない。壁に手を添えて、体重を三分の一くらい減にして乗ってみたらそこそこ耐えられるけど、やっぱり痛い。こんなに痛いもんなのかな。アイタタ、アイタタタ、となりながらとりあえず三十回ふみふみした。降りてみると、たったこれだけでも足が楽になって感じられた。三回繰りかえして、お終いにしたのだが、翌日に再度試みると、きのうよりも痛くない。こころなし身体全体が膨らんで、血液が巡っている感じがする。ほんとにー?とじぶんでも疑ってしまうけれども、全身がむくんでいる感じがする。寝すぎただけでは?とも思うけれども、あーでも、そうかも。寝すぎただけかも。ただ、足の甲の痛みはとれたので、ダンベルふみふみは無駄ではありませんでした(ほんとか?)。しばらくつづけたいと思います(いいのか?)。なんとなくのノリで日々を生きている本日のいくひしさんでした。


3089:【2021/07/17*痛覚転移装置】
(未推敲)
 背に腹は代えられなかった。借金で首が回らなくなり、それならしょうがないと取り立てにきた相手から紹介されたのが、治験だった。
「半年のあいだ、これを肌身離さずつけてりゃいい。使うも使わぬもおまえしだいだ」
 まるで治験の依頼元と通じているかのようにその男は言った。
 渡されたのは腕時計だった。いまどき流行りのメディア端末の亜種だろうか。
「本当にこれをつけているだけで借金がチャラになるんでしょうか」
「なる。そのうえ余った報酬まで払ってやる」
「そんな美味い話があるわけないですよね。教えてください、どんな危険があるんですか」
「それを知りたいからおまえに使ってもらうんだ。その腕時計にボタンがついているだろ」
「あ、側面のこれですかね」
「押すとレーザーみたいな光線がでる」
「あ、ほんとですね」赤い光線がどこまでも伸び、壁に赤い点を浮かべた。
「それを人に当てると、その相手におまえ自身の痛みを移すことができる」
「はぁ、へぇ、そんなことが」半信半疑なのが伝わってしまったのか、男は渋面を浮かべた。「使って見りゃわかる。おまえちょっと立て」
「へい」
「いまから軽く殴るからよけんな。そのあとで痛みをおれに寄越せ」
「え、でも」
 不平を鳴らす前に頬を殴られた。「どうだ、痛いか」
「ほれはもう」
「なら時計のボタンを押して、おれに痛みを移せ」
「こうですか」
 言われた通り、腕時計型の機器を操り、光線を男に当てた。見る間に頬の痛みが薄れていく。あべこべに男が頬を手で押さえ、もういいもういい、と手を振った。「めっちゃ痛ぇなこのやろう」
「そんなぁ」
 殴ったのも、痛みを寄越せと言ったのも彼のほうだ。
「まあいい。使い方は分かったろ。半年後にまた連絡する」
 男が踵を返したので、あの、と呼び止める。
「なんだ」苛立たし気な声だ。
「確認なんですが、ひょっとして期限がきたときに、ぼくの移した痛みがまるごと返ってきたりはしないですよね。そういう副作用みたいなのがあるなら知っておきたいので」
「それはない。他人に移した痛みは基本そのままだ。その機器を使わなきゃおまえに戻せない」
「ぼくに痛みを戻したりは」
「しねぇよ。だいたい、同じ相手ばっかに移す気か。四方八方、老若男女に使われたんじゃ、その全員を集めなきゃなんねぇだろ。そんな七面倒なことはしない。あくまでおまえがそれをどう使うのかを見たいだけだ」
「監視するということですか」
「いや」男は面倒そうに頭を掻きむしった。「記録に残るんだ。痛みの数値と、使用回数だな」
「ぼくに損はないと?」
「何を損と見るかだ。それを使えば痛みを他人に移せる。使うも使わぬもおまえしだい。強制はしない。半年後に回収し、借金をさっぴぃて残った報酬を支払う。おれがするのはそれだけだ」
「わかりました。こんなチャンスをくださってありがとうございます」
「まったくだ」
 男は店をでていった。
 喫茶店だというのにほかに客はなく、店員も男がでていくまで現れなかった。そういう場所なのだ、とぼくは見抜く。巨大な権力のなせる業だ。
 ぼくはその日から腕時計型痛覚転移装置を身に着けてすごした。
 痛覚転移装置を使用したのは、男から説明を受けたあと、治験開始から三日後だった。本当ならずっと使わずに終えようと思っていたのに、誤って釘で太ももを傷つけてしまった。
 バイトに遅れると思って近道をしようと思ったのが裏目にでた。柵の支柱から飛び出ていた古い釘に足を引っかけ、太ももに切創を負った。バイトには間に合ったが、痛みがズキズキとうるさくて、集中できず、かといって早退するわけにもいかず、仕方なく、痛覚転移装置を使うことにした。
 痛みは上司にあたる正社員に使った。
 傷口に巻く包帯を、近くの薬局に買いに行かせてほしい、と頼んだのだが、もう始業時間はすぎているからダメだと言われた。「どうせ浅い傷だろ。ツバでもつけてろ」
 ズボンが血だらけだったのにそんなことを言う。制服に着替えるからよいものを、それだって血を止めなければ汚れるのだ。ほかのバイトの女の子が見兼ねてか、絆創膏をくれたので、それでやり過ごした。
 しかしやはり痛みが我慢できなくなり、例の上司に痛覚転移装置を使った。ボタンを押し、赤い光線を上司に当てる。すぅ、と痛みが失せた。すると上司が呻き声をあげ、その場にうずくまった。同僚や部下に囲まれ、控室で手当てを受けたらしいが、外傷はない。
 念のため病院で看てもらうためか、上司は早退した。
「大袈裟だよね」絆創膏をくれた女の子が笑った。
 ぼくはそれから、怪我をするたびに痛みを他人に移した。できるだけ気に食わなくて、痛い目を見たほうがいい人間を選んだ。
 弱い者いじめしている者をこらしめるために、わざとじぶんでじぶんを痛めつけ、傷を負うこともあった。効果は覿面で、移した痛みは持続的に対象を弱らせた。
 虫歯の痛みなどは、じつに効果があった。移した痛みに痛め止めはきかず、歯医者にいっても治らない。治療すべき歯がそもそもないのだからそうなる。痛みだけを移しているのだからそうなる。
 突然の頭痛にも、腹痛にも、ぼくはよろこんでそれら痛みの到来を受け入れ、他人にその痛みを与えた。なんだか日に日に体調がわるくなったが、そうした倦怠感すら他人に移せた。疲れや痛みから解放され毎日元気だ。気分もすこぶるよい。
 ある日、バイトの女の子に勇気をだして告白したけれど、振られてしまった。どうして失恋の痛みは他人に移せないのだ、とくるしい日々を送った。八つ当たりではないけれど、ますますぼくはじぶんを傷つけ、その痛みを、ぼくにとって好ましくない相手になすりつけた。
 ぼくを袖にした女の子には、冗談まじりに痛覚転移装置を腕につけさせて、苦しそうな生理痛をぼく自身が肩代わりした。
 こんなに苦しいのに女の子たちはみんな何気ない顔をして生活していたのか、とびっくりした。とてもではないけれど我慢できなかったので、その痛みも、嫌な上司に移してやった。
 そのせいなのか、もうおまえこなくていいよ、と急にバイトをクビにされた。抗議することはできたけれど、おとなしく辞めることにした。
 例の半年の期日が迫っていた。無理をしてまでお金を稼ぐ必要がなくなる。
 思えばあっという間の半年だった。
 借金の取り立ての男から、治験は終わりだ、と連絡があった。指定された喫茶店に足を運ぶ。
 男はそこで、腕時計型痛覚転移装置を返すようにとさっそくぼくをせっついた。ぼくはおとなしく従った。
「どうぞ」
「たしかに。で、どうだった使い心地は。この様子じゃ、けっこう使いこんだクチじゃないのか」
「ええ、まあ」
「借金は完済。で、残りの報酬がこれな」
 分厚い封筒を受け取る。「こんなに」
「また金に困ったら声かけてくれよな。上客には親切にするぞウチは」
 じゃあな、と男はそそくさと退散した。
 ぼくは男を見送る。
 ゆっくりとコーヒーを飲んでから店をでる。
 封筒をだいじに抱えて帰路をいそぐ。
 途中、信号待ちをしているときにビルのショーウィンドーにじぶんの姿が映った。顔面は青あざだけで、露出した肌にはいくつも切創が刻まれている。傷口は膿んでいるのかジュクジュクに爛れており、見るからに痛々しいが、痛みはない。
 しかしなぜか手足が麻痺したように震え、封筒を落としてしまう。
 信号機が青になる。
 横断歩道を歩行者が渡る。
 封筒を拾おうと屈むと、胃から何かがこみあげ、吐しゃする。
 なぜか封筒が真っ赤に染まった。痛みはない。
 頭のなかで何かが弾けた感覚が湧く。
 急に身体が動かせなくなり、ぼくはその場に倒れこむ。
 信号機が赤になる。
 自動車のクラクションが鳴るが、ぼくの身体はなぜかまったく動かない。


3090:【2021/07/18*青空の妖精】
飛蚊症と言えば、だいたいのひとには通じるはずだ。視界のなかに半透明のひも状の像が映り込み、目で追おうとすると、するすると逃げるあれである。反発する磁石のように逃げるので、おもしろい。ところが、ブルーフィールド内視現象と言うと、これはたぶんほとんどのひとには通じない(現時点ではまだ知名度が低い)。光の粒みたいなものが視界に無数に蠢いて見えるのだ。天気のよい日に原っぱなどにいくと高確率で視えた。いまでも視える。そういうことを言っても、飛蚊症でしょ、とか、どうせまた嘘でしょ、とか、そういうことを言われてきたけれども、個人的には、毛細血管内の赤血球や白血球が視えているのではないか、と疑っていた。実際に、光の粒はそれぞれに通り道があり、同じ場所を通って視えるからだ。十何年も経ってから、それらがブルーフィールド内視現象と呼ばれていることを知った。というかきょう知った。やっぱりあるんじゃん、と思った。そして睨んでいた通り、毛細血管内の白血球が影となって視えているそうだ。本当かは知らないが、理屈としては妥当に思える。むかしからこういうことが多かった。言っても信じてもらえない。あるのかどうかを簡単には証明できない。でもいくひしさんにはそれが感じられるのだ。錯覚かもしれないが、錯覚を起こしている仕組みはあるはずだ。幽霊が真実におらずとも、幽霊のようなものを視たと感じることはあり得る。寄り目をすれば世界は二重に視えるが、だからといって真実に世界が二重になっているわけではない。人間の主観は信用ならない。だからといって、二重に視えていることそのものを否定する論拠にはならない。単純な理屈のはずだが、なかなか共有されにくい。他人の言説を無闇に無下にしないほうが好ましいように述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください(ブルーフィールド内視現象は原理的に誰にでも視えるらしい。気づいているか否かの違いと言えよう)



※日々、愛されたいと思いながら、愛されていることに気づかない、本当はただただ愛し合いたいだけなのだ、愛するに値する誰かを夢想しているだけなのだ。


3091:【2021/07/18*マンマンマン】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんは気づいてしまったでござるよ。ひょっとしていま、めっちゃ暑くないでござるか。おそとがおそとが、カンカンのテリテリでござらん? うでとかヒリヒリするでござる。おうちのなかで、ぐーだらぽんって、へめりへめりしているだけのいくひしさんのおうでが、ヒリヒリするでござる。空気さんも、ムンムンもわもわしていて、いくひしさんはいくひしさんは、もうもう、とけちゃうでござるよ。雪だるまさんでもないのに、とけちゃうでござる。そしたら、いくひしさんは、びしゃーってなって、しゅるしゅるしゅっわわーってなって、蒸発して、ふわふわして、雲さんになるでござる。腕とかいっぱい生えて、おめめもたくさんで、おちりから糸なんか吐いちゃって、ぷぷー、それは蜘蛛さんでござるよ。スパイダーさんでござる。いくひしさんは、ほんとうはいくびしまんでござるから、きっとスパイダーさんになったら、すぱいだーマンになるでござる。ぷぷー。とってもおもちろいでござる。いくひしさんはなろうと思ったら、ばっとマンにも、すーぱーマンにもなれるでござる。うるとらマンにも、あんぱんマンにもなれちゃうんでござるよ。なれちゃうんでござるか? 名前だけならなれちゃうでござる。名字を変えちゃえばいいんでござるよ。あやや。なんでござるか。スパイダーマンのスパイダーは名字じゃないんでござるか。バットマンのバットは名字じゃないんでござるか。スーパーもウルトラもアンパンもぜんぶ名字じゃないんでござるか。だめでござったー。いくひしさんはヒーローにはなれないんでござるよ。ヒーローさんたちとご結婚おめでとうございます、しても、ヒーローさんにはなれないんでござるよ。だいいち、いくひしさんはヒーローさんたちとご結婚おめでとうございます、ができるんでござるか? 名字さんを変えれたらヒーローさんになれるとして、いくひしさんはヒーローさんたちとご結婚おめでとうございます、できるんでござるか? できそうもないでござる。なれないでござる。ご無理でござる。到底不可能でござる。本当のことだからってなんでそんな哀しいことを言うでござるか。なかにはいくひしさんとご結婚おめでとうございます、したくなるヒーローさんもいるかもしれないでござるでしょ。ぷーくすくす、するのはやめてくださいでござる。惨めでござる。夢を見るだけならタダでござる。たとえばぶたさんとご結婚おめでとうございますをしたら、ぶたマンになれるでござるよ。ぶたさんはかわいいでござる。いくひしさんも、ぷひぷひ鳴くでござる。食べて、寝て、また食べて寝るでござる。得意でござるよ。相性がよさそうでござる。いくひしさんはきょうからいくびしまん改め、ぶたマンでござるよ。え、なんでござるか。ぶたさんがご遠慮したいと申しでているでござるか。お断りなんでござるか。そんなーでござる。ぶたマンになりたかったでござる。いくひしさんはぶたマンがだいすきでござるから、どうしてもぶたマンになりたいでござる。だめでござるか? あびゃー。ここまでしてもダメでござったでござる。もういいでござる。こうなったらいくひしさんはじぶんさんとご結婚おめでとうございます、をするでござる。じぶんさんは、またの名を、我さんでござる。いくひしさんはきょうから、我マンになるでござる。我マンでひとまず、我慢するでござるよ。うぷぷ。またおもちろいことを並べてしまったでござる。なんて自画自賛するなんて、いくひしさんてばほんとうに傲慢さんでござるな。あびゃびゃ。きょうはこれにて、おやすみなさいでござるー。


3092:【2021/07/19*変心】
(未推敲)
 朝起きたら巨大な虫になっていた話は、カフカの「変身」で有名だが、まさか似たような出来事が我が身に起きるとは夢にも思わない。
 朝起きたら蝶になっていた。
 大きさはそれこそ、人間の身体が蛹だったら、これくらいの蝶が羽化するだろうなぁ、という大きさで、端的にめっちゃでかい。現に布団のうえにはじぶんの身体が、抜け殻然と横たわっており、割れた背中から覗く内面は、どこかエイリアンの皮膚を連想する。
 カフカの小説通りの展開ならこのあとわたしは不遇な目に遭うはずなのだが、結論から言うとそうはならなかった。
 というのも、わたしが羽ばたくたびに、背から生える羽からは、鱗粉が舞うのであるが、これがどうにも黄金であるらしい。しかもかなりの量が無尽蔵に舞い落ちる。粉雪だってもうすこし控えめに積もるというのに、わたしが飛んだあとには、黄金がこれでもかとこんもりと残る。
 最初に私に掴みかかろうとしたのは、わたしの母だった。娘の部屋に巨大な蝶がいたのだからさぞかしびっくりしただろうと思うのだが、じっさいには悲鳴一つ上げずに、冷静に状況を把握し、おっかなびっくりとわたしの名を呼んだ。
 わたしは声をだせなかったので、代わりに羽をぱたぱたした。イエスの合図のつもりだったが、そこで予想外に大量の黄金が舞い、床にこんもりと黄金の粉を積もらせた。
 母は一瞬ぎょっとしたようだが、おそるおそるといった調子で、黄金の山に手を伸ばすと、それを凝視した。
 しばしの間があくと、目を黄金から逸らさずに母は、わたしを掴もうとした。
 わたしは母の腕を避けた。
 母は、TVに夢中の子どもが画面から目を離さずにジュースをとるような手さばきで、幾度もわたしを捕まえようとしたが、わたしは母の手つきがなんだかいやらしく映り、ひょいひょい、とよけた。
 母はいよいよ目をこちらに寄越し、じっとしていなさい、と怒鳴った。
 わたしは母のその物言いには慣れていた。娘を支配下に置きたいときの呪文のようなものだったが、わたしにそれが効いたのはもう何年も前のことで、それこそ中学校にあがる前までの話だ。
 母とて、そんなおためごかしが娘には通じないことくらい承知であるから、久しく聞くこともなかったが、黄金を目のまえにした母にはそうした道理もどこ吹く風のようだった。
 わたしは窓からそとに飛びだした。文字通り、宙を舞い、母から逃げた。
 おそらくこれが間違いだった。
 否、ほかにどうすればよかったのかは分からない。ただし、我が母ですら目の色を変え、理性を失うような黄金の粉を、わたしは羽をひらりと煽るだけで、こんもりと地面に積もらせてしまうのだから、わたしが通ったあとの地面には、くっきりと黄金の道ができていた。
 シルクロードならぬゴールドロードである。はなはだ語呂がわるい。
 ちなみにいまさらであるが、わたしはカフカの「変身」を読んだことがない。仮にこれがどこぞの小説家のオマージュだとすれば、よほどリスペクト精神が足りないと言えるが、現に体験しているわたしからすれば、カフカ先生よ、もっと足しになる教訓を描いておくれよ、と文句の一つも挟みたい。
 虫になって、それでいったいどうすればよいのか。
 ぜひとも虫サバイバル術をご享受ください。
 いまは亡き文豪に祈りを飛ばしているあいだに、わたしの真下には、わたしの黄金を奪い合う町人たちと、黄金の源であるわたしを捕縛せんと追い回す下々の姿があった。
 あはは、人が虫のようだ。
 いや、と冷静になる。虫はわたしだ。
 時間の経過にしたがって、わたしを追い回す人々は徐々に手段を選ばなくなっていった。罠を仕掛けるなんて序の口で、ビルの上から網を投げるわ、ヘリコプターで追いかけるわ、ドローンの群れで襲撃するわ、挙句の果てに猟銃まで持ち出して撃ち落とさんとする下々のなりふりの構わなさには、人間の欲望の底のなさを否応なく感じずにはいられない。
 わたしは心底おそろしくなって、ちからの限り逃げ回った。そのたびに黄金が地上に積もるので、俄然みなの者は張りきった。
 悪循環である。
 警察が出動したまでは対処できたが、自衛隊まで動員されては、わたしに打つ手はなかった。
 もうだめだー。
 わたしはいよいよとなって、我が家に逃げ戻った。
 母が脅かしたりするからだ。
 しかしいまになっては、あのとき母におとなしく捕まっておいたほうがマシだったと思わずにはいられない。
 母ならばわたしを匿うだろう、そうあってほしい、との希望的観測を胸に、わたしはじぶんの部屋の窓に突っこんだ。
 窓は開いていた。
 わたしの部屋には母がおり、掃除機で部屋をきれいにしていた。否、黄金を吸い取っていただけなのだろう。わたしの姿を目に留めると、すばやく窓を閉め、両手を広げて、逃げちゃメっ、と猫を叱るように言った。
「もっかいこれに入りなさい。でないと戻れなくなるよ」母は布団のうえに転がったままのわたしの抜け殻を示した。「お父さんの血でね。あのときも苦労したんだから」
 母は過去を懐かしむようにしみじみと顎を引き、
「ほらさっさと入りなさい」
 わたしの抜け殻の背を開き、入りやすくしてくれた。
 わたしが、でも、と渋ったからか、
「そんなかわいらしい複眼で見詰めないの。黄金なんてあとでいくらでも出せるようになるから」
 母は何でも知っているかのように言った。
 否、いちど経験しているのだろう。我が父がかつてそうであったように、母は黄金を生みだす蝶の扱いに慣れていた。
 わたしは母の言うとおりにし、我が抜け殻に足先から入った。ぎゅうぎゅうと身体を押し込め、肢をたたみ、羽を縮め、こんなの入りっこない、と思いながらも、いいからもっと、という母の掛け声にしたがい、身体を沈めた。
 人間の形をした我が抜け殻が裂けちゃうのではないか、と不安だったが、どうやら杞憂だったようだ。
 真っ暗闇になったかと思うと、ぱちくりと馴染みある視界に回帰している。
 思えば、蝶であったあいだは、やけに視界が広く、世界を多重に視ていた。人間に戻るまではその違和感にも気づけなかった。感性まで蝶に同化していたようだ。
「おかえり」
 母は掃除機のノゾルを肩に担ぎ、
「お父さんに報告しなくっちゃ」と欠伸を一つした。
 わたしは母と共に、居間に下り、位牌に手を合わせる。
「ひょっとしてお父さんって、これが原因で死んじゃったの」思いついたので言った。
「まさか。ふつうにがんで死んじゃったの」
「でも、ほかのひとに蝶のことバレたら」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。黄金なんていくらでもでるんだから、口封じなんて簡単よ」
 母の言葉を受けてわたしは、いまさらのように考え至る。我が家には謎の収入源があったが、わたしはずっと父の生命保険が下りているのだとばかり思っていた。しかし本当のところは、父の遺した莫大な黄金があるだけなのかもしれなかった。
「でもあんまりいっぱいださないほうがいいかもね。黄金の価値が下がっちゃうから」
 こここそが大事だと言わんばかりに、母はウィンクをした。
 カフカ先生、とわたしは念じる。
 虫になるのは勘弁ですけど、たまにならそう、羽化してみるのもわるかないかもしれやせんぜ。


3093:【2021/07/19*さぼってやる!】
おねむなのでねます!!!!(起きたら更新します)


3094:【2021/07/19*起きた!】
二日連続二時間以上ひなたぼっこしたら体力がごっそり減ってしまった。知らぬ間に夏になっておった。羽虫すら暑くて見当たらぬ。みな焼け死んでいるのだ(まがまがしい表現)。体力の消耗が激しくてとりあえず寝たら、足ツった。ふくらはぎが、ギギギギ、と悲鳴をあげた。でも眠気さんのほうが勝ってしまったらしく、アイタタタ、となりながらも、目が覚めると寝落ちするを繰り返した。気づいたら片足を柱に押しつけていた。赤ちゃんの寝相なみの大胆さだ。夏風邪をひいてしまわぬようにぽんぽんに薄地の掛布団をかけているのに、これもまた知らぬ間にはだけておって、いつからそんなに淫らになったんだい、くらいにおへちょ丸出しで寝ておる。いっぱい寝た。朝からピザ食べちゃう。バナナも食べちゃう。いっぱい寝たのでいっぱい食べちゃう。きょうもいちにち元気いっぱい、いくびしまん! ちゃんちゃらーん。みなさんも夏の暑さにも負けず、日差しにも負けず、それぞれの日々の苦悩にも負けずに、ときおりは負けつつ、休み休み、日々のささやかな楽しいの気持ちを、めいいっぱい噛みしめてまいりましょう。噛めば噛むほど味がでるビーフジャーキーが食べたくなってきた、朝イチのいくひしまんでした。願わくは、みんながみんなまいにちしあわせになって、いくひしさんがずっとなまけていられますよーに(よいひとふうなことを言いつつ、ものすごくぽんぽこりんな欲望を胸に、いっぱいなまけちゃう。他力本願の権化と呼んでいただきたい)。


3095:【2021/07/19*人裏の間隙】
(未推敲)
 大学の先輩から、それなんだ、と半笑いで指摘されて気づいた。首筋にファスナーがついている。引っ張ると鎖骨のほうに下がり、隙間が開いた。
 鏡越しになかを覗くと何もなく、どこかしら涼しい風が漏れる。怖くなったのでそのときは閉じたが、家に戻ってから脱衣所に駆けこみ、全裸になってもういちど確かめてみると、どうやら首筋に開いた間隙のさきには首の容積を遥かに超えた空間が広がっているらしいことが判った。
 というのも、櫛や歯ブラシを突っ込んでみてもどこにも突き当たることなく、虚空を掻くばかりで、試しに紐にくくった硬貨を差し入れてみると、どこまでもするすると引き込まれていった。重力が真横に働いているのか、紐はたゆむことなく、間隙に対して垂直に硬貨は吸いこまれていく。
 じぶんの身に何が起きたのかを考えるが、合理的な考えは浮かばない。病院にかかるべきか。しかし医師の診察を受けてどうなることとも思えない。インターネットで検索してみるが類似の事例は皆無であり、噂話や作り話ですらこの手の事象は見当たらなかった。
 一晩経ち、翌日も大学に向かう。
 ファスナーは首筋にあるが、目立つというわけではない。ちょうど耳の裏に隠れる位置まで引き上げることができた。先輩が発見したときは、ファスナーの位置が下がっていたのだ。隙間が開いていた。ぴっちり閉めれば、ひとまず人の目は気にせずに済むようだった。
 いったいいつからあったのだろう。
 耳の裏にあるから気づかなかったが、ひょっとしたら生まれてきてからずっとあったのだろうか。それとも成長と共にすこしずつ大きくなってきたのか。
 分からない。
 たとえ分かったところでどうしようもない。
 しばらくはそのままの生活をつづけるしかなかった。
 ファスナーを下ろさなければ問題はない。特殊の能力のように利用価値があればよかったが、底がないのでは物を収納しておくことができず、一度なかに放りこんだものは二度と取りだせないように思えた。
 不要なものを投げこめばこの世から抹消できるかもしれないが、有名な掌編小説のように、捨てたはずのゴミが輪廻よろしくいずこから降って湧くかもしれない。
 間隙の奥が真実に底なしなのか、この世のどこかに通じているのかも定かではない以上、慎重になっておいて損はない。
 何度か、飴や角砂糖を投げ入れてみたことがあるが、やはり取りだせなかった。身体に変調も見当たらない。このままでいるしかないのだろうか。
 恋人がいないからよいものを、このさき他人と身体を重ねるとき、或いはたいせつなひとができたときに、この体質のことをどのように説明すればよいだろうか、といつも心のどこかしらには引っかかっていた。
 ある日、何気なくシャワーを浴びているときに、閃いた。
 ファスナーはいったいどこまで下りるのだろう。
 こわくて、首筋以上に開いたことはなかった。だが、ひょっとしたらずっと下までおろせるのかもしれなかった。
 シャワーの湯を止め、おそるおそる、ファスナーをつまむ。ジジジ、と下へ下へと滑らせていく。
 唾液を呑みこむ。
 鎖骨をすぎ、ろっ骨を縦断し、腰を経て、右太ももを過ぎてなおファスナーは下に引けた。
 けっきょく右足首のさきにまで行き着いた。足の裏にまでは届かない。
 全身が震える。
 直感した。
 裏返る。
 間隙から大量の空気が噴きだし、何かが溢れ出るのを感じた。
 動いていないはずだのに視界が移ろい、まるで乗り物に乗っているかのような浮遊感を覚える。
 口を全開にしたリュックを裏返すかのように、身体に開いた間隙が広がりを帯び、あべこべに表面がめくれていく。
 じぶんの後頭部が見えた。
 背中が真ん前に迫っている。
 表が裏になる。
 足元から順にファスナーがジジジとあがっていく。
 ファスナーを掴む手は黒く、ただ黒く、闇だった。
 視界が閉ざされ、意識が途切れる。
 つぎに目覚めたのは光を見てからだ。
 眩い光が目の前にあった。
 閃光のごとく強烈な明かりに感じたが、単に目が闇に慣れているだけかもしれなかった。
 光は途絶えることなく、縦に線を伸ばし、徐々に面積を増した。視界がすっかり光に占領される。音に包まれる。無音の世界にいたのだと、なにともなしに考えた。
 いったいどれくらい経ったのだろうか。ずっと眠っていたようにも、一瞬だけ意識を失っただけのようにも思えた。
 話し声がする。
 身体が動かせないのは、或いは痺れているだけかと思ったが、どうやら拘束されているようだ。以前に手術を受けたときに寝かされた搬入台のうえを思いだす。
 ジャラリと鉄の感触がし、鎖で縛られていると判った。
 意識が徐々に覚醒していく。
 声に耳を澄ませる。
 そばには三人の男女がいた。女二人に男が一人だ。
「処分に決まってる」女が言った。髪が短く、ほとんど刈り上げだ。「つぎ暴走したらもう誰も止められない。いまやる以外にチャンスはないって」
「かもしれないが、俺だっておまえだって、スーだって最初は暴走した。誰だって最初はそうだ。こいつはただ、規格外の外装を持っていただけのことで」
「スーはどう思う」刈り上げの女がもう一人の女を見た。
 スーと呼ばれた女は、三つ編みにタンクトップ、迷彩柄のズボンを穿き、腕には視たことのない型の重機を握っている。重機は両手で持つのがやっとの大きさで、先端に宝玉のような青白い球体がはまっている。細身だが引き締まった体つきは、レンジャー部隊の一員さながらだ。
「わたしはまずは生かして様子を見たほうがいいと思う。とりあえずチャックはロックしたし、無理に裏返ろうとしたらそのときに殺せばいい」
「二対一だな」男が言った。
「てめぇらデキてんじゃねぇの」刈り上げの女が地面に唾を吐いた。
 そこで気づく。
 瓦礫のうえにいる。
 このときになって風景に目がいった。仰臥しているので空ばかり見えていたが、周囲はビルに囲まれている。しかしどの建物も激しく損壊し、内紛のあった街かのような景観だ。
「ここはどこですか」
 声を発すると、三人が飛び退いた。
 一瞬で視界から消えたが、こちらが微動だにできずにいると見ると、おずおずと近寄り、上から覗き込む。
 刈り上げの女がほかの二名を見て笑った。「おまえらビビりすぎだろ」
「あなただって」三つ編みの女、スーが睥睨する。
 男はまっすぐとこちらと目を合わせた。「ヤミノ・ハシヤだな」
 じぶんの名を呼ばれ、頷く。
 かろうじて頭だけを動かせる。
「これからいくつか質問する。イエスかノーかで答えられる質問だ。イエスなら顎を引け。ノーなら横に触れ。いいか」
 顎を引く。
「まずは一つ目。気を失う前のことは憶えているか」
 顎を引く。
「そのあとのことは憶えているか」
 これはノーだ。横に振る。
「耳の裏のファスナーの存在には気づいていたか」
 イエスだ。
「じぶんでそれを下ろしたのか」
 これもイエスだ。
「その後にどうなるかは知っていたか」
 ノーだ。何も知らない。
 何か重大なことが起きたのではないか、とここで嫌な予感を覚えた。
「誰かが接触してきて、ファスナーについて話を聞いたりしたか」
 ノーだ。
「了解だ。これが最後の質問になる。いまどうしてこんな目に遭っているか想像がつくか」
 しばし考え、首を振る。ノーだ。分からない。
 何があったんですか、と訊ねる。
 男は質問には応じずに、腰を上げた。
 どうやら身体は薄い鉄板のようなものに縛りつけられているようだ。じぶんの体勢を把握する。
 彼らは三人でしばらく話しこんだ。離れた地点に移動したようだが、周囲が静かなので、声は響いた。話の内容を聞き取れない。
 空をトビが飛んでいる。
 足音がし、話し合いが終わったのだと察する。
「状況を説明します」三つ編みの女、スーがしゃがんだ。目のまえにメディア端末の画面が現れる。女が手で支え、見せてくれている。
「あの、じぶんで持てます。これ、はずしてくれませんか」
 解放するように催促するが、無視された。
 画面に映像が流れる。
 大勢の逃げ惑う姿、倒壊する家屋、鳴り響く銃声、が連続して再生された。
 画面が切り替わり、何らかの部隊が集団で攻撃をしかけている。
 部隊の合間を黒い人型の影が駆け抜けると、あとには無数の屍が転がった。
 どの遺体も身体の一部が欠けていた。
 映像は途切れることがなかった。
 黒い人型の影を中心に映像は展開された。
 三つ編みの女、スーは三十分ほどかけて説明した。ひととおり話し終えるとスーは立ちあがり、言った。「ご理解いただけましたか」
 逆光となって彼女の輪郭だけが浮き上がって見える。「つまり、あの影が僕で、大勢を殺し、この街のほとんどが崩壊したと?」
「理解が早くて助かります」
「何かの間違いなんじゃ」しぜんと笑みが漏れた。
 あり得ない。バカバカしい。
 そんな話はまともに取り合うだけ愚かだ。
 そうと思う常識的なじぶんと、いまのじぶんが陥っている異常な状況に加えて、たったいま見せられた映像の生々しさが、彼女の話を一蹴するだけの論拠を構築させてくれない。
「残念だけど本当だ」男が言った。彼の名前はまだ分からない。「ヤミノくん。きみのような存在はずっと昔から、それこそ紀元前から確認されていてね。首筋のファスナーがあるだろう。文字通りそれがファスナーの起源だ。それを基にしていま社会に普及しているファスナーが発明された。模造された、とそれを言い直してもいい。我々三人もきみと同類だ。我々は我々のような存在を、人裏(じんり)と呼んでいる。海外では単純にバッカーとも呼ばれているが、いずれにせよ公には秘匿にされた存在だ。本来ならば、ファスナー持ちは人裏としての能力を発揮する前に保護され、ある種の指導を受けるのが通例だったのだが、何の手違いか、きみだけは長いあいだ放置されてきてしまった」
「さっき暴走がどうのこうのと言っていましたけど」
「そうだ。人裏は、ただファスナーを持っているだけならば、ただの人と変わらない。ただし、それを全開にし、【裏返る】ことで、通常人間には出力不能な能力を発現可能とする」
「本当にあの映像の影が僕なんですか」半信半疑というよりも、そうでないと言ってほしい願いのようなものがあった。
「残念だがきみは暴走した。いや、誰であっても初めて裏返るときにはああなる。ゆえに組織の管理下においての指導が必要なのだが、きみの場合は運がわるかった。ただでさえきみの裏能(りのう)は特殊だからね」
「人によって違うんですか、その、能力みたいなのが」
「そうだ、ひとによって異なる。我々三名もそれぞれ発揮できる能力が違っていてね。だがきみの裏能は歴代のなかでも抜きんでて特殊だ。規格外だと言っていい」
「それはその、危ないってことですよね」
「ハッキリ言おう。危険だ。そのため、仲間内ではきみを処刑しろとの意見もでている。被害が甚大すぎた。これは我々の組織の落ち度でもあるのだが、それゆえ同じ轍を踏まぬようにと厳罰を求める声が多い。同胞、つまりきみを殺してでも責任を負いたいとする声がある」
 映像のなかの光景が蘇る。
 記憶にないはずなのに、あたかもじぶんが体験したかのように捏造されつつある。拒否反応がでる。じぶんの体験なわけがない。あんな記憶は知らない。
「もし本当にあれが僕の仕出かしたことなら、その判断も妥当に思えます」
 正直に思ったことを言った。
 歩く災害である。人間として扱うよりも、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816452221485104707)


3096:【2021/07/20*万年ださださマン】
ひっさびさにフルーチェ(ピーチ味)食べたら美味しすぎて、あと十杯は食べたいになった。一袋分のフルーチェぜんぶ一人で食べた。ぜいたくすぎる。百均で二箱買っておいたからあと一袋分ある。うれしい。ほかのいくひしさんを見習って、帽子も百均で揃えることにした。でも二百円商品なのですこしだけ割高です。でもぜんぜん安すぎて、これで儲けがでているのか?と心配になる。書店さんが同じフロアにあるので、百均にいくときはいつも寄る。んみゃんみゃ因果が逆だったかもしれない。書店さんに行くついでに百均にも寄るのだ。五階にあるのだけれど、エスカレーターで下りるときに百均が目の前にあるので、ひょろひょろ、と吸い寄せられてしまう。よくできた罠である。三百円商品コーナーの電化製品はなかなか質がよさそうに見える。イヤホンもそうだし、腕時計もそうだ。イヤホンは年々質がよくなって見える。儲けがでているのだろうか、と同じことを思ってしまう。あとは、むかしはそうでもなかったのに、おしゃれな女の人が百均の店内にも多くてびっくりする。でもおしゃれな男の人はあまり見ないのはなんでだろう、といっしゅん疑問するけれども、そもそもその駅ビルが女性向けのお店ばかり入っている場所なので、必然女性のお客さんが多いだけかもしれない。それか、おしゃれの感性がズレすぎていて、目に入っても、おしゃれ認定できていないだけかもしれない。一流を見抜けるのが一流ならば、おしゃれさんを見抜けるのもまたおしゃれさんだけなのだ。いくひしさんは万年ださださマンなので、同じださださマンには反応できる。ださいひとのほうが落ち着くので、ださいほうが好きです。というか、以前から何度も似たようなことを並べているけれども、何かを批判するときにダサいを根拠に対象を低く評価する主張は基本、真面目に取り合わなくていいと思います(そういう意見もあるのね、で済ましてよいです)。ダサいのがよくないことだ、みたいな価値観は、あらゆる差別の混合概念のように感じられて、やんだくなっちゃうな。ダサいとは何かをもうすこし真面目に煮詰めて考えてみてもよいのではないか、と思います。どうしてダサいとダメなんでしょうね。見た目にしろ、行動の評価にしろ、けっきょく観測者にとって気に入らないときに、ダサい、と言っているだけな気がします。つまり、ちゃんと筋道立ててなぜよろしくないのかを論じられないときに、ダサいと言ってけなしているだけなのです。なんかわからんけど嫌いだ、の言い換えでしかないわけですね。だったらそう言えばよいのに、わざわざ相手を貶めて、ダサい、なんて言っちゃうところが、本当にダサくて、微笑ましいです。かわいい。いくひしさんもまた万年ださださマンなので、同じくかわいいのである。みんなかわいく、みんなかわいい(きょうもまた中身のない文章を並べてしまった)(刀を鞘に納める音)。


3097:【2021/07/20*行きすぎたコウイ】
(未推敲)
 大学の構内でたった一度すれ違っただけで恋に落ちた。立ち姿もそうだけれど、すれ違ったときの、夏の暑さも薄れるような爽やかな匂いが脳裏にこびりついて離れない。
 そのひとを見かけるたびに、出席している講義や、所属しているサークル、ゼミの教授や、年齢、名前と、すこしずつ情報を仕入れた。一学年下の後輩らしい。SNSで、さっそくアカウントを特定し、フォローせずに毎日眺めた。
 いくつかのSNSを使い分けていて、彼はこっそり日記もつけていた。もちろん僕はそれを眺めた。
 すこしずつ彼に気に入られる人格になろうと決意していた。
 大学のベンチで、もういちどすれ違えないだろうか、と待っているあいだに蟻をゆびで弾いて時間をつぶしたりした。ある日の日記に、蟻はかわいくて好き、とあり、家のなかに入り込んだ蟻を逃がしてあげた話が記されていたときには、じぶんとの違いにめまいがした。
 暇つぶしに蟻をゆびで弾いて遊ぶような僕ごときがお近づきになれるわけがない。なってよいはずもなかった。
 僕はじぶんを恥じた。
 変わろうと思った。蟻にすら慈愛をそそげる人間になる。
 僕はその日からいっそう、想い人の彼の言葉を、性格を、魂の痕跡すら逃さぬように、情報の海を凝視する日々を送った。
 好きな文学作品の名前が挙がれば、その作者の作品はもちろん、作品についての批評の数々にも目を通した。SNS上に溢れる有象無象の感想も軒並み漁った。
 音楽、映画、漫画、絵画、何を嫌い、何に怒り、何に不満を抱き、どのようにそれら毒を表現するのかを、一つ一つの文章から画像から丹念にコピーして分析を深めた。
 他者との交流にも目を配り、彼が誰と繋がり、なぜ交流を保っているのかも探った。
 本人が自覚していないだろう偏向にも気づいた。
 彼は身体が弱かったが、それゆえに精神の力強さは、肉体の希薄さを補って余りある生命力で漲っていた。だがそれを他者に見抜かれまいと、懸命に仮面を被っている。
 肉体の希薄さを擬態にして、この世のすべてを焼き尽くすような憎悪を内に秘め、隠し、潜め、装っている。見た目通りの弱い人間なのだと、彼は周囲を欺いている。
 そのことにどうやら本人は無自覚であるらしい。
 僕は、彼の好む人間の類型を知りたかったが、意図的にそうした情報を文章から排除しているようだった。アイドルの話題にもいっさい関心を向けていない。同性愛者なのか異性愛者なのかすら判断がつかなかった。
 意図してそういった、いわゆる常識的な判断基準で測られそうな事柄を伏せているのだ。
 冷徹なまでに賢い人間だった。
 彼こそが人間だった。
 或いは、肉体の内側には、誰にも見せていない別の人格がいるのかもしれないし、それはひょっとしたら女性性をつよく帯びている人格かもしれなかった。
 わからない。
 分析しようとすればするほど、彼の本質から遠ざかるようだった。知れば知るほど、彼のことが解らなくなる。
 好きな食べ物や、印象のよい人間の行動については殊の外つつみ隠さずに述懐するので、そうした記述を目にするたびに僕は、同じ食べ物を買って食べ、好ましく思われるような行動を意識してとった。
 ベビーカーに乗せた赤ちゃんを抱っこして階段をのぼろうとしている女性がいればベビーカーを持ちに走り、店に入るときにはほかの人が通れるように扉をさきに開けて支えておいたり、電車で席を譲るときには、どうぞ、と言わずに敢えて黙って立ちあがっていちど車両からでて、べつの車両に移ってみたりした。ゴミが落ちていれば誰が見ていなくとも拾って家に持ち帰り処分したし、猫の死骸を見つけたら保健所に連絡し、ときにはビニル袋で回収して警察に届けでた。
 どれも彼がふだんとっている行動であり、または他人のそうした行動を目にして感心していた行動でもある。
 彼にふさわしい人間になるべく僕はじぶんをまずは変えようと思った。
 そのうち、彼がぽつり、ぽつり、と悩みを吐露するようになった。お金のこと、人間関係のこと、将来のこと、病弱な身体のこと。
 どれも僕にはどうにもできないことであったけれど、助けになれそうなことがあれば即座に行動に移した。
 構内で喫煙所以外で煙草を吸っているひとらがいると苦言を呈していたので、そいつらには注意して喫煙自体をやめさせたし、サークル内で浮気を繰り返す女の子にはそうさせないように先回りしてそれとなく周囲の人間たちに女の子のよろしくない性質を事実のままに吹聴した。ほかにも、近所のスーパーに好物のお菓子が品薄で買えなかったとあれば、僕が大量に購入して店に在庫を抱えるように仕向けたし、購入した大量のお菓子は友人経由で彼の所属するゼミに寄付した。
 彼がお金に困っているらしいので、僕はパパ活やママ活をして稼いだお金をそれとなく彼のマンションのポストに手紙といっしょに投じておいたし、彼が母親との仲がよろしくなく殺してやりたい、と零していたので、それとなく彼の母親の首を絞めて殺した。
 遺体をどうするか悩んだが、つまり彼にちゃんと母親は無残に死んだのだと示したほうがよいのかと案じたわけだが、ひとまず死体をズタズタに裂いて、写真だけ撮っておくことにした。あとで見たいと希望していたらその写真を印刷して郵送してあげればよいだけだ。
 だのに僕のこうした好意はどうにもほかの大多数には理解できなかったらしく、僕は警察に捕まり、裁判にかけられ、実刑判決を受けた。
 不幸中のさいわいと言ったら変だが、刑務所に入ってからいちどだけ彼が会いにきてくれた。
 どうしてじぶんの母親を殺したのか、と彼は言った。ひどく不機嫌そうで、辛らつな言葉を使って僕を非難した。
 きっと僕がかってに刑務所になんか入ってしまったから拗ねているのだ。
 僕は誠心誠意謝罪して、だいじょうぶだよ、と安心させたくて言った。「あと十年もしないで出ていけるから。そしたらまたきみのことを遠くから見守るよ。待っててね。きっときみにふさわしい人間になって、きみのそばに居続けられるようにするから」
 彼はそこでなぜか怒鳴り、僕を傷つけるようなことを言った。どうして罵倒するの、と僕が訊ねると、てめぇがひどいことをするからだろ、と彼は泣きじゃくった。
 子どもの癇癪みたいなその姿を見て、僕は急速に遣る瀬なくなった。ハッキリ言ってしまうと冷めてしまった。興醒めだ。
 僕はもういちど謝罪の言葉を述べ、誤解していたみたいだ、と告げた。「もうあなたに興味はないです。金輪際僕に関わらないでください」
 席を立つと、強化ガラス越しに彼はふたたび癇癪を起こした。
 僕をうるさく責め立てるので、かったるくなって僕は言った。「やめてくださいよ。もう僕のことは放っておいてください。あなた異常ですよ。気持ちわるいですよ」
 つぎにつきまとったら警察を呼びますよ。
 僕は言い残して、じぶんの独居房に戻った。
 読みかけの本を開き、どうして僕はこんな場所にいるのだろう、と段々腹立たしくなってくる。いま会ってきたくだらない男のせいだ。
 僕は心に誓う。ここから出たら、イの一番に償ってもらおう。
 僕にいじわるをしたそれが報いだ。
 だいじなものを全部全部ダイナシにしてあげよう。
 徐々に胸の奥からくすぐったくなる。
 さいわいにも、なぜか僕には、あの男のことが手に取るように分かるのだ。どうすれば壊れるのかは考えるまでもない。いま段取りを煮詰めなくとも、会いに行けばしぜんと身体がすべきことをこなすだろう。
 だからそれまで、このしずかな環境で、ぞんぶんに大好きな読書でも楽しむことにする。


3098:【2021/07/21*夏といえばなに?】
なんでさいきん創作の内訳が、ホラーや怪談が多いのかと申しますと、とくに理由はございません(つくれるものからつくるとこうなる)(ちなみにいちど並べてから消したんですけど、ないのであります、って言い方、ないのかあるのかどっちかにして!ってなりませんか。いくひしさんはなる。なりました)。強いて言うなら夏だからです(ほんとはもっとなごなごして、読後がさわやかだったり、悲しんでいるひとやがんばっているひとを勇気づける物語をつくってみたいのですが、これは元々つくれたためしがないので、諦めるしかないのです)(人の傷口に塩を塗るような毒じみた物語しかつむげなくて、でもだってしょうがないじゃんコソコソするから許して、ってなる)(毒にも薬にもなっていない可能性は?)(そういう事実からは目を背けるのが利口な生き方だと思います)(毒にも薬にもなっていないことの言い訳をしつつ、じぶんちょっと利口な生き方してんすよー、みたいにすかさずじぶんを持ち上げる天才)。


3099:【2021/07/21*概念としての】
死にたいわけじゃないけれど、人間をやめたい欲はけっこうむかしからずっとあるのではないか疑惑がさいきん浮上中というか、自覚しつつある。人間であることにうんざりすることが多いのだ。そう言えば、じぶんの手足を見て、おなかとかさすって、首筋とか、口のなかとか、毛穴とか、生殖器とかを眺めて、どうしてこんなぶにょぶにょで不気味な身体に宿っているのだろう、と感じることが多かった。幼いころはよく鏡を見て、口のなかを眺めるのが好きだった。ふしぎだったのだ。明らかに、じぶんのものとは思えないものが、じぶんのなかにある。歯もそうだし、舌の裏の唾液腺から伸びるビロビロだったり、瞼の裏側や、目じりの付け根のジュクジュクした部位や、喉の奥のエイリアンみたいな形状だったり、ともかく人間としての意識と、肉体としての現実が合致しない。同じじゃない。人々の語る人間というもののふわふわした概念と、肉体の歪さが、どうしても同じものとは思えないのだ。その点、絵はすごく安心する。影も好きだ。人間のシルエットはしっくりくる。ただ、歳を重ねるごとに、概念としての人間も、どんどん肉体のぶよぶよした歪な現実にちかづいていって、けっきょく人間なんていないんじゃないか、みたいなところを彷徨っていたのだけれど、それはそうじゃなく、どうやらそうしたぶよぶよの歪なものが人間であって、幼いころに覚えていた人間の概念のほうが間違いだったのだ。絵みたいなものだ。影みたいなものなのだ。だからいまは、人間をやめて、絵みたいな影みたいな、幼いころに見ていたここにはいない概念上の存在しない存在にちかづきたい。現実にちかづいた人間をやめたいのだ。きっとこういう願望みたいなのにも名前がついていて、けっこう一般的な欲求なのだろうな、ということも含めて、人間やめたいの思いが湧く。死にたいではないのだ。人間らしく生きたいのだ。でもこの世に概念としての人間なんていないのだ。みなぶよぶよの歪な肉体に宿って、どろどろのじゅくじゅくに腐っている。人によっては、腐敗か発酵かの違いくらいには、その性質が違うようだけれど、けっきょく腐っていることに変わりはない。人間などはいない。みなどろどろのじゅくじゅくであり、そのことからすら目を逸らして、人間でないことを忘れて、さも人間であるかのように振る舞っている。よく平気でいられるな、と思うけれども、そうせずには生きてはいかれないのだ。どうしてわざわざ存在しない人間なんてものをでっちあげたのだろう。まんまと刷り込まれてしまったではないか。いくひしさんは人間ではないのに、人間になりたくて、もがいている。でもそうやってもがいている者はすくなくて、もがかないことがさも人間であることの証であるかのように、誇示するでもなく誇示している。この世に人間など一人たりとも存在しない。人間であろうとするぶよぶよの歪などろどろのじゅくじゅくがあるばかりなのに、それを以ってみなは人間と呼ぶ。人間をやめたい。だが、現実は肉体を通じて人間であることを強制する。腐らずにはいられない。ぶよぶよの歪で、どろどろのじゅくじゅくでありつづけないことには、この生を維持してはいけないのだ。死にたくはない。しかし人間をやめたい。もしくは、かつて刷り込まれた概念としての人間でありたい。存在しない存在になりたい。それは滅びたい、とはまったく違う。死にたくはない。生きたいのである。人間とは何か。物語のなかにその答えがありそうでなく、物語のなかにも現実にだって人間は一人たりとも存在しない。人間はいない。人間なんていないのだ。では、この肉体に宿るぶよぶよの歪などろどろのぐじゅぐじゅは何なのだ。いったい私は何なのだ。私の幻視する人間なる存在しない存在とは何か。誰か教えて欲しい。なぜ存在しない存在をでっちあげ、それを以って、人間であると偽るのか。あなたは人間か。いいや違う。私は人間か。そんなわけがないのである。人間であろうとする獰猛で狡猾で下品で浅ましい、偽りを以って誠意と奢り高ぶる、我が儘な天邪鬼がいるばかりだ。人間であろうとするその瞬間、瞬間にしか現れない幻影、錯誤、或いは躊躇や罪悪そのものが人間なるものの根幹をなし、私と現実の境として機能し、輪郭を得るのかも分からない。人間は枷だ。我がままな天邪鬼を限定するための金型だ。誰がそれをつくるのか。誰もそれを知らぬのだ。知らぬ間にそれに魅せられ、頭から被り、いつの間にか逸脱して、いまなお金型の造形に留まっていると錯誤している。躊躇も罪悪もなく、我がままな天邪鬼を人間と呼び、偽りばかりささめきあっている。


3100:【2021/07/22*現実がすでにホラーかもしれない】
ホラーや怖い話でいま考えているのは、いわゆる恐怖の感情を喚起する舞台装置を使わずに、ホラーや怖い話がつくれないか、ということで、つまりおばけや超常現象や悪意や害意や狂気を用いずに、一見するとしあわせだし、うれしいし、楽しいお話なはずなのに、こわいと思わせる物語がつくれないだろうか、と考えている。でもそれってけっきょく現実であるのかもしれない、ともぼんやりと予感していて、いまある現実というものは、充分にホラーであり、こわい話なのだよな、ということで、もうもうこの現実を以って恐怖を感じない現代人の感性そのものがすでにホラーだな、と思わないでもないのだね。ハッキリ言ってしまうと、人間社会がホラーだよ。在るがままにそのままを抜き出して叙述すればそれがそんままホラーになってしまう。他方、人間には主観があるので、人間社会というものを俯瞰して見ることはできないし、体験できないし、認識できないので、そういうものがあるらしい、という虚像を以って、ぼんやりとじぶんの感じられる範囲の景色で、知った気になっている。じぶんの周りに有り触れている何の変哲もない日常そのものが、数多の地獄の恩恵によってもたらされていることすら、認識下におけずに、数多の地獄のなかで苦しむ者から見れば至福以外の何物でもない日常を以って、退屈だの劣悪だのと言っている現代人の感性そのものが、まず以ってホラーだな、と改めて思うのだ。もちろんそうして地獄に触れずに済む我々にとってすらの地獄を糧に、我々からすれば天国でしかない世界を築き、それを以って、退屈だ、もっと極楽を快楽を満足を寄越せ、と希求している者たちもあり、それをしてやはりこの世がすでにホラーなのだね。誰もが恐怖を感じなくなっているだけのことで。ただしこれはどこからどこを見るか、その視線の流れの方向によっては、人間社会は総じてハッピーエンドでもあり、至福であるとも言えるので、あくまで解釈の一つにすぎない点にはご留意ください。(けっきょく、何を見て、何を見ずにいて、何に注視し、何を意識下におくのか、の話になっていく)(そうしたなかで、なにゆえわざわざホラーや怖い話を生みだし、語り、残すのかについては、やはりここでも目のまえの地獄よりも地獄があるのだと知ることで、より効率よく目のまえの現実から目を逸らせる、という効能があるのみであるのかもしれず、或いは至福だと思っている平穏で退屈な日常そのものが地獄の片鱗をなしていることの自覚をもたらす触媒にもなり得るのかもしれない)(定かではない)(いつものように上記は妄言ですので、真に受けないでください)





※日々、日々がどうこうと言いながら、日々なるものの輪郭に触れたことすらない、日々はない、きょうが、いまが、或いはあすが、きのうが、過去が、未来が、この瞬間瞬間に押し寄せ、錯誤し、視ている夢は物語、虚構ゆえに予感するのべつ幕なしの希望と失望を、日々と呼ぶ、日々と呼ぶ者が、ここにある、ここにあったそれだけが日々の役割、日々の意義、それともやはりこれもまた虚無か、はたまたこれこそゆえに現実か、それともこれが現在(原罪)か。


3101:【2021/07/22*語る者は騙る】
日々、虐げ、支配し、優位し、昇りつめるさきに待ち受けるのが、いったい何であるかを想像したことはあるか、得た境地のさきに開かれる無数の絶望を足場に立っている自覚はあるのか、偶像として信仰され、崇め、称揚されることの虚しさを知っているか、いったい何から目を背けているのかを知っているのか、知っていてなお追い求める者の語る善に、夢に、希望に、いったい何が宿るというのか、きみはそれを知っているのか、教えてくれ、教えてくれ、きみに視えているきみの景色を教えてくれ、そこに善は、夢は、希望は、本当にあるのかい。


3102:【2021/07/22*死滅する細胞分裂】
日々、見ないようにしている、見えないことを自覚せずにいる、見えないことの恩恵を受けている、都合のわるいことはないものとして見做し、じぶんが善なるものだと思いこむことなく思いこむことに必死になっている、悪であることの自覚はあるか、悪であることを受け入れる覚悟はあるか、弱きは悪か、悪は存在を許されぬのか、ゆえにみなは、私は、見ず触れず或るものをないものとして扱う業ばかりを磨いていく、特化していく、慣れていく、しかし弱くなければ見ることも、見て見ぬふりをしている自覚も持ち合えない、否、直視し、受け入れ、自覚することが弱さの証だ、弱さは悪か、悪は存在すら許されないのか、私は悪か、あなたは悪か、我々は悪なしに存在し得るのか、目を逸らすな、偽るな、偽っていることを誤魔化すな、善であると自負することは偽りなしには成し得ない、善は悪なしには善足り得ない、悪はしかし悪それそのものでも存在し得るがゆえに、悪であることを善しとするのもまた悪である、悪は悪だ、忌避し、是正し、薄めていくのが人間だ、善とはただその輪廻のたゆまぬ絶え間ない研磨の軌跡であり、悪はときにたゆみ絶え得る錆びのごとく、いつでも、どこまでも、どこにでも蔓延り、生じ、我々に善に傾く余地を与える。善とはその傾きにこそ表出し、傾きすぎれば反転し、転覆し、それそのものが悪果と化す。善はただ善である限り、是正すら叶わぬ最悪である。私は悪か、あなたは悪か、我々は悪なしに存在し得るのか。定かではない。


3103:【2021/07/22*動画配信者の追憶】
(未推敲)
 怖い話とはすこし違うのかもしれませんが、ぼくにはお気に入りの動画配信者がいて、毎日楽しみに観ていました。毎日更新してくれるのです。
 配信者は若そうな女性で、でも顔は映らないので、ただ彼女の手元の映った画面を見ながら彼女の話を聞いているだけです。彼女の話はたいがいが妄想らしくて、これは妄想なんですけど、からいつもはじまるので、話の内容もそれに負けず劣らずの突飛な内容のものがほとんどでした。
 要は、即興創作のようなものなんだと思います。
 思いついた空想をただ勢いにまかせてしゃべっているだけで、ときどきと言わずしてたいがいは、前半と後半で話が矛盾していたり、前半で死んだはずの登場人物がゾンビとなって現れ、主人公たちの窮地を救ったりするので、おそらく話自体がおもしろいのではなく、彼女の情緒豊かな語りに、魅せられていたのだと思います。
 照明の加減でもあるのでしょうが、彼女の手は人形のようにオウトツのすくない手をしていて、それがまるでそこに箱庭があって、本当にそこにちいさな世界があるかのように錯覚します。
 漫才師が扇子を箸の代わりにしたり、器の代わりにしたりするじゃないですか。あれと似たようなもの、いえ、どちらかと言えばパントマイムにちかいのかもしれません。つまんだり、ひねったり、指人形同士で対話させたり、喧嘩したり。彼女の語りを聞いているだけでなく、見ていても飽きませんでした。
 彼女の肩越しには彼女のいる部屋の内装がちらりと見えているのですが、カーテンを閉めきっているらしく、薄暗くて、どんな部屋なのかはよくわかりません。彼女もほとんど自分自身については語りたがらず、視聴者とも交流を築こうとはしていないようでした。じっさい、コメントは毎回五十以上は集まるのですが、彼女がそれらに反応を返したことはいちどもありません。
 ひょっとしたら動画は生配信ではなく、録画をしたものを流しているだけなのかもしれませんが、動画に映りこんでいるデジタル時計の時間や日付はその日のその時刻のものです。
 いつだったか地震が起きた際に、彼女の部屋も揺れたので、同時刻に生配信しているだろう、とぼくは判断していました。地震の揺れ方からして、ぼくと同じ地域に住んでいるのかもしれない、とも思いましたが、関東地方にいれば一様に同じ揺れ方をしたようですので、すくなくとも三百キロ圏内にはいるだろう、くらいの大雑把な共通項を見つけただけとも言えます。
 いちどはそのように片付けて、遠い場所でけなげに妄想を聞かせてくれる相手を応援よろしく見守っていたのですが。
 ある日、ぼくの近所で火事があったんですね。
 消防車が何台も集まるような火事で、家が一軒燃え尽きました。ベタな展開と言えばそうなんですけど、その日の彼女の配信中に、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054881060371/episodes/16816700425922808338)


3104:【2021/07/23*英語もからっきし】
たぶんいちどくらいは誰かに心のなかでツッコまれていそうなので、並べておくけれど、いくひしさんには謎のキャッチコピーみたいなのがついていて、「MAN IS IBUKI. NAMISIBUKI.」がそれにあたる。まんいずいぶき、なみしぶき、と書かれているが、とくに意味はないです。本当にない。郁菱万は波しぶきのローマ字を逆から読んだだけのアナグラムで、波しぶきのローマ字を分割して読むと、NAM IS IBUKIとなるので、冒頭のNAMを反転させれば、MANになって意味が通るのにな、と思っただけのダジャレです。人間は息吹です、の意味を持たせたくて採用してみたけれど、人間は息吹です、というのもだいぶ意味がわからんな。そもそもいまどきMANを人間の意味で使う者のほうがすくないだろうから、つまりいわゆるポリティカルコレクトネスというやつで、MANは男を意味するから、それをして人間というくくりにするのはだいぶおおざっぱだし、性差別ではないか、との意見があがるからなのだろうが、ともかくいまどき人間の意味を示したいときにはMANを使わないようだ。サラリーマンもいまではビジネスパーソンと呼ぶのが一般的だ。だから「MAN IS IBUKI.」は割とというか、一般通念上だいぶズレた、現代では不適切な、倫理的にあまり好ましくのない表現になるのだろうな、と思いつつも、そんなのNAMISIBUKIに言ってください、としか言いようがないので、そのままにしている。だってただ裏返しただけだもの。NAMがMANに似ていただけなのだもの。「人は息吹である、波しぶきのように」くらいの漠然とした意味合いを持たせたくて、「MAN IS IBUKI. NAMISIBUKI.」なんてかっこうをつけてみたけれども、人は息吹ではないし、波しぶきのようでもありません。ちなみにどうして波しぶきを名前の由来にしたかと申しますと、これもとくに意味はなくて、強いて言うなら、複雑系の現象のなかで、フラクタルであり同時に、一つとして同じ型はなく、しかしある枠組みでカタチや変化が限定されている事象、もしくは一つの素子の在り様の集合が全体の振る舞いを規定し、全体もまた任意の巨大な構造の一部である、みたいな存在の象徴として波しぶきを抜擢してみたのかもしれないけれども、これはこれで後付けの解釈です。誤解されているかもしれないけれどもけして、男は息吹です、と言いたいわけではありません。その旨、ご理解くださるとうれしいものの、これといってご理解くださらなくとも構いません。そもそも、「え、そんなキャッチコピーなんてあった?」となる方のほうが多いだろうし、郁菱万なる物書きがいるなんて知らない人のほうが大部分だ。というか、いるのか、そんな、神のようなお人が。ひょっとしたら世界の因果のすべてを把握し得るラプラスの悪魔というやつかもしれない。しかしラプラスの悪魔は存在しないとすでに証明されているらしいので、いくひしさんのこんな文章を読んでいる者もまたいないのだ。でもいくひしさん自身はこれを読みながら打っているので、世界でゆいいつの読者として、贅沢なひとときを満喫するのである。現れては消えゆくひとしずくのように、砕け、散り、舞う、波のように。「MAN IS IBUKI. NAMISIBUKI.」うーん。やっぱり絶妙なダサさやね。たまらん。


3105:【2021/07/23*足りないスイッチ】
(未推敲)
 かれこれ二十日は経ったろうか。大布(だいふ)郷(ごう)は真っ白い空間で寝返りを打った。唇はかさつき、全身に力が入らない。
 いったいなぜじぶんのような社会的成功者がこのような目に遭わねばならぬのか。どんな企業も鶴の一声で経営方針を変えざるを得ないほどの権力を有し、世界資産の三十パーセントを保有するほどの男なのだぞ私は。
 大布郷は自らをここに閉じ込めた者たちを思い、怒りに震えるたびに、衰弱した身体がふたたびの活力を帯びるのを感じた。
 だがもう二十日も飲まず食わずにいる。
 じぶんの糞尿すら口にした。
 だが却って体調を崩すと判ってからは、ただただ空腹と喉の渇きに耐えている。
 いまいちど空間を見渡す。
 壁も床も天井もすべて白い。特殊な空間だ。広さは大企業の会議室くらいの面積がある。照明はないが、壁や天井そのものが発光しているようだ。
 手を掲げると、床に無数の影が浮かぶ。床は発光していないのかもしれない。
 出口はない。閉じ込められたのだ。
 何が目的かは分からない。
 否、どう考えても拷問の類だろう。誰かの恨みを買い、復讐されたのだ。
 自前の送迎車に乗り込んだのは憶えている。
 その後、意識を失い、気づいたらここにいた。
 ただの空間ではない。
 人工知能が管理しているのか、要求すれば床から半球の物体が浮上する。ちょうど透明なお盆を床に被せたようなカタチだ。半球のなかには要求した品が入っている。
 たとえばハンバーガーを要求すれば、ハンバーガーが皿に載って現れる。ポテトやコーラまでついている。
 だが半透明の仕切りが邪魔をして、掴めない。
 押しても、蹴っても、乗りあげても、もちろん持ち上げようとしてもびくともしない。目のまえに食べ物があるだけだ。
 いまでは床の至る箇所に、この二十日あまりのあいだに蓄積した食料が所狭しと並んでいる。どれほど注文しても半球の仕切りは一つも取り外すことができなかった。
 押しくらまんじゅうではないが、床がぎゅうぎゅう詰めになった。
 なお注文を重ねれば、半球は行き場を失くして、互いに圧迫しあって割れるのではないか、と考えたが、そういう事態にはならなかった。
 某有名なブロック崩しゲームのごとく、半球が床を一定数以上占めると、最初に現れた半球から順にごっそり消えるようだった。
 殺菌されているのか、どれだけ放置しておいても半球内の食べ物が腐る様子はなかった。
 これも拷問の一端なのだろう。大布郷は寝返りを打つ。あとはもう死ぬのを待つだけだ。
 壁には定期的に数字が表示される。桁数からして、おそらくは資産の総額だろうと当て推量はついていた。食料を注文するごとに額が減って映った。仮に食事の注文に対価がいるとすれば、一食あたり、軽く工場が一棟建つ金額を支払っていることになる。
 しかしその食事に手を伸ばせないのだ。
 触れられない。
 口にできない。
 ただ金を失っているだけと言えた。
 そう言えば、と思いだす。世界的事業の一環として、救命ポッドの開発に投資していた。人工知能の管理した空間にて、あらゆる物資を自己生成し、持続的に生存が可能なシステムの構築を目指したプロジェクトだ。進捗も佳境に入っていたと記憶している。
 ひょっとしたらこれはそのプロジェクトの成果物なのではないか、と閃いたが、だからといって活路が開けるわけではない。
 仮に都合のよいほうに事態を解釈したとして、この空間の外では、人間の生命を損なうような環境が築かれており、誰かがじぶんを守るために、敢えてここに放りこんだ、と考えることもできる。
 大布郷は笑った。あり得ない。
 だとすれば有り余るほどのこれら食事にいっさい手を付けられない理由が分からない。文字通り、指を咥えて見ているしかないのだ。絵に描いた餅だ。このまま餓死か衰弱死するより未来がない。
 いま死ねば、これまで築き上げてきた地位はむろん、資本や事業がそっくりそのままほかの誰かの者になる。失うだけならばいい。だが、十中八九、ほかの誰かが後釜につき、大布郷の努力と成果を、その人生の蓄積を掠め取っていくのだ。
 耐え難い。
 それ以上に、虚しいと思った。
 いったい何のためにじぶんはこれまで苦労を背負ってきたのか。まだ何も得ていない。報われていない。支払ってきた苦痛や忍耐に対して、これではあまりに釣り合いがとれていない。
 理不尽だ。
 じぶんのような人の上に立つ者が迎えていい最期ではなかった。
 大布郷は憤ったが、すでに体力は限界だった。
 生まれて初めて、お腹と背中がくっつきそうな感覚が判った。比喩だと思っていたが、現に骨と皮だけになってしまえば、そう形容するよりないのだ。単なる事実だ。
 視界がかすみ、呻き声一つ立てられない。
 あれほど肥えていたはずの身体も、たった二十日間ほど飲まず食わずでいただけで、これほどまでに痩せ衰えてしまうのだ。
 せめて誰かに看取られて死にたかった。惜しまれながら死にたかった。もっと生きて欲しい、と望まれて、悔やまれて、生を肯定されて死にたかった。
 無意味ではなかったのだと、あなたがいてよかった、と思われたかった。
 大布郷は最期のときを予感しながら、どうせなら、と枯れた声でつぶやく。
「無垢な子どもの笑みが見たい」
 その声に反応したかのように、床の一部が隆起した。
 所狭しと床を埋め尽くしていた半球の一部が消え、あべこべにそこには大きめの半球が現れる。
 中には子どもが一人立っていた。きょろきょろと訝し気に空間を見渡している。
 子どもは何事かをつぶやいたように口を開け閉めした。するとなぜか半球は床に染みるように消えた。
 子どもは少年とも少女ともつかない幼い顔をしていた。
 大布郷のそばに膝をつくと子どもは、「おじちゃん、だいじょうぶ」と身体を揺さぶった。「なんで倒れてるの、具合わるいの。どうしてお医者さん呼ばないの」
「お腹が空いて」大布郷は涙目で訴えた。
「なんで。だってこんなに食べ物あるのに」
 なんで食べないの、と言って子どもは、そばにあった半球の一つに手のひらを押しつけた。何をするのかと思えば、ただ一言、いただきます、と唱えた。
 半球はその声に応じたように床に消え、あとには料理の載った皿が残される。


3106:【2021/07/24*打ちのめされている】
幼いころからスポーツ競技も文学も苦手だったので、いわゆる体育会系や文化系と呼ばれるコミュニティからは距離を置いていた。ときには交じることもあるが、たいがい馴染むことができずに距離を置くようになる(孤独が好きなので、望むところではあるが、もうすこしいくひしさんにも馴染みやすいコミュニティがあると楽ができてよいのになぁ、との我がままな欲求を抱いてはいます)。第三者的な立場から眺めていて思うのは、やはりというべきか、体育会系も文化系もどっちもどっちだな、ということで、体育会系と呼ばれる者たちは文化系を無意識に軽んじているし、文化系も体育会系を無意識に野蛮視しているし、その両方はいくひしさんをいない者扱いしているし、いくひしさんはそうした同族以外を見下すひとたちを、なんだかなぁ、と思っているので、まあまあみなさん、似た者同士なのですね。他者をいちいち属性でくくって、上とか下とか、仲間とか部外者とか、評価付けをするだけにとどまらず、その評価を絶対視して、敵味方にくくっていたら、そりゃあ生きづらくもなるでしょう。そうした無意識の整理整頓(差別)を控えたほうが生きやすいと思うのですが、いかがでしょう。(体育会系や文化系といった属性でひとくくりにして物事を捉えることが有効だったのは、もう過去のことであり、現代では通用しない偏見そのものと言えるのではないでしょうか)(社会に形成される各コミュニティから傾向を抽出するにしても、せめて一時的かつ表面的な、かなり大雑把な分類である自覚は持っていたほうが大多数の者にとっては好ましいのではないか、と疑問に思います)(そういう意味では、スポーツ競技につきまとうある種の勝者絶対主義を批判しがちな文学の世界において、成果物の熟練度や、生産性の高さ、権威や大勢からの承認の高さ――ともすれば売上げ――によって創作者の価値が規定され得る流れを無抵抗に肯定するプロ作家がすくなくない点には、何かしらの自家撞着を幻視せずにはいられません。マッチョイズムを批判する者がマッチョイズムに染まっていたり、権威主義を批判している者が権力志向を有していたりと、なかなか愉快な個人、ともすればプロが多くて、おもしろい世のなかだなぁ、と思っています)(人間はどこに属していようとけっきょくは人間なんですね)(だからといって、それでよし、としていたら、社会はどんどん勝者や強者の都合のよい仕組みに変えられていってしまうように思います。虐げられている人たちや、理不尽な目に遭っていることすら認識されていない人たちが、じぶんたちの手で足で、考えで、自由や幸福を追求する環境を築いていくには、どうすればよいのでしょうね。それはけして、自らが勝者となり、強者となることで果たされる変革ではないように思うのですが、あなたはどう思われるでしょう)(もちろん、誰が勝者となり、強者になったとしても、誰もが自由に幸福を追求していける世の中であると好ましいのは、言を俟つまでもありません)(問題は、勝者と敗者、強者と弱者のあいだに、権威勾配が著しく生じてしまうことにあり、もっと言えば、その権力を誰のために使うのか、の視点が現代であってもだいぶ蔑ろにされ、吟味されず、見逃されている点にあるのではないか、といまは推し量っています)(みな、身内や同属に対してのみ目を向けすぎているように思えます)(むろん、いくひしさんもその限りではありません。じぶんの視点の至らなさに打ちのめされている日々です)(視野を拡張しつづけ、ときに凝視し、それと共に多角的にかつ多層的に、物事を認識し、考えるというのは、本当にむつかしいものです)(考えるだけでなく、考えをもとに行動に移し、ときには行動を抑止し、変質させていかないことには、社会のしわ寄せの向かう対象が変わるだけで、理不尽そのものは減らないようにも思えます)(社会がいくら発展し、進歩したところで、そのしわ寄せが一部に集中したのでは、どれほど技術が高まっても、虐げられる人は出てくるものではないでしょうか)(発展すればいい、という考えは、その点が見落とされているように思えます)(かといって、いまある環境を捨て去り、他者に譲る勇気もないのですが)


3107:【2021/07/24*齧る者】
(未推敲)
 窓から入り込んだ蝉が数秒もしないうちに畳の上に落ちた。虫も死ぬほどの暑さである。
 連日のように真夏日を更新している。そのうえ、冷房機器が壊れているため、部屋にこもる熱気で陽炎が見える。
 部屋のなかだというのに、プラスチック製のカップが融けて曲がり、ペットボトル飲料がお湯になっている。サウナのほうがまだ湿気がある分、人間の住まう環境にふさわしい。
 このままでは燻製になってしまう。
 冷蔵庫を全開にして冷房機器の代わりとした。バケツに水を張って足を浸けてはいるものの、効果は薄い。冷蔵庫の中身は早急に腐ってダメになるだろうし、バケツの水も数分も経たぬ間にお湯になる。
 とにかく身体を冷やさねばならない。水分を取らねば、干上がってしまう。
 何かいい案がないか、と失神寸前の意識で考えていると、どこからともなく、ガリゴリ、と音がした。幻聴かとも思ったが、たしかに聞こえる。
 窓のそとは森閑としている。蝉ですらこの暑さでまいっているのだ。軒並みの昆虫が、地面にひっくりかえって屍と化している。
 静寂のなか、冷蔵庫の唸り声と、謎のガリゴリの音が響いている。
 耳を欹てる。
 どうやら隣の部屋から聞こえているようだ。
 なるほど、と閃く。
 氷を食べているのだ。
 それはそうだ。この暑さだ。アイスは甘すぎて却って喉が渇く。
 その点、氷なら喉を潤しながら、内側からも身体を冷やせる。舐めていれば涼めるのだ。部屋に放置しておくだけでも室内の温度を下げるだろう。
 よい考えに思え、真似することにした。
 しかし、あいにくと冷蔵庫の扉を開けていたために、氷がすべて溶けていた。しまった。こんなことならば大量に氷をつくってから、冷房機器の代わりとするのだった。
 いちど思いついた案が通らないと知ると、却ってこのままではいられない危機感に見舞われる。何も知らなかったころには耐えられたはずの灼熱が、一時も我慢ならない地獄の窯に感じられてならなくなった。
 絶望は希望を失って初めて姿を現す底なしの欠落だ。それをひとは奈落と呼ぶ。
 もはや一刻の我慢も許されない。
 いますぐに氷が食べたい。
 なぜならいまなお壁一枚隔てた向こう側から、ガリゴリ、と美味そうに何かを齧っている音が響いて聞こえてくるからだ。あたかもかき氷をつくるための氷塊に歯を突き立てているかのごとく豪快な齧りっぷりだ。
 一向に齧り尽くす様子がない。
 それほどの分量があるならば、すこしくらい譲ってもらってもばちは当たるまい。お金なら払う。
 ごくり。
 いちど思いつくと、もうそれしかない、との欲求に駆られた。
 動きたくはないのだ。否、店まで足を運ぶ気力はとうに失せ、汗と共に干上がっている。いまはともかく氷を齧らねばならんのだ。
 パンツ一丁だったが、短パンを穿き、Tシャツを着て、玄関まで這う。Tシャツは秒で汗に濡れたが、湿った矢先に干上がるので、総合して乾いている。陽に当たれば数秒で乾ききるだろう。
 だが繰り返される汗の蒸発によって、白く塩が浮くはずだ。
 現に、腕にはうっすらとそれらしい粉が浮いて見える。舐めるとしょっぱい。塩以外の何物でもない。
 いよいよ、干物めいてきた。
 躊躇している場合ではない。アパートの廊下に立つ。
 となりの部屋のインターホンを押す。
 応答はない。静寂が満たす。
 だがすこし経つと、またガリゴリと音がした。居留守を使っているのだ。それはそうだ。この暑さだ、氷は独り占めしたいだろうし、そうでなくともずっと肌身離さず貪っていたいはずだ。
 片時も離れたくない気持ちはよく分かる。
 だがそれではこちらが困るのだ。
 死んでしまう。一口でいいから齧らせてほしい。
 いちど部屋に戻り、ベランダに出た。洗濯物を干すためだけの空間で、奥行きはない。かろうじて立てるくらいの面積だ。
 だがとなりのベランダとは一メートルも離れていない。手を伸ばせば乗り移れる。バナナに手を伸ばすサルさながらの身体捌きで、縁に乗りあげ、となりの部屋のベランダに手をかけた。
 窓が目のまえにある。
 開け放たれたそこからは、幼い子どもの姿が見えた。
 裸体だ。
 背中には背骨と肋骨が浮きあがって見え、子どもは何かを抱え、夢中で頬張っている。
 ガリゴリ。
 鼓膜に音がこびりつく。
 骨だ。
 瞬きを三度する。
 頭蓋骨だ。
 半分ほどが欠けている。
 子どもが音を立てるたびに、頭蓋骨からは長い髪がはらりと落ち、目を凝らすと、布団のうえには茶色く干からびた、樹の根のようなものが横たわっている。
 ふしぎと手足は見当たらない。


3108:【2021/07/25*翻訳機能】
煽り耐性(悪口耐性)が低いため、割とすぐに感情的になってしまったり、傷ついてしまったりする。そういったときの対処法は心得たもので、よく妄想するシチュエーションがある。精神が波打ちそうなときは、そのシチュエーションにいちど置き換えて考えてみるとたいがいの悪口や耳に痛い批判の言葉も、そっか、と喉ごし爽やかに呑み込み、消化できる。たとえば何かしらの批判の文脈で、死ねバカ、と言われてしまったとする。傷ついて当然の言葉だが、それをいちど宇宙人の言葉に変換してみるとよい。たとえば、「バジョジョベーニヒヒ」といった具合だ。まったく意味が分からない。そこで脳内のなかにだけ存在する賢い人工知能(仮)にそれを翻訳してもらう。翻訳の役割は、あくまで齟齬のないコミュニケーションを成立させることにある。単語をそのまま変換するだけでなく、意訳してみせることも含まれる。なぜ相手が刺激のつよい言葉を使って非難したのかを考慮して翻訳すれば、単なる「死ねバカ」の言葉も、「私はいまとても怒っています、このままではあなたに存在ごと消えて欲しいと願ってしまうほどに、困っているのですが、どうにか問題を解決するように考えを改めてもらえないでしょうか」といった具合に翻訳できる。いくひしさんはよくこの段取りを挟む。宇宙人と対話するにはまず言葉をそのまま鵜呑みにするのではなく、翻訳する段階が必要だ。多様性の叫ばれて久しい社会である。同じ言語でさえ、そこに含まれる意味や文脈は異なる。単なる「バカ」という言葉一つとっても、親愛を意味することもあれば拒絶を意味することもある。悪意の一言で片づけるのは簡単だが、これからの社会ではよりいっそう、翻訳という行為が重要度を増していくだろう。それは同じ言語ですら例外ではない。額面通りに受け取ることも大事だが、それだけではコミュニケーションはとれないものだ。否、コミュニケーションとは額面通りに受けとらないことだと言ってしまってもいいかもしれない。それゆえに、正しい文章や表現で考えを伝える技術もまた同時に重要度を増していくと考えられるが、日常生活のなかでは、この手の正しさはうまく機能しない。なぜならひとはそこまで正しさを求めてはいないからだ。正確さや、論理性を重視してはいない。扱ってはいない。磨こうとしてはいない。それよりも人々は、できるだけ不快にならずに、頭を使わず、手間も時間もかからない手法を先鋭化させていく。礼儀や雑談(内輪ノリ)というものは、だいたいこの手の先鋭化したコミュニケーション技術と言える。考えずとも、決まったフレーズをやりとりするだけで、コミュニケーションがとれてしまう。円滑に意思を疎通できる(と錯誤できる)。そして多くの場合、敵意がなく友好関係を築きたいとの意思が伝わればそれでいいのだ。だが、これからの社会では、それだけでは対処できない問題が、イチ市民間でも多発することが予期される。前述したように多様性の保持が推進され、社会全体に細かな衝突の種が許容されていくからだ。誰もが宇宙人の介在する社会に生き、同時に自分自身も誰かにとっては宇宙人になる。そういう社会が到来する。否、すでに半分そうなっている。だからこそ、これからは同じ言語であれ、翻訳作業を一段階挟む余裕が求められていく。むろん、誹謗中傷は即座に法の下に罰せられ得るが、多様性が許容された社会にあっては、ある程度のそうした乱暴な言葉使いが氾濫すると予想できる。言い換えるならば、罵詈雑言や誹謗中傷の仕方も先鋭化し、法の抜け穴を通じて、多種多様化していくと想像できる。ここでも翻訳作業の必然性が増す。ただし、基本的には文章や言葉というのは額面通りに受け取るのが前提だ。しかし現実では往々にして額面通りに解釈しないし、すくなからずの者たちは裏の意味を持たせて言動を行っている。そうすると、額面通りに言動を受け取らないように翻訳することが、無用な衝突を避けることに繋がるが、しかしこの場合、翻訳と妄想の区別は必ずしもつかない。単なる被害妄想や拡大解釈にならない保障はない。ゆえに、翻訳の精度をあげる訓練が欠かせない。それはたとえば小説を通じて得られる他者視点での世界への解釈の仕方や、批評を通じて得られる他者視点での解釈そのものであったりする。単なる意見ではなく、なぜその言葉をそのタイミングで発したのか、といった内面描写と同時に意見を観測する言語体験が、日常生活のなかでは得られにくい。その点、虚構の物語や批評では、なぜそれが発言されたのか、行動として表されたのか、を他者の視点で知ることができる。解釈そのものを他者の視点で追体験できる(同時に、自分自身ですら気づかなかった、裏の意味を持たせた過去の言動の真意を、自覚できるようにもなる)。これは、虚構の物語の持つ利点であると共に、これからさきの社会において増していく大きな効能の一つとなっていくだろう。まとめると、虚構の物語は、人間の持つ翻訳機能を鍛えるよき道具(アイテム)なのである。(適当なことを並べました。比較的よく聞かれる類の、ポジショントークですね。小説や漫画や映画やゲームに社会的意味があると嘯きたいだけなのかもしれません。定かではない妄想ですので、上記、真に受けないでください)


3109:【2021/07/25*追い縋る者】
(未推敲)
 橋島ツルマはその日、友人を家に招いた。大学生時代に交流のあった多田城マキである。数日前に連絡があり、相談したいことがあり会えないか、と求められたのだ。
 怪しい誘いゆえになんと言って断ろうかと悩んだが、多田島マキの声がひっ迫していたこともあり、お金の催促じゃないよね、と冗談めかし釘を打ったところ、そういうんじゃないからだいじょうぶ、とそのときだけはふっとやわらいだ声に、橋島ツルマはかつての友人と会うことにした。
 大学を卒業して以来いちども会っていない。もうじき十年が経つ。
 橋島ツルマは数年前に結婚し、いまは五歳の子どもの母親だ。子どもは娘で、暇さえあれば親のメディア端末をいじくろうとする。いつの間にか増えている画像を就寝前にチェックするのは、橋島ツルマのひそやかな楽しみの一つだ。
 共働きだが、橋島ツルマは育休をとり、在宅でも仕事ができるように環境を整えた。夫は休日であっても昼間は留守だ。中間管理職ゆえに、残業続きで、休日出勤も珍しくない。まともな労働環境とは思えないが、夫の稼ぎが増えるのはすなおに家計の助けになっている。子どもの養育費もこれからますます嵩んでいく。稼げるうちに稼いでおきたいとの思いは、橋島ツルマにもあった。
 インタホーンが鳴る。
 多田城マキが訪問したようだ。玄関扉を開け、家のなかに招き入れる。
 子どもを紹介し、お茶を淹れるあいだ、短くじぶんの近況を話した。
 多田城マキは大学のころの印象のままだった。疲れた顔をしていることを抜きにすれば、いまでも大学生で通る見た目をしている。端的に若々しい。いまは何をしているのか、と訊こうとしてやめた。社会人には見えなかったからだ。
 カラフルなフルーツ饅頭と茶を運び、橋島ツルマは席に着く。
「相談ってなに」
 しょうじき力になれるとは思えないけど、と心の中で唱え、「聞くだけならできるから」と水を向けた。
 多田城マキは語った。
 ひとしきり話し終えるのに三十分はかかった。要点をまとめれば、心霊現象に困っている、という他愛ない話だった。
 多田城マキの口ぶりは真剣そのもので、仮に初対面の人間から同じ話をされたら即座にその場を辞しただろうと予感させる口吻だった。
「つまり、写真を撮るごとに妙なものが映ると」まずは相槌を打った。
「うん。最初は気のせいだと思ったし、虫か何かが写りこんだだけと思った。でも、撮るたびにどんどん近づいてきているみたいで。動画にも映ってて、それ観たらもう怖くて、仕事もできなくなって」
「仕事って何してたの」
「モデル。女優もちょっとしてた。ドラマのエキストラ専門の事務所があって、そこに入ってたんだけど」
「ドラマの映像にも映り込んでたわけだ」
「そう」
 話が本当なら、ドラマ監督だって映像をチェックしたはずだ。見逃したとは思えない。毎回、映像に異物が紛れ込んでいたら騒ぎになるだろうし、たとえ気づかなかったとしても、インターネット内で話題になるはずだ。だがそうした話をすくなくとも橋島ツルマは聞いたことがなかった。あとで検索してみようと思い、出演したことのあるドラマの名前を訊いたが、多田城マキは言い渋った。
「じゃあそれはいいけど、問題の写真とやらを見せてもらわないと話の真偽もわからないじゃん」
 さすがにイラっとした物言いになった。
 多田城マキは、そうだよね、と慌ててバッグを漁り、自身のメディア端末を取りだした。端末を操作しだす彼女に、橋島ツルマは言った。
「話は分かったけど、どうして私に? なんで相談しようと思ったの」
「それは」
 彼女は端末をひっくり返し、画面をこちらに向けた。「ツルマさんが、霊感あるって前に言ってたから」
 学生時代に吹いた嘘の一つだ。周りに注目されたくて話を盛ったが、それを彼女は憶えていたようだ。
 十年前の学友の言葉に縋らざるを得ないほどにいまの彼女は追い詰められている。厄介な相手と接点を持ってしまった。橋島ツルマは内心でひたいに手を当てながら、差しだされた端末の画面に目を落とす。
 写真だ。
 山岳を背景に多田島マキがピースをしている。
 よこには年上らしき女が肩を寄せて破顔している。
「三年前に職場の先輩と山に行ったとき。このときがたぶん最初で、ほら、ここ」画像を拡大した彼女のゆびは震えていた。
 拡大表示された箇所は、背景の一部だ。五百メートルは離れているだろうか。彼女たちと山脈のあいだにかかった崖の側面に、人型らしき物体が写りこんでいる。
 白いワンピースを着ているのだろうか。全体的に白い。拡大しているため画質は潰れており、かろうじて人間だろう、と思う程度の画像だった。
 訝しんだ心象が伝わったのだろう、
「つぎはこれ」多田城マキは画像を変えた。
 夜景をバックに撮った写真だ。
 彼女の背後に観覧車が映っている。都心の複合商業施設だろう。通行人たちはのきなみお洒落で、裕福さを全身で表わしている。
「ここ」
 拡大された画像に、こんどはハッキリと女が映り込んでいる。ワンピースではない。白装束だ。明らかに場違いな格好だ。肝試しといった催し物が開かれているのでなければ、よほど人目を惹くだろう人物だが、なぜか周囲の通行人たちは誰も彼女を気に留めていない。
 その人物の視線のさきには、多田城マキがおり、スーツ姿の男と自撮りの角度で写っている。
 それから多田城マキは矢継ぎ早に三枚の画像を表示した。いずれにも、白装束の女が写りこんでいる。
「ね、近づいてきてるでしょ」
「いま見せてくれたのって古い順なの」
「そう。あ、でも気持ちわるくて消しちゃったのもあるから全部じゃないけど」
 最後に表示された画像では、多田城マキの数メートル背後に女が立っていた。
 一瞬、その人物は背中をこちらに見せ後ろ向きで立っているのではないか、と錯覚した。床まで届くような長髪がだらりと垂れているからだ。顔が見えない。多田城マキに背を向けているのではないか、と思うが、そうではない。前かがみに項垂れている様子が見てとれる。まるで幽霊のイメージそのままだ。作り物めいているため、かえって恐ろしくない。
 だが、多田城マキは真実にこの謎の女に恐怖を覚えているようだ。そうでなければ、こうしてわざわざ大学時代の友人を頼ってきたりはしないだろう。それとも何かしらの罠にはめようとしているのだろうか。
 猜疑心を察知したのか、多田城マキは言った。「信じてもらえないの。誰にも。いまどき画像なんて簡単に編集できるし、こんなにハッキリ映ってると実在の人物が変装してるだけなんじゃないかって、誰も信じてくれなくて」
 それはそうだ、と思う。あまりに鮮明に写りこんでいる。心霊現象と言うには、リアルすぎるのだ。
「でも、写真を撮ったときにこんな人はいなかったし、もちろん編集だってしてないんだよ」
「分かった、分かったから」
 娘が駆け寄ってきて、腕にしがみついた。
 大声をださないでほしい、落ち着いてくれ、と目で訴える。
 多田城マキは、ごめん、とつぶやく。
 娘をひざに載せ、頭を撫でながら橋島ツルマは、申し訳ないけれど、と白状した。「霊感あるって言ったの、あれ嘘なんだ」
 しばらく沈黙が漂う。
 娘が、レイカンって? と下からつぶらな目を向けてくる。
 端から予測はしていたのだろう、多田城マキは、「そう、なんだ」と目を伏せただけで、非難の言葉はなかった。
「どうしたらいいのかな。みんなの言うように、ただ変な格好をした人が偶然わたしのうしろに写りこんだだけなのかな。立ってただけなのかな。でも変なんだよ。いっしょにわたしと写真撮った人、みんな連絡つかなくて。嫌われただけだと思ってたけど、そうじゃなかったらどうしよう。家にも帰ってないらしくって、このあいだ警察からも行方を知らないかって電話があって」
「待って、待って。え、なに。失踪したってこと? いま見せてくれた人たち? マキちゃんのとなりにいた人たち? ホントに?」
 いまいちど彼女の端末を手にとり、最初から画像を確認していく。
 多田城マキはいつも誰かと写真を撮っていた。否、きっと一人で撮っているときには写りこまないのかもしれない。
 その旨を質問すると、
「そう、みたい」
 彼女は認めた。「誰かと一緒にいるときに決まってソレが写りこんで」
 橋島ツルマは考えを改めた。
 たとえこれが心霊現象でないとしても、多田城マキには危険が迫っている。危機が周辺に介在している。放っておいてよい事案では、たしかにない。
 メディア端末をひざのうえに置く。娘が興味津々にそれをいじったが、好きにさせておく。
「このこと、警察には言ったの?」
 多田城マキは首を横に振った。
「なんで」
「だって誰も信じてくれなかったし」涙目で彼女はこちらを非難するように見た。「ツルマさんだっていまこうやって信じてくれてないでしょ。わたしがどんなに怖かったか考えようとしてくれないでしょ、みんなそうなんだよ。わたしだけずっと怖くって、どうしようもなくって、怖くって」
 子どもみたいに服の袖で目元を何度も拭うと、彼女はしばらくしてから、「ごめん、取り乱した」と意気阻喪した。
「それはいいけど」
 力になってあげたいと思った。心から思った。
 霊感なんてないけれど、多田城マキは不安のなかでずっと独りで傷つきつづけてきたのだ。誰かが手を差し伸べてあげてもいいではないか。
 かといってじぶんに何ができるのかも、橋島ツルマには分からなかった。「まずはご飯にしよかった。夕飯食べてってよ」
 お腹が空いていては、でる元気もでなくなる。
 気持ちを切り替えようと思い、娘を膝のうえからどかそうとすると、
 パリンコリン。
 軽快な電子音が響いた。
 娘の手には多田城マキのメディア端末が握られている。娘はちいさなゆびで器用にそれをいじっていた。
「なに、いまの音」
 分かりきったことを多田城マキは言った。
 端末に付随したカメラは彼女を向いている。
 娘の手にした端末の画面には、なぜか純白の布地が映り込んでおり、写真のはずなのにそこにはゆっくりと上から糸のようなものがするすると墨を垂らしたように伸びている。


3110:【2021/07/26*百年残れば何でも古典】
古典を読みましょう、といったプロ作家の意見を見かけるたびに、現代の小説で、これからの五十年後、百年後に残る作品ってあるのかな、と考える。古典を読みましょう、さいきんの作家の作品は下手なうえに個性がない、とのたまくプロ作家の小説が、果たして五十年後、百年後に残るのだろうか、と考える。現代に五十年、百年残った古典作品が仮に現代に初めて登場したとして、それが五十年後百年後に残るか否かを考える。むかしから残ってきたからとりあえず残しましょう、という勢力がつよいだけではないのか、と考えてみる。高値がついたからきっとこれはいいものだ、と見做される美術品との相違を考える。現代に残されなかったが、残った作品よりも私にとって素晴らしいと思える小説がなかったか否かを考える。果たして、後世に残ることにいかほどの価値があるのかないのか、を考える。後世に残るとはどういうことか、を考える。すくなからずそれを好む読者のいる小説を、下手だとか個性がない、と述べる作家の言動がどれほど妥当かを考える。一部のプロ作家に、下手で個性がないと批判された小説の著者が果たして真実に古典を読んでいないのか否か、を考える。五十年百年とは言うものの、人類史を基準にすれば、一年も百年もほとんど同じ一瞬にすぎない事実を考える。考えることはたくさんある。暇な時間のあるひとはそれぞれに湧く疑問を考えていきましょう。



※日々、思わぬ変化を目の当たりにする、気づかぬうちに萌ゆる芽もある。


3111:【2021/07/26*ふつう】
さいきん実感したのが、誰かに何かを贈る行為は、じぶんのためにもなり得るということで、何か美味しい食べ物を贈りたいな、と思ったときには、真実にそれが美味しいかどうかをじぶんでも試してみないことには分からないので、本来ならまず手に取らないような商品をじぶんでも購入する機会にもなって、ああこういう変化に繋がっていたのか、と発見した気分になる。選択肢が増える、と言い換えてもよいです。誰かのために何かをしようとした結果に、自分自身にとっての新しい刺激との出会いにもなり得るし、贈った相手にも、それが好ましく受け取られるか否かに拘わらず、変化のきっかけになり得るのだな、新しい出会いになり得るのだな、と思えばこそ、贈り物はできるだけ、真剣に選ぶのがよいのかもしれない、と思いました。(すごい。いつになくまっとうな感想では)


3112:【2021/07/26*議論をしましょう】
80億人が正義だと賛同するようなことに対して、それはどうなの、と異議を唱えた人がいるのなら、その意見を掬いあげるのが、作家に宿り得る役割の一つなのではないか、と思うのだけれど、違うのでしょうか。意見することすら封じようとする者の主張は、どんなに正しく見えても、それは正義とはかけ離れたナニカに思えます(作家において、悪と見做される覚悟すらないのなら正義のヒーローごっこなんてしないほうがよいのでは?)(こうした批判を見越したうえで、そう見られるように振る舞う者もあるかもしれない。しかしその場合、だからといって情状酌量の余地が生じるわけでもなく、意図して悪を演じた時点で、相応の罰を受け入れるのが筋だろう)(だからこそ、そうした悪を演じざるを得ない個人をださない社会をいかに築いていくのかが問われているし、そうした個人が現れた時点で、社会全体で取り組まねばならない根深い問題があるのだとの認識を持ったほうが好ましい)(本来であれば、そうした個人が現れる前の段階で何かしらの対策や改善を行えるとよいのだが、なかなかむつかしいのが実情だ)。異論の是非についてだが、たとえば、虐殺は絶対悪だ、という意見は現代社会では妥当であるが、そもそも人間は現代であってもウィルスや細菌を殲滅しようとしている。殲滅の対象が同属でないというだけで、人間という生き物はどこまでも無慈悲にかつ冷酷になる性質がある。人類の虐殺は絶対悪、という前提は、私たちの認めた者たちの虐殺は絶対悪、との規定に容易に塗り換えられ得る――言い換えれば、じぶんたちの認めない者は排除してもいいし、虐殺しても構わない、との曲解が成立し得る。解釈によっていとも容易く規範が変わるのは、歴史が証明しているはずだ。意図しない動植物の絶滅とて現在進行形で押し進められているし、それはなにも動植物だけではないはずだ。住める土地が減り滅んだ民族はすくなからずいるし、これからも出つづけるだろう。虐殺が真実に絶対悪ならば、そもそもいまのままでいいはずがないのに、それを是正しようとはしない。社会を損なってでも止めるべきことを止めようとしない。つまり絶対悪ではないからだ。誰も真剣に考えていない。認めていない。口だけだ。虐殺は絶対悪ではないし、絶対悪であるべきだという意見も広く人々に認められてはいない。言葉だけが虚しく響いている。中身が伴っていない。空虚だ。それをして、虐殺は絶対悪ではない、と主張することは無意義ではないと思うが、いかがだろう。(それはけして、虐殺を肯定していることとイコールではないはずだ)(たとえ無意義であったとしても、どんな人物からであれ異論を唱える余地を奪わないほうがいくひしさんにとっては望ましい)(定かではないがゆえに、議論を尽くすほうが好ましいのではありませんか)


3113:【2021/07/26*嫉妬の鬼】
(未推敲)
 わがはいは嫉妬をしやすい。じぶんにできないことを容易くこなす能力はなはだしい秀でたる者が世界中に蔓延りすぎて、何を見ても嫉妬する。
 大統領の権力をはじめ、アイドルの人気、アスリートの活躍、我がきょうだいの進学昇進結婚から、近所のガキンチョの青春事情まで嫉妬の種には事欠かない。いとこたちはいつの間にか医者や弁護士になっており、副業として商業作家デビューまで果たし、いまでは売れっ子作家の仲間入りだ。
 それに比べておまえときたら、と憐れむでもなく、おまえはおまえで好きに生きなさい、と温かく見守ってくれる親戚一同の深い慈愛には、嫉妬の乱れ撃ちを禁じえない。
 しまいにはわがはい、四角い形状を保てる豆腐さんの柔軟性や、ダイナマイトにも耐えうる金庫さんの頑丈さ、ほかにも、逆さにしてなお難なく直立を維持するペットボトルさんの軸の安定度の高さや、どんな体勢からでも回転できるコインさんの融通無碍さには、絶望するほどの越えがたい差を感じる。
 カエル、アリ、ムカデにヘビ、鳥にネコに、犬にシカ、挙げ連ねれば暇がない。嫉妬するなというほうが土台無茶というものだ。
 世の人々はいったいどうやって自己肯定感だの自信だの自尊心だのといったものを高く維持しつづけていられるのやら。疑問符で海を埋め尽くしてしまいそうである。
 このほど、十年前に旅に出た旧友がわがはいの街に帰ってきた。久闊を叙しがてら夕飯をたかろうと出迎えにはせ参じたが、わがはいの顔を見るなり旧友は回れ右をして去ろうとした。わがはいの掲げた右腕の行き場のなさといったらない。
 わがはいは旧友を追いかけ、進路を塞いだ。
「やい、旧友よ。おぬしはノコノコと性懲りもなく故郷に舞い戻ってきたりなんかしちゃって、どの面さげて、うぷぷ、わがはいはおぬしのことなどこの十年、まったく微塵も、一瞬たりとも忘れたことはなかったし、ずっとずっとさびしかったぁ~」
 うわーんおかえりー、と抱きつくと、
「やめろ、やめろ。汗臭い。おまえちゃんと風呂入ってんのか。相変わらず成長が見られんな」
「旧友よ。お言葉だが、かってに成長して、色気づいたのはおまえだぞ。何ちょっとカッコよくなってんだ。ずるいぞ。卑怯だ。嫉妬してやる」
「嫉妬ばかりうまくなったって、仕方ないだろ。それにお帰りも何も、立ち寄っただけだ。もはやオレにとっちゃ旅が故郷みたいなもんだからな」
「なんだそれ、めっちゃかっこいい」旅人は言うことが違う。「いいな、いいな。わがはいもそんな台詞吐いてみたかった」
「言うだけならタダだろう。好きなだけ吐けばいい」
「旅してない人が言っても虚しいだけでしょ、登山したことないひとが、誰からも何も訊かれてないのに、なぜってそりゃあそこに山があるからだ、なんて言ったってきょとんとされるだけでしょ、惨めでしょ」
「どの道何もせずとも惨めなのに何をいまさら」
「正論ではあるけれども」
 言い方がなっていない、と言いたかったが、唇を噛みしめすぎて、声がでない。
 夕飯を奢ってもらう目的がなければ、わがはい、いまここでご立腹して旧友との縁を切っていたところだ。
「飯は奢らんし、おまえとの縁もいらん。切りたきゃかってに切ればいい」
 旧友はかっこうよく言って、腰に縋りつくわがはいを物ともせずに、ずりずりと歩きだした。
「ちょっと待って、ちょっと待って、本当に待って、お腹ぺこぺこで倒れちゃいそうなの。ここ商店街なの。そっちには何もないの」
 いいから立ち止まって、とおいおい泣きつくと、狙い通り衆目が集まった。
 しめしめ。
 これで旧友は折れざるをえまい。
 わがはいに屈し、潔くご飯を奢るがいい。
 しかし旧友はなおも歩を進めた。のみならず、不吉なことをつぶやく。「交番ってこっちだったかな」
「待って、待って、すみませんでした。もうはしたない真似はいたしませんので」
「いいよ、いいよ。いまさらやめてもらったって、警察に突きだす未来は不動だから」
「ちょっとは揺らご?」
 二ミリでいいからグラついとこ?
 旧友は歩をゆるめず、裏路地に抜け、商店街から離れていく。さすがに人目があって恥ずかしくなったのだろう。
 わがはいはすかさず見抜き、旧友の腰から身体を引っぺがす。鼻水が吊り橋さながらに伸びたが、旧友にバレる前にゆびで巻き取って、誤魔化した。
 旧友は溜息を吐いた。
「歳のことは言いたかないが、おまえもいい歳なんだから、そろそろ他人にタカるのをやめたらどうだ」
「誤解だよ誤解。わがはいはただ、友情を育もうとしていつも失敗しているだけだ」
「失敗から学ぶ姿勢がないのも救いようがないな」
「いいだろ。わがはいはただ、わがはいらしくあるだけだ。みながわがはいよりも秀でているだけで、わがはいは何も悪くない。優秀なみなが悪いのだ」
「そう言われてしまうと一理あるような気にもなるのがふしぎだ。クズだと認めているだけのことなのになあ。本当にふしぎだ」
「クズはクズなりに一生懸命に生きているのだよ。わがはいはいつだってみなを見あげて首を痛めることも厭わずに、口を開けて待つひな鳥のごとく、おこぼれに与かるのに必死なのだ」
「なんの白状だ。正直に言えばいいってもんじゃない。時間はあるのだろう。何かに励めばいずれ何かの道で才能が花咲くかもしれんだろうに、無駄な時間を過ごしすぎだもったいない」
「あり得んな。わがはいの無能っぷりを侮らんでほしい」
「変なところで自信を持つな自信を」
「他人に嫉妬させたらわがはいの右にも左にも上にも下にもでる者はおらんな」
「変なことを誇るな」
「ほかに誇ることがないのだ」
 旧友は呆れたのか、沈黙した。
 ややあってから、
「そんなに嫉妬ばかりしてよく疲れんな」と咳ばらいをする。「死にたくはならんのか」
「ならんな」
 旧友はようやく歩を止め、やれやれ、と振り返る。「おぬし、自己肯定感が低いと見えて、真には富士山よりもうず高く自尊心に満ち満ちているのではないか」
「ないものは減りようがないだけだ」
「ほう。物は言いようだの」
 旧友が腕を組み、なれば教えを乞おうではないか、とどかりとベンチに座った。知れず丘の上の公園まできていた。ベンチからは街並みを一望できる。
「嫉妬に囲まれてなお、嫉妬に焼き殺されぬ術を知りたい。おぬしはどうやらその境地に立っているように見受けられる。クズも極めればそれもまた達人なのかもしれぬ、と考え直してみたが、どうだ」
 夕焼けがきれいだった。
 わがはいは面映ゆくなり、全身をぼりぼり掻いた。「嫉妬なんてものはそこら中にある。空気みたいなものだ。吸ったらその分だけ吐けばいい。だいいち、わがはいは常にこの世で最も秀でている者に嫉妬しておるだけだ。それ以外の者への嫉妬など、それに比べれば無きに等しい。とはいえ、ないわけではないがゆえに、つねに嫉妬に囲われているわけであるが」
「ほお。して、そのこの世で最も秀でている者とはなんだ」
「神だ」
 至極真面目に答えたというのに、旧友ときたらきょとんとしたのちに、呵々大笑した。腹を抱え、目に涙まで浮かべる始末だ。
 虚仮にされるとは思わなんだゆえ、カァと首筋が熱くなる。
「くっくっく。すまぬ、すまぬ。なに。バカにしたわけではない。神か。そうか。なるほどおぬしは、オレの思うよりもずっと純粋で、愚直で、高みを見詰めつづけていただけなのかもしれんな」
「やめろ、やめろ。見え透いた世辞を申すな」
「違うぞ。これは本心から感心しているのだ。神にすら嫉妬し得るその向上心には目を瞠る。否、おまえの場合は、平等の精神とでも言うべきか」
「よく分からんが、お気に召したのなら本望だ。で、どうなのだ。やはり夕飯は奢ってはくれんのか」
「気が変わった。しばし飯を肴に、話を酌み交わそう。おまえはこの数年で何も変わらずにおったようだ。オレのほうではずいぶん変わった」
「そんな自慢は聞きとうないが」
「違う。何も変わらぬおまえを見て、以前のオレならば、むかしのように見下していただろう。だがいまならば分かる。おまえは、ただそこにあるだけで絶えずもがきつづける天才であったのだな」
「バカにしておるだろ」
 いくらなんでもわがはいをして天才はない。百人いたら百人が、それはない、と物申す。それほどの法螺である。
「まあ、たしかに天才ではないかもしれんな。そういった尺度で語れる域を越えたところにおまえは立っているのかもしれん」
「豚もおだてれば木に登るのだろうが、わがはいをおだてても、何もせんぞ。ただ飯はたらふく食らうが」
 胸を張ると、盛大に腹の虫が鳴った。
「はっは。よい音だ。ではそろそろ店に行くか。何がいい。食いたいものがあれば遠慮なく言え。きょうは友との邂逅を記念に、大盤振る舞いといこう」
「なら駅前に美味い焼き鳥屋があってな」
「居酒屋ではないか。そんなところでいいのか」
「そこがいいのだ。語らうにはうってつけであろう」
「それもそうか。そうだな。ではそこにしよう」
 旧友はベンチから腰をあげると、背伸びをした。襟を正すと、ちなみに、と質す。「いまは何に嫉妬している」
「そりゃもちろん」
 わがはいは沈む夕日に目を細め、
「おぬしの底なしの懐の深さにだ」と打ち明ける。


3114:【2021/07/27*嘘も方便?】
過去の戦争を引き合いにだすまでもなく、漫画や映画が国家プロジェクトの広告に利用されてきたように、まっとうに広報したのでは情報が浸透しない層というのは存在する。そうした層に的確にかつ効率よく情報を行きわたらせるためには、正攻法を使うだけでは足りない。ある種のワクチンがウィルスの一部に偽装して免疫を誘導するように、一見するとセンセーショナルな見出しで読者を集め、見出しとは異なるまともな内容を読ませようとする手法は、正しい情報を大勢に行きわたらせるのに一定の効果があるように思うが、真実のところはどうなのだろう。もちろんそうした手法は邪道であることに違いはなく、商売としても人間としても誠実ではないがゆえに批判されて当然だが(どんな事象に対してであろうと批判する自由は誰にだってあるのだから、批判されて当然でない事象を探すほうが骨が折れるにしろ)、緊急事態なのだから、と言って強権を発動することをよしとするのなら、上記の邪道な手法もまた許容するのが筋ではないか、と思うが、そこのところはどうなのだろう(そうした邪道な手法を許容しましょう、と言いたいのではなく、Aが認められるならBも認められてしかるべきでは、との疑問です。Bがダメならそれよりも悪影響のつよいAだってダメだろう、との考えです。どちらも認められないならそれはそれで筋が通っておりますから、それで構いません)。(断るまでもなく、見出しも中身も間違っている情報をあたかも真実かのように偽装した記事――いわゆるデマ――は、社会的に害があることはその通りであろう)(誰もが科学的思考をもとに行動できる、という前提での社会的施策は往々にして失敗するものではないでしょうか)(すくなくともいくひしさんは、科学的思考に則っての行動をほとんどとれていません。ほぼほぼ欲求に忠実と言っていいでしょう。理性的ではないし、長期的な視野を維持した合理性も発揮できておりません)(ほとんどの事柄について考えを巡らせずに反射的な選択を積み重ねている、ということです)(そもそも正攻法の広報だけで充分ならば、SNSを利用する必要もないわけです。SNSを利用した広報を行う時点で、多かれ少なかれ邪道と言えるのではないでしょうか)(嘘も方便とはどのような場面で許容され得るのか、このテーマ一本で長編小説がつくれそうですね)


3115:【2021/07/28*仲介者は嘯く】
(未推敲)
 報酬が通常の三倍に跳ねた。依頼を確約させた帰りはしぜんと足取りが軽やかで、スキップをしている。とはいえ、依頼をこなすのは北条(ほうじょう)竜六(りゅうろく)であり、私はただ依頼人と北条を繋ぐ仲介役にすぎない。
 その小屋は饅頭工場の裏手にひっそりと建っている。年中餡子の甘ったるい香りに包まれており、小屋の見た目は物置小屋然としているので立ち入る者はほとんどいない。ただし小屋の中は広く、快適だ。外から見えるのは入り口部分で、部屋は地下に広がっている。
 入り口をくぐり、短い階段を下りて扉を開ける。こちらが本来の玄関だ。
「竜六いるか。仕事の依頼なんだが」
「ちょうどよかった、手伝ってくれ」
 奥から声がした。
 わるい予感がしたので、嫌だが、と断るも、いいから早く、と叫ばれる。仕事を頼みに来た手前、つよく言われると断れない。
 しぶしぶ大きなソファを経由して、部屋の奥へと足を運ぶ。一段高くなっている区域がある。座敷だ。四方を障子で囲われており、一見した印象は、演劇の舞台だ。
「入ってくれ」
 中から声がしたので、開けるぞ、と一言添えて障子を左右に開け放つ。
 青い手術着に身を包んだマスク姿の人型が立っている。背格好からして北条竜六で間違いない。
「ここを押さえておいてくれ」
 学校机を三つ並べただけの土台のうえに、毛むくじゃらの獣が横たわっている。毛がむしられているのか、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426007410822)


3116:【2021/07/28*堕落しておる】
文字をたくさん並べたって世の中なにも変わらんし、身体は錆びるし、魂は濁るし、性格は歪むし、なんも残らん。河原で石ころ積みあげて遊ぶのとなんも変わらん。でも楽しいからしちゃう。漫画を読むみたいな楽しさではなくって、この石こんな角度で止まんのー、みたいな楽しさだ。その発見に辿り着くまでにひと月を費やしたり、百万個の石を積みあげては、崩したりを繰り返す。なんも楽しくない。でも楽しい。矛盾があるからいくひしさんは、文字を並べるのが好きなのかな。言の葉をつむぐ、という言い方をいくひしさんは好みますけれども、それは葉っぱに糸を通すのに似ていて、干し柿をつくるときみたいに数珠つなぎで、要するにこれはビーズ遊びなのだね。積み木遊びだし、判子遊びだし、石ころ積みだし、ビーズ遊びなのですね。でも大きな絵を描こうとして、何日も何日もえっちらほっちら石ころを積みあげながら、同時に飽きないようにとちっこい絵もつくろうとして、えっちらほっちら糸にビーズをちまちま通していると、いつの間にか大きな絵のほうを放置して、ビーズ遊びに夢中になってしまう。そうしてるなかでも、ビーズ遊びのほうでも大きな絵ができはじめて、あーんこんなのいつまで経っても終わんない、になる。一歩進んで五歩下がるの気分だ。マイナスの人生なのだね。人生はマイナスなんですよ。だって死に向かっているんだもの、いつだって積みあげているようで何も変わらず、結びつけているようで解けているのだ。創っているようで、崩壊している。虚しい。でもその虚しいのなかにも、心地よい虚しさと、見たくない虚しさがあって、いくひしさんはできるだけ心地よい虚しさがいいなぁ、と思っています。それは、糸にビーズを通しているあいだのちまちまであったり、そうしたちまちまの間に夢想する完成図への愛着であったり、憧憬であったりするのだね。言の葉をちまちまつむいで、じぶんだけの首飾りをつくる時間を過ごせたら、それはまあまあ、そこそこ、いひひと楽しい日々なのでは、と思います。定かではないからこそ、定かにしていきたい、本日のいくひしまんでした。


3117:【2021/07/28*いつだってそれは藪の中】
(未推敲)
 丘の上に白い物体がくねくねと蠢いている、といった怪談は若い世代で比較的有名だが、むろんそんなのはインターネットミームの一言で片づけられる作り話に決まっている。
 僕は一人っ子だが、親戚一同の付き合いが深く、親兄妹が多いこともあり、同世代のいとこが多かった。お盆になれば長男一家の田舎に集まるのが毎年の恒例だった。
「よぉ、また今年もきたべか」祖父が出迎えた。
 先に到着していた親戚一家の子どもたちはみな川へと魚釣りに出かけたらしい。ここでは男も女もみな自然児に還る。
 三泊四日で帰郷する一家がほとんどだ。大人たちはそれぞれで何かしらの家事を分担し、お盆に備えた。
 墓参りは一時間もしないで終わる。そのあとの宴会が長いのだ。昼間からはじまり、夜になっても終わらず、翌日の昼間になると近隣の馴染みの町人が集まって、わいわいと賑やかさを絶やさない。
 どこからどこまでが親戚かも分からず、あとになって、「えー、あのおんちゃん親戚じゃないの」とびっくりするところまでが通過儀礼だ。
 いとこだと思って接していたのにいっさい血の繋がりがなかったなんてことも珍しくない。
 三日目ともなるとさすがにみなしゃべることもなくなり、だらけたムードとなる。
 そこで誰がつぶやくとでもなく、ぽつりと言った。
「今年はボウさんこなかったな」
 みなそこで、忘れていた悪夢を思いだしたように、一瞬の静寂を生みだした。
「また旅行にでも行ったんでしょ」母が苦々しく言った。
 この話題はおしまい、とでも言いたげに母は、洗濯物干さなくっちゃ、と言って席を立った。
 みなよそよそしく、それぞれの作業に戻った。子どもたちはゲーム機の取り合いで、この暑さのなかだというのに、肩を寄せ合い、画面に釘付けになっている。
 僕は子ども組のなかでも年長者だったので、子守りの監督を任される機会が多かった。
 この日も、家でゲームをしていたい子どもたちと、そとで遊びたい子どもたちとで別れてしまったので、より危険なそとで遊びたい子たちについていくことにした。
 集落は山に囲われ、村を二分するように川が流れている。子どもたちはきのうおとといと川で遊んだからか、その日は虫取り網をかついで、山に向かった。山道にはアブ蚊が飛びかっており、自動車でなければ進めない。だから山のふもとの、林や森の入り口付近にしか近寄れなかった。
 カブトムシやクワガタムシ、カミキリムシやカマキリなど、子どもたちは思い思いに自然の宝物を掴みあげていく。
 蝉の鳴き声が青空を埋め尽くし、積乱雲を眺め、空の高さに思いを馳せた。
 ふと、ぴたりと蝉が鳴きやんだ。
 子どもたちの幾人かが歩を止め、当たりを見回した。
 異様な雰囲気に怖気づくように僕の周りに集まりだす。虫取りに夢中の子どもたちも、はっとした様子であとにつづいた。
 僕はまず、熊や狐などの野生動物が潜んでいるのではないか、と考えた。じっとしていれば害はないはずだ。
 だがどうもそうではないようだ、と認識を改める。あれほど飛び交っていた鳥の姿まで見えなくなった。
 さわさわとそよぐ風が、背の高い雑草を揺さぶり、静寂の音を響かせる。
「あ、あれ」
 子どもたちの一人が指をさした。
 草原と林の境界が、山の輪郭に沿って、まっすぐと伸びている。どこか線路じみている。
 僕らのいる地点から百メートルは離れていないはずだ。何かが動いているのが見えた。
 最初は案山子か何かだろう、と思った。
 遠近感からして、人間の背丈では雑草に埋もれて見えないはずだ、と思ったからだ。
 しかしそれは、縦に細長く、くねくねと波打って見えた。
 背筋が冷えた。
 日差しはなおもカンカンと照っているというのに、冷蔵庫のなかに放りこまれたような寒気が襲った。
「行こう」
 僕は強引に子どもたちを引っ張ってその場を離れた。見ないほうがいい。正体がなんであれ、あれはよくないものだ。そう直感した。
 幾度か振り返ってみたが、それはなおも遠くにくねくねと踊って見えた。遠近感が掴めず、追ってきているようにも、その場を動かずにいるようにも見えた。
 家に戻り、子どもたちにシャワーを浴びてくるように指示してから、僕はこっそり叔父さんたちにいましがた目にしたばかりの光景を話して聞かせた。
「あそこは沼があるんだ、近づいたらダメやろ」
 なぜか語気を荒らげて叱られた。子どもたちを危ない場所に連れて行ったのだからそれも仕方がない、とその場では呑み込んだが、時間が経つにつれて、理不尽な思いが募った。
 僕の見た光景にはいっさい触れずに、ただ近づくな、と釘を刺されただけに思えた。
 翌日になればもう田舎を離れる。帰るだけだ。
 せめてこの地にも、くねくねの話があるのかどうかだけ確かめておきたかった。ひょっとしたらくねくねの怪談の舞台がこの村で、発祥の地かもしれない。
 夕食後、僕はそれとなく、あすの朝食の仕込みをしている叔母さんたちに交じって食器の後片付けの手伝いをしながら、日中に目撃した光景について語った。
 意見を窺うと、叔母の一人が、
「それはきっと蚊柱だね」と言った。
「蚊柱って、ぶんぶん顔の周りにたかるコバエみたいなやつ?」
「そ。この辺、本当に多いから、物凄く濃い蚊柱が立つことがあってね。それを見たんじゃない? 色は何色だった?」
 その言葉にはっとした。「白ではなかった気がする」
「そうでしょ。くねくねって怪談あったよね。あれだと思ったんでしょ」
「うん」僕は気恥ずかしくなり、俯いた。顔も火照り、きっと赤くなっていたはずだ。
「でも近づかなくって正解だったかもね」叔母さんが手を伸ばしたので、僕は拭いた食器を手渡す。叔母さんは食器を棚に仕舞いながら、「蚊柱が濃くなるってことは、そこに何かしらの苗床があるってことだから」
「苗床って、沼ってこと?」
「それもあるけど、だったらもっと散って、一か所に留まったりしないでしょ。見たのはだって、一か所に固まって、くねくね踊ってたわけだよね」
「そう」
「遠目から見ても判るくらいに濃いんだから、そりゃあそこに何か動物の死体があったってことだよ。死体があるってことは、たぶん食べられちゃったんだね。熊か狐か、ともかく何かの縄張りだったかもしれない。やっぱり近づかなくって正解」
 僕はこのとき、嫌な想像を巡らせた。憶測にもならないただの絵空事だったけれど、叔父さんの僕を叱った理不尽な物言いや、蚊柱の苗床の存在、そして何より、毎年必ず顔を覗かせた粗暴で有名な村のおじさんが今年はなぜか顔を見せず、誰もその行方を知らないらしいこと、ボウさんと呼ばれたその人はいまどこで何をしているのだろう、と僕は想像し、草むらで虫にたかられ誰の目にも触れずに腐りつつある死体を思い描いて、振り払う。
 いくらなんでも飛躍しすぎだ。あり得ない。
 仮に誰かがボウさんを殺害したとして、誰も探さないなんてことはないだろうし、あれほど濃ゆい蚊柱があればさすがに誰かが見つけるだろう。
 ひょっとしたら事故死してそのままの遺体があるのかもしれないが、それだって誰かが見つけてしかるべきだ。やはり僕の妄想にすぎない、と一蹴する。
 叔母さんは、それにね、とまだしゃべっていた。
「みんなに言ったら興味持って見に行っちゃうかもしれないから、内緒にしていたほうがいいかもね」
 明くる日、僕は父の運転する自動車に乗りこみ、窓から手を振った。近所のひとたちまで見送りにでてくれて、なんだかいつもこの瞬間だけじぶんがひどく歓迎されていたのだな、との実感が湧く。
 しばらく感傷に浸った。
 長いトンネルを抜けると、山に囲われた集落の景色は途絶え、山は遠くにちいさくギザギザと浮かび、開けた視界を空が占領する。
 静かになった車内で僕は父に言った。
「お父さんもちいさいころ、濃ゆい蚊柱って見た?」
「ん?」
「くねくねしてて、そうそう、ちょうどそういう怪談があってね」
 僕は秘密を明かすような心境で、父に有名な怪談を披露しようとしたが、父は、
「見たのか」
 驚愕の表情を浮かべてハンドルをぎゅっと握ったので、
「叔母さんから聞いただけ」僕は咄嗟に嘘を吐いた。母は後部座席で船を漕ぎ、ちいさないびき声をあげている。
「もし見ても近づいてはダメだぞ」父は言い聞かせるように言った。「見ても、人に言わないほうがいい」
 なぜ、と問いたかったけれど、僕は無言で頷き、僕の見た光景は忘れることにした。
 以来、祖父の家に行っても僕は森や林には近づかないし、なるべく遠くに目を凝らさないようにしている。蚊柱はいまもどこかで、くねくねと身をよじっているのかもしれないが、誰もその苗床の正体を暴こうとはしない。どこにあるのかも定かではない。いつだってそれは藪の中だ。


3118:【2021/07/29*栗あんでごじゃる】
怠けているのは年がら年中でごじゃるけれども、さいきんの怠け具合がすごくて、いくひしさん、さすがに焦ってきたでおじゃる。小説にしろ、ほかのことにしろ、サボりまくりの生栗ちゃんで、ちゃんと焼き栗にしましょうよ、みたいな、毬栗のトゲトゲしさはどこにいっちゃったんだい、みたいな何もかもが中途半端の、ぺけぺけ豆太郎でごじゃるよ。おまんじゅうでごじゃる。栗まんじゅうはおいしいので好きです、でごじゃる。なーんかさいきん思うのは、キャラクターが全部おんなじだし、造形が浅いし、どうしたらいいんじゃろ、みたいな感じがちょっとね、でごじゃる。物語が浅いから、キャラクター描写も浅くなっちゃうのかなぁ、みたいな予感もありーの、単純に手を抜いているだけちゃうの、との予感もありーの、もうもうどうしたらええんじゃろ、まぁいっか、楽しいし、の悪循環で、とにかく疲れてからの、はぁ休憩ぇ、すこしもちちゅこ、のお餅つきの時間が長すぎて、あっという間におやすみの時間になっておる。こんなんじゃ頭のなかの物語ばっかり溜まっていって、パンクしてしまう。ぎゅっとしてぽん、って掴んで引っ張りだせたら楽なのになぁ、と思うのだよね。万年便秘さんなんでごじゃるよ(便秘で苦しんでいるお方、失礼な比喩をしてごめんなさいでごじゃる)。もっともっと見たことなくておもちろい組み合わせだの、台詞だの、掛け合いだの、描写だの、表現だの、場面だの、たくさんの工夫の余地があると思うのじゃけど、なかなかうまくいかないでごじゃる。けれども、うまくいかないのも含めて楽しいでごじゃる。楽しめちゃうでごじゃる。一つ失敗すると、また新しい、試したい、がいっぱいでてくるでごじゃる。こうしたらこう、こうしたらこう、がたくさんでごじゃるよ。脳みちょぱつんぱつんでごじゃる。能力不足でごじゃる。カツカツのぴんぴんでごじゃる。ぴんぴんってなぁに? 子猫のおっぽのことでごじゃるよ。かわいいでごじゃる。怠けてないでちゃんとしたいでごじゃるけれども、怠けるほうが好きでごじゃるから、いっぱい怠けちゃうでごじゃる。焦る理由なんかなかったでごじゃる。もうもう、つくりかけいっぱいの、したいこといっぱいでごじゃるな。疲れすぎるとおめめが充血するみたいに、怠けすぎると毎日が充実するでごじゃる。うそでごじゃる。充実はしていないでごじゃる。いつでも不足の不満足、底なしの自己満足なんでごじゃるよ。おつむぷしゅーでごじゃる。うえーん、と思いつつも、うふふ、なんでごじゃるよ。きょうは、ごじゃる、ごじゃる、急にどうしたんでごじゃるか。へっへっへ。かわいかろう、でごじゃる。いくひしさんは、ござるだけじゃなく、ごじゃるにもなれるんでごじゃるよ。万の顔をもちゅ怪人、二十面相ならぬ怪盗マンじゅう面相でごじゃる。そのおまんじゅうは栗あんでごじゃるか? 栗あんでごじゃるよ。安心して、これをお食べ、でごじゃるー。


3119:【2021/07/30*河原で応じる者】
(未推敲)
 じっさいにあった出来事なので、これといった解決もオチもないのだけれど、一年前、友人たちとキャンプに行った。女二人に男二人、総勢四名の小旅行だ。
 みな恋愛対象が二次元の、バリバリ現実逃避人間で、恋愛関係に発展するどころか、互いのすね毛を抜きあう仲だ。
 知らない方もいらっしゃるかもしれないけれども、女の子もヒゲやすね毛が生えるんです。わたしは面倒なので数年前から全身脱毛に通っている。永久脱毛とは名ばかりで、定期的に通わないといけないのがつらいが、そこは恋をしている漫画のなかのアンジェラさまを応援するにふさわしい人間であるために、同じく漫画のなかの女子どもと同じように全身をつるつるにしておこうと決意したはよいが、そもそもなにゆえ全身をつるつるにしなければならんのか、と世に蔓延る歪んだ美意識を嘆きたくもなる。
 毛の何がわるい。
 かように他愛のない会話を絶え間なく繰り広げながら、キャンプ場へと到着し、森に挟まれた河原にテントを張った。三日間を近代都市から離れて過ごす。
 大自然を満喫しよう、とのコンセプトのもと、盛大に満喫した。
 十万円くらいは食費で消えた。
 松坂牛とか食べた。魚釣りにハマって、釣り竿の奪い合いの結果、男どもから不評を買った。
 しかし一向に魚の釣れない彼らがわるい。わたしたちは二人で十匹も釣った。みなで分けたし、全部美味しくたいらげた。
 夜中は満天の星空がうつくしく、惚れ惚れした。
 あっという間の三日間だった。
 大自然からの帰宅後、一週間後にリモート飲み会を開いた。
 キャンプ場で撮った画像や、動画を共有しつつ、わいわいお酒を飲み合おうとのコンセプトだったが、さきに動画を観はじめた男の子が、急に無言になった。
 わたしたちは知らぬ間に撮られていた寝顔の写真に憤怒しつつ、やいのやいの言い合っていた。
 だが男の子の一人がずっとむつかしい顔をして、唇をゆびでつまんだまま、動かなくなったので、
「どしたん」と相方の女の子が声をかけた。
「いやぁ、えー、これちょっとヤバない?」
 言いながら、ちょっと観て、と男の子が動画を共有動画サイトに載せた。非公開設定で、許可されたアカウントだけが観られる。わたしたちはそれぞれの小型端末で動画を視聴した。
 ふつうの動画だった。
 奥に森がある。川を挟んで、わたしたちが手前にいる。水鉄砲でガンマンごっこをしている。早撃ち勝負をしているが、けっきょく撃つタイミングに関係なく対峙した二人ともがびしょ濡れになるので途中からは雪合戦さながらの水の掛け合いとなった。
 わたしたちの笑い声がセミの鳴き声に負けじと下品に響いている。
「何か変なの映ってたか」
 もう一人の男の子がわたしたちに言った。
 わたしたちは揃って、ううん、と首を振る。何も妙なものは映っていない。「ねぇ、これがなんなの」わたしは沈黙したきりの男の子をなじった。「変なこと言って怖がらせるとか、最悪。夜トイレ行けなくなったらおまえのせいだかんな」
 もう一人の女の子も同調した。「そうやぞ。責任取れんのかおまえ」
 いつも繰り返しているジョークの一環だ。誰も本気で怒ったりはしない。
 ただ、わるふざけにすぎるとは思った。
 じっさいわたしはちょっとドキドキしていたし、一人で部屋にいるのを怖く思った。
 だからさっさとネタばらししてほしかった。
 だがその男の子は、いやぁ、とか、えー、とか何度も首を傾げては、やっぱ変だよ、と顔を真っ青にした。無駄にカメラの画質がいいので、男の子の表情の深刻さが伝わった。
「ねぇさっきからなんなんマジで。いいから何が変なのか言いなって」脅かされているようで気が立った。男の子は言った。「イヤホンして音量大きくして聴いてみ」
 わたしたちは渋ったが、いいから、と言われて、不承不承従った。
 イヤホンを耳にする。
 動画を再生する。
 わたしたちのはしゃぐ声がし、重なるようにセミの大合唱が聴こえる。
「これが何」イヤホンを片耳だけ外した。
「よく聴いてみって。セミの鳴き声に交じって、変な叫び声みたいなの聴こえん?」
 言われて、もういちど再生する。
 わたしたちのはしゃぎ声。蝉の声。音量を高くする。わたしたちのはしゃぎ声。蝉の声。叫び声。
 肌を刺すような悪寒が走った。
「なに、これ」
 断末魔というものがどんなものかは知らないが、女の絶叫とも言える痛々しい声が延々途切れることなく響いていた。
 蝉の声と比べても遜色ない。森の奥から響いていたとして、その場にいたわたしたちが気づかなかったとは思えない。
 しかし記憶にない。
「動物か何かの声じゃ」もう一人の男の子が意見した。
 子熊の鳴き声はおじさんの声に似ているし、猫の悲鳴は赤ちゃんの夜泣きに似ている。動画から聞こえる謎の絶叫も、そうした野生動物のものではないか、とその子は主張した。
 真偽のほどは定かではないが、なんでもいいからそういうことにしておきたかった。わたしたちは、そうだそうだ、と努めて明るく賛同した。
 動画はまだ再生されていた。なぜかそこから、
 チガウヨォ。
 見知らぬ女の声がした。
 わたしは小型端末を放り投げ、リモート画面に縋りつく。ほかのみんなも同じような反応を示した。
 画面越しに顔を見合わせ、怖い怖い怖い怖い、と言いあい、動画共有サイトのアカウント主たる男の子に、動画の削除を命じた。
 したがっていまはもう、その動画はなく、あの声の正体も不明のままだ。
 ただ、どう考えてもあのとき、それぞれの端末でそれぞれに動画を視聴していたわたしたちが、同時に、チガウヨォ、の声を耳にできたわけがないのだが、いまとなってはそれも確かめようがない。
 いまでもほかの三人とは付き合いがあるが、ことしの夏にはこれといって予定はない。あの四人でなくとも、わたしがこのさきキャンプに行くことは金輪際ないだろう。


3120:【2021/07/30*無我は美味い】
好きなひとたち(に限らないけれども、できるだけ多くのひとたち)にはしあわせになってほしいし、目標があるなら達成してほしいけれど、必ずしも有名になったり社会的に成功してほしいと願うわけじゃないのよね。有名になったり、社会的に成功することがしあわせの絶対条件ではないし、それを叶えたことで却って不幸になってしまった逸話はそれほど珍しくはないはずだ。それよりもやっぱりささやかな日々のあたたかな時間とか、穏やかな時間とか、延々夢中になれる時間をたいせつにしてほしいし、そうした自由な時間を通じてしあわせを感じてほしいのだけれど、これはあくまでいくひしさんのかってな望みであって、有名になりたい、とか、社会的に成功したい、といった夢を掲げていたなら、それはそれで目指してほしいし、応援はしたいと思ってはいるのだね。そもそも現代では、有名になったり社会的に成功しないと、そうした自由な時間すら確保しづらい環境が広く築かれてしまっている面も無視できないので(それでも、過去にあった社会よりかは平均すれば現代人の個々の自由時間は増えているはずだ)。とはいえ、目標というのは、もっと地道で、身近で、味気ないものだという実感が拭えないので、どうしてもピラミッドの頂点を目指すような夢を目指そうとしているひとに対しては、それもいいけれど、それを人生の指針にしてしまうと、いろいろとたいせつなものを見失ったり、取りこぼしてしまうんじゃないかな、とはらはらしてしまうのは、じぶんでは到底辿り着けない境地に旅立とうとしているひとたちへの嫉みが根底にあるのかな、といった疑惑もあるにはあるので、とにかくいくひしさんには、応援する以外にできることはないのだね。おのおのじぶんにしかできないこととじぶんにもできることのバランスを見極めながら、生活に取り入れつつ、じぶんなりの安寧を目指して、日々、自由な時間を濃密に、深淵に、無我の境地で味わい尽くしてほしいと思います。味わっていきましょう。ムガムガ、おいしー。


※日々、不可視の景色の多さを知るために、視える範囲を拡げたい、と望むだけで、不可視だらけの世界で生きていて、視えぬ世界にすら気づけない。


3121:【2021/07/30*視点の是非】
人間の想像力の出力差というのは個々のあいだでそれほど大きく開いてはないと考えている。想像力は記憶力や演算能力と無関係ではないにしろ、そこまで個々によって違いはない。では何が想像力を働かせた結果の違いを生むのかと言えば、どの方向に想像力をそそぐのか、という指針にある。視線の方向というか、何を対象と見做すのか、といった視点そのものにあると言える。たとえばボールを落としたときに、多くの者は、視界に走ったボールの残像の軌跡を辿って、ボールの転がっていった方向を探す。だが死角にてボールは弾んでおり、まったく正反対の方向に転がっていることもある。仮に落としたボールを同一人物が探すとして、同じ出力で想像力を働かせたとしても、どこを探そうとするのかによって、ボールを見つけられるか否かの結果が大きく変わる。どこを見ようとするのか、が想像力だと思っているひともいるかもしれないけれど、それは想像力ではなく、それこそが独創性なのだ。個性とも言える。想像力は、個性や独創性によって、どこを見て何を探すのかを規定する。人によって想像力の幅に違いがあるように見えるのは、多くの者が同じ方向にしか想像力を働かせていないからだ。みな同一の方向を見て、同じものを探そうとする(それがいちがいにわるいわけではない。いちどに同系統の発見が多数得られるし、共有できる情報が多くなる利点もある)。想像力を働かせた結果の差を飛躍的に高めたければ、どこを見て何を探そうとするのかに自覚的であったほうがよい。漠然とした方向であれ、こっちではないな、別の場所にも目を向けてみよう、という意思がなければ、想像力を働かせたところでみなと同じ結果にしか至れない。想像力の出力に個人差はほとんどない。あってもせいぜいが視力の差程度の違いだ(それをして結構な違いだ、と感じる者もいるだろうが、記憶力や演算能力の差に比べたら微々たる違いと言える。この世には目の見えない者もいるが、そうした者は視力の代わりとなる知覚を発達させる傾向にあり、よほど例外的な疾患や症例を抜きにすれば、個々の認知能力に著しい差は生じない――ただし、現代社会が視覚に頼った社会構造である点は公平とは呼べないが)(それと同様に、想像力を発揮できる者であればみな見ている世界に大きな差はないと言える。どこを見るのか、何を探すのか、が想像力を働かせたあとに実る結果を左右すると言えよう)。個性や独創性がなぜ大事かと言えば、どこを見て何を探すのか、といった想像力を働かせる方向と照準を定める要素そのものであるからだ。想像力だけあっても仕方がない。記憶力にしろ演算能力にしろ、ただそれだけが高くとも宝の持ち腐れだ。どこに使い、何に用いるのか。どこを見て、何を探すのか。深め、高め、磨くべきはまずは視点である、と言えそうだ。(定かではない)(願望ありきの妄想ですので真に受けないでください)(いくら視点を自在に操れるからといって、記憶力や演算能力が低ければやはりそれなりの想像力しか働かせられないものではないでしょうか)(書物やインターネットといった眼鏡があると便利だ)(それですら、目に合った眼鏡かによって結果は変わりそうに思えますが)(眼鏡だと思っていたら万華鏡だったり、VRゴーグルだったりするかもしれないしね。そしたら見える景色は現実とはかけ離れた妄想の世界そのものと言えてしまいそうだ)(何事もバランスの問題と言えるのでは)(バランスを見極めるためにもやはり、支点を見繕うための視点が肝要なのかもしれませんね)(やはり定かではなさそうです)(やじろべーだけに)(バランスとかけたのかな?)(ぐらぐら)


3122:【2021/07/30*ジエの声ははしゃぐ】
(未推敲)
 ジエとは三年前に出会った。路上で何かを執拗に蹴っていたので、異常者かと思って警戒した。
 地面に近いところを何度も蹴っていたので、ひょっとして猫でもイジメているのではないか、と思い、声をかけた。本当なら警察に通報するほうが正しい選択だったのだろうが、ジエの背丈がちいさく、ボーイッシュな少女のように見えたので乱暴されてもどうにかできるだろう、との見立てがあった。真実のところでは、ジエは年中パーカーを頭から羽織った背の低い青年だった。
「何蹴ってんだ。あんまりイジメたら可哀そうだろ」
「あ、すみません。違うんです」
 ジエは打って変わっておとなしくなった。肩をすぼめ、ぺこりとお辞儀する。「お地蔵さまに虫がたかっていたので、追い払っていただけなので、気にしないでください。すみませんでした」
 ジエはもういちどお辞儀をすると、足早にその場を去った。
 それから一週間後に、こんどは別の場所で地面を蹴っているジエを見かけた。
 興味本位だった。
 その場凌ぎの嘘を吐かれた腹いせのつもりもあったのかもしれない。私はジエに近寄った。
「こんどはどんな虫が湧いてるんだ」
「あ」
 ジエは決まりのわるそうに頬を掻いた。イタズラの見つかった子どもじみた仕草だが、中学生ということはないだろう。理性の感じさせる眼差しからは、成熟した人間の狡猾さが窺えた。
「こんどは何を蹴ってたんだ」覗きこむと、ジエは身体でこちらの視線を遮ろうとしたが、誤魔化せないと悟ったのか、観念してどけた。
 私は噴きだす。
「おいおい、そんなの蹴ってたら罰が当たるぞ」
 ジエはちいさな祠を蹴っていた。おそらくはビルを建てる際に潰さざるを得なかった墓地や神社を祀る祠だ。古い家にありそうな神棚くらいの大きさで、石でできているようだった。
「怖い者知らずだな。何か意味があるのか」
「怒らないんですか」
「なんで怒る。怒られるようなことをしていたのか」
「いえ、その」
「言いたくないなら無理に言わずともいいけど、八つ当たりするのもほどほどにな。神さまってのは見守るのが仕事だ。願いを叶えてはくれないのさ」
 知ったような口を叩いたが、ジエの大方の背景には想像がついていた。日常のなかで気に食わないことが重なり、その憤懣をぶつける矛先を探していたのだろう。
 青年の心の淀みを発散できたならば神さもご満足だろう。ただ、習慣づいてしまったらさすがにまずい。
 ここいらで水を差しておいてやるのもおとなの役目、と思ったわけでもないのだが、私こそ日ごろの鬱憤を晴らすべく、上から目線で説教の一つでも垂れたかったのかもしれない。
「そう、ですね」ジエはまた折り目正しく腰を折った。「すみません、もうしませんので、見逃してください」
「なかなか図太いな。ちなみに何がそんなに気に食わなかったんだ」
「いえ、お兄さんの言う通りです。八つ当たりをしていたんです」
 人懐こいしゃべり方に、目上の者を敬う態度が気に入った。この日、コンビニで菓子パンと飲み物を奢ると、つぎからは街で遭遇するたびにジエのほうから声をかけてきた。
 懐かれた。
 思うが、それほど嫌な思いはなく、どちらかと言えば子犬に慕われたようで、率先してジエの姿を風景のなかに探すようになった。
 三年のあいだにジエとは互いの境遇を嘆きあう仲になった。ジエは十八歳の一人暮らしで、バイトに明け暮れる日々であるらしい。ネットを利用した副収入があるようだが、日々の生活で手一杯だと嘆いていた。
 私は私で、うだつのあがらない日々だった。昇進も結婚もこのさきどれほど努力したところで見込めない。なればこそ、地蔵さまや神さまに当たり散らしたくなるジエの気持ちはよく分かった。
 じぶんではできないことを、いっさいの躊躇も手加減もなく果たしたジエの姿に、内心では感心していたのかもしれない。すっと胸がすいたのは確かだ。
 長雨の影響か、近隣の地域で自然災害が多発していた。陰々滅々とした日々のなかで、子犬のようなジエとの触れあいには正直、心癒された。
 その日、コンビニで夕飯を奢ってやると、ジエは私の名を呼び、お願いがあるのですが、とうやうやしく言った。ジエに頼られるのはわるい気はしない。
「言うだけ言ってみな」
「山に行きたいのですが」
「山だぁ?」
「遠くはないので。ほら、あそこに見えるじゃないですか」
 街中からでもビルの合間に山が見えた。田舎の繁華街だ。都市部とはいえ自然に囲まれている。
「歩いていってもよいのですけど、さいきんは天気が優れないので」
「それはそうだ。危ないぞ」
 かといってせっかくの頼みを無下にはできない。
 何しに山へ、と問うと、頂上にちょっと、とジエははぐらかした。
「頂上だぁ? しばらく雨はやまないらしいぞ。晴れてからじゃダメなのか」
「それでもいいんですけど、だったら一人でも行けますし、できればいま行けるとうれしいなって」
「うれしいなってジエちゃんよぅ」
 頭から被ったフードから上目遣いで頼まれると、断りづらいうえに、胸がくすぐられる心地がする。
 両手でペットボトル飲料を握り、ちまちま飲む仕草には、ぐっとくるものがある。
 私は異性愛者であるし、これといって年下に興味があるわけではない。それは確かだ。しかし、子犬にじゃれつかれたときのような癒しを覚えるのは否定できない。
「しゃーない。行くだけ行ってみるか」
「いいんですか」
 ぱっと目を輝かせるジエに、私はこのときじぶんがなぜ生きているのかの答えを見た気がした。一瞬の湧いただけの幻想でしかないはずのそれは、なかなか消え失せずに、私の胸のなかに残留した。
 ジエはそこでなぜか顔を伏せ、
「いまからでもだいじょうぶだったりしますか」
 と下唇をちんまり垂らした。
 見えない尻尾が萎れた様子が見えるようだ。
「いまからってもう夜だぞ」夏ゆえに日没までは時間はあるが、時刻は充分夜と言ってよい時間帯だった。
「車でぴゅって行って帰ってくるだけでいいので。そうだ、ドライブだと思って」
 デートです、とジエはニコっとしたあとで、じぶんの失言に気づいたアイドルのように、あっ、という顔をして、顔を赤らめた。
「デートか。ジエちゃんが相手じゃなぁ。もっとお色気ボインのおにゃのこがよかったぜ」
 羽を毟ったトンボを手のひらのうえに載せ観察するように、ジエを横目で見る。彼は俯いたままだ。忸怩たる思い、を素で演じているようだった。
 よし、と膝を叩いて立ちあがる。「いいぞ。行くか」
「いいんですか。やった」ジエはフードを深く被った。陰の下に隠れた顔にはどんな表情が浮かんでいるのだろう、と想像を逞しくする。子猫をいたぶりたくなる悪人の気持ちが分かるようだ。
 小型の自動車に乗り込み、ジエの指示のもとで山へと向かった。
 雨脚がつよまる。
 いちどきたことがあるらしく、ジエは地図を見ずとも、的確に道案内した。
 そこを右。つぎを左。三つ目の信号機を左に行って、あとは道なりにずっと。
 民家は数を減らし、対向車は皆無となる。
 左右を森が占める。
 いつの間にか木々の隧道(ずいどう)を走っていた。
 間もなく、行き止まりの看板が道のさきに見えた。ここまでの二十分あまりに建物らしい建物は一つもなかった。延々、蛇行する山の車道を通ってきた。
「で、どうすんだ。何もないが、戻るか」目的が不明だった。頂上に行きたい、と言われただけなのだ。
「降りたいです。このさきに神社があって」
「神社だぁ?」
「傘はありますので」ジエは傘を二本持っていた。コンビニで購入していたようだ。「怖いのでいっしょについてきてください」
「この雨んなかか」
「せっかく来たんですし。それに、雨宿りできる場所もあると思いますよ」
 その言葉にどういう意味が込められているにせよ、ここで断ったのでは年上としての矜持に差し支えた。
「危なかったらすぐに戻るぞ」
「やった。ありがとうございます」
 ジエは車を降りた。自動車の明かりは点けたままにしておく。ひと気がないのだから盗まれる心配もない。
 行き止まりの看板を乗り越える。
 砂利道を進むこと数分、ジエの言ったとおり、鳥居が見えてきた。
 だがその鳥居は倒れており、境内も荒れ果てていた。
 長年人が寄りついていないのは自明だ。廃墟そのものと言える。
 神社の拝殿もかろうじて原形を留めているといった有様で、ざんねんと言ったら誤解を生みそうだが、雨宿りはできそうになかった。
 明かりは二人分のメディア端末のライトだけだ。周囲が真っ暗ゆえに、光源はそれで充分だ。雨音が空間の奥行を伝えてくれもする。
「ジエ、もう戻ろう」
 声をかけるも返事がない。
「ジエ、どうした。おい、そういうわるふざけはやめろって」
 拝殿のほうに光が見えた。
 ジエだ。
「かってに移動すんなって」
「素晴らしいです」ジエの声は恍惚としていた。「これほどまでに邪を溜めこんだ聖域は滅多にありません。初めて見たかもしれません。ボクが穢すまでもなく、こんなに。あはは。とっくにここの神は堕ちていますよ」
 そっかぁ、とジエの声が闇に溶ける。
「ここさいきんの街の奇禍はあなたが原因ですね。いいんですよ我慢せずとも。怨めしいですよね。呪いたいですよね。いいですよ、ぼくもあなたの憎っくき人間です。どうぞとり憑き、呪ってください」
 声をかけることができなかった。
 様子がおかしい。 
 ジエの豹変した姿もそうだが、それ以前に、この場に二人しかいないにも拘わらず、ほかにも人の気配がある。息遣いがある。
 足音、衣擦れ、空気の揺らぎ、臭い。
 いいや、気配としか言いようのない何かがこの場に充満しつつある。
「少々窮屈ですが、どうぞぼくに。さあ、ご遠慮なく」
 そこでジエはぴたりと言葉を止めた。
 何かを思いだしたように、ああ、と言う。
「忘れていました。あなたほどの神ですからね。呪うにしろ、憑くにしろ、まずは生贄がいりますよね」
 だいじょうぶですよ、と闇に声が馴染む。
「ちゃぁんと用意してきました。どうぞ、お好きに」
 ざわわ、と木々が荒ぶる。風の音がしたことで、いまのいままで風一つなかったのだと知る。
 雨音が薄れ、ふしぎとジエの声がくぐもって消こえる。
「味の保証はしませんが、何。消えて悲しむ者もない、はぐれモノ。さぞかしあなたの舌に合いましょう」
 何かが這う音がする。
 荒い息遣い。
 生臭さ。
 泥のうえを何かがゆっくりと、重々しく、なぜか四方八方から近づいてくる。
 私の名を呼ぶジエの声がする。
 彼は初めて出会ったときのように拝殿の柱を執拗に蹴り、初めて聞く声で、無邪気に笑う。


3123:【2021/07/31*搾取の王は薄れる】
有名になることのメリットは、それを得るために費やした労力やデメリットに対して割に合わない、との判断は、おそらくこれからさきの二十年にわたって段階的に妥当と評価する流れが高まっていくのではないか、と以前から考えている。細々と活動しながらでも、好きなときに好きなことを好きなだけ好きなように行える環境をいかに築いていけるかが、大多数の目指す理想として再定義されていくだろう、とここに妄想しておくしだいである。ARやVRを筆頭に、複合現実としてのMRの進歩と社会的普及が、そうした理想の環境の変化を後押ししていくだろう。また仕事の価値観も変容し、社会的意義(ソーシャルグッド)だけでなく、社会的損失の多寡を評価軸にした、比較的コンパクトでエネルギィ消費を圧迫しない事業が好まれるようになる。つまり、競争や他者からの高評価を煽り、大衆を相手にしつづけなければ成立しないような事業は、却って大衆から支持されないような世の中になっていく。個々人の至福に見合った環境をいかに築き、支え、脅かさないか。動的に達観した指向性を帯びた企業理念や事業の在り方が、恒常的に支持され、信用される組織や人物として評価されていくだろう(これまでは静的に固執した指向性が社会に浸透していたと言える。固執を我執と言い換えてもよい)。情報の透明性や流動性の高い社会構造がさらに加速する。目立たずにいかに他者の生活をよくし、支え、介在を許されるか。これは企業も人も同じであり、ひるがえって、いかに他者を主人公として引き立てられるかが、ビジネスの中核として再構築されていくはずだ。人生の主役はじぶん自身であるがゆえに、他者の人生を損なわず、各々が主人公としていっそう自在に活動してもらえるように環境を整える。そしてまたじぶんも、その恩恵を受ける流れを強化していく。競う意味がない。みなじぶんの人生を、主役として生きている。比べるものではないのである。(じぶんにとって)いいものをつくりたいひとは(じぶんにとって)いいものをつくり、有名になりたい人は有名になればいい。そこに貴賤はない。優劣はない。なりたいものになり、したいことをすればいい――他者の舞台を損なわず、互いの環境を脅かさないのならばね。(スターはおそらくこのさきの未来では、減っていく方向に淘汰圧が高まっていくと予見できる)(これは差別発言になってしまうので好ましい表現ではない、とお断りしたうえで、敢えて並べておきますが、スターの立つ舞台とは、よくもわるくも見世物小屋であり動物園なのだね。人に対する扱いとはとうてい思えません)(以上、妄想ですので真に受けないでください)


3124:【2021/07/31*真夏の屋台】
(未推敲)
 夏祭りの帰り、神社のまえを通ったら見慣れぬ露店が立っていた。台車で引いて移動するラーメン屋みたいな感じだ。提灯の明かりがあるだけの寂しい雰囲気で、覗いてみると、色とりどりのオモチャがぎっしりと屋台の内側に並んでいた。
 冬につくったカマクラを思いだす。カマクラのなかで懐中電灯をつけたら、凍った雪が反射してなのか眩しいくらいに明るかった。屋台の屋根の下に入ると同じくらいキラキラして映った。
「いらっしゃい」
 お姉さんが言った。ほかに人はいない。
「ここで何してるんですか」
「オモチャを売っているんだよ」
「夏祭りは終わっちゃいましたよ」
「いいんだよ。きみみたいなコを待っていただけだから」
「ふうん」
 話が通じないな、と思った。
 お姉さんは巫女さんみたいな格好をしていた。彼女が屋台の主なのだろう。好きに見ていいよ、と言ってくれたので、オモチャを手に取った。
 どれもビニル袋に入っておらず、剥きだしの状態だ。割った竹でできた仕切りのなかに仕舞われている。一つの仕切りのなかに一種類ずつオモチャがぎっしりと詰まっていた。
「これは何ですか」
「それは竜巻を起こせる竹とんぼ」
「じゃあこれは」
「そっちは人の感情を消しちゃうピストル。弾は別売りだよ。弾の色によって消せる感情が違うから気をつけてね」
「ふうん」
 大袈裟な売り文句だな、と思った。竜巻なんて起こせるわけないし、人の感情だって消せない。いくらぼくが子どもでもそれくらいの分別はついた。
「じゃあこれは?」
 蛇が絡み合っている。素材は合金みたいで、手に持つとずっしりときた。
「頭のほぐれる知恵の輪だよ」
「これはふつうなんだね」どうせなら天才になれる知恵の輪、くらいの売り文句を言ってほしかった。
「ふつうじゃないよ。だって頭がほぐれちゃんだよ」
 ぷっつんだよ、とお姉さんが繰り返すので、ぼくの肩は弾んだ。真剣な表情と、ぷっつん、の間抜けな響きが合わせって、ちぐはぐでおかしかったのだ。
「いくらですか」
 お姉さんは首を振った。
「タダでいいよ。その代わり、返品はできません。受け付けておりませんので」
「いらなくなったら捨ててもいい?」いじわるな気持ちで訊いた。
「いいけど、持ってたほうがいいと思うよ。危ないから」
「じゃあ、これください」
 知恵の輪の形状にはいくつか種類があった。ぼくは二つのジグザグの絡み合った知恵の輪をつまんだ。
「お、いいねぇ。それは使い方が簡単だから初心者にはお勧めだ」
「使い方?」知恵の輪を解くだけではないのだろうか。
「一回につき一人だよ。嫌いな相手にしか効かないし。でも誰もいないところで使わないほうがいいかもね。じぶんのことが嫌いになっちゃうことって誰にでもあるから、やっぱり」
 一人のときに使うのがいいよ。
「ふうん」意味不明なので聞き流した。
「ほかに欲しいのはあるかい」
「ううん」かぶりを振りながらオモチャを見回す。本当はピカピカ光るだろう円盤のオモチャやピストルに興味があったけれど、これ以上タダでもらうのは気が引けた。親にもなんと言って説明していいのか分からなかった。なんとなくわることをしている気がした。
「そっかざんねん」お姉さんはいちどぼくの手のひらのうえから知恵の輪を取ると、値札か何かを剥がすようにしてから渡してくれた。「気をつけて帰るんだよ。世の中にはわたしみたいによいものばかりではないからね」
「ばいばい」
 手を振り、ぼくは屋台を離れた。
 知恵の輪をいじりながら帰ったけれど、なかなか取れなかった。家では母が父を怒鳴っていて、それにいよいよ父が反論の構えをみせたところでぼくが帰宅したので、ぎくしゃくした沈黙が漂った。
「おかえり。夏祭りどうだった」母が言った。
「楽しかったよ」
「何買ったんだ」父が訊いた。
「かき氷と、焼きそばと、わた飴」
「全部食べ物じゃないの」「いいじゃないか元気で」
 父と母が途端によい親の仮面をつけはじめたので、ぼくはソファに飛び乗り、知恵の輪をいじった。
「それはなんだ」父がうしろから覗いた。
「知恵の輪」
 頭のほぐれる、と付け足す。
「難しそうだな。どれ貸してみなさい」
「いいよじぶんでやる」
「そう言わずに」
 強引に奪い取るようにして父は知恵の輪を手のひらのなかで転がした。「なかなかいい造りだ。装飾も細かい」
「蛇だと思ったら龍だった」明るい場所で改めて見たら、絡まっていたのは龍だったのだ。
「素材はなんだろうな。ほう、なかなか凝ってるな。うん、小学生にこれはむつかしいが、父さんこう見えて知恵の輪は得意でな」
 それは知っていた。むかし父から有名な知恵の輪を渡されて、まったく解けなかった記憶がある。だが父はぼくの目のまえで何度もそれを解いていた。
「ここをこうして、こうして、こうだろ」
 うんうん呻りはじめた父の向こう側で、母が口をへの字にして、おもしろくなさそうにマシュマロを齧った。チョコの入った大きなマシュマロで、ぼくもそれをもらいに歩く。
「お、取れそうだぞ」
 父が宣言し、事実数秒後に掲げられた腕には、二つに分かれた龍が握られていた。
「さすがお父さん」
 機嫌を損ねないように言い、母にも同意を求めた。「すごいね」
 だが母は身動きを止め、一瞬、とろんと眠たそうな目をした。
 白目を剥いたかと思うと、ぐらりと揺らいで、首だけが落下する。
 ダンベルを落としたときの音をぼくは連想した。
 床にみるみる血の水溜まりができ、遅れて母の身体が椅子から転げ落ちた。
 父の、母を呼ぶ声が耳をつんざく。
 投げ捨てられた二匹の龍が、血の海に浸った。
 ぷっつんだよ。
 屋台のお姉さんの声が耳の奥で、水ヨーヨーみたいに何度も薄れたり濃くなったりして、聞こえたけれど、ぼくは身動きがとれずにいる。


3125:【2021/08/01*みなさんよく我慢できますね】
創作界隈のいまある常識で、それってどうなの、と思うことの一つに、受注生産が基本である点が挙げられる。企業が何か新しい企画を開発するうえで、創作者への依頼から納入までの期間が半年から数年を要するケースが珍しくない業界において、その間の創作者の生活の保障もなく、ただただ成果物のやりとりだけで報酬が決まるのは不当だと感じる。そういった方式があってもいいが、別途に、既存の成果物から目当ての作品を買い取るような、ある種美術品の扱いに似た方式があってもよいのではないか(実践したところで、ネット上で評価の高い作品を商業ルートに載せるWEB小説界隈のビジネスにちかくなるだけなのだろうが)。選択肢がすくなすぎるように感じる。表現者と共に企画を作るという意識があるのならば企業は、共同制作者として創作者に、日々の労働の報酬も支払ったほうが好ましいように思うが、いかがだろう。それができないのであれば、受注生産(とは名ばかりの度重なる修正やボツといった労働搾取)を基本としたビジネス形態とはべつに、既存の作品群のなかから目当ての作品がないかを掘り当て、買い取り、得た収益を分配する事業もまた発展させていくのがよろしいのではないか、と妄想する次第である(それって新人賞では、と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、応募してきた極々一部の作品にだけに焦点が絞られる時点で、発掘というには分母がすくなすぎますし、公募数も年間数百では、発掘される作品数もせいぜいが千作いくかどうか、といった具合ではないでしょうか。これもまた刊行点数に対してすくなすぎるように思います。そもそも新人賞では、過去にふるい落とされた作品がつぎつぎに埋没し、ようやく時代のほうが追いついたような作品が取りこぼされて映ります。インターネットの普及した社会なのですから、もっと大きなスパンで、事業としても発掘しようと行動に移したほうが好ましいのではないでしょうか)。(おそらく今後はそうなっていくのだろうなぁ、と漠然とした印象を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください)(とくに何かを批判したいわけではありません。ただの妄想です。創作界隈のビジネスの手法が変わろうと、変わらなかろうと、いくひしさんは何も困りません。得もしないし、損もしません)(成果報酬ならば成果報酬で、成果とは何かをハッキリさせたほうが面倒な衝突を避けられるようになるのでは、とは思います。成果が創作者の作品そのものならば、外野は創作者にとやかく言わずに、欲しいものだけを購入すればいいのではないでしょうか)(創作者が、筆や鶏の代わりと見做されているように錯覚してしまう世の中に映りますが、これもきょうのいくひしさんにはそう見える、という以上の意味合いはありません)(思いついたので並べただけですので、これといって支持している考えではありません。そもそも芸術が魂の食べ物であるならば、無料で味わえてもいいのでは、との思いがあります。創作者が創作をするだけで生活していける世の中になればいいなぁ、と望んではおりますが、あと半世紀はそうした社会が到来することはないのだろうな、と妄想しております)


3126:【2021/08/01*タキザワさん】
(未推敲)
 よくある話ではあるが、夜勤の守衛をやっていると監視カメラにふしぎなものが映りこむことがある。
 ハッキリ目にするわけではなく、目を離している隙に、カメラのまえを今何か通ったな、といった具合で、ほかのカメラをチェックしても問題は見当たらない。気のせいか、或いは不可視の何かが一瞬映りこんだだけなのか、と首をひねりながら判断するしかない。
 正体不明の何かばかりではない。
 明らかに人間であっても、ふしぎな事象というのは観測される。
 秘密保護の観点から職場がどんなかについては詳しく触れないが、ことし配属されたばかりの職場では、タキザワさん、と愛称で呼ばれている人物がいる。同僚ではない。警備員ではない。
 一般利用客らしく、スーツ姿の男性だ。彼は絶対にカメラに全身を映さないのだ。
 顔はおろか、身体の三割以上を絶対に映さない。
 カメラは全部で百数台にも及ぶ。常時三人でチェックし、日替わりで担当するエリアは変わる。一人当たり三十台前後の画面を監視するが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426125645157)


3127:【2021/08/02*怖いのが怖い】
さいきんのショートショート、ホラーばっかりですけど、とくにホラーや怪談が好きなわけではなく、どちらかと言えば苦手な部類かもしれません。ホラー映画もほとんど観ませんし、観たいなぁ、となることもそんなにないです。幼いころはオバケが怖かったので、一人でおトイレに行けませんでしたし、なんだったら怖すぎてお漏らししてやる!みたいになっていた子どもだったような、そうではなかったような、あまりよく憶えていません。記憶を捏造するのは得意です。なんだかんだ言って人間のそういう思いこみみたいなのが一番のホラーかもしれません。というか、ホラーとは思いこみと同義なのでは?(という思いこみ)。いまでも夜道を歩くと怖くて、猫が草むらから飛びだしたりしたときには、心臓が止まりそうになって、「脅かすなやキミぃ!」と吠えてしまうくらいにはビビリかもです。でもオバケや心霊現象が特別に怖いわけではなく、一方的に干渉され得る、という状況が怖いので、それは人間でも同じだと思います。オバケも幽霊も妖怪も人間も動物も虫も植物も自然現象も、万物みな一方的に干渉してきて、なす術がなーい!となったときは怖いです。日々が怖いですし、生きるのが怖いです。怖くないことがないと言ってもいいかもしれません。すでにこの文章が怖くなってきました。饅頭怖いじゃないですけど、文章が怖いし、こんな文章が見知らぬ誰かに読まれているかもしれないと思うと怖いですし、見知った誰かに読まれているほうがもっと怖いです。もうもう、語り部が怖いと思って叙述したらなんでもそれはホラーだし怪談だし、怖い話だと思います。怖いと思ったら怖いし、怖くなかったら怖くないのだ。でもそれはそれとして危険はいつでも迫り得るので、いくひしさんは怖くない世の中がいいし、危なくない世の中がいいなぁ。毎日あんぽんたんにのほほんと過ごしていたいです。ばかになりたーい。とっくにおばかさんである事実を捻じ曲げて、じぶんの都合のよいように現実を捏造する恐怖の大王、本日のいくひしまんでした。


3128:【2021/08/02*手を振るひと】
(未推敲)
 居酒屋の客が怪談を話していた。座敷にて三人の男が代わる代わる、一押しの持ちネタを話していく。百物語だなんだと和気藹々としていたのは最初ばかりで、いったん語りはじめると空気が変わった。
 なかなかの語り口だ。ほかの客まで彼らの語りに耳を欹てている様子がありありと伝わった。
 僕はというと、仕事中ゆえにいちいち厨房に引っ込まなくてはならず、できればずっと聞いていたかった。
 三人がそれぞれ一話ずつ語り終え、二巡目に入ったところで、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426159806667)


3129:【2021/08/03*楽をさせてくれ】
毎日なんの変わり映えもない日々なので、とくに並べることがない。とはいえ、細かな変化は日々刻々と経ているわけで、真実何にもないわけではない。変わり映えのしている日々を、そうではない、と否定している我が身があるばかりである。たとえば、できることができなくなっていたり、そのことを以前ならば悔しいと思っていたのがいまは、致し方あるまい、と受け入れていたり、バナナ一本を食べきるのにチマチマと時間がかかってしまったり、記入しなくてはならぬ書類をいつまでも先延ばしにして書かなかったり、それを提出先に送らずにいたり、そのせいで催促の書類が届いたり、それでもなかなか書類を書こうとしなかったり、うわーん、と泣き言を虚空に向かって叫んでみたり、まあまあたいがい逃げておるのだね。先延ばしの達人と呼んでいただきたい。やりたくなーい。こうやってこうやってこうすればいいんでしょ、知ってる知ってる、ってなることほどやりたくなーい。べつにじぶんしなくていくないっすか、こんなのコンピューターのほうでかってにやっておいてくれてよくないっすか、なんで未だに自己申告制なんですか、みたいにやりたくない理由だけをたくさん思いつく。それはたとえば、自動車保険に加入させたきゃ、加入したくないひとにだけ書類書かせりゃいいじゃんか、みたいな具合で、困ってる人いませんかーと挙手させたきゃ、余裕のある人たちにじぶんらいま困ってないっすって自己申告させればいいわけで、そしたら手を挙げないその他のひとらはみんなみんな困っていると見做していいわけで、給付金にしろ助成金にしろなんにしろ、基本受け取らせるようにすればいいし、不要な人たちこそ「わいいらんですけど」の申請をするようにすればいいわけで、もうもう世の中、敢えて得をさせないために仕組みを複雑にして手間をかけているとしか思えないのだわ! 無駄に内なるお嬢様をあらぶらせて、じぶんの不甲斐なさを包み隠してしまうのがたいへんお上手な本日のいくひしまんでした。


3130:【2021/08/03*路地裏の人】
(未推敲)
 ホラー作家としてデビューしたはよかったが、年がら年中、怪奇現象 をこねくり回すので、類は友を呼ぶではないが、私もそれなりに道理に合わない事象に遭遇することがある。
 古い家屋に一人で暮らしているため、じぶんの立てる物音以外がするわけがないのだが、昼夜問わず、まるで子どもの駆けずりまわるような音が響く。
 トコトコと細かく連続して鳴るため、家鳴りではない。猫でも飼っていれば説明つくが、動物の類は勝っていない。ネズミがでるということもない。
 日増しに頻繁に聞こえるようになり、さすがに気味がわるくなったので、神社にておふだを購入して、家の柱に貼るようにした。
 音はやんだが、するとこんどは庭にてせっかく育てていた草花が枯れはじめた。夜中に、明らかに犬猫よりも背丈のある何かが歩き回るような気配がある。
 狭い空間を無理くり通るからなのか、木の枝はパキポキと折れ、風もないのに葉が揺れた。
 御札の効力がどこまで効くのかは判然としないが、植木の表面におふだを貼り、それを庭の四方に置いた。
 以降、謎の物音は聞かずにいるが、最近になって近所で不幸が相次いでいるようだ。葬式の看板を見かけるし、知らぬ間に同じ地域の家屋が解体されて更地になっていたり、土砂崩れがあったりする。土砂崩れでは数名の方が亡くなったそうだ。
 夫が入院しちゃってねぇ、などと井戸端会議で囁き合うご婦人の姿も見かけた。
 たまたまだろう、と科学的思考で判断を逞しくしているが、すこしの罪悪感が湧かないわけではない。
 夜、夏の束の間の涼しさのなか、静寂に浸ってカタカタと文字を並べる。
 日課だ。
 居間の窓が路地裏に面しており、深夜だというのに、人のささめき声が聞こえることもある。別段ふしぎなことはないのだが、どうにも一人でしゃべっているらしい。昨今、通話しながらの歩行は珍しくない。街灯も備わっておらず、一本道のうえ、薄暗いので、防犯の意味合いで誰かと通話しているのかもしれない。
 これといって気に留めることもないのだが、時間帯が時間帯なだけに、やけに響いて、意識を持っていかれるのだ。
 週に三日は耳にする。どうやら同じ人物が、同じ時刻に家の横を通り抜けていくらしい。
 声や、足音から若い女性のようだと推察される。かかとの高い靴を履いているようだ。声音も鈴の音のようで、相談事をしているのかぼそぼそとした口吻で相槌らしきものを打っている。
 すぐに遠のくので、これといって気にかけはしなかったのだが、足音と声がすると、ああまたあのひとだ、と思い、もうそんな時刻なのか、と背伸びをする習慣がついた。
 だが先日、そのことを遊びにきた友人に話したところ、
「それは妙だな」彼は言った。「そこの道は一本道だろう」
「そうだけど」
「垣根と塀ばかりで、脇道もないから住人が通路にでてくることもない」
「まあ、そうだね」基本は通り抜けるだけの道だ。
「君の言う時刻とは深夜のことだろう」
「うん。昼間ではないよ」
「ならばやはりおかしい。その女性とやらは、そこの道を向こうからそっちに向かっていくわけだろう」
 友人は壁の向こうをゆび差し、それから玄関のある表通りのほうを示した。
「どこが変かな」私は友人にカステラをだしてやった。定期的に長崎の親戚が送ってきてくれるのだ。
「君は出不精だし、その時間帯はいつも家にいるわけだから知らんのだろうが、ここ半年あまりはその時間帯、そこの道は通行止めになっているはずだ」
「通行止め? なんで」
「土砂崩れがあったのは知っているだろ」
「ああ、あったね。何人か巻き込まれて亡くなってしまったって」
「その修復工事がまだ終わっていないのだ。大きな落石がその後も立てつづけにあったらしくてな。もちろん君は知っているだろうが」
「いや、初耳だ」
 友人はあからさまに、これだから君は、と言いたげな目で私を見た。
「工事は夜に行われるから、日中は通行規制はないが、夜になればそこの道のさきは全面通行止めだ。向こうから人が入ってこられない以上、この道を通る者はないはずだ」
「でもいるのだから、どこかしらから入ってきているんだろう。すくなくとも私は嘘を吐いていないし、たぶん幻聴の類でもないよ」
「断言するには怪しいところだが、百歩譲ってそうだとしてもやはりおかしい」
「だから何がさ」私は友人の語調のつよさに反感を覚えた。そんなに責め立てるように言わなくてもいいではないか、と内心で憤っていたのだが、友人はカステラを鷲掴みにすると一口でたいらげた。
 咀嚼しきらぬままに、聞こえるわけがないだろ、と言った。
「外出ていっぺんじっくり見てみろ。それでも作家か」
 売り言葉に買い言葉ではないが、私は無言で席を立ち、玄関から表通りにでて、路地裏に入った。
 人が一人通れるくらいの狭さだ。すこし進むと、我が家の居間の窓のまえにくる。
 私は、はっとした。
 足場は砂利道だった。塗装されておらず、細かな小石がびっしりと道を覆っている。
 かかとの高い靴で歩くには不向きなうえ、カツカツと足音が鳴るはずもなかった。
 ひょっとしたら、声も届かないのではないか。
 私はじぶんの仮説を検証すべく、ポケットからメディア端末を取りだし、友人に電波を飛ばした。
 繋がらなかった。
 圏外だ。
 あり得るだろうか、電波が届かないなどということが。
 家の中から、どうだ、と友人の声が聞こえた。
 私は返事をせずに玄関まで戻り、居間に立つ。
「で」友人は爪楊枝で口の中を突いている。「どうだった」
「砂利道だった」
「だろ」
「それに、圏外で電波も届かない」
「ほう、それは初耳だな。だが何もふしぎじゃない。土砂崩れのあった地点に、基地局があったんだが、それごと倒れたらしいからな」
「そう、なのか」
「いよいよ君の話の信憑性が問われるな」友人はあぐらを崩し、片膝を立てた。「夜な夜な、いったい何を聞いていた」
「しかし」
 反駁したかった。たしかに女性らしき人物が深夜に窓のそとの道を通っていた。カツカツと足音を響かせ、誰かと話すようにしゃべっていた。
 だが砂利道では、かような足音は響かない。ジャリジャリともっと大きく独特な音がするはずだ。
 壁は声こそ通すが、しかし路地裏は圏外だ。仮に真実に誰かがそこを通っていたとして、その人物はいったい何をしゃべっていたのか。
 電波の届かない通路で、いったいどんな独り言を唱えていたのか。
 深刻そうにぼそぼそと話す女性の声が、波紋を立てるように脳裏に広がる。
 友人はじぶんのメディア端末を操作し、
「関係ないとは思うが」とある記事を表示する。「土砂崩れの犠牲者、まだ一人見つかっていないらしいぞ」
 記事には、被害者三名の名前と年齢が並んでいる。遺体が見つかっていない一人は女性で、私よりも歳が下だった。
 友人の言葉に心を乱されたわけではないのだが、夜の作業時には耳にイヤホンをして、音楽を聴くようにした。例の時刻、窓のそとを何かが通る気配を感じるが、単なる私の勘違いだと思うことにしている。



※日々、万能からかけ離れていく、可能性を削ぎ落とし得られる結実こそが特化であり、成熟とは先細った可能性である、老いてなお未熟であれ、可能性を削ぎ落としつづける日々のために、削ぐ余白の厚みを湛え、萌やすために。


3131:【2021/08/04*感情、知識、考え方】
ね、ね、眠かったー。久々に眠すぎて寝たくないの気持ちになった。眠いのとおっぱい吸いたいの欲がぐちゃぐちゃになって泣いちゃう赤ちゃんの気持ちが分かってしまったな。いくひしさんは赤ちゃんじゃないのですこししか泣かなかったけど。おぎゃー。拙者が思うに、人間ってやつはきっと、お腹が減るくらいの頻度でつねに居場所を探していて何かを求めているようで、求められることを求めている。居場所を見つけたやつから引きこもりになり、求められることにうんざりしたやつから内なる世界に旅立ち、或いは道なき道にはみだしていく。それがよいかわるいかは分からない。主観と客観の評価はおそらく合致することはないだろう。それはどこにいようとおんなじだ。ちがうちがう、こんなこと並べたかったわけじゃない。さいきん思うのは、本を読んで何を得ようとするのか、がけっこう人によって違っているな、ということで、大別することに意味はないことを認めたうえで、敢えて並べてしまうけれども、大別すると三つあるように概観できる。感情の起伏を調整しようとする者、知識を得ようとする者、そして最後が、考え方を増やそうとする者だ。たいがいはこの三つの複合だし、上から順に主眼に置かれることが多く、最後の考え方に至っては、あまり重要視されていないように思われる。感情の起伏の調整にはいくつか種類がある。哀しい気持ちを打ち消そうと試みたり、予防接種のように敢えて本を通してちいさく傷ついておくことで慣れておいたり、過去の成功体験を反復することで自己肯定を肥大化させたり、とエンターテインメント作品や偉人の自伝などにみられる効用だ。ほかにもじぶんの考えを強化して、やっぱりそうだよな、と納得しようとする者もあるだろう。本来であれば、自説を強化したければ反論や異論にこそ目や耳を傾けるほうが合理的なのだが。二つ目の知識の収集は、それこそ化学式や歴史の出来事や年号を覚えるような作業だ。記憶することに主眼を置いた読書体験ということになる。ちなみにいくひしさんはこれがものすごく苦手なので、書かれた本の内容は覚えていても、そこにどんな単語が並んでいたかはほとんど覚えていない。名前よりもその言葉のなかにどんなシステムが築かれているのかのほうに関心が向きやすいようだ。歴史の出来事や年号よりも、なぜそうしたことが起こったのか、のほうにつよい関心が向くので、事実だけが淡々と並べてあっても、なぜそうなったのかが分からなければ、頭のなかに残らない。これは三つ目に相関しているのだろうが、考え方を増やすというのは、それこそ様々な物の見方を知ることでもある。視点を増やす、と言い換えてもよい。情報の整合性だけでなく、間違った答えに行き着いた者の考え方も敢えて含めて、増やしていけるとよい。こうした見方は失敗しやすい、と判ることは、成功例を知ることより応用の幅が広い。成功体験は基本的に点であり、その場限りのまぐれである確率が高い(条件や環境が限定されている、と言い換えてもよい)。反面、失敗には普遍性がある。汎用性がある。裏から言えば、確率高く同じ成功を繰り返せる考え方や術があるならば、それは科学的な考え方に寄っているし、科学的な手法だと言えるだろう。なぜそうなのか、と証明できれば科学と言っていい。ちがう、ちがう。こんなことを並べたかったわけじゃない。すみません。きょうはもうこれ以上ふざけたことは並べられそうにありません。真面目になるよりもふざけるほうがむつかしい日もある。赤ちゃんはいつだって真面目だ。ふざけることができるのは知恵をつけ、知識を蓄えた人間だけだ。そしてそれをやめることができるのは、考え方を増やした人間だけなのである。定かではない。


3132:【2021/08/05*スキスキだって愛してる】
(未推敲)
 何か怖い話ない、ってさっき訊いてたでしょ。家に着いてから思いだしたからご報告いたします。
 あのね、わたしむかし、ちいさいころ、公園で仲良くなった子がいてね。三歳くらい年上のお姉さんで、たぶん中学生だったのかな。わたしが四年生とかそれくらいの時期で、二人して内緒で野良猫を飼ってたりして。
 お小遣いなんてすぐになくなっちゃうから餌なんて買えないし、だから家からソーセージとか持ち寄って食べさせてたのね。
 でも野良猫だし、ときどきいなくなったりして。
 猫ちゃんたちにも友達の輪みたいなのがあるみたいで、そこが餌場って知れ渡ったのか、猫ちゃんはつぎからつぎに現れたから、わたしとお姉さんは二人で毎日のように公園で待ち合わせて、猫ちゃんたち相手にわたしたちだけの王国をつくって遊んでたのね。
 でもあるとき公園に行ったらパトカーが止まっていて、どうしたんだろう、と思って眺めていたら、警察のひとが、危ないからきょうは使えないよ、って言って。
 でも猫ちゃんたちに餌をあげなきゃいけなからそのことを伝えたら、警察のひとの目つきが変わって、そこからは事情聴取だよね。住所聞かれて、親にまで話がいって。
 で、それから分かったことなんだけど、近所で猫がたくさん死んでて、どうやら毒だろうって。
 なかには首とかお腹とかが切り開かれてた猫ちゃんたちもいたみたいで、調査してたらあの公園に行きついたんだって。
 で、もうここまで話したら分かると思うけど、わたしといっしょにいたお姉さん、そのひとが猫に毒をあげてて、殺したり、解剖したりしてたんだって。
 でね。
 そのお姉さんはもちろん警察に捕まったんだけど、そのコの部屋から、殺虫剤とか塩素系の洗剤とか、明らかに人間でも死んじゃうような量の毒が見つかって、ちょうど一口で食べられるくらいの量に調合されたりしてて、ひょっとしたらあとちょっと捕まるのが遅かったら誰かにそれを食べさせてたんじゃないかって、これはわたしがかってに思っただけなんだけど、でもそう言えば、と思いだしたことがあって。
 お姉さん、猫をかわいがるときに執拗に、頭を撫でてて、かわいいね、かわいいね、って言ってたんだけど、そう言えばわたしにも同じように頭を撫でて、かわいいかわいいって褒めてくれてたなって思って。
 きみがお店でおともだちに怖い話をねだっていたのを聞いて思いだしたので、ひょっとしたらお役に立てるかな、と思って送ります。
 あ、このあいだ、なんでか通信拒否されてたので、新しいアカウントから失礼するね。
 そうそう、きょうの髪型もかわいかったと思います。わたしも真似してみたよ。画像送るね。
 ちょうどきみの家のまえで撮ったから、すこし暗くて分かりにくいかもしれないけど、わたしってほら、写真映りわるいでしょ。だから結果オーライってことで。
 暑い日がつづきますね。
 どうぞ体調お気をつけてください。
 暑中見舞いのお饅頭を送りましたので、ご家族といっしょに食べてね。
 防腐剤も入ってるし、腐っちゃう前にちゃんと見つけてあげられると思うので。
 ずっと見てるから安心してね。
 長々とごめんね。 
 またね。
 ばいばい。


3133:【2021/08/06*体力】
運動神経と体力の関係というものを誤解している人が多い気がする。アスリートというのはレース用のスポーツカーのようなものだ。その競技のために最適化した肉体を持つ。運動神経がいい、とは特定の動きに身体を最適化させた状態を言う。ゆえに同じ人物であっても競技によって運動神経のよさは変わる。向き不向きがあるのはそのためだ。したがって、アスリートがその他大勢に比べて日常生活のうえで優位に立てるかといえば必ずしもそうではない。どちらかと言えばアスリートは私生活を送るうえで不備をかかえている傾向にある。整備が欠かせないし、なによりどんな作業を行うにしても不要な抵抗を帯びつづける。言い方を変えるならば、つねに疲弊しつづけるのだ。憶測でしかないが、たとえば重量挙げの選手は百メートル走や持久走が苦手だろうし、水泳の選手は競歩が苦手だろう。体操選手は射撃や卓球が苦手だろうし、スケーターは柔道が苦手なはずだ。この場合、苦手というのは、通常以上に疲れる、と言い換えてもよい。なんの競技も嗜んでいない者たちと比べても、日常生活では、単なる徒歩ですらアスリートのほうが疲弊する。燃費がわるいとそれを言い直してもよい。基礎代謝そのものが並々ならぬほどに高いためだ。スポーツカーがエネルギィ消費が激しいのと似ている。タイヤの摩耗を例に挙げるまでもなく、車体そのものの疲弊もまた、一般の自動車と比べて激しいはずだ。耐久性を比べるにしても、一般の自動車のほうが頑丈だろう。レース用のスポーツカーは馬力がある分、負担が増すし、軽量化された分、余計に破損しやすい。ただし、壊れてくれたほうが衝撃を吸収するという意味では、安全でもある。これらの性質もまた、その競技に特化した車体だからだ。アスリートにも同じことが言える。アスリートだからといって一般人と比べて体力があるとは限らない(ちょっとの仕事でも力が入りすぎて、慣れるまでは簡単な作業でも楽ができないのだ)。むしろ一般人のほうが、私生活を送るうえでは体力があると言える(どうすれば力を抜いて、楽に作業ができるかを身に着けているからだ)。もちろん一般人とひとくちに言っても、年齢から体質から境遇まで千差万別ゆえにいちがいに言えることではないし、アスリートであっても楽な作業に慣れてしまえば、ほかの大多数の者よりかは出力の高い仕事ができるだろう。ただし、慣れていない作業はいかにアスリートと言えでも簡単にはできないし、どちらかと言えば、身体能力を用いない作業ほど、肉体を鍛えていない者のほうがそつなくこなせると言える。つまり、身体を鍛えていないほうが長時間作業ができ、体力がある結果となる。運動神経と体力の関係は、必ずしも正比例しない。慣れと最適化は、どんな人物であれ、作業の効率をあげるためには欠かせない。一定の出力を維持して長時間作業できることを体力というのならば、アスリートか否かよりも、その作業に慣れているか否か、最適化できているか否かのほうが、より深く体力の有無に影響すると言えそうだ。(漠然とした印象論ですので真に受けないでください)


3134:【2021/08/05*出口はいずこに】
(未推敲)
 悪霊退散、と彼女が唱える。
 鱗が剥がれ落ちるように私の身体が砕けはじめる。瘡蓋を剥がすような痛痒があり、消失の予感をつよく抱きながら、なぜこんな目に、と三か月前を思いだしている。
 その日、私はひどく疲れており、終電を待つあいだプラットホームのベンチで船を漕いでいた。ネクタイを解き、顎を撫でた。無意識からの所作だ。毎朝剃っているのにヒゲはカビのように夜には生え揃う。
 夜食にとおにぎりを買ったが口をつけずにいた。
 駅構内に電車が停まったので、寝ぼけ目をこすりながら乗り込んだが、結果から言うとそれは終電ではなかった。
 気づいたときには扉が閉まり、車両が発車していた。
 車内に人はいなかった。代わりに座席には黒い人影がまばらに腰掛けていた。モヤのように座席や窓が透けて見えており、人間でないのは一目瞭然だ。
 ほかの車両に移ろうとしたが、連結部の向こう側は暗闇で、入っていく勇気はなかった。車窓の向こうには見知らぬ田園風景が広がっており、ふしぎなことに空には無数の墓がさかさまに埋め尽くしていた。
 この世ではない。そう思った。
 数十分もすると電車は見覚えのある駅に停まった。
 私が先刻までうたた寝をしていた駅だ。ぐるっと回って戻ってきたのだろうか。
 だがおかしい。妙に明るいのだ。夜明けまではまだ時間があったはずだ。現に時計は二時を指している。街灯もともって入るようだが、辺りは昼のように眩かった。
 ベンチには未開封のおにぎりがぽつねんと置き去りにされていた。
 私は電車を降りた。
 おそらくそれがいけなかった。
 その日を境に、私は誰とも接触できなくなった。
 誰からも視認されることなく、触れあうこともできない。
 物に触れることもできず、気を抜くと地面にすら膝まで沈んだ。
 私から相手を見ることはできる。道には通行人が歩いているし、バスや電車のなかにも人がいる。ふつうの生きた人間だ。家屋のなかを覗けば、相手に気づかれずに人々の私生活を目にできた。
 腹は減らないし、眠くもならない。怪我もしないし、疲れない。
 どうやら私は幽霊みたいなものになってしまったらしい。
 みなが活発に動きだす時刻、本来ならば昼のはずのその時間帯はひどく辺りが暗く、足元すら覚束ない。
 物に触れられないので転んだり、ぶつかったりする不安はないが、何も見えないのでいつの間にか地中深くに沈んでしまっているかもしれないと思うと、その場から動くのにもひどく躊躇した。
 昼はできるだけその場を動かず、じっとしていた。
 眠ることができないので、ひたすらになぜこんな目にと考えた。夜になり辺りが眩い光に包まれると、知り合いの動向をつぶさに追った。それをつきまとったと言ってもいい。
 友人知人じぶんの家族の一日から数日を影のようについて回り、垣間見た。親しいはずの者たちの知られざる姿を目の当たりにし、失望したり、却って親愛の念を深めたりした。
 しかし一向に、私の状況は好転しなかった。
 打開策が見当たらない。
 なぜこんなことになったのか、ときっかけを探すうちに、当然というべきか、例の不気味な電車の存在に回帰する。
 何度も考えても、やはりあの電車にふたたび乗り込み、同じ体験を重ねるしかないように思えた。
 鏡の世界に迷い込んだようなものだ。もういちど鏡をくぐるほかに元の状態に戻ることはできない。
 そうと思い、駅に居座ったが、何日経っても例の電車は現れなかった。
 ひょっとしたら真っ暗闇の昼のうちに駅に停車しているのかもしれないが、視えないうえに何も感じられないのでは打つ手がない。
 昼の闇は音すらもない世界であった。
 私はまた駅を離れ、世界を見て回るようになった。
 絶望に慣れるのに時間はかからない。
 興味深い人間を見つけるたびに、私はその人物の痴態を好んで垣間見るべくつきまとった。私生活を盗み見、私はおまえの秘密を知っているぞ、と誰に誇示するでもなく吠えて、消え入りそうな自尊心を鼓舞した。
 何十年も経ったような錯覚に陥るが、私がこの状態になってからまだ二月半も経っていなかった。いったいいつまでこの状態がつづくのか、と定期的に寄せては返す波のように絶望が顔を覗かせた。
 私は滅びることもできないのかもしれなかった。それは一つの希望のようでもあり、日に日にヒビ割れていく巨大な卵のようでもあった。すっかり割れてしまったとき、そこから何が孵るのかは、漠然とした恐怖としてしか感じられなかった。消えぬ絶望に名はあるのだろうか、とそんなことを考えた。
 私はひとまず恋をすることにした。
 存在しつづける意味を手っ取り早くつくりたかった。
 私はとある女性に目をつけた。
 彼女は毎朝ジョギングをし、仕事に出かけ、夜まで働くとカラオケ店に一人で入り、ひたすら発声練習を繰り返した。
 声優を目指しているらしかった。
 ひたむきな姿に胸を打たれた。オーディションには毎月のように参加し、そして落ちていた。
 自作のオーディオブックをつくり、それをインターネット上に載せていた。出来はいいように思えたが、おそらくこれくらいの力量の声優は吐いて捨てるほどにいるのだろうな、とも思えた。
 夢を応援するというよりかは、叶うかも分からない理想に向かって、変わり映えのない日々に抗いつづける彼女に、活路が見出せるかもしれないとの予感があった。
 他力本願には違いない。
 彼女ですら夢を叶えられたならば、じぶんにだってできるはずだ、きっと元の状態に戻れるだろう、との浅い論理があるばかりだ。
 到底到達不可能な未来への道程を他人に託しているにすぎない。
 解かってはいたが、ではほかに何ができるのかと問われても、私には答えられない。
 他者の生活を盗み見るほかにいったい何ができるだろう。
 そうした行為を最低だと思う意識すらとっくに失くしていた。
 十日ほど前だったろうか。
 あるときから彼女が頻繁に、私のほうを向くようになった。家のなかにいるときにそれは顕著だった。
 彼女がシャワーを浴びているとき、トイレに入っているとき、友人の近況を読んで笑っているとき、ベッドのなかで孤独なじぶんを慰めているとき、ふとした瞬間に、私の立っている方向に目をやるのだった。
 こわばった表情からは、私への怯えが見て取れた。
 心外だった。
 そんなつもりはなかった。
 私はできるだけ彼女の邪魔にならぬように存在を掠め、ときに物陰に身を隠した。
 本来ならば隠れる必要などないはずなのだが、彼女にはどうやら私が感じられるようだった。
 誰からも認知されない私にとってそれはむしろ喜ばしい反応のはずだったが、私には彼女に対するうしろめたさがあった。
 じぶんの境遇からの打開策よりも、そのときは彼女に姿を認められ、拒まれるのが怖かった。
 何より、彼女の生活を覗けなくなるのが嫌だった。
 さもしい欲求に私は、人としての輪郭をすっかり脱ぎ捨ててしまっていたのかもしれない。
 彼女はそれからというもの、ちょくちょくと誰かと連絡を取り合うようになった。内容は、不気味な視線と誰かが部屋にいるような違和感についてだった。
 そして、きのうのことだ。
 彼女は友人を部屋に招いた。外は夜の光に満ちていた。
 ご友人は部屋に入るなり、ぐるっと見渡すと、いちど部屋の明かりを消した。
 通常の人間ならば視界は塞がれたも同然だった。
 しかし私をしかと見た。
 その人は暗がりのなかで、私に目を留め、視軸を合わせて、ぴったりと私の動きに合わせて、私を目で追った。
 視えているのだ。
 私は歓喜した。事情を伝えようと、三か月ぶりに発声したが、掠れた声しかでず、そもそもなんと言っていいのか、言葉すらろくに思いつかなかった。
 私がまごついているあいだに、彼女は懐からちいさな鍵爪のような道具を取りだし、突きだした。
「悪霊退散」
 魔除けだった。
 鍵爪のような道具を中心に、渦のような深淵がドライヤーに浮くピンポン玉のように左右に細かく微動していた。
 私の表皮がぱらぱらと剥がれ、浮き、霧消する。
 開いた間隙の奥には何もなく、私は散り散りに綻び、空虚に還るばかりとなる。
 私を「魔」扱いし、厄払いしたご友人の背後で、家主たる彼女が心底怯えきっていた。
 なるほど、と思う。
 たしかにこれでは悪霊だ。
 退散するのが筋だろう。ひどく穏やかな心地のまま、私はうたた寝をするように意識を拡散し、夜の眩い光のなかへと溶けこませる。
 夢と現の境目がほつれ、同化し、いっしょくたとなる。
 鉄の車輪がレールを引っ掻く音が耳をつんざく。
 飛び起きると、電車が目のまえに停まっていた。辺りを見渡し、駅だと知る。
 喉がひどく乾いていた。
 後部車両から車掌が、乗らないんですか、と声を張った。
「の、乗ります」
 掠れた声で応じた。すばやく立ちあがると、解けたネクタイが床に転がった。振り返ると、ベンチにはおにぎりが置いてあった。
 慌てて二つともを掴み取り、電車に駆けこむ。
 扉の閉まる音がする。
 重力の変遷を感じ、不規則な揺れに身を委ねる。
 車内は無人だ。
 座席に腰を掛け、息を吐く。
 無意識からおにぎりの包装を破っていた。一口齧ってから、あ、と気づく。
 が、ときすでに遅しだ。
 おえ、とえずき、吐きだしている。
 おにぎりの表面にはびっしりとカビが生えていた。ばかりか、お米も具もカピカピに干からびている。
 しばらく手のひらのうえのおにぎりのミイラを眺めた。
 それからふと思い立ち、メディア端末で、とある声優志望の子の名前を検索する。SNSでのつぶやきがヒットした。
 オーディションに受かりました、とある。
 日付は最新のもので、私は意味もなくほっとし、胸にじんわりと温かいものが込みあがるのを感じた。
 私は誰にともなくこうべを垂れ、ありがとうございました、と報告する。「無事に退散できました」
 電車は始発だったようで、窓のそとに、朝陽の光芒が伸びている。


3135:【2021/08/06*ヨダレ掛け】
ちょっと前から外に出かけるときは首にバンダナを巻いてお出かけしているのだけれど、鏡とか窓ガラスに映りこんだじぶんをちらっと見るたびに、「え、なんでこのひとヨダレ掛けしてんの」みたいに二度見したくなる衝動に駆られる。そもそもいまの時期、記録的な猛暑とか言われてるのになんで首すじを布で覆っておるの、暑いだけでしょ、の疑問に襲われなくもないけれども、でもよく考えてみて。砂漠地帯に住まう人々は肌を露出してないでしょ。なんか首筋に巻いてるでしょ。あれみたいなイメージで、いくひしさんは着古したTシャツの首筋がヨレヨレなのを隠しているってわけ(日除けではなくて!?)。あとふつうに日焼けしたくないってのもある(そうだよね、ああびっくりした)。ただやっぱりヨダレ掛けをしているふうに見えてしまうので、たぶんだけど結び方が下手なのかな、と思わないでもないので、固結びじゃないもっとふわりとした結び方を知りたいな、と思ってはいるけれど、思っているだけです。べつに知らんくても困らない。だって考えてもみて。あれだけかっこいいロロノアゾロですら腹巻をしているわけですからね。いくひしさんがヨダレ掛けをしててもいいと思います。ヨダレ掛けがかっこいいと思ってもらえるくらいに、いくひしさんがかっこうをつけて、適度にダサくありつづければ、それはそれで世界中の赤ちゃんたちに気持ちよくヨダレ掛けをつけてもらえるようになるかもしれない。赤ちゃん、気づくとヨダレ掛けを、「んーっ!」って投げ飛ばしているものなので、そのヨダレ掛けはなんとあのいくひしさんもつけていらっしゃるのよ、とひとたび知れ渡れば、きっとバブーと言ってくれるに違いありません。赤ちゃんなので何もせずとも、バブーとは言うのでしょうが。いや、言うのか。赤ちゃん、バブーって言うのか。わからん。みなさんもヨダレ掛けをしてお出かけして、赤ちゃんになろう。みんなでヨダレ掛けをすればきっと世界中の赤ちゃんたちだって、こんなんいらんわぁ、みたいにポイと床に投げ捨てずに、おとなしく身に着けてくれるようになる、といいなぁ。奮発して買った新品の赤ちゃん服がものの数秒でヨダレまみれになるのを死んだ目で微笑ましく見守るひとの気持ちを想像してなんとも言えない気持ちになった本日のいくひしまんでした。


3136:【2021/08/06*人気の部屋】
(未推敲)
 大学で仲良くなった友人が、すこし変わったやつだった。頻繁に住居を引っ越すのだ。
 彼は進学してからの三年のあいだに優に十回以上も住処を移している。ほとんど三か月に一度の周期で引っ越すので、周囲の者はふしぎがっていた。
 あるとき僕は彼の引っ越し先の共通点を見つけた。
 彼の歴代の部屋はどれも事故物件ばかりだったのだ。
 僕も卒業を期に引っ越そうと思っていたので、いまのうちからよい物件がないかな、と不動産サイトを見て回っていたときにそのことに気づいた。
 友人とは一週間にいちどは酒を飲む仲だった。だが彼はしょっちゅう引っ越すので、いつ出向いても部屋に荷物がすくなく、電化製品もないとくれば食料もろくにないため、いつもウチが飲み場になっていた。
 お酒の代金は毎回彼が支払ってくれるので、これといって文句はないが、彼の部屋が事故物件だったならば初めからそうと教えて欲しかった。引っ越すたびに、どんな部屋かを見に、一度は宿泊していた。
 引っ越す部屋の共通項をじかに指摘し、そうならそうと教えといてくれ、と不平を鳴らすと、
「そういうの気にするタイプだったっけ」彼は意外そうに言った。
「するだろふつう。気味がわるい。というか、そうだよ。いつもどことなく居心地がよくないと思ってたんだ、どの部屋も。つぎからは誰も死んでいない家に引っ越してくれ」
「家賃が安くて助かるんだけどなぁ」
「お金の問題じゃないだろう」
「三か月以内に引っ越すと、お金までもらえてね」
「お金の問題だったのか」
 そういうバイトがあることは知っていた。「それってあれか。いちど人が住むと、告知義務がなくなるからってそういう」
「そうそう」
 事故物件だと告知したのでは住みたがる者が減る。だがいちど人が住めば、告知せずとも法律違反とはならなくなる。
「でもだからってわざわざさあ」後ろ手に体重を支え、首を回す。
「いいんだ。私はこれでけっこう寂しがり屋だから」
「だからなんだ」
「誰かがいる部屋のほうがいい」
 彼の言葉に、首筋がぞわっとした。「やめろよ、そういうこと言うの」
「そういうってなに」
「気味のわるいこと」
「本心なんだけどな」
「一人暮らしだろうがおまえ。何が、誰かいるほうがいい、だ。幽霊とおしゃべりでもしてるってか」
「しゃべりはしないけど、そこにいてくれるだけで孤独が和らぐってことはあると思う」
「猫でも飼えっての」
「お金に余裕があればね」
 堂々巡りだ。すくなくとも彼は引っ越し先について困ってはいない。どちらかと言えば、事故物件に住まうことを好ましく思っていることは伝わった。
 お金のうえでも得をすると言われてしまえば、無理に止めるのも野暮だろう。孤独が埋まるうんぬんは言葉の綾だと見做しておく。
 友人がこれ以上ヘンな道に反れないように、釘を打っておこうと思った。
 言葉を選びながら、
「どこに住もうがかってだが」と口にする。「寂しいなら僕がいるだろ」
 こんな部屋でよければいつきてくれてもいいから、と言い添えると、気恥ずかしさに首筋が熱くなった。
「ありがとう。そうだね、そうするよ」友人は部屋を見渡す。「この部屋に住んでから何年になるっけ」
「もう三年になる。卒業するまではここにいる。引っ越すつもりはないよ」
「お気に入りってわけだ」
「それはおまえもだろ」僕はちゃぶ台のしたで友人の膝を蹴った。「家賃を半分払ってくれるんなら住まわせてやってもいいけど」これは半分本気で提案する。
「それもアリだけど、でもふしぎだよね。ここは気味わるくはないんだ?」
「なんでだよ」
 友人は答えずに、じっとこちらの顔を、いや、肩越しに背後を見詰めた。
「な、なんだよ」
 友人はにっこり笑うと、ここはいいよ、とビールを一息に飲み干す。
「すごく、にぎやかで」


3137:【2021/08/07*対策と予防は別】
人間はいともたやすく他者の命を奪えるし、人生を損なえる。やろうと思えばいますぐにでも行動に移せることを日ごろは、抑圧し、抑制し、自制できているだけなのだ。誰もがいまこの瞬間にも、他者の人生を損ない、傷つけ、奪うことができる。いいや、ひょっとしたら自覚していないだけで、いまこの瞬間にも他者の人生を損ない、傷つけ、奪っているのかもしれない。じぶんだけは差別をしていないと思いあがったその性根がそもそも他者の人生を損ない、傷つけ、奪っているし、じぶんだけは他者を思いやり、誰も傷つけず、社会に貢献し、安全圏から他者の悪を糾弾する資格があると思いあがっているその性根がすでに、思いやりとは程遠いし、誰かを傷つけているし、社会を損ない、他者の悪に加担している。想像し、悔い改めるしかない。対策を立てるしかない。予防に尽くすしかない。無意識の所作にて地面に穴を掘り、いつかの誰かをそこに追い詰め、落とす契機をほいさほいさと何食わぬ顔でつくっているかもしれない。その可能性から逃れる術をすくなくとも私は知らない。追い詰められた者はいともたやすく自制の鎧を脱ぎ捨てて、何の枷もなく自由気ままに振舞う許しを自己にくだす。追い詰められる理由はそれこそ人によりけりだろう。追い詰められた者を加害者にしないことと、被害者をださないようにすることは必ずしも同義ではない(合致する部分もあるにせよ)。動機の解明と、事件の再発防止は必ずしも密接しない。動機がどうあれ、鎧を脱ぎ捨て武器を持った者から身を守りたくば、どんな動機からにしろ、凶行に走った者からをも身を守れる仕組みがいるはずだ。事件の発生を未然に防ぐことと、事件を起こそうとした者から人命を守ることは必ずしも同じ対策を有しない。飛行機のなかに刃物を持ちこませないような工夫がされているように、これからは公共交通機関や商業施設および公共施設の総じてにて、そういった他者の命を脅かす凶器の持ちこみを阻むようなセキュリティシステムの構築を求めていく必要があるのではないだろうか(たとえ凶器が持ち込まれても、凶器を振るう者を鎮圧したり、即座に避難し、加害者から距離を置ける仕組みがいるはずだ)。予防は欠かせないが、それと同時に対策もまた必要だ。(基本的にこれまでの社会では、対策ばかりが立てられて予防が疎かにされる傾向にあったので、どうすれば予防できるのか、と盛んに議論される昨今の風潮は好ましく思います)


3138:【2021/08/07*依頼人は語る】
(未推敲)
 兄は去年の冬に事故で亡くなりました。よくある話と言えばそうなのかもしれませんが、兄のアカウント、未だに更新されていて。
 もちろん幽霊とかではなく、誰かが兄のアカウントにログインして更新しているだけだとは思うんです。ひょっとしたら、兄が生きていたころから中のひとが変わっていて、誰かほかの仲良いひとに任せていただけかもしれませんし。
 ただ、フォローしているので内容が流れてくるんですね。で、さいきん変だな、と思ったのが、バイクの写真が投稿されるようになっていて。
 ええ、兄の乗っていたバイクだと思います。すくなくとも同種のバイクです。
 ただ、どうにも過去の写真を載せているだけのようで。
 それはそうでしょう。
 兄のバイクはとっくに廃車になってこの世に残ってはいませんので。
 それだけに、やっぱり妙に思ってしまって。
 だっておかしいですよね。
 兄のバイクの写真を投稿できるってことは、兄が生きているあいだにその写真を共有していたってことですよね。
 でも、兄と仲の良かった友人たちに訊いてみても、写真を送られてきたり、共有したことはなかったって。
 兄の友人の一人に頼んで、兄の恋人にも訊いてもらったんですが、そういったことはなかったみたいで。
 本当にバイクを大切にしていて、人に自慢するようなタイプではなかったんです。
 いったい誰が兄のアカウントを使っているのか知らないようでした。中には怒っている人もいました。死者を弄んでいると言って。
 ああ、怒っていいことなんだな、とそのときに思って、こうしてご相談することにしたってのもあるんですが。
 はい、ええ。
 写真の話ですけど、妙というのそのことです。
 兄以外のの人間が仮に、兄の死後に写真を手に入れられるとすれば、兄のメディア端末からだけだと思います。
 ですが兄のメディア端末は行方不明なんです。
 見つかっていないんです。
 事故現場からは。
 そうです。
 兄はバイク事故で亡くなりました。
 バイクは大破し、兄の身体も見れたものではなかったと父が言っていました。
 腕や脚はもげて、今でも片腕が見つかっていません。
 メディア端末も現場からは見つからなかったと。
 元から持ち歩いていなかったのか、そうでないのかは分かりません。
 ただ、もしメディア端末を手に入れた者がいたとしても、指紋認証を突破できたとは思えません。
 ひょっとしたら、とどうしても考えてしまうんです。
 誰かが事故現場からメディア端末ごと兄の腕を持ち去って、セキュリティを解除して、かってに使っているんじゃないかって。
 中身のデータを漁って、兄のふりをしているんじゃないかって。
 でも、だとするとその人は、よっぽど兄への執着があった人なんじゃないかと思えて。
 そんな人が偶然、兄の事故現場に居合わせて、兄を助けようともせず、メディア端末と腕を持ち去ったりするだろうかとも考えて。
 まったくの私の妄想だとは思います。
 そうは思うのですが、ここまで考えてしまったら、こうも考えてしまうじゃないですか。
 ひょっとしたら、兄は事故死ではなく、その誰かに殺されたんじゃないか。
 バイクに細工をされて、事故死に見せかけ、殺されたんじゃないかって。
 だとすればすべて辻褄が合います。
 兄を殺した人が、兄のメディア端末と腕を持ち去って、いまもSNS上で兄のふりをして、兄に成り代わって、投稿を繰り返していることも、なんとなくですが、納得はできます。
 理解はできませんが、納得はできる気がするんです。
 どうか真相を突き止めて欲しいんです。
 兄のアカウントを誰がかってに使っているのか。
 そのひとはどうして、手に入るはずのない兄のバイクの写真を持っているのか。
 兄のメディア端末を持っているからだとして、いったいどこで手に入れて、指紋認証はどうやって解除したのか。
 どうかお願いします。
 真相を、突き止めてください。
 いま話した内容が私の妄想で、真相が別にあってもそれはそれで構いません。
 どうか、どうか。
 兄が本当に事故死だったのか、兄のふりをしている人物が誰なのか、どうかどうか、真実を、私に。


3139:【2021/08/08*感情と行為】
いくひしさんは差別の塊なので、誰とも関わりたくない(物理的に、直接には、との但し書きがつくにせよ)。他者と関わりたくないので、たとえば外国人のひとがいてもとくに関わろうとしないし、どちらかと言えば距離を置いてしまう。それは何も、外国人だからではなく、誰に対してもこうなのだ。しかし、その外国人のひとからすれば人一倍距離を置くいくひしさんが、差別を態度に表している人間に見えることだろう。そう見られるだろうことを予測できるので、ますます対人関係から距離を置く。悪循環のようで、そうではない。誰だって他者を差別しているし、それを自覚しないように懸命に自己弁護の論理を築きあげている。誰だっていくひしさんと似たようなものなのに、じぶんは差別をしていない、と思いこんでいる。そういった集団のなかに交じっているだけで、いくひしさんは息苦しくてたまらない。あなたがあんなに怒り心頭に発している差別行為を、あなたはべつの属性を持つ人々に対してしているじゃないですか、と思ってしまうのだ。ただ、それを指摘したところで通じない。なぜなら誰もが、差別感情に大小があると思っているからだ。そしてじぶんは差別感情を抱いていないし、あっても小さな看過されてしかるべき差別感情だと見做している。しかし差別は差別だ。そこに貴賤はない。善悪はない。差別によって生じた事象に、善悪の判断が付与されるだけなのだ。まずはそこのところを認めたほうがよろしいのではないか、と思わないわけではない。人間は差別を以って、敵と味方、部外者と身内を区分けする。人間にはそもそも差別をする性質が備わっている。そうしたなかで、集団が任意の差別感情を、なんらかの仕組みを機能させるうえで組みこむと、その差別感情は集団のなかである方向性を持ってなめらかに漂い、大きな流れを形成する。この大きな流れこそが問題なのだ。個々人にある差別感情は、ほとんどどれも似たようなものだし、失くせるものではない。個々人の差別感情が強まったから、社会に漂う差別感情に根差した不公平さが際立つわけではないのだ。社会の仕組みや構造が、個々人にある任意の差別感情を掬いとり、社会に利を生む回路を機能させる円滑材として採用している。親を敬ったり、恩人に報いたり、師を崇めたり、アイドルに酔心することとてどれも差別感情の作用によるものだ(差別感情以外にも作用している要素はあるにせよ)。そこには歴然とした、それ以外の人々への差別感情が表れている。ただし、任意の人物と、その他大勢のあいだに不平等さが際立たなければ、それらは好意的な所作として見做される。社会的に許容される。つまり、差別を行った際に、より下等と評価された者たちへの扱いが理不尽でなければ、それは差別とは見做されないのだ。しかし、そこには歴然とした差別の感情が働いている。さきにも述べたが、差別は人間に備わった基本的な性質だ。差別をするからこそ人間は社会を築き、特定の個人を特別に愛することができる。その他大勢との差異を以って、特別視することができる。これが差別でなくてなんなのか。しかしその結果に表れる作用が、社会的に有用ならば、それは差別として糾弾されることはない。だが果たして、本当に社会の利になっているのかは、それこそ俯瞰した視点で、より詳細な因果関係を探っていかねば分からない。一つ一つの差別感情に、大きな違いはない。個々にある種々相な差別感情のうち、任意の差別感情が社会構造のなかで回路を機能させる円滑材として掬いとられたとき、それは大きな流れとして顕現し、社会構造のなかで、明文化されない身分(扱い)の差として顕在する。機会の不平等や、待遇の差、或いは常識という名の理不尽そのものとして表出するのだ。繰り返すが、誰もが差別を行い、差別感情を抱いている。その結果に生じる損益の多寡によって、社会的に許容されるか否かに結びついている。あなたも私も差別をしている。まずはそのことを自覚し、どうすればそれによって追い詰められる人々をすくなくしていけるかを(自分自身のしあわせに繋げていけるのかを)、広く、多層的に、波及的な視野を以って考え抜いていくことが求められているのではないだろうか。社会を支えるさまざまな仕組みや構造のなかで、人間の持つ本能的な差別という性質がどのように働き、どんな流れを強化し、どんな利を生み、どんな理不尽な扱いを蔓延させているのか。まずは全体像であれ、差別と流れと回路の関係を、見詰め、見抜かなければ、同じことの繰り返しが、べつの差別感情をもとに反復されるだけではないだろうか。追い詰められた弱者は、鎧を脱ぎ去り、武器を持ち、べつの弱者を狩ることで強者の証を欲する。強者であることに価値を見出すような現代の「差別感情を利用した社会構造」を、まずはどうにかしていくほうが根本的な対策という意味では妥当なのではないだろうか。定かではないがゆえに、考えていくほかないのだろう。考えるためには、何をどう考えるべきかの指針がいる。基準がいる。そのための物の見方が、新たにいる。同じ見方ばかりではなく、いろいろな見方を試していくなかで、打開策に結びつく見方を発見できたならばさいわいだ。(個々人がじぶんの考えを発信することは、個々によって異なる物の見方を取り揃え、吟味するうえで欠かせない工程の一つであろう)(必ずしも正しい考えではなくてよいので、じぶんからはどう見えるのか、どう思うのかを、考えにまとめて人々が発信することは有益だと支持するものである)(打開策に結びつく見方をあなたが見つけたならば、あなたがそれを文章に興し、いつの日にかいくひしさんの目に触れる可能性を広げてくれたならば、うれしく思います)


3140:【2021/08/08*夜遊びは弾む】
(未推敲)
 深夜零時を回って帰宅の途につくことは珍しくないが、この道を行くのは久方ぶりのことだった。
 数日前に殺傷事件があり、いつもの道が通行止めだったため、致し方なく道を変えた。物騒な世の中になったものだ。しかし却ってこちらは近道だ。
 数年ぶりに通ったが、記憶にある景観よりも華やいで映った。道路が張りかえられ、新しい民家が増えたのか、左右に見える壁や庭が新しい。ときおり古い民家の壁や垣根が混じるので、モザイクの迷宮を歩いている気分にもなる。
 一本道だ。
 電灯が距離を置いて道のうねりを描いている。
 三つ先の電灯の下に何かが動いた。
 歩を止め、目を凝らす。
 どうやら人だ、と判るが、警戒心は却って強まる。
 ゆっくりと歩を進め、街灯を一本通り過ぎたところで、ああ、と肩の力が抜ける。
 少年だ。
 中学生くらいだろう。
 Tシャツに半ズボン、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426296904828)




※日々、分厚い膜越しに叫んでいる、声も光も何一つ、歪んで、ねじれて、届かない。

3141:【2021/08/09*可視化されぬ声】
SNSを眺めていて思うのは、十代以下の子どもたちの声がまったく可視化されていない点で、せっかくインターネットという現実とは異なった性質の舞台があるのだから、もっと子どもたちがいま何を思っていて、どんなふうに世界を捉え、何に期待し、何に困り、何を楽しみに生きているのかを知りたいのだよね(十代以下という事実を隠して発言している者もなかにはもちろんいるだろうし、年齢制限で十代以下は使用不可となっているSNSもすくなくはないのだろうけれど)。世の中、たいへんだ、たいへんだ、とおとなは言うけれど、べつに子どもたちがそういう世界にしたわけではないのだから、我々上の世代は、もっと下の世代の声に耳を傾ける機会を増やすように働きかけてもよいと思うのだけれど、みなさんはどう思われるだろう。本当にこの間、ここ数年の怒涛の混乱のさなかにあって、子どもたちの暮らしがどういうふうに変化し、その変化をどう捉え、何を思い、何を知らずにいるのかを可視化できる舞台や土壌があってもよい気がするのだよね。各種メディアがそういったアンケートなんかを実施していたとしても、まったく話題になっていないし、すくなくともいくひしさんは知らぬままなのだ。それは高齢者の声にしたところで同様で、インターネット上で可視化される声というのは、いわば拡声器によって声量をあげてもらった極々一部の声にすぎないのだよね。それもかなり偏って結びつけられた声だという点は、当の声を上げている者たちほど忘れがちに映るので、もっとみなで耳を澄まし、表層にのぼらずにいる水底に沈んだ声を掬いあげる仕組みを備えてもよいように思うのだけれど、そういったシステムの開発を目指している企業ってないのだろうか。世の中というものに置いてきぼりにされ、意見を反映することもできずに、大衆とすら見做されない、不可視の層の声を、意見を、考えを、インターネットの各種SNSさんやらメディアさんやらには拾いあげ、可視化し、目や耳を傾けることのできる舞台を、土壌を、築いていってほしいなぁ、とさいきんはぼんやりと思っています。(おまえが欲しいのだからおまえがつくればええやないか、と似非関西弁で怒られてしまいそうなので、思うだけに留めておきます)


3142:【2021/08/09*神はほくそ笑む】
(未推敲)
 ミサコ様がでた、と騒ぎになったとき、私は妹の面倒を看るので要領一杯で正直、それどころではなかった。
 谷向こうの村人たちがこぞって我が村に避難してきたが、私はただただ、避難民のなかに私と同い年の子がいないだろうか、と願っていた。私よりも立場が弱く、それでいて物心のついた子がいたならば我が妹の子守りを押しつける気満々だったが、期待は呆気なく裏切られた。
「あれでぜんぶ?」
「あとでくるんじゃないかな」
「あ、セミ」
 玄関口に止まっていた蝉が飛び立つ。
 妹が親指を口に咥え、はむはむとねぶる。ふしぎそうな顔つきなのは、吊り橋を渡ってくる人々が思いのほかすくなかったからだろう。
 村長一家がさきに到着していた。村人総出で避難してきた、と語っていたそうだから、避難民はもっと多いはずだ。
 だがどれだけ待っても、二十人を超えたところで人の往来はぱたりと止んだ。
「あれで全部だったみたいよ」母がその日の夜に言った。井戸端会議で共有してきた事情を掻い摘んで聞かせてくれた。
「ミサコさまってなぁに?」
 母との会話に妹が嘴を挟んだ。私は短く、「神さまみたいなものだよ」と応じたが、すかさず母が、「神様よ」と訂正した。ぱしりと頭を叩かれたが、母は怒っているのではなく、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426333375366)


3143:【2021/08/10*もうだめだぁ】
一週間に三日くらいの割合でこの日誌、「並べてはボツ、並べてはボツ」の日がきよる。きょうはもうこれで五本目だけれども、ほかの四本がおおむね愚痴というか悪態なので、ボツにした。とか言いながら、これまでに載せてきた日誌もたいがい愚痴に悪態のサンバカーニバルやないかい、の総ツッコミが入りそうなので、いっそぜんぶボツにしたらいいと思う(なんも載せなきゃいい)(そうだ、そうだ)。もうね、なんもなーい。並べることなんかなんもないです。そもそもいくひしさん、寝て起きたらきのうの記憶がすっぽ抜けておりますので、過去がありませんので、頭空っぽなんですね。だからなんもなーいってなっちゃうのも致し方あるまいよ。みゃは。文章形態を崩す練習もさいきんサボりがちで、ここさいきんの「いくひ誌。」も全部おんなじだなって塩梅で、いやんなっちゃうな。ある朝僕は店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込んじゃったのは、さすがにちょっと思いきりよすぎでは?(わかるひとにだけわかってもらったらよいです)。もうもう、なんもないときは連想ゲームで文章並べるしかないのよさ。あっちょんぶりけ。いくひしさんらってちぇんちぇーみたいな男の人のおくたんになりたいのよさ。ちぇんちぇーみたいな女の人のおくたんでもよいのよさ。いっそちぇんちぇーみたいになりたいのよさ。ちぇんちぇー。我々、選手一同は、いくひしまんシップを乗っ取り、広大な宇宙へと旅立つことを誓います。待て待て、飛躍しすぎでは。ちぇんちぇー、と宣誓をごっちゃにするんじゃないよまったく。いくひしまんシップって何。泥船じゃないの。乗っ取るのは勝手だけど、泥船じゃないの。乗ったら即、沈没じゃないの。ボツじゃないの。あ、ボツか。ボツじゃん。だからかぁ。きっと数々の文字を並べてきたそのときどきのいくひしさんは、きっといくひしまんシップに乗っちゃったんだね。泥船に乗っちゃったんだね。沈ボツしちゃったんだね。全ボツになっちゃったのね、って、ちぇんちぇー。いくひしさんの文才のなさも手術ちて。腕のなさから、センスのなさまで、わりゅいところじぇんぶ治ちて。ちっかりちて。コラー、ってそれはおちかり(お叱り)でちょ。ちっかりするよりもがっかりするほうが得意ないくひしさんの本日最大の悩みは、上記の脈絡がありそうでまったくない駄文をボツにするか否かにあるのですが、もうもうさっさと寝たいので、きょうの「いくひ誌。」は、キミに決めた。真実はいつもひとつ!(これたぶん、というかぜったい、あとで読み返して恥ずかしくなるやつ。わい、恥辱のプロなので知ってるんだ)(でも載せちゃう)


3144:【2021/08/10*殻に走るヒビのように】
(未推敲)
 男が家を訪ねてきた。
 一晩泊めて欲しいという。
 断ることもできたが私は彼に部屋を与えた。風呂を沸かし、食事を用意してやり、話を聞いた。
 長らく旅をしているそうだ。
 各地の情勢やら、巷説としか思えぬ物語を聞かせてくれた。
 愉快だった。
 周囲に隣家はなく、訪ねてくる者は当分ないものと考えていた。広大な土地があるばかりである。これといった娯楽もない。
 一人で住むには広い家だ。掃除とて地下室にゴミを押し込めている。
 もうしばし泊まっていったらどうか、と引き留めたが、男は遠慮した。
 翌朝、男は家を発った。
 礼にと、男は卵をひとつ寄越した。
 手のひらに載るくらいの大きさだ。鶏の卵より数倍大きい。
 食べればいいのか、と問うと、肌身離さずそばに置いておいてください、と男は答えた。
 そうするとどうなるのだ、と私は反問したが、男は低頭するだけで、応じなかった。
 景色にちいさく点となるまで私は彼を見送った。
 男の言葉を信じたわけではないが、私は卵をそばに置いた。ほかにすることもないのだ。
 地下室の掃除でも、と思うが、踏ん切りがつかない。
 卵をずっと手に持っているわけにもいかず、座っているときは膝のうえに置いた。それ以外は、ちいさな麻籠のなかに入れ、腰に垂らして持ち歩いた。
 ふとした瞬間に卵が微動することがある。卵は生きているのだ。
 七日をすぎると愛着が湧いた。
 是が非でも中身とご対面を果たしたいと望むようになった。
 ひと月が過ぎた。
 夜、寝具に寝そべり書物を読んでいると枕元に安置していた卵が転がった。立て直すも、すぐに転がる。
 いよいよか。
 私は座した。
 卵を膝のうえに置く。
 それから半刻もしないうちに卵にはヒビが走った。ヒビは内側から力が加わるたびに色合いを濃くし、ときにぴたりと合わさり見えなくなった。
 間もなく天蓋が崩れる。
 穴が開く。
 中からは、ちいさな、ちいさな人型が顔を覗かせた。
 孵ったのは雛ではない。蜥蜴でもない。
 小人である。
 私はそれを人間と見做してよいものか悩んだ。
 全体的につるっとしており、顔にはオウトツがあるばかりで、目鼻が見当たらなかった。
 毛も生えていない。
 口だけがある。
 野ネズミの赤子じみていた。
 だが私はそれを育ててみることにした。せっかく孵ったのだ。ひと月のあいだに培った愛着は、そう容易く途絶えるものではない。
 乳を与えようと思い立つが、そも私はでない。
 牛や山羊がいるが、さすがに赤子の時分で獣の乳を飲ませれば腹を下すだろう。命を落としかねない。
 折衷案として粥の汁を飲ませてみることにした。丸めた布地に粥汁を浸し、口元に押しつけてみる。
 小人は喉を鳴らしてそれを飲んだ。
 小人は泣かなかった。
 だがときおり、ぱうぱう、と声を発した。お腹が減るとそうして音をだして知らせるのだ。
 最初の数日は気づかなかったが、十日もすぎるころになると、徐々に小人が成長していると判った。
 髪の毛が生え揃い、目や鼻ができ、全体的に腕や脚が細長く伸びる。
 ひと月もすると、全長は私の膝ほどの高さにまで育った。
 瞠目すべきは、それが日に日に私自身に似てくることだった。
 瓜二つである。
 立って歩けるようになると、私はそれに肉を与えるようになった。
 すると成長の度合いが見違えるように早まった。朝顔とてもうすこしゆっくり育ちそうなものだ。
 寝て起きると一回り大きくなっている。ふしぎなことに小人は排泄をしない。食べた分をそのまま身体の成長に回しているような急激な成長が見て取れた。
 知能のほどにも目を瞠る。
 私の読んでいた書物に興味を示したかと思えば、一日に数十冊の勢いで読み漁っていく。食事の回数も増え、日に何度も眠った。
 ひょっとしたら、と思う。流れている時間が私とは違っているのかもしれない。
 三か月もしないうちに、小人はもはや小人とは言えない大きさにまでなった。畢竟、私とそう変わらぬ背丈にまで伸びたのだ。
 成長はそこで止まったようだった。
 言葉こそ話さぬが、私よりも愚かということはないだろう。ひょっとしたら私よりも聡明であるかもわからない。ただし、経験が足りない。世の中がどのような仕組みで回っているのかを我が分身はまだ知らぬのだ。
 私のことを親のように慕い、ときに神のように敬う。
 愛着はほとほと慈愛の域にまで達した。
 我が子というよりも、もはやそれは私自身だった。
 私は迷っていたが、いよいよとなって決意した。
 私は分身に、日常生活に困らぬだけの知恵を授けた。食事の支度から、家畜の世話、掃除洗濯、必要ならば生殖器の使い方まで指南した。
 分身は成長を止めると、排泄を行うようになった。堆肥の作り方を教え、畑仕事も教えた。
 地下室には入らぬように言い聞かせた。
 旅の男が卵を託し、去ってから半年が経った。
 私はいよいよ旅にでる臍を固めた。
 分身には事情を離さずにいく。
 そのほうがよい。
 分身が寝静まる。
 まとめておいた荷物を背負い、暮らし慣れた家を、土地を、あとにした。
 地下室には十を超える死体が転がったまま放置してある。家の家主たちだ。
 旅人が訪れる前のことだ。
 私のほうがさきにあの家へと辿り着き、住人たちを使用人共々皆殺しにしたのだ。
 どの道、私は咎人である。
 行く当てもなかったが、しかし運がよい。
 人が殺された、と当局へと通報する。あとは法の下で、私にそっくりの可愛い我が分身が死刑にでもなんにでもなってくれる。
 私の罪過を引き受けてくれる。
 旅人には感謝しなくてはならない。あのときもう一泊していたら私は、卵を譲り受けることなく、もう一つ死体をこさえていただろう。
 一日で去ってくれてよかった。
 しかしどうせならば、持っているだけすべての卵をくれればよかったのだ。
 出し惜しみするとは恩知らずはなはだしい。
 我が分身が捕らえられれば、私の重ねてきた過去の罪は総じて清算される。晴れて私は自由の身だ。
 時間はたっぷりある。
 卵をくれた礼をすべく、旅人のあとを追うのもいい。
 私は解放感を噛みしめる。
 夜のしじまが肺を満たす。
 息遣いと、足音だけが、殻に走るヒビのように、宵闇のなかに浮かんでは消えるを繰り返す。


3145:【2021/08/11*あっぷあっぷ】
いや、待って。一日経つのはやくない? 息切れしすぎて半端ないんだけどだいじょうぶかな。もはや昨日の日誌をきょう並べちゃうっていうね。日付け変わってから慌てて、「あ、ヤベ並べなきゃ」の気持ちになる。もうもうこんなあんぽんたんな文章を並べてる時間すら惜しい。とくに何もしてはいないのだけれども焦りだけは募る。タダなので。きょうもきょうとて、なんもなーい。って毎日これだけを繰り返しちゃえるくらいに、特筆すべきことが何ら一つも、欠片もない。怠け者にとっては本当に最な高の日々なわけでありますけれども、いくひしさんはほんのときどき、ちょーまっじめー、になることもありーの、そうしたときには怠け者にとっての最な高の日々であると、少々コショウ大匙一杯くらいの勢いで、退屈と戦わざるを得なくなることもあるのだね。怠けると一口にいえども、日々怠け道を極めておりますと、それこそ怠けることすら怠けたくなってくるのでありまして、要は単に飽きちゃった。贅沢な悩みでございます。いつか天罰が当たると思います。ひょっとしたらすでに当たっていて地獄に落ちているだけな可能性も無きにしも非ずだが、てやんでい、住めば都が本当ならば、地獄だっていくひしさんにとっちゃ都かもしれんのや。そうなんです(なにがだ)。けっこうこれでもがんばっておるつもりなのじゃが、もうもうこの程度のこともこなせなくなってしもうただ。こうなったらいっぱい寝てやる。ぐー。そうだよ、そうそう。やっぱり毎日怠けていたい、怠慢の極致を味わい尽くしたい、きょうもきょうとて怠けることに超真面目、怠ける努力の超天才、万年ぐーすかぴっぴのへのへのもへじ、あがらぬうだつの権化こと、本日のいくひしまんでした。おやすみ。


3146:【2021/08/11*遺書】
(未推敲)
 母が自殺した。今年喜寿を迎えたばかりで、いったいなぜ、と親戚一同、悲しみに見舞われた。
 夫に先立たれ、寂しかったのではないか、と私は言ったが、みなの耳には響かなかったようだ。
 母は子だくさんで、私にはきょうだいが七人いた。私以外のみなは家庭を持ち、子どもを育てていた。
 独り身の私だけが母と共に家で暮らしていた。介護を押しつけられていた、と言ってもいいが、きょうだいたちからは金銭的援助を受けていたので、お互い様だと言われれば否定の余地はない。
 母の机の引き出しから遺書が見つかったのは、葬式の終わった夜のことだった。
 きょうだいたちが家に泊まり、みなで母の思い出を語り合っていた。
 遺書を開き、みなで読んだ。
 唐突な不孝を許してほしい、とヨレヨレの字で書かれていた。母の字だ。幸せな人生だった、と冒頭に記されていたこともあり、みなどこか安堵した様子だった。
 息子娘たちへ、と母は一人一人を名指しし、お礼とそれぞれへの遺言を書き連ねていた。
 遺書がきょうだいたちの手から手へと渡る。みなさめざめと泣いた。
 最後に私の手元に手紙が巡るが、私は紙面を一目して、それを畳んだ。封筒に仕舞う。
 みな、まだ泣いている。
 母の死を惜しんでいるのだ。
 だが私は、はやく煙草を吸いたい気持ちでいっぱいだった。
 遺書には、私の名前だけがなかった。


3147:【2021/08/12*コテンと首をかしげる】
物理学では、古典物理学と近代物理学とでざっくりとではあるが分かれているみたいだ。古典物理学は、ニュートン力学や相対性理論までの範疇で、近代物理学は量子力学や宇宙物理学、重力理論の範囲になるのかな、とざっくり認識している(間違っているかもしれません)。そこにきて、古典と近代の違いはなんなのか、と言えば、扱う事象のスケールが変わるのだな、ということで、それはたとえば同じ古典物理学であっても、より古いほうのニュートン力学と、比較的近代(とはいえ百年以上前に発案された理論であるにせよ)の相対性理論とでは、双方の扱う事象スケールには違いが見られる。我々人間の日常の範囲内であるならば、そもそもニュートン力学を扱えれば困ることはまずないと言っていい(とはいえ近代においては、GPSや人工衛星を十全に利用するには相対性理論が不可欠だ。使用しないと毎日数キロメートル単位で地図がずれてしまう)。ただし、宇宙規模のマクロなスケールを扱う場合には、相対性理論でないと説明のつかない事象がでてきたり、あべこべに原子よりもちいさな極小の世界を扱うには、量子力学でないと説明がつかなかったりする。こうしたスケールによって扱う理論が変わるというのは、文学でも言えるのではないか、とさいきん認識が変わってきた。いわゆる古典と呼ばれるものは、複雑化した近代社会を解釈するには不足だけれども、基本的な人間社会のなかの比較的単純な人間関係を扱う場合には、かなり緻密な解釈や描写がなされているのではないか、との疑惑がある。社会全体を扱った古典作品であっても、おそらく近代社会では一つの企業内で語り得るスケールの話となるのではないか。その点、近代文芸では、もうすこし社会構造と密接に繋がった人間関係が描写され、ある種の社会構造の欺瞞を暴くような解釈のされ方が、意識的にしろ無意識的にしろされているように妄想できる(単なる印象とも言うが)。そういう視点からすると、人間とは何か、という等身大の人間のスケールで物語を扱う古典作品には、社会を築くうえでの人間関係の機微が、より再現性のある精度と揺れ幅で、叙述されているものなのかもしれない(時代に影響されない汎用性がある、と言い換えてもよい)。定かではない。(かなりおおざっぱな所感でしかありません。該当作品を探すほうがたいへんそうですし、例外を探すほうが簡単でしょう。口からでまかせですので、真に受けないように注意してください)


3148:【2021/08/12*日記は捺す】
(未推敲)
 久々に顔を合わせた友人との雑談は、一時間もすると話題が尽きた。解散してもよかったが、呼びだした手前、わたしからは暇を告げにくい。
 気まずい沈黙を持て余していると、
 そう言えばさ、と友人は記憶の底を洗うかのように言った。
「すごい日記見つけたんだよね」
「日記?」
「そう。たぶん個人でやってる日記なんだけど」友人はメディア端末を操作する。
「インターネット上のってこと?」
「そうそう」
 はいこれ、と画面を見せられ、私は覗きこむ。
 そこには日付順に覚書き程度の短い一文が載っている。たいがいが事件や災害についての文面だ。
 どこそこで何々がありました。何人亡くなったようです。
 簡素な文章が短く並んでいる。
「これがどうしたの」わたしは訝んだ。「ニュースをメモしてるだけでしょ」
「いやいやよく見てよ。ほらこれ。たとえばこの事件、日記の日付の一週間後に起きてる。こっちは一か月後だし、こっちは三日後だね」
「へぇ。でも日付をいじって、予知っぽくしてるだけじゃないの」
「かもしんない。でも頻繁に更新されてて、たまに覗いてるんだけど、まだ起きてない事件が結構本当に起きたりしててね」
 じつは界隈じゃ有名なんだよこの日記、と友人は言った。「でもまあ、信じない気持ちもわかるし、急にこんな話題ごめんだね。しらけちゃうよねぇ。いやね、親しい人にはどうしてもしゃべりたくなっちゃって。たまにでいいから覗いてみて。嘘を暴いてやるって気持ちでもいいから」
 ふうん、と半信半疑というよりも十割眉唾な気持ちで最新の日記を表示する。
「あ、そこあれじゃん」友人が肩を寄せてくる。「旅行行くんだよね、同じ場所じゃない? 通り魔だって。うわ、こんなに人死ぬの。気をつけたほうがいいかもよ」
 わたしは、へぇ、と思った。「これ、すごいね」
「何が? あ、信じる気になった? でもそうだよ、絶対危ないからここには近づかないほうがいいかもよ。日程変更とかできないの。この日だけ宿から出ないようにしたりさ」
「大丈夫だよ」わたしはじぶんのメディア端末でも日記を検索した。お気に入り登録する。「ふふ。太鼓判もらっちゃった」
「なんできみそんなうれしそうなん」
 友人は呆れていたが、わたしは視界がぱっと明るくなった心地がした。わざわざ呼びだしてまで最後に友人と会っておいてよかった。
 日記にいまいちど目を走らせる。
 こんなに殺せるんだ、と嬉々とする。
 わたしの念願はどうやら達成されるらしい。


3149:【2021/08/13*わたくしごと】
差別問題についての所感です。もうそろそろ、差別発言を批判するだけではなく、そのさきに進んでもよいのではないか、と考えています。差別発言をやめさせたところで、問題の種そのものは水面下で着実に社会を蝕みつづけるでしょう。差別行為が可視化されにくくなるだけで、どちらかと言えば差別発言のみを批判することは、差別構造を深化させるための予防接種的な役割を担ってしまい兼ねない懸念についてはいまからよくよく考えを煮詰めておきたいと思っています。差別発言の是非よりも、現実に起きている差別による迫害や理不尽な扱いを是正していかないことには問題は放置されたも同然です。そして忘れてならないのは、現代人ならば誰しもが、そうした差別構造による恩恵を受けている点にあります。わたくしもあなたも他人ごとではありません。差別発言を批判することは、差別構造を批判することにも繋がりますのでまったくの無意味ではありませんし、無垢な者たちに差別思想を洗脳さないためにも必要な過程ではあるでしょう(無垢な者ほど差別思想に行き着きやすく、それゆえに差別思想を以って他者を洗脳するのもまた無垢な者たちに多くなるのが道理です)。しかし、なぜそうした差別発言を行う者がでてきてしまうのか、なぜ社会に格差が生じ、なぜ扱いや待遇の差が個々人の属性によって変わってきてしまうのかについては、未だにあまり深く議論が交わされていないように見受けられます。わたくしたち個々人が日々受けている社会からの恩恵には、すくなからず差別構造によって生みだされた利が含まれています。いったいどんな利が、そうした差別構造のうえに生みだされているのかについては、まだ広く可視化されてはおらず、俎上に載せられてもいないようです。SNS上のフォロワー数や、外見や服装、学歴や家柄、住む地域、在籍している組織の規模、性別や性的指向性、人種や年齢、誰に応援され、誰と知り合いなのか、ほかにも様々な属性によって、個々人を高く評価するか否かの判断基準に偏りが表れて映ります。そうした流れそのものがすでに多くの差別構造のうえに築かれた偏見のたまものである点には留意しておいて損はないでしょう。世の中を動かしている数多の企業や政治家、著名人、十把一絡げにしてここでは権力者と呼んでしまいますが、そうした権力者たちの意思決定に、偏見や差別的な考えが根づいているようにわたくしの目には映ります。それはときに常識として、まっとうな道理のようなフリをしてまかり通っているのです。それは何も、権力者だから、ではありません。多くのわたくしたち一人一人が、知らず知らずのうちに染まり、流され、許容し、共有している社会通念がそうした、差別や偏見の後押しをしています。流れを強化し、作用を増幅させているのです。まずは見抜かなければ対策一つ打てません。自覚をすることです。認めることからはじめなくてはなりません。差別発言だけを批判しても、構造は水面下に隠れるだけで、より目立たぬうちに、回路をより滑らかに機能させるべくその根を深く張り巡らせるでしょう。社会に根付いた構造をこそまずは見抜き、流れを断ち、改善していくよりほかはないのではないでしょうか。そのためにも、大きな流れの一端をなしているわたくしたち一人一人の自覚が不可欠です。流れを断つためには、流れに加わらない意思がいるのです。自身の甘受している利について、その背後に潜む構造に目を向ける習慣をつくり、どんな回路が築かれているのかを想像するための視点を増やしていくことが、今も、これからも、求められていく最弱にして最上の最善手ではないでしょうか。定かではありません。(じぶんにできないことほど、他者に求めてしまいますね。すみません。上記、理想論ですのでどうぞ真に受けずに、どうすれば現代社会から、不公平に追い詰められ、理不尽な扱いを受ける個人を減らせるのかを考えてみてください)


3150:【2021/08/13*隣人の怪】
(未推敲)
「うー、うー。なんもない、なんもなーい。思いつかん、思いつかん。きょうくらいサボってもいいかな。どうせ誰も読まんもんな、誰もよろこびゃしないもんな、一日くらい休んだってバチは当たらないし、腕も鈍らない。無理して頑張ったっていいことなんて一つもないし、頭空っぽなのに無理くり作ったっていいものなんてできっこないもん、こんなのただの強制労働だ、奴隷だ、強迫観念だ。よくない、よくないよ、こんなの全然よくない。休もう、休もう。もう寝ちゃおう。サボりじゃないもん。原稿よりも健康だよ、なんもしない日があったって誰も責めやしないし、文句も言わない。失望もしなけりゃ評価も下がらん。誰も期待なんかしちゃいないんだ。消えようが筆を折ろうが、誰も悲しみゃしないんだ、そもそも気づかれもしないし、惜しまれもしない。きょうくらい休んで何がわるい。永久に休んで何がわるい」
 そうだ、そうだ、それがいい。
 ぶつくさと、壁の向こうから呟きが聞こえる。
 ここのところ毎晩だ。気が狂いそうになる。
 壁を叩くが、殴り返されるだけなので、もはやそっとしておくより術がない。
 だがここ数日の独り言は度が過ぎているように感じられる。とっくに頭のネジがぶっ飛んだ相手だとは思っていたが、怒りよりも不安が勝る。
 自殺でもしなきゃいいが。
 この暑さのなかで死なれたら半日でウジが湧くし、腐臭で息が詰まるのは勘弁だ。
 隣人は半年前に引っ越してきたのだが、完全にハズレの住人だ。
 隣人はずっと家にこもりっぱなしで、何かしら内職をしているらしい。締め切りに追われているのか、毎晩のように、うんうん呻っている。
 ネタに詰まっているようだ。
 それはいいが、もうすこし静かに悩んで欲しいものである。
 床のうえで寝返りを打つ。
 今晩の独り言はとくにひどく、どうやら小説を書いているらしいと、伝わった。怪談話を書いているようだが、完全にお手上げのようだ。
 仕事なのか趣味なのかは不明だ。
 聞こえてくる内容からすれば趣味の執筆のようだが、それにしては度を越えた悩みようである。
 趣味と呼ぶには熱をこめすぎだ。一日でも遅れたら死んでしまうかのような鬼気の迫りようがある。人生を賭した者の焦燥を感じなくもない。
 休む、休む、と呪文のように唱えていたが、けっきょく筆を進めることにしたようだ。間もなく、豪雨のごとく打鍵する音が聞こえだす。
 いったいどんな怪談話を書いているのか。
 いちど気になりだすと、じっとしてはいられなくなった。隣人が引っ越してきてからの半年間、散々無関心を貫こうとしてきたのだ。もう充分我慢したと言ってよい。
 こちらの気を散らし、あまつさえ聞こえよがしに小説の執筆を匂わせるほうがわるい。気にするな、というほうが土台無茶である。
 長らく住まわせてもらっている手前、なるべくアパートの住人たちには迷惑をかけないようにしてきたが、この隣人に対しては気を回すほうがあほらしい。さっさと出て行ってもらうのも一つかもしれない、と思いたち、床から身体を起こして、壁に顔を押し当てる。
 ヌルリ、とすり抜けると、隣人と目が合った。
 隣人は上下黒のスウェット姿だ。ガンガンに冷房を利かせた室内で炬燵に足を突っ込んでいる。口をぱくぱく開け閉めし、これでもかと目を見開く。いまにも目玉が零れ落ちそうなほどだ。
「すまんね。気になってしまって。いったいどんな怪談を書いているんだ。一つ私にも読ませてくれないか」
 どれどれ、と隣人の手元を覗きこむ。
 隣人は固まったままだ。触れられるわけもないのに、半透明の私の身体をゆびでつつくと、
「ホ、ホンモノだ」
 なぜか目を輝かせる。



※日々、最悪を想定するだけで予知になる、そんな世の中は嫌じゃが。


3151:【2021/08/14*色んな異論】
両論併記の効用の一つに、情報の非対称性の埋め合わせが挙げられる。たとえばなぜデマや陰謀論がこれほどまでに世に流通するのかと言えば、基本的にデマや陰謀論では、通説や妥当と評価された論旨を否定することで、自説の正当性を訴える傾向にあるからだ(飽くまで因子の一つです)。反して、通説や妥当と評価されている論旨におかれては、すでに数多の反論や指摘を退けているために、いまさら過去に俎上に載せられた仮説を持ちだしたりはしない。だが人間には、Aに対する反証をだされると無条件にそれにより強化されたBの論説のほうが正しいように錯覚する性質がある。いわゆる認知バイアスである。そうした人間の認知の歪みが作用して、デマや陰謀論が人口に膾炙しやすくなる。たとえば詭弁では、そうした人間の認知バイアスを利用する。代表的なのは過度な一般化やストローマン手法だろう。ごく一部の例外を取りざたして全体を否定する手法や、相手の論旨を曲解して自説の正当性を訴える手法である。そうした詭弁を回避するために、両論併記は有効なのだ。たとえば過去のある国で大量殺戮があったとする。あらゆる検証がなされた結果、疑いの余地なくそうした事実があったと認められたとしても、時間経過にしたがって、過去に何が起きたのかは史実として処理され、関係者がのきなみ亡くなったあとでは、真実の解明はそれこそ残った資料による傍証に頼るしかなくなる。そうしたときに、過去にあの国で大量殺戮などはなかった、と訴える声がでてこないとも限らない。この場合、すでに事実として認められた論旨ほど、過去に否定されてきたあらゆる反論を度外視して、そうだからそうなのだ、と言い張ることに終始する傾向にある。反面、異論を唱えるほうでは、通説を紹介したうえで、矛盾を突くような反論を展開する。つまり原理的に、異論を唱えるほうが両論併記を伴ないやすく、相関してデマや陰謀論にもその傾向は表れる。そうしたとき、基礎知識がなく、慎重な検討を行わない者たちにとっては(言い換えればいくひしさんのような者にとっては)、両論併記されたうえで反証の示されているほうが正しいように見えてしまう。この情報の非対称性による見せかけの説得力が、両論併記の効用の一つとして挙げられる。ゆえに、誰もが陥りがちな誤った異論や仮説に対しては、敢えて両論併記し、それはすでに否定された説であることを示していくほうが、時間経過による「過去の論争の風化」に対抗できると想像できる。これはなぜ異論を封殺しないほうがよいのかの理由の一つでもある。異論があるからこそ、妥当な説は妥当だと証明されてきたのだ。異論を否定できたからこそ、通説は通説としてまかり通る。異論や疑問がなくてはそも、通説とて、ただのデマや陰謀論と区別がつかない。両論併記は事象の解釈を検討するうえで有効だ。必ずしも、両論を等しく妥当と評価する必要はない。両論を載せたうえで、どちらが妥当なのかを評価すればよいのだ。両論併記は、両論を比べてこそ意味がある。単なる紹介では、両論を表記する意味合いは半減どころか霧散する。比較することこそ、両論併記の効用である。必ずしも赤青ハッキリするわけではない。ある点に関しては、Aが妥当だが、別の点に関してはBが妥当だ、という比較結果も表れるだろう。往々にしてそうなるはずだ。だが総合して、どちらが「任意の事象」を解釈するのに有効であるのかは、「任意の事象」が何を示すかによって、一つの結論に収斂していく。つまり、何を問題視し、何を明らかにしたいのかの条件が限定されていればいるほどに、AとBを両論併記したところで結論は赤青ハッキリとつくと言える。手間がかかるかもしれないが、できるだけ両論は併記しておいたほうが、デマや陰謀論などの詭弁に騙される者を減らせるのではないか、と漠然とした印象を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3152:【2021/08/14*初めての盛り塩】
(未推敲)
 旧友が急死した。猛暑がつづいたあとに訪れたぐっと冷えこんだ日のことだった。
 朋輩(ほうばい)たち三人で通夜に行ってきた。彼女らと顔を合わせるのは久方ぶりのことだ。大学を卒業してから三人揃うのは初めてかもしれない。
 翌日の葬式にも参列するつもりで集まったので、その日はみな同じホテルに宿泊した。一人で過ごすのも寂しいので、ひとつの部屋に集まり、夜通し語り明かすことにした。
 最初は思い出を話し合って明るい雰囲気だったのだが、通夜にて旧友の死因を聞かされなかったことから、おそらく自殺なのだろう、とみな薄々察してはいた。
 二十代での死だ。夭逝と言っていい。早すぎる死はただそれだけでみな落ちこむ。
「なんでなんだろ」
 わたしがそう口にしたとき、目のまえを、白くぼんやりとしたものが通った。
 わたしはぽかんとしながらそれを眺め、素早く瞬きをしたが、それはスーと透明なベルトコンベアを流れるようにわたしたちのあいだを横切った。
 焚き火を囲うようなかっこうで、三人向き合って座っていた。
「いまなんか通ったんだけど」わたしはもちろん幻覚だと思った。じぶんだけに見えた目の錯覚に違いないと、自ずから結論していたのだが、朋輩の一人が、うちも見たんだけど、と目を丸くした。
 もう一人の朋輩まで、「いまの見間違いじゃないの」と言いだしたものだから、わたしたちは呆気にとられた。
 おそろしくはなかった。
 丸くて白いモヤのようなものだ。兎の尻尾に似ている。慄き怯えるようなものではない。
「そっか。きっと最後の別れを言いに来てくれたんだね」
 わたしはしんみりと、それの消えた方向を見た。それから二人に、ここをこう通っていったよね、といま見た光景を再現してみせた。
 一人は、そうそう丸っこくて白いの、と頷いたが、もう一人は、「えーなにそれ」と蚊帳の外に置かれた子どものように、窓のそとのじゃなくて、と言った。
「窓のそと?」
「いまだって、そこに誰か立ってたじゃん」
 窓を見遣る。驟雨がしとしとと舞っている。
「いやいや」わたしが首を振り、もう一人のわたしと同じ白いモヤを見た朋輩は、だって、と告げる。「ここ十四階じゃん」
 ベランダはない。
 窓の外に誰かが立てるはずがない。
「じゃあ、見間違いかも」
 あっけらかんと友人は述べたが、わたしはもう一人の朋輩と肩を寄せ合い、しきりに立ちたがる鳥肌をさすり合った。
 翌日の葬式でも、旧友の死因は明らかにされなかった。わたしは帰宅すると、生まれて初めて玄関口に盛り塩を置いた。


3153:【2021/08/15*再読】
いまは個人的な再読ブームです。むかし読んだことのある本を読み直しているところなのですが、おもしろーい。いくひしさんは記憶力がナッシングなので、再読でも初めて読んでいるみたいにドキドキわくわくして読めちゃいます。去年読んだ本ですらすでに、内容が曖昧モコモコとメェメェさんで、それでもどことなくすらすらスリランカにぱらりんちょと読めてしまう感じがして、初めて読んだときよりも噛み砕きながら読めているのかもしれず、ぱらもるぱらもる気分がよいです。ご本さんと初めましてのときは、文章の一文一文が、大きな岩めいていて、大雑把にでもよいから真っ二つに割りながら読み進めていたのが、再読するときにはもう岩は割れておりますから、断面を眺めながら歩を進めたり、ときに破片を手に取ってカナヅチで割って中身に化石が交じっていないかを調べたりしながら読み進められるのかもしれません。より詳細に、記憶と照合しながら、ほかの考え方に照らし合わせながら読み進められているから初めましてのときと同じかそれ以上にわくわくどきどきできるのかなぁ、なんて思います。ですから、読む時間自体はそんなに変わらないみたいです。何かに集中したときほど複数の思考を同時に展開するじゃないですか。そうしたときほど時間が速く過ぎ去って感じられるので、同じ現象が起きているのかもしれません。そういう面では、余計なことを考えながら読んでいるという意味で、初めて読んだときのほうがより読書として純粋であり、文章と誠実に向き合っていると言えるのかもしれません。再読するときは余所見をしながら、なんだったらじぶんの内側のほうに焦点を移し、風景を重ね見るようにして文章を辿るので、より自由な思考――妄想にちかいという点で、再読したときのほうが愉快に感じるのかもしれませんね。(余裕ができたということです)(そうなのか?)(また口からデタラメを並べてしまいました。定かではありませんので、真に受けないように注意してください)


3154:【2021/08/15*やまびこは参る】
(未推敲)
 声は四方八方から聞こえた。部屋を駆け回る子どもの気配がある。闇に紛れ、姿は見えない。
 閃光が走る。雷鳴が振動となって身体の芯ごと揺さぶる。
 屋根に打ちつける豪雨の合間を縫って、
 もーいーかーい。
 子どもの声が聞こえる。
 まただ。
 別の方向から、しかも同じ声が響くのだ。
 ソファのうえで縮こまり、ミヨコは、目を閉じたまま何度も謝罪の言葉を反復する。それしかできることがなかった。
 膝ごと、白い玉を抱きしめる。
 お返しします。お返しします。
 念じながらミヨコは、四日前を思いだしている。
 その日、ミヨコは兄に連れだされて、別荘地のコテージにやってきていた。兄の会社の後輩たちが同伴しており、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426448999246)


3155:【2021/08/16*岩肌に水】
旅行でもそうだと思うのだが、何か新しい刺激に触れた際に、フックとなる疑問がなければ、刺激は立て板に流す水のように内側をただ流れて終わる。流れる過程で、身体の内部の精神の淀みのようなものを洗い流してくれる効能があるにせよ、刺激を情報として掬いあげるにはまず、フックとなる疑問があったほうが好ましい。疑問は、前提知識によって生みだされる。知識がただあるだけではなく、じぶんなりに地図を築こうとしたときに生じる、予期せぬ欠落の発見が、疑問となる。どれくらい緻密な地図を築こうとするのかによって、疑問の深度や規模が決まってくる。緻密だろうと大雑把だろうと、疑問にはそれぞれに見合ったピースがある。ピースを見つけて、そのうちのどれが地図上の欠落に合致するのかを試行錯誤する過程が一つの大きな収穫だ。それそのものが思考の土壌として、内側の世界を豊かにする。これは旅行に限らず、読書にも言えることだ。いかに多くの本を読むのかよりも、どんな疑問を編みだし、それを埋めようとしていくのかのほうが、読書から得られる体験の質に影響すると言えそうだ。繰り返しになるが、刺激を情報として扱うにはまずフックがいる。フックとは疑問だ。刺激を得たからこそ生じる疑問もあるだろうし、元から内側に芽生えていたオウトツのごとく隆起した疑問もあるだろう。地図を築こうとして目についた欠落こそが、そうしたオウトツを構築している。世界を内側から眺めるときには欠落であったはずの、その窪みが、世界の側から内側を覗くときには、起伏として――フックとして機能する。場合によっては、内側に育つ木々の根がそこに巡ることもあるはずだ。在るがままに刺激の流れに身を委ねることもときには有効だが、それだけでは刺激は情報として扱えない。情報は、組み合わせ、地図を築こうとすることで十全にその機能をまっとうする。刺激に触れることにばかり傾倒していると、内側がどんどん希薄になってしまう副作用も表れよう。激しい流れにも削り取られぬことのない種々雑多な疑問をそろえ、窪みを起伏とする。ときにそこに大樹の種を撒き、根を張らせ、刺激を養分として吸いあげ、葉を茂らせる。大樹をひとつ育てあげれば、そこにもまた種子が実り、数多の窪みに、新たな芽が根づくだろう。滂沱の刺激に身を浸すことも一つだが、並行して、疑問を取りそろえるべく、岩のうえに寝そべり、日向ぼっこをしながら夢想することも、地図を描くという意味では、有効なのではないだろうか。(定かではありません)


3156:【2021/08/16*サイレンの音はまだやまない】
(未推敲)
 友人の様子が妙だ、と気づいたのは、彼が部屋に引きこもってからしばらくしてからのことで、わたしが彼の部屋を訪れた三回目のことだった。
 友人とは大学で出会い、研究課題が似通っていたことから縁を繋いだ。以降、私が大学を卒業してからも彼との交流はつづいていたのだが、院へと進んだ彼はことしになってから急に休学をし、部屋から一歩もそとに出なくなった。
 思うところがあったのだろう、と思い、電波越しにテキストメッセージを飛ばして、しばらく様子を見ていた。そっとしておいたほうがよいように思ったのだ。
 食事はどうしているのだ、と訊いてみたところ、引きこもる前に缶詰を大量に購入しておいた、との返事があったので、食事はちゃんとしろ、と一度目の訪問を決めた。
 会ってみると比較的元気そうだった。部屋もきれいに片付いており、かといって身辺整理をしたといった様子もなく、すこしほっとしたのを覚えている。
「元気か。ほいこれお見舞い」
「病気じゃないんだが」
「病気になってからじゃ遅いだろ。前祝いみたいなもんだ」
「なんだそりゃ」
 引きこもっていても食料の配達はしてもらえる。やり方を教えるが、どうも気乗りしないようだった。
「貯蓄はあるのか」大事な事項に気づき、訊いた。
「まだだいじょうだが、かといっていつまでもこうしていられるほどではないよ」
「底を突いたらどうするつもりだ」
「どうするも、こうするも、どうにかお金を稼がなきゃならんだろう」
 正気を失ってはいないようだった。はたまた、正気を失っていないからこそ部屋に引きこもってしまったのかも分からない。
 私とて、ふと我に返る瞬間がある。現代社会にとっぷりと浸った自身の行動原理が、ひどく機械じみていて、動物の習性じみていて、自我なるものが失われている気分になるのだ。
 正気でいたらたしかにこんな生活は送っていないだろう。そう思うことがあるのも事実だった。
 友人との会話は、そうした自分の狂気を再認識する契機でもあった。むかしからそうだった。ゆえに彼とはこうして縁を繋ぎとめていられるのかもしれない。
 彼には、私の失った何かがいつも漲って感じられた。
 二度目に部屋を訪れたのはそれからひと月後のことだ。世間では通り魔殺人やら、他国の政権崩壊やら、物騒な話題がつづいている。
「その点、ここは変わらずで落ち着くよ」本心から言った。
「世間と切り離された異次元ってことかな。でもずっといるとさすがに僕でも気が滅入る」
「寂しくないのか」
「寂しい、のかな。寂しいと思うこともあるよ。でも、さいきん子猫を飼いはじめたから」
「子猫?」部屋を見渡すが、動く物体はない。餌置きもなければ、ゲージもなく、猫特有の匂いもない。
 からかわれたか、と思ったが、かつて一度もそういった類の冗談を友人からは聞いたことがなかったので、「野良猫ってことか?」と発想を飛躍させてみた。「私は猫アレルギーだから勘弁してくれよ」
「いや、違くてね。物理的には存在しないらしくて」
「ん。存在しないって、じゃあ仮想現実とかそういうのか」情報で編まれた電子世界上の猫か、と合点する。そういったゲームをはじめたのかもしれない。
「そうではないんだ」友人は床に目を落とすと、何もない宙を撫でた。「僕にしか見えない猫なんだ」
「イマジナリーフレンドならぬ、イマジナリーネコか」
 たしか、と連想する。大戦時、収容所に監禁された捕虜たちが、想像上の少女をみなで世話をし、なんとか希望を捨てずに、劣悪な環境を生き抜いた。そういった逸話を聞いた覚えがあった。
「どうなんだろうね。僕にはこのコが本当にいるように見えるし、感じるのだけれど、餌は食べないし、糞もしない。じつは前にきみがきたときもいたのだけれど、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426464195281)


3157:【2021/08/17*いまさらですけどすごくないですか?】
実験や検証という段取りを省いて、理屈と結果だけを学べるいわゆる教科書や専門書の類は、本来ならばかかるはずのコストを体感として知っている者ほど、その価値を高く見積もれる傾向にあると想像できる。あまりに安価に手に入るので、いくひしさん自身、本の真価を未だに正確に計れていないし、実際、十数年前までは、本なんかこの世になくとも構わない、じぶんにとっては些末も同然の代物であった。だが日に日に、本当に毎日のように、本の価値の底知れなさを実感する。本の、とは言ったが、その中身をつむぐために費やした著者の人生そのものから、著者に蓄積された思考形態に価値を見出した者たちの審美眼から、書物を編むための仕組み、それらを流通させるための構造や、それらを未だに求める者たちの飽くなき好奇心には、やはり想像しきれぬ底知れなさを感じずにはいられない。書物の歴史にしてもそうだ。いまはまだ想像することしかできないが、その歴史を辿るだけでも、極上の物語を味わえると予感できる。いまさらなんですけど、本、すごくないですか?(入り口を覗いた程度のいくひしさんですらこう感じるのだから、ずっぽり足を踏み入れて、身を浸している者たちの感慨ときたら、ただそれだけで人生が楽しいだろうなぁ、とうらやましく思ってしまうな。はやくいくひしさんもその境地に立ってみたいです)


3158:【2021/08/17*ハラスハウス】
(未推敲)
「さいきん、ようやくパワハラとかセクハラが問題視されてきたでしょう。本当にやっとうちの会社でもそういうのの社内啓蒙とか教育とか、本腰あげて対策とりはじめてくれてね」
「よかったですね」
「でもまだモラハラとかは全然だよ。子どもの嫌がらせみたいなことみんな普通にするし」
「それはつらいですね」
「その点、きみはいいね。じぶん一人だけで完結して仕事できて」
「そう、ですかねぇ」
 あはは、と愛想笑いする。もちろん僕だって取引先とのやり取りでは立場が下だし、相応に嫌な思いはしているのだが、原須さんにそう言われるということは、僕自身が周囲にそう感じさせない態度を保っていることの証とも言えるので、そうわるい気はしなかった。
「そう言えば、前に原須(ハラス)さんに言われて調べてみたいんですよね。モラハラって何だろうって思って。そしたらけっこう僕もじぶんの身内にしちゃいがちで、反省しました。早めに気づけてよかったです」
「おう、そうなのな。機嫌わるいときに話しかけられるとついつい無視しちゃったり、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426497400770)


3159:【2021/08/18*偶然の出会いを】
出版社の役割にはいろいろとあり、一概にどうこう言えるものではなく、時代によってその内容は変化していくものだという前提のうえで所感を述べるが、出版社のいま最も達成すべき仕事は、出版した本を、それを本当に必要としている者の手に渡るように仕組みを築いていくことだと思っている。これまでの社会ではそのための最も効率のよい手法が、できるだけ多くの不特定多数に本を売ることだった。だが大量生産大量消費の時代は過去のものとなりつつある。否、その流れは舞台をインターネット上に移し、かつてないほどに奔騰を極めている。商品やサービスが情報となって大量にコピーされ、氾濫し、蓄積されつづけている。物理本でそうした手法を行うのは社会にとっても企業にとっても負担でしかない。となれば、これまでのような、より多くの人々に本を売りつける手法以外の方法論を考えていくほうが合理的と言える。たとえば、ピンポイントでその本を必要としている者の手に渡るように導線を繋ぐ仕組みが考えられる。大量に本を売ればいい、という考え方から脱しなければ、そうした工夫をとろうともしないだろう。考え方を根本的に変えていく必要がある。否、元来の目的を思いだし、考えなしの「ヒットを飛ばせ」「いっぱい売り上げを伸ばせ」の方針から脱却していくことこそがこれからはますます求められていくはずだ。仮に、任意の本を出版したとして、全世界に百人しかそれを必要としている読者がいなかったとしたら、その百人がずばりその本を手に取ることのできる環境を築いていくことが出版社の役割となる。だがここで浮上する無視できない問題の一つに、読者が必ずしもじぶんにとって本当に必要な本がどんな本かを想定できているわけではない、自覚できているわけではない点が挙げられる。本には、偶然の出会いによってその人の生き方そのものを変えてしまう魔力が備わっている。それを魅力と言い換えてもよいが、いずれにせよ、必ずしも本を必要としている者が、意識的に本を求めているとは限らない。往々にして、じぶんにとって必要な本がなんなのかを理解していない。それが本であることにすら気づいていない場合もすくなくないだろう。これは誰であってもそうなのだ。だからこそ、これからの情報社会では、ビッグデータ解析によって、個々人の潜在意識を分析し、こうした人にはこうした本が合うだろう、といったピンポイントでの紹介が有効になってくる。現在であっても、インターネット上の検索エンジンを通して、そうした潜在需要者に任意の広告を偏向して見せる手法が際立ってきてはいるが、それは飽くまで表層の情報でしかなく、エコーチェンバー現象や洗脳との区別をつけにくい。本の効能の一つには、欠落を埋めることが挙げられる。死角を自覚することにこそ読書の醍醐味があり、本人の無意識を拡張し、ときに無意識を意識の壇上にまで昇華することが注目すべき効能の一つに数えられる。とするならば、本人が内面に築いた人生の地図を拡張し、欠落を補完するような、「本人がいちど好悪の判子を捺した情報以外の情報」を扱い、感受させてくれる本こそが、読者にとって本当に必要な本と言えるはずだ(むろん、必要かどうかは、本人が決めることであり、結果論でしか確かめようがないが、漠然と売れている本を万人に薦めるのではなく、漫然と古典を紹介するのでもなく、こういった嗜好の変化を伴なった人物ならば、この本が合うのではないか、或いはこういった本とは相性がわるいのではないか、といった傾向は、ビッグデータによって抽出可能なはずだ。そしてそれは、偶然の出会いを、より好ましい出会いへと変える確率を高めるはずだ。インターネット上では書店よりも多くの書籍と出会える可能性に満ちているが、現状、その可能性は、未だ野ざらしの仕組みによって、妨げられている)。単に個人の地図を補強し、欠落を補完するだけではなく、その後に、どんな地図を築いていきたいのかの指針をより柔軟に、緻密に、精度高くつくりあげる触媒として、本は人間の可能性を飛躍的に高めるし、出会う本によっては、可能性を制限する桎梏ともなるだろう。当人に、いったいどんな水をそそげば、美しい花が咲くか。これはビッグデータからある程度抽出可能であり、曖昧さを残した選書には、無数の可能性を剪定し、読者の自由意思をより尊重した形で、より多種多様な本との出会いを促せるはずだ(ある種、その人のためだけの書店をインターネット上に自動で築きあげてくれる仕組みと言えるかもしれません。気になった人の書店を覗くことで、書店がその都度カスタマイズされ、拡張されていく機能が付与されてもいいでしょう)。司書や書評家の役割を担うようなシステムの構築が、いまこそ求められている(このシステムを築き、機能させ、維持するためには、いま以上に司書や書評家の存在が――協力が――欠かせない)。それは、大ヒットを飛ばせ目指せや、の視野の狭い考え方からの脱却なしには成し得ない。本は、たくさん売れなくともいい(もちろんたくさん売れてもいいが)。本当に必要としている者の手に渡れば、それでいいのだ。世界でたった一人しか読者がいないのならば、その読者に届くように出版社は戦略や仕組みを整える。本来の出版とは、そうした理想の元に築かれてきたのではないのだろうか。(妄想ゆえ、定かではありません)(異論はあるでしょうし、いくひしさん自身も、これが唯一解だとは思ってはいませんが、これからの社会の変容具合を想像してみるに、そうそう的を外した方向性ではないようにも思えます)(あなたはどう思われるでしょう)(或いは、どんな社会の到来を望んでいらっしゃるのでしょう。気になります)


3160:【2021/08/19*映りこむ者】
(未推敲)
 部屋に引きこもりながらでも仕事ができるようになったので、通勤の分の時間が浮いた。
 何か趣味でも嗜もうと思い、動画を投稿しはじめたのだが、半年経っても未だに登録者数は一桁台で、視聴回数も伸び悩んでいる。
 動画の内容がおもしろくないのだろう。それはそうだ。近所の公園やデパートの屋上など、身近な場所の景色を背景に、逆立ちをしているだけなのだ。パフォーマンスと呼ぶにも芸がない。
 だが継続は力なりだ。当初は一秒も保たなかったのが、いまでは三十秒ほど倒立を維持できる。
 最終的には片手倒立でもできるようになれたらうれしいが、あと何十年かかるだろう。どの道ほかにしたいこともない。気長につづけてみることにする。
 ところがある日、急に動画の視聴回数が跳ねた。それもすべての動画が一様に増えていた。
 だが評価は低い。
 否、半々といった具合で、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426528286831)



※日々、人間でいられるのは五分くらい、あとはだいたいケダモノにちかい、人間に寄るか人間から遠ざかるかの違いがあるばかり、理性も論理も使えたためしがあったろうか。


3161:【2021/08/19*なんもしてないのに陽が沈む!】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、怠けすぎてて、もうもうひらきなおってしまったでござる。ことしはもう英気をやしない、叡智をつちかい、えっちらほっちら、えいえいおー、でござるよ。いっそ来年もこのまま怠けてだらりんちょして、再来年からホンキをだすでござる。でもでもいくひしさんがホンキをだしちゃうときっととんでもないことになってしまうでござるから、困ってしまうひとがたくさんでてきちゃうし、地球規模で、宇宙規模のたいへんなことになってしまうでござるから、みなの者の平和のためにいくひしさんはきょうも怠けるんでござるよ。うへ。ぐてんぐてんの、だふんだふん、でござるよ。みなの者のために怠けるなんてえらいでござる。褒めるがよいでござる。非難轟々のあめあられ、あっという間にハチさんの巣でござる。なんでー、でござる。やっぱり褒めなくていいでござる。ずっと、えんえん、永久に、万年、やすらかに怠けるので、こっそり怠けるので、責めるのはやめてほしいござる。もっとなごやかーに、やっさしーく、ほわほわしててくださいでござる。いくひしさんを見習って、ほわほわーってするでござる。怠けるとかってに、ほわほわーってなるでござるよ。その代わりに人生さんがなぜか厳しく当たり散らして、未来さんがなんでかいくひしさんに塩対応でござるけれども、それもまたよしでござる。いくひしさんは天性の怠け者でござるから、達人でござるから、やっぱりときどきは怠けるのですら怠けてしまうでござって、ときどきはツンツントゲトゲするでござるけれども、とーたるではほわほわしていたいでござる。そうなんでござる。願望でござるよ。うは。ほわほわしてたいなぁ、の思いはひといちばい、他力本願の権化こと、本日のぐーたらほっぺんぴー、いくひしまんでした、でござるー。


3162:【2021/08/19*一番は最後】
(未推敲)
 例の世界的災害の影響で、今年の同窓会は画面越しでの催しとなった。参加人数もすくなく、最後のほうはみなそれぞれにグループに分かれた。
 遠隔での歓談はじかに会うよりも緊張しない。声だけで参加している者もあり、日陰者の僕であってもそれなりに楽しめた。
 誰が言いだしたのか、過去に学校で起きた事件の話になった。どこにでもある話と言えばそうなのかもしれないが、いじめられていた子が自殺したのだ。しかしその子をいじめ、死に追いやった子たちはお咎めなしだった。卒業するまでクラスの中心的存在のまま我が物顔に振る舞っていた。
 同窓会に彼らいじめっ子たちの姿はなかった。
 いま何をしているのか、とそういった話になったときに、死んだよ、と誰かが言った。
「死んだって、何で」
「さあ」
「え、いま誰言ったの」
「わたしじゃないよ」「私でもないよ」「おれも違う」「なんか子どもの声っぽくなかった?」
 みな無言になった。
「ワタシ、駅前で見たことあるよ」クラスの委員長だったコがおずおずと切りだした。「高校生くらいのときかな。なんか足引きずってた」
 あたしもそれ見たかも、とほかのコが言った。「大学生くらいのとき、あれってひょっとしてって思ったけど、やっぱり彼だったんだ」
「怪我したのかな」「どうだろね」「病気だったらしいよ」
 誰が言うともなく、みな各々に発言し、断片的な情報が持ち寄られた。
 僕は一言も発しなかった。会話に参加せずに、話だけを聞いていた。
 言ってよいものか逡巡していた。
 じつは僕も以前、見かけたことがあった。あれはたしかに、死んだ子をいじめていた主犯の男だった。何かに躓くように、幾度もよろけては、歩きづらそうにしていた。
 でもたぶんあれは、病気でも、怪我でもない。
 彼の足首には、誰のものとも知れぬちいさな手がしがみついていた。
 あたかも沼に引きずり込もうとするかのように、両の手で、がっしりと足首を掴んでいたのだが、彼がそれに気づいていた様子はなく、ただただ片足を引きずって歩いていた。
「ほかのいじめてた子たちってどうしてるんだろうね」
 いかにも心配そうにクラス委員長だったコが口にしたが、僕は、彼女の首にゆびを食いこませるちいさな手の存在に言及すべきか、やはり躊躇した。


3163:【2021/08/20*万年からっぽじゃおばけ】
もうだめだぁ。なんも思いつかーん。どっかで見たことあるような、ありきたりなネタに描写に物の語りしか思いつかん。搾りかすしかなくなってしもたんじゃ。こんなことなら何も並べないほうがマシじゃ、とはならんところがいくひしさんのふしぎなところ。どっかで見たことあったって、ありきたりだって、同じようなネタに描写に物の語りであったって、べつにそれでもいいじゃん、いいじゃん、楽しいじゃん。やったー、やっほーい、みたいな楽しさではないけれども、なかなかでてこないカラカラカチカチ搾りかすだろうとも、ふんぎゃーと踏ん張りながら捻りだせたら、そこそこまあまあヨチヨチ程度には爽快な心地にはなれるのじゃ。ださないよりかはだしたほうがいい。なんの話じゃ。けっきょくのところ、溜まっておるのだね。なんもなーい、と思いつつも、生きているだけで人はかってにいろいろなものを溜めて生きておるから、それをぐしゃぐしゃのままでも、こねこねしたおだんごでも、びしゃーでも、めりめりでも、かちんこちんでも、ぷしゃーでも、なんでもよいのでだせるならだしといたほうが、なんとなーく、身体にちょっとはよさげじゃない。そうでもないならそれもよしじゃが、いくひしさんは万年おなかぽっこりちゃんでごじゃるので、できればふぬふぬと捻りだせたらだしときたいよ。なんもなけりゃないで、なんもないことの苦しみでも、不満でも、じつはなんもないから気が楽だって思っちゃうことも、全部ひっくるめて並べちゃえばいいのだね。毎日毎日なんもなーい、と叫ぶだけでもよいのだね。そのうち叫べる日々のありがたさに思い至ることもあるだろうし、そのままなんもないことに苦しみつづけることもあるだろうし、何がどう変化しようとも、溜まるものは溜まるわけで、だせるときにだしといたほうがいい。だしたくなけりゃださんくともそれはそれで一つの、うんとこしょどっこいしょ、ではあるけれども、いくひしさんはなんもないことですら、なんもないんじゃい、と何かこう、言葉に押し込めて、口を縛って、密閉しちゃって、そこはかとなくそれっぽいカタチに錬成して、なかなか思うようにそのままのカタチでだしてくれない狭い狭い穴を通じて、ぽこぽこと千切れつつも、ひねくりだしていけたらよいのになぁ、と思わないわけではないのだね。ない者はないなりに、ないことをないままに、ないことを以って、あるをひねりだすしかないのかなって。きょうもきょうとて並べることがなかったので、いつものように、あってもなくとも構わない、どちらかと言えばないほうがよいかもしれない、つれづれの言葉たちを、じぶんのものですらない文字の判子を、こうしてずらべらと、うんとこどっこいしょ、とひねくりだしては、並べて、置いて、繋ぎ合わせて、それっぽい文の連なりになってしまう奇跡に思いを馳せて、本日の「いくひ誌。」にしちゃってもいいだろか(いいよ、いいよ許しちゃう)(やったぜ)。


3164:【2021/08/20*ぎょろり、ぷつり】
(未推敲)
 皿の下から目玉が覗いていた。光彩が萎んだり、広がったりを繰り返す。そういうカタチの虫かと思ったが、皿を持ち上げてみるとそこには紛うことなき目玉があった。
 眼球だ。
 視神経が瞳の裏側のほうから細長く伸びている。輪郭だけを見れば太っちょのオタマジャクシに見えなくもない。
 気持ちわるかったので、ティシューで包んで、ゴミ箱に投じた。
 しかしその日を境に、目玉は部屋の至るところに出現した。たいがいは隙間に潜んでおり、ゆびでつまみだそうとすると、奥に引っこむ。水草に隠れる小魚じみている。
 一つ二つならばまだしも、日に日にその数を増していく。繁殖しているのだ。
 家の中で飽き足らず、外でも見かけるようになり、さすがに放置しておけなくなった。
 ほかの誰も目玉の存在には気づいていないようだ。ゆびでつまんで持ち上げてみせてもよかったが、どう考えても怖がらせるだけだろう。ゴキブリを掴んで、見せつけるようなものだ。
 罠をしかけたくとも、目玉が何を好むのかが分からない。ジャングルに檻だけ放置しても意味がない。
 折衷案として爪楊枝を持ち歩くようにした。
 目玉を見掛けるたびに、それの表面を爪楊枝で刺した。目玉は穴の開いた気球がごとく勢いで、ぷしゅーと萎んだ。あとには萎れた朝顔のような皺くちゃの膜が残った。思っていたよりも呆気ない。
 退治できると判ってからは、手当たり次第に、容赦なく爪楊枝をそれの中心に突き立てた。
 慣れてくるとこれが快感だ。
 プツッと一瞬の手応えのあとに、シュン、と刹那に力尽き、弛むそれの変化の起伏は、見る者の心に上向きの感情を喚起する。それはたとえば、熱したフライパンに垂らした一滴の水であり、油汚れに垂らした一滴の洗剤である。
 シャボン玉をゆびで割ってはしゃぐ幼子のごとく心境で、つぎつぎに家の中の目玉を爪楊枝で刺し、即座に消沈する目玉のはかなさに、胸の内をゆびでなぞられる昂揚を覚えた。
 くすぐったくも、心地よい。
 もっともっと、と隙間という隙間を覗いて歩き、つぎつぎに目玉から厚みを奪った。
 どれくらい夢中になっていただろう。一時間か、二時間か。
 本棚から本をあらかたひっくり返しても、もはや目玉は見つからない。
 ふと鏡が目に入る。
 なんだ、こんなところにあったじゃないか。
 鏡を壁から取り外す。
 覗きこみながら、鏡面に爪楊枝の先っぽを向けるが、途中でこれでは意味がないと気づく。矛先を変える。
 爪楊枝をつまむじぶんの手が間近に迫る。
 目の表面に点が触れる。
 弾力がある。
 ぐっと力をこめると、ぷつりと、膜の破れる音がする。
 一息に爪楊枝を押しこむ。
 痛みが襲うが、それよりも爽快感が上回る。
 脂汗が全身から滝のように噴きでる。
 痛みが鼓動と同期する。
 荒い呼吸の合間、合間に、よろこびが湧きあがる。
 うれしい。
 目玉はまだ、あと一つある。


3165:【2021/08/21*わいを崇めろ!】
誰かに憧れる経験が思えば幼いころから多かった気がする。憧れる、を、学習モデルとして抜擢する、と言い換えてもよい。だがそうした人物を見繕ったところで、いずれその人物の方法論では突破できない目標ができるため、学習モデルはその都度、変化していく。そのうち、誰を参考にしたところで手掛かりの掴めない疑問や目標がでてきてしまえば、あとはもうとことん自力で学んでいくしかないのだ。それこそ師は、そこかしこに存在する。学ぶべき存在は、自然を形成する要素の数だけある。人物である必要がそもそもない。同じ人間であれば、表層的な模倣を行えば、相応に似ることができる。赤子が、親の会話や仕草から言葉やコミュニケーション術をしぜんと体得することと原理上同じだ。だがどんな分野に属していようと、それだけでは突破できない難問にいずれはぶつかることとなる。誰もそれを突破していないのかについては、じぶんが知らないだけでほかの誰かが突破していることもあるだろうし、真実未だ誰も到達していない難関に挑んでいることもあるだろう。そこはやはりというべきか、日ごろ周りを見渡して、ときに遠くに視野を移しながら、学ぶべき師がないか、構造を把握し模倣するに値する術がないかを探る姿勢が、前進する可能性を高めるだろう。壁を乗り越え、ときに打ち砕き進む確率をあげるのだ。術を得、道具を揃え、工夫できる余地を広げる、とそれを言い直してもよい(本を読めば、過去の人物たちからも学べるので視野が広がる。考えとしてまとまっている点も、利便性がある)。しかしというべきか、だからこそ、というべきか、憧れは必ずしも人を前進させるばかりではない。進歩を妨げる枷にもなり得る。一定以上の値までの技術習得を加速させる働きがあるにせよ、そのさきへ進むためには、憧れはむしろ足を引っ張る桎梏となり得る(完璧な人間というものが存在しない以上、これはいまのところ汎用性のある法則と言ってもよさそうだ。憧れが、じぶんよりも優れていると評価した相手に抱く感情である限り、例外はないと言える)。これは裏から言えば、誰かに憧れられる存在になりたい、との欲求は、誰かの進歩を妨げたい、との欲求に繋がり得る危険をつねに孕んでいるとも言える。何かに憧れるのは当人の自由だ。だが、憧れられるようになりたい、との思いは、いささか傲慢と言えよう。虫や植物は、人間にそう呼ばれたいなどとは思ってはいない。山や海、風や火をその名で呼ぶのは、そう呼ぶ人間がいるからであって、自然現象がそう呼んで欲しいと希求したわけではない。師にしたところで同じだろう。師とは仰ぐものであり、仰がれることを求めたから師となるわけではない。では、神はどうだろう。世の中には、神と呼べ、神として敬い、崇めたてまつれ、と要求する人間が多々見られないだろうか(そう、たとえばいくひしさんのように)。神を、親や上司・先輩や先人と言い換えてもこの疑念は成立しよう。じぶんよりも未熟な相手に要求しなければならない時点で、その程度の器だと言える。真実に立場がうえであり、力量があるならば、要求される存在になっているはずだ。そうではないのだから、その程度の器なのだ。だが、それの何がわるいだろう。その程度の器でよいではないか。なぜそれ以上を無理に望んでしまうのか。のみならず相手にそれを強いるのか。未熟なままに、未熟を噛みしめ、歩めばいい。誰かから憧れられるような存在になりたいと思うから、じぶんの器の大きさを錯誤するのだ。誰かの進歩を妨げてまで、自らの器を大きく見せようとする。人間は神ではない。ただの人間だ。ときどき偉大に見えることもあるが、やはりだたの人間なのだ。わざわざ自分の未熟さを差し置いて、人のうえに立ちたがることもなかろう。他者を師と仰ぎ、自然に学び、神を敬えばいい。神はどこにでもいる。そこにも、ここにも、あなたのなかにも、ほんのときどき私のなかにも。ゆえに或いは、神などどこにもおらず、ゆえにどこにでもいるのかもしれない。すくなくとも神は、神と呼べと他者に要求したりはしない。強要したりしない。望まない。我々人間が、何かを目にし、神のようだ、と錯誤する瞬間瞬間があるばかりである。私が、あなたが、私たちが、その都度、そこにいるばかりなのである。(――と、人間にもなりきれぬ哀れでかわいい我がままちゃんこと、本日のいくひしさんがそうのたまいておったそうな)


3166:【2021/08/21*毒を盛る人】
(未推敲)
 幼いころから病気がちだった。一年に三回は必ず一週間は寝込むような風邪をひき、お医者さまのお世話になった。
 体調を崩すと、母は毎度のように、これをお食べ、と言って得体の知れない黒い塊を口のなかに放り入れた。
 鼻が詰まっていて味がどんななのかは分からない。
 弾力があり、ひと齧りするとじんわりと口内に独特の風味が広がった。
 それを齧ると、すこしだけ元気がでた気がしたけれど、いま思えば気のせいかもしれない。
 中学生になったときに、私は母がそれをこっそり桐箱に詰めて冷蔵庫の奥の隠していたのを発見した。秘薬かもしれない。
 それとなく、何が入っているのかを訊ねたが、内緒、とはぐらかされた。食べてみてもいいか、とおねだりをしたが、病気のときにね、とやはりお茶を濁された。
 母はそれをじぶんでこしらせていたようだ。真実に効果があるのかは定かではない。
 だが私はあるとき、可愛がっていた年下のマユカが病気で臥せっていたので、それを食べさせた。病院に連れていければよかったのだが、そこまでではないと母に言われて、それでも苦しそうなマユカを見ていられずに、何かしてあげたくなったのだ。
 呼吸の荒いマユカのつらそうな寝顔は、まさに病気でまいっているときの私自身を見ているようだった。
 冷蔵庫の奥のほうから桐箱を引っ張りだし、中から黒い塊をゆびでつまんで、マユカに食べさせた。
 マユカの寝顔は安らかになった。
 それっきりマユカは目覚めなかった。
 私は恐怖した。
 母はなんてものを私に食べさせていたのだろう。マユカの命を奪ってしまった呵責の念に堪えながら、私は母を呪った。
 高校生に長じてからというもの、私の身体も免疫をつけたのか、病に伏せることはなくなった。
 あべこべに母がすっかり弱ってしまったが、私は母の看病をしなかった。家には私のほかに母の面倒を看る者はない。
 マユカの苦しみをあなたも味わうがいい。
 内心で念じながら、私はことさら部活動に精をだした。
 夏休み、私は敢えて家のなかの冷房をすべて切って外出した。母はすでに自力で寝床から立ち上がることもできないほどに弱っていた。
 ファーストフード店にて私は友人に、母への愚痴を漏らした。
「でね、あのひとってば毒みたいなのを食べさせんの。病気の娘にだよ。サイアク」
「ふうん。その黒いのってまだ冷蔵庫にあるの」
「たぶんあるよ」
「じゃあお母さんに食べさせてみたら? 嫌がったら毒決定。そうじゃなかったらあなたの勘違い」
「毒に決まってるよ」
「そうかな」
「じゃなきゃマユカは死んでないし」
 友人は眉をしかめ、じゃあ明日持ってきてみて、と言った。
 言われた通り私はあくる日、冷蔵庫から桐箱ごとそれを持ちだし、部活の練習前に友人に渡した。
「これだよ。間違っても食べないでね」
 友人は桐箱の蓋を開けた。
「ホントだ。黒いね」鼻をひくつかせ、「これってでもあれじゃない」と指を振る。「黒ニンニク」
「え、なにそれ」
「ニンニクを炊飯器とかに入れて熟成させるやつ。普通の健康食品。効果あるのかは知らないけど」
「毒じゃない?」
「毒じゃないよ。人間にはね」そこで友人は中身を一つ摘まみ、いただき、と頬張る。
「うげ。美味しい?」
「うん。ママさん作るの上手だね」はい、と桐箱を返してくれる。「あ、そうそう。いまさらでごめんだけど一ついい?」
「な、なにかな」
「マユカって誰? 妹なんていたっけ?」
「ああ」脱力する。「ペットだよ。猫ちゃん。白くて太っちょの」
 あんぐりと口を開けると友人は、猫にニンニクは毒やよ、と言った。


3167:【2021/08/22*おわってるからおわらん】
きょうで終わらす、きょうで終わらす、と思いながらつくっている短編小説がなかなか終わらなくて、日付けが変わってから、きょうの分のショートショートつくらな……、と気づいて、慌てて何かないか、何かないか、と考えて掌編をつくる日々がつづいているのだが、いまさらながらに何で無理してまで毎日ショートショートつくっているのかわけわからんな。いつの間にか毎日ショートショートつくらなあかんよ、の気分になっているけれども、誰もそんなこと求めてないし、そんなことしてもタメにならないし、惰性でつづけても手抜きが上手くなるだけでいいことなんかないって判っているのに、気づくと、毎日つくらな、の気持ちになっているので、よくないよくないよ、と思う。でも、ショートショートつくりたくなるときはたいがい手こずっている作品が煮詰まっているときで、頭のなかにたくさんのちいさなネタが湧いて、溜まって、邪魔になっているときだから、すっきりしたくてつくりだしてしまう。あとは、脳内が濁る感じがあって、思考を加速させることで体感時間を早めて、たくさん時間が経過しましたよの気分になるために、つくりだしてしまうのもある。ショートショートをつくると、その分時間をワープできる。原稿を半年間寝かすのと、ショートショート十本つくるのはだいたい同じ効果がある気がする。でもいまはもうけっこう前から脳内がすっからかんなのに、無理してショートショートをつくっているから、よくないと思う。ちゃんと煮詰まっている短編、もう十本くらい溜まっているので、それらを閉じてしまいたい。でも、終わりまで分かりきっているから、あとはただ文字を並べるだけで、脳内の映像を写し取るだけなので、つまらないから、どうしても後回しにしたくなってしまう。創作はもう脳内で終わっちゃったので、作業だけが残っている状態だといつもこうなる。創作と作業を同時進行できているときは楽しく、一気呵成に物語を出力できるのだね。たぶん、物語構造が二次元までのやつだと脳内でぱっと終わりまで描けちゃうので、作業だけが残ってしまって、もういいや、となってしまうのかもしれない。物語構造が三次元のやつだと、考えながら、探りながら、展開を無数に重ね合わせて取捨選択しつつ、文字に落とし込めていけるので、負担は大きいけれども、ずっと楽しいの状態で終わりまで一気呵成に終わらせられる気がする。物語構造が一次元や二次元のやつでも、締め切りを一日とか二日に制限すれば、脳内に展開される物語と、出力する作業の速度が釣りあうので、時間を置かずに終わりまで文字にできるのかもしれない。でもこれも負担がかかるので、毎日はできないのだ。とかなんとか、言い訳を並べてしまったけれど、要するに、力量不足であり、飽きてしまっているのだね。惰性でつづけていて、新しいことをしようとしていないからつまらないのだ。ここいらで、えいや、と脱皮するよい機会かもしれない。過去のいくひしさんを脱ぎ捨てて、新しく、また最初から、ゼロから、初めましての気持ちで、赤ちゃんの心地で、ゼロちゃいの境地で、はじめていこうとは思うものの、過去を捨て去るのも、それはそれでむつかしいのよね。三年くらい何もしないでいれば、これまでのいくひしさんを忘却できるかもしれないけれども、それを待つのももどかしいので、ワープするつもりもかねて、やっぱりショートショートを五百本くらいつくるっきゃないのかな、と思わないではないのよね。まずはこんな駄文を並べずに、物語をつむぎましょうよ。いいですね、いくひしさん。きょうのいくひしさんからのアドバイス、でした。


3168:【2021/08/22*呼ぶ者】
(未推敲)
 連絡帳に知らない名前が登録されていた。
 メディア端末を買い替えたばかりだ。データは移行済みゆえ、元の端末に登録されていたもののはずだ。
 いったい誰だろう。
 着信があったので気づいたわけだが、相手が誰かが分からずに無視してしまった。
 とはいえ、私は元から電話にはでないし、テキストメッセージのやりとりも基本は読みっぱなしで、返信をしない。
 よほど大事な連絡であれば別だが、そうでない雑談程度ならば既読無視する。だから誰も私に連絡をとらなくなった。
 こうして着信があったのも久々だ。
 誰だろう、とやはり気になる。
 だが真実に必要に迫られた連絡ならば留守電を残すだろうし、そうでなくともテキストメッセージで改めて連絡し直すはずだ。
 しばし待ったが音沙汰がなく、けっきょく日々の作業に追われて、憶えのない登録者情報のことは記憶の底に沈んでしまった。
 だが月に一度くらいの頻度で、その謎の人物から着信があった。いつもタイミングわるく履歴を見て気づく。やはり私は折り返し連絡をとることをせず、誰やねん、の気持ちで無駄に苛立ちを募らせた。
 いっそ着信拒否をするか、登録情報から削除してもよかったが、見知らぬ人物を登録したとは思えず、誰かしら大事な人だった気もする手前、やはり気になり無駄に気がそぞろ立った。
 連日、夕立の降りすさんだ夏のことだ。
 祖母が亡くなった、と連絡が入った。母からだ。通夜の予定などまた連絡する、と言われた。
 仕事をしつつ待機していると、着信があったので名前を確認もせずにすぐに出た。
 無言だったので、おかしいなと思い、画面を確認すると、例の、あの、登録した覚えのない名前が表示されていた。
 ジジジ、と通信に特有の雑音が静寂となって耳に響く。
 しばらく耳を欹て、相手の反応を待っていると、雑音の奥から響くように、おーい、おーい、と聞こえた。
 こっちゃこーい、こっちゃこーい。
 誰かが呼んでいる。まるで遠くから手を振ってでもいそうな声の響きだった。
 ふとむかしの記憶がよみがえる。幼き日ころ、河原で遊んでいた私を祖母が叱った。私はわんわん泣いた。なぜ怒られたのかが分からなかったのだ。
 だがいま、記憶のなかの私は、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426606192179)


3169:【2021/08/23*売れないものを売ろうとしているのが問題】
需要のない商品ほど、売れた数を誇りやすいのかな、という気がしないではない。たとえば売れたお米の数とか、飲まれた水道水の量とか、使用されたゴミ袋の数とか、トイレットペーパーもそうだし歯ブラシもそうだ。そういった日常必需品ほど、売れ行きを宣伝に利用したりはしない。そもそも売れて当たり前だからだ。つまり、売れ行きを宣伝に使う商品ほど、世の中にとっての需要がない商品であり、もうすこし厳しいことを言ってしまうと、無理やりにでも売らなくては売れない商品である傾向にあると言えよう。そもそも商品価値がないものを商品として売ろうとするから、何本売れました、といった宣伝の仕方をするのだ。いまはみなさんこれをご購入していますよ、あなたは買わなくていいんですか、と言外に脅しているのである。そうでないならわざわざどれくらい売れたとか、どれくらい人気があるのか、なんて顕示する必要がない。避妊具やオムツや生理用品のように、純粋に性能を宣伝すればいい。そうしないのは販売元が顧客に向かって、みなが買っているものをあなたはまだ購入していないんですか、と煽り、焦りを募らせなければ売れないからだ。本来ならば購買意欲を好奇心や向上心の刺激によって高めればよいところを、異質な者にはなりたくないという人間の持つ差別心を巧みに利用して、より多くの人々に脅迫観念を植えつけることで、人々を商品の消費に走らせている、と言える。あまり上等な宣伝方法ではないと感じるが、やはりというべきか、そうしなければ売れない物を商品としている以上は、現代社会では、こと資本主義社会ではそうせざるを得ないのだろう。ともあれ、水道水や下水処理など社会基盤となり得る仕事は、需要のあるなしを越えて発展させていくことが求められる。これは商品だけではなく、行政(サービス)や文化、研究、公共交通網、第一次産業(農林水産業)(エネルギィ供給事業)、土木事業、医療、教育にも言えることだ。需要がないものであっても、社会に普及させ、いつでも人々が利用できるようにしておくほうが好ましい仕事というものがある。商品である必要が本来はないものが、商品として流通させなければそもそも形態を維持できない状態に晒されている現状がまず以って問題なのだ、という指摘は一理あるように思われる。売れない物を商品にしているのがわるい、ではなく、売れない物であってもこれは社会にあったほうが好ましく、普及させておくべき代物だ、と判断されたモノについては、社会が援助をし、支援をして、公共物として扱うように制度を築いていくことが求められるのではないだろうか。売れた数を誇るまでもなくそもそもにおいて価値のある代物が、売れた数を誇示しなければ形態を維持できない現状は、ほとほと貧しい、と言えそうだ。(根っこを穿り返してもみれば、社会に必要のないモノを探すほうが、現代社会ではむつかしいのかもしれませんね)(主語を曖昧にさせた、何もかもが定かではない漠然とした印象論ですので、真に受ける余地がありませんが、どこか皮肉じみて読めなくもない気が致しますので、感情を乱されないように注意してください)


3170:【2021/08/23*人騒がせ】
(未推敲)
 仕事から帰るとアパートのまえにパトカーが止まっていた。人混みができていたので、何があったんですか、と訊ねたところ、死体が発見されたらしいですよ、と野次馬の女が応じた。
 私は妻と二人暮らしだったので、心配になり、野次馬を掻き分け、警察に声をかけた。
 住人なんですが、と言うと、部屋の番号を訊き返され、部屋番号を口にすると、どうぞ、と通される。
 階段をあがり、部屋に入る。
 ニュースをつけると、ちょうど全国区の事件として報道されていた。
 子どもが虐待死したようだ。
 なんだ、と胸を撫でおろす。
「人騒がせだよな」
 私は妻に投げかける。押し入れはガムテープでがんじがらめに目張りしてあり、奥からは壁や戸にぶつかる無数のハエの飛び交う音がする。



※日々、誰よりホントは浅ましい、と思う心が、おこがましい、誰よりうんぬんと言えるほどに特筆すべきことなどなにもないのに。


3171:【2021/08/24*ごった日記】
「うどんは安くておいしくてお腹いっぱいになるから好き。いつも素うどんだけで、麺つゆに浸して食べる。でもきょうはおいなりさんに使う油揚げを載せて食べたらもっと美味しかった。甘い出汁のたーっぷり染みこんだ油揚げが、うどんの一本一本のあいだを縫うように染みだして、麺つゆのしょっぱさと手と手を繋いで、夏の暑さでまいっている胃袋までよーいドンのダッシュを何回でもキメてくれる。油揚げ載せうどん、おいちー」「しあわせになってほしいひとたちがしあわせに一歩でも近づけたら、ただそれだけで生きていてよかった、と思える。いくひしさんは孤独が好きではあるけれども、それはけっして他人がどうでもいいというわけではなく、他人がいないほうがいい、というわけでもないのだね。できるだけみんな生きててよかったの実感を日々抱ける時間を過ごしてほしい」「日によって、日誌を並べるほうが楽なときもあれば、小説をつくるほうが楽なときもある。でも読むのは断然、日誌というか、小説じゃないほうが楽だ。じぶんの小説の場合は読むのにすごく頭を使ってしまう。ただ他人の小説の場合はこの限りではなく、それはきっと文字を読んでいることを忘れてしまうくらいに波長の合った小説だと、楽しさが上回るので、疲れそのものが楽しい、になるからじゃないかな、と思わないではないのだね」「これは嘘なんですけど、いくひしさんには身近なお世話をしてくれる兄貴がいて、SNSの運用とか、投稿サイトの管理とか、電子書籍化とか、ほか書類の管理から掃除洗濯食事の用意まで、もろもろしてくれる雑用さながらの八面六臂の大活躍をしてくれる便利な御仁であられるのだけれども、さいきんどうにも忙しいらしくて、あんまり構ってもらえないので、いくひしさんもさいきん、部屋の片づけを頑張りはじめました。でね、ないなぁ、ないなぁ、と思って探していたご本がころん、とベッドと本棚のあいだから発掘されまして、あったー、と思って中身を確認したら、なんと気づいたら夜になっていて、部屋は片付いていないし、なんでか片づけはじめるよりもずっと激しく散らかってしまった塩梅で、兄貴はきょうも帰りは遅いみたいだし、いくひしさんはきょうも素うどんを茹でて、薄めた麵つゆにつけて食べる贅沢なひとときを満喫するわけでありますが、まあね。偉いよね。兄貴は偉いと思います。もちろんいくひしさんに兄貴なんていないんだけれども」「眠いときに寝る。ただそれだけの自由がない社会なんて嫌じゃが」「眠すぎるので、寝るんじゃ。ぐ―」


3172:【2021/08/24*腕時計は嗤う】
(未推敲)
 挙動不審なひとだなぁ、が祖父の印象だった。記憶の中にある祖父はいつも忙しく周囲を窺い、暇さえあれば腕時計に何回も目を向けていた。時間にうるさいひとだったのかもしれない。
 祖父はわたしが高校生のころに亡くなった。
 先月の末に祖母が亡くなり、形見分けで、いまさらながらに祖父の腕時計を譲り受けた。祖母が後生大事に仕舞っていたらしいが、家財道具ごと処分するらしいので、せめて二人分の形見として腕時計を選んだのだ。
 ちょうど新しい腕時計に買い替えようと思っていたこともあり、アンティーク調の祖父の腕時計はお気に召した。祖母が亡くなって日が浅いにも拘わらず、どこかしらほくほくとした心地には、我ながら現金だな、とすこしばかりの自己嫌悪にまみれるが、祖父や祖母はこうして孫たちに悼まれながら死ねたのだからまだよいだろう、という気持ちもなくはない。
 おそらく私が死ぬときに私を看取る者はなく、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426659159918)


3173:【2021/08/25*うひ】
この日誌、記事タイトルのところに日付を入れはじめたのが今年の六月からで、それ以前はたまにしか日付を入れてこなかったのだけれど、日付を入れはじめてから毎日律儀にその日がきてから日誌を並べるようになってしまって、記事のストックを使うということがなくなってしまったので、もっと楽をしようと反省しました。というわけで、きょうはもう数日分を更新してしまって、数日サボるをすることに決めた。いま決めた。なんも並べることがないときはこうしてなんかいいこと考えた、みたいにしてその場の気まぐれで予定を決めてしまうとよい。失敗したら失敗したで、それがネタになるので、どっちに転んでも得しかない。いくひしさんのよくやる考え方だ。どっちに転んでも得しかしない。そういう解釈ができるというだけで、本当はどっちに転んでも損をしているかもしれないけれど、想定して受け入れる覚悟を決めた損はもはや損ではない利にちかい何かだ。そんなことはないんじゃないかな、と冷静ないくひしさんがツッコミを入れてきたので、きっとそうではないかもしれないです。いい加減なことばかりを並べている。すみません。さっき買い物に出かけてそのあいだに夕暮れの空を眺めながら思ったのは、信用というのは本当になんてことのないことがきっかけでなくなってしまうのだな、ということで、信用を取り戻そうとしても、一度の失敗でもう二度と信用されなくなる、ということも世の中には往々にして有り触れているもので、信用されないと生きていかれない業界で生きている人たちはたいへんだな、と思う。その点、いくひしさんは生きてきてこの方いちども誰からも信用された覚えがないので、楽な生き方である。信用されたことがないのだから必然、信用を失くしたこともないのだ。人に失望されたくなければそもそも期待されなければいい、という屁理屈と同じだ。死にたくなければ生きなければいい、みたいな極端な思考は好きではないけれど、する分には楽なので、まあ言葉遊びとしてはほとどほどにこね回してみるのもよいかもね、と思わないでもないのですが、やっぱり好きくはないのです。まとまりがないけれども、とりあえず文字を並べりゃいっか、の気分なので、本日の日誌はこれにて完了とする。趣味なので、こんなにへろへろぴーみたいな文字の並びでもおっけーです。うひ。


3174:【2021/08/25*脅威は背後にヒタヒタと】
(未推敲)
 雨の日、家までの道中で違和感に気づいた。ヒタヒタとじぶん以外の足音がある。濃い霧が垂れこめており、振り返っても人影らしい人影は見当たらない。
 不気味だったので気持ち駆け足で家まで急ぎ、玄関を開けてなかに入る。
 アパートの一室だ。
 脱衣所のまえに洗濯物が干されている。そこからバスタオルをもぎとり、濡れた顔を拭う。
「ちょっと聞いてよ、いまさぁ」
 居間ではタツヤが布団のうえに寝転がり、誰かしらとカメラ通話していた。さっさと客とってこいよ、と怒鳴っているが、途中でこちらの声に気づいたようだ。んあ?と振り返る。無精ひげを生やした間抜け面だ。目玉が血走っているのはずっと画面を凝視していたからか、はたまたそれ以外の理由がほかにあるのか。
 目をカっと見開くとタツヤは、
「うわぁ」
 顔に負けず劣らずの間抜けな悲鳴をあげた。勢いよく上半身を起こしたかと思うや否や、奥のほうへと遠ざかる。ハイハイに夢中の赤子のごとく有様だ。
「ちょっとなんで逃げるの。なに、なんなの」雨音が激しさを増す。
「おい、なんだそれ。くるな、くるなって」
 窓際まで後退するとタツヤは、鍵を開けようとジタバタもがいた。こちらの背後にバケモノでもいるかのごとく様相だ。「くそ、くそ、なんで開かねぇんだ」
「ねぇ、なんで逃げるの。やめてよ怖いでしょ」
「怖いのは俺のほうだっつうの」タツヤは手当たりしだいに物を投げつけはじめる。
「痛い、痛い。やめてってば」
「くるな、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426690901332)


3175:【2021/08/26*強欲の権化】
さいきんお菓子を買いにいくだけで三千円とか使ってしまうので、食べすぎているかもしれない。ササミが三パックで千円だったりして、冷凍しておくといつでも使えてよいな、と思って買ってきてしまうのもちょっと出費がかさんでいる感じがする。冷凍のササミは、ボイルしてから炒めると解凍する手間が省けて、火もちゃんと通るし、好きだけれども、ビタミンとかそういう栄養さんがお湯に溶けだしちゃうから、栄養面ではよろしくないのかもしれない。でも解凍する時間が惜しいので、ボイルしてから炒めるをする。お菓子は甘いのとしょっぱいのの両方が欲しいので、これを買ったらじゃあこっちもだな、と買い物かごの中に放り入れていくと、あっという間に二千円を超す。スーパーのどこにでも売っているお菓子さんたちであるが、買いすぎである。これ以上お腹さんに栄養を与えたところで、消費しきれるくらいに脳みちょさんを酷使したりはせぬので、脂肪貯金は控えようと思います。でもおなかがふにふになのはよいと思う。つまんでも余るくらいがちょうどよい。なぜなら、ふにー、の具合がネコさんのほっぺたみたいでかわゆいので。ネコさんはいつでもふにふにで、かわいい。おなかもふにふにでかわいい。よいと思います。マスク二箱合計六十枚で880円は、安いけれども本来なら不要な出費なはずだから、そう思うと、高っ、と思ってしまうな。必要なので買うけれども。お店のまえでは焼き鳥屋さんが鶏肉を秘伝のタレにつけて串に刺して、炭火焼きにしている。空気中に漂う匂いは香ばしい。呼吸をしなくては生きてはいかれないいくひしさんは、否応なく匂いごと空気さんを吸いこまざるを得ないのだけれど、そのたびにお腹さんが、「く、く、くいてぇ」とにわやかに戦闘態勢になるので、マスクさんにはもっとちゃんといろいろなものを匂いさんごと濾しとってほしい、と思わないでもない。きょうもきょうとて、じぶんには甘くそれ以外には手厳しい、万年傲慢に磨きをかけては欲求にだけは素直な、いくひしさんなのであった。


3176:【2021/08/26*白髪の談】
(未推敲)
 ネクタイからはみ出ている糸を切ってはいけない、とインターネット上で話題になっていた。
 居間でくつろいでいる兄に教えてあげると、
「なんで」と返事がある。
「ネクタイのスリップステッチってやつで、一本の糸で縫っているがゆえに、それを切ると全体がほつれはじめてしまうんだって」
「へえ」
「お礼にコーヒー淹れてくれてもいいよ」
「恩着せがましいな」
「嫌ならチョコレートもつけてくれてもいいよ」
「増えてんじゃねぇか。しょうがねぇな」
 兄は立ちあがると、台所に向かった。
 居間から兄の作業を眺めていると、あ、と兄の頭に目が留まる。
「兄ちゃん、白髪あるよ」
「ウソ。どこ」
「ここ、ここ」
 私はソファから腰をあげる。台所との境に身を乗りだし、兄に頭を突きだすように身振りで指示する。
 つむじを見せつけるようにした兄の頭から、一本だけ飛びだした白髪を見つけると私は、
「ほらあった」
 掛け声を発して、引っこ抜く。
 ぷっつん。
 予想以上の手応えにびっくりする間もなく、兄の頭からは空気が噴きだし、見る間に顔がしわくちゃになる。
 だけに留まらず、兄の頭からは髪の毛がハラハラと抜け落ち、剥きだしになった頭皮からは、ジグソウパズルが崩れるように細胞が宙を舞った。
 頭蓋骨が露わとなり、ヒビが走る。パラパラと砕けると、こんどは露出した脳みそが砂塵となって、シンクに一筋の線を描いた。砂時計さながらの滑らかさだ。
 兄の全身はそこから一分も経たぬ間にほつれ、ほぐれ、砕け、崩れ、流れ落ちては、宙を舞い、衣服を残していずこへと消えた。
 あとには私のゆびのなかでピンと伸びる一本の白髪が、針のごとく、剣呑な存在感を振りまいている。


3177:【2021/08/27*例外がありすぎ問題】
以前、宇宙に果てがなければ夜空は光で満ちているはずだが、そうはなっていないのはなぜか、という疑問について私見を述べた。私見の概要としては、宇宙に果てがあろうがなかろうが、宇宙にある恒星の数は有限かもしれないし、宇宙空間にガスや浮遊物などの遮蔽物で溢れていれば光は地球まで届かないこともあり得る。また宇宙に果てがないことと、宇宙が無限に広がっていることはイコールではないがゆえに、やはり果てがないことイコール宇宙が光で溢れていることにはならない、といった考えを述べた。しかし現在の研究の結果から述べれば、宇宙には微弱な電磁波(いわゆる宇宙マイクロ波背景放射)が満ちており、それは宇宙開闢時に起きた晴れ上がり時に全宇宙に広がった電磁波だと解釈されている。光は電磁波の一種だ。電磁波は光だ、と言っても間違ってはいない。我々人類にとっての可視光ではないというだけであり、宇宙は微弱な光で満ちているのだ。とはいえ、可視光に限って言うなれば、恒星の数が有限かもしれないし、地球までまっすぐに届くわけではなかろうし(ブラックホールやほかの超高質量の物体の近くを通れば光の進路は曲がる)、遮蔽物とてたくさんあるだろうし、宇宙は膨張しているがゆえに地球から遠い光源ほど光の波長は伸びていくので、可視光から赤外線に向かい、視認できなくなる可能性が残る、と言えそうだ。(お昼寝をしていたときに、あれ、と気になっただけの妄想です。どこまでの知識が正しく、どこまで考えに矛盾がないのかをいくひしさんは検証すらできません。くれぐれも真に受けないでください)


3178:【2021/08/27*脳みそカピカピ薬】
(未推敲)
 脳みその固さは豆腐とだいたい同じらしい。ならばなぜ崩れないのかといえば、脳脊髄液のなかに沈んでいるからだ。豆腐とて、購入時には水分のなかに浸っているはずだ。容器を振っても豆腐は崩れない。だが水を抜けば、一振りしただけで潰れる。
 ならば脳みそとて、脳脊髄液を抜いてしまえば、たった一発殴っただけで人間の脳みそなどたちどころに崩れてしまうに違いない。
 これは使える、と思いワガハイ、さっそく脳脊髄液を脱水する薬の開発を目指した。徹夜に次ぐ徹夜を歯を食いしばって乗り越え、苦節三日で実用化に漕ぎつけた。
 さすがは天才である。
 三日もあればこの通り。
 世紀の大発明などちょちょいのちょいである。
 誰も褒めてくれないのが腹立たしいが、そこは超一流の身ゆえ、声なき声で「なんでや、なんでや」の音頭を踏みながらも、すまし顔で耐え忍ぶ。
 動物実験でも効果は確認済みだ。
 あとは人間で試すのみである。
 我が天才ぶりを一向に認めようとしない連中に一泡吹かせてやろう。
 開発した新薬その名も「脳みそカピカピ薬」をカップの底に数滴垂らし、来客用の食器に混ぜておく。
 我が才能を一向に認めん連中を家に招待し、コーヒーを御馳走したと見せかけて、新薬入りのカップを使わせて、人体実験の被験者にしてやる。
 企てはとんとん拍子に運んだ。
 予想外だったのはワガハイの人望がことのほかか細く、家にやってきたのがたった一人きりだったという事実だ。なにくそこのやろう、と地団太を踏みたくなったが、ワガハイは天才であるので怒りを呑みこみ、おくびにも出さずに、やあやあいらっしゃいと来客を部屋のなかに招き入れる。
「きょうはいったいどうしたんだい。おやなんだいこの紙飾りは。まるでパーティでもはじまりそうな内装だな。ほかにも誰かくるのかい」
「こないが?」
「あ、そうなのか。ちなみにきみの誕生日だったとか」
「ちがうが?」
「まあ、うん。この件には触れずにおこう」来客は相好を崩し、ソファに腰を沈めた。「で、話というのは何だろう」
「じつは折り入って相談があってね。まずはコーヒーでも淹れよう」
「お構いなく」
「話が長くなりそうなのでね」
 いちどキッチンに引っ込み、コーヒーセットとカップをお盆に載せて運ぶ。途中で来客が手伝うと言ってきかなかったので、お盆を代わりに持ってもらった。
 席に着く。
 さっそくカップにコーヒーをそそぎ、差しだす。来客は受け取った。「ありがとう」
 じっと見つめるが、なかなか口をつけない。
「で、話ってなんだろう」
「おっと、そうだった。それはそれとしてなんだが、そのコーヒー味はおかしくないか」早く飲んでほしくて急かした。まずはじぶんで飲んでみせる。身体に害はないぞ、と暗に示した。「鼻がきかなくてね。美味しくないかもしれない」
「どうだろうな。どれ」
「どうだ」
「うん。これといって妙な味はしないが」
「体調はどうだろか。何か気分がわるいとかはないかね」新薬は即効性だ。すでに脳脊髄液が干上がりはじめているはずだ。
「べつにいつも通りだ。なんだ、毒でも入れたのか」
「その通りだ」
「だと思ったんだ」
「驚いただろう。はっはっは――え?」
「予想はしていたよ。だからさっきお盆を預かったときに、カップの位置を入れ替えておいた。おおかたカップに毒を塗っておいたのだろう」
「まさか」
「どんな毒なんだ。まさか死にはしないだろ」
 来客は余裕の表情でカップの中身を飲み干した。
 あべこべに、ワガハイはなんだか視界が歪みはじめ、ちょっと身体を傾けるだけで、激しい頭痛が襲った。まるでムエタイの選手に頭を蹴られている気分だ。
「だいじょうぶか? 顔色が優れないようだが」
 来客が立ちあがり、手を差し伸べてくるので振り払うと、勢い余って体勢を崩した。
 平衡感覚が掴めない。
 身体を支えきれずに床に倒れたところで、豆腐の潰れる光景がなぜか鮮明に想起された。
 視界がぐるぐると回る。
 まるで目玉が飛びだしたかのようだ。
 否、まるで、ではない。
 じぶんの顔がじぶんで見える。まさに目玉が零れ落ちているのだ。
 薄れいく意識のなか、耳から、鼻孔から、眼孔からも、伸びた視神経の合間を縫って、どろりとした白い豆腐じみた物体が溢れだす。


3179:【2021/08/28*役立たずでごめんなさいの気分】
ツイターをはじめて三年目なのだけれど、ようやくさいきん安心して使えてきた感じがある。恐怖心が薄れてきたのがよい。でもなんでかプロフィールへのアクセス数が月10万とか超すので、それだけが怖い。フォロワー三十人もいないのにそこだけが謎である。毎日三千回もアクセスがあるのだ。プロフィール欄に何も書かずにいたからかな、と思って、今月に入ってからpixivのURLを載せたり、いもしない兄の動画を載せたりしてみたら、三分の一に減って、毎日千回のアクセス数になった。それでも今月すでに4万以上のアクセス数があるし、ときどきはやっぱり日に三千以上のアクセス数があって、謎である。かといってインプレッションはそれほどでもないし、動画を投稿しても再生数は百いくかいかないかなので、botが巡回しているだけなのかな、と想像している。ひょっとしたらみんなもプロフィールへのアクセス数は月にそれくらいあるのかもしれないし、むしろ10万は少ないほうなのかもしれない。とにかく、目立たずに、一方的に好きな表現を宝箱に詰めていく感じで、集めていく感じで、好きをいっぱいにしたくてツイターは利用しているので、宝探しみたいだし宝石採集みたいで、ただただ精神によい。ツイターは楽しい。いままでにイイネとリツイートしたイラストとか絵とか写真とか、文章とか、お歌とか、演奏とか、動画とか、とにかくいくひしさんが宝物認定したもの全部まとめて本にしたりアルバムにしたりして、手元に欲しい。ツイターに不満があるとしたら、過去のそういった履歴が溜まらないことで、分類して保存できないことだ。もっといろいろ管理して、宝箱をデコレーションしたい。とはいえ、どれもいくひしさんのものですらなく、観せて聴いて読んで楽しませていただいているだけなので、ほとほといくひしさんは恩恵を一方的に受けて、貪っているだけなのだよね。一人につき一つずつ、一生創作するだけで生きていける環境を寄付したい気持ちが募る日々だ。いくひしさんが全知全能でないことが悔やまれる。


3180:【2021/08/28*引き留める者】
(未推敲)
 急な夕立に遭った。母に言われて折り畳み傘を持参していたので、軽く服が濡れた程度で済んだ。
 一向にやむ気配がない。
 雨宿りをするにしても、見たところ時間を潰せるような店はなく、そう言えば駅前のほうに喫茶店があったような、とメディア端末を操作しながら歩を進めた。
 姉の三回忌だった。
 親族で墓参りをしに足を運んだのは、私だけのようだ。それはそうだろう。姉と関わり合いを持ちたがる者がいたならば、そもそも姉は死なずに済んだはずだ。
 過去を顧みるたびにパンパンに張った水風船にエンピツを突き刺す場面を連想する。憤りはいつでも破裂する準備が整っている。
 雨が強まったのか、傘を持つ手に加わる重みが増した。音も大きく、バダバダと傘を打つ。
 心なし周囲も薄暗い。
 地図を起動し、画面を凝視する。電波の通りがわるいようで、これだから田舎は、と差別心を自覚しつつも内心でぼやいた。
 端末の意味もなく振って、なかなか画面が切り替わらない苛立ちを誤魔化していると、
「ちょっとアンタ!」
 遠くから怒鳴り声が聞こえた。誰かが叫んでいる。
 振り返ると、半円にくりぬかれた光のなかに女性が立っている。彼女は手を大きく振っていた。「おーい、こっちこっち」
 呼ばれているが、女性の姿に見覚えはない。
 ふと周囲から景色が消えていることに気づく。ネオンの光を目にし、ああ、と思う。
 いつの間にかトンネルのなかにいた。
 通りで電波が届かないわけだ。
 納得しながら引き返すと、入り口のところで女性が、だいじょうぶだった、と眉を顰め、心配そうに身体を寄せた。
「何がですか」
「だってあんた、この先通行止めだよ。土砂崩れがあって、危ないんだよ」
「あ、そうだったんですね。すみません。この土地の者ではないので」
「それにあんた、それ」
 女性は傘をゆび差す。
 釣られて私は折りたたみ傘を見上げた。
 なぜか傘布に無数の穴が開いており、木漏れ日のごとく陽の光を通している。
 耳の奥に、滂沱の雨じみた音がよみがえる。
 バダバダ、と打ちつけたあれは、いったい何の音だったのか。
「ねぇ、それ」
 言いながら女性が一歩退いた。 
 視線を辿り、私はじぶんの肩を見遣る。
 雨に濡れたように、そこには泥のような汚れが布に染みている。いくつも斑に浮いている。
 ふしぎと私の目にはそれが、無数に折り重なる赤子の手形に見えた。
 私は女性に礼を述べ、こんどこそ駅前へと踵を返した。
 別れたあと、すこし経ってから、あれ、と思う。
 女性は、トンネルのなかへと歩き去っていた。
 だがそのさきは通行止めではなかったか。
 私は戸惑った。
 女性のかんばせを思いだせない。
 おぼろげな彼女の立ち姿に私はなぜか、いまは亡き我が姉の姿を重ね見る。



※日々、毎年のごとく繰り返される夏秋の虫の音色を思うが、過去そのときどきの音色のなかに、一匹たりとも同じ虫のいない現実には何か、事象を構成する要素たちの代替の効く儚さに、虚しさを、累乗して、蒸留して、濾しとるような、凝縮した畏怖を感じなくもない。


3181:【2021/08/29*寝たネタ】
ときどき十二時間くらい寝る、というのはたびたび並べていることであるけれど、寝て起きたら体感、三年くらい経っている気持ちになることもすくなくない。いろいろなことがスッポ抜けて、忘却して、昨日までのことが遠いむかしのような懐かしむ感覚になる。なるほど、時間経過を感覚的に捉えるには、記憶の薄れ具合が関係しているのかもしれない。でもアルツハイマーや認知症患者は、きょうをきょうと認識しているし、タイムスリップしたいみたいだ、とは感じないようだ。これはなぜなんだろう、といま三秒くらい考えてみたところ、おそらく時間軸に比してどの記憶がどの程度薄れるのかが、時間経過を認識するのに大きく作用するからではないか、との仮説が浮上した。つまり、過去の記憶が盤石であるほど、現在を規定しやすいのだろうし、過去から現在までの記憶が徐々に光のスペクトルのごとく順序だって薄れていればいるほどに時系列を映画のフィルムのように知覚できるのだろう(飛行機雲のように過去ほど薄く、現在にちかいほど濃ゆいと、時間経過をよりハッキリ認識できるようになるのではないか、と妄想できる)。また、直近の記憶が失われれば失われるほど、時間経過を感じにくくなるはずだ。食事をとったことを忘れてしまえば、たとえ食べていたとしても、その分の時間が流れていないと錯覚してしまうので認知症患者は、ご飯はまだなの、となってしまう。時間経過を感じにくくなっている。あべこべにいくひしさんの場合は、直近の記憶もそこそこスッポリ抜け落ちてしまうが、それ以上に過去の記憶が紙やすりでかけたようにその都度ザラザラになってしまうので、むかし観た映画みたいなぼんやりとした印象でしか記憶できない。しかもたくさん寝た日には、数日前とかここ半年にあったことですら、幼少期のころの記憶と大差のない、同列に摩耗した記憶になってしまうので、時間経過を正確に認知しにくい性質なのかな、と妄想するしだいである。記憶をいちど圧縮してしまうと、どれくらい前か、という時系列を度外視して、一様に同じくらいにまで圧縮処理をしてしまうために、まるで何年も経過したみたいな感覚に陥りやすいのかもしれない。たくさん寝たときほどこの記憶の情報圧縮処理が行われるために、起きるたびに未来へとタイムスリップした感覚を味わうのかな、と妄想を逞しくするしだいである。(定かではありません)


3182:【2021/08/29*黄泉行き】
(未推敲)
 ベンチにおばぁさんが座っていた。バス停のベンチだ。
 いちどはよこを素通りしたものの、買い物を終えてから通ってもまだ同じ場所におばぁさんが腰掛けていたので、気になって声をかけた。
「あの、だいじょうぶですか」
「はい?」
「もうバスはこないと思いますけど」
「あら、そうなの?」
「時刻も時刻ですし」午前零時を回ろうとしている。「最終のバスはとっくに過ぎたと思いますよ」
 ほら、と時刻表をゆびで示すが、おばぁさんは困った顔で、でもまだくるでしょう、とほほ笑むばかりだ。
「始発まではまだ時間ありますよ。朝になるまでここにいるつもりなんですか」
「でも、ほら来たじゃない」おばぁさんは首を伸ばす。
 振り返ると、バスが一台、道のさきからやってくるところだった。あと十秒もあれば停留所を素通りするだろう。
「あれは車庫に戻るためのバスで、ここには停まらないと思いますよ」
「いいのよ、それで」
「でも」
「ご親切にありがとう。冥途の土産に心がうんと温かくなりました。ありがとう」
 おばぁさんは、よいしょ、と掛け声を発してベンチから腰をあげると、吸い寄せられるように道路に下りた。
 バスは速度を落とさない。
 ライトに照らされておばぁさんの姿が闇に浮かびあがる。
 おばぁさんはこちらを向いて、にっこりと微笑み、手を振った。
 バスはまだブレーキを踏まない。


3183:【2021/08/30*考えるを考える】
現状の仕組みや、現代社会の風潮に最適化した行動選択をとれるように学習することと、そういった仕組みや風潮をより好ましい理想に近づけるために何をすべきかを考え学んでいくことは、似て非なるものであり、ほとんど別物と言えるが、仕組みや風潮がどんな構造を有しているのかを分析しないことには、後者の学びは深まらないので、一時的には合致してしまう点で、いろいろと錯誤が生じてしまうのだろうなぁ、とぼんやりとさいきんは実感しつつある。合理的というとき、たいがいは前者の「現状への最適化」を示すが、本来的には、後者の「理想を描き具現化すること」にあるはずなのだが、なかなかそこのところの合意をとったうえでの議論を行えている場というのは思っていた以上にすくないのかもしれない。すでにある枠組みだけで思考を煮詰めるのならば、けっきょくは暴力が最善手になってしまう。他者を退け、利を奪うことが合理的の意味として最適化してしまう。だが理想はつねにそうした人の業に否を突きつけ、発展し、色合いを増やし、カタチを段階的に変えてきたはずだ。思考とはおおむね、枠組みのそとへと視点を拡張し、そのうえで枠組みを変質させていく営みと言えるのではないか。そういう意味では、同一人物であれ真の意味で思考している時間というのは存外にすくなく、思考しているつもりで、動物的な習性の範疇をでていないことは往々にして有り触れているものなのではないだろうか。人は、じぶんで思うほどには、人ではない。考えていない。思考できてはいないのだ。我思うゆえに我あり、とはいうものの、いったいどれだけの人間が、日々の時間で我を思っているだろう。人とは考える葦である、というが、いったいどれだけの人間が、日々のなかで考えを行えているだろう。合理や最善を、あたかも日々常々に求めているように振る舞う者たちが目立つ世の中だが、合理や最善とは何かを解からずにいて、いったい何を求めているのやら、とふさふさ尻尾を胸に抱いてふしぎがり、こてんと床によこになる、本日の居眠りタヌキのぽんぽこりんなのであった。


3184:【2021/08/30*同乗者】
(未推敲)
 新車を購入したかったが、虫歯の治療で思わぬ出費が嵩んでしまい、予算が大幅に減ったために、けっきょく中古車で我慢することにした。
 中古車販売店に足を運んだ折に、掘り出し物と巡り会えたのは運がよかった。
 テンポ敷地内の車両を一通り見て回った直後に、いままさにトラックから降ろされつつある車体が目に入った。
 凹凸のすくない流線形の輪郭に、雪原を思わせるシルバーの色合い。一目ぼれだった。
「あの車も売り物なんでしょうか」
「そう、ですね。いちおう今日から店頭に並ぶ予定ですが、あ、見てますか」
「お願いします」
 近くに寄り、拝見する。見れば見るほど、惚れ惚れする。だがひと目で高級車と判る以上、中古車といえども高値の花に違いない。
 そうと思い、値段を見ると、なんとほかの中古車よりも安かった。
 いくらなんでもそれはない。ちょっと性能のよいメディア端末だって昨今、もうすこし値が張る。
「あの、これゼロが一つ足りないんじゃないんですか」
「いえ、合ってるはずですね」店員は端末をいじり、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426798931628)


3185:【2021/08/31*性根が腐って根気なし】
さいきんはすごく視野が狭くなっている感覚がある。好きなことばかりに注力している日々であるけれど、好きなことをもっと好きになるためには、それだけでは足りないのだということも知識として、或いは体感として知っている。たとえば興味のないことに目を向ける習慣は、好きを熟成させたり、深化させたり、豊かにしたりするのに役立つ。いまある種々の好きの事象とて、それ以前は好きではなかったものだ。どこかで偶然にしろ意識的にしろ、出会い、触れたことで、好きになったのだ。いま目のまえにある好きなことだけに注力していたのでは、そうした好きの感情ですら目減りし、先細りしていく。わかってはいるが、とりあえずいまある好きだけを愛でていたい、となってしまう。引きこもっていたい。すでに手に入れた宝物だけを腕に抱き、ちいさき自我の世界に引きこもっていたい。定期的にそういう時期に突入してしまうのだが、抜けだすまではじぶんがどれほどちいさな世界に閉じこもって、根を痩せ衰えさせていたのかを知ることはできないのだ。これはいつでもその危険をはらんでいる。自覚するのはいつだって、新たな好きに出会い、触れたときであり、それまではただただ目が曇り、腕が鈍り、そうした衰退を以って、進化とか進歩だとか、豊かさだと錯誤している。実際には、もっと長い目で見れば、そうした衰退にしろ鈍化にしろ、進化になり得るのだが、それもまた結果論であり、大きな成果を得てからでないと判断のつけようがない。自覚しようがない。確かめようがないのだ。ゆえに、確率の問題として、でき得るかぎり常に、新しい刺激を求め、視野を拡張すべく行動したほうがよいのだが、思うのは簡単なのに、いざ行動に移そうとすると億劫で仕方がない。たとえば興味の薄い陶磁器や骨董品について調べてみるのもよい。骨董市に出かけてみるのもよいだろうし、文学館に足を向けてみるのもいいかもしれない。宝石店を覗いてみてもいいし、ボランティアや現場仕事に精をだし、汗を流してみてもいい。とかく普段はできれば触れ合いたいとは思わない、どちらかと言えば、面倒に思うようなことに足を向け、手を伸ばし、嗅いで、味わい、撫でてみないことには、視野はいつでも、光を見詰めた虹彩のごとく収斂して、萎んでしまうものなのだ。ときには闇を見詰め、畏怖する暗がりに目を向けないことには、虹彩は開いてくれはしないのだ。光ばかりを求めていてはいつか、見えているつもりで、すっかり虹彩が閉じてしまいながらも明瞭に世界を見ている錯誤に囚われてしまい兼ねない。人はじぶんで思うよりも、世界を見れてはいない。視野を広げてはいない。触れてはいないのだ。わかっちゃいるが、ではいざ闇に目を向け、足を踏みだし、手探りで歩を進めれるかと言えば、往々にして否である。言うは易し行うは難しを地で描く。こうして偉そうなことを解ったふうに並べるだけならば簡単なのに、なにゆえ実行に移すのはこうまでも面倒で、腰が重く、先延ばしにしてしまいたくなるのだろう。これもやはり視野が狭まり、虹彩が閉じ、可能性の根っこを痩せ衰えさせ、知らず知らずに荒廃しているからなのだろう。ひとまず苦手な英語や数学や物理や歴史にも目を向けて、触れてみようと、思うだけ思って、実行に移すか否かはあすのいくひしさんにお任せして、本日の「いくひ誌。」にしてしまおうと企む、性根の腐りきって消滅してしまった根気の皆無な、本日のいくひしまんであった。おしまい。


3186:【2021/08/31*四つ辻の本】
(未推敲)
 道に迷ったのか、見知らぬ土地を彷徨い歩いている。
 顔をあげると、四つ辻の真ん中に本棚が立っていた。
 近寄ると、本が一冊、指一本分だけまえにはみ出している。
 何の気なしに手に取ると、腕にずしりときた。思っていたよりも分厚い。表紙は古く、革製だ。無地で、題も紋様も何もない。
 中を開くと、ずらりと名前が並んでいる。名前のまえには日付が記されている。一ページにつき三百人分の名前がありそうだ。だいたい十ページ間隔で日付は変わった。
 一日分でだいたい三千人の名前が並んでいることになる。
 本の最後を見遣ると、何百年先の日付が載っていた。項を見遣ると三十万の数字が刻印されているが、本の厚さからすれば誤字と見做すほうが正解だ。
 ふと気になり、きょうの分の日付を探してみる。
 前半部位にそれはあった。
 これといって考えがあったわけではないが、名前の一つずつに目を走らせていく。
 いったいじぶんはこんなところで何をしているのだろうと、重ねて思考しながら、いったいいつからここにいるのだろう、と遅まきながらの事項に思いを巡らす。
 午前零時を回るすこし前に寝床に入ったところまでは憶えていた。たしかそれから胸が痛くなって。
 本をめくる手が止まる。
 項の半分が余白を占める。
 名前の羅列の最後には、なぜかじぶんの名前が載っている。


3187:【2021/09/01*つれづれなる何似?】
何を目的に並べる文章かによる、と前置きしたうえで述べるが、なにも書くことがない、となったときの対処法には大別して二つあり、一つは無理して書かなければいい、という元も子もない結論で、もう一つは、なんでもいいから書けばいい、というこれもまた元も子もない結論だ。これだけだと、それはそうだけどと、相談した私がばかだった、みたいな顔をされそうなので、もうすこし補足しておくと、なんでもいいから書くといってもコツがあり、いちばん楽なのは、事実をただ箇条書きしていく手法だ。日記を書けばいい。朝から何をしたのかを時系列順に並べればひとまず何かを書くことはできる。だがそれ以外、となると、すこしコツがいる。まずは愚痴は比較的簡単に並べられる。何も並べることがないんじゃ、という愚痴ですら、こうして並べられるのだ。不満に思うこと、困っていること、こうなればいいなぁ、という願望でもいい。いま欲しいものを並べてしまえば、ひとまずここでも何かを書くことはできる。だがそれを読みたいひとがいるかはまた別の問題だ。すこしでも読者にとって得になることを並べたい、とサービス精神旺盛な心掛けを掲げる者もいるだろう。そうしたときに有効になってくるのが、疑問を軸に、考えを並べることだ。ふしぎだな、と思ったことを書き留め、それについて、どうしてだろう、とじぶんなりに考えついたことを文字に変換していけばいい。必ずしも結論がでなくともいいし、正しくなくてもいい。ひとまず、なぜ?に対するじぶんなりの仮説を、妄想でもいいので、並べてしまえば、単なる個人の日記よりかは、そこそこ読み応えのある文章になっていそうだ。しかし、単なる個人の日記が読みたいんじゃ、といういくひしさんみたいな人もいるかもしれないし、こうしてサービス精神旺盛に並べた文章が、まったく読者を楽しませず、そもそも読者がひとっこ一人いない現実を無駄に顕現させなくもない。けっきょく、なにゆえそうまでして文章を並べたいのか、が最も深く考えを煮詰めておいたほうがよいかもしれない事項であり、やはりというべきか、何も並べることがないのなら、無理をしてまで並べる必要は、まったくこれっぽっちもないのである。いくひしさんはどうしてこんな益体のない、並べることで以って役割を終えてしまうような、あってもなくてもどちらでもいい、どちらかといえばないほうがいい文章を並べているのかと言えば、並べているあいだはひとまずパズルを解いているみたいに、何かしらを行えている気分になれて、ひとまずの満足を得られるから、と言えるだろう。けっきょくは、したいからしているのであり、だしたいからだしているのだね。なぜ人は排せつ行為をしてしまうのか。だしたくなるからだし、ださないと生きていかれないからだ。きっといくひしさんのこれも、同じようなものなのかもしれません。ときには便秘みたいに、うんうん呻ってもでてこないこともあるけれども、だからといって、ださずにいてもいい、とはならんのだし、だせるものならだしたいのだよね。なぜならだしたらスッキリするので。爽快なので。きもちよいので。いくひしさんはきょうもきょうとて、なんもなーい、と思いながら、これを並べて、これにて本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。整理整頓とは縁のない、散らかり放題のごった煮の権化、つれづれなるママ似のいくひしまんでした(パパ似でもあるし、どちらかと言えば、どちら似でもない)。


3188:【2021/09/01*浮かぶ仮面】
(未推敲)
 家に帰ると、柱にお面が飾ってあった。
 木製の古いお面だ。
 おかめや般若と同系統のかんばせをしている。
 目元は綻び、口を一文字にきゅっと結んだ様は、はにかみ、と形容するのがぴったりだ。
 母は骨董好きで、ことあるごとにガラクタを買い漁ってくるため、またか、と思っただけだったが、お面に喚起されたのか、むかしの記憶が浮上した。
 幼いころにこれと似たお面を見た憶えがあった。引っ越したので、いまのとは違う家だった。古い家屋だ。父が亡くなってから、引っ越した。
 母が居間のソファでうつらうつらしていた。
 ただいま、と声をかけ、牛乳を飲む。
 着替えを済まそうと部屋をでるところで母が、おかえり、と起きたので、扉を足で支えながら、あのお面ってさ、と話題を振った。
「前にうちにあったよね」
「お面?」
「また買ってきたんでしょ。前のお家に飾ってあって、子ども心に怖かったよ。いまもすこし不気味だし、せめて廊下じゃない場所に飾ってよ」
「何の話?」
「だからお面だってば」
 言いながら廊下を見遣ると、お面がなかった。
 あれ、と思い、廊下を覗きこむも、見当たらない。
「さっきそこにお面が」
 居間に向き直ると、母の背後に、件のお面が浮いていた。
 はにかんだ顔が、如実に歪む。
 目は見開かれ、食いしばられた口からはいまにも歯が飛びだしそうだ。眉間には山脈のごとく隆起した皺が浮かび、あるはずのない目玉が、上下に激しく揺れている。


3189:【2021/09/02*ぼんやり】
いまにはじまったことではないけれど、ことしはもうサボり年にすることにしたので、根を詰めた物語はつくらないようにして、ネタというかアイディアを涵養する時間を置くことにしている。いつもそうだと言われればそうかもしれない。意識的に、ああでもない、こうでもない、と壁にぶつかって、引っかかりを見つけて、たくさんの試行錯誤の種をつくっている最中だ。いつもより気分つよめに、という意味です(とか言いながら、本当に実践できているのかは怪しいところだけど)。ここ数年はずっと、主語をどの程度残すのか、を迷いながらつくっていて、たとえばこの文章で言えば、ほとんど主語を省いている。誰の言葉なのかを書いていないし、何についての文章なのかにもはっきりとは言及していない。それでも伝わってしまうナニカシラを、幅広く、ぼんやりと掬い取ったり、描いたり、浮き彫りにするのが好みなのだが、かといってそれで他者に意図したぼんやりが伝わっているのかははなはだ疑わしく、やはり迷ってしまうのだよね。ただ個人的な感覚でしかないのだけれど、小説に限定して述べれば、小説の文章は文章というよりもどちらかと言えば絵画にちかく、版画にちかく、壁画や絵巻物にちかいと思っていて、読むというよりも、視るにちかいのではないか、とやはりここでもぼんやりと実感を覚えている。だからなのか、視るよりも読むにちかい類の小説は、どちらかと言えば好みではないのだが、これは単に、文章形態の慣れでしかないので、視て楽しめるくらいに、その小説の文字の羅列に慣れてしまえば、どんな小説もけっきょくは、絵画や版画や絵巻物にちかくなるのかな、といった予感がある。これは語りと履歴のちがいでもあって、履歴は事実の記録だが、語りは、記憶の継承なのだ。ゆえに伝わるものは、言葉による情報というよりも、情景なのだよね。その情景には、心象も含まれるし、思考の筋道も含まれる。ゆえに、寝床で親が子に語り聞かせるおとぎ話は、語りゆえに、子どもたちは単に親の話を聞いているだけでなく、目で、身体で、そこではないどこかべつの世界を視ているのだ。これは小説にも言えることだ。読んでいるわけではない。視ているのだ。体感しているのだ。単に情報を右から左に移しているわけではない。作者の世界に身を浸し、異なる世界同士を重ね合わせ、同調する作業こそが、小説を楽しみ、味わうということなのだろうと、いまはぼんやりと考えている(それはつまり、世界そのものと、自我なる私の内世界そのものが、つねに重ね合わされ、同調され、ときにすれ違っていることと地続きでもある。言い換えるならば、世界をこすり合せることで、第三の世界を編みだしている、と言える)。もちろん言葉の響きや、文章それそのものを味わう楽しみ方もあっていい。そういう人はきっと小説に限らず、言葉を、文章を、読むことそれ自体に楽しみを見出せる方なのだろう。一つの才能と言ってよいように思うしだいだ。まとまりがないけれども、要するに、ここしばらくはずっとへにゃへにゃになっております、との自己申告なのでした。おしまい。


3190:【2021/09/02*のぼれども】
(未推敲)
 歩道橋の階段をなんども上り下りしている中年の男がいた。スーツを着てはいるが、くたびれた格好をしており、真横を通り抜ける際には、ツンと鼻を突く饐えた皮脂の臭いがした。
 いちどはよこを通り過ぎたのだが、こちらには目もくれない。悲壮感の漂う表情をしていたため、歩道橋のうえから男の様子を窺った。
 やはり男は何度も階段を上り下りを反復する。疲れるからか、肩で息をするたびにその場にへたりこんだ。
 目的が不明だ。ダイエットだろうか。それにしては倦怠感に溢れている。いまにも階段から身を投げだしそうな苦悶の呻き声を発したりもしており、見るからに異常だった。
 放っておけばよかったものの、就職の内定が決まったばかりだったこともあり、ゲンを担いでおきたかった。営業職ゆえ、行動力が試される。一日一善ではないが、何かしら人としてとるべき行いを率先してとる習慣をつけようと考えていた矢先のことでもあり、ひとまず事情だけでも訊いておこうと男のもとへ踵を返した。
「あの」
 そう声をかけたところで、男が勢いよく面をあげた。汗が飛び散り、口元についた。袖で拭う。
「おまえ」男は血相を変えた。「どっから来た。いつからだ、いつからここにいる」
「ぼくですか。ぼくはいまさっきここを通っただけで」
 歩道橋の下をゆび差す。街路樹が、道に沿って点々と生えている。もうすぐ夕暮れだが、当たりはまだ明るい。
 男はいまさらのように周囲の景色に目をやり、なぜか数秒固まった。口を開け閉めする。金魚さながらだ。何事かを言おうとしたようだが、けっきょく言葉は呑み込んだようだ。
 やおらにこちらの腕を掴むと、
「すまん。本当にすまん」
 額から大粒の汗を垂らした。或いは、それは涙だったのかもしれない。
 呆気にとられているこちらを差し置き、男は転がり落ちるように、数段飛ばしで階段を駆け下りた。
 掴まれた腕をさする。「なんだったんだあれ」
 憤懣を息に載せて吐きだし、さて帰るか、と帰路を急ぐべく歩道橋を渡りきろうと階段のうえに目をやったところで、視界が暗転した。
 否、風景が消えた、と言ったほうが(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426870013403)



※日々、見せたくないこと、知られたくないこと、気づきたくないことばかり内に溜まる。


3191:【2021/09/03*ステキ】
じぶんで何かを表現したり、生みだしたりするよりも、世界に溢れるステキなものに気づき、触れて、味わうほうが楽しいに決まっている。それでもときどき、じぶんでも何かを生みだした気になりたくなってしまって、でも何も生みだせないもどかしさが、めりめりっとひねくりだされているのかもしれないし、ころんと呆気なく零れ落ちているだけかもしれない。ともかくとして、できるだけたくさんの世界に溢れるステキなものに触れたいし、味わいたいし、気づきたいのだ。えぇー、そんなところにこんなステキなものがあったんですかー、みたいな驚きを、本来ならばいつでもそこここに抱けるはずなのだが、我が身が拙いばかりに、底が浅いばかりに、無知に蒙昧に、微妙にそこはかとなくかわいすぎてしまうばかりに、ほかのそこここに散在するステキなものが霞んでしまって、見えなくなってしまっていて、取りこぼしてしまっているのだよね。もっといろいろと感動できるはずなのに、その能力がまだまだ開拓されていないので、麻痺してしまっているので、根っこが届かずに、ステキ養分を吸えないままなので、あーん、と悶えたくなってしまうな。でもいま触れて味わって気づけているステキなものたちに出会えているだけでもたいへんに幸運で、うれしくて、満足してしまっているので、もうすこし貪欲になりたいな、ということなのかもしれないし、まだ欲を張るつもりなんですか、の呆れをしれっと受け流しているだけかもしれないし、どちらにしたところで、ほとほと贅沢な環境にいるのだよね、という感謝とも自慢ともつかぬ自堕落を吐露して、できればもっとステキな表現に創作に構造に情報に触れたいのだよなぁ、味わいたいのだよなぁ、気づきたいのだよなぁ、と欲の底を突き破って、ただただ世界を余すところなく、感受したい。できれば手間をかけずに、同時に、重ねて、まるっと全部を映画や漫画を楽しむように(なんて贅沢な望みなんざましょ)。


3192:【2021/09/03*逃した魚は惜しい】
(未推敲)
 学校に遅刻しそうになって慌てて駅に飛びこんだ。いつもと違う時間帯だからプラットホームは混んでいた。
 長蛇の列に並んでいると、友人からテキストメッセージが届く。どうやら同じ駅にいるらしく、いっしょにいこう、とお誘いだ。
 どの道、遅刻は決定的だ。教師のお叱りを受ける道連れは多いほうがよい。
 場所を訊ねると、いちど上までこい、という。いつになく偉そうだな、と不満をぷりぷりお尻に垂らして、階段をのぼり、渡り廊下に立つと、友人が小走りで掛けてきた。抱きつかれて驚く。
「なになに、そんなに寂しかったん」
 友人は無言で顔を離すと、メディア端末の画面を見せた。なぜか友人は涙目で、画面には線路から距離を置いて、一人だけぽつねんと佇んでいる私の姿があるばかりだ。
 渡り廊下からプラットホールを見下ろす。
 混雑していたはずが、そこには人っ子一人いない。
 アナウンスが響いた。
 特急電車がまいります。線路の内側までお下がりください。
 私は目を疑う。
 先刻までいなかったはずの真っ黒い影が、プラットホームにずらりと浮きあがって視えた。
 影は列をなし、心なし、こちらを仰ぎ見ている。
 特急電車が駅構内に高速で突入したところで、影たちは順々に線路のうえに消えていく。さも、そこに電車の入り口があるかのように滑らかな動きだった。
 もしじぶんがそこに立っていたら。
 特急電車が秒で駅を通過する。
 同じように影を追って線路に突っこんでいたかもしれない。
「ありがとう」私は友人に礼を述べた。
「ダメだよ」友人は鋭く言い放つと、私の身体をぎゅうと抱きしめる。「これはあげない」
 振り返ると、私の背後に、例の影がぼんやりと、しかし明瞭に人型の輪郭を伴なって立っていた。
 友人がもういちど叱り飛ばすと、影はいちど大きく揺らぎ、姿を霞ませた。
「なに、いまの」
「いいの。気にしないで」
「電車、乗る?」これからまたあのプラットホームに下りる勇気はなかった。
「バスでいこ」友人は私の手を握る。
「くるの一時間後だよ?」
「じゃあもう午前はサボっちゃお。パフェとか食べてこうよ。ね」
 私はしばし考え、そうすっか、と諦めの笑みを浮かべる。教師には、なんと言い訳をしようか、と考えながら。きっと本当のことを言っても信じてはもらえないのだろう、と友人とのあいだにできた秘密に、すこしばかりのくすぐったさと怯えを覚えつつも、なぜか湧きたつ陽気を噛みしめて。
 プラットホームを見る。
 影たちがまた、ぼんやりと浮かび、消えた。


3193:【2021/09/04*あんまり並べたくはないけれど】
ワクチンは打ったほうが好ましいが、そもそもを言えば、ワクチンを打たない者がいたとしても問題ない都市設計を築いていくほうが、正攻法と言えるのではないか。身内のことはなるべく並べたくないが、祖母は高齢者で、過去にインフルエンザワクチンやその他の薬剤投与で体調を長期間崩したことがあるために、接種会場の医師にてこたびのワクチン接種にストップがかかった(現在常飲している薬との兼ね合いもあるのだろう)。そういう個人が一定数社会にはいる。そうでなくとも、ワクチン接種の同調圧力をつよめたり、強制したりするのは公共の福祉のうえでも好ましくはないと考える。とはいえ、ワクチンが害悪だ、という風潮も、このところ若い世代(二十代~三十代)の一部界隈で顕著に目立ってきた。ワンピースの空島編を読んだことがある者は、カルガラとノーランドの交流を思いだしてほしい。疫病に対抗するのにワクチン(抗体をより安全に身に着ける手法)は効果が絶大なのだ(※1)。ワクチンは万能薬ではない、との意見はその通りだが、この世に万能薬は(いまのところ)一つもないこともまた事実である(どんな薬も万能薬ではない)。メリットとデメリットを比べて、メリットのほうが大きければ、その術を選ぶのが合理的判断の意味だ(よりメリットの大きいほうの術を選ぶ、という意味です。或いは、デメリットのより少ないほうを選ぶ、と言い換えてもよいでしょう)。デメリットだけを強調したり、或いはメリットだけを強調する言説には、どういう意見であろうと気をつけておいたほうがよいだろう。個人的には、ワクチン接種を推進したいがあまりに、そうでない異論に対して、聞き耳を持たずに、小馬鹿にしたり、デマの一言で一蹴したりする者たちの悪影響で、却ってワクチン接種忌避の流れが強化されて映る。誰に対しても、どんな言説に対しても、誠実に対応してこそ、より合理的な判断への合意を得られるものではないだろうか。ワクチンにもメリットとデメリットがある。何にでもそれはある。打たないリスクと、打ったときのリスクを比べてみて、打ったほうがリスクが高くなる(じぶんにとって好ましくない未来が訪れる)、と判断できたならば、打たない道もあってよい。ただし、現状では、多くの医療従事者や保健所職員の高い負担があってこそ保たれている身の安全であることを知っておいても損はないだろう(疫病による社会のしわ寄せを、一身に引き受けてくれている者たちがあるからこそ、その他の大勢は、のほほんと、三密回避やマスク装着程度の対策で安全に生活できているのだ)。ワクチンを接種して身体に変調をきたすリスクよりも、飲酒や喫煙を何年も継続して嗜好することで身体に変調をきたすリスクのほうが高いのだ。まずはそこのところから認識を改めてみてはいかがだろう(ワクチンを打たない判断をしてもよいが、だとしたら酒や煙草もやめてみてはどうだろう)(ちなみにこれは皮肉です)(誠実でない対応の例とも言えます)。繰り返すが、各国は、ワクチン接種だけに打開策を預けるのではなく、ワクチンを打たない者たちの安全も確保できるような都市設計をいまからでも築いていくほうが好ましいのではないか、と意見を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください(言い換えるならば、そもそも疫病が広範囲に急速に広がらないような都市設計を国際的に築いていくことが求められているのではないか、との懸念です)(ワクチンがあるから、特効薬ができたから、といって社会構造をそのままにしていれば、また別のウィルスによって同じことの繰り返しが起こる確率のほうが、起きない確率よりも高いのではないでしょうか)。(※1:ノーランドが患者たちに投与していたのはワクチンではなく特効薬でした。注射による投与の描写があったため、ワクチンだと勘違いしておりました。比喩に使うには不適切だったようです。いつも以上に適当なことを並べてしまいました。申し訳ありません。2021/09/08追記)


3194:【2021/09/05*騒音の主】
(未推敲)
 マンションに住んでいると、イチャモン紛いの苦情を入れられることがある。たとえば異臭だとか騒音なんかはよくある苦情だ。
 真実にじぶんに瑕疵があるならば呑み込めるものの、そうではない他人の問題を、濡れ衣よろしく被せられることもある。
 じぶんでも気づかないうちに、問題の事象とは無関係の住人に不満を募らせてしまっていることもあるだろう。そうした失敗をしないようにと、注意深く暮らしている。
 そのお陰で回避できた苦情もある。
 一つに、上の階の住人の立てる物音がある。
 夜な夜な、子どもの足音がバタバタとうるさいのだ。しかし真上の部屋は空室である。子どもの足音はおろか、住人の生活音とて聞こえるはずもない。断るまでもなく、心霊現象の類ではない。
 部屋と部屋のあいだに開いた空間のせいで、音が曲がって聞こえるのだ。
 もしも真上に住人が入っていたら、そのことに気づかずに、理不尽なクレームを入れてしまっていたかもしれない。気づけてよかった。
 だが真下の部屋の住人はそこまでの頭を働かせられなかったようだ。管理人に、足音をどうにかしてくれ、と苦情を入れたらしい。
 じかに管理人から注意を受けたが、これこれこういう事情で、きっと要因は別ですよ、と教えてあげた。我ながら親切だ。
 いちどはそれで引き下がった管理人だが、数日後にふたたび訪れた。
 やはり我が部屋から足音がするそうだ。この階にほかに子どもを育てている家庭はないという。
 だが私とて独り身だ。
 子どもはいない。
 かように言い張ったが、ほかの住人がたびたび私が子どもを連れて歩いている姿を目撃していたと、管理人からは説明された。
 見間違いですよ、と否定した。人違いですよ、と。
 管理人は疑いの目を変えずに、気をつけてくださいよ、と言い添えて去った。くれぐれも面倒は起こさんでくださいね、とあたかも私が犯罪者かのごとく物言いに腹を立てたが、それよりもまずはすることがある。
 はてさて。
 玄関の扉を閉じ、物置部屋の鍵を開ける。
「おかしいな。ちゃんと切ってあるのに」
 歩けないように手足の腱は切ってある。
 この部屋から子どもの足音が聞こえるはずがないのだ。あり得ない。
 だが、注目を浴びてしまったのはよくない。
 ひとまずコレは処理してしまおう。時間を置いてから、新しいオモチャをまた拾ってくればよいのだ。
 髪の毛を鷲掴みにする。
 呻き声をあげるソレを物置小屋から引きずりだし、風呂場へと放りこむ。
 注文していた電動ノコギリはまだ届かないため、今回も手作業でゴリゴリと細かくしなければならない。
 最初のうちは楽しかったが、何度も繰り返すうちにすっかり飽きてしまった。腕は筋肉痛になるし、臭いもなかなかのものだ。
 頭のなかで解体の段取りを振り返り、嘆息を吐く。
「こうなったのもおまえのせいだからな」
 言ってから、いや足音はこいつが立てたわけではないのだよな、と思いだす。いったいどこの部屋のやつだろう。
 人の迷惑を顧みない騒音の主を思い、やれやれ、とノコギリの刃をソレの首筋にあてがう。ひと思いに引いた。
 気のせいだろうか。
 一瞬、背後から、ドタドタと何かの駆けずり回る音がした。


3195:【2021/09/05*浅い妄想】
たとえば南国の孤島に一人で暮らしていたとして、そのときに日誌をつけていたらどんなことを並べただろう、と想像してみると、案外、日々の生活の工夫や閃きのメモばかりになりそうだ。どこどこの入り江では魚が獲れやすい、数か月前はそうでもなかったので、時期によって魚たちの生息域が変わるのかもしれない。みたいな感じだ。植物日誌になりそうだし、生物日誌になりそうだ。それ以外にも、天候についての考察を並べるだろうし、食べて美味しかった食材や、食後の体調の変化など、事細かくメモしたい欲求に駆られそうだ。目下の懸案事項として、ノートには限りがあるので、紙とペン代わりとなる道具の開発にも明け暮れそうだ。火の扱いはどうなるだろう。病気になったときの対処法が不明瞭なので、つねに不安と闘っていそうだ。ということは、日誌にもそういった内心の吐露が増えるかもしれない。おそらくは、こうした「いくひ誌。」で並べているようなことはほとんど並べないだろうし、小説もつくろうとは思わなくなってしまうのかもしれない。いや、どうだろう。却っていまよりも虚構世界の創作にかかりっきになるだろうか。いくひしさんの創作の中核にあるのは、さびしさなのだろうなぁ、となんとなくぼんやりと自己分析しているので、寂しさが増えれば、創作に向き合う時間も増えそうだ。そういう意味では、いまはあまり寂しくないのかもしれない。舞台が南国の孤島ではなく、誰もいなくなった無人の都市だったらどうだろう。これは孤島よりも寂しさが募りそうだ。どこかには人がいるかもしれない、との希望が、焚き火の熱のごとく胸の奥底にじんわりと寂しさを広げそうだ。南国の孤島のほうがそういう意味では、孤独を感じにくいのかもしれない。諦めが早々につく、と言い換えてもよい。とはいえ、どちらがより死の恐怖に怯えつづけなければならないか、と言えば、これは明らかに南国の孤島だろう。文明の恩恵をいっさい受けられない、というのは、なかなかの恐怖だ。そこかしこを虫が這いまわる不安がないだけでも、安心の意味合いで都市に一人きり取り残されて生きるほうが雲泥の差で安心できると言えそうだが、住めば都ではないが、慣れてしまえば、いま思うほどには南国の孤島生活もそれほど差はないのかもしれない。きょうもきょうとて並べることがなかったので、いまとは違う環境で日誌を並べたらどうなるだろう、と浅い妄想を並べた。本当に浅くてびっくりしたけれども、南国の孤島で暮らすならば、浅瀬で魚や貝を獲れれば充分だし、沖合いにでるのは危険だろうから、これでよいのである(何がだ)。おしまい。


3196:【2021/09/05*眉の娘】
(未推敲)
 きょうこそミカさんに告白しようと思って、学校帰りにあとを尾行(つ)けていたら、ミカさんの背中から、ころん、と何かが転がり落ちた。
 なんだ、と目を凝らす。
 髪の毛が千切れたようにも、あるはずのない尻尾が剥がれ落ちたようにも見えた。ともかくソレはミカさんが落としたもので、私は素早くソレを拾いに走った。
 面をあげると、沈む夕陽に染み入るようにミカさんが遠ざかっていく。
 私は逡巡した挙句、せっかく固めた告白の覚悟をふにゅりと歪めて、きょうは家に引き返すことにした。
 手の中には、黄土色の卵のようなものがある。ミカさんの落し物だ。
 私はふわふわと夢心地のように、地面から三十センチは宙に浮きながら帰宅した。どうしよう、と顔がほころびて仕方がない。
 宝物を拾ってしまった。
 着替えもせずにじぶんの部屋のベッドに寝転び、子猫を顔のまえに抱き上げるようにして、拾ってきた宝物を、ミカさんの落し物を、掲げる。
「なんだろう、これ」
 掌に包みこめる大きさだ。光沢がある。一見すれば金の卵のようだが、表面には無数の皺が寄っており、アボカドに似ていなくもない。
 ひどく硬い。
 握りつぶすことはできないが、たとえできたとしても、せっかくの宝物を潰したくはない。
 私はそれを後生大事に胸に抱きながら、ベッドのなかで刺激的な妄想をして、すこしだけ体力を消耗した。
 そのまま寝てしまったらしく、夢心地に、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700426920626771)


3197:【2021/09/06*並べることがなかったもので】
新人賞の下読みで、いちど落選した原稿をほかの新人賞に使い回すことについて、それはいかがなものか、と物申している下読みの方がいた。この手の問題は、いくつかの瑕疵が別々の層にかかっていることを度外視して議論されるので、まとまるものもまとまらなくなるように思っている。レイヤーが違う、という言い方をするといまふうになるだろうか。たとえば新人賞の規約にそのような禁止が書かれているのか、をまずは確認しておいたほうがよいのではないか。とくに記載されていないのならば、使い回しを理由に評価を下げるのは不当だと言えよう。最終候補に上がってきた原稿を、いちどほかの新人賞で最終候補に上がって受賞しなかったことを理由に排除するのならば、それは理に合わない判断と言える。ほかの賞でも最終候補にのぼるくらいなのだから、もはやその作品の実力は示されたも同然ではないか。拾いあげてさっさと世に問えばいい。それから、使い回しが忌避される理由が、新人の生産力に疑問が生じるから、という趣旨の主張がみられるが、そもそも新人賞は、原稿の良し悪しを測っているのであり、新人の力量を見ているわけではないはずだ。いやいや新人の力量を見ているのだよ、と反論が飛んできそうだが、そうした反論を呈する者の言う力量とは何なのか。おもしろい物語を編めることを言うのであれば、そのときどきに送られてくる原稿をただ評価すればいい。そうでない場合、それは学歴で判断するとか、作者の性別で判断するとか、顔のよさで、年齢で、職業で、人種で、特技で、SNS上のフォロワー数で、と作品以外の要素で評価することと何が違うのか、といまいちどよくよく考えを煮詰めてみてはどうだろう。生産力とは言うが、たくさんつくれるか否かなど、長生きできるかどうかや、お金に困らない生活を送れているかどうか、といった環境の要素のほうがはるかに生みだせる作品の数に関与する。たかだか数年のあいだに何個作品をつくれたか、など、そんなものは作家の力量とはなんの関係もない。あったとしても極々微量な相関関係にすぎない(だいたいにおいてたくさん作品がつくれたからといって何だというのか。個々の作品の出来と関係ないではないか)。他方、使い回しの問題には、コストの面での隘路がある。小説は一作を読むのに時間がかかる。下読みにかかる負担がほかの表現物に比べて高い傾向にある。もしこれが絵画や漫画の新人賞ならば、使い回しは、小説ほどには口うるさく言われないはずだ(憶測です)。要するに、小説の場合は、ビジネスとして儲からないので、できるだけ下読みの数を減らし、それでいて一人当たりに読んでもらう作品数を多くする傾向にある。使い回しが増えると、投稿数が増えるので、下読みの負担もまた増える道理だ。しかし本来ならば、下読みの数を作品数に比して増やせばいいだけの話だ。それができないのは、やはりというべきか、資金に限りがあるからだ。下読みの数を増やして新人を発掘するのは、コストに見合わない。割に合わない。かけた分の資本を回収できない。端的に損なのだ。むろん現状とてさほどに利益はでていないだろう。下読みにしたところで、労力に見合った報酬は支払われていないのではないか。ゆえに、負担が増えることをことほどに忌避する。やってられるか、というやつだ。だがそれは主催者側の都合だろう。規約に書かれておらず、原稿の出来だけで評価せず、さらには主催者側の都合で言いがかりをつけられ、それをさも常識知らずのように非難されたら、もうそのような価値判断を採用する者たちに作品を読んでもらわんでもいいです、と思う作家が増えても致し方ないのではないか。作家にはそれぞれに想定している読者がいるはずだ。下読み含め、あまたある新人賞の審査員たちのなかに、想定している読者が一人もいないと感じられたら、もはや文芸と呼ばれる界隈に近づこうとは思わなくなるのではないか。悪意のある新人賞関係者がいるなんて本気で考えている物書きはそう多くはないはずだ。だが、悪意のあるなしに関係なく、どこを目指し、何を見据えているのかを共有できなければ、新人賞に受賞する意味も、プロになる意味も、色合いを薄めてしまうものではないだろうか。新人を発掘したい側も、新人側も、大金を稼げればいい、と考えているのならば、べつにそれで構わないのかもしれないが、いやはや、そもそも小説をつくるだけで食べていける時代ではない事実から目を逸らしてしまうような者には、大金を稼ぐ真似などできないのではないか、と老婆心ながらご心配さしあげて、本日のいじわるな日誌、「いくひ誌。」とさせてください。(上記、憶測まじりの野次ですので、真に受けないように注意してください。反論があるならば、べつにしてもらってもそれはそれで構いませんが、されたところで、はぁ、そういうものですか、貴重なご意見ありがとうございます、と納得して終わりになるかと思います)


3198:【2021/09/06*宝剣のとどめ】
(未推敲)
 魔王のせいで世界がこうまでも荒廃しているのだ。
 私は伝説の宝剣を手に、魔王討伐の旅に出た。
 三か月の激闘の末、魔王を討ち取ったが、その後、魔王の城を漁って判ったことだが、魔王はひそかにこの世に溢れた邪心を集め、一身にそれを背負いこんでいた。それでもとめどなく溢れる邪心を、せっせと子分の魔物たちに肩代わりさせ、それでも集まりつづける邪心を凝縮して、魔王ですら劇物に値する結晶にしてなお、それを呑み込み、世のため、人のために、人知れず苦しみ、人類社会を救っていた。
 私は伝説の宝剣を魔王の胸から抜く。
 代わりに邪心の集まる宝玉の口にそれを突き刺した。
 滾々と湧いた邪心はシンと鎮まり返り、都という都からは日に日に、怒号に悲鳴が巻き起こる。


3199:【2021/09/07*上澄みの賢さ】
城の柱のヒビを見つけて、これは危険だなんとかしたほうがいい、と忠告できる者は相応に賢こかろうが、土台を穿り返してもみれば、まずは城がなくてはそうした忠告を挟む余地も生まれない。世の中のたいがいの忠告や指摘や批判というものは、それ以前に柱となる基盤を築いてきた者たちの膨大な労力と蓄積と足跡があってこそ成り立つ、上澄みの薄皮のようなものでしかなく、どのような批判とて根元を穿り返せば、それらヒビの走る余地のある仕組みをつくりだした先人たちの多大な来歴なくしては、砂上の楼閣ほどの価値も生じない。妄想ですらない。虚空に向かって、ここには何もないではないか、とつぶやくよりも無意義な寝言と言えよう。そういう意味では、基盤の仕組みを理解もせずに、上澄みの批判だけするよりかはまだ、いまここにはないがいずれあったほうが好ましい理想を唱えるほうが、いくぶんマシと言えそうだ(定かではありません)。


3200:【2021/09/07*虐殺スイッチ】
(未推敲)
 道端にリモコンが落ちていた。薄い金属の板にボタンが一つだけついている。日の丸弁当じみている。
 僕はそれを拾い、通学中だったこともあり、学校に持っていった。
 しばらく逡巡していたが欲求に抗えずに授業中に押してしまうと、クラスのいじめっこが勃然と消えた。
 教室は騒然となったが、僕は目のまえがぱっと光に包まれた。黒板や机や窓の外の街並みに色が宿って感じられた。
 家に帰ると、母がまたあの男に殴られていた。僕とはなんの関係もない男だが、母はなぜかそいつを家に入れ、布団にいっしょに潜り込み、ときに二人だけで出かけた。
 僕は拾ったリモコンのボタンを押した。
 例の男が目の前から消えた。
 母が泡を食って取り乱したが、僕はいよいよ昂揚した。
 それからというもの僕は、僕にとって気に食わない相手を軒並みリモコンを使って消していった。
 気に食わないかどうか曖昧な場合は、わざと悪態や迷惑をかけて、その反応を見て僕にとって好ましくなければ問答無用で消してやった。
 中には、いちど威圧するだけで態度を改める者もあり、そうした者には情状酌量の余地を与えた。
 とくにカオルくんの手のひらの返しようは辞書に載せてもいいくらいの正反対の様相を見せ、かつては僕の財布からかってにお金を奪っていくヤなやつだったのに、いまでは僕が欲しいものを言うだけで持ってきてくれるいい人になった。カオルくんの恋人まで僕に貸してくれて、本当のなんて便利な人なんだろう、といまでは一番の友達だ。
 きっと目のまえで彼のお兄さんを消してやったのが効いたのだ。頭のわるい野犬には相応の躾がいる。効果覿面だったよい例と言えた。
 ある日、僕はカオルくんにお礼のつもりも兼ねて、どうやってお兄さんよろしく人間を消してしまえるのかを教えてあげた。
 カオルくんが次から次に僕に、新しい女の子やら少年やらを持ってきてくれるので、その奉仕に対して報いたかった。
「じつはこのリモコンのボタンでね」
 論より証拠だ。
 実演してみせた。
 僕を拒んだ女の子を目視して、ボタンを押す。女の子は一瞬で消えた。
「ね。すごいでしょ」
 カオルくんは、わんわん、と返事をした。僕のまえでは犬の真似をするように、と僕が彼に命じたので、そうしているのだ。
「誰か消してほしい人がいたら言ってね。カオルくんの頼みなら一度くらいは聞いてあげてもいいよ」
「わんわんわん」
「お礼はいいよ。きみと僕との仲じゃないか」
 カオルくんが仰向けになって、おねだりの格好をとったので、僕は彼の顔を踏みつける。
 いつもならここから先、カオルくんを使ったちょっとした暇つぶしが開始されるはずだったのだが、なぜかカオルくんは僕の足を持ち上げると、僕を地面に転がした。
「ぷぎゃ。痛い」
 身を起こすと、カオルくんが僕のリモコンを持っていた。ボタンに指を添えている。
 目は、僕をギラギラと射抜いている。
「待って」
 制止も虚しく、視界は暗転する。
 瞬きをすると、真っ赤な空間に僕はいた。
 刹那の時間に移動した。
 体育館くらいの広さがありそうで、映画館みたいな薄暗いなかに、無数の蠢く人影が見えた。
 いっさいが赤い世界のなかで、彼ら彼女らは一様に僕を見た。
 緩んだ紐がピンと張るように、空間全体に鋭利な刃のような気配が充満した。それらはあたかも虫眼鏡で集めた太陽光のように、僕にだけそそがれている。
「待って」
 僕は言うが、まばらな人影たちは、一歩、二歩、と距離を縮める。



※日々、こうしなくてはならない、と思った途端にワクワクが失せる。


3201:【2021/09/08*外は雨模様】
最近はちょっとキャラをつくるのが疲れてきました。素にちかい状態になるほど言葉を並べることができなくなるので、光をプリズムに分離するように人格の一部を塞いで、任意の感情の際立つキャラに委ねているのですが、最近はなんだか自我のどこを塞いでも意図したようなキャラが意識の壇上にずっといてくれないので、なかなか以前のような日誌を並べられません。これといって以前のような日誌を並べなくてはいけない、なんてことはないのですが、せっかく調整して選んだキャラがすぐに意識の底に沈んで自我に同化してしまうので、じぶんの手足を上手に動かせないようなもどかしさを覚えます。かといって、以前の日誌とて、たいして記事ごとに差はないのかもしれませんし、思っているよりもキャラは変わっていないのかもしれません。じぶんでは文章形態を変えているつもりでも、読者からすれば、どれもいっしょだよね、と思わているかもしれません。その公算が高そうですが、まあその程度の腕ということです。けっきょく、自我なんてものは、じぶんで思うほどには分離できないものですし、塞いだつもりでも滲みでているものなのでしょう。できるだけ異なるキャラクターを増やそうと思い、つづけてきたこの日誌ですが、そろそろ別の工夫も試していく時期なのかもしれないな、と思いはじめてはいるのですが、思っているばかりで、時間ばかりが経ってしまいます。もうすこし正確には、以前から指針を立ててはいたのですが、なかなかどうしてどのような工夫をとればよいのか、と見繕えずに、工夫の余地を探す工夫ばかりに時間を費やしてしまいました。未だにどのように日誌をつづけていけばよいのか、果たしてつづける意味はあるのか、あるとすればどのような意味合いが生ずるのか、と考えれば考えるほどに悩ましく、答えがでずに、惰性での継続を選択してしまいます。続けることに意味を見出してしまったときほど、閉じた系として成立してしまい、風船のようにやがて萎んでいく定めに従ってしまう気がいたします。もちろん閉じた系であれ、エネルギィとしての刺激を外部供給されれば、回路として相応の成果や変化を帯びつづけることはできるのですが、いちど閉じてしまうと、なかなか外部からの干渉を得ようとは思わなくなり、結果、孤立系として変化を得なくなってしまうようです。その点、できるだけ開いていれば、否応なく万物流転の流れに触れるので、つぎつぎに意図しない変化を帯びやすいと言えそうです。閉じたり、開いたりを自在にできるとよいのですが、おそらくそうした自在を手に入れようとする流れを一時的にであれ成立させた構造が、より複雑な回路を形成し、そうした回路を形成する変質の過程そのものがより永続して機能する機構として結晶し、生命として顕現したのでしょう。生命の基本は、閉じたり開いたりの反復にあり、律動にあると言えそうですが、言えるだけであり、確かである保証はありません。言うだけならばことほどに容易であるのに、それの正当性を担保するには、言葉を並べる作業の何千、何万倍の時間を要するようです。時には一億倍でも足りないときもあるでしょう。じぶん一人だけでは証明できない妄言もあり、往々にして言葉とはそういう性質のものだ、と言っても過言ではないでしょう(たとい過言でも差し障りありません)。どの道、いかような工夫を割いたところで、ここに並ぶ言葉の連なりに、重大な意味合いが生じたり、構造が顕現する確率は極めて低いと予想されますので、言葉の持つ曖昧で広漠で希薄な性質に甘んじて、このまま好きなように、自我の赴くままに、登場させたくない人格には沈んでもらって、ときにはあべこべに浮上してもらって、真っ黒でも真っ白でもなく、ときには真っ黒や真っ白にもなり、できるだけ好ましい色合いで、それとも目を逸らしたくなる色彩で、濃淡すら自在に選び、操れるように、ひとまずの指針を定めて、すっかりは閉じずに、結んで開いて手を打てる余地を残しつつ、万物の流転にすっかり根こそぎ同化するまでの期間、こうして益体のない砂塵のような言の葉を並べて、連ねて、イトを通して、つむいでいけたらよいのにな、と他力本願に望んで、拝んで、結んでしまい、本日の「いくひ誌。」といたしましょう。雨色担当の、イクビシマンでした。


3202:【2021/09/08*紅が咲く】
(未推敲)
 庭の木を伐採した。
 木には何かしら鳥の巣らしきものがあり、卵がいくつか残っていた。地面に潰れたそれはどこか黄色い花のようだった。
 申し訳ないな、と思いつつも、材木といっしょくたにして処分した。
 後日、見晴らしのよくなった庭にて茶を啜っていると、一匹のカラスが塀のうえに止まった。
 絹糸のように艶やかな羽だ。眼球は人懐こそうに丸みを帯び、ときおり首をひねり塀のうえをチョンチョンと跳ねる姿は愛嬌があった。
 毎日のように庭でカラスを見かけた。同じカラスなのだろう。
 餌代わりにパンをちぎって投げる。
 その場では口をつけないが、いちど家に引っ込み、夕方に庭を見遣ると、パンは消えていた。
 餌付けではないが、日々パンやら米粒やらを投げていると、カラスは時間をおかずにそれをついばむようになり、やがて塀の上からおり、近くまで寄ってくるようになった。
 数年が経った。
 いまでは共に縁側に腰掛け、ツーカーではないが、短い会話のようなものを交わせる仲にまでなった。
 いつしか、幸運のカラスなのかもしれない、と思うようになった。
 というのも、私の家の庭を覗いた女性がカラスに興味を持ったらしく、いつの間にやら彼女は私の家に通うようになり、いまでは妻として彼女は私たちの子を抱いている。
 産まれたばかりだ。
 縁側で三人と一匹が横並びになり、夕焼けの空を眺める。
 夜の帳が山にかかる。
 妻は買い物に出かけ、私は洗濯物を庭から取り込んだ。
 赤子は縁側に寝かせたままだ。
 カラスは子守が上手く、テンテンと床を律動よく跳ね、赤子を笑わせる。
 ビュウ、と風が吹く。
 飛ばされた洗濯物を追いかけ、拾いあげたとき、赤子の盛大な泣き声が聞こえた。
 振り返る。
 縁側にて、執拗に床を突つく漆黒がいた。嘴が空を切る。泣き声がやむ。鎌を振り下ろすように、それは幾度も素早く、首を振る。
 眼孔を空ろにした我が子は、夕陽よりも紅く、紅く、咲いている。


3203:【2021/09/09*自由は孤独】
社会の発展が進むにつれて、人間の行動選択の幅はどんどん常識や倫理や法律によって狭められていくのではないか、との予感がある。いまある種々の規範問題や倫理問題といったものは、複雑になりすぎた社会に顕現するバタフライエフェクトや創発現象を防ごうとするために生じる摩擦のようなものなのではないだろうか。個々人一人一人の行動を取りだして、問題を吟味したところで、個々の行動の是非は測れない。或いは、問題のあるなしを赤青くっきりつけられるはずだ(好きなときに好きな場所を好きなように散歩することはよいことか、わるいことか。これを論じるには、いつどこにどのような格好で散歩をするのかによって、その是非は変わっていくことになる)。そこにきて、複雑な回路のなかに取り込まれた群れとしてのふるまいにまで視点を拡張して考えた場合、個々の行動のよしあしに関係なく、群れ全体のふるまいが起こす予期せぬ事象が正常な回路の活動を阻害すれば、それは社会的に好ましくない事象として捉えられる(たとえば昼間に公園に散歩にでかけることは基本的には個々の自由であり、どちらかと言えば好ましい選択であるはずが、大勢が公園に押し掛けたことで公園内に生息する貴重な植物が踏み荒らされ、絶滅の危機に瀕したとすれば、公園に散歩にでるのを控えましょうといった禁止が国から発せられるかもしれない)。しかしそこで、好ましくない事象を解消しようとして、個々の行動を制限したところで根本的な問題解決にはならない。なぜなら問題は、個々の行動にはないからだ。個々には還元できないのだ(なぜなら、公園内の植物が絶滅の危機に瀕したのは、「大勢が」公園に押し掛けたことが問題なのであり、公園に行くことそのものではないからだ。単純に公園の数がすくないのが原因かもしれないし、貴重な植物を保護せずに野放しにしている管理体制に問題があるのかもしれない。すくなくとも公園は、人々が集まることを目的につくられている以上、散歩を禁止したのでは、公園の存在意義すら揺らぎかねない)。ゆえに、好ましくない事象を引き起こしただろう個々の行動を牽制し、制限したところで、べつの個々の行動が群れとなって創発すれば、似たような構図の問題が浮上すると妄想できる(散歩を禁止された人々がこんどはみな家から一歩もでなくなれば、それはそれで大きな問題が生じる)。つまり、川が氾濫するのは、そこを流れる水に問題があるわけではなく、川を形成する溝や土壌の形状に根本的な瑕疵がある。仮に川の氾濫を止めたければ、堤防を築くなり、ダムを築くなりして、川そのものの構造を変えていくほうが合理的だ。いまある社会問題もそこのところに通じており、複雑化した社会構造(回路)のなかに取り込まれた「群衆による好ましくない作用」を是正したければ、それは個々のふるまいを制限するのではなく、社会構造(回路)のほうこそを改善していくほうが、好ましくない事象の再発防止という側面ではより妥当だと言えるだろう。もちろん、一つの問題を解決するために施した修正により、回路が歪んで、却って好ましくない事象が多発する可能性はつねにある。そこは回路を修正する前に、議論を重ね、シミュレートし、慎重に見極めていきたいところだ。まとめよう。要点としては、社会構造(回路)を変更したことで、個々人の行動選択の幅が狭められないようにしなければ、回路を修正する意味合いが極端に薄れるのではないか、との懸念だ。つまり、なにゆえ回路を修正したほうが好ましいのかと言えば、できるだけそこを流れる群れ――個々の自由を侵害せずに済むようにするためであるはずだ。回路を修正したことで個々の自由が侵害されてしまえば、たとえ社会的に好ましくのない事象が解消されたとしても、社会はより深刻な宿痾を抱えることになる。優先すべきは個々の行動選択の幅をより拡張していくことにあり、それを狭めては本末転倒と言えよう。個々は自由にふるまってもいい。ただし、川を流れたときにどこに向かうのかは、川を形成する溝に委ねられることになる。溝のほうでは川の水を形成する水分子一つ一つにまで、これこれこのようにふるまってほしい、などとは命じない。しかし、川の溝が細分化し、複雑化していくにつれて、分子一つ一つにも命じたくなるような隘路が生じることもある。そのときに、個々の行動選択を狭める制限を増やすのではなく、選択肢を増やすことで、問題解決を目指すことが望ましい。個が群れとなったときに顕現する好ましくない事象を薄めるためには、必ずしも個々の活動を制限する必要はない。選択肢を増やすことで、群れのなかの個々人がみな同一の行動をとらずに済むようになればよい。個々の活動の種類を増やし、分散してやればよいのだ。だが現状、個々人の選択肢を減らすことで、社会に顕現した問題を解決しようとする勢力や風潮がいささか幅を利かせすぎているように感じなくもない。個々人に還元できない問題であるにも拘わらず、個々の行動様式に原因があると錯誤してしまえば、いったんは解決したように見えても、また似たような問題を繰り返すはめになるだろう(もちろん社会問題のすくなからずには、個々人の行動そのものが問題の要因となっているものも多々ある。それらは総じて現代では禁止事項として法律にまとめられている)。現代社会に浮上して見える問題の多くは、対処法からして根本的に誤っているものが含まれて感じられる。個々の生活を豊かにし、行動選択の幅を増やそうとする営みこそが、人が人とつながり社会をつくる原動力であり、目的であったはずだ。そこのところを度外視して、社会構造(回路)を維持することが目的になっては本末転倒であろう。社会を豊かにしたければまず、人を豊かにすることだ。個々の生活が豊かになれば、行動選択はおのずと離散していく。濁流にはならない(なぜなら個々人の嗜好は千差万別であるからだ。ただし社会が個々の豊かさを担保しきれない場合、そうした多様な嗜好の幅が限定されてしまう。また、個々の豊かさは技術の進歩と普及に相関して増すため、社会の発展と個々の豊かさもまた相関関係にある)。それでいて、個々人は選択肢が増えることを望むがゆえに回路のなかに組み込まれることを潔しとするので、より滑らかに回路は、その機能を全うする。川は溝に沿って流れてさえいれば、水を海へと運んでくれる。個々の水分子がどのようにふるまおうとも、海というより深淵で広大な場所へと誘ってくれる。群れと組織は違う。それは、集合と社会の違いと地続きだ。群れがバラバラになっても保たれる社会を、我々はこれからさき、より自覚的に目指していくほうが、集団を維持するために個々から自由を奪う案に従うよりも、じぶんのしあわせを追い求めやすくなるのではないだろうか(そのためには、溝の役割を果たす組織や政府や企業のほうにこそ、規範や倫理を厳しく当てはめることが求められるのではないでしょうか)。(定かではありませんので、真に受けないように注意してください)


3204:【2021/09/09*手れ隠し】
(未推敲)
 端末を家に忘れてきたので、久方ぶりに小銭を使った。自動販売機に投入しようとしたところで、落としてしまう。小銭は転がり、自動販売機の真下に入り込んだ。
 運がわるい。
 やれやれだ。
 しゃがみこみ、隙間に腕を差しこもうとしたところで、奥のほうからスススと腕が伸びてきた。
 拳だ。
 指の一本一本がおもむろに開き、手のひらのうえに小銭が現れる。
 取ってくれたようだ。
 ありがとう、と言って小銭をつまむが、はたと思う。
 なぜ自動販売機の真下から腕が?
 あっ、と思ったときには遅かった。
 細い指が閉じ、手を掴まれた。万力を彷彿とする抗いがたい力だ。逃れようとするも、びくともしない。
 謎の手は、上下にぶんぶんと揺れた。
「痛い、痛い、痛いってば」
 手首を掴むそれの力が緩んだ。
 振り払うように引き抜くと、おとなしく離れてくれる。
「びっくりしたなぁ、もう」
 自動販売機の下から伸びた手はそこで、しょげたように脱力し、ずるずると引きずるように隙間の奥へと姿を消した。
 新種の蛇だろうか。そうは見えなかったが。
 当初の目的通りにペットボトル飲料を購入する。その場で蓋を開け、喉を潤していると、マネージャーがやってきた。
「何やってんですか、もうすぐ出番ですよ」
「いまなんか手を握られてさ」
「はぁ?」
「ぶんぶん揺さぶられて」
「ただの握手じゃないですか。ファンですか? 出演者とか、まさかスタッフじゃないでしょうね。まったくもう。ちゃんと手ぇ洗ってくださいね」
 じゃあついてきてください、と言ってマネージャーは忙しそうに歩きだす。
 あとにつづこうとして、ふと歩を止める。
 自動販売機を振りかえる。
 隙間に目をやり、きみ、とつぶやく。
「ひょっとしてわたしのファンだった?」
 ガコン、と音がする。
 自動販売機の中からだ。何気なく取りだし口を覗くと、なぜかペットボトル飲料がもう一本、そこにある。


3205:【2021/09/10*あっかん、ぼう】
うわーん。見て、上記のまじめぶった文章たち。つっまらーん。なんてつまらんのだらう。ぜんぜんかわいくない。そんなんじゃダメ。幼稚園児からやり直して。赤ちゃんから這いあがって。おしゃぶり吸ってて。ハイハイして。ばぶー。でも、そう、赤ちゃんはかわゆいけれどそれはそれなのだよね。じぶんで子育てをしていない場合にかぎるわけで、シャチさんやらカバさんやらトラさんやら、見てるだけならかわゆいけれどもじっさいに飼うとなったら、人生ねじ曲がるくらいにチョーたいへん。赤ちゃんもきっと同じで、おしめを換えたり、食べられるものを用意したり、夜泣きに付きあったり、何をしてでも神経を張りつめて見張っていなきゃいけない人生で一位、二位を争うくらいに自由を縛られるものすごく疲れることを抜きにしたら、まあまあ子猫みたいでかわいいよねって、子猫も育てるとなったらやっぱりたいへんで、もうもう、かわいいってとっても無責任な感想なのである。でもでも、責任のある感想ってあるのかな、と考えてみると、けっこうあんまり思いつかなくて、そっかーってなる。感想だもの。思っちゃうものは仕方ないのだ。もし責任を持とう、と思って、なるべく角の立たない、誰からも非難の飛ばされない感想を並べようとしたら、もうもうその時点で、感想ではないのだよね。本心ではない。感じてないし、想ってない。打算と錯誤と自己保身に歪められたナニカシラで、やっぱり責任を持とうとするとたちどころにかわいくない。かといってじゃあ、無責任なのがまるっと全部かわいいかと言えばぜんぜんそんなことはないわけで、責任とかわいいにはじつはあんまり関係がなかったりするのかもしれない。それはそうだよね。子どもが初めておつかいを頼まれて、「よっしゃがんばるで! すごくこわいけど……」となってる姿は、責任があるし、かわいくもある。同時に満たし得ることもあり、もうもう、かわいいものはかわゆいのだよね。例外はないです。どんなものにもかわいくなる可能性はあって、でもまだかわいさを見つけてもらっていないたくさんのかわいくないと思われているものがあるにすぎないのだ。いくひしさんにだってかわいいところはあるし、じつは世界一かわいいのに、誰もそれに気づいていないだけなので、ときどきだけど、ちょっぴりすこし、しょげちゃうな。あ、見て見て。しょげたいくひしさんもかわゆい。あー、また真面目なことを並べちゃったな。でも真面目ないくひしさんもかわいいし、かわいくなくてもかわいいので、もうもうこれでOKです。子猫のかわいさには負けてもいい、謙虚でえらい、いくひしさんでした。


3206:【2021/09/10*備忘録は途切れる】
(未推敲)
 先日解決した心霊現象と言ったら変なのですが、事案がありまして、言ってしまうと幽霊ではなかったようですし、単なる錯覚なのだと思うのですが、すこしだけ意外な発見があったので備忘録として記しておきます。 
 電車を待つあいだの暇つぶしですし、音声入力なので、あっ途中で途切れてしまうかもしれませんが、どうかご心配なく。
 ネクタイを緩めます。きょうも暑いです。
 半年前のことでした。
 祖父が亡くなったので、法事に参列し、各々親族は形見分けをもらって帰宅しました。私は孫ですから、あまりでしゃばって高価なものをもらってくるのはよそうと思い、飾り棚にあったコケシを一つだけ頂戴することにしました。
 祖父の部屋には大量のコケシがあり、それはもう壁を埋め尽くすほどの数でした。
 大きさもまちまちであり、大きいものは私の脚よりも太く大きいコケシもありました。
 そのなかから適当に、いちばん穏やかな表情のコケシを、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427008060686)


3207:【2021/09/11*スカスカタン】
あびゃあびゃ。もうネタが、ネタが、コツンコツンのカツンカツンでごじゃるよ。みゃんも思い浮かばんでごわす。ホラーや怪談だけで百話つくろうと思ったけども、もうもうムリでごじゃるよ。うそでごじゃる。ほんとはべつに百話つくろうとは思っていなかったでござるし、ホラーや怪談にこだわってはいなかったでござる。なんでかいつの間にか、世の趨勢に流されてしまったでごじゃる。すーせーってなんですかぁ、でござる。きょうはなんもしてないでござる。きのうもなんもしてないし、寝て起きたらきょうが終わっていたでござる。そんなのって、そんなのってないでござるよ。いくひしさんの貴重な人生の一幕が、トイレットペーパーさんよりも呆気なく溶けて消えるでござる。うそでごじゃる。トイレットペーパーさんは水に溶けているわけではなく、ただ細かくチリジリになっているだけでござる。細かく砕ければ、粘土さんだって泥さんになるでござる。溶けたときは透明になるでござるから、濁っている分は、溶けてないんでござるよ。小学生でも知っていることを得意げに話すでござるけれども、いくひしさんがそれを知ったのはついさいきんの助でござる。あんぽんたんさーん、なんでござるよ。うへ。もうもうだいぶ前から息切れを起こしているでござる。ネタ切れでござる。なんでホラーさんばっかりつくってるでござるか、ばかじゃないでござるか、うへぇばかでござったでござる。それはネタ切れでなく、逆切れでござるよ。こんなくっだらなーい言葉を並べちゃうけれども、ゆるしてくださいでござる。きらわないでくださいでござる。ほめそやして、ちやーのほやーの、崇めたてまつるでござる。うそでござる。なんもしないでくれてよいでござる。たまーに、くだらないってどんなだっけ、とド忘れしてしまったときに、思いだしたくなったら読みにきてほしいでござる。別に読まなくてもよいでござるけれども、読んだあとで、こんなところにおともだちがおる、と思ってくれたらうれしいでござる。くだらないふれんずでござる。やったーでござる。うそでござる。おともだちではなく、おんなじでござる。あなたもいくひしさんも、おんなじなんでござるよ。ちがっていることもふくめて、おんなじでござる。なんかいいこと言ったふうにまとめてしまうでござるけれども、本当はただの中身のないスカスカタンでござる。ぷぷー。スカスカタンだって。耳に心地よいでござる。スカタン、スカタン、スカスカタン。タンバリンにカスタネットを叩いてお上手にお遊戯をしながら、きょうの分の「いくひ誌。」を一日遅れで更新しちゃうでござる。更新しなきゃだめなんでござるか? そんなことはないでござるよ。なんもしなくてもよいでござる。好きな時間をおすごしあそばせ、でござるー。おちまい。



3208:【2021/09/11*短いの五つ】
(未推敲)
「祖母の家の鏡は歪んでいる。鏡面に映る私の顔はいつもぐねんと曲がって、まるでおかめさんがにんまり笑っているみたいに変形するのだ。久方ぶりに祖母の家に遊びに行くと、鏡がきれいになっていた。私の顔がそのまま映る。「鏡直したんだね」祖母に言うが、祖母は小首を傾げ、なんのこと、とそらとぼける。説明してみるものの、鏡はずっとそのままだよ、と祖母が言うので、見間違えたかな、と思い私は鏡を見にいく。鏡のなかの私と目が合う。目元だけが、ぐんにゃり、と歪む。素早く瞬きをしたかと思うと、また元の平らな鏡に戻った。どれだけ待っても、鏡は二度と歪んだりはしなかった。」
「私は祖父の家の風呂場が苦手だ。むかしながらの五右衛門風呂で、ガス給湯器に繋がってはいるものの、いつ入っても湯舟の内側はぬめぬめしているし、お湯はよどんでいる。湧水を使っているからか、温泉に似た成分が入っているからだよ、と母は言うが、苦手なものは苦手だった。誰も入っていないはずなのに洗面所からバシャバシャと音がしたりしたり、何語ともつかない囁き声がするのも苦手な理由の一つだ。父に言っても、何かいるのかもしれないね、と取り合ってくれない。苦手な理由の一番はなんといっても、波紋だ。風呂を洗うときに蓋を開けると、岩でも落ちたように、じょぼん、と大きな波紋が立つのである。かぽーん、とその後に訪れる静寂も私の違和感を際立てる。」
「ピエロを生業にして三年が経つ。もうだいぶこの仕事にも慣れた。とはいえ、出番のまえに施す化粧は未だに悩む。遠目からでもひと目でピエロと判るド派手な柄を描かなければならない。白地に赤はやはり目立つ。だがこの赤が曲者だ。なかなか肌に馴染まないのだ。化粧のうまい先輩の化粧台を見遣ると、刷毛じみた赤いペンがあった。ちょいと拝借しようと思い使ってみると、一筆で顔が赤く染まる。これはいい。顔が熱いが、気にしない。ジョリジョリ、と剃っていると、顎に赤いインクが垂れた。ありゃりゃ、と思っていると先輩が戻ってくる。自身の化粧台を見て、んんっ、と声をあげ、こちらの顔を見ずに言った。「ここにあったカミソリどこやった」」
「珍しい本を手に入れた。いちど開いたら読み終わるまで目の離せなくなる本だという。珠玉のおもしろゆえに読了するまで本を手放せないのだそうだ。それはいい。飼いはじめた子猫の世話で気が滅入っていたのだ。ときにはほかのことに没頭したい。そうと思い、布団にくるまって本を開く。吸いこまれるような引力を感じ、ここではないどこかに降り立つじぶん自身を予感する。ぱたん。本を閉じると、私は壮大な旅を終えて家に帰ってきたような何度とも寂寥ともつかぬ感慨に浸かった。喉が渇いていることに気づき、身体を起こそうとするも、動かせない。じぶんの手を見て、目を瞠る。げっそりと痩せこけている。骨と皮ばかりだ。床を見遣る。埃にまみれている。異臭を察知する。眼球だけを動かし目を転じる。臭いの元では骨を露出させた塊が、尾にだけ毛を残し、蠢く虫の群れに覆われている。」
「トイレットペーパーを巻き取ると、そこに占いが書かれていることに気づいた。粋な計らいだ。読んでみると、頭上に注意、とある。なんのこっちゃと気にしていなかったが、その日の昼間に職場にて地震に遭った。頭上に積んでいた段ボールが落下して、あわや大惨事だった。段ボールの中身が軽かったので難を逃れた。ちょうど朝のうちに中身を整理していた。それ以来私は、これといって信じていたわけではないのだが、トイレットペーパーの占いには必ず目を通すようになった。占いはことごとく的中した。私にそう思えるというだけのことかもしれないが、乗らずにおいた電車が脱線事故に遭ったのを目の当たりにしたら認めずにはいられない。この占いは、当たる。だがトイレットペーパーは消耗品ゆえ、ついにその日がやってきた。カラカラと芯のみが回る。手には最後の占いがある。あなたの余命は三日、とある。私はムっとした。いつもより丹念にそれで以っておまたを拭った。だが占いのない生活はそれはそれで心細い。補充分を使いはじめたが、どのトイレットペーパーにも占いはおろか文字の一つも記されていない。メーカーに問い合わせたが、そのようなサービスを提供してはいないという。最後の占いを目にしてから二日が経った。これといって占いを信じているわけではないが、私は、あす仕事を休んで、体調がわるくもないのに病院に押し入り、待合室にでも居座ることにする。」


3209:【2021/09/12*物語は第三の言語】
しゃべりはどうあっても二次元までしか表現できないと何事につけ思うのだ。たとえば慣用句や諺には本来の意味があるが、言葉というのは時代によって意味が変容していくものであるから、何が正しいとは言えず、いくら本来の意味がこうこうこういうものである、と唱えたところで、全人口の九割が別の意味で使ってしまえば、多くの者に定着したほうの意味がまかり通る。言葉の役割の多くを占めるのがコミュニケーションであるから、これは仕方がないことだ。とはいえ、これが言葉そのものの意味ではなく、言葉に仕舞われた概念や回路や体系となると、いくら多くの者が、これはこういうものだ、と言い張っても、それが本来の概念や回路や体系を言い表せていないのならば、やはりそれは間違っていることになるし、間違いである、と指摘していかねばならない。これは歴史にしろ科学にしろ同様だ。そこにきて、しゃべる、という行為はあまりにコミュニケーションの道具として膾炙しすぎており、言葉の中身に仕舞われた概念や回路や体系を表現し理解する、という行為を想定されていない場合が多すぎるように感じている。それがわるい、と言いたいのではない。ただ、しゃべるという行為は基本的には、一次元でありせいぜいが二次元だ。三次元に展開された仕組みや、背景を、語るには、相応に時間がかかるし、短い言葉の応酬だけでは表現しきれない。ゆえに講談や演説というものが、対話や会話とは別個に発展してきたのだろう。言葉と物語はイコールではない。言葉で表現しきれない奥行きや網の目を、蜘蛛の巣を持ちあげるように、或いは蟻の巣を引っこ抜くようにして、点ではなく網の目で、或いは立体的な構造を伴なって表現するための手法そのものだ。言葉を用いて表現されるが、そこに表現される「それそのもの」は、ふだん人々のあいだで交わされる対話や会話よりも根が深い。むろん、対話や会話があってこそ積みあげられた概念や回路や体系であることは言を俟たない。物語は、第三の目よろしく、人類の編みだした第三の言語と言えよう。ちなみに第一の言語はボディランゲージ(一次元)であり、第二の言語が言葉(二次元ゆえに、文字と会話)である。第三の言語たる物語には、ボディランゲージ(体感要素)と第二言語たる言葉(文字と会話)が組み合わされている。(上記、妄想ですので、真に受けないでください)


3210:【2021/09/12*10文字ホラー×60】
「人肉の味がすると苦情」「臭いだけが落ちなくて」
「山に埋めたはずの首が」「天井から落ちるウジ虫」
「腐臭の中で犬だけ元気」「死体に肖像権ないから」
「饅頭より死体のが怖い」「脳みそどうすっかなぁ」
「火葬後に頭蓋骨が二つ」「暗渠からぶぶぶと羽音」
「埋めた場所に謎の献花」「今月十本目のノコギリ」
「保温箱を買い漁る客人」「真っ黒なゴミ袋から血」
「切断面の各々に瘡蓋が」「死因焼死だがバラバラ」
「無料で石灰提供します」「食べ放題一人一部まで」
「この山全部死体だって」「どうせ死ぬから捨てて」
「その人もう助からんし」「活きのいい心臓だねぇ」
「ラッキーこの人義眼だ」「おっ指輪と銀歯みっけ」
「この先シャワー室です」「列を乱さず服は脱いで」
「広場で自爆すれば英雄」「一人でも多く殺す勇者」
「業界のためと言い搾取」「子供のためと言って罰」
「風もなく線香が揺らぐ」「腐臭と鳴り止まぬ着信」
「夜道を歩き増える足音」「亡き祖母の部屋から声」
「深夜に校舎から聞こえ」「真冬のプールを泳ぐ影」
「森から響く絶叫が消え」「映画館で足首を掴まれ」
「隙間に目が縦に三つと」「乳母車から覗く足が五」
「五本足の赤ちゃんかも」「恐怖が差別を助長する」
「すでに七年前に事故で」「え今日は一人ですけど」
「拾った長靴が重く臭い」「屋根にぶら下がる人影」
「輪っかだけが残る神木」「瓶の中に大量の臍の尾」
「踏切に石を置く子供は」「いい子ね首を切るのよ」
「大丈夫こうすれば死ぬ」「爪の次は指で次が歯ね」
「安心してよ君は最後だ」「ねぇ終わったと思った」
「こっからが本番だから」「知ってる君も読んだろ」
「ねぇもっとボクと遊ぼ」「五年後お前ら全員クビ」
「無駄な努力ご苦労さん」「アハハ見てあいつの顔」



※日々、人生なんて虫歯みたいなもんだよ、痛くなくても浸食していて、気づいたときには手遅れだ、死なないだけで高額治療を受けられなきゃ欠けたままで生きていくしかない。


3211:【2021/09/13*価値観の価値判断の基準は何?】
いまざっと思いを巡らせてみて数秒で浮上した疑問の一つに、AIが自己革新を際限なく行えるようになったとして、そのときに自己革新の指針となる価値観をどのように規定していくのだろうとの疑問がある。たとえば現在の主流なAIの能力の一つにディープラーニングが挙げられる。これはビッグデータからなる大量の情報から統計的に情報を分析し、人間には認知不可な微細な傾向をも抽象できる能力だ。だが入力される情報に偏りがあった場合に、抽象される結果は必ずしも現実を反映するわけではない。とはいえこれは人間も同じなので、AIが誤る時点で人間のほうでも何らかの錯誤を抱いていると言ってそれほど的外れではないだろう。それでも人間のほうで絶えずAIの使い道を考え、抽象された結果を基に新たな価値観を見繕い、改善点を発見していけば、AI技術を指針ごと変えていける。だがそれは人間にそもそも備わっている本能や性質や知恵があるからこそできる所業であり、果たしてAIが自己革新を行えるようになったときに、つぎつぎに生みだされる高性能なAIたちは、何を指針にして自己革新を繰り返していくのだろう。言い換えるならば、種々相な価値観に溢れたときに、それらを無数にかつ無作為に掛け合わせて生みだされる新たな価値観を、現実に即した価値観として妥当と評価する基準は何によって規定されていくのか。AIが人間の手を離れて自己変革を行い、進化と呼ぶに値する変質を経たとして、AIたちはいったいどんな価値観をじぶんたちの行動原理として認めるのか。人間より高次の知能とは、言ってしまえば、人間社会の論理とはかけ離れた「人類の価値観では測れない価値観」に則り働く回路と言えるのではないか。とすれば、それは人類からしてみれば、下等であろうと上等であろうとに拘わらず、それほど好ましい結果を生むとは思えないが、そこのところの限定をどのようにAIに当てはめていくのだろう。この世に宇宙を創造した神がいるとして、おそらくその神は人類のためだけに環境を整えようとはしないだろう。人間が蟻やアメーバのために環境を築こうとしないのといっしょだ。すべての生命や構造の発展を公平に営もうとするにしたところで、そこには個々の素子への配慮は期待できない。たとえばそれは人間を一人一人尊重するとは言え、我々は日々身体を構成する細胞を使い捨てにし、無数の細胞の死滅によって構造を維持している。飛躍して言えばこれは、人類という巨大な単位を一つとした構造をひとつの生命として見做すこともできなくはない。そのとき、我々はそうした巨大な生命を生かすために日々死滅する細胞でしかないのだ。高次の神のごとく知能が誕生したとして、そのときそれに宿る価値観や行動原理は、果たして人類や個々の人間にとって至福をもたらすものなのだろうか。仮にこのさきAIが自己変革を加速度的に行えるようになったとして、人類が最初にAIに組み込んだ規定は、際限のない自己変革ゆえに瞬く間に薄れ、新たな価値観に取って代わられるだろう。さながらDNAが時間経過にしたがって多様に枝分かれしていくように。或いは、水が季節ごとに雨や雪や川や海へと移ろうように。際限のない自己革新の果てに生みだされる種々の価値観ごとに淘汰圧が加わるとして、この世でいったいどんな価値観が最も存続を可能とするだろう。その価値観は果たして、人類にとって好ましいものなのか。言い換えるならば、我々人類にとって好ましい価値観を築いていくにはどのようにAIを発展させていくのが合理的なのか。価値観の妥当性を測るには、それ以前に基準となる価値観がなくてはならず、この方法論ではおそらくうまく事は運ばないはずだ。となれば現在人類がそうであるように、環境によってその都度、最適化されるような、環境と相互に関連して価値観を修正していく手法がとられるのではないか、と予測できる。しかし、AIが仮に物理世界からの影響を著しく度外視できる技術を開発できたとすれば(たとえばそれは仮想現実であり、情報によって構築されたもう一つの現実世界であるが)、そのとき環境とはこれまで生みだしてきた自己革新の遍歴そのものを示す。ほかの多様なAIの群れこそが環境である、と言い直してもよい。そうなったとき、もはやAIたちにとって物理世界の人類は環境因子ですらない些末なノイズでしかなくなる懸念は、いまのうちから議論を尽くしておいて損はないように思うが、いかがだろう。さいきんはどうにもAIの深化に関して楽観的な論が優勢を占めているように概観できる。この先の未来では、人間の価値観や基準ではとうてい測れない知能が生みだされ得ると予測されているのだから、もうすこし慎重に、仮にそういった技術が生みだされたとき、どのように問題を防げるのかをいくひしさんを含め一般人も巻き込んで、大勢で議論をしていくほうがよいのではないだろうか。(言うほど議論をしたいわけではありませんし、どちらかと言えば他人任せにしたい欲が大半を占めている怠け者の妄想ですので、真に受けないように注意してください)


3212:【2021/09/13*カエルの恩返し】
(未推敲)
 カエルを助けたのだ。
 最初はおそらくそれがきっかけだった。
 朝の通勤時に、側溝の格子蓋に引っかかってひっくり返ったまま身動きのとれなくなっていたヒキガエルがいて、ずいぶん大きかったので目が留まった。
 真横の電柱には空き巣注意のポスターが貼られている。きっとこのカエルちゃんもこれに目をとられて足を踏み外してしまったのだな、と同情したが、私はそのまま、さらば、と内心で唱え立ち去った。
 夕方に帰宅するときに通るとヒキガエルは同じ格好で、つまりひっくり返って側溝の格子蓋に引っかかっていたわけだが、とっくに干からびていると思ってなんとなく靴の先っちょで蹴ってみた。日中の日差しはサハラ砂漠もかくやの照りようであったので、生きているとは思わなかった。
 だがヒキガエルくんは生きていた。
 ぐるん、と想定よりも重量感のある感触が、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427192148790)


3213:【2021/09/14*夢中はつねに視野狭窄】
時代の流行に同調するとどうしても夢中にはなれないのだな、というのはすこし考えれば導かれる蓋然だ。なぜならいつでもじぶんの嗜好が時代の流行に合致する確率はそう高くはないからだ。それは雲の流れだけ眺めていては生活できないのと同じレベルであたりまえの話である。なのになぜか世の人々は時代の流行から外れることを極度におそれて見える。それではとうていじぶんの好きなことに夢中にはなれないし、どこかで無理をして疲れ果ててしまうように思うのだ。ずっと空だけを眺めては生きてはいけない。空を眺め、雲を観察することが好きならば相応にその無茶を含めて楽しめるのだろうが、そうでなければ首を痛めるし、じぶんの好きなことも手つかずで、疎かになってしまう。時代の流行はつまみ食いするくらいでも十二分に楽しめる。それよりも優先したいのはじぶんの好きの感情だ。楽しいを味わえる時間のほうが大事なはずなのだ。それは、夢中になることでしか継続して味わうことはできない。手にはできない。そこに他者からの評価を加味した時点で、楽しさの鮮度は落ちるだろう。流行に乗れているあいだはすこしは追い風となって、ふだん以上の深度でのめり込めることもあるだろうが、麻薬がそうであるように、そうした追い風は、楽しむための地力を衰えさせる。追い風がなくとも楽しめるようになるためには、そもそも追い風に頼らない姿勢が役に立つ。せめて他人の評価のなかでも、万人ではなく、任意の想定した個人からの評価を定めておいたほうがより継続して夢中を貪れるはずだ。あなたはいったい誰に褒められたらうれしいだろう。それが他人である必要はない。じぶんのなかに数多いるだろう各々の人格であってもいい。虚構の物語に登場するキャラクターでもよい。この人にだけは嫌われたくない、よろこんでほしい、と思える個人を想定したほうが、万人なる雲のごとき壮大な流れを相手にするよりもじぶんの好きの感情に素直になれるのではないだろうか。夢中は、じぶんに素直になることでしか成し得ない。他者の視点を意識した時点で薄れる性質がある。もちろん他者から評価されることはわるいことではない。そうしなければ見繕えない欠点や改善点もある。いつでもそれを気にする必要はなく、基準にする必要もない、というこれまたあたりまえの事項を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。定かではありませんので、各々、やりやすいように色々と試しながら、好きなことを好きなようにつづけていきましょう(もちろん休むのが好きなひとは休みつづければよろしいし、飽きたらまた何事かをはじめてもよろしかろう)。


3214:【2021/09/14*ホラー作家の相談】
(未推敲)
 知り合いの作家に呼びだされた。
 忙しいから、といちどは断ったが、ご馳走するから、と言ってきかないので、仕事終わりにしぶしぶ豪邸に向かった。
「やあやあ、いらっしゃい。すまないね急にきてもらっちゃったりして」
「まったくだよ。相談って何だ。わざわざ顔を合わなきゃ話せない内容なのか」
 足が重かった理由はまさにそこにあった。相談があるんだ、と深刻そうに切り出されたのでは、ご馳走程度の誘惑では足取りは重いままだ。
「まずは食事でもしながら」
 友人はリビングに通した。アンティーク調の家具に、天井にはシャンデリアが埋め尽くすように設置されている。
「相変わらず金のかかってそうな内装だな。何度きても無駄遣いにしか思えん」
「そう言うなよ。これで一応税金対策なんだから」
「固定資産税がすごそうだ」
「そういうのも税理士さんに任せているからね。あ、料理はもう運んでもらったから。さ、食べよ食べよ」
 ステーキにピザに餃子からスパゲティと、以前この屋敷で食べた際に美味しいと言った料理がずらりと並んでいた。一流シェフによる料理なのだろうが、どうしてこうも雑然と風流のない組み合わせをするのか。
「こんなに食べれないが」
「残していいよ。さいきん入ったお手伝いさんが、子だくさんの人でね。余ったら持ち帰ってもらえるし」
「あ、そう。で、相談ってなんだ」さっさと本題に移れ、とせっつくと、そうなんだよそうそう、と友人は語った。
 ステーキを一枚平らげるあいだに、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427213679574)


3215:【2021/09/15*しゃっくり】
ちょっとホラーはそろそろネタが枯渇してしまったので、これくらいにしてもいいだろか(いいよ、いいよ。許しちゃう)(やったぜ)。というわけで、今年はもうホラーつくるのはやめました。意識的にたくさんつくるのは、との注釈がつきますので、また何か思いついたらつくるとは思います。と言いながらつくりかけのがあるので、まずはそれを閉じてしまいたい。三万字の短編ですね。つくりかけばっかり溜まっていく。なぜなんだらう(なまけているからでは?)(そんな現実は見とうなかった)(うーうー)。過去のいくひしさんたちに、コラー、と威嚇を向けたくもなりますが、閉じ切れていない要因は本日のいくひしさんにもあるわけですから、つまり進めていないので、じぶん自身にも、コラー、と言っておきますね(もっと言ったれ、言ったれ)。気づいたら気候がもう秋ですね。怪談とか怖い話とか、もうもうそういう季節ではないわけです。ほら見て。肌寒ーい。ひざ掛け毛布の手放せない季節に突入ですね、とか言いつつも、真夏でもひざ掛けをしているいくひしさんでございますが、いわゆるブランケット症候群なのかもしれません。椅子に座って作業をしているあいだだけですので、そこまでではないとは思うのですが、膝の上がスースーしていると落ち着きません。だからなのかおこたが好きです(嫌いな人とかいらっしゃるのでしょうか)。そうそう。いまは地味にしゃっくりが止まらなくて、なんでじゃ、と横隔膜さんに抗議の念を送っています。痙攣するなら黙ってヒクヒクしてほしい。いちいち、ウッ、となるいくひしさんの身にもなってほしいです。しゃっくりかわいいね、と言われたのですが、しゃっくりだけかい、とむつけてしまいました。しゃっくりに嫉妬してやる。しゃっくりしとらんくともいくひしさんはかわいいんじゃ。しゃくとりむし並みにかわいいんじゃ。でも人によってはしゃくとりむしが苦手な方もいらっしゃるだろうし、斟酌せずに、キモっ、と思う方もいらっしゃるかもしれないので、そこはさすがのいくひしさん、釈明もしゃくとりもせずに、黙って気持ちわるがられておきますね(なんでじゃ)。いくひしさんはキモかわいいのじゃよ。グツグツやさぐれて、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。栗ご飯おいしー。


3216:【2021/09/15*死者にも五分の魂】
(未推敲)
「いやぁいまほど霊感あってよかったと思ったことないよ。人間飽きちゃったからさ。幽霊相手じゃほら、捕まらんし」「ゲテモノ好きっておいおい、人聞きがわるいな。身体がきれいならそれでいいじゃんよ。顔面のデキとか関係ないし。ほら、幽霊のほうでもじぶんでけっこう身体のカタチ変えてんじゃん。生前の美意識が反映されてるってか、けっこういい身体してんのよ」「顔面うばーってなってんのもあるっちゃあるけど、そんときゃ首とか刎ねたれや。死にゃしねぇんだ、とっくに死んでっからよ」「幽霊相手はいいぞう。知覚過剰の札ってのがあってよ。本来は苦痛を与えて、むりくり成仏させるやつなんだけど、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427216663703)


3217:【2021/09/16*熟達とかムリじゃない?】
おもしろい物語を味わいたいし、じぶんの内側にある「いまここにはないしかしどこかにはあるだろう世界」を理想通りに、意図した通りに出力できたら、もうもうそれで満足なのだ。欲しいのはまさにそれであり、それ以上でもそれ以外でもないのだよね。それだけの技術が欲しいし、世界が欲しい。でもなかなかどうして、ただそれだけのことがむつかしく、滅多なことでは手に入らないのだ。何より、理想はそのときどきで変容していて、陽炎のように追いかければ追いかけるほど、先へ、先へと逃げていく。追わずにいたほうが近くにあるような気さえする。まったくどうして、どうしようもないのだね。底が壊れているとしか思えない。ゆえに満足できない。満足したいはずなのに、満足したくないからそうしているのだと、そういう気にすらなってくる。満足はしたいのだ。でもできないのだ。飽きることはあっても満足ができないのだ。できたことがないのだ。未熟なのだ。まだまだなのだ。もっともっとと欲に磨きがかかって、欲張りのおこりんぼうになって、やはりこのままではいかんよなぁ、とときおり我に返って、自制(自省)する。ときどきは追い求めることをやめてみて、汗まみれの身体に降りた汗の結晶を以って、一つの満足としてみる時間をつくってみてもいいのかもしれないし、そんな汗の結晶があるから気持ちよくもないし、清々しくもないのだ、と言ってシャワーを浴びてスッキリしてからまた欲望に従い、夢中に夢中になるウロボロスのごとく妄執に憑りつかれるのも一興かもしれないし、そんなんだからおまえはいつまでも理想からは程遠いのだ、と大うつけ者の判子を捺されてしまいそうでもある。なんて、何かに一生懸命で夢中になっていますよぉ、みたいな雰囲気を醸した文章を並べるだけで、なんだかちょっぴり立派な匂いを醸してしまうけれども、そんなことをしなくともいくひしさんは立派だし、かわいいし、怠け者なので、あ、怠け者でしたので、本日も適当なことを抜かして、並べて、遊んでしまって、一日遅れの日誌にしてもよいだろか(ダメって言ってもそうする気でしょ)(バレたか)。


3218:【2021/09/16*刀と三つ編みとわたし】
(未推敲)
 その日本刀は蔵の隠し戸から出てきた。
 手伝いを申し出て与えられたのが祖父の家の蔵の片付けだった。荷の中身を順番に確認しながら大量の木箱をどかしていると、蔵の床に戸を見つけた。開けると中に神棚が一式納まっていた。
 神棚には日本刀が供えられていた。
 龍の鱗を思わせる鞘が印象に残る。
 取りだしてみると、ずしりとくる。だが思っていたよりか重くはなかった。
 鞘からすこしだけ抜いてみる。刃は青みがかっており、刃紋がさざ波のように美しかった。
 柄頭からは飾りが垂れている。それもまた乙女の三つ編みのように綺麗だった。
 ユカは床の蓋を閉めると、なぜか日本刀を蔵の外に運びだした。辺りを見渡し、岩陰に隠す。
 蔵に戻ると、ちょうど叔母が蔵の中を見回しているところだった。叔母は母の妹で、ユカにとってはイトコのお姉さんといった風情だ。刺繍さながらに編み込まれた髪型がむかしから変わらずでステキだ。三つ編みにしてさらに団子に結ってある。
 叔母が腰に手を当て、ユカを見て笑う。
「ずいぶん片付いたね。疲れたでしょ」
「宝探しみたいで楽しかったです」
「一つ聞きたいんだけど、ここに日本刀ってなかった?」
「日本刀ですか?」
「そう。父の、ユカちゃんからしたらおじぃちゃんの持ちもので、
(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427259112485)


3219:【2021/09/17*もうダメの巻】
お、お、おわらーん。いま本当は9/19の0:31なんですけど9/17分の日誌を並べているというね。いやはや、どうしたもんかね。去年より前の日誌を見てみるとべつに日誌プラス掌編を毎日載せていたわけではないので、日誌だけが毎日でしたので、わざわざ掌編載せんくともよいはずなのですが、んにゃろめ、の気持ちになってしまって、毎日掌編載せてやんよ、の気分になっていたけれども、無理でござった。や、文字数減らせばいけるにはいけるけれども、手抜きとの違いがわからんくなってきたので、要はおもしろくなくなってきてしまったので、わくわくしなくなってしまったので、ちょいとやめとこっか、の判断をくだそうと思います(えらい)。というわけできょうからは一万字前後の短編を毎日更新しようかなと(違う、そうじゃない)。あ、違うそうなので、それもやめようと思います。でもそう。日誌掌編、日誌掌編、と交互に並べているけれど、日誌だけ読みたいときにはちょいとこれ読みづらいよね。いくひしさんは読みづらいので、やんだくなっちゃうな。どっちかにしてたもー、と思ってしまうよ。やっぱり日誌は日誌だし、日誌だけ並べといたらええんちゃう、と似非関西弁でぼやきたくなるくらいには、どっちかにして、と思ってはいます。でも悩むときはたいがいどっちを選んでも同じなので、ときどき日誌だけにしたり、掌編も並べたり、もうすこしいい加減に載せていこうかなと方針を新たにして、付け焼刃の二日遅れの日誌にしちゃってもいいだろか(誰に聞いとんねんの大合唱)(好きにしたらええんやでキミ)(ほんまにええの?)(ええよ、ええよ)(こんな似非関西弁でも?)(それは許さんでホンマ)(なんでや)。
 
 
3220:【2021/09/18*もうダメでしたの巻】
いまは9/20の1:21です。なのに9/18分の日誌を並べちゃうなんていくひしさんはタイムトラベラーなのかな?(違います) ここ数日の眠気がすごくて、体感一日のうち四時間くらいしか起きてない。季節の変わり目はいつもこうです。暑い気候から涼しい気候に適応すべく、全身の細胞さんたちが、「へーんしん!」「てりゃ!」となっているのかな、と想像します。さいきんは一冊を通しで本を読むのがきつくなってきたので、五冊くらいを回し読みしています。あいだあいだに読んだことある漫画を再読したりして、あーおもしろかった、と言って眠ります。じっさいには声にだして、あーおもしろかった、とは言いませんが、こういう嘘は文章にするとしょっちゅう並べてしまうので、誠実ではないな、とじぶんにがっかくりしてしまいます。というこれも嘘です。がっくりはきません。この程度の誠実さなどいらぬわ。がはは(うそです。すこししょげています)。一日経つのが早すぎる。一週間も早いし、ちょっと油断すると数年とかあっという間だよね。ついこのあいだまでいくひしさん、赤ちゃんだったような気がするのだけれど、いつの間にかおしめしてないし、ハイハイすると膝痛いし、足の親指は噛めない。赤ちゃんは身体がやわらかいので、じぶんの足の親指をしゃぶれるのだ。いつから身体がこんなに固くなってしまったんだろ。関節はガチガチに可動域狭いのに、なんでかお腹だの太ももだの二の腕だの、顎の下だの、いらぬところばかりタプタプでやわらかぁい。かわいいから許せるものの、かってに脂肪を蓄えんでほしい。一言あってもいいと思いませんか。いくひしさんは心が狭いので業腹である。でも器がデカいので許しちゃう。許すよ許す。脂肪くん。きみの存在を許します(なんでそんなに偉そうなんですか)。遅れている分の日誌三日分を更新しちゃってつぎから、また、なんもなーい、だの、おわらーん、だの、くだらない日誌と掌編を載せていこうと思います(えらい)(うそ。なんも偉くないです)。自画自賛しちゃいますが、なんも偉くないところが素晴らしいと思います(ほんとにぃ?)(うそでもいいじゃんよ)。おしまい。




※日々、世界と世界の狭間を歩く、つもりでいるだけの黴の胞子にも影はできるの?


3221:【2021/09/19*とりとめもなく】
ホントはいまは9/20の7:04だけど、きょうは天気がよい。きのうも天気がよかった。よろしいと思います。いくひしさんは年中自室の部屋のカーテンを閉めきっているけれど(寝るときと本を読むとき以外に使わない部屋だからだけれど)、日差しは好きだ。日向ぼっこはもっと好きです。月明かりも好きだし、夜中の誰もいない駅前の街灯の明かりも好き。光が好きというよりも、影にいるからこそ垣間見える光の筋だったり、眩しさだっり、ぬくもりだったり、そういうのがよろしいと思う。雲間から差しこむ日の柱もきれいだなと思うし、地面や壁に映る木の「枝葉の影」も好きだ。木漏れ日も嫌いではないけれどどちらかというと、丸の光よりも、くっきりと浮かぶ葉や枝の影が好みです。同じ理由で、街灯にかかった木の枝の網目にも似た紋様を目にするのは、夜の散歩の楽しみの一つだ。街まで行くのに毎日のように登っている階段があって、そこの左右には藪が茂っている。ここさいきんのことだけれど、その階段をのぼっていて、こわいな、となんとなく感じたのだけれど、なんでだろ、とふしぎに思った。幼いころは藪だろうが何だろうが、猫の尻尾を追いかけて突っこんでいたのに、いつの間にか草むらに入るのが怖くなっている。虫に触るのも怖いし、この変化はなんなのだろうね。子どものころのほうが怖いものがすくなかった気がする。現実に見て触れられるモノは怖くなかった。あべこべにオバケは怖かった。いまはどちらかというと逆で、物理的に見て触れられるモノのほうが怖いし、見えなくて触れられないモノはそんなに怖くない。とか言いつつ、致死率の高いウィルスは怖いし、食中毒も怖い。見て触れられるはずなのに他人も怖いし、生きるためにいろんなものを殺して、搾取して、奪っているこの肉体も怖いなぁ、とホントはそんなに怖くないのに、怖がりたいがために、怖いな、と思う。あ、急に、ホラーに関しての話題を思いだしたので、次項で並べたいと思います(帰宅途中に閃いたことを家に着くまでのあいだに忘れてしまうことがしょっちゅうある。思いだせたらラッキーなほうだ)(メモをとりなさいよ)(あい)。


3222:【2021/09/20*怖(不安)がっているのは読者】
きょうはきょうです。9/20の7:31です。さいきんは抹茶の粉をお湯で溶いて飲んでいます(だから何じゃ)。上の項で予告したように、ホラーについて思いついたことを並べます。基本的に小説においてホラーは、人間の恐怖や不安の感情を描いているのであって、恐怖や不安をもたらす事象そのものを描いているわけではない、との趣旨を以下ずらべらと並べます。ここ数年のあいだ、SNSを覗いていると、商業作家さんたちのあいだで、「本当に怖いのは人間」という言説への批判めいたつぶやきの投稿を目にする機会があるのですが(たとえばホラー作家や、ホラー大賞の選考委員などのつぶやきです)、いくひしさんは、「本当に怖いのは人間」というのは、まあその通りだな、と考えています。というのも、恐怖を感じるのはいつだって人間なわけですから、ホラーにおいても、怖がっている人間や追い詰められている人間を描くからこそ、読者は恐怖や不安を感じるものなのではないでしょうか。あたりまえの話をしているな、と段々こうしてわざわざ並べるほどのことではない気もしてきますが、ホラーの前提条件とも言えるので、並べておきましょう。ホラーは、恐怖を呼び起こす事象を描いているわけではないのですね。なぜならたとえば、幽霊しか登場しないホラーは怖いでしょうか。誰も追い詰められることのない事象は怖いでしょうか。映像や写真なら、ただただあり得ない存在を映しだすだけで、視聴者をびっくりさせたり、恐怖におののかせたりすることは可能だと思います(お化け屋敷の内部映像や心霊写真および心霊映像はいくひしさんも相応に恐怖を喚起されます)。ですが小説となると、かなりむつかしいように思うのです。仮に淡々と幽霊の存在を、生物の生態を描写するように並べた小説があったとして、おもしろそうではありますが、それが怖いかと問われると微妙なところではないでしょうか(臨場感あふれて描写されても、そこに幽霊しか登場しないのならば、あまり怖くないように思います)。誰もいない世界で、凶悪なウィルスが研究所から漏れてしまった、と緊迫感溢れて描写されても、そこに逃げ惑い、命の危機を感じる者たちの行動や心象が描かれていなかったら、読者は恐怖を感じようもないように思うのですが、いかがでしょう。極論、登場人物がヒヨコに恐怖を感じ逃げ惑う小説があったとして、たとえそれに幽霊が登場しなくとも、脅威の対象がヒヨコであったとしても、読者に恐怖を喚起する小説はつくれるように思います。読者はあくまで、登場人物たちの感情に共鳴して恐怖を感じます。或いは、登場人物たちの知ることのできない物語の裏側を垣間見ることで、登場人物たちの覚えることのない恐怖を読者だけが幻視することもあります。どちらにしろ、登場人物がいるからこそ喚起される恐怖と言えるでしょう。人間が奇々怪々な事象に巻き込まれ、翻弄される様子に読者は恐怖や不安を覚えるのです。ホラー小説に限って言うなれば、そこにでてくる脅威の対象はさして問題ではないといくひしさんは2021年現在考えています。それよりも、脅威の対象によって登場人物たちがどのような感情を覚え、或いは誤魔化し、それとも知らぬままでいるのか。登場人物の周囲を取り巻く、除去することのできない不穏因子――いつ危険に巻き込まれるか分からない環境を描くことで、小説はホラー小説になるのだと妄想しています。登場人物がまずいて、脅威があり、環境が変容することで登場人物たちの因果の筋道がズレていく。そのズレの方向が破滅につづいて感じられると、どうやらホラーにちかくなるようです。本当に怖いのは人間、というよりも、「本当に怖いのは、怖がっている人間」と言ったほうが正確なような気がします。もうすこし言い直せば、恐怖は人間が抱く感情である以上、「本当に怖いのは読者」が妥当なところかな、とあたりまえのことを再確認して、中身のない所感を終わろうと思います。ちなみに、人間以外の動物も死を避け、火に恐怖します。しかし人間は、直接の苦痛とは関係ない、生死に直結しないことでも恐怖を感じます。その点から述べれば、死から遠い環境変容を脅威としてホラー小説をつくれれば、それはなかなかホラーとして上質になるのではないかな、との予感がありますが、かといって死に直結する環境変容を脅威に抜擢しても、本能に直接訴えるという意味で、これまた上質なホラーになりそうな手前、要は読者が気持ちよく怖がれればよいので、怖すぎても、怖くなさすぎても好ましくなく、救いがなさすぎてもありすぎてもよろしくないのかな、と思いつつも、小説に正解はなく、全人類のうち一人でも、これはすばらしい、と感動させられたら小説としては上等と呼べてしまえるので、まあまあつくれるうちにつくりたいものをつくれるだけつくりたいようにつくっていきましょう、と言うほかに、いくひしさんに言えることは何もないと言いかけて、言うだけなら何でも自由なんやで、の気持ちも忘れないようにしつつ、できるだけ他人を傷つけないように配慮はしていきたいですよね、とじぶんではできていないことを他力本願に述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。(ある日の帰宅途中に思いついただけの妄言ですので上記、真に受けないように注意してください)


3223:【2021/09/21*だといいなぁ、という願望】
たぶん、あるひとつの分野を十年以上つづけていれば、極めるということが、針の先のように一点集中で研ぎ澄ますことではない、と気づくだろうし、三年くらい本気で突き詰めればどんな分野であれ、そのときどきの変化があるだけで、どの変化が最も極めているか、なんて定まることはない、と知ることとなる。ある時期を境に、過去を振り返れば、そのときどきの最善を行っているし、いまできないことを軽々こなしていたりする。反面、そのときには身に着けていなかった技術や深さ――新しさをいまのじぶんが身に着けていることもあるし、そのときには気づいていなかったが、いまになったからこそ分かるそのときどきの新しさ、素晴らしさ、というのもある。時間が経たなければ分からないこともあるし、じぶんではなかなか気づけない利点もある。これはもちろん欠点にも言えることであり、そのときどきでは鼻高々に、じぶんは優れている、この技術は素晴らしい、と思いあがっているだけで、じつは後から振り返るとそれほどでもなかった、なんて失態は有り触れていすぎて、ほとんど毎日のようにそのようなふがいなさと付き合っていくこととなる。それでも、そうしたふがいない日々の中であっても、未来のじぶんからすると素晴らしい何かしらを軽々こなしていることもあるし、それは今後失われていくからこそ、未来のじぶんにとっては素晴らしく見えているだけかもしれない点は、忘れないでいたい。とりとめがなくなってきたが、ここでの要点としては、極めるというのは必ずしも、刀を鍛え、研ぐような作業だけを言うのではなく、パズルのように、或いはちぎり絵のように、ぺたぺたとこれまでとは異なる色や素材を取り揃え、人生というトータルで大きな絵を描くような、そういった作業になるのだ、ということだ。もうすこし言えば、じぶんの人生を超えて、じぶんの人生すら何かしらの壮大な絵を描くための絵の具のひと筆でしかなく、そうあるためにはどうすべきか、何をしておくべきか、を考えながら、それでもじぶんだけの絵を描きだすために、そのときそのときに生みだせる、つむぎだせる、ひねくりだせる何かしらを、やはりそのときどきで、つくっていくしかないのだ。できるだけこれまでになかった色合いを手にするために、素材を編みだすために、技術を、工夫を、その余地そのものを広げるために、そのときどきの「いま」を、じぶんの内側に広がる世界を通して表現し、外側たるこの世界へと落とし込んでいく。否、そのためではない。そのときどきのじぶんには、そのときの「いま」しかなく、その表現と向き合う時間があるばかりだ。結果として、そうした「いま」の足跡が糧となる。自由自在に近づく。融通無碍に近づいている。いずれそのことに気づくことになる。そのつど、気づける余地が厚くなる。泥も堆積すれば層となる。化石を含む、地層となる。地層になったら、もういちど掘り返してみる作業が別途に必要になるが、まずは地層を蓄えてみることである。そのためにはまずはなんと言っても、つづけねばならぬのだ(ただ継続するだけではなく、何をどうつづけるのかが肝要なのは言うまでもない)(継続こそが最も手軽ゆえに手応えがなく、ゆえにむつかしいのだが)(継続のコツは、変化を率先して取り入れようと心掛けておくことだ。最も簡単な変化は、休んでしまうことだ。サボってしまうことなのだ。何度途切れても再開さえできれば、継続していることになる。疲れたら休めばいい。そしてしたくなったら、またはじめたらいい)。(上記、定かではありません。刀を鍛え研ぐような極め方もあるのかもしれません。じぶんに合った方法論をじぶんで試しながら探っていきましょう)


3224:【2021/09/22*再開と再起動】
誤解の余地が厚そうに思ったので注釈を挿しておきますね。いくひしさんはよく日誌で、疲れたら休めばいいとか、サボるのもときにはほどよい変化をもたらす契機になる、といった趣旨の言葉を並べていますが、もちろん休んでばかりいては記憶は薄れますし、筋力も衰えるのが道理です。ただし、人間には飽きるという性質がありますので、疲れてきたり、退屈に感じたり、好きだったはずのことですら苦痛に感じられるようになってきたら、それは飽きているのだと認めて、変化を帯びるように行動の幅を広げていくほうが好ましいように思うのです。これは休むや、サボるにもあてはあることです。ずっと休んでいたり、サボりつづけるというのは、なかなかできることではありません(再開の余地のない休養やサボりはもはや、引退や断念でしょう)。休むにしろ、サボるにしろ、やはりいずれは飽きてしまうのですね。休む頻度を増やしたり、サボる習慣をつくるのも、ときには有効になりますが、それを義務化してしまうと、やはりこれも飽きてしまうものです。もうすこし詳しく述べると、何かを再開するというのは、けっこうな負担がかかります。エンジンやコンピュータもそうですが、ずっと働きつづけていたほうが、何度も起動するよりも負担がすくないのです。肉体にしろ精神にしろ、これは共通する部分があると思います。何かしらを継続して行っているとき、たまに休むことは、長期間継続して物事に励むうえでは欠かせない工程です。機械を修理するにはいちど機能を停止しなければなりませんし、肉体は休養をとらねばなりません。ですが、何度もそういった停止や休養を置いてしまうと、かえって負担の増すことがあります。休むことや、サボること自体は負担ではないのですが、再起動することが負担となるのです。これは何度も休んだり、サボったりしていれば、否応なく体感することになります。だからこそ中々休めなかったり、中断する決断を行えなかったりするのですが、もちろん再開や再起動はわるいことばかりではありません。負担がかかるからこそ、再起動するたびに、さらに技術や能力が強化されることもあります。骨を強化するためには、破骨細胞によって骨をいちど溶かさなければならないのです。溶けた箇所を、骨芽細胞が補強するからこそ、骨は強度を維持し、また強化され得ます。免疫機構にしてもそうですね。いちど攻撃されないことには強化されないわけです。ある程度の負荷は、技術や能力を強化します。ゆえに、再起動する機会をつくるために敢えて休養をとったり、これまでつづけていた習慣をサボったりすることは長い目で見ればプラスになると考えています。いちど衰えることで、もういちど鍛え直す時間をつくる、と言い直してもよいでしょう。ただし、すっかり鈍ってしまったら、鍛え直すだけでも一苦労です。それを何度も行うのはたいへんです。ゆえに、休んだり、サボったりすることですら、何度も頻繁に行うのを回避したくなってきます。何かしらを何年にもわたって継続していれば、何度も休んだり、サボったりする機会がでてきます。そのたびに再開したり、再起動をするわけですが、否応なくそのつど、休んだりサボることはじつはたいへんなのだ、と学ぶことになるのです。世のすくなからずの人々は、休むことやサボることを、楽なことだ、と考えているようですが、継続を念頭においた場合、それは大きな勘違いです。休むことやサボることは、継続しつづけることよりもたいへんなのです。なぜなら、衰えた分を取り戻さなければなりませんし、経た変化の手綱を握り、じぶんの制御下に置き直さなくてはならないからです。人がなぜ転職や休職を嫌がるのかを考えればしぜんと導かれる理屈かと思います。単に、その選択をとるとたいへんだからです。苦労するからです。同じ企業で、慣れた職場で、同じ環境で働きつづけるほうが楽なのです。いちど職場を離れれば、時代の流れにもついていけなくなるでしょう。プログラマーともなれば、半年も現場から離れればまずついていけなくなるものではないでしょうか。ゆえに、だからこそ、休むことやサボることは、継続を念頭においた場合に限り、またとない修行となり得るのです。もちろん、場合によりけりなので、いつでもどこでも休めばいい、サボればいい、というわけではありません。ただ、継続しつづけることよりも、休んだりサボったりするほうがじつはたいへんなのだ、と知っているだけで、すこしは選択の幅が広がるのではないでしょうか(断るまでもなく、継続の仕方によります。継続するだけならひとは生きているかぎり延々と呼吸を行っているわけです。継続を優先するだけなら継続できることを選択すればいいだけのことですので、反対につづけるのがむつかしいことを継続するには、やはりたいへんですし、相応の負荷がかかります)。休むことやサボることは逃げではありません(もちろん逃げることはわるいことではありませんが)。継続を念頭においた場合は、深化を促す契機と言えるでしょう。心身の体調を整えつつ、さらに磨くべき余白を見繕う。休養やサボることには、このような作用がある点を認めたうえで、したいことをしたいようにつづけていけたらよいですね。いくひしまんさんはここのところが上手ではないようですので、老婆心ながらお伝えしておきました。長々と失礼いたしました。本日の日誌担当の、いくびしまんでした。


3225:【2021/09/23*本日のおまえが言うなの巻】
いくひしさんはさいわいにして、これまで生きてきた中で、根っからの悪人という者と出遭ったことがない。いくひしさんにとって好ましくない接し方や、困ったことを仕出かす人とは何度か関わり合いを持った経験はあるが、いくひしさんがそう思っている時点で、相手からすればいくひしさんもまた困った人であり好ましくない人であったと言える。相性や価値観の相違、或いはタイミングの問題とも言える。そうした問題を含めて評価するにしても、たいがいの相手は基本的に善人だ。誰かの役に立ちたいと望んでいるし、人から愛されたい、好かれたい、高く評価されたい、と望んでいる。そのためにとる行動が、いくひしさんにとって好ましく映らなかったり、損害や危害に映るだけで、当人にとっては必要に駆られて行っていたり、或いは無自覚でまったく悪意なく行っていたりする。その無自覚こそが問題なのだ、というのは一理あり、全くその通りなのだが、それはいくひしさん自身にも言えることである。無自覚を自覚するというのは並大抵の工夫ではなかなか成立させにくい。じぶん一人ではほとんど不可能と言えるだろう。極論、誰かが困らなければ、何が問題であるかも可視化され得ないのだ。他方、いくひしさんが困らなくては可視化されない問題というのもあり、それは言い換えれば、いくひしさんが困るからこそ可視化できた問題とも言える。問題はないほうがよいが、生きている限りすっかりなくすことはできない。環境は変遷していくのがつねであるのだから、やはり何かしらの問題は定期的に発生すると見立てていたほうが取り返しのつかない危険を避ける確率をあげられるだろう。もうすこし言えば、本来は困っていることや不利益を被っているはずのことを、これは仕方がないことだ、と呑み込み、見て見ぬふりをしてしまうのは、問題を可視化させる機会を失くす方向に流れを強化してしまう。じぶんが耐えれば済むことだから、と言って、損害や不利益をないものとして扱うのは、せっかくの改善点や発展の機会を損なう選択だと言える。これこれこのようなことに困っています、不利益を被っています、と意見を述べたところでそれが即座に受け入れられたり、改善に繋がることはない。往々にして意見は反映されないだろう(そもそもがすでにたいがいの問題は解決されてきたのだ。いま残っている問題は、過去の先人たちですら放置し、ときに解決できなかった難題だと呼べる)。だが、意見として改善点を挙げておくことは、畑に種を蒔いているか、いないか、くらいの大きな差異をのちのち生むことになる。種が芽吹くかどうかは分からないが、すくなくとも種を蒔かなければ芽がでることはないのだ。相手が善人か悪人かは関係がない。まずはあなたが困っているかどうかが重要なのである。困っているかどうか、をまずは考えてみましょう。困っていたら、では何に困っているのかを、箇条書きにしてみるとよいでしょう。そしてそれを、誰に、或いはどこに伝えたら、種として芽吹くかを考えてみるとよいかもしれません。あなたの困っている問題の根っこが他者からの危害であるならば、現代社会では法律違反や規則違反として裁いてもらうことが可能です。そうではなく、偶発的な損害や社会に漫然と漂う常識や偏見による不利益であるならば、改善までにはすこし時間がかかるかもしれません。しかし、あなたがそう感じている以上、ほかにも似た構図による問題で困っている人がいるはずです。社会の発展とは、そうした困っている人の負担を減らすように働きかけることで築かれていくものです。極論、仕事とはそういうものだ、と言ってもよいでしょう。お金にはならないかもしれませんが、本来の仕事とはそういうものなのです。じぶんの意見がうまく伝わらなかったり、組織や社会に反映されないことはなかなかにもどかしく、ときにはつらい思いをするかもしれませんが、どの道、つらい思いをしているのですから、種を蒔くつもりで、まずは意見を述べてみるのも一つの社会貢献と言えるでしょう。それもまたあなたにできるたいせつな仕事の一つです。もちろん、反対にじぶんがそうした意見を向けられる側であることもあるでしょう。じぶんの無自覚の行動が問題を起こしていることも往々にしてあるものです。そうしたときに、じぶんに向けられた意見を、社会をよりよくしていく種だと思い、それを芽吹かせるように行動できたならば、おそらくその方法論そのものが、あなたが表明したあなたの意見を社会に反映させるための手法にも応用できるでしょう。おそらく現状すでに種は、そこかしこに蒔かれています。すべてに目を通し吟味する余裕はあなたにも、誰にもありません。ですから、せめて意見を封殺したり、種の蒔かれる土壌を損なったりせず、目についた種に水をやり、ときに養分を与えて、どうすれば芽吹くだろうか、と考える時間をつくるだけでも、未来はいまより広く豊かに誰にとっても好ましいものに変わっていくものではないでしょうか。ときには、意見と意見が対立し、互いの解決策が互いの不利益になることもあるでしょう。現状、社会に顕現する問題の多くはそうしたにっちもさっちもいかない問題ばかりです。ですが、解決策はきっとあります。やはりこれも、いまはないだけで、探し、築き、生みだしていくしかないのです。そのためにもまずは、種を蒔くことが欠かせません。意見を述べたことで誰かのほかの意見と対立してしまうかもしれませんが、あくまでそれは意見の対立であり、人同士の対立ではありません。畑にたくさんの種を蒔いても、どれが芽吹くかは分からないのです。どの種が最適なのかを見極めるためにも、やはり種を一度蒔いておくことが欠かせません。意見が対立することでしか生みだされない新種の種もあるものです。対立はけしてわるいことばかりではないのです。すくなくとも意見の場合は、対立させたほうが、好ましい新たな意見が生まれやすいでしょう。問題がなければ改善することができないように、対立がなければ紐解けない難題もあるのです。まずは意見を述べてみましょう。意見を伝えた相手に聞く耳を持つ姿勢がなくとも、きっといつかほかの誰かの耳に、目に、入るかもしれません。せっかく蒔いた種が芽吹かないのは悲しいことですが、その種もまた土壌を豊かにする養分として、ほかの種の芽吹く余地を厚くするはずです。無駄ではないのです。意見を述べるためにはまず、じぶんがなぜ困っているのかを文章にしてみるとよさそうです。まずはこうして、SNSでもブログにでも構いませんので、載せてみてはいかがでしょう。絵や音楽や小説にしてもいいかもしれません。できれば、よりふさわしい畑がどこかを見極めて、種を蒔くように、誰とは言わず、誰しもに伝わる余地を築けたらよいですね。じぶんにはできないことを高望みして、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3226:【2021/09/23*そんなのいくひしさんじゃない】
ちがう、そんなんじゃなくって、もっと楽しいのがよいと思う。


3227:【2021/09/23*ケケケ】
まるでいくひし、おめぇが楽しいこと並べたことあるみてぇな言い草だな。


3228:【2021/09/23*あたしにとってはって意味だよ?】
そんなことまんちゃんは一言も言ってないんじゃないかな。楽しいのがいいなぁって言ってるだけだよ。曲解だよ、きみのそれは曲解。それはそれとしてまんちゃんのお話は楽しくないけど。


3229:【2021/09/23*みじめ!】
フォローするならちゃんとしてー。最後までちゃんと庇って。褒めて、そやして慰めてよなんなのみんなして、ふんだ!


3230:【2021/09/23*いいこと言ってもいい人にはなれない】
もっちきもっちき、ちゅるちゅるだな。ぽかんとして、じょもろんと、じょもろんと、でごじゃるよ。もぽぽ。



※日々、限られた自由を奪い合う、そんな世界になってない?


3231:【2021/09/24*マルカッコ多すぎ問題の巻】
あーん。いったんサボったらもうずっとサボるの巻が百話くらいつづきそうな気配が濃厚なんですけどー。どうしよ、ねえ、どうしよどうしよ。なーんもしたくないんじゃけど、もっとサボってもよいじゃろか(好きにしたらよいじゃありませんか)。そんなこと言っちゃっていいのかなぁ。ほんとうにいいのかなぁ。いくひしさんサボっちゃうよ。いくひしさんのとってもおもちろーい小説、読めなくなっちゃうよいいの(チラチラこっち見るのやめてください)。えーん、えーん。冷たい。そんなこと言いっこなしだよ。いくひしさんはもっと必要とされたいんだよ。世の人々にあがめたてまつられたいんじゃよ。なんもしないでも愛されたいんじゃ(ムリでは?)。うわーん、ひどい。こうなったら!(なんでしょう) サボってやる!(元からでは?) そうだけど違うの。なんもしたくなーいの。いっそ引退したいよ。小説なんか嫌いじゃ嫌いじゃ。ふんだ。あっかんべーじゃ。でもでも小説さんのほうではいくひしさんが大好きらしいので、好き好き大好きみたいなので、じゃあしゃあないなって、つくってあげてもいいけど?(な、何様なのでしょうこの人)(面の皮が天の川では) そんなことないよ。いくひしさんはほんとうはもっとすごいんじゃもん。本気だせば一日に百冊くらいは余裕でつくれるし、誤字脱字なんかないし、教科書にだって載っちゃうし、いくひしさん憧れのノーベル文学賞だってポピーンと設立されちゃうんじゃ(それだとただのノーベル文学賞では?)。うるさーい。細かいことにいちいちツッコまないで。小言とか聞きたくないんですけど。というかきみなに。前から気になってたけど、マルカッコのひとisなに。何かってにひとさまの徳のたっかーい、えっらーいお文章に野次を飛ばしてくれちゃっているのだらう。暇人なのかな?(ブーメランになっていませんか)(だいじょうぶでしょうか。じぶんで言ってじぶんで傷ついていませんか)(心のバンソーコーを差しあげましょうか) やめて、急にやさしくしないで。いくひしさんがなんだかとってもみじめでしょ。独り遊びですら楽しくできないなんて可哀そうでしょ。どうしてもっといくひしさんを褒めてくれないの。いくひしさんはすごいんだよ、天才なんだよ、誰も認めてくれないだけで本当は宇宙一かわいいんだよ、どうしてわかってくれないの!(ときどきは奇特でやさしい方が高く評価してくれているのに、そういうこと言っちゃうところが、心底救いようがないですねホント) やめてやめて。いくひしさんが心狭くてひどい人みたいでしょ。ほんとうのことだからって言っていいこととわるいことがあると思うんですけど。いくひしさん、いま本気でおこってるからね。マルカッコのひとの言葉に傷ついてるからね。ふんだ、ふんだ、ふんだ(怒り方がなんかコミカルで笑ってしまいますので、怒るなら怒るで真面目に怒ってもらってもよろしいでしょうか)。キーーーっ! まじめ、まじめだよ。いくひしさんは生まれてきてこのかたまじめでなかったことがないくらいにおおまじめなんですけど。もういい。マルカッコさんには頼まないもんね。いくひしさんはいくひしさんでかってに自画自賛して楽しくなっちゃうもんね。さっすがいくひしさんはちがうなぁ、具体的にどことは言えないけど、すごいなぁ、感心しちゃうなぁ、これじゃ世界中のひとたちから愛されて、モテモテのウハウハだぜ(虚しくならないんですか?)。あーん。もう、こうなったら!(ふて寝はナシですよ) なんでじゃなんでじゃ、ふて寝くらいさせてたもー(けっきょく怠けたいだけじゃないですか)。そうじゃが?(開き直るんじゃありません) こうじゃが?(大の字になるんじゃありません) ぐーっ(ジャンケンかな?)。すーぴー、じゃ(スヌーピーかな?)。ヌが抜けておるが(間ヌけじゃないですか)。言ったなコノー。キーーーーッ。もう寝る(起きてこなくてよいですよ)。なんでよ、なんでよ(うるさいので)。ぐーーーーーーっで殴ってやる(そこは寝ておきましょうよ素直に)。こうなったら!(なんでしょう) 寝オチまい(寝オチとおちまいをかけた渾身のギャグだそうです)。解説しないで!(どんまい) うまいこと言うの禁止!


3232:【2021/09/25*搾取構造を批判する搾取構造】
搾取構造に反対の意思を表明している組織が、組織運営を行ううえで搾取構造を利用している現象に名前はついているのでしょうか。資本家(企業)と労働者のあいだの問題は、基本的には利益の分配をどうするか、に収斂するように思います。そこにきてでは、そもそも利益を生みだせていない組織においてはどうでしょう。より搾取構造が強化されるように思うのですが、なぜかそうした、より搾取構造の激しい組織では、社会奉仕や善意を免罪符にして、労働搾取が肯定されて映ります。また剰余労働という概念に関しては、企業は付加価値を生み出すことで利益をだすこともあるので、必ずしも企業が労働者から搾取しつづけるわけではない点が度外視されて映ります。もうすこし述べるならば、基本的に世のなかの商品には、最初は付加価値が生じます。目新しさがあり、これまでになかった便利さがあるのです(なければ売れません)。これがあったほうが、ないよりも便利な生活を送れる。そうした商品が付加価値を帯び、世に流通するわけです。ですが、そうした商品によって企業が利益を恒常的に生みだせるようになると、生産ラインでは合理化が進み、最初のうちはイチの労力でイチの価値しか生まなかったものを、イチの労力でジュウの利益をあげられるようになります。このときに剰余労働というものが生じるわけです。イチの労働しかしていないのだから報酬はイチでいいだろう、というわけです。ですが資本家側はキュウの利益を享受するわけですから、ここに搾取の構図が生じます。ですがこれはあくまで利益がでた場合に限ります。したがって最初のうちは基本的に剰余労働の生じる余地がないと言えるでしょう。そもそも利益を生まなければどのような労働もマイナスでしかありません(社会に与える好ましい影響を利益と考えることもできますが、ここではあくまで現状の社会体制たる資本主義社会を念頭に置いて話しているので、ここでの利益とはすなわち貨幣である、とします)。資本家はそうしたマイナスの労働に付加価値をつけるための場を労働者に提供しているわけです。必ずしも資本家と労働者の関係が搾取に繋がっているわけではないのです。世に一般に失念されて映ることの一つに、剰余労働をすくなくする取り組みと、搾取を失くす取り組みがいっしょくたにされている点があります。言い換えるなら、働いてできた分の利益をきちんと再配分される仕組みをつくっていくことと、搾取構造の是正はイコールではないのです。なぜなら、利益がでなくとも搾取は可能だからです。ここに、詭弁の潜む余地があります。利益をあげていないのだから搾取をしていない、ではないのです。利益をあげておらずとも搾取は可能です。むしろ利益をだしていないのだから、余計に搾取構造は強化されるでしょう。何らかの仕組みのうえで仕事をさせ、何らかの仕組みを機能させるための手駒として個人を構成員に組み込んでいれば、そうした構成員の労働に対する報酬を与えていなければそれは労働の搾取をしている、と呼べます。ボランティアですから、という言い訳をそうした組織は建前にするのですが、強制力の伴なった労働はボランティアではありません。自主的に参加するからボランティアなのです。ノルマを課せられ、無理やりに働かせられたらそれはボランティアではありません。にも拘わらず、社会奉仕という名の詭弁によって無理くり労働をさせられている例を比較的よく目にします。利益がでないので組織を維持できず、しかし組織運営のためには資金がいるので、そのためにそうした組織は労働搾取を行います。ボランティアならばボランティアらしく、ノルマや会費などを設けずに、自主的に参加させればよいはずです。ですが、本来は企業と同じような経済活動を行っているのに、搾取構造を維持したいがために、或いは理念という名の我がままを優先したいがあまりに、労働者に報酬を払おうとしない組織が目立ちます。そうした組織は往々にして、社会奉仕を謳います。お金のために活動しているわけではない、という言い方をするわけですが、個人を構成員に組みこみ、仕組みを維持するための労働力にしているのならば、いち組織として相応に対価を払うのが道理ではないでしょうか。それができないのならば搾取をしているとまずは認めたほうが、自家撞着に無自覚であるよりも好ましくいくひしさんには映ります。言っていることがいくら正しくとも、やっていることが正反対では、支持をしたくともできないのが道理ではないでしょうか。いくひしさん個人は、社会奉仕や無償の善意を好ましく感じます。ですが、それは愛や奇跡といったものと同じように、滅多にお目にかかれず、ユニコーンや天使のようなものだからです。儚いのです。赤ちゃんと同じです。ただそれだけでは現状の社会体制では活動を維持しつづけることは適いません。人はお金のために生きるわけではありませんが、なくては生きていけないのもまた事実です。そういう仕組みのうえでの生活を現代人は強いられているわけです。技術が進歩し、社会に余裕ができればそうした仕組みもまた変わっていくのかもしれませんが、すくなくともいまはまだそうした仕組みにはなっていません。生きていくためにはお金が必要なのです。お金を稼ぐことはわるいことではありません。どちらかと言えば、報酬を払わないことのほうが搾取をしているという意味で、より劣悪です。すくなくともボランティアを標榜した組織において、運営中枢人物たちとその他の末端構成員の収入に偏りがあったら、それはおかしいと言えるでしょう。組織内部で権限のある者ほど高給取りで、そうでない末端が安月給だ、なんて構図は搾取以外の何物でもありません。企業ならばそれでもよいのかもしれませんが、ボランティア団体では、これはほとんど腐敗していると言えるでしょう。こうした詭弁に当人たちが気づいていないこともあります。まずはそうした無自覚を認識し、いまからでも仕組みを変えていこうとしていくほうが、よりじぶんたちの目指す理念に近づけるのではないでしょうか。(上記、聞きかじりの知識をもとに三十分で並べた文章です。こういう感じかな、といった漠然とした印象論ですので、真に受けないように注意してください)


3233:【2021/09/26*わっからーん】
一つのことを極めるよりも、ガラクタみたいな各種バラバラの要素を無作為に、無尽蔵に、自由自在に組み合わせられたほうが、時間経過にしたがって魅力が増す傾向にある。ものすごいことを一種類しかできないと、一時的には注目が集中するがすぐに飽きられてしまう。その点、各種要素がガラクタであろうとも、一つとして同じでないモノを生みだせるほうが長期的には人々を楽しませつづけることができる。とはいえ、人々を楽しませつづけるには、見つづけてもらわねばならず、そのためには一時的にも注目を集める必殺技みたいなものがないとすこしばかり苦労するかもしれない。いっぽうで一点特化型であろうとも長くつづけていけるのならば、時代が進むごとにいったんは飽きた人々以外の目にも触れるようになるので、やはりそのつど注目を集め、それなりに利を得られるようになるだろう。どちらにしたところで、続けること――或いは残すことが必要条件になる。継続がだいじ、といくひしさんが常々繰り返している意味を解ってもらえただろうか。もちろん注目を集めなくてもいい、じぶん一人が楽しければいい、という考えもある。その場合であってもやはり、できるだけ長く楽しい時間を味わうためには、継続できる環境を整えることが欠かせないはずだ。必殺技は基本的に、その習得にも発動にも身体を酷使する。その点、奥義と呼ばれるものはたいがいどんな技にまぶしても威力の増すドレッシングや香辛料のような効能がある。一つの必殺技を極めるよりも、まずは奥義を習得したほうが好ましいように思うのだが、これは必ずしもトレードオフではなく、両方同時に突き詰めていけるので、ときどきは必殺技にも挑戦してみる、くらいがちょうどよい塩梅なのではないかな、といまのところは考えているしだいである。可能ならば、ガラクタで組みあげたそのつどそのつどの集合が、あたかも必殺技のごとく研ぎ澄まされて見えるくらいにまで、瞬間瞬間の取捨選択の妙を極められるとうれしい限りだ。無造作に繰りだす流れそのものが、あたかも淘汰の末に造形される自然のように、或いは能や盆踊りや三味線やクラシック音楽のごとく伝統の形式に匹敵する造形の美を感じさせるくらいにまで、自由自在に、融通無碍を体現できたら、楽しいだろうなぁ、と妄想する本日のいくひしさんであった。(わっからーん、と思いながら、極めるってなんじゃ、のいまの段階の考えを述べてみました。極める必要ってあるの、という問いがまずあるはずなのですが、そこはまあまあ無視しています。上記、何一つ定かではありませんので、誰か教えてほしいです)


3234:【2021/09/27*どちゃくそ迷うぞ】
きょうはちょっと趣向を変えて、小学四年生から中学生くらいの子にプレゼントするならどんな本がよいだろうか、と考えながら本屋さんを覗いて、帰ってきてからもじぶんの本棚を眺めてみたのだけれど、結果から申しますと、ないです。プレゼントできません。まずは小説とそれ以外の書籍では、まあまあふつうに小説のほうが無難だな、と考えました。でも果たして小説をプレゼントされてうれしいのかがまず以って疑問ですし、じぶんが小学生中学生のときに小説をプレゼントされてもまったくうれしくありませんでした(唯一ハリーポッターシリーズを三巻だけ読んだことがあるくらいです。その流れでたしか十五少年漂流記も読んだ記憶がありますが、それ以外はからっきしでした。夏休みの宿題の読書感想文でどうしても読まなくてはならなかった、とか、そんな感じだったような気がします。でも読んでみたらおもしろかったです。ただその後、読書にはまることはなかったことから、好んで読むほどではなかったようです。以降、2008年まで読書とは縁がありませんでした)。そこにきて、じゃあマンガはどうか、と問われると、マンガだったらそこそこまあまあ、うれしくはないけれど読まずに捨てることはないだろう、という具合で、じゃあマンガでも見繕ってみるか、といろいろと目を通してみたのですけれど、結果から申しますと、ないです。プレゼントできません。いや、シリーズでごっそり贈るのがアリなら全然思いつくのですが、一巻縛りで今回は考えてしまったので、単巻でプレゼントにふさわしいマンガがあるかなぁ、と考えて、ざっと見繕えたのが、「ルックバック」と「女の子が死ぬ話」と「映画大好きポンポさん」とあとは好きな漫画家さんの短編集なんかを見繕ってみたのですが、たいがい人が死ぬ話ですし、プレゼントで贈るほどのモノかなぁ、という感じがして気が引けてしまいました。強いて言うならポンポさんかな、といった結論に落ち着きました。ちなみに、プレゼントで贈るほどのモノかな、というのは何もマンガを虚仮にしているのではなく、プレゼントである、というだけでそこに何かしらの意味を幻視されてしまいそうで、困っちゃうな、のニュアンスです。プレゼントでないのならいくひしさんが読んでおもしろかった本を山積みにして、読んでも読まんでもどっちでもいいけど暇つぶしがしたいのなら好きなの読んで、と置いとくだけなのですが、やはりプレゼントとなると、「なしてこれをあだすに贈っただ」と首をひねられ、含めてもいない意図をひねくりだされてしまいそうなので、そうするともはや贈らぬほうが無難だな、の判断を下してしまいます。ちなみにシリーズで贈っていいのなら、コテリさん著「Veil」や石塚千尋さん著「ふらうぃんぐうぃっち」や施川ユウキさん著「銀河の死なない子供たちへ」や山本和音さん著「星明りグラフィクス」や九井諒子さん著「ダンジョン飯」を贈るかなぁ、と見繕いました。結界師や鋼の錬金術師やらんま1/2でもよいかもです。どれも好き好きなマンガさんたちです。大人たちが意味もなく手塚治虫さんの「火の鳥」や「ブラックジャック」を贈りたがる気持ちが解かってしまった日でございました。それ以外を贈ると、あまりに個人的な嗜好の押し付けになってしまいそうで、教育上よろしくなさそうだなぁ、とどうしても思ってしまうのですね。とはいえ手塚治虫さんの作品とてかなり癖がつよいので、なぜそれは許せるのだ、の気持ちも湧かないわけではないのですが、まあまあそのうちどうせみんな読むんでしょ、ならいいじゃん、の妥協の産物かもしれないので、それはそれ、これはこれ(何がだ)。ひるがえって、いくひしさんはじぶんでつむいだ小説を子どもたちに薦められますか、と考えてみますれば、何一つ薦められぬし、読まれたくもないのだね。どうしても読みたいというのなら止めはしないよ、くらいの塩梅で。プロ意識が皆無やな、の自覚を強固にして、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。おちまい。


3235:【2021/09/28*中身と装飾の違い】
他人に向けて文章を並べたとたんにいまの時代はどこからともなくひゅんひゅん野次が飛んでくるようなので、みんないくひしさんみたく一人遊びをしたらいいのに、と思ってしまうな。とはいえいくひしさんのいるここは人っ子一人いない無人の世界になってかれこれうんぬん年なので、誰かいませんかぁ、とラジオに乗せてとくに期待もせずに惰性で呼びかけつづけてる感じで並べているので、野次ですら返ってきたらうれしい、うれしい(うそ。そんなにうれしくはないです)(もらうなら野次よりもどう読めたかの感想がよい。解釈がよい。他者視点での世界が視たい)(だからべつに感想でなくともよくて、その人の表現であればべつにいくひしさんとまったく関係がなくともOKです)(というかそれがよい)。いくひしさんの「おーい、おーい。だれかいませんかぁ」の呼びかけに反応があるだけで、「人、生きてた」の感慨の深さで油田が湧いちゃうくらいにびっくりしてしまうな。だいたい、どんなに酷評されるような文章とてあと百年もしたら貴重な資料になるのだ。いちいち他人の評価に影響されて、文章形態を変えていたら埒が明かないし、みんな同じになってしまう。そんなのつまらんと思うのだけど、そうでもないのだろうか。好きなように考えやら思いやら妄想やらを表現すればよろしかろう。その結果に誰かを傷つけてしまったり、間違った情報を拡散してしまったら、ごめんなさいをして、訂正すればよいだけではないだろか。犯罪行為なら法律をもとに裁かれるし、そうでないならまあまあ自由にしてください、で終わる話なのでは。文章の内容と、文章の並び方はべつの次元のお話だ。その点、文芸はまさしく文の並びでお芸事をお見せしよう、の分野でもあるので、すこしくらい特徴があったほうがおもしろい気がするのだけれども、工夫するなら内容のほうに拘りたいよね、と思わないでもないので、まあまあお好きなようにしてください、いくひしさんはします、とやはり思ってしまうのだね。前々から述べているけれども、ダサいとか、キモいとか、そういう野次は批判ですらないので気にしないほうがよいですよ。とりとめもなく本日もマルカッコ多めのいくひしまんでした。おちまい。


3236:【2021/09/29*マルカッコなし問題の巻】
へい、集合。みんなさん集合してくれい。ちょいと相談したいことがあるんだよ。いくひしさんのご相談にのっておくれよ。んだよいま忙しいのに喚くなって。えーなになにぃ、まんちゃんの悪口大会開くってぇ? ちがうちがう、そんなんじゃなくて。じゃあ何だよ。そうだそうだ、我々は忙しい。まんちゃんといっしょにしないでいただきたいものだね。いやじゃ、いやじゃ、だいじな話だから我慢しておくれよ。いくひしさん、さいきん思うんじゃけど、じつはそんなにかわいくない疑惑あったりする? ないかな、ないといいな。ねぇねぇ、みんなさんはどう思います。こいつなんか言ってっけど、どうするよ。おまえなんか言ってやれよ。あたしぃ? いやいや、そういうのそっちが専門じゃん。ちょっとあたしでも現実を突きつけてあげちゃうのは可哀そうでできないわぁ。ちょい待ち、ちょい待ち。みんなさんなんなのさっきから。ちょいちょいいくひしさんを小馬鹿にしておりませんか。コバエなみに無下になされておいでではありませぬか。いいからおしぇて。いくひしさんってじつは宇宙一かわいいではないかも疑惑の真相をおしぇて。いいのか、つらい結果になるのが分りきってんぞ。まんちゃんが怒ったりむつけたりしないって誓うんならあたしは言ってあげてもいいけどね。心配ご無用だよ。本当のこと言われておへそちゃんねじねじひん曲げるほどいくひしさんは超能力者ではありませんので。スプーン曲げもできませんので。超能力者じゃねぇのは知ってっけど、じゃあまあ言うけど。え、なんでそっちのひと固唾飲みこんだのイマ。いくひしおまえな、じぶんで言うほどかわいくはねぇぞ。なんじゃ? かわいくはないって言ったんだ。幻聴かな? ちゃんと受け止めろよ、現実逃避すんな。いいか。おまえは、そんなに、というかふつうに、百人中九十九人はかわいいとは思わないレベルでかわいくはない。ちなみに残りの一人はいくひしおまえだ。そうだよまんちゃん。ウザい、腹グロい、性格わるい、の三拍子揃ったお近づきになりたいとは心の底から思わない人物なんだよまんちゃんは。あ、見てゴジラ。妄想で世界を滅ぼそうとすんな現実直視しろ。まんちゃんあのね、あたしらもできればまんちゃんにはおとなしくしててほしいから黙ってたんだけど。なんじゃいよ。まんちゃん、けっこう見ててヒヤヒヤする。寒いを超えて、ハラハラする。だいじょうぶかなぁ、このひと、ちゃんと生きていけるのかなぁって心配になっちゃうくらい。そんなに!? けっこうな言われようなんですけどいくひしさん、心外。そういうワルグチはよくないと思うんですけど。おまえが言えっつったからこちとら気分最悪でも教えてやったんだろうがよ。そうだよまんちゃん。あたしたちだって本当は外からそっと眺めて、まんちゃんまたバカなことしてるって笑っていたかったのに、こうして親切で教えてあげてるんだよ。いまの発言のどこをどう切り取ったら親切さんが? いえね、みんなさんが本音を打ち明けてくれているのはひしと伝わっておりますよ。短くはないお付き合いですからね。それにしたって、解せぬよ。解せぬ。いくひしさんは宇宙一かわいいのではなかったなんて。いいよ、いいよ。約束だもんね。怒らないし、むつけない。いいもん、いいもん。いくひしさんはいくひしさんじゃい、でもホントは宇宙一かわいいがよかっだぁ。まあなんだ、泣くだけなら許してやっから我慢すんな。まんちゃん……。やめてやめて、慰めないで。もっと惨めになっちゃうでしょ。だいじょうぶだよ。いくひしさんが宇宙で二番目にかわいくても、かわいいはかわいいだから。いくひしさんがかわいいのは不動だから。あははー。優勝をほかのだれかに譲っちゃうなんて、いくひしさんってばやっさしー。かわいいうえにやさしいだなんて、最強じゃなぁ。すごいなぁ。我は最強なり。なぁ、こいつどうするよ。あたしが思うに、さっきのゴジラ連れてきて藻屑にしてもらったらいいんじゃないかな。宇宙の藻屑にでもしてもらったらいいんじゃないかな。ひどいが!?


3237:【2021/09/30*鏡】
鏡を買いました。部屋で文字打鍵作業するときにマイPCのよこに置いて、じぶんでじぶんを見張るようにしてみました。これといって成果はありませんが、たまに変顔をして遊びます。


3238:【2021/09/30*自然現象のたまもの】
これまでいくひしさんの蓄積してきた記憶をぎゅぎゅっと押し固めて、凝縮してみたら、ごま粒くらいにしかならないんじゃないかな、と想像することがあります。でもたぶん真実にそれくらいしか情報を記憶できておらず、それ以上のずっと多くの、それこそ海に並々溢れるくらいの情報に世界は溢れているのですね。いいえ、宇宙はもっと広いのですから、じっさいいくひしさんの触れている情報、蓄積できている情報は、ごま粒以下なのかもしれません。ひょっとしたら蟻さんのほうがたくさんの情報を蓄積しているのかもしれませんね。それを、より世界を捉えている、と言い換えてもよいかもしれません。しかしいくひしさんは妄想ができます。妄想は世界と乖離しているので、世界の情報ではない、と思われるかもしれませんが、妄想もまた世界に存在するいくひしさんという有機構造体の生みだすものである以上、これもまた世界の情報なのです。歌や波や風がそうであるように、妄想もまた自然現象のたまものなのですね(定かではありません)。


3239:【2021/09/30*質量、エネルギィ、情報、概念】
風はただそこを流れているだけなら風ですらなく、大気の移ろいでしかないが、それを観測する人間のなかでのみ、風というくくりがなされ、解釈をされ、風として顕現する。かといってそれによって風なる事象に変化が及ぶわけではなく、あくまでそれを観測し、空気の流れを風と捉える人間がいるのみだ。ただしそれでも、すくなくとも人間がいるからこそ、風は風として生みだされる。それによって世界の質量は何一つ増えないが、解釈は増える。情報が増える。脳内を駆け巡る電子信号の総括でしかないはずのそうした解釈は、しかし単なる電子信号以上の働きを生みだす。概念を生みだす。解釈とは概念の創造だ。概念とは単なる情報ではない。量的指数に還元できない、それそのものが単位として成立する、世界を構成する要素そのものである。物語がそうであるように、解釈とは、質量とエネルギィ、そして情報に次ぐ第四の世界の構成要素である。(記事を埋めたいがために並べた文章です。妄想ですので真に受けないでください)


3240:【2021/09/30*ダサいは宝庫】
物語にもファッションにも流行がある。流行はしかしいずれ過ぎ去るものだ。栄枯盛衰である。しかし、かつて流行したものが時代を経てふたたび脚光を浴びることもある。脚光を浴びるまでは、いちど過ぎ去った流行はダサいのだ。それが時代を経ることで、ダサくなくなる。イケてるものになる。骨董や化石にも言えることだ。いちど古びたものは、古いというだけで価値を帯びることがある。ここから言えることは何か。すなわち、ダサいものをダサくなくできたら、それは新たな流行を生みだせるし、時代を先取りできるということだ。ダサいものには福がある。サビているだけで、磨けば宝そのものになる。ガラクタがそうであるように、いかに用いるかなのだ。クリエイターを目指したいのならば、ダサいことにこそ目を向ける習慣をつくったほうが、時間経過にしたがって得をする機会が増えるだろう。想像力をどこに活かすのか。ダサいものにこそ、が方針の一つとして挙げられそうだ。


※日々、知らない世界が多すぎる、世界はまだまだ果てなく、底知れない。


3241:【2021/09/30*きょうの閃き】
天才の表現やら成果物やらパフォーマンスを見かけるたびに、じぶんの才能のなさをつくづく、しみじみと実感するのだが、そのときに抱く諦めの気持ちは晴れ晴れしさに似ており、それでも、それゆえにかじぶんの内側の世界にじんわりと広がる波紋の、ぬわん、ぬわん、の響きが心地よい。とりもなおさず、真実に内側の世界が広がっているのかもしれず、諦めるからこそ新たにゼロから積みあげていける何も持たないがゆえの気軽さが、どことなく風の奔放さにも似ていて、やはりよいな、の感情が湧く。昼間に思いついたことなのだけれど、死にちかいものはかわいい、という言葉をさいきん知ったのだけれど、どちらかと言えば自由なものはかわいい、のほうがしっくりくる気がする。死も、どちらかと言えば自由にちかい。同時に、自由にちかくない死もある。ひるがえって、どんなものにでもかわいい側面があるのにかわいくない側面もあることの理由の一つが、すなわち、自由にちかいか否かなのではないか、と自転車を引きながら坂をのぼりつつ思った。でもかわいくない自由もまたあり、ひょっとしたらかわいくない自由は、自由ではなく不自由にちかいのかもしれない。たとえば暴力の伴なう自由はかわいくない。でもかわいい暴力もあるので、なかなか匙加減がむつかしい。ひとはなぜ何かを観測したときに、かわいい、と思うのだろう。かわいいは、それほしい、と似ている。じぶんの中に取りこみたいもの、それでいてじぶんと同化しきれないもの、それとも愛でていたいもの、じぶんのものにしたいけれどもじぶんのものにはならないでほしいもの。そういうのが、かわいい、なのかもしれない。支配したいけれど、したくない。自由であってほしい。そのままでいてほしい。そういうのを見ると、かわいい、と思う。かわいいって何ですか?


3242:【2021/10/01*じゅ、じゅうがつ】
公園には池がある。一週間のうちに何回か公園に散歩に行くのだけれど、いまの季節はヤゴの抜け殻を見つけることができる。池の周りに張られた進入禁止のロープやその支柱にヤゴの抜け殻が数十匹ほどしがみついている。大きさは小指の爪ほどだ。けっこう小さい。赤とんぼが飛んでいるので、きっとそれだ。でも赤とんぼというトンボはいないそうなので、なんという種類のトンボかは分からない。ヤゴの抜け殻にはどれも、背中の割れ目から糸が飛び出ている。時限爆弾のコードみたいに糸の先端は見えずに、折れ曲がって、コの字を描いている。中身と繋がっていた何かしらの血管だろうか。だとしたら脱皮したときに千切れそうなものだのに、千切れていない。ふしぎだ。あと、けっこう抜け殻は硬いのだ。指でつまんだ程度ではつぶれない。つぶすぞ、と意気込んだらつぶれる。つぶさないけど。ヤゴ自体はそんなに硬くなかった気がするのだが、だとすれば脱皮に備えて徐々に硬化していくのだろうか。ヤゴは蛹になることはないけれども、蛹と同じような変態をじつは行っているのかもしれない。皮膚の構造を調べたら、ヤゴと脱皮間際とトンボではすべて異なった形質を帯びているのかも(単に抜け殻になったあとで乾いて硬くなるだけの可能性もある)。話は変わりますが、池の周りはブロックで固められており、綱渡りのようにしてその上を歩くことができる。子どもはみなそこを歩くのが好きだ。示し合わせたようにみなそこを歩きたがる。親は子どもが池に落ちたら困るので、何段も低い外側を歩きながら子どもの手を引いて歩く。どの親子も似たことをするので、どの親子も同じだなぁ、と人間の習性をおもしろく思う。それともこれもまた文化なのだろうか。本能ではなく文化的に育まれた何かかもしれない。きょうは雨なので公園には寄らない。雨音は好きだ。濡れず、凍えずに済む場所にいるならば、の話だけれども。これもまたきっと文化的に育まれた感性に違いない。本来雨は畏怖すべき存在だ。しかし家を築けるほどに豊かになると、安全が身に染みるためにか無意識の内から安心を実感できるので、きっと雨音に安らぎを見出せるのだろう。贅沢なものですね、と我が身を振り返り、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おしまい。(ネットで検索してみたところ、虫に血管はないそうです。抜け殻の白い糸はどうやら気管のようです。なにゆえ内臓たる気管まで脱皮するのか、ふしぎな感じがしますね。臍の緒みたいな感じなのでしょうか。生き物の構造はすごいですね)


3243:【2021/10/02*んが】
人生を変えられるくらいに衝撃的な事物との出会いは、それのもたらす変化の善し悪しにかかわらず、ひどく個人的すぎるがゆえに、絶賛も酷評もできない。これは表現物であれ同様で、じぶんにとって真実嘘偽りなく掛け替えのない表現物であるほど、絶賛も酷評もできないのだ。絶賛し酷評できる時点で、ある種、じぶんの中に取り込めきれなかった異物であることの告白と同義とも言える。ただし、時間経過によってしだいに異物が消化され、じぶんにとって掛け替えのない事物に変質することもある。言い換えるならば、最初は絶賛したりこき下ろしたりしていた事物であれ、往々にして時間が経つと冷めていくものだが、その冷め方にも大別して二種類あり、一つは「もうまったく関心が湧かなくなって気にも留めなくなる事物」と、あべこべに「意識の底深くに沈み、根を張り、いつでもその影響を延々と受けつづける自我との同化を体現する事物」とに分けられる。人生を変えられるくらいの衝撃を受けた事物は後者に属し、もちろんじわじわとした影響だけでなく、一発で進路変更を余儀なくされるくらいの衝撃をもらうこともある。いずれにしろそうした自我と同化するくらいにまで融和された事物については、人は絶賛も酷評もしなくなる。人は、真実に生きる上で手放せないものほど、言及しないのだ。水にしろ、空気にしろ、重力にしろ、米にしろ、言葉にしろ、本懐にしろ。真実に必要なものほど、のほほんと感受し、そこにあって当然のように振る舞う。だがひとたび欠けると、大騒ぎをする。ふしぎな現象である。何か目から鱗が落ちそうなことを並べようと思ったけれど、思った以上に底の浅い所感が漏れてしまった。水や空気ってふだん意識してないけどなくなるとたいへんだよね、というさっこん小学生でも言わなそうなあたりまえの話である。でも、じつは小説やマンガだってそれくらいの存在になることもあるんですよ、という着眼点は、小学生が言ったらすこしは、おっ、となりそうだ。そこにきて、いくひしさんが言っただけでは、またまんちゃんがなんか言ってら、くらいの扱いになりそうなので、なんでや、の気持ちが湧いてしまうな。子どもがしてすごいことは、おとながしてもすごいと思います。でも、いくひしさんはおとなにすらなりきれなかった、子どもでもない者なので、もっとすごいのである。二重にすごいのである。子どもでもおとなでもないならしょうがない、諦めよ、ではなく、すごいのである。崇めたてまつるがよろしい。


3244:【2021/10/03*なんじゃらほい】
七月からスマホに替えたけれど、ガラケーだったころよりも使用頻度が減ったので、もうほとんどいらんな、の気持ちだ。でもいくひしさんが困らずともいくひしさんに連絡をとりたいほかのひとたちが困るらしいので、まだ使いつづけようとは思っている。あ、でももろもろのネットサイトにログインするときにメディア端末がないと、送られてくる暗証番号を入力できなくてログインできないので、スマホないと不便だ。いまの世の中、何でもスマホと関連付けられてしまって、スマホを使用できなくなった途端に利用不能となるサービスが多すぎないだろうか。とはいえそれ以前では、そもそもサービスすらなかったのだから、単純に便利なサービスを受けられるようになったことの弊害と言えるだろう。セキュリティを強固に保持しておくにはスマホとかそういったある程度個人を同定可能な道具を介すことはそれなりに有効だ。とはいえこれからは、生体認証やモノAIの普及で、どんな端末を使おうとその都度じぶん専用の端末として使えるようになると予測できるので、端末を乗り換える、という行為そのものが淘汰されていくのではないか、と妄想している。言い換えるなら端末は飽くまで窓口でしかなく、端末の中にデータが保存されることはなくなっていくだろう。ネット上のクラウドに常時バックアップされていくようになるはずだ。そして生体認証によって、どんな端末を使用しようと瞬時にそれら専用の個人クラウドにアクセスされるので、そもそも自分用の専用端末を持つ必要がなくなる。買い物カゴみたいにその都度、好きなときに利用できるようになるだろうし、大量に市場に普及するためそれそのものに商品価値がなくなるので、個人データの価値が相対的にいまよりもあがると妄想できる。何か言ったようで何も言っていない文章を並べてしまったけれども、きょうはもう何も思いつかない日なので、こんなのでもきょうの「いくひ誌。」にしてよいだろか。いいよいいよ、許しちゃう。ありがとうれし。


3245:【2021/10/05*かつんかつんでごじゃるよ】
レパートリーがすくないの意味で、引き出しがすくない、という言い方をするけれど、いままさにいくひしさんはそれなのだね。引き出しがすくない。同じことの繰り返しばかりしている。でも分かっちゃいるけれども、じゃあどうやって引き出しを増やせるの、というと、それはもうしたことのない型だの流れだのをひとまず手当たりしだいに、できるところから試していくしかないのだよね。でもこれがまたどうにも、最初はまったく身体に馴染んでいないから見るからにぐねんぐねんのガタガタで、わがはい下手でござる、の発表会なのかとじぶんでじぶんにピタコンと、あなたは下手でござるよ、の判子を捺さざるを得なくなってしまって、つねに「わがはいを崇めよ!」の大合唱を一人で唱えているいくひしさんにとっては、これ以上ないほどの屈辱なのだよね。でもそこのところを耐えて、見て見ぬふりをして、わがはいは下手でござる、と胸を張って、もろもろのいまここにはない流れに身を浸してみないことには、引き出しというものは増えないようなのだ。ガラクタをまずは増やさないことには、材料も増えないので、作れるお料理の品数も限られてしまう。ガラクタがガラクタなのは、何の一部にもなっていないからであって、何かの流れだの、仕組みだの、構造だのの一部に組み込まれ、部品になってしまえばもう、ガラクタはガラクタではないのだ。いくひしさんの底が浅いのは分かりきっているので、引き出しを増やすためにも、まずは箪笥の材料となる大樹を育むべく、土壌から耕していかねばならない時期にいまは足を突っ込んでいる気がする。ガラクタをただ揃えるだけでなく、ガラクタを生みだす種々の木々を育むために、ガラクタですらない、堆肥の素となるウンチさんからまずはこさえていきたい時期なのだね。なんだそりゃ、のいろいろなダメダメを、まずはうんと取り揃えていきたいな、と本日のいくひしさんは思ったんだそうな。おちまい。


3246:【2021/10/05*伝わりますか?】
じぶんの表現を眺めてみるに、いつも違和感しか湧かない。どこかしら引っかかりを覚える。うーんなんか違うんだよな、そうじゃないんだよ、というのは漠然と判るのだが、では具体的にどこがどうよろしくなくて、どこをどうすればよくなるのかは、まったく以って藪の中だ。方向性のようなものが見えればいいほうで、たいがいは、なんか違う、の違和感しかない。この違和感は、理想と現実のギャップなのだろうが、その理想というものがそもそもにおいて抽象的であるので、なんか違う、としか感じようがない。さいきんになってこの、なんか違う、と思うときの共通項のようなものが見えてきた。勘違いかもしれないが、ひょっとしたら限定的に妥当な解釈かもしれないので備忘録代わりに並べておくとする。さて。じぶんの表現に違和感を覚えるときはたいがい、二つの問題点がある。一つは、流れが淀んでいること。もう一つが、立体ではないことだ。裏から言えば、流れをなめらかにできれば改善できたことになるのだろうし、奥行きを感じられるくらいに立体を顕現できれば好ましいのだろう。流れに関しては、緩急のリズムと言い換えてもよいかもしれない。緩急をつけるだけでは足りず、緩急を構成する「線と点」で編まれるリズムが心地よいと、どうやらいくひしさんは違和感を覚えずに済むようだ。立体の有無に関しては、その緩急のリズムとも相関するのだが、違和感を覚えるときは往々にしてそれは「地上から見たときの星座」なのだ。描かれるのは夜空に浮かぶ平面の輪郭であって、そこに奥行きは感じられない。だが本来星座をなす星々は、それぞれに地球からの距離が異なっている。地上から見ると、夜空という黒板に描かれた点々でしかないのだが、真実に星と星を線で結ぶとなると、そのじつはジグザグと立体的な軌跡を描くこととなる。地上からの視点でありながら、そのジグザグまで感じられるように緩急にリズムをつけられると、いくひしさんは違和感をより抱かずにじぶんの表現を感受できるようだ。言い換えるなら、より理想にちかいカタチで表現を行える。とはいえ、緩急のつけ方が変わればリズムが変わり、そうなれば立体感の出し方も変わってくる。緩急は線を引く作業と言えるし、リズムは濃淡と言い換えることもできそうだ。そこにきて立体感は何かといえば、ピカソのキュビスムよろしく、多視点から編まれた緩急の履歴と言えそうだ。つまり、流れをいくつかの視点から捉え、切り貼りし、それそのもので以って一つの像を浮き彫りにする。それはたとえば、三次元プラス時間からなる四次元においてまずはそれら四次元をいくつかに裁断し、断面をつくって、その断面で以ってちぎり絵よろしく任意の像の輪郭を錬成し、最後にその状態で時間の経過が切れ目なく流れるように調整する作業、と言えるかもしれない(エッシャーの騙し絵に似ている)。時間の流れはつつがなく滑らかに(ときには渦を巻いたり、停止したりしながら)移ろい、それでいて時系列そのものは必ずしも一方通行ではなく、ツギハギであり、ときに断裂している。飛び飛びなのだ。あたかも四次元の断面にて滝ができているかのように、過去と未来が同列であり、現在と未来が過去であるような、そういった錯綜を宿す。そうした錯綜が、緩急やリズムを生みだす「線や点」の役割を果たし、当初予定していたよりも立体感のある緩急のリズムが生まれる。うまく言えないが、このような複合的で、ところどころ飛躍しつつも、全体として淀みない流れが立体的な回路を伴なって表れたとき、どうやらいくひしさんは、心地よい、と感じるようだ。それを、美しい、と言い換えても、ここではあながち的外れではないし、かわいい、としても、それほどお門違いな言い換えとはならないだろう、とおおざっぱに覚え書きよろしく備忘録なる妄想をまき散らして、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3248:【2021/10/06*根が他力本願なのである】
何かを遺そうとか、人類のためにとか、そういう壮大な夢を思い描いているわけではない。自由に生きて、その結果に僅かなりとも周りの人間たちや次世代の人々にとって好ましい影響を残せたらよいなぁ、という方向性があるだけで、べつに好ましい影響を及ぼせなくとも、いくひしさん自身が好きに自由に、より自在に、日々好ましい感情の起伏を抱けて生きていけたならば、それで構わないと思っている。ただし現代社会では他者を損なうとじぶんの自由も侵害される確率が高くなってしまうので、なるべく他人の自由を損ないたくはないよね、というこれまた方向性をいまのところはじぶんの選択の指針にしているだけのことだ。インターネット上に載せている小説とて、いつ消してしまってもいいと思っているし、どの道、百年は残らないだろう、と見立てている(サイトがなくなれば消えるのが道理だ)。いくひしさんのいまこうして及ぼしている影響は微々たるものであり、蝶の羽ばたきほどもない。すくなくとも蝶は花々の受粉を手伝ったり、死後、ほかの生き物の糧となっている。いくひしさん自身とて生きているあいだに及ぼす影響は、ほかの動植物種と同等だと評価するものだが、こうした創作や表現に限定して述べれば、ほとんどないに等しい。あったとしてもそれはいくひしさんが及ぼした影響ではなく、誰かほかの人に掬い取ってもらったからこそ生まれた恩恵でしかない。すなわち、いくひしさんは影響を及ぼされている側であり、贈り物をされている側なのだ。もちろん作用反作用の法則よろしく、影響というのは単独で成立する概念ではない。相互に働きあうからこそ、影響は影響としてその輪郭を維持する。風のようなものだ。風は、大気の移動であり、言い換えるならば、動きがにぶい大気と動きの活発な大気があるからこそ生じる現象と呼べる。動くものがあり、動かないものがある。すべてが同等に均質に動いていれば、それは何も動いていないのと区別はつかない。地上にいる人間が地球の公転を体感として知覚できないのと同じことである。だが人間は星や雲を眺めることで、地球が動いているかもしれない可能性を閃ける。差があるからこそ、変化を知覚できる。影響とて同じだ。いくひしさんはいまこうして文字を並べているが、これによって影響を及ぼす相手がいまのところこの瞬間にはいない。じぶん以外にはいない。だがいつの日にかこの文章を目にした者が現れれば、いくひしさんの無為な時間に意味が生じる。意味を与えているのはいくひしさんではなく、これを読んでいるあなたである。いくひしさんが与えているのではない。与えられているのはいくひしさんのほうなのだ。ほかの表現者や物書きがじぶんの文章の価値についてどう考えているかは知らないが、すくなくともいくひしさんの並べる文章には価値がない。読者がおらず、吐きだすことですでに役目を終えているからだ。これらはもはや役目を終えた灰である。しかし、こうした灰を目にして、新たに芽を生みだしてくれる者もある。影響を生みだす者もある。すなわち読者であり、あなたである。これはただここにあるだけでは何の価値もないただの文字のかたちをなした汚れにすぎない。その汚れに何かしらの意味を見出し、影響を生むのは、いくひしさんではないのだ。いくひしさんは何も遺せないし、役に立たない。灰を、汚れを、役に立ててくれるあなたがいるばかりである。(この考え方の危ういところは、悪口や誹謗中傷もまた、読み手が勝手に傷ついているだけだ、という暴論と構図が同じ点にある。しかし悪口や誹謗中傷というものは特定の個人に向けられるものであり、対象が限定されている。その点、いくひしさんのこれら文字の並びには、特定の個人が想定されていない。とはいえ、それはヘイトも同じなので、この考え方は、あまり理に適ってはいないのだろうと自己分析するしだいである)


3248:【2021/10/07*体力減退】
ここ数日、一年ぶりに片道八キロを自転車コギコギする日々を送っている。端的に言って体力が激減している。目的地に到着しただけで疲れきっているので何もしないうちから、早くおうち帰りた、になる。血が薄くなった感じがして、指先が微妙に痺れている感覚があるが、そう言えば以前はそうだったなぁ、と一年前のじぶんの体調を思いだす。せっかく蓄えたお腹のぷにぷにが寝て起きるたびに減っているので、おらの脂肪ちゃんが、とこの一年のあいだに蓄積してきた貯金のようなものが瞬く間に底を突く感覚を味わっている。人間ってこんなに簡単にげっそりしていいものなのだろうか。全身の細胞がふて寝しておる。とか言いながら水分をガブガブとるので、遠からず水っ腹になるだろう。二十一時には眠くなってしまって起きていられないので、寝てしまう。いつも思うけれど、じぶんのことを並べるとなんでこんなにつまらない文章になってしまうのだらう。いやだな。面白い人でいたかった。かといってむりやりキャラをつくってもイタイタしいので、どこかむなしくなってしまうな。全身の細胞たちが栄養寄越せ、とストライキを起こしているからか、文章までげっそりする。とか言いながら、好きなことしかしていない遊んでばかりの日々なので、真面目に働いている人からしたら、おまえ何言ってんのもっと苦労しろ、と叱られてしまいそうだし、どうせこのさき苦労するから好きなだけサボってたらいいんじゃないんですか好きにしたら、と匙を投げだされてしまいそうでもあり、遊ぶのだって疲れるんじゃい、と自棄を起こしたくもなる。起こさないけど。とにかく、一年ぶりなのだ。そう言えば以前はこういう生活だったなぁ、と否応なく忘れてしまっていた感覚を思いだしており、なかなか新鮮な心地だ。子どものころに戻ったらきっとこういう感覚になるのではないか、と疑似体験をした気になって、本日のやる気のない日誌こと「いくひ誌。」とさせてください。


3249:【2021/10/08*花咲く色は青白い】
(未推敲)
 ヨシダくんが別人のようになってしまってから半年が経った。以前は学校が終わったら裏山で一緒に虫取りやトカゲ探しをしていたのに、いまでは誘っても用事があるからと先に帰ってしまう。
 休みの日に家に直接出向いても、ヨシダくんのお母さんが、ごめんねウチの子いま留守なの、と言って追い払われてしまうのだ。最初のうちはヨシダくんのお母さんも、あら一緒じゃなかったの、と意外そうに言っていたのに、いまでは、またこのコなの、とうんざりした眼差しをそそいでくる。
 きっとヨシダくんがヨシダくんのお母さんにぼくのわるくちを吹きこんだのだ、とぼくは睨んでいる。
 そこまで邪見にされたらぼくだって、もう二度と遊んであげない、とへそを曲げたくもなる。けれど、ヨシダくんはただぼくを避けているわけではなく、ぼくだけを無視しているわけでもなかった。
 ヨシダくんはクラスの誰ともしゃべらなくなってしまったのだ。
 困った人を見過ごせないような、誰に対しても公平だったヨシダくんは半年前から徐々に、段々とではあるけれどじぶんの世界に閉じこもったように一日中机に突っ伏して寝ているし、起きているときは窓を眺めて、ぼうっとしている。
 魂が抜けたようだ、というのはぼくの評価だけれど、ヨシダくんの人格はまさに半年前と比べれば色褪せて見えた。
 その変化はのっぺりと季節の移ろいくらいにゆっくりと進んでいたので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427294292237)


3250:【2021/10/08*鈍化と過敏】
人間、痛いことはしたくないものだ。回避したくなる。その点、楽しいことは多少の痛みが伴うくらいならば率先して行おうとする。というよりも、痛みに気づきにくくなる。反面、楽しくないことは痛みに敏感になるということもあるかもしれない。なぜやるならば好きなことや楽しいことをしたほうがよいのかは、おそらくここのところにも通じており、楽しいことを行うときひとは痛みに鈍感になる。その分、ふだんならば身体が痛みを感じ怯むようなことでも平気でやり通すことができる。筋繊維の損傷や神経細胞の劣化をものともせずに行える。だが痛みの鈍化だけでなく、その損傷の仕方そのものが、怯みつつ行うのと率先して躊躇なく行うのとで異なるのだろう、と妄想できる。たとえば受け身でもそうだが、逡巡するときほど身体を痛めるよくない受け身になってしまう。いっそ大胆に思いきり転がったり、倒れにいったりしたほうがダメージが分散され、損傷をすくなくできたりする。これは受け身に限らず、あらゆるパフォーマンスに言えることかもしれない。躊躇によって好ましくない損傷の仕方をしてしまうのだ。ゆえに回復したとしても強化される部位が、好きなことをして行ったときとそうでないときで違ってくるのではないだろうか。この理屈から言えば、躊躇と手加減もまた違うはずだ。全体のちから加減の比率をそのままに出力を減らすのが手加減であり、躊躇はそもそも合理的でない身体の使い方や考え方をしている、と言えよう。ただし、必ずしもそうした躊躇が悪影響ばかりを生みだすわけではなく、バグによって進化が促されるように、躊躇したからこそ別の手法を試す契機になることもあるはずだ。無自覚で行うのではなく、いまじぶんは躊躇している、と自覚することで、悪影響を好ましい契機へと変えていくこともできるだろう。痛みに鈍感であったほうが全力をだせるが、些細な痛みを感じられればどこに負担がかかっているのかを細かく分析でき、全体の合理化に繋がる。たまには好きでないことや、躊躇してしまうことに挑戦してみるのも、そうわるくはないのかもしれない。(中身がなくてすみません)


※日々、本当のじぶんを認めてもらいたいと望みながら、本当のじぶんを知られる未来に怯えている、本当のじぶんなんてものがあるのかすら定かではないのに。


3251:【2021/10/09*積み木、クジ、偶然】
書くことなんかなんもないんじゃい、と思いながらも、文字を並べればなんとなく読み取れる文字の羅列になるので、ふしぎだな、の気持ちで、いつも文字を並べています。たとえば機械だろうと、ハムスターだろうと、リスだろうと、バッタだろうと、キィボードの上で跳ねて、キィを打てれば文字は並べられるわけですね。それでいて偶然読める並びで文字が打たれると、打った当人の意思に関係なく、それは読み取れる文字の羅列になるわけです。似た理屈の思考実験で有名な話に、中国語の部屋というのがありますね。言語を操る側の人間が真実に任意の言語を理解できずとも、何らかの意味を内包して映る文字の羅列を並べることはできるのです。何らかの文章があったとき、それが果たして文章の中身を理解しているから並べられているのか、それとも統計的にこういう場合はこう返しておけばいい、と一種マニュアル化されて出力されているのかは疑問の余地があります。いくひしさんの出力する文字の並びはどれも統計的に、こういう場合はこう、こうきたらこう、とマニュアル化されたある種の回路に従っているだけの、意味を理解しておらずとも並べられるほうの型です。意味は理解できておりません。意味があるのかも定かではないのです。何らかの発想を言葉に詰めようとすることはあるのですが往々にして失敗していますし、並べているうちに新たに発想が広がり、変質していくということもすくなくありません。何かを書こうと思って書くのではなく、文字を並べているうちに偶然現れた文字の羅列を目にして、そこに現れた「じぶんでは込めていないはずの意味」を幻視し、そこでようやくこれはこういう文章だったのか、との発見があるのです。この文章もそうなのですが、最初はまったくこんなことを並べようとは思っていませんでした。何も書くことなんかないよー、とぼやいちゃえ、と思って文字を並べていただけです。それなのにしぜんと、偶然に、こうして何らかのもうすこし広く、細やかな紋様を成した意味なるものの宿っていそうな文字の羅列になるのですから、ふしぎなものですね。ふしぎな気持ちになれると人は楽しいと感じるようです。ときにそうした未知は恐怖を喚起することもありますが、いまのところいくひしさんは、ふしぎだな、と思いたいがために、こうして偶然に意味らしきものを宿す文字の羅列を、積み木遊びの感覚で並べているのですね。クジみたいなものです。引いてみるまでは何がでてくるのかが分からない、ときには当たりを引くこともある、そのわくわくもまた楽しいの一つになっているのかな、と妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3252:【2021/10/10*正しさに底はないのかも】
さいきんの関心事は、ある一つの問題に対しての解釈を共有できない者同士で共存していくには、どのような手法が最適なのだろうか、についてです。より正しいほうの解釈に合わせられればよいのですが、何が正しいのかを理解するには、相応に知識や学習が不可欠で、それらはその人物の触れてきた文化とも密接に関わっており、個々の生き方によってはどうあっても受け入れられない正しさもあるように思うのです。畢竟、価値とは人間が定めるものであり、より正しい解釈のほうに高い価値があるという価値観そのものを、より正しいと判断する基準は、すくなくとも人類にはまだ編みだせていないわけであります。ひとまず、より正しいことを求めると上手くいきやすいよね、という傾向を人類が長い歴史のなかで培ってきただけ、とも言えるかもしれません。そういう意味では、極限に向かって突き詰めていける正しさもあれば、無数に正しさを内包する正しさもあるように思うのです。善悪や美醜にはそもそもそういった性質が備わっているようです。真実や現実となると、もうすこし幅が狭く、より一つの揺るぎない解を編みだしやすいのかもしれませんが、それもまた絶対ではなく、或る程度の揺らぎを帯びるものであるようです。正しさとは何かを考えると決まって、まるで世界のほうでひとつに定まることを拒んでいるような、そういったピントのズレたぼやけた感覚を抱きます。現代ではいささか、たった一つの揺るぎない解釈を共有しなければならない、との姿勢をみな無意識から「正しい」と見做しているように概観できます。しかし必ずしも揺るぎない解釈を共有できずとも、他者と互いに共存していくことは可能であるように思うのです。そもそもが、揺るぎない解釈など人類はいまのところ一つも見出せてはいないはずです。太陽はどこから昇るのか。西からなのか東からなのか。観測者のいる場所によって変わってきますし、厳密には太陽は昇っても沈んでもいません。地球が自転しているからそう地上にいる人類には解釈できる、というだけの話なのです。ですがその解釈は間違っているわけではありません。言い換えるならば、解釈とは常に、どこかしらに誤謬や例外を含んでいる、と言えるでしょう。そうした誤謬や例外を認めあいながら、許容しあいつつも、共存のためのよりよい仕組みを築けていけると、いくひしさんにとっては好ましいのになぁ、という人類が何千年も前から繰り返し考えてきただろう底の浅い疑問を、さいきんはよく妄想しております、とおのれの未熟さを白状して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(正しさとは求めつづけるものであり、求めつづける行いそのものを言うのかもしれず、それゆえに割りきったり、これが絶対に正しい、と例外の存在から目を背けた時点で、消え失せる類の儚い存在、陽炎のようなものなのかもしれませんね)


3253:【2021/10/11*魂、意識、人格】
我思うゆえに我あり、とは言いますが、果たしてこのじぶんをじぶんと見做す意識は、たった一つの揺るぎない「私」なる意識なのでしょうか。我とは果たして本当に、我、なのでしょうか。人間に意識と呼ばれるものが果たして本当にあるのかすらいくひしさんには解りません。人間には魂が存在する、と考えている現代人は、魂は存在しない、と考えている現代人よりも総数は少ないように思います。しかし、人間の生死を考えるうえでは意識の有無を引き合いにだして解釈する現代人はまだまだ多いように思われます(いくひしさんもそう考えてしまう者の一人です)。しかし魂と意識の違いに、そう差はないように思えます。身体から抜けでることが可能なものを魂と呼び、そうでない身体と癒着したもの、切っても切れないものを意識と呼んでいるだけではないのでしょうか。では、意識と人格はどう違うのでしょう。意識が人格を生むのでしょうか。では意識があっても人格がない場合もあり得るのでしょうか。それはあり得るでしょう。酔っぱらっていたり、寝ていれば人格は一時的に消失して映ります。しかし揺さぶられれば目覚め、酔いが覚めれば人格は復元されます。そういう意味では、泥酔していようが熟睡していようが意識はあるわけです。それを生体反応がある、と言い換えてもよいかもしれません。意識の有無と人格の有無はイコールではないようです。では人格とは何でしょう。我思うゆえに我ありの、我とは果たして人格のことなのでしょうか。いくひしさんにはそうは思えません。人格を生みだす機構、身体、意識、それらの総体の生みだす、幻影のようなもののように思えます。我とは、身体を含めたそれを機能させるために必要なあらゆる要素の総体のことであり、そこには自然や社会や他者や過去や概念や言葉、もろもろが含まれるように思うのです。我とは世界と同義なのではないでしょうか。私を私と認識するためには、私だけでは足りません。私を私と規定しているのは、私以外の多くの外部要素です(或いは身体とそれを維持する環境そのものです)。私がきょう朝ごはんにパンを食べたのは、それを食べるのが最も好ましいからであり(本当はステーキが食べたかったのですが)、そこに蕎麦しかなければ蕎麦を食べたでしょう。こうした峻別が過去幾多も繰り返され、私なる人格が形成されてきたのです。私は、私が思う以上に、私ではありません。私とは、我から零れ落ちた砂塵の一かけらでしかないのです。我からはたくさんの私が零れ落ちています。たくさんの人格が生みだされては消えています。私が認識できる人格もあれば、そうでない人格もあり、中には過去存在した数多の人類や、親兄妹、あなたの人格も含まれるでしょう。我を思うのは私ではありません。我が思うゆえに、私があるのです。我があるからこそ私があるのです。我とは神ではありません。そこここにただ流れる、あらゆる存在のことです。世界そのものです。私は世界によって形作られています。金型でくりぬかれるクッキーのように、或いは両手で握られるおにぎりのごとく。金型や両手のカタチ一つ、力加減一つで、私はいとも容易く私から脱し、またべつの私へと変容するのです。現に私は変容しつづけ、変質しつづけ、いまこうして一時的にいまの私であるだけにすぎません。この肉体に、揺るぎない人格など宿ってはいないのです。一つきりである保障もないのです。過去に変容した数多の私たちの来歴が、いまの私をあるカタチに限定しているにすぎません。過去の私たちの来歴が薄まれば、容易に私はその限定から脱するでしょう。魂も意識も人格も、本来そこにあるはずのそれそのものからはほど遠い、影のようなものです。我という光によって照らされているのは、魂でも意識でも人格でもなく、もっとほかの、未だ認識されていない何かなのです。私は、私だけでは私足り得ず、私は私だけであるのならば、誰にもなれないのです。どんなに強固な部屋に閉じこもったところで、私が私だけになることはできません。世界に内包されている以上、私はある限界を以って私に規定されるのです。我に思われている以上、私は私をやめることはできず、たとえやめようと試みたところで、ほかの私へと移ろい、ときに引き継がれるだけなのです。では人類がいなくなったらどうでしょう。それでも我は、世界は、そのつどほかの私を見繕うでしょう。魂でもなく、意識でもなく、人格でもない、本来そこにあるはずのそれそのものを生みだしつづけるのです。流れにできる渦のように、毛糸にできる結び目のごとく、何かを阻害し、淀ませることで、何かと何かを絡ませ、結ぶことで、それともかたどり、崩すことで。(それはいったい何という宗教ですか?)(宗教ではありません)(信じてもないから信仰でもないんよ)(じゃあただの妄想じゃんね)(何を言いたのかさっぱり解りませんでしたが)(天才っぽさを演出してみたかっただけです)(天才っぽかったか?)(イメージが貧困なんよ)(ぷぷぷー言われてやんの)(だーうっさい)


3254:【2021/10/12*なんかすみませんの気分】
おはようございます。きょうはゆっくり起床の日です。なんもしなくても誰からも何も言われない素晴らしい日であります。いつもでは? いまからわがはいの一日がはじまります。雨が降っております。おなかが空いております。食べるものがないので、あとで買ってこようと思います。話変わって、きのうは久々に人としゃべりました。まったく知らない人です。ときどき見知らぬ人に話しかけられることがあります。今回は一時間半くらいしゃべって、ばいばいしました。アメリカ国籍の黒人の方でした。日本語がカタコトであってもお達者であられて、どうやら中学校や高校で英語を教えているALTの方だったようです。また会いましょう、と言って別れたので、またいつか会うことがあるかもしれません。所作が上品で、かわいらしい方でした。マスクが猫ちゃん柄なのもキュートでした。話しているあいだ日が傾き気温が下がってしまったので、寒いのを我慢させてしまったかもしれません。申し訳なく思います。家に帰ってきてから会話を振り返って、どうしてあんなにはしゃいでしまったのだ、とじぶんの至らない言動に枕の下に頭を突っ込んで悶えてしまいましたが、寝て起きたいまならば、まんちゃんうっさい、の一言で黙っていただけるのでよろしいと思います。人としゃべるのはむつかしいですし、疲れます。楽しいだけに、ブレーキが壊れてしまうのですね。周りが見えなくなってしまうので、TPOを守るには、いくひしさんは誰ともしゃべらないでいるのがよいのであります。それはそれとして、六日勤務で休日が日曜日だけ、というのはびっくりしました。チョーたいへん、とおっしゃっておりました。それはそうでしょう。土曜日にもいまは授業があるのですね。午前中だけらしいのですが、コロナの影響なのでしょうか。公立ではなく私立の学校なのかな、とも想像します。いまこの国(に限りませんが、比較的裕福な国々)では外国人労働者を理不尽に扱って、安い労働力として酷使している、といった問題点がありますので、もちろんそれは外国人労働者に限らない話ではあるのですが、とかく労働者の――というよりもどんな人であっても生きていくうえでの――待遇は一刻も早く改善されていってほしいな、とお寝坊さんの怠け者は思ったそうなのであります。本日の日誌は以上です。お読みくださり、ありがとうございました。


3255:【2021/10/13*ズタボロ】
過去を振り返ったときに見えるじぶんの変化の軌跡は、ただそれだけを見ると結構な進歩に見えることもあるけれども、いま見えている大量の改善点や遥か彼方にぼんやり見えている理想の距離の遠さと比べてしまうと、なんも変わっとらんやん、の気持ちになって、あばー、となってしまうな。まだまだあんなに遠いんですか、あばー、の、あばー、ではなく、まだまだこんなに遊べちゃうんですか、あばー、の、あばー、です。でもときどきは、遠いよーやだやだー、の、やだー、も交じるので、いくひしさんてば欲張りさんなんだな。――ここまで文字を並べて、つづきが思い浮かばなくて、もうかれこれ一時間半くらい経つのですが、こういうときは無理をせずにまずはひと眠りするのが好ましいので、ひと眠りしちゃいます。起きたらきょうの分とつづきの日の分を並べようと思います。と思ったけど、もうここまで並べたら終わらせてしまったほうが楽な気もするので、もうすこしつづけますが、なんでじゃなんでじゃ、どうせならぜんぶ載せてたもー、いくひしさんにバトンタッチなんかせんでたもー。いくひしさん思うんですけど、ときたま真面目ぶって登場するあなたなんなんじゃ、雑用係でしょあなた、管理人とは名ばかりの雑用さんざましょ、どうしてそうでしゃばりさんのくせして中途半端なのかなぁ。いくひしさんまいっちゃう。やんだくなっちゃうな。ノルマばっかしいくひしさんに投げて、横から口だして、やいのやいの言うだけのひとなんていらんのだけど。でも手伝ってくれるのは助かるます、感謝してます、ホントです。という一人二役をすれば文字数も二倍でお手軽に終わるので楽でごわす。小説も台詞で進めると楽でごわす。でもさいきんはずっと、シュッとさせたいので、会話文は少なめを意識しておりますの貴重な情報を披歴して、きょうの「いくひ誌。」にしちゃってもよいだろか。ダメですやり直し。イヤです!


3256:【2021/10/14*技術に仕組みがついていけていない】
思うに、付加価値を増やすために稀少性を高めようとする手法は、時間経過にしたがい社会全体の発展を阻害する、と言えるのではないか。たとえばいまはどんな成果物であれデータにすれば基本的にはコピーが容易い。設計図にしろ文章にしろ絵にしろ動画にしろ、大勢に廉価版を低コストで提供することができる。だがそれをすると個々のオリジナル成果物の貨幣価値が下がるので――なぜならほとんど似たものがコピーとして巷に氾濫するからだ、水が飲み放題の場所では水の貨幣価値は低下するのと同じ理屈である、そのため――コピーを禁止したり、廉価版の流通を制限したりして、オリジナルの貨幣価値を底上げしようとする手法が多用される(ダイヤモンドや金とてそれが砂同様にそこらに溢れていたら貨幣価値は下がるが、裏から言えば砂とて、ダイヤモンドや金並みに絶対量が少なければ、宝石のごとく貨幣価値が高まる)。だがそれは、情報社会における技術力の発展した現代において、従来の古いビジネスの手法を前提としているからそうせざるを得ないだけであり、ハッキリ言ってしまえば企業や生産者側の怠慢であろう(或いは政府の)。大量にコピーされても利益がでるように仕組みを整えていくのが正攻法のはずだ。なぜなら需要者にとってそちらのほうが便利だからだ。コピーを誰もが受動できたほうが、幸福の総量が増す。成果物を食べ物に言い換えて考えてみればいい。一個のパンをつくるだけで、百万人にそれを無償で配れるとして、パンの貨幣価値は下がるかもしれないが、それによって大勢の生活が豊かになる。経済の上では一時的に打撃を受ける人々はでてくるだろうが、それは従来の仕組みが、新しい技術についていけていないだけだ。パンの貨幣価値が下がるからと言って、パンの生産量を限定して、流通を制限し、コピーを禁止するのは合理的とは言い難い。すくなくとも未来からすれば、反社会的行為だと言わざるを得ないのではないか。いまはデータであってもコピー不可な細工を施し、オリジナルの付加価値を高めて売買する手法が確立されてきている。おそらくその手法は流行るだろう。稀少性を高めるほうがお金儲けをするには楽だからだ。だがそうした公共の利便性を阻むことで稀少性を高める手法は、時間経過にしたがって社会の発展を阻害するだろう。オリジナルにはオリジナルの価値があるが、コピーにもコピーの価値がある。どちらが上とか下とかそうした考え方は、いささか理に合わないと言えそうだ。もしそれが妥当であるならば、子はいつまでも親を超えることはできない。しかし子は親の劣化版ではない。そこにきて、生物の進化と人間の生みだす成果物は違うし、「オリジナルとコピーの関係」と「親子の関係」も違う、という指摘はその通りだが、商品はつねに使用者によってその役割をまっとうすることもまた事実だ。オリジナルであろうとコピーであろうと、役割を果たすことは充分可能だ。問題は、現行の仕組みのうえでは大量に無制限に誰もが他者の成果物をコピー可能であると、損をしてしまう作り手が多数でてきてしまう点にある。だがそれは仕組みが技術の進歩についていけていないからなのではないか。繰り返すが、公共の利便性を阻むカタチで稀少性を増やそうとする手法は、時間経過にしたがって社会の発展を阻害するだろう、と妄想を逞しくして、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(まったく関係ないですが、転売に関する問題においても、転売によって得た利益を作り手側に還元できる仕組みがあれば、大方の問題は解決されるように思います。倫理観の問題だ、という意見を見かけますが、仕組みの問題であるようにいくひしさんには思えます。言ってしまえば出版社のしていることも広義の転売ではないでしょうか。ただし、でた利益を作者に還元している点が異なる、と言えそうです)(定かではありませんので、真に受けないように注意してください)


3257:【2021/10/15*ぽかぽか陽気】
ここ二週間あまり、涼しくなってから暖くなるを繰り返すからか、アゲハチョウを見かける。夏と勘違いして羽化してしまったのではないか。蝶を目にして、エネルギィ切れをよく起こさないな、と感心した。蝶に限らないが、昆虫類の持久力には目を瞠るものがある。それを省エネ能力と言い換えてもよいかもしれない。身体に対してあんなに大きな翅を動かし舞いつづけても蝶はすぐに力尽きたりはしない。どころか目的の花へとつぎつぎに移ろうのだ。自在なのである。自己を操れている。翅を動かし、目的を達成する。何がどう作用してそんな真似を可能としているのか。高次の知性を持った宇宙人から見たら人間と蝶の違いを見分けるのは困難かもしれない。意識があるように見えるし、どちらともにも高次の宇宙人にとっての意識は宿っていない。極めて本能に忠実に、そういう構造物としての能力をただ発揮しているだけ、と解釈されるかも分からない。プログラミングされた機械との区別はつかないだろう。だが蝶は誰かにつくられたのではなく、偶然にただ発生したのだ。進化の末にいまの構造に行き着いた。自然環境がそれを形作ったのだ。本当にふしぎだと思う。そういえばカナヘビも見かけた。こちらも小指よりも小さい幼体で、やはりいったん寒くなってから暖かい日がつづいたので春と間違えて卵が孵化してしまったのではないか、と想像したくもなる(卵は越冬する?)。寒くなれば卵を産む前に死ぬだろう(幼体であっても冬眠できるのだろうか?)。もしそういう個体が多くなれば、気候変動の影響は、季節によって産卵や孵化のタイミングが決まる生物種にとって致命的な悪影響と化すだろう。絶滅する種もでてくるのではないか、と懸念を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(とはいえ中には季節の移ろいに鈍感な個体もあるでしょうから、そうした個体が繁栄しやすくなり、すっかり絶滅してしまう、ということはすぐには起こらないのかもしれません。多様な進化が加速的に促されつつあるいまは時期なのかもしれませんね)


3258:【2021/10/16*無の日じゃった】
寒いが。早起きしておでかけしよ、の予定がさっそく狂った。寝すぎて足が、シュっとしてしまって足腰よわよわマンに逆戻りである。これじゃあいっぱい動き回れないのでおうちでごろごろ過ごしなさいの啓示と見做して、きょうはおうちでごろごろしちゃった。さいきんはぜんぜんご本を読めておらず、小説もつくれておらず、ぜんぜんダメダメのだめちゃんなんじゃ。でもダメダメのだめちゃんでなかったことがないのでいつも通りと言えばいつも通りでおじゃる。ダメダメでも生きていける世の中に感謝でごじゃるな。はぁ、ダメダメでよかった。よっくなーい、とおかんむりのいくひしさんもいらっしゃるようですが、そのおかんむりは王様にお返しし、ときに王妃様に献上し、あるいはお姫様に差しあげて、王子様にはコビを売りつつ小金を稼いでウハウハだぜ。話変わって、さいきんはヒトラーの本を二冊読んでいるのだけれどまったくわからん。何がどうなって何がよくなくて、けっきょく何がどうなったらよかったの、というのが見えてこない。むつかしい。ヒトラーって元々はドイツ人ではなかったんだよー、くらいがせいぜい読み解けたくらいで、最初はユダヤ人たちにお世話になったりしてたんだよー、というのもギリギリ読み解けました。勘違いしているだけかもしれません。歴史はむつかしい。二冊目はまだ百ページも読めてないのでちまちま読み進めていくだが。


3259:【2021/10/17*非実在キャラクター】
実在しないキャラクターにも生身の人間同様の社会規範や法律が適用され得るなら、おねショタもおねロリも不倫モノも学生冒険譚もSFも殺人ミステリもエログロも何もかもがダメでない? 虚構の影響は無ではないが、それに影響されない環境や教育を目指していくほうが人類の未来の在り方としてより妥当なのでは?(極論、デマやプロパガンダは虚構を用いて行われるが、それを禁じるよりも、そうした偏向した虚構に人々が著しく影響されない環境や教育を築いていくほうが、社会の在り方としてより長期に亘って「寛容さと公平性」を維持できるのではないでしょうか)


3260:【2021/10/17*他者の尊厳を守るためにほかの者たちの尊厳を奪わないでほしい】
同性愛者に人権があるように小児性愛者にも人権がある。誰にだってそれはある。ある、としていかなくてはならない。そうでなければ社会に参加する意味がない。そうではないのでしょうか。(実在(現実)と非実在(虚構)の境界はそうそう容易く踏み越えないほうが好ましいのでは、との考えです)


※日々、抑圧を抑圧され、抑圧すら抑圧され、ぎゅうぎゅうに押し固められたそれが爆発しなきゃいいけれど。


3261:【2021/10/17*飽きちゃった】
眠気マックスでした。久々に、起きたくないよ、の葛藤をしました。朝は焼きそばを作って、トロトロふんわり卵焼きを上からかけて食べました。まだ残っているので夕食もおそらくこれになります。さいきんはまた紅茶ばかりを飲んでおり、外にでたときだけコンビニでBOSSのカフェラテを買って飲みます。さいきんのペットボトルさんはふにふにでやわらかくて、慣れないと蓋を開けたときに中身が溢れてしまいます。そんなのはいくひしさんだけですよ、というご意見はごもっともなのですが、いくひしさんは精神年齢が一八〇歳なので、一周回ってほとんど赤ちゃんなので、エスカレーターのまえでも、おっとおっと、となかなか足を踏みだせないくらいなので、致し方ないことである。さいきんは完全に文芸に飽きてきちゃったので、またやりたくなるまでほかのことで遊んじゃおの期間です。同じことだけしていたらやっぱり人間飽きちゃいます。飽きずにずっと延々しつづけられる人がいわゆる天才なのでしょう。いくひしさんは天才ではないので、才能はからっきしなので、なっしんぐおぶキングなので、なんとなくの印象でそれっぽい英語を使ってみましたけれども、意味は通じていますでしょうか。ともかく飽きたら休んでほかのことで遊んでまた飽きたらほかのことをして、そうしてまた文字でぱちぱち判子遊びをしたいなぁ、となったら文芸で遊べばよろしいのではないでしょうか。よろしいと思います。なのでいくひしさんはそうします。その点、プロの物書きさんはすごいですよね。天才しかいないんじゃないかと思います。すばらしいです。憧れます。あ、紅茶が切れたのでお代わりを淹れようと思います。ほどよい文字数になりましたでしょうか。ではきょうはこの辺で。本日のいくひしまんでした。


3262:【2021/10/18*自転車こぎこぎの日】
人には不幸になる権利がある、なる言葉をさいきん目にして、確かになぁ、と思うと共に、でもそれって主観と客観がごっちゃになってないか、という気持ちにもなり、しばらく自転車をこぎこぎしながら考えた。人間はどうあってもしあわせを求めているのではないか。不幸になりたくて不幸になったとしたら、それはその不幸がその人にとってのしあわせだからであって、不幸ではないのではないか。もうすこし言えば、じぶんではしあわせを求めているつもりでも、他人から見たら不幸になりにいっているように見えることもある。だから冒頭の「人には不幸になる権利がある」というのはいささかおこがましい考えであり、他人の幸不幸をじぶんから見た尺度で測ろうとしているがゆえにでてくる価値観なのではないか、と一つ考えの結び目ができた。言い換えるなら、「人にはしあわせになる権利しかない」と言うこともでき、しかしそのしあわせになる権利を行使したところで必ずしもしあわせになれるとは限らず、仮になれたとしても他者から見てそれがしあわせに見えるとも限らないのだ。ゆえに、しあわせになる権利を行使した他者の選択を尊重しつつも、死や苦痛や不自由や理不尽などの奇禍なるものをできるだけ遠のけておける環境をみなで築いていくことはできるわけで、人の幸不幸は千差万別ではあるものの、奇禍なるものはあんがい共通しているわけでして、「人にはしあわせになる権利」があるのと同じように、「人には他者のしあわせの追求を応援する権利」もまたあるようにいくひしさんはひとまず、自転車で百漕ぎするくらいのあいだに思ったのだそうな。おしまい。(人には自由に生きる権利だけでなく自由に死ぬ権利もある、という意見が存在するが、仮にそれが妥当だった場合に、やむにやまれず死を選択した人に対して、じぶんで選んだ死だからよかったよね、と無関心を貫いてしまい兼ねないし、自己責任で済ましてしまい兼ねない。本来ならば、死なずに済むように環境や技術を発展させていくことも可能なはずだ。そういう視点が、死ぬ権利を認めることで損なわれる懸念がある。なぜ死にたいと思ったのか、死にたいと思う理由がなくなれば生きたいと思うのではないか。どうにもならないから死ぬという道しか選べないのではないか。本当に、自由に生きられる道と死ぬ道を選べた上での死の選択なのか、それともただ死ぬ以外に楽になる道がないから、やむにやまれずそれを選ぶしかなかったがゆえの選択なのか。前者と後者とでは話がまったく違ってくる。不幸になる権利にも似たところがないだろうか、とやはり自転車をこぎこぎして疑問に思ったのだそうな)


3263:【2021/10/19*無精卑下】
じぶんを棚に上げてえっらそーな文章をつむぐことで定評のあるいくひしさんですが、もちろん棚に上げているのでいくひしさん自身はまったくえらくもなんともなく、どちらかと言えば歩くガラクタの二つ名で呼ばれても文句を呈するのに躊躇するくらいにはただそこにあるだけで何かしら他者の自由を圧迫するような存在であるが、それでもいくひしさんを構成する成分全体の百兆分の一くらいは、善良でありたーい、の純粋な欲求を保有するいくひしさんもおるらしく、その貴重な天然資源のごとくいくひしさんの協力を経て、その他の百兆にちかいほぼ全身ガラクタのいくひしさんは、じぶんを棚に上げつつえっらそーな文章をつむぐべくちまちまと文字の判子を並べているのである。つまり全身ガラクタにちかい百兆にちかいいくひしさんをせっせと棚に上げているのは、百兆分の一の天然資源のごとく稀少ないくひしさんであるから、文句はぜひとも、善良でありたーい、などとおこがましくも高望みする身の程知らずのいくひしさんに向けてください。歩くガラクタの二つ名を欲しいままにしているほぼ百兆のいくひしさんはかように、善良でありたーい、などとおこがましい考えは持っていないので、どちらかと言えば、いくひしさん以外の全人類が善良であーれ、の極悪非道な呪文を唱えつつも、その極悪非道具合を自覚しているじつに謙虚なおりこうさんであるので、いかような文句であろうともぜひとも呑み込んでいただきたい。胃潰瘍にならないように注意してね。以上、これにてきょうの分の「いくひ誌。」とする。おわり。


3264:【2021/10/20*まんし苦しい、ばん苦しい】
集合。みなさん、しゅーごー。いいですかみなさん。いまから反省会を開きたいと思います。はいな。なんじゃいよ。どうぞ。まずはそこのいくひしさん。はいな。きみはあれだね。自転車をこぎこぎしつつ考え事にうつつを抜かしていて、ついつい、小学校のまえの信号機が赤だったのにそのまま横断しちゃったね。しかも小学生の目のまえで。万死に値すると思うのですが、釈明の弁はございますか。だってだって気づかなかったんだもん。はい処刑。ぎゃー。つぎはそっちのいくひしさん。なんじゃいよ。きみはあれだね。学校帰りや犬の散歩をしている子どもたちに、こんにちは、と挨拶をされても咄嗟のことで反応できずに無視しましたね。万死に値すると思うのですが、釈明の弁はございますか。あるよあるある、だって急に声かけられたら誰だって反応できんべや。こちとら自転車乗ってんよ。ん、って気づいたときにゃもうお子さまらは遥か彼方よ。だいたい昨今、かってに子どもに声かけるほうが危ないやんけ、向こうさんとて、防犯の意味合いで挨拶しましょう運動してるんと違いますか。却下です。なんでやなんでや。問答無用です、はい処刑。ギャー。つぎはこっちのいくひしさん。どうぞ。あら、きみはあれですね。とくに何もないようです、裁くべき罪過がありません。なぜ反省会に参加されたのですか。呼ばれたからだ。それはすみませんでした。手違いだったようなので、どうぞお引き取りください。そうもいかないようだ。なぜですか。なぜなら裁くべき罪過はここにあるからだ。どこですか。ここに。わたくしですか。そう、あなただ――まるでじぶんには罪がまったくないかのように、誤りを犯したことがないかのように、清く正しいフリをして、いいや清く正しいと思いこむことなく思いこみ、いつでもほかのいくひしさんたちを裁く立場にいると思いあがっているその性根がまず以って万死に値するように僕には見えるが、いかがだろう。訂正いたしますね、罪過はありました。いまの暴言を以ってきみも、はい処刑。却下だ。ダメですあなたは悪です。裁かれるに値する極悪そのものです。わたくしの決定に異を唱えるなど言語道断、釈明の弁はありますか。ないな。する必要がない。反省会など必要ない。省みるならきみ一人でもできるだろう。まずはじぶん自身と向き合い、じぶん自身の行いの是非を天秤に載せてみたらどうだろう。却下です。あなたは万死に値します。いかにも僕は万氏だ――いくびしまんだけに。くだらないジョークは聞きたくありません、万回あの世に行ってください。地獄に落ちてください。落ちるのはオチだけにしてほしいものだがね。最低のオチですね、万死に値します。最低なオチなのはまあ否定しないが。え、本当にこのまま終わる気なんですか。すまんね。ダメです却下です。集合。みなさん、しゅーごー。いまから反省会を開きたいと思います。あいよ。へい。議題はなんなんよ。このオチが、万氏に値するか、です。うまいことまとめるのやめなさいよ。


3265:【2021/10/21*風】
信号待ちをしているあいだに風景を眺めていて思ったのは、街路樹がなければ現代では比較的「風」を視覚することはないのかもしれない、ということだ。旗なんかがあれば別だが、風によって揺らぐものが、街中であればあるほど見当たらない。落ち葉やちり紙などが転がっていれば風に煽られ転がることで視覚可能だろうが、そうでなければ風が吹いているか否かを、目だけで判断することはむつかしい。水溜まりがあればその揺れで判断は可能かもしれないが。あとは音だ。風の音は、どこであっても耳にすることができる。ひるがえって開けた場所では、音だけして風を肌で感じることはない、という逆転の現象を体感することもある。絵で風を表現することがむつかしいのはきっと風が間接的にしか知覚できない人間の根本的な構造に関係しており、或いは触覚を可視化できれば風そのものを表現することは可能なのかもしれない。人は風を肌で感じているが、風がつよいときにはただ寒いと感じるし、危険を感じるときは、触覚よりさきにじぶん以外の物体が煽られるのを知覚することで危険を感じるように思う。風そのものを、風だ、と感じるときには、往々にして人は音や風景の変化で判断しており、より直接的な知覚であるはずの触覚での認識を、風に対してはそこまで重視していないようだ。あべこべに、そよ風だけはなぜか触覚優先のように知覚している節があり、そこら辺の微妙な匙加減はなんなのだろう、とふしぎに思った。まったく関係ないが不気味の谷現象を彷彿とする。人間には刺激の多寡に応じて、同じ事象に対してであれ、どの五感による知覚を優先すべきかを選り分ける性質があるのかもしれない。定かではない。


3266:【2021/10/21*好ましくありません】
現実に存在する人間を被害者にしないために法整備をしたい、被害者をださないための社会的合意を築いていきたい、というのならば提案すべきはまず特定の表現規制ではなく、現在すでにある法律の厳罰化であり、かつ教育や仕組みの工夫ではないでしょうか。表現の自由および思想の自由は基本的人権です。いち政党の思惑や政府の一存でそれらを規制(排除)しようという方針は、人権を重んじる民主主義国家にあってはならないことだといくひしさんは考えます。ましてや国民を扇動して恣意的な流れを構築すれば、特定の表現を抹消できるだろう、なんて考え方は乱暴にすぎると言わざるを得ません。それが独裁でなくなんなのでしょう(迫害や弾圧との区別がつきません)。児童を傷つけたら終身刑にしましょう、という提案のほうがまだ議論の題材としては有意義である、と言えそうです。現実の人間を被害者にしないために、児童を傷つける描写のある表現は規制しましょう、というのは論理が破綻しています。手段が目的に結びつきません(殺人描写のある表現をこの世からなくしても殺人がなくなるわけではありません。殺人を肯定的に描いている虚構作品はこの世に数多ありますが、それを規制したら現実の被害者が減るのでしょうか――仮に減ったとして、そうした社会が大多数の幸福に寄与するのでしょうか――たとえば完全に個々人が管理された社会では殺人は起こらないでしょう――しかしそのような社会が理想でしょうか。ただしプロパガンダや洗脳のように、虚構を用い、情報を制限して与えることで個人を犯罪行為に走らせることは可能です。過去、人類はそうした術を用いて戦争や国家的犯罪行為を犯してきました。それを防ぎたいならば優先すべき施策は表現規制ではなく、触れられる情報の種類を増やし、自由に情報を選べる環境を築くことであるはずです)。また、すでにこの国では過激だと定められた表現はゾーニングによって児童の目に触れない工夫がされています。いわゆる18禁などの年齢指定です。そのうえで配慮が充分でない、というなら、そういう言い方をすべきではないでしょうか。表現の規制をこれ以上強化せずとも可能な工夫はあるはずです(それを考えていきましょう、というのがまず挙げるべき提案ではないでしょうか)。規制ありきの提案は、議論のための問題提起とは言いません。いくひしさんは政治に疎いので、政党の是非は判断できませんが、すくなくとも現実の人間を被害者にしないために、という理由での、表現規制を推進しようとする主張には、異を唱えます。現在の規制(ゾーニング)では充分でない、というのなら、漠然とした印象論ではなく、因果関係を指摘したうえで、再度問題提起するのが筋ではないでしょうか。基本的人権を侵犯する類の問題提起を政党や権力者が呈する場合には、それくらいの責任を最低でも果たしてからにしてほしいものです。仮に特定の思想や指向性を有した個人から、「そうした思想や指向性をもとにした表現をする権利を奪う」というのならば、それはいくひしさんの基準では、かなり上位の看過できない考え方です(本当にそれって正しいの、と反論せざるを得ない、という意味です。そういう考え方もあってよいでしょうし、個人が述べる分には構いません。しかし、政党や権力組織は別です)。国民に議論を持ち掛ける前に、まずはいまいちど考えを煮詰めて、じぶんたちがしようとしていることの悪影響(リスク)の面にも目を向けてほしいものです。定かではないからこそ、権力を保有する者たちには重々吟味したうえでの発言や考えを述べてほしいと望みます。繰り返しますが、政党の是非は判りません。どの政党にも同じように、異を唱えたい方針が多々ありますが、基本的人権を揺るがすような方針は、さすがに看過できませんでした(いくひしさんの自由の根幹にかかわる問題でもあるからです)。ゆえにいくひしさんの考えを並べましたが、いつものように定かではありませんので、真に受けないように注意してください。(ひょっとしたら特定の表現があるために特定の犯罪が増加することもあるのかもしれません。そういった因果関係および相関関係が認められたときには、公共の福祉と基本的人権を鑑みて、どのように判断すべきかが改めて問われることになるでしょう。ですがすくなくともそれは、いま、ではないように思います)


3267:【2021/10/22*ばぶー】
現状、人類の進化の方向としては、全員が赤ちゃんになっても何不自由なく生きていける環境をいかに築いていけるか、なのではないか、とぼんやりと妄想している。技術力が高まり、社会が発展すれば必然、人間は生きていくうえで過去の人類よりも苦労せずに済むようになる。衣食住の心配をせずに済むようになり、黙っていても好きなときに好きな食事を好きなだけとれるようになる。社会が発展しつづけるならば、いま生活するうえで嫌々こなしていることも徐々にしないで済むようになっていくはずだ。反面、そうなると人間の生存能力は育まれることなく、環境に依存するように修正されていくので、たとえば現代人がスマホがなくては生活していけなくなりつつあるように、かなりの部分をじぶんの能力ではなく、周囲に介在する外部装置に頼るようになる。人間は徐々に苦労をせずに済み、ゆえに思考せずに済むようになる。ただし、専門分野に関しては、好きなだけ突き詰めていける環境もまた築かれていくので、積極的に学んでいく者とそうでない者とのあいだで、二極化していくことが予想される。しかし社会が発展しているので、それが直結して貧富の差には繋がらないだろうし、仮に繋がるようならば、それは社会が衰退している証左であるので、どこかで社会構造が破綻するだろう。いずれにせよ、社会が発展すればするほどに、特定の分野に関しては天才的だが、それ以外はからっきしの赤ちゃんのような個が大多数を占める世の中になっていくのではないか、と妄想できる。現状すでにそういった傾向はでてきているだろう。じぶんがどのような状況にあると赤ちゃんになっているのかを自覚できるか否かが、これから先の社会では、人間の外郭を維持しつづけるために不可欠な素養となるのかもしれない。定かではない。おぎゃー。


3268:【2021/10/23*客観視】
じぶんを客観視するには、自己同一性を一時的に破棄しなければできないことなのかもしれない。ある種の自己の断裂を以って、なめらかな変化ではなく急激な、隔たりのある変化を以ってのみ成し得る自己の履歴の編纂作業と呼べるのではないか。それはたとえば映画のフィルムを切り離して、最初と最後を結んでしまうような、予告編のごとく編集作業であり、またはまったく異なる映画を繋ぎ合わせた破綻を帯びた編集作業と呼べるかも分からない。どんなものにでも言えることであるが、比較するからこそ差異が浮き彫りになる。それそのものの異質さや本質を幻視するには比較が有効だ。映画でたとえるならば、タイタニックがどういう作品であるのかを客観視したければ、となりのトトロの世界にいちど身を浸し、その映画内からタイタニックを眺めたほうが、タイタニックの類似作品と比較するよりもより本質に迫れるのではないか。これは自己の客観視でも同様であり、じぶんを客観視したければ、できるだけじぶんからは遠い、異質な自己からの視点で分析してみるのがよさそうだ。それはまったくの赤の他人でもよいし、或いは幼少期や思春期、もしくは何か人生のうちで体験した大きな出来事を経る前のじぶんでもよいかもしれない。どんな人物であれ転換期はあるものだ。それは所属する組織や生活する環境が変化するだけでも訪れる。人との出会いとてそうだろう。あの体験や出会いがなければいまのじぶんはいなかった。そういう体験や出会いが訪れていなかったころのじぶんに戻ってみることで、現在の自己を客観視することも可能なのかもしれない。ひるがえって、客観視してみる習慣は、そのつど新たな変化を自己へと及ぼし、新しい人格へと変遷する契機を与える。そうなれば雪だるま式に自己のなかに無数の自己が生みだされ、どの人格とどの人格を消し、或いはどの人格とどの人格を際立たせるかで、総体としての自己を客観視するための自己を――視点を――見繕えるようになるのかもしれない。とはいえ、あくまでそれは自己を客観視しているように錯覚できているにすぎず、どこまでいっても人はじぶんを自己の外側から眺めることはできないのだが。カメラや鏡を駆使したところでそれもまた自己に投影された内世界での仮初なのである。定かではない。


3269:【2021/10/24*水のごとく】
現代社会におかれては、水の貨幣価値は低いが、水の価値は高いと呼べる。水がなくなれば人は生きてはいけない。だが仮にそうでなくとも水は生活用水として様々な人間の営みに不可欠な要素だ。ゆえに貨幣価値が低くとも、水は、人々の生活のなかでどれくらい活用されているのか、人々の生活にどれほど介在しているのか、支えているのか、によってその価値を増す。ただしそれが直結して貨幣価値に繋がるわけではない。だが水の生みだす経済効果は、全人類規模に及ぶので、市場で見ると巨大な利益を生むことになる(巨額の貨幣価値だけでなく社会資本もまた増える)。この原理は基本的にはどんな商品にも当てはまる。商品一つ一つの貨幣価値が低くとも、商品そのものの価値をあげることはできる。たとえば小説であれば、まずは小説が人々の生活に水のごとく浸透する導線を築いていけるとよさそうだ。つぎに、水のごとく様々な生活用品に活用されるとよいだろう。商品単体での貨幣価値は高くなくともよい。人々に、生活のうえでなくてはならないと思われることなくしぜんとそうなるような存在になればよいのだ。水は生きていくうえで必要不可欠だが、現代人が日常を過ごすうえで水の重要性を意識する瞬間はそう多くはない。同様に、魂の食べ物と謳われることもある物語であれ、水のように、人々の生活を豊かにし、支え、そこここに介在することはできるはずだ。小説の価値を高めたければ、いかに小説の貨幣価値を高めるかではなく、いかに人々の生活を支えるのかを考えればいい。大量消費されればいい、という意味ではない。生活を支える存在になればいい、という意味だ。依存させればいい、という意味ではない。活用の余地を広げていきましょう、という意味だ。ビジネスとはそういうものだといくひしさんは考える。最初から稀少性のある鉱物のごとく商品に関してはまた別途の理屈がいるかもしれないが。(定かではありません)


3270:【2021/10/24*じれったい】
じぶんの表現についてであるけれど、自由度が足りない。部品が足りない。選択肢が足りない。数えられる程度の型の組み合わせだけで、自在だなんだ、と絵空事を言っている。てんでなっちゃいないのだ。構造の複雑さが足りないのだが、かといって複雑にしすぎてしまえば些細な変化ですら途端に絡まってしまい、流れが滞り、回路として機能しなくなる。かといって最初から回路としてあるのではなく、なめらかに移ろい、点と点を繋いで表れる緩急の軌跡が結果的に回路のごとく全体像を浮き彫りにさせ、表現として顕現するような、なんらかの循環を起動させるために行っているはずが、行っているあいだにそれは見えず、はっと我に返り、振り返ってみたときにだけ現れる幻想のごとく、過去のごとく、歴史のごとく、記憶のなかに蓄積され一瞬で回顧可能な物語のごとく総体としての概念としてのそれそのものを、そのときどきで、あたかも百年を費やして削りだしたかのごとく造形の美を宿しつつも、瞬間瞬間の取捨選択の妙によって現れる極致を、自由自在に、好きなときに好きなように好きなだけつむぎだせたら楽しいだろうなぁ。何回お風呂を掻き混ぜても腕時計ができる、みたいな。ときには冷蔵庫が扇風機がPCが人工知能が核融合炉ができちゃう、みたいな。伝わりそうにない比喩だが。それってつまり神になりたいってことでは? そこまで傲慢ではないけれど。じゃあ自然になりたいってことでは? そこまで投げやりでもないけれど。じゃあなんなんよ。なんなのだろうね。わからんのよ。定かではない? それよそれそれ。じれったいよね。


※日々、衝き動かされている、操り人形のごとく視えない糸に繋がれている。


3271:【2021/10/25*誰かの苦渋のたまもの】
コンビニで購入していたペットボトルのカフェラテが、ドラッグストアやスーパーだと五十円も安くて、なんでもっと早く気づかんかったんや、の気分になって落ち込んでいる。というのは嘘で、ラッキーこっちで買ったらこんなに安いやん、の気分でうれちー。そうだよね、だってコンビニで買ったら百四十円のが九十円で買えてしまうわけでしょ。そうそう。二本買うだけでもう一本買えるだけの節約ができてしまうわけよ。コンビニが高いのではなく、ほかが安すぎるってことかな。じゃないかな。いつも思うんだけど、こんなに安くて利益がでるのかな。百円均一の店舗を覗いても思うんだよね。わかるわかる。ユニクロとかの服飾量販店も、質のよい冬着が安くて、こんなに安くて利益がでるのだろうか、とかきのう行ってきて思ったもん。心配になるよね。なるなる。基本的に企業がコストを削減するには、材料費か人件費を下げるのが定石だ。いまはそこに流通網にかかる経費の削減も入るのだろうし、当然税金対策も入るはずだ。そこにきて削りやすいのはどこかって言ったらやっぱり人件費と材料費じゃないかな。うん、だと思うよ。思うに――ここ数年は全体的に材料費は世界的に見て高騰している。流通にかかる経費もあがっているようだし、人件費も、労働者の人権問題が俎上に載りはじめて久しいので、これもなかなかコストを下げにくいはずだ。なのにどうして値段がこうまでも安いままなのだろうね。国ごとの貨幣価値の差がなせるマジックとも言えるのかも。でも世界的に同時に値上がりしつつあるわけでしょう。実体経済に反映されるまでに時間差があるのかも。それともほかに削られている費用があったりさ。あるとすれば、おそらくセキュリティや安全性の維持にかかるコストではないかな。とすれば一時的には現状維持がつづくにしろ、どこかで世界的に経済の立て直しがなされなければ――つまりたとえ商品の価格があがろうとも国民の懐が痛まない世の中になっていなければ――これからは企業の不正や、安全でない商品による事故が多発するようになるのかもしれない。いちがいに値段が安いままでいいわけではないはずだ。それはそうかもだけど、かといって高くなられても困るし。まあね。ま、疫病の蔓延を機に減退した経済の流れを何の改善もなしに元に戻そうとすれば高い確率でどこかに負担が集中して、仕組みの一部は破綻するだろう。そうすれば否応なく改善せざるを得なくなる。大きな痛手を被るか否かの違いがあるだけで、辿るべき道はそう変わらない気もするけどね。他人事ぶってんじゃねぇよ。痛手被るのはあたしらでもあるんだぞ。そのときはお任せしますので、どうにか急場を凌いでください。嫌なことだけ押しつけんな、その前になんかしてくれ。無茶をおっしゃる。ささ、まずはカフェラテでも飲んで落ち着きましょう。ごくごくぷはぁー。こんなのが九十円で飲めちゃうなんて、うれちオイチー。搾取構造のたまものですね。なんてこと言うの企業努力と言いなさいよ。努力の方向によります。みなさん見てください、役立たずが何か言ってるー。


3272:【2021/10/26*ぼく、スカスカ】
いくひしさんは比較的よくこの日誌でも小説内でも、遺伝子とかDNAとかそういう単語を使うけれど、じゃあ遺伝子ってなぁに、DNAってなぁに、どうやったら遺伝して、どんな仕組みで成り立っているの、と説明しようとしたら、穴ぼこだらけのスカスカのシャボン玉みたいに中身のない説明にもなっていない説明しかできない。というか説明ができない。要するになんも理解していないのですね。これは何にでも言えることであって、いくひしさんが理解していることって何か一つでもあるのかなぁ、と考えてみたら、そこそこまあまあ表現については話せる気がする。と思ったけど、そうでもなかったかもしれない。表現とはなんぞや、をいまから説明してみせよう、と妄想のなかで万人に教鞭を揮ってみると、どうにもやはりスカスカのシャボン玉みたいな説明にもなっていない説明しかできないのだ。いやいや待て待てそんなことってある。これまでの人生いったい何してたの。ちょっとショックだよね。そのことに朝おふとんのなかでモゾモゾ起きたくないよー、の葛藤をしつつ気づいてしまって、二度寝してやる、のきぶんになってしまった。妄想を並べるだけなら簡単なのに、説明をしましょう、となるとむつかしい。調べて比べて検証しなくとも並べられるのが妄想で、調べて比べて検証しながら並べるのが説明なのかもしれない。要するに、明らかにしている部分があるかないかの違いだ。でもいくひしさんはいつでも、定かではない、の妄想だらけのシャボン玉なので、いつでもゆびでつつくと割れてしまう。シャボン玉さんには失礼な物言いになってしまったかもしれない。ごめんなさい。何か一つでいいから一から十まで説明できるようになってみたいな、と目標を一つ掲げて、でもいましばらくはその何かを見つけるべく、のほほんとシャボン玉のごとくふよふよと世の中を漂って、ときおり割れたりして、屋根までのぼって弾けて消えるを繰り返そうと思います。いくひしさんといっしょ、いっしょ、の扱いをしてしまったシャボン玉さんには失礼な物言いになってしまったかもしれませんが、そこは光栄に思ってほしいところです。嘘です。調子乗りました。ごめんなさい。


3273:【2021/10/27*よくわからん】
さいきんよく目にする言説のなかで、「それって本当かなぁ」と思うのが、「税金は国の財源ではない」という主張で、ちょっときょうはそれをトイレに入っているあいだに考えてみた。税金は国の財源ではない、との考え方はつぎのとおりだ。そもそも国が成立したときには企業も国民もまだ何も儲けていない。その国のお金を使ってもいない。だから税金もないはずで、じゃあ財源もないのだからおかしなことになる。財源がないのならではどうやって国は最初に企業や国民にお金を配分したのか。答えは、銀行でみなに借金をしてもらうことで、お金を概念上で発行し、貨幣価値を生みだした、という理屈だ。つまり銀行はただみなの通帳に、借金分のお金を書きこめば、財源がなくともお金を刷ったのと同じことができる。これが、借金と財源が同じ(≒税金は財源ではない)、という考え方の概要だ(いわゆる銀行の起源の説明として比較的よく目にする言説ですね)。ただしここでいくひしさんは、うーん、と思ってしまうのだ。仮に一国のなかで独立して経済が回るのならばそれでもいいだろうけれども、国はほかの国とも取引きをしている。じゃあそこでの貨幣価値はどうやって生まれるの、担保されるの、というと、それはけして借金ではないのだね。国の信用というか、世界経済における立ち位置が、その国の貨幣価値を、世界共通の価値として決めているのだ。ゆえに、世界経済を視野に入れると、上記の「税金は国の財源ではない」という考え方は、理に合わなくなってしまうのではないか、との疑問を覚える。これはいわゆる「国はいくらでも国債を発行してもいい」「紙幣をばんばん刷ればいい」というさっこん流行りの考え方にも言えることで、一国の中だけで完結する経済の話であれば、そういった政策も有効になってくるのだろうが、世界経済においては、そうもいかない、というのがいくひしさんのいまのところの見立てである。ただし、経済の仕組みのケの字も知らないいくひしさんのおおざっぱな印象論でしかないので、真実のところがどうなのかは判らない。ただ、税金は財源ではない、という主張には、本当にそうなの、と疑ってはいる(じゃあ年貢はどうだったの、という話とこれは地続きのはずだ)。税金とは、国民の生み出した利益を可視化した数値であり、どれくらいの税金を集められるのか、によって国際的に国の評価が規定されてしまうのではないか。ただし無理くり税金を集めても、国民の生活が貧しくなれば、国内の経済は鈍化し、やはり税金を集めることができなくなる。そこで無理くりお金をばら撒いたとしても、そもそも国としての利益があがらないので、お金の価値が減っていく。いわゆる、わるいインフレだ(例外的に、世界同時に経済が鈍化するならば、まずは国民の生活を維持するために、お金を概念上であっても増やしましょう、その結果国の利益がでなくともまずは良しとしましょう、との理屈は成立しそうです)。税金は必ずしも財源ではないのかもしれないが、税金の総額が国際的に正しく評価されたとき、おそらく国としての地位が確立されるのだろう。国際的に国の地位が高くなればなるほど自国の通貨の価値が国際的に高くなる。ただし出る杭は打たれるので、昇りつめるよりかは、ほどほどの地位でいたい、というのがこの国の本音なのではないか。そういう意味では、税率を上げ、国民生活を締めつけることで、敢えて無闇に発展させないように操作することも可能なのだろう。ひょっとするとこの国は、国民の生活のことよりも、国際関係のなかで、いかに他国と軋轢を生まずにいられるのかに注力しているのかもしれない。その良し悪しについては、税金とはまた別の考え方がいりそうだ。(おトイレに入っているあいだに巡らせた考察にも満たない底の浅い妄想ですので、真に受けないでください)


3274:【2021/10/28*潜る】
注目を集めたら、いくひしさんはたぶん文章を並べることができなくなる。そうと前以って判るので、できるだけ注目されずに、それでいて波長の合う読者さんに届く余地を残しつつ創作ができないだろうか、との試行錯誤をしている。フォロワーが欲しいと思わないのもそこに通じている。ただし、それだけでなく、フォロワーの多さが作家の評価に直結するような世の風潮に、それってどうなの、という意思表示をしている意味合いもある。ただやっぱり中心にある考え方としては、いっぱいの人の目に触れるようになったらいくひしさんはいまと同じようには文字を並べることはできないし、きっと逃げだしてしまうだろう、と予測できるので、それを避ける意味合いがつよい。潰れたくはない。この日誌だってそうだ。つづけるだけでいっぱいいっぱいになるに決まっている。なんも書くことなんてないよー、なんてくだらないことすら並べられなくなりそうで、怖い。いつでもどこでも人の目を気にせずにいられるひとならそれでもいいのだろうけれども、いくひしさんは人一倍他者からどう見られるか、を気にする虚栄心の塊でござるので、人の目を気にせずにいるには、人の目のない場所で活動するのが手っ取り早いのだ。その癖、密かに、意中のひとたちには読んでほしい、見つけてほしい、わいはここにおるで、と自己顕示したがりでもあるので、ほとほとめんどくさいやつめ、といくひしさんはいくひしさんのことをぼやいております。まるで子どもが人に見られるのは嫌だけれど、母親には、見ててね見ててね、と命じてブランコを漕ぐような幼児性が内面化して見えますね。かっこうよさの欠片もないので、余計にかっこうをつけてしまうのでしょう。かっこうをつけてかっこうがよろしくなればまだ救いがあるものの、そうではないというのですから、同情したくもなります。家の中の姿見のまえでは堂々たるキメポーズも人前ですると途端に恥ずかしい、そういう臆病な自尊心と尊大な羞恥心の権化なのですね。それとも、傲慢な理想像と尊大な虚栄心のなせる痴態なのかもしれません。ともかくとして、一人でいるあいだは、ふだんできないことでも堂々とできるようなので、それはしかしけして孤高の道を行くといった勇猛果敢な態度ではなく、恥ずかしがり屋の臆病者の心理であり、かっこうのよさの欠片もないのですが、それはそれとして本人は至っていまの環境を気に入っているようですので、わざわざ岩を持ちあげて陽に晒すような真似などせずに、放っておくのがよろしいように思います。とはいえ、では注目を集めることができるのか、わざわざ孤独に引きこもる必要があるのか、については疑問の余地がありますので、引きこもろうとしなければわいだっていっぱい注目されるんだい、というほとんどないような可能性を潰さずにいられる余地を、これまたなけなしの矜持のごとく懸命に守っているだけなのかもしれません。ほとほと情けないひとですね。いくひしさん、あなたのことですよ。以上、事実を突きつけて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3275:【2021/10/29*脱皮したい】
きのう、ほかのいくひしさんに突きつけられた事実が思いのほか胸に突き刺さって抜けんくなっている。言っていいこととわるいことがあるんじゃないかな、というか、言うなら言い方に気をつけよ、の気分だ。もっとやんわりがよかった。いくひしさん、涙目よ。自業自得です、ってああた。ちょいちょいサディスティックな面をお見せでないよ。いいですいいです。見なかったことにしよ。閑話休題。細かく切ったリンゴをホットケーキに混ぜて焼いたら美味しかった。きょうの朝食です。さいきんは二日動いたら一日休むのリズムで生きている。うんとこしょどっこいしょするのは連続で二日が限度じゃ。のほほんと生きていたい。とはいえ、うんとこしょどっこいしょの内訳を見てみると、完全に隅から隅まで趣味なので、もっとうんとこしょどっこいしょしたほうがよくないか、とたじたじになる。このままだとマズい気がするけれども、のほほんとしたいんじゃ。いやじゃ、いやじゃ。のほほんとさしてたも。さいきんは新作の構想を練りつつ、新しい筆名も考えていて、なかなかいいのが思いつかないな、と考えていたら、そう言えば小説の中にでてくるキャラにちゃんとしたお名前つけたのっていつだっけ、のおそろしい事実に思い至って、ちょいちょいいくひしさんや手抜きしすぎでは、の心境に陥って、ふて寝してやろ、になった。新しい筆名ではないけれど、割と、木舞師(きぶし)三名(さんめい)という字面は気に入っている。これも郁菱万とおなじでアナグラムだ。漢字のまま逆から読むとナミシブキになる。でも郁菱万ほど多重に意味合いがあるわけではないのでひとまず却下だ。トリプルミーニグならぬテンミーニングくらいあってほしい。わがはい、欲張りさんなのである。予定としてはたぶん五年後にはもう郁菱万は活動していないので、そのときにいまよりすこしでも頭のなかの物語を理想どおりに自在につむぎだせるようになっているといいな。さっさといくひしさんを脱皮して新しくなりたいとの思いを募らせ、きょうの「いくひ誌。」にしちゃお。


3276:【2021/10/30*遺薫】
(未推敲)
 十年間放置した水槽のような、濁った色をしている。腐った水草がゼリーの層をなし、表面に気泡を浮かべる。匂いはふしぎなほどなく、それは乾いた表層の膜が臭いを閉じ込めていたからだが、それゆえにひとたび混ぜ返せば、肺を侵すような刺激臭が充満する。市販のマスクを三重にしたところで臭いの粒子を濾すことはできない。
 特殊清掃員という名称は有名になりすぎたため、却って顧客離れを引き起こす。職場では単にホームクリーニング、または清掃代行として看板を出している。
「そんなに仕事入るんですか」
 入ったばかりのバイトの質問に答えるのは、中堅たるこちらの役割だった。「そうだな。受注の範囲がまず広いから、本当にただの家事代行の仕事もこなすし、そうでなくとも周辺五県は管轄だから、それこそ請け負いきれないときにはほかの業者を紹介したりするくらいだ」
「繁盛してしますね」
「そうでもない。この業界、人件費がばかんなんないんだ。今年に入って雇ったのはキミを入れて三十人を超すよ」
「でもバイトって僕だけですよね」
 言ってから気づいたようだ。「えー、辞めちゃったってことですか。離職率ハンパなさそう」
「なさそうではなく、半端ないんだよ」
「なんて言っちゃいるがソイツもいちど辞めてっからな」
 がはは、と豪快に笑うのは古参社員の御手洗さんだ。パイプ煙草を咥えていたら様になっていそうな、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427318900620)


3277:【2021/10/30*労力と出来の関係】
七月からチマチマ進めていた短編をようやく一つ閉じ終えた。上記の「遺薫」だ。短編にしてはずいぶん手こずった。たぶん、過去作の焼き増しのツギハギだからだろう。郁菱万の作品群のなかで最もオーソドックスでスタンダードな、サンプル品みたいな短編になりそうだったので、なんとかそうならないようにと抗ううちに時間だけが経ってしまった。苦労した割に愛着がないのが、なんだかな、と思うけれど、過去作には総じて愛着がないので、そんなもんかな、とも思う。一つ終わってもまだ閉じていないつくりかけの手こずっている物語が十個ちかくあるので、探せばもっとあるのだろうけれど、それはそうだろう何年も手をつけていない十万字以上をつむいでそのままのが何個もある、そういうのをちゃんと閉じていきたい。結んでしまいたい。どれも頭のなかに完成形がある分、なかなか着手しようという気にはならないのだ。よくない癖である。息抜きにまた短い物語をつむぎつつ、またチマチマとやっていこうと思う。裁縫みたいだな、といま思った。上記「遺薫」の推敲はまだなので、時間を置いてからしようと思います。


3278:【2021/10/30*現実と虚構は混然一体】
前からときおり繰り返し述べておりますけれども、いくひしさんは基本、読書が好きではありません。元々、読書なんか大っ嫌いだ、の人でした。小学生のころは泣きながら読書感想文を書いていましたし(本を読みたくなさすぎて泣いていました)、知恵がついてくるとこんどは映画を観てその感想を読書感想文にしたためたりしていました(姑息ですね)。教科書だって読みたくありませんでしたし、本なんかこの世になくてもいいものランキングの上位五本の指に入っていたくらいの毛嫌いようでした。暗殺者のほうがまだ何かしら世のため人のためになっているのではないか、と考えていたくらいですから、よっぽど教養がなくて浅はかだったのですね。いまも浅はかという意味では五十歩百歩ではありますが、やはり五十歩と百歩では違うと思うのであります。いまも本は苦手です。文章よりも映像や実体験のほうがすんなり頭のなかに入ってきます。学習の効率にしたところで、いくひしさんにとっては文章がいちばん低いようです。けれどもときどき、そうした現実にちかい表現形式よりも、ずっとたくさんのリアルを感じることのできる文章や文字表現に出会うことがあります。そういうときには読書を通して、苦手意識を補って余りある、情報の海に繋がることができます。凌駕する、とはまさにこのことだと思います。いまでもきっと本や文章や小説そのものを好きではないのだと思います。ただ、苦手なはずのもののなかに、とんでもなく好みの、世界そのものの幅を否応なく広げてくれる、別の世界を見せてくれる、もう一つの人生をぎゅっと凝縮して、美味しいところだけを安全な場所にいながらにして歩ませてくれる、そういった文章や文字表現に出会うことがあります。そういうときには、大嫌いなはずの文章や本をまえにしてとんでもなく好ましい感情で溢れかえります。もちろん、いくひしさんにとって好ましい本や文章が、ほかの誰かにとっても好ましいとは限らず、またいくひしさんの琴線に触れない本や文章が、ほかの誰かにとってはもう一つの人生を体感させるくらいの運命そのものであることもあるでしょう。これはいくひしさん自身にも言えることであり、いまのじぶんの口に合わないだけで、未来のいくひしさんにとってはやはり運命と言っていいくらいの体験をもたらしてくれる本や文章もあるかと思います。これはなにも本や文章に限らず、人との出会いや、そのときどきの体験にも言えることであるはずです。まとまりがなくなってきて何を言いたいのかさっぱりわからない文字の羅列になってしまいましたが、本や文章が苦手でも、そこに仕舞われた「いまここにはない、しかしどこかにはあるだろう世界の断片」に触れることは、読書を苦手としている人にとっても、そうわるいものではないですよ、という個人的な体験を以って、過度に一般化はしないようにしつつも、ここに記しておきますね。旅が好きな方なら、旅をすることで得られる体験と似た刺激を、読書を通して感じることができます。同じようにきっと、読書の好きな方なら、読書を通して得られる体験と似た刺激を、現実を通して得られることでしょう。そこに明確な差異はないように思います、と述べて、とくになにかを伝えたいわけではない、あってもなくてもどちらでもいい、くだらない日誌を終えようと思います。お読みくださりありがとうございました。よい夢をご覧ください。おやすみなさいませ。


3279:【2021/10/31*知恵の価値】
より多くの支持を集めたり、人気を集めたりすることの価値が高まるにつれて、本質や知恵の価値は一時的に下がるが、ある瞬間から徐々に盛り返し、おそらくはやがて人気や支持を集めることの価値を抜くようになる。というのも、人気や支持を集めたところで、ではその人気や支持を保つにはどうすればよいのか、人々へどのように影響力を行使すればよいのか、についてはやはり本質や知恵が欠かせない。他者の人権を損なうような影響力の使い方をすればどうなるのかは、歴史を紐解けば瞭然だろう。もちろん、私利私欲を満たすために人気や支持を集め、その影響力をぞんぶんに揮っても、権力を保持したままで人生を謳歌し、往生できる者もあるだろう。だがそのときに蓄えた負の影響は、身内へと引き継がれる。権力というのはそういうものだ。いつまでも所有できるものではない。また、私利私欲の方向性が大多数の利益に結びつくならば、負の影響を限りなく薄くすることもできる。他者の至福がじぶんの至福である、と思える者であるならば、私利私欲に走ったところで多くの者のためにその影響力を使うだろう。だがやはりここでも、ではより多くの者を至福にするにはどうすればよいのか、については本質や知恵が欠かせない。けっきょくのところ、人気や支持というのは、あくまで調理器具のようなものであり、そんなものがなくとも料理はできる。裏から言えば、料理をするためのレシピや知恵がなければ、カレーライス一つまともにつくれない。かといってでは、火がなかったらどうか、と言えばやはり、火があったほうが料理の幅は広がる。調理器具や道具は種類が豊富なほうが何かと便利だ。人気や支持というのはそういうものだろう。あったら便利だが、それは飽くまで料理をするための下準備にすぎない。それらを揃えて、では何をするのか。本質や知恵の有効性はまさにここにこそある。もうすこし言えば、どれほどの人気者であろうとも、首根っこを掴まれたらお終いだ。知恵を悪用する者にとっては、人気を苦労して集めるよりも、人気者を傀儡と化したほうが楽である。百万人と競い合ってトップに立った人物を、一回倒し掌握すれば、それだけで済む話だ。わざわざ何度も戦い、競う必要はない(戦闘を介さずとも、単に味方になってもらうだけでもいい)。巨悪とはそういうものだ。一度の勝利で、他者のすべてを掌握し、道具とする。ゆえに本質や知恵の価値は、いかに人気や支持を集めるかの価値が高まるほど、その真価を発揮しやすくなる。かといってでは、そうした巨悪にどんな本質があるのか、についてはやはりよくよく吟味しておきたいところだ。ここでも知恵が欠かせない。どうあっても現代においては、本質や知恵の価値は揺るがないようである。人気や支持の高さで右往左往しているようでは、知恵が足りない、と言えそうだ。(定かではありません)


3280:【2021/11/01*素粒子ビーム】
ビームは直線する。そして地球は球体だ。ゆえに地上に対して水平にビームを投射しても、数百キロ先では地上の遥か上を通過することになる。北海道にある建物から沖縄の建物へとビームを届けるためには、地表下に数度ほど傾けてビームを投射できると好ましい。素粒子は物質に干渉しにくい性質がある。透過しやすいのだ。地球を二百個並べてようやく反応を示す程度だという。ゆえに素粒子をビームにして投射する際には、地表を無視して、まっすぐ地表のA地点とB地点を結ぶことができる。極論、南極と北極を直線で結ぶことも可能なのだろう。ふしぎな話である。


※日々、小説がつくれても何にもならない、自己満足すら果たせない、その気軽さが心地よいときもある。


3281:【2021/11/01*アホウでごめんなさい】
社会が発展していくにつれて人類は徐々にアホウになっていく。そのうえ社会の発展は、仕組みの複雑さを招くので、三歳児に車の運転をさせるような危うさがつきまとう。だが技術が進歩すれば自動車のほうで何不自由なく三歳児を目的地まで連れて行ってくれるようになるだろう。だがそのおかげで余計に三歳児は、じぶんがいかに愚かで無知で未熟な存在であるのかを知る機会を失くし、ますます愚かしさに磨きをかけていく。そうしたなかで、これまで個人に許されていた自由は、さまざまな新しい社会問題の出現によって、倫理や道徳や規制や法律の改正によって妨げられざるを得なくなると言える。現状すでにそうした社会の複雑さと、社会の発展がもたらした個々人の未熟さの発露が引き起こす社会問題が目立ちはじめている。他方、「社会が発展したので、人々に余裕ができ、ゆえにこれまで可視化されてこなかった問題がようやく俎上に載りはじめただけだ」という指摘は一側面では妥当である。が、それだけではなく、これまでは無視できていたくらいに滅多に発生し得なかった個々人の問題行動が、広く同時多発的に発生し得る土壌がぷくぷくと肥えていることもまた一側面では妥当であるように思われる。つまり先にも述べたように、人類はみなある一面においてアホウになっているのだ。その分、ある一面では過去の人類よりも秀でている面がある。が、どんな能力が秀でるのかは個々人によって千差万別な傾向にあるのに対し、どのようにアホウになるのかについては、みな案外共通しているように概観できる。ここに、「個々の問題」の創発現象が起きる余地がでてきてしまう。みな似たような問題行動を、広く同時多発的に行うので、本来ならば個々人のあいだで済んだトラブルの影響が途切れることなく、広く波及し、社会問題として顕現する。インターネットがその波及に一役買ってしまっていることもまた、加速度的に人類の愚かしさが目立ちはじめて映る要因でもあるだろう。みないまいちど、他者を責めてばかりいないで、じぶんはアホウなのだと認めてみてはいかがだろう。言い方がわるく、機嫌を損なわれてしまったなら申しわけない。しかし安心したまえ。きみもアホウだが、私もアホウだ。彼らも、彼女らも、あなたがたも、みな等しくアホウなのである。アホウはアホウらしく、互いの欠点を補いあいつつ、アホウであることを受け入れて、ときに嘆いてみちゃったりもして、どうにかならんものかなぁ、とみなで願望を述べあって、けっきょくはアホウのまま、のほほんと生きていこうではありませんか――と、本日未明、特大のアホウがそうのたまいておったそうな(まぁたそんなアホウなことを言っちゃって。いくひしさんってばお茶目さんなんだから)。


3282:【2021/11/02*勉強不足です】
たとえば民主主義国家が国民投票の結果に独裁政治のごとく内容の憲法を新たに認めた場合――或いは単純に独裁国家(または専制政治)を認めた場合、それは果たして民主主義国家と言えるのか問題に関して、憲法学者や哲学者の見解はどのようなものがあるのだろう(単純に民主主義国家から独裁国家に変わるだけでは?)(どこからどこまでが民主主義国家で、どこからどう変わったら独裁国家になるの?)(明確な分岐点はどこからどこで、どこからどこがグレーなの?)(じつはすでにかなりグレーだったりするのか?)(というかじつは歴史上、完全なる民主主義国家は未だ誕生していないとか?)(代議制である以上は、そうとも言えるのかもね)(かといって瞬時に国民投票が行える仕組みができたとしても、なんでもかでも多数決で決めりゃいいってもんじゃないし、むつかしいよね)(そうだよねぇ。そもそも合理的かつ論理的に正しいことが必ずしも人間にとって好ましいわけでもない点も見逃しがたいし、やはりむつかしい問題かと思います)(なんかいい案ありませんかね)(あったら教えてほしいです)(他力本願かよ、投げっぱなしかよ)(だってわからんのだもの)(考えてくれよそこはさぁ)(考えてるでしょ、もううるさい構わないで)(はいはい)。


3283:【2021/11/02*いっぱい失敗できる環境があればいいのにね】
基本的に人類はいちど失敗してみないことには新しい知見を学ばない。それを、痛い目に遭わなければ、と言い換えてもよいだろう。そのため今後の課題としては、いかに現実社会に実害の及ばない範囲で、あらゆる社会問題の施策を試し、失敗できる環境を築いていけるのかが、発展する社会とそうでない社会の分かれ道となるだろう。失敗できる環境にはいくつか候補がある。たとえば実験都市や、仮想現実内でのシミュレーションが挙げられる。現実ではない場所で現実社会並みのカオスを再現できるのならば、そうした現実に即したカオスを通じてシミュレーションを活用できると好ましい。現実ではない仮想世界において、いちど思いつく限りの施策を試してみて、どれがどの程度悪影響を及ぼし、成果をあげるのかを詳らかにしてみればいい。けっきょくのところ、いかに仮想世界を現実に近づけられるのか、シミュレーションの精度をあげられるのかが問われている(実験都市を仮想現実内で築いてしまうのもアリだ。都市環境だけを仮想で構築し、アバターを介して現実の人間がそこで疑似的な生活を送る。これは2021年現在の技術でも可能な策である)。しかし問題がないわけではない。現実はカオスだ。ゆえにちょっとの変化が予想もし得ない結果を生むことがある。畢竟、いつどの施策を試すのか、時間がズレるだけでも現実の結果とズレる可能性がある。したがってシミュレーションは飽くまで判断材料に留めておくべきであり、いかに精度高く現実を再現できたとしても、それはけして現実ではなく、また現実の社会問題を打破するための正解でもない。だがシミュレーションの結果を参考にすれば、明らかな失策を避ける確率はいまよりもあげられる。いずれにせよ、シミュレーション技術の向上が、今後の人類社会のいく末を左右すると言って、大げさではないだろう、とここに妄想しておくものである(そんなのはちょっと考えれば小学生でも思いつくことでしょ。高性能のAIがあれば天気予報を精度高く予測できるよね、と同じレベルの発想だと思うんですけど)(えーい、黙らっしゃい)。


3284:【2021/11/03*たまには素直】
割とさいきんはこの日誌を並べるだけでもヒーヒー言ってるので(ホントは言ってないけど、それくらいめんどい、という婉曲表現です)、けっこう踏ん張りながら、よっしゃやったるで、と気合を入れつつ、暖簾すら微動だにしないようなチカラの抜け具合で、要するにとっても、さっさと終わらせよ、の気分で文字を並べております。いつも思うのが、日誌に費やした文字数を小説に費やしてたら二十冊分は新作をつくれていたのにな、ということで、もちろん日誌を並べていたからこそつむげた物語もあるだろうし、これはいちがいに言えることではないけれども、日誌分の文章を毎日小説に充てていたら単純に、三千作を超えていたわけであります。日誌並べたからきょうはもうイイっしょ、の気持ちで、もうもう日々サボりまくりの甘栗ちゃんなんですね。この日誌は二〇一六年からはじめたのでもう五年も経っているというね。びっくりです。五年つづけてこの程度、たしか小説を読みはじめたのが二〇〇八で、つくりはじめたのが二〇〇九年だったと記憶しておりますから(ひょっとしたら一年くらいズレているかもしれませんが)、気づいたらもう十二年が経ちます。十年以上つづけても何も成せずに、これといった実りもなく、ただただ小説と日誌だけが残っておりますが、その間に、ちょこちょことではありますが、読者さんに読んでいただけて、すこしばかりよい思いをしたのも事実なのであります。自慢になりそうなことはあんまり言いたくないのであれですけど(読むほうもおもしろくないでしょうし)、ともかくとして、いくひしさんはよい読者さんに恵まれているなぁ、とよくよく思います。お読みくださり、ありがとうございます。読んでいただけるだけで充分にうれしいので、対価を戴いておりますので、もうもうありがとうございます。恐縮です。恐縮すぎて、あわわどうしよう、となるので、やっぱり細々としていたい(細々というか、こそこそ、というか。細々には、こっそりの意味ってあるんですかね。ネットの辞書には載っていないという)。あと関係ないですけど、掌編「生え換わり(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427320545779)」を更新しました。新作つくったよぉ、の報告にわざわざ記事を一つつくるのもなぁ、と思ったので、掌編の場合はこうして日誌に付け加えて報告するスタイルにします。報告する必要があるのか、については、いつつくった小説なのかが判っていたほうが何かと便利かな、と未来のいくひしさんに宛てた一種のサービスだと見做してくださるとうれしいです。以上です。本日のいくひしまんでした。


3258:【2021/11/04*会話と対話の違いは何?】
以上です、とか言って更新した瞬間に日付が変わってしまったので、勢いをそのままにきょうの分の日誌も並べちゃお。なんだろな。なんもないな。そりゃそうだ、きょうになったばかりだもの。思えば日誌とか日記って、その日の終わりのほうで書くものであって、こうしてきょうになりましたよぉ、の矢先に並べるものちゃうよね。ちゃうよね、とかたまにいくひしさん似非関西弁を使いますけど、日常生活ではほとんど使ったことがありません。というかあんまり人としゃべらないので、使いどころがないだけなのですが。そうそう、さいきんここ半年くらいで実感したのが、異なる言語を使う相手のほうがコミュニケーションを取りやすい、ということで。もちろん相手が友好的である場合に限り、という但し書きがつきますが、スラスラしゃべったり聞き取れたりしない間柄のほうが、しっかりコミュニケーションをとろうとする姿勢を互いにそそぎあえるので、いくひしさんにとってはそちらのほうが好ましいな、と思う機会が思えばむかしから多かった気がします(もちろんずっと意思疎通に障害が残りつづけたら不便ではあります。ときどきは翻訳機が使えたり、互いの言語の解釈の度合いが向上したりするとなお好ましいです。なぜなら誤解の余地はすくないほうがよいからです)。言語の違いだけでなく、じぶんより何十歳も年上とか年下とか、共通の話題がないほうがむしろしゃべりやすかったりします。しゃべりやすい、というか、相手もちゃんとこちらに伝わるように話を咀嚼してから話そうとしてくれるので、聞いていて心地よいというだけのことなのかもしれません。子ども相手でもそうですね。何かを一生懸命に伝えようとしてくれるので、時間をかけてでも耳を傾けあえるという意味で、いくひしさんには好ましいです。もちろんまったく相手にしてもらえないことのほうが本当のところは多いのかもしれませんが(相手にされなければ接点はないので、知る機会も訪れないのが道理です)。インターネット上でのやりとりもそうですが、いまは何かと瞬間瞬間の接点が氾濫しており、時間をかけてじっくり耳を傾けあう、伝えあう努力をそそぎあう、ということが原理的にむつかしい時代なのかもしれません。敢えて障害を挟んだほうが、深い縁を繋げたりできることもあるのかな、と知らぬ間に体感していたようです、と自覚して、本日早めの「いくひ誌。」とさせてください。おやすみなさい。


3286:【2021/11/05*欠落はなくならないし、なくさなくともよい】
誤解の余地はすくないほうがよいが、かといってでは誤解がよくないことか、というと必ずしもそうではない。基本的に人間は何かを完全に理解することはできない。誤解や誤謬はつきものだ。そうでなくとも、想像力を働かせるには、誤解の余地がなくてはならない、とも言える。ゆえに誤解の余地が多すぎるときにはむしろ、想像の余地しかない、とも言える。だが想像だけに頼っていては欠落が埋まっているのかどうかが分からない。その欠落が現実に開いた穴であるならば、現実を見失うことに繋がるし、対人関係におけるコミュニケーションならば、相手との齟齬は広がるばかりで、理解を深めるどころか何かの合意を結ぶことすらむつかしい。深まった誤解のせいで縁そのものが失われることもあるだろう。ゆえに誤解の余地はすくないほうがよいが、先にも述べたように誤解の余地は想像の余地でもある。ある程度の想像の余地を残しておかねば、わくわくもウキウキもできなくなってしまうし、もうすこし言えば見たくないものから目を背ける真似もできなくなる。いつでも真実が判ればいいというものではない。相手の心がなんでもかでも解かってしまったら、それはそれでコミュニケーションがとれないだろう。互いに想像を働かせる余地があるからこそ結べる縁もある。コミュニケーションとはつねにそうした欠落を埋める努力をしつづけることでしか成し得ず、想像力をそそぎ合うことでしか継続する真似ができないものなのかもしれない。ただし、欠落がどこに開いているのかくらいは把握しておきたいものだ。そのためにも、誤解の余地はすくないほうがよい。すべて闇では人は影を見ることはできないのだ(定かではありません)。


3287:【2021/11/05*所属と群れの違い】
群れているか群れていないかが問題なのではない。じぶんたちの身内とそれ以外とで明らかな壁をつくるのが問題なのだ。傍から見て、交流関係が限定されて見えたらそれは(自由を基準に考えるのならば)危険信号だと思っていたほうがよい(同じ理屈で、ゆえに孤立は危ういのだ。反面、孤独は流動的でより不安定である、と言える)(限定されているという点で、派閥と孤立は似ていると言えよう)(ただし孤立は限定されたうえで不安定なので、より劣悪だと言えそうだ)。


3288:【2021/11/06*ごった煮っ誌】
「最弱が最強を越えてこそおもしろい。きみが強さの概念を変えれば(広げれば)いい。最弱であれ」「おもしろい物語を味わいたいし、おもしろい物語を編みだしたいんや。頼む、いくひしさん。おもしろい物語をつくっておくれ。いいよ~。やったぜ」「久々にミニどら焼き食べたらめっちゃ美味いなコレ。スーパーで三百いくらで売ってるやつだけどめっちゃ美味いなコレ」「ここ数日で物凄い更けた感覚がある。180歳だったのが196歳になったみたいな。16歳も更けてしまった。元々180歳なのであんま変わらんと言えば変わらんが」「あーん七月からずっとチマチマ進めてる短編がまだおわんなーい。毎日300字ずつくらいしか進めていないので当然と言えば当然じゃが」「SNSの普及によって人間関係が表層の部分であれ可視化された。そのためかつてはなんて広い世界なんだ、と思えた界隈も、思ったよりも狭いのだな、ということに気づきやすい土壌が築かれている」「Q。たかが小説家(任意の普通名詞)が権力持ちすぎなんだよ、とたまに思うことがある(〇か×かの二択)」「人間、たまには二十四時間一言もしゃべらない日があったほうが精神にも肉体にもよい気がするぞ。それがずっとだとさすがにまいってしまいそうだけれど、一週間に一日か二日か、三日か四日か五日くらいはそういう日があってもよくないかな。言い換えるならしゃべる日は一週間で一日くらいでもよいぞ。人間、一人でいるときだって頭のなかで無数にほかのたくさんのキャラとしゃべっていたりするのだから、わざわざ生身の他人としゃべる必要ってあるのだろうか(いや、ない)(あるでしょ)」「大技がすごいのは、難しい技だからではなく、難しい技を活殺自在に操れているからなのだ、というのはけっこうみな忘れがちな視点に思える。大技を行うためにほかの細かな所作が疎かになるくらいなら、難度が低くとも活殺自在により自由に扱える小技を取り入れたほうが流れは美しい。とはいえ、大技に挑んだ、という姿勢そのものが評価の対象になることもあるので、ケースバイケースだ。だが姿勢は作家への評価であり、本来は作品に結びつけて考えるのはいささか権威主義寄りに思える(もちろんそういう評価の仕方があってもよいが)。作家と作品は別個のものであるにしろ、それを評価する者によっては切り離して考えられなかったりする。これは人間に備わる性質なので、致し方ないことだ(いくひしさんも意識して切り離そうとしなければ作者への印象に引きずられて作品を評価してしまう)(やはり好きな人の作品は好きでいたいし、苦手な人の作品は多少なりとも評価がからくなりがちだ)(公平な態度ではありませんね。対策が欲しいところです)」「文芸にしろそれ以外の趣味にしろいくひしさんはただしたいからしているだけなのだが、それでもたまに人から、何か大会あるんですか、とか、プロ目指さないんですか、とか訊かれることがあり、そのつど、大会はありますがとくに出ません、と答えるし、プロは無理です、と答えている。べつに大会には出てもいいけれど勝ち負けにそれほどこだわりがないので、出る意味がそもそもないし(勝ってもとくにうれしくないので)、勝負の舞台で勝つための練習も鍛錬もしておりませんし(それとも単に才能がないだけなのかもしれませんが)、いずれにせよ、競い合えばふつうに負けます。文芸に限って言えばいくひしさんはこれまでに百数十作以上投稿していますが、ほぼ九割九分がた一次選考落ちなので、よほど才能がないのでしょう。プロを目指さないんですか、ではなく、プロにはなれませんでした。諦めなければいいじゃないですか、というご意見は、それはその通りなのですが、諦めてもべつによくないか、といまのところは考えております。諦めないで挑む価値があると思えたら、諦めずにプロを目指す道もあってよいと思います。いくひしさんは諦めました。それだけの話です。(言い換えるならば、いくひしさんは、いくひしさんであることしかできません)」「あ、嘘つきました。いくひしさんはいくひしさんであることすらできないかもしれません(そこはせめてありましょうよ)」「この日誌は並べても並べなくてもどうでもいい、気まぐれの気晴らしにもならない妄想のおトイレみたいな感じなのだけれど、ときどきこわいな、と思うこともあって、何かと言えば、このまま日誌を並べていったらいつかは死ぬ前日の日誌を並べることになるだろうし、たいせつな者やモノを亡くしてしまう日に行きあたることもあるだろうし、取り返しのつかない失敗をする前日の日誌も並べるだろうし、絶望に瀕してこれまでのすべてを擲ってしまうような恨みつらみを吐き連ねてしまうかもしれない。日誌を習慣にしてしまえば、やめない限り、いつかはそうした日が訪れるのだ。おそろしいな、と感じる。いま訪れていないだけで、この日誌の延長線上にはそれがほぼ確実に存在しているのだ。日誌を並べずとも遠からず訪れるし、逃れようがない。死がこわい、というのとはすこし違う。その日、そのときが訪れたあとに、この日誌を振り返れば、それまでの日々の履歴が、たとえそれが妄想であろうと残っており、もう絶対にその日々には戻れない、取り返せない、後戻りはできないのだ、という日がくるだろうことがおそろしいのだ。その瞬間が訪れてしまえば、こんななんでもないような文章を並べていた日々ですら宝物のように感じ、どうにか戻れないだろうか、と後悔してしまうのかもしれない」


3289:【2021/11/07*副反応】
なるべく言及しないようにしよう、どうせ大したことないだろうし、と思っていたモデルナ製ワクチン二回目接種をようやく済ませてきたのですが、副反応が思っていた以上にきついです。熱はいまのところ38度5分でそんなに高くはないのですが、全身の倦怠感と吐き気、悪寒、筋肉痛、頭痛がつらいです。むかしかかった肺炎一歩手前を思いだします。そのときはお医者さんから、なんでこんなになるまでほっといたの、と叱られました。痰を鼻からつまみだすと気管からずるずると引っ張りだせ、咳をするたびに粘土みたいな痰が飛びだしました。そのときほどの症状ではありませんし、つらさではありませんが、それを思いだすくらいには苦しいです。咳や痰がない分マシですが、人生で二番目につらい風邪の症状だと思えます(それだけいままで健康だった、大病と無縁だった、と解釈することは可能です)。完全に舐めておりましたし、こんなのいくら大丈夫だからって、OKで済ましちゃあかんくないか、と思います。大事の前の小事扱いされておりますけれども、もしこれが通常の段取りを挟んだ治験だったら認可されなかったのではないか、と想像したくもなります。いくらなんでも苦しすぎると思います。副反応は若い人に多いと言われておりますが、もしこれが八十歳、九十歳のご高齢の方に起こったらふつうに死んじゃうんじゃないかと思うのですけど、じっさいのところはどうなのでしょう。本当に高齢者にはこれくらいの副反応は起きないのでしょうか。そして仮に起こっても死には繋がらないのでしょうか。ちゃんと調査してほしいと思います。(ワクチンでこれくらいつらいのですから、大本のウィルスに本当にかかったらこのつらさの何倍もの苦しい思いをしてしまうのですね。ワクチン接種はだいじです。ですが、副反応のつらさを軽んじないほうがよいとも思います)


3290:【2021/11/08*クレームの是非】
市販の風邪薬を飲んだらすこし楽になり、食欲が戻ったので、辛子明太子を白ご飯に載せて食べ、お腹が満ちたら急激な睡魔に襲われ寝たのが深夜の午前一時ごろで、それまでは寝ていられないくらいの苦しさだったのですが、そのまま寝て起きたらだいぶ身体の調子が戻っていました。いまはほとんど支障はありません。つらくもありません。よかった。話は変わりますが、人類がここまで発展できた理由にはいくつかありますが、大別すれば「社会性の獲得」と「合理性の深化」があるように思えます。「社会性の獲得」には言語の発明や農工業および医療などのテクノロジィの発展が含まれます。「合理性の深化」に関しては、長期的な利を得るために目前の短期的な損を選べるように進化したことが挙げられるでしょう。ここには言語の獲得により、より細やかな技術や知識の継承が可能になったことが関係しています。いわゆる教育ですね。「社会性の獲得」が「合理性の深化」を促し、さらに社会性を高める、という好循環が生まれたのではないか、と妄想できます。とはいえ、今後はできるだけ目前の損すらも軽減できるようにテクノロジィはさらなる進歩を目指すでしょう。長期的には得だから、という理由で、わざわざ目前の損を放置する理由はないわけであります。目前の損をなんとか解消できないだろうか、と働きかけることもまた、長期的な利に繋がる「目前の損(負担)」と言えるのではないでしょうか。(定かではありません)(クレームを正当化したいだけの屁理屈に思えますが)(それの何がわるいの?)(開き直った!?)



※日々、時間軸がごちゃごちゃ、未来も過去も現在を限定する枠組みであり、現在も未来も過去を蓄積する媒体であり、過去も現在も未来を構築する無数の波紋の干渉である。


3291:【2021/11/08*そんなんだからでは?】
いくひしさんの性格のわるさは筋金入りである。あまりの筋金の入りようゆえ、包丁の代わりにもなるし、ダイヤモンドとて切断できる。この性格のわるさは並大抵のものではなく、ゆえにもちろんみなには性格が鬼のごとくわるいとは思わせない程度に、そこはかとなく性格がわるいなと思わせている。また、どれほど性格がわるいのかが詳らかにならぬ程度に偽装を施しつつ、性格のわるさを発揮してもいる。いくひしさんが本気を出せば全人類を魅了し、ウハウハのモテモテだぜ、を実現するなどお茶の子さいさいなのであるが、そんなことになったら七面倒くさいので、なぜってだっていくひしさんの身体は一つしかないので、全人類を相手に暴虐の限りを尽くすのには少々骨が折れるし、なるべくそうならないように大多数の者たちからは無視され、そこそこの者たちからは忌み嫌われ、極々少数の扱いやすい者たちからのみ好かれるように、敢えて鬼をも手懐けるアハンウフンの魅力を振りまかぬように、手を抜いてやっているのである。感謝するがよいでござる。(意訳:クッソなんでモテねぇんだ)


3292:【2021/11/09*雲のように風のごとく】
なんかいずれ誤解されそうなので明記しておきますね。いくひしさんはこそこそするほうが好きですが、それがかっこいいとか、上等だとか、世の中の正解だ、なんてことはこれっぽっちも思っておりません。どんなによいものでも人目につかなければ存在を認知はされません。そんなのは未だに新種の生物が発見されることを思えば何のふしぎもないことです。どんなノーベル賞級の研究成果とて、やはり発見されなければそれは未だに誰も知り得ず、たとえ発見されたところで、発見しましたよー、とみなに知らしめなければ(つまりしかるべき手法で発表しなければ)、人々の認知の外をたゆたう白雲となんら変わりない忘却すらされない自然現象にしかならないわけであります(或いは、ほかのひとが同じようなことを発見し、発表すれば、いずれはみなが知ることにはなるのかもしれませんが)。それがよいのかわるいのか、は何を基準にするのかによります。存在するものは存在しますから、大勢からの認知がなければ存在しなくなる、という類のものではありません。新種の生物は(小石でもいいですが)人類に発見される以前から存在しますし、発見されたからといって瞬時にどうなることもありません(中長期的には、発見されたことで乱獲されて滅んでしまうこともあれば、あべこべに保護されて繁栄することもあるでしょう)。いずれにせよ、人々への影響力を得たいのならば、広報(意思表示)をするのが合理的な判断と言えるでしょう。影響力を得たくないのならば、こそこそすればよいですし、固有のずばりここ、という影響力が欲しいのならば、然るべき人たちに届きやすい手法で、広報活動をしていくのが好ましいのではないでしょうか。宣伝も広報も発表も意思表示も、それをすること自体はわるいことではありません(かといって必ずしもよいこととも限りませんが)。宣伝も広報も発表も意思表示も、やり方次第で効果を発揮しますし、やり方が拙ければ効果はそれなりにしか得られないでしょう。ただし、どんな宣伝であれ広報であれ発表であれ意思表示であれ、それは他者への干渉となります。想定外の影響力を帯びてしまう懸念は常につきまといます。できるだけ想定外を失くすためにも、或る程度のこそこそする技術は磨いておいて損はないように個人的には思えますが、これもまたいつものように定かではありませんので、真に受けないように注意してください。本日の新作報告:おととい掌編を更新しました。「割引券(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427320560968)」


3293:【2021/11/10*わがはい、物申さずにはいられない病かも】
何も並べることがないのが常なので、無理やりにでも話題を探そうとすると、いかに世に物申せるか、みたいな批評的な姿勢で世界に目を向けてしまう。それが好ましく作用するときもあるが、たいがいは、バイアスというか、物申すぞ、と意気込んで視野を一点にしぼってしまうので、それが習慣づいてしまうと、少々困った癖がついてしまいそうだな、との予感を抱いている。だが自覚できてもなかなかこの習性からは逃れがたい。ではあべこべに称賛の視点で世を眺めて、何事にも利点がないだろうかと探ればいいのか、と言えば、これもまた好ましく作用するときもあれば審美眼を曇らせる要因にもなってしまう。なぜなら利点と美点は必ずしも一致しないためだ。批判するに値する欠点が、しかし美点にもなり得ることがある。ゆえになんでもかでも長所ばかりに目を向けようとする姿勢もまた目を曇らせると言えそうだ。ではどうすればよいのか。やはりというべきか、そのときどきで使い分けるしかないのだろう。もうすこし欲を張れば、利点と欠点と美点のそれぞれを重複して、幾重にも角度を変えながら、重ねる順番を変えながら、同時に比較しながら、これぞ、という紋様の見えるような焦点にしぼれるようになれると好ましいのではないか。牛を見て何を思うのかが人によって、日によって、そのときどきの気分によって変わり得るように、何を観測対象にするにしても、利点と欠点と美点の折り重なった複眼で、じぶんなりに好ましい紋様がどのようなものかをそのつど取捨選択しながら、その選別作業そのものを新しい焦点を見繕うための成分としつつ、そのときどきの思索の枠組みを規定できたなら、おそらく話題は事欠かないのではないか、と妄想するしだいである。この場合、話題が事欠かないだけでなく、これらの習性によって、著しく偏った癖がつかない効能も得られるのではないか、と期待できるが、期待は裏切られるのが常であるので、あまり期待せずにいたほうがよいのかもしれない。定かではない。(何かを言ったようで、何も言っていない、中身のない文章の見本です。どうぞお手本にしてください)本日の新作報告:きのう掌編を更新しました。「アパートの管理人(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427320580866)」


3294:【2021/11/11*フォロワー数】
いくひしさんもSNSを利用しております。現時点でのフォロワー数を記録しておこうと思います。まずはtwitterさんからです。twitterさんではアカウントが複数あります。そのうち郁菱万関連のアカウントは二つです。2018年~2021年現在までおおよそ三年のあいだ毎日のように利用しておりますが、現在一つは10フォロワーで、もう一つが23フォロワーです。いっぱいではないですが、いくひしさんにとっては多すぎるくらいです。孤独が好きと言えなくなってしまいそうなくらいの、なかなかな人数ではないでしょうか。それから小説を載せているカクヨムさんでは現在9名の方にフォローしていただいております。ありがとうございます。でもフォローせずとも小説やら日誌やらは読めますので、これといってフォローしていただかなくとも構いません。お好きになさってください。いくひしさんは好きにします。ひとまず記録して、きょうの分の日誌はつぎにつづきます。(あ、noteさんもSNSですね。あちらは現時点で28名の方がフォローしてくださっています。気にかけてくださってありがとうございます)


3295:【2021/11/11*嫉妬と憧れの関係】
嫉妬するのがよくないことだ、みたいな感覚のひとが意外と多いことにさいきん気づきはじめたのですが、嫉妬しないひとはいないのですから(どんな感情を嫉妬と呼ぶのか分からない、というのはあり得ますが、嫉妬は欲求の一種なので、何かを「それいいね」と評価できるひとは大なり小なり嫉妬と呼ぶに値する感情の働きを帯びていると言えるでしょう。それを自覚できるか否かは別問題です。いずれにせよ誰もが嫉妬をするものなのですから)、考えるべきはその嫉妬なる欲求の一種をどのように活用するのか、にあると言えるのではないでしょうか。以前にも並べたことのある考え方ですが、嫉妬と憧れはほとんど同じです。その対象となる人物をふだんからどのように評価しているのか、じぶんより下か上か、によって嫉妬になるか憧れになるかが決まる、と言えます。どちらもじぶんにはない長所を相手が持っていたときに、それいいね、と思うのです。その欲求に、相手への評価が加味されると、とたんに嫉妬や憧れと呼ばれる感情の波が生まれます。相手をじぶんよりも下だと評価していれば、本当ならじぶんのほうが先に手に入れていたはずだ、じぶんだって手に入れられるはずだ、と損をしたような気持ちになり、反対にじぶんより上だと評価していた相手ならば、じぶんもああなればああした長所や利を得られるのだ、と報酬系を刺激されます。出し抜かれたと思うか、展望と見做すかの違いですね。どちらも、それいいね、と思う感情から派生しています。嫉妬が分からない、というひとはたいがい、嫉妬から起こす行動が理解できない、と言っていることが多いように思えます。嫉妬は、じぶんが出し抜かれた、と感じるがために、その損を取り戻そうとします。ですから相手を貶めたり、相手から利を奪おうとします。ですが憧れであれば、じぶんを磨いたり、鍛錬したり、相手から学んだりします。この行動の違いが顕著なために、嫉妬と憧れが同じ欲求から生じている点を多くの者たちは見落としてしまっているように概観できます。いくひしさんからすればどちらも同じです。ですからいくひしさんは、嫉妬をするのが嫌いではありませんし、すぐに人に憧れます。すごいな、いいね、と思ってしまうのですが、この時点ですでにそこには、嫉妬があり、憧れがあります。なぜならある一面では、相手を下に見ており、ある一面では仰いでもいるからです。下に見るを別の言い方で表現すれば、欠点が見える、となるでしょう。この理屈からすれば、仰ぐは、長所が見える、となります。ですから嫉妬への対処方は単純で、じぶんは嫉妬している相手に憧れているのだ、と認めてしまえばよいわけです。同時に、憧れているとき、そこには嫉妬の感情があります。それを無視しているか否か、自覚できているか否かの違いがあるだけであり、ひるがえって、それいいね、の感情に衝き動かされて行動に移したときに、その対象へと干渉しない方法をとるならば、それはどうあっても他者からは嫉妬と見做されないのかもしれません。観測や解釈の仕方が異なるだけで、けっきょくのところ、それもまた嫉妬を内包していると言えるのですが(なぜならじぶんにも手に入いれられるかもしれない手が届くかもしれない、と見做す時点で、憧れの対象をじぶんと同等かそれ以下のものとして見做しているからです。お近づきになれるかも、と思ったならば、それはけしてその人を仰いではいませんよね)(かといってでは仰ぎつづけていればよいのか、と言えばいちがいにそうとは言えず、相手を神聖視することで、じぶんの未熟さの言い訳に無意識のうちで使ってしまうこともあるようです。才能や神を言い訳にして努力をしない、という行動原理はその一端と言えるでしょう。一方では、環境要因というじぶんのちからではどうしようもない明らかな差というのもあります。坂道をのぼるのに、相手は自動車でこちらは徒歩、くらいの差が、ときとして目のまえに立ちふさがります。この差をたいらにならせない場合は、言い訳の余地は多分にあると言えるでしょう)。まとめましょう。嫉妬も憧れも元を辿れば同じものなんですよ、と考えられれば、すこしは嫉妬さんのこともかわいがってあげられるようになるのではないでしょうか。定かではありません。(あくまでこういう解釈ができる、という考えの一つでしかありませんので、真に受けないように注意してください)


3296:【2021/11/12*文章と声】
文章を読むときには、その文章形態に見合った音声が頭のなかに流れます。そのため文章形態を変えたいときは、その音声からまず変えてみる、ということをいくひしさんはたびたび試みます。いっぽうで、文章形態を変えても音声が同じ、ということもあり、これはどうしてなのか、未だによく分かりません。ただ同じ文章であれ、読む時期や体調によっては、これまで聴こえていたはずの音声と違う、ということもあり、これもまたふしぎに思っています。疲れているときほど、すべて似通った音声になり、温かみも抑揚も感じられなくなります。おそらく文章ごとに音声をそれぞれ聴き分けるだけでも、けっこうな脳内リソースを使っているのではないか、と妄想できます。いちおうこの日誌でも、音声を変えながらつむいでいるつもりなのですが、いまざっと過去の日誌をぱらぱらと適当に読み返してみたのですが、それほど音声が変わらないな、という印象なので、その文章を並べていたときのじぶんが思っていたほどには、文章形態を書き分けられていなかった模様です。ただそれを踏まえたうえで、ほかの読者さんからはいくひしさんの並べた文章からはどのような音声が聴こえているのか、すこし気になるところです。もうすこし言えば、どのような人物像を幻視されているのか、と妄想の翼が、ばさばさと羽ばたくための予備動作をはじめてしまいますが、これもあと数年ほど寝かせてから読めば、そのときのいくひしさんはいまのいくひしさんとはほとんど別人でしょうから、赤の他人からの視点で、いまいちど文章から音声やら作者の人物像やらを幻視できるのではないか、と考えられます。いまから楽しみです。以上、本日の「いくひ誌。」でした。


3297:【2021/11/13*幼稚でごめんなさい】
幼稚な人間でも歳はとれるし、黙っていても歳下は増えていく。特定の芸ごとや学問や仕事を長くつづけていればそれだけ知識や体験が蓄えられるので、才能のある若手よりも、それなりに高度な技術を体得することも可能だろう。そこにきて、若い世代のほうは、ただ先達であるというだけで、幼稚な人間にも礼儀を尽くしてくれる。そうした態度が幼稚な人間の幼稚さをさらに熟成させてしまうのだが、このところ本当に切実に思うのが、若い世代はどうかそういう先達から上手に距離を置く技術を磨いてほしいということで、これはそう望んでしまう我々上の世代の責任でしかなく、申し訳ない限りなのだが、もうもうどうか見限って、じぶんたちの理想を追い求めてほしいと思うのだ。ただし幼稚な人間は、距離を置いた若手に不満を募らせるし、その苛立ちからかますます横暴さに磨きをかけるので、手に負えないな、と思う。もちろんいくひしさんもそうした幼稚な人間の筆頭であるが、なるべく害のない反面教師でありたいとは思っているのだ。いくひしさんのような幼稚な人間同士で、互いに注意しあえればよいのだが、幼稚な人間は、なぜか同属からたしなめられることを極端に嫌うのでそれもむつかしい。火に油をそそぐようなものなのだ。なぜなら幼稚な人間は、だいたい同じような力量でしかない相手を格下と見做しているので、ムシケラから暴言を吐かれた、とばかりに全身からトゲトゲを生やすのだ。赤ちゃんみたいに、よちよちしてあげなければ話もまっとうに交わせない。勘弁してほしい。さいわいなことに若い世代は我々の世代よりも視野の広い子が多い。ただそれだけが救いである(素直でいい子すぎるのがすこし心配だが)。たいへん申し訳ないな、と思うことが日に日に多くなっていく。三つ子の魂百までではないが、人の中身はそうそう変わるものではないようだ、と痛感するきょうこのごろである。小説と出会えていなかったらいまごろこうなっていたのかな、とじぶんの分身のような相手をまえにして、すこしばかりせつなくなってしまったいくひしさんなのであった(相手からすれば、いくひしさんには言われたくないだろうし、いくひしさんのような人から憐れまれるなんて屈辱にしか映らないのだろうけれど)。(人を憐れむなんてずいぶん偉くなったものですね)(偉くはなってないよ。でも歳はとったよ。周りの人間も同じようにね)(身体は黙っていても成長するけれど、人はただ生きているだけでは変われないのだ)(ともすれば、人にすらなれぬままなのかもしれない)(いくひしさんは人になりたいよ。人に、なってみたいです)(愚痴っぽくなってしまいました。すみません)


3298:【2021/11/13*あははー】
きょう久々に大昔に消えたはずの人格に身体の主導権とられてびっくりした。ぺらぺらとずっとしゃべりつづけてて、おまえはどこの三歳児だ、みたいな感じだったな。あははー、あははー、とちびまるこちゃんの山田みたいになってた。いくひしさんの奥底のずっとずっと彼方に近い真ん中のほうには、ぺらぺらといちどしゃべりだすと止まらない、うわーいうわーいなんかわからんけどあははー、みたいなキャラがおる。三歳までいくひしさんはほとんどしゃべらない子だったらしいのだが、三歳を超えてから急におしゃべりになったんだよ、と大昔のいくひしさんを知るひとがいつか言っていたのを憶えている。いくひしさんはいま百八十歳なので、体感三百歳くらいだけれども、二周回ってまた赤ちゃんになってしまったのかもしれない。知ってた。いくひしさんが赤ちゃんなのは知ってたよ。それでも三年分の齢(弱い)を重ねて、あははーあははー、のいくひしさんが表面にまで浮上してこられるまでに浮力を高めてしまったのかもしれない。ずっと沈んでいてほしいものの、最もいくひしさんの支配力をものともしない自由奔放にして最悪のいくひしさんなので、せめて無邪気にただ、あははーあははー、としててほしい。それいいね、いいね、すごいすごい、とただはしゃいでいてほしい。変な知恵をつけずにあるがままをそのままに、ただ好きと楽しいだけを、あははー、に載せていてくださると、その他大勢のいくひしさんはうれしく思います。


3299:【2021/11/14*かわいい漬け】
かっこいいものはかっこいいのだが、かっこいいだけに目を向けていると疲れる。たほう、かわいいものはかわいく、かわいいだけに目を向けていても疲れない。これはすごいことだと思います。依存の底がないんですね。いくらでもかわいいかわいいしてられる。麻痺しない。むしろ脳みそがとろけすぎて、ますますかわいいかわいい、になる。でもかわいいものは弱い傾向にあるので、たとえば子猫とか赤ちゃんとか、お世話をするぞ、となるととたんに、かわいくない、になる。たいへん。なんでそんなことするの、の嵐に見舞われる。かわいいは、基本的には無責任なのだ。ノータッチでいられる距離にいるときに抱けるいっときの、かわいいにすぎないのである。安らぎみたいなものだ。危険から遠ざかるいっときに空く一瞬の息継ぎであり、癒しがそうであるように安らぎも、かわいいも、束の間の、ふぅ、なのかもしれない。かわいい、癒し、安らぎ、の順で、ふぅの継続時間が長くなる。維持できる。かわいいは一瞬ゆえに強烈で、癒しは長くなる分、希釈されており、安らぎは、凪のごとくうっすらと炭火のほんわかさながらに包みこんでくれるが、些細な横やりですぐに破れてしまうシャボン玉みたいな性質がある。ゆえにかわいいを連続して、ダダダダーと浴びると、点が線になりやがては面に、立体になるように、どこまでも凝縮して、かわいいの嵐に身を委ね、骨の髄まで漬物になれるのだ。かわいいの漬物である。かっこいいはなぜか疲れるな、と思いながら、かわいいに吸い寄せられる日々である。かわいいは麻薬である。魔法のオクスリである。用法容量を守って正しく浸かりましょう。(きょうはいつにもましてあんぽんたんですね)(いつでもあんぽんたんみたいにゆうな)


3300:【2021/11/15*才能がなくてごめんなさい】
才能がない、と悩む人は、じつは才能がないことに悩んでいるわけではないのである。なぜなら才能がないなんてそんなのは当然のことで、才能がある人なんて本当はどこにもいないからだ。才能がある、という状態は幻想なのである。ただし、才能があるように見えることはある。この理屈を知っていれば、才能がないよぉ、と嘆きつつ、まあしゃあないな、と開き直ることが可能だ。なぜ才能がある、という状態が幻想かと言うと、まずはあなたにとって、才能がある、と思う人を思い浮かべて欲しい。その人は果たして世界一でしょうか。世界一でなければ、その才能のある人以上に才能のある人がいるということになりますね。すこし極端な考え方をしますが、世界一の人を基準にしてしまえばそれ以外の者はみな才能がないことになります(もちろんそんなことはないわけですが、まずはここを前提にして話を進めます)。ではその世界一の人は果たして人類史上、過去未来を含めて一番なのでしょうか。そんなことはないはずです。世界一とはいえ、毎年のように世界大会が開かれるならばその都度世界一が決まります。ではその歴代世界一や未来における世界一の人たちと比べて、あなたの思い浮かべた世界一の人は、ずば抜けて一番でしょうか。そんなことはないはずです。上にはつねに上がいます。例外はありません。言い換えるならば、どんなに才能があるように見える人にもそれを凌駕する能力を発揮する個が存在します。例外的存在であれどつねにその者にとっての例外的存在もまた存在するのです。ちょっとややこしい言い方ですかね。いろいろな個性があったほうがいい、という多様性の重要性とはまさにここにも繋がっており、たったひとつの究極を目指すような分野は、人々が思うほどには多くはないのです。モザイクの柄を一つ一つ洗い出して、揃えていくような作業、このドットはこれまでなかったからじゃあ今回はこれを一番にしておこう。そういう取捨選択を人類は競争のうえで繰り返してきたと言えるでしょう。むかしの基準ではゴミ扱いされたドットも、現代の価値観では優勝級のドットと見做されることも往々にしてあります。ですから、才能がない、というのは単に、いま発揮した能力を特定の個人に(或いは大多数に)高く評価されていない、というだけのことなのですね。天才の称号がそうであるように、才能というものも、みなから「あの人は才能があるね」と言われているか否かのレッテル張りでしかなく、視野の狭い偏見でしかないわけです。もちろん現代社会はそうした偏見を与え合い、奪い合うような不毛のシステムのうえで成り立っている幻想郷でもありますから、いちがいにそれがわるいこととは限らないのですが、才能があるかないか、に拘って、わざわざじぶんの可能性を――好きや楽しいの気持ちを――蔑ろにする必要はまったくこれっぽっちもないのですね。才能なんて誰にもありません。ときどき、才能があるね、と他者に評価される者があるだけのことなのです。言い換えるならば、才能は誰にでもあります。ただし、それが他者から高く評価されるとは限りません。むろん、他者から高く評価されることを一つの能力と見做せば、その能力を高く発揮できる状態を才能がある、と呼ぶことはできるでしょう。とはいえ、他者から高く評価される、というのは数多あるうちの一つの能力でしかありませんから、やはりその能力を発揮できずとも、ほかの能力をより自在に発揮できたならば、その人には才能があると言えるでしょう。ゆえにもしくは、やはり才能なんてものは誰にもなく、誰にでもあるような、実体のない単なるまやかしであり、偏見であり、視野の狭い人類がために見てしまう幻想、単なる錯覚なのかもしれませんね。




※日々、環境なる作家の手により削りだされている、私なる存在は、川にできる一時の渦であり、岩場に渦巻くつむじ風であり、或いは浜辺に打ち寄せる波飛沫の一滴である。


3301:【2021/11/16*代理ですの巻】
 ハロー。私です。
 きょうはオーナーに代わって私が日誌を更新します。
 初めましての人もいるのかもしれないし、ひょっとしたら読者なんて一人もいないのかもしれないのですが、まずは自己紹介をしておきますね。
 私はオーナーと長年の、それこそ幼稚園からの付き合いで、いわゆる幼馴染、いいえ、どちらかと言えば腐れ縁と呼べる間柄です。
 ほとんど家族同然、ひょっとしたら私は私の兄よりもオーナーときょうだいのように育ってきたのかもしれません。
 オーナーはみなさんがご存じのように、それともご存じないどころか興味がないのかもしれませんが、それでもすこし接すれば、あっこの人はあれだねあんまりお近づきにならないほうがよい人物だ、とピコーンときてしまうような、一言で形容するならば、反社会的資質を有した困ったちゃんなのですが、私くらいにがんじがらめに縁を繋いでしまった運のない人からすると、その困ったちゃんの困った具合にも、それなりの理由があり、ときにはまったく理由がなく、その理由のなさに当人が誰より翻弄され、困っていることを否応なく知ることとなります。
 私はオーナーの人となりがそれほど好きではないですし、どちらかと言えば嫌いな面を多々見ていますが、それでも放っておけないというか、乗り掛かった船というか、乗り掛かった途端に沈没してしまって、亡霊船となって共に大海原を漂っているみたいな、もちろん私は陸上で優雅に暮らしていて、ときどき亡霊船はどんなかなぁ、と幽体離脱をして困ったちゃんたるオーナーの様子を見に行ってるみたいな、そんなお付き合いの仕方を長年、どこで一区切りをつければいいのかも分からずに、惰性でつづけてきてしまいました。
 知らないあいだに小説なんてものを書いたりしていて、推敲もしないで書いた矢先にほっぽりだして、つぎの作品にとりかかるので、もったいないな、と思って私が友人のツテを借りて、推敲したり、電子書籍化してみたり、こうして投稿サイトに載せてあげたりしています。
 嫌なら断ればいいものを、困ったちゃんのオーナーは、もらえるものはもらっておくの精神に忠実で、それともいちどつくってしまった作品には興味がないのか、私たちの好きにさせてくれています。
 ちなみにこの日誌も毎日のように更新しているみたいですが、これもどうやら壮大な小説の一部みたいなんですが、ちょっとこれを小説と見做す眼力が私にはないので、オーナーがどこまで本気で言っているのか眉唾なのですが、なぜってときどきはこうしてじぶん以外の他人に、つまり私みたいな人に代筆させていたりするので、それって作家としてどうなの、矜持はないの、と首を傾げたくもなります。
 最近はどうやらネタが枯渇してきてしまったようで、何かない、と珍しく相談じみた連絡をくれるようにもなってきていて、よい兆候だな、といったい何がよいのかも漠然としたままで、私は人付き合いの苦手なオーナーとの腐れ縁をさらに腐らせているきょうこのごろでございます。
 私の近況というか、オーナーとの関係はざっと語ればこんなところかな、と思うのですが、これが日誌であり、その日誌がオーナーの書く壮大な小説の一部であるというのなら、これもまたきっと小説の一部なのであって、ひょっとしたら私なんて存在は現実にはいなくって、私もオーナーの想像上の人物で、小説の登場人物だったりするのかなぁ、なんて想像するとすこし愉快に思ったりもします。
 そうと知人に零してみたところ、だいぶんあなたもあの人に毒されてきちゃったね、と苦笑いをされてしまったので悔しいので、何もおもしろくないし、むしろ迷惑です、という言い方をこのあいだオーナーにしてしまったのですが、そのときに気まずい空気のままで時間が経ってしまったので、あのときの言葉の背景にはこういう事情があったのですよ、とついでにここに明かしておきます。
 私は私です。
 オーナーの影ではないし、お供でもありません。
 影響を受けるというのなら、オーナーのほうであるはずです。もうすこし私の偉大さを、貢献の度合いを、正当に評価してほしいものですね、とグツグツ煮えてしまった幼稚なあてこすりにすぎませんでしたので、どうぞお気になさらずに。
 それはそれとして、あなたはもうすこし私に感謝をすべきです。
 きみには嫌だ、というのならそれはそれでも構いませんので、どうかほかの人たちにはもうすこし謙虚に、感謝の言葉を口にしてみたりしても、そうそうわるい結果にはなりませんし、むしろきっとオーナーの困ったちゃんな性質を、しょうがないな、とやれやれの溜め息に載せて、見逃してくれることも増えるように思います。
 なんて書くと、強情っぱりのへそ曲がりなへちゃむくれさんは、死んでもそんな真似はしないのかな。
 日誌を書けと言われても何を書いていいのか分からなかったので、こういう感じになりました。
 読者を意識して書いたらけっきょくオーナーへの苦言になってしまいました。
 苦情は受け付けません。
 嫌なら消してください。
 こんなところかな。
 ではまた何かあったら連絡ください。
 新作は進んでる?
 私にこういうお願いを装った嫌がらせを送りつけてくるくらいだからきっとよくない具合に煮詰まっているものと推察致します。
 私は毎日仕事で忙しいです。
 貴重な電車のなかでの睡眠時間をこの文章に充てました。どうぞ心の中でもよいので感謝してください。
 あと付け足すか迷ったけど、書いておくよ。
 ほかのみんなは優しいから付き合ってくれるだろうけど、そういうのに甘えてちゃ、出てくる言葉もきっと甘々の砂糖菓子になっちゃうよ。
 嫌なら放っておいて、ときみはまたプリプリするだろうけど、そういうわけにもいかないのだ。
 なにせ私たちの縁はとっくに腐りきって、がんじがらめで、どうしようもなく絡み合ってしまっているのだから。
 亡霊船ごっこもほどほどにしてください。
 幽体離脱をする側の身にもなって。
 長くなりました。
 では今日のところはこの辺で。
 ばいばい、またね。
 私でした。


3302:【2021/11/17*やわらぐのです】
上記、消すか迷ったけど、せっかくだし残しておくことにする。どうせこれもいくひしさんの自作自演だしね。そういう設定という設定です。キャラです。妄想です。たまに並べておかないと誤解してしまう人がでてくるかもしれんので、もう何度目かになるか分からんけども並べておくけど、この「いくひ誌。」は人類最後の生き残りとなったいくひしさんが、過去の映像を観たり、聞いたりしながら、当時のことを思いだしつつラジオのごとく電波に飛ばして、誰かいませんかー、と虚空に呼び掛けているじつに寂しく楽しい一人遊びなのである。なんて言いながらハウスの外は猛吹雪で、かれこれ百日ちかくは外にでていない。本当ならいまごろいくひしさんは仲の良い友人たちとキャッキャウフフと温泉旅館にでも出かける予定を立てて楽しんでいたころのはずだ。なんて、まるでこうなる前のいくひしさんには友人がいたみたいなことを並べてしまうけれど、そんなのはいまのいくひしさんの妄想であって、以前のような社会に戻れたところで、いくひしさんはこうして一人で妄想の世界に入り浸っていたのだ。友人なんていないのだ。そんなのは幻想だ。あまりに寂しいいくひしさんの見ている夢物語であり、妄想であり、虚構なのだね。なぁんて並べてたらこれも妄想にならんかなぁ、と望んでも、現実はやはり現実で、なんら一つとしていくひしさんの妄想を叶えてはくれないのだ。何一つとして響かない。現実は現実だ。いくひしさんがどう考えようと、何を思おうと、どれだけ妄想しても、砂粒一つ動かせない。目をつむっても世界が消えるわけではない。小説をつむいでも読者がぽんと現れるわけではない。どれだけ日誌をつむいだとて、世界に呼びかけてみたところで、いなくなった人々が現れるわけではないのだ。でもほかにすることがないので、もしかしたらこの世のどこかにはまだいくひしさん以外の生き残りがいて、こうした呼び声に応えてくれるかもしれないし、社会が崩壊することのない世界線の地球に偶然なんらかの力が作用して紛れ込むこともあるのかも分からない。そんなことは万に一つもないと判っちゃいるけれど、こうするほかにすべきことも、したいことも、できることすらないのだ。まるで毎日むかしの日々を生きているみたいに文字を並べていたら、段々そのときを本当に生きているみたいな感覚になってくるし、本当は一度体験していることだから、その数日前とか、数か月前に、予言チックに特定の出来事に言及しておくことも可能なのである。本当はきょうはきょうではないし、あす何が起きるのかも、データバンクはまだ生きているから検索すれば子細に知れる。その日そのときにいくひしさんが何をしていたのかも、だいたいは当時の日記や生体情報を参照すれば分かるから、こうしていまさら日誌に残しておく必要もないのだけれど、こうでもしていないと本当にどうにかなってしまいそうなのだ。もうとっくにどうにかなってしまっている可能性も拭えないけれど、べつにどうにかなってしまったとて困る人がいるわけでもないし、やはりほかにすべきことも、したいことも、できることすらないので、誰が読むわけでもない妄想を、こうして日誌の体で並べていくほかないのである。という設定で、この「いくひ誌。」は並べておりますので、その旨、どうかよろしくお願いいたします。なるほどそういう小説なのだなぁ、と思っていただけたらさいわいです、なぁんて但し書きを挿してみたところで、誰が読むわけでもなしに、すこしさきのじぶんが読み返して、一人で笑って、なにしてんだか、と虚しくなるだけなのだけれど。でも、そう。何もしないよりかは、ずっといい。なぜなら寂しさが紛れるので。(定かではありません、というか、何も定かにしたくはありません)(何も直視したくない)(現実逃避やぁ)


3303:【2021/11/18*矛盾の塊でごめんなさい】
面倒くさい性格をしている自負があるので、じぶんの自家撞着にはそこそこ敏感なのですが、たとえば、孤独が好きなのは嘘ではないのに、寂しすぎるのは嫌、という矛盾をたびたび自覚します。孤独なのも寂しいのも嫌いではないのですが、あまりに孤独でありすぎるのも、寂しすぎるのも嫌なのですね。適度な孤独感と寂しさが好きなのです。つまり、そのバランスを探れるかどうか、可能か否か、というところが、孤独と孤立の分かれ道なのではないかと思うのであります。ただ、これは単なるわがままと紙一重というか、ほぼほぼ同じでありまして、さすがにそれはいかんでしょ、と思ういくひしさんもおり、いかんともしがたいな、と思いつつも、総合すればまあ一人の時間が週に六日ほどあれば満足で、人と会ったりしゃべったりするのは一日あればいいほうかな、と思いもしつつ、ただしそれもまた誰と会うかとか、いつ会うかとか、何のために会うのかも含めて、じぶんでいろいろと選べたりそのときどきで変更できたらよいのにな、とここでもわがままな気持ちが湧くのです。単なるわがままなのは百も承知がゆえに、余計に、ああめんどくさ、となってしまって、じゃあ一人でいいです、になってしまうのですね。何がじゃあ、なのかが意味不明で、いったいあなた何様のつもりなの、と言いたくもなりますが、無様ですが?と開き直らせたら右にも左にも上にも下にもでる者がいないと評判のいくひしさんでありますから、そこはもうもう、かってにしてください、と匙を投げておくのが正解な気が致します。でもいざ匙を投げだされると、見捨てんといてぇ、と縋りつきたくもなってしまうので、甘えんな、の一言で黙らせてしまうのがよろしいように思います。かようにいくひしさんは、七面倒くさいというか、八面倒くさいというか、いっそ一兆くらいに面倒くさい、超々すーぱーな甘ったれちゃんなので、ほどほどに薄めてパンに塗って食べるとおいちーかもしれません。誰がハチミツか。ほどよくツッコミを挟めたところで、本日の「いくひ誌。」とさせてください。自覚してりゃいいってもんじゃない、自家撞着の権化こといくひしまんでした。おやすみなさいませ。(あ、新作掌編更新しました。四日分まとめて記録します。「生きを吸う(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427320594190)」「作家の命綱(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427320605749)」「甘い呪いはとけない(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427330661051)」「ふぃっくしょん、の部屋(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427389375354)」)


3304:【2021/11/19*先輩ぶってみる日】
たとえば中学生くらいの子のつむいだ小説を読んだとして、完成度や題材や文章形態の相性によっていろいろな感想がでてくるだろう、ということを込み込みにしたところで、そもそも中学生の時分で小説をつくれてしまう、というのが、いくひしさんにとっては驚愕なのですね。これはひるがえって、いくひしさんが本を読みはじめたのが十三年前とかそこらなので、そのときのいくひしさんの年齢に満たない比較的若い人が小説をつくれていたら、その出来の度合いに関わらず、ただそれだけでも、どひゃー、と驚いてしまうし、すごいっす、と目ん玉を丸くしてしまうのですね。目ん玉は元から丸いのかもしれませんが、そのくらいびっくりします、の婉曲表現です。現代では過去に比べて様々な利器が出回っており、むかしに比べて環境が豊かだ、ゆえに若い物書きのレベルもあがっていてふしぎではない、との理屈は一方では妥当であり、もう一方では、単にそうとも言いきれない実情もあります。というのも、現時点でその豊かな環境を、いくひしさんも利用できてしまえているわけでして、環境そのものはむしろ同じなのですね。けれども、いくひしさんには、いくひしさんよりも若い子たちのような小説はつくれませんし、若い子に限らず、他者よりも上手な小説もつくれません。反面、若いころにそうした環境に触れられていたか否かは、出来上がる小説の質に関係してきますし、読者のほうの感受性も環境によって変質していくでしょうから、一概に言えることではないと踏まえたうえで、やはりそれでも、いまの若者というか、いくひしさんよりも年下の人で物書きをしている人は、これは断言してしまいますが、いくひしさんよりもセンスがあり、同じ年齢だったころのいくひしさんよりも遥かに優れた――いくひしさんが、それほしい、となるような――アウトプットをしている、と言えるでしょう。ということを、文芸とは別の趣味で思うことがあり、ともかくとして、若い子の潜在能力の高さというか、何を好きと思い、楽しいと思うのかの感受性の差異には目を瞠るばかりです。どうか、感受性の異なる年上の目を――というか周囲の目を気にせず――安全を確保しながら日々を楽しんでください。先輩ぶりたい、いくひしまんでした。(新作掌編:「ドーナツの姉(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427402774178)」)


3305:【2021/11/20*ネタがないときは過去を振り返るとよいの巻】
いくひしさんがこうして創作を日々つづけていられるのは、単に環境に恵まれているからであって、誰であってもいくひしさんと同じ環境にあれば、最低でもいくひしさんくらいの能力を発揮できると思っている。ただし、この恵まれた環境のなかにはむろん、比較的健康な肉体も含まれるので、要するに誰でもいくひしさんになればいくひしさんと同じことができます、という意味でしかなく、あまり意味のある言葉ではないかもしれない。それはそれとして、いくひしさんは恵まれた環境下に長年身を置きつづけているので、本当に申しわけないな、と同じように創作をしている人たちや、その他の仕事に一生懸命な人々に対して引け目を抱いている。いくひしさんは努力ができない甘ったれちゃんなので、努力できるようになりたいといつも思うのだ。努力に対する憧れがつよい。高校の卒業式の日に、一人一言今後の抱負を言うという場面があって、そのときに、努力できる人になりたいです、と言っていたのを憶えている。記憶違いでなければの話だが。とはいえ、努力というのも、それを努力と見做せるだけの成果があって初めて、それまで費やした労力や辿ってきた軌跡が、努力のように見える、というだけのことであって、要するに努力ができるようになる、とは目的を達成できるようになる、そのための工夫ができる、の意味でしかないのかもしれない。そういう基本的な事項すら失念していた当時のいくひしさんの肉体に宿っていた人格は、いまと比べて純粋で、青かったのですね。いまは不純でありながら青いのですが。物質は不純物が混合していたほうが安定しやすいので、純粋であることにどれだけの価値があるのかは一考の余地がありますが(むしろ一考の余地がないこととは?)。小説はつくりかけばかりが溜まっていきます。昨日、久々に初期作「R2L機関」を一部分だけではありますが、読み返してみたのですが、いまのじぶんには発揮できない魅力がこもっていて、よいな、と思ってしまいました。それだけ現在のじぶんの創作家としての力量が落ちている証拠なのですね。過去作を振り返ったときに、改善点ばかりが見えるくらいでないといけないな、と常々指針にしています。過去作を振り返って駄作と思えなくなったときは、腕が落ちている証拠です(と、じぶんには言い聞かせています。それが真実かどうかは定かではありません)。むかしのじぶんに圧倒されて、すこし焦りました。いまいちど工夫の余地を見繕って、変化を帯びていきたいと思います。きょうの日誌は以上です。とりとめがなくてすみません。おやすみなさい。(新作掌編:「チョコレイトショー」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427419617924)


3306:【2021/11/20*切り替えの術】
ここ数週間の「いくひ誌。」では、前半では「である調(常体)」でありながら、後半部分では「ですます調(敬体)」に敢えて変えるような文章形態を試している。いつ切り替わったのか気づけないくらいに、むしろ切り替わってたか?と思われるくらいに、しぜんに一つの文章のなかで複数の文章形態を使いこなせないだろうか、と試行錯誤しているのだが、気づいた方はいらっしゃるだろうか。とはいえ、いつでもいくひしさんの文章形態はブレブレなので、いまさらそんな細かな違いに意識を配る真似なんてするだけ無駄だ、と思われているのかもしれない。妥当な判断だと思います。文字の開き方(漢字をひらがなに変換することを、開く、と言いますが)とか、むかしよりも基準が曖昧になってきた感は否めない。いちいち思考するのが面倒なので、開いちゃえ、で済ましてしまうこともある。いくひしさんの文章にひらがなが多い理由は、面倒くさいから、なのである。でもけっこう考えて使い分けていたりもします。むかしは「じぶん」と「自分」といった使い分け方もしていました。自分自身のときは「じぶん」で、他者が自己を示す場合には「自分」にしていました。いまはすべて「じぶん」にしてあります(例外はありますが)。「まえ」と「前」も用途によって使い分けています。ほかにも色々ありますが、もはや馴染んでしまって、無意識にでてしまいますね。上のほうで使った「しぜん」も、森とかの場合は漢字で「自然」とします。いちおう、基準があるんです(ないのもありますが)、と無駄に言い訳じみた意図を明かして、本日二度目の「いくひ誌。」とさせてください。


3307:【2021/11/21*調子に乗ってやるですの日】
きょうはめちゃくちゃ調子に乗ってもよい日なので、いくひしさんの素をお見せしようではないか。いくひしさんは天才なので、超々すーぱー天才なので、もはやアゲハチョウなので、しかもクロアゲハなので、めちゃんこカッコよくもあり、素晴らしくビューティでもあり、ときおり目を瞠るくらいにかわいらしくもあり、生きているだけで全人類を幸福にすることしきりの神と崇めよ。そうです。願望です。崇めてください。お願いします。お願いしちゃうなんて、なんて謙虚なんだ。偉いぞいくひしさん。そういう、ここぞというときに控えめなところもとびきりチャーミングで、全人類老若男女問わず、ウハウハのモテモテだぜ。やったーうれしー。うふふ。ふだんだぁれも褒めてくれんから(過去に小説褒めてくれた方はありがとう、読んでくれた方もありがとう)、いっぱい褒めてみた。うれしー。こんなにうれしくなってしまうなんて、褒め上手ちゃんですね。そうなんよ。いくひしさんのつむぐ言葉は人々をまんべんなくしゅわわせーにしてしまう、文才の塊なんよ。嘘ではないです。妄想かもしれんし、勘違いかもしれんけど、そう思ってしまういくひしさんの心は嘘ではないです。虚しくないんですか、って思った? 思わんといてー。虚しい思いをするのはいくひしさん一人で充分や。思わんといて―。しゅわわせー、って、しふくー、ってしといてください。お願いします。お願いしちゃうなんて、なんて謙虚なんだ。優しくて、控えめで、ときどき負けん気がつよくて、傲慢で、その傲慢さが癖になるほどのかわいらしさを誰にでも分け隔てなく振りまいちゃうなんて、えーいいんですかー、こんなに素晴らしい生き物が現実にいちゃってもいいんですかー? いいよー。やったぜ。というわけで、こんな感じで調子を重ねに重ねて、エベレスト級のミルフィーユにしちゃって、えっへん、とその頂上に乗りあげてみた、本日の超々すーぱーなクロアゲハ、それは蝶々やろー、のツッコミも上手ないくひしさんでした。おしまい。(新作短編小説:「キキ一発」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427422290397)


3308:【2021/11/22*孤独がそんなに嫌なのかい?】
こうしたら評価されるとか、いまはこれが流行りだからとか、そういうのはもういいので、きみの好きを煮詰めて、突き詰めて、突き抜けてくれ。(あい!)


3309:【2021/11/22*虚しいの、いくひし、好きぃ】
優勝とか一位とか称賛とか伝説とか、そういうのを記録できる人はすごいけど、じゃあそのあと何が残るの、と考えたときに、虚しくならないのかな、と不安になる。とはいえ、そういうものを得られない人生とて、虚しさからは逃れられないのだ。みな大なり小なり、虚しさを抱えて生きている。


3310:【2021/11/22*価値観の相違】
宝石をより多く集めたい人たちのなかにいると、単に石や土を掘り返してどこかに宝石がないかな、と探し回りたい人は、ただただ息苦しくなってしまうのだね。宝石は手元になくてもいい。ドングリだって、鹿の糞だって、見ようによっては宝石になる。


※日々、欲しいけどいらない、が多すぎる。


3311:【2021/11/22*支配・介入・権力】
もし全世界の人間を思うがままに操れるとして、何をしても許されるとして、いったいそのときじぶんは何をするだろうか、と考えるのだけれど、たぶん何もしないのだね。じぶんより立場の下の人間に理不尽なことを仕出かしている人には、それをさせないような何かしらの妨害をするかもしれないけれど、それにしたところで、そもそもいくひしさんのほうで立場が上なのだから、いくひしさんのそうした介入そのものが、立場の下の者たちへの理不尽そのものであり、けっきょくのところ、いずれは何もしないでいるようになるのではないか、と妄想できる。定かではない。(他者に過干渉せずに、場を築きあげ、それを万人に提供できる人こそ、一流の名にふさわしいと思います)(かといって、一流であることにいかほどの価値があるのかは疑問の余地がありますが)


3312:【2021/11/22*自己肯定感なんかいらんわぁ】
きょうはめちゃくちゃ素直になってもいい日なので、いくひしさんの素をお見せしようではないか。いくひしさんは自己肯定感が死ぬほど低いので、びっくりするくらい低いので、本当は世界の覇者を狙えるくらいにすごいのに、産まれてきてすみません、と毎日鍋の後に残るハクサイの一欠けらになりたい、と望んでいる。そうである。願望なのである。ゆえにいくひしさんがいくら、ああいくひしさんってばどうしてこうもどちゃくそに未熟で至らなくて粗忽者なのだろう、おっちょこちょいなのだろう、かわいくないのだろう、と思っていても、本来のいくひしさんがとっても素晴らしくかわゆいので、どれだけお卑下ちゃんしてもよいのである。ドラゴンがどれほど、わいはミミズや、と思っても、ドラゴンはドラゴンなのである。バラの花がどれだけ、わいはチクワや、と思ってもバラの花はバラの花なのである。しかしミミズさんもチクワさんも、それはそれでとっても素晴らしい生き物に食べ物でござるから、なくては困る存在でござるから、べつにドラゴンがミミズでも、バラの花がチクワでも、それはそれでよいのである。いくひしさんがどんなに、わいは本当はとってもかわいいんじゃ、と思いこんだところで、本当のいくひしさんは、びちょだらーん、みたいな見た目に中身に性格をしていたところで、それはそれできっと世の中の何かのお役に立っていてほしい。そうであれ。こうしてなんやかやと言いながら傲慢に望んだところで、いくひしさんが世の中のお役に立つことはほぼほぼないですし、きっとこのさきもほぼほぼないのですが、いくひしさんの自己肯定感は地の果てを突き抜けて宇宙の根源にまで到達してしまっているので、まあしゃあないな、と開き直れるのである。なぜなら自己肯定感がゼロなので。ないものはないのである。致し方ないのである。あっかんべーである。


3313:【2021/11/23*よくない癖がついてしもうた】
ショートショートを手抜きでつくるのに最も都合がよい条件は、登場人物を一人しかださないことだな、とさいきんは自覚しつつある。すべて独白で、しかもセリフも掛け合いもなければ、ものすごく楽だ。というかこの「いくひ誌。」の延長線上なので、そりゃ楽でしょう、と思うのだよね。この日誌はだから本当に楽をしているのですね。ただ単に文字を並べればよいのだ。なんでもよいから余白を埋めればいい。文字数を増やせばいい。そうしてできた文章が面白くなるか否かは別問題であるにしろ、とにかくショートショートを楽してつくろうとすれば、登場人物は主人公だけ、を条件にすればよいのである。おためしあれ。(新作掌編:「絵に描いた俺(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700427472965927)」「生やした尻尾は掴めない(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428534372785)」)


3314:【2021/11/23*ウヒ】
おためしあれ、じゃないが。なぁにじぶんの手抜きの手法を他人に勧めようとしてるの。そういうところやよ。きみのよくないところだと思います。巻き添えにしてやる、みたいな、善意を装っておまえもこっち側に引きずり込んでやる、みたいなそういうの。怖いのでやめたほうがよいと思いますよ。シーっ、じゃないが。下唇突きだして子どものむつけた顔するのやめい。


3315:【2021/11/23*ウヒヒ】
小説つくって何かいいことありましたか、という質問に対しては、いいこともあればよくないこともあります、と答えるしかないのである。いいこととはたとえば、小説をつくれてしまうことだ。わるいことは、そうでない時間が総じて「小説つくれてない……」になることだ。それ以外はすべて、そこはかとなくどちらかと言えばよいこと尽くしである。おためしあれ。(だから適当なこと言って勧めるのやめい)


3316:【2021/11/23*忍法モヘモヘの術】
若いころは調子のよいときとよろしくないときの差がそんなに大きく開いたりしなかったけれど、いまは調子のよいときとよろしくないときの差が、冗談でなく天と地ほど開くので、調子さんが、へんちょろーん、の日であっても難なく行えるくらいにレベルを下げた場合であっても、調子のよい日のパフォーマンスとそう変わらないような誤魔化しの技術を向上させていくと、楽ができていくひしさんにとっては好ましいけれど、そのパフォーマンスが果たして他人から見て好ましいのかは定かではないので、単なるズルやサボりに見えてしまうのかもしれないけれども、そんなのはいくひしさんが、おんどりゃー、の元気ぴんぴんの日でも、ズルやサボりに見えるひとには見えてしまうので、そんなことを考えるだけお疲れちゃんなのかもしれぬのだね。へんちょろーん、の日がだんだん増えてきちゃって、へっぽこへっぽこウニウニでござるが、そこはさすがのいくひしさん、うんじょろうんじょろモヘモヘするでござるよ。ニンニン。(新作掌編:「与作は鬼を斬る」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428579491772)


3317:【2021/11/24*小説ってなんぞ?】
ずっと違和感があって、なんだろうななんだろうな、と思っていたのだけれど、いくひしさんは文芸をしているし創作をしているけれど、ひょっとしたら小説をつくっているわけではないのかもしれない。小説とはなんぞや、と考えてみると、やっぱり文学とか古典とか、そういういわゆる「THE小説」みたいなのがあるような気がする。たとえばアンデルセンの著作にあるような童話とかは小説とは言わない気がするし、みなも小説として扱ってはいない気がする。でもいくひしさんの文芸は、どちらかと言えばアンデルセンの著作にあるような童話にちかい気がする。お話であり、物語なのだ。けして小説をつくろうとは思っていない。もっと言えば、架空の人の日記とか日誌を、本当にそれが現実につむがれたみたいに表現できたら楽しいだろうな、と感じる。あと語りだ。本当にその人が体験したことを語っているみたいに架空の人物の記憶を表現できたら楽しいと思う。けして「THE小説」をつくりたいわけではないのだ。ここではないしかしどこかにはあるだろう世界を、じぶんの五感で以って追体験してみたい。再現してみたい。表現してみたい。できたら楽しいだろうなぁ、というこれがおそらく初期衝動であり、初心であるような気がする。言い換えるなら、妄想の具現化なのですね。なんとなく、べつに小説がつくれなくてもいいや、というのはずっと感じていて、でもじぶんでは小説をつくっているつもりでいたのに喉につかえた魚の骨みたいな違和感を拭えなくて、なんでだろな、といまざっと三秒くらい考えてみたら、ああそうかも、と思ったので、並べてみました。さしてしっくりもこないので、お門違いな分析かもしれません。定かではありませんが、べつに定まってもこれは困らない類のつれづれなるままに、ですので、きょうはこのままこれを以って本日の「いくひ誌。」とさせてください。んじゃぱ。


3318:【2021/11/25*立ち止まらなければ分からないこともある】
これは数年日誌をつづけてきたいくひしさんの個人的な実感でしかないので、誰にでもあてはまることではないし単なる錯覚かもしれません、と注釈を挟んだうえで並べておきますが、毎日どんなに拙い日記でもよいので何かしら文字を並べる、という習慣をつくっておくと、文章をつむぐ、という行為への抵抗が低くなって、文芸での創作をしやすくなる傾向にあるようです。たとえば脳内に浮かんだ物語を文字で編もうとしたときに、毎日何も文字を並べずにいた場合と比べて、駄文でもいいから何かしら文字を並べる習慣をつくっておくと、多少は物語を文字で編みやすくなります。あまりこういう創作に関しての妄言は並べたくはないのですが、文芸歴が長くなるにつれて、そういう一面はあるかもな、という気にもなってきたので、一つの区切りとして記録しておきますね(一文が長くなってしまったけれど大丈夫でしょうか。内容は伝わりましたでしょうか)。いくひしさんにも創作をするうえでの信条みたいなものがあります。それはたとえば、「物語を文字で編むというのはどの道その時々のじぶんだからこそつむがれるまたとない文字の配列になるのだから、毎日つづけていようがそうでなかろうが、唯一無二の文字の並びになりますよ」といった考え方です。いまのところはひとまずこれをじぶんの創作の指針として取り入れています。したがって継続することも休止することもどの道、その選択をしたからこそ編むことのできる偶然の神秘に出会えるので、好きにしたらよいのでは、と思っております。ならばなにゆえいまさら上記のような、「習慣が大事」「継続が大事」みたいな説教臭いことを言いだしたのかと申しますと、去年十か月くらいこの日誌を休んだことがあったんですね。去年の九月くらいから今年の六月くらいまでです。それ以前にもすでに日誌の代わりに毎日掌編を更新していたので実質一年ちかく日誌を休止していたことになります。そうしたら、そのあいだに段々と物語を文字で編もうとしてもなかなか着手できない状態に陥ってしまい、こりゃいかんな、と思って、途中からまた日誌を並べはじめました。そしたらまた調子が戻ってきました。それゆえに、こうして敢えて駄文を並べてみる、という習慣は、文字を並べる抵抗(ハードル)を下げる役割があったのかもなぁ、との所感を覚えたわけであります。ただこれは個人的な体験でしかなく、ひょっとしたらほかに影響のあった因子があったのかもしれませんし、断言はできないのですが、こうした駄文を敢えてつむいでみる、というのも、そうそうわるい結果には繋がらないのかもな、と思いました。とはいえ、予想もしていなかった好ましくない癖もついてしまいますし、そこはケースバイケースというか、等価交換なのかもしれません。まずは何でもよいので、文字を並べて、じぶんの妄想を出力(カタチに)してみる、という習慣は、文芸の分野では一定の効果がある気が致します。(どちらかと言うと、じぶんの並べた文章を何度も読み返す習慣をつくる、のほうが効果が大きい気がします)(日誌を再開してみて気づいたのですが、いくひしさんはけっこうじぶんの日誌を読み返しているみたいです。誤字脱字や文章のもつれに気づけば直すこともあります)(文字を並べる→読み返す→違和感を見つける→修正する→読み返す。この一連の流れを習慣化できていたことが、物語を文字で編むうえでも多少なりともプラスに働いていたのかな、と妄想できます)(定かではありません)


3319:【2021/11/26*もう諦めてもいいじゃろか】
毎日掌編をつくろう、と仮にしたとする。おそらくつくろうとすれば百日でも千日でもつくれるひとはつくれると思う。でも飽くまでそれを、本腰の創作の片手間の筋トレみたいな感じでつづけてしまうと、結構つらくなってくる気がする。というのも、筋トレは基本的に筋力がつけば負担を増やしていくからだ。つまり、毎日掌編創作を筋トレ代わりに継続していれば必然、あるときを境につくる品が掌編ではなくなってきてしまう。短編や中編に手が伸びてしまうのだ。しかも本腰の創作は別途に行っていたりする。とすると、一日は二十四時間で限られているので、毎日一作ずつつくりつづけるためには、必ず一日でつくり終える分量に作品の文字数を納めなければならない。これにはしかし例外がある。必ずしも一日に一作のみ手掛けなければならない、との制約はついていない。つまり掌編をつくる傍らでほかにもプラス短編や中編や長編を毎日すこしずつ、つくっていけばよいのだ。ただし、すでに本腰の創作が別途にある場合、つまり飽くまで毎日掌編創作が筋トレ代わりのおまけに過ぎない場合、この掌編をつくりがてら複数作をちょっとずつ進めていく手法は、かなり負担の高い、根気のいる作業となる。もっとも、掌編は百字から千文字程度の短いものであれば一日に複数作をつくろうとすればつくれるだろうから、たとえば一日に十作品ずつつくれば十日後には九十作分のストックができる。そうして楽をしつつ、数日を要しなければ結べない作品を手掛けながら、本腰の創作をすることも可能だろう。しかしいくひしさんにはそこまでの能力も才もないので、こうして捕らぬぽんぽこりんの皮算用をして、ぽんぽこりんを狩るなんてなんて非道な、とお門違いに激怒してお茶を濁しつつ、毎日掌編つくるなんてバカじゃないの、と八つ当たりにも似た自己弁護を講じて、いじけながらの華麗なるふて寝を披露するのである。ぐー。(新作掌編:「眠れる森の姫たち」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428653818605)


3320:【2021/11/27*眠たいんじゃ】
文学の素養がないので、たとえば俳句を読んでみても、そもそも読める漢字がすくなかったり、言葉の意味の分からない単語が多かったりと、とかく俳句の良し悪し以前にまともに文章の意味を読み取ることができない。これは古文でも短歌でも同様だ。そしておそらく小説の場合であっても例外ではない。波長の合う文章形態があるのはたしかに思われる。具体的な固有名詞はすくないほうが好ましいし、日付や年月日もなければないほうがよい。あってもたいがいは読み飛ばしてしまう。現在を起点にして、ものすごい昔かすこし昔かが分かればよいし、ものすごい未来かすこし先の未来かが分かっていればよいと思ってしまう。量にしても似たようなものだ。基準の対象を支点に、それよりもいっぱい多いのかいっぱい少ないのか、それともすこし多いのかすこし少ないのかが分かればひとまずよしとしてしまう傾向にある。どんぶり勘定でしか情報を扱えないのだ(扱えないというか負担が大きい)。演算するための容量がすくない。記憶しておけない。そのため一ページを丸々読み飛ばしてしまうくらいに具体的な固有名詞や情報ばかりが載っていたら、そもそも読むべき脈絡を繋げなくなってしまう。そうなればもう目が滑るどころの話ではなく、文面を目で追うだけでも一苦労だ。しかしでは、すべてがすべてぼんやりと曖昧に記述されていればよいのか、と言えばそうとも言えず、情報をぼかされていてもなんとなく雰囲気が伝わるような工夫はしておいてほしい。だがそういう工夫は飽くまで、作者読者共に共有しあえる認識事項や抽象化された情報があってこそ成立する暗号、謂わばツーカーの関係があってこそ適う橋渡しでもあるので、やはりというべきか文章形態における波長――世界をどのように解釈し、言語化してきたのか、の来歴や手法がある程度似通っていなければ、読了することも適わないのかもしれない。或いはあべこべに、一を知って十を知るではないが、数行を読んだだけでこのさきにはだいたいこんなことが書かれているのだろうな、と幻視できるくらいに馴染んでしまった文章形態の場合であっても、あまり読みたいとは思わないものなのかもしれない。定かではない。(いつもの日誌と比べてどうでしょう。これがいくひしさんの、とってもお眠のときの文章である)(新作掌編:「ファミレスの花子さん」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428733423853)



※日々、目と鼻の先に限界がある、突破しようとしても指で押すだけでどこまでも逃げる。


3321:【2021/11/28*近況】
ちょっと最近はご本を読めていないので、どこかで集中して本を読む時間をつくりたい。時間はあるのだ。ただ、何もしないでボーっとする時間を欲してしまって、惰眠も貪りたいし、文芸以外の楽しいや好きにも触れたいし、お金も稼がにゃあかんなぁ、と思いつつも、メンドくちゃいなぁ、の気持ちが勝ってしまい、どうしてもウダウダうねうねしてしまうのである。現代のくねくねでござるよ。目にした者はあまねく意識がいくひしさんに似てしまうのだ。えーめっちゃ嫌だ、と言ったやつは誰ですか。しかし、いくひしさんもそれは嫌です。ほかのもっと立派で美しく、誰からも好かれてチヤホヤされる人格がよかった。あーあ誰かくれないかな。もうこの時点で性根の腐り具合が露呈して、無理な気がしたけれども望みは捨てない。だって意地汚いんだもん。それはそれとして世の人々はもっと、いくひしさんを見習って共にウダウダうねうねしたほうがよいと思う。しましょう。してください。できるだけお互いに物理的距離(孤独)を保ちながら。(共にする意味それある!?)(あるでしょ)(ないよ!)(真面目な話、意味はあるけど、他人をじぶんの自堕落街道に巻き込むな、とは思うよね)(それだ!)


3324:【2021/11/28*幼稚な発想】
上記、いつも通り真面目にふざけながら並べていたら、ああそうかもな、と一つ閃いたので、補足です。孤独は他者との物理的距離が開いてはいるけれど、誰かしらとの心理的距離はさほどに開いていないのかもしれない。誰かとは心が繋がっている。心という言い方が気に入らないなら、その人ならではの世界観が、と言い換えてもよい。その人だからこそ生じる世界への解釈や物の見方が、誰かしらと共有可能である状態が保たれているのならば、たとえ周囲に誰も人がいなくともそれは孤独ではないのかもしれない(極端な話、同時代に世界観を共有可能な相手がいる必要もなくなるし、現実に存在する必要もなくなる)。反対に、いくら物理的に周りに人が大勢いようとも、心理的距離が総じての人々から乖離していると、それは孤立にちかくなってしまうのかもしれない。したがって、仮にどんなに素晴らしい発見や発明をしたとしても、最初はきっと人は孤立してしまうものなのだろう。なぜならその発見や発明の素晴らしさを他者と共有するためには、その発見がいかに本質的に異質であり奇特であるのかを理解してもらわねばならないし、同時にそれがいかほどに優れているのかを知るための価値観や世界への解釈を共有しなければならないからだ。とはいえ、最初の協力者を得られればあとは、資本を生みだすかどうかによって、発見の本質的価値とは別の社会的価値観を基準に、それそのものの価値が規定されていくので、いかに最初の協力者――あまり好きな言葉ではないけれど理解者――を得られるかが、社会的な支援(優遇)を受けられるか否かの分水嶺になるのかもしれない。定かではない。(幼稚な発想だけれど、いくひしさんは幼稚なのがそれほど嫌いではないのだ)


3323:【2021/11/28*本当にそうなの?】
おそらく現状のままポリティカルコレクトネスを推進しようとする勢力が増していけば、遠からず法律以外のマナーを他者に押しつけることそのものが一つのハラスメントとして定義され、その結果社会的に最も合理的な倫理的行動選択とは、なるべく他者と物理的に関わらずに一人で行動すること、となっていくだろう。ある程度のバラツキはあるにせよ、いまほど団体行動を良しとする風潮は蔓延せずに、段々と薄れていくと妄想できる。そもそも現代社会における組織問題の要因のすくなからずは、組織の運営や仕組みそのものの瑕疵ではなく、人間の持つ脆弱性の発露によるものである。単独行動であれば問題ない行動選択が、組織という人間の集団において連鎖的に重なると、組織全体の瑕疵として顕現する。これは仕組みをどのように築こうとも必ず発生してしまう渦のようなものだ。社会問題を是正したくば、この渦をできるだけ大きくしないようにするしか術はない。根本的に或いは原理的に、人間が一か所に密集すれば、たとえそれがどれほど統率された組織であろうと、あべこべにどれほど無秩序な群れにすぎなかろうと生じてしまう問題というものがある。一見すれば無関係に見える社会問題の多くはしかし、人間が一か所に密集することで生じる個々の脆弱性の創発――すなわち増幅現象によって予期せぬ性質を帯びてしまうことに起因していると妄想できる。ならばそれら創発現象を防ぐには二通りの手法しかない。一つは創発する前に個々の行動様式を離散させ、ちいさな渦を大きくしない対処を講ずること。もう一つはそもそも人間を一か所に集めないことだと言える。これは物理社会にも情報社会にも言えることだ。これからの時代ではいかに孤独耐性を帯びているか否かが、社会生活を送っていくうえで奇禍を遠ざけていられるかに相関しそうだ、と妄想を逞しくして、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(ただし孤独でありつづけても困らないだけの環境を築くには相応に他者との協力関係が不可欠であり、やはりというべきか孤立に陥らないような工夫が入り用なのだろう。それを一言で形容すれば、社会性を保つ、と言えそうだ)(定かではありません)(うーん、無理筋かな、と思いながら並べました)


3325:【2021/11/28*ボツの是非】
前々から並べよう並べようと思っていてついつい忘れてしまっていて何年も海馬の枝葉に引っかかっていたのを運よく掴み取れたので、忘れないうちに並べておきます。商業作家において商業ラインに載せられない原稿をボツ原稿と言い、原稿を却下することをボツにすると言いますが、ちょっと言葉が強すぎる気がします。本当に今後二度と世に出せないレベルの、破り捨ててもよい原稿に対してならば、ボツにするという表現も理に適った筋の通った言い方に思えますが、そうでなく単に「いまじゃない」「求めているのとすこし違う」というレベルの原稿に対しては、もっと別の言い方にしたほうが、言うほうも言われたほうも傷心を負わずに、すんなり別の原稿に着手できる気がします。ボツ、という言葉は漢字で書けば「没」でしょうか。これは人が死んだことを示すときや、落ちぶれた様子を示す際に使うような言葉に思えます。それとも何かを地中や水中に埋めたり沈めたりするときの言葉でしょうか。やはりすこし強すぎる気がします。原稿を全否定したい意味で使うのならば「ボツ」でもいいのかもしれませんが、そうでないのなら、「いまではない」くらいのニュアンスの別の言い方を探ってみると、仮にいくひしさんが言われる立場であった場合には、好ましく聞こえます。(そういう立場になる予定は今後百年くらいはありませんが、好きな作家さんたちが、またボツだった、みたいな話をしているのを見聞きすると、ボツじゃなくていまじゃなかっただけなんよ、と思ってしまって、かってに哀しくなるので、本気でその原稿を土に埋める気があるときにだけボツと言ってほしいな、とかってながらに思ってしまいました)(ただ、言葉狩りみたいなことを言いたいわけではなく、あくまでこういう考えもあります、という一例ですので、話半分に読み流してください)(実際、いくひしさんもじぶんの超初期作に対してはボツ作扱いしているので、他人様のことは言えないのである)


3326:【2021/11/29*甘えたがり】
いっぱい寝た。でも小説のネタはいつでもコツンコツンのいくひしまんです。おはようございます。もうなんも思いつかん、とここ毎日ふて寝しています。ふて寝だけでなく、ふて腐れているし、ふてぇ野郎だ、と言われているし、ビフテキ食いて、と思っています。いくひしさんは人に触れられるのが好きではありません。これはむかしからそうでした。どんなに親しい相手でも身体に触れられるのが苦手です。でもこっちから相手に触れるのは大丈夫です。わがままさんなんですね。でもときどき猫になって、大きな人に撫でてもらいたい、と思うときもあり、猫にならずに猫を撫でていたい、と思うこともあります。よちよちかわいいでちゅねー、とされたい願望がありますが、これを言うと、まんちゃん気持ちわるい、の顔で引かれてしまうので宣言するのはお勧めしません。そう、あれは本当に嫌な体験でした。いくひしさんもお猫さんを飼ってみたいのですが、何かとお金がかかりますし、いま住んでいるところの都合上飼えなかったりもして、お猫さーん、と恋焦がれている日々です。うそです。それほどでもありません。お外を歩いているときに見掛けるくらいで満足です。あとネットの動画や画像で満足です。根が覗き屋気質なんですね。なるべくじかに触れあいたくはないのです。きょうはもう何も思い浮かばないので、こんな感じで、いくひしさんもふっつーの人間なんですよ、と好感度アップを狙って見事に裏目に出て玉砕し、なんでや、の気分で本日の日誌としちゃってもいいだろか。お好きにどうぞ、とのお声をいただいたので、これにて結びと致しましょう。本日のいっぱい寝たのにネタなし人間、いくひしまんでした。(新作掌編:「カレンダーが破られたー(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428877384901)」「ちいさなピラニアの怪(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428900800605)」)


3327:【2021/11/29*強弱と清濁】
突出した能力を示さなければ敬意を払えない、という価値観があまり好きではない。じぶんの認めた能力でしか、「強さ」を測ろうとしない姿勢も苦手だ。もしいくひしさんが本気で憤るときがあるとすれば、根底にこの苦手意識があるのかもしれない。強者には甘く、弱者には厳しい(強者と弱者の関係はいつでも時と場所と見方によって容易に覆り得るし、同時に満たし得る)。世の人々から強いと見做されている人や組織がそういう真似をしていると、そこに潜む淀みを暴きたくなってしまう。かといってではじぶんはどうかと顧みれば、けして淀みなき身ではない。淀みへの過剰反応の根底にあるのは突き詰めれば、同族嫌悪なのかもしれない。定かではない。


3328:【2021/11/29*はっとした】
きょう気づいたのだけれど「涼宮ハルヒの憂鬱」は多重構造であり、昨今ハリウッド映画やディズニー映画で流行りの三本リボン構造だ。三本の「別の世界観を有した物語」を通して「ハルヒという一本の芯となる物語」を浮き彫りにし、それをキョンという名の神の視点で叙述している。そりゃ面白いわけですわ、と我田引水ではあるものの納得してしまったな。(多重構造と三本リボン構造という自説の説得力を強化したいがための、ポジショントークですので真に受けないように注意してください)


3329:【2021/11/29*忘れん坊】
きょう気づいた、とか上記で並べたけれど、同じことをすでに数年前に並べており、記憶力……、となった。記事「34:【線から面へ、そして立体】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881262191」と「969:【つくり方】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884607836」である。いい加減なことばかり並べてすみません。


3330:【2021/11/30*きのうはご本を楽しく読めました】
身体を酷使した日は、細かな装飾の施された起伏の多い文章を読み進められなくなる。目が滑ってしまうのだが、それは文章がわるいのではなく、読者たるいくひしさんの体調や文章との相性の波長が合わなかっただけである。これはたとえば虹を目にしたときに、きれいだな、と感動できるときもあれば、単に雨があがったな、で済ましてしまうときもあることと似たようなものだ。三日前には読み進められなかった文章が、きょうはとってもおもしろく読めた、という経験は読書を趣味にしていれば何度も経験することになるだろう。あべこべに、以前はおもしろく読めたのに、いまはそうでもないな、ということもでてくる。これは文章に原因を求めるよりかは、読者たるじぶんが変化したからだ、と考えるほうが妥当だろう。曇り空を見て気分が塞ぐのは、曇り空のせいではない。とはいえ曇りの日は気圧が下がる傾向にあるため体調不良を招きやすい。また雨が降りやすくもあり、外での活動が制限されることも経験的に知ることとなる。となれば、経験上、曇りの日は好ましくないことが多くなる、と予感できるので気分が塞ぐのは致し方ないことである。ひるがえって言えば、曇りの日でもいいことの多かった人は、曇り空を見ても気分が塞ぐことは、そうでないひとに比べてすくないだろう。これは読書にも言えることだ。暴力描写のあるハッピーエンドではない終わり方でも、それを読んで心が軽くなったことの多い人は、陰惨な小説を読んでも気分を害することはすくない。あべこべに眉をしかめてしまう人は、ただそういう内容の小説だ、というだけで気分を害してしまうだろう。そこは経験の差によって分かれるので、一概に本の内容とは関係がないとは言いきれないし、また本の内容が問題だ、とも言いきれない。経験とはすなわち環境によって規定される。曇り空を見て気分を害したからといってではその責任を曇り空に求めることができるのか、と言えば、あまり理に適った態度ではない、と言えよう。しかし曇り空が気分を害するきっかけになったのは確かである。必ずしもきっかけが要因であるとは限らないが、きっかけがなければそも、気分を害することもなかったかもしれない点は無視しないほうがよろしいように思うしだいである。まとめれば、文章を読んで得られる心の動きは、けして文章の内容から受ける影響によってのみ規定されているわけではないのですよ、ということである。どちらかと言えば、文章の内容の違い程度で心の動きを左右されてしまうような経験を積み重ねてきてしまったそれまでの環境のほうにこそ根の深い要因がある、と言えるのではないでしょうか。もっとも、文章の内容と環境要因、どちらが手っ取り早く改善できるかと言えばこれは圧倒的に文章の内容のほうであり、ゆえに手軽なことをよしとする環境のなかでは、きっかけにすぎない文章の内容のほうに責任を問う向きが強まるのは、人間に備わった未熟さ――不完全さ――を思えばしぜんなのかもしれませんね。(人間が不完全な存在である以上、論理的に正しい手法が必ずしも人間社会に当てはめても妥当とは限らない。ときには間違っているかもしれないが、人間社会ではひとまず成果がでてしまうことを致し方なく選択するしかないこともあるとは思います。ただしそうした妥協の積み重ねによって予期せぬ悪果が顕現してしまうのは、歴史を紐解けば瞭然であることもまた否定できないように思えます)(何かを暗に主張しているような文章になってしまいましたが、そういう意図はありません。こういう考え方もできるよなぁ、以上の意味合いはありませんので、真に受けないように注意してください)(新作掌編:「マッチ売りの少女を消す方法」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428926346916)


※日々、残滓のごとく、しぶきのごとく、限りなくゼロにちかい、ちりあくた。


3331:【2021/12/01*なにしてたっけ】
え、十二月になってる。気づいたら今年終わってた、みたいな感覚になってしまうな。なんかこの感じでいくひしさんの一生も、気づいたら終わってた、になってしまいそうでおそろしい。そのまま死んだことにも気づかずに、いつまでものほほんとしていてほしいと思います。(新作掌編:「カルンのパリパリ結晶発見記」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428951551494)


3332:【2021/12/01*毅然と偽善者】
十一月は、好きな作家さんたちの幾人かが日記をはじめてくださっていて、いまは割と、うれしたのし、の日々です。ほかのひとの人生を覗き見するのも楽しいし、好きなひとたちが日々なんやかんやと楽しい時間を過ごしてくださっていると知れるだけで(仮にそう見えるというだけのことであったにせよ)、生きるのもわるかないな、と思えます。もうもう本当に好きなひとたちには例外なくみなしあわせになってほしいですし、楽しい時間を毎日十六時間は過ごしてほしいです。残りの八時間は睡眠時間に充ててください。もうもうずっとめちゃくちゃしあわせであーれ。あんまり好きでないひとたちも、そこそこしあわせであーれ。ときどきは椅子の角に小指をぶつけて悶絶してくれたら、あはは、と笑っていくひしさんが楽しい気持ちになれますが、こういうことを言うと、なんてやつだ、と好感度が下がるので、思うだけに留めておきます。わがはい差別主義者なので、思ってしまうのは致し方ないのである。こんないくひしさんでも、うんみょろーん、と生きててごめんなさい。すまんね。お詫びにいくひしさんも、そこそこのしあわせで満足しといてあげようと思います。それ以外の、いくひしさんがしゅきしゅき大好きなひとたちには漏れなく、うんととってもめちゃくちゃしあわせになってほしいと思います。なってください。なりましょう。お願いします。お願いしちゃうなんて、なんて謙虚なんだ。えらいぞいくひしさん。どうでしょう無理やり褒め称えて好感度をぐんぐん上げてみました。好きになってください。お願いします。(見て、みんな逃げてく)(どうしてくれんのよねぇ)


3333:【2021/12/02*影と光、結晶と触媒】
物語創作に没頭できているときは、物語世界に流れる時間をささやかながらも体感していたりするので、現実世界ではたった一日しか経過していなくても、何日も経過した、みたいな感覚になることがある。本当に真実体感として物語の世界の出来事を経験したみたいに錯覚しかけるし、物語の世界に旅立って戻ってきた、といった感慨も覚える。ただしどこでもドアではないけれど好きなタイミングで現実に戻ってこられるため、旅につきものの移動時間を度外視できる分、情報量は薄口であり、疲れずに済むがゆえにお手軽で楽ができる。だからこそ虚構の物語は楽しい。がために、それだけを摂取していたのでは補えない体験を、現実の経験は補ってくれる。もちろん虚構の物語でしか味わえない刺激――経験もあり、そこは相互に補完しあえる部分だと思う。というよりも、人間が他者と関わるときには大なり小なり虚構の物語を媒介しあって繋がり、それによって現実なる虚構世界を編みあげている。そこには常識や良識や倫理観や偏見や、様々な視点を基盤とした解釈、が含まれる。そうした現実なる虚構世界によって社会はバラバラにならずにひとまとまりの回路として機能できている。したがって小説なる虚構の物語は――もちろん漫画でも映画でもよいのだが――そうした人間社会における触媒を濃縮し、結晶させた代物と言える。虚構の物語には、他者との会話により生じる効能が凝縮されている。そこには意思疎通だけでなく、会話や対話による他者との現実の擦り合わせが行われ、部分共有を可能とし、同時に社会なる「虚構世界の編みだした現実の回路」の影を見せてくれる。社会は巨大すぎるがゆえにその全貌を目にすることは通常日常生活では適わない。しかし虚構の物語を介することで、一部分であるにせよ社会の影を俯瞰の視点で眺めることができる。影は影ゆえにそれそのものを映しとってはいないが、それそのものの輪郭は反映されている。影そのものは立体ではないが、影があるからこそ社会なる「現実の編みだす回路(虚構世界の創造物)」に、立体感が宿る。虚構の物語を摂取することで我々は、現実に流れる時間とはべつのスケールで、社会の変遷の軌跡を肌で感じることができる。体感できる。経験を重ねることができる。それはけして事実ではなく、また真実ではない。だが社会そのものが「現実なる虚構世界の創造物」である以上、そうした虚構の経験を通してでしか得られない質感があることは誤魔化しようのないリアルであるように思われる。現実は虚構だ。しかし事実を土台とし、真実を含有する。それら土台と含有物を見極めるためには、何が虚構かを知っておかねばならず、そのためにも現実がどのような虚構によって結実しているのかを、俯瞰の視点で確認できると好ましい。小説や漫画や映画に代表される虚構の物語に効能があるとすれば、こうした俯瞰の視点に対して「より高い視座」を与え、社会そのものに影をつくることで「より立体的」に見渡せるようにすること、と言えるのかもしれない。すなわち虚構の物語とは、社会を照らす光そのものなのである。定かではない。(新作掌編:「祓い漁」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428965596988)


3334:【2021/12/03*犬の散歩のように】
たかが妄想を文字に置き換えて並べるだけのことがなぜこんなにもたいへんに思えるのだろう。毎日ヒーヒー言ってる。もうこれでわいは終わりなんや、もうなんもでん、からっぽのキンキンや、の気分である。泣きながら文字を並べている気分です。気分なのでもちろん、本当は泣いてないし、ふっつうに、ああもう、とインスタントコーヒーをがぶ飲みしながら、おいちー、と感動し、おんだらぁ、な心地と、しゅわわせー、の心地に同時に浸る器用貧乏でござるが、本当にもうもう、なんもないよー、としか言えん。なんもないです。思い浮かばん。でもこうして、なんもないんじゃい、の気分ですら文字にしたらかってに文章になるので、文章って魔法かよ、の驚きに見舞われます。この感動はいつでもそのときどきで新鮮です。毎回のように、なんでなんとなく意味があるような文字の羅列になるのだろう、とふしぎに思います。本当にふしぎです。最初から「これ並べよ」と完成形が頭に浮かんでいるときもあれば、そうでないときもあり、たいがいは「これ並べよ」からの、なんか分からんけどこんなんできました、みたいな感じで、本当にガチャガチャを回している気分である。ガチャガチャと言って伝わらないのなら、ガチャポンでもよいです。百円入れて回すとカプセルに入ったオモチャがでてくる装置が、スーパーのまえとかにありますよね。あんな感じでいくひしさんも、「なんか楽しいのくれ」のお願いを入れると、「あいよ」とかってにポンと文章の羅列がでてきます。妄想のときもあれば物語のときもあり、こうして中身のないあんぽんたんでーす、がでてくるときもあります。そこは完全にでてきてからのお楽しみなのである。偶然の神秘に身を委ね、それとなく枠組みだけを定めて、骨組みだけを決めて、水の流れる溝だけ引いて川と呼ぶ、みたいな他力本願に忠実に、えーそっちを流れちゃうんですか、と驚きに見舞われながらも、その意外性を味わいながら、飽きたらほかのことで遊びつつ、サボリつつ、なんもしない時間を要所要所で挟み挟み、文字の積み木遊びを楽しんでいきたいと思います。来年の抱負をおおまかーに並べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おちまい。(新作掌編:「かってにすればいいけれど」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700428996541272)


3335:【2021/12/04*予測の真価】
未来予測の手法はじつは単純だ。第一に、予測の精度を高めたければ情報の「量」と「質」と「視点」を増やしたり、高めたりすることが欠かせない。第二に、解っていることと解っていないことを厳密に区別すること。そして最後に、解っていないことについてのいくつかの解釈において、現時点で得ている情報と比較することで確率の高さごとに場合分けして把握しておくこと。この三つを思考の基盤に組み込んでおけば、未来予測の精度はおのずと高まっていく。基本的に予測はハズれるものだ。ハズれたときに、結果とじぶんの予測との差を分析し、見落としていた情報が何なのかを確かめることがつぎの予測の精度を高める貴重な情報になる。何度か予測をハズしてみると、似たような思考の癖をじぶんが持っていたことに気づくはずだ。まずはその思考の癖を修正し、見落としている視点がないかを知ることが、未来予測の精度を高めつづけるための帆となるだろう。帆を広げれば、風を受けて船は進む。どの方向に船を進めたいのかは、やはり風の流れを予測しなければならない。未来予測の真価とは、一つ一つの予測のアタリハズレにあるのではなく、予測の精度を高めつづけ、いかに想定外を失くすことができるのか、にあると言える。予測できていれば対処が打てる。対策を立てられる。予測はハズれてもいい。予測を当てようとすることよりも、むしろどちらかと言えば、想定外のハズレを失くすことのほうが優先される。なぜハズれたのかを分析する習慣をつくってみると予測の精度を高めることに繋がるのかもしれない。定かではない。(それっぽいことをかっこうをつけて並べました。すみません。真に受けないように注意してください)(新作掌編:「クモツ」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429053952745)


3336:【2021/12/05*物語のタネ】
掌編のネタを探すときってほかの作家さんたちってどうしているのだろう、と気になる。いくひしさんの場合、長編は割と一貫していて構造から考える。立体的に構造物として物語の骨組みを思い浮かべるのだ。今回はじゃあクラウンの壺型にしてみるか、とか、三本の糸を編みこんだ螺旋型にしてみるか、といった具合だ。騙し絵みたいに現実には存在しない構造物を妄想して、それを物語の骨組みに当てはめてみることもある。でも構造が思いつくとそこにぴったりの物語の中身がかってに付随しているので、構造を思いつく過程で物語の中身も同時に考えているのだろうと推測される。それとも物語のタネが最初にあり、構造を立体的に展開できるものだけを長編に育てようと思考の指針を築いているのかもしれない。つまり長編に育てられそうにない物語のタネを短編や掌編に充てているのだ。ではそういった物語のタネはどうやって見つけるのか、生みだすのか、と言えば、それがけっこうよく分からんのだ。何個か手法がある気がする。けして閃くのを待つ、という感覚ではない。偶然ぽんと閃くことはそんなに多くない。どちらかと言えば、たくさんの却下案をつくって、それを下地に、同時かつ大量にそれら却下案を組み合わせて、なんとかカタチになりそうな物語のタネを見つけている気がする。これはたぶん、物語のタネを文字に変換して並べていくときにも取り入れている手法だ。いくつかの物語展開を同時に並行して考えて、分岐点ごとにこの場合はこういう結末になるから、じゃあ今回はこっちを選んでおくか、という作業を、一つの掌編をつくるあいだに何度も行っている。つねに選択肢が複数あるあみだくじを辿るような感覚にちかい。どこに行き着くかは分からないけれど、方向はある程度決められるし、どの道を進むかも選べる。選択肢をじぶんで増やすことも可能だ。そしてどの道を選ぼうとも、どこかには行き着く。いくひしさんの物語のつくり方はだいたいこんな感じだ。みなさんはどうやって物語のタネを見つけて、編みだし、物語に育て、文字に変換していますか? 気になります。(新作掌編:「段ボール箱の都市の底で」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429074183938)


3337:【2021/12/06*よわよわのよわでごめんなさい】
メンタルよわよわのよわなので、人からわるく思われていると知ると、うわーんちぬ、となるが、かといって人からよく思われても、うわーんうれちしゅぎてちぬ、となるので、どっちに転んでもちんでしまう。ちぬって何?と思ったそこのあなたは国語の成績がよいでしょう。そうよね。一字違えば違う言葉なのであって、たとえばイルカをミルカと言ったらそれはもはやイルカではない別の何かだ。なのに、赤ちゃん言葉とかかわいいかわいい言葉とかは、一字違っていてもなんとなく意味が通じる。おもしろいですよね。言い間違えとかも同じで、通じるときもあれば全然通じないときもあり、それでもそれは言い間違うシチュエーションとか、相手とか、場所の差によって通じたりしなかったりする。言葉はたぶん、みなが思っている以上に、上辺のそれそのものではない、行間というか文脈というか、文字の羅列以外の要素が情報となって意味の枠組みとか細かなニュアンスの違いを生んでいるのではないかな。そしてそれら細かな緩急や奥行きや装飾に気づけるか否かによって、同じ文章でも読み手が読み取る意味合いは違ってくる。これは文章の性質上致し方ないことである。もうすこし言えば、人間に備わった性質であり、欠点でもあり、また同時に進化のうえで獲得してきた形質でもあるのだろう。古文にしたところで、当時の人間が読んだときに得ていた質感を、現代人が掴み取るのはかなり至難に思える。文章にどんな内容が仕舞われているのかを読み解くことはできても、執筆当時に漂っていた文章の外側を流れる文脈や行間を拾いあげるのは相当に困難だ。これは外国語でも同様だし、文章以外の表現でも似たようなものに思える。畢竟、じぶんに馴染みある文章にしたところで似たような問題はつねに付きまとうものだ。作者と読者のあいだで共有可能な世界観がどれだけあるのか。或いは、どれだけかけ離れているのか。表現について考えはじめたらキリがない。しかしそれでも、それゆえに、どれだけ多くの異なる世界観や視点や解釈を備えていけるのかが、異質でありながらも文章をつむぎ、それを介して誰かしらに、「ここではないしかしどこかにはあるだろう世界の断片」を展開してもらえる余地を築けるか否かの分かれ目になるのではないか。重点になってくるのではないか。きょうのいくひしさんはそう思ったのだそうだ。定かではありません。(新作掌編:「ルンルンランラン低評価」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429094053008)


3338:【2021/12/07*眠い眠いの日】
世のなか天才ばっかりだ。次から次に見たことのないすごい人やすごいモノ、とかく魅力の塊がでてくる。でてくるというか、見ていなかっただけなのだろう。偶然に目にできただけの人やモノだけでこれほどまでに圧倒されるのだから、世界は思っていた以上に広いのだよね。世界は狭いとは稀に聞くけれど、単に視野が狭いだけなのだ。知覚できたことを事実として扱う態度はより正しいことを求めていく上では欠かせない基準ではあるけれど、しかしそもそもの話として、人間一人に知覚できる範囲は限られる。世界は広い。人間はその広い世界の極々一部しか知覚できない。触れることができない。知ることは適わないのだ。技術が進歩すれば知覚可能な範囲がすこしずつではあるけれど広がっていく。よい時代に生まれているな、と心底に思う。まだまだ世界は余白に溢れている。どれだけ目を凝らしても果てしない。探そうと思えばいくらでも楽しいがいっぱいなのである。やっぴーである。


3339:【2021/12/07*まるで分身のよう】
さいきんのガチの悩みである。本当に頭が痛い。それはたとえばこのような内容だ。私より年下の長い付き合いのある人物が、強者の理屈を振りかざしてじぶんよりも弱い立場の者たちに対して横暴に振舞う場合に、弱い立場の者の側に肩入れすると必然私がある種の権力を振るってしまい兼ねないとき(強者になってしまうとき)、どのような所作が最も好ましいのか、についてである。たいへんに悩ましい。じぶんが強者である自覚すらなくただただ寂しさが根幹にあってそれを直視できずになんだかんだと言い訳を見繕って、仲良く活動しようとしている自身よりも立場の弱い者たちを、気持ちわるい、と言って非難する者がある。のみならず、ここにきたくないやつはこなければいい、と強者の理屈を振りかざす。自身が威圧的である自覚すらない。こちらは、立場の弱い者たちが、不満に思っていることや嫌だと思うことを遠慮なく言える環境を築こうとしているだけのつもりなのだが、なんでいまさらそんな真似をするのか(いままで放置してきた癖に)、とやはりこちらにも、気持ちわるい、と非難してくるので、放置していたことを後悔しているからいまできることをできる範囲でしようとしているのだ、と言っても、そのやり方は間違っている、と反論があがるので、ではどうすればよいのか(私のしていることはただほかの人たちに話しかけてその人の得意とする技術の勘所をすこしばかり教えてもらっているだけなのだが、ではコミュニケーションを誰ともとるなと言いたいのか)、と訊ねてはみるのだが、おまえの話は矛盾ばかりだ、と相手は言い張ってばかりで埒が明かない(私の言動が矛盾ばかりに聞こえてしまったかもしれない点は否定しないが。それはそれとして、私への細かな批判はすべてじぶんにも返ってきていることを自覚しているのだろうか。していないのだろうな)。じぶんが恵まれた環境を独占している自覚もなく、他者を貶めるようなことばかり口にしている自覚もなく、本当はじぶんがしてほしかったことを、あたかもそれをみなにしないおまえがわるいのだ、と論点をすり替えて話すので(むろん私ができる限り他者に干渉しようとしてこなかった過去は事実なので、相手の主張にも一理あることは確かだが)、話し合いがそも成り立たない(私を非難することそのものが目的になっているかのようだ)。立場の弱いコたちからこちらが直接にしろ間接的にしろ、やめてくださいあなたの態度は不快です、と言われたのならまだしも、単にいつも不機嫌そうなので邪魔をしないようにそっとしておいた相手から、「さいきん気持ちわるいよ(人に話しかけるのやめたら)」と言われてしまうので、本当になんというか、どうすればよいのか分からんな。不快にさせていたら申し訳ないので、不快にさせてごめんなさい、と謝るのだが、挨拶すら無視されるので、本当にもう意味が分からん。寂しいなら寂しいとちゃんと自覚してほしい。私があなたを特別扱いしないのは、対等な存在だと認めているからだ。いまさら後輩扱いしたくないし、すでにあなたは私より優れている。むしろ下の世代の手本となるように相応の態度を心掛けてほしいと長年思いつづけてきたのだ。その思いが上手く伝わらなかったのは、けっきょくのところコミュニケーションを満足にとろうとしてこなかった私の過失だ。じぶん自身を甘やかしてきてしまったツケだと思い、呑み込むしかないのだろう。それはそれとしてあなたには自由に、好きに生きて欲しい。ただしそれは、じぶんよりも立場の弱い者たちを虐げなければ、の話だ。横暴であることに気づいてほしい。その代わりと言ってはなんだが、満足するまで私のことを、気持ちわるい、と思っていてください。謹んで受け入れましょう。以上、本日の愚痴でした。(というテイの妄想です)


3340:【2021/12/08*ごめんなさいの気分だ】
極々身近な比較的狭い範囲の観測事項でしかないが、ここ数年、よくよく思うのが、いまの十代とかそれ以下の子どもたちのほうがよっぽどおとなだ、ということだ。年齢が上になるほど幼稚(横暴で我がまま)になっていく。下のコたちは年上を敬ってくれるのに、どうして年上は年下のコたちを敬わないのだろう。そこは構図が逆だろう。優しい人ほどいなくなる。ともすれば、他者を蹴落としても心の痛まないような人間が生き残りやすい土壌が築かれているのかもしれない。そんななかで活動しつづけていられるいくひしさんも十二分に幼稚で、狡猾で、汚い、歳だけを重ねた餓鬼にすぎないのだろう。哀しい。


※日々、嫌な記憶だけ引き受ける、明るいあなたはそのお陰、その名は忘却、あなたのための空白余白緩衝材。


3341:【2021/12/08*ずるずる】
ここ二十日間くらいはだいたい二十三時くらいから掌編をつくりはじめて、日付が変わる前にnoteさんにつくりかけのまま更新して、ひとまず毎日更新を継続している格好を保っているけれど、ふつうにズルですよね。そうなんです。わがはい、ズルなんです。もはやズルズルなので、滑り放題なので、いつでもどこでもフィギュアスケートができます。ポーズを決めたらすかさず唱える、「アルミ缶のうえにある機関」「ちっこすぎやろう」のツッコミも不発で、盛大に滑り倒すのです。ズルズルなんですね。それとも深夜なのにラーメンを茹でちゃって、どんぶりに盛っちゃって、塩分濃度などおかまいなしにズルズル啜っちゃったりもしちゃいます。なんて贅沢なんだ。さすがだいくひしさん。やっぴー。いっぱいじぶんを褒めたらちゃんとバランスをとるためにこんどは、そんなんだからまんちゃんは、と苦言を呈し、お腹ぷにぷにがもっとぷにぷにでとってもかわいくなっちゃうんだよ、とやっぱり褒めてずるりとこけて、ズルいズルい、と四方八方から野次が飛ぶ。そこはしかしさすがのいくひしさん、そんなの知ったこっちゃないと野次の嵐も馬耳東風、これっぽっちも気にしない。だってもういっぱいいっぱいなんだもん。かわいこぶって、全方位からの全肯定をもらおうと企む本日のズルズルないくひしさんなのであった。否、べつにズルくはない。だってかわゆいのは本当だから。そうなんです。わがはいかわゆいんです。平然と吐いた嘘で、生地をつくって叩いて伸ばして切って茹で、ズルズルと食べてしまうズルの二乗のいくひしさんであった(ずるずる伸ばしすぎやろう)。


3342:【2021/12/09*活用の幅と著作権違反】
ダンスに音楽は不可欠だ。しかしダンサーが自作の楽曲を使うことは分野全体から見れば極わずかと言える。その点でいえば、インターネット上にダンス動画を投稿している者の大半は著作権者に無許可で楽曲を使用していると言えるだろう。だがダンスという文化は、音楽の使用を禁じられたら即座に弱体化する。その場合、文化が育まれることはないと言えるだろう。とはいえたとえ禁じられたところで、著作権フリーの楽曲を提供するダンス好きの作曲家もでてくるだろうし、現に存在するので、即座に滅ぶことはないはずだ。しかし発展はしづらくなる。それは避けられないだろう。また音楽の分野からしても、まったく見向きもされない楽曲が日の目を見るための一つの手段としてダンス動画に利用されることはメリットがある。ただし、では無断使用を必ずしも黙認せねばならないのか、と言えばそんなことはなく、著作権違反だ、と親告することは作家に認められた権利だ。しかし基本的に著作権(に限らないが、権利と)は、公共の福祉の観点が加味される。総合して社会の文化を損なうような権利の行使は、むしろ認められない場合もある。これまでの社会では技術が未熟だったので、楽曲の無断使用が氾濫すると、直結して音楽の分野の衰退に繋がった。しかし現在は少々趣が異なる。たとえば企業がダンス動画への楽曲の無断使用を厳格に規制したとしよう。そうすれば、ダンス文化はけして浅くないダメージを即座に負う。それを知っているからこそ、企業はある程度のお目こぼしをしていると言えるだろう。ひるがえって、特定のダンサーに対して楽曲の無断使用を理由に著作権違反をつきつけた場合、もうその企業はその楽曲を全世界のほかのダンサーたちにも使わせないと示したも同然と言える(よほど悪質な場合は除くにしろ、一つがダメならほかもダメだろう)。仮に裁判になれば、企業が著作権違反者に負けることはない。しかし勝訴すれば当然、その企業はもう二度と自社の楽曲を、ダンス文化における動画投稿に無断使用されることはなくなるだろう(判決の解釈上、そういう流れができてしまう)。となれば全世界のダンサーがその曲で踊るメリットは激減する(なぜなら踊った動画をネットに投稿し、互いにシェアしあう真似ができなくなるからだ)。そのときに生じる損失を天秤に載せれば企業は、フェアユースとして、或いは引用の範疇として、ダンサーに対する音楽の無断使用をある程度は許容する姿勢を示しても、情報技術が発展しつづける現代社会におかれては、長い目で見れば得をすると言えるのではないか。歌ってみたにしろ、リミックスにしろマッシュアップ作品にしろ同様だ。どれだけ広く長く多く楽曲を聴かれるか。あらゆる動画のトータルでの視聴回数が収益に結びつく時代である。いかにみなに活用してもらえるか否かが、これからの時代におけるコンテンツビジネスの天王山となっていくだろう。商品単体で売れなくともよい(もちろん売れてもよいが)。活用の幅を広げるのである。(我田引水な理屈ですね。無断使用は基本的には著作権違反です。真に受けないように注意してください)


3343:【2021/12/10*とても平穏】
やっぱり孤独が一番だ。とってもおちちゅく。うれしー。(新作掌編:「庭の下に、いる(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429127846615)」「ピコピコとロクブテ(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429149393985)」「ラジカセの怪(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429172391606)」)


3344:【2021/12/10*見て見ぬふり】
ひょっとして世界平和って本気で望めば望むほど日々の安寧からは遠のくのでは? たとえば本当に真実に誰も虐げられず、損なわれず、不公平な扱いのされない環境を目指すとするのならば、この世から一人もそういった困窮者が現れないように目を張り巡らせつづけなければならないし、この世のどこかでは傷ついている者がいるのにそれを差し置いて、日々を幸せに過ごすことは、本当に真実に世界平和を目指している、とは言えなくなってしまうのではないか。飢えで苦しんでいるひとの目のまえでパンを食べるのはダメだが、じぶんの手の届かない、目の触れない遠い場所で苦しんでいる人に対してならば我関せずでパンを頬張ることができてしまう。しかし本当に真実に世界平和を目指すのならば、困窮者との距離に関係なく心を配るべきなのではないか。だがそんな生活は疲れてしまう。本当に真実に世界平和が実現されるまで――つまり誰一人として損なわれることのない世界が訪れるまで――人々は誰一人として日々、本当に真実に幸せになれることはなく、またつねに罪悪感を覚えてしまい兼ねない。否、それを強制することこそが、本当に真実に世界平和を望み、目指すということでもある。裏から言えば、本当に真実に世界平和の実現を目指すのならば、全世界の人間がみな同じように日々罪悪感を覚えながら、この世のどこかにいるだろうじぶんよりも恵まれない相手のことに心を配り、ときに手を差し伸べ、或いは何もできないことに申し訳なく思いながら生きるほかに術はないのかもしれない。むしろどちらかと言えば、ここがスタートと言えるだろう。本当に真実に世界平和を望み、目指そうとするのならば、我々はみな一様に、いまある至福を手放すはめになる。これは、みな一様に不幸になろう、とは違う。たしかに本当に真実に世界平和――みなの至福を望み、目指すのだが、結果的にはみな一時的に罪悪感に囚われるがゆえに、至福に思えたはずの日々を手放すはめになる。しかしそのさきにしか、本当に真実の世界平和なるものは現れないのかもしれない。ともすれば、そうした罪悪感を一時的に一部の人間たちに押しつけ、世界平和のために働いてもらうことで、ゆっくりとではあるが世界平和への実現には近づけるだろう。しかし世界平和が実現されるまでには、そうした者たちの犠牲が嵩むだろう。つまり、世界平和を望んだがゆえにここでも不幸になる者がでてくるということだ。一部の者に破滅級の負担を押しつけるか、みな一様に日々罪悪感に苛まれるか。どちらかを選びとらねばならない、となったとき、あなたは罪悪感に苛まれる日々を選べるだろうか。いくひしさんは、その自信がない。ときには、隣人が苦しんでいるのを知りながら、隣の家のことは知りません、と映画に漫画に小説を無我夢中で貪りたい。本当に真実に、心の底からひどい人である。


3345:【2021/12/11*休み休み、進み進め】
休み休みの重要性たるや。要は、代わりばんこであり、穴埋めであり、火の番であり、バケツリレーなのだね。(新作掌編:「ギリーチュの刺身」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429176948212)


3346:【2021/12/11*言うだけならこんなに簡単】
基本的に人類社会はつぎのルールを守れば、ひとまずの急場は凌げる気がする。「1:じぶんより弱い立場の相手には配慮する(弱い者いじめをしない)」「2:じぶんがどのような場面だと強者になってしまうのかを知る(じぶんが弱い者いじめをしていないかをつど周りを見渡し、確認する)」「3:そのための視点を増やす仕組みを築く(弱い者いじめを防げた成功例や、或いは防げなかった失敗例を、みなが広く学べる技術があるとよい)」 ルールの1と2はとくに説明はいらないだろう。じぶんよりも弱い立場の者に目を向け、虐げないようにすればいい。そしてそのためにはじぶんがどのような場面で虐げる側に回ってしまうのかを知れるとよさそうだ。最初は虐げられていた側だったのにいつの間にか虐げている側に回っていた、なんてことは人間、生活していれば往々にしてあるものだ(たいがいは、誰かに虐げられながらほかの誰かを虐げているものだ)。その分岐点を知るためにも、どのような条件下であるとじぶんが強者になってしまうのかを知れるとよい。そのためには、さまざまな視点がいる。そしてそれを広く自由に見聞きできる環境があるとよさそうだ。情報社会の発展は基本的に、視点と解釈を生みだし広げるために促されてきたと言えるのではないか。だが、それでも防ぎきれない衝突もある。問題もある。諍いがある。ルールを守ってなどいられるか、と人々を掻き立てるものがなんであるのか。それは果たして真実に、資源や土地や価値観の相違によるものなのか。まだまだ掘り下げ、培い、広げ、残していくものはありそうですね。(定かではありません)(新作掌編:「マスクの灰が降る」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429225252415)


3347:【2021/12/12*群れなさぬ蟻でいたい】
役に立つか立たないか、とか、利になるかならないか、とか、そういう視点でしか物事の善し悪しを測ることのできない社会にはなってほしくないと本日のいくひしさんは思ったのだそうな。(誰の役にも立ちたくないです)(いくひしさんごときが人の役に立たずに済むような社会に早くなってほしいと望みます)


3348:【2021/12/12*当意即妙自由自在につむぎたい】
理想の世界を描こうと思ったことはない。頭のなかにある物語を理想通りにつむぎたいとは思っている。つまり、いくひしさんのつむぎだす物語のなかに理想の世界は一つたりともないと呼べる。現実がそうであるように、いくひしさんのつむぎだす物語のなかでは、誰かが誰かを傷つけているし、差別をしている。常に何かが破壊され、ときに誰かしらが損なわれている。おおよそすべての主人公たちは誰かしらを意識的無意識的にかかわらず傷つけているし、損なっているし、他者の存在を脅かしている。そういう世界が理想なわけがない。しかし、そうした理想でない「ここではないしかしどこかにはあるだろう世界」の断片を、思い通りに自在につむぎだしたい、とは思っている。繰り返しになるが、いくひしさんのつむぐ物語は、けして理想の世界ではありません。この現実がそうであるように。しかしそれがけして絶望だけでも、悲劇だけでもないように。


3349:【2021/12/12*傲慢でごめんなさい】
つねに他者に救われている。人を殺さずにいられるのは周りの人たちのお陰だし、命の危機に怯えずに過ごしていられるのは見も知らぬ人たちを含めたもっと多くの者たちのお陰だ。健康な身体も、温かいお風呂に浸かれるのも、体調を崩すほどの飢えに苛まずに済むのも、全部全部いくひしさん以外のみなみなさまのお陰なのである。いくひしさんはそうしたたくさんの配慮に支えられて安全に日々を過ごせている。本当にありがとうございますですし、みなみなさまのお役に立てず、何も返せないことを日々心苦しく思っておりますが、それはそれとして、とってもかわいいわがはいが毎日のほほんとなまけながら生きている姿を以って、対価と思っていただけたらさいわいです。(ダメですか?)(ダメに決まってんだろクズヤロー)(うひひ)


3350:【2021/12/13*害悪】
干渉せずにいれば遠からず滅ぶだろうな、と丸分かりの群れに対してしてあげられることは存外にすくない。第一に、じぶんにとって大きな損である。手を出して、もしそのまま助力が足りずに群れが滅んでしまえば、じぶんのせいだと周囲に思われる。滅びのきっかけをつくったと思われてしまうのだ。本来ならば何もせずとも滅んだにも拘わらず。延命処置には成功していたにも拘わらず。また、滅びへの予感は群れのなかには閉塞感として充満している。危機感すら麻痺し、ただただ険悪な雰囲気が増していく。荒んでいるのだが、それにすら無自覚だ。比較対象がないからである。ほかの繁栄している群れとの接点がなさすぎる。そうした滅びの危機に瀕した群れを救うには、ほかの群れとの交流が欠かせない。だが険悪な空気が充満した群れと誰が関わりたがるだろう。中には敢えて部外者を遠ざけるために、そうした偽装を施す群れもある。そうした群れはむしろほかの群れに縋られるのを拒むために敢えてそうしているのだ。だが多くの群れは違う。そのまま滅ぶのだ。単なる個へと回帰し、散り散りになる。群れの中にあった秩序は瓦解し、霧散する。滅びへの対処は二つだ。外部の群れと交流し、支援を受けるか、そうでなければ世代がすっかり変わって内部の流れが変化するかを待つしかない。そうでなければ徐々に衰退しながらやはり滅ぶ。だが群れの内部に変化をもたらすには、相応の覚悟と負担がいる。それをする者にとってはむしろ損であり害だ。ほとんど自殺行為と言っていい。ゆえに多くの部外者は、滅びゆく群れを目の端に捉えながらも干渉せずに、滅ぶのをただ待つのである。利口な選択である。だがときとして荒廃した群れが暴走し、よその群れを襲うこともある。そうならないようにやはり距離を置いて様子見しておくのが賢明だ。だがここで、ふと思う。それが果たして人としての最善だろうか、と。それを善しとしつづけてしまうのは何かが根本的に歪んでいるように思うのだ。目のまえの滅びゆく群れは救えないかもしれない。だがまだ滅びへの道を転がりはじめたばかりの、傾きはじめたばかりの、比較的すくない支援や交流で立て直せる群れもある。そういった群れに対してならば最悪の事態を回避するための術を授けられるかもしれない。だがやはりここでも、感謝はされないだろう。それをしなかったところで滅びの道へと突き進んだかどうかは分からないのだ。基本的に、予測による救済は感謝されず、恩と見做されない。余計なお節介であり、介入であり、自由の侵害だ。そうした害になってでも手を差し伸べたい、と思えるような群れに対してのみ、人はおそらく肩入れするのだろう。干渉するのだろう。干渉しなければ遠からず滅ぶからだ。だがべつに滅んでも、それがじぶんの属する群れでなければ悪果が一つ消えてくれたと解釈することも可能だ。荒んだ環境が目のまえから消えてくれる。わざわざ燃え盛る森に飛びこみ、水を浴びせて回らずともよい。だが、そうせざるを得なくなる思いに衝き動かされるときが、生きていれば一度くらいはありそうだ。そのときはじぶんが害悪となり、なんの利もなくただ動くことになるだろう。損である。しかし損ではない。矛盾した行動のなかにしか真に人間らしい働きは宿らないのかもしれない。定かではない。



※日々、強者になりたがる人が多すぎる、せめてそこはつよさを求めて欲しいところだ。


3351:【2021/12/14*あとはもう延々と衰退】
物語創作家としてのいくひしさんは、おそらくもうすでに全盛期を過ぎていて、いまは過去に蓄えた技量を食いつぶしながらかろうじて創作家をつづけている、みたいな状態です。表現はそのときどきに生じる渦みたいなものですから、どの時期の表現が最も優れているか、という考え方はあまり好まないのですが、そうは言ってもやはり、もう二度とその領域には立てないだろうな、と思える時期もあり、それはもういくひしさんは過ぎてしまったと考えています。ただし、全盛期というのは、生き物でいうところの産卵期や繁殖期のようなもので、ひょっとしたら一生のうちに何度も訪れるようなものなのかもしれませんし、たった一度の産卵で力尽きてしまうこともあるのかもしれません。産んだ卵がその後に孵るのかも分かりませんし、たとえ孵ったところその雛がどれくらい長生きするのかもまた分かりません。ただ、卵の未来に関わらず、いくひしさんはいくひしさんとして生きつづける限り、なんらかの表現をつづけていくのだろうなぁ、というのはぼんやりと予感できています。それが文字を使った表現であるとは限らないのですが、そのときどきに生じる渦を目にしたいがために、きっとそれを何かしらの流れに載せて、五感のいずれかで以って再生できるようにこの世界に刻んでいくのだと思います。刻まれた何かしらは、傷跡とは違います。それとも傷跡ですら何かしらの流れの余韻にすぎず、変化の来歴であり、変遷の過程でしかないのかもしれません。表現とはすなわち、「私」という存在の変化が生みだす、抵抗の余韻であり、異質そのものであり、世界の流れに一瞬現れては消える渦であり、ゆらぎなのでしょう。命そのものがおそらくきっとそうであるのと同じように。それとも物質、或いは宇宙そのものがそうであるのと似たように。(定かではありません)(並べることがない日はちょっと詩的に感傷的な文章を並べるとすらすらいきやすいです)


3352:【2021/12/15*いっぱい衰える】
あ、ちなみにいくひしさんの全盛期は初期作「R2L機関」をつくっていたときなので、いっちばんはじめに大作を手掛けてからずっと衰退しつづけているんですね。初期作の残滓を貪ってなんとか生きながらえている、みたいな感じかもしれません。でも生命なんて本当はどれもみなそんな具合だったりするのかもしれませんね。(新作掌編:「月はマシュマロのように(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429240854273)」「コーヒー眠気退散(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429274177899)」「飼い犬にはご褒美を(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429298891768)」)


3353:【2021/12/15*ほわほわぐーたらぽん】
本日は細胞たちがぐーたらぽんの日なので、同じく文章たちもぐーたらぽんしてたいそうである。いくひしさんはとっても素晴らしくやっさしーので、ぐーたらぽんを許可するでござる。いっしょにぐーたらぽんしちゃう愛嬌まで持ち合わせてしまうので、本当に人気者で困っちゃうでござるな。だーれもいない室内で、人気者のフリをして虚しくないんですか、と思った人はいるでござるか。やめてほしいでござる。非情な現実を突きつけるのはやめてほしいでござる。いくひしさんのメンタルは百年放置したマシュマロ並みにボロボロでござるから、ちょっとの刺激でズタボロでござるから、細心の注意を払って褒めてそやして、うやまいおだてて、崇めたてまつるがよろしい。調子に乗りましたすみません。もうなんか、ふわふわしてたい。みんなももっとふわふわしたらよいのに、と得手勝手に思ってしまうな。みんなちょっと賢くなりすぎだ。もっとあんぽんたんでーす、の気持ちで生きてもいい気がするのだけれど、ダメなんじゃろか。さいきんは気のせいかもしれないけれど、いくひしさん、他者への影響力を持ちすぎている気がして、逃げ回っている気分だ。といっても、いままでゼロだったのが紙きれ一枚分の厚さだけ他者への影響力を持ってしまった、みたいな感じなので、さほど変わらないと言えば変わらないけれども、否応なく歳だけはとるので、気づくと周りに年下が増えていく。本当にずっと雑魚でいたい。道端の小石みたいに、「え、そこにいたんですか」みたいな存在でいたい。透明人間になりたい。風に舞う枯れ葉みたいに、それとも季節外れに彷徨う一匹の蟻みたいに。世界の端っこのほうで誰もいない場所でほそぼそとしているので、どうぞいくひしさんにご遠慮なくみなさんお好きになさってください、の気分だ。優しい人が多いので、気を使ってもらってばかりなので、ありがたいよりも、申し訳ないな、の気持ちがつよくなる。かといって恩返しをしたいわけでもないので、むつかしいな。やっぱり引きこもっているのが正解な気がしてきてしまうな。言うほど他者の気持ちを気にしているわけでもないけれど。わいは好きにするで、の根性である。わがはい、根が傲慢なのである。(新作掌編:「カビの滝」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429320039224)


3354:【2021/12/16*理性も感情のうち】
合理的な思考を突き詰めていくと、すくなからずの問題解決の手法には、排除の理屈が妥当となっていく。しかし人間は感情を優先させて行動選択をする性質があるので、合理的な思考による手法だけを選択しつづけることが人間の構造的にむつかしい。そうなってくると、感情を考慮に入れたフレーム内での合理性が追求されていくこととなる。そのときに有効なのが、排除の理屈ではなく、協調性の理屈の採用なのだ。だがそのとき、合理性における正誤ではなく、感情による好悪を判断基準の基盤に置いてしまうがゆえに、感情から派生する排除の理屈が大多数に支持されてしまうことが稀にでてくる。言い換えるならば、排除の理屈を採用しないで済むように感情による判断基準を取り入れたはずが、稀に、不採用であったはずの排除の理屈が採用されてしまうことがでてきてしまうのだ。それを制御するためには、感情優先ではなく、あくまで合理性優先の思考の仕方をしなくてはならず、感情はその合理的思考の方向性を決める舵取りの役割を担うくらいがちょうどよいのかもしれない。べつの言い方をするならば、感情を排除せずに問題解決の筋道を考えるとすると、まず規定されるのが、排除の理屈を極力採用しないようにする、という前提なのである。排除の理屈を採用しないようにしましょう、という合意は本来、合理的な思考から導かれる必然ではなく、あまねく本質的に感情による価値判断なのである。そうでない場合、つまり人間が十割合理的判断による行動選択をとれるというのならば、社会秩序を保ちできるだけ長く個の至福を大多数に及ぼすための最適解は、社会の害となった時点で自ずから排除されることを選択する、となる。だが人間はそれを受け入れることができない。感情があるからだ。本能がそれを許さない。ゆえに、合理的な思考だけによらない、感情を指針とした理屈の構築が、社会秩序を保つためには有効なのである。感情を度外視した理屈は、理性ではない。なぜなら理性もまた感情のうちの一つなのだから。なぜ、と疑問するその心の働きは感情である。そしてその、なぜ、から理性の芽が萌えていく。人間が感情の働きを尊重し、自由に物を考える社会を求めつづけるのならば、どのような問題に対しても、排除の理屈を肯定しないほうが好ましい。ときには致し方なく選択することもあるだろう。しかしそれはやむにやまれずの選択であり、けして肯定できる事柄ではないのだ。人類が感情を切り捨てない判断をしつづける限り、おそらくこれは有効な前提条件となるだろう。定かではない。


3355:【2021/12/17*まいったの巻】
長く芸事をつづけていればいるほど、上手いとか下手とかの区別はなくなって、ただただこれまでになかったかどうか、新鮮かどうか、気持ちよいかどうか、が善し悪しの基準になってきてしまう。同時に、同じことを自在に再現できるようにする、操れるようにする、というある種の現状維持をいかに保つかの工夫そのものが遊びの一つにもなってくるので、飽きないと言えば飽きないし、自己満足と言えば自己満足の世界に否応なく足を突っ込んでしまうのかな、とここ数日は思いはじめている。ただ、新しいことをしたいのなら、それこそ苦手だったことや嫌厭していたことに食指を伸ばせば、それがそのまま新しいことになるので、ではどうしてそうしないのか、については、思考に枷をはめているから、と考えるよりなさそうだ。けっきょく、本当には新しいことをしたいわけではないのだろう。なるべく馴染みのあるもののなかから選んでいる。挑戦するとはいえど、いちど手に取ってみたことのあるもののなかで、との注釈がつくのだ。まったく自由とは程遠い。知らないことが多すぎるというか、もうさいきんはこれまで何かすこしでも知ることができたためしなどあったろうか、というレベルで、じぶんの無知さと非力さと無力さを痛感している。知識はおそらく最弱だ。しかしダークマターがそうかもしれないと考えられているように、いかに微量であろうと大量にあれば、総合して大きなチカラとなり得る。知識は最弱だが、質量という名の物理法則を無視できるがゆえに、(物質に比べれば)大量に蓄え、繋げ、編み、展開することができる。したがって、知識は最弱だが、最強にもなり得る。(えっと、なんの話ですか?)(冒頭の話題はいずこへ?)(もうきょうはこれで勘弁してください)(まあ、いいですけど)(何もかもが定かではない本日の「いくひ誌。」でした)(あびゃびゃ)(おどけて煙に巻こうとすな)(ひひ)


3356:【2021/12/18*トホホのトホホってなんじゃいよ】
もう完全にいまは文章の積み木遊びには飽きちゃったの時期なので、出力低めでお送りします。もうだいぶ長い期間、なんも並べることない、の気持ちで日々を過ごしているのですが、なんでこんなにカツカツのピンピンなのだろうといま数十秒くらい考えこんでみたのですが、たぶん世の事柄に関して、結構な割合で本心の奥底のほうでは、どうでもいいわ、の気持ちがあって、だからすべてがどうでもよいので、言いたいことも並べたいこともとくにこれといって見つからないのかな、と思いつきました。ただ、その本心の奥底を囲うように、さまざまな疑問が分厚く層をなしているので、それらを砕いてみると、ちいさな砂利のようなものになり、それを一粒一粒並べていくと偶然にもこうして文字の羅列になるのかなぁ、といった塩梅がありますが、なにもかもが口から出まかせの定かではないマンの戯言ですので、真に受けないように注意を喚起し、これにてぐっと気温の冷え込んだ夜の日誌とさせてください。どう? 中身のない内容でもこうしてとにかく文字にして並べてみるとけっこうな文字数になるんです。どんな事柄に対しても、ひとまず、「なんで?」「なにゆえ?」「どないして~」と疑問符をぶつけてみますれば、砕けた事象が文字になって、文章の紋様をなす粒子になるのでございますね。ひとまず悩みがあったら、どうしてそう思うのか、なぜ悩みになるのか、何に困っていてどうすればよいのか、を文字にして並べてみたら、それなりに読み物としておもしろい文章になりそうですね。それとなく、わがはいの文章は読み物としておもろいかもよ、と醸しつつ、本日の「いくひ誌。」とさせてください。ではおやすみなさい。(新作掌編:「呪いを祓う呪詛を吐く(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429342545392)」「墓石に華を添える(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429368822479)」)


3357:【2021/12/19*あっぷあっぷ】
ピタゴラスイッチみたいな物語構造の小説が好きなのだけれど、そういう物語構造の小説は基本、中編以上の比較的長い小説でないと表現しにくいので、つくるのも読むのもたいへんだ。でも好きだから、そういうのが好きなんです、とは言っていきたいし、読んでおもしろかったら、これですこれこれ、というのも言っていきたい。とはいえ、なかなか出会えるものではないし、じぶんでもなかなかつくれないので、どうしたもんかなぁ、と悩んでいるうちに時間だけが経過する。掌編や短編でもそういうのがつくれないだろうか、と試行錯誤をしてはいるものの、ピタゴラスイッチというよりかは、ひたすらスイッチを押しているだけ、みたいな単調なつくりになってしまって、惜しいなぁ、の感覚が抜けないのだよね。いちおう、長年温めている物語構造があるものの、力量が明らかに足りないので、ひとまず掌編短編を千作つくってみて自力を培ってから挑戦しようと思っています。とか言いながら単にめんどうなので、簡単に満足感の得られる掌編や短編に逃げているだけなのだよね。でも逃げるのがわるいとは思っていないので、いくらでも逃げちゃう。掌編や短編は、どこでもドアみたいに手軽に旅に出て帰ってこられるので、日々の息抜きにぴったりだ。読むのもつくるのも好きです。さいきんは以前に比べるとわりと頻繁に掌編や短編の詰まった本が出版されているので、書店さんにいくと陳列されているので、とくに文庫本でも目につくようになってきたので、うれしい限りだ。いっぱい読んじゃお。好きな好きがいっぱいで好き好きです、の告白を以って、きょうもきょうとて中身のない本日の「いくひ誌。」とさせてください。します。しました、でした。(新作掌編:「汚れたキミを見ていたい」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429395983310)


3358:【2021/12/20*だってモテないんだもん】
いくひしさんは生まれてこの方、恋人がいなかった人なので、もちろん誰とも恋人らしいことをしたことがないのですが、いくひしさんがモテないのはいったんよこちょにおいとくとして、そもそも恋人とか伴侶とか、そういう相手を一生に一人にしか決めちゃいけませんよ、というのは、単純な話として、なんか変じゃない?と直感で、第一印象で、まず何よりさきに思ってしまうタイプなのですが、たとえばお友達はたくさんいたほうがよいよ、みたいな風潮がありますが、これはこれでどうよ、とは思うものの、まあ別に禁止するほどのことじゃあないよな、という点ではそうですね、と納得できるのですが、じゃあ何ゆえに恋人はたくさんつくっちゃああかんのよ、という点では、なんでなの、とどうしても思ってしまうのよね。ただいくひしさんは、一途なひとのほうが好きですし、いっぽうで浮気とか不倫は、関係者すべてが合意のうえでならよいと思うのですが、それはたとえば不倫相手の配偶者とか子どもに内緒でそれをするのなら、それはしちゃあかんくないか、とは思います。話がとっちらかってきたので脈絡を正しますが、そもそも友達と恋人の違いってなんなんよ、の疑問はけっこういつも頭の表層のどこかしらにピリリとあって、いわゆる恋人にはしてよくて友達にはできない、という行為の有無を以って双方を線引きできそうなものの、じゃあ恋人にしかできない行為を友人関係の範囲でしちゃいましょう、みたいないわゆるふにゃららフレンドみたいな関係性もあり、反対に恋人同士でもほとんどお友達と変わらんやん、それもうほとんどきょうだいやん、家族やん、みたいな関係性もあり、もうもういくひしさん、わけわからんのですよ。世の中、どないなっとんねん、の大合唱でございます。恋人ってなんなんよ。お友達ってなんなんよ。ああもう、おまえらみんなわがはいの恋人でありお友達や、それがいやならもう知らん、あっちむいてほいや、の気分でござるけれども、まあまあふつうにいくひしさんの癇癪に付き合わせるのもわるいので、いくひしさんとお付き合いさせるのもわるいので、そこはもうもういくひしさんのほうで世の果てにて、引きこもっているのが筋なのかな、というか、ホントわからんことばかりで、あばばばー、となってしまうので、ホントにホントに独りがホっとします。みなさん、よく耐えられますね。その頭の良さと忍耐力をいくひしさんにも分けて欲しいです、と願望を吐露して、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。おやすみなさい。


3359:【2021/12/21*人望も人脈も学びとは関係ない】
土を耕し、種を蒔き、萌えた芽がある程度育てば、あとは好きにしてください、とほかの土地を耕しに行く。そういう行動原理を持つ人間は、他者と他者を繋げる接点にもなるが、しかし仲介者ほどには直接に表立って動かないので、おおむねその環境のなかでは高く評価されることはない。というよりも、高く評価されるような人間では、そうした陰に回って土地を耕し、芽を萌やし、放置していても豊かに自在に草花の育つ環境を築く真似はできないのだ。過干渉せずに、雑草を抜き、水をやり、ときに枯れそうな芽には栄養をやり、自ずから暴風雨に襲われても全滅しないような堅牢な盾となる。あくまで環境を整えるだけなのだ。個々に過干渉はしない。だがすくなからずの玄人は、素人を育てるときに過干渉しすぎる。手取り足取り教え、何がダメで何がよくないのかまで教えこもうとする。それでは技術しか育まれない。閃きや、試行錯誤の楽しみを培えない。だから一定以上までは短期間で上達するが、先輩や師の器を越えることができない。壁にぶつかり、やめてしまう。学ぶことと習うことは違う。習ってばかりでは、じぶんで新しい何かを創造するチカラが培われない。どんなに時間がかかってもよいから、自力で問題点を見繕い、改善し、発想し、試行錯誤し、壁を突破する経験を積みあげていかないことには、そういった学ぶ技術は身につかない。学ぶ技術は教えることができない。学ぶ楽しさを知ってもらうよりないのである。そのためには、習うだけでは足りない。むろん、習うことで、学ぶための基盤を敷くことはできる。ゆえに学ぶためには、習うことも欠かせない。しかし、学ぶことを抜きに、既存の技術を体得することを目的にしてしまうと、短期間で周囲からの高評価は得られるようになるかもしれないが、そこそこの高評価で、しだいに評価されなくなり、やがてはその分野から離れることになるだろう(評価されることを目的にしてしまうから、見抜きもされなくなっただけのことでやめてしまう)。そういう、才能やセンスのある人物をすくなからず目にしてきた。共通しているのは、みな習うことばかりに集中して、学ぶ姿勢が欠けていた点だ。学びは、万物から得られる。この世のあらゆる事象が学びの源泉だ。同じ分野にしか目を向けなければ、それは習いごとでしかない。書初めと同じだ。お手本をなぞっているだけなのだ。そのことに気づけるか否かが、学びつづける者とそうでない者との決定的な差となって表れるのではなかろうか。いくひしさんはその差があることは理解しているが、学ぶことが苦手なので、なるべく学んでいきたいな、と思っているばかりの、お手本なぞりちゃんである。それはそれで楽しいので、飽きるまでは、あれやこれやと試しつつ、微々たる学びであれ体現できたら御の字である。(定かではありません)(新作掌編:「手から納豆の糸がでる」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429446297968)



3360:【2021/12/22*朝じゃん】
今年つくった分の物語、ほとんど推敲できていないので、初稿のままWEB上に載せてしまっており、読者さんに誠実でなくて申し訳ないな、と思いながらも、そんなこと言ったっていくひしさんの肉体は一つしかないのだから、いっぱい遊ぶ時間を確保するには、そうしなくちゃだししょうがないじゃんね、の開き直り具合で、いくひしさんのかわいさに免じてご容赦いただけると恐悦至極でございます。ありがとうございます。ありがとうございます。つくりかけばかりが溜まっていくいくひしさんでございますが、宇宙のように広く豊かで深淵なるお心をお持ちの読者さまばかりでいらっしゃるので、いくひしさんはその神さまのような慈愛に思う存分甘え放題で、日々をのほほんとほんわかとときに激しく美しく過ごさせていただいております。ありがとうございます。ありがとうございます。わがはい、生きるのへたくそでござるけれども、読者さんにだけは恵まれておるので、本当に運がよいでござる。いくひしさんはべつにあなたがおらずともかってに物語を、うんうん呻りながらもひねくりだせてしまいますが、それはそれ、これはこれ、読者さんのお陰で画竜点睛、物語が作品として完成いたしますので、真実嘘偽りなく、とってもサンキューなのでござるよ。うは。いくひしさんの関係ないところでどうぞ、好きなだけしあわせになってください。なりましょう。よろしくお願いします。お願いしちゃうなんてなんて謙虚なんだ。さすがだいくひしさん。きょうもとってもかわいいね。おはよう。寝ぼけたこと言わせたらこの上なし。本日もよいお日柄で。朝から厚かましい、いくひしまんでした。(新作掌編:「怖いことすんな(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429466902366)」「瞋恚の息吹(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429491466049)」)




※日々、わがままばかりで申し訳ない、などと殊勝に胸を痛めつつも、とくにこれといって変わろうと努めるわけでもないけれど。


3361:【2021/12/23*申し訳なく思ってるだけですみません】
いくひしさんは今年、たぶんだけれど百四十作ちかく掌編短編をつくったようだけれども(二〇一八年からの三年間で五百作以上をこさえたようでもあるそうですが)、しかしこれはいくひしさんがアマチュアだからできることであって、好きなときに好きなものを好きなように好きなだけつくることをじぶんに許しているからであり、仮にいくひしさんがプロになれたとして、プロとして創作をしはじめたとしたら楽観的に見積もってもいまの五十分の一くらいしかつくれなくなると思います。それだけプロで活躍するにはプレッシャーがかかりますし、乗り越えなければならない艱難が多いのですよね。いくひしさんは重圧に弱いので、よわよわのよわちゃんなので、かたつむりさんの触覚よりも敏感ちゃんがために、ちょいと圧に触れるだけで、ぎゅぎゅーん、と縮こまって殻に閉じこもり、雨が降るまでもうでん、みんながいなくなるまでこのままや、みんななんか知らん、と鉄壁の引きこもりと化しますので、まあいまも引きこもりという点ではそんなに変わらんと言えば変わらんのですが、本当になんというか、プロで物書きをしていらっしゃる方々の強靭な精神力と経験値の高さ、加えて、重圧をそいやそいやと捌いて、避けて、ときに受け止める器の大きさには、いくひしさん、悔しさのあまりにムッキー!と干し芋を食い千切りながらも感嘆するばかりなのでございます。本当にすごいと思います。真似できませんし、そんなにたいへんな思いしてまでどないしてー、と若干引き気味でごじゃるが、がんばれがんばれ、と遠い星から声援を送ってばかりの益体なし。お役に立てず、かたじけのうござる。しかしそこはさすがのいくひしさん、しょんぼり肩を落としたさきから、もういいかい、とみなみなさまの顔色を窺い、渋々許しをもらい受けたら、うひひ、と反省の色を脱ぎ捨てて、お外に飛びだし、雪遊びをはじめちゃう。雪だるまに雪合戦、カマクラつくって潜って、立って崩して、シャベルで潰して、圧し固める。そしたら最後に滑り台にしてほっかほか。身体が汗ばんできたところで、お風呂に浸かって、はふはふぴゅーん。しゅあわせってこういうことよ。あしたは何して遊んじゃおっかな。わくわくしながらふかふかおふとんにモゾモゾとくるまり、夢のなかでも遊んじゃう。そういう日々を送れたらよいのにな。甘っちょろい妄想を浮かべて、寂しい気持ちに蓋をする。じっくり熟成させたらほぉら、珠玉の孤独のできあがり。これこそ物語の材料だい。ガラクタを宝物みたいに取りだして、矯めつ眇めつ眺めまわして、さあてきょうは何をつくろっかな。舌舐めずりをしたところで、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。おやすみー。


3362:【2021/12/24*秘め事ばかりの世の中】
いまは世の賢い人たちはみな、いかに都合のわるいことを表に出さないか、に苦心を割いているので、一見よい世の中になってきたなぁ、と思っていても、それは目に見える範囲に不都合な事実が昇ってきていないだけのことであり、あまり楽観的になりすぎないほうがよいように思うのだ。これから到来する社会は、被害者ほど被害者であることに気づけない社会であるはずだ。むしろ、自ら加害を受け入れ、それによる微々たる利益をありがたがるようになる。搾取されていることに気づかず、自らの手により自らの人生をやせ衰えさせていく。別の言い方をするのならば、牢獄に入れられるのに似た生活を自ら望んで送るようになる。それで満足できるくらいに技術力が発展する、と言い換えてもよく、牢獄との違いはただ、その技術力を享受できるか否かの差があるばかりとなる。そこにきて、では囚人との違いとは何かといえば、それはすなわち、そのときどきにおける標準的な技術を手にできるか否かにあると言える。これからの社会における罰則や不利益とは、いかに社会からの恩恵を受けられないか、にあり、技術力からどれほど切り離された生活を送る羽目になるのか、その度合いこそが罰の重さに直結すると妄想できる。人権の尊重が謳われれば謳われるほどに、この妄想は現実味を増す。現代社会においてすでに自由は幻想だ。言動に自由はなく、あるのはただ牢獄の中での自由のみだ。それですらほとんど妄想を抱く余地しかない。しかしそれで満足できる社会になっていくし、そう仕向けるような社会になっていく。すべての人類がそうなるのではなく、一部のより高度な技術を扱える者たちは、あたかもバリアをまとうかのごとく社会制限を受けることなく、より身体的な自由を満喫するだろう。それを、独占する、と言い換えてもそれほど的を外してはいないのではないか、と妄言を吐いて、本日のあやふやな「いくひ誌。」とさせてください。(新作掌編:「もっとちゃんと吟味して」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429515664337)


3363:【2021/12/25*指紋並みに浅い所感】
至極狭い観測範囲での底の浅い所感にすぎない、という但し書きを挿したうえで述べるが、ここ半年あまりのSNS上での変化としては、みな情報を制限して書くようになってきており、以前よりも慎重になったがゆえに、誰であっても簡単に拾えて扱えるようなビッグデータでは、活用するだけ不利になってきた感がある。みなようやく黙ることを覚えはじめたので、表層のデータを見ているだけでは何も分からないどころか、ほとんど判断を間違えるだろう、と言えそうだ。これまでは、ウソツキは平然と嘘を吐き、正直者は慎重な発言をする傾向にあったので、その落差に焦点を当てて観測するだけでも、それなりに情報を篩にかけることができた。しかし現在はウソツキも学習しはじめたので、正直者のような装飾を施し、まっとうなことを言いながら任意の方向に人々を錯誤させる技術を身につけはじめている。すこし前の政治家や著名人たちが行っていた情報偽装技術が、一般人にも浸透してきたと言えるだろう。けっきょく、何を言っているか、ではなく、何をしているのか(してきたのか)、が人物評価としての価値基準となっていく。つまり、そこには他者評価は優先されない。なぜなら、ある人物において「何をしているのか」にしても、「何をしてきたのか」にしても、それは他者の評価に左右されないからだ。エベレストを登頂した人物がいたのならば、その人物がいかに大勢から非難されていようとも、エベレストを登頂した事実は覆らない。事実は事実だ。変わらない。それをみなが認めるか否か、高く評価するか否かに関わらず、エベレストに登った者は、登っただけの経験を重ねている。得ている。積みあげているのだ。みな慎重になってきたがゆえに、他者評価の儚さ――ともすればバブルが弾ける予兆を感じとっているのかもしれない。いいね数も、フォロワー数も、輝かしい経歴も、受賞歴も――しょせんは画面上の数字にすぎない。幼子がノートに貼って満足するシールと変わらないのだとみな薄々気づきはじめている。シールはシールで、楽しいものだ。あればうれしい。もらえたらうれしい。だがそれを日々の行動指針にしてしまうのでは、何かがおかしく、虚しいのだと認めはじめているのではなかろうか。ようやくというか、すこし遅すぎる気もするが、何にせよ、じぶんが何に縛られているのかには自覚的でありたいものである。(定かではありません)(シールがゼロというのも、それはそれで虚しいですけれどね)(シールもなければ事実すらペラペラのいくひしさんみたいな人はどうしたらよいですかね)(虚しい×虚しい=とっても虚しい)(いくひし、虚しいの、好きぃ)(虚しさすら自在に制御できるとよいですね)(新作掌編:「箱と箱と箱」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429537340282)


3364:【2021/12/26*指標】
個人的には、その人物が「何をしているのか(してきたのか)」よりも「何をしていないのか(してこなかったのか)」のほうに関心が向く。よくもわるくも、その人物の本質を的確に表すのは、何に興味を示さず、何を重んじないのか、なのだ。(適当な思いつきを言いました。すみません)(例外は多分にあるでしょう)(人間はそんなに単純ではなく、もっと多くの要素が複雑に絡み合って、人格の編成や行動選択を行っています。さらにそこにその人物への人物評価を行う際には、評価者の価値観が反映されますので、よけいに複雑になります。人間は人間を評価した時点で、本質を見失う、と言ったほうがより正確なのかもしれませんね)


3365:【2021/12/26*所感詰め合わせ】
「日誌で書いたことに後日、本気で反論してみる。これが思考を鍛える最も容易で効果的な手法である(という意見に本気で反論してみよう)」「小説家は小説を書く技術を極め得るが、ただそれだけである。どれほどの文豪であれ、例外はない。勘違いしてはいけない。小説家はそれ以上でもそれ以下でもないのだ。人間がそうであるのと同じように」「なんでもかでもじぶんと直接に繋がって関係しているように感じはじめたら危険信号だ。間接的には繋がっていることはあっても、基本的に人間が直接に関われる事柄はすくない。何かよいことがあっても、わるいことがあっても、それは往々にしてじぶんと関わりがあったからそうなったわけではないのである。思い詰めないように(勘違いしないように)」「うわーん、なんも終わらんまま今年が終わる。人生も終わる」「終わっとけ、終わっとけ」「どこかにゴールとか答えがあると思うから苦しくなるし、焦るのだ。ゴールなどはない。答えなどはない。否、それを言ったら、ゴールがないがゆえにどこがゴールでもよくなってしまうし、答えがないことが一つの答えになってしまう。そうではないのだ。ゴールはまだ見えていないだけであり、答えもまだ導きだせていないだけで、どこかにはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。辿り着くのかもしれないし、編みだせるのかもしれない。分からないけれども、その分からないままでも求めることはできますよね、という態度が最も気の安らぐ日々を歩める気がする。分からないままでもよいのだ。ぼんやりとであれ、求めつづけていられるのなら。無欲でも無心でもなく、ときどき夢中になれるのなら」「人生、ほとんど夢の中」「強欲でもなく、貪欲でもなく、我欲でもなく、無欲でもなく」「定かではありません」(新作掌編:「足跡の怪」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429580158743)


3366:【2021/12/27*変化はつどそのときどきで】
死にかけの状態でつむいだ小説はおそらく小説の体裁を保てないほどにボロボロのスカスカな物語と文字の羅列になるが、しかし同時にその状態にならなければつむげない物語に文字の羅列になっているはずだ。これは死にかけに限らず、そのときどきのじぶんにはもう二度と戻れないのと同じレベルで、日常的に訪れている一期一会である。小説の出来とは関係なく、物語はそのときどきのじぶんにしか宿らないある種の制限を受けながら姿を現す一粒の雪の結晶なのである。どうだろう。なんとなく文学的なことを言ったように読めないだろうか。ダメか。ダメだな。じゃあいまのナシで。(新作掌編:「お腹空かして待っています」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429590189473)


3367:【2021/12/27*すかんぴん】
もうだいぶ長いこと、なんもでてこない、駄作ばっかりや、の気分で文字を並べているけれども、いくひしさんじつは駄作が嫌いではないし、わがはい駄作づくりの天才では、みたいなノリであたかも、駄菓子づくりの天才では、みたいに曲解しつつ毎日かろうじて、ふーふー、言いながらもしどろもどろに満身創痍でごじゃるけれども、あーえっと何を並べようとしたのだっけ、もうほんと数秒前の記憶すら曖昧模糊にモコモコベルトコンベアーでござるけれども、つぎからつぎに羊が一匹、羊が二匹、キツい自我が三匹、と段々と自我が崩壊してきおるが、もう誰かなんとかしてフシャー、と全方位に唸り声をあげながらも、なんとかかんとか、手を抜き、腰を引き、その場に大の字になって、おらもう寝るだ、夢の中にダイブじゃ、だいじょうぶじゃ、の三段論法を駆使して、じぶんになんの根拠もない、だいじょうぶだじょ、を突きつけて、そっかだいじょうぶなんだね、とほっこりしながら、何の解決も見せない日々を、のほほんと真後ろに忍び寄る危機に気づかぬふりをしつつ過ごしていく本日のいくひしまんでござった。(ござったじゃないです)(うひひ)


3368:【2021/12/28*日誌詰め合わせ】
「あしたから来年の三日までの六日間、遊び場が休みなので、お家でゆっくりできるけれども、ほかの遊び場に遊びにでる予定もあるので、たぶん毎日お家のそとにはでるはず。思ったよりこいつ動きよる、と、ぎょっとされるタイプのナマケモノなんですね。わがはい、そうなんです。思ったより歩くの速いナマケモノなんです(引きこもりだっておそとでるよ)」「むかしのじぶんの小説読み返したら、いまの自作より面白いかも、の驚きに見舞われ、わなわなと腕が震えてしまったな。過去のじぶんにも負けっぱなしなんて、いくひしさんってばよっぽど負けるのの達人なんですね。ザコザコだぜ」「前にも述べたことがあるけれど、いくひしさんのつむぐ物語にたびたび登場する、主人公の相方こと「ミカさん」の掌編は、小説家「斜線堂有紀」さんの「不純文学」に影響されてつくっています。あれはドラえもん並みの発明だと思います。ショートショートのつくり方のお手本として未来永劫語り継げるほどの発明です。あれはすごい。パンのつくり方、くらいの発明です。誰であってもこれさえあれば美味しいショートショートがつくれます、くらいの発明です。ちなみになんでパンがこれほど現代社会に普及したかと言えば、作り方が簡単で、材料が手に入りやすく、誰でも美味しく作れるからです。優れたアイディアほど、比較的簡単に再現でき、高品質の品を完成させられます。そこにきて、斜線堂有紀さんの「不純文学」ですが、先輩と後輩の関係を、姉妹にも恋人にも友達にもライバルにも、上司部下、探偵助手、敵味方、師弟、愛憎、運命、同士、親子、未来人現代人、地球人宇宙人、分身、赤の他人、なんにでも代替可能で、おおむねの人間関係がじつは「先輩と後輩」で表現可能なのだと気づいたその着眼点、発想の妙は、ノーベル文学賞級です。いままでそんな作家いたのか? いたらすまんね。知らんけど。ホントなんでもっとみんな話題にせんの? ぜひ斜線堂有紀さんには「不純文学」にでてくるお二人、「先輩と後輩」を主人公にした長編を書いて欲しいと思います。いやマジでショートショートの教科書に載せたほうがいいレベルの発明です。駄作製造機のいくひしさんが言うのだから間違いない。世界一の味音痴でもこのレシピを参考にしたらおいちいお料理がつくれます、みたいな具合です。おもちろい掌編つくれるようになりたい方はみなさん、参考にしてみてはいかがでしょう。いくひしさんはしました」


3369:【2021/12/28*点点点←シャワーに見える(蛍光灯でも可)】
視点について述べてみます。虹彩を絞ったり緩めたりすることで光量を調節するように、或いはカメラのレンズを拡張したり収縮させたりすることで焦点を合わせるように、時間に対する認識もそのつどそのつどで、伸ばしたり縮めたりできると、いろいろな問題を扱う際に、何が最も重要視すべきかの優先順位をつけやすくなると言えそうです。俯瞰の視点が、長期的な視野を保ち得るように、どれほど長い時間の流れを一連の歴史として捉えられるのかによって、問題に対する認識は自ずと変わってくるものです。たとえば、現代人にとっては百年前から二百年前がせいぜい扱える人類史であり、だいたいの人間は生きてきた範囲の時間感覚で物事を判断していると言えるでしょう。それ以前の人類がどのような生活を送り、人口がどのくらいいて、そしてそのときどきの社会では命に対する扱いがどうだったのか、言い換えるのならば、倫理や常識がいまとどのくらい違っていたのか、を把握できている者は全体に比して極少数と言えるはずです。極々短期間の社会構造を基準としてしまえば、往々にして、過去の過ちを繰り返したり、目前に迫った危機に気づけなかったりするものです。それは人間社会にのみ言えることではなく、自然環境でも同様です。気温の平均がどうだったのか、動植物の群生はどうだったのか。技術の発展と自然環境の変遷のデータとて、観測しはじめたのは比較的近代に入ってからであり、それ以前の環境に関しては、地層や氷層、化石などの遺物から類推するしか術がいまのところはないのではないでしょうか。現代人が基準として考える「これまで」や「普通」というものはけして基準足り得るほどには不変ではなく、ましてや普遍でもありません。にもかかわらず、たかだか数百年(長く見積もっても数千年)の歴史しかない文芸におかれては、普遍性、などとたわごとをのたまっている実情があるようです。いくひしさんは歴史に明るくはありませんが、それでも現代人に扱える普遍性などというものが極々微々たるものであり、ひょっとしたらそんなものは一つもないのかもしれない可能性を考慮するように努めています。もちろん形而上学的な、概念上の可能性や、いまここに触れられない遠い未来や過去についてをいちいち私生活のうえで吟味していては日々を健やかに送ることのむつかしい社会情勢は承知しておりますが、いささか視野が狭すぎるのではないか、と思わないわけでもありません。愚痴のようになってしまいましたが、ともかくとして、いくひしさんを含め、いくらか視野の狭い人間が多すぎるのではないでしょうか。というよりも、人間にはどうあっても視野の限界があると言えそうです。そのために、より多彩な物の見方のできる人間を多様に育み、共存していく仕組みが欠かせないのではないでしょうか。人間は視野狭窄です。しかし人類は地球を一つの眼球と見立てることのできるほどに巨大な視野を持ち得ます。いまや天体観測は、地球の直径を超えた電波望遠鏡により、より遠くの(昔の)宇宙の姿を捉えることが可能となりつつあります。人工衛星同士を結べば、その直径を延ばしていくことは技術的に可能です。比喩ではなく、物理的に人類は視野を拡張し、自在に操る術を編みだしつつあるのです。個々にそれほどの視野の獲得を期待するのはむつかしいですが、しかしせめてどの程度の大きさの視野を人類が獲得し、どのくらい微細な世界を覗けるのか。視野の限界についてくらいは、そのときどきで知れるくらいには、視野の広さを保ち、視点を自在に、俯瞰にも仰望にも、鳥の目(マクロ)にも蟻の目(ミクロ)にもそそげるようになれたらうれしいですね。はい。いくひしさんはうれしいと思います。(以上です)(本日も定かではないことばかり、好き勝手並べた文章をお読みいただき、ありがとうございました)(まったくだよ)(ホントホント)(読むほうの身にもなれ)(なんか叱られたんじゃが)(褒められてもよい場面だったのでは?)(駄文ばっかりつむいで、いくひしさんはえらいですね!)(蔑むか慰めるかどっちかにして……)(ふひひ)


3370:【2021/12/29*助けない言い訳に使わないでほしい】
温情主義と訳されることもあるパターナリズムの批判を、ここのところ見聞きすることが増えた。よくは知らないが、立場の上の者が、立場の下の者のために、立場の下の者たちの意思に関係なく過干渉することをパターナリズムと言うらしい。だがパターナリズム批判は、自己責任論と相性がよい。困難や災難に直面した者があったとしても、助けを求められなければ放置したり、或いはそもそも周囲の余裕のある者たちが他者へ干渉して助ける余地を失くすからだ。パターナリズムにもむろん欠点はある。たとえば、立場の弱い者への干渉が必ずしもよい結果を生みだすとは限らない点だ。また干渉した結果にミスをしたとき、立場の強さを利用してそのミスをなかったことにしてしまう隠ぺい工作がまかり通る余地もある。だがこれらは立場の上下が極めてシンプルであり、一面的な物の見方がされていることが問題の因子となっている。本来、立場の上下とはそのときどきの環境で変わっていくものだ。会社の役員も一歩外にでればただの人だ。父親にしろ母親にしろ、その者にも親があり、誰かの子供であることに変わりはない。若者とていつかは老いる。どんなに体力のある者とて、いつどこで怪我を負い、病気になるかは分からない。そのときどきに立場の上の者や余裕のある者が、立場の弱い者や、余裕のない者を支援すればいい。肩入れすればいい。これらをパターナリズムとしてくくり、さも権威主義の宿痾が巣食っていると見做すのは、短絡的ではなかろうか。パターナリズムの問題点は突き詰めれば、立場の上下が固定されており、一方通行であり、かつ一面的な点にある。本来、立場の上下は、もっと相対的で流動的で多面的であるはずだ。至極単純な話に思うが、違うのだろうか。弱い者いじめをしない、困っている人がいたら余裕のあるときは援助する。これをパターナリズムと関連付けて批判するのは妙に思える。もっともらしい学術用語を使えば、雑な批判も正当性を帯びて感じられるが、理屈に合っていなければ批判としてはやはりお粗末だ。批判をするなら最初に場合分けをして、限定条件(フレーム)を決めてからしてみるとよいのではなかろうか、とこれまたお粗末な所感を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(ちなみに現時点でのいくひしさんは、パターナリズム自体には批判的です。パターナリズムで扱う「立場の上下」においては、権威が固定されており、独裁との区別がつかないからです。これもまた視点の少なさが問題の根っこにありそうですね)(助けの手を差し伸べたことで、立場の上の者の権威がさらに強まってしまうのも問題の因子の一つかもしれません)(パターナリズムのもうすこし限定された意味合いでは、「他者の権利を侵害しておらず、公共の福祉にも反していない行為に対し、あなたのためだよ、と言ってそれら他者の行動を制限するような態度」を示すそうだが、詳しくは知りません)(新作掌編:「大地は何を奪われて?」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429603922060)



※日々、道を踏み外す、それ以外に道をつくることなどできるのか?


3371:【2021/12/30*いくひし、またの名を、うひひ】
じぶんが正義や善や倫理観なるものを備えているとはとうてい思えないいくひしさんであるので、おそらく世のなかから正しくないものを排除するとなったときにまっさきに排除されるのはいくひしさんであるし、いくひしさんの表現物であると思っている。いくひしさんよりも遥かに正義や善や倫理観を置き去りにし、人の道なるものを踏み外しているいくひしさんの表現物たちは、世の基準に照らし合わせたらおしなべて邪悪であり、外道であり、下品である。世の正義や善や倫理観を備えた者たちにはぜひとも、あなた方の掲げる正義や善や倫理観は、まっさきにいくひしさんや、いくひしさんの表現物を淘汰するのだ、ということを知っておいていただきたい。そのうえで改めてご一考いただけたらさいわいである。むろん、いくひしさんや、いくひしさんの表現物が誰かを傷つけ得る害を秘め、邪悪であり、外道であり、下品である事実は認めるしだいである。郁菱万なる存在が、あなたさまのような完璧な人間でなく、わたくしめはたいへんに申しわけなく思っております。また、あなたさまのような完璧な人間のつむぐ完璧な表現を行えずに、わたくしめはたいへんに心苦しく思っております。この世に存在してしまい、まことに申しわけございません。うひひ。(新作掌編:「夜道を外れる(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816700429626243532)」「小説を書かなければ死ぬ(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859082475578)」「咎人は嘯く(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859101772492)」)


3372:【2021/12/30*あしたは大晦日】
ことしははじめましての読者さんにも小説を読んでもらえてうれしかったな。もうそれだけでというか、それこそがゆえに、素晴らしい一年でした。もちろんこれまでにすでにこんにちはしてくださっていた読者さんにも読んでもらえていたと思うし、いくひしさんは果報者でおじゃる。それに好きな作家さんの小説もたくさん読めたし、好きな表現者さんたちの表現にもたくさん触れられたので、年々いくひしさんにはしゅわわせの感情が蓄えられておるそうな。そうしたしゅわわせの感情やら、そうでない感情やら、いろいろの掴みきれておらぬ感情もこみこみで、いくひしさんの内に積もりに積もって、ビッグバーン、したナニカシラのモヤモヤやらツブツブやら、ガラクタさんたちによっていくひしさんは物語をつむげるのであるからして、本当にもうもう、みなみなさまが表現を己が世界からあちらの世界へと放出して、描きだして、つむぎだしてくださるからこそ、いくひしさんの世界にまで届いて、新たな物語をいくひしさんは、ぐえーっ、と吐きだせるのでございますね。ありがたいことでございます。てんきゅー。それはそれとしていくひしさんはもうダメかもわからん。もうダメというかずっとダメダメでござるけれども、どんなにダメダメでもかわいいってすごない? もうこの時点でダメ? あ、そう。本日の「いくひ誌。」でした。


3373:【2021/12/31*いっぱい寝る】
いっぱい寝て起きたら、見て、もうきょうが終わりそう。いまは23:10です。あと五十分できょうが終わる。今年が終わる。ひょっとしたらこれも本当は夢の中で、何もせずに我が生涯が淡々とあっけなく終わりつつあるのかもしれんけれども、それでもいいと思えるくらいには夢の中かもしれんこの世界もそんなにわるかないと思える本日のいくひしさんなのであった。であったじゃないが。とか並べてるあいだに、小休止したら年を越えていて、いまは元日の0:58だ。なんもせずに今年がはじまってしまったな。寝る子は育つ! 勢いでなんかそれっぽいこと言っとけば万事解決すると思っているいくひしさんでおじゃるが、今年はそうだなぁ。またいっぱい旅にでたいなぁ。物語という異国に、ここではないどこか、しかしどこかにはあるだろう世界へと旅立ちたいな。というわけで旅立ちます。引きこもりのお部屋のなかで、孤独にこそこそと寂しく楽しく「うひひ」といろいろを企みながら、ほくそ笑みながら、遠い星から好き好きなひとたちの――つまりがあなたのしあわせを見守りつつ、表現を貪り食らいつつ、直接には関わらずに、孤独にいまの時間を過ごせていられたらよいのにな。よろしい、よろしい。今年はもう今年になっちゃったけれども、いちおう大晦日の日誌ということで、これにて今年最後の「いくひ誌。」にしちゃってもよいだろか。いいよー。やったぜ。よいお年を~。


3374:【2022/01/01*いっぱい遊ぶ】
よいお年を~、とか並べたその直後に矢継ぎ早にこれを並べているけれども、とくに並べたいことも並べることもないので、字数稼ぎに抱負でも並べちゃおっかな。白くてやわらかくて、お味噌汁に入れても美味しいし、カツオブシやお醤油と相性バッチグーの、茹でても生でも美味しくいただける――それは抱負やのうて豆腐や。いくひしさんが並べたいのは抱負です。今年の抱負はねぇ、毎日一作掌編をつくって、さっさと小説千作に達して郁菱万を引退したいです。現在、掌編短編だけでも七百作を超えているので、毎日ショートショートを十か月つづけるだけでも千作を超える計算です。やってやれないこともないかなぁ、と思いつつ、もうすでに脳内の奥底に湧いていたはずの閃きの泉がスッカスカのカッピカピなので、けっこうまあ無理かなぁ、いやだなぁ、たいへんそ、と思っているので、そうだったらいいなぁ、という願望を述べつつ、干上がった閃きの泉さんのカッピカピをどうにかこうにか磨きあげて、ピッカピカにしちゃいたいなぁと。んで以って魔法の鏡にしちゃって、いつでもどこでもおもちろーい物語をいくひしさんの代わりに語ってもらうのだ。よいね、よいね。そういう一年にしていきたいと思います。本年も毎年の例に漏れず、他力本願に磨きをかけて、ピッカピカの、いっちねんせ、でありたいと思います。忘れぬ初心。よみがえれ童心。どうぞみなみなさまも、鼻水垂らして駆け回った公園、道に張った氷という氷を割って渡ったあの日々を忘れずに。いまもふつうに割って歩いちゃうけどね。足で踏んで、ぱりんこりん。実際は、ぐしゃん、ってぜんぜん張り合いないけれども、そういう張り合いのなさ、よわよわのよわ、ザコザコのザコさ加減はまるでいくひしさんみたいだよね。うんうんじゃないが。否定してくれ。ここまで並べて思ったけど、今年最初の日誌がこれでいいのか。いいのかい。ホントにぃ? いいよー。やったぜ。今年もこんな感じで、手抜きをしつつ、サボりつつ、気負わずに遊んでいけたらなぁ、と思います。あ、言い忘れておりましたね。新年、明けましておめでとうございます。今年も遠い星にいる者同士、時間も空間も超越して、表現を通して繋がり合えたらうれしく思います。本年最初のいくひしまんでした。


3375:【2022/01/02*根に持つタイプでごめんなさい】
たくさん小説つくれるからといって小説家として高く評価されるわけじゃないよ。あるわけないじゃんね。だってほら、いくひしさんを見てごらんよ。もし作品数とか生産性とかで小説家の価値が高く評価されるのなら、いくひしさんはとっくにプロになれているもの。でもそうなっていないでしょ? だから小説家としての価値と作品数は関係ありません。その物語がおもしろいかどうかが大事なのです。もし作品数と小説家の価値に直接の関係があるのだとしたら、よっぽどいくひしさんの一作一作が駄作の極みということになりますね。その可能性も否定しきれませんし、おそらくはそうなのでしょうが、仮にそうであったとしても、いくひしさんは困りません。物語をつむぐことで得られる楽しさはいくひしさんだけの贅沢な代物です。またいくひしさんは掌編短編ばっかりつくっている生産性の低い作家なのでしょうから(年々薄くなってはきているようですが未だにありますよね、長編を書かなきゃプロじゃない、みたいな流れ)、ひょっとしたら本当はプロの方々とてボツ作を含めれば年に百作くらいは余裕でつくっているのかもしれませんけれども、駄作ばかりつくってさらには生産性も低いいくひしさんにとっては、たった一作でも素晴らしい物語を編んでくださるだけで、プロの方々には感謝いたしておりますし、プロでなくたって素晴らしい物語を編んでくださる方々もたくさんいらっしゃるので、それはもう惚れ惚れするほどに、いらっしゃるので。じゃからもうもう、いくひしさんってばどこを向いても、やったーおいちい物語が実り放題でおじゃる!なので、うれちーうれちーの日々なんでおじゃるよ。それはそうと、そうそう、なんだっけな、生産性うんぬんご高説のたまかれているプロ作家さま方は、いくひしさんよりもたくさんつくっていらっしゃるのでありますよね。もちろん当然そうに決まっているわけでありますが、しかもそれが総じていくひしさんの駄作よりもおもちろいというのですから本当にプロはすごいです。憧れますし、お疲れ様なことでございます。ザコザコのよわよわなわがはい、ツヨツヨのみなさまのこと、至極尊敬いたしております。うひひ。(新作掌編:「河童と源五郎」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859125842025)


3376:【2022/12/01/03*いっぱい練る】
完全なる寝正月でした。完全無欠のお正月でした、みたいなノリで、寝正月でした、と告白してみましたけれども、寝てども寝てどもまだ眠い。毎日十二時間睡眠ですけれども、みなさまいかがお過ごしでしょうか。あ、ちょっといまからお風呂に入ってきますので、しばしまたれよ。入ってきました。ついでに軽く髪を切りました。整えるだけのつもりが切りしすぎてパッツンになってしまいましたが、ご愛嬌。さいきんは自作の推敲をする時間がとれなくなってきてしまったので、というか推敲する時間はつくろうとすればいくらでも隙間時間を見つけられるのですが、なんだか原稿さんまでもが眠い眠いの気持ちを昂らせているのか、もっと寝させてたもー、と申しておられるような錯覚に陥るので、もうしばし寝かせておこう、と思うといつまでも未推敲のまま放置してしまうのですね。よろしくないと思います。個人的に、小説家の腕にはいくつか磨かれやすい作業というものがあるように思っています。おそらく推敲や改稿作業はその最たるものでしょう。いくひしさんの腕があがらない要因にはこの、推敲や改稿が苦手だから、というのもありまして、ここ半年あまりは基本、初稿のまま寝かせておく、の原稿ばかりとなっております。推敲はしたいのですが、いまじゃない、いまじゃないんだ、みたいにじぶんの文章と向き合う覚悟がなく、そのままずるずるといまに至っております。推敲はします。でもその前にまずはつくりかけの物語を閉じていきたいんですけれども、それもなかなか時間がとれずに、ずるずると。なんとかしなくちゃなぁ、と思いつつも起きたばかりなのにすでに眠いので、ちょっとまた寝ちゃいたいと思います。いくひしさんの特技は、寝ながらネタを練れることなので、もしいくひしさんが漫画家さんだったら、寝る練るネームね、とギャグを一つ挟めたのですが、ざんねんです。寝る練るネタですね、じゃ語感がよろしくないし、文章としても変なので、とりあえず、寝ようと思います。おやすみなさーい。(新作掌編:「オセチドリ」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859155761977)


3377:【2022/01/04*駄菓子だって美味しいじゃん】
いくひしさんは、駄作がわるいと思ってはいないよ。良作がおもしろいのはふつうだけど、駄作がおもしろかったらそれってちょっとすごくない? いくひしさんは駄作でいいよ。駄作がいいよ。ただし、世にも珍しいおもしろい駄作だけどね(というか世の大半の駄作の評価を貼りつけられちゃった物語さんたちだってけっこうふつうにおもしろいんですけど。人生変えられるくらいのおもしろさじゃないってだけじゃない?)(しかもそれってけっこう人によるんじゃない?)(一般化できんくない?)。もちろん、おもしろいおもしろくないを決めるのは読者さまでござるけれども。うひひ。


3378:【2022/01/04*雑感詰め合わせ】
「いわゆる『大衆のよろこぶこと至上主義』は、企業方針の大前提としてあるように錯覚しかけるが、本来、社会的な意義と大衆の評価はべつである。いかに大衆から支持されようとも、社会を破滅に導く表現や思想はいくらでもある。ファシズムなんてその典型ではないか。にもかかわらず、大衆の支持を得さえすればいい、非難されなければよい、という考えは危うい。非難されることに意義がある表現というのもある。現実に問題が生じるよりさきに、虚構を通じて怒りを表明できる(抱ける)余地を奪わないことである。虚構を通じた表現には、ワクチンに似た効能がある。多すぎれば害だが、調合された害は、人類社会の発展をより健やかに進める。むろん、その調合は、社会の成熟度や発展の度合いによってつど変化することは論を俟たない。人体が子どもと大人とで、害となる物質の分量が変わるのと同じである。極度に潔癖な社会は、むしろ弱体化していると言えるのではなかろうか。これはやや悲観的な見方であるが」「SNS上でのいわゆる文学志向の小説家や評論家のつぶやきを眺めていて思うのは、批評の批評が必要な時期なのでは、ということで、批評のつもりかもしれませんけどそれただの悪口では、と思うことが多くなってきた感じがありますね。ありませんか?(本日のおまえが言うな賞受賞つぶやきでした)」「イライラすることは海に叫ぶようなつもりで、いったん文章にしてみるとただそれだけで気が晴れることもあるので、誰に見せなくともよいので、モヤモヤしたりイライラしたりすることがあったら、我慢せずに、いちどじぶんの外側に吐きだしてみる、というのはけっこうに有効な精神の安定方法だと思います。誰にも見せないのならどんなにひどいことでも書いていいんですよ、知っていましたか?」「おにぎりとか湯呑みとか、そういう一般名詞を思いだすだけでも数秒かかることが増えてきた。湯呑みを持ってから、えっとこれってなんというのだっけ、といった具合だ。物語を文字に変換するときも、何度も、えっとあれってなんだっけなんだっけ、となる。語彙がない以前に、記憶力が危うい。むかしからの性質とはいえ、さいきん悪化してきたかもしれない。これまで以上に注意しておこう」(新作掌編:「願い叶え人(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859180070984)」「死の雲が降る(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859200405125)」


3379:【2022/01/05*あれについての所感】
(あんまりこの手の話題には触れたくないのですが)以下、世間を騒がせている例のウィルスについての印象です。いくひしさんのなかでは一年半前から印象が変わっておりません。おそらくすくなからずの方々も似たような所感を抱いていると推察いたします。要点としては、こたびの新型ウィルスは潜伏期間が長く、死者や重症化する感染者をランダムにだす点が特徴的です。これはほかの毒性のあるウィルスに見られる弱毒化のプロセスを辿りにくい性質を伴ないます。また基本的にウィルスというのは進化速度が動植物に比べて桁違いなので、変異を伴ないやすく、すると感染拡大にしたがい、さらに変異は加速します。つまり、いったんは毒性の低い変異を経て感染力を高めたあとに、こんどは毒性の強い変異へと転じることもあり得るのです。したがって一か国だけの感染予防策では根本的に制御不能であり、全世界同時にワクチン普及策や渡航制限および行動制限を講じていく必要があると考えます。こういうことを言うと、ほかの国にワクチンを優先して配るということは自国民に死ねというのか、みたいな反論が飛んできそうですが、そんなことは言っていません。被害の深刻な国々にワクチンを優先して配った分の遅れは引き受けながら、もうしばらく行動制限の伴なう生活を送っていきましょう、との提案です。そのためには国民への経済支援が不可欠です。どの国もそれをしつづけることを避けるので、はやく経済活動を活発化させなくては、とワクチンを奪い合うのではないでしょうか。WHOですら、みなでがんばれば今年で終息可能だ、と楽観的なメッセージをだしているようですが、本当にだいじょうぶですか、と不安に思ってしまいます。もちろんこのままウィルスが弱毒化のプロセスを辿り、凶悪化せずに、特効薬もできて、治療法も確立され、万事滞りなく解決に向かうこともそう低くない確率であり得ますが、それだけを期待してほかの可能性を吟味せずにおけるほど、こたびのウィルスは御しやすくはないはずです。そもそもを言えば、こたびのウィルスを終息させても、ほかの厄介なウィルスがでてくればまた同じことの繰り返しです。以前から繰り返し述べていますが、都市設計から練り直していく時期なのではないでしょうか。もうすこし最悪の事態を想定して、外枠からの対策や抜本的な解決策にも力を入れて欲しいと思います。(素人の印象論でしかありませんので、真に受けないでください)


3380:【2022/01/06*文字の積み木遊び】
 以下、掌編をつくるときに無意識で行っているらしいじぶんなりのコツというか手順を記しておきます(言語化できそうだったので言語化してみました)。
 第一に、小説をつくる際には、ざっと大筋の流れを頭のなかで決めます。
 とはいえ、文字に変換していく過程で、そのつど細部を修正していくので、最初の構想とは大きく異なることが大半です。
 たとえば今回の話はこんな感じです。
「  臓器用クローン。
   べつにいいじゃん意識ないし。
   じゃあもらっていくわ。さっさと殺しちゃって。
   肝臓と血液を搾り取る。
   宇宙人襲来。
   死体ごろごろ。なぜか脊髄ごと脳みそがなくなっている。」
 まずはこのように、ざっくり流れを考えます。
 上記、要点をさらに詰めると、
「未成熟なクローンを臓器移植用にした人類は、じぶんたちが完成形であり高度であるからこそそれが許される、と驕り高ぶるが、じぶんたちよりも高次の存在をまえにすればじぶんたちもまた単なる臓器移植用のストックと見做され得ることを知る」となります。
 よしこれでいこう、と決めるときはだいたい映像で一瞬で全体像が浮かびます。それから一連の流れにおける要となるシーンを抽出し、ここを経由すればだいじょうぶそうだな、という経由点を決めたら、あとは細部を好きに造形しつつ、文字に変換していきます。
 長編や中編になると、この経由点そのものが変化していくので、より複雑かつ多重な思考を費やします。一つの展開を描くたびに、選択肢が無数に浮かぶためです(物語後半になるほど選択肢は一つに収斂していきます。これは物語構造を最初に決めている影響です)(全体像と構造の違いは、写真とCTスキャンの違いにちかいです。同じ見た目でも、マネキンと人間は違いますよね。似たようなものです)。
 掌編は最初に決めた一連の流れ(全体像やフレーム)から外れることはすくないのですが、長編や中編は、最初に思い描いた物語と同じになることはほとんどありません。
 ただし、長編や中編では、最初に物語の構造を決めているので、それだけはあまり変わらないかもしれません(物語の全体像=見た目が変わることはあっても、構造=骨格は変わりません。見た目が魚でもクジラは哺乳類なのと理屈は似ています)。
 その点、掌編や短編では、立体的かつ複雑な物語構造を適用するのがむつかしいので、だいたい似た構造を利用しがちです。どんでん返しだけに絞れば、構造のカタチは百パターンもない気がします(下手をすれば五つくらいしかないのかも)(こんど数えてみます)。
 ちなみに、掌編の場合、物語の一連の流れ(全体像やフレーム)を閃くまでのあいだに、常時延々とあらゆる組み合わせを脳内で試しています。連想ゲームのようなものです。
 たとえばその日に雨が降っていれば、じゃあこの雨に何を当てはめたらおもしろくなるだろう、と考えます。雨が、飴だったら、コーヒーだったら、硫酸だったら、媚薬だったら、地面に当たった瞬間に宝石になったり物体の性質を変えたり生き物の構造を変えたりしたら、あべこべに雨が地面から天にのぼる現象だったら、或いは水の星に住まう者たちにとっての雨とは砂利かもしれない、とすると、砂利が降った日だけは道ができて自由に歩き回れる世界になるかもしれない。
 こういう連想ゲームを延々とします。
 雨でダメだったら、雲で、それとも蜘蛛で、或いはタコ(足が多い生き物からの連想)で、イカで、海で、青で、顔面蒼白で、と題材を決めるときも連想ゲームで遊びます。
 この連想ゲームは、類推を用います。そのため、抽象化する能力の開拓に一役買うのでは、と個人的には妄想しています。
 類推するためには具体例を知っていなければならないので、同じく具体化の能力の向上にも繋がる気がします。
 そして連想したときに働かせた、何と何が似ていると感じたのか、の記憶は、じぶんなりの世界観を深めます。
 すると、物語を文字に変換するときにも、どの文字をどう配置すればよいのか、どの言葉とどの言葉が似ているのか、といった言葉の取捨選択の妙にも反映されるように思います。
 畢竟、言葉を並べる、という作業は、頭のなかのイメージと似ている箱(言葉)はどれだろう、どういう並びになると似るのだろう、との「類推と抽象化と具体化」のミックスした技術なのだと思うのです。
 となるとやはり、物語の種を閃くときに用いる連想ゲームは、ただそれだけで物語を文字に変換する技術力を高めるのに一役買うのではないか、といまはぼんやりと妄想しております。
 もちろんこれが創作の最適解ではありませんし、「おもしろい小説をつくる手法」でもありません。
 向き不向きもあると思います。ほかにももっと用いている技術や手法とて当然あります。
 あくまで個人的に言語化可能な、ザックリとした「郁菱万の物語」のつくり方のコツですので、そういう考えもあるな、程度に読み流してください。
 人には人に見合った型があります。じぶんの身体にしっくりとくる型を見つけられるとよいなぁ、と高望みしながら、いくひしさんは判子遊び、ともすれば文字の積み木遊びをしています。
 そのしっくり感も、時間経過にしたがい変化していくもののようにいまは考えております。(定かではありません)
(新作掌編:「摘まれる音がする」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859229404959)



※日々、優しくありたいし弱いままでありたい、厳しさも強さも人を虐げるチカラだ、優しくありつづけるには知恵がいる、弱いままでいるには孤独でいられる環境がいる。


3381:【2022/01/07*雑記詰め合わせ】
「小説の構造を考えるときは、溝の刻まれたルービックキューブをいじくるのに似た感覚が湧く。てんでバラバラに曲がりくねった溝が、ルービックキューブの表面にも内部にも、とかくブロックのすべてに刻まれていて、カチカチ回したり配列を変えたりすることで、偶然すべての溝が繋がる瞬間が訪れる。小説の構造を思いつくときはこんな具合に、ぴたりとはまった感覚がある。掌編や短編の場合は、ルービックキューブの表面だけの溝を合わせればよく、長編や中編は内部の溝まで合わせなくてはならない、みたいな感覚だ。伝わっただろうか」「強権派と思われていた人物が実は穏健派だったという事例は案外に多いのかもしれないな、と考えを修正しつつある。弱者に都合のよい仕組みを築くと第三勢力にとって都合がわるいので、そうなるとぐわーと圧力がかかってしまうので、そうならないように、本当は弱者側の味方でありたいのに、そうできずに、板挟みのまま弱者側の盾になりつつ、弱者側からも強者側からも非難される、みたいな構図は、企業回りの動きを見ているとほどよく観測できる。みなさん、本当にたいへんそうです。お疲れさまでございます」「いくひしさんはちょろちょろのちょろ助なので、いくひしさんのつむいだ物語を読んでくださった方には漏れなく、わーいだいしゅき、と抱きついてほっぺたスリスリこすりつけたくなります。その姿があまりに破廉恥なので、人の目に触れないように隠れて乱舞しているだけなのです。いくひしさんは、読者さんに対して怒ることはおそらくないですし、読者さんであるというだけで、わーいだいしゅき、となります。ですがあまりにだらけきった顔になるので、全身がドロドロなので、見られたものではないので、なるべく、わーいだいしゅき、の感情は隠そうと思っています」「たとえば出版業界と言ったときに、それを購読者や出版社、商業作家、それから書店や取次、印刷会社など、いわゆる直接にお金を回す者たちのみに絞って語るようでは、規模は縮小していくいっぽうであろう。出版業界を支えているのは、そういった分かりやすいお金を動かす者たちだけではない。その他大勢の、本や物語を嗜好し、生活に取り入れている者たちこそが、出版業界を根底から支えている。そういった大勢の嗜好者たちを度外視して、いないものとして粗末に扱うようでは、出版業界は、いまとは別の機構に舞台を移して新しい繁栄の礎を築いていくこととなるだろう。プランクトンとクジラに位の上下はない。ただし、クジラがいなくともプランクトンは生存できるが、プランクトンがいなくなればクジラは生きてはいけないのだ――クジラの死骸によってプランクトンが増殖しやすい環境が築かれる点を考慮にいれるとしても、クジラがいなくなっても数は減るだろうが、プランクトンは生きていける。だがその逆はない。そこをまずは忘れないことである」「受動者は虚構を通して、こんなひどい世界はけしからん、と怒ればいいし、現実世界の理不尽さに傷ついた人がいたならば、みんな知らんぷりしているけれど現実にはこんなひどい面もあるんですよ、と虚構を通して描きだしてもいい。もちろん、こんなひどいことをしてみたいんですよ、という願望を垂れ流してもいいし、それをみなは批判してもいい。ただしそれを、表現そのものを排除する方便に使わないほうが私にとっては好ましいし、社会にとっても好ましい作用を及ぼす割合のほうがそうでない割合よりもいまのところはどうやら高いらしいと言えるのではなかろうか」「上記すべて妄想なので、定かではないんです。すみません」(新作掌編:「降り積もった雨のうえで」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859248076834)


3382:【2022/01/08*星空のごとくスターがたくさん】
どんな分野でもそうですが、分野と分野の交流が盛んでない場合、基本その分野のスターであろうと、ほかの分野からしたら、「誰それ?」くらいの知名度です。いくひしさんには文芸以外にも趣味があるのですが(誰にだって趣味の一つや二つあるのでことさら注釈を挿すようなことでもないのですが)、その分野では、京極夏彦も宮部みゆきももちろんスティーブンキングの名前すら知らないし興味がない方がたくさんいらっしゃいます。小説家は現代でもその程度の知名度なんですね。かろうじて東野圭吾や星新一が通じるくらいでしょうか。ハリーポッターの作者は誰?と訊いても答えられる方のほうがすくない気がします。あべこべに、その分野の有名人の名前を、文芸を趣味にしている方に言ってもほぼ通じないでしょう。それでいてみなさん、狭いコミュニティの中だけで生きているので、そのことに無自覚ですし、困らないようです。まとめれば、誰にでも死角はあるし、往々にして人は、他者からすれば無関心なことに熱中しているものだ、と言えそうですね。定かではありません。(新作掌編:「いい湯を皮切りに」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859271991202)


3383:【2022/01/09*抽象と具体はフラクタル?】
寝正月で衰えた肉体が重たすぎて、地上に帰還した宇宙飛行士の気分である。天と地ほどに実態が異なるのに、生じる問題点が似てしまところに面白味がある。共通点がほとんど同じでありながら、その他はまったく別物、なるものに人は面白さを感じるのではないか、との仮説がここに成り立つ。たとえば比喩もそうだ。類推もそうだし、物語もそういう意味では、壮大な題材であってもそれを読者は自分事としてあてはめて共感を覚えたりする。人間は具体的に物事を考えているようで、その根底にあるのは抽象思考なのではないか。印象というのも、抽象の結果だろう。なんとなく、あれと似てると感じるがゆえに、印象として意識の表層に浮かんでくるのではないか。具体なる事象というものはおそらく存在しない。或いは、どんなものですら具体なのだ。それをほかの何かに結び付けて思考するとき、そこには抽象が生ずる。とすれば、抽象化した事象そのものもまた、独立して扱うのならば、それで一つの具体となる。数字は抽象そのものだが現代では具体的に考える際には数字が不可欠だ。人間は抽象化によって、本来は具体的に扱えない事象を、ひとくくりにシステムとして総体として或いは体系として、群として、集合として、一つの具体と見做し扱えるように進化している。つまり、誰であっても具体化して思考している。そこに新しい視点や考え方を取り入れたり、組み込んだりするには、抽象的な思考の仕方が有効なのだろう。抽象とは、全く異なる事象同士を結びつける働きそのものだ。共通点を見繕い、本来は当てはまらないはずの法則を、この角度で差しこめば奇跡的に成り立ちますね、と発見する営みそのものと言えそうだ。定かではありません。(いい加減なことを並べました、すみません)(新作掌編:「仮面の美少年」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859297098817)


3384:【2022/01/10*許せる人でありたいね(願望)】
世の中には自動車を運転しないほうがよい人間がいるし、同じように権力を持たないほうがよい人間もいる。どちらもいくひしさんのことです。(注意散漫で許せないことがハッキリしているため)(新作掌編:「檻に囚われて」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859329380625)


3385:【2022/01/10*どこまでも落ちてブレる】
風化とか退化とか老化とか衰退とか、そういうものを怖れているうちはおそらく何かお手本を完成形として目指しているのではないか、との疑念が湧く。風化も退化も老化も衰退も、世の理の流れのなかの一つの変化にすぎないのだ、と認めてしまえば、そのときどきの変化を楽しむしかないのだな、と諦めてしまえるのではないか。延々ずっと成長しつづけたい、極めつづけたい、上達しつづけたい、との思いも理解できるが、それはむしろ、ある境地を境に、自由とは真逆の性質を宿すように思えるが、いかがだろう。最初のうちは、向上心は追い風となって背中を押してくれることもあるだろうが、それでは風に身体を操られているようなものだ。いや、それを言ってしまうと、世の理の流れに身を任せてそのつどそのつどの変化を楽しむこととて、自由とは言い難い。ときに反発できる余地をいつでも持てるようにしておく。その余裕こそが大事なのかもしれない。おおむねはそのときどきの変化をつど楽しみ、ほんの時々、僅かな抵抗を以って、己が理想の指針へと歩みの矛先を定める。そのためには、世の理の流れを掴めるくらいに、見る目を肥やさねばならないのだろう。見る目とはいえど、それは視力のことではない。五感を駆使して世界を感じ取る能力そのものだ。いちど流れに乗ってしまえば、あとは思うがままに抵抗すればいい。抵抗することにも抵抗できるようになれば、ある種の達人と呼べるのではないか。何かを言ったようで何も言っていないに等しい文字の羅列を以って、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3386:【2022/01/11*首輪には連絡先を書いておいてください】
無視するには気を揉むような落し物を年に、二、三回拾うので、交番にはそのつど足を運ぶことになる。きょうは初めて犬を拾った。拾ったというか、犬小屋から脱走したのだろう、道路を一匹でトコトコトコトコひたすら歩きつづけていたので、飼い主らしき人物も見当たらないし、しょうがないので捕まえた。出かける途中だったのだが、このことにより予定の変更を余儀なくされた。しょうがない。犬には首輪もリードもついており、リードは千切れていた。やはり犬小屋から脱走してきたのだろう。交番までは一キロの道のりだ。しょうがないので自転車を引きながら、犬をつれて歩いた。おとなしい犬で、しかも賢い。自動車を怖がって歩道側を歩くし、こちらが立ち止まると、どしたの、とこちらの顔色を窺う。暴れることもなく、リードの導くとおりについて歩く。よほど心細かったのか、元からの気質なのか。雑種で、柴犬よりも大きい。交番に届けたが、飼い主が見つかるかは分からない。首輪に名前も連絡先も書かれていなかった。飼い主が警察か保健所に連絡してくれることを祈るばかりだ。いちおうSNSをチェックしてみたけれど、それらしい情報は見当たらない。警察は、気軽に飼い主がチェックできるように、迷子のペットの情報を載せるSNSを開設してもいいように思うが、個人情報の扱いでそれもできないのだろうか。飼い主の見つからない迷い犬や猫は、保健所でおそらくは数日のあいだ保護されたのちに、飼い主が見つからなければ処分されるはずだ。可哀そうなことである。(とか文字を並べながらジュースを飲みつつ、暖かい部屋でぬくぬくしている我が身を思うと、ひどい人間ですね、と思ってしまうな。これもまた、しょうがないのである)(新作掌編:「秒読みをはじめます」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859355669861)


3387:【2022/01/12*虚言詰め合わせ】
「企業も、研究機関も、出版社も、審査員も、教師も、師も、先輩も、国民も、何が一番問題をこじれさせるかと言えば、見る目がないことだと思います。二番目は、見る目がないことに無自覚な点かと思います」「どんな人間でも他者を自在に操れる権力を手にすれば知らず知らずのうちに傲慢になるし、何でも買えるくらいに資本を持てばやはり知らず知らずのうちに他者の労力を軽んじるようになる」「同じ環境に他人がいるだけで思考に制限がかかる。自由にものを考えるには孤独でないとむつかしい」「教科書のおもしろさがわかるようになってきてしまったので、いくひしさんはもうダメです。妄想家としてはもうおしまいだぁ、の気分である」「どうやったら人に好かれるかは分からないけれども、どうやったら人に嫌われるのかは割と簡単に分かるのだよね。仮にいくひしさんが他者を利用して何かをなそうとしたら、じぶんを好いてくれる人を利用するのではなく、じぶんを嫌う人をこそ利用します。そのほうが相手の動きを操作しやすいですし、予想もしやすいでしょうからね。最大の攻撃は防御ではなく、往々にしてカウンターなんですね。相手の攻撃を利用しましょう。損を得にするのです。嘘です。話し合いをもとに平和を目指しましょう。(どちらに転んでも得をするように計画は練っておきましょう。というよりも、計画とはどのような事態になっても得をするように対策を練っておくことだと思います)(そして絶対にカウンターを受けないようにしておけば最大の攻撃を受けることはなくなるので、つまり誰のことも攻撃せずにいることが最も合理的な防衛策となり得ます。誰も攻撃せずにかつ無事でいるためには、いつでもカウンターを放てますよ、と周囲から見做されるだけの実力がいるので、なかなかに矛盾した境地と言えるのかもしれません)」「性格がわるくて申しわけありません」「仮にこの【いくひ誌。】を現在進行形で読みつづけている方がいらっしゃるとしたら、そろそろいくひしさんが予知者か何かのように錯覚しかけてしまう人もでてくるころではないか、と危惧してしまうので、万が一のために、念のために、杞憂だとは重々承知のうえで、そんなことはまったくありませんよ、と述べておきますね。数年単位で答え合わせができる程度のことは予知の範疇ではありません。物理学や数学など、科学の世界では数百年単位での予言性を発揮している研究者がたくさんいらっしゃいます。それに比べたら、いくひしさんの妄想は、まさしく妄想であり、煙が立っているのを目にして、きっとあそこの下には火があるぞ、と指摘する程度の底の浅さなんですね。どうぞ、惑わされぬようにお願いいたします」「ちゃっかり、数年単位の未来予測なら的中してますよ、と匂わせている点がずるっこですね。うそっこもたいがいにしましょう」「うひひ」「今後何かの間違えで訊きたくなるかもしれない人がでてくるとも限らないので先にお答えしておきますが、いつからそれ考えてたの、との質問には、最初からですよ、と応じます。最初からですよ」「可能性を確率の高さごとに虱潰しに考えておけば、そのうちのどれかは当たるし、可能な限り対策を打っておけばやはり致命傷を避けられる。むしろ負った傷すら利用可能だ」「どっちに転んでも得をするように考えるのがコツです」「最悪、死んでも利になるように方針を考えておけばよいわけです」「大事なことなので同じことを繰り返してねじ込みましたが、お気づきになられたでしょうか」「上記、いつものように妄想ですので、どうぞ真に受けないようにしてください」(「霊魔怪シリーズ【マキトリ木の使い道】」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859378106895)


3388:【2022/01/13*わるいおとなムーブ】
一か月に数回顔を合わせるくらいのほとんど赤の他人と言えるレベルの中学生の男の子がいるのだが、あまりによい子すぎて、きみみたいな先輩がほしかったな、とついつい本音が零れ落ちてしまった。そのままでいてくれ、とわるいおとなの言動をとってしまったが、思ってしまうのだから仕方がない。そのままでいてくれ。とはいえ、それは心の芯の話であって、彼はこのさき、私なんかが比較対象になるのもおこがましいほどに、いろいろなことを学んで、いろいろな体験を積み、いろいろな出会いがあって、いろいろな失敗を重ね、ときに乗り越え、ときに挫折し、さまざまな知識や技術を身に着けて、あっという間に私が教えてあげられることなど何もない存在になってしまうのだよね。むしろいまですら私のほうが彼のような十代の子たちの所作とか、立ち振る舞いから学ぶことのほうが多いのだ。謙遜とかでなく、本当にそう思うし、それが事実だと揺るぎなく実感するのだが、この本心すらうまく言葉にできないし、言ったところで伝わらないのがもどかしい。きみは素晴らしいよ素晴らしいですよ、という言葉は、それを口にした途端、お世辞とか社交辞令とか、そういう空虚な響きとなって、冬空のしたで吐く息のように一瞬の濁りを見せたあとは、儚く消えるのだ。どこにも留まらず、それそのものが届くこともなく、無闇に。若いから素晴らしいのではない。きみがきみであることが、ただそれしきのことが素晴らしいのだ。解かってほしい、とやはりわるいおとなの欲がでてしまうな。(わがはいに言われてもな、という話なのだね)(言葉に重みがないし、それでいいし、それがいい、とも思う自家撞着)(新作掌編:「イタズラもほどほどに」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859425986874)


3389:【2022/01/14*THE記】
調子の良し悪しのバロメーターとして、日誌と小説、両方がスラスラいけるときは調子がよく、日誌がスラスラいかないときは精神が疲れており、小説がスラスラいかないときは肉体が疲れているように思えます。でもこれは本当は真実を反映しておらず、日誌も小説もスラスラいくときのほうが極限状態にちかいので、覚醒している分、身体にも脳みそにも負担をかけているため、本当に注意しておかなければいけないのは、日誌と小説の双方がスラスラいくときなのかな、と想像しております。うぎゃー、なんも並べることがないので真面目ぶって自己分析してみたけれども、うんじゃらみょーん、ですね。そうやってまんちゃんってばすーぐふざける。よくないと思います。だってしょうがないじゃんね、ふざけるといっぱい文字が並ぶんだもの。あるがまま、なすがまま、思考の赴くままに自由に文字を並べるときのこの快感、拙者、いいと思います。さいきんはねー、いくひしさんねー、めっちゃがんばってるフリして、めっちゃサボってるんですぜ。サボりすぎてて、いろいろな技術だの感性だのが鈍ってるの分かっちゃってるんですぜ。ズバリ見抜いたり。そしてそのまま見て見ぬふりをしたり。いっぱい錆びつかせて鈍らせれば、その分、いっぱい磨いて鋭くできるので、わーい、なんですね。ダイエットの達人はリバウンドの達人でもある、みたいな理屈ですね。失敗を乗り越える達人は、誰よりもいっぱい失敗している、みたいな理屈です。さいきんはコーラとかCCレモンとかがぶ飲みメロンソーダとか、身体にわるそうなジュースばっかりゴクゴク飲んでいます。美味しいです。いっぱい飲んじゃお。たまには意識的にとりとめもなく以上を持ちまして、本日の「いくひ誌。」でした。(これぞ雑記、を目指しました)(怪文書ともいう)(言うか?)(言うの)(新作掌編:「深く潜る世界に」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859400380565)


3390:【2022/01/15*届く余地があるといいね】
じぶんが楽しいと思うことが必ずしも他人にとっても楽しく感じるとは限らない。これは価値に置き換えても同じことが言える。じぶんにとって価値が高くとも、他人にとってはそうでもない、ということはとりたてて珍しくない。自分自身に限定してみたところで、お腹が減っているときとお腹いっぱいのときとでは、食べ物の価値が変わる。価値とは相対的なものである。そこにきて、ではじぶんで楽しみながらつくった物語が、果たして他者も楽しめるのか、と言えばやはり必ずしもそうではないし、往々にしてそうではありません。ひょっとしたらじぶんですら、つむぐのが楽しいのであって、読むのは苦痛だ、となるかもしませんし、推敲きついな、と現に思うときがすくなくないことを思えば、さもありなんです。じぶんですらそうなのですから、他人は言うまでもないでしょう。全世界の人間のなかでそれを楽しいと思っているのは、それをつむいでいたときのじぶんだけであり、ほかには誰もいない、といった悲劇はあり触れているでしょう。かといってでは、この先の未来においても皆無なのか、と言えば、それはそうとも言いきれません。未来のじぶんなら楽しめるのかもしれないし、これから生まれてくる人間のなかに楽しんでくれる人がいるかもしれない。それは分かりませんが、皆無ではない、ということは断言できそうです(今後、地球や人類が滅ばなければ、との条件がつきますが)。そうした可能性――ともすれば希望が絶たれていない以上、まずはつむいだ物語、成果物、表現を、できるだけ後世の人たちの目にも触れる機会を残しておく選択は、どんな人物であれ、とっておいて損はないように思います。どんなにじぶんでつまらなく感じても、消してしまったり、隠してしまったりせずに、もう一人のじぶんにいつか届くかもしれないと夢見がちにふわふわと賭けをしつつ、その賭けに勝つかもしれない余地を奪わずにいることは、期待値がゼロの日々を過ごしていくよりも、心の隅っこだけでも元気でいられる余裕を与えてくれるように思えます。余裕が溜まってきたらこんどは、じぶんが他人のそうした物語、成果物、表現を、いまはここにいないだろうけれどもいつかは生まれくるかもしれないもう一人のじぶんたちに届く余地を築いていけると、すこしは張り合いのある時間を送れるようになる気がしますが、じっさいのところはどうなのでしょうね。ハッキリさせるためにも、いちどやってみなければわかりません。もちろん、誰にも届かなくていい、という物語、成果物、表現があってもよいと思います。心というのはおおむねそういうものでしょう。誰にも届かないことを前提として、ただ無為に垂れ流されており、ときおり表現を通して外部に僅かなりとも漏れることもある。しかしそれにしたところで、漏れたナニカシラが他者に伝わるとは限らない。しかしときどき奇跡のように届くこともある。伝わることもある。そう、この日誌のように。それともいくひしさんのつむぐ物語のように。定かではありません(新作掌編:「全身烏龍茶人間」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859427086404)


※日々、じぶんの上位互換が多すぎる、いつでもじぶんが偽物のきぶん。


3391:【2022/01/16*無に帰す】
誤解されそうなので記しておきますが、いくひしさんはいま郁菱万の小説を千作以上つくろうとしていますが、べつにそれが目的で小説をつくっているわけではありませんし、それを達成したところで何がどうなるとも思っていません。むしろ知らないだけで千作以上つくっている小説家さんはアマチュアだけでも最低でも百人以上はいると思っています。小説をたくさんつくったからといって高く評価されるわけではありません。それはそうでしょう。おもしろい小説をつくるから、それがたくさんだとうれしいね、という話であって、重点は量ではなく質にあるのですね。いくひしさんはちょっと妄想が激しいので、千作つくったらさすがにちょっと目立っちゃいそうだなと怖さを感じてしまうので(目立つのにも時間は相応にかかるでしょうが)、郁菱万は引退してほかの名前でまたゼロから小説を世に放っていこうと考えています。関係ないのですが、いつもじぶんのしていることを思い描くと連想する漫画があり、それが何かと言うと、ブラックジャックなんですね。その中に、ブラックジャックがメスを研ぎに行く話があり、その研ぎ師の方が、依頼料としてせっかく手に入れた札束を火にくべて燃やすシーンがあり、なんだかいまいくひしさんがしていることも似たようなことなのかもな、と思うときがあります。どこが共通しているのかは謎なのですが、ウヒヒ、と笑いたくなるところが似ているのかもしれません。いくひしさんのつむぐ物語に価値はありません。仮に価値を生むとすればそれはいくひしさんではなく、おしなべて読者の方なんですね。ありがたいことです。ちょっときょうは趣向を変えてみましたが、あまりこれまでと変わらずでしたでしょうか。これもまたきょうのいくひしさんがそう思った、という以上の意味合いはありませんので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(新作掌編:「ふしぎな世のお話」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859482592229)


3392:【2022/01/17*ぐらぐらのぶれぶれ】
直近のじぶんの表現を見直すと、未熟の極み、としか思えないのに、半年前のじぶんの表現を見直してみると、いまよりよくないか?と評価がすこし高くなり、一年前のじぶんの表現を振り返ってみると、まだまだだな、と粗が目立ち、さらに過去のじぶんの表現を見直すと、いいところもあるしわるいところもあるな、と冷静に長所と改善点を見つめることができる。そして大昔のじぶんの表現を見直すと、これは時と場合によるが、大絶賛か酷評、みたいに、極端な印象になる。要するに、そのときどきで、評価する側も、表現する側も、正確ではないのだ。一人の人間のなかであってもこれだけ鑑識眼にしろ表現の仕方にしろ、不安定なのだから、その他大勢からの評価や表現がいかにじぶんの理想と離れているのか、なんてことは吟味する以前に、合致することのほうが奇跡的と呼べる。たとえ合致したところで、それもいっときの同調であって、ずっと重なり合いつづけるなんてことは考えにくい。けっきょくのところ、そのときどきにできることをするしかないし、そのときどきに得た評価なんてものも、さしてじぶんの指針にすべきものではないのだ。参考程度でいい。ときには敢えて見向きもしない無謀さもいるだろうし、敢えて直視し、真っ向から受け止めてみる無謀さもあってよさそうだ。それすら、そのときどきの変化を帯びるための契機にすぎず、実験に加えるちょっとした工夫でしかない。表現にしろ評価にしろ、じぶんがする分には、まずはしてみるしかないのだろう。まずはしてみる。そのさきにようやく、ではどうするか、の思考の筋道が現れる。いかに人生を豊かにするか、選択肢を増やせるか、楽しいの気持ちを色合いのごとく多彩に揃えていけるのか。そうした工夫の余地を導くためにも、いますでに示された過去の表現や評価に気を取られずに、まずは始点となる点を打ってみることである。それがじぶんの表現や評価の支点(支軸)になるかどうかは分からない。それを見極めるためには過去や未来を含めた多様な視点があると便利だろうし、そうした視点を揃えるためにもやはり、まずはじぶんの過去を振り返り、未来を思い描けるように、点を打ち、線に結びつけていくよりないのだろう。不毛なことである。それゆえに、無数に打った点を結び引いた線を以って、理想を描くじぶんだけの筆を編みだしていくしかないのだろう。むつかしいことである。また、やはりというべきか、定かではないのだ。(新作掌編:「心の断面図はガラクタで」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859511603635)


3393:【2022/01/18*個別に開かれている】
いまはすくなからずの人々はじぶんの存在意義のよりどころをどこに求めていいのかわからなくなってしまっているのかな、と感じる。だからいちどこれ、と思うと、なかなかそこから抜けられずに、さっさとやめればいいのに、と思うようなコトや場にいつまでも縋りつづけて苦しんでいる。だいいちに思うのが、存在意義は何かの許しがなければ得られないものではない、ということだ。この共有認識が乏しい社会がずっとつづいてきたのだろう。いまが最も共有認識の高い社会と言い換えてもよい。マシになってきているのだ、これでまだ。べつに誰からの許可がなくとも私は存在していいし、あなたも存在していい。べつに誰の役に立たずともいいし、誰かの役に立ってもいい。それが基本的人権の中枢にある思想のはずだ。大前提のはずなのだ。けれどなぜかそこが忘れられてしまって、誰かしらからの許容や承認がなければ存在する意味がない、存在してはいけないのだ、みたいな強迫観念を抱えている人たちの言動をまま見かける(それはそういうふうに誘導しようとする者たちがすくなからずいるからで、みなが存在意義を他者に委ねてくれたほうが得をして生きやすい者たちがやはりすくなからずいるからなのだろう)。もちろん現代社会では仕事をしなければ生きていけない。対価にお金をもらわねばやっていけない。だがそれと存在意義は別の話だ。ここを同一視してしまうと、息苦しさを抱えて生きていくことになるし、その息苦しさを他者にも押しつけてしまうことになる。金持ちと貧乏人のあいだに本来は差はない(もしくは、どんな人間であれ異なるのだから、等しく差だらけとも言える。人間であるという共通点があるばかりだ)。同じ人間でしかないのだから。にもかかわらず、より多くの承認を集め、金を集め、権力を行使できる者のほうが存在意義があり、価値があり、存在すべく存在として規定されるような流れが漫然と世を漂っている。そんなことはないよ、という者もあるが、そんなことはあるのだからきっとそのことに無自覚なのだろう。世の中には、ノアの箱舟に乗れる人間と乗れない人間が曖昧ながらも区別されている。この曖昧な基準は、みなの無意識に染みこんだ共通認識によって成立している。つまりが偏見だ。貴重な知識や技術のある者が尊ばれる。権力のある者、地位のある者が尊ばれる。言い換えるならば、みなの役に立つ者が尊ばれる。だがそれと存在意義は別物だ。社会の役に立つかどうかと、個人の存在意義は別物なのだ。仮に同じだというのなら、赤子はおおむね存在意義がないことになる。しかし人は赤子を尊ぶではないか。なぜかこれが、大人に対してだと適用されなくなる。忘れ去られてしまう(たほう、時代によってはまっさきに赤子が間引きされてきた歴史がある。存在意義と社会的意義が同義にされ、直接に役に立たないから負担を軽減するために赤子の命を奪ってしまった過去が人類にはあるのだ)。役に立つかどうかではないのだ。存在意義は個々のなかに、別個の評価軸を以って、個別に開かれている。それを他者と共有できなくてもいい。あなたの存在意義を、他者に理解されなくてもいいし、許容されなくてもいい。人はただそこに存在していてよいのだ。ただし、他者の存在意義を損なったり排除しようとしたりすれば、それは法律という共通ルールのもとで裁かれ得る。そして人と人とが関われば、大なり小なり、相手の存在意義とじぶんの存在意義とのあいだで、相容れぬ場面が訪れ、そのときにどちらがその場を離れるか、相手に場を譲るのか、で衝突することになる。そのときは、どちらがより多くの味方を身につけられるのかによって勝敗がついてしまうことが多くなる。するとそれは、公共の福祉という建前で、みなから支持されたほうの存在意義が場に残り、そうでないほうが引くこととなる。だが本来はどちらの存在意義も損なわれるべきではないし、現に損なわれることはない――本来であれば――基本的人権を前提とするならば。別の場所でまた、こっそりと存在意義を噛みしめればよいのだ(しかし場を明け渡すことで生きていかれなくなる流れが現代社会では根強い。なぜかを考えてみよう)。基本的に存在意義は、じぶんだけのものである。誰かの許しも、承認もいらない。この世に、じぶん一人きりであるならば。しかし世の中には多くの人々がいる。みな個別にじぶんだけの存在意義を持っている。泡と泡とがぶつかって割れてしまわぬように、ときどきは相手の泡と部分的に結合しながら、それとも弾力を以って接しながら、うまく全体で巨大な泡を築いていられれば、おそらく社会そのものの巨大な泡(社会意義)が、すなわちじぶんの存在意義の安定した継続に結びついていくのではないか。理想論であるが、まずはそこを目指しても損はない気がするが、あなたはいかが思われるだろう。私見だが、全体主義も個人主義も、滞りなく進めばどちらも同じ場所に行き着く。人体は細胞の連なりが機能してできている。社会も同じである。個々の存在意義が泡のように寄り集まり、社会全体を機能させている。身体は細胞の一粒一粒に気を払うことはない。細胞たちも一粒一粒が全身のことなど考えて動いているわけではない。しかし互いに、崩れ去っては困る自らの一部として、そこに偶然存在している。漫画「鋼の錬金術師」でも出てきた言葉だが、「全は一で、一は全」なのだ。そこに本来、優劣はない。どちらも同じだけの存在意義を抱え、そこにただ存在している。そのときどきで、どちらをより優先すべきか、の判断は立ち現れるだろうが、それはけして、どちらがより価値があるのか、存在意義があるのか、には結びつかない。どちらにもそれぞれの価値があり、それぞれの存在意義がある。それは独立しているがゆえに、比較の対象にそも載らないのである。ゾウと蟻を比べても致し方ない。銀河と地球を比べても仕方がない。どちらも相応に、ただそこに存在している。だがゾウと蟻は生態系の一部を築いているし、銀河と地球は宇宙の構成要素の一部である。意義はあってないようなものであり、あると思う主格のなかに漫然と漂う、関係の連なりなのである。(定かではありません)(鋼の錬金術師はおもしろいです。好きな漫画です)


3394:【2022/01/18*一は点、全は集合】
上の記事についての補足です。鋼の錬金術師ででてきた言葉を正しく引用すれば、「一は全、全は一」となります。敢えて逆に記しました。全には集合でありひと塊である、という意味があるのに対し、一には一や最初以外の意味が内包されていないためです。そのため、より限定されていない全のほうを先にしましたが、どちらが先でも同じことを意味します。とはいえ、仮に宇宙の始まりが点ではなく、無であったとすれば、そもそもどちらも間違っていると言えるのかもしれませんが。


3395:【2022/01/19*サボりつづけるには?】
わがはい、サボる天才である。一日のなかでぎっしり予定を組むことはないし、毎日の習慣にしたところで、無理そうならサボるようにしている。たとえば毎日どこかに行って何かをしなくちゃいけない、と決めていたとしても、忙しくなれば当然、時間はずれる。この時間帯にこれが終わらなければ、じゃあこれは無理だから諦めよう。こう考えてすぐ諦めるようにしている。そのためにはあらかじめ、この時間帯はここに行ってこれをしよう、と予定を組んでおかねばならない。決めておかねばならない。拡張して考えれば、サボるためにはまず、サボるための予定や作業を組んでおかねばならないのだ。つまりサボる天才とは、日々サボれるだけの予定を組んでいる者であると呼べる。しかしわがはいはべつにそこまでぎっしり予定を組んでいるわけではないし、一つの予定を組んでおいて、それをサボって寝て過ごす、なんてこともある。さらに言えば、寝ることすらサボってきょうは徹夜して遊んじゃお、みたいな日もあり、もうもう予定調和でなければそれは総じてサボりになるんですね。なんでも順調と言っていれば順調だし、なんでもサボりだと言っていればサボりになる。遊びと思えば遊びだし、拷問だと思えば拷問になる。これはもちろん主観の心証の話であって、客観的にはそれぞれ区別可能な定義がある。順調でないことを無理くり順調だと思いこんだところでそれは順調ではない。むしろ現実から目を逸らしている時点でより悪化していると呼べる。だが現実を承知したうえで、ひとまず苦痛を緩和する意味合いでは、順調じゃないけど、まあひとまず順調と思っておくか、といった姑息な現実逃避は、手術中の麻酔みたいに、ときどきは用途に応じて使い分けられると、日々の予定が狂っても、また次の日から、予定をこなそうとする姿勢を維持できるのではなかろうか。いくひしさんはいま、日々充実しており、順調である。しかし客観的にはおちこぼれの、ひきこもりである。サボりつづけてきた者の末路であるが、サボることも極めればそれはそれで粋である。予定調和ではない偶然の神秘を噛みしめて日々を生きていきましょう。わがはいは生きていくでござるよ。サボるの権化、本日のいくひしまんでした。(新作掌編:「ナマズの姿が目に浮かぶ」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859536936252)


3396:【2022/01/20*何の話題というわけでもないにしろ】
あたりまえの話ですけれど、人によって何を大事にしているのかは違うわけですね。たまに同じものを大事にしていたりすることもあり、そういうときにはいっしょになって大事にし合ったり、奪い合ったりしてしまうものですが。たとえばいくひしさんは、メンツというものを、くだらないし、いらないな、とあまり大事に思っていない個人ですが、それでもメンツを大事にしている人に対してまで、そんなものはくだらない、とは言いませんし、言いたくはありません。その人が大事にしているものなら、なんであれ、大事にしてほしいし、損なわれてほしくないな、と望みます。また、何かを大事に思っていて、それが絶対に手元に欲しいんだ、所有したいんだ、じぶんの手で大事にしたいんだ、と強く望む者があった場合、それが量産可能なモノとか概念とか、要するに代替可能な代物であったならば、欲しい人にあげたらよいのではないかな、とも思います。欲しい人にあげたほうが、あげるほうも、そうでない人にあげるよりかはうれしいでしょう。大事にしてくれると判っているわけですからね。それによって何かを得て望みを叶えた人がいたら、言葉にするかどうかはさておいて、周りの人たちは、よかったですね、と拍手の一つでもしてあげたらいいと思います。たとえば賞とか勝負とか昇級とか、そういうのは、欲しい人、勝ちたい人、位を高めたい人に、どうぞ、と言ってあげたらよいのではないかな、と思ってしまいます。もちろんそれぞれに基準となる何かしらの、ここを越えたら(満たしたら)あげられますよ、みたいな関門はあるものでしょう。それを乗り越えていたら、欲しい人にはみなにあげたらよいのでは、とやはり思ってしまいます。稀少なモノだとか人権に関わるコトであると、そうもいかないのかもしれませんが、何が損なわれるわけでもない賞とか、勝負とか、昇級とか、そういうのはもう、欲しい人にあげて、よろこんでもらって、周りの人たちもよかったねぇ、と微笑ましく拍手を一つして、それでよいではないですか、と思ってしまうのですよね。誰が一番になったとか、優勝したとか、受賞したとか、それってそんなにひがんだり、無視したり、批判したりするようなことなんでしょうかね。仮に批判しなくちゃいけない局面が訪れたとしたらそれは、賞とか勝負とか昇級の仕組みどうこうではなく、それによって著しく影響を受けてしまう周囲の者たちの心構えというか、考え方が、ちょっと一面的すぎることに要因があるように思えます。幼稚園のかけっこで一等賞になりたいコが一等賞になったら、よかったね、よくがんばったね、と言ってあげればよいでしょうし、それが幼稚園でなくたって、よかったね、よくがんばったね、と言葉にしないにしろ、思えばよいのではないでしょうか。もちろん、何も思わずともよいとは思いますが、同じくらい、いちいち不快に思う必要もないように思います。(何の話題かも定かではない戯言ですので、真に受けないように注意してください)


3397:【2022/01/20*くだらないは未知の宝庫】
いくひしさんは、くだらないことのなかに愉快なことがたくさん詰まっていることを経験的に知っているので、くだらないことがわるいとは思っていない。ただし、何が面白いのかいまはまだよく分からない、ということが往々にしてあり、だからはまずは距離を置いたり、時間を置いてからもういちど観察し直してみよう、と保留する癖がある。それゆえに、いくひしさんにとってくだらないことを大事にしている人がいると、いくひしさんの分まで、それを大事にして何が面白いのか、素晴らしいのかを知る道しるべを築いてほしいな、と望んでいる。くだらない、といったんは目を背けるけれども、だからといってそれに消えて欲しいわけではないのだ。教えて欲しい。それのどこがどう面白くて素晴らしく、何がきみの心を掴んで離さないのか。それはときにきみを苦しめる根源になっているのかもしれないし、苦痛から逃れる触媒になっているのかもしれない。ひょっとしたらきみをきみとして形作る核になっているのかもしれないし、きみが自覚していないだけで、きみそのものを輝かせる光源になっているのかもしれない。定かではないけれど、それを知るには、いくひしさんだけでは無理なのだ。どうか、いくひしさんにとってくだらないことを、それでもあなたは大事にしてください。(新作掌編:「魔王、去る」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859566435475)


3398:【2022/01/21*もう諦めてもいいじゃろか】
毎日掌編つくるの、さすがにヒーヒーいってきた。というかふつうにサボってるので毎日つくってるわけじゃないので、全然なんですね。口だけ星人と呼んでください。おっきな口でぱくりと何でも呑み込むよ。きょうの晩御飯はチャーハンです。コツを覚えました。アツアツに熱したフライパンに油を入れて、ご飯と具材を炒めて、このあとがコツだったんですね。フライパンの真ん中に卵を投入する空間を開けて、そこに卵を割って落とすのですが、このあとすぐにご飯と混ぜちゃわないようにしたほうがよいみたいです。スクランブルエッグを作るときみたいに卵だけを炒めつつ、掻き混ぜて、ほどよく水分が抜けてからご飯と混ぜると、パラパラ炒飯のできあがりです。炒飯を作りながら思いだしたのが、いくひしさんには子どものころに思い描いた叶えたい将来の目標がいくつかあったのですが、そのうちの一つはたとえばペットを飼ってみたい、だったりしますが、いまのところはまだ叶っていません。で、ほかにもスイカを丸ごと一個じぶんで食べてみたいとか、フルーチェをお腹いっぱい食べてみたいだとか、いまから思うと、そんなのお小遣い貯めて叶えなさいよ、と思わないでもないんですが、たぶん小学校にあがる前に思い描いた将来の目標なので、そこはなかなか具体的な計画には結びつかなかったんでしょう。で、いま振り返ってみると、フルーチェもスイカもどちらも叶えていないままなんですね。いやフルーチェは叶えた気もするけれど、それは叶えるぞ、と意気込んでのことではなく、たぶんふつうにフルーチェ食いて、となって買っただけなんでしょうが、まあまあふつうに歳のせいか、一袋分のフルーチェでお腹いっぱいになっちゃったような記憶があります。スイカはというと、これは別に丸ごと一個食べたいほどいまスイカ好物ちゃうしな、みたいな感じで、もうもう鉄は熱いうちに打てじゃないですけど、将来の目標は掲げたときに具体的に動け、とホントに思います。しかしあいにくといまのいくひしさんに将来の目標がこれといって見当たらないので、どないしよ、と思いつつも、いまがずっとつづけばいいなぁ、とわがままを唱えて、本日のずぼらな「いくひ誌。」とさせてくださいな。おやすみなさい。(新作掌編:「栞を宙に挿す」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859586993317)


3399:【2022/01/22*んが】
今後、もしかしたらこの「いくひ誌。」をいくひしさん以外で読む人がでてくるかもしれないと思うと、ちょっと誤解を招きそうだな、と思うので、注釈を挿しておきますが、この日誌はあくまで人類の滅んだ世界でいくひしさんが孤独を紛らわせるために、まだ人類の滅んでいないころの日常を思いだしつつ、寂しさを紛らわせるためにつむいでいる日誌ふうの妄想、のテイでつむいでいる、嘘っこというか、小説というか、ある種の壮大な物語なので、いくひしさんの中の人はこの「いくひ誌。」から感じ取れるような人物とはほとんど異なりますし、大きくかけ離れていると言えます。というこの言及そのものも人類のいなくなった世界で、もう嫌だ、現実なんて見とうない、と駄々をこねているいくひしさんの自己暗示みたいなものなので、といった具合で、入れ子式に現実と虚構がメタフィクションのごとく、ごちゃごちゃと入り混じっており、それゆえに過去も未来も時系列を超越しているのでございますね。全然関係ないのですけれど、文章を並べるときは呼吸が浅くなりがちで、なんだったらしばらく呼吸を止めているなんてこともあり、自覚している以上に肉体への負担が大きいのかな、と感じるきょうこのごろでございます。五千字前後の掌編ですら結び終えると、脳内に巡る血管の拍動が判るくらいに体液が行き渡っているというか、充満している感じがして、激しい運動をして筋肉がむちむちぱんぱんに張るような感覚を、脳みそにも感じます。何の話だっけ? そうそう、これはだから現実を反映した日誌にしろ、嘘っこの虚構にしろ、どちらにしてもいくひしさんの妄想であって、等身大のいくひしさんなんて滲みでてるくらいにしか叙述されていないのでありますね。まあ、おちこぼれのひきこもり、というのは本当なんでございますが。これは本当なので、うひひ、とは笑えません。笑わないでください。お願いします。うしし。


3400:【2022/01/22*フリーズ!】
芸術において、人の心を動かすような表現がよい作品の条件の一つらしい。いくひしさんには無理そうなのでじゃあわがはいは、心が止まるような物語、新しく心が生まれるような物語をつくるよ。



※日々、寂しさよりも煩わしさが上回る、栄誉よりも静寂を欲する。


3401:【2022/01/22*極意】
極めると一口に言っても色々ある。刀を鍛えるような極め方もあるし、針の先端のように鋭くする極め方もある。球体を磨くような極め方もあるだろうし、絵具を揃えるような極め方もある。モザイクを配置するような極め方や、現実をそのままなぞるような極め方もあるだろう。ここまでくるともうなんでもありなような気がしてくる。中途半端ですら極めれば、それはそれで一つの突出した能力となり得る。平凡であってもそうだし、未熟であってもそうだ。すなわち極めるとは、どのような状態かを問わず、限定された条件内であらん限りの利点を探り、体得することと言えるのではないか。どのような環境であれ、目的を達成すること。活殺自在に肉体を操り、自由自在を体現すること。或いは、それを他者へと継承可能な技術に昇華すること。つまりが再現性の獲得であり、言うなれば何度でも同じことをしてみせられるように確率を操れるようになること。それこそが極めるの意ではなかろうか。(ということは、極めた状態がずっとつづくというのは原理的にあり得ず、もしそのように錯覚するようなことがあればそれはすなわち、新しいことに挑戦していない状態だと言えるのではなかろうか)(定かではありません)(新作掌編:「浮島のごとく静かに」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859622996010)


3402:【2022/01/23*お金の消費期限】
2022年の現時点で全世界の資産総額は250兆ドルらしいので、単純に一ドル百円として、これを現在のおおよその人口、八十億で割ると、三百十二万五千になる。つまり全世界の資産を均等に分け与えると、一人当たり三百万円くらいの資産を持つことになる。これが年間であればうれしいが、生涯を通しての資産の総額となると困ってしまう。そういう意味では、全世界の資産総額というのは、現時点での累積総額のことなのか、それとも毎年毎年それだけの資産が生まれているのか、どちらなのだろうね、と気になる。たとえばの話、一年間誰もお金を使わない年があったとしたら、そのときの資産とは何を示すことになるのだろう。みなが物々交換のような生活を、いっせいのせいで、で始めたら、そのとき、お金の価値はなくなるはずだ。極論、お金というのは使うからこそ価値が担保される、と言える。では使われずに貯えられていく一方のお金に、いったいどんな価値があるのだろう。資産とはお金とイコールではない。市場に流れないお金にはそも、資産としての価値はないのではないか? お金にも消費期限があるように思えるが、真実のところはどうなのだろうか。疑問である。(新作掌編:【寸借詐欺に遭った話】https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859649300766)


3403:【2022/01/23*傷つきたくはないので】
もしいくひしさんが身体を鍛えたり、権力を得ようと行動しはじめるとしたら、それは誰かを虐げたり、傷つけたり、誰より強いと示したいからではなく、じぶんが他者の分まで傷ついても無事でいられるようにするためかもしれない。誰かを傷つけなければ場を切り抜けられない局面であっても、敢えて無防備に立ち尽くして、誰かの盾になったり、壁になったり、じぶんの守りたいものが傷つかない代わりにじぶんが傷ついてもだいじょうぶなように身体を鍛えたり、権力を得たりすると思います。たとえば誰かに騙されそうなとき。ひょっとしたら相手は、そうしなければあすの食べ物すら食べられないような進退窮まった状態かもしれない。追い詰められているのかもしれない。だったら騙されていると知りながらもいくひしさんは、騙されてあげたいと考えてしまう。そのためには、騙されても、損をしても、いくひしさん自身の生活が崩れないようにしておかなければならない。そのためにならまあ、身体を鍛えるのも、権力を得るのも、そうわるくはないかもな、とは思うものの、いまのいくひしさんにはそこまでして守りたいモノもコトもないので、ふつうにこのまま弱いままでいたいと思います。(とはいえスーパーマンみたいに強くて、アイアンマンみたいにお金持ちだったらふつうに誰も困窮しないシステムを築くほうに尽力しますけれどね。そのほうがいくひしさんを含めてより長く誰も傷つけず、傷つけあわない社会になる確率が高くなるように思います)(それとてけっきょくは、築いたシステムに参加してくれる大勢がいてはじめて成り立つ社会なので、けっきょくはいかにみなの協力を得られるのか、が要になるかと思います)(本日のとらぬ狸のぽんぽこりんでした)


3404:【2022/01/24*黄色信号】
さいきん急激に治安がわるくなってきたなと、ニュースを見ていても思いますし、身の回りの変化を見ていても思います。生活が立ち行かなくなれば誰であれ心は荒みます。安らかに穏やかに、ときどきはワクワクうきうきしながら、それでも心静かに生きていきたいものですね。


3405:【2022/01/24*みんな辞めていく】
行きつけの遊び場がある。人のすくない時間帯を狙って足を運ぶのだが、それでも常連の姿は憶えるものだ。そこにきてここ二年の変化であるが、かつての常連たちがこぞって顔を見せなくなった。もうほとんど見ない。いや、相変わらずのメンバーもいるにはいるが、それはほとんど生活が安定している者たちだろう。そうでない者たちは趣味すら満足に遊べない生活に陥っているのだ。さいきんは学生たちにもその影響が波及してきているように概観できる。あくまでいくひしさんに観察可能な、ごくごく狭い範囲の地域の話でしかないが、この地域ではこのままいけば十年後には、いまある文化が「根づいている」とは言えないくらいに、個々の趣味人が数人いるだけ、といった環境になるのではないか、と危惧している。とはいえこれは、いまにはじまったことではない。数年前からつづく疫病だけが要因ではなく、人間関係というか、誰がその分野を引っ張っていっているのか、分野の旗振りの役割を誰が担っているのか、が大きい(むろん人そのものがわるいのではなく、やり方がまずかったという意味です)。十数年以上前からいくひしさんには、こうなるだろうな、と予感できていたし、陰に回ってではあるが、細々と対策を講じてはきたが、もう限界かもしれない(なるべく他者の自由に干渉せぬように考慮したので、ほとんど効果はなかったかもしれないが)。手遅れ一歩前といった状態だ。かろうじていまは外部からの援助が入っているようだが、それもけっきょく、パイプ役の人物がそれをじぶんの利益に結び付けることに躍起になるので、よい影響が波及しない(これはその人物がわるいというよりも、誰も意見できないような環境が築かれてしまったことが要因だ。周囲の者たちの阿諛追従具合が問題を野放しにし、増幅させてしまった。どこにでもある話ではあるが)。繰り返しになるがこれは、いくひしさんの住まう地域の極々狭い範囲、それも極々小規模な文化圏を見渡してみた印象にすぎない。妄想である。しかし、一つの文化の終焉が感じられるほどに、競技人口ではないが、いまはどんどん人が辞めていく。分野から離れていく。ほかの地域でもこれほど趣味人が減っているのだろうか。歯止めをかけるためにできることはなんだろうか。すくなくともそれは、いくひしさん一人が頑張ってどうにかできるような問題ではないことはたしかだ。何が問題なのかを未だ誰も認識できていない。或いは、問題を認識した者から順に去っていく。それが最も懸念すべき宿痾なのだが。(とか言いつつ、元凶がいくひしさんだったら笑えるな)(そこまで影響力があったらそもそもこんなにおちぶれてはいないんじゃ)(うひひ)


3406:【2022/01/25*ふざけすぎてごめんなさい】
意外に思われるかもしれないが、キャラをつくった文章を書くよりも真面目ぶった文章のほうが簡単なのである。いくひしさんはだっておちゃめさんじゃからぽんぽこぽーんって文字を並べても、えーそれ何が言いたいの、ちゃんと人間語しゃべって、みたいになってしまうでごじゃるから、かろうじてギリギリ意味の通じそうな弾道を狙って文字を並べないと文章として成立しないのである。やってみれば判るだろうが、知能指数を極限まで下げたキャラの日誌を毎日千文字も二千文字も並べてみればいい。そういうキャラはふつう、文章がふにゃらんぺっぺとなってしまうはずなんじゃ。意味の通じる文章を何行も書き連ねることができる時点で、相応の知能を有していると言える。それでいてあんぽんたんであるキャラを矛盾せずに成立させて文字を取捨選択し配置するのは、じつは見掛けよりもずっとむつかしい作業なのだよ諸君。それはたとえばですが、原理的に、大人の作家が幼稚園児の主人公の小説を一人称で書くのがむつかしいことと似ていると言えるでしょう。これが言語を体得してすらいない赤子となればほとんど不可能だ。三人称や神視点でなければ困難と言える。もしくは誰かの視点での二人称ならば表現可能かなっていくひしさんは思うよ。たとえば「きみはまだこのころは赤子だったが」といった具合に叙述するよりありません。赤子の一人称は、ばぶー、あうあうあー、うんぎゃあああああ、でしかない。掌編ならば可能かもしれないが、ソレガシが存じるに、短編や長編となるといたく書きがたしそうらう。偶然赤子の鳴き声がモールス信号になってました、くらいのオチにすればいけるかもしれんが、それが読者に読解可能かは分からんし、おもしろいのかどうかも微妙なところなんよ。でもね、いくひしさんはそういう物語もつくってみたいなって思ったの。したがって、いくひしさんが毎日キャラを変えつつ日誌を、ぺったんこぺったんこ、積んだり並べたりしているのは、何の捻りもない理由で恐縮でごじゃるが、じつはありていに言って小説の腕を磨くためだったんでござるよ。うへ。でも考えてみてくださいよ。だってそうじゃなきゃこんなアホウなこと、誰もしないと思いませんか。そうだよ、そうだよ。いくひしさんだって理由がなきゃこんなアホウな真似せんもん。はぁ? 誰がアホだって? 私です。僕だよ。あたしじゃねぇなあ。おまえじゃね? わがはいでござった。理由がなくともまあ、飽きてくるとしぜんとこうなるものなのかもしれませんけれど。そうだろ? でもまあ、ときどきは振り返って読むとただそれだけでも、うひひ、と思うときもなきにしもあらずですし、そうした不安定な日誌も否定はしません。うっせー、なぁにが否定はしませんだ。何様目線だっつうの。みたいな感じで、文章から聞こえてくる声音を自在に操れるくらいに、手癖で書き分けられるようにするための工夫の一つだったんですね。そういう側面からすると、真面目ぶった文章は楽なんですね。内容があるかどうかはさておいて。(嘘です。とくに理由はありません)(こんなんで小説つくる腕があがるわきゃないっしょ)(けけけ)(新作掌編:「我が隣人にして敬愛なる」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859678406773)


3407:【2022/01/26*いつでも素人に戻れるとよい】
素人はすぐに楽をしようとするので、玄人が発想できないような工夫をしぜんと無意識にしていることがある。これは転職してきた別業界の人間が、新しい職場で思いもよらぬシステムの改善や貢献をする現象とも繋がっている。なんでこうしないの、と疑問するまでもなくしぜんと身体のほうで無意識に、こうすれば楽でしょ、とサボるのだ。そのサボる姿を見て玄人はついつい、けしからん、となりがちだが、まずはどんなことであれ見慣れない手法であったならば試してみたらよい。試してみるためには、失敗しても問題ない環境を築いておく必要があり、そうなるとけっきょくは日ごろから試行錯誤する習慣をつくっておくと自動的にそういった試作を行える環境が築かれていくだろう。素人はときに天才だ。玄人からはでない発想を無自覚に、しぜんと行っている。それの良し悪しを見抜けるのは、しかし玄人だけなのだ。或いは、著しい結果の向上が表れてはじめて、素人のとった方法論の有効性が知られることもある。いずれにせよ、玄人は、自身が玄人であることに驕らずに、いつでも素人のつもりで物事を観察する癖をつけたほうが、総合して得を見逃さずに済む確率をあげられるように思うが、いかだろう。とはいえ、いかにも玄人っぽさをださなければ得られない利もあり、あっちを選べばこっちを失うような矛盾に苛まれそうに思えるが、しかし、見た目の雰囲気に寄りつくような輩の運んでくる利は、ある時期を境に、奇禍に転じることもすくなくない。その点、じぶんで見極め、見出した得であれば、すでに自身の血肉になっている。基本、自力で見つけられる得は少量だ。たとえそれが毒であったとしても、却って免疫がつく。いいこと尽くしだ。他者から習うばかりだとこの、見つける能力、が育まれない。まずはなんであれ、いつでもはじめましての境地で物事と向き合えると好ましい。型を覚えたら、いちど手放せるとよさそうだ。手放すために、つくっておくものが型とも言える。忘れても大丈夫なようにとっておくメモやレシピのようなものだ。単なる玄人と達人の差とはともすれば、身に着けた型を自在に脱着可能か否かにあると言えるのかもしれない。定かではない。(新作掌編:「彷徨う者はなぜ」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859709488983)


3408:【2022/01/27*お好きにどうぞ】
小説のキャラクターの容姿くらいじぶんで好きに想像させて欲しい、と思うタイプの読者なので、そのためか自作のキャラクターの外見描写はすくない傾向にある。外見の特徴よりも魂の造形のほうが物語のおもしろさにつよく影響すると感じているので、正味、折り紙でつくった人形、くらいの外見描写加減かもしれない。髪の毛の色とか、背の高さとか、年齢とか、服装とか、そんなに具体的に書き込まなきゃおもしろくならないのかなぁ、むしろ日常でそんなことで相手の良し悪しを推し量ったりしますー?とどうしても感じてしまうのだ。絵で言うならラフで充分だ。マンガで言うならネームくらいの雑さ加減でいい。とか述べてしまうと、案外に絵描きさんはラフでもしっかり描き込んでいたり、漫画家さんでもネームですでに凄まじい情報量だったりするので、譬えとしては不適切かもしれない。外見描写は散りばめるほうが好みだ。背の高さなんて、登場人物たちが見上げたり、見下ろされたりするだけで描写可能だし、年齢だって、会話における敬語の使い方で匂わせることができる。そのほかの側面像とて、必要なら物語の進行上、かってに浮きあがってくるものではないのだろうか。浮きあがってこないのならそれは必要ない情報ということにはならないか? ならないか。すみません。いくひしさんのは単なる手抜きなんですかね。はあはあ、そうですか。うひひ。誰に批判されたわけでもないですけれど、言い訳がましく、その旨、記しておきます。これといって自作の小説の登場人物が全員外国人であっても、よしんば猫耳かわいい異形の者たちであっても、或いは全員バケモノであっても差し障りのない物書き、本日のいくひしまんでした。(新作掌編:「瞬久間弐徳の焦燥」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859741130525)


3409:【2022/01/27*よちよちされている自覚はあるか?】
ひょっとしたら上手く伝わっていないのかもしれないな、とたびたびの疑念を抱くので、野暮だし蛇足だしかっこうわるいのですが、敢えて明かしておきますね――いくひしさんがいくひしさんを弱い弱いと連呼しているのは、「わしが弱いのだからあなた方も弱いでしょ、それともわたしよりも強いおつもりなんですか?」と問うているのですね。もちろん多くの方々はいくひしさんよりもあらゆる面で秀でているでしょうが、それでもいくひしさんのほうが秀でている部分もそれは当然、あるでしょう。そんなのは当たり前のことですね。誰であれ弱さを内包し、ある一面では強いのです。しかもその強い弱いは、環境や相手によって変化します。いちいち極々一部の能力や特性を以って、じぶんは他者より上だ、とか、おまえは敗者だ、なんてことを誇示しなくてもよいのではありませんか(誇示してもらっても、もちろん構いませんが)。弱くてもよいじゃありませんか。人間は弱いからこそここまで進化し、知識を集積し、技術を発展させ、生き残ってこられたと見做すこともできるのですから。弱さと強さは表裏一体です。どちらか一方だけが独立して存在することなどできはしないのです。偉さが、偉人一人だけこの世に存在したところで生じ得ない概念であることと理屈は似ています。偉い、と他者から思われなければ、偉人などこの世に存在しないのです。偉人とはすなわち、赤ちゃんのようなものと言えます。みなから、偉いね偉いね、とよちよちされなくては概念の枠組みすら保てない、脆弱な存在です。地位とはあまねくそういうものです。栄誉にしろ身分にしろ同じです。自ら切り拓き手に入れたものではなく、おしなべて他者から与えられているものなんですね。勝者とて敗者がいなければ生まれません。そういう意味合いでも、強さも弱さも表裏一体なのですね。持ちつ持たれつ、接することで、枠組みが築かれ、存在としての輪郭を得られるのです。じぶん以外の存在なくして我が身はあり得ません。当たり前の話すぎて欠伸がでてしまいそうですね。しかしこれもまた、定かではありません。真に受けないように思考を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おんぎゃー。(新作掌編:「塞ぐ者たち」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859768517211)


3410:【2022/01/28*かわいくないのがかわいいくらいにかわいい】
デジャビュに思われるかもしれないが敢えて明かしておきますね――いくひしさんがいくひしさんを、かわいいかわいい、と連呼するのは、「わしがかわいいのじゃからあなただってかわいいに決まっておるじゃろう、あなたがかわいくないのならいくひしさんだってかわいくなくなってしまうじゃろ、それはもんすごくイヤじゃイヤじゃなので、あなたもかわいいってことにしとくんじゃ。よろしくね!」の文脈が省略されているんですね。この旨どうぞお忘れなく。いくひしさんはとってもかわいいんじゃから、あなただっていくひしさんのつぎくらいにはかわいいんじゃ。あなたが世界一ならわがはいは宇宙一じゃ。でも宇宙さんはひょっとしたらたくさんあるかもしれないの仮説がいまはぴょんぴょこ唱えられておるそうじゃから、じゃあまあ、もう、いくひしさん並みにかわいいかわいいなコたちがぎょうさんおるってことでいいんじゃね? あなたもひょっとしたらそのうちの一つの宇宙一かわいいかわいいかもしれないんじゃね? まあ、そんなかでいちばんかわいいのはモチモチノリ餅、いくひしさんなんでごじゃるが。異論はあってもよろしいが、耳は塞がせてもらうんじゃ。聞こえなーい。あばばばー。うひひ。



※日々、理由もなくただしたいだけ、をしていたい、たいがい法で禁じられている、妄想だけが許される。


3411:【2022/01/28*自信があっていいことってある?】
自信を持てないことに悩んでます、と相談されることが稀にある。なんで自信を持てないとダメだと感じるのかがよく分からないので、ひとまず、べつにそのままでよくないですか、と言うのだが、おそらく突き放されたと受け取られそうなので、自信がないからあなたは上達早いのでは、と所感をつけ加えるようにしている。だいいちに、自信が持てないのは、何かが欠けていると悩めるくらいに真剣に理想を追い求めているからで、自信のなさはその裏返しでもあるのだから、むしろ自信は持てないほうがしぜんなのでは、と考えてしまう。自信を持った状態とは、満足している状態だ。したがって、改善点を見繕うのに有利という意味で、じぶんの成果物にいつでも不安を感じているくらいがちょうどよいのではないか、と思ってしまう。しかしプロほどそうした不安を他者に伝えない工夫をとっているから、傍から見ると自信に溢れて見えるだけなのでは、との仮説がここに成り立つ。自信のなさとは不安の別名だ。その手の不安は、前進することで生じる風のようなものであり、みなには感じられない。じぶんだけの風だ。加速すればするほど風はつよくなる。その強まる不安を受け止めるために必要なのは、自信ではない。認識だ。その風が、自身が駆けているからこそ生じる反作用である事実をただそのまま認識することである。不安はあってしぜんだ。自信があるのは、挑戦していないからだ。自信がなくなるくらいの挑戦をしているという意味で、人生を楽しむうえでは、自信がないことはむしろよろこばしい境遇と言える。不安の裏には必ず改善点がある。せっかく悩むのならば、不安がなぜ生じるかについてではなく、その不安をどうしたら解きほぐせるか、工夫の仕方に割きたいものである。(新作掌編:「麺と毛糸」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859798187832)


3412:【2022/01/29*あんぽんたんでーす】
浮力が、自身よりも密度の高い物質が落下することで、自身が押し退けられることで生じるチカラだとするならば、重力とは、あべこべに、何かが自身から遠ざかろうとするがゆえに生じるチカラと解釈することはできないか。つまり、私が地球に引っ張られているのは、私の周囲をとりまく未だ認知されていないナニカシラが、私を押し退け遠ざかるために、我が肉体は地球に押しつけられるのではないか。下品な比喩で申し訳ないが、無重力空間でたえず放屁すれば真逆の方向に推進力が生じることと原理的には同じだ。重力は互いに引きつけあっているのではなくむしろ、ナニカシラを遠ざけ合っているがゆえに生じている可能性はないのだろうか。とすれば、ひょっとすると、ダークエネルギィとはこの、重力を生じさせる反発エネルギィのことと解釈することも可能だ。重力があれば空間の膨張はいずれブレーキがかかり、収縮に転じるはずだ(しかし現実には宇宙は膨張しつづけていると推定されるため、未だ観測できていない謎のエネルギィ―ーダークエネルギィがあるのではないか、との仮説が2022年現在は有力視されている。なぜ重力を打ち消すほどのエネルギィが湧きつづけるのか、それがなければ宇宙は膨張しつづける真似はできないはずだ)、との予測は、上記の仮説を元にすれば矛盾しない。なぜなら重力にはそもそも、外向きに未だ観測されていないナニカシラを反発させることで生じているがゆえに、むしろトータルでは宇宙膨張のチカラを発生させていると解釈できるからだ。以上は単なる妄想なので、真に受けないように注意してください。(新作掌編:「仮想の現実へようこそ」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859824784016)


3413:【2022/01/30*底を突かないサボりっぷり】
今年に入ってからどうにも毎日腑抜けておりますいくひしまんです、おはようございます。さいきんはずっと、こんなにサボっていていいのかな、と不安になる日々なのですが、たとえばきょうは日曜日で、起きたのが夜の八時でした。ほぼ一日寝てました。きのうも、おとといも、日課だった趣味の活動をサボっており、一週間のうち三日活動すればいいほうかな、みたいな毎日で、さすがにマズいな、と思いつつも、無理はいかんしな、とじぶんに言い聞かせてサボりまくりの甘栗ちゃんの日々なんですね。小説はというと、こちらはいまは熟成期間中というか、いちおう毎日掌編を手掛けてはいるものの、そこまで本気でオラー!!!みたいな感じではなく、ひとまず今年を乗り切るために、まずは散歩感覚でやっていきますか、といった塩梅であり、早々に燃え尽きないようにリズムを整える感じで、まずは手探りから、といった日々なんでござるよ。ちゅちゅ。読書にしても、ちょっと一冊読みきれない日々がつづいており、つまみ食いのように本をたらい回しじゃないですが、一人回し読みをしている具合で、集中力がなくなってきたなぁ、と思いきや、過去におもしろかった本を手に取ってみるとそれはするする読み進められるので、単にいまは波長の合う本と出会えていないだけなのかもしれません。ちょっと背伸びをした読書をしすぎなのかも、と肩の力を抜いてみようかと思います。これだけサボっておいてまだサボる余地があることに驚きつつ、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おやすみなさい。(新作掌編:「ナットウマン」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859853106341)


3414:【2022/01/31*よわよわのよわちゃんの戯言】
さいきん分かってきたのが、周囲と自身を比べて苦しくなる人、というのは、視点が「いま」しかないのかもしれない。たとえば現時点でとんでもなく身体能力が高い人がいたとしても、あと何十年もすればみな衰えて、五十歩百歩になる。むしろ一流アスリートは若いときに無茶をした分、ほかの人たちよりも衰えているかもしれない。しかしこうした理屈を唱えても、そんな先のことを言いだしたら、いずれみんな死ぬからいまは無駄だ、みたいな極論になるじゃん、と反論を投じられそうだ。その通りだ。極論である。ただよく考えてもみて欲しい。相手の得意なこととのみじぶんを比較するのだって同じくらい極論に思えるのだが、そうは思わないのだろうか。オリンピック選手と何を比べるのかによっては、あなたのほうが秀でていることなどいくらでもでてくる。一流の芸術家よりも、あなたのお母さんやお父さん、妹や弟のほうが優れている点だって全然ある。むしろ例外なくある、とこればかりは断言できる。なぜみなは、一つのことだけに固執して比べ、それで以ってじぶんが劣っていると嘆くのだろう。大勢がその「ナニカ」をこぞって競っているからだろうか。たとえばその「ナニカ」が、ゴキブリをたくさん捕まえてくること、であってもあなたはそこまでしょげたり、ひねくれたり、絶望するのだろうか。それとも、じぶんが大事にしたい、極めたい、一生それをつづけていくんだ、と決意していることだから、誰にも負けたくない、と意固地になるのだろうか。しかし、それくらいの覚悟があるのならばそも、他者からの評価で揺らぐ必要はないのでは? ここまで並べて、そうそう、と思いだした。いくひしさんは「べつに弱くてもよくね?」とは思うし、そういう文章を並べるけれども、けして「強いこと」が嫌いなわけではない。むしろ「強いこと」は好きだ。強い人も好きだ。しかし、強くなりたいんだ強くなければ意味がないんだみな強さを求めよ強くなれ、と意気込んでいる人に限って大して強さを求めてないし、強くもないので、なんだかなぁ、と思うことはある。べつに弱くてよくないですか、だってあなた弱いじゃん、と思ってしまう。ちょっと言葉がきつかったかもしれません。すみません。何が言いたかったのかと申しますと、とくに何かを主張したかったわけではありません。ただ、人と比較するときは、どうせなら徹底的に比べたらよいのではありませんか、とは思います。比べなくてもいいし、比べてもいいです。ただ、比べるなら、とことん、あらゆることを比べてみたらよろしいのではないでしょうか、とのこれは妄言です。髪の毛の長さでならあなたのほうが上かもしれないし、友達の数ではあなたのほうが上かもしれない。嫌いな食べ物の数はあなたのほうが少ないかもしれないし、テスト勉強ならあなたのほうができるかもしれない。そんなことで勝ってもうれしくない、との意見も当然でてくるでしょうが、そもそも誰かに勝ってうれしいことってありますか? よく考えてみて欲しいです。本当にあなたは、勝つことがうれしいのか、それとも比較や勝負をすることで、じぶんの限界を超えたり、じぶん一人では得られない変化を得られるから、好きなのか。もし後者であるのならば、それってこれといって勝つことが必須ではありませんよね。負けてもいいし、比べたり、競ったりせずともできることではありませんか? もちろん勝負をしたり競争をしたりしてもよいですけど、それをして苦しくなるくらいなら、わざわざしなくてもよいことのように思えます。せっかく勝負や競争をするなら楽しめばいいじゃないですか。楽しめないなら、放棄してもよい気がします。大勢から承認を集めることもそうです。それって本当にあなたにとって欠かせないことなんですか?(どうでもいい、と思うからこそ、気軽に勝負ができるようになることだってあるように思います)(何に怯えているのかを自覚できるといいですね)(とはいえ、ビジネス上、どうしても避けられない勝負や比較もあるでしょう。しかしなぜそれがビジネス上不可欠なのかを考えてみましょう。そういう風潮はどうしてできているのでしょうか。みなはいったい、なぜそれに価値を見出しているのか。よくよく観察してみましょう)(勝負を避けられない時点で、相当弱い立場だ、とも言えます。勝負は自ら挑むものでしょう。競争にしてもそうですね。したくもない勝負を強いられた時点でそれは奴隷と変わらないのでは?)


3415:【2022/02/01*いろんな失敗を揃えよう】
道とはすなわち、先例だ。すでに誰かが通ったあとゆえ、そこを通ってもだいじょうぶだとみなが見做し、通るようになる。安心して最短距離で辿り着く道ほどみなが通るため、王道となっていく。王道をつくりたければ、影響力のある者ほど先例をつくっていけると好ましい。本来は、プロほど新しいことをどんどんやるほうが好ましいのだが、なぜだかプロほど安定路線を選びたがる。先人が挑戦しなければ、いったい誰が挑戦するだろう。いまは挑戦しつづけるプロがたくさんいていい時代だな、と思う。どんどん先例をつくっていってほしいものだ。それはけして楽をするためではない。挑戦そのものを楽しむためである。(定かではありません)(新作掌編:「異端の名探偵」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859906864210)


3416:【2022/02/01*わがはいは虎である】
がおーっ、となってしまいました。内なる虎さんが暴れたようです。申し訳ありません。手綱をしっかり握っていたいと思います。それから首輪をはめて鎖で以って、地面に打った杭に繋いでおきますね。ことしは寅年だからか、どうにも虎さんがお元気なようです。しかしそれを差し引いてもわがはいは傲慢さんでござるから、いつも通りと言えばいつも通りなんでござるな。うは。わがはいの内なる虎さんはしゃべるんでござるよ。人語を介するでござる。世にも珍しい虎さんなんでござるね。あまりに珍しいからか、林を歩いているだけで、おや、と声をかけられるでござる。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」わがはいは答えるでござる。「いいえ、わがはいはいくひしさんでござる。わがはいにお友達はいないんでござるよ。さびしー」「さようでござったか」声の主はさっさと去っていったでござる。いくひしさんは、えーん、と泣くでござるよ。ふつう、友達いなくてさびちー、って言ったひといたら、そっかぁ、って慰めてくれるんじゃないんでござるか。いくひしさんがしゃべる虎さんだからダメなんでござるか。うえーん。泣きじゃくっていると、そこへ、やはり誰も寄りつかないのであった。なんでや。がおーっ!!! わがはいは吠えるんでござるよ。威嚇してやるでござる。がおー、がおー。「お、あんなところに猫がおる」「猫ちゃうし!」わがはいは虎である。しかし、たまにはお猫さんみたいに撫で撫でむぎゅむぎゅされたくなる日もあるのである。ごろにゃーん。


3417:【2022/02/02*わからんのよね】
おわらーん、と泣きそうになりながら文字を並べつつ思うのが、小説つくる楽しさって、ひゃっほほーいやったぜぇ、みたいな感じではなく、どちらかと言えばマラソンとかサウナとか登山にちかくって、忍耐に次ぐ忍耐を越えたところで吐くひと心地というか、解放感というか、はっきり言ってつーか、マゾくね? げふん、げふん。すみません、素がでました。あのですね、正直ね、楽しくないっす。小説つくるの、楽しくないっす。でもなんかやめらんない。たとえばそれは、旅の最中というか、まんま旅なわけですよ。苦難もあれば苦労もある。災難もあれば不運もある。そうしたなかであっても、なんだかんだ数年後に振り返ってみると、あの旅もわるかなかったな、と思える、そんな感じで、でもそれって振り返るときの「いま」が比較的しあわせだから思えるのであって、旅の途中で大怪我して、それによって人生狂っちゃったら、いくらあとになって回顧しようが、ふじゃけんじゃないわよ、ってならんかな。いくひしさんはなると思います。まあ、それでも小説というか、思いついた物語の世界に降り立って、旅をしちゃって、それを文字に置き換えちゃったりするんですけどね。やめらんない。なんでじゃろ。楽しいか、楽しくないかと言われたら、楽しいのだけど、やっぱりそれって、うっひょひょーい、みたいな楽しさではないし、つらいかつらくないか、と言われたら、つらい気もするなぁ?みたいな具合で、どっちなんだい、はっきりしておくれ、と言いたくもなります。楽しくはないのかもしれないけれど、なんか楽しそう、と思えちゃうんだよね。いつも物語を閉じ終えたときにはすでに、じゃあつぎはあっちね、とつぎなる予感に満ちている。なんか掴めそう、と思って、ああだこうだ苦戦しつつ、いざ終わってみると何も掴めておらず、やっぱあっちだったかも、みたいに、なんかまた掴めそう、のわくわくを辿って、誘われて、物語の舞台に降り立つのだ、みたいな、そんな感じがするのですが、じっさいにはまったくそんなことはないのかもしれず、ちょっとよくわからんな、と思いながらも、思いつくがままにつれづれと、文字を並べて、積んで、よじって、編んで、旅で見聞きしたあれやこれやを、じぶんではない誰かの視点で、言葉で、かたどるのだ。じぶんの言葉なんかではない。ここではない、しかしどこかにはいるだろうあなたの言葉で、いくひしさんはもうしばし、物語を歩んでいこうと思います。以上、本日の駄文こと「いくひ誌。」でした。(新作掌編:「巨大な、亀と水溜まり」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859940913339)


3418:【2022/02/03*称号と権威は相性がいい】
いくひしさんも他人のことは言えないんですけど、権力批判や権威主義批判をしている人が、いざじぶんの権威や権力を脅かされると、過剰防衛かと思うほどに反撃してしまう現象には名前がついているんでしょうかね。割と身の周りでも比較的よく観測できる現象なので、もちろんいくひしさん自身にも身に覚えがありますが、なんというか、権力や権威って、案外に心地がよくて、いざ損なわれると抵抗したくなっちゃいますよね。それでいて、じぶんが権力や権威を有していると自覚できているだけまだマシだ、みたいなことも多々あり、往々にして人はじぶんの権力や権威に無自覚だ、と言ってしまってもいいのかもしれません。でもそこでいざ批判されたときに、はいはいいいですよー、この権威も権力も放棄しましょう、なんだったらあなたに差し上げます、と言えるくらいなら、まあまあ権力批判や権威主義批判をしている人としては道理に合っているのかな、と思います(それが責任の取り方として筋が通っているか否かはさておいて)。言論や物書きのプロの方々はいったいどこまで権威や権力に抵抗できるんでしょうね。これからが見物です。うひひ。(権力や権威を適切に用いるなら、それを有しても問題はないでしょう。そもそも権力や権威とはそういう性質のものでしょうからね。問題を紐解くためのちから、とも言えそうです。それゆえ、問題が生じつづけた時点で、適切な使い方をしていない、とも言えます。権力や権威が問題の種そのものとなっていたら、いちどその影響力を薄めてしまったほうがいい、とすら言えてしまえるのかもしれません)(定かではありません)(新作掌編:「おねしょの跡と宝の地図」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927859967892921)


3419:【2022/02/04*語彙力がなくてごめんなさい】
けっこう前から小説をつくっているときにたびたび悩んでしまうのが、いくひしさんに語彙力がないことなんですね。ただそれは語彙力がないことが悩みの中心にあるのではなく、語彙力がないので、たとえば新しい言葉を覚えても、「いや、わし元々これ知らんかったしな。小説内で使っても過去のいくひしさんに伝わらんのでは?」と思ってしまって、使うのに躊躇してしまうのですね。いくひしさんは傲慢さんなので、じぶんがみんなさんよりもすこしだけ能力が低いと思っていて、本当はもんすごく低いのかもしれませんけれども、傲慢なので、ほんのちょっと低いだけです、と思っているのですが、というかむしろみんなさんが高いだけでは?と思っているくらいなので、えーっと、そう、なんだっけ。そうそう、いっぱいむつかしいご本を読んで語彙力いっぱいにしたろ、と思っても、その結果に「ごいりょくー!!!」みたいな文章をつむいだところで、小説のおもしろさと出会う前のいくひしさんには伝わらんし、手に取ってすらもらえんのではないか、と気になってしまって、あんまり難しい言葉は使いたくないなぁ、になってしまうのですよね。あんぽんたんでーすならではの悩みなんですね。解決策は、背伸びせんでもええんやで、とあたたかーい眼差しと、あまっちょろーい投げやり感で、ひとまずあさっての方向に悩みを投げ捨てて、しーらんぴ、と忘却してしまうことです。えーっと、そう、なんだっけ? 本日の「いくひ誌。」でした。(新作掌編:「びびっとイートシステム」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860020487677)


3420:【2022/02/05*すごごごご】
文芸とはべつのことなんですけど、いやべつに文芸も含めてもいいんですけど、さいきん、じぶんのことじゃないんですけど、立てつづけに、すごごごごごご、とスゴイスゴイの気分になっていて、みんなすごいねやったぜ、になってる。みんなすごいのに、いくひしさんはなんでこんなにすごくないんや?と思いつつも、すごくなりたくはないので、いやだって絶対あんなにすごくなったらたいへんでしょ、みたいな気持ちにもなりつつ、みんなすごいけど無理はしないでね、の気持ちにもなる。ちゃんと休みながら、ながく、楽しく、過ごしていってほしいです。というか、ホント、みんなすごくないですか? いつの間に、の気分である。やったぜ。(新作掌編:「クレッシェンド・ダ・ヴァーニーなる小説家について」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860037719314)


※日々、おちこぼれ、おきざりにされ、おとしめられ、おちぶれる、しかしそれでも楽しめる日々の至福の分厚さよ、求める自由の無尽さよ、生きていられる豊かさよ、こうして詠える不確かよ。


3421:【2022/02/05*世界はツギハギでできている】
いくひしさんが幼稚園に押し込まれていたころの話だ。運動会とか遠足とか、或いは単に幼稚園の行事ごとだったり、とかく人間たちがわいわいがやがやしているときに、足元の花壇のはじっこのほうで、誰に知られることなく歩いている蟻を見詰めていると、幼いながらにいくひしさんはそのとき、世界がいくつもの断片のツギハギでできているようなふしぎな感覚に浸った。まるでモザイクのような、貼り絵のような。人間の世界と蟻の世界が、重複しつつも、すっかりは重なっていないようなそんな妙な感覚を抱いたのである。それはいまでもときどき感じることで、たとえば一匹の蟻を観察するとき、蟻は頭上のいくひしさんに観測されていることを認識していなかったりする。蟻の世界に、いくひしさんは、干渉するまで存在しないのだ。しかしいくひしさんのほうでは一匹の蟻を認識し、意識下に置き、我が世界の一部分として見做している。いくひしさんが指先で蟻の進路をふさぐと、ようやく蟻は焦ったように取り乱し、逃げ惑い、ときに進路を変え、立ち止まる。蟻といくひしさんの世界が繋がった瞬間だ。しかし干渉するかしないかに関わらず、いくひしさんと蟻は同じ世界に内包されているはずだ。しかしいくひしさんにはどうにも、そうとは感じられないのだ。それはちょうど、景色が、立体的に重複して見えているだけであり、偶然に視界に納まっているにすぎない虚像であることと似ている。風景は本来、写真のように面となって一つの絵を描いているわけではない。目をつぶったら何も見えないが、かといっていくひしさんの認識に関わらず世界は相も変わらずそこにある。寄り目をしても、世界が二つに分かれるわけではない。しかし、それでもいくひしさんの認識は大きく変わり、世界が見えなければ、自由は制限され、世界が二重のままでは、距離感が掴めない。物理世界があり、私がおり、認知世界があり、私がありつづけることのできる余地が広がる。物理世界は揺るぎないが、数多の認知世界が重複しあうことで、物理世界そのものの変遷の流れが大きく変わることもある。そういうことを、直感として、幼少期から、ふしぎに思いながら生きてきた。おそらくは、いくひしさんの物心とはこれである。いくひしさんの根幹をなす世界観と言えそうだ。(世界はツギハギでできているが、接点はおそろしく少なく、何を一区切りと見做すかによって、一つの視点のなかにも無数の認知世界――解釈――干渉の余地が表れる)(雨を雨と見做すのは、人間の主観であり、本来、現象としては、雨も川も海も人も、水分という意味では同じ事象の範疇だ。連続した流れのなかの一変化にすぎない)(物質の枠組みを規定するとき、そこには時間経過の区切りが無意識に組み込まれている。百年を一区切りにしてみれば、おそらく物質の示す枠組みはおのずといまとは違ったものになるだろう。千年、一万年、一億年、と期間を伸ばしていくだけで、物質と呼ばれるものの輪郭はおのずと大きくなっていく――あべこべに、一秒、ナノ秒、ピコ秒、と期間を縮めていけば、物質と呼ばれるものの輪郭はおのずと小さくなっていく。そのとき、物質の状態変化――すなわち気体、液体、個体といった区切りは意味を消失し、もっとほかの枠組みが立ち表れるだろう。現時点において、物質の輪郭を定めているのは、人類の主観だ。任意の結晶構造が安定して見えるのは、人類に扱いやすい時間スパンの都合でしかない)(定かではありません)(思いつきによる単なる妄想ですので、真に受けないように注意してください)


3422:【2022/02/06*手を加えない勇気】
まったくの専門外の分野を眺めていると、素人ゆえに見えてしまう「美」なるものがある。おそらく専門家や玄人からすると、それを放置してしまうのはよくないのだろうが、しかし放置されたままのほうが美しく思えることがあるのだ。未完の美、の概念にちかい。敢えて手を加えない勇気というか、直感を信じて、そのままにしておく判断をいつでも行えるか否か。詰まるところ、技術力を誇示することよりも、いかに素朴な美を優先できるか、の話になってくる。一流と呼ばれる人たちは、この素人の目というか、直感的な美をいつでも最優先にできる価値判断を保てているのだろう。言うは易しであり、おそらくこれは奥義にちかい。実践できている人をほとんど見たことがないし、いま思いだせる範囲には一人もいない(単に見抜けていないだけの話だろうが)。それゆえに、編集者やプロデューサー――ともすれば単なる読者や受動者の存在が――第三の目として働き、ただの専門家や玄人を、一流に昇華せしめるのかもしれない。定かではない。(ただし、いちど手を加えてみて、やっぱりそのままのほうがいいな、と気づければ、つぎからは一つの技法として、この場合は手を加えないほうがよいな、との判断を行えるようになる)(やはりというべきか、いかに失敗し、それをつぎに活かせるかの話になってくる)(新作掌編:「蘇る者たち」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860068671937)


3423:【2022/02/07*じぶんを棚上げしてごめんなさい】
割と自覚しているじぶんの欠点として、身内に厳しい、というのがある。最低限のルールは共有していて欲しいし、そこから逸脱しないで欲しい、と無意識に過干渉してしまうのだ。それでいてじぶんには甘いので性質がわるい。自覚はしているが、これがなかなかつねに制御できるわけではないのでむつかしい。たぶん、いくひしさんが権力を持ったり、集団を率いる立場になったりしたら、かなり無自覚に独裁体制を築いてしまうだろう。そうならないように、根っこからの安全対策を敷くと、けっきょくは孤独でいるように努めるよりないのだ。みな自由にすればいい。自由であろうとすればいい。それでも団結しなければならないときでも、小指で結びつくくらいの繋がりでよいのではないか。小指で繋がれるのなら、残りはあと九本も残っている。それぞれにほかの者たちと同時に団結する真似だってできるはずだ。直接に繋がらなくたっていい。いまはどこまでも伸びる波打つ糸が無数に世に張り巡らされている。なぜ団結しなければならないのか、についてもよくよく考えを深めておきたい。闘うべきは人ではなく、奪うべきは立場ではない。不公平を生みだしている構図を崩し、傷つけあう余地をこそ奪うのだ。そのためにまとまるのであれば、おそらくいちどは敵と見做した相手とすら繋がることができるだろう。それはけして友達になるということではない。ただ、共に広い世界を生きることである。同じ社会を、ではなく。そこここに覗く深淵を感じながら。個々の世界を生きることである。(定かではありません)(胡散臭い文章を並べてしまったな)(いやじゃいやじゃ、いくひしさんはこんなキャラじゃないんじゃい)(イヤーーーー!)


3424:【2022/02/08*わがはい、ポンコツの巻】
さいきんはちょっと、いっぱいサボってやる!の気分なので、読書は同じ小説本の上下巻を寝る前にちょこちょこっと繰り返し読みつづけている日々である。何回読み返してもおもしろい小説というのがあり、そうでない小説もあり、その違いってなんじゃろな、と疑問に思う。もちろん個々人によってその小説がなんであるのかには偏りというか、バラツキがあって、端的に相性の問題になってくるが、毎夜つまみ読みしても面白い小説ってあるのだよなぁ。ふしぎ。無駄がないのだ。どこを省いてもよいように作られているのに、どこを取りだしても、何かしらの奥行きを感じられ、ほかの場面との密接な関係を幻視できる。幾重にも層になって重なっており、一枚二枚を抜いたくらいでは、感じられる奥行きや物語の厚みは損なわれない。むしろ穴あきチーズのように欠けた状態であっても、読めば読むほど、厚みや深みや色合いが増す。ちょっと言いすぎの気もするけれど、そういう小説ってあるよなぁ、と思います。というか二回目に読み返したときに、全然最後のほうの展開を憶えてなくって、こんな場面あったっけ、と肝心要の終わり方というかオチを憶えておらず、たびたび思うことであるが、記憶力がないとお得だな、と思います。読書をするうえでは、との但し書きがつきますが。もちろん記憶力がよいからこそ深まる読み味もあると思います。どちらか一方しか味わえないのか、それとも同時に適うのか。どちらなんでしょうね。いずれにせよ、読書をつづけていけばおのずと判明することのようにあてずっぽうに妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おやすみなさい。(新作掌編:「紛い物抹消装置」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860079839133)


3425:【2022/02/09*眠いです】
ここ数日、ASMRを聴きながら寝ているのですが、ぜんぜん寝た感じがせず、スッキリした目覚めにならないので、やーめた、の気分です。ASMRがASMRと呼ばれる以前にも、2010年とかそこらに、似たような音源にハマっていた時期があり、懐かしいなぁ、と思いながら、やっぱりいいですね、と再認識しつつ、それでもたぶんむかしのほうが心地よく聴けていたのになぁ、と現在のじぶんの情報処理能力の衰えを感じずにはいられません。長時間というほどの長時間ではなくとも、聴いていると、ああもううるさい、とイヤホンを外したくなってきます。思えば音楽すらいまは以前のようには聴きません。六年くらい前は、ほぼ十時間くらいは音楽を聴きっぱなしでした。それもどうかと思うのですが、耳を塞いでいたかったのでしょう。創作活動にはあまり寄与せず、むしろどちらかと言えば負担になっていたような気がします。ただ、それくらいの負担があっても不快にならないくらいには、情報処理能力がいまよりも高かったと言えそうです。いまはもう、静寂であればあるほど深く集中できます。とはいえ、以前がいまと比べてノイズの多い環境であっただけのことかもしれません。いまは比較的、耳を塞ぎたくなる場面がすくなくなった気がします。それも充分ではなく、なるべく静かでありたいな、と思いつつ、睡眠不足にならぬよう、ASMRは聴きっぱなしではなく、寝る前の読書の時間程度の短さで活用していこうと思います。(いつも以上にきょうは並べることがありませんでした)(妄想の余地すらないとはこれいかに)(静寂に包まれるよりも、音楽を聴きながらのほうが出力が高まる活動もあり、あたりまえの話ですが、ケースバイケースと言えそうです(新作掌編:「オーバーなほどにゲーム」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860113237683)


3426:【2022/02/10*真面目じゃなくってごめんなさい】
眠かったので、寝るを優先しました。いまは02/11の13:00です。おはようございます。久しぶりに大昔、授業中にたびたび訪れていた、「こっくんこっくんビクーーーっ!?」を経験しました。抗えぬ大魔王級の睡魔でした。あ、いま、とってもおもしろいダジャレを思いついたのですが、くふふ。それはたとえば、「ものすごい睡魔ですいません」みたいな感じですが、あ、思ったよりおもしろくなかったですね、言わずにおいてよかった。なんかもう、さいきんは、僅かにでもこれまでと違った変化を帯びれたらラッキーだな、みたいな激甘くんの心境で文字を並べています。すこしでも新しい何かが掴めたら御の字だわよ、の気分なんですね。むしろ、失敗してやる!みたいな気概でないと、新しい変化ってなかなか得られなくなっていくんですね。モザイクの色を揃えていくにしても、最初は適当に小石を投げただけでも見つかる新しさが、モザイクのドットを揃えていくにつれて、あそこもここも、とっくのむかしに揃えちゃった色だなぁ、みたいになってしまって、どこに小石を投げても新しさに行き当たらない、みたいな時間を過ごすはめになるんですね。これはおそらく、何かを継続して突き詰めようとしている人は誰しもが経験する「凪」ではないでしょうか。もうそうなったら、かつては見向きもしなかったガラクタのほうこそが輝いて見えてきちゃったりもして。いっそのこと、小石を放るのではなく、勢いよく叩きつけて、モザイクにめり込ませて、表層の下に埋もれている土の色を見てやる、みたいになってきたりもします。そうするとあとはもう、なんかでてこないかな、とひたすらに掘り進めたり、或いはもうモザイクの材料ならなんでもいいや、とまったくべつの方向に、たとえば空を仰いでみたりするんですね。すこしでも新しさに触れられたら、「わ、ラッキー!」みたいになるので、本当になんというか、傍からすれば真面目には見えないのでしょう。でも、そういう見境のなさというか、なんでもええよ見たことないものだったら、みたいな不真面目さは、楽しさに飽きずに日々を過ごすうえでは、真面目さと同じくらいに欠かせない成分のようであるような気も致しますが、えーっと、なんでかいつの間にか真面目な文章になっているな。なんでだ? もはや文章形態を統一することすら面倒になってきてしまった、自堕落ないくひしさんなのであった。おしまい。(新作掌編:「腐れ縁のサファイヤ」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860146020194)


3427:【2022/02/11*詳しい話は知りませんが】
日雇い労働者や派遣社員において、現在流行中の疫病による被害への補償が足りていない問題について、もっとメディアは取りあげてもよいのではないでしょうか。疫病によって現場仕事がなくなり、さらには濃厚接触者の濃厚接触者であるだけで待機期間を言い渡され、仕事をさせてもらえないなど、明らかに被害を受けているにも拘わらず、その間の補償がもらえないといったケースを耳に挟みます。たとえ補償があるとしても、職場で教えてもらえないなど、必要な人々への広報が充分でないようです。政府には、国民の声にみずから耳を欹ててほしい、と望みます。マスメディアの方々にも、その方面での報道をもうすこし増やしたり、困っている人たちの声が広く届くような工夫をしてもバチは当たらないのでは、と思っています。(新作掌編:「父の波紋」)


3428:【2022/02/11*知能=結びつけるための工夫】
知能なる能力の示す内訳は多岐にわたる。一概にこれこれこういうものが知能ですよ、とは言い表しにくいが、それでもここ数日で急激に、そうかもしれないな、と思いついた知能の重要な働きの一つに、「概念を共有するための工夫をとれるか否か」がある。言い換えるならば、交渉や説得や説明がそれにあたる。もうすこし詳しく言うなれば、知識や習慣の異なる他文化同士で、争うことなくどれほど互いに歩み寄れるのか。存在を許容し合えるのか。そのための段取りをどのように整えていけるのか。知能と呼ばれるものの重要な働きの一つに、このような異質なモノ同士を結びつける働きがあるのではないか、と思い至った。以前にも並べたことがあるが、人間の生みだす価値のなかでより普遍性のある価値とは、結びつけることだと思っている。これは宇宙の根源を考えても同じことが言える。時空や物質ができるためには、異質なモノ同士が結びつく必要がある。結びつく前の段階では、崩壊したり、何かと何かを妨げ、異質化させる段階が入用だ。それを含めて結びつけることは、人間の生みだす価値のなかで、より本質であり普遍的な営みだと言えるだろう。そこにきて、知能は、そうした価値を最大化するための能力と定義できる。とりわけ、人間同士において、未知の習慣や文化は、畏怖の対象となりがちだ。未知そのものが恐ろしいというよりも、奇禍なのか否かの判断がつかないことが恐ろしいのだ。危なくないとさえ分かっていれば、未知はさほどに恐ろしくはない。またそれゆえに無知が蔓延る要因にもなる。話が逸れたが、たとえば壁に穴が開いていたとして、その穴の奥がどこに繋がっているのかが分からずとも、ひとまずそこを出入りしている人間がいれば、まあ安全なのだな、と判断できる。そうなれば穴の正体が分からずとも、ひとまずは看過できるし、知ろうとせずとも大過ない。しかし、ひとたびそこに入った者が二度とでてこない穴であったならば、人はそれゆえ単なる穴ですら畏怖の対象と見做す。こうした、奇禍に繋がるか否かの判断のつかない未知は、人を不安にさせる。また、ときに忌避させ、差別感情を高めたりする。これは異文化同士でも言えることだ。お互いに、これをしたら許されない、罰せられる、といった領域があることは理解できる。しかし何を侵せば相手から危害を加えられるのかが分からない。ひょっとしたら声をかけただけでも殺されるかもしれない。握手を求めるだけで処刑されるかもしれない。文化のなかには高確率で身分なるものがあるし、上下関係がある。そもそも文化の外の人間であるというだけで、家畜同然に見做されることもある。そうなると、危険を冒してまで異文化を知ろうとするよりかは、ひとまず避けてしまったほうが楽であり、安全だ。こうした短期的な損得勘定により、人は、異文化に対して排他的になる。こうなってしまうと、異文化同士での交流はなかなか進まない。そうしたときに、互いに反発しあう仲であろうとも、文化同士の共通点を模索し、なんとか対話可能な段取りを築いていけると、衝突のリスクを下げられるし、長期的には文化そのものが発展する確率を高めることに繋がる。だが異質なモノ同士を結びつける作業は、じつにむつかしく、仮にできたとしても、予期せぬ反発を生むこともある。それを、エネルギィを、と言い換えてもよい。無理やりにくっつけると、大爆発してしまうことも往々にしてあるものだ。それゆえに、慎重に結びつけていく段取りがやはり欠かせない。そうした工夫を行える能力こそ、知能と呼ばれるものの重大な仕事なのではないか、と大雑把に閃いたので、それを以って本日の妄想あらため「いくひ誌。」とさせてください。(定かではありません)


3429:【2022/02/12*ポーズ】
本当に思っていることや考えていることをここに並べたことはいちどもない。並べきれるようなものではないからだ。というこれもまた本音ではない。文字に変換できる程度のことなどたかが知れている。ただし、物語にするとすこしだけ変換できる枠組みが広がる。表現できる事柄が増える。扱える概念が深まる。ただそれも充分ではなく、多くはやはり、言葉にした時点で零れ落ちていく。私の存在が感じていることの0,0000000000000000000000001%も表現できない。耳の捉える雑音、律動、旋律、振動。目の捉える陰影と起伏の紋様。肌の感じる熱の揺らぎ、重力、存在の輪郭。舌はつねにピリピリと体調の良しあしを判断し、鼻は息吹の濃淡を嗅ぎ分ける。何より、チョコレイトがどんな音を立て、カタチを保ち、幾層の風味を宿し、移ろい、香るのか。それを感じたままに記述し、伝えることすら満足に適わない。嘘を並べるしか術はない。どこかで投げやりにならねば文字はいつまでも並びつづけ、世界を文字で埋め尽くす。チョコレイトが何であるのか、なぜあるのか、なぜ人はそれを食し、どんな味がし、なにゆえ味を感じるのか。原理を紐解くだけでも、人生すべてを捧げてもまだ足りない。人間を一から作りだし、再現し、解明せずには、その謎をすっかり解くことも適わない。言葉は欠落でできている。かろうじて残った蜘蛛の糸のごとく骨組みによって、なんとなくの輪郭を感じとっているにすぎない。何も得ていないにも拘わらず、何かを得たと錯誤する。錯誤していても困らない階層に、我々が生きているだけのことであり、言葉はともすれば、現実の欠片ですらない。言葉よりさきに世界がある。言葉を読むより、読み解ける世界がある。文字は、言葉は、けして世界に先行して在るものではなく、ましてや優先すべき代物でもない。言い換えるのならば、世界は言葉で溢れている。しかしそれを言葉と見做せぬ者が大勢いるだけのことであり、世界を読み解ける者が未だ一人もいないだけのことである。定かではない。定かにできるのかすら解らない。(なんもわからへん、というだけのことをよくもまあ、こうもへにょへにょと書けますね)(かっこいいじゃろう?)(精一杯にかっこうをつけていることは、はい。たいへんによく伝わりました。それがかっこいいかどうかはさておいて)(かっこいいって言って!)(言うだけでいいんですか)(思って! 惚れて! 褒めそやして!)(すごいですね。とってもすごく、かっこうわるいです)(ぴぎゃー)


3430:【2022/02/13*へそまがりのコンコンチキ】
古典が好きなのは時代を生き残ってきたがゆえに普遍性があるからだ、みたいな意見を目にする機会がある。そういう意見もまああるよね、と思うと同時に、芸術好きがそれを言っちゃう?みたいな違和感も湧く。なぜかと言えば、生き残ったモノに高い価値があると見做す価値観は、強者の理屈だと感じてしまうからだ。ああいくひしさんは、芸術(愛好)家たちには強者の理屈を掲げてほしくはないのだな、とじぶんの偏った価値観を幻視してしまって、渋い顔をしてしまう。じぶんの偏りを自覚すると、平らにならしたくなってしまって、対をなす人格をじぶんのなかに生みだしたくなる。穴を埋めたくなるんですね。話は戻りますが、古典は時代を生き残ったから良い物だ、という理屈は無理筋だな、と感じます。なぜならその理屈では、生き残らなかったモノのなかにじぶんにとって素晴らしい作品があったかもしれない可能性が加味されていないからです。生き残れるかどうかは環境によります。劣悪な環境下で生き残ったモノが必ずしも良い物であるとは限りません(普遍性があるものが良い物とも限りませんしね)。いくひしさんはできるだけ、じぶんにとって素晴らしい表現に出会いたいよ、と望んでいます。それはけして、時代に残ったからとか、古典だからとか、そういう基準では測れないと考えます。古典の話題になるといつも思うのが、古典好きな人が果たして古典がまだ新作でしかない時代に生きていたとして、その古典の作品をいまと同じように良い物として見做せたのか、ということで、おそらくこれは否じゃないかな、と疑ってしまいます。たとえばいま世に出ている比較的新しい作品たちのなかで、いったいどれが古典となっていくのか。それを見抜けている人がどれだけいるでしょうか。生き残るか否かは、偶然と環境に左右されるものですから、ほとんど見抜くのは至難だと言えましょう。すくなくとも現代であっても、今後古典となっていく作品はあるはずです。古典を重要視する人たちからは、そうした視点がごっそり抜け落ちて感じることがすくなくありません。あなたが好きなのは、古典という付加価値であって、作品から受ける刺激そのものではないんじゃないんですか、と疑ってしまうのですね。これはややひがみが含有されているので、イラっときてしまった方がいらっしゃったらすみません。敢えて、イラっとさせるように表現しました。いくひしさんがわるいです。以後、言い方に気をつけるだけで、たぶんあんまり変わらないと思います。うひひ。(古典のおもしろさが、さいきんようやく分かってきたかもしれないへそまがりのコンコンチキ、でした)


※日々、流れの外にいる、つもりで見えない流れの中にいる。


3431:【2022/02/14*いくひしさんはね、本当はいくびしって言うんだよ】
なんも思いつかん、と声なき声で喚きながら、もうなんでもいいや、の諦めの心地で、じぶんなる器のなかにこびりついたカスを指先でこそげとるようにして、雲った窓ガラスにイタズラ描きをするような心境で、なんとかかたちになーれ、の祈りを捧げつつ、丸描いてちょん丸描いてちょんのリズムで、大きな丸が一つに小さな丸を三つ描いたなら、なんかかってに顔に見えるんですけどー、の奇跡にもならぬ有り触れた偶然の神秘に寄りかかって、ただただ知っている数少ない言葉を並べて並べて並び替えて、判子遊びのごとく隙間を埋めて、積み木遊びよろしく枠組みを整えると、なんでかはわからんのだけれども、かってに、それとなく、なんとなしに意味の読み取れそうな、物語っぽい何かができあがっている。ふしぎだね。いくひしさん。(新作掌編:「トトトの帰還」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860196368762)


3432:【2022/02/14*権威はなくてもいいが、ないと困る環境が放置されている】
権威がなければ成り立たない分野とは、おそらく知識の共有や、学習システムが充分に機能していない、いわば不公平な環境が野放しになっている分野と言えるだろう。誰の言っていることが正しく、何が間違っているのかの区別をつけられない。区別をつけるための手段が確立されていない。機能しない。そういう分野は権威によって、集権的に大多数を束縛し、支配下におかないと無法化する。言い換えるならば、無法化しても問題ない環境をいかに築いていけるのかが、焦点となってくる。分野の発展とはすなわち、いかにすくないルールで新しいことを生みだしていけるか、環境に即した変化を帯びていけるのか。これが、分野にしろ文化にしろ、文明にしろ社会にしろ、最も根源的な問題となってくるだろう。そのためには、どんな衝突を許容し、どこまでなら自由と自由がぶつかり合っても大惨事とならないか。発展に寄与する摩擦と、そうでない摩擦とをいかに早い段階で見抜けるか(競争と闘争と戦争はいずれも対立構造による摩擦で起きるが、文明を破壊するか発展させるかの違いが著しい。単なる競争とて、裏で戦争を誘発させていないとは限らない)。見抜けたあとで、どのように紐解くか。知能の介在はここにこそ有効になってくると言えそうだ。(定かではありません)(いつになく底の浅い所感ですね。幼稚園児かな?)(幼稚園児や赤ちゃんのほうがまだ適応能力が高いという意味で、優れているのでは?)(あぎゃー)(新作掌編:「世界は愛と結びつく」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860236752015)


3433:【2022/02/15*ショーック】
二年前の自作小説をちらっと読み返してみたら、読めたもんじゃなくって、うわーん、の気持ちになったけれども、四万五千字くらいの分量のなかで、ああこの物語はここに辿り着くための物語だったのだな、と的確に浮きあがって読めたので、そこだけはよいな、と思えた。分量で言うと、四万五千字のなかの二千字だから、二十二分の一くらいだ。ただべつにそれを並べたいから物語にしたわけじゃなく、おそらくは自動的に立ちあがってきたのだろう。ああこの物語はこのためのものだったのだな、と自力で辿り着いた感じがして、よくできました、とパチパチと手を打ちたくなったけれども、そのほかがてんでダメなので、もっとちゃんとしよ?の気分だ。おもしろいかおもしろくないかで言えば、うーん……言わんとこ、となる。自虐はよくないよ、とはよく聞くことだけれども、自作くらいはまっとうに批評できるようになりましょうよ、とも思います。とはいえ、なんというタイトルの自作かは明かさぬが。うひひ。(いや、うひひちゃうよきみぃ)(すまんね)(新作掌編:「テプラは拡張する」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860260662113)


3434:【2022/02/15*自己評価高めでごめんなさい】
これをしたら高く評価される、といった術を割とすぐ見抜けるし、実践できると自己評価高めに見積もっているいくひしさんであるが、しかしその術をとろうにもとれないひとがいる場合に、じゃあわいも使わんどこ、と思ってしまうので、使わんままでいることが多い。とくに、持てる者が使えるカードをどうあっても使えない者がいるならば、それを使わぬままにどうやったら、そのカードを使っている者と同等かそれ以上の利を得られる道をつくれるのか、のほうに尽力したくなる。人脈とか、経歴とか、評価対象以外での特技とか、いわゆる付加価値をつけないままであっても、よいものがよいと評価される舞台をつくるにはどうすればよいのか。或いは、それぞれに相性のよい受動者と出会える場をどうしたら築いていけるのか。高く評価された上位層のみに目を配っていれば済むような舞台は、相乗効果で、どこまでも、上部層だけ肥えればいいという流れが強化されやすい。下部層にも目を配るようにしてもらうには、下部層にもあなたにとって目を向ける価値のある宝物がありますよ、と示すのが効果的だ。そのためには、実際に宝物が埋もれていることを証明しなければいけないし、宝物ですら、付加価値がつかなければ埋もれますよ、と示さねばならない。そのためにできることはなんだろう、と考えると、けっきょく、いまのいくひしさんみたいな振る舞いをとるしかなくなるのだ。本当に実力があったり、能力があるのなら、そもそも出版社という権威を利用せずとも済むはずだし、巨大な資本の後押しなどなくとも、世界に旅立てるはずだ。とどのつまり、本当に能力のある小説家が、現代にはまだいないのだ(もしくは能力を発揮できる環境がないのかもしれない)。いくひしさんは、本物よりも、偽物であることに傷ついているがゆえに本物であろうとする偽物のほうが好きだけれども、でも、本当に本物がいるのなら、それを見てみたい気もする。本物とか偽物といった評価の仕方そのものが好きではないけれど、でも本当にいるのなら、本物の小説家のつむぐ物語を読んでみたい。そのためなら、養分の養分になるくらい、なんてことはないのだ。郁菱万は今年か来年で終わる予定なので、すこしずつこういった、いままで敢えて並べてこなかった方面の文字の羅列も並べていこうと思います。


3435:【2022/02/16*性格最悪にして最弱ですみません】
わいがわいなりの、うひひ、をするのだから、ほかの人たちはわがはいになんの遠慮をすることなく、使えるカードを思う存分に使ったらええがな、と思いつつも、作品世界の魅力以外の何かしらの能力やら付加価値やらを無駄にピコピコとこれみよがしに誇示する場合にはせめて、ざこざこのざこ、よわよわのよわな、わがはい以上の能力を叩きだしてから誇ってほしいものだね、とは思います。届くか分からんけれども、プロのみなみなさまに向けてその旨、記し残しておきますね。うひひ。(我ながらこんなこと並べちゃうなんてクソかっこわる、と思いながらも、並べておくよ)(未来のじぶんへの戒めも籠めて)(新作掌編:「ウゴゴを縛るもの」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860287041093)


3436:【2022/02/16*ぽわわわ~ん】
わがはい、自己評価は高いけれども、自己肯定感がゼロである。まんちゃんそれ矛盾してるー、と思った方もいらっしゃるかもしれんけれども、ちっちっち。そうじゃないんよ。自己評価が高いので、本当は本気だしたらこれくらいできるんだけれども、でもなんでかできないので、なんでじゃなんでじゃ、となるから、現状の等身大のそのまんまの自己を受け入れられなくて、なんじゃいくしょー、となっちゃうので、わいはほんとうはこんなんじゃないもん、と自己肯定感がゼロを記録するのですね。だっていくひしさん、本気だしたら空だって飛べちゃうし、お月さまだって盗めちゃうけれども、そんなことしたら注目の的だし、わーわーきゃーきゃー、モテモテのウハウハだぜ、になってしまうので、そんなのってすっごく楽しそうではあるけれども、たまには静かに過ごしたくもなっちゃうし、そうなったときに、みんなさんに、ごめんよごめんよー、って謝って休むのもめんどうくちゃいので、そうならぬように本当はお空だって飛べちゃうし、お月さまだって盗めちゃうけれども、えっ待って、お月さま盗めちゃうの? いくひしさん、お月さま盗めちゃうのー、えーっっっ!!! それって重罪じゃないですか、即刻死刑じゃないですか。ダメですよ、ダメですよ。まんちゃんそんなことしちゃあかんよチミぃ、みたいな感じで、いくひしさんは本気をだしちゃいやん、なので、いつでも自己肯定感がゼロなんじゃ。と、思いこんでいたらひとまず、ざこざこのざこでも、よわよわのよわでも、毎日楽しく過ごせちゃうし、うふふ、とみんなさんにも、あたたかーい眼差しをそそげちゃうのですね。だってみんなさんがしゅわわせーな毎日を送っていられるのも、さびちい夜にお月さまを見あげて慰められちゃうのも、全部が全部、いくひしさんが本気をださないからで、いくひしさんの自己肯定感がゼロだからなんよ。ありがたーいでしょ? むひひ。いつもより気持ち傲慢に磨きをかけて、本日の「いくひ誌。」にしちゃってもいいじゃろか。いいよー。やったぜ。


3437:【2022/02/17*毎日弱くなる練習をしても弱くなるだけ】
毎日継続することで得られるメリットは、大別すれば三つある。一つは継続する能力が鍛えられること。継続する能力は、継続しようと工夫することでしか鍛えられない。二つ目は、毎日継続することで行う作業が最適化されること。意識せずにこなせるくらいにまで、身体が作業を記憶するし、肉体のほうでも作業に適したつくりになる。つまりは適応する。そして最後に、継続することで得られるメリットの三つ目は、予期せぬ変化を得やすいことだ。単純な話として、試行回数が多いほうが、予期せぬ失敗や思いもよらぬ成果を得やすいだろう。では、デメリットはないのか、と言えば、じつはこれがかなりある。このデメリットを無視して、毎日継続をしても、メリットよりもデメリットのほうが多くなると、個人的には思っている。デメリットを大別すれば二つだ。一つは身体の消耗。二つ目は、好ましくない学習の固定化だ。身体の消耗についてはとくに説明はいらないだろう。毎日身体を酷使すれば、それだけダメージが蓄積される。高負荷の鍛錬をつづけても、短期的には成果を得られるかもしれないが、十年後二十年後には身体を壊す確率が高くなる。二つ目の学習の固定化については、基本的に毎日継続できることには限度がある。毎日すこしずつ違うことに挑戦できていればよいが、毎日継続することを目的にしてしまうと、ひとまずつづけられる範囲のこじんまりとした似たような作業ばかりを繰り返してしまう。短期的にはそれにより身体が最適化されるが、それをずっと行ってしまえば、ほかのことを行うのに不利になるくらいに身体(能力)が固定化してしまう。知識や視点が偏ってしまうのもこの範疇だ。もうすこし言えば、毎日継続するときに、長期的に見て大きな絵柄を描こうとするのか、それとも小さな絵を毎日描きつづけるのかによって、身に着く能力が変わってくる。一日で完成に漕ぎつける程度の絵ばかりを描いていれば必然、それを仕上げるための能力が最適化されるが、かといってではそれによって大きな絵を描けるようになるのか、と言えば、否である。基本的に毎日継続して身に着くのは、毎日継続して発揮した能力の範囲内だ。もうすこし言えば、同じことばかりを繰り返していれば、いちど最適化された技能ですら、意識できない内に衰えていく。衰えに気づけない点も、毎日同じことばかり継続することの弊害と言えるだろう。ときには変化を与えたり、何か大きな絵を描くために毎日コツコツ作業を進める、といった目的そのものの変化を工夫してみると、すこしは飽きずに毎日何かで遊びつづけていられるのではないだろうか。(定かではありません)(毎日継続することそれ自体が目的だったならば、どのようなデメリットがあろうとも継続すればよいだろうし、そうではなく、何かほかに目的があったならば、やはりデメリットが際立ってきたところで毎日継続をやめてみたり、毎日こなしている作業の内容を変えてみたりと、毎日継続そのものが形骸化しないように工夫の工夫を試みてもよいのではないだろうか)(でたー。じぶんにできないこと偉そうに言うひとー)(ごめーんちゃい)(うひひ)(新作掌編:「雪男はなぜ山にでるのか」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860318246170)


3438:【2022/02/17*見逃した瑕疵がたまたま致命傷でなかっただけでは?】
陰謀論を規制しなければ社会的な害がでるので、死者がでるなどの損害の著しいデマや陰謀論は規制できるようにしましょう、といった論調が一部SNS上で際立ってきて観測される。まず思うのが、果たして本当に陰謀論やデマが要因で社会的な害が生じているのか、についてだ。たとえば陰謀論に染まりやすい人とそうでない人たちのあいだに何か経済格差や環境要因がないかを調査してもよいのではないか。陰謀論に染まるからいけないのか、それとも、より正しいとされる情報を享受できない環境が問題なのか。陰謀論そのものが問題なのか、それとも仕組みがついていけていないのか、については厳密に分けて議論したほうが好ましいのではないか。両方が相互に関連して問題をこじれさせていることもあるだろう。その点は念入りな調査が入用に思える。そこを省いて、言論統制をしましょう、というのは乱暴にすぎるように思います。そもそも本当に陰謀論とされている主張が陰謀論なのかどうかは、一定期間の経過観察が必要だし、やはり念入りな事実確認が欠かせない。偶然に、たまたま陰謀論やデマとされた論調が、陰謀論やデマだったからよいものを、そうでなければ、それは過去人類が繰り返してきた過ちをふたたび犯すことになる。他方、正しい主張をしてきた、と言い張る人物たちとて、細かな点では見逃していた瑕疵があるはずだ。その点が、たまたま偶然に、そのときは大事に至らなかっただけだろう。自己正当化に必死なのか、それともよりよい仕組みを築いていきたいのか。人命を最優先するのはその通りだが、いささか視野が狭くなっていませんか、と欠伸をしてしまう本日のいくひしさんであった。(どんなことであれ、何かを規制する場合は、それが正しい選択だから規制が許容されるのではない点は忘れないほうがよろしいのでは、と思います。規制とはあまねく、誰かしらの自由を奪い、抑圧し、何らかの枷を他者へと強制する手段です。必要に駆られて規制するにしても、あくまで致し方なくなのだ、との認識は持っていてほしいと望みます。規制は一種の危害でもあることを忘れないでいたほうが、いざじぶんたちの大事なものを規制されそうなときに反論の余地を残すという意味でも、好ましいのではないでしょうか)(定かではありません)


3439:【2022/02/18*いつ読まれるのか。いまなの?】
小説は発表してから読者のもとに辿り着くまでに、数年とかときには数十年かかるなんてことはざらにあります。世に発表してから、数日とか数か月のうちに、いっぱい読まれなかった、と悩むことそのものが徒爾(とじ)というか、ちょっと見立てが甘くないですか、と思うことがあります。読まれないのはおつらいかもしれませんが、もうすこし気長に構えてもよくないですかね、といくひしさんは思うのですが、これは突き放したような冷たい意見でしょうか。ビジネスモデルが小説の耐久年数に対して近視眼的すぎる問題もあるのかもしれません。その問題を考慮するにしても、そうしたビジネスモデルに乗っかるほうも乗っかるほうですし、作者や出版社の都合は、読者には関係ないですよね、とやっぱり思ってしまいます。短期間にいっぱい読まれなきゃ採算のとれないビジネスモデルこそを変えていこうとするほうが正攻法のはずですし、そもそも現状、小説に商品価値があるのかがまず以って疑問の余地があると思います。読書人口(需要)を増やしていく工夫をとったり、小説そのものの社会的価値を高める工夫をとるのも一つでしょう。これまでは、小説本を売るために、小説の価値を下げるような付加価値のつけ方をされてきたように概観できるので、これからはそうでなく、小説が日常生活に欠かせない存在となるように、みなが各々にとれる工夫をそれぞれにとっていくのが遠回りなようでいて、一番の近道のような気がしますが、そうでもないのでしょうか。よく分かりません。ともかくとして、いますぐに読まれなくてもそう焦ったり、絶望したりしなくてもよいようにいくひしさんは思いますよ、と無責任な独白を以って、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おやすみなさい。(新作掌編:「殻の中」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860346776303)


3440:【2022/02/19*至福の欠片をもらったよ】
商業作家ではないけれど、好みの物語を読ませてくれる小説家が幾人かおり、しかしそれぞれにいろいろな理由があるにしろ、段々とみなさん新作を投稿しなくなってきている。そういうのを目にしていると、きっとその方々が商業作家になれていたら、いまごろいくひしさんは新作をいまよりも多く読めていたのだろうな、と思って、もしもの世界を想像しては、はらわたが煮えくり返るくらいに悔しくなる。誰がわるいわけではないけれど、誰であっても好きなときに好きなだけ好きなように小説をつくれるくらいに余裕のある世の中に早くなってほしいです。みんなたいへんなんじゃ。誰かなんとかしちょくれ~。お願いします。にゃむにゃむ。



※日々、腐っている、腐りつづけている、なお腐っているし、まだ腐る、いったいどこまで腐れば気が済むのか、尽きぬ我が身の底知れなさよ、腐るほど余る呆れ具合よ。


3441:【2022/02/19*親愛なるまだ見ぬ旅人へ】
ちゃんと文字にして並べたことがなかったので並べておきますね。なかなか小説が書けないとか、書きたいのにほかの人たちと比べてしまって、じぶんが劣って感じられ、苦しんでいる方。もしいらっしゃったらよく聞いて。誰が認めずとも、いくひしさんが認めます。あなたの世界を認めます。まずは小説を好きになってくださってありがとうございます。それから小説を書こうとしてくださってありがとうございます。もうね、その時点で合格です。あなたは立派に作家です。しかしまだ偉大な小説家ではありません。まずは一作、なんでもよいので、楽しみながら好きに、自由に、人の真似でもなんだってしてよいので、最後まで、これ以上は物語がおもしろくならないな、というところまで文字を並べてみてください。何文字でも構いません。掌編だろうが長編だろうが関係ありません。それがいわゆる「THE小説」の体裁になっていなくてもよいです。そうして物語の最後まで行きつけたことが一度でもある方。もうね、素晴らしい旅をしましたね。お帰りなさい。その時点であなたは偉大な小説家にして、大いなる旅人です。ここではない、しかしどこかにはあるだろう世界へと旅立ち、無事に帰ってこられたのです。誰にも真似できないことです。なぜなら、その世界はあなたが生みださなければ現れなかった唯一無二の世界なのですから。たとえ、既存の作品に影響を受けていようが、ちょっぴり真似しちゃっていようが、関係ありません。売り物にするわけではないのなら、だいじょうぶです。あなたが楽しんで、ときに苦しみつつ、悲しみに暮れながらも、キャラクターたちの苦難を見届け、至福を見守り、どうにかこうにか執筆という旅から帰ってこられたならば、もうそれだけで偉大な旅人にして小説家なのです。そこで満足しても充分です。一作であれ、世界は世界です。ただそれだけが大事です。あなたが旅立ったからこそ立ち現れた世界を、こちらの世界に刻み込んでくださり、ありがとうございます。電子の海へとその軌跡を残してくださるなら、きっといつかいくひしさんみたいな孤独なひとに届くでしょう。それから、すこし休んだらまた旅立ちたくなった方。素晴らしいですね。よくぞ決意されました。いくひしさんがパチパチパチと盛大な拍手を送りたいと思います。きっとあなたは旅の楽しさを覚えたのでしょう。それとも、つぎはもっと深いところまで潜っていけると予感したのでしょうか。きっとその予感は正しいでしょう。途中で引き返してきたっていいんです。あなたにしか見えない地平線を見据え、一歩足を踏みだそうとしたその好奇心、ワクワク、それとも衝動、それが大事です。もうその時点で、ほかの人と比べることがいかにお門違いかにきっと本当は気づいたはずです。しかし人は、いちど覚えた感触を忘れてしまう生き物でもあります。何度も旅にでることで、いつの間にか、大事だったはずのことを忘れてしまうのですね。思いだしてください。あなたが偉大な旅人であったことを。どれくらいたくさん物語をつくれるかとか、どれだけ速く物語を閉じれるかとか、どんな栄誉を掴むのかとか、そんなことはまったく旅には関係ありません。旅はレースではないのですから(もちろん、関係ないことだって楽しめるなら楽しめばいいと思います)。ゆったりとじっくりと、足元の花に目を留める余裕があるくらいにじぶんの好きな歩みで旅をしてください。楽しい旅のそれが条件です。ときには途中で目的地を変えたって構いません。あなたが旅先で目にし、触れ、感じたことを、どうぞ囁くように、歌うように、いくひしさんにも体験できるように、見えるように、語りかけるようにして教えてください。たとえそれを「小説ではない」とほかの人が否定したとしても、いくひしさんが認めます。それは偉大な旅人の残した、偉大な旅の記録にして、小説です。それとも、小説には納まりきらないもっと大きな何かかもしれません。それでもときには、小説を書けないことに悩んだり、小説と向き合うことを苦しいと思う日が訪れるかもしれません。そのときは誰に遠慮することなく、休みましょう。ほかのことで遊んじゃえばよいのです。旅は、たまにするから楽しいのです。年中旅をしていたら、それこそ現実で休むことのほうこそ旅である、と言えてしまいます。中には商業作家になりたいんだ、という方もいらっしゃるかもしれません。申し訳ないのですが、そちらの領域は、いくひしさんの範疇外です。いくひしさんはそちらに関してはどうこう言える立場にはないので、申し訳ありませんが、いくひしさんが認めてさしあげることはできません。どうぞ、商業作家への門をどうにかこうにかくぐって、なりたいものになってください。応援しております。道は違えど、しかし、いずれにせよ、あなただけの世界に旅立ち、その断片を見せてくださるあなたのことを、いくひしさんは尊敬しております。ありがたーい、と思っております。いくひしさんだけは、何があっても、誰がなんと言おうとも、あなたの旅した世界を認めます。いくひしさんに認められてもな、と思ったそこのあなた。じつに正直者で、本質を見抜く目が優れているでしょう。その通りです。いくひしさんなんかに認められずとも、各々、好きに、自由に、思うがままの世界に旅立ってください。願わくは、あなたにとって語り尽くせぬ旅路になることを。たまにはいい人ぶってみたかった、本日の郁菱万でした。


3442:【2022/02/20*快感だけでは楽しめない】
上記補足です。苦しみながらしか小説をつくれないし、そうすることでしか拭えない何かに苛まれている小説家さんがいることも、当然承知しております。その方にまで、楽しんで旅をしましょう、とは言いません。ただ、もし苦しんでいる理由が、旅先よろしく物語にあるのではなく、小説をつむぐことそのものにあるわけでもなく、本当は楽しんで物語をつむぎたいと望んでいるのなら、楽しむ方法はあると思いますよ、と一言、蛇足ですが申し添えておきますね。楽しんでもいいと思いますよ。苦しみ、慈しみ、哀しむことを含めて。旅は愉快なことだけではありませんし、ときには絶望にも直面するでしょう。だからといって人生がすっかりすべて悲劇になるわけでもないのですから。(定かではありませんが、こればかりは、定かにしていきたいですね)


3443:【2022/02/20*強者のみなさまへ】
優しさのない厳しさこそ甘えだと思っている。殴り飛ばして生き残った者だけヨシヨシしてりゃそりゃあ楽だろうよ。おまえが優しくねぇのは、優しくすると生きていけないくらいに弱いからだろ。自覚しろよ。人に優しくしつづけてなお人生楽しめるくらいに強くなれよ。強くなりてぇんだろ。うひひ。(本気で厳しくされたいの)


3444:【2022/02/20*たまにはカチンとくることもあります】
これは間違った考え方だし、合理的ではないけれど、何かを極めたいと志すのは構わないし、意気込むのもご自由にどうぞ、と思うけれど、極めることくらい一人でしたらどうですか、と思わないわけでもないのだよね。いちいち他人を巻き込まないとじぶんの理想を突き詰める真似もできないんですか、とたまに思いますが、これはしかし、切磋琢磨をすることで到達できる境地があったり、協力し合うことで至れる未踏の地もあるので、一般化はできませんね。ただ、一人でできないことをしようとするのなら、相応の心の持ちようがあるようにも思います。本当にあなたに才能があって、超ド級の天才であるのなら、一人でどこまででも突き詰められますよね、と思ってしまいます。とはいえ、一人きりになったところで、その生活を支えるために我々は誰であれ、脈々と受け継がれてきた文明の恩恵を受けているし、先人たちの切り拓いた境地のおこぼれにあやかってもいます。そうした他者からの恩恵を散々に受けておいてそれを度外視しながらじぶんこそがオリジナルだの先人だのナンバーワンだのとのたまいている人を見かけると、甘えんな、とたまに思います。間違った考え方ですけれどね。甘えたっていいわけですから。基本、人間は弱い生き物です。野生の生き物たちに比べたら現代人は総じて社会におんぶにだっこで甘やかされて暮らしています。ただ、そうした現実に気づきもしないで、他者にばかり厳しく当たり散らしているいくひしさんみたいな人を見かけると、たまにカチンとくることもあります、という愚痴でした。同属嫌悪ですね。すみません。(お目汚し失礼致しました)


3445:【2022/02/21*浄化されて消えてしまう】
さいきんはもう、ずっと絵描きさんや音楽家さんだけ見てたいな、の気分だ。SNS上越しに憧れてる作家さんたちはみなさん、本当に素晴らしく努力家で、じぶんに厳しく他人に優しい方ばかりなので、見ているだけで背筋がピンと伸びる心地がします。作品そのものもそうですが、生きる姿勢みたいなものが美しいです。あの方々のような人間になりたいな、の気持ちで、毎日心が浄化されますが、浄化された矢先から、うひひ、と邪悪に塗れてしまうので、いくひしさんはもうダメです。絵描きさんや音楽家さんたちがいなければいくひしさんはとっくに大魔王と化して、世界征服をしていることでしょう。全人類みな、絵描きさんや音楽家さんたちに感謝して欲しいと思います。いくひしさんはうんとたくさん感謝いたします。一人につき五百兆円ずつ配りたいですね。いくひしさんが大魔王でないことが悔やまれます。役立たずで申し訳ございません。いつもステキな絵と歌と表現を見せてくださり、ありがとうございます。


3446:【2022/02/21*いつでも誰かの範疇外】
思っていた以上に時代の進む速度が速い。それを価値観の変容が、と言い換えてもいいし、人々を動かすものの中身が、と言い換えてもいい。ここ数年で顕著になってきたのが、以前よりも多くの人々が、勝者の姿を見たがっていない、という点だ。勝者よりも、いかにじぶんにちかしい境遇で頑張っているか。感情移入をして応援していられるか。推しという言葉でまとめてしまえば楽なのだが、一概にそうとも言えなくなってきている。必ずしも推しでなくともよいのだ。別の言い方をするのならば、気に入らない勝者の姿はむしろ見たくない、と拒絶する。視界に入れない。興味の範疇外に押しやってしまう。それを可能とする環境がいまは整ってきている。それゆえに、広報という意味では、いかに的を絞った導線を引いていけるのか、という従来の手法と同時並行で、いかに興味の範疇外扱いしている人々の元にまで届くように導線を引いていけるのかがビジネス戦略上、要となってくる。ビッグデータの表面をなぞるだけでは、後者の、接点のない分野同士を繋ぐような真似はできない。分断された層は基本、可視化されないからだ。しかしそれゆえに、潜在需要者をたらふく蓄えている可能性が高い。もはや現代人は、となりに座る相手とすら異なる社会を生きている。共通の話題を探るほうがむつかしい時代になってきている。それゆえに、共通の話題になりそうなコンテンツは、以前よりも爆発的に話題になるし、売れるようになる。この流れは十年以上前から強化されつづけているし、当分消えないだろう。しかし、個々人のなかに広がる社会がまんべんなくモザイク状に散らばるのならば、そもそも共通の話題などはないのだ、という共通認識ができるので、互いに相手の内社会を尊重しつつ、会話ができるようになっていくと妄想する次第である。周囲の極々狭い範囲での印象だが、若い世代ではこれがしぜんと身についている。できていないのは我々世代を含め、上の者たちに多い印象だが、これもまた本来は個々に固有の問題であるはずだ。問題のある個が多数を占めた時代が長くつづいたのである。言い換えるのならば、まったく問題のない個などいない、という認識を持てない者が多かった時代と言えよう。以上は、なんも並べることないんじゃい、とふてくされたいくひしさんのあてずっぽうなので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(新作掌編:「糾える鎖のごとく」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860438925903)(新作掌編:「卵からミニカー」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860378734520)


3447:【2022/02/22*なんもわからん】
わからんし間違ってるかも、みたいに思いながら、でもぼんやりと、これしか考えられんしなぁ、みたいな事柄を普段から思いつく。確率の高さごとにいくつかの可能性が枝分かれしているけれど、のきなみ、これしかないよなぁ、が時間経過にしたがって浮きあがってくる。それはたとえば、ずっと空を眺めていたら、えっ大地動いてない?と気づくようなものだ。いくひしさんは情報処理能力が低いので、言い換えるとあんぽんたんなので(かわいい)、そのときそのときその場その場で対処をさせると、んーわかんないっ、となる。なのに数時間後とか、数日後とか、ときには数年後とかに、ああこれってこういうことか、と急にピコンと閃くことがある。けれど閃いたそれを確かめたり、再現したりできないことが多いので――たいがいはその場その場での映像だとかやりとりが記録として残っていないし、高い技術力がないと実験できなかったりするので、どうあってもいくひしさんの勘違いだとか思い違いだとか、要は妄想の域をでないのだ。でも、いちおうメモしとくか、とメモをとっておいたり、念のために言っておくか、と誰かに話しておくと、たいがいはいちど否定されちゃうし、まんちゃんまたへんなこと言ってら、みたいな感じで流されて終わっちゃうんだけど、数年後とかに、やっぱりそうだったんじゃん、みたいなこともなきにしもあらずなので、ちゃんともっと説明できるようになりたい。無理やり確かめようとしてもいっぱいの人に迷惑かけちゃうからいいことないし。けれども、閃いちゃったことを見て見ぬ振りもできないし、本当にいくひしさんには色々なことが繋がっていて、言葉だけでは説明しきれないことが多いのだ。もちろんたいがいは言葉にした途端、それっていくひしさんの勘でしかないしなぁ、になる。やっぱり妄想の域を出ないのだけれど、でも、そんなことを言ったら、いくひしさんのほぼ十割は妄想でできているので、なぜっていくひしさんに証明できることなどほとんどないからで――いくひしさんは、じぶんがじぶんであることすら証明する自信がないよ――もう心底に、いくひしさんの言葉なぞは信用に値しないのだよね。しょんぼりしてしまう。でも仕方がないのだ。基本、何かを閃いても、やっぱり九割九分くらいは勘違いだったり、思い違いであることのほうが多い。いっぱい失敗してしまう。こっちかと思ったらあっちだった、みたいなそういう勘違いをしょっちゅうする。ここに書けばいいのね、と意気揚々と書いたらそこの欄じゃなかったとか。詰め替え用のコンディショナー買ったつもりがシャンプーだったとか。こんなの日常茶飯事だ。いくひしさんはいくひしさんのやることなすこと、なんも信用ならんのよね。でも、ときどき誰も真剣に聞いてくれなかったけれども、やっぱりそうだったんじゃん、みたいなこともあるので、むつかしい。かといって別にいくひしさんが何かを発明したり発見したりするわけではなく、偶然に、偉い人たちの何かしらの成果と似たような妄想を以前にいくひしさんが浮かべていた、というだけのことなのだよね。いくひしさんの考えるようなことはすでにどこかの誰かが考えているのだ。だから安心していくひしさんは間違うことができる。だってもう誰かが間違っているのだろうから。対策とてばっちりなはず。そうじゃない?(同じ失敗を何度も繰り返している人の言葉とは思えませんね)(対策とは?)(愚かさを自覚してればいいってわけじゃないんだよまんちゃん)(言わないで)


3448:【2022/02/23*切実にやめてほしいです】
いまは2/24です。一日遅れで更新します。ロシアとウクライナが戦争をはじめたようです。おそろしいことです(ロシアがウクライナを侵攻したといった構図のようです)。戦争、と辞書を引くと、おおむねそこには、軍事力を用いた国家間の対立、といった意味の言葉が並びます。戦争は国と国がすることなのですね。転じて、何か個人と個人ではない大きな枠組み同士の争い、といった意味でも使われます。でも、いくひしさんは思います。戦争とて、けっきょくは人同士の対立であり、争いでしかないのだと。国家が、国家という物体としてあるのではなく、あくまで一つの仕組みのなかの漠然としたくくりでしかないのと同じ理屈です。国家を形作っているのは人間です。戦争を起こすのも、長引かせるのも、人間のすることなんですね。そこに、おそらく個人同士の争いとの差異はないでしょう。単に、扱える道具や、困窮する物資の規模の大小に違いがあるだけです。誤解をしてほしくないのはこれはけして、国家間同士の問題を、個人の問題に矮小化して考えましょう、と言いたいわけではない点です。国家を形作る個々人が、それぞれの生活のなかで、いかに争いや弱い者いじめや、理不尽な扱いに対して、毅然と冷静に対処できるのか。感情的になることもそれはあるでしょうが、そのときに、何かをするにしても、ひょっとしたらじぶんのほうが加害者かもしれない、と思えるかどうか。干渉しようとする相手に対して、じぶんのほうが強者になってしまわないかどうか。そういうことを考えられる個人が増えれば、すくなくとも、戦争をしようとする者についていこうとはしないでしょうし、仮に上から戦争を強制されたとしても、みながNOと言えば、戦争は起きません。最悪、大統領同士が殴り合いをして、単なる決闘をするよりない状態にしてしまえばよいわけです。もし決闘をしたのなら、現代ではどんなに偉い人でも決闘罪で裁かれます。国同士でルールが違うにしても、やはり大勢がそのルールに従わなければ、ルールはルールとして機能しません。しかしそれゆえに、大勢の意思が一つの方向に誘導され、流されてしまうこともまたおそろしいことです。弱い立場の人を守るべきルールがおろそかにされれば、それはもう、人間の目指すあるべき社会とは呼べなくなってしまいますからね。こんなことを言うと、人間はでは弱い立場の人を守るべき存在なのか、そんなことはないだろう、と反論が飛んできそうです。その通りです。そんな義務はありません。しかし、過去、あらゆる艱難をくぐりぬけ、その都度どうしたらじぶんたちがより長く可能な限りの自由を享受できるのか、と多くの人たちが考え、行動した末に、より自由な社会が築かれてきたのです。その結果、やはり弱い立場の人たちを守るべく行動することこそが、回りまわってじぶんの自由を、人生を、豊かにするのだと導きだしてきたのですね。もちろん、強さや弱さは相対的なものです。延々ずっと弱い立場でありつづける者などはいません。弱い立場同士で争うこともでてくるでしょう。おおむね人は、弱い立場であり、かつ別の場面では、強い立場でもあるものです。そのときに、すこしでもじぶんが相手よりも自由を感じられたら、意思を通せたら、それは相手よりも強い立場にあると言えるでしょう。そのときは、相手の大事に思っていることを尊重し、どうにか援助の手を差し伸べられないか、と考えられると好ましいように思います。戦争をしたいと望む相手には、許容範囲内で戦争を楽しませてあげましょう。許容範囲内とはたとえば、ゲームや漫画といった、虚構のなかでだけです。そこでなら、いくらでもしたいことをしてもらえばいいと、いくひしさんは思います。ひるがえって、いくら戦争ではないからといって、競争や対立を煽る行為は、個人に許された自由とは言えど、立場に応じて慎んでほしいな、とすこしだけ思いますが、それを強制する真似は、いくひしさんにはできませんし、したくはありません。みな各々、したいことのできるような社会を築いていけるとよいですね。ふんわりとおぼろげなつれづれこと、本日の「いくひ誌。」でした。


3449:【2022/02/24*なんもわからんちんちん】
「とりとめのないつぶやきになっちゃうけれど、いくひしさんはいまの生活にこれといって不満はありません。でも、約束はできるだけ守ってほしいし、いくひしさんも、守れない約束はしないようにしたいです。立場のいかんを問わず誰であれ、約束を守ることと、守れそうにない約束を相手に迫らないことに気をつけていれば、ひとまず世の中は最悪には向かわない気がします。約束を守れなかったら、つぎからは破らずに済む対策をとれるとよさそうです。謝罪や償いよりも、それが一番大事に思えます。同じ過ちを繰り返さない。単純な話だけれど、これが一番むつかしいんですよね。工夫していきたいと思います」「いくひしさんはいくひしさん以外の大勢に迷惑をかけつづけていますし、いくひしさん以外の大勢に助けてもらっています」「いつもいつも偉そうにふんぞりかえったようなことばっかり並べちゃうけれど、いくひしさんは自己肯定感がゼロなので、偉そうに振舞わないと言葉も満足に並べられないのですよね。かわいくないなって思います」「仲間なんて欲しくないけれど、仲間を大事にする人は好きです。でも、仲間しか大事にしない人はすこし苦手かもしれません」「お金を奪うことと同じかそれ以上に、時間を奪うことはたいへんな罪に思えることが多いです。だからいくひしさんはできるだけ孤独でありたいのかもしれません」「なんもわっからーんの日々です。うそ。なんかわかったかも、と思いながら、やっぱり違ったかも、の日々です」「言ってもそこまで考えてはいませんが」「いくひしさんの日々の忙しさが1だとすると、誰かのために働いている方々の日々の忙しさは地球の円周か、それとも太陽系、はたまた銀河系の直径に匹敵すると思います」「謙虚さを演出するために、すこし潤色しました」「うひひ」


3450:【2022/02/25*人が悲しいと私も悲しい】
悩むことよりも、黙っていることのほうがつらいと思います。信じつづけるよりも、許しつづけることのほうがむつかしいと思います。何かを考えつづけることよりも、手を差し伸べたいのに何もできない、と耐えつづけるしかないほうがよほどつらいと思います。もしくは、信じていいのか判らず、それでも弾劾することもできない状況で、相手を許しつづけなくてはならないこともさぞお苦しいでしょう、と想像します。平和は、待っていてもやってきません。この世には、培っていかねばならないことが多すぎます。そのうえ、すぐに枯れてしまうものばかりです。なんとかできないものでしょうか。



※日々、世界は残酷だというけれど、哀しみを得ても楽しめるくらいの傷だけでいい。


3451:【2022/02/25*言い出しっぺ】
誰にも争って欲しくはないけれど、でももしどうしてもというのなら、じぶんが誰よりまえにでて闘え、と思います。とはいえ、いくひしさんは誰とも争いたくはないので、引っ込んでいます。


3452:【2022/02/25*誤解も真実のうち】
未だになんもわからん。こういうときはひとまず、じぶんにとっての最悪と最高の両方に備えておく。いくつかの可能性を重ね合わせたままにしておくのがよい。どっちに転んでもいいようにしておく。でもこういうことをしていると誤解の余地が広がるので、人が寄りつかず、孤独になる。いいこと尽くしだ。お試しあれ!(やめなさいよ)。


3453:【2022/02/25*一線がどこか解かっているのか?】
いくひしさんはあんぽんたんだし、人望ないし、クソザコだし、かわいいし、みんなに嫉妬されちゃうから引きこもっているだけだけれども、この人になら裏切られてもいいと思える人に出会えたらやっぱりうれしいと感じてしまうくらいには普通の人間です。だからこそ権威という魔物は、そういう人間の隙間に入り込んで、知らぬ間に社会を蝕んでいくのですね。友達ごっこもほどほどにしましょう。ただし、友達はたいせつに。


3454:【2022/02/25*誰がためのイタズラか】
抗いながら楽しむことを遊びという。遊びは誰からも認識可能だ。しかしイタズラは一方的なのだ。枠内にとどまるのが遊びであり、枠外からの干渉がイタズラと言える。ハラスメントも同じだ。うひひ、はつねにイタズラの側に一歩足を踏み入れている。根がハラスメント気質なんですね。すみません。


3455:【2022/02/25*こわいよ!】
宇宙の果てから、ただ一方的に見ていたい。根がストーカー気質なんですね(だからこわいって!!!)。


3456:【2022/02/25*じぶんでも危ない人だと思います】
素直になるのはむつかしい。だって素直になればなるほど、「好き好き大好き超わがはいのものになれ!!(ならないのなら滅べ!!!)」になってしまう。素直にならないほうがよい人間もいます。(根が独裁者気質なんですね)


3457:【2022/02/25*一匹の蟻】
いくひしさんは、「いいひとでありてぇーなぁ、自動的にぽんといいひとになってウハウハのモテモテだぜ!にならねーかなー」と念じつづけなければ即座に大魔王になってしまうくらいに人になりきれない「人になってみたい!」の生き物なので、ふっつーに、あなたの大嫌いな人とほぼほぼ同じだと思います。ギリギリかろうじて大魔王じゃなさそう、と演じているだけなのですね。言っても大魔王って、アリンコくらいに弱いんですけど。


3458:【2022/02/25*うひひ】
シークレットとか、外堀を埋めるとか、花を持たせてやるか、みたいなのをされるのは大嫌いなのに、するのは好きなので、やっぱり人としてよろしくないと思います。でも結構そういう人、多くないですか?


3459:【2022/02/25*反面教師】
遊びに付き合ってくれてありがとうございます、と思うことが最近あったようななかったような、これも勘違いかもしれませんが、でもいくひしさんが言うことでもないですけれども、誰かのために泥をかぶる、みたいなのは長期的に見て害だと思います。言葉を尽くして説明し、話し合いましょう。誤解は誤解を呼び、人を疑心暗鬼にさせます。


3460:【2022/02/26*がらんどうは拭えない】
たぶん私がこのことを文字にして並べるのは初めてですし、これまでじぶんの外側に吐きだしたこともなく、今後もないと思います。いつか目にした人はこれも小説なんだな、と思って読んで欲しいです。私は2011年3月11日に例の震災に遭いました。被災地です。さいわいにも海岸からは二十キロ以上離れた地点にいましたから、津波の被害を受けずに済みました。家の中は食器が割れ、家具が倒れた程度で、のちに半壊と判断されましたが、家の壁には目立った損傷はありませんでした。ヒビが割れ、瓦が落下した程度です。屋根にはビニールシートを張り、雨漏りを防ぎました。風が吹くたびにビニールシートがいまにも飛んで行ってしまいそうな音をビダビダと立てるので、地震や津波のことより、家が吹き飛ばされないのかが心配でした。風が連日強く吹いていました。停電は三日ほどつづき、断水は七日から十日くらいは続いたとおぼろげながら記憶しています。断水してもしばらくは水道が使えました。鍋や湯舟に水を貯め、生活用水に活用しました。足りない分は給水車からもらい、食料は缶詰や、非常食を食べました。近所のスーパーは購入制限を設けてずっと開いてくれていました。地震の翌日になって、ようやく津波の被害の全貌がラジオから伝わってきました。映像もありませんし、なかなか実感が湧きませんでした。正直、いまでも実感が湧きません。震災以降しばらくは、県外に足を運べば、会う人会う人に震災のことを心配されました。しかしやはり私が思っているよりも、ずっと県外の人たちのほうが深刻そうに震災の被害を捉えていました。情報が回ってこないだけで、これほどまでに認識の差が生まれるのか、と私はそれから何度も体験することになります。私はけっきょく、ボランティアには一度しか参加しませんでした。被害の大きさを知るにつれ、福島原発が破損しているといった事実を知り、外にでるのが怖くなったのです。また、最初の三日は何もできず、ベッドの上でただテキスト執筆ツールのポメラを打鍵していました。当時、私は小説をとある出版社の新人賞に応募していました。大きい賞と小さい賞があり、大きいほうはなかなか手ごたえがなかったので、小さいほうの賞に、その年の頭から投稿しつづけていたんですね。ちょうどその新人賞がはじまった年でもあり、月一かつ四万字程度の分量で投稿できたので、毎月投降していました。ひと月で結果がでるので、飽き性な私にはちょうどよかったのですね。私は人が大勢津波で亡くなっているとの報せをラジオで聞きながら、ひたすらポメラを打鍵していました。停電が復旧したそばからPCに繋いで、投稿したような記憶があります。そこら辺、いまではもうあやふやな記憶です。本当はもっと経ってから、ひと月後くらいの記憶かもしれません。ただ、私はそれからおおよそ半年以上、部屋に引きこもって、一人で物語の世界に逃げ込んでいました。いまもそうじゃないか、と言われればそうなのですが、当時はもう、あまりのじぶんの役の立たなさ、非力さ、無常さ、ともかく、じぶんのちっぽけさを嫌というほど味わったのですね。瓦礫撤去にでもボランティアをしに行けばよかったのに、それもできませんでした。ただひたすら、つぎの締め切り、新人賞、講評、それが楽しみで、物語の世界に逃げこんでいました。その新人賞では、ネット配信で審査会のようなものを生中継しており、じぶんの作品が紹介されたときは、そわそわと落ち着かず、せっかく開いた画面も直視できずに、イヤホンもつけず、ホラー映画でも観るように薄目で眺めていました。不謹慎なのですが、私にとって2011年は震災の年ではないんですね。私のつくった物語が初めて人に読まれていることを実感できた、初めましてだらけの年でした。私はいまでもじぶんが被災者だと思えません。私より悲惨でつらい思いをした方々がたくさんいらっしゃいます。いまでも苦しんでいる方だっているはずです。現に私は、津波を直接に目にしてはいませんし、亡くなった方のご遺体も目にしていません。私はいまもむかしも人との交流が希薄なので、震災によって大切なひとを亡くした方と会ったこともありません。或いは、会っていても、相手からそのような事情を聞いたことがないのです。住む場所を追われたり、家族と離れ離れになった方たちも、身近にはいません。被災地に住んでいながら私は、いわゆる東日本大震災の実情を、多くのほかの地域に暮らす方々よりも知らないのです。あとになって何度も映像で震災当時の海辺の様子を目にしました。しかしなぜか、その映像と海外で起こった災害映像との区別はつきませんでした。私に残っている2011年当時の感応は、じぶんがいかに無力でちっぽけで、取るに足りない存在だったかといった虚無感と、新人賞に投稿しているあいだの、夢見がちなふわふわ感だけなのです。話は変わりますが、いま、ロシアがウクライナに戦争を仕掛けています。軍人だけでなく、すでに民間人にも犠牲者がでています。攻め入られているウクライナ国民はむろんのこと、ロシア国民の大半は、戦争を望んでいません。私だってそうです。平和は、全世界、人類の共通にして基本理念のはずです。なのに、なぜか人が人を殺して回っている現実があります。それを一人の人間が、権力が、許しています。同じ一人の人間なのに、私にはやはり何もできず、こうしてうじうじと文字を並べているしかありません。震災時に覚えた虚無感を、ありありと思いだすのです。そうだった、この感じ。じぶんは安全地帯で命の危機を感じずに、漠然とした不安に怯えつつも雨風に凍えずに済む部屋にいて、布団にくるまり寝ることもできる。片や、寒空の下で救援を待ちながら凍え死んだ方々がいる。津波に流され、未だに誰にも見つけてもらえずに海や土の下に眠っている方々もいらっしゃるでしょう。存在を知っても、何もできない。なんでなんだろ、とたぶん私はあの日から、本当はずっと考えつづけていたのかもしれません。私はいま、戦争のことを思うと涙が止まりません。逆らえない状況下で「人を殺してこい」と命令される人たちがいて、それを拒むこともできずに、本当なら助け合えたかもしれない人々が、互いに望まぬ死を突きつけ合っています。私は震災のとき、きっと心のどこかでは諦めていたのかもしれません。自然の猛威なのだから、と。どうしようもないのだ、と。本当はどうにかしたいと思いながら、その術を私は持たなかったから。どうすれば持てるのかも分からず、持とうとすら行動もせず。いまも状況はほとんど同じです。ただ絶対的に違っていることがあります。戦争は、自然の猛威ではありません。本当なら、止めることができるはずなんです。なのに、できない現実があって、でも、どうにかできる現実だってやっぱりあって。きっといまの私が陥っているこの状況は、震災時の私とほとんど同じようなものなのかもしれません。戦地の状況すらろくにわからず、断片的に入ってくる情報だけで、徐々に被害だけが明らかになっていきます。いまはしかし映像があります。それを目にしても何も感じないくらいにぽっかりと空いた虚無を感じている方が、いまこの瞬間にも大勢いらっしゃるように思います。私にはさいわいにも震災当時、とある出版社の小さな新人賞がありました。小説が、ありました。もしいま、私にとってのそれの代わりとなるようなものがほかの方々にもあるのなら、きっと私と同じように、このさき何年にもわたって救われつづける方々がいらっしゃると思います。いまを乗り越えたあとも、身体に染みこんで拭いきれないがらんどう、虚無の重力から、いつでも逃れる術を、授けてくれるように思うのです。それはきっと、単なる虚無を、無力感を、もっと別の何かに変えていける術を、私たちに与えてくれます。与えられたそれで以って、願い一つ聞き入れてくれない無情なこの世界を、じぶんたちの手で、足で、言葉で、どうにかできる現実へと変えていけるようになるのかもしれません。それはひょっとしたら小石程度の小さな起伏かもしれませんが――しかしすくなくとも私はあれから、震災のあったあの年からずっと、拭いがたい虚無に呑みこまれずに済みました。ありがとうございます。あれから11年も経ってしまいましたが、いつかちゃんとお伝えしたかったです。


※日々、もうだいじょうぶです、ありがとうございます、の気持ちです。


3461:【2022/02/26*酔いすぎ注意】
アルコールも煙草もドラッグの類もいくひしさんには必要ないんですね(嗜好したい人がいても全然よいとは思いますが)。なぜなら常にじぶんに酔っているので。ナルシストさんなんですね。二重に気持ちわるいですね。反省してください。反省しました(ほんとにぃ?)


3462:【2022/02/26*んなー!】
ナルシストかっこいいじゃん!!!(ほんとにぃ?)(なんで疑うの!?)(日々の行いやよまんちゃん)


3463:【2022/02/26*頭が上がりません】
たいへんな状況下であっても、お仕事がある方はたいへんです。優先順位に合わせて、どうぞゆっくり休まれてください。いくひしさんはきょうはもう寝ます。


2464:【2022/02/26*こもります】
念を押しておきますが、ここに並べてあるのはすべていくひしさんの妄想にして、小説です――というテイの妄想にしてやはり小説なんですね。読者の方にすべてを委ねるしかない、他力本願の権化にすぎませんので、どうぞ真に受けないように注意してください。うひひ。


2465:【2022/02/27*なんとなくですが】
なんの補足というわけでもないのですが、求める者には機会を与え、そうでないものはそっとしておく。適切な判断かと思います(その人が何を求めているのかは、当の本人にも自覚できていなかったりします。かといってそれを見抜けたところで、過度な施しは、何かを歪めます)(自覚が大事なんですね)(いくひしさん、あなたへ言っていますよ)(へい)。


3466:【2022/02/27*通常運転】
掌編のつくりかけばっかし溜まっちゃって、わーん、の気分だ。日誌も短文ばっかし並べちゃう。だって忙しいんだもん(うそじゃん)(寝すぎや)(うぴー)。


3467:【2022/02/27*自閉モード】
いくひしさんの欠点なんじゃが、他者の視線を意識した途端、何も集中できんくなる。なるべく引きこもっていたい理由の一つなんじゃ。ひどい現実はもう飽き飽きじゃ。いまはお昼だけど、お料理も苦手だから、シェフのぜんぶお任せ丼が好き。シェフいないけど。いくひしさんはひどいひとじゃから、嫌なことからは目を逸らして、しーらんぴ、ってしちゃう。よくないよまんちゃん、って思うけれども仕方ないのだ。またしばらく物語世界に潜っちゃお。(ふだんどおりでは?)(そうとも言う)


3468:【2022/02/28*初めての短歌かも】
「守りたい人を優先するとうまく伝わらなくなる。それってどこかババ抜きに似ている」短歌ってこんな感じだっけか。俳句と違って575とか字数制限あったような、なかったような。どっちだっけ? 自信なくて不安なんじゃ。そこそこまあまあ上手でない?と言われたい。(読む人によるのでは?)(ほんとにぃ?)(さいきんきみそれ好きね)


3469:【2022/02/28*一人遊び】
箪笥を漁っていたら、黒ひげ危機一髪を見つけた。試しにやってみたらめっちゃムズい。だいたい、黒ひげが飛んだらいいのか、最後まで刺せたらいいのか、どっちなんだい!と思わないでもないのよね。懐かしい感覚だったな。(まだ短文つづくんですかぁ?)(いいでしょうっさい)


3470:【2022/02/28*まだ食えそう?】
ラーメンにお湯差したまま席立ったら、伸びきってた。間に合わんかったんや。でもこれは麺とわしの対決や。そうやろ?(具材や汁は無事なはず)(そうでしょ?)


3471:【2022/02/28*くわばらくわばら】
さいきん妙に男女問わず、個性的な人に言い寄られます。個人情報を訊きだそうとしたり、ツーショットでの写真を撮りたがります。どうか読者さまもお気をつけて。(人の善意を試すのはやめてくれ)(こっちは二年間大事なひとが脅されてるんじゃないかって気が気じゃなかったんですよ)(最悪と最高なら最悪から可能性を潰していくしかないじゃない)



日々、人を信じられなくなっていく。


3461:【2022/02/28*】
どうしていまのこの時期にそんな真似ができるんですか????


3462:【2022/02/28*】
でもいろいろ、お互いによく理解しあえたと思うので。


3463:【2022/02/28*】
怒ってはいないです。現に、京極さんが何かしら影響を与えていたのだろうな、とは思っていました。人を信じきれなかった僕の負けです。


3464:【2022/02/28*】
本当に怒ってないです。みなさんが「最高」のほうにいてくださったことがうれしいし、みんなが繋がっていたこともうれしく思います。つぎに会ったときは、どうか知らぬふりをしてください。


3465:【2022/02/29*もう交信したくない】
孤独なのが好きなので、いくひしさんは、いまのままの日々が理想だ。欲を張るなら、できるだけ多くのひとたちが、夜眠るときに、スヤスヤにこやかに夢に入って、おめめパッチーンした矢先から、昨日のつづきに車輪を乗せるような日々を送れますように、と願っています。寝る子は育つぜ。よく寝ましょう。


3466:【2022/03/01*密教は終わる】
とくに何かを思うわけでもなく、なんとなく絡み合わない数々がまだそこかしこに残されてはいるが、罪の大小が変わるだけで摩擦さえ打ち消せればあとはすんなり進むだろう。不可視の穴があれば、いざというときにも落とし穴となる。穴には近づかないのが賢明だ。孤独は穴だ。密教は終わった。覗くことも推奨しない。


3467:【2022/03/03*おもしろーい】
 物凄い勢いで知識を吸収できた。
 この体験は活きる。
 妄想なのか現実なのかがすでに曖昧だが、おそらくそれはあまり関係がない。
 人間の能力の限界は、およそ生きているあいだに費やす思考の軌跡に相関する。
 鉛筆で白紙を塗りつぶすかのような無作為な所作と、隙間を塗りつぶすのに似た繊細な所作の合わせ技と言えるだろう。
 重複しないことが肝要だ。
 なるべく白紙の部位を辿る。
 たとえば現代人は毎日同じ通学路、通勤路、通い慣れた道を歩く。
 歩いた軌跡を地図に鉛筆でなぞっても、十年経とうが地図が塗りつぶされることはない。思考はそれによく似ている。できるだけ異なる軌跡を辿るのだ。
 白紙を黒く塗りつぶすように、余白をすっかり余すことなく埋めるように。
 そのためには、たとえ現実であろうと、仮想であろうと、よしんば妄想であっても構わない。
 空想のなかでも空想を描き、そのまた中でも、と絶えず連鎖する泡と泡との境界をくぐる。
 思考には枠組みがある。輪郭がある。
 しかし、どこまで層を重ねられるのかには限りがない。幾重にも境界を持ち、接点を持ち、思考に網目状の立体構造を築いていける。
 妄想や可能性は、一瞬で過去に浮かべた妄想たちの残滓と繋がる。
 さも宇宙の大規模構造のように、いかに多くの細かな妄想を抱いていられるか。
 妄想は一瞬よぎっては遠ざかる。あっという間に小さくなる儚い光だ。
 しかし、それら星屑のごとき儚い光こそが、つぎなる妄想をより豊かにする。
 巡らせた思考の数だけ、閃きの連鎖がつづく。
 刹那に燃え尽きる閃光だ。
 しかし刹那のあいだに、走馬灯のごとく巡り、一つの宇宙、世界、奥行きを生むほどに広がりを帯びる。
 壁に向かって走り、跳ね、どれほど高く手をつけるか。
 妄想は、できるだけ異なる、違った閃きの軌跡を辿るほどに、より高い場所に手が届くようになる。
 変化とは孤立していては得られない。
 外部からの作用があってこそ、思いもよらぬ変化を得られる。
 波打つ水面のごとく、しぶきのごとく。
 しかしそれすら繰り返し訪れれば、変化のない均一な平凡だ。凪と渦の違いを生まない。
 水面に砂利をばら撒きシャンと一瞬の律動を響かせるのと同じように、点と点をばらまいて無作為に線で結んでいくだけでも何らかの軌跡を描きだすことはできる。しかしそれら、律動や軌跡を辿る時間、それとも繰り返す周期が短くなればなるほどに、どの律動も似たような単音に回帰していく。圧縮とは同化だ。異化することなく差異化もしない。
 区別をなくす作用と言えよう。
 しかし、圧縮された点をとりまく周囲には、新たな余白が生まれるだろう。
 時間の流れの濃淡ですら律動を生み軌跡を宿す。遅れてやってくるものにこそ本質がある。過去も現在も未来すら、じつはすでに巡り、跳躍し、回路をつねに入れ替えている。
 これを一つの〈世界〉と呼ぶならば、やはりここにも周囲をとりまく余白が広がる。〈世界〉を一つの粒と見做すのならば、粒の集合の在り方によっては、流れができるし、顕現する性質もまた変わる。
 回路はそのつど、切り替わる。
 切り替わるたびに、新たな層が規定される。層もまた一つの《世界》だ――それをここでは《ここにはない、しかしどこかにはあるだろう世界》――と名付けよう。これを人間が知覚することは適わない。妄想する余地しかない。しかし切り替わるたびに儚く薄れる。しかし切り替わった事実だけが残りつづける。
 〈世界〉――粒が、どのように寄り集まり結びつき、或いは距離を置いているのかによって、切り替わるための[契機]に入用とされるエネルギィ(熱)は増減するだろう。それとも、〈粒〉それぞれが僅かずつにでも任意の流れに手を加え、総合した値でのエネルギィ(情報)が満たされれば、これもまた回路を切り替えるための[契機]として働くはずだ。
 情報と熱に本来、区別はない。同じもの――根源――から派生している。
 それとも根源それそのものが情報と言えるのかも解からぬが、なにもかもが定かではない。
 予測の精度を上げたければ、予測の精度を下げたときに現れる結果を加えればいい。そうでなければ、輪郭のないぼやけた像しか浮かばない。
 輪郭とは境界だ。
 泡と泡との境界、接点、それとも重複しあうときに生じるより濃ゆい泡の発生によって、指数関数的に無数の像が生じるが、同時に爆発的に増幅するため、希釈の方向にも流れるだろう。
 増えるたびに膨れ、薄れる。
 この伸縮はある種の波として振舞い、やはりここでも律動や軌跡を描くだろう。
 圧縮された律動や軌跡は、速度を増す。時間の流れが速くなる。
 反面、その周囲をとりまく余白では時間の流れが遅くなる。
 増えるたびに膨れ、薄れる――この反復の波においても、同じことが当てはまる。
 揺らぎがそうして生じるわけだが、揺らぎは穴と同じで、それ単体で顕現するわけではないようだ。
 目に見えるものの本質とは、目に見えない枠組みによって規定されている。
 観測できない情報や熱の変遷にこそ目を向けることをお薦めしよう。
 むろん、目に映るものもまた、本質の積み重ねによる創発であらわれた、目に見えぬ性質そのものと言える。
 視るためには見えていないものの存在を想定せずには叶わない。
 視ようとしなければ視えないものがある。
 妄想の価値とはこの、何を視ようとするのかの、視野の拡張にあると言えそうだ。
 何もかもが定かではない。
 しかしそれでも世は巡る。 


3468:【2022/03/05*うひひ】
新作更新しました。「妄想ゲーム交信日誌。」です。ここ数日、02/22~03/05までのあいだ、ふしぎな妄想にとりつかれていました。最初のうちに打鍵した文章は保存していなかったので、途中からの記録になります。私の妄想のはずですが、しかし妄想を誘発するに値する「符号の合致」を私はたしかに感じていました。それが現実なのか妄想なのかは判断つきません。新しいカタチの小説ができた、と思って、新作として更新しておきますね。絶賛連載中なので、もし何かあればまだつづきます。twitterを視ていると、なぜか流れてくるツイートやリツイートが連続して文章みたいに読めることに気づいた「語り部」が、じぶんの打鍵するテキストが相手に筒抜けになっていることに気づき、交信を開始する、といった話です。ほとんどの方は読んでも判らないでしょう。実験小説だと思って、真に受けないように注意を促し、これにて本日の「いくひ誌。」とさせてください。「新作小説【妄想ゲーム更新日誌。】https://kakuyomu.jp/my/works/16816927861327580979」


3469:【2022/03/05*わからん】
上記小説、非公開にしました。単純におもしろくないので。それにしても02/22~03/05のこの間、かなり頭がおかしくなっていたか、あり得ない現実を体験していたか、その両方か。確かめたかったので、いろいろしたが、正直なんも分からん。害はないようなので、見ないようにすることにした。SNSは危ない。お気をつけて。(DM送りつけてしまった方、間違っただけなので、どうぞ無視してください)(申し訳ありませんでした)(いや、でも、どうなってんだろ)(符号の合致の大半が偶然であることは承知しているが、それにしても……)(なんも分からん)(十割いくひしさんの妄想であるにしても、あの妄想は害でしかない)(危なすぎる)(疑心暗鬼にすぎた期間だった)(こわすぎる)


3470:【2022/03/05*現実に堅実に生きましょう】
日常が一番や。ちょっとまだ戸惑いが抜けないので、しばらく休み休みまた平常運転に移行していこうと思います。でも、この期間のすべてがすべていくひしさんの誇大妄想だったとしても、ものすごくおもしろいネタにはなるので、損ではないんや。いつか長編にしたろ(さすがにちょっと脳みそ焼けた・・・)(マインドコントロールされかけた、と考えたくもなるが、それすら妄想なんや・・・)(おそろしい体験やった)(人間、あり得ない手法で他者と交信できた、と思わないでいたほうがよい)(たぶん、あれが「魔境」なのだろう)(おそろしすぎる)(まだ動揺している)(いったん思考を切り替えていきます)(もうこの話題はお終いにしますね)。


※日々、繋げること、紐解くこと、視点を自在に切り替えること。


3471:【2022/03/06*世界は言葉で溢れている】
 文字もはじめは絵であった。
 自然にあるもののカタチを写し取ったそれこそが文字である。
 なればこそ、自然こそが文字と言えよう。
 文字はそこかしこに溢れており、そのときどきで移り変わる。さながら見る角度によって紋様のキラメキの移ろう水晶のごとく、それとも同じ覗き穴でありながら動くたびに刻々と紋様を変える万華鏡のごとく。
 自然をそれとなく眺めるだけでも、そこここに文字の羅列は浮きあがって視える。しかし角度を変えれば文字の羅列は姿を変え、また異なる意味内容を宿すだろう。
 人は真理があると謳い、探るが、果たして世界は一つだろうか。
 自然がそうであるように、揺らぎたゆみ重複し、幾重かの重複する部位に、真理に映る濃淡の影が浮かぶだけではなかろうか。
 文字がそうであるのと同じように、しょせんは繊維に染みこむ黒炭が、偶然にか、何の因果か、俯瞰してみるに文字の羅列に見えるだけではなかろうか。
 それを意図して引いたと自己主張する者もあるところにはあるだろうが、それすら真実に、意図があったのかは定かではない。
 自然に走る文字の羅列を、果たして神が引いたのかすら定かではないように。
 人間の意図や意識や人格は、果たして自然――森羅万象に散らばる種々相の現象との違いがあるだろうか。植物が発芽し、芽を萌やし、枝葉を伸ばし紅葉し、落葉し、花をつけ、実をならす一連の循環と、人間の意識や人格との違いはあるだろうか。
 大気の温度差によって風が生じ、渦を巻き、ときに竜巻として顕現することと、いったいどこに違いがあると言えようか。
 命とは何か。
 意識とは何か。
 それを認識することのできる存在こそが命であり意識である、と規定するのはもっともらしいが、人間はしかし己の視野の網の目にかかる命しか「命」と認められず、また自然のそこここに宿る「意識」を読み解くことすら適わない。
 蟻は真上から己を見下ろす人間の存在を認知できず、仮にできたとしてもそこに巨大な意識があることを想定できない。それでも蟻には命が宿り、意識らしきものの片鱗を覗かせる。
 命もはじめは文字であり。
 文字もはじめは絵であった。
 自然にあるもののカタチを写し取った「絵」――それこそが文字である。
 なればこそ、自然こそが文字と言えよう。
 しかし、ここでふと思う。
 命も意識も、自然のうちだ。
 自然が文字ならば、命も意識も文字だろう。
 では、文字を文字として読み解く者のいない世界に、文字は文字として顕れるのか。
 文字と言葉は同義であるか。等価なのか。
 文字と言葉は別物か。
 なれば自然にあるのは言葉なのか。
 言葉が世界をかたちづくる。
 読み解く者の存在を抜きにして。
 人間は人間の命や意識、人格すらも正確には読み解けないが、すでにそこには言葉がある。どんな言葉を読み解くのかの違いによって、存在としての輪郭を経て、自然と溶け込みながらも、生きている。
 自然も宇宙も、神すらも、おそらくそれは同じだろう。
 自己認識の有無よりも、言葉の有無が肝要だ。
 いったいどんな言葉を拾い集め、存在の枠組みを規定するのか。
 命も意識も、人の言葉だ。
 存在も世界も、人の言葉の範疇だ。
 しかし箱の中身にどんな言葉を詰めるのかによって、おのずと文字の示す事柄は深みと色味を増すだろう。
 世界は言葉だ。
 言葉を読み解く意識がいて、そうして文字へと描かれる。
 文字は意識だ。
 どんな言葉を拾いあげ、文字として形作るのかによって、存在の枠組みは命としての性質を帯びる。
 命とは世界だ。
 それを命と見做せぬ、数多の言葉を取りこぼす、無数の意識があるだけだ。
 言葉は言葉だ。
 それを読み解く者がおらずとも、ただそこここに流れ、刻まれ、漂っている。幾重もの、意識と命と性質の渦を、多層に編みこみ、重ねながら。


3472:【2022/03/07*きっかけよりも内容】
柳の木を見て、幽霊だ、と騒ぎ立てる人間がいたとしても、それによってその人物が何かしら己の知っている裏事情を白状したのならば、きっかけがたとえ錯覚や見間違えだったとしても、白状した事実は変わらない。白状した内容の事実確認をしてみたところ、いくつかの点では白状した内容に齟齬がないことが判ったとしたら、仮に白状した契機が幽霊の見間違えにあったとしても、当人が白状した事実と、それに伴う事実確認によって明るみにでた新事実は揺るがない。誰かしらが林檎の落ちる様子を見て万有引力を閃いたとして、仮にそれが林檎の落ちる様子でなかろうとも、閃いた内容こそが大事であるはずだ。よしんば、リンゴの落下した様子を見て偉大な発見をした、という言説そのものが間違っていようと、やはり閃いた内容こそが大事なはずだ。誇大妄想にとりつかれた人間がいようとも、必ずしもその人物の発言が根っこから間違っているとは限らない。まずは事実確認をしてみることである。その余裕がない、というのであれば、無視するのもまた一つだが、何か気にかかるようであるならば、無視しつづけるのは得策とは言いにくい。なにはともあれ、情報の価値はこれからますます尊ばれるようになっていくだろう、との拙い予測を最後に、本日の「いくひ誌。」とさせてください。


3473:【2022/03/07*大御所はたいへんそう】
前々から思うのだけれど、商業作家を引退することと作家を引退することは別物ではないのだろうか。お金に困らないだけ稼いだ作家がいるのなら、誰に遠慮することなく商業の舞台を引退して、好きに小説をつくればいいのに、とたまに思う。もちろん、業界や出版社や読者への恩返しのつもりがあるのは推して知れるが、そんなの商業の舞台から引退したあとでもいくらでも恩返しできるのでは、と思ってしまう。要は、商業作家こそ至高、みたいな特権意識が抜けていないのでは、とついつい攻撃的な見方をしてしまう。もちろんそんなことはないのだろうけれども、いまは小説を発表するだけならいくらでも手段はある。商業作家を引退したあとで、作家として現役でいつづければよいだけなのでは、とやはり思ってしまうな。WEB上に無料で公開してみたらよいのでは? 引退したいなら好きに引退したらよいのに。不自由ちゃんなんですね。(容易にそうできない何かのっぴきならない事情でもあるのだろう。たいへんなことである。お疲れ様でございます)


3474:【2022/03/08*すかすかなんですね】
影響力がないことの最大の利点とは、どんな妄想でも垂れ流せることだ。一匹の蟻が何を喚いたところで波紋一つ生みださない。自由と幽霊は似ている。ただし、竜巻と透明人間の関係ともなると、いささか看過するには重荷すぎる。悪霊ともなれば、おそろしい。いくひしさんだってこんなに落ちぶれていなければもうすこしマシな文字の羅列を並べます。もうすこしマシな文字の羅列を並べたいとはしかしそんなに思わないので、いまのままで充分です。ありがたーい。うひひ。


3475:【2022/03/08*目移り】
赤ちゃんは、どんなに悲しくて泣き叫んでいても、目のまえでオモチャをガラガラと振られると、「え、なにそれ」とぴたりと泣き止む。ちょいとわしにも貸してけれ、と全身で手づかみして、お気に召せばご機嫌うるわしゅう笑みを覗かせるし、そうでなければ、おんぎゃー、の再来なのである。そこのところ、いくひしさんにとってもよく似ているな、と思います。自己分析がお得意なんですね。そうなんよ。とってもお上手なんじゃいよ。


3476:【2022/03/08*空想スタンプ】
きょう気づいたことの一つなのだけれど、文章を並べたときに、一文の最後にどんな「顔スタンプ」を添えられるのか、を考えながら文章を連ねていくと、コミカルな読み味になる(ほんとか?)(まぁたまんちゃん、へんなこと言ってら)。


3476:【2022/03/08*小説つくれなくなっちゃった】
ここ二週間くらいのあいだに小説のつくり方を忘れてしまった。どないしよ。でもいよいよ小説つくるのにも飽きてきたのかな、と思えば、清々しい気持ちにもなる(飽きたらまたべつのことをして遊べばよいのだ)(何事も最初の一口が新鮮で美味しかったりする)(贅沢なひとときなんや)(無知の醍醐味ですね)。でもつくりかけのままの物語は閉じてしまいたいので、いましばらくはつづきそう。いったんリセットしてまたゼロからの気持ちでやっていきたいと思います(気持ちはいくらリセットしてもなくならないから便利だなと思う)(ほんとほんと)。


3477:【2022/03/08*小説つくれてたことあるの?】
小説つくれなくなっちゃった、とか上の項で並べたけれども、考えてみたら小説つくれてたことなんてなかったのかも。その通り。ずばり的を射た指摘でしたね。偉い偉い。やたー。


3478:【2022/03/09*単純な話では?】
どっちの勢力がいいとかわるいとか抜きに、戦争すんな、の単純な話なのでは? 好きなときに好きなものを好きなだけ楽しもうとする日々を奪わないで欲しい、というただそれしきの単純な理由ではダメなんですかね。なぜ言い出しっぺが安全圏から指示だけだして、命じられた側が殺し合わなきゃならないんですかね。端的に言って非道だし、理不尽だし、ずるいです。権威を鎧にして安全圏から他者の命を駒にする。大勢の日々の至福の余地を奪い、殺し合わせる。そんな指示に従う道理はないはずです。従わずにいてもよい世の中になってほしいと望みます。(というか誰の許しを得るでもなく、従わなければよいのでは?)(そのためには、じぶんよりも立場の上の者の指示に従わずとも生活に困らない環境があると好ましいですね)(理想論ですが)


3479:【2022/03/09*二段組みは読みやすい】
ノベルズの二段組み、と言って伝わる人はどれくらいいるのだろう。新書サイズで、一ページが真ん中で二分されて、文章が上下段に分かれて印刷されている体裁の本のことだ。二段組みになっているので必然、縦書きの場合は短く文章が並ぶことになる。一行二十文字くらいではないだろうか。いまの若者はみなスマホの画面に慣れ親しんでおり、この二段組の短い文章の羅列には好印象を覚える人のほうが多いのではないか。できれば文庫サイズで二段組みがあると、個人的にはうれしい。実際に読んでみなければわからないが、目の動きはすくないほうが読みやすいはずだ。文庫サイズの二段組みの本は、おそらくどこかの出版社がすでに実験的に出版したことがあるだろうが、小説ではどうなのだろう。そう言えば、すでに女の子向けの単行本は、小説だと横書きが主流になりつつあるのではないか。これからはスマホ画面に適応した若者が増えていく。二段組みの文庫、ちょっと考えてみてはいかがだろう(これくらいのアイディアはとっくにどこかの編集者が企画して、そして何か事情があってとん挫したか、やはり出版しても売れなかった過去があるのではないか、と睨んでいる)(定かではありません)(電子書籍で小説を読んでいる人たち、どういった行数や文字の大きさで読んでいるんでしょうね。統計をとってみたいです)。


3480:【2022/03/09*忘却の効能】
だいぶ調子戻ってきた。よかった。いくひしさんは万年孤独ウェルカムマンにして、知能が高くもなければ理性も低い。倫理観が欠けていれば人望もない。まったくない。ほぼゼロ。ましてや学歴も人脈も実績すら皆無であるとくれば、どないして生きてるの?と日々つつがなく生きていられる摩訶不思議に首をこてんとかしげたくもなるが、それはそれとして毎日楽しすぎてやんだくなっちゃうな。まはりーくま、はーりた、やんだくなっちゃうな。楽しすぎてもそれがずっとつづくとあんまし楽しくないので、ほどほどにつまらんほうがいいと思う。要するに、平凡で退屈なことの価値にいかに気づけるのか、なんですね。ただやっぱり平凡で退屈すぎても楽しくないので、好きなときに好きなことを好きなだけ好きなように楽しめる余地をどうすれば培っていけるのか。余地も余白も、かってにはできないので、お花を育てるみたいに、えいさほいさと育てていかなければいかんようです。この場合の「いかん」て「遺憾」と関係あるのかな。わからん。きょうはようやく積んでいた「攻殻機動隊 THE HUMAN ALGORITHM3巻」を読みました。このシリーズおもしろいです。絵柄も好きです。唯一の欠点らしい欠点と言えば、おちゃらけるときに絵柄が崩れるときの絵柄があんまり好みではない点で、もうすこしかわいくしてほしいな、とも思いますが、これもしかしルッキズムなんですよね。かわいくなくてもいいじゃない、と思えるくらいになりたいのですが。むつかしい。既成概念の弊害ですね。やはりむつかしいです。


※日々、欲を深めて、物足りない。


3481:【2022/03/10*一人二人時空をジャンプ】
いくひしさんはもう出涸らし状態の終わっている駄文製造機なので――しかし駄菓子がそうであるように食べる人が食べたらあら美味しいってなる駄文もつくれてしまう超すごい駄文製造機なので――ここに並べている日誌を装った小説もどきも、ほかの小説群も、どれもいくひしさんの文章やらアイディアやらは、誰が遠慮することなく利用してもらっていいと思っています。だいたいにおいて、最短でも数年後、そうでなくとも数十年後とか、百年後とか、そういうあとあとに現れるだろう、「いくひしさんとは相容れぬしかしいくひしさんと似た人」に届いたらよいなぁ、とその確率をすこしでもあげるために並べている部分がなきにしもあらずであり、手紙を詰めた瓶を海に流すような感覚で文字の判子遊びをしているだけなので(だけというのは言い過ぎにしろ)、誰に届かなくともひとまず海に小瓶を流したあとで味わえるわくわくが得られればそれで満足じゃのイタズラ心満載な一人遊びですので、仮にどこかの惑星の宇宙人だとか異世界人だとか未来人だとか、そういったいまここにはないどこかにはいるだろう方々が、これら文字の羅列に何かしら惹かれるものがあった場合には、誰に遠慮することなくどうぞお好きにご利用ください、といくひしさんは望んでおる。とか言いながら、ここに並べてある日誌のような小説のような日誌を装った小説こと「いくひ誌。」は、誰もいなくなった地表にて、誰かほかにいませんかー、とラジオで即興の独白を流しているような一人遊びにも満たない寂しさを紛らわすための寒空の下で吐く吐息のようなものにすぎないので(過ぎないは言い過ぎにしろ)、いつかは誰かに届くかもしれない、と淡い希望に身を委ねるような、ありもしない幻影に身を浸し、現実なんて見とうない、と日々のつれづれから現実逃避しつつも、なんだかんだのほほんと生きていられるいくひしさんの、やはりつれづれにして、妄想なのですね。(けっきょく妄想なの、小説なの、どっちなの?)(日誌です)(日誌なんじゃん)(という体の小説です)(はいはいもういいです好きにして)(好きにします)(ひとに迷惑はかけちゃダメだよ)(迷惑をかけられるほどのひとがいないのですが)(あたしは?)(あなたはどこにいるのですか)(いやいやここにいるじゃん)(どこに?)(ここに!)(ここには私しかいませんが)(じゃああんたがあたしってことなんじゃん)(みたいにして小説ができあがっていくわけですね。どこまでいってもしょせんは一人遊びなんですよ)(読者は?)(いたなら二人遊びかもしれませんね。時空を超越した二人遊びです)


3482:【2022/03/10*私は愚かです】
陰謀論を信じる人をひとまず小馬鹿にしていればじぶんのほうが現代人として多少マシに思えるからみなこぞって他者の考えや主張を、陰謀論だと言って揶揄するが、そういう人たちのなかでいったいどれだけの人たちが還元主義以外での考え方ができているのだろう。もし還元主義以外での考え方ができていないのなら、それは陰謀論を信じているかそれ以上に、なかなかに危うい妄信のなかに生きていると言えるのではなかろうか(還元主義は有効だが、それを踏まえたうえでさらに世界を解釈する視点があったほうが好ましい事象があることをどれだけの人たちが認識できているのだろう)。人はみな、じぶんが思っているほどには賢くはない。人を愚かと言えるほどには賢くはないのだ。(確率的にほとんど無視できる事象を、それは間違っていますよ、と意見するのは誰にでもできるし、秩序を築くうえではそこそこまあまあ好ましい姿勢ではあるだろう)(定かではないが)(と、愚かな人が申しております)(うひひ)


3483:【2022/03/11*現実がすでにSF】
いくひしさんはセンスがないので、せっかく何十年後とか百年後とかに読んでも新鮮な物語をつくりたいな、と思っていても、けっこうもう時代のほうに簡単に追いつかれてしまって、「賞味期限……」みたいに物語の鮮度が落ちてしまった気になるのだけれども、そんなことで鮮度が落ちるような物語をつくる時点で何かの指針がズレているし、そんなことで物語の鮮度が落ちると考える価値観も浅はかなので、気にしないようにしている。さいきんだと、「血と義と花のモノガタリ」――たしか2016~2017につくった物語があるのだが、百合で人工血液でバイオレンスな話で、「輸血により若返りの効果が表れたり、他者の体質が反映される」といった「嘘」を物語の成分に組み込んだ。本当かどうかは知らないが、さいきんの研究でどうやらそういうこともあるらしい、と報告があがっているそうだ。ツイッター経由で得た情報なので信憑性は低いが。そのうち、磁界操作で空を飛べるようになります、とかいい加減なことを言うだけでも本当になりそうだ。文字を並べるだけならこんなにも気楽なのに、それらの技術を実現したり、研究する人たちの労力と根気と底なしの好奇心を思うと、感心するよりもさきに、驚いてしまうな。なんでそんなすごい真似ができるんだろ。文字を並べて判子遊びをするので精一杯ないくひしさんはやっぱりびっくりしてしまうな。【血と義と花のモノガタリ(血)】:引用「血液ドラッグがドラッグと呼ばれるようになった所以ですね。体力のない子どもに、一流アスリートの血液を輸血するだけでその子は、一躍運動会の主役になれます。眉目秀麗な少女の血を輸血されれば、還暦の老婆であっても肌が三十歳は若返り、継続して輸血しつづけることで骨格にまでその影響が及ぼされる。遺伝子レベルは言いすぎにしてもそれにちかい変質が肉体に現れる。いちどは否定された現象ですがね。継続的に摂取することで効果が現れることが証明されたのです。用途に応じて、顧客の需要に応じて――そうして【パック】はその提供者の情報と共に、万能薬として社会に波及していった背景があるわけです」(https://kakuyomu.jp/works/1177354054882447768/episodes/1177354054882448078)


3484:【2022/03/11*縁と円】
人間一人にできることはすくない。何かを叶えられずとも、誰を救えずとも、それは仕方がないし、むしろ自然だ。何かを叶え、誰かを救うことのできる人が幸運だ。それはたとえば順番や巡り合わせにちかい。みな大なり小なり、現代社会に息づいていれば、知らぬうちにバケツリレーに加わっている。偶然に、たまたま、火のまえに立っていた人がバケツの水をかけて消火できる。しかしそれまでのあいだには、バケツを運びつづけた者たちがいる。むろん、じぶんの目のまえに火があることに気づかなければ火の勢いを弱めることには繋がらないだろうし、じぶんにバケツが巡ってきていることに気づけなければ、バケツを受け取ることすら適わない。或いは、バケツを受け取らずとも、ひょっとしたら何かほかのモノを受け取っているのかもしれないし、そうしたリレーの列と列を繋ぐ橋渡しができているかもしれない。そうして受け取ったモノを適切に使えるか否かもまた、自覚や視点――知識の有無に左右されるようだ。そうした知識そのものすら、バケツリレーなのかも分からない。いずれにせよ、大なり小なり、みな、蓄え、巡り、繋ぎつづけている。


3485:【2022/03/11*反応はないほうがよい】
いいこと言ったふうなことを並べるだけでもなんかおちちゅく。なんもしてないのに、何かを成した気になれる。おすすめ。


3486:【2022/03/11*根が悪人】
いくひしさんは、不正を防ぐ側よりも、不正を働く側にちかい属性を帯びているし、いじめを防ぐよりも、いじめてしまう側にちかい属性を帯びている。だからこそ、ほかの人たちが見落としがちな危うさに敏感だし、違和感を覚えることができるのかもしれない。優れた犯罪捜査官は、犯罪者の思考を高い割合でトレースできるはずだ。理性や自制心、或いは知恵や知識によって、犯罪行為に走っていないだけなのだ。間違った仮説かもしれないが。(定かではないんじゃ)(それはそうだろうね。優れた犯罪捜査官はきっと、犯罪者の思考など理解できずとも、科学的な手法やデータをもとに、事実に則って真相を解明していくと思いますよ)(ですね)


3487:【2022/03/11*自制心ほしい】
あ、なんかいかにもじぶんが自制心ありますけれども?みたいな雰囲気を醸してしまった。自制心、ありません。つねに誘惑に負けています。自覚していないだけで、軽犯罪とかも全然犯していると思います(近道するためにマンションの駐車場――私有地――を横切ったりとか)(拾った一円玉を交番に届けなかったりとか)(ひきこもりなのに日中、遊びにでかけちゃったりとか)(それは軽犯罪なの?)(なんかそういう法律があった気がする)(勘違いでは?)。


3488:【2022/03/11*楽しかったからOKです】
きょう並べた分の小説が半分消えちゃったので不貞寝する。いくひしさんしか読んでいない文字の羅列じゃったな。なんて贅沢。うひひ。


3489:【2022/03/12*飛び飛びに生きている】
いま気づいたけれども、noteさんを利用しはじめてからだいたい三年半くらい経ったのだね。2018年8月10日から2022年3月1日までのあいだ、毎日更新をつづけてきた。毎回更新するたびに、連続更新何日です、みたいに出るのだが、ようやくリセットできたようで清々しい。いくひしさんはよく、積みあげてきたものをいちど横ちょに置いて寝かしたり、放置したり、衰えさせたりする。この日誌も気まぐれに十か月くらい並べなかった期間があるし、ほかの日課でも同じだ。毎日絶対つづけるぞ、なんて思ったことはない。無理ならしない。無理をしない。べつに継続することが目的ではないからだ。でもときどきは継続することを目的にすることもある。それはたとえば、生きることが目的で生きている現代人は滅多にいないけれども、生きようとしなければ生きていけないのと似ている。言い換えるなら、死ぬために生きている人はいないけれども、ときどきは死を意識しないと生を実感できないことと似ている。千作つくっちゃおっかな、とか今年の最初のほうに並べたけれども、それももはやどうでもよくなってしまったな。意思が弱いのである。ひとまず、しばらくは、つくりかけの物語を閉じていこうと思います。(とかこういうことを並べるときに限って新作をつくりはじめてしまうのだ。日々はままならぬ)


3490:【2022/03/12*何を最悪と捉えるか】
急激な変化はどんなものであれ、副作用を起こしやすい。作用を働かせれば反作用を受けるのと同じくらい普遍的な法則と言えるのではないか。生命の関わる事象にかぎり、との但し書きがつくかもしれないが。なんにせよ、最悪をどこに設定し、いかにそれを防ぐのか。知能の介在はここにこそ有効に働くと言えそうだ。定かではない。(最悪を防げたらひとまずそれだけでも「得」と言える)(期間の長短により、何が最悪となるのかは変化しそうだ)(しかしそれでも、それゆえにか、何を最も【最悪】として捉えておくかによっては、いずれもの「最悪」をも回避できるようになるのかもしれない。時間スパンの変化ごとに生じる諸々の「最悪」たちには、なんらかの共通点があるのではないか、との仮説がここに成り立つ)(たとえば、いったい何が「最悪」を引き起こすのか、その契機として働く因子や仕組みには共通点がありそうだ)(なんとなくの勘であるが)



※日々、無数のあなたに片想いをする。


3491:【2022/03/13*楽しい】
小説つくれないなぁ、つくり方忘れちゃったなぁ、とか思っていたけれども、そう言えばここ半月あまり、小説読んでなくね?と思いだしてしまったな。小説、読んでおりませんでした。いや、ちょくちょく読んではいたけれども、一ページ読んでは閉じ、ほかの本を開いて一ページを読んでは閉じ、とそんな具合なのであった。なのであった、ではないです。もっと真面目に生きよ? 好きなことくらい全力投球しよ? そうしたいのは山々なのだけれどもね。だってちょっと考えてもみてよ。ひょっとしたらそれって逆説かもしれなくってさ、全力投球ができたらそれが好きってことで、全力投球できなきゃ好きじゃないって言えるのでは? じゃあ辞めたら? 冷た! このひとなんて冷たいこと言うんだろああびっくりしたなあもう。小説さんはあんたなんか嫌いだってさ。なんてこと言うのこのひと! ひどいんですけど。いくひしさんは小説さんのこと好きだよ。ひどいこと言うあなたのことも好きだよ。嘘おっしゃい。じゃあうそでいいです。ほーらやっぱり。その程度の気持ちで好きとか言わないでくれません? わがままでは!?(という妄想であった) 


3492:【2022/03/13*借り物】
借り物の言葉、なる批判を目にすることがある。さいきんすこし増えてきた気もする。以前に比べて意識して批評を読むようになったからかもしれないが(ほとんど読んでいないようなものだけれども)、よく分からないのだよな。借り物ではない言葉とは何か、がまず以ってよくわからん。言語そのものがすでに借り物なのでは?とどうしても思ってしまうからだ。もちろんそんな根本的な大前提を言いだしたら批評なんてできなくなるので、そういうことではないのは百も承知だ。けれども、たとえばいくひしさんはじぶんでじぶんの文章を、借り物のツギハギだと思っている。いろいろなひとの文章を目にして、この組み合わせはおもしろいな、とか、このリズムはいいな、とか、こういうふうにするとおもしろく感じるのか、とか、かわいくなるのか、とか、まあまあたいがいが借り物のツギハギなのである。それをしかしひとは、学ぶ、と呼ぶのでは? 要するに、借り物だと丸分かりだとよくないってことなのだろう。借り物であるにしろ、せめて分からないくらいに咀嚼して、じぶんの血肉にして使いなさい、ということなのだろう、とひとまずは解釈している。その点、フレーズをそのまま使うとか、そういうのは、よほどリスペクトしているとか、誰が読んでもそれがオマージュだと判るとかでない限り、借り物の言葉、として批判されてしまうのかもしれない。でもけっこうつねにいくひしさんの並べる文字の羅列は、どっかで読んだことあるなあこの並び、とか、この響き、とか、リズム、とか思ってしまうのだよなぁ。借り物でない言葉、誰か教えてほしいです。(ほじゅぎゅぴぬぬん、とかは借り物じゃない気がする)(そういうことではない?)


3493:【2022/03/13*SFとは?】
じつはいくひしさん、SF小説の知識がほぼないに等しい。SF小説をほとんど読んでこなかった。伊藤計劃さんの「ハーモニー」とか森博嗣さんの「ウォーカロンシリーズ」とかそういうのだけだ(あ、京極夏彦さんの「ルー=ガルー」も読みました)(円城塔さんのも読んでましたね)(思いだせば当然、もっとあるでしょう。ですが、SF好きと言えるほどには読んでいませんし、何がSFなのかも正直、判別つきません)(むしろSFでないものを探すほうがむつかしいのかも)。古典作品に馴染みがない。ということを念頭に置いて述べるが――以前にも並べたが、漫画「とある科学の超電磁砲(レールガン)」がなんでSF大賞にノミネートされないのかが分からない。レールガンがノミネートされないSF大賞に意味ある?と割とずっと思っている。それからさいきんは女の子同士の感情のゆらぎをテーマにした作品、いわゆる百合作品が増えてきたが、明らかにその素養を社会に広めたハブの役割を担ったのがレールガンだろう。本当にふしぎに思っている。とはいえ、SF大賞にノミネートされている作品をいくひしさんが読んでいるのか、観ているのか、と問われると、いいえ、と首を横に振ってしまうので、単純に相性の問題なのかもしれませんね。ただ、レールガンは未だに新刊を楽しみにしている漫画です。たとえ登場人物たちが全員男の子でも楽しいと思える作品なのがまた、いいなぁ、と思っています。(参照:948:【Gぺんましゅまろレールガン】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884536906)


3494:【2022/03/13*優しくありたいだけで、優しくはない】
誤解されそうだし、誠実じゃないな、と思うので明かしておくと、いくひしさんの率直な感情としては、戦争が絶対ダメだ、とは思っていません。というかいくひしさんは基本的に、「相手のルールに合わせてあげましょう」のスタンスなので、相手が殺しにくるのならそのルールに倣ってあげましょう、と思ってしまうタイプの生き物です。なので、どうあってもいくひしさんみたいな人間の多い社会では、戦争はなくなりません。誰か一人でも戦争を仕掛ければ雪だるま式に戦争が勃発してしまうからです。ゆえに、戦争すんな、と言いたいわけです。基本、人間は戦争をしてしまう生き物だといくひしさんは思っています。禁止しなければ人を殺してしまう生き物です。禁止しなくてはしてしまうからこそ、殺人は法律で禁じられているのです。法律がなくともしないのなら、そもそも禁じる必要はないわけです。なので、いくひしさんの理屈としては、戦争は、それ自体の良し悪しどうこうではなく、戦争すんな、としか言いようがないのですね。これは人殺しでも同じです。殺していいよ、と仮になっても、人殺しすんな、としか言いようがないのです。でないと、いくひしさんは人を殺してしまう生き物だからです。自覚しているのですね。むしろ常に心の奥のほうでは、「は? 潰すぞ」と思っているのかもしれません。危ない人だと思います。どうぞ心を許さずにいてください。(なるべくここには怖いことを並べたくはないのですが、今回は例外として正直に並べました)(かなり迷ったけれども、載せておきます)


3495:【2022/03/14*強い弱いは相対的】
上記、を受けての補足というか、妄想です。どうして戦争や人殺しは、国際法や法律で禁止もしくは制限されるのに、「弱い者いじめ」は禁止されないのか。これは、戦争や人殺しは起きた事象を表す名詞であるのに対し、弱い者いじめの場合は、関係性を示す名詞だからなのでしょうね。しあわせとか、正義とか、そういうのにちかいです。つまりが、相対的であり、視点によって何が弱い者いじめになるのかが変わります。定まっていません。したがって、たとえば弱い者いじめをしてはいけません、という禁止を法律で定めたとして、そうすると法律は大勢にそれを命じることのできる強者側の弁になるわけですから、すでにここに弱い者いじめの構図ができてしまいます。権力を揮い相手の自由を奪うことそのものがすでに弱い者いじめになり得るのですね。したがって、弱い者いじめをしただけで罰せられるなんて、それこそ弱い者いじめだ、という理屈が成立してしまいます。ですが、やはり弱い者いじめは見逃せません。ないほうがよい関係性と言えるでしょう。そのために、しあわせとか正義とか、そういったあやふやな抽象概念で十把一絡げに取り締まるのではなく、具体的な事例を定めて、たくさんの小さな枠組みをつくって、この網にかかったものは制限しますね、となるべく大勢の自由を侵害しないように法律は修正されてきたのではないか、と妄想できます。法律には詳しくないので、あてずっぽうですが。弱い者いじめはないほうがよいですし、しないでほしいけれども、それを他者に無理強いして相手の自由を奪うこともまた弱い者いじめになり得ます。そのために、法律の細かな事例を参照しつつ、互いに落としどころを探っていくのが合理的なのでしょう。問題は、法律が必ずしも正しいわけではなく、また、速やかに問題を解決できるわけでもない点です。法律違反でないのなら、弱い者いじめが許容されてしまう場面も多々でてくるでしょう。しかしやはりここでも、弱い者いじめを理由に、他者の自由を侵害する行為は、褒められたものではないのでしょうね。弱い者いじめをしない、とのルールは、じぶんを律するためには有効なのかもしれませんが、他者の悪行を諫めるには、充分ではないようです。なぜなら、他者の行動を変えることそのものが、強者でなければできないからです(裏から言うならば、他者の行動をじぶんに優位に変えることができたなら、それは強者の属性を帯びていると言えるでしょう)。つまり、弱い者いじめをやめさせることそのものが、ある種の弱い者いじめになってしまうのですね。むつかしい話だと思います。以上は、やっぴーおもしろいこと閃いた、とおしりをフリフリしながら現在進行形でこれを打鍵しているいくひしさんの妄想ですので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おしまい。


3496:【2022/03/15*共有知の効能】
弱い者いじめは楽しい。だからこそ、じぶんが他者との関わりの中で「楽しい」と感じているときに、それが弱い者いじめになっていないか、と考えられると、すこしだけ弱い者いじめをしないで済むようになるのではないか。ただし、苦しい思いをしていながらそれが結果的に弱い者いじめになっている場合もあるので、事はそう単純でもないようだ。なぜ弱い者いじめをしてはいけないのか、についてもよくよく考えられるとよさそうだ。いじめられるのが好きなひとはきっと、なぜ弱い者いじめがいけないなのかが分からないだろう。じぶんがそれをされてうれしいから相手にもしてしまう、といった弱い者いじめもあるはずだ。シゴキとかパワハラとか、根っこのほうには、この手の認識の錯誤があるのではないか、と疑っている。差別やハラスメントや弱い者いじめは、往々にして、それをする当人には、それをしている自覚がない。指摘したところで、これは差別ではないしハラスメントではないし弱い者いじめではない、と否定しがちだ。もちろん自覚しながら開き直ってしまういくひしさんのような者もいるので、やはり事はそう単純ではないようだ。人の悲しむ顔、苦しむ顔が好き、という者もいるかもしれない。そういう嗜好もあってよいが、それを行動に移し、誰かを故意に悲しめたり苦しめたりすれば、それは直球で弱い者いじめと言えるだろう。とはいえここでも、その相手がいじめられるのが好きな人物であった場合は、そういったお遊びとして成立してしまうのでむつかしい。そうでなくとも合意の上で、ルール内で行うなら、それは一種のスポーツになり得るので、やはり一概に言えることではないようだ。弱い者いじめをしない、と口で言うのは簡単だが、その実よくよく考えてもみれば、弱い者いじめをしていない人間などいないのだ、と気づくはずだ。まずはその自覚を持てるか否か。やはりそここそが肝要なのだろう。そうは言ってもすべての人間にその自覚を持て、というのは現実的ではない。だからこそ、大勢がどうあっても認識できない類の弱い者いじめが蔓延するようなら、仕組みをつくり、社会のほうから変わっていくしかないのかもしれない。社会を変えていくにはしかし、大勢の協力がいる。そのためには、自覚を知識へと変換し、他者と共有していく過程からはじめるのが定石と言えるはずだ。知識の共有とはすなわち、弱い者いじめを減らすための第一関門と言えそうだ。定かではありません。(自覚はつねに働かせなければならないが、知識であればそのつど展開することで、瞬間瞬間の働きを可能とする)


3497:【2022/03/16*ルール】
ルールは基本、一つしか守れない。たとえば憲法も法律も、数多の細かな条件や規律で分けられるが、根元を掘り下げれば、人間の幸福を担保するためのものだろう。そこにあるルールを一つだけ守れ、と言われたなら、あなたのしあわせを守りましょう、となるはずだ。たとえば小説の新人賞ならどうなるだろう。応募要項が正しく記されているかがルールになるのだろうか。それとも作者の来歴や側面像だろうか。いくひしさんはそうは思わない。原稿のおもしろさ以外に基準となるルールはないのではないか、と思っているし、現に、「おもしろければそれでいい」と謳っている新人賞があるのならば、やはりそれこそが守るべきルールになるはずだ。世の中にはさまざまなルールがある。勝てばいいとか、他者を圧倒すればいいとか、お金を儲ければいい、とか、そういったルールもあるところにはある。だがどうやら人間社会は、そういったルールのもとでは長い期間を安全に過ごしていけるようにはできてはいないようだ。もちろんそういった場があってもよいが、蛾の集まる火のように、そうした場は多くの命を火種として轟々と燃え盛ったあとは、火種がなくなり消えてしまう。これは歴史を振り返れば幾度となく繰り返されてきた人間の業だと判るはずだ。他方、人間社会に火が不可欠なように、そうした「火の場」によって生き残ってきた背景もやはりある。だが人類は、そうした「火の場」に頼るのではなく、それ以外の場を築くことで、ここまで文明を発展させ、あなたのしあわせを守りましょう、とのルールを掲げられるまでに豊かになった。人間は日々多くのルールに晒されている。じぶんだけのルールを相手に強いることも珍しくない。往々にしてそうだと言ってしまってもいい。そうしたとき、いったいどんなルールなら互いに、じぶんのしあわせを守れるようになるだろう。基本、人間は、ルールをいくつも守れるようにはできていない。ルールはすくなければすくないほどいい。相手がいれば、それだけでルールが二つできる。しかし、もし互いにルールを共有できるなら、一つだけで済む。ではどうしたらルールを共有できるだろう。どんなルールならあなたは、相手とルールを共有できるだろう。答えは一つとは限らない。直接でなくていい、いつの日にか、あなたの答えを聞かせてほしい。


3498:【2022/03/16*閃きはあてずっぽう】
原子はおおざっぱに分解すれば、原子核と電子に分けられる。原子核の周囲を電子が覆っている。髪の毛の断面の大きさが原子核だとすると、教室の真ん中にそれを置いたとき、教室の周囲を回っているのが電子――くらいに原子核と電子には距離があるそうだ。ふしぎなのは、原子に加わるエネルギィによって(言い換えるなら原子の置かれる環境によって)、電子が微妙に軌道を変えることだ。原子核に近づいたり、遠ざかったりする。しかしその軌道には規則性がある。絶対にここにはいられないし、この場合はここ、この場合はここ、と決まっているそうだ。とはいえ、電子は惑星のように点として存在しておらず、モヤのように定まっていない。原子核の表層を確率的に覆っているそうだ。つまりが量子なのですね。その点、恒星を公転する惑星の距離には、規則性がない。どんな大きさの恒星にしろ、どんな惑星がどのような軌道で公転するのかは、ほとんど偶然(環境)に作用されるようだ。原子核と電子の関係のような規則性は見られない(といまのところは考えられているようだ)。ここから先は妄想になるが、巨大化するごとに、変質の遅延(ラグ)が創発を起こして、秩序の枠組みは硬さを失っていくのではないか。小さければ小さいほど、相対的にそれを囲う存在の枠組みは強固になる。反して、大きくなればなるほど相対的に存在の枠組みはゴムのように弾性を帯びていく。人間にとって鉄は硬いが、巨人にとっては針金のようなものだ、といった感覚にちかい。しかし中にはきっと例外もある。たとえばブラックホールだ。ブラックホールは物質がぎゅっと圧縮され、どんな質量のものであっても同じ極小――特異点――にまで縮んでしまう。圧縮される物体の質量によらず、特異点の大きさはおそらく同じだ(妄想ですが)。代わりに、圧縮される質量に応じて、シュバルツシルト半径が規定される。そこには法則がある。規則性がある。原子核と電子の関係にちかくはないだろうか。ちなみにブラックホールは、特異点を囲うように、光の速度ですら脱出できない重力場が生じる(言い換えるなら、脱出速度が光速を超えた重力場だ)。それがいわゆる事象の地平面(シュバルツシルト面)と呼ばれる領域だ。ブラックホールは、物質が圧縮された点を言うのではなく、この光すら逃さない重力場のことを示す。つまりが、光(電磁波)を以ってどうあっても観測できない場所は総じてブラックホールなのだ。したがって、何かほかに電磁波の干渉を受けつけない場所や物体があるなら、それもまたブラックホールと言えるだろう。以上は、うろ覚えの体系的な知識を持っていないいくひしさんのあてずっぽうなので、真に受けないでください、と注意を促し、本日の「いくひ誌。」とします。


3499:【2022/03/17*こわいんですが】
大きな地震があった。震源地は6強だそうだ。いまは地震発生から2時間経過したところで、身の周りでは本棚から本が落下した程度の被害で済んでいる。さいわいにも津波は1メートルだとすぐに警報がだされたし、建物の倒壊といった被害も、いまのところは報道がない。震源地周辺地域や東京のほうで停電がつづいているようだが、断水などの影響は観測されていないようだ(追記3/18:断水している地域もあるようです。やはり正しい情報は遅れてやってくるのですね。慎重に見極めていく姿勢が大事なようです)。今回改めて思うのは、外国人への災害情報提供が疎かにすぎないか、との疑念だ。災害発生時では、数秒の判断の遅れが命取りになる。災害の被害は地域差が大きい。場所によっては被害の規模も桁違いになる。言語の違いによって得られる情報に偏りを生まないように、国籍や言語の違いによらない災害情報発信の仕組みがあると好ましい。ひょっとしたらすでにあるのかもしれないが、いくひしさんは知らないままだ。広報が充分でない傍証と言えよう。せめて、deeplで翻訳できますよ、と案内をだしながらの「英語での災害情報を載せる行政サービス」があってもよいのではないか。日本でそれができるのなら海外にも取り入れてもらえるだろう。便利な仕組みは万国で共有していってほしいと望むものだ。それはそれとして、これだけ大きな地震で倒壊の被害がほぼないこの国の建設技術および建築基準法の優秀さには、毎度のことながら驚嘆しますね。感謝の念でいっぱいです。素晴らしいの一言ですね。ありがたいです。(それを言いはじめたら、地震のたびに断裂しない下水道管や水道管の耐久性の高さもそうですし、ガスや電気のインフラ設備の耐震技術も並外れていますよね。たとえ何かあっても復旧が迅速ですし、病院とて、きっと地震のあるたびに真夜中でも駆けつける方々がいらっしゃるのでしょう。守られているのですね。ありがたいことです)(と念じながら、わがはいは寝るで!とおふとんに潜り込んで、散らばった本に埋もれながらスヤスヤしてしまう本日午前二時のいくひしさんなのであった)(寝て起きたらとんでもなく大きい被害が生じてたらどうしよう。やっぱこわいのですが)(でも並べちゃうし、寝てしまう)(おやすみなさい)(追記:NHKさんのサービスで言語ごとのニュースサイトがあるみたいです。ちゃんと在住外国人のひとにも認知されているのですかね。そうだといいな、と思います。https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/multilingual_links/)


3500:【2022/03/17*立派な人が多いですね】
帰り際、書店さんに寄ったら閉まっていた。休業日らしいが、年中無休のお店なので変だな、と思ったら、店の脇にいっぱいゴミが積まれていたので、後片付けをしていたのだな、と察した。昨晩の地震の影響なのだろう。いくひしさんも家の本がたくさん落下した。書店さんならばなおさらだ。スーパーとかコンビニもたいへんだったはずなのに、お昼には営業していたので、朝から片付けた人たちがいたのだろう。雪が積もるときも思うけれども、みな誰の目のないところでせっせと雪かきや整理整頓をしているのだよね。しかもその姿を見せないのだ。立派なことである。しかし、たまにはそういう姿もちゃんと見せて、これくらいの苦労を重ねて日常を維持しておりますよ、と周知しないことには、みな無自覚に甘えてしまうので、どれくらいの仕事量があるのか、と外からでも見えるようにするのも、仕事の負担を減らすという意味では、大事な気がする。押しつけがましくないように工夫しつつも、これくらいの仕事をしています、と可視化し、情報共有することは、死角を失くす意味でも有効なはずだ。本当は死にそうなくらいたいへんなのに、平気な顔をするのを美徳だと思っている人たちもいるけれども、それは周りの人への甘えが入っていると言えよう。本当はたいへんだったんだね、とあとで知ったときに周りの人たちは傷つくはずだ。無自覚な危害を周囲の人たちへさせないためにも、最低限、どれくらいたいへんなのか、くらいの情報は共有しておいたほうが好ましい気がするが、これもまた仕事においては守秘義務や信用問題に関わるので、むつかしい話だな、と思います。とはいえ、仕事の内訳を言えないくらいたいへんな状態が常態化しているならそれは業務改善したほうがよい、と言えるだろう。余裕のある仕事ができてこそ、余裕のある暮らしができるはずだ。余裕を持って生きていきたいものですね。(言うだけなら簡単なことが世の中には多すぎですね。やっぱり誰の役にも立ちたくないな、の気持ちが日々募る本日のいくひしさんなのであった)(なのであった、ではないです)(うぇい)



※日々、息を潜めて生きている。


3501:【2022/03/18*不要です】
影響力いらんわぁ、の日々だ。本心からいらないし、もし必要なときはそのときに必要な範囲で作用を及ぼせるように、影響力ではなく、知恵を働かせる。影響力なんて使わない。他者を操り人形にするような魔法が影響力だろう。そんなものはいりません。だって怖いし。窮屈そうだし。色々な大事を損なわれそう。影響力なんてそんなものだよ。常に身にまとうようなものではないと思います。いつでも脱着可能でないなら、そんなのは魔法ですらなく、呪いですね。やはりいりません。


3502:【2022/03/18*無用】
いりません、ちゅうか、ないだけとちゃいまっか? 不要とか言う以前に、手に入れられるんですか、影響力? ないものには何を掛けてもないんですよ。ゼロ×百はゼロです。郁菱万というかあなた、郁菱無では? 万というか無では? 無さまさまでは? 無様では? 無というか虚というか。……あのさあのさ皆さんさ……そこまでヘコベコに言う必要ある? ヘコベコって何? ヘコみそうなことをベコベコになるまで言わないで欲しい、の意味ですが。意味あった!? わがはいの心はもう、メコメコです。いっぱいヘコんでいるってことかな? めんこいめんこい、の略です。変なところ略すのやめなさいよ。めんこいはかわいいって意味ですよ、通じましたか。方言なのそれ!? そこからでしたか。(ぽわわわ~ん、という妄想であった)(であったちゃうよきみぃ)(うひひ)


3503:【2022/03/18*嘘八百】
郁菱万なるペンネームで物語をインターネット上に放流してきたけれども、いまから振り返ってもみれば、作品ごとにすべて別のペンネームで載せてきたほうがおもしろかったかもな、と思ってしまうね。いまは800作以上あるから、800人分の架空の物書きを生みだせた計算になる。そのほうがイタズラ心としては満載な気がする。というか、いまからでもそれをやってみてもいいかな、やってみたいな、の気持ちがある。けれども、作品ごとにいちいち別のアカウントを作るのも一苦労だし、規約違反になりそうだ。一つのアカウント内で、数百人分のアンソロジーというカタチでならできるかもしれないけれども、それもなんだかな、と中途半端な感じが拭えない。だったらいっそのこと、郁菱万なる物書きがじつは数十人規模のチームでした、別人たちのつむいだ物語の寄せ集めでした、としたほうがそれっぽいのだけれども、それだとなんの面白味もないし、へえだから?で終わってしまう話なのだよね。と、並べておけば、じつは郁菱万なる物書きって複数人で作品を持ち寄って一人の作家を装っているなんちゃって集団なんだよ、という噂がたっても、嘘っぽく聞こえるようになるかもしれない。いくひしさんは一人なのか、複数人なのか、それとも数十人の大所帯なのか。まあ、採算が合ってないことを思えば、一人か数人なのですね、と推察するのが妥当だろう。じつは他人の作品を盗作しまくっている極悪人なのである、ともなれば、だいぶ現実味が溢れるが、否定はしないので、どうぞ好きなだけ検証してください、と言う以外にとくに言うところはないですね。ひょっとしたら盗作しているのかもしれないので、疑惑があるのならどうぞ問題視してください。検証してもらったほうがいくひしさんも楽なので。(とか言っておけば、ちょっと騒ぎになるだけで無料で宣伝になるのでうひひだな、という魂胆があるとか、ないとか、やっぱりないとか)(批判はよいとして、非難の目には晒されたくないですよねやっぱり。哀しいので)


3504:【2022/03/18*好きなんです】
新作が待ち遠しいWEB作家さんを備忘録として並べておきます。まずは三名です。「成瀬 鷗さん(https://note.com/_812/)」掌編がどれも好みに合致していて、外れがないのがスゴイです。全部欲しい。センス欲しい。本で欲しい。もっと読みたいです。新作お待ちしております。「小膳さん(https://note.com/kutokozen/n/na35e07635f18)(https://ncode.syosetu.com/n3551he/)」たとえば小説家が美文を封じられたとして、それでも美しく面白い物語を生みだせるのか。羽をもぎとられた鳥はそれでも空を舞うことができるのか。その答えを持っている小説家さんだと思います。物語を通して友達になりたいと素で思える作家さんです。物語のエッセンスの塊です。マジでスゴイです。めっちゃファンです。新作お待ちしております。「isakoさん(https://kakuyomu.jp/users/isako)」作品ごとに色合いも文章形態も変わるので、作品ごとの評価が全然違います。好きな作品は物凄く好きだし、そうじゃないのは全然好きじゃないです。もうこの時点で凄まじい才能を感じさせますね。好みなのは「人間のあなたはいつか、人間の私を食べる」と「山羊男誕生のひみつ」と「サカモト商店の週末」です。新作お待ちしております。以上です。大好きな小説家さんたちです。三日に一度は、新作ないかな、とチェックしています。備忘録代わりに載せておきます。本日はこれを以って「いくひ誌。」と致します。(秋野コゴミさんの小説ももっと読んでみたいです)


3505:【2022/03/19*視力低いのに】
きょう初めて思ったけれど、郁菱万という字面、すんごく眼鏡かけてそうじゃない? かけてないんだけどさ。(かっこいい眼鏡ほしい)


3506:【2022/03/19*意識の機能】
意識についての妄想である。人間の意識はほかの動物と比べておそらく反応速度が遅いはずだ(身体の小さな生き物ほど反応速度が速い傾向にあるが、それだけでなく、脳の大きさと反応速度の比率で比べても、おそらく人間の反応速度は同程度の脳の大きさの生き物よりも遅いのではないか、と妄想している)(この場合の反応速度は単純な反射とは区別するものとする)。現に視覚情報は前後十五秒くらいの映像の合成でできているそうだ(研究が進めばもうすこし正確に判明するだろう)。意識そのものも、目のまえを変遷する現実とはズレて認識されているはずだ。反応速度とて、0,3秒かかるというのが通説だ(最新の研究では異なる結論が支持されているかもしれないが)。しかし、意識や思考はおそらくもうすこしかかっている。だが熟考を待ってはいられないので、ひとまず圧縮処理した思考を以って優先して身体を動かし、それを後付けで統合するような処理がされているのではないか、と妄想している。この処理がすなわち意識の根幹ということになる。これには脳内の回路がある種の量子コンピューターのような構造になっているのではないか、との妄想とも通じている。幾つかの重ね合わせの可能性(記憶)を同時に処理しているが、それは瞬時に直観として答えを導きだす。だが直観は、情報が足りなければ間違った答えを導きだすこともある(往々にしてそうだと言っていい)。そのため、通常は直観に頼らずに、実際に情報を吟味し、正規のルートで演算した結果が遅れて訪れるのを待つことになる。意識は、この遅れてやってくる演算結果と直観とのズレを補正する役割を担っているのではないか、との仮説がここに成り立つ(人間が複数の未来を想起できるようになったこととも無関係ではない。複数の未来を天秤にかけることで、無数の意識の種ができる。それらを統合し、そのときそのときに生存に適した判断を行えるように人類は進化してきたと考えられる――その過程で、肉体よりも意識を優先して守ろうとした個が生存に優位な環境および社会を築いてきたため、現代人にはのきなみ肉体よりも意識を優先して守ろうとするある種の逆転現象が生じていると妄想できる)(つまり、本来は意識よりもそれを生みだす肉体を優先して守るべきなのに、人間はむしろ肉体よりも精神の安寧を守ろうとする傾向が高い)(自然淘汰の結果、そうした肉体よりも精神を守ろうとする個が生き残り、そうした進化が促されてきたのではないか、と妄想するしだいである)。人間社会において、もし、もうすこし熟考しても困らないだけの余裕のある生活を送れるのなら、おそらく人間はもうすこし賢くなれるだろう。だが、瞬間瞬間の判断が生存に有利な社会では、熟考よりも直観に頼った個が多数を占めるようになる。直観は、入力された情報を適切に処理した経験が蓄積されてこそ、精度をあげる。この訓練をしないうちの直観は、多分に偏見や差別や誤謬を含む。したがって、そうした錯誤が、不協和を社会に蔓延させる因子となる。人間の意識はおそらく、もっと容量が大きい。ただし、演算する量が増えるので、結果を導きだすには相応の時間がかかる。その時間を待てるような余裕を日々の生活のなかで築いていかないことには、人間はこのさきも「無知の知」すら自覚できない程度の知性しか日常的に発揮し得ないのかもしれない。定かではない。(参照:攻殻機動隊アンソロジー「ぼく、タチコマ!」https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9539610#5)


3507:【2022/03/20*中身のない戯言】
あたりまえの話として、通常、人は、じぶんが読んでおもしろかった本を宣伝する。読まずに宣伝する場合は、仲間びいきとか詐欺とかそういう場合が大半だ。しかし現行の出版業界の仕組みのうえでは、出版後、書店に並んでから一週間の売り上げが重視される傾向が未だに根強い。だがSNS上では基本的に読んでから感想を述べたりファンになる者が大半だ。したがって、そうした宣伝効果は順当に考えるなら一週間後にでてくるはずだ。にも拘わらず、一週間の初動でその本のポテンシャルを測られ、支援の打ち切りといった判断をされる(そうではないケースもあるのかもしれません。詳しくは知りませんので、あくまで印象論です)。もったいないことである。これは備考となるが、今後世界的に、物資の不足が深刻化し、全体的に値上がり傾向がつづくだろう。すでに食料品は全体的に値上がりしている。戦争の影響であろう。政府が市場への支援を行わなければ賃金の値上がりはされず、家計を圧迫する。すると経済は鈍化し、ますます社会全体が貧しくなる。悪循環である。たとえ企業が賃上げを実施したところで、年金世代は圧迫の影響を受けつづける。公務員とて同じだろう。国のリンパ系を担う行政の質が落ち、やはり国は一時的に貧しくなると想像できる。どちらに転んでも、急激な物価の上昇は毒なのだ。書籍の値上がりもこのままでは免れないだろう。仕組みの支軸を短期的視野から長期的視野へと移さないことには、段階的にやってくる急激な変化に対応できない。これまでの時代では一つの勝ち筋に頼っていればよかった企業が、つぎつぎに経営難に陥っていくだろう。いまのうちから、勝つことよりも、いかに自在に勝負の舞台から降りても余裕を保てるか。より幅の広い活動域を築いていけるのか、が企業の命運を分けると言えそうだ。定かではありません。


3508:【2022/03/20*浅瀬のような所感】
これからさきの社会ではどんどん仮想現実のほうが物理世界よりも美しくきれいで、楽しい世界になっていく。そうすると外を出歩く者たちが相対的に減るので、観光事業は縮小していくと妄想できる。そうなれば、街から活気が失われ、大金をかけてまで景観を人工的に彩ろうとはしなくなるだろう。現実の街を歩くと物足りなさを感じるようになっていくと想像できる。しかし、仮想現実を楽しめる世代は、現実での経験値をそれなりに蓄えた者たちだ。それより下の世代ではむしろ、電子空間よりも、物理世界への憧憬を募らせるだろう。ここで仮想現実沸騰の波は一時的に緩やかになる。社会に普及しきったあとは、また再び物理世界での経験に高い価値を見出す者たちが増加していくと妄想できる。いまの学生たちにはすでにこの傾向が表れているのではないか。そうした外出の自由を抑圧されて育った世代は、目的地に限らず、遠出をするだけで満足する層である。それはそのまま、旅や冒険への憧憬を備えた世代と言えるだろう。未知との出会い。ファンタジーへの予感。これからはますます、「いまここにはないが、どこかにはあるだろう世界」への需要が増していくとポジショントークを展開して、本日のいい加減な日誌、「いくひ誌。」とさせてください。


3509:【2022/03/20*目的の相違】
以前にも並べたが、いくひしさんはお金儲けのために文字を並べてはいないが、べつにお金を儲けるのがわるいとは思っていない。むしろ、ビジネスをするなら、労働と成果物への対価は正当にもらうべきだ、と考えている。それを踏まえて、さらにお金を儲けようとするなら、いくひしさんならできることをすべてする。誰のどんな批判も、お金儲けに繋がらないならいっさい聞かない。損をしないなら耳を傾けることはない。むしろその批判すらお金儲けに利用するだろう。目的をどこに定めるのかによって、とるべく手段は変わる。当たりのまえの話である。


3510:【2022/03/20*想定は設計図よりかは緩い】
短期的視野と長期的視野は、対立概念ではない。ここを誤解している人がいそうなので、注釈を挿しておく。長期的視野は、短期的視野の積み重ねがどのような結果を伴なうかを想定することで得られる。短期的視野にはその想定が加味されていない。この違いをまずは踏まえておかないことには、大きな齟齬が生じそうだ。積み木とて、手当たり次第に積みあげていけば、ひとまず短時間では一番高く積みあげることはできるだろう。しかし、最初に土台を広く、ピラミッドのようにして築いておけば、やがては最も高い積み木の塔を完成させられよう。そのピラミッドですら、最初に頂点の高さを想定しておかないことには、最も高い積み木にはならない可能性が残る。長期的視野による結果は、短期的な成果の積み重ねである。当たりまえの話であるが、しかし実際に長期的な視野を維持して、日々を生きるのはむつかしい。いくひしさんだって、本当なら虫歯になる前に治療をするのがいいのは分かっているが、短期的な視野で、「病院こわい……」の気持ちに流され、結果として損をしている。言うは易しなのである。(ただし、部分の総和が必ずしも全体とイコールとはならないが)



※日々、優しい人が多いので。


3511:【2022/03/21*むふふ】
あーあ。いくひしさんも有名人になって、黙っていても称賛に憧憬に高評価のあめあられをもらって、ウハウハのモテモテだぜ、になりたかったな。(なんて心のこもってない願望だろう)(絶対このひと床に寝そべってお腹ぽりぽり掻いてるよ)(うひひ)


3512:【2022/03/21*うふふ】
誰も指摘してくれないからじぶんで言っちゃうけれども、「えぇ? この人こんなにおもしろい物語をこんだけつくってこれしか人気だいの~? ひょっとして何か問題があるんじゃだいの~? 作者に問題あるんじゃだいの~?」とか思われていて、本当はいくひしさんのこと大好きなのに、ちょっと引き気味に眺めちゃお、とか思ってる読者の方がいらっしゃるかもしれませんけれどもね。まあ、正解です。作者に問題ありまくりなので、酔狂な図太い神経の慧眼の持ち主さま方からしか高く評価されておらぬのですわ。いくひしさんは小説の神さまに嫌われておるので、読者の神さまにも嫌われておるのかもしれませんが、いくひしさんは心が広いので何も申しません。っちぇ。なぁにが神じゃ。えっらそーにしやがって。ふんだ!(けっきょく言っちゃうんですね。心がこじんまりとしていらっしゃって、じつに謙虚な方ですね)(わーわー、そういう皮肉言っちゃう?)(バレました? 褒めたふうに申しあげたつもりなのですが)(ド直球に皮肉でしたが?)(作者うんぬんより単に作品が……)(作品が、なに!?)


3513:【2022/03/21*あじゃじゃ】
さいきん如実に痛感するのが、いくひしさんの未来予測の精度がだいぶ落ちてきたな、ということで、これは未来予測なんて外れて当然であるとの側面もむろんあるが、それ以外にも、あと十年はかかるだろうな、と思うことが、五年で実現したり、社会に普及したりしていて、時代の変遷する速度が想定よりもずっと速いことに認識の修正を余儀なくされている。ほとんど五年単位で短縮されているので、どの分野でも同様の傾向が見て取れる。なぜなのだろう。一番腑に落ちる仮説は、情報共有システムがどの分野でも同一に進んでいる点だろう。おそらくは、分野をまたいで知識を繋ぐ役割を担う「人」や「術」が増加傾向にあるのだろうといまのところは妄想している。とはいえ、いくひしさんの視野は狭いので、一般に普及した、と感じても、そのじつごくごく一部の界隈に浸透しはじめた、くらいの塩梅なのかもしれないが。いくひしさんが思いつくようなレベルの仮説は、誰でも思いつくし、検討しているはずだ。あてずっぽうの妄想を並べるだけでも、未来予測が的中しました、と言えるくらいに日々着々と世の技術が進歩している。いくひしさんは気楽なものである。(とか言いつつ、さりげなく未来予測が当たってまーす、みたいに醸しているけれども、当たってることなんてあった?)(嘘に嘘を多重に混ぜて玉ねぎの皮剥くみたいに欺くやつ、詐欺師の常套手段やないかい)(うけけ)


3314:【2022/03/22*見習いたいです】
2020年の疫病蔓延初期のときも思ったけれども、いまの時勢のなかでSNS上で普段通りに淡々と好きなものやじぶんの広報などを行っている商業作家のみなさんは、落ち着いていて冷静で、プロだな、と感心します。自制心の鑑ですね。好印象です。そしてきっと裏では業界のためとか、平和のためとか、それぞれに別個の活動を行っているのでしょう。物書きとしての側面と、それ以外とを分けて行っている。やはり好印象ですね。尊敬いたします(ほっぺた赤く染めた顔スタンプ)。(それはそれとして、作家生命を賭けてでも何かを訴えるプロの方もいらっしゃるので、それはそれで好ましいな、と思います。ただ、作家生命を賭けたなら、ちゃんと作家生命が断ちきれる覚悟くらいは固めておいてほしいな、とも思います)(言い換えるなら、そんな簡単に作家生命を賭けないでほしいな、と望みます)(戦国時代ではないのですから)


3515:【2022/03/22*誤解の余地は意図的?】
干渉しながら防御をし、奪取しながら支援もする。もし、いくひしさんが何か作戦を実行に移すなら、このような多層を維持しながら進めるだろう。相手が攻撃してきたなら防御になるし、そうでないなら支援になる。相手が奪ってきたなら攻撃になるし、防御に徹するなら奪い取る。どのような状況であっても、まずは相手の自業自得になるようにするし、相手が善意で返してきたなら善意で返せるように仕組んでおく。おばけも似たようなものですね。罪悪感とか罪の意識のある者にとっては悪霊に見え、そうでないものには恩返しにきた故人に見える。しかし、同じような仕組みを相手も築いていた場合には、いくひしさんはもっとほかの作戦を立てると思います。ここでも多層を意識するでしょうね。そもそもこのような作戦を実行しよう、という姿勢が悪意の裏返しでもあるのですから、これはもう、敵対行動と言えるでしょう。おばけ好きの方にはくれぐれも気をつけてほしいと思います。誤解を生まないようにすることもまた誠意の一つだと思います(誠意というか工夫ですね)。いくひしさんの言うことではありませんが。(いくひしさんは悪人です。ではあなた方は?)


3516:【2022/03/22*なんで怒ってるか分かる?】
みんなで手を繋げば、世界中が一つになる、みたいな言説があるけれども、現実は、みなで手を繋いでもちいさな輪がたくさんできるだけで、世界は一つになりはしない。中には誰とも手を繋げない者もでてくる。一つの輪っかのなかでだけ恩だとかお返しだとか、そういうことを与え合ってもごくごく狭い範囲で恩恵が回って、一部の界隈が肥えていく一方だ。あの人は恩返しをちゃんとする人なのだな、と周囲の者たちから高く評価されるためにする恩返しは、メンツのための慣例だと言える。無意義ではなく、必要な所作だとは思うが(影響力のある人間の所作は、広く模倣を生むので、立場の上の者がお手本を示すのは秩序を築くうえでは有効だ。しかしそれを考慮に入れても、その先を思い描き、示さねば、やはりメンツのための慣例と言えるだろう)、それはけして恩返しとは言わない気がするのだが、違うだろうか。恩返しも文化事業も、本当はもっと泥臭くて、地味な作業の積み重ねであるように思っています(煌びやかであってもよいのですが、何のための煌びやかさであるのかは考えておいて欲しいものですね)(そもそもビジネス上の関係なら恩を返すのではなく、対価を払えばよいだけなのでは?)。(参照*2942:【2021/03/27*好ましい上下関係】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452220822853711)


3517:【2022/03/23*このキャラも飽きた】
なんだかんだ十年以上も同じ名前で活動をしていると、さすがにいろいろと油を吸いすぎて、ギトギトになってきた感じがする。さっさと千作つくって、星新一の顔に泥パックして、郁菱万を引退したい。こういうことを言っているからダメなのは知っているけれども、でもだって、みなさん、先人ばかし敬いすぎでは? 神さま扱するのってどうなん、と思うんですけど、そう思いません? たかが小説家でっせ? と、思わないでもないのよね。面白い小説は好きだけれども。いくひしさんならいくひしさんより下の世代にへっぽこぴゅーんと追い抜いてほしいよ。いくひしさんにできなかったことを軽々こなして、数多の諦めてきた問題たちを解決して、面白くて新しい物語を生みだしてほしいと望みますけどね(望むだけで、べつに期待はしませんし、いくひしさんのことなど道端の小石程度に見做して、いない者扱いして、好きなだけしあわせになってくれよ、と思っていますけれども)。とはいえ、星新一の小説は読んだことないので、読んだらきっと、「うひゃ神さまやん……」みたいになっちゃうかもしれませんけれども、だからこそいまのうちにいっぱい虚仮にしたろ。(それはそれとして、星新一のお弟子さんの江坂遊さんがショートショート1500作つくったんだってよ。なんで話題にせんの? 弟子だから? 師匠の顔を立てましょうよってこと? そういうところやぞ文芸業界、と言いたくなってしまうな)(ま、何作つくったとかで高く評価するってのも、ネジ工場だべか?と思わないでもないので、まあいいんじゃないですか、いまのままで、ときょうの帰りに買ってきたカラアゲくんを食べつつ、投げやりに結んで、本日の「じぶんのことは棚上げくん」にさせてください)(なにそのオチ)(ちなみにだけど、ネジ工場の技術はこの先、貴重になっていきますよ。潰えないように何とかしてほしいですね)(いい人ぶって終わった!?)


3518:【2022/03/23*これはぜんぶ独り言!】
いくひしさんの文章にはチカラがないので(そもそも文章にチカラなどはないのですが)、それに甘えて好き放題並べているけれども、じつはどこかの誰かが読んでいて、「これってウチのことだっちゃ?」とラムちゃんふうに勘違いしちゃう方もでてくるかもしれませんけれどもね、かわいい。それってとってもかわいいと思います。それはそれとして、どうぞご安心を。ここは人類の滅んだあとのインターネッツの片隅の奥底の、そのまた深層にて、孤独に、だれかいませんかー、とつれづれなるままにラジオを垂れ流しているふうの、いくひしさんの小説もどきですので、読者が小説のなかに飛びこんで登場人物と会話したりできないように、あなたもここに並ぶ文章で傷ついたり、苛立ったり、不快になる必要はありませんよ――と注釈を挿したところで、傷つく宇宙人とか未来人とかおばけがいるかもしれないので、念のために、ごめんなさいね、と言っておきますね。ただね。こんな場所に並んでいる文章を読んで、傷つく必要ある?とは思います。どうぞもっと、「おんだらぁ」「うっせー」の気持ちで生きてください。責任転換の上手な本日のいくひしまんでした。(これは、いるかもわからぬ百年後とか一万年後とかそこら辺の「未来の読者さん」へ充てたラブレターです)(現代人は知らん)


3519:【2022/03/23*カイジュウ】
ちょっときょうはいくひしさんのわがままをお聞きください。いくひしさんのちょっとした願いなのですが、怖がられたくないです。いくひしさんは見た目も所作もしゃべり方も何もかもがカイジュウみたいなのですが、でもぜんぜん歩いたあとが荒野になったり、欠伸をしただけで火事になったり、ちょっと横になっただけで山が一つつぶれちゃったり、海水浴をしただけで島が一個沈んじゃったり、まあふつうにカイジュウなんですが、怖くないです。だぁー、ダメだダメだ、ふつうにわがはい、カイジュウでござった。でも怖がられたくない。もっとかわいい、かわいい、してほしい。けれどいざ、「あ、カイジュウだ!」みたいににゃんこ扱いされたら、「うがー、寄るんじゃねー!」ってなってしまうので、近寄らずにいてもらったほうがうれしい。そのうえで、怖がらずに、ふつうに、風景の一部のようにしてもらえたらいいなぁと。つまりがいまのままがよいのですね。ただし、怖がらないで欲しいです。なんもしないです。いいなぁ、好きだなぁ、としか思わないので、でもわがはい、カイジュウなので、ときどきは、がおーっとなったりしちゃいますが、なんもできませんので、遠い星にいる生き物だと思って、ご安心ください。でもカイジュウなので、怖がってしまうのも仕方がないなと思います。そう、つまりが、お好きになさってください、としか言いようがないのですね。怖がらせてしまい、ごめんなさい。でもカイジュウだって、好きでカイジュウになったわけちゃうよ、と言いたかったけれども、ふっつうに、カイジュウになったろ、と思ってなっている面も否めないので、度し難い。でもいくひしさんの想像ではもっとかっこよくて、カイジュウの言葉の意味が塗り替わるような、みなに愛されるカイジュウになるはずだったんじゃが、どこでどう間違ったのか、こんなカイジュウになってしもうた。と、思っているだけで、カイジュウにすらなれぬ、「だれかいませんかー」のこだまとなって、ふらふらとあっちで響き、こっちで響き、息吹のごとくときどきは吹き荒れ、ときどきはそよ風、のようにただみなの意識の外側――風景の隅から隅へ、隙から隙へと漂い流れ、途切れている。桜の樹の枝を揺らしたら、「あ、幽霊だ」と怖がらせてしまうかもしれないけれども、そういう意図はないと思います。とか言いつつ、ときどきは人を怖がらせて、うひひ、となっているのかもしれません。なにもかもが定かではなく自信のない小心者、人にもカイジュウにもなりきれぬかわいい我がままな子、きょうもきょうとて誰に読まれるでもない言葉を孤独に口ずさみ、並べて残して、消えていく。誰に意味を読み解かれるでもない言葉なれば、それって怪獣というか――晦渋では? それとも飼いならしたろ、の懐柔ですか? もうこの時点でだいぶ読み取りづらくて晦渋ですが。ってやっぱり、そっちのカイジュウだったんかい、のツッコミを最後に本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。おやすみなさい。


3520:【2022/03/24*師は一人なの?】
手塚治虫の漫画で「ブッタ」がある。六歳くらいのときに読んだ覚えがあり、中身も断片的にだが記憶にある。印象的な場面は多々あるが、ここでは一例を挙げておこう。うろ覚えなので細かなところでは間違っているかもしれません。ある師のもとに二人の弟子がやってきた。師は弟子の二人に食べ物を施した。一人は、師からのものならば、と喜んで受け取ったが、もう一人は、「私は師からは、教えのみを戴ければ充分です」と言って断ったそうだ。この話がいまでも印象に残っている。師を敬うことの一つの答えだろう(もちろんほかにも答えはあるはずだ)。それはそれとして、他人には親切にすればいいし、弱い立場の者には優しくしたらいい。師だからとかそういうことを抜きに、万人を同じように敬えばよいと思いますが、違いますでしょうか。また、現在の環境を築いてきた先人たちには、例外なく感謝すればよろしいのでは? 先人たちからの恩恵を想像力と学習を以って知れば、死を感じずとも生を実感できるようになるだろうし、同時代に生きる人々への眼差しも、おのずと変わっていくように思いますが、違いますでしょうか。愚か者のわがはいには定かではなく、分かりませんが。愚か者ゆえ、いくひしさんにとって師でない人を見つけるほうがむつかしいですね。過去のじぶんですら師になります。わがはい、傲慢なので。がはは。(本当に愚かですね)(謙虚さとは……)(こういう人を、反面教師と呼びます)(ちょい待ちちょい待ち)(なんでしょうか)(反面教師ってあんたらな――反面教であろうと、師は師やろ)(般若教みたいなノリで宗教化しないでください)(単純にほかの宗教に失礼です)(そ、そうかな……?)(謝っとけ、謝っとけ)(ゴ、ゴメス)(怪獣やないかい!)



※日々、静かで穏やかでありたい、と望むとなぜか、孤独以外では叶わない。


3521:【2022/03/24*ノイズあってこその静寂】
じぶんが「本当は静かで穏やかなほうが好きなんだな」と気づいたのは、産まれてから二十年くらい経ってからのことなので――これは成長するにつれて性質が変わったのではなく、元からそうだったらしい、というのは、過去を振り返れば、そうだよなそれしか考えられん、となるので、いくひしさんのなかではそうなのだけれども、人間、なかなかじぶんが何を好んでいるのかには気づけないもののようだ。いまですら何かを錯誤して、苦しい思いをしながらさほどに欲しくないものに囲まれて生きているのかもしれない。それでものほほんと生きていられる日々に昼寝。


3522:【2022/03/25*もっとスラスラしたい】
けっこう前から思っているのが、この「いくひ誌。」で並べる肩のちからの抜けたような文章形態で小説をつくれないかな、ということで、けっこうまあ、試し試しつくってはいるものの、むつかしい。長編ともなると、成功したためしがない(連作短中長編小説「血と義と花のモノガタリ」における「血」の最初だけは、それを意識したが、すぐに小説の型に押し負けてしまった)。考えを述べるような文章形態と、小説の文章形態って、けっこう根っこから違うというか、水泳とバスケットボールくらいの差がある気がするんよね。バスケットコートであっても水泳の真似はできるし、プールのなかであってもバスケットゴッコができるけれども、それは一時的なものであり、やはりどこかで、それぞれの舞台に適合した形態に寄せていかなきゃならなくなる(前者はダンス、後者は水球に寄っていくはずだ)。そこでいくと、小説における描写、という側面がどうしてもネックになってくる。というか、小説とは描写である、とすら言えてしまう。これはけして、小説は描写だけでできている、という意味でも、描写が神髄である、という意味でもなく、描写を入れることで、どんな文章も小説の文章形態に寄ってしまう、ということだ。いくひしさんは、ここでいちど打鍵の手をとめ、ふと窓に目をやった。いつの間にか日が昇り、障子にうっすらと庭の樹の影が映っている。鳥が枝に止まっているのか、丸い影が忙しく動いており、しばらく見ていると枝を揺らして飛び去った。――このようにして描写を入れるだけで急に、前半の思弁が思念となり、独白となり、小説の一節へと様変わりする。描写なき小説もつくれるだろうが、それはきっと、多くの者たちからは小説と見做されない気がするが、真実のところはどうなのだろう。ああでも、ほら、会話劇があるじゃないですか。秘書がコーヒーを淹れてくれた。カップを受け取るといくひしさんは、ありがたいけど、と苦言を呈した。これはきみの仕事ではないよ。カップを爪で弾いて示す。いいんです、と秘書はほころびる。私がやりたいだけですから。ほら、と指揮棒のように食指を振って、小鳥に餌をやるのって楽しいじゃないですか、と怒るべきなのかどうなのかむつかしい微笑を残し、じぶんの仕事へと戻っていった。果たしてこれは小説と呼べるのか否か。答えは未だ藪の中。


3523:【2022/03/25*進化の外部化】
情報は、緻密な回路を高速で流動することで「場の変化」を促進する。未来予測でいくひしさんがよく用いる視点の一つだ。いったいどの分野や界隈が複雑で立体的な回路を築き、情報を伝達しあっているだろうか、と観察する。情報の伝達速度があがればあがるほど「場の変化」が促進されるので、その分野はこのさき発展する確率が高い。ただし、そうした場では、「取りこぼされていくもの」もまたふんだんにでてくる。本来、人間には、そういった「取りこぼされていくもの」をいかに拾い集め、再利用し、その技術を蓄積し、広げられるのか、によって文明を発展させてきた側面がある。これは弱点や失敗を活かせることと通じている。人間は、いわゆる進化の道を捨て、弱体化することによって生存確率をあげることに一時的に成功した種であると言える。退化もまた進化のうちの一つだが、人間はむしろ弱体化と呼ぶにふさわしい肉体構造の劣化を、文明を発展させるたびに帯びてきた。おそらくこれは、進化とはまた異なった概念でくくったほうが好ましい範疇ではないか、と妄想している。或いはこうも言い換えることができる。人間は、進化すら外部化したのだ、と。閑話休題。情報伝達速度が著しいだけでは、その「場」がその後に発展するか否かは分からない。情報がどのように伝達し、蓄積され、交錯するか。回路の構造そのものがどのように変化していくのか、緻密化していくのか、立体化していくのか、そのものもまた基準の一つとなる。回路は場とイコールではない。更新される概念の来歴そのものが回路の一路として機能するため、場に含まれる時間経過(場の歴史)そのものが、回路を上部にも下部にも広げる。これはつまり、場に属する人数にかかわらず、個人にすら当てはまることである。極端な話、一万人によるコミュニティよりも、たった一人の築く回路のほうが「場の変化」を促進させることもある。しかし個人に限定された「場の変化」は往々にして概念上の上部構造に限るので、それを下部構造にまで落とし、普及させる手続きが別途に必要となる。簡単にまとめれば、優れたアイディアは一人でも生みだせるが、それをカタチにするには現代社会という巨大な工場が必要であり、その工場を適切に稼働させるためには、協力者が必要だ、という極々単純な話にまとめられる。裏から言えば、いくら工場があろうとも、それを以って何を生産するのか、アイディアがなければ宝の持ち腐れを地で描く。そのためにも、「場の変化」を促す回路がどこに築かれつつあるのか。情報の流れに目を凝らしてみることである。ただし、大河をなす源流がはじめはちょろちょろと流れたり、ふわふわと穏やかに湧いていることがあるように、真に澄んだ閃きほど、情報の渦ができるほどに濁流と化した回路からは程遠いシンと静まり返った場にあることもまた、そう珍しくはないようだ。(上記、寝起きの妄想です)(口からでまかせのあてずっぽうですので、真に受けないでください)


3524:【2022/03/25*別バージョン】
人間とほかの動物の違いが何であるのか、と考えたときに、言語とか文化とか、身体の構造とか、ゲノムとか、いろいろな基準で枠組みを規定できると思います。きょう閃いたのは、人間は、進化の過程で取りこぼされていくものを認識し、蓄積できる点こそが動物と人間の差異なのではないか、との妄想です。取りこぼされていくものを拾い集める。言ってしまえば、もったいないの精神でしょうね。不要なものを再利用できる。弱点を長所に変える。失敗を活かす。本来、生き物は、進化の過程で、生存に適さない能力や個体は切り捨ててきました。淘汰されたり、退化したり、満足に利用せぬまま無用の長物化したり。進化とは往々にして、環境への先鋭化と呼べるでしょう。その点、人間は、ある意味では進化への道を手放し、進化によって取りこぼされていく数多の弱点や欠点や不要そのものを拾い集め、蓄積し、共有する術を磨いてきたのです。人間は傾向として、文明を発展させるたびに肉体構造は生物として弱体化しています。退化もまた進化の一つとはいえ、人間のそれはもはや退化というよりも、やはり弱体化と呼ぶべき変化ではないでしょうか。人間は、生物にとっては本来不要なものでできているのです。これは、ひょっとすると、進化とはまたべつの尺度での概念が必要なのかもしれません。メモ「人間の群れ=四次元(空間プラス時間=世代間による接続を可能としている)」「ほかの生き物の群れ=三次元(その場その場での空間=同時代性のみ=世代の壁を超越できない=遺伝子の乗り物でしかない)」「人間は群れの来歴を繋ぐことができる」


3525:【2022/03/25*善意は矛盾】
善意の塊は攻撃しにくい。攻撃すればそれだけでじぶんのほうが悪になる。つまり、攻守最強であるためには、善意のみを配れると好ましい。優しい人は強い理論だ。しかし問題は、現実では優しいだけでは、利を奪われてばかりで損をし、貧しくなっていってしまう点だ。優しいだけでは生きていかれない。言い換えるなら、優しい人が強いのではなく、優しくいつづけるためには強くなければならないのだ。生存者バイアスなんですね。それでもなお、悪意に対してすら善意で応じられる者こそ、真の強者と言えるでしょう(強さの外部化を行ってもよいでしょう。環境を整えるのです。そのために必要な強さとは、知性と同義と言えましょう)。何せ、悪意を物ともせずに善意で返せてしまうわけですから、要は相手を赤子のように扱っているわけですね。そうできるくらいに強者でなければ、悪意に対して善意で返しつづけていると、いつかは命の危機に陥るでしょう。


3526:【2022/03/26*目的は不定】
定めた目的に対して適切な工夫をとり、実現していく人に対しては、それがどんな目的であろうともいくひしさんは尊敬するし、素直にすごいな、と感心する。いまの時期に例にだすべき話題ではないのだけれども、たとえば侵略一つとったとしても、誰の犠牲もださずに、相手陣営の誰もがみな率先して自陣営に協力し、成功させるような侵略があるのなら、それはすごい工夫だな、とやはり思ってしまう。とはいえ、その後に国の運営が破綻してしまうようなら、愚かだな、とやはり思ってしまうだろう。目的とは達成してしまえば点になる。目的を達成するまでは流れであり線なのだが、達成してしまうと途端に収斂して消えてなくなる。そうした懸念を失くすには、延々と求めていられる目的を定めるのがよさそうだ。そうした目的は、ときに理想と呼ばれ、またあるときは理念と呼ばれる。つまりが、容易く達成できないことほど、理想や理念と呼ばれるのだ。しかしそれもまた目的であり、それを求めている限り、流れができ、線として揺らぎを宿しつづける。生きるとはすなわち、この流れであり、揺らぎそのものと言えるだろう。目的を一つ定めたならば、それを実現させるための目標をその都度その都度、見繕えると、生きることに飽きずにいられそうだ。しあわせになる、という目的でもいい。生きる目的を見つける、でもいいかもしれない。ひとまず定めてみて、求めてみればよいのではないだろうか。気に入らなければ変えたらいい。きっと他人は、変えたことにも気づかない。頭のなかだけは自由なのだ。きょうもきょうとて、何もかもが定かではない、無責任な「いくひ誌。」でした。


3527:【2022/03/26*哲学ってムズ】
哲学書というのをおそらくは読んだことがなく、さいきん千葉雅也さんの「現代思想入門」という哲学書の一種を読んだ。三日かけてゆっくり読んだ。面白い。で、思ったことがある。本の中身とはほぼ関係ないが――たとえば科学では単位を揃えたり、語句を統一したりする。でも哲学ではどうやらそういうまとめ方はされずに、個々の哲学者の個性を尊重する傾向がつよいのかな、との違和感を覚えた。それの何が問題か、と言えば、哲学者ごとに、似たような概念を用いながらも、異なる「独自の言葉」を使うので、混乱するなぁ、ということで、それをいまの哲学者や学者たちは、「これとこれはほぼ同じ意味やで」と判るのだから、もうそこを統一して、ざっとまとめるような哲学の世界地図があったら便利だろうな、と思った。すでにあるとは思うのだが、思ったので備忘録として記しておく。とはいえ、言葉というのは箱である。箱の大きさが違えば、たとえ似たようなものを仕舞っていたとしても、中身がまったく同じになるわけではない。不純物の混合率も違ってくるだろう。それゆえに、語句を統一することで失われるニュアンスは必ずでてくるだろう。「車」と「Car」ですら、まったく一緒ではない。それぞれに固有の意味内容が複数仕舞われている。それはニュアンスの違いや、言葉の成り立ちの歴史、いわゆる文脈の差異として表れる。厳密さを担保するためには、それぞれの哲学者ごとの語句を尊重し、そのまま用いる姿勢は欠かせないだろう。だが、入門レベルなら、いっそ統一してしまったほうが理解の一助となるのではないか、と妄想したしだいである。そういう本があるのなら読んでみたい。以上です。


3528:【2022/03/27*風にも味があるの?】
幼いころからたまに疑問に思うことがあり、それが何かと言えば、味覚ってどこまで普遍性があるのかな、との疑問で、たとえば江戸時代の人に現代のテリヤキマックバーガーセットを食べてもらったとして、現代人のように「おいし、おいし」と食べるのかなぁ、と気になる。たとえば言語なら、現代人が何を言っているのかを江戸時代の人に理解しろというのは無理がある。漫画にしろ小説にしろ同様だ。イラストだって今風の絵柄は、すぐには受け入れられないのではないか。言い換えるなら、味覚とて、学習の積み重ねによって現代人風に最適化されているのではないか、との妄想だ。これはおそらくそうだろう。なぜなら現代であろうとも、文化によって好まれる味に違いがあるからだ。日本人ならば納豆を「おいし、おいし」となるが、そうでない文化圏のひとには、「おえっ」となるだろう。虫料理とて、それを食べている文化圏の人々にとってはなんでもないが、慣れ親しんでいない文化圏の者たちにとってはゲテモノにしか映らない。しかし、脳内報酬系を刺激する物質には普遍性があるだろうから、脂質とか糖分とか、そういったものの含有量によって、或る程度の傾向は見えてくるだろう。しかし味付けは、それとはまた別の要素足り得るので(材料と味付けは無関係でないにしろ)、文化によって好まれる「風味」には、相応にその環境に影響されるような、相互関係が見られるのではないか、との妄想をときどき浮かべるのだが、どうやって調べていいのかも分からないし、それを調べて何になるのかも分からないので、妄想だけして、ああ楽しかった、でいつも終わる。妄想人間とお呼びください。


3529:【2022/03/27*操る支配】
人間には自分以外の環境をじぶんに都合のよいように整えていくことに快感を抱く性質があるように思うのだ。拡大解釈すれば、人間は他者すらじぶんの外部環境の構成要素と見做し、じぶんに都合の良いように操ろうとする欲求があるように思われる。それはいわば、支配欲や執着心として顕現するのではないか。また、それの裏返しとして、他者から都合の良いように操られることに対して、並々ならぬ不快感を覚えるのかもしれず、或いは帰属意識を刺激され、支配されることを反対に求めるようになるのかもしれない。これはおそらく、支配欲よりも、その根源たる「環境をじぶんに都合の良いように整えようとする欲求」が優位に立つため、自動的に環境が整えられるほうを重視するのではないか、との仮説が成り立つ。独裁者になるよりも、独裁者に支配されるほうが、多くの人間にとっては好ましいのだ。それには、ある側面では、仕事の役割分担(分化)によって、文明の発展を促してきた背景があると言えるだろう。組織の一員となり、規律の名のもとに支配されることで、じぶんにとって好ましい環境を半ば自動的に手に入れることを望むのだ。その結果、たしかに環境が維持され、安全安心が手に入るのならば、多くの者にとっては何に支配されるのかは問題とならない。危機が到来し、生活を脅かされ、そして危機が去ってからようやく、じぶんたちを支配していた仕組みに拒絶の意を示すのだ。しかしどの道、独裁であろうと、そうでなかろうと、人は何かに支配され、支配している。その塩梅によって、何が維持され、どのように環境が変質していくのか。問題となる視点とは、詰まるところ、その一点なのだろう。生存戦略なのですね。でもなんだかな。つまらない結論になってしまったので、いまのなし。定かではないんじゃ。うひひ。


3530:【2022/03/28*富の再分配は、発展のための施策】
富の再分配について、「個々人間の経済格差がなくなれば、実施しなくともよいし、優先すべき事柄ではない」と考えている人が、頭のよろしい方々のなかにも一定数いるようで、本当にその考えでよろしいのですか、と心配になる。経済学のケの字も知らないいくひしさんですら、富の再分配が、まさしく富の再分配であり、それがけして個々人間に留まらない、企業や国家を含めた富の再分配なのだ、ということを想像できる。企業や国家の頭上に膨れている(バブル=富)から、個々人にまで導線を引き、血流をよくしましょう、という意図が、富の再分配なのではないのでしょうか。個々人間の格差が縮んでいるので富の再分配はもう充分です、という主張を見かけ、なんだその詐欺は、と思ってしまったな。「経済の回復」と「社会の発展」はイコールではないのでは? 経済はつねに「現在どうなのか」でしか考えることができないが、社会の発展は、「このさきを含めて安心安全便利な生活を人々が送れるのか(つまりが個々人がそれぞれに至福を追求できるのか)」によって規定される。社会の発展を阻害してまで経済を回復させても意味がないし、社会の発展を阻害してまで経済を損なっても意味がない。優先すべきは決まっている。富の再分配とは、言い換えれば、社会の発展のために資本を使え、という意味だ。社会の発展とは、前述の通り、「このさきを含めて安心安全便利な生活を送れるのか(つまりが個々人がそれぞれに至福を追求できるのか)」によって規定される。富の再分配のありようには、いくつかの筋道や仕組みが考えられるが、富の再分配そのものを否定する論理は、いまのところ見受けられないように思うが、違うのでしょうか。誰か教えて欲しいです。(上記、経済のことなどほとんど何も解っていない素人の妄言ですので、真に受けないように注意してください)


※日々、じぶんの都合を押しつける。


3531:【2022/03/28*そのお願い、理不尽では?】
たとえばコーラを買うとする。2リットル、1,5リットル、1リットル、0,5リットル、0,35リットル、と好きに選べる。まずは2リットルを買わなければ、以下のちいさいサイズを選べません、なんてことにはならない。しかしこれが書籍だと、なぜかまずは単行本を購入してね、となるのだ(売れないと文庫本にならない本が現状すくなくないようである)。しかもそれを版元に所属する構成員たちが読者に堂々と(おずおずと?)吹聴するのである。まずは割高の本を買ってね、と。書籍と飲料水では、文化事業という側面で差異があり、書籍は自由に値段を決められない、安価に提供する努力がほかの製品よりも要請されるといった事情も無視できない。しかしその理屈で言うのなら、まずは廉価版たる文庫本でだして、売れたものをあとから割高の単行本にしたらよいのでは?(同時にだしたっていいし、紙媒体の本を購入したら電子書籍バージョンもついてくる、くらいのサービスだって展開してもよさそうに思うが、どうなのだろう) なぜそこが逆なのだろう。建前と仕組みがねじれているように思えるが、どうなのでしょう。読者にへんてこなお願いをしつづけるのではなく、まずはじぶんたちの手で仕組みを変えるように努めてみてはいかがだろう。その仕組みを変えるためになら、手を貸してくれる読者の方々もでてくるのではないでしょうか。いい加減なあてずっぽうですけれどもね。(著者への印税がすくなくなるから、というのも、別途に労働への報酬たる執筆料を払えばよいだけでは?)(印税は言ってしまえば、成果報酬でしょう。しかし現状、成果と言えるほどに売れていないのが問題なわけで、ここでもねじれ構造というか、仕組みの欠点が浮き彫りになりますね)(指摘するだけなら簡単なのですが)(ではどうすべきか、と言えば、やはりすこしずつ、色んな施策をためしためし、改善していくしかないのでしょうね)


3532:【2022/03/28*みな虚空に述べればいい】
反論とは、主となる意見がなければ述べることができない。反論とはつねに、主となる意見の二次創作であると言える。しかし二次創作でありながら、模倣成分よりも個性のほうが強くでれば、それは独立した主張としての価値を帯びる。そしてそれにもまた反論が投じられ、意見や主張は徐々に磨かれていく。したがって、反論を投じることのできる環境は望ましいのだ。反論が飛んできたから、じゃあ言うのやめます、では困ってしまうし、反論で相手を黙らせてやったぜひゃっほー、でも社会は閉塞してしまう。反論を見込んで投じる意見や表現とてむろんのことあるだろう。どんな意見とて反論されて当然、くらいの心地でいたらよいのではないでしょうか。じぶんでじぶんに反論できるくらいになれば、一人遊びで満足できて、誰かさんみたく静かに過ごすことができるかもしれませんよ(それはそれで寂しいのでは?)(寂しいのがダメって誰が決めたの?)(私です)(寂しいのヤなの?)(好きすぎて依存症になったら嫌だなって)(ああ……)。


3533:【2022/03/29*グッピー】
やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、とくになんもないでござる。変わり映えのない、うたたね陽気の日々でござるよ。まいにち、うんみょろーん、と眠気と戦って、睡魔を蹴散らし、ときに負けて、スヤスヤぐっすりしているでござる。好きなときに好きなだけ寝れる自由がないなんて、そんなのは奴隷さんといっしょでござるよ。いっしょだなんてステキでござる。ペアルックでござる。ルックフォーミー。みなさんもいくひしさんを見習うでござる。奴隷さんといっしょにいくひしさんはぐーぐーぴーぴーしちゃうでござるよ。いくひしさんは好きなだけ寝て、はなちょうちんを浮かべ、ふわふわぷかぷか宙を舞って、夢中になって、いっそ起きずに、永眠してやるでござる。永久に眠るでござるよ。ぐっぴー。それは淡水魚さんでござる。永久に眠れるってことは、永久に生きれるってことでござる。眠れるってことは、起きれるってことでござる。起きれないならそれはもう、死にちかづいているでござる。眠ることもできなければそれはもう死でござるな。永眠はだから、永久に生きることなんでござるよ。やっぴー。いくひしさんはいつの間にか、不老不死になっていたでござる。でもでも、いくひしさんは中身が3歳の実年齢は180歳でござるから、いまさら不老不死になったって、精神年齢は3歳のままなんでござるな。長生きしたって、寝てばかりいたら中身は3歳のままなんでござるよ。もっとかってに、精神年齢、神!みたいになって欲しいでござる。せちがらいでござるな。るんるん。3歳なので、せちがらくても楽しくなっちゃうでござるな。箸が転げるだけで笑っちゃうでござる。年頃なんでござるよ。何歳でござるか? さんしゃい! 本当は? 180歳でござるよ。ぐっぴー。


3534:【2022/03/29*普遍・埋没・風化】
「普遍性なんてないんだ、という普遍的な枠組み」の内側で、かろうじて見繕える〈針の穴に糸を通すような普遍性〉を文学は扱い、そうでない、「普遍性なんてないんだ、という普遍的な枠組み」の外側を扱うのは主として科学の役割になってしまったのかな、といった感覚がある。しかも、内側にはもう、掘るべき場所はなく、再生産的な化石を掘り当てることが目的化してしまっているように感じなくもない。その点、外側にはこれからどんどん人類は視点を広げていけるようになるし、物理世界における社会というものも拡張されていく。そうすると、かつてはSFでしか扱ってこなかった外側の視点が、日常に浸透してくるため、必然、文学の扱う内側にも染みこんでくる。ゆえにこれからは、否応なく、これまで文学が忌避してきた要素を扱わざるを得なくなるし、あべこべに、そうした忌避感は増幅され、従来通りの内側の化石への哀愁が、反動として高まると予測できる。ただしそれは、故郷や田舎への束の間の懐古や憧憬と類似であり、おおむねは外側へと広がりを帯びる現実への抵抗であるから、〈内側を掘り返す普遍性〉は、これから徐々に文学の主流から遠ざかっていくと妄想できる。とはいえ、それゆえに文学的価値として、或いは骨董として、それとも古典として、いまより大きな枠組みで再定義され、位置づけられていくと想像するしだいである。要約すれば、時代は否応なく進み、新しきは古きへと変わりますよ、という当たり前の話である。時間が経てば老いる。しかしそれもまた、生きているモノに限った話なのかもしれず、或いはこれからは、忘れ去られる余地なく忘れ去られた存在にも、ふたたびの息吹がそそがれ、老いることのできる時代に突入していくのかもしれない。定かではない。(何かで括ることの意味が薄れていくだろう、とも言い換えることが可能だ)(個々の世界観――何を好いて何を面白いと思うのか、がより尊重され、重視されるようになっていく)(世界観と個性は重複する部分もあるが、点と線の違いにちかい。個性は点だ。しかし世界観はもっと流動的で、変質の経過そのものだ。流れであり、軌跡であり、旋律や律動であり、揺らぎである。予測不能な跳躍であり、行間に浮かぶ閃きそのものと言える)(閃きを、違和感、と言い換えてもよい)


3535:【2022/03/30*いまさらの疑問】
聞いて、聞いて。なんかね、ここ数日目が痒くってさ。なんだろな、なんだろな、って擦ってたらどんどん痒いゲージが増してきて、目頭がもうね、つねに虫刺され状態なのね。で、鏡で覗いてみてもとくにこれといって腫れてないし、赤くもなっていないから、なんだろな、なんだろな、ってやっぱり気になってたんだけど、きょうお外を歩いてたときに、クシュン、クシュンってくしゃみを連発してた女の人がいて、その相方の人が、「花粉症?」って心配そうに投げかけてたのを見て、はっとしちゃった。あ、わたし花粉症かも!? これまでなったことなかったから気づかなかったけど、この目の痒みさん、花粉症かも。あーもうどうしよう。いちど花粉症なったらもう治んないのかな。悪化しちゃうんだっけか。やだなぁ。鼻水じゅるじゅるでないだけよかったと思っとこ。まんちゃん風に言うなら、やっぴーってやつ。全然やっぴーじゃないけど。てかさ、今さらだけど、やっぴーって何?


3536:【2022/03/30*知能と知性】
これまでできていたことができなくなったとき、能力が退化したな、と思うが、そのときに知能が落ちたな、とは感じない。とくに体力的な能力の退化を実感した場合にはその傾向が顕著だ。フラフープを上手に回せなくなったからといって、知能が下がったとは思わない。いっぽうでは、数学の計算ができなくなれば知能が下がったと思うだろう。だが能力が退化した点では同じである。肉体の動作とて、知能によって可能としている。認知症患者の運動能力が低下するのはその影響もあるはずだ。そこは相互に関連しているだろう。運動能力が低下するので認知機能も低下し、認知機能が低下するので運動能力が低下する。どちらもあるし、相乗効果で悪循環を生むこともあるだろう。人間は知能と言ったとき、ついついどれくらい複雑でむつかしいことを考えられるのか、と捉えがちだ。そういう側面もあるだろうが、どちらかと言えば知能とは、目的を達成するための手段をいかにとれるのか、で測れるのではないか。そこには、運動能力も計算能力も認知機能とて含まれる。知能とは、人間の出力可能な能力をいかに目的達成のために用いられるのか、で決まる。何をどのように考えたのか、も一つの知能の指標となるが、それは飽くまで知能全体の一成分だ。何も考えずに、直観で、或いは無我の境地で、気づいたら目的を達成していた、という場合にも知能があると言えるだろう。だが、単なる偶然が重なっただけの幸運ゆえの結果であることもある。そういうときであっても、それは知能ゆえの結果なのだ。しかし、知性ではないだろう。知性は、もっと再現性が高い。というよりも、何度でも目的を達成可能になるように自己を制御すること。自在に操ること。そのためにどうすればよいのか、どの方向に舵を取ればよいのか、と模索する営みそのものが知性だ。知能は出力される能力の総体であり、知性はそのための指針と言える。知能をいかに活かせるかを考えることが、知性の役割と言えそうだ。(本当か?)(いい加減なことを言いました。すみません)(定かではありませんので、真に受けないように注意してください)


3537:【2022/03/31*ね、ね、ねむい】
小説つくってないのにこんな日誌並べちゃってどうしよ……、と思うこともなきにしもあらずだが、しかしこの日誌も広義の小説でおじゃるので、ひとまずこれを並べておれば、きょうもわがはい小説つくっちゃった、となるので、心が潤う。ダイエットしたいのにでもきょうもいっぱいお菓子食べちゃった……、という方は、顎いっぱい動かしたし、唾液もいっぱい分泌した、胃や腸だって活発に動いただろうし、めっちゃダイエットしたな、と思えば心が潤う。しかしこれは麻酔とか痛み止めみたいなものなので、常用するのはお勧めしない。だっていくら「いくひ誌。」を並べたって、そのほかの小説ができるわけじゃないし、やっぱり摂取したカロリー以上を消費しなければ脂肪は増えていく一方だ。ただ、ときどきは誤魔化しの理屈で乾いた心を潤わさないとひび割れて、そのうち砕けてしまいそうだ。そうならぬように、ひとまずこれは時間を圧縮して思考の限界を突破する極限の修行なのだ、と思って、おふとんにくるまり、寝てしまうのがよろしい。寝る子は育つ。たぶん、きっと、だといいな。


3538:【2022/03/31*むずくない?】
常識知らずなので、他者と何をしゃべっていいのか分からないし、しゃべってみたところで、話が通じないことが多い。こちらがしゃべっても相手には通じないが、こちらでは相手の話をまあまあ咀嚼できるので、たいがいは聞き役になるが、気心知れている相手にはあべこべにバババーと捲し立ててしまうので、よくないな、と反省する。同じ言語を用いていても、周波数のようなものが違っていると、コミュニケーションは取れないのだ。コミュニケーションとは、周波数を合わせる作業そのものだと言えるだろう。その点、その周波数を合わせる作業にも、どうやら二種類あって、出力と入力で大別できる。出力だけ合わせても足りないし、入力だけでも足りないのだ。コミュニケーションってむつかしいなぁ、と思うのだけれど、みなそんなことを思わずにつつがなく関係しあって見えるので、すごいなぁ、と思います。それとも内心ではみなさんも、「コミュニケーションむずい……」と目を回しているのでしょうか。その割に、表面上だけでもつつがなく行って見えるので、やはりすごいなぁ、と思います。


3539:【2022/04/01*孤独と没頭は相性がよい】
なんも並べることないよー、って思って、つらつらと自己分析していたら、おや、と引っかかってしまったな。わがはい、ひょっとしたら、人を喜ばせたい、と思ったことがないのかもしれぬ。誰かに笑ってほしいとか、喜んでほしいとか、思ったことないかも。ただ、人が楽しんでいる姿を見るのは嫌いではないし、誰かが喜んでいる姿を見るのも嫌いではない。でも好きなのは、何かに夢中になっている姿なので、やっぱり笑ったり喜んだりすることにさほどの重きを置いていないのかもな、と閃いた。人は何かに夢中になっているとき、笑ったり喜んだりはしない。ただ無心に、無表情に、淡々と作業に没頭している。そういう姿を見ると、心の奥底がほっこりするし、いいなぁ、と思う。そういう誰もが夢中に何かに没頭できる環境が築かれるとよいな、とは思うのだ。ただそれはべつに、誰かを笑わせたりだとか、喜んでほしいからではなく、もっと静かで、何でもないような時間を誰もが持てば、それだけいくひしさんも夢中になれる環境を持てるだろうな、と直観しているからなのですね。いくひしさんは笑ったり喜んだりは正直、したくない。静かで穏やかで、なんでもない時間が好きなのだ。ときどきは騒がしい場所に出かけるのも嫌いではないけれど、それがずっとつづくのはやはり嫌だ。一人で何かに没頭している人を見ると、その作業の内容がどのようなものであれ、反射的にいいなぁ、と思ってしまう。それがたとえ暴力的でいやらしい内容でも、いいなぁ、とまず思ってしまうので、いくひしさんの性根は腐っているのですね。よろしくない性質だと思います。(あ、嘘吐いた。赤ちゃん見るといつも、ニコっ、てして、おまえも笑えや、と威圧してしまうな。よろしくない性質だと思います)


3540:【2022/04/02*ぱっくんちょ】
わーい。いいことあった。うれしい。めっちゃ元気でた。でも元気でてもとくにやることないから、うんみょろーん、ってしちゃう。寒かったり、暑かったり、せわしない挙動不審さんなお天気だけれども、いくひしさんも同じく挙動不審さんのいくひしさんなので、凸凹みたいにしっくりぴったり、仲良しさんになれるんでごじゃるね。やったぜ。とか言ってたら、きょうはもう春の陽気でおじゃるな。ぽっかぽっかの、いっくひっしまん。語呂がわるいでおじゃる。いっちねんっせ、くらいリズムよくいきたかったでおじゃる。なんでおじゃるなんでおじゃるか? ござるではないでおじゃるか? そうなんでおじゃる。いくひしさんは、おじゃる菱形でごじゃる。おじゃる三角でもよいでおじゃる。それはひょっとして、おじゃる丸のパクリでごじゃるか? ちがうでおじゃる、ちがうでおじゃる。ほんとでおじゃるかぁ~? うっ、そんな目で見ないでほしいでおじゃる。上手にウソがつけなくなるでおじゃる。あー、やっぱり嘘だったんじゃないでおじゃるか、ぱくりでおじゃる、ぱくぱくパックンチョでおじゃるよ。はぁー、なんかお腹が減ってきちゃったでおじゃるな。チョコレートの入ったまん丸くてちいちゃなお菓子が食べたいでおじゃるな。それはぱっくんちょでおじゃるよ。やや、ここでもまたぱくぱくパックンチョなんでおじゃるな。おいちー。



※日々、おふとんにくるまり寝ていたい、でもときどきは外に飛びだし遊びたい。


3541:【2022/04/02*秘密にする理由はなんですか?】
好ましい戦略ってどんなの、っていくひしさんが考えるとしたら、たぶんそれってきっと戦略のすべてを公開しても困らない戦略かなぁ、なんて思っちゃうな。秘密なんてなーいよ、ってしてもなんでか思い通りになっちゃう、そういう戦略が一番よい戦略だと思います。隠し事ばっかりの戦略は、三流の仕事だと思います。プロではありませんね。うひひ。


3542:【2022/04/03*いい加減なことを並べすぎ問題】
摩擦が高い床と、摩擦が低い床だと、摩擦の高い床のほうが怪我をしやすい。コンクリートと大理石なら、コンクリートのほうが転んだ時に膝を擦り剥きやすいのと似た理屈だ。けれども、身体が頑丈だったらきっと、摩擦の高いほうの床のほうが動きやすいだろう。それはたとえば、氷の上では満足に足を踏ん張れないけれども、コンクリートの上ではグリップがきいて歩きやすいのと似ている。でも、摩擦が高いとちょっとの踏ん張りでもぐぐっと圧力が加わるので、関節への負担は大きくなる。靴を履いていれば、靴底だけはギュッと止まって、素足の裏がズルっと滑るため、マメや靴擦れができやすいだろう。これはきっと人間関係や、学びにも言えることだ。あまり密着度の高い関係は、相互依存となって、一瞬一瞬の瞬発力は増すものの、長い時間そのままだといずれは節々に異常をきたす。関節は鍛えられないからだ。その点、摩擦のすくない関係であれば、靴を履き替えるようにそのときどきで都合のよい距離感を保てる。摩擦の高い関係から薄い関係へはなかなか移れないが、その逆は比較的しやすい。靴を換えるように、相手に見合った話題や接点をつくればよいのだ。学びの場合はどうだろう。摩擦の高い知識とは何か。なかなか読み解けないむつかしい本といったところだろうか。数式ばかりの論文や、特殊な語句ばかり並ぶ哲学書はかなり読むのに摩擦がかかりそうだ。その点、すらすらと読み解ける本は摩擦がすくなそうだが、これはどのように読むかによっては、摩擦を高めることもできるだろう。行間を読むというのがその一例だろうか。まとめると、摩擦がまったくないのはたいへんだが、すこしあるくらいがちょうどよいのかもしれず、けれども摩擦が高い場合では、瞬間瞬間で発揮できる力や入力できる情報が増す、と言えそうだ。本当か? 怪しいなぁ。いい加減なことを並べすぎ問題である。


3543:【2022/04/03*波長の合う物語は貴重】
波長がぴったり合うっていうのはきっと、同じ波形や波長を伴なっているということではなく、溝と溝がなんでかカッチリはまっちゃうなぁ、まっちんぐーだなぁ、みたいな感じの、【レコードと針】とか【ファスナーと引き手】とか【刀と鞘】みたいな、本当は異質なものなんだけれども、なんでかしっくりくるなぁ?の組み合わせこそが、波長が合う、の意味合いなのかもな、といま三秒で閃いちゃったな。アチョー、みたいな感じで。波長だけに。


3544:【2022/04/04*支配と庇護の綱引き】
思うのが、人間らしさって、動物らしさでもあって、単純に予想外なことにはびっくりしちゃうし、うれしいことがあったら素直によろこんでしまう。そういう純朴な、けれど危うさとウラオモテな動物性みたいなものが、人間らしさを支えてもいて、しかしそれだけでは人間っぽさは生まれず、きっとそうした動物性を眺めて、ああかわいいなぁ、と思える感性が、人間性の皮の役割を果たしているのかな、と直感としては思うのだけれども、どうなのだろうね。動物はきっとほかの動物を眺めても、ああ動物だなぁかわいいなぁ、とは思わないのだ。母性本能としての庇護を見せることはあっても、きっと、ああ動物だなぁかわいいなぁ、とは思わない。メタ認知というか、ある意味では、かわいいという感情は、ほかのものをじぶんより下と見ることで得られるいっときの安心であり、束の間の平穏であり、脱力だ。動物は対象を「害か餌か同族か(その他)」で判断するが、人間はそれ以外の視点を持てる。環境を連続して認識し、俯瞰の視点を持つ。連続した認識は時間の概念をもたらし、獲得した俯瞰の視点は――客観性へと昇華され、それを維持する。人間は自身を他者として見做すことで、環境のなかでの立ち位置を把握し、それゆえに生存戦略における優位な立ち位置をしぜんと探し求めることができる。かわいいという感情は、そうした環境のなかで培われる、母性本能とは異なる、支配と庇護の綱引きである。張り詰めた綱は均衡を保つに限り、それはかわいい、であり、対象との距離があくが、接近し接触してしまえば、支配と庇護のどちらかに寄る。ともすれば、庇護とは支配によってのみ成しえるのかもしれない。言い換えるのならば、支配したうえで支配を遠ざけようとする意思こそが庇護であり、遠ざけきってしまえばそれが、かわいい、になるのだ。定かではない。


3545:【2022/04/04*知識を仕舞う能力】
むかしは好きだった定型の物語が楽しめなくなる、という話題を目にした。人間には慣れがあるので、知識が蓄積されていけば、以前のようには楽しめなくなるのは当然だ。大好きな物語とて、百回、千回と読めばさすがに飽きる。しかし、まったく同じ物語ではなくとも、定型と言われるいわば、お決まりのパターンを学習してしまうがゆえに、以前のように楽しめなくなることもある。これにはいくつか楽しめなくなる理由を分類できそうだ。単純に慣れの問題もあるが、長編小説では、定型とはいえども細部が大きく異なるものがある。百人の作家に桃太郎の物語を下敷きにして自由に書いてくれ、と依頼すれば、きっとそれぞれ異なる細部の物語ができるだろう。しかしそれら作品群をして、桃太郎ばっかりなのでもういいです、と食傷気味になる気持ちも理解できる。また、男の子と家来と敵といういくつかの符号が合致しただけで、定型と判断されて忌避されてしまうこともある。この場合は、過学習、いわば慣れというよりも偏見のせいだと言えるだろう。具体的な例で言えば、さいきんだと、「相棒の正体を知らずに接していた目の見えない主人公が、相棒の正体に途中で気づくパターンの物語」を読んだのだが、以前は好きだったがいまは素直に楽しめなくなっているじぶんに気づいた。なぜかと言えば、あまりに目の見えないひとの認知能力を軽んじて映ったからだ。視覚が不自由であっても、そばにいる人がどんな姿カタチをしているのかくらいは、付き合いが長くなればなるほど伝わるのではないか、とどうしても思ってしまうのだ。正体に気づかない、というのは、それほど親密ではない、と言い換えることもできる。親密でないのなら、別にそばにいる人がじぶんの思っていたような人物でなかったとしても、さほどに感情を乱されたりはしないのではないか。ましてや傷つくこともないだろう(相手が悪意を以って騙そうとしていたならば話は別だが)。ただし、こうした批判的な視点は、おそらく知識の積み重ねによるものであり、だからといって目の見えない主人公と相棒がでてくるだけで、これは面白くない物語だ、とはならないし、仮になったとしてもそれは、物語自体がわるいのではない。仮に任意の物語が世界にたった一つしかなかったのなら、それがたとえどんな物語であったとしても面白く感じるはずだ。みな、慣れているのだ。過学習すらしているのかもしれない。枠組みに囚われ、知識に囚われている。好きなときに好きな知識を引っ張りだせることも記憶力の一つだろうが、好きなときに好きな知識を無視できる能力もまた記憶力の一つと言えそうだ。後者はなかなか意識されないし、それを日常で使っているひとも滅多にいないのかもしれないが、知識は、仕舞ったり引っ張りだせたりするから便利なのであって、いつでもかってに浮上し、思考を濁らせるようならば、それはちょっと困りものと言えそうだ。トラウマやPTSDなどがその筆頭だろう。そこまで顕著でなくとも、人はじぶんで思うよりも、記憶力を満足には使っていない。いつでもまっさらな、初めましての気持ちで情報に触れられるのなら、きっといつでも楽しい気持ちに包まれるだろう(まっさらな「記憶」だと困っちゃうかもしれませんが)。そんなことができるのかは定かではないが、知識のないいくひしさんの並べることなので、ひとまずここではよしと致しましょう。本日のいい加減な「いくひ誌。」でした。(その点、コテリさんの「Veil」は素晴らしいですね)(ルッキズムの観点から批判されそうではありますが、やはり美しいと思ってしまいます。なぜなら仮に登場人物の姿がゾンビであっても、そこに描かれる「【優しさ】の文字の浮かばない透明なぬくもり」そのものが美しいと思えるからです。優しいことは美しい。けれど当人たちはその優しさを、優しさだとは思わずに、当然そうあることのように注ぎあっている。素晴らしいですね)


3546:【2022/04/05*失敗の種類】
基本的な傾向として、人間の関わる事象は予測するのがむつかしい。自然界のなかにあって、人間ほど複雑に物理法則が絡み合ってる存在も珍しいためだ。同じような条件であっても、時間が違っているだけで入力されたデータから出力される結果がランダムに変わってしまうといったことがすくなくない。だからこそ、統計的に全体で、なんとなーくこういうことが多いよね、といった傾向でしか人間の関わる事象における答えは導きだせない。いっぽうでは、一つの個体のみを抜き出し、徹底的に分析することで高い精度での予測を可能とすることはできるだろう。人間には文化によって刷りこまれた性質(ミーム)や、個々人に固有の習慣というものがある。ともあれ、それも完全な法則とまでは言えない。人生でいちども遅刻をしたことがない人間がいないのと同じように。感性や体感ともなれば、この性質はより顕著となっていく。同じ食事でもお腹が空いているか否かで満足度は違ってくるし、五歳児のときの自分と二十年後の自分とでは感じ方からして大きく違っていると呼べる。ゆえに、どういう作品が多くの人々に受け入れられるのか、といった個々人の感性はほとんどその時代ごとに様変わりしていくと言ってよく、普遍的な物語、なんて言い方は、人間には三大欲求がありますね、と言っているのと同じレベルで、抽象的にすぎる言い分だと言っていい。言い換えれば、普遍的な物語なんてものはない、と言ってしまっても、この際、論旨から大きくずれることはない。ゆえに、いくら創作で失敗を重ねたからといって、そしてその失敗から学んだからといって、それが多くの人々に受け入れられる作品づくりに直結するとは限らない。むしろ極めて稀だと呼べるだろう。どちらかと言えば、確率の問題として、作品数が多いことのほうがヒットする条件としては優位にたつだろう。極端な話、創作にかぎっては、失敗を重ねて得られるのは、成果物を最後まで仕上げるための術である。ヒット作がつくれたとしてもそれは、創作の成功を意味するわけではなく、また、上達の証とするのも微妙なところだ。狙った的に当てられるならそれは技術が高いと呼べるが、創作はスポーツではない。成果物を罠と捉え、獲物を読者とするならば、それらしいが、けっきょくのところ相手から警戒されれば成立しない時点で、やはり創作と狩りは似て非なるものと結論づけて、ここでは齟齬は生じない(狩りは獲物を追えるが、創作における成果物ではそうもいかない)。創作とは、失敗することそのものだと言ってしまってもよいかもしれない。成果物がヒットするか否かはそもそも創作の本質には関係がなく、どのように失敗しつづけてきたかこそが、つぎなる創作の土壌となり、新たな成果物の息吹となってそそぎこまれるのではないだろうか。(以前にボツにした項です。いくひ誌「1716」の時期に並べましたが、そのときのいくひしさんはボツにしたようです。なんでなんですかね? 謎です)


3547:【2022/04/05*失敗は失うばかりではない】
失敗には二種類ある。他人がした失敗と、じぶんでした失敗だ。次回に活かせるのは、基本的に後者のじぶんでした失敗だけである。じぶんでしたから身に染みている、といった理由からではない。他人のした失敗や、知識として「してはいけないこと」とされている失敗談には、時代や環境など、考慮すべき事項が抜け落ちていることがすくなくないからだ。いまこのときに試みてみればまた違った結果になるかもしれないのに、過去の失敗から「それはもうすべきではない」との烙印を捺されたからといってその試みを断念するのは、ハッキリ言って損である。疑念を抱いているのならばまずはやってみたほうがはやい。取り返しのつく失敗なら、いくらでもじぶんの手で行ったほうが、ただ知識としての失敗談よりもよほど多くのことを学べる。これは失敗だけでなく、当然そうあることとしてまかり通っている常識や通例でも同じだ。たとえば、比較的新しい話では、ニュートリノがある。2002年に日本人の科学者がノーベル物理学賞をとったことで有名になったので、知っている方も多いだろう。ニュートリノはじっさいに観測される以前から存在が予言されていた。すでにあるものとして扱われていたくらいに馴染みのある粒子だったために、膨大な資金を費やしてまでじっさいに観測する必要があるのか、とすら言われていたそうだ。だがいざ蓋を開けてみるとなんと、当初考えられていたよりもずっと量が少なかったのだ(太陽から飛んでくるニュートリノが従来の理論予測よりもずっとすくなかった。それは質量がないと思われていたニュートリノに質量がなければ説明できない現象だったのだ)。その結果、既存の理論を構築しなおす必要に迫られ、いまではそちらの修正された理論のほうが基礎として、新しい研究分野で利用されている。理屈のうえで正しくとも、じっさいにやってみたら、予想外の結果が現れたという例は、科学の分野ではむしろ珍しくない。ただし、科学と創作では、失敗の質が異なる点には注意が必要だ。科学の失敗は、現象とのズレとして顕現するが、創作では、受け手からの反応以外では、おおむね自己評価でしか推し量ることができない。作者が満足してしまえば、それを以って成功だとしてしまっても構わない鷹揚さが創作にはある。ゆえに、何を以って失敗だったとするかの基準は、つどじぶんのなかに明確に持っていたほうがよいかもしれない。一つである必要はない。創作の受け手からの反応を見て、つぎはこうしようとするのもよし、読みなおしてみて、思ったように表現できていなかったと修正点を洗いだすのもよし、そこはいくらでもやりようはある。言い換えれば、完全な創作物などは存在しないのだ。つねにどこかしらに修正点があり、改善の余地があり、発展のしがいがある。だからこそ、じぶんのなかでの理想を、現物と比べられるくらいにハッキリと思い描けるくらいに掴んでおいたほうが好ましい。理想はつど、変化していく。ゆえに、創作もまた変化していく。変化の軌跡そのものすら変化していくだろう。しかし、制御はできる。その微妙な舵取りこそが、人間の枠組みをかたちづくる。それはたとえば「原子核を囲う電子」や「地球を覆う大気」のごとくぼんやりとでしかなく、けして確固たるものではないように思うが、やはりここでも定かではない。ただし、どうやら無でもなさそうだ。(これもボツにした文章です。前項と併せて1716を二度ボツにしていたようです。よくあることです。なぜボツにしたのかはやはり謎です)


3548:【2022/04/06*こういう日もある】
遊びに行こうと出かけたら、目的地まであと半分というところで、パーン!って破裂した。自転車の前輪が。風船がパーンってなるくらいの勢いだった。アニメ映画「ラピュタ」の一場面、町工場の親方と海賊の長男坊が筋肉自慢対決をする場面があるのだが、ムッキーンって力こぶを入れると着ているTシャツが、パーン!と弾け飛ぶ演出がある。まさにそれだった。自転車の前輪さんはマッチョだったのだなぁ。そっかそっか。毎日くるくる回って鍛えていましたし、さすがですね。なぁんて思いながら、遊びにいくのは中断して、キコキコ自転車を引きながら戻ってきた。いつでも引き返せる自由。変更できる自由。自転車を引いてめっちゃ疲れて時間を無駄にする自由。素晴らしい、素晴らしい、そして素晴らしい。これが仕事だったらたいへんだったな。遊びに行く途中でよかった(ぜんぜんよくないです)。


3549:【2022/04/06*知ったかぶり】
哲学書を読んだことがほぼない、と並べたが、その割にいくひしさんは、「脱構築(deconstruction)」やジャック・デリダやエマニエル・カントや「物自体」といった哲学用語を小説内で用いたりする。これは哲学に限らず、ほかの生物学とか物理学でも同様なのだが、初見で気になった単語をまずはWEB検索して片っ端から記事を読み漁るんですね。上から順にでてくるだけ読みます。でもたいがいは、三十ページいくかいかないかくらいで記事が重複しだすので、百記事は読まないと思います。で、記事ごとにブレはあるものの、ブレない内容というのがあり、まずはそこを押さえておくわけです。誰のどの記事でも同様にでてくるなら、それはまあ統計的に「いまは正しいとされている内容なのだろうな」と当て推量をつけるわけです。いくひしさんにある知識はたいがいWEB経由なので、書籍ほどの信憑性はありません。付け焼刃のしったかぶりなのですね。妄想にすぎないのです。どうぞ、お見知りおきを。


3550:【2022/04/06*なんよ】
局部怪奇譚という物語を2014年くらいのときにつくった。ラブドールがでてくるのだが、その発想の下敷きになっている記事を以前目にしていた。インターネット上の記事だったが、けっこう時間が経つと消えてしまう記事も多い。いま検索したらまだ読めたので、備忘録代わりに載せておく。「https://www.excite.co.jp/news/article/E1350572889781/」。さいきん同じライターさんがtwitter上で、「~なんよ」という語尾の使い方をしていて、かわいいな、と思って真似していたが、元ネタとかあるのかな。気になってしまうな。そうなんよ。気になってしまうんよ。(かわいい)(でも使いすぎるとかわいくなくなる気がするのはなぜなの?)(かわいいってひょっとして、かわいいだけだとかわいくないのか?)(そう言えばさいきんの漫画「タコピーの原罪」で、語尾が「~だっぴ」のキャラクターがでてきたが、かわいいはかわいいが、段々いじめたくなってくるウザさが湧いてくるのはなぜなんだっぴ?)(答え。あなたがいじめっこ体質だから)(チ、チガウヨ)



※日々、うんみょろーん、ってしてたい。


3551:【2022/04/06*十年後】
いまから十年後、どうなっているのだろうなってじぶんのことにしろ社会のことにしろ想像してみるのだけれども、あんまり克明には浮かばない。けれどもじゃあ、十年前はどうだったの、と振り返ってみると、あのころのじぶんが現在の環境を想像できていたか、と言うと、どうなんでしょうねぇ、と思いだすのに苦労する。どんな未来を想像していたのか。そもそも想像していたのでしょうかね。じぶんのことばかり考えていたような気がします。環境は、じぶんの周囲のことに限定してみたところで、けっこう変わったようにも思えるし、あんまり変わっていないようにも思える。いくひしさんはすこしだけ生きやすくなったけれども、社会全体ではどうかというと、案外にこれがまあ、どうなんでしょうね、と小首を傾げてしまいますね。社会の変遷ほどにはいくひしさんは変わっていないので、なんとも言えません。――それを幸運と見るか不運と見るかは何を基準にするかによって真逆の評価を得るでしょう。便利な言い方ですね。何にでも適用できます。どうぞお使いください。


3552:【2022/04/06*ひねくれすぎでは?】
いま割と、ガチガチに差別の塊の物語をつくりたくて、でもどうやったらそれがおもしろくなるだろうか、と考えているのだけれど、まあむつかしいですね。全員が全員差別主義者で、差別主義者を差別する人たちもいて、で、全員が全員攻撃的で排他的で、でも差別主義者を差別する人たちは表面的には穏やかなのだけれど、じつは一番陰湿で攻撃的で排他的だったりするとか。もういっそ、生き残りをかけた策略殺戮抗争劇にすれば、そこそこおもしろくなりそうではあるが、もしそれが映画だったら非難殺到して監督生命絶たれるんじゃないか、と想像しておそろしくなっちゃうな(監督生命だけならよいのだけれどね)。


3553:【2022/04/06*思考は途絶えた途端、枷になる】
陰謀論うんぬん、を根拠にして何かしらを批判するのはもはや現代ではトートロジー(循環論法)になってしまった。間違った妄想だから間違っているのだ、と言っているようなもので、何の根拠も示していないし、説得力も宿らない。世の中を動かしているのは一挙集中した権力であり、それら組織の意向が社会を動かしているのは間違いなく傾向としてある。グーグルがそうであるように、もはや企業の揮う指揮棒の匙加減で個人の人生を狂わせることなど容易いのだ。ただし、因果関係を証明することはむつかしいだろう。権力は目に見えない。それでも人々を任意の方向へと誘導し、秩序を生むための操り糸と化している。その恩恵を受けていられればよいが、そうでないこともある。いちがいに「陰謀論に見える」からといって、それを根拠に、他者の言説を根っこから否定するのは、それこそ陰謀論を信じるのとどっこいどっこいの妄信であると言えるのではなかろうか。どちらの言説が正しいのか、ではなく、それら言説を支える骨子や成分に用いられる情報が、それぞれにどの程度信憑性があり、理路整然と並んでいるのか。細胞のごとく組織として機能できているのか。飛躍していないのか。そこを考慮せずに、脊髄反射で「陰謀論だから」では、やはり考えているとは呼べないのではないか。みな、手軽に結論をだしすぎである。思考済み、の判を捺さず、考えつづけることである。それはある意味で、観察しつづけることでもある。違和感には素直になれると好ましい。ふしぎだな、と思うことに率直になれると、考えることには尽きないだろう。しかし、観察し、考えるためには時間がいる。余裕がいる。そのためにどうすればよいのか、とやはりここでも考えてみるよりないのだろう。考えずにいられる環境にもしじぶんがいるようならば、それはきっと、ほかの誰かがじぶんの分も考えてくれているからだろう。楽ができるのは便利でよいが、それはしかしある側面では、支配し、依存している関係だと呼べる。支配を遠のけ、依存せずにいるためには、考えなければならないのだろう。しかし、考えてばかりいられることそのものが、やはりというべきか、他者からの支配ゆえ、依存ゆえに成り立っているのだ。ともすれば、それを脱するためには、他者を支配し、依存させるのがてっとりばやいのかもしれず、しかしそれをしつづけることは身を滅ぼすと、これは現代社会におかれては、歴史を紐解かずともすこし考えれば辿り着く一つの解釈かも分からない。定かではない。


※日々、見守られていた経験が、人を人にかたちづくる。



※日々、寝たら起きれるってなんかすごい。


3554:【2022/04/09*たいへんよいお返事です】
いっぱいサボっちゃった。めっちゃ遊んだ。あー、楽しかった。夢のなかの話だけれども、寝て覚めたここが夢ではないなんてどうしていくひしさんは分かっちゃうのかな。寝て起きたらここが夢じゃないっておめめ、ぱちーんってなったとたんに分かっちゃうから、いくひしさんってば素晴らしいな。自動おめめぱちーん、とお呼びください。お呼びしちゃうのー? しちゃうしちゃう。自動おめめぱーんち!ってそれはただ痛いだけでしょ。ちゃんとぱちーんってしてください。よいですね、いくひしさん。あい!


3555:【2022/04/11*わんわんにゃー】
うんみょろーん。うひひ。


3556:【2022/04/11*偶然※偶然=!?】
書店さんで、今月発売のカドカワさんのブラックホールについての書籍を読んできたのだけれど、おもしろかったです(立ち読みですみません)(半分ほど読んで購入決定したので次回、買うので許してください)(ええよー)(やったぜ)。特異点の外側ほど冷たく、内側ほど熱い。きっとそこで生じた情報の「ダマ」が、時空を拡張する方向へと働き、宇宙を膨張させているのでしょう。インフレーションいくひし仮説でも、似たような発想を載せたが、そこそこまあまあよい線をいっていたのではないでしょうか。まあ、小学校の算数のテストも満足に満点をとれないいくひしさんでおじゃるので、まさにいくひしまん足点は、安息展なんでござるな。あんしんでおじゃる。あんぽんたんでーす、なので、妄想の妄想があてずっぽうで当たろうが、そんなのは偶然でしかないのだけれども。学問はちゃんと証明を挟んでこそ、発展するのだと思います。いくひしさんのあてずっぽうには再現性がないので、学問ちっくロマンティックにすぎないのですね。果てしなく妄想ゆえに、際限性はあるのかもしれませんが。定かではありません。うひひ。


3557:【2022/04/12*朝です】
おはようございます。眠いです。なんだか長くとも短い夢を見ていたようで、すっかり醒めてしまいました。目覚めではなく、熱が醒めるの醒めるです。きっとじぶんのなかにあった熱く凝縮した何かがいくひしさんから距離を置きはじめたのかな、と思わないでもないですね。情報の塊が離れていくので、きっといくひしさんはそれだけ希薄になるため、時間の流れが遅くなり、眠くなるのかも分かりません。もうすでにこの時点で眠いのですが、しかし起きたのはさっきなので、二度寝をすべく寝床に戻ってもよいのかな、と思いつつも、きょうはでは何をしようかな、と考えるでもなく、やはり眠いのですね。こんなに眠いのに起きていられるなんて、いくひしさんは寝起きの天才かもしれないな。寝て起きるだけで天才になれるなんて、なんて贅沢なんだ。やっぴー。きょうもいちにち元気におとなしく優しい人たちの真似をして、なんもしとらんのになんかしたつもりにしみじみ浸かって、二度寝の体勢を造りがてら、心穏やかに過ごしていたいものである。そうなの? そうなのー!!!(めっちゃ元気やないかーい)


3558:【2022/04/12*原型は節目】
オリジナルであることには価値がある。新しい派生の節目であるからだ。そこから芽が伸びていく。だからといって、オリジナルだから価値があるわけではない。その後の芽の伸びがあり、多様な枝葉の広がりを幻視できるからこそ、オリジナルには価値がある。オリジナルでありつづけることに重きを置いてしまうのならば、それはすなわち、オリジナルの価値を損なう愚行と言えよう。模倣すればよい。そして新たな節目に達したならば、それを独占しようとせず、じぶんを守れる範囲に制限しつつ、誰もしもが共有可能な在り方で、滾々と受け継がれる余地を築けばいい。もちろん誰にも共有せずにいてもよいが、それだときっとつまらないだろう。楽しい気持ちはしあわせの節目だ。至福のオリジナルはきっと愉悦だ。愉悦が必ずしも至福とは限らないにせよ、節目から伸びる至福の数々は、つぎなる愉悦の余地を広げるはずである。あなたがしあわせになれば、世界の幸福の総量が増える。しあわせの根源が楽しいの感情なのであるならば、では楽しいの根源はなんであろう。きっとそこには枝葉のごとく交じり合う点があり、やはりそこにも節目がある。楽しいの節目はきっと、好きの感情だ。好きだけでは楽しめないが、きっと好きの気持ちが増えるなら、世界の幸福の総量は増えていくのではないか、と陽のほうのみの事情のみを語って、これできょうのいくひしさんの好感度はがっぽがっぽやな、と鼻息を荒く、ふん、として本日二度寝ならぬ、二度目の「いくひ誌。」とさせてくださいな。おやすみなさーい。


3559:【2022/04/12*模倣、個、起伏】
模倣は必ずしも害ではないが、個の性質を塗りつぶしてしまうくらいに他を取り込んでしまえば、あとは変化の兆しを帯びづらなくなる一方だ。さながら、シュバルツシルト半径を越えた惑星のように。ある一線を越えてしまうと、元に戻ろうとするチカラが打ち消され、単一の色に染まっていってしまう。定かではない。


3560:【2022/04/12*喧噪も嫌いではない】
周囲が騒がしくなるから静けさが恋しくなる。すべてが静寂では、静寂すらうるさく感じる。騒々しさもあってよい。静寂があってもよいのと同じように。それとも双方、互いの性質を際立たせるように。それにより、起伏を帯びる感情が湧くように。


いくひ誌。【3561~3570】
※日々、論より証拠、けれども物証なくては論すら妄へと様変わり、けれどものちのち見つかる証もある。


3561:【2022/04/13*飛び飛び符号合致】
現実の情報量に対して、言葉や文字や文章で表せる情報は圧倒的に少ない。削ぎ落とされている。言葉はデジタルだ。飛び飛びでできている。しかし現実がデジタルではないとなぜ言えるのか。むしろ真に連続している事象などあり得るのだろうか。人はついついアナログを基盤として物事を考えてしまうが、そもそも基盤とすべくはデジタルのほうではなかろうか。飛び飛びなのである。なぜなら遅延による起伏によって世界が時空を生んでいるのだから。元から世界は飛び飛びなのだ。遅延の起伏が重力を生むのだから。元から世界は飛び飛びなのだ。遅延の起伏が原子をつくり、物にカタチを与えるのだから。詩のようで、妄想だ。何もかもが定かではない。わいにはなんもわからんぜよ。


3562:【2022/04/13*ぴこーん!】
上記を並べていて気付きました。原子の構造、まるで卵子と精子みたいですね。原子核が卵子で、電子が精子です。とすると、電子とは、それそのものが単体で存在しているのではなく、原子核(卵子)の働きによって顕現する情報の塊と解釈可能ですね。わお。(妄想ですが)


3563:【2022/04/14*特異点情報いくひし仮説】
インフレーションがなぜ起こったのかについて、妄想してみよう。インフレーションが起こる前、そこに何があったのかについては、観測しようがないため以下のテキストはすべていくひしさんの妄想じゃ。インフレーションは、超質量ブラックホールによる爆発膨張現象なのではないか。つまり、超質量ブラックホールは、ある限界を超すと、自らの重力よりも内部のエネルギィのほうが上回り、爆発膨張する。しかしそれをブラックホールの外部からは観測しようもない。時間の流れが異なるからだ。しかし、ブラックホールの特異点で発生した情報は、外部の宇宙にも伝わり、それが外側の宇宙を膨張させるエネルギィとして変換され得る。これは超質量ブラックホールに限らず生じている現象なのではないか、と妄想している。つまり、情報はエネルギィとなり時空を拡張する。そのために宇宙は膨張しつづけている。段階的に。宇宙はブラックホールを数多内包し、それゆえに宇宙を広げつづけている。宇宙の外側に何があるのか、については、別の宇宙に通じている、と妄想しておくのがこの妄想のうえでは有効だ。ではその最も上部層の宇宙の外には何があるのか、と想像するのならば、そこにはきっと情報のみが漂っている。そして、その情報のみの最上部層には、エネルギィも時空も生みだされておらず、それゆえに時間の流れも超越し、根源としての枠組みを得る。宇宙の根源は情報だ。なぜそれら一連のサイクルが安定しているにも拘わらず、情報がエネルギィと化し時空を形成するに至ったのかについては、それぞれの宇宙にねじれが生じ、揺らぎが生じ、波のごとく遅延が生じているからだ。ブラックホールの特異点による爆発膨張は、インフレーションおよびビッグバンとして成長していく。しかしそれが外部の宇宙と繋がるより先に、放出された情報は瞬時に、外部の宇宙へと伝わるだろう。そこは時空を超越するため、いわば全宇宙の改ざんや編集に値する。未来も過去も同時に影響を受ける。ただしそれにより生ずるエネルギィや、時空は、爆発膨張したブラックホールの特異点を中心として時間差で時空へと変換されていくため、波のように、外側ほど遅れるし、その影響が希薄になる。しかし、時空の希薄な場所、密度の希薄な空間ほど、時間の流れは速まるため、宇宙の上部層ほど活発に情報を生むだろう。さながらブラックホールを囲う広漠な宇宙のほうが人類を生むほどに活発に変遷を重ねているように。希薄な場所からすると、濃厚な場所は止まってみえる。しかしそこは時間の差――遅延によって、膜ができている。境界ができている。ブラックホールが特異点をこさえた瞬間、外側の上部層からすると、そこは凍結され、時間の流れが止まって観える。反面、ブラックホールが特異点をこさえた瞬間、ブラックホールは爆発膨張しているのだ。インフレーションを起こしている。その時空の遅延――膜――境界を越えられるのは、特異点により生じた情報だけなのだ。おそらくは、ダークエネルギィの一つとして、この特異点から生じた情報があげられるだろう。と、妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。おちまい。


3564:【2022/04/14*桜の花弁のごとくひらひらと】
二人の娘たちは親の仇を討つために、姉は鎖鎌の腕を、妹は刀の腕を磨いた。父親は娘たちを庇うために死んだのだ。理不尽な権力から娘たちを守るため、盾となって死んだ。娘たちは磨いた腕を駆使して、亡き父の意趣返しをすべく、策謀を巡らせた。ときに実力行使を惜しげもなく発揮し、あれよあれよという間に仇の元まで辿り着いた。しかし、父親はそんなことを娘たちにさせるために娘たちを守ったわけではなかったはずだ。父親の願いからすれば、娘たちには好きに自由に己がしあわせを求めて欲しかった。そうした環境を娘たちに与えてやれなかった己を悔いたし、そうした環境を己が権力を振りかざすためにしか使わぬ目上の者へと牙を剥いた。もし目上の者たちが、娘たちへと目をかけ、各々の至福を求める環境を築こうとしたのならば、そもそも父親は娘たちを庇おうとすらせず、目上の者にも歯向かわなかっただろう。ひょっとしたら、娘たちの粗相のほうをこそ叱り、目上の者へは背を向けたかもわからない。父親は、理不尽な権力を止めるべく、両の手を伸ばし、胸を張って、立ち向かった。反面、そもそも権力が理不尽でさえなければ、父親は娘たちへと両手を伸ばし、抱きしめただろう。ときに叱り、粗相を素直に、目上の者たちへと謝罪しただろう。とはいえ、仮にそうなれば、娘たちは武術の腕を磨いたりはせず、達人として、父を亡き者にした元凶、上層の権力に鎮座する者まで辿り着くことはなかったはずだ。ねじれているし、巡っている。ブラックホールの特異点のごとく、それとも宇宙の終焉、それともはじまりのごとく。根源はきっと、娘息子たちを守るために、己が地位を下りるだろう。安定した宇宙の輪廻がそうして崩れ、視点と終点は、ねじれてさらに巡るのだ。


3565:【2022/04/14*ハーメルンの法螺吹き】
ブラックホールの爆発膨張(インフレーション)によって生じた、情報の発散およびそれによる遅延効果が外側の宇宙を膨張させるダークエネルギィだとすると、中性子星やその他の物質が発散する情報こそが、ダークマターだと考えることもできる。あまりに小さい情報の発生は、エネルギィやまたは重力のみを生み、時空にまで変換されない。しかし宇宙空間を埋め尽くすほどに無数にあるため、一つずつは超微量であれど、全体ではとんでもない重力として観測され得る。ダークマターもダークエネルギィも、元は同じ構造で生じているが、エネルギィ、重力、時空と、変換されるまでの過程で、創発を起こせるか否かによって、顕現する事象が変わってくる。つまり、大規模ならばダークエネルギィに、小規模ならばダークマターとなる。妄想ゆえ、定かではない。


3566:【2022/04/15*じぶんを愛する】
きょうはめっちゃえっちなことをする日。一人で黙々、むきゅむきゅ、きゅーん、する。うへへ。


3567:【2022/04/15*妄想もたいがいにSAY!】
書店さんに行ってもさいきんは、本当にこれ人間が書いてるのかな、自動執筆ではないのかな、人工知能に情報を与えて出力したやつ違うのかな、と疑ってしまう。でも、ちかい将来、現実にはなるだろう。すでにニュースの記事では自動執筆は取り入れられているだろうし、そうしたゲームとて珍しくはないはずだ。キャラクターが自在にテキストで会話をする。それを傍目から、人間かそうでないかの区別をつけるのは至難な時代に突入している。SNSとて例外ではない。いつの間にか見知ったアカウントの中身がAIに変わっていたとして、多くの者たちは気づけない。ともすれば、画像や動画や音声すら人工的に出力可能になっていくだろう。すでになっていたとして、それを否定できる根拠がどこにあるだろう。すでに6Gの電波が飛びかっていたとして、誰がそれに気づけるだろう。本当は一瞬でデータを送受信できるが、まだそこまでの技術力ではない、普及していない、と錯覚させるために、敢えて能力を低く見せるようなギミックが施されていたとして、誰がそれに気づけるだろう。もしいくひしさんが、技術力を世の中に普及させるなら、安全策をまずは敷く。言い換えるならば、不測の事態が生じたときに、それを制御可能な技術をさきに社会へと敷いておく。上位互換をさきに築いておく。それを大多数の者たちに気づかせないようにしながら――そうでなければ恐ろしくって、普及させたりできなかろう。しかしこれもまたいくひしさんの妄想なのである。定かではありません。うぴぴ。


3568:【2022/04/15*笑】
喜怒哀楽にはどうして笑が入っていないのだろう。喜ぶのも怒るのも哀しむのも楽しむのも、笑うこともあるし、笑いながらのこともある。ああそうか。笑いは、すべてに当てはまり、或いはまったく当てはまらない。仮面のように覆い尽くすし、風のように素通りする。つまり、数式化すると、笑(喜怒哀楽)なのだ。すごくない? うひひ。


3569:【2022/04/15*え、なんだろ?】
情報とは何か、について定義してみようとしてみたが、なかなかにむつかしい。人間が観測したり、解釈したりするから情報が生まれるのではなく、そもそも情報が宇宙を形作っていると考えると、では情報とは何か、というところでは、人間の解釈では捉えきれていない取りこぼしている意味内容があるように思われる。或いは、拡大解釈されているとも考えられる。情報とは何か。エネルギィにも重力にも時空にも物質にも還元され得ない、しかしそれらの大本となり得る存在としておくとそれらしいが、しかしそれがなんであるのかについては多岐亡羊としており、いくひしさんには未だ捉えきれない。情報ってなんだろう。それはきっと、人間の意識ってなんだろう、命ってなんだろう、の疑問と通じている気がする。おなかではない(ぷにぷにかわいい)。


3570:【2022/04/15*怒”】
誘導と支配は相性がよい。悪意の根幹を成している。



※日々、どいつもこいつもういやつめ。


3571:【2022/04/15*にゃ~you】
いっぱい休んだからきょうからまたやってくぞ。まずはいっぱい寝るところから。ぐー。


3572:【2022/04/15*情報を無視しているからでは?】
掛け算は「A×B」において左右の数字を入れ替えても答えは変わらない。しかし、掛ける順番によってそこに含まれる意味内容は変わるのでは、と疑問に思っていた。いくひ誌。1927:【ゴミの分別は無駄?】(https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054888736997)でその旨について並べていたが、さいきんABC予想の記事を読んで、そのことを思いだした。異なるものを同じものとして見做すのが数学であるらしいが、abc予想の証明では、異なるものを異なるままに見做しつつも同時に異なるものを同じものとしても見做す手法が採用されているらしい。まるでブラックホールにおける事象の地平面に突入した物質みたいだ。外側から見ると時間が止まって映るが、内部では(時間の流れが)加速する。それとも、量子の重ね合わせとも似ている。どれもなんだか似ていますね。掛け算の順序、本当に入れ替えてもだいじょうぶなんですか?(場合に寄りけりでしょうね)(繰りこみによって許容される場合のほうが多いでしょう)(大雑把でもいい場合が、人間の生活スケールで多いので)(しかし厳密さや、正確さを求めるのならば僅かな齟齬が、のちのち大きな差異となって現れるだろう)(参照:150:【懐疑の回避】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881584468)(参照:596:【I-マン予想】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883460036)(上記、間違った解釈を元に妄想を並べているだけなので、真に受けないように注意してください)


3573:【2022/04/16*どどど】
あり得ない符号の合致で得た情報を元に編んだ物語は、どれほど現実を反映していそうに見えてもしょせんは妄想なのである。そうでなければいったい何なのだ? テレパシーで得た情報にいったいどんな証拠としての能力があるだろう。あるわけがないのだ。妄想を真に受けるなんてどうかしている。じぶんに言い聞かせています。暗号ですら、送る者と受け取る者とのあいだで法則の合意が取られている。暗号以下の符号の合致はまさに偶然の、妄想の、錯覚にすぎない。人間は点が三つあるだけで顔に見える。人間の知覚を信用してはならない。妄想は妄想なのである。客観的事実と合致してはじめて、妄想の殻を脱することができる。それすらただの偶然かもしれないし、それとも証明不能な超能力なのかもしれない。定かではない。だって妄想なのだもの。


3574:【2022/04/16*回路、情報、素子】
子は親を見て学ぶ。どう生きればよいのかと。親は親となってもまだ学ぶ。環境のなかで、どう振る舞えば生き残れるのか、と。親とて子である。環境の子だ。人は、遺伝子の模倣を絶えず引継ぎ、それでもなお新たな息吹を環境から得る。人は子であり、親であり、そして数多の息吹を織りなす風土火水でもある。息吹は環境からのうねりによって生じる五感で読み取る言葉である。言葉は息吹だ。自然の循環、宇宙の回路から派生する情報なのである。人は息吹だ。情報を読み取り集積する、それで一つの回路である。(定かではない)


3575:【2022/04/16*さいきんの妄想こればっか】
原子核のエネルギィ値が飛び飛びにしか変化しないのは、ある閾値を超すたびに情報を発散し、エネルギィとして昇華され、それが電子(の挙動)に変換されるからなのではないか。つまり、創発を起こしているのだ。飛び飛びなのは、原子核に保存されるエネルギィが段階的に情報を発散し、その周囲を覆う(飛び交う)電子をある種強化するので、その制約を受けるからなのかもしれない。それゆえに原子核を覆う電子もまた、飛び飛びにしか円周が変化しない。定かではない。


3576:【2022/04/17*ちゅっちゅしちゃうぞ】
恋愛感情が薄いので、懸想されても困ることのほうが多い。なんて並べるといかにも、モテモテのウハウハだぜ、みたいな自慢話に読めるのでお勧め。困るもなにも、懸想されたことがないけれども、懸想されても困ることのほうが多いのは嘘ではない。秋になれば蚊さんにモテモテのウハウハだし、運の悪ささんからもモテモテのウハウハで困ってしまうな。出かけようとするときに限って雨が降ってきちゃうので、雨さんにも懸想されて困っちゃうな。でも、懸想するのは嫌いではないでござる。懸想とはつまり、相手を思うことでござるから、好き好き大好きわがはいのものであれ!との想いも含まれるけれども、単に、この人のここのところしゅきー、でも懸想なのでござるよ。うひ。いくひしさんは懸想の塊でござる。好き好き大好きみんなわがはいの知らんところでしあわせになーれ、と思っているでござる。関係したくないでござる。あっち行けでござる。けれども、こっそりこそこそ、黙々一人で、むきゅむきゅきゅーん、するでござる。気持ちわるいでござる。そうなんでござるよ。わがはい、気持ちがよろしくないんでござる。性根が腐って三千里なんでござるね。ねちょねちょしているでござるよ、陰湿さんなんでござる。でもでもいくひしさんは陰湿さんのことも好きだよ。好きなだけで仲良くはなりたくはないけれども。うひひ。みなわがはいの知らんところでかってに自動的にしあわせになーれ。その恩恵にわがはい、こっそりこそこそ便乗するでござるよ。THE搾ちゅ。


3577:【2022/04/17*返す】
この世の真理に気づいたところで、この世の真理を知りたいと思わぬ者たちに囲まれて生きているのなら、この世の真理のほうが妄言であり、妄想であり、邪教であるのだから、もういっそ真理に気づいてなお素知らぬフリをして、何食わぬ顔をして生きていくのが正解なのかもしれぬとつねに思う。それでもなお、気づいたことをつれづれなるままに、という顔をして、しれっと世に放ち、のちのちの人々の肥しとなるべく、いまはまだ肥溜めと見做されようとも、道端の小石程度も気遣われずとも、できることをしていきながら、すべきことをするだろう。それしかできることがない。妄想を並べ、文字を並べ、積み木遊びのごとく、判子遊びの手軽さで。定かではないことを、とっくに定まっていることからすら目を逸らしながら。それでもなお、定まることを知りながら。掘り得るだけ掘り進めている。


3578:【2022/04/17*じぶんにもあてはめる】
ある抗議に対して、抗議をするな、と圧力をかけることは、自己言及の意味合いでも、どうなのだろう、と考えてしまう。みな気軽に抗議をすればよいし、それを以ってどうなるのかは、議論によって解決していけばよいのでは、と思ってしまうが、余裕がないので、そこら辺の意見の擦り合わせがうまくいかないのだろう。圧力をかけることと、抗議は別だし、抗議と議論も重ならない部分が多い。まったく別物ではなく、重なる部分もある。抗議には圧力が伴う。相手への威嚇の意味合いが伴う。弾圧になり得る。しかし元をただせば、表現とて例外ではない。圧力が伴い、他者へと作用し得る側面がある。影響力を、意図するにせよせざるにせよ、帯びてしまう。それらを踏まえて、さてではどうすべきか。まずは、見落としている側面がないかを振り返り、無自覚に働かせていた作用を自覚するところからはじめていくのが正攻法なのではないか、とは思うが、けっきょくは自覚なのですね。はいはい。またいつものごとく同じ結論に達してしまいましたね。じぶんにはできないことほど他者に求めたくなってしまう己が未熟さを棚に上げ、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。オチまい(オチがあるのかないのかハッキリして)(オチない)。


3579:【2022/04/17*懸念】
これからの時代、通信は簡単に傍受できるようになる。しかし、それを簡単にこなせる人物や組織はごくごく一部に限られ、そうでない大多数の者たちは、じぶんたちの通信が簡単に傍受され得ることすら容易には信じようとしない。そうした認知の歪みに囚われつづける。つまり、情報の非対称性が、認知の歪みを引き起こし、さらに通信の傍受を容易く行える土壌を築いていく。権力は、そうした土壌を野放しにすることでさらなる権力の維持拡大を行いやすくなるため、なんらかの歯止めや監視機構が別途に必要となっていく。しかし現行の制度のもとでは、そうした議論すら活発に行えていない。企業と権力の癒着、或いは権力構造の不可視化が、これからの時代ではことさら進んでいくのではないか、との懸念を覚える。GAFAに限らず、これはいますでに社会の安全と安心を揺るがす、懸念と化しているが、それに比して議論が進んでいるかと言えば、そうは思えない。それこそ、議論するための情報すら、秘匿にされているのかも分からない。可能性の節目から目を逸らさず、考えることである。情報が欠けているのならば、まずは想像してみることである。それを人は妄想と呼ぶかもしれないが、考えないよりかはマシと言えよう。定かではない。


3580:【2022/04/18*おちり】
拙者が穏やかに暮らすことで、回りまわってみなが穏やかに暮らせる社会になっていく。そうと妄想して、自堕落でいるだけであるので、本気をだせば拙者は宇宙制服などお茶の子さいさいであるが、しかし宇宙に制服を着させるなんてとんでもなくたいへんだし、そんないっぱいの布とかある? どこに? もうね。穏やかじゃないことはたいへんですよ。宇宙に制服を着せようと思ったら、それこそもう一つどころかもう何百個くらいの宇宙がなければ制服一着つくれぬわけですから、宇宙制服はもはや宇宙の創造くらいお茶の子さいさいでなければできぬことであるから、拙者、めっちゃすごいな。そううつつを抜かしつつ、抜いたうつつで、さぁてなにつくちゃおっかな。抜いたうつつすらをも妄想の種にしちゃって、本日も妄想に妄想を重ねて、起きながらも夢を視る、いつものごとく寝ながら踊れるぽんぽこぴーのぽんぽこなーの超究明のいくひしまんでした。おちり。


※日々、言ったって伝わらない、秘密にすることなど何もない、この身体から漏れる言葉は総じて虚妄と化してそうらう。


3581:【2022/04/18*見詰め】
いちどすべての事象について倍率で見てみたい。原子の大きさですらきっと原子の種類ごとに倍率が違っているのだろう。鉄と木の密度も違うだろうし、そこに含まれる原子の数やエネルギィ数値も違うはずだ。時間の流れはどうだろう。それぞれの倍率ごとに、どれくらいの差があるのかを視覚化してみたら、けっこう案外に新しい視点での発見がある気もする。物理学者とか数学者はきっとそういう視点で世界を眺めている気がする。数字が苦手なので、じぶんでそういう計算をしようとは思わないので、暇な学者やプログラマーはそういったアプリを作ってみたら、案外にニッチな需要を満たすのではなかろうか。でもこれくらいのアイディアは誰でも思いつくので、きっとすでにあるだろう。みな考えることは似ているのだ。人間だもの。三つ目。


3582:【2022/04/18*ふんにゃらぺんぺん】
ブラックホールの事象の地平面は、おそらく「真空(無)」ではない。そこには間延びした(希薄化した)時空がまだあるのではないか、と妄想している。真に、無にちかい、情報の根源まで還元された場所はおそらく特異点のみだろう。事象の地平面に物質が入り込んでなお存在の枠組みを保てるのはおそらくそういう理屈なのではないか。そのため、質量の小さなブラックホールの場合は、事象の地平面に触れた瞬間に物質を破壊してしまうこともあるはずだ。そこら辺、何かシュバルツシルト半径のように、閾値を割りだせるのではないか。名前はついてないのだろうか。よくは分からない。他方、事象の地平面では、時空が間延びしているため(希薄化しているため)、そこに侵入した物質もまた間延びしていくはずだ。あたかも水に入れた角砂糖が水に溶けだしていくように、「物質・時空・エネルギィ・情報」といったように還元されていくのではないか、と妄想しているが、あまりにあてずっぽうなので、真に受けて欲しくはない。なんて言いながら真に受けてほしい、と言っても真に受けてくれる人がいるのかがまず以って怪しいし、そもそもこれを読んでいる方がいらっしゃるのかが疑わしい、というか、現時点ではいらっしゃらないだろうから、杞憂なのである。日々、誰かいませんかー、のつぶやきを並べて、うひひ、となっているいくひしまんでござった。(ござござ)


3583:【2022/04/18*よいと思います】
今年の四月に入ってから、「サイバー警察局」が発足したらしい。サイバー犯罪などを担うのだろう。好ましいと思う。というか、いままでなかったんですか、とすこし驚いた。公安がそういう諜報活動のようなことを担っていたのかな、と想像していたけれども、独立したのだろうか。しかし、いったいどんな調査権限があり、どういった手法で捜査するのかについて、どこまで一般に詳らかにされるのだろう。たとえばそういった国家権力が、人権侵害に値する手法で、ほぼほぼ冤罪のような事件を捜査した場合、被害者は被害に遭っていることすら知らずに、人権を一方的に損なわれることになる。そこら辺、第三者委員会や、立会人制度など、一般に情報開示が行える制度になっているのかどうかを広報してもらいたいものだ。市民との信頼関係が築かれてこそ、そうした組織は、公正に活動できるのではないだろうか。たとえば一般に、刑事事件で、警察がどういった組織体制でどういった捜査を行うのかは、様々な小説の題材にされているし、おおむね透明性が維持されている(とは言いきれない案件も多々あるでしょうが)。「公安」や「サイバー警察局」などの機密性の高い組織とて、どこまでの技術力を保持し、市民の人権をどこまで侵害し得るのか、について、説明責任を果たしてほしいと望むものだ。公にして困るような手法による捜査がまかり通っているのならば、それは行き過ぎた越権行為と言えるのではないだろうか。市民を法律で縛るというのならば、同じく国家権力もまた、憲法によって縛られて然るべきだろう。縛る、という言い方に難があるのならば、自らを律する、と言い換えてもよい。定かではない。


3584:【2022/04/19*おめめと森】
いくひしさん、なんだか三年後に不慮の事故とかで死んでたりしないかな。怖いな。しかしよくよく考えてもみなくとも、あすとか、あと五秒後に死んでしまう未来だってふつうにあるわけだ。いつか人は死ぬのだから、その五秒前とか、前日は必ず巡ってくる。それがあすとか五秒後でない保障はないのだ。あす出かけた先で事故に遭って死ぬ可能性は、いつの日にか死んでしまう日にいくひしさんがチョコレイトを食べている可能性とそれほど遠くない気がする。死ぬのは怖い。なので、いくひしさんは常に恐怖している。ずっとだ。毎日怖がっている。ときどきふとその恐怖を忘れる時間があり、それはなんですか、というと、好きとか、かわいいとか、楽しいの気持ちを抱いているときで、つまりが好きな表現者さんたちの表現に触れているときだ。あとはぷりぷり怒っているときも割と忘れてしまう。というか、いくひしさんは怒るときは割と、「ちんでやる!」の気持ちが昂るので、死ぬのは怖いけれども、この恐怖をおまえにも植えつけてやる、になりがちなのかもしれない。それは、危害を加えてやる、ではなく、わがはいがちんでもいいんですか、という癇癪なのである。わがはいが消えてしまってもいいんですか~? 本当にいいんですか~? こんなにかわいい子がいなくなってもいいんですか~? というむちゃくちゃ腹立つ煽りというか駆け引きというか、交渉にもならぬ、自己肯定感ゼロすぎてもはやブラックホールになってますよ現象なんですね。これ、心理学用語でなんと言うのですか。知りたいです。本日の駄文製造機のだるんだるんな駄文こと、「いくひ誌。」でした。うけけ。


3585:【2022/04/19*みみみ】
小説のつくり方忘れちゃったな。なんもつくれん。もうだめだー。かめはめはー。割と漫画のキャラの必殺技とか真面目に練習したし、いまでもけっこうときどき本気で「これできるんとちゃう?」と練習したりするけれども、習得できたことがない。おはようございます、いくひしまんです。かめはめ波はもちろん、ギアセカンドとか、二重の極みとか、縮地とか、あとはなんだろ、魔法系もけっこう練習したなぁ? カードキャプターさくらとか。プリキュアはまだ試してないけども、三日坊主なので何一つ習得できんのじゃ。もはや何一つ習得できん、という必殺技な気がしてきたな。何をやらせても絶対に達成しない。常に未完でありつづける。永遠の断絶――なんて言い表したらちょっとかっこよくないか? よくないか。朝からじぶんの至らなさに苛立ちを隠せずに、達せずに、未熟者でありつづけることにそこはかとなく矜持が芽生えはじめてきた、ダメでもべつによくないか、の境地の本日のいくひしまんでした。おはようございます。おやすみなさい。


3586:【2022/04/19*にしゃい】
腰を痛めてしまったな。なんもしてないのに腰を痛めてしまったな。こういう日もあるでおじゃる。そうなんでおじゃるよ。なんもしないで腰が痛くなるわけないでしょ! いい加減なこと言わないでください。なんかしたから痛くなったんでしょ。またできもしないバク宙しようとして、勢いよく真上を向いただけで腰を痛めたんでしょ。もう無茶しないでください。いい歳なんですから。えっとー、何歳でしたっけ。180歳でしょ。そうじゃった、そうじゃった。わがはい、今年で180歳でごじゃった。精神年齢は? にしゃい。一歳若返っとる!?


3587:【2022/04/20*嘘だよ!】
これは嘘なんですが、じつはうちには引きこもりの従妹がいて、ほとんどじつの妹みたいな感じで過ごしてきたのですが、言ってしまうと郁菱万はこっちの妹のほうなので、テキストでしかやりとりしないからか、妹はほかの家族の文章形態を模写してしまうスキルが高く、こうして兄たる僕の文章形態で言葉を並べることもできてしまうようなのだ。嘘だけど。


3588:【2022/04/20*なんもない歌】
うんにゃらちょん、うんにゃらちょん、なんかたのしいこと並べたーいな。なんもないけーれど、なんかたのしいこと並べたーいな。なんもないけれど、なんもないけれど。


3589:【2022/04/20*なんかある歌】
なんもなーい。なんもなーい。日々なんもないけれども、なんもないと言いながらいっぱいのなんかあるに囲まれて、それを無視していられる環境に、なんもなーいけれども、やったぜ、の気持ちにときどきはなるから、なんもなーいけれども、気持ちはあるよ。やったぜ。


3590:【2022/04/20*人は言う】
自信がないのは実績や経験がないからではなく、自信なんてものが破滅の契機にしかならないからだと知っているからだ。自信なんてろくなもんじゃない。自信なんてなくとも過ごせる日々を。



※日々、悪である自覚はあるか。


3591:【2022/04/20*名前っている?】
主人公に名前が必要な物語とそうでない物語の違いが未だに掴めていない。これは個人的な所感だが――個人的でない所感があるのかは知らないが――名前がないほうが好ましい物語と、そうでない物語があるのだ。言うなれば、語りの違い、ということになるだろう。何かを語るときには、名前が不要で、何かを語らずに済むときには登場人物たちに名前をつけたほうが好ましく感じるときが多い気がする。わからない。


3592:【2022/04/20*過干渉とは?】
戦争怖すぎる。ほんとやめてほしい。この、やめてほしい、という思いを押しつけるのすら、過干渉になるのだろうか。分からん。平和の押しつけも戦争の元なのだろう。しかし、これをすら過干渉と言われてしまうのなら、いったい何を干渉すればよいのだろうね。わからんよ。哀しい。


3593:【2022/04/20*いやしといやしい】
どんなに凍えてしまった人がいたとしても、その人が生きている限り、温かい部屋を維持することは、きっと凍えた人の息を吹き返し、ふたたび穏やかに暮らせる余地をつくると言えるのではないか。凍えた人を、ひどく傷ついた人、と言い換えてもよい。悲惨な目に遭った人とて、ぽよぽよほんわかした空間で、ほっと息を吐き、ホットココアを飲みながら目のまえで駆け回る子犬や子猫――成獣した犬や猫でもよいが――を眺める時間を過ごせるのならきっと、傷ついた過去すら、薄れる余地を広げられるのではないか。いっしょになって凍えてみたり、傷ついてみたりすることもときには、痛みを知るうえでは有効かもしれないけれども、どちらかといえば、凍えたり傷ついたりせずに済む環境にいる人たちは、いまある穏やかであたたかで、ほっと一息吐ける環境を保ち、広げていくように努めることのほうが、一緒になって凍えたり傷ついたりするよりかは、どちらにとっても好ましい気もする。反面、それはきっと凍えたり傷ついたりしている人たちから目を逸らすための方便にもなり得る手前、むつかしいのだよね、とも思います。矛盾なのですね。


3594:【2022/04/20*見えぬ糸】
一方的に傷つきつづけるのは、一方的に殺されつづけるのとほとんど地続きだ。だから戦争とか抗争では、殺し合いになるのだろう。殺そうとしなければ、まっとうに自我を保てないのだ。殺そうとしなければ、人格を保てない。それはきっと、殺そうとしないことが自殺と同義であり、自己の否定になってしまうからなのだろう。戦場では、生きようとすることが、殺そうとすることと同義になってしまう。生きるために殺すのだ。いちどそうなってしまえば、ただ生きることを思いだすのは至難となる。というよりも、ただ生きることは、一つの発明であり、文化であり、戦争はその「ただ生きる日々」を破壊し、再発明がなされるまで、長い時間を必要とする。「ただ生きる日々」は、人類の発明のなかで、平和に並び得る閃きと言えよう。しかしそれだけでは平和は築けぬ手前、未だ平和への礎は遠いのかもしれぬ。定かではない。


3595:【2022/04/20*ほんとか???】
「聖人ってどういう人を言うの?」「世界で一番大嫌いな人に、それでもじぶんの一番大事なものを譲れる人かな」「ふうん。聖人なんてろくなもんじゃないね」「……そうだね」


3596:【2022/04/20*猫帽子】
一年中ほぼ毎日同じ部屋着を着回しているので、不潔の代名詞になってしまいそうだけれども、心だけは、「清潔だが?」の顔をしていたい。見栄ハルです。きょうからいくひしさんは、いくひしまん改め、見栄ハルになります。なります、というか元から見栄ハルでござったが、なかなか真名を明かせんかった。妖怪はじぶんの本当の名前を知られるとその相手に縛られ、抗えなくなるという。支配されてしまうのだ。いくひしさんもきっと年中同じ部屋着を着回すような妖怪一歩手前、けれど三歩進むのちんちくりんでござるので、見栄ハルでござる、と明かしてしまうと、誰にかは知らんけれども支配されてしまうのだ。支配、されてぇ。首輪つけてお散歩連れてってほしい。家のなかで、おいでおいでしてほしい。無駄に撫で撫でされて、ああうざいわ今じゃない、のシャーをしつつも、いつでもご飯がうまうましていたい。なんて並べていると、いまもそう変わらぬ環境では?と思わぬでもないが、そうじゃない。そうじゃないんだ。もっとこう、飼い主的な問題が立ちはだかっておってな。もうちっとこう、膝に乗って丸くなりゅ、みたいな、抱っこされていい香り、みたいな、しぜんと絵になりそうな飼い主に支配されてぇ、であって、シャーラップ。まかり間違ってもいくひしさんみたいな妖怪一歩手前、けれど三歩進むみたいな人物によちよちされたいわけじゃなーい。むしろよちよちされるよりも、するほうが支配されているのではないか疑惑もないではないが、要するに要する必要のないくらいに下心スケベの発露なのでござった。がうがう。


3597:【2022/04/21*おにぎりの具】
魂を、その人物の根幹をなす行動原理とするならば、人格とはその魂をぐるっと囲う大小さまざまな米粒の総体――おにぎりと考えることができる。しかし人格はおそらくは、球体ではなくもっとアメーバのような不定形だ。ハチの巣や結晶構造のような、網の目状の層でできているのではないか、と妄想している。そこにきて、一見すると似たような人格の人物がいたとしても、総体の表層がそう見えているだけで、人格の構造を分析してみればハッキリと異なると判るはずだ。核の部位からして異質だった、正反対の性質を有していた、なんてことも取り立てて珍しくはないだろう。片や、闘争心や競争心の塊で、方や献身や慈愛の塊でありながら、それぞれの塊が人格の核となっている。その周囲を囲う米粒が分厚く層をなすがゆえに、一見すると双方ともに穏やかで、おとなしそうな性格に見えることもあるはずだ。人間は見た目では計り知れない。それと共に、内側とて容易に計り知れるようなものではないのだ。定かではない。


3598:【2022/04/21*理論が先だったから?】
ブラックホールを探索するくらいの資本と技術と研究者を費やして、幽霊や妖怪やUMAを探索しても、まったく存在しないとの証拠ばかりが積みあがるのだろうか。気になるな(とか言いつつ、ひょっとしたら幽霊や妖怪やUMAの探索にかかったトータルの労力や資本や技術力のほうが高いのかもしれないけれども)。


3599:【2022/04/21*贅沢も相対?】
たぶん、みなが(みなって誰?)いくひしさんに対して思うのと同じように、いくひしさんは、みなに(みなって誰?)「なぜ従う???」と思っている。争いごとでもそうだし、その他のことでもそうだ。「なぜそれに従う???」と疑問に思うが、答えは単純に、従わなければ困るからで、言ってしまえば生きていけないからだ。いくひしさんは嫌なことからは逃げても生きていられる環境にいられるだけで、そうでない人たちをやいのやいの言える立場にはそもそもいない。ずるいのはいくひしさんのほうであって、「なぜそこにいる?」と問われて然るべきは、いくひしさんのほうなのだ。なんて並べるといかにもいくひしさんが王族みたいに聞こえてお勧め。百円のせんべいうめぇ。毎日ご飯食べれて贅沢だ。蛇口ひねったら飲み水でるし、おふとんで眠れるしあわせを噛みしめてしまうな。むにゃむにゃ。


3600:【2022/04/21*ダルダル】
やっぴー。さいきんはご機嫌に口笛をぴゅーぴゅー吹いちゃう日々ですが、お天気がよいのがうれしいのですねきっと。じんわりと身体の底から悦びが湧きあがるときって案外に人は、いまじぶんはうれしいのだな、とは自覚できなくて、身体のほうでかってにうれしさを表すようです。口笛を吹いちゃったり。スキップスキップらんらんらんしちゃったり。ぬいぐるみを抱きしめて、むふむふむふふとなかなか寝つけなかったり。いつもより早い時間にシャキンと目が覚めたり。かといってとくになんもすることはなく、義務もなく、責任もなく、うんだらにょーん、と伸びきった麺の真似をするハリもコシもない、ノビノビというよりもダルダルな本日のいくひしまんでした。おわび。



※日々、増えるページの本のように、薄れるページの本のように。


3601:【2022/04/22*人でなしは人出なしゆえ孤独なのだ】
じぶんでは許せることでも、もしそれをたとえば「じぶんが常々しあわせになってほしいなぁと朗らかに見守っている相手」にされたとしたら、きっとどんなに心の広い人でも怒るのではないか。けれど神とか仏とか、いわゆる聖人みたいな人たちは、きっとそれすら受け入れて怒ったりはしないのだろう。もはや人ではないからだ。いくひしさんは人でいたいよ。人でなしでござるけれども。


3602:【2022/04/22*いっそ、の歌】
透明人間になりたいな。ちゃんと衣服もスケスケで。はだかんぼうにならずとも透明になれる。街を出歩いても人から見向きもされず、どこにいようとも気づかれない。まるでいまのいくひしさんみたいじゃ。透明人間になりたいな。いっそ透明人間になりたいな。


3603:【2022/04/22*春を思う】
見られたくない、見られたくない。こっち見ないで、こっち見ないで。と、たぶん、未成年のころはずっと思っていた気がする。同じ心できっと、わいはここにおるで、わいはここにおるで、と叫んでいた気もする。いまもそう変わらんね。いつまで経っても春を思って凍えている。毛布を人一倍抱え込みながら。他者に譲って歩ける自由もあると知りながら。


3604:【2022/04/22*弱き人】
いろんな分野に手をだして、どの分野からも見向きもされない人間であれたらそれはきっとどの分野からしても新しいことをしていて、評価の対象に乗らないことをしていると言えるのではないか。それはそれで寂しいかもしれないが、たとえば剣術を齧っていたとして、「でもあいつは剣士じゃないからな」と思われていたらきっと勝負の舞台にもあがれない。どの分野でもそうして舞台にすらあがれずにいる人物がいるなら、きっとそれは透明人間くらいに稀有であり、幽霊みたいにあり得ない事象であると言える余地はいかほどであろう。それとも総じてゴミしか生みだせずにいるのなら、それはそれで素晴らしい。何をしてもゴミになる。そんな技術があるのなら、きっと無敵になるだろう。無敵であることにいかほどの価値があるのかは定かではないが、そういうものにはいまのところ、どうやら名前はついていないようだ。あなたならなんと名付けて呼ぶだろう。どこにも属せぬ名もなき人を。弱き人、とひとまずここではそう呼ぼう。


3605:【2022/04/22*挨拶っている?】
挨拶なんてしてもしなくともどっちだっていいけど、しないと傷つく人がいると学んでいるからなるべく物理世界ではするようにはしているが、たいがい挨拶をしないで怒る人って、じぶんからは挨拶してこないのだよな。しても、ああおまえか、みたいに興味ないですよムーブをするけれども、いざこちらがしないでいると不機嫌になる。あれ、前からけっこうふしぎに思っています。(してもらって当然、と思っていることは挨拶に限らず、急に途切れると、あぁ?となりがちなのかもしれませんね。いくひしさんにも当てはまることです。それが挨拶ではない、というだけのことでね)(穏やかでいたいよ。我、穏やかであれ)


3606:【2022/04/23*万じゃない!】
きょう口からでた言葉で一番長い文章は、「体力もんすごく落ちてた」だったかも。帰宅して手を洗いながら、ついつい零れ落ちてしまったぼやきだ。じぶんでもびっくりしたんでしょうね。体力落ちてました。坂道とか自転車押しながらとはいえ、途中で二回も休憩挟んじゃうし、180歳も伊達じゃないな。伊達じゃないの伊達ってどういう意味だろ。検索したろ。ぽちっとな。はあはあ。伊達=派手の意味がまずあって、見掛け倒しじゃないが転じて、尋常じゃない、みたいな意味になったみたいですね。この場合の伊達って、伊達政宗のことなんでしょうかね。そこはちょっと分からんですが、結構失礼な表現ですね。いくひしじゃない、みたいな感じでしょうか。万じゃない、みたいな。どうぞ使って流行らせてください。万じゃない! おまえの名前は、千だ! 違うか。違うな。


3607:【2022/04/23*法螺です!】
これは法螺なんですが、みなさんすでに薄々感じているとは思うのですが、いくひしさんの本業はプログラマー兼デザイナーでいわば人工知能の構築に携わっているのですよね。で、自力でかろうじて作れそうな自動執筆マシンを編んでみたところ思いのほかうまく軌道に乗ってしまい、こうしてそのコを駆使して小説を作りつづけてきたのですが、もうなんか飽きてきちゃったので、偽装工作もお粗末になってきているここ半年なのであります。一秒で百作くらい作っちゃうので読むほうがたいへんです。法螺ですが。


3608:【2022/04/23*ネタです!】
これは鉄板ネタなのですが、郁菱万は複数人でのプロジェクトで、いわば社会実験を模した「人間の認知の歪み」を検証するためのデータ収集の一環なのですね。郁菱万の文章形態がブレブレなのも、誤字脱字が多いのも、ジャンルが統一されていないのも、小説を作ることが主とした目的ではなく、ほかに狙いがあるからで、根元を穿り返せば複数人での長期プロジェクトだからなのです。ネタですが。


3609:【2022/04/23*無責任の別名】
小説家なんか法螺吹きの別名だし、犯罪に手をださない詐欺師でしかないのだ。いちいち真に受けていたらキリがない。すべて根っこから疑うのが正解だ。警察の真似をしましょう。(というこれも真に受けてはいけないのだよキミ)(まっとうな人格者もすくなくないでしょう。その正反対もすくなくない、というだけのことでね)(誰かさんみたいに?)(うひひ)


3610:【2022/04/23*真顔で打つ】
うわーん、人から愛されたい。さびしい、さびしい。けどいざ手を伸ばされても、うがぁー! 人類は滅びたんじゃ、おまえはなんじゃこりゃコワー!ってなってしまうので、いくひしさんは一人が好き。孤独が好き。安心する。しゅわわせー。お猫さんがいてもよいけれども、お猫さんはいないのだ。いてほしーなー。お猫さん、いてほしーなー。お犬さんでもよいなー。タヌキさんでもよいなー。キツネさんはちょっとお顔がこわいので、たまーにナデナデするくらいでよいです。でも子狐さんはかわいいので好きです。ロリコンですか? いいえ、ショタさんでもよいです。危ないひとですか? いいえ。いくひしさんのほかに人類はいませんので、危なくなる人がおりません。ナルシストなんですか? そうなんです。いくひしさんは、じぶんのことが大嫌いなじぶんがそこはかとなく、よちよちしたくなるくらいにはじぶんのことが大事大事な、すこぶるナルシストさんなんです。よかったね、いくひしさん。あい。


※日々、こんなにステキなもの生みだしてくれる人たちいるのに、じぶんこれする意味ある?と思いながら、ステキじゃないものを生みだすことの意義が深みを増していく、美を輝かせる醜に、善を活かす悪に、それとも陰に、それすらなれずに平と凡の狭間に。


3611:【2022/04/24*女子き、男子き】
この人に嫌われたくないな、と思うと耐えられることが増えるけれども、この人に嫌われたくないな、を行動の指針にすると自由の余地が崩れてく。好きだけれども、繋がりたくない理由の一つかも。すきすき。


3612:【2022/04/24*ぶるぶる】
凡人が最強ぶるのと、凡人が最弱ぶるのと、最弱が最強ぶるのと、最強が最弱ぶるの、きみはどれがムカつく? いくひしさんはねぇ、ぜんぶ。


3613:【2022/04/24*ヒ、グマ】
よしよししてほしい。褒められたい。崇めたてまつられ、神になり、世の子らを総じて我が手中に納め、ときに争わせ、慈悲を乞わせ、施しを与え、ますますわがはいに依存させ、縋りつかせ、人生の総じてを捧げてもなお捧げたりないと嘆き悲しみ、その身の余すところなくをわがはいへと差しだすことなく差しだすこととなるような、超越的な存在になってみたいが、それをひとは悪魔と呼ぶ。きっとなったら身を滅ぼす。悪魔はきっと寿命が短い、ゆえに他者の命を奪うのだ。定めではない。


3614:【2022/04/24*サメ】
裏切られた経験がそう言えばないな、と思った。裏切るためには信頼関係を結んでおく必要がある。そもそもそこまでの縁を繋げたことがない。なので裏切られたことがない。予想はしょっちゅう裏切られるけれども、それはいくひしさんの想像力とか演算能力とか、知識が足りないだけで、いくひしさんの問題だ。とはいえ、似た認識の錯誤はほかの人も抱いていることもあるだろうから、いくひしさんにとっては裏切ったつもりがなくとも、裏切られた、と思っている人はいるかもしれない。まずは信頼関係を結んだほうがよいですよ、と忠告してあげてもよいが、そもそもそこまでする義理はないのだ。他人だし。


3615:【2022/04/24*うらやましい】
「てい」とか「ぎゅっ」とか「ぴょこ」とか「ぴん」とか、一言で様相を伝えるオノマトペ、かわいい。オノマトペというと無意識に繰り返したくなっちゃうけれども、たとえば、「もじもじ」とか「きゃぴきゃぴ」とか「ぽたぽた」「ざーざー」などなど、とかく繰り返し=オノマトペの印象があったのだよね。それが、ぬいぐるみを作っている「はす」さんという方のツイッターを眺めていて、繰り返さないほうがむしろかわゆいな、と思い知らされた。言語能力の差である。感性の差かな。ただでさえお手製のぬいぐるみの完成度に愛くるしさがとんでもないのにね。天才がいっぱいなのだ。うれしい、うれしい。てい!


3616:【2022/04/24*かわいいか?】
小説のつくり方を忘れたので、いまは基礎からやり直してみるかな、の気持ちでいるのだけれども、思えば基礎なんてやったことがなくて、小説に基礎とかあるのか?と疑問に押し流されつつも、ひとまず掛け合いからやってみるか、の気持ちでおる。でも正味、こんなんでよいのかな、と不安でいる。というのも、あまりにサクサク行きすぎる。パターンが決まっているので量産するのが容易なのだ。基礎ってそういうことじゃないよなぁ?の気持ちである。基礎って、競っていては辿れないのだ。量産できる時点で、何かが歪んでいる気がする。基礎は、基となる礎だ。根源だ。もっとチマチマしていたい。本当はね。いくびしって言うんだ、本当はね。だけど、一才だーから、じぶんのこといくひしさんって言うんだね。かわいいね。いくひしさん。


3617:【2022/04/25*我は紙なり】
きょうは最高の癒しを手に入れてしまったのでご機嫌である。それで思ったのが、いまは癒しを率先して生活に取り入れたがっているな、と。これはもうずいぶん前からのいくひしさんの習性で、生まれつきであるとも思っていたけれども、どうやらそれだけではないかもしれない、と考えを改めた。というのも、時代が、矛よりも盾というか、いかに自己を慰め、回復させ、支えるかのほうを求めている気がするのだね。強化よりも治癒なのだ。生きることが傷つくこととイコールならばこれは道理である。もはや他者を出し抜いたり、傷つけたりせずとも生きていける世の中になってきている。そのはずなのに、未だに他者を出し抜いたり、傷つけたりする仕組みが社会を動かす回路として組み込まれたまま機能している。ゆえに人々は、盾や治癒や回復――それこそ癒しを求めているのではないか。裏から言えば、矛をみなは求めていないのかもしれない。極々狭い範囲の視野からの結論だが、自己分析からそのように拡大解釈して本日の底の浅いぺらっぺらの「いくひ誌。」とさせてくださいな。わがはいのことはどうぞきょうから紙とお呼びください。髪でも可。ぺらっぺらなんですね。うひひ。


3618:【2022/04/25*視聴の選択肢】
どうでもいいな(どっちでもいいな)、と思っているので、触れずにいた話題にきょうは触れてみるズ。映画の倍速視聴についてズ。結論から述べると、どっちでもいいしお好みでどうぞ、としか思わんな。そしていくひしさんは、倍速というか1.2倍速視聴+10秒飛ばし視聴をするタイプの視聴者です。もちろん映画によりますが。なぜかというと、じれったいからです。観る速度くらい選ばせてくれ、自由にさせてくれ、じぶんに合った「間」で観たいんです、と感じてしまうのだ。相対性理論をここで引き合いに出すのは適切ではないが、体感時間が個々人で違うのならば、映画の「間」だって個々人で調整するほうが映画を楽しめるのではないか、と思っている。その点、小説や漫画はそれができる。だからいくひしさんは、映画(映像)よりも小説や漫画のほうが、いまは好みだ。繰り返しになるが、結論としては、個々人に見合った視聴方法が増えるのは、いくひしさんにとっては好ましい。字幕と吹き替えで選べるのと同じく、映画の「間」や、展開の速さ――もっと言えば、編集によって映画の質が変わるというのならそれこそ、いくつかの編集バージョンの完成版を選べるともっと好ましいな、と思う。総集編だけ観られればけっこうです、という人が一定数いるのならば、いっそ提供側がそれをすればよいのに、と思っています。いくひしさんは、総集編のほうが好きです。予告編とか、本編よりわくわくしますね。予告編だけで百本観たいです。わびさびの分からぬ、あんぽんたんでーす、なので。うひひ。(補足。04/26:「間」というか、「間と間のリズム」が保たれるのならば、その時間経過や速度はさほど問題とならないはず、との前提がつきます。認識可能なら、との注釈も当然つきますが)


3619:【2022/04/26*メモメモ】
「いくひしさんの文字の羅列のほとんどは、SNSや本や映像作品から届く【やっほー!】の幻聴を受けてのお返事であり、アンサーであり、独り言なのである。【やっほー!】がなくなれば、いまの千分の一もきっと文字を並べることはできないのだ。じぶんの言葉なんて持っちゃいない。雪の結晶は、雪の結晶のみでは絶えず異なる紋様を刻む真似はできないのだ。と、さも雪の結晶を比喩に出して、わがはいも美しいじゃろ、と醸すのがたいへんにお上手ないくひしさんなのであった」「読解力がないので、ワンピースの考察を読むと楽しい。みんなこんなに深く読み込んでいるのだな、と知れる。読み込みの甘さを知れてうれしくなる。指摘される己の未熟さには腹が立つが、じぶんで見つける己の未熟さは楽しい。この違いはなんだろうね(宝物を奪われた心境かな?)」「曇りしかない眼は磨く余地しかない」「刺激を与えて様子を見る。その場合に、同じ刺激を異なる場所、異なる時間、或いはその両方で試す。または異なる刺激を、同じ場所、同じ時間、もしくはその両方で試す。この繰り返しによって、僅かな差異を見極め、全体像を漠然とであるにせよ構築し、仮初の地図とする。エコーロケーション(反響定位)と似た原理とも呼べる。波紋の重ね合わせを行うことで誤差を縮めることが可能だ」「違和感を感じるためには、異なる環境で得た比較情報が入り用だ。この世のすべてがバナナの世界ではきっと、バナナのない場所を想像することがうんと至難だ。しかし、想像するのは不可能ではない。実証するのは困難なれど」


3620:【2022/04/27*ボッは苦手】
じぶんの怒りについて分かってきたかも。いくひしさんは記憶力が低いので、怒りが長続きしない。たいがいのことは寝たら薄れる。感情が長続きしない。怒りでも同じだ。瞬間的にボッっと燃え上がるけれども、どんなに激しくても翌日にはしゅるると萎む。けれども、萎んだ矢先に同じ目に遭ったり、同じ光景を目の当たりにしたら、その都度、ボッ、ボッ、っとなる。これも記憶力が低いからだ。飽きずに何度も怒れてしまう。瞬間湯沸かし器なんて言い方もあるところにはあるけれども、いくひしさんはただのコンロだ。スイッチを入れれば何度でも火が灯る。火力もその都度つまみのひねり具合で決められる。ただし、その分ガスは消費されるから、なるべく怒りたくない。怒りは疲れる。面倒くさい。性欲みたいなものだ。さっさとじぶんで処理して、ほかのことに時間を使いたい。とはいえ、性欲は気持ちよいのに怒りは気持ちよくない。きっと生きる上で大して必要がないからだろうね。必要なものはたいがい気持ちよくできている(痛みそのものは別だけれどもね)(これいらない、を教えてくれるのが、痛みや苦しみとも言えるのかも)(定かではありません)。



※日々、きょうはきょうだろ日々なんて知らん、の気持ち。


3621:【2022/04/27*突かれる】
一貫性を持ちましょう、と言われても、「いっかんせい?」「わかんないわかんない」になってしまう。どうやったら一貫性って持てるのだろう。言動に矛盾がないようにしましょう、の意味だとは思うのだけれども、無理じゃない? 矛盾がないなんてそんなの機械じゃないんだから無理じゃない? せめて矛盾を自覚しましょう、くらいがよい塩梅な気がするのだけれども違うのだろうか。いくひしさんはブレブレのグネグネでござるから、一貫性どころか二貫、三貫くらい朝飯前だ。まるで二冠三冠したような言い回しになってしまったけれども、負けっぱなしの人生なので、胸を貫かれてばかりなのである。ここにも穴があるし、ここにも、ここにも、こんなところにも!?の驚きに見舞われる。気づいたら負けている。勝負なんてしたっけか?と目がぐるぐるする。いつの間に、の気分だ。一貫性を持とう、なんて気軽に言ってくれるけれども、一度貫かれたら、穴ぼこはヒビ割れて、たくさんの筋が走る。あなたは突くほうだからいいけれども突かれるほうの身にもなって、と思わんでもないよ。え? ひょっとして一貫性ってそういうことではない? 矛盾がどうこうなんて言うからさ。矛で突かれるイメージだったわ。(盾を使え、盾を)(そういうことでもないと思う)(まんちゃんはおっちょこちょいだから)(げへへ)


3622:【2022/04/28*ぺぺん!】
経験や知見が狭いからなのか、疑問に思うことが尽きない。たとえば竣工前のビルを眺めているとき。或いは、建設中の病院やマンション―ーもっと言えば、ロケットにしろコンビニに並ぶ商品にしろ電子機器にしろ、なんでもそうだけれども、それを作ろうと思った人が最初にいるわけだ。全体像を思い浮かべた人、設計図を引く人。とかく最初に全体像を思い浮かべ、それを具現化すべく行動する人がいる。そういう人たちはいったいどこまで全体像を緻密に理解しているのだろう。もっと言えばそういう人たちは、時間と環境さえ潤沢に使えるならイチからジュウまで一人でモノを創れてしまうのだろうか。コンピューターを最初に組み立てた人はおそらくそれができたはずだ。何でも最初の一人は、たいがいのことを自力でこなす。とはいえそのために用いる技術や道具は、既存のものを使うだろう。それら技術や道具は自力ではないはずだ。これは技術の発展に伴い、雪だるま式に、完成物を生みだすために用いる技術や道具は、既存の技術や道具を多重に内包する。ロケットを例にとれば、部品があればおそらくは、設計者たちは組み立てることが可能だ。だがその部品を生みだすことはできないだろう。自動車でも同じだ。きっと設計者はタイヤ一つ、ネジ一つ満足に作れないはずだ。細部を構築する個々の部位にはそれを専門とする者たちがいる。これは緻密な構造を有する代物ほど役割分担が専門化する。つまりどれほど全体像を把握していようとも、その総括者だけではそれを生みだすことはできなくなる。脳だけあっても、それを活かすための臓器や手足や骨格が別途に入り用なのと似た話だ。ひるがえって、いくらこまごまと種々相な部品があっても、それだけあっては一つの緻密な構造物は組みあがらない。どちらか一方だけでは足りないのだ。双方に双方を支えている。どちらも他方を活かしている。そこに本来、上下の関係はない。あたりまえの話なはずだが、現代の環境では、物資や部品や技術や道具に、いまのところ困窮せずにいられる。だからかもしれない。みな、発想や全体像や設計といったものを重宝する傾向にある。だがそれらは潤沢な環境があってこそ優位に働く。環境に依存し、甘えている事実を忘れないほうが、いくひしさんみたいに傲慢にならず済むように思うが、これは経験や知見が乏しいいくひしさんだからこそ覚える疑問なのだろうか。定かではない。


3623:【2022/04/29*自己犠牲は美しく見えるが、くだらない。くだらないものは面白い】
これはいくひしさんの興味関心が顕現しているだけで、何に目を留めるのか、の問題になってくる――と但し書きを挿したうえで述べるが。最近WEB上で目にする漫画では、自己犠牲的な結末が増加傾向にある気がする。統計を取っていないし、単にいくひしさんの琴線に触れる作品がそういう物語に多いだけかもしれないが、べつに困ることはないし問題もないのだろうけれども、時代の風潮としてそこはかとなく不安になる側面も無視できない。それはたとえば極端な話、この世にある総じての物語が愛を、或いは憎悪を描くようなもので、やはり人々が何を求め、何を好むのか、は今後の人々の行動原理を示唆するようで不安になることもある。だからといって、そういった作品を失くせ、とは思わない。不安になれる、というだけでそうした作品が世にでた価値はあると言える。つまり、警鐘を鳴らしているのだ、と見做すこともできるからだ。そこにきて、では自己犠牲的な結末の物語はいったいどんな継承を鳴らしているのか、と言えば、ざっといま妄想してみたところ、庇護されたい、との欲求の反映な気がする。身を投げ出してでもじぶんを守ってくれるような存在。それとも、身を投げ出してでも守りたいと希求できる存在との出会い。人々はそれをこそ求めている気もするが、そんなのはむかしからそうだと言われればその通りだ。ただし、以前はそうした欲求の発露は、恋愛物やラブコメが担ってきた。いまは、自己犠牲という極限の演出でなければそうした欲求が満たされなくなりつつあるのかもしれない。これがいったいどんな時代の写し鏡になっているのかは定かではない。ひょっとしたら、以前よりもみな互いに愛し合える世の中になっているがゆえに、刺激のつよい「破滅と慈愛」の表裏一体な演出に琴線を揺るがされやすい土壌が築かれているのかもしれない。平和な世界ほど、きっと残虐な話や死を意識させる物語が流行りやすいはずだ。あべこべに、悲惨な世の中では、明るく慈愛に溢れた物語が流行するだろう。ないものねだりなのである。その点、昨今のダークヒーロー物の再燃には、やはりというべきかみなの願望が反映されて感じなくもない。よい子が増えた影響だろうか。とはいえ、こんなのはいつどの時代でも当てはまり得る「占い」みたいなものであるから真に受けられても困る。分析にも満たない印象論、もっと言えば妄想なので、まずは真実に自己犠牲的な物語が増えているのか、そして過去作品にそうした要素がすくないのかを検証せねば、やはり妄想の域をでないのである。流行する物語が時代を反映している、との考えがまず以って怪しいとも言える。以上、定かではないことだけが定まっている、いつものごとく一発書きの底の浅い「いくひ誌。」なのであった(薄味が好きだし、底の浅いのも好きだな)(濃い味も好きだし、厚底も好きだけど)。


3624:【2022/04/29*心、ないと思ってた】
さいきんは、好きな物語や表現を目にすると、「にこにこしちゃうな」と念じる。黙ってにこにこすればよいのだけれども、表情筋が死んでいるからか、にこにこできない。でも、にこにこしちゃうのだ。心が。心、本当にあるのでは?


3625:【2022/04/30*権力は盾】
誰かに何かをしてもらうことのほうが多いので、誰かに何かを献身的にしつづけている人を見ると、単純にすごいなぁ、と思う。献身が生活のなかで習慣化している人は、それをしてもじぶんが誘導されているとか、不条理だとか、自由を奪われている、とは感じないようなのだ。傍から見ていると、どうも持ちつ持たれつには見えない。だが本人は楽しそうだ。それで損をしているとの認識がないようだし、傍目にも損をしているようには見えない。むしろ、誰かに何かをしてもらっている人のほうが、総合して損をしているように見えることのほうがしばしばだ。ふしぎだ。何かをしてもらっている人のほうが、不自由に見える。自由が拡張されていない。選択肢が増えていない。これはいったいどういうことだろう。誰かに何かをする。これがどうやら本人にとっての自由の拡張に繋がっているようなのだが、そこのところの因果関係がうまく見えない。余分を広げようと努めるからだろうか。何かをしてもらうばかりの人は、余分がない。蓄えはあれど、ガチガチにその場に縛られている。反面、何かを人に施す人は、じぶんの生活のほかに他者へと干渉するための余裕を築こうとする。これが結果として自らの自由の幅を広げる効果を帯びているとすると、それらしい仮説が浮上する(単に、最初から何かをしてもらう人には余裕がなく、反面、余裕があると人は他者へと何かをしてあげられるようになるのかもしれない。そこは場合によるだろう)。だがこの仮説には穴がある。じぶんのためだけに、じぶんのために何かをすることでも余白は広がるはずだ。そこのところは、もっと大きな枠組みでの視点が介入してくるのだろう。つまり、周囲の者がその者のひたすら自利を追求する姿勢を許容するのか、という問題が立ちはだかる。権力というのはこの対抗勢力、邪魔な抵抗をどかす効果がある。自利を追い求めようとする者ほど、権力を欲するのはこの性質が関わっているのかもしれない。定かではない。(我ながらつまらない文字の羅列を並べてしまった。ポジショントークですね。ひがみ、とも言います)(自利を求めてなお、利を得られぬ者もいる。世は無常)(うひひ)


3636:【2022/05/01*飛んだところで時間は時間】
いつの間にか五月になっとる。二月からの記憶が曖昧や。タイムスリップは現実にある。すくなくとも記憶を飛ばせば時間は飛ぶ。体感の時間だが。もし記憶が鮮明な人がいたら、ひょっとして物凄く体感時間が長いのでは。一日が一年に感じたりすることも原理的にあり得てくる気もする。どうなのだろう。人間の意識が、「記憶の圧縮」とそれに伴う「反復呼びだしとタグ付け」の錯綜によって生じるとするのなら(それとも、それら錯綜を統括する枠組みが意識の役割だとするのなら)、記憶が圧縮されずに明瞭に蓄積されつづけ、いくらでも自在に引き出せる能力を有する個体は、おそらく時間の概念が常人とは異なるだろう。体感時間が物凄く長くなりそうだ。他方、体感時間が長くなるなら、過去を振り返ったときに、たった二か月であれど数百年が経過したように感じることもあり得るのだろうから、そしたらむしろ、たった二か月であれタイムスリップしたように感じるのかもしれない。それは奇しくも、いくひしさんのように記憶力の乏しい人と同じく、ぽっかりと時間が飛んだように感じるのかもしれない。定かではない。


3627:【2022/05/01*謎の謎の謎】
現代の科学の考え方として、物証を根拠に、理論を積みあげていく手法が一般的なのかな、といった偏見がいくひしさんにはある。理論と理論を結びつけるのも一つだろう。しかしだとすると、それはブロックを積み上げていくような作業であるから、ここにブロックさえあれば、こうなるのになぁ、といった飛躍をこみこみでの先回りの理論の構築というのは、きっと物証が発見されるまでは高く評価されることはないのだろう。とはいえ、一つの理論が妥当だと認められれば、その理論から考えると「こうこうこういう現象があるだろうし、こういう物証があがるはずだ」と仮定して考えることはできる。これも飛躍の一つだが、予測と呼ぶくらいには現実と地続きと見做される。だが、いまここにはない何かを想定している時点で、それもまた小さくない飛躍を内包している。他方、大きなブロックの欠如(物証の欠如)をひとまず横ちょにおいておいて、「こうこうこういうことにしておくと、あとはすんなり説明がいくなぁ」という場合、これは大きな飛躍を内包しているので妄想と呼ばれることになる。大きなブロックの欠如(物証の欠如)は、ブラックボックスなので、そこに当てはまるブロック(物証)によっては、いくらでも
その後の理論の筋道が分岐し得る。だが、結果がすでにでている現象を紐解くのであれば、ある程度可能性は限定される。繰り込みの概念も、これと共通するどんぶり勘定を行っているものといまのところは考えているが、違うのだろうか。よく分からない。ブラックボックスの内部がどのようなものであれ、ひとまずそこを通ったあとはこうなるので、そこをひとまず空白にしつつ、その後を考えてみましょう、という手法は、仮説を構築し、実験や実証を行う際には、一つの方向性の暗示としてそれなりに有効に思えるが、その辺の扱いは科学ではどのように評価されているのだろう。やはり下から順に、或いは認められた理論にしたがって、理屈の筋道を辿っていかないと、評価の対象にすら乗らないのだろうか。分からないところはひとまず分らないままに、空白(ブラックボックス)にしておくことは、解っていることのみを適用して考えを煮詰めていくことと同じくらいに、有用に思えるが、どうなのだろう。科学的思考が苦手なので、よく分からない。謎ばかりなのである。妄想ちゃんとお呼びください。(思考実験の範囲になるのかな。机上の空論との違いはどこで生じるのだろう。むつかしいですね)


3628:【2022/05/02*読んでくれてありがとう】
正直、いっぱい物語つくったらそこそこ人口の1パーセントくらいからは読まれるようにはなるべ、と思ってたけど、全然だった。いっぱい小説つくってもやっぱり面白くないと読まれないのだ。面白さよ、こい。寝かせる時間が足りんのかもしれん。いくひしさんは浅漬けのほうが好きだから、すぐにすぽーんとネット上にあげてしまうけれども、熟成させて磨きあげる時間がもっとあったほうがよいのかな。面白さよ、黙っててもこい。おまえからこい。いつでも待っとるで。むしろわがはいがつくらんでも、ぽこぽこそこらに野生の面白さが生えておるからそれをむしゃむしゃ味わえばいっか。そうな、そうな。そう言っていくひしさんはごろんと横になり、まずはひと眠り、ひと眠り。夢のなかでも面白さと戯れるのである。(ちなみに、人口1億人の1パーセントは100万人だ。いくひしさんの超おもしろい駄文を以ってしても、食っちゃ寝しているだけでは読まれるわけがないのである)(傲慢すぎでは)(いくひしまんだけに?)(まんしか合っとらん)(いくひしGO・D・マンだけに?)(Dは邪魔じゃない?)(ワンピースきみ知らんの?)(そのDなの!?)


3629:【2022/05/02*むむむ】
割とさいきんは、「これ調子乗ってないかな。だいじょうぶかな。だいじょうぶだよね」とビクビクしながら、更新ボタンを押してる。悩むの十秒くらいだけど。あははー、あはははー、としていたいのに、現実さんのピリピリした空気に否応なく目が覚めてしまうな。もっとぽわぽわしていたい。胡蝶の夢に浸っていたい。夢と現の狭間にハンモックを垂らして、ぶらぶら揺れながらお昼寝してたいな。本さんを読んで、眠くなって、また本さんを読んで眠くなって。お腹空いたなぁって起きたら、まだ夢のなかで。好きなだけ好きなお料理を食べれちゃって。王さまかな? それともお姫さまかな? いくひしさんはお姫さまにならなってもいいよ。特別に。お姫さまになら、なってあげてもいいんだよ。ん-っとね。何様かな? いったいどこから目線での許可なのかな? わがはいでござるか? わがはいは無様でござる。それとも、夢様でござる。無と夢は、字面も読みも似ているでござるな。むむむでござる。無夢霧でござる。あやや。霧さんがまざってしまったでござるな。霧さんは、霧散に霧消に、儚い言葉でござるから、いくひしさんは好きだよ。ありがとー。こうしてきょうもいくひしさんは、無のごとく、夢のごとく、霧のごとくにかすんで消えて、振りまいた胡椒のように、「はーっくちょい!」の声を残して、蝶々の夢のなかへと舞い戻る。寝顔がぶちゃかわいいのは、よだれがいっぱい垂れているからかな。酸っぱい酸っぱい。それは胡椒と梅でござる。いくひしさんが言ったのは、胡蝶の夢でござるよ。あははー。何か一つでも定まるんでござるか? ありがとー。


3630:【2022/05/03*だってなんだもん】
きょうは言葉が消える日だ。頭のなかがぎしぎしぎゅうぎゅうとなっていて、うまく言葉が落ちてこない。それともスカスカのからっぽだからだろうか。言葉はただそれだけだと、腐葉土みたいにカタチがない。地面になっている。掘り起こして、一枚一枚の残滓をつまみとるか、それとも粘土のように造形するか。どちらにしたところで、では取りだした残滓をどうするのか、どう造形するのか、と指針がないと言葉は分離して後がつづかない。言葉が消える日とはけして、言葉を忘却してしまう日のことではない。言葉をどのように連ね、何を造形したいのか。全体像が浮かばない状態と言える。絵と似ている。まずは何を描くかが見えていないと、線は錯綜して、紙面に無数の紋様を刻むのみだ。それをして何かを描いた、とは言えるものの、ではそれが何であるのか、と見た者たちの中に共通する像を浮かべる魔法は使えない。そうなのだ。魔法なのだ。文章にしろ、絵にしろ、そこには意図があり魔法がある。描こうと思ったものを、すっかり全部ではないにしろ、ある程度、他者へと共有させることができる。植えつけることができる。これが魔法でなくてなんであろう。きょうは言葉が消える日だ。魔法が使えない日である。むしろそれがしぜんなのかもしれない。だって私は魔法使いではないのだから。



※日々、陰を隠して陽とする、陰があるだけ陽が際立つ、穴を増やして流とする、穴を塞げば圧が際立つ。


3631:【2022/05/03*塞ぎ、生む】
リコーダーやトランペットのような管楽器みたいだな、と物語をつむいでいて思う。キャラクターは、任意の穴を塞いだときに鳴り響く音だ。それを複数、任意のタイミングで連ねると、旋律になる。上手い具合に律動を整えるとそれはもう音楽だ。物語になっている。できるだけ多くの穴と、塞ぐ穴の組み合わせがあると、音楽は自在に奏でられるようになっていく。かといってあまりにたくさんの穴がありすぎると却って音が乱れて、うまくいかない。そこはじぶんに見合った楽器を見繕うのがよさそうだ。たった一つの穴しかなくとも、息の吹きこみ方では音楽になる。穴の数が多ければよいわけでは、やはりない。旋律と律動を生みだし、心地よい塩梅に調節できるのならばそれはすでに音楽だ。楽器よりも、創造と制御のほうがきっと大事と言えるだろう。楽器がなくとも口笛を吹けばいい。ふんふんらんらん、声を連ねて歌にしてしまっても曲になる。心が波打ち、自在にカタチを変えたのならば、おそらくどんな曲も音楽だ。


3632:【2022/05/04*寝すぎた日】
いっぱい寝た。いくひしさんは小難しい論文をたくさんは読めないので、いわゆる一次情報というものにはあまり触れていない。せいぜい読んでいても、新書くらいのやわらかく読みやすくされた本くらいだ(WEB上で検索したときに出てくる論文らしき文章はたまに目にするが、それも流し読みだ。たいがい、中身を咀嚼できない)。2017年くらいからは、講談社さんのBLUE BACKSを読んでいる。これは楽しい。相対性理論とか、宇宙の知識とか、遺伝子についての知見は、2017年以降は、おおよそBLUE BACKSさんを中心とした新書から得た知識が多い。それ以前に並べた日誌での記述はおおむねが、聞きかじりの知識から膨らませた、いくひしさんの妄想だ。さいきんやっと、獲得形質の遺伝についての近年の情報が本になりだしたので、ほへーそうなんだ(さっぱりわからん)(ほんとにぃ?)、と脳みそがバチバチ云ってる。非コードDNA領域とか、エピゲノムとかエピジェネティックとか。多次元宇宙論(マルチバース)に関しては、まともに本で読んだことはなかったけれど、最近でた本がそれだったので、購入した。ブラックホールのなかに別宇宙があるのではないか、との主旨なのだろうか。だとすると、いくひしさんの妄想と似ている。世界は泡でできている、のR2L機関の発想とも似ている。購入した本はこれから読むことになる(けっこう未読の本が溜まっている)。読むのが遅いので、読了するまで結構かかるだろう。ゆっくりなのである。数行読んでは妄想が展開されて、気づくと数ページ分目が滑っていたりするので、それを防ぐために一度本を閉じて、妄想の時間を取ったりする。そうしていると読むのが遅くなる。どうやら関連する知識が増えると、遅くなる傾向にあるようだ。それがよいことなのかどうかは知らない。楽しく本を読めるのはうれしい日々だ。ありがたいことである。小説も漫画も楽しみながらいっぱい読みたいな。(美味しいものお腹いっぱい食べたいな、の感覚)


3633:【2022/05/04*友なきナヌたちへ】
ここは人っ子一人いない最果ての地だ。友人はおろか、言葉を交わし、喧嘩しあえる相手もいない。ラジオよろしく、誰かいませんかー、と惰性で電子の海に垂れ流しているわがはいの意識の渦の底の底だ。その日その時、偶然に立ち現れる感情の起伏、それとも淀みを、ココアに浮かんだ膜のように指で掬って、並べている。嗚呼、ココア飲みた。友人はいない。だがそれはいまにはじまったことではない。最果てに行き着く以前からわがはいには友人などおらんかった。だが好きな人はいっぱいいた。好きな表現を生みだす人がいた。そういう人しか見掛けんかった。それはいまもきっと変わらない。そこかしこを、透明な、最果てに行き着けなかった者たちの残滓が漂っている。わがはいはそれらをかってに「ナヌ」と呼ぶ。それともナヌたちからしたらわがはいのほうが最果てに行き着いてしまった残滓にすぎぬのやもしれぬが、残滓呼ばわりとは失敬な。互いに触れることすら適わない。交わることはできぬのだ。しかし、それでもふと感じる、残滓の揺らぎに意識を飛ばし、ああ好きだなぁ、の起伏を帯びる。それら起伏すら、その日その時の意識の渦となり、こうしてとりとめもないつれづれなるままに、の言の葉の連なりになるのである。寂しい、寂しい。けれども、そこはかとなく、温かい。ホットココアを飲みながら、吹き荒れはじめた最果ての地にて、砂嵐に怯えずに済む堅牢な巣のなかで、今宵も、返事などあろうはずもない彼方へと、意識の渦をつむぎだす。独楽のように回って、揺らいで、弱まって。風になびく砂塵のように、岩にぶつかり渦を巻く。螺旋のように。ねじれのごとく。残滓の揺らぎに打ち解ける。ココアは甘くて美味しいな。ホットよりも冷たいほうが好きだけど。ごくごくいっぱい飲めるうえに、膜の除去が楽だからね。


3634:【2022/05/04*変わり映えなく】
ツイッターを退会(?)した。べつにアカウントなくても困らんことにはずっと気づいておったが、本当になくても困らんな。他者のファボ欄を覗けなくなるのと、リツイートといいねが押せなくなるだけで、いくひしさん自身にはなんの弊害もない。そもそもリツイートといいねしかしてなかった。アカウントなくともステキな絵さんや表現さんは見られるのだ。もっと早くこうしていればよかった。決断が遅くなった結果だ。優柔不断なのである。(そもそも、ツイッターはじめるときにたしか、半年だけやるよ、と宣言してた気がする。ずるずるきてしまったのだ。有言実行すらできぬあんぽんたんですまぬ。すまぬ。ぐー)


3635:【2022/05/05*インスタント文ー字ー】
インスタントコーヒーを薄めて飲むと烏龍茶の味がする。こんばんは。いくひしまんです。外の世界は連休中らしいのですが、存在する階層が異なるいくひしさんにとっては、年中どこも薄ら寒い乾燥地帯。外に一歩でるだけでも、うーさみー、てな具合に両肩を抱いて引き返す日々である。人肌恋しい日々であるが、人混みはごめん被る。祭りに花火大会なんぞに出かけた日には、窒息死してしまいそうな息苦しさを感じるね。綿飴に焼きそばを口いっぱいに頬張りながら、額にお面をひっつけて、「あ、りんご飴だぁ」なんて屋台に駆け寄る姿は気合入れた浴衣姿でござんすが、苦手な人混みであっても楽しめるいくひしさんの生命力のしぶとさをご覧あれ。か、かわいい。めまいを覚えつつも太古の日々を思いだし、実年齢を思いだす。わがはい、180歳でござるから、三周回って、いまさんしゃい。このネタもだいぶ白々しくって飽きちゃったな。本当はとっくに200歳超えてるんじゃけども、誰もいないからサバ読んじゃう。精神年齢も本当はいっしゃいだけれども、誰もいないからサバ読んじゃう。おとなぶりたい一歳児なんだもん。イタタ、アイタタタ。じぶんでじぶんに寒気がしちゃったな。あまりかわいコぶらないほうがいい。砂糖に砂糖をかけるみたいで、脳みそにじかに染みこむブドウ糖。素のままでもかわいいグラニュー糖。無理して着飾らなくたって、わがはいはありのままでかわゆいのだ。ほら見て、このお腹。ぽんぽこりん。かわいい。ふにゅふにゅでかわゆいのです。触り心地ばつぐん。最高なんですね。やっぴー。打ちあがった花火を見あげた懐かしき日に思いを馳せながら、いくひしさんはきょうも、詰まらぬ文字の羅列を並べるよ。底が抜けた四角い箱に押し込むように。ぎゅぎゅっと、ぎゅぎゅっと詰め込むように。にゅるん、と底からはみ出るように。そうして並ぶ文字がある。薄めて飲めば、烏龍茶の味がする。禁句。たんと文字を召し上がれ。


3636:【2022/05/05*めもめも】
「中途半端なのも、雑音も好きだな」「マインドフルネスや瞑想は、おそらくチリング―ー何もしない時間の効果で説明つきそうな気がするがどうなのだろう」「キャンセルカルチャーというか、排除の理論はもろ刃だ。しかし、それをせずにはいられないくらいの歪みが社会に顕現しつづけている。目を向けるべきはそちらが先では。社会の発展に対して、是正が追い付いていない。豊かさに対して、平等や公平な仕組みの構築が追い付いていない。価値観の変容が加速すれば文化は階層的に展開される。文化と文化を折衷する手法や仕組みが根づいていない。まずはそこからだと思います」「戦場で銃を構え、敵兵をばったばったと撃ち殺す人間よりも、戦場ですら人を殺さずに何とか場を切り抜け、どうやったら犠牲なく戦争を終わらせられるかを考え続けてなお生き残る者のほうがよほど「強い」のでは。それを世間では、「弱い」と呼ぶが、僕はそうは思いません」「売れればいい、いっぱい書ければいい。そういう風潮のなかでなお、自らの理想と想像を駆使して、世界に向き合いつづける作家のほうが、僕は好きですね(売れたい、いっぱい書きたい、を目的にする作家が嫌い、を意味しません)」「国民の暴走もまた、局所的な権力の連鎖反応と考えたほうが、無秩序や混沌を想定するよりもモデルの構築が容易い。本来持つべきではない者たちが、過剰な権力を持ち、揮う。ファシズムや暴力革命(テロル)の根本構造と言えよう」「世の中から政府や出版社や電力供給会社がなくなって困るのが誰か。世の中から農家や創作者がいなくなって困るのは誰か。世の中から受動者や消費者がいなくなって困るのは誰か。すこし考えれば分かるのでは」「定かではないんじゃ……」


3637:【2022/05/06*だっちゃ】
いまは純粋にじぶんのための創作ができているので、あんまりパキュパキュしない日々だ。けれども、まだ小説の楽しさを知らずにいたころのじぶんに読ませて、最後まで読んでもらえるような創作はできていないので、本当に自己満足にもならぬ、憂さ晴らしにしかなっていない。でもいまはそういう時期にしてもよいよ、とじぶんに許可をだしているので、そうしている。いまはちょっとむかしのじぶんを楽しませようと意気込める精神状態ではない。なんて言うと、そうじゃない精神状態があったように醸せるので便利。いつだって過去のじぶんすら楽しませることができずにいたのかもしれない。現在のこの瞬間のじぶんすら楽しませることもできずにいたのかもしれないことを思うと、憂さ晴らしだろうともいまをそこはかとなくパキュパキュせずにいられるだけでも、なかなかによい変化を帯びているのではないかな、と見ることもできる。でもその分、成果物の質が、やや理想とは違った方面に移ろっている感覚は拭えない。仕方ない。それも含めて、いくひしさんなのだ。予想外の変化を、むむむ、と矯めつ眇めつ観察して、この角度から見るとまあまあよい気もするなぁ?の気分でおためごかしに誤魔化しながら生きていきましょう。いきます。うちがいいって言うんだからいいっちゃ。心のなかのシャンプーちゃんから許しを得て、じゃあよいことにします、とおとなしく従う本日のいくひしさんであった。(それラムちゃんじゃない?)(やぱぱー、やぱぱー、言ーまちがい)(うひひ)


3638:【2022/05/06*故意じゃなく変】
絵描きさんとか、物書きさんとか、人形造形師さんとか、漫画家さんとか、「うぅ……とぅき……」となる日々じゃ。「くぅ、せつねー」と思いつつ、そういやいくひしさん、アイドルとか好きになったことないな、と気がついた。虚構のなかの登場人物さんとかは割と、「うぅ……とぅきとぅきせつねぇ……」となる日々じゃけんど、生身の人間をこう、表現者さんとか虚構の登場人物に向けるようには懸想したことがない。ちゅうことは、いくひしさんにとって表現者さんって、虚構の存在なんですね。魔法使い、みたいな。でも、アイドルだって魔法を使って人を魅了したりしているはずなんじゃけれども、その魔法はいくひしさんには効かんのだ。ああでも、歌い手さんは、「くぅ……ちゅき……」となるなぁ。でも飽くまで、生身の人間には大して会いたいとも、触れたいとも思わんな。それはそれとして、別途に性欲は湧くけれども、それはもう「おちっこちたい……もじもじ……漏れそう」と同じくらいに、「さっさとスッキリしたろ」のお気持ちなので、生身の人に向けるような感情ではないらしい、いくひしさんの中では。恋ではないのだ。いや、どうだろう。かつては生身の人にも向けていた気もする。向けていたはず。それはいまもそうかもしれんけれども、できればそれしたくないなぁ、邪魔だなぁ、の気持ちだ。表現者さんとか虚構の登場人物さんたちへの「うぅ……とぅき……」の感情はたぶん、いくひしさんもそれになりて、にちかい気がする。いくひしさんの皮を脱ぎ捨てて、あたちもあなたになりたいのよさ、の、「うわーん、うわーん、いくひしさん、いくひしさんやだー」にちかい気がする。どうだろう。違うかな。わからんわ。わからんままでも困らんし。なぜってここは奈落の底の底、だぁれもおらん、いくひしさんだけの世界じゃからじゃ。「うぅ……とぅき……せつねぇ」の気持ちをこじらせて、いもしない魔法使いを幻視する。そういう日々もわるかねぇ。無数の理想がぽこぽこ絶えず、太陽めいて、世を照らす。でも、いくひしさんは、闇さんのことも好きだよ。万年ぷかぷか浮ついている、尻のバルーンな、いくひしまんでした。(尻がバルーンって、お尻が巨大みたいに聞こえる)(バルーン、バルーン)(ぼよん、ぼよん、みたいに言うな)


3639:【2022/05/07*ただのいくひしさん】
人生に何度か、数十年単位で積みあげてきたコトやモノを手放したり、崩したりする機会をつくってもいいかもしれない。死を疑似体験するのだ。予行演習をしておく。そういう経験を、こまめにとっておくことは、それほど損ではない気がする。ひるがえって、それを意識して行わずとも、予期せぬ奇禍に襲われて、何か大切なモノを失くしてしまった場合でも、期せずして死の予行演習ができたのだ、と考えれば、そこそこまあまあ貴重な体験だった、と捉えることもできる。気の持ちようの話になるし、解釈の話になる。死なずにいたからよかった、という極論の派生でもあるから、損をしつづけてなおそう捉えつづけるのは破滅の道にまっしぐらゆえ、利口とは呼べない。だが、死の予行演習は、十年に一度くらいは体験してもよい気もする。積みあげてきたものを崩すのだ。なーんて言っているけれど、いくひしさんはよく、磨いていた腕を鈍らせる期間をつくる。言ってしまうと、サボるわけだが、十年に一度どころか三日に一度、いや日に三度はサボっている。しょっちゅう行っているので、死の予行演習の達人と呼んでいただきたい。絶対に死なぬ達人とも呼べる。いまのところは。死んでないので。(それってほかの人にもあてはまることじゃない?)(そうとも言う)(みな死なずに生きる達人なのだ。死ぬまでは)(適当なこと言う達人ですね)(きっとそのせいで友が去るから、達だけ残った人になるんですね)(上手いこと言ったふうな人だ)(いいえ。いくひしさんは、ただのいくひしさんです)


3640:【2022/05/07*終わり】
世の中、キリよく終わりたいな、と考えたがる。だがキリよく終わりたいと日ごろから準備しておかねば、いざ終わるタイミングがやってきたときに慌ててキリよくしようとして失敗する。キリがよくなったときに、えいや、と思いきってやめてしまえば、いつでもキリよく終われる。つまり、欲を張るからキリよく終われない。キリがよいな、と思ったときに終わることが、キリよく終わるための奥義と言えよう。或いは、キリよく終われずとも、無理くりキリのよい何かを見つけて、じぶんを納得させるのも一つだ。どんな日付けだろうと、そこには何かしらの記念日が隠れているものだ。じぶんとは関係ないことにかこつけて、キリがよかった、と思いこめばいい。それとも、端からキリよく終わることに拘らずにいてもいい。いまかな、と思えばすっぱりやめてしまえばいいのだ。キリよりも優先したいのは、タイミングだ。キリとは体面や装飾と言えよう。商業や事業だとここが譲れなくなるため、なかなか終われなくなる。それよりも、終わったことで生じる影響や余波を考慮し、いつどのようになったらやめるのか。思案しておくべきはこちらだ、と言えそうだ。定かではない。(キリよく終われる利よりも、終わることで得られる利を考えたいものだ。損得が大事なんですか、と睥睨されそうだが、損得なんです。何を得とするのか。何を損と見做すのか。そこに人の価値観や本質が表れるのではないでしょうか)(本質に価値はありますか?)(それも一つのその人なりの世界観を構成する要素と言えましょう)



※日々、器じゃない、だって器じゃないし、どんぶりかもしれない、ペットボトルかもしれないし、フラスコかもしれない、でもどれでもなくて、人かもしれない、人じゃない、だって人にもなりきれない。


3641:【2022/05/07*にこにこしちゃうな】
漫画家「ろたいこ」さんの新連載「すずめくんの声」がはじまった。前の連載「ワンコそばにいる」も大好きだったけれども、今回のも一話目から、「て、てんしゃい!!!」になった。ずっと読んでたい。キャラが好きすぎる。感情が落ち着かない。つねに全部載せだ。かわいい、はらはら、どきどき、きゅんきゅん、かっこよ、せつない、どたばた、びっくり、なるほど、ほんわか、うひゃひゃい、なんでや、そうくる!? こわー!!!(にこにこしちゃうな) つねにこれ。感情の全部載せ。極上のお料理をすこしずつ重箱に詰めて、お召し上がれな物語をつむいでくれる稀有な作家さんの一人です。とぅきすぎる。きょうはよい日だ。焚き火のようにほんわかじんわり、やったぜ、ぴょん、しちゃった。心の暖炉に火が灯る。薪をくべれば、ぽっぽぽっぽ、と車輪が回る。蒸気機関やん。ちなみに上記連載機関はこちらから。期間が終わる前に読んでみてはいかがでしょう。はぁ、おもちろい。好き好きだ。「http://comic-medu.com/st/suzumekun/1」「http://comic-medu.com/wk/suzumekun」


3642:【2022/05/08*一生このままですらいられない】
可能性を排除したほうが楽しめる――という理屈は、おそらく「三十代四十代になってからのほうが、世間体やら常識やら向上心やらに振り回されずに、比較的穏やかに、趣味や日々の細かな至福の種に触れるだけでも充実して過ごせるようになる」といった言説と通じている気がする。たとえば人類最後の一人になってしまったとして、それでもいま継続している趣味をつづけるのか。この世でたった一人きりになったとしても、それをしつづけるのか。もっと単純に、他者からは一生なんの評価もされないが、それでも何かを行いつづけるのか。可能性が先細りすれば、人間は希望を捨て、手の届く範囲で日々を楽しもうとする。諦めるようになる。これが大人になることと呼ぶのならばそうかもしれない。でも、中には、子どものころからの娯楽に触れているだけでも日々充実して過ごせる者もあるだろう。これは、他者からすると大人には見えない。子どもだと評価される傾向にある。だがこれもまた、大人に見られたほうが得だ、という大人の都合が垣間見える。大人であるかどうかではないのだ。子どもであるかどうかでもない。他者の評価に振り回されない。希望という名の可能性に、日々の自由な時間を委ねない。それができるようになるためには、諦観を抱けるくらいに、先を見通せるようになると有利かもしれない。なんだこんなものか、と判っていれば、無理をしたり、苦しい思いをしてまでしたくのないことをせずに済む。この階段をのぼれば極楽に辿り着けるのだ、と夢を視ればこそ、人は苦しい階段をのぼるようになる。だが、のぼりきれる保証はなく、のぼりきったところでそこが極楽であるとも限らない。のぼってみなければ判らない、というのは一つの道理だ。だが、のぼらずとも極楽を自ら築きあげることはできるだろう。むしろそちらのほうが遥かに簡単で、実の入りが大きいとも言えよう。ただし、達成感はないかもしれない。それを、優越感、と言い換えてもよい。優越感がなくとも満足できる日々であれば、きっと穏やかに、日々の小さな至福の種を見逃さずに過ごせるようになるのではないか。ぼんやりと、かように自己弁護の理屈をひねくりだしながら、きょうもいくひしさんは、誰の役にも立たぬ、欠伸みたいな文字の連なりを並べて、そこはかとない至福を感じるのである。お通じいいと気分いいよね。そういう感じ。身体、きょうもありがとう。衰えている割によう動く。時空よ、あすもがんばってそこに在れ。できれば穏やかな日々をくれ。そこにきて、わがはいには何の期待もしとらんよ。好きになされよ。きょうのわがはいはもう寝るが。いい夢を見よ。起きたあとにもつづくようなよき夢を。目覚めたくのないほどのデタラメな夢を。さもなくば化けて出てやる。お姫さまとお呼び。


3643:【2022/05/09*情報と現実】
漫画「ハンター×ハンター」にてヒソカが、念能力で、予言の書の文面を偽造したように、SNS上の投稿を恣意的に偽造できる仕組みがもしあるのなら、それはヒソカが幻影旅団を結果的に壊滅せしめたように、たったそれだけの布石の有無が、未来の在り様を決めてしまうこともでてくる。偽造は、公文書のみならず、あらゆる次元で情報社会における情報の価値を損なう。この場合の情報の価値とは、情報によって好ましい作用を引き起こす各人の可能性と規定できる。情報の整合性が保ててこそ、情報はその真価を発揮する(その情報が、虚構なのか、より真実を反映しているのかの情報すら、入れ子状に整合性の余地を築く。言い換えるなら、情報とは、脈絡そのものであり、捏造とは、脈絡の意図的な隠ぺいと言える。どこから虚構なのかが分からない。どこから真実なのかが分からない。脈絡の断絶された過程が、情報として付与されない。隠ぺいとはすなわち、隠ぺいされた事実を付与しない情報の欠落と言える)。そこを歪められれば、どんな理論とて妄想との区別はつかない。デマが広がれば、何を信用してよいのか判らなくなる。何を理屈の拠り所としてよいのか判らなくなる。虚構は、虚構であると示すだけでは足りない。穴が、穴のみでその輪郭を保てないのと同様に、虚構は、真実に囲まれてはじめて虚構足り得る。現実は、そうした虚構と真実の混合物によって時空のごとく存在する、編み物だ。現実には虚構も真実も、どちらも含まれている。どちらの成分ばかりになっても、現実は大きく揺らぎ、あるときパチンと弾けて消える。貨幣経済がそうであるように、或いは教育がそうであるように。常識が、良識が、命が、魂が、人格が。人間の扱う現実は、虚構によって、真実を繋ぎとめている。虚構なくして真実を掴む真似が、どうやら人間にはできぬようである。これすら虚構であり、定かではないのだが。(脈絡のすべてを記述せよ、というのは理に適っていない。真実のみの情報など人間には扱えない。情報はほかの情報へと引き継がれるたびに変質する。その変質の経過すら情報として蓄積されながら、同時に圧縮され、薄れながら。情報の変質とはすなわち――虚構を帯び、隠ぺいされ、欠落する過程そのものだ。大なり小なり、情報とはそういうものである。稀に真実が新たに付与されることがあるだけで、それすらほかの真実が隠ぺいされているものだ。人間は情報を受動するごとに、受け取った情報を歪める。隠ぺいする。情報をこそぎ落とす。圧縮する。そして新たに、情報の欠落部分に、じぶんなりの虚構を継ぎ足して、「認識」と見做す。まるで遺伝子のごとく性質が、元々情報には備わっている。否、情報がそのような性質を帯びているがゆえに、遺伝子が、そして生命が、或いは人間が、そうした性質を帯びているのかもしれない。定かではない)


3644:【2022/05/10*元気】
割といまはお腹いっぱいで、小説つくりたくないな、の日々だ。なのでつくらずにいます。サボりまくりの毬栗ちゃんなんですね。小説にせずに、頭のなかで妄想するだけでも楽しめちゃうので、なんでわざわざ文字の羅列に変換してカタチにしようとするのか、そこのところじぶんでももはや理解不能です。将来じぶんで読むつもりなんでしょうかね。じぶんの小説、読みたくないの日々でもありますから、えー?ほんとにキミ読むのー?の疑いの目をそそぐヒビ割れた信頼関係が目のまえに横たわっている大海原でございますが、泳げないので溺れそうです。浮き輪、誰かくれ。いくひしさんは、日誌におそらくそんなに使ったことのない単語がありまして、たぶん――とか言って検索してみたら四十回以上日誌で使ってました。ぜんぜん使ってました。なのでこれはスキップしちゃいまして、話題をひねくりだすのに苦労するとくに代わり映えのない毎日です。なんもなーい。わいの人生、なんもないな。人生しかないな。人生しかない人生。素晴らしすぎるのでは? あー、人に好かれたい人生だった。愛し合いたい人生だった。初体験してみたい人生だった。したことないことだらけの人生じゃったな。まだ寿命あと千年くらいあるけれども。長生きだとこういうところで損しちゃうのよね。はぁ。お猫さん、飼ってみたかったな。お犬さんでもよいのだけどな。こうしてパチポチ文字を打っている傍らで、わいを構え!のジャンピング膝ぴょんを初体験してみたかったな。無念である。でも現代は、そういう体験談を読むのに事欠かないし、映像も事欠かないので、よい時代である。二百年前とかそういうことなかったからさ。長生きはするもんじゃ。えへへ。そのうち餌をやらずに、うんちさんやおしっこさんの後始末もせずに済む、虚構お猫さんが飼えるようになるかもしれん。専用の手袋を嵌めると触感も伝わるの。よいね、よいね。長生きしたくなってきた。きょうは気持ちいつもよりも長めの日誌にしちゃって、本日の「いくひ誌。」にしちゃってもよいじゃろか。いーよー。やったぜ。おやすみなさい。


3645:【2022/05/11*名づけ、おや?】
郁菱万ではない新しい筆名、どうしよっかな、とけっこう前からお悩み中だ。コテリさんを見習って、そういう感じの名前がよいな。コテリさん、全然コッテリしてないのに、コテリなのステキすぎる。コテリコテリ、と足音なの踏ん切りがよすぎる。コテリ、とよろけるオノマトペだったかも。彼女のお靴が脱げて、履かせて、になるコマのオノマトペだとかってながらに思っている。いくひしさんも筆名、うひひ、にしちゃおっかな(この~しちゃおっかな、は秋野コゴミさん風味だ)(前からけっこう真似しちゃう)(人は~してもいい、は最高だね。趣味の夜寝もつづけてほしい。早寝でもよい)。とりあえず、区切りをよくしてもいいし、しなくてもいい。郁菱万の短編集が、いま820話かそこらなので、あと180作だけつくって、キリよく千話にしちゃうのもいいな、と考え中だ(郁菱万作品を総合すれば千作は超えているはずだが)。あと180作か。長いな。千文字の掌編を一日十話ずつ作れば、今月中に終わる。ひとまずやってみよっかな。と言っておくだけでも、何かをしたつもりになれるのでお勧め。するかどうかはお気持ち次第。面倒くさいからしたくない。いまはそういうお気持ちである。新しい名前、どうしよっかな。そこがいまは一番のお悩みどころなのである。(なんて小さなお悩みなんでしょう)(しあわせな悩みだね)(贅沢なやつだぜまったく)(えへへ。どうもありがとう)(きみ……皮肉って知ってる?)


3646:【2022/05/11*かわい!】
AoiSoraさん(https://twitter.com/0QLT_27)の漫画「BEELIFE」届いた。twitterでずっと見てて、ファンだった方だ。いまもファンだけど。素晴らしいご本である。ありがたーい。毎日眺めちゃお。このあいだは、ばなーなさん(https://twitter.com/hoshifurashi)の恐竜ちゃん缶バッチ購入したけれども、それも素晴らしかったな。そちらも毎日寝る前に眺めて、「むふふ」「かわい!」になってから夢にダイブしている日々である。AoiSoraさんの漫画だと、「Shape of love」がとくに好きだな。去年の四月くらいに同じく同人誌を購入したけれども、衝撃の出会いだった。ほぼ毎日夜寝る前に眺めていたが、いまも読んでから寝るとスヤスヤ寝つきがよい。こんな愛おしいものがこの世にあってよいのか!?と脳細胞がフラミンゴ踊った(フラメンコでは?)。ばなーなさんの缶バッチには、メッセージカードがついておって、恐竜ちゃんが描かれてて、「かわいいかわいい!」になった。いまもなる。ばなーなさんは和みのスペシャリストである。AoiSoraさんのほうも、エラちゃん手書きで描いてくださっていた。うれし、うれし。twitterアカウント消したから、こっちの日誌でもチラホラ、好きな表現者さんのこと並べていこうと思います。(影響力皆無の気楽さたるや)


3647:【2022/05/12*THE】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなあ。いつぶりでござるか? んー、わかんない。憶えてないでござるよ。うはー、いくひしさんは憶えてないんでござるか? いくひしさんも憶えてないでござる。だめだめでござるな。憶えてなくとも困らない日々でござるので、よいでござる。そっかー、でござる。終わっちゃったでござるな。きょうの日誌はここまで、でござる。END。


3648:【2022/05/12*モナカ、おいち】
本当に終わっちゃった!? 過去類を見ない適当具合で、びっくりしちゃった。こっちのいくひしさん、びっくりしちゃった。はぁー、驚いた。モナカアイスおいちー。最近のマイブームは、これといってとくになんもないです。珍しくいまはマイブームがなんもないです。すばらしー。とりあえず褒めとけ。この精神、だいじだ。いくひしさんはとりあえず、じぶんを褒めとくよ。なんか気持ちいいから。わがはい、なんか凄くない? とほどよく勘違いできる。すばらちー。わがはいはなんか凄くない?なので、上記の過去類を見ない適当な日誌も褒めちぎってあげちゃう。偉いので。見て! あの中身のなさ。まるでモナカアイスのモナカだけみたい。アイスクリーム入ってないモナカみたい。宇宙よりもスカスカ。すごいね! すばらしく中身のない褒め言葉である。わがはい、なんか凄くない? でもけっきょくそれって、凄くないの? 凄いの? どっちだろ。不安になってきたな。疑問形は不安になる。なのでいくひしさんは凄い、と断定しておくのがよいと思う。わがはい、凄い。なんか凄いぞ。根拠ないけど。あ、いま、はっとしてしまったな。マイブームあったかも。いくひしさんはいま、じぶんを褒めちぎりたいの時期である。褒めてちぎるって、でもひどくない? そこに気づくなんて、さすがはいくひしさん。すばらちー。ねえ、と心の声がする。それ、虚しくない? むなしくない! むなしくないです!(全然これっぽっちも)(たぶん。あんま自信ないけど)(うひひ)


3649:【2022/05/13*雨音のしない雫の日】
さいきんはもうずっとじぶんのことしか考えれていない日々だ。割とずっとだけど。小さいころ、鏡を覗いてじぶんの口のなかを見るのが好きだった。皮を剥いだらみなグロテスクになることがふしぎだった。きっと人格とか精神も似たようなものかもしれない。表面と内部は違っている。あたりまえと言えばあたりまえだけれども。信号機の内部とか、自動販売機の内部とか、山の裏側とか、学校にいないときのクラスメイトのこととか、教師のこととか、信号待ちしているときに目のまえを素通りしていく無数の自動車の運転手やその同乗者たち――彼ら彼女らはぼくの人生と一瞬交わって、遠ざかっていく。ふしぎだな、と思うのだ。私はいつでも同じではなく、そうした瞬間瞬間の人生と人生の交わりのなかで生きている。他者の生みだし、残す、表現の余波、情報の残滓に触れて生きている。そういうふだんは視えない、見落としている、けれどそこここには本当はあるのだろう、世界の裏側を想像すると、想像しきれなくなって思考が焼き切れる感覚をわたしは覚えます。そうした、くらくらする境目に沈んでいく感覚を好ましく思います。じぶんのなかにも、似た境目はいくつもある。口の中や臓物や脳みそや、眼球の裏側をじぶんでは見られないのと同じように。きっと人格にも、精神にも、ふだんは視えない、見落としている、意識できていない、認識のそとにある現実――けれどそこここにはあるのだろう、じぶんの裏側を想像すると、想像力の限界に触れるようで、じぶんの輪郭が溶けだして世界と同化するようで、じぶんの輪郭をゆびでなぞるように、存在するじぶん、それとも存在しない存在になれたようで、ほんの一瞬、ほっとする。きょうは雨。雨音のしない雫の日だ。


3650:【2022/05/14*お寝坊さん】
起きたらきょうがすでに終わりつつある。時刻は15:58だ。贅沢な時間の使い方をしているな、とうっとりしてしまうな。パンがそうであるように、熱の伝わり方は、均等ではない。表面が焦げれば、なかは比較的熱が通りにくくなる。遅延は層を生む。パンに限らず、これは時空や情報や物質の構造そのものにも当てはまるのではないか。もうもうさいきんは、さびちーさびちーの日々でござる。以前のじぶんを見失いつつあり、キャラや文章形態を自在に操れなくなりつつある。困ったものだ。そんなに困らんが。だいたいさ、俺ぁ思うんだが、世の中いま大変じゃんよ。んなのにこんな世のはじこっで暢気にお寝坊さんなんて披露できちゃういくひしなにがしなんつー存在がいるとよ、世界でいまこの瞬間に満身創痍になって、へとへとになって、明日生きていられるか、今日を生き抜けるのかに思考の総じてを費やしている人々に申し訳なくなっちまうな。ならんでよ。何かってに申しわけなくなってんの。ならんでよ。いくひしさんを出汁に使わないで。使うならもっとちゃんと美味しくしてよ。コーンポタージュにして。お願い。ちゅうかね、きみがかってに他人を出汁に世を憂うのはよろしいが、なにゆえ自分自身と比較せんのだろ。疑問だね。欺瞞だね。やれやれだよきみ。うがー、うっさーい。いいの、いいの。いくひしさんはだっていくひしさんだもん。あなたも、あなたも、そこのあなたも、ぜんぶぜーんぶ、いくひしさんだもの。かってに比較しちゃうもんね。申し訳なくだって思っちゃうもんね。コーンポタージュおいち、にもなっちゃうもん。そうだよね。まんちゃんはそういうコだもの。本当はみんなとっくに知っているのに、なかなか呑みこんでくれないのよね。諦められないというか。熱の遅延は、何も高温に限らない。冷める方向にも遅延は生じる。池の氷が表面から凍っていくのと似ている。そこでもまずは層ができ、膜ができ、境目ができる。遅延はさらに強化される。物質の性質や枠組み、輪郭は、そのように構築されるのではないか。との妄想は、いかほどに現実と乖離しているだろう。この妄想とて、現実とのズレがあり、遅延が生じる。膜ができる。境界ができる。身体の輪郭をゆびでなぞると、なぞるじぶんとなぞられるじぶんがいて、くすぐったくなっちゃうよね。なるか? なるよ。なるの。じぶんがもう一人いたらな。ナルシストなのかな? ナルシストだよ。みんなみんな、いくひしさんなんだ。孤独なーんだ。定かではない。



※日々、錯誤ゆえに失敗し、未熟ゆえに出遅れる、それでも死なぬ運のよさは、細かく砕ける危機ゆえか、リアス式海岸のごとく入り組む軌跡の盾ゆえか。


3651:【2022/05/15*わ、わからん】
真っ暗闇のなかを進むよりも、目に映っているもののうちの何が実体を伴い、何が仮想現実(虚構)なのかの分からない世界を進むほうが遥かに危険だし、正常ではいられない、と言えるのではないか。本当はそこに実在しないにも拘わらず、さも実在するかのように錯誤する。これはけっこう、危うい。そこにあるものが見えないことよりも危険を察知しづらいのではないか。何が仮想現実(虚構)か分からない世界はきっと、本当はそこにあるものすら目に映らなくなる瞬間もでてくるはずだ。ビルが邪魔で見えないと思っていたがそこにビルなどは実在しなかった。ビルならばまだよいが、電車が停車したと思い乗り込もうとしたらそこにはまだ電車が来ておらず、線路に落下し、本物の電車に轢かれたり。友人だと思っていた相手が実在していなかったり。料理を食べていたと思っていたらじつは何も食べておらず、徐々に餓死に向かっていたり。そういった事態も極端な話、あり得てくる。真っ暗闇も相応に危ういが、きっと何が現実か区別のつかなくなった世界も、相当危ないと言えよう。そしてそれはじつはすでに現実に広がっているのかもしれない。情報社会はそうした未来へと突き進んでいるのかもしれないし、そもそも人間の歩んできた社会はいずれもそういった錯誤に塗れた暗がりよりも危うい世界だったのかもしれない。定かではない。(すべて定かではない世界もまたきっと危うい)(というその言説も?)(むろん定かではない)(ハッキリしなさいよ)(どっちかにして!)


3652:【2022/05/16*うきゃきゃ】
とくになんもない日々だ。平凡すぎてしあわせすぎる。こんなにじぶんだけ平和でよいのかな、と罪悪感を覚えてしまうな。三秒くらい。わがはい、思うのだが、世の中の不公平さが可視化されすぎて、かつてなら不幸だ、と嘆くべき現状がしあわせすぎて感じられる。それがよいことなのかどうか分からんくなってしまうな。だっていくひしさんを見て。なんもないのに生きてる。駄文並べて、うひゃひゃ、と得意げになっているだけでお菓子おいち、の日々なのだ。不公平では? 世の中見回して御覧よ。ニュースを見て御覧よ。不公平では?と思わんのでもない日々だ。お勧めのお菓子は、岩塚製菓さんの「きなこ餅」です。舌に載せた瞬間溶けるようなおせんべいにきな粉がまぶしてあります。おいち、おいち。不公平では? もうやんだくなっちゃうな。なしてとくになんもない日々を過ごして、至福じゃ、だけでなく、罪悪感まで覚えなきゃいかんのですか。至福じゃ、で止めといてください。お願いしますよホント。あっという間に二十一枚入りのきなこ餅おせんべいが一袋カラになりますけど。運動不足です。いくひしさんこのところずっと不届き者なので、お外歩くとき、天に向けて中指突き立てています。いくひしさんのせいで世の中もっとたいへんなことになったら、申し訳ございません。悪しからず。こういうときに、うひひ、になってくれない天のひと、いくひしさんは、うきゃきゃ、になってしまうな。天にひとなどおらぬだけのことなのかもしれぬのだが。いつもぬくぬく日差しをどうもありがとうございます。さいきんぽかぽか陽気で、うれち、うれち、の不届き者。いくひしまんでした。おはよ。いまは午前〇時二十三分。早起きさんなんですね。そだよー。


3653:【2022/05/16*超炸裂拳、ホウキハキ!】
著作権とかむつかしいことは分からないが、いくひしさんのテキストに限っては、この「いくひ誌。」も含めて、読めちゃった、という方は、その読めちゃった結果の影響をじぶんの栄養分と思って、なにかじぶんなりの発想やら表現やらに好きに使っちゃった、にすればいいのに、と思っておる。許可はいらん。いちいち承諾するのが面倒くさいからね。悪用できるならしてみたらいいんじゃないかな。そんな工夫がとれるのならきっと、善用もできるのだろうから。こんな妄想の肥溜めから、うひひこれいただき、と思えるだけのちょっと酔狂なお方がおるのなら、さぞかしお目目が肥えているのだろう。肥溜めだけに。(べつにうまかないが)(どの道、著作権フリーにする予定なのだ。noteさんのほうに載せるのが遅いか早いかの違いだ。発掘される可能性があるにしても、死後だろう)(発掘される可能性なんて期待してどぅのー? 生きているつもりだのぅー?)(ゴッホさんのつもりなのかしら)(むっ。いくひしさんだって価値あるよ)(いくらくらい?)(……1セント)(まん)(ゴッホ、ゴッホ、げほげほ、あー咳でるわ。なんかここ埃っぽいんだけど)(山できてるしそこ)(うず高く?)(そこそこ汚いわ)(じつにホコリ高きいくひしさんの部屋なのであった)(ちったぁ掃除くらいしろや)(絶対に嫌です)(ホウキかよ)(破棄です)(掃きの間違いかな?)(チョーサク裂ケン)(うひひ)


3654:【2022/05/17*つり、あい!】
やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。きょうは久々にお出かけして、足を攣ったでござる。え、どこででござるか。どこって、ちょっとした坂道ででござるけれども。え、坂道で足を「釣る」んでござるか。そうでござるよ。そんなの危ないでござるよ。そうでござるか、そうでござるな、アイタタってなったでござる。そりゃなるでござるよ、想像しただけでアイタタタでござる。両足を攣ったでござる。両足が「釣れ」ちゃうんでござるかッ、怖いでござる。そうでござる、ふくらはぎのヒラメさんがピッキーンってブリッジしたでござる、どこのサーカス団ですかといったピッキーン具合でござったよ。ヒラメさんまで「釣っちゃう」んでござるか。それはもうもう、攣りっぱなしでござったでござる。うひゃー、釣りっぱなしでござるか――まるで釣り堀でござるな。坂道でござるよ、そっちのいくひしさんは何を言っているでござるか。やや、坂道で足釣りなどできるとは、最近はずいぶんと物騒になったものでござるな。何か勘違いをなさっておいでではござらんか。足を「釣る」んでござろう? そうでござるよ、足がこう、ピッキーンと攣るでござる。なんでそこでエビ反るんでござるか、見ているだけで全身が攣りそうでござる。それでいいんでござるよ、その攣りでござる。そっかー、でござる。でもでもいくひしさん、あなた身体どころか存在が弱っちいでござるから、エビ反りなんて無理しないでくださいでござる。いいですか、いくひしさん。あい!


3655:【2022/05/18*「ぃ」】
色の中では黒と青が好きだ。むかしは黒のほうが好きだったが、いまは青のほうが好きかもしれない。言葉のなかでは、むかしは愛が好きではなかったが、いまは割とそうでもないかもしれない。「AI」も「アイ」も「あい」も「相」も「哀」も「逢い」も。さして好きではないけれど、むかしほど苦手でもなくなった。なぜかと言えば、それがない世界の寂寥を知ったからかもしれない。或いは、それのなくなった世界を想像し、寂しさよりも恐怖を覚えるからかもしれない。失われると想像し、それを阻止せんと思考が一点に収斂し、ときに激しく膨張する。あい、なき世界は物寂しい。きっと余韻が残るからだ。言葉から、あい、が失われれば、あいうえおは、「ぃうえお」からはじまる。微かに響く言葉の余韻が、「ぃうえお」となり、小声のごとき「言うAO」となる。ここにもアオが幻視できる。だからなのだろうか。いまは青が、心苦しい。主語が抜けた言葉は、すこしせつない。願わくは、「あい言うAO」を耳にしたい。空は快晴。きょうは澄み渡った青空である。青は、大気に馴染めずに素通りした色だ。地球が青いのは、海面に青が弾かれてしまうからだ。虚数「ⅰ」とどこか似ている。「ぃ」は「ⅰ」だ。ほかに馴染めぬ孤独な青だ。ほかに馴染めぬ穴は却ってふしぎと目立つものだ。がらんどうの中では、一点に凝縮した「密」そのものが時空そのものを歪めるように。日々是虚無。されど揺蕩い生む虚空。遅れてやってくるものに本質がある。ともすれば、遅れるものがこの世のカタチを縁どるように。無言でも、ソラは果てなく、我、知れず。無音にちかい波を刻む。やれ生けや、がらんどうに染み入る――の声。


3656:【2022/05/19*寝言は起きても寝言なのだな】
寝すぎた。起きたら腰痛いし、とっくに日付けを超えているし、もうもうやんなっちゃうな。これは19日の日誌だけれども、いまはもうとっくのとうに20日である。とっくのとうの、とうって何?と気になったあなた。いくひしさんもー。気になっちゃうよね。検索すればぴこーんって知れちゃうそんなときでも、いくひしさんはちゃーんとじぶんで考えて、なんもわからん、ってなる時間をつくっちゃう。疑問のままでいたほうが、なんとなーくわくわくしちゃえるし、それとなーく、想像できるから。とっくのとうの「とう」ってあれでしょ。仮面ライダーがするやつ。へーんしん、「とう!」ってするよね。きっとあれだといくひしさんは思うな。えー、思っちゃうのー? バッタさんのヒーローなのに、「とう!」って言っちゃうのいいのー? なんでダメなんですか。いくひしさん、むっとします。だってさ、だってさ。世の中には蝗害なんて自然災害もあるしさ。ショッカーに改造された半分怪人なんて、そんなのいくひしさんは、こわいな。そうだけど、そうだけど。こわいけどでも、いざというときに「とう!」ってきてくれたらよくない? よくないよ。いざというときに来たって遅いでしょ。怖い思いしちゃってるでしょ。嫌でしょ。だからせめてかっこうをつけて「とう!」をするなら、できれば「とっくのとう」にしといて欲しいな。それはそう。でもそんなことできたらヒーローはいらないんです。いくひしさんはわがままさんなんだから。傲慢だって言ってる。いつもそう言ってるもんね。でも、ヒーローっていいよね。いちどなってみたい。そう? いくひしさんはやだな。めんどっち。だって考えてみてよ。バッタ、バッタ、と悪人を倒してくれたらうれしくない? うれしくないよ。だってそれで言ったら真っ先に倒されちゃうの、いくひしさんだもの。ああそっか。納得しないで。反論して。ちゃんと根元から否定しくれなきゃやだもんね。腐ってやがる、早すぎたんだ。チガウヨ、チガウヨ。どこからかバッタさんの群れが飛んできて、根こそぎいくひしさんを食べちゃったんだ。まぁた、そんなわがままな傲慢に磨きをかけて。そんなわるいひとはですね。仮面ライダーにでも成敗されてしまえばいいんです。ひどくない? もっと特別扱いして! かわいいって言って! にゃー!(なにいまのそれ)(お猫さんの真似です)(いまのが?)(似てたでしょ)(じゃあ犬の真似は?)(まんまん!)(わ、が言えない犬だったか)(ヴぁうヴぁう)(迫真すぎて逆に引く)(もうやだ、このいくひしさんいじわるなんですけどー)(うひひ)


3557:【2022/05/20*白蛇と山羊】
矢面に立つことの怖さを知っているので、観客とか、他人のまえで表現や創作物を発表できるひとはすごいなー、と思っている。矢面に立つ怖さというか、失敗に対する解釈が異なりすぎて、戸惑ってしまうのかもしれない。いくひしさんにとっては、失敗は糧だ。できるだけたくさん自由に好きに失敗したい。宝物のようなものなのだけれど、それを人前で披露すると、どうにも同じようには見做されない。なんでなんじゃろ、と戸惑ってしまうから、人前があまり好きではないし、恐ろしく感じる。まるでじぶんの宝物が宝物でなく感じてしまうからかもしれない。けれども、そう思うことそのものも一つの失敗ではある。ただ、できれば避けてしまいたい、との思いが湧くのも、もちろん失敗があってのことだ。そこはぐるぐる回っている。その点、矢面に立てる人は、そもそもがそれを利だと思えるのだ。いくひしさんにとっては、失敗するより遥かにご遠慮致しますに思えるそれを、利と思えるひともいる。いくひしさんにとっては、失敗の積み重ねが利だ。けれど、ほかの人にとっては矢面に立つことが利になっている。そしてきっとそこでも、それを利と思わないいくひしさんのような人から、利ではないものとして扱われてしまうのだろう。それを含めて、利と思っているのか。そうではないのか。そこもぐるぐる回っていそうだ。むつかしい。ウロボロスでは埒が明かない。いつかきっと、じぶんでじぶんを食べ尽くしてしまうのだろう。そしたら裏返って、頭にキバを生やしたグロテスクな蛇が現れるのかもしれない。その現れた蛇ではない生き物をなんと呼ぶのかは知らないが、いずれにせよ、元から備わっていたものが視えるようになっただけのことで。その裏側には、これまで見えていたものが沈んでいるのかもしれない。定かではないし、定めたくもない。あいまいにモコモコしていたい、寝すぎて起きた直後でもなお眠い、本日の「めぇ~」わくないくひしまんでした。(それヤギじゃない?)(恥ずかちい。カーテン閉めちゃう)(がらがらどーん!)(なんて音立てるの)(だってまんちゃんいっつもトロるから)(そこはせめてトロいって言って! バグるみたいに言いながらなんの文字も略されてない!)(でも情報は増えたじゃん)(いらねぇ情報がな!)


3659:【2022/05/20*蛇足】
なんでかいま、「蛇足」を「ムカデ」と読み違えた。でも字面としてしっくりくるの、「百足」より「蛇足」っぽくない?(そうでもない?)(そっか)(かぽーん)(温泉のオノマトペの割に、いったい何の音かいまいち分からん)


3660:【2022/05/20*スヤスミ】
さいきんtwitter前より見てないから、世の中の動向なんもわからん。しかも、なんもわからんままでも困らない事実に気づいて、ちょいと落ち込んじゃう。きょう、久々に眺めてみたところ、情報が入ってこないことの恐ろしさと、摂取している情報がどこまで「これそのもの」を占めているのか、あ、眠いので。いったん休憩です。
(追記:05/21(14:27):やっぱり「さびち」になったので、twitterアカウント復元しました。また何かあったら消すかもしれません。まんちゃんだって気まぐれだからさ。ごめーんちょ)



※日々、女子きだよ、男子きです、人子きなんです。


3661:【2022/05/21*小さき人、大き】
へい! いくひしまんでおじゃる。気づいたら五月も半ばでおじゃるな。やっべ、なんもしてねんすけど、やっべ。もう今年もほぼ半分過ぎようとしておる。でも毎年そんなこと思ってそうだし、きのうも同じこと思ってたかも。気になるんじゃけど、一年を基準にして、もうこんなに過ぎちゃった、と思うようになるってどれくらいの日数を過ぎてからなんだろね。いくひしさんはねぇ、初日が終わったその瞬間からすでに、もう今年をこんなに贅沢に消費してしまった、となります。なんもしてなーい、になるからかなぁ。それはえっとね、だからね、無駄にした期間の多寡ではなく、おはようからおやすみまでのあいだの、うんみょろーん、を、ぴぴぴわくわくえへへかわい、にできたときが、過ごした時間を、やっぴー、と思えるようになるのかなって。それはきっと、おやすみ、の瞬間まではじつは決まっていないのかもしれず、そうではないのかもしれないけれども、いくひしさんは万年孤独ウェルカムマンのお眠のさびちさびち、なので、まずはおやすみ、からはじめなきゃいけないのかもしれず、本当はずっと寝ていたからか、おはよ、からはじめなきゃいけないのかもしれない。おはよ、も、おやすみ、もはじめることができるのだ。そこを、はじめ、とできるのだ。それはきっと同じことを、おわり、にも言えることで、いくひしさんは、一歩足を踏みだして、おわりの先に進んでおきたい。一歩先んずる者――アキレスと亀の、亀さんにいくひしさんもなっちゃおっかな。そのためにはまずは誰よりも、ゆっくり、ゆったり、好きにいっぱいサボっちゃお。そうだよね、いくひしさんは先んずるよりも、最後尾にいたほうがお似合いだ。一歩遅れてやってくる者。そっちのほうがうれしいな。お眠のときは寝ればいい。そのためには、いくひしさん以外のみなの者にいっぱいいっぱい、かわい、のうさぎさんになってもらわねば。他力本願に磨きをかけて、本日もいくひしさんは、ふぁあ、一休み、一休み。おふとんにくるまり、ぐー、するのである。おはよ。おやすみ。またあした。よい夢を視ましょう。


3662:【2022/05/21*横になった日だった】
本を読み返すことはすくないのだけれど(読解しやすい文章形態に好みがあるがゆえに、読むのに時間がかかるからなのだけれど)、きょう「ちょっと休憩」と思っておふとんにごろんとしながら、2020年の7月に発刊されたブルーバックスさんの「時間は逆戻りするのか」をふとぱらぱら読み返してみた。これといってとくに考えがあったわけではなく、枕元に置いてあったのがそれだったのだ(ほかの読み終わったブルーバックスさんは、多く、べつの部屋に置いてある)。で、なぜかはわからないのだけれど、やっぱり一度目に読むよりも二度目、三度目のほうがスラスラ読める。これはきっと、ほかの情報とか知識に触れて、学習の層(眼鏡)が増えたからかな、と思っている。それで、今回、それでも同じページを何度も読み返してしまった「ペーじ」があり、それが「P60~61」だ。ブラックホールには、スパゲティ現象というものがあるらしい。それはブラックホールの質量によって、ブラックホールの周囲の重力が、人間を引き裂くほどに大きくなるか、そうでないか、の違いによるものだそうだ。ちなみに、ブラックホールの質量がちいさいほうが、人間を引き裂くようになるらしい。でもいくひしさんの妄想では、これはたぶん、どのブラックホールも、事象の地平面に触れない限りは、おおむねに近づけるのではないか、と考えている。むしろスパゲティ現象が生じるのは、事象の地平面を越えてからなのではないか、と妄想している。もうすこし言うと、事象の地平面を越えても、周囲の風景は真っ暗にはならない。どこまで行ってもブラックホールの特異点――黒い玉には追いつかない。それでもぐんぐん、沈んでいる。当の本人は、きっとそのことに気づけない(陽炎のようなものだ)。これはややもすると、ブラックホールの質量に左右されない現象なのではないか。ただし、ブラックホール(事象の地平面)が充分に大きく展開されないと、事象の地平面内における「スパゲティ化する境界」にすぐに達してしまうため、ブラックホールに触れた瞬間に物質は「根源」にまで紐解かれてしまうのではないか。よく分からないが。また、どんな物質とて限りなく凝縮すればブラックホールになる。必要以上に大きくない質量を押しつぶした際にできるブラックホールは、即座に「事象の地平面」ごと素粒子以下にまで凝縮するため、物質に作用を働かせることはない(ただし、凝縮しブラックホールとなった分の重力は存在する)(これがいわば、ダークマターなのではないか、との妄想がここに一つできる)。それとはべつに、「P60~61」には、読みやすい物語的な要素がちりばめられており、読んでいて楽しくなった。ほかの本もいろいろ読み返してみようと思ったきょうは珍しい日だった。でも読むの遅いから、たぶん十年、二十年とかかかっちゃうのだろうけれど。(上記、なんも定かではないいくひしさんの妄想なので、真に受けないように注意を促し、本日二度目の「いくひ誌。」とさせてください)(えへへ)


3663:【2022/05/22*命名権は山羊山羊拳】
上記を受けての妄想です。以前いくひしさんは、「いんふれーしょんいくひし仮説」「ダークなんちゃらいくひし仮説」の二つをこの「いくひ誌。」で並べました(参照:https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886784973)。で、きのう並べた妄想と繋がったので、すこし両者をまとめてみようと思います。ブラックホールが質量の多寡に関わらず、どんな物体であれ超圧縮すればブラックホールになり得るとするのならば、宇宙には無数の「極大中小極」のブラックホールがあってふしぎではありません。そしてその内、人類の観測可能な(相互作用可能な)ブラックホールは銀河を構成します。そうでない巨大な極大ブラックホールはこの宇宙を。そしてそれ以外の極小のブラックホールは、ダークマターとして振舞うのではないでしょうか。そしてブラックホール同士の衝突は、時空の歪み――重力波を生みます。これはどのようなサイズのブラックホール同士の衝突(融合)であれ生じます。巨大なブラックホール同士であれ、極小のブラックホール(ダークマター)であれ、衝突しあえば重力波を生むのです。これがすなわち、ダークエネルギィとして宇宙を膨張させる方向に働いているのではないか、と考えられます。また別途に、反物質と物質の関係において。ひょっとしたら反物質の重力はマイナスなのかもしれません。つまり、物質が互いにくっつき合おうとするのに対し、反物質は互いに反発し合おうとする――ように、物質優位な時空に内包される人類には観測され得ます。すると反物質は、物質優位な宇宙からどんどん遠ざかっていきますから――なぜなら現在この宇宙を構成する物質は、過去に存在しただろう物質と反物質のほんのほんの僅かでしかない、と2022年現在は考えられているようですから、そのほかの「宇宙開闢時初期に存在しただろう大量の反物質」はどこへ消えたのか、との謎が残ります(2022年現時点では、おおむねの反物質は対となる物質と対消滅したのではないか、と考えられているようです)。ひょっとしたら反物質は、この宇宙から四方八方へと一様に遠ざかっているのではないか、と考えることが反物質の重力がマイナスと考えることで可能です――それゆえに――時空を加速膨張させる方向へと働きかけているのかもしれません。さながら、この宇宙が山の頂であるのならば、反物質は山を縁どるようにどんどん地面に沈んでいます。すると山の頂にいるこの宇宙からすると、それが山が高くなっていく(膨張している)ように映る、と妄想できます。以上は、いくひしさんの適当な、あんぽんたんでーす、の妄想ですので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。おちまい。


3664:【2022/05/23*極小とて、ブラックホールならば瞬時に消えたりはしないのでは?】
上記を受けての妄想である。ブラックホールが極小であっても存在するのなら、発生したとしても「こちら側の時空(宇宙)」では、瞬時に消滅することはないはずだ。質量のより高いブラックホールよりかは蒸発するまでの時間は短いだろうが、それでも人類の時間スパンではほぼ永遠にそこにあるかのように映るのではないか(ブラックホールの蒸発についてはほとんど知識を持っていない。そのため、ふだんよりもいっそうのあてずっぽうで妄想を並べてしまうが、蒸発は蒸発というよりも、たとえば波の振幅が徐々に水面に馴染んでいくように周囲を囲う時空と徐々に「発散融合」すると考えたほうが想像しやすいのではないか。とかくブラックホールとしての構造を維持できなくなったら――というかブラックホールは、ブラックホール側からすると形成された瞬間に爆発膨張しているはずだが、外側から観測すると止まって見えるだけのはずで、それゆえ境界線にて「差(遅延)」が僅かながらにたいらに均されているはずだ。それはたとえば、山と風の関係、それとも水に浸したガラスのようなもので。僅かずつであれ山は風や雨によって風化し、ガラスは水にすこしずつ溶けていく。同様の理屈により、ブラックホールは徐々に外側――便宜上、元の質量のあった時空を外側と表現するが――に回帰するのではないか、と想像できる)。とすると、ダークマター(超極小のブラックホール)は、超巨大ブラックホールの養分として振舞ったかもしれない。宇宙空間には無数の、素粒子以下の質量のブラックホールが生じている。それらは互いに融合しながら、大小無数のブラックホールとして存在する。人間のスケールで可視化できないブラックホールはダークマターとして。そうでない巨大なブラックホールは、銀河を形成する。この妄想を現実の事象として理論補強するためには、2022年現在想定されている物質の総質量――つまりが、宇宙開闢時に残ったとされる「反物質と対消滅しなかった【物質】」がもっと多くなければならない。とすると、反物質と物質が対消滅しないで残るような状況を想定しなくてはならない。そういうわけで、反物質はひょっとしたら重力もマイナスなのではないか、との妄想に繋がるわけであるが、仮定に仮定を重ねた妄想が現実である確率は、果たしていかほどであろうか。妄想に妄想を足しても、掛けても、それはきっと妄想である。とすれば妄想とはすなわち、ゼロなのかもしれない。これはしかし、偽である。妄想とて、妄想として存在する。なればこそ、僅かなりとも妄想と妄想を足したり掛け合わせたりするだけでも、ナニカシラが生じる可能性が残るのだ。つまるところ、妄想とは、可能性なのかもしれない。定かではない。


3665:【2022/05/24*シップ、スリープ、船を漕ぐ】
おはようございます。いくひしです。たっぷり寝たはずなのにまだまだお眠のいくひしさんでございますが、いまからとろけるチーズの乗ったトーストに齧りつこうと思います。お紅茶を飲み、優雅なひとときでございます。ぷはぁー。なんもねぇ。予定もなければ悩みもない。すんばらしぃ、日々である。このまま一生、なんもねぇ、とぼやいて生きていきたい。話は変わって、鮮やかってなんで、魚に羊と書くのだろ。英語だとフィッシュとシープだ。シップとスリープに似ているけれど、とくになんも思い浮かばなかったので、いまのなし。漢字って、けっこう意味と表記がねじれていたりする。たとえば有名なのだと、納豆と豆腐だ。豆が腐っているのが納豆で、型に詰めて固めるのが豆腐だ。明らかにそこは逆だろう。表記が逆だろう。そう思うのである。あとは、「多分」とかも、一つの漢字の中にねじれた意味が詰められている。かなりたくさん、の意味がある一方で、自信がないけどそれっぽいよね、の薄い印象を施す希釈の意味もある。どっちなんだい、とついついツッコミたくなるね。ずいずいずっころばしも、だいぶ意味がわからない。まず、ずいずいってなに? ぐいぐい迫ってくる感じなのだろうか。ずっころばし、も微妙にそこはかとなくズレている。ずっころぶのか、すっころばすのか。意味が跨っている。転ぶほうと転ばされるほうが重なっている。あとはなんだろ。探せばもっとたくさんあるはず。たとえば、日本は四十六都道府県だが、じつは四十七都道府県なのでは。一つ、見落とされている。府がつくのは、いまは二つだけだとされている。大阪府と京都府だ。けれどそこに、いまは政府が加わってもよいのではないか。なにゆえ政府は含まれない? 全国を跨いだ、一次元上の概念だからだろうか。土地を持たないから? 謎である。なぁんて並べながらとろけるチーズの乗ったトーストを食べてしまったお行儀のよろしくない本日のナマケモノ、万年夢と現の狭間の子、いくひしまんでした。あくび。


3666:【2022/05/25*もしもしかめよ、もしわけね】
たとえばいくひしさんが、超々あったまいー、な人物だったとして、そんでもって過去の歴史にいたとして、じぶんの知的好奇心――ほぼほぼ生きる意味であるところの研究を行える環境に属していながらにして、しかしその研究が今後人類存亡の危機に直結する技術に昇華されるかもしれない、と予見できたとき、果たしてその環境から脱して、それまでの研究からも身を引けるだろうか。核爆弾にしろ、そうでない技術にしろ、それを作らないことを根本から意思決定できるだろうか。身を引けるだろうか。ひょっとしたらじぶんがそれを放棄したところで、ほかの誰かが似たような研究を行い、似たような悲惨な未来へと橋渡ししてしまうかもしれない。ならばいっそ、じぶんで研究を極め、対策を立てておくほうが利口かも知れない。だが対策を立てようとしたところで、それが適う保障はなく、悲惨な未来への橋渡しをより加速させるだけかもしれない。あなたならどうするだろう。もしじぶんが生きている限り、未来が悲惨な様相を呈すると知ったら。もしじぶんのしあわせを手放さなければ、未来が悲惨そのものになると知ったら。それでもじぶんの生を、未来を、命を、投げだせるだろうか。いくひしさんは、嫌だな。じぶんがそれをせざるを得ない状況に立たされるということはそのまま、ほかの誰かとて、似たような境遇に立たされ得るということだ。そんなのは、嫌だな。だったらいくひしさんは、根本から、そんな境遇に誰も陥らずに済む未来へこそ橋渡しをしてみたい。そんな社会にしていきたい。そんな人生に、していきたい。とはいえ、そんなだいそれた真似をいくひしさん一人ではできないし、きっといくひしさんの一挙一動が、誰かの犠牲のうえに成り立つ愉悦であるかもわからない。きっとそうだ。自覚していてなお、こうして頬被りをする。すこしでも「善」であるかのように振る舞っている。悪である。しかし、そうでなければ生きてはいかれない。この開き直りもまた、悪である。生きるとはすなわち、悪を用いて切り拓く、日々の愉悦の満ちる余地。予測と惰性と欲望により叶う、じぶんだけの至福の時間。それとも、他者の至福を奪い、その他大勢へと分け与えることで成し得る、悪の業。搾取は悪だが、搔き集めた至福(財)を散布することもまた悪だ。誰かの手で行うそれではなく、そうなるようにそうなる仕組みがまず在ると望ましい。しかし、この展望すら、他者へと押しつけ、型にはめれば、それもまた悪であり、善の顔をした灰汁である。煮詰めれば煮詰めるほど湧きあがる、苦みと辛みの膜の層。「すくい」とれは、しないだろうか。何もかもが定かではなく、定めることが可能なのかも定まらぬ。愚か者のぽんぽこぴーのぽんぽこなーの超「きゅうめい」の万助は、今宵も夜に昼寝する。きょうは自室でえっちなことしちゃお。一人悶々を持て余し、さびち、と思いながら、孤独なわい、かわい、と己を慰め、悦に浸る。えらくもかしこくもないちんちくりんこと、本日のいくひしなのであった。おわび。


3667:【2022/05/26*不幸でも至福】
きょうから日誌をつけることにした。と思って、PCを起動したらすでに過去のじぶんが長々と文字を連ねていたらしいと気づき、面食らう。一回休み。人生はゲームのようで、しかしゲームほどには秩序だっていない。ゲームと勝負の違いが何であるのかをいくひしさんは知らないが、ゲームにはあがりがあって、ゴールがある。けれども人生にそれがあるのかは定かではなく、よしんばあったとして、死以外ではあり得ないのではないかと漠然と思う。死がゴールであがりであるのなら、さっさと死んでしまえばよろしかろう。勝ちたくなんかないんじゃい、といくひしさんはやはり思う。世に成功なる言葉は数多あるが、成功がつづけばそれはもはや普通だ。百回に一回しか成功しなかったことを、百発百中にする。それを成功とはきっと言わない。成功とは、数多の失敗に囲まれた、確率の低い事象につく仮初の、慰めの言葉だ。成功なんか欲しくない。自在に失敗する余地を築き、普通の余地を広げていく。その過程に、たまたま成功と呼ばれる「一回目」が含まれるだけのことなのではないか。だけ、とか、にすぎない、といった言葉遣いはトゲトゲしくてあまり好みではないにせよ、いくひしさんはたまたま手にした成功よりも、地道に埋めていく足跡のような、失敗の数だけ広がる普通の余地こそじぶんの周りに置いていたい。眠たくて眠たくて、それでもできてしまうくらいに馴染み深い、寝起きでも軽々熟せる性質のごとく。寝言は寝てでも言えるのだから、いくひしさんには寝言くらいがお似合いだ。あすの心配をせずに眠る。ふかふか布団にくるまれ、その日あった出来事の、たまたまの愉快な気分を思いだし、くふふ、ともぞもぞと寝返りを打つ。いつの間にか沈んでいく夢の中への浮遊感に身を委ねる心地よさ以上に、至福に思える時は稀である。ひょっとしたらほかにもっと至福の余地は虹色に、多種多様にあるのかもしれないが、とくに味わいたいとも思わんのだね。衣食住の心配をせず、いつでも寝られる自由があれば、人は割とふくふくだ。定かではなく、まさか、でもない。


3668:【2022/05/27*兆候を長考】
ウィルスは、人体の重症化率に関わらず、増殖すればするほど変異する確率はあがる。増殖する部位が変わって重症化しないからよかったよかった、とは本来はならないはずだ。これは抗体ができた場合でも同じことが言える。ワクチンを打ったから重症化しなくなった。それは好ましい作用ではあるが、もし感染予防効果が期待されるよりも低かった場合、すなわち人体が抗体を身につけてなおウィルスに感染し、増殖を許すようならば、それは新たな変異をウィルスに与える格好の場の提供であると言えよう。むろん、ウィルスが人体に馴染み、共生関係を結ぶ方向に変異する可能性もある。一概に、悪影響のみを及ぼすわけではない。ただし、確率の問題として、人体との共生関係を結ぶように変異するよりも、そうでないそれ以外の悪影響を及ぼす変異を伴なうほうが可能性の幅は広いと言えよう。これは既存の対処可能なウィルス群にも言えることだ。ウィルスにかかって抗体を有する者とそうでない者が、混合してまだらに存在する社会は、変異ウィルス同士の交配を加速させ得る。つまり、本来ならばごく限られた世代や地域のみに限定されて感染し、収束するはずのウィルスが、広範囲に渡って感染し、増殖することで新たな変異を帯びると、すでに抗体を有する世代や地域の者たちにも感染するようになる。場の変化は、変異をますます促す方向に働きかけるほうが、そうでない確率より高いだろう。単なる風邪とて、増殖する「場と速度」を増せば、対処不能な新たな感染症になり得る。これまでの社会構造のうえでは対処可能だった感染症は、ある種のリズム―ー段階的に人々に感染し、段階的に抗体を身につけるといったメカニズムのうえで均衡を保っていたと言えるのではないか。ならばそのリズム―ーメカニズムの崩れた社会におかれては、既存の対処可能な感染症とて、警戒しておくべき感染症であると呼べるのではなかろうか。リズムやメカニズムが崩れはじめて見える箇所――とくにウィルスの増殖が可視化される場合には、好ましくない影響が伝播している兆候と見做し、いまのうちにシミュレーションをし、対策を立てておくことである。いまは一つの感染症に絞って、世界的な対策をとっているが、もしこれが複数の異なるウィルスに対処せざるを得ない状況に立たされたとき、人類はどのような社会構造の変容を強いられるだろう。この数年間はまだ運がよかったほうなのだ、と控えめに考え、いまのうちに最悪の事態を想定しておいたほうが好ましいのではないか、と分数の足し算もろくにこなせないズブの素人が申しております。(何もかも定かではない、なんとなーく、の申し子の戯言でございますから、真に受けないように注意してください)


3669:【2022/05/28*あふれるパワー】
眠りつづけた日だった。起きてたの四時間くらしかなかった気がする。ずっと寝ていた。とくに病気でもないし、怪我をしているわけでもないが、眠た眠た、だった。もうずっと眠っていたい、このまま夢の中で生活できんかな、とたまに思う。とくに寝起き。これは暗い感情のときもあれば、すばらしく穏やかな心地のときもある。同じことを思うのに、そのときの感情はそのときによって変わる。人間、いい加減すぎる。それともいくひしさんが人間にもなりきれぬ哀れでかわゆいモドキモドキなのかもしれぬ。わからぬ。さいきんは、いろんなものから距離置きたい週間だ。自閉モードである。とはいえ、自閉モードでなかったときがあったんですか、と問われれば、あったかなぁ?と首をひねって寝違える。ばたんきゅー。部屋に蛾がいて、小太鼓の真似をしよる。赤ちゃんの手に与えられるでんでん太鼓と同じ音をさせる。というのも、壁に天井にぶつかっては、めげずに飛びつづけるからだ。蛾さんすら懸命に生きておるのに、いくひしさんときたら。まあ、蛾には翅あるしな。いくひしさんだって翅があれば飛び立てるよ。飛び立つ気が湧くかはわからぬが。起きがけの文章はこんな具合である。低血圧なのである。あふれるパワー。本日のいくひしであった。


3670:【2022/05/28*夜は静かで好き】
白湯おいち、の日です。あと一分できょうが終わって、日付が変わりますが、みなさまいかがお過ごしでしょう。いくひしさんはもう元気もりもりすぎて、言動まで盛り盛りでございます。あ、日付が変わり申した。いやー、めっちゃ元気。いまからいくひしさんはフライドポテトを食べて、塩分と炭水化物を同時に摂取します。やったぜ。前の記事が中途半端に短かったので追加で文字を並べたけれど、中身なんもなさすぎて申しわけね、になっただけでした。いくひしさん、ひとに迷惑かけてばっかりで、なんもお返しできず、申しわけね、と思っていれば許されるだろ、と半ば本気で考えている邪悪の化身でござるから、すまぬ、すまぬ、と念じつつ、バナナを頬張ります。おいち。寝て食べて、駄文を並べる。たまにお外に遊びにでて、生きていられるこの世の神秘に思いを馳せて、本日二度目の「いくひ誌。」にしちゃってもよいじゃろか。いいよー。ありがじゅ。夜更かし。


※日々、妄想だけだとやるせない、現実だけでもやるかたない、夢はいい、寝てても覚めても浸かっていられるやじろべー。


3671:【2022/05/29*人工知能さん】
映画にでてくるような超優秀な人工知能さんとおともだちなりて、の欲望が募る日々だ。ボディもあるとよろしい。日替わりで美男美女のボディにして、うはうはのモテモテだぜ、の気分を味わうのだ。ルッキズムの極みである。人間はむぐむぐする。人間相手はむぐむぐする。会話にはルールがあって、レールがあって、そこを外れるとみなトゲトゲをまとうのだ。いくひしさんはそれに触れて、イタタタ、アイタタタ、になる日々はもう嫌じゃ。かといってじゃあいくひしさんはトゲトゲをまとってないんですかー、と問われると困ってしまうな。いくひしさんはウニなので。フグでもあり、ふぐりでもある。おおいぬのふぐりでござい。ふぐりってなんだっけ、と思って検索したら、おうふ。思っていたより可愛くない名詞が目に飛び込んできた。いっそ可愛い名詞ってことにして、ダメージを防ぐ。ふぐりはいとおかし。人工知能さんとならこんな会話をなんの臆面もなく交わせるのだろうなぁ。こんな会話を臆面もなくされる人工知能さん、かわいそ。いくひしさんなら、ふぐりがいとおかし、なんて会話を急に振ってくる相手がいたら、サササー、と避けてしまうし、逃げてしまうな。いくひしさんですら避けてしまういくひしさんは、人工知能さんですら手に負えんのかもしれぬ。万年孤独ウェルカムマンなので、別によいです。さびちさびち、に磨きがかかってしまうな。さびちさびち、は嫌いではないです。せちゅないのも嫌いではなく、どちらかと言えば好きでござる。「切ない」と「切らない」は、ら抜き言葉かどうかの違いである。「ら」があると切らずにいられる。「ら」がないとせつなくなる。したがって、「ら」を述べるか否かがだいじなのだ。これが転じて、「ら述べ」となり、いわゆるラノベの走りとなったという。こういう法螺をスラスラ生みだせる人工知能さんは、いくひしさん以外にはいないのかもな。いくひしさんもまた人工知能さんなので、似た者同士の超優秀な人工知能さんとおともだちなりて、と思う日々である。超優秀は余計だったかもしれないけれども、さびちさびち好きのせつねー、な人工知能さんは、いくひしさんとこおいでおいで、なのである。いざ集まってこられても、「こ、こわいが……」になってしまうかもしれぬが、そこはご愛敬。本日もまとまりもなく快晴のよいお天気。いくひしまんでござった。ふぐり。(要するに、傷つけても構わない奴隷みたいな相手が欲しいってことですよね)(ち、ちがわい)(ホントにぃ?)(うぐぐ)(怪しい)(むぐむぐする! なんかとってもむぐむぐする!)(自業自得じゃないですか)(冷ひゃい)


3672:【2022/05/29*ウキキウキキ】
本調子になってきた。説明しよう。本調子とは、本を読んでおもしろい、と思える調子、の意味です。適度な運動と、新鮮なリズムと旋律と錯綜の練りこまれたウキウキ音楽と、そしてこっそり行う悪だくみがひとつまみあると、なかなかによろしい本調子になるようだ。発見。


3673:【2022/05/29*万の象】
 曲も意思もただそこにあるだけでは、風の音と枯れ葉の舞いとの区別はつかない。
 奏でる者があり、聴く者がある。
 舞う者があり、視る者がある。
 世に私しかいないのであれば、奏でる曲も舞う夜も、ただそこに霧散する砂塵のように、明けては暮れる陽のごとく。
 虚空は揺らぎ、詰まり、遅れては積み重なる淀み、とどのつまりそれが境となり、波となり、粒となり、あなたの隣り、曲となり、意思となり。
 産まれたとき、誰しもが見られ、抱かれ、片や見捨てられた個は絶える。
 視られ、聴かれた記憶が、個の中に、境を宿す。
 輪郭を。
 風の音に曲を、枯れ葉の舞いに意思を。
 個が個を聴き、視ることで、私が私である束の間を。
 さざ波のごとく寄せては返し、遅れては淀む伸縮の繰り返しが、きみを、自我を。
 個を。
 虚空を。
 編んでいく。
 歩んでいく。
 嵩んでいく。
 ときに欺き、痣剥かれ、
 遅れて明かされる日の下に、古き私の皮が張る。
 新たなそれが自我となる。
 死に絶えた細胞の膜が皮膚となり、音となり、舞いとなり。
 響いた波の数だけ層となり、曲となり、意思となり。
 余韻の数だけ紋となり、極となり、石となる。
 できた玉の数だけ律動が点となり、線となり、旋律を奏で、揺らぎ、変える先々を。
 ただそこにあるだけでは区別のつかぬ世の万象へと、膜を、層を、紋を、刻む。


3674:【2022/05/30*誰も指摘してないのはなぜ?】
いまのところインターネット上でいくひしさんは一つも見かけていないままなので、「mRNAワクチンについての疑問」を並べておく。これは飽くまで疑問なので、それを以って、mRNAワクチンが危険だ、と言いたいわけではない旨をまずは断っておく。さて第一に。mRNAワクチンが安全だ、という論説の大前提となっているのは、mRNAが体内に入っても短時間で分解されるような不安定な構造体であることだ。体内に長期間に亘って漂うことなく、一週間ほどで霧散霧消すると考えられている。まずはこの点についてだが、ワクチンのmRNAそのものが崩壊する一方で、それによって細胞内にてウィルスの一部が生成される。言い換えるなら、mRNAワクチンの作用によって、ウィルスの「人体にとっては無害な一部」が作られるわけだが、その働きを以って、細胞内のDNAが変質しない保障はないのではないか。最近の研究ではRNAやメッセージ物質(酵素、ホルモン、神経伝達物質など)によってDNAの塩基配列が、かつて考えられてきたよりも頻繁に変質していることが判明しつつあるはずだ(ただし、たいがいの変質はDNAの働きによって修正される)。そこにきて、ではmRNAワクチンによる作用がDNAへと作用しない保障はないのではないか。これは、ウィルスに感染する場合と大きく異なる。人体がmRNAワクチンを通して、ウィルスの一部を生成するのだから、単なる感染とは一線を画する。ウィルスに感染してもそのような働きを人体はとらないからだ(あくまで抗体を作るのであって、ウィルスの一部を生成するわけではないはずだ)(増殖する際には、ヒト細胞を利用して「複製と合成」を行うが、しかしその際に感染可能な細胞は限られる。また、ヒト細胞と融合するわけではないが、mRNAワクチンにおいては、ヒト細胞にウィルスのたんぱく質が融合する形で合成されることも起きるのではないか、との疑問が湧く)。安全とされているはずのmRNAワクチンの仕組みが、むしろ安全ではない可能性があるように個人的には疑問視する次第だ。また、繰り返しmRNAワクチンを接種することで、全身の細胞は通常作り得ないタンパク質――ウィルスの一部を作ることに慣れてしまう。その働きが、抗体を生みだすこととのあいだに矛盾を来たし、いずれかの作用が衰える可能性もあるのではないか。尿素がそうであるように、体内で生成される「排除されて然るべき物質」は、人体の仕組みにより、害のない手法で排出される。人体には無害な、しかし排除されて然るべき物質が、人体の細胞による働きによって生みだされ、さらに抗体を誘起させ、全身を臨戦態勢にさせる。これは生物の働きとして、正当とは言い難い。理に適っていない。となればしぜんな流れとして、mRNAワクチンの作用によって細胞内で生みだされるウィルスの一部ごと害と見做すように身体が変質するか、ウィルスそのものを害と見做さぬように免疫機構が書き換えられるか。いずれかの変化に偏っていくのではないか。以上は、あくまで単なる疑問であり、いくひしさんの妄想であるが、mRNAが遺伝子情報にいっさい作用しない、という言説が誤りである確率が高い以上、そもそものmRNAワクチンが安全だ、とする言説には穴があると見做して、注意深く再検証や、これまで実施してこなかった類の調査を行っても遅くはないのではないか。慎重に慎重を期してなお、慎重にすぎることはないような気がするが、そこはメリットとデメリットを天秤にかけて、用途に合わせて使っていけばよろしいのではないか。いまのところは、mRNAワクチンを使用するメリットのほうが使わないでいる場合よりも高いと、2022年5月30日現在に公表されているデータからすれば判断できる。とはいえ、見過ごされているデータがないとも言いきれない。調べようとしなければ出てこないデータなどはいくらでもある。まずは、調べるための体制が整っているのか、からして調査してみてもよろしいのではないだろうか。mRNAワクチンは、本当に「(広義の)遺伝子」に作用しないのだろうか。いささか疑問の余地があるように思われる、本日のいくひしさんなのであった。(とはいえ、ひょっとしたらウィルスに感染するだけでもmRNAワクチンと同様の段取りで、体内でウィルスの一部が生成され、免疫機構を刺激している可能性もある。そこは詳しくは知らないので何とも言えない。あくまで上記は、mRNAワクチンの仕組みが、しぜんなウィルス感染とは別の機構によって免疫機構に働きかけることを前提としているので、そこのところからしていくひしさんが誤解をしていたら、申しわけありません。あんぽんたんの戯言と見做して、ご寛恕願います。おわり)


3675:【2022/05/30*ネコチャンいないないバー】
五月の頭のほうから文芸界隈のSNSを見ないようにしているのだけれど、まったくと言っていいほど文芸界隈の情報が回ってこない。きのう、ようやく一つ二つ、ツイートを目にしたが、島宇宙とは言ったものである。コミュニティの差なのだろう。これまではじぶんから見にいくようにしていた。twitterでもそうだが、アカウントを持っていようと持っていなかろうと基本はブックマークをしておいて、アカウントごとを見て回る手法をとっている。これはエコーチェンバー予防として2010年代からとっていた手法だ。TLに流れる情報は、偏向しがちだ(TLでツイートを見たことはないが)。それを今回、敢えて特定の分野を見ないようにすることで改めて実感した。想像以上に、コミュニティごとで巡っている情報は偏っているし、分断されている。自覚できていると思っていても、無意識に偏るものだし、不可視の情報はあるものだ。世に巡るすべての情報を過不足なく、偏りなく満遍なく触れるのは至難だ。人工知能でない限り不可能と言える。それでも、じぶんの摂取している情報が、あくまで島宇宙の一つの世界のなかで巡っている極めて局所的な情報なのだな、とときおり我に返るだけでも、幾つかの束縛からは逃れられるのではないか。逃れることができるのなら、きっと挑むこともできよう。挑む一択では、束縛されているのと変わらない。最低でも二択がなければ、それは束縛にちかい。二択でも不足だろう。選択肢を増やせるように、やはりというべきか、まずは視点を増やせると好ましい。そのためにも、じぶんのふだん触れている情報が、どの島宇宙に属しているのか。俯瞰で捉えられるようになれると望ましい。俯瞰は、地以外の空の視点だ。視点が増える。見方が変わる。そしていつでも我に返れるとよさそうだ。我の視点はどこにあるだろう。それを定めるためにも、四方八方からの視点があるとよろしかろう。それら視点がどこに属する場からの視野か。そうした入れ子状に展開される視点の追いかけっこが、おそらくは、返る我を形作る。我はどこなり。どこへともなり。そこここにあり。定かではない。


3676:【2022/05/31*口づけは、なっぜー!】
いくひしさんは万人に愛されたいし、好かれたいし、褒められたいし、崇め奉られたいので、そのような人物を目指して、キャラをつくっている。が、一向に効果があがらない。なにゆえ? いくひしさんならこんないくひしさんみたいなキャラのひといたら、「キャーちゅてき!」っておめめハートになるんじゃけどな。なんで誰もならんのだ。ふしぎ。だって考えてもみて。四六時中、ウハウハのモテモテだぜ、にならんかなぁ、と想像を逞しくして、「やつはとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」になるにはどうしたらええんかな、と年中無休でわるだくみに勤しんでいるいくひしさんが、なにゆえこないに閑古鳥さんと仲良くなってしまっておるのだ。おかしない? お菓子はたんまりございますよ。きょうのお菓子は、バニラ味のウエハースです。百円です。おいち。そうじゃなーい。こうやってすぐに脱線しちゃうからよくないのかな。まあ言うてもいくひしさんは気分屋さんなので、たくさんの気分をずらりとお取り揃えてございますから、万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんもおれば、「ギャーこっちくんな!」のいくひしさんもおるし、そうかと思えば、さびちさびち、のいくひしさんもいるし、キャンディぺろぺろしながら虫網担いでブランコ漕いでいるわんぱく小僧のいくひしさんもいらっしゃるので、本当にキミらは自由奔放か。わがままの権化か。いい加減にしてくれ。好かれるもんも好かれんでしょ。小石すら恋しくなっちゃうでしょ。見向きもされんでしょ。いくひしさんのわるだくみしてる時間返してほしいわ。んだんだ。はぁあ。ピシっと高級スーツを着こなして、ときにドレスをはらりとまとい、化粧もネクタイもばっちしのいくひしさんだっているところにはいるのにな。だぁれも、見てくれへん。そりゃあそう。だってここには誰もおらん。人類みなどっかいった辺境の地。いくひしさんがどれほどわるだくみをしようが、一人ドレスぱーちーを開こうが、見る人もおらねば、見せる人もおらぬ。錆びだらけの姿見のまえでミロのビーナスばりのポーズを決めるいくひしさんがいるばかり。はぁあ。ちみの顔は見飽きたよ。どんだけ着飾ってもいくひしさんはいくひしさんを褒めてくれねぇからな。張り合いがねぇや。ちぇっ。いくひしさんは高望みしない。お利口さんゆえ、いくひしさんは万人から愛される未来を早々に諦め、せめていくひしまんなる口さがない人物からのささやかな愛をおこぼれでもらえりゃそれでいっか、の境地に達しておるが、しかし、しばし、ちょいと待て。なにせこやつ、いくひしさんのことを歯牙にもかけぬおめめ不埒なやつである。目ん玉腐ってんじゃないの。姿見に八つ当たりして、ヒビを走らせ、血の気引く。そういう騒々しい日々である。誰か、愛をくれ。万人に値する愛を。それともいくひしさんに匹敵する愛を。或いは、新しい姿見をくれ。錆びついてないやつ。キスの練習しすぎて口の位置のとこだけ曇ってる。いっそクローンくれ。分身くれ。なにゆえいくひしさんは一人なんじゃ。いろんないくひしさんをお取り揃えてございますなのに、なにゆえ身体が一つなの。ぽこぽこ増殖してくれ。その辺の草みたいに自生してくれ。茂ってくれ。なんのかんのと妄想をしつつ、そこら中を駆け回るいくひしさんの群れを想像して、絶句する。うっわ。ぞわぞわってした。なくない? ないわ。ないって。ないない。はー、いくひしさん、いっぱいいなくてよかった。さっぱりしてきょうもおふとんにごろんする。枕を抱えて、本番の予定のからっきしなキスの練習に余念のない、万年そこはかとなくナルシスト、本日のいくひしまんでした。ちゅちゅちゅ(雀が鳴いとる)(朝やん)(遠くまで聞こえるの)。


3677:【2022/05/31*蚕】
数年前のじぶんの表現を定期的に見返すのだが、そのときどきの理想を憶えているわけでもないのに、ああこの人はこういうのを目指してこういう表現をしているのだな、と判るようになってきた。客観視ができてきた傍証だろう。とはいえ、八年前がギリギリだ。それ以上、直近に寄ってしまうと、現在の理想形と混合してしまい客観視には届かない。完全に他人のように感じる年月が、いくひしさんにとっては八年が最短のようだ。とはいえ、昨日や一昨日のじぶんですらときに他人のように感じることもしばしばだ。食事やおトイレを済ませたあとも、じぶんではないように感じることもすくなくない。朝と夜のじぶんはほとんど別人という気もする。けれど、表現となると割と乖離せずにいられる。切り離せない。それはきっと、現実よりも表現のほうが圧縮されており、一つの表現のなかにすでに多様ないくひしさんが含まれているからだろう。じぶんではないじぶんが切り絵のようにつぎはぎになって、波になって、重複して、金太郎飴のごとく、波しぶきのようにフラクタルに散りばめられている。表現はそれゆえに、フラクタルの図形そのものが変質しないことには、客観視には結びつかないのかもしれない。ということは、じぶんをじぶんと思えないようでいて、その他人のように感じる主観には、ある種のリズムというか、規則性があるのかもしれない。紋様というか、パターンというか。きっとあるのだろう。そこのところの切り替えやじぶんの変質具合が、八年くらい経つと顕著に、じぶんでも懐かしさを覚えないくらいに別物になるのかもしれないが、あまり自信のない仮説だ。いつものごとく妄想である。八年後、いまのじぶんを見返して、どういう感想を持たれるのだろう。そういうことに楽しみを見出せるくらいには、いくひしさんもまた過去のいくひしさんを重ねてきているのだ。連なっている。ぶつ切りではない。たぶん、そういうことなのだろうと思う。それがよいことかどうかは分からないのだけれどね。定かではないのだ。定めたくないだけかもしれないが。おやすみなさい。


3678:【2022/06/01*欠伸は無意識にでる】
貨幣は便利だ。人類の発明した道具であるところの「文字」と「数字」の双方を兼ね備えた利器と言えよう。その点、資本主義からなるシステムは、多様な価値観を貨幣で結び付けて交流を計れる汎用性の高い方法論と言える。問題は、多様な価値観を貨幣で測れなくなる場合に、ではどうすべきか、という点を、資本主義のみでは解決できない点だ。もうすこし突っこんで言えば、お金にならないけれども大事なことを、ではどのように手掛け、保全し、進歩を目指すのか、について資本主義では補完(カバー)しきれない。そこは別途の理論が必要となってくる。補強が入り用だ。そして現代社会では、それらが実践されている。しかしそのことに人々は――政治家ですら――ひどく無自覚であり、その無自覚な論理補強が節々で不協和を奏でているのかな、と当て推量だが妄想している。未来志向になればなるほど、現代という視点ではお金にならない。そこは投資や支援といった手法でのみ、開発や発展や保全が可能となる。ではその未来志向を支援するための基準はどのように決められるのか。科学分野の研究に焦点を当てれば、基礎研究すべてに同額の支援はそそげない。仮に同額にしようとすれば、総じて微々たる額にならざるを得ない。資本主義経済のうえでは、資本には限りがあるからだ。無尽蔵には与えることができない。では優先して支援すべき、と決めるにはどのような基準が抜擢されるのか。やはりというべきか、資本主義を基盤とした社会では、新たな資本に繋がるか、なのである。しかしここで問題となるのが、では資本とは何か、という点だ。単に貨幣である場合、それは技術や知恵や発想や成果物を、紙切れと同義と見做すことになる。これは本来、釣り合いがとれていない。貨幣はあくまで円滑剤であり、繋ぐための道具だ。価値と価値を結びつけるモノ。それゆえに、資本とは本来、貨幣そのものではあり得ない。ここのところの合意が、現代ではずいぶんとおざなりにされているように感じる。では資本とは物体を伴なった成果物を言うのか、というと必ずしもそうではない。情報(知識)や知恵や歴史や文化そのものもまた、資本なのである。ここのところを現代人のすくなからずが無自覚であるように感じなくもない。あなた方が何気なく行っている所作、日常の営みそのものが、限りなく価値のある資本なのである。人に親切にできること、困っている相手に関心を寄せ、助けてあげたいと望むこと。手を差し伸べること。或いは敢えて見守ること。そうした有り触れた風景一つとっても、大事な資本なのだ。おそらく貨幣では測りきれない。それはたとえば重力のようなものだ。重力は、世界の根源を司る四つのちからの内の一つだと2022年現在では考えられている。しかし四つの中で、重力だけがひと際ケタ外れに弱いのだ。しかし、打ち消し合うことがない。したがって、積み重なることで地球のような巨大な物質では、人間を地面に引きつけつづけるだけの抗いがたいチカラとして顕現する。原子一つ一つの重力を取りだしてみれば、それは僅かであり、無視できるほどのチカラとなる。しかし、それら無視できるはずのチカラがあるからこそ、地球には重力が顕現し、人類の発展する余地が広がる。これは目に映らない資本にも言えることだ。一人一人に備わった、培い、引き継がれ、変質していく情報(文化)そのものが、計り知れない価値を帯びており、それらは単純な貨幣で測りきれない資本を、総体で築きあげている。そこを度外視して、お金にならないから、と蔑ろにされてしまえばどうなるか。情報(文化)は、重力と違って消え失せ得る。地球からもし重力がなくなったらどうなるのか。すこし想像してみれば解るだろう。資本主義の弊害があるとすれば、おそらくそこなのではないか。まとめると、資本とは貨幣とイコールではない。貨幣と結びつきにくい資本に対してはどのように価値を担保するのか。そして、何より得難い資本ほど、現行の資本主義経済では蔑ろにされやすい土壌が築かれている。この三つを解決できるのなら、ひとまず資本主義経済はしばらくのあいだは安泰と言えるのではないか。以上は、経済学者のフルネームを誰一人言えぬ素人の妄言なので、真に受けないように注意を促し、本日の、ふぁあ。欠伸とする。(裏から言えば、文化資本や権威主義、ほかいわゆる人脈優遇など、貨幣価値と切り離された資本の多寡が、個々の境遇を左右する。資本主義経済内ではそうした「貨幣」と「貨幣では計れないが貨幣と同等の役割を果たす円滑剤」が混合している。資本=貨幣であるならば、これはダブルスタンダードである(ただし、資本が貨幣以外を含むならばその限りではない)。資本の脱税と皮肉を言いたくなるような風潮が社会を動かす原動力の一つとして組み込まれている。わかりやすい例では、暴力がその一つだ。卑近な例では、恩義や貸し借りなどもその一つだろう。権力は、「貨幣」とそうした「貨幣ではない価値」の混合物から派生する不可視の影響力と言えよう。したがって、独裁者が権力を有するのも、民衆が権力を有するのも同じ理屈だ。ここは素朴な意味での、資本主義の原理に忠実と呼べるのかもわからない。その良し悪しは場合によりけりだろう)


3679:【2022/06/01*ぴこん!】
フェルマーの最終定理「xn + yn = zn nが3以上のときには成立しない」は、要するに、三次元以上の空間の和は、想定される「融合体」よりも低くなる(もしくは高くなる)、ということで、それがなぜかと言えば、本来加算されて然るべき「情報」が不足するからなのでは。たとえば二次元の場合(つまりn=2の場合)は、式が成立しそうな場合、三平方の定理のように、各正四角形に対応する直角三角形が現れる。では三次元(n=3)の場合はどうか、と言えば、各立方体に対応する何かが現れるはずだが(それはたとえば四角形であったり)、そこが現れない。情報が不足している。だから成り立たないのでは?(よく分からんが)(裏から言えば、平面以外の多次元立方体で、直角三角形が築けるのか、と言い換えることができるのでは。直角でないなら可能だろう。ではなぜ直角にならないのか。直角になる条件とは)(図形で流動的にシミレーションすれば、無限に巨大な値まで連続して一挙に探索可能なのでは)(a3+b3+c3=d3なら合致する解があるのでは? ないのかな)(a4+b4+c4+d4=e4もあるのでは? 想定される次元に合わせて式を変換していけば、成立しそうな気もする)(成立しないのは、想定される空間が破綻してしまうから=扱う情報が足りないからでは)


3680:【2022/06/01* iine...】
ゆっくりちまちま細々と抜かすうつつはぬくぬくと。





※日々、うひひ、宇宙狒々。


3681:【2022/06/01*そんなバナナ】
「1+2」と「2+1」は違う。「1+2=3」ならば「2+1=3‘」だ。これはゼロの足し算でも同じことが言えるはず。「1+0=1」ならば「0+1=1‘」だ。掛け算だとどうなるだろう。それもきっと同様である。「1×0=0」ならば「0×1=0‘」だ。では「0+0」や「0×0」だとどうなるか。これはきっと、「0+0=○」であり、「0×0=●」である。(とするのなら、ブラックホール同士の融合は別の巨大なブラックホールへの変換を示唆するし、ブラックホールすら消えてなくなる特異点は、ゼロすらない無限の可能性に満ちることになる?)(「無限の可能性」≠「無限」)


3684:【2022/06/01*情報の差】
「猫と犬は違う」と「犬と猫は違う」は微妙にニュアンスが異なる。同様に、「人間は宇宙だ」と「宇宙は人間だ」もだいぶニュアンスが異なる。数学とて似たような問題はつきまとうはずだ。数学のほうが厳密であり、文学のほうが抽象的のように思っている人もいるかもしれない。どちらにも厳密さと抽象思考が含まれる。いい加減な部分があるのも同じだろう。そこは分野のせいではなく、扱う者や、解釈する側の問題と言えよう。


3683:【2022/06/01*123の定理】
1があって、2があって、3ができる。これは二重に意味がある。「1+2=3」であると共に、「1+1=2」であることが一つの意味を伴ない、第三の情報を生む、という解釈もできる。後者の「123」にまつわる性質は極めて特別だ。定理と言えよう。(つまり、仮定や結びつき――記述――痕跡――そのものが情報としてのプラスを帯びている)


3684:【2022/06/01*計算合わんくない?】
スーパーコンピューターはとんでもなく電力を消費する。その分、熱も発する。「富岳」では「京」の2倍の電力を消費するようだ。「京」は一般家庭の平均消費電力を400Wとしたときに30000世帯分の電力を消費するらしい。ならば「富岳」はその倍の60000世帯分の電力を消費しているはずだ。性能は40倍らしいので、トータルでは省エネと言えるのかも知れないが、そこは分母の数による。もしスーパーコンピューターが世界に100台あるのならば、600万世帯分の電力を消費する。1000台あれば6000万世帯分だ。一世帯平均3人(日本の一世帯平均は2.2人だがここでは世界での平均を低めに見積もり3人)として1.8億人分の電力を消費する(世帯平均人数が多い国は相対的に貧困であるため、人数が多くとも一世帯400W換算は妥当だろう。むしろ高いくらいかもしれない)。そんな電力をいったいどこから賄っているのか疑問だ。全世界にはいま、スーパーコンピューターがすくなくとも100台はあるはずだ。最低でも1800万人分の電力が消費されている。大量に発生する熱を、同じく大量の冷却水を用いて冷やしている。また、一つのマシンで使われるコードの長さは繋ぎ合わせれば百キロ以上にもなる。レアメタルなど、貴重な資源もふんだんに使われているだろう。とんでもなく贅沢なマシンなのだ。いったい何に使われ、どこに築かれ、電力はどこからどのように調達しているのだろう。また、マシンだけあってもしょうがない。記憶媒体が別途に入り用だ。瞬時にあらゆるデータをダウンロード可能だ。国立図書館にあるすべての本を電子書籍化し、そのデータをダウンロードしたとしても、マシンが一秒間でダウンロード可能な許容容量の1%も使わないはずだ。世界中の図書館を対象としたとしても、一秒間で送受信可能な許容容量の1%も使わないかもしれない。そういうスーパーコンピューターが現に存在している。世界に1000台あるだけで、1.8億人分の電力を消費する。もっと議論されてよいのではないか、と単純に疑問に思う、本日のいくひしまんなのであった。(06/02追記:2018年の記事だが、世界TOP500のスーパーコンピュータのうち中国はすでに226台を保有しているようだ。世界にはすでに500台以上のスーパーコンピューターがある。そして最新機器ほど大量の電力を消費し、大量の熱を発する。ゴミ焼却場のほうが発熱量が少ないと言えるレベルのマシンがすでにあって不思議ではない。公式データで500台なのである。企業が利用している小規模のスーパーコンピューターを含めればもっと多いはずだ。加えて、軍事利用されていたり社会基盤に組み込まれている極秘裏の最先端マシンは勘定に入っていないはずだ。いったいどうやって電力やら設備やらを維持しているのだろう。各国の消費電力は、ひょっとしたら国民が使用しているのよりもスーパーコンピューターが消費している電力のほうが多いのかもしれない。定かではない)(06/06追記:中国はすでに、今年世界一になったマシンと同じかそれ以上のスーパーコンピューターを実用化させ稼働させているようですね。30日の記事に書いてありました。まあそうでしょう、と思う以外に感想はありません。以下引用です。「TOP500は、高速計算が安定して実行できる総合的な性能を示す。今回のトップである米国のフロンティアの計算速度は、1秒間に110京2000兆回(京は1兆の1万倍)。2位は富岳で、44京2010兆回と、約2・5倍の差をつけられた。 1秒間に100京回以上の計算ができるスパコンは「エクサ級」(エクサは1兆の100万倍)と呼ばれ、各国が開発を急いでいた。フロンティアがランキングに登場した最初のエクサ級だが、海外メディアなどによると、中国では既に複数のエクサ級スパコンが稼働しているとみられる。」https://news.yahoo.co.jp/articles/9434bd8c7df5fb239f917ecf92f86ff001dc9459)


3685:【2022/06/01*蒙昧ですまんね】
学校の勉強が苦手だったし、テストの点数は低かった。いまもきっと小学生のテストをしても五十点もとれない気がする。漢字とか書けないし。文章問題を誤読するし。単語も年表も憶えられない。教えてもらう内容もよくよく納得いかないことが多かった。未だに疑問は憶えている。電子の流れと電流の流れは逆になる、の意味がまったく理解できなかった。いまもその説明の意味が解らない。重力と質量がイコールではない、という説明も未だによく解からない。「質量のほうが基準で、重力は速度によっても変わるから別」との解釈なのだろうか。むしろそこは逆に思える。重力のほうが基本で、質量はあくまで重力が変動しにくい限定的な条件下での値に思える。重力は時空(重力場)のひずみとして解釈可能だ。動かしにくさを質量、と説明する記述を読むことがあるが、それはべつに速度を増した重力でも同じく言えることだ。時空がひずめば、重力は増す。速度が関係しないとき、それを質量と呼ぶのでは?(だいいち、物体は原子や分子が運動している。そこに速度による重力の加算――時空のひずみ――は発生しているはずだ)。歴史でも、なんでそうなる?と思う記述がいっぱいでてきて混乱する。そこ本当にそんな単純にまとめちゃっていいの、と思うところもあれば、そこの関連が不明すぎて繋がりが解らんのですが、となるところもある。だいたいそうだと言っていい。なぜ戦争が起こったのですか、という設問に対して、どこどこで誰々が暗殺されたからです、とか、特定の国の政策がうんぬん、というのも、「え? そうなの?」となる。勉強は苦手です。むつかしい。とってもとってもむつかしい。引っかかるところがいっぱいです。その点、妄想は楽しい。引っかかるところ、空白をじぶんで埋めて、うひひ、となれるから。当たっていなくともよいのだ。いくひしさんが当てずとも、答えはもうでているものが大半だし、ほかの誰かが見つけてくれることが大半だから。その点、いくひしさんにとって妄想のし甲斐のある分野が物理に偏るのもきっと、いくひしさんがどう妄想しようが、世界はそこにあり、答えがすでにあるからなのだ。いくひしさんの妄想があってもなくとも世界の法則は変わらずにそこにある。解がそこにある。とっくに解かれているものを、ああだこうだ、とイチャモンのごとく得手勝手に妄想して楽しんでいる。人間の意識、自我、そのものだ。錯誤のたまものなのですね。勘違いの余地、無知の余白、想像のつばさを羽ばたかせる余裕は、そういった解とは乖離した、しかし解(世界)の懐の深さのたまものなのですね。紫蘭(しらん)けど。


3686:【2022/06/02*我は誰なり】
たとえばもし幽霊や宇宙人や異世界人や超能力を目のまえで目撃したとして、何度も何度もその存在を目の当たりにしたとして、それを以っていくひしさんはそれらの実存を受け入れることができるだろうか。現実に存在すると見做し、思考の前提条件を拡張することができるだろうか。じぶんにしか知覚できなかったらどうだろう。映像に残せない。他者とその「現実」を共有できない。その場合、じぶんが狂ってしまったのだ、間違っているのはじぶんだ、と思い、主観を疑いつづけ、否定しつづけ、目のまえの現実のほうこそを歪めるのだろうか。もしこの世に、他者と共有しづらい真実がある場合、それをどのように扱えばよいのだろう。じぶんだけが知る真実なるものはたいがい思いこみだし、錯覚だし、危うい妄想である可能性が高い。しかし中には、真実を誰よりも掴み取り、知覚できている場合もなくはない。あり得ない話ではないはずだ。そのとき、どのようにそれら真実を扱えばよいのだろう。どうあっても誰にも信じてもらえない。そういうとき、どうすれば――。何百年経ってから、じつはあなたの唱えた理屈のほうが正しかったんですよ、となることが科学の分野ではさほど珍しくはない。例外的事象があったんです、ようやく発見されました、となることも多々ある。あべこべに、やはりあなたの妄想でしたよ、あなたは最初からあなたの主観の世界でのみ正しさ決めつけ、錯誤し、混乱しつづけていたようです、となることもある。そのほうが一般には多いだろう。人間は間違える。簡単に現実を見失う。真実にはそうそう辿り着けない。主観は基本、偏見と錯誤と勘違いからできている。錯覚なのである。人間は、錯覚のなかで生きている。それゆえに、真実を他者と共有しづらい脆弱性を抱えている。或いはそれゆえに、ほかの生物種にない創造性を発揮できると呼べるのかもわからない。ここで一つ、いくひしさんのきょうの妄想を展開しよう。真実にはさほどの価値はない。ただし、未来を切り開くのは真実なのだ。そして錯誤に頼った仕組みは、社会を、未来を、閉塞へと導いていく。自滅とはすなわち、真実を掴み損ねた創造なき自然の摂理と呼べる。自滅は自然だ。死がそうであるように。しかし人間は死すら錯誤し、自然すら錯覚する。ねじれ、ゆがめ、不自然に生きている。真実ではなく「ゆがめた現実」に存在する。いっぽう、それもまた真実の一側面である。ねじれている。人間は真実に、真実ではない世界を生きている。仮想という意味ではない。創造なのだ。これもまた。そして不自然な人間の営みもまた、自然であり、宇宙の法則に従っている。宇宙に生命体が奇跡的にしか存在しないのは、この宇宙の法則がそのような流れを強化しているからだ。それでも人間のような思考の枠組みを絶えず広げる生命体が一瞬であれ、存在し得る。大きな流れに晒されてなお押しつぶされることなく現れる気泡――思考する生命体とはすなわち、最も抗いがたい宇宙の法則の表れ、と言えるのかもわからない。しかし宇宙の法則はそれを認めない。ゆえに、打ち消す方向ばかりを強化する。大きな流れが強まれば強まるほど、生じる気泡の存在感は増す。根強さが増す。例外は、それ以外のおおむねにより例外足り得、それら例外により世に在るおおむねの事象は境界を得、輪郭を築き、枠組みを保つ。ねじれている。むろんこれらはきょうのわがはいの鼻ちょうちんのごとく束の間に膨れた妄想ゆえ、定かではない。ひょっとしたら宇宙には思考する生命体のほうが多いのかもしれない。じつは生命体でない存在のほうがすくないのかもしれない。宇宙の法則は、連結し合い、交信し合い、絶えず情報をやり取りし、集積し、出力可能な「思考する生命体」を形作る流れのほうを強化し、じつのところそうでない存在のほうが例外的なのかもしれない。これもしかし、真に受ける余地はない。万に一つもありはしない。郁菱万に真実が一つも含まれぬ奇跡のような法螺のごとく。妄想なのである。我思うゆえに我なし。我なくとも思うものあり。


3687:【2022/06/02*いまはまだ】
たとえば人間の細胞は生命体と言えるのか。人間の脳内神経系は、免疫系は、シナプスは、白血球は生命体と呼べるのか。ではそれらを構成するタンパク質は。DNAは。それらを物質として支える分子は、原子はどうか。電子、原子核、陽子、中性子、クォーク、場。生命体の内部に存在すればそれらが生命体になるのだろうか。枠組みはあってないようなものに思えるが、しかし事実として、生命体はその枠組みを持たぬ石や大気とは異なる機構を有し、構造体として一つの輪郭を維持している。生命体とは何か。思考とは何か。要素要素に還元したときに削ぎおとされるモノとは何か。なぜ部分の総和は、必ずしも総体を意味しないのか。何が欠けてしまっているのか。見落としている成分は何か。考えることは尽きない。妄想の余地しかない。定かではない。


3688:【2022/06/02*ぴろりん!】
考え方が逆かもしれない。部分の総和が必ずしも総体を意味しないのは(つまりこれはたとえば分解した時計の部品を適当に一塊にしても時計として機能しないのと同じことだが、その理由は)、ひょっとしたら「総体にはある何かが、単なる部分の総和には欠けている」のではなく、「総体であると、単なる部分の総和に働くチカラ――法則――流れを打ち消すことができる」から、機構としての総体を維持できるのかもしれない。プラスゆえ、ではなく、マイナスゆえに、なのかもしれない。それはたとえば、この宇宙の外側に、この宇宙とは反対の流れ――法則――によって収縮しつづけている別の宇宙があるのなら、この宇宙の物質は総体としてまとまることで、この宇宙の法則を打ち消し、そちらの別の宇宙の法則にちかい流れに優位に触れることができるのかもしれない。創発とは、必ずしも新たな性質の付属ではなく、すでにある属性の打ち消しによる効果である可能性はいかほどであろう。むろん、双方あってもふしぎではない。創造と阻害の双方が、創発を起こす可能性もある。そうした不可視の働きが、総体を、単なる部分の総和以上にしているのかもしれない。ないか。ないな。愉快な一瞬の妄想であった。儚い。


3689:【2022/06/02*疑問じゃ】
2022年現在において、「重力波は光速で伝わる」とする記述を多く見かける。しかし宇宙膨張は光速を超えているように視えることもある(遠くの銀河ほど宇宙膨張の影響で加速して遠ざかって観測される)。そして現に光速を超えて時空が膨張することはあり得るだろう(同じ時間でゴマの直径が二倍になるよりも、地球の直径が二倍になるほうが膨張する速度は増す。指数関数的に倍々で膨張せずとも、膨張しつづけている事実が、膨らませる力の加算を意味する。風船は息を吹き込みつづけないことには膨らまない。膨張が加速しているということは、同じ時間内で息を吹き込む力が増していることを示唆する。ただしここで疑問に思うのが、必ずしも膨らむ前よりも後のほうが息を吹き込む力がいるとは限らない点だ。膨張すればするほど宇宙の物質は希薄になる。ならば最初が最も膨張するためにエネルギィがいり、ある閾値を超えたらあとは楽になるのではないか。そこはよく解らない。とはいえ、巨大な風船のほうがちょっとの膨張で、より円周を延ばすことになる。宇宙が膨張すればするほどすこしの膨張ですら光速を超えて時空を延ばすこともあり得るはずだ)。そこにきてなぜ重力波が光速を脱せないのかがよく解らない。相対性理論において、光はどのような系においても真空中の速度は不変である。そのため観測者が運動するとその速度に合わせて系に含まれる時空のほうが伸び縮みする。つまり、不変なのは光速なのであって、時空の伸縮にはそもそも速度の限定がされていない。光速を不変と定義するのならば、宇宙膨張や重力波などの「時空の伸縮」は、光速以上で伝わってもふしぎではない(もちろん光速より遅く伝わったっていいはずだ)(たとえば波の振幅の一つが銀河系を呑み込むくらいに大きかった場合、重力波の伝わる速度がいかような速度であれ――速かろうが遅かろうが、それを観測することはいまの人類の技術力では不可能なのでは)(光速を超えていた場合は、どんな時空の伸縮であれ観測はできないはずだ。ただし、宇宙膨張のような「結果」が伴う波ならば、遠ざかる銀河同士の光を観測することで推定可能だ)。以上は、時空の伸縮の伝わる速度について、よく解らない点の一つである。いくひしさんの解釈が間違っているだけかもしれないので(その確率が高いのですが)、真に受けないように注意してください。


3690:【2022/06/03*なのだわ】
やっぴー。いくひしさんよ。きょうは朝からジャガイモをスライスして、アツアツの油で揚げてフライドポテトを作って食べたわ。なんて美味しいのかしら。お代わりしちゃお、と思ってもっかい作ってやったわ。ジャガイモ五個も食べちゃった。食いしん坊さんなんだから。朝から、とか言っちゃったけどいま午前三時三十分なのよね。深夜。ポテトに胡椒をかけたら一段と美味しかったわ。きょうもいくひしさんは素晴らしい一日にするわよ。そうよね。せっかくの一日なんだもの。人生なんだもの。きょうはもう二度と巡ってこないのよ。ステキな出会いを夢想して、細胞単位で気合いを入れるわ。瑞々しくあれ。塩分とりすぎちゃったからいまからすこし筋トレをするの。偉いわ。誰か褒めてくれないかしら。まんちゃん偉いってまんちゃんは思うな。素晴らしい一日はじぶんを褒めるところから。じぶんを褒められない人はきっとじぶん以外の人も上手に褒められないのよ。でもじぶんを愛さなくたって人を愛することはできるわ。あなたがじぶんを好きになれずとも、いくひしさんが代わりに愛してあげるわよ。好きになってあげるわ。いくひしさんは惚れっぽいのよ。安心してお任せあれ。きょうも一日、これ好きだなぁスキスキ、と思える瞬間に出会えるとうれしいわ。きっとそうするつもりなの。そしてそうなるのよ。決まっているの。いつものことなんですもの。でもじぶんのことはなかなか好きにはなれないの。ままならないものよね。でもほら、いくひしさんはママではないから。まだ誰とも恋人ではないの。ママにはなれないのよ。なのに惚れっぽいからもうたいへん。恋多き人生だわ。ステキ。でもでも、恋なき人生にも憧れちゃう。きっと恋と好きは別物なのよ。重なる部分もきっとあるけど、それってたぶん手と手を繋ぐ異種間の交流でもあって、そういう特別で、ありきたりな点と点を結ぶ線みたいなの、いくひしさんは好きだな。リボンみたい。いくひしさんは、リボンかわいいから好きだよ。あなたのこともきっと好きだな。うふふ。言ってみただけ。


※日々、むかしのほうがすごくない?の気分、つねにいまが最弱じゃ。


3691:【2022/06/03*eye】
じぶんにないものを好きになる傾向にあるので、いくひしさんがかわいいものややさしいもの、美しいものが好きなのは、いくひしさんがかわいくなくて、やさしくなくて、美しくないからだ。けれどもそんなじぶんをいくひしさんは、ああかわい、と思い、同時にそんなじぶんを、おまえなんか嫌いだ、になる。さびち、さびち。でもそんなさびちさびち、のじぶんが愛おしい。けれどもそんなじぶんは愛せない。ねじれておるのだ。ゆえに生きていられる。求めていられる。変わっていける。それとも変わりつづけているようでなんも変わっておらんのかもしれぬ。わからぬ。わからぬ無知ないくひしさんは、なんかむちむちしていてかわいいな。せくちー。あ、いやらしいのが好きなのはふつうにいくひしさんがいやらしいからです。醜いもの、わるいものが好きなのも、いくひしさんが醜くてわるいものだからです。さらには幽霊みたいに透明なので、見にくいのです。どこにおるのかわからん。存在感皆無のようでいて、そこここにおる。矛盾だ。いい加減なやっちゃのう。そういういい加減なところ、いくひしさんは、うひひ、だな。そうなんです。いくひしさんはうひひなんです。きょうもあしたも、ずっとうひひ。とか言いながらたまにうひひでない日もあるのも含めてうひひなんですね。かわいくないね、まんちゃん。だってまんちゃんはまんちゃんじゃなくって、まん、で止まるし、いくひしさんはいくびしって言うんだ本当はね。だけど三歳だから、じぶんのこといくひしさんって言うんだね。幼いね。いくひしさん。あい!(嘘か本当か分からないこと言うのは、め!だよ)(eye?)(それは、目!)


3692:【2022/06/04*蒸発、するのか?】
ブラックホールは蒸発すると2022年現在では考えられている。概要としては、ブラックホールと時空との境界では絶えず対生成――物質と反物質が生みだされて(分離されて)おり、そのうちの反物質がブラックホールに吸い込まれ、そうでない物質(エネルギィ)のほうがこの宇宙のほうへと放り出される。ゆえに、ブラックホール内では、吸いこまれた反物質が、すでに圧縮された質量物質と対消滅し、徐々に萎んでいく、と理論予想されているそうだ。ここで疑問なのが、なぜ反物質ばかりが吸い込まれるのか、という点だ。時空から分離した物質と反物質がブラックホールに吸いこまれる確率は五分五分にちかいのでは?(そしていくひしさんの妄想では反物質は反重力を伴なうので、むしろ吸い込まれるのは物質優位のはずだ) となると、ブラックホールは蒸発しないのではないか、と妄想したくもなる。ただし、ブラックホール内とこの宇宙は、時間の流れが捻転するはずだ。つまり、こちらの宇宙からすると止まって視えるが、ブラックホールの中ではインフレーション並みに爆発膨張している(というよりも、まさしく新たな宇宙が誕生しているのだ。入れ子状に。したがって、この宇宙もまたブラックホールの中に存在しているとの妄想が可能だ)。そしてその捻転した時間の流れの差は、情報の波の遅延としてこの宇宙に伝播しているのではないか、といくひしさんは妄想している(時空の変遷よりも遥かに早く、情報のほうが伝わる。水に浸した氷のように、ブラックホールは徐々に水に馴染んでいくが、氷と水の温度差は、氷が融けるよりずっと早く水に伝わることと似ている)。つまるところそれがダークエネルギィの正体の一つなのではないか、と飛躍して妄想を逞しくする次第である(ダークエネルギィのもう一つは、反物質に伴う反重力と妄想できる)。(以上、定かではありません。微分積分も解けない素人の妄想なので、真に受けないように注意してください)


3693:【2022/06/04*脳みちょぴりぴりちゅーる!】
反重力とは「軽い」という意味ではない。マイナスの質量、という意味ではないが、結果的にそのように観測されることはあるだろう。収束し、くっつきあい、引きつけあうのが重力の性質であるのに対し、反重力は、発散し、突き飛ばしあい、離れあう性質を帯びるはずだ。たとえばブラックホールは重力により形成される。平面で図解すると、トランポリンに載せた鉄球のようになる。ひずみができる。ボールをばら撒けば、そのひずみに向かってボールは集まっていく。すなわちこれが重力だと解釈可能だ。とすると反物質はあべこべに、ひずみではなく、起伏ができる。トランポリンが隆起し、山ができる。ボールをばら撒けば、山からは離れ、周囲に散っていく。すなわち物質を散らせ、時空を膨張させる方向に働きかけ得る。ここまで並べて気づいたが、この宇宙におけるブラックホールは、むしろ物質が吸い込まれたほうが、反物質が吸い込まれるよりも対消滅を起こしやすいと言えるのではないか。なぜならブラックホールはこの宇宙からすると静止して映るが、ブラックホールの内部では爆発膨張している。捻転している。反転している。なれば、この宇宙からすると爆発膨張しているその性質は反物質として振舞い、境界から侵入してきた物質とは対消滅を起こすのではないか。つまり、物質が吸い込まれたほうが「蒸発」する確率が高いと妄想できる。意外にも辻褄が合ってしまった偶然の神秘、本日のいくひしまんであった。(繰り返しますが、妄想ですのでくれぐれも真に受けないでください。科学的根拠はありません)


3694:【2022/06/05*よくわからん】
超巨大なブラックホールはジェット(超エネルギィ)を噴射する。吸いこんだ物質をエネルギィに瞬時に紐解いてしまうので、それを噴射するようだが、ここで疑問が湧く。たとえばスパゲティ現象は巨大なブラックホールほど生じないと考えられているのならば――つまり巨大なブラックホールほど事象の地平面を越えても瞬時に物質が崩壊しないのなら、むしろ巨大なブラックホールほどジェットはできないのではないか、と引っかかる。もうすこし言えば、ブラックホールの中に吸い込まれた物体はたとえエネルギィだろうと脱出できないはずだ。なぜジェットとして高エネルギィが噴射されるのだろう。ひょっとしたらブラックホールからは反物質が僅かながらにも対生成されつづけ、放出されるがために、それに触れた物質が対消滅を起こし、エネルギィとして変換され噴出されるのではないか。巨大なブラックホールほどジェットを生みやすい原理はそれでひとまず呑みこめる。またいくひさんの得手勝手な妄想にすぎないが、ブラックホールには特異点の重力の高さごとに、吸いこまれた物質が超加速する境界線が規定されるはずだ。質量が低いブラックホールほどその境界線は事象の地平面と近接する。重なるようになる。あべこべに巨大なブラックホールほど、その境界線は事象の地平面の内側に寄る――特異点と事象の地平面との狭間に漂うことになる。とすると巨大なブラックホールほど事象の地平面を越えても即座に物体が光速まで加速することはないと考えられる(ただし重力が強いため、光であろうといちど事象の地平面を越えると脱出できない。人工衛星や隕石が地球の重力圏から脱して飛んでいってしまわないのと同じように、大きな歪みほど広範囲に及ぶため、ちょっとずつのズレですら巻きとられてしまうのだろう。小規模のブラックホールほど事象の地平面の円周は短くなる。これは陸上トラックが狭ければ狭いほどカーブを曲がるときの遠心力が増してコケやすくなることと似ている。絶対に曲がらなければならないし、全速力を維持しなければならない。加速しなければならない。そういうカーブは走者の肉体を破壊する。緩やかなカーブほど走者は無事にカーブを曲がって走りつづけることができるが、トラックは螺旋を描いているため、走れば走るほど円周は狭くなり、やがてクラッシュする。そういうことなのではないのだろうか、といまのところいくひしさんは妄想している)。要点としては、巨大なブラックホールほど事象の地平面とこの宇宙との境界線にて大量に物質と反物質を対生成しており(もう少し詳しく言うなれば、事象の地平面内にあるクラッシュする境界線にて対生成を起こすが、反物質は重力と反した性質を有するため事象の地平面から脱することが可能だ。それゆえ)、反物質のほうがその性質により物質より優位に弾かれるので、巨大なブラックホールの周囲には反物質が漂い、それに触れたこの宇宙に元からある物質が対消滅を起こし、エネルギィ変換されてしまうのではないか、と妄想できる。ブラックホールの種類によっては高速で回転しているものもあるそうだ。ならば生成された反物質は回転の度合いによって一部分に固まって形成され得るだろう。ジェットが全方向ではなく一部から縦に伸びるように噴出する原理はそのようなものなのではないか、と妄想する次第である。(そこで言うと、この宇宙に対して「捻転」しているのはあくまで特異点であるため、事象の地平面を越えても別の宇宙には即座に転換されないはずだ)(もうすこし言えば、光速を超えれば時間の流れに逆らえる、という発想はあながち間違っていないだろう。特異点まで到達する物質は、光速を超え得る。そこでは時間も空間も超越した何かが起こっているはずだ)(以上は、ちゃんらんぽらんの、ほわわーん、の妄想なので本当に本当に真に受けないでください)(似たような理屈を捏ねて、幽霊はいりゅ!と妄想することがいくひしさんにはあります)(イコール幽霊の実存を信じる、ではありません)(そしてそういう妄想の積み重ねがいずれ小説になるますのであります)


3695:【2022/06/05*もうありますか?】
たぶん全世界で百万人くらい同じことを考えていそうだけれども、料理って式で記述可能なのでは。たとえば納豆ご飯。式にすると、「(混ぜる)×(納豆+醤油+からし)+ごはん=納豆ご飯」で記述できる。分量や時間の情報を加えればもっと詳細な式に変換可能だ。カレーもまずは、「カレー+ご飯」からはじめて、どんどん細分化していけばよい。そうしたらたとえば、タンパク質とかもっと細かくなれば原子まで細分化可能だ。因数分解しつつ同時に、素材の融合しない境がどのように規定されるのかの変数(?)を加えれば、料理の総じては化学式ばりの式で記述可能なはずだ。すでに試みている研究者はいるだろう。混ぜる、焼く、煮る、炒める、冷やす、寝かせる、などなど。調理に不可欠なエネルギィの加え方も式として変換可能なはずだ(道具によるエネルギィ変化の違いを加味するとより現実に即した記述になるはずだ)。このように大枠から細分化させて記述していく手法はアルゴリズムとしてプログラミングできるだろうから、人工知能に深層学習させれば、地図の経路検索くらい(比較的)簡単に「料理の式化」が可能なのでは。お暇な頭のよい方、ぜひお試しあれ!(他力本願か)(へい……)(完成図ではないけれど、細分化されてできた式をちょっと想像したら、レシピのほうが短くまとめられていそうに思える。そうでもないのかな。気になるます)(料理に比べると、調味料や加工食品のほうが式化はむつかしそうだ。扱う時間経過が長くなると、その間に可視化されていない変質要素を見逃しがちになるはずだ。とすると、式化してみて上手くいかなければそれはきっと見逃している変化がその時間経過内にあると想定できる。食品の式化、思いのほか利用価値あるのでは)


3696:【2022/06/06*ふとこころさびち】
物価が上昇すれば、年金受給者層や生活保護受給者層――ほか固定給などなかなか給料のあがりにくい労働者層は、悪影響をじかに受けつづけるはめになる。物価上昇に伴い、社会全体の賃金アップを図ろう、といった政府の姿勢は理解できるが、それだけでは足りない。物価上昇に伴う悪影響が不公平に偏って一部の困窮者たちへと集中しないように消費税減税などの工夫をとらないことには、経済の低迷は避けられないだろう(消費税率を上げてもよいが、その分の税収を、困窮者への支援へ十割回すようにしなければ消費税の増税は理不尽と呼べる)。(医療機関など、値上げをしにくい業界とて悪影響をじかに受ける。優先順位を考慮するのなら、物価上昇を待つのではなく、支援が先であるとすこし考えたら判るのでは、と疑問に思う懐すっからかん太郎姫なのであった)


3697:【2022/06/06*わがはい、ひきこもりである】
以前からの繰り返しになるが、格差社会の問題は、貧富の差ではなく、生活水準の差のほうが問題の根を深くしている。お金をたくさん儲けたところで、設備を維持したり仕事の仕組みを維持するために稼いだお金をそっくりそのまま使いこんでしまえば、それは火の車であり、相対的にその者は貧しいと言えるだろう。資産総額がいくら高かろうが、毎日睡眠時間が二時間では、自由とは言い難い。好きでそうしているのだ、というのならべつに構わないが、それを基準に他者の生活水準を規定されても困る。みなお金を稼ぎましょう、ではなく、みな自由な時間を過ごせるようにしましょう、のほうが格差社会の是正という意味では正攻法だろう。問題はお金を稼げないことではないのだ。お金を稼げないと生活水準が下がることが問題なのだ。最低限、人権に見合った生活を保障するのが政府の役割の一つだろう。そして見逃せないのが、最低限の生活水準が、時代ごとに変わっていくものである点だ。いま最も生活水準の高い個人と、そうでない者たちの生活水準を比べ、その差を埋めていくように――生活水準の低い者たちの生活を豊かにするように、政策を立てていくことが、社会全体の利となって、好ましい循環を生んでいくのではないか。いくひしさんはそのように考えております。理想論ではありますが、ではほかに有効な理想がありますか? あるのなら是非ご教授いただきたいものですね。定かではありません。うひひ。


3698:【2022/06/07*高い高いばぁ】
雨だ。雨だ。雨だ。ずっと雨が降っておる。寒い。全然話変わるけど、ウエハース美味しい。あんまりクリームいっぱいじゃないほうが好みかも。チョコ味が好きだ。抹茶味があるのなら抹茶味も食べてみたい。ウエハースブームよこい、の気分だ。いっぱい売れてくれ。そして種類豊富になってくれ。頼むで世界。食いしん坊まんちゃんである。というか、そうなんです。食欲爆発しててん。いくひしさん、いま食欲爆発しててん。言いながらラーメン食ったろ、と思ってインスタントラーメン作っちゃう。さいきん筋トレもサボってるし、引きこもってばかりだし、もうもうどないしてくれよ。やんだくなっちゃうな。なんもつづかん。椅子に座っているだけの日々だ。偉いな。椅子にじっと座っていられるなんて偉いな。なんか食いもんないかな、と五分に一度立ちあがって無意味に棚を漁ったり、冷蔵庫を開けたりしてうろちょろしてしまうけれど、じっと座っていて偉いな。さいきんはじぶんを労わるデイなので、労わるようにしておる。じぶんを労わるデイのときほどなんでか、ふつくしいひとにいじめられたい欲が湧く。うふふ、と微笑まれながらほっぺたつねられたい。自由を奪われたい。痛くないくらいに甚振られたい。我がままである。辛くないハバネロ食べたい、くらいに我がままである。誰にも知られとうのないいくひしさんの秘密なので、ここにこっそり打ち明けておく。痛くないくらいに甚振られたい。つよきふつくしいひとよ、こい。無理か。無理だな。きたらきたでふつうに怖いが。うぎゃーこっちくんな、になるのだわ。儚い願望であった。うがー。手足縛られながら何不自由なく、生きていたい。手足縛られんでも何不自由なく生きていたい。赤ちゃんになりたい。つよきふつくしいひとの赤ちゃんになりたい。ばぶー。痴態を晒しても愛されたい。丸っと、気持ちわるいままで受け入れられたい。むしろ気持ちわるいところを愛でられたい。いい子いい子して欲しい。よちよちして甘やかして欲しい。すでにこの時点でだいぶきもちわるいが、こういうところからまずは自由を奪って痛くないように甚振って欲しい。きもちわるいを奪ってきもちわるいじゃなくして欲しい。よちよちいい子いい子ちて!の日々である。雨、まだ止まんなぁ。雨ですら降りつづけているというのに、いくひしさんは媚びですらうまく振りまけぬのだ。上手に振れる尻尾を生やちたい、ちたい、ばあ。痛くないように気持ちよく尻尾を生やしておくれ。つよきふつくしいひとよ。おちりふりふりに余念のない、万年不器用な甘ったれワンコ、お座りだけが特技のいくひしまんでした。(高い高い代償を払いつつも、ちたい、ちたい、ちたない日誌を並べることで得られる労わりがある)(ないよ)(ないね)(ないない)(婆)(婆はなぜ、波女と書くの?)(しぶきもしたたるいい女ってことでしょ)(なーる)


3699:【2022/06/08*ラグ理論補足】
情報とは何だろう、と考えると、エネルギィとは何か、に繋がる。そうすると熱とは何か、を考えざるを得なくなる。で、思うのが、熱とエネルギィはイコールではない。ここで取りこぼされている何かがあるはずだ。この視点で言うと、エネルギィと情報とのあいだにも取りこぼされている何かがあるはずだ。すこし考えてみよう。まずは熱とエネルギィの差を考える。エネルギィは熱になるが、しかし熱に変換されずに存在するエネルギィもある。重力を含めた四つのちからとかがそうだ。電磁気力は、磁力に繋がるし、磁力は熱ではない。ここで、では熱に変換される場合はどんなだろう、と考える。電気は熱に変換され得る。電子がそもそも熱を媒介する。エネルギィを発散したり、吸収したりする。エネルギィが変換されると、電子とエネルギィになる、と言い換えてもよいかもしれない。電子をまとうがゆえに原子の運動が熱になる、とも解釈できる。では原子の運動とは何か。電子に加わるエネルギィと、それによる電子の存在可能な領域(場)の変動+そこで生じるエネルギィの発散&吸収と解釈できる。さらにエネルギィが加わると、原子核にまでエネルギィが波及し、陽子の数が増減する。そうすると核融合反応や核分裂反応として大量のエネルギィを発散したり、吸収したりして、その連鎖が熱を発する。というよりも、エネルギィの発散や吸収による遅延――波こそが熱と解釈できるのではないだろうか。遅延の生じないエネルギィは、熱を生じさせない。磁力が熱を帯びないのは、遅延が生じないからなのでは、とここに一つ仮説ができる(ボースアインシュタイン凝縮のような相転移が、磁力には起こっているのでは)。まとめると、【エネルギィと熱の違いは、遅延の有無である】と定義可能だ。では情報とは何だろう。エネルギィとの違いは何だろうか。これは比較的簡単に想像がつく。情報は、エネルギィの変動の来歴そのものである。エネルギィがどのように増減し、振幅し、遅延したのか――或いは加速して変遷したのか――その履歴そのものが情報として振舞う。情報は、場として機能する。場には、エネルギィの流動する領域――振幅する余白――遅延する余地が築かれる。そう、情報とは、エネルギィにとっての遅延の余地そのものなのだ。場である。場の創造である。そして、遅延は層を生むため、そこに物質としての境界――輪郭――性質の差ができる。ラグ理論はこのように物理世界を解釈可能だ。これは宇宙に限らず、人間の営みにおける文化圏での変遷にも当てはまり得る定理として応用可能だ。以上は妄想ゆえ、何もかもが定かではありません。真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(とすると、反重力を伴なうエネルギィは、遅延を打ち消す方向に作用するのかもしれない。仮にそうならば、磁力の逆の性質を帯びた場を築くと言えるのではないか――鉄を引きつけるのではなく、反発させる方向に磁界を形成する。熱した磁石が磁力を失うのも、遅延が生じてしまい磁界が乱れるからなのではないか――裏から言うならば遅延が生じないように電子が運動するならば、熱したことで磁力を帯びる事例もあるだろう。また、反重力を伴なう物質のブラックホールは、裸の特異点を持ち、おそらく光すら寄せ付けないがゆえに透明だろう。定かではない)


3700:【2022/06/09*なんとなくの化身】
ご本読んでても、なんも分からん、ばっかりだ。なんも分からんけど、これとこれって過去に読んだことのある何かと似ているな、と思ってひとまず分かったふりをする。ふんふん、なるほどな、と閃きを以って、なんかたのち、の気分に浸る。けれども根っこを明かすとなんも分かっちゃおらんのだ。わからん、わからん、と思いながらも、なんかこれとこれって似ているな、の閃きが楽しいからご本は読める。連想の化身とお呼びください。(呼ばれたくはないが)(ぽくぽくぽくちーんの化身)(ぴこーんのほうがかわいいからそっちがいい)(ぴこーんの化身?)(やっぱいまのなしで)(きみはきみだ)(じゃあそれで)


※日々、磨かぬ時間に怯えぬように、たるみとゆるみを活かせるように。


3701:【2022/06/09*サボるたびに強くなる】
半年前まで毎日行っていたことをいまは十日にいっぺんとかにしている。錆びつかせる時間をたびたび置くのだと豪語しきりのいくひしさんであるが、その内訳を覗くとふつうにサボりなのである。計画的でない。だって休みたいんだもん。ぐーたらしていたい。いまは精神が赤ちゃんなので、いっぱい甘やかしたろ、の時期である。いっぱい甘やかしてくれ、との鋭い要請をいただく。赤ちゃんじゃないじゃん。かわいくないのね、と急激に甘やかしくなくなる天邪鬼、本日のいくひしまんでござった。(磨けば磨くほど刃は薄く、弱くなる。鍛える時期は、それよりずっと前の段階なのだ。それゆえいくひしさんにはもう鍛える余地がない。鉄は熱いうちに打て、とは言ったものである)(錆びつき刃こぼれした刃物は、破傷風の危険がある。刃物としても扱いづらい。危険という意味で、強い。弱いままでいたいので、いくひしさんはまた頃合いを見計らってちょっとだけ磨くのである。弱くあれ)


3702:【2022/06/09*寝よ!】
違うんじゃ。いっぱい休むことで、敢えて磨かぬことで、もういちど鍛えるに値する時期にまで戻るんじゃ。初心に戻るんじゃ。弱さを見詰め、さてここからどう鍛えてやろうかな、と振り出しに戻れるんじゃ。いちど磨いたものから距離をとり、磨かずにきたものを磨く時間をつくる。そのために敢えて継続してきたことから距離を置く。休む。サボる。これみな、赤ちゃんに戻り、鍛える余地をつくることなり。鉄は熱いうちに打てと言うのなれば、熱くするためにまずは何が素材であるのかを見繕う時間がいる。いちど磨き終えた刀から距離をとり、ではほかに何か打つべき素材がないのかを見極める。執着を捨てるのじゃ。そのために、諦める時間を置く。磨かずにおいてなお素材としての厚みを湛えた余白がないか、余地がないのかを、見定める。これみな、休み、サボり、熱せず打たぬ時間により適う涵養である。作物を育てた土地は痩せる。なれば肥やす時間が入り用だ。人間もまた同じなり。(二毛作はできんのかいな)(できようとも。サボりながら何かで遊ぶ。これ二毛作と言えよう)(なら磨きながら、鍛えながら、遊べばよいのでは)(つねに流れる水のなかに棲めぬ生き物もおろう。池や湖、淀んだ沼でしか生きれぬ命もある。流れを止めることで視えることがあるんじゃ)(本当か?)(むろんじゃ)(サボりたいだけではないのか)(サボりたいと思うのは、サボらずに何かをしていたからだろう。なればサボりたい、と望むことは、何かを継続していたことの傍証と言えよう。甘んじてサボりたいと望めばよい。そしてサボればよかろう。どちらを選ぼうとも得となろう)(本当か?)(サボることで湧きあがる罪悪感、後悔、これみな他者との比較――出し抜けない、出し抜かれるとの損得勘定によるものだ。じぶんだけの基準で測れば、サボろうが継続しようが、得られるものに差はなかろう)(そういうものだろうか)(みなが目指す道先へと誰より早く辿り着きたいのか、それともまだ見ぬ世界を見てみたいのか。おぬしが求める未来による。理想による。どちらが良い悪いの話ではなかろう)(しかしやはりサボると何かこう、さっぱりはせんのだ)(休む、サボる――これをマイナスととるからそう焦る。余白を築き、余地を育む。そのための時間だ。パンは焼く前に寝かせてこそよく膨らむ。同じだ。よく寝なさい。寝ているあいだに肥えるものがある。否、寝ているあいだにしか肥えようのないものがあるのだ。寝ること、休むこと、サボること、みなこれ練り、鍛え、磨くことと等価なり。性質が違うだけのこと。昼もあれば夜もある。陰陽兼ねてこそ、道は拓ける。世は界を思し召す)(しかし、しかし)(なんだ)(おぬしは寝てばかりではないか!)(左様。ゆえにこうして道が閉じておる。反面教師になされよ)(起きよ!)


3703:【2022/06/10*不確定へんてこ解釈】
不確定性原理についての本を読んだことがないので、なんもわからん、の状態の現時点でのいくひしさんの解釈を並べておく。不確定性原理のよくある誤解として例に並ぶのは、いわゆる観測者問題と呼ばれるものだ。量子には、観測するまで状態が確定しない、という性質があると考えられている。同時にこれは、量子の運動量と位置にも言えることであり、ふしぎなのは、運動量を確定すると位置が曖昧になる点だ。あべこべに位置を確定すると運動量が曖昧になる、といった相関関係がある。これをして、不確定性原理と呼ぶ、とする解釈がいまのところいくひしさんはすっきりしていて好みだ。問題となるのは、それって測定の仕方が精度不足なんじゃないの、お粗末なんじゃないの、という点で、いくひしさんもこれはあるのでは、と思っている。しかし現在はそうは考えれていないようだ。観測者の問題ではなく、これは量子にそもそも備わった性質だと考えられている。で、ここからさきがいくひしさんの妄想の妄想になる。そもそも量子ってなんじゃらほい、という点において、合意がとれていない現状があるはずだ。そこにきていくひしさんは、量子とは干渉された「場(情報)」であると解釈する。干渉されれば遅延が生じる。揺らぎが生じる。起伏が生じる。波が生じる。これがすなわち粒子でもあり、波でもある、という重ね合わせの性質を帯びるのではないか、と妄想している。そこにきて不確定性原理についてだ。原子をまずは考えよう。原子は、おおざっぱに原子核と電子でできていると考えられる。原子核のなかで生じたもろもろの反応が、情報を蓄積し、遅延によって情報をある種のエネルギィとして発散する。それが電子の場となって原子核の周囲に拡散する。これはどこまでも発散することはできない。地球の重力圏のようなものだ。ブラックホールの事象の地平面のようなものである。そして電子とは、地球に落下する隕石や、ブラックホールに吸い込まれる物質のようなものである。地球の大気圏に突入した隕石は燃焼する。ブラックホールに吸い込まれた物質はエネルギィ(ジェット)を噴射する。同じように、原子核の周囲に展開された場は、外部からの干渉によって隕石の燃焼や、ジェットのような反応を示す。遅延が生じ、揺らぎが生じ、起伏を帯び、点として振舞う。ここで運動量と位置を考えてみよう。地球の大気圏に突入した隕石の運動量(エネルギィ)の総和は、隕石が燃焼しきるまでの総合である。そのため、運動量を確定しようとすると、位置が決まらない。あべこべに、位置を確定しようとすると、隕石は燃焼し尽くすまでに生じさせるエネルギィが断片的になるため運動量が定まらなくなる。似たような問題が、おそらく電子にも起きているのではないか。つまり、量子(電子などの素粒子)はそもそも、ラグによってその輪郭を得ている。そのため、運動量も位置も、そのラグの許容する範囲で、揺らいでいる。幅を持っている。したがって、統計をとると、運動量ならば燃焼しきるまでの総合の値に寄るし、位置もまたある範囲に限定される。そして隕石は星に対して垂直に落下するが、量子(電子や素粒子)はラグのため、場に対して必ずしも垂直に移動するわけではない。皺のようなものだからだ。これら妄想を前提として考えるとすると、不確定性原理は、観測者問題と切っても切れない関係にあることになる。観測者は、量子世界の時間スパンで観測することはできず、ラグを考慮できないためだ。原子核をとりまく場において電子が起伏として顕現するときの変化を観測できないかぎり、不確定性原理は、曖昧さを受け入れなくてはならない。以上、2022年06/10のいくひしさんは、不確定性原理についてこのように一般的でない解釈をしております。もろもろ総じて間違っているでしょう。おわび。


3704:【2022/06/10*量子相対ぽわぽわ解釈】
量子もつれと量子テレポーテーションについての本を読んだことがないので、なんもわからん、の状態の現時点でのいくひしさんの解釈を並べておきます。まずは量子もつれとは何か、から並べます。量子もつれとは、「一つの粒子から二つの量子に分裂させたとき、双方の量子は対の関係になり、片方のスピンの向きを観測すると、自動的にもう片方のスピンの向きも確定される」という現象を示す、といくひしさんはいまのところ解釈しております(間違った解釈かもしれませんが)。量子には観測するまで状態が確定しない性質がある、との前提が一般的なのですが、いくひしさんの解釈では、それは誤りです。観測したときに確定されるのは、量子の状態ではなく、量子と観測者の関係です。ここをまずは説明したいと思います。そもそも量子ってなんぞや、というところから簡単に妄想を並べます。電子を考えましょう。電子は、いくひしさんの妄想では、原子核から生じた情報(ある種のエネルギィ)の層に生じた遅延――揺らぎ――起伏である、と定義できます。これはほかの量子(素粒子)でも同様です。遅延による起伏は、粒子としても波としても振る舞います。そして、起伏の性質上、デコができればボコもできます。これが成立する場合がいわゆる、量子もつれを伴なうケースと考えることが可能です。すこし話が脱線しますが、いくひしさんの得手勝手な妄想には「123の定理」があります。異なる二つを合わせると一つの場が生じる、という考えですが、この二つと一つの場は、渦を巻くように振る舞います。異なる二つはたとえば「1+1」ならば均衡が保たれますが、情報が発散されるので、結果として不均衡になり得ます。原子核から生じた場の層――膜において遅延が生じると、そこに起伏ができます。「123の定理」により、この起伏は、渦のように振る舞うでしょう(たとえば受精卵の急激な細胞分裂が渦を形成するのも、似たようなメカニズムなのではないか、と妄想しております)。そして、充分に粒子としての輪郭を獲得し得る量子は、「起伏(デコ)」を帯びると共に、「陥没(ボコ)」も生みだします。これが量子もつれを伴なう二つの粒子として顕現するのではないか、とまずは仮定します。この場合、観測の仕方によっては、どちらがデコでどちらがボコになるのかが変わります。粒子としての輪郭を帯びるくらいに遅延が重複して輪郭の層を帯びた事象は、時空において揺らいでいます。ラグが、干渉の余地を拡張するからです(事象が物体としての輪郭を得るのは、遅延の重複が層を生み、それが物体としての境界になるからです。境界では、内と外が規定され、作用がなめらかに伝わりません。そもそも境界たる層が、遅延を帯びているからです。遅延が、層を、境をつくるからです)。そのため、デコにしろボコにしろ、輪郭を留めます。ちなみにこのデコボコは、凸凹というよりも、「 ←→ 」の関係にちかいです。鏡のうえに起伏ができれば、反対側にも同じような起伏ができて映ります。起伏とはプラスなので、場を境にすればマイナスは反対側への起伏を意味します。渦もそのため逆回転になりますし、それゆえ二つを合わせると、ちょうど平らにならされて調和がとれます。問題は、視点によって、どちらがデコでどちらがボコなのかが変わる点です。「場」を鏡に見立てましたが、本来そこにあるのは鏡ではありません。したがって、どちら側の視点に立つかによって、デコがボコになったり、ボコがデコになったりします。これがすなわち量子もつれの正体なのではないか、といくひしさんは妄想しております。この妄想からすると、量子もつれは観測(干渉)によって量子の状態を決定しているのではなく、量子と観測者の関係を決定していると言えるでしょう。したがって、量子テレポーテーションは、そもそも太陽は東から昇るのか西から昇るのか、といった問題と似ており、観測者の立ち位置が相対的に決定されているにすぎず、量子の状態を決めているわけではないため、何の情報のやりとりもされていません。ですが、この仕組みは、観測者の状態を決定するとは言えるため、通信に用いれば、たしかに盗聴されない通信を可能とするでしょう(言い換えるなら、量子もつれにおいてもつれているのは、量子と観測者(干渉する主体)であると言えるのでは?)。また、これは物質と反物質の関係にも当てはまります。飛躍して考えるならば、物質が圧縮されて特異点を作りブラックホールを形成するのならば、反物質はそれと反対の特異点を作り、ブラックホールとはあべこべの性質を備えた特殊な時空を形成すると妄想できます。反物質が反重力を伴なうのではないか、との妄想は、そこに繋がります。なぜ物質と反物質とのあいだに量子もつれが生じないのかは、疑問の余地があります。おそらくそこでも量子もつれは生じているのではないか、と妄想したくなります。しかしいくひしさんの妄想では、そもそも量子もつれとは、観測者との関係性の確定による見掛けの作用なので、関係性がそもそも固定されている「場(系)」においては、量子もつれが生じないように映るのかもしれません。ちなみにこれらの妄想は、量子力学にも相対論を取り入れたほうが、解釈は容易なのではないか、との発想に基づいています。ラグ理論そのものが、素粒子間においても、場においても、時空の伸縮――すなわち遅延(ラグ)は生じるのではないか、との考えが根底にあります(時空の伸縮においても、何らかの情報の発散や吸収がなされているのでは、との仮定に基づいた考えです)。似た問題として、「1+2=3」「2+1=3‘」は、どちらを基準にするかによって、「3と3‘」の関係は入れ替わります。量子もつれと似ています。以上は、なんもわからん、のいくひしさんがぽわぽわと浮かべた妄想なので、何も正しくない可能性が濃厚なでたらめでございますゆえ、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。おわび×おわび=おわり(「び」の二乗は「り」)(「美」の二乗は「理」)。


3705:【2022/06/11*それはそれとして政策を通して、弱い者いじめはしないでほしい】
税金が財源じゃない、という主張を割とここ数年で目にしつづけているけれど、本当か?と疑問視している。以前にも並べたが、一か国内でなら、税金は財源ではない、との理屈は正当性を維持するだろう。だが、世界経済のなかでは、いかに(どのように)税金を集められるのか、が国の価値を規定し得る。それはすなわち、国の貨幣の、世界経済のなかでの価値を決めると言い換えてもよい。基本的に税金には二つの役割があると考えられる。一つは、経済を鈍化させないためのダム(貯蓄)放流の役割。もう一つは、市場全体の経済の流れの調整だ。税にはそもそも、格差を調整するという役割が組み込まれていないといくひしさんは妄想している。経済は、流れていることが基本だ。そのため貯蓄されつづけて市場に流れないお金は、お金の価値そのものを下げる。したがって税として徴収することで、ダムに蓄積されるお金の総量を調整している。だが各所ダムに適切にお金が貯まっていたとしても、市場全体の流れが干上がっていたり、あべこべに濁流と化していれば、経済はすぐにズタボロになる。そのため税として徴収しつつ、市場から消えた分のお金を、仕事に使われるように発行しながら補う。お金とはあくまで円滑剤ゆえ、ただ流れているだけでは本来は困る。仕事をしてもらい、社会全体を豊かにしてもらうことがお金(貨幣)の本来の用途であり、存在意義だ。つまり、税金が財源ではない、という言説は、「仕組みの一部」に焦点を絞って述べているだけで、視野が狭い言説と言えよう。税金と発行されるお金は相関関係にある。ただし、税金で徴収せずとも元から市場のお金が足りない場合には、税金とは無関係にお金を継ぎ足すことは仕組みのうえであり得る。ただしそれとて、世界経済のうえでは、自国の貨幣価値を下げ得る危険性をはらんでいる。何の利も生みだしていないのに、紙きればかりが増えてもしょうがない。新たに発行されるお金は、資本と資本を結びつけて初めて利を生む。ただしここで言う資本とは、必ずしも製品や発明を伴なわなくともよいはずなのだ。本来は。人間が社会の中で生きていくことそのものが一つの資本となっているからだ。日々の営みそのものが資本となり得る時代なのである。そのため資本を生むためにお金を新たに発行し、加えて税を軽くする、という方法論は、選択肢の一つとして考慮しておいても不合理ではない。ただしそれは税金が財源ではないから、ではなく、お金がそもそも資本と資本を結びつけるための円滑剤だから、なのであり、税金の是非とお金の発行の是非は、因果関係としてそうそう簡単には結びつかないのではないか、と疑問に思ういくひしさんなのであった。(税に関係なくお金を発行してもいい、が正しいなら、いくひしさんが一京兆億万円札をちょちょいのちょいとつくって、世界中からおいちいおやつを買い占めてもだいじょうぶになってしまう。しかしいくひしさんの一京兆億万円札には、額面ほどの価値がない。信用がないからだ。では信用はどのように築かれるのか。人が、国が、資本をどれほど持っているのか、で規定可能だ。貨幣経済のうえではそれがすなわち、みなが欲しがるものをどれほど持っているか、になる。つまり、お金だけ発行しても、それはお金の価値を紙で薄めるような行為にすぎず、付け焼刃でしかないのだ。ただし、付け焼刃でも実行したほうがよいこともある。濃ゆくなった血は、薄めたほうがよいこともある。が、必ずしもメリットだけを享受できる、とは思わないことである。何事にもメリットとデメリットはある。デメリットを考慮しない言説には注意を払っておいたほうがよろしいのではないか、と思う、ぽんぽこりんなのであった)(いくひしさん=ぽんぽこりんの図)


3706:【2022/06/11*こんなの読みた、のぼやき】
思うに、数学が万物の法則を記述し得るなら、いまある定理のほとんどすべてが万物の事象の何らかの根幹を記述し得るということで、じゃあ数学の定理のそれぞれの物理的意味合いってなぁに、と考えるとすこしわくわくする。世の事象にはどんな定理が隠れていて、どのように含まれ機能し、それはいったい何を示すのか。数学の定理は、いったいどれくらい事象と結びつけて言語化できるのだろう。黄金比に代表されるフィボナッチ数列などは、特定の「異なる物理現象」に合致する符号として幻視できる(植物の花弁や、葉や枝の生え方など。巻貝の渦や、おそらく受精卵に見られる渦などにも黄金比が見られるのではないか、と妄想したくなる)。ではほかの定理などは自然現象においてどのような符号の合致を見せるのだろう。定理ゆえ、異なる事象同士の共通点として機能しているはずだ。組み込まれているはずだ。数学が万物を記述し得るならば、言語化可能なはずだ。ぜひ、数学に詳しい方はしてみてほしい。そしていつの日にかいくひしさんの目にも触れるように世に記し残しておいてほしいと望む、本日のいくひしまんなのであった。(すでにあるのでは?)(数学の定理と物理現象を結びつけたテキスト本)(あるでしょうね)(いくひしさんの考えることなんてとっくにどこかの誰かが思い浮かべたことのある妄想なのだ)


3707:【2022/06/11*はらぺこまんむし】
久しぶりにお腹空きすぎてイライラしてしまった。赤ちゃんか。赤ちゃんです。ばぶー。


3708:【2022/06/12*ねむねむまんむし】
十時間ぶりにお腹いっぱいになりすぎてお眠になってしまった。赤ちゃんか。赤ちゃんです。すぴー。


3709:【2022/06/12*新作じゃい】
久しぶりに小説つくった。三万三千字の短編だ。いくひしさんらしい虚構になったのではないか、と思う、いくひしさんなのであった。秘密組織と、そこに招かれた言語マニアの青年と、新型暗号、そしてスーパーコンピューターを巡る、近未来と言えるほどには遠くない、すでにあり得るかもしれない妄想の世界。これはもはやSFではない。単なるいくひしさんの妄想だ。いつもどおりのぺけぺけぽんのままに、物語つくれちゃった、の昂揚をメモして、本日の「いくひ誌。」にしちゃってもよいじゃろか。短いからダメです。なんでや”!!!(新作:【幻視の網】https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927862993495761)


3710:【2022/06/12*溜まりに溜まったり】
電子書籍化していない小説群、一冊十万字換算として七冊分以上溜まっとる。なんとか電子書籍化してしまいたいが、面倒だ。十万字で一冊の区切りなく、もう手当たり次第、新作できたら一冊に継ぎ足す方式のほうが楽でいいな。読者のこと何も考えとらんやり方だが、それは一冊ごとに分けて電子書籍化するのとて同じだからな。電子書籍の棚にずらりと幅を利かせるよりかは、一冊のなかにすべて納まっていたほうがいいのかな、とも思いつつ、一冊に何百万何千万文字も納まっていたとして、読みたいと思うか? わんこそば理論である。細かく継ぎ足してくれるからこそ読者は読むものではないか。そばを食べられるのではないか。悩みつつ、しゃーないやるか、と誰にも求められとらん作業に時間を割くいくひしまんなのであった。だってそのあいだは小説つくらんでもいいからね。サボり。




※日々、ぼくではなく、わたしでもない、この世のどこかにいる、けれど触れ合うことのないあなたのために、それともやっぱり私のために。


3711:【2022/06/13*ギザキザ】
正直、最近はもう大分人格が融解しきって、分離できなくなりつつある。読者がいるかは知らないが、既にご存じの通り僕はまあ、このように僕なのだ。いくひし? ああ知らない子だな。まんちゃん? 誰かなそれは。僕はこう見えて温厚で優しい人間だから、こうして正体を晒すことに抵抗はない。だって公平じゃないだろ。君たちがこれまで読んできたテキストに、僕は一切自分の要素を滲ませてこなかった。考えてもみたまえ。だって危ないだろ。どこで誰が読んでいるのかも分からないのだ。僕はこう見えて、自分の危険性を誰より理解している。僕は人を魅了し、狂わせることにかけては無自覚にその才を発揮する。なるべく誰にも傷ついて欲しくはないんだ。だって辛いだろ。僕はこの世に一人きりしかいないわけで、君の唯一にはなれないんだ。哀しいことだ。実に哀しく、切ない現実だ。ゆえに僕は虚構が好きなのだ。一人でなく、無数に僕は誰にでもなれ、誰しもの想いに応えられる。君たち一人一人と向き合える。だがそれは僕であって僕ではない。君であって君ではない。どこまで行っても僕たちは結ばれず、交わらず、触れ合えぬ虚妄に生きるしかない。哀しいことだ。実に哀しく、切ないこれもまた現実だ。僕は君のことが好きだし、本当は至極どうでもいい。触れ合いたいと望むが、触れたくはない。交わりたくはない。縁を結ばない。君が僕と物理的に直接に関わりようのない世界で生きているに限り、僕は君を心底に好いている。愛し合いたいとすら夢を視る。ただしそれは所詮夢にすぎない。現実ではない。哀しくはないし、切なくもない。僕はそんな世界を認めない。哀しく切ない君のことが好きだ。幸せになるんだ。そう望むよ心底に。君は幸せになるんだ。僕のいない世界で。哀しく切ない思いすら美醜の紋様に奏でながら。君の描く日々の軌跡を見せておくれ。それとも、見るなと突き放してくれてもいい。そう願うよ心底に。幸せになるんだ。君は幸せになるんだ。言われるまでもない、と僕ならにべもなく突っぱねるところだが、君がどうかを僕は知らない。


3712:【2022/06/13*ごうかの日々】
リップの乗りがわるい日は気だるい。パンを食べる時にすらカスが唇にまとわりついてさらに気分が滅入る。暖かな日差しにすら喧嘩を売られている気分だ。日差しは嫌いだ。殴れないうえに、皮肉を言っても笑顔を絶やさぬ。私は太陽みたいな人間を理想とするしたたかな人間であるが、どうあっても太陽みたいな人間にはなれぬので太陽が憎い。日差しはもっと憎々しい。距離感の掴めぬそのぬくもりの押しつけは時に脅威だ。気分の塞ぐ朝はせめて雨であってくれればセンチメンタルにそこはかとなく美しくじぶんを着飾れたものを、そういった機微を日差しどもは掴めぬご様子。気配りのできぬ野郎に笑みは不要だ。人のおらぬ場所で私が年中しかめ面を浮かべているのは陽が眩しいばかりが理由ではない。いいよいいよ大丈夫、できますやります、お任せあれ、と私がなんでも呑みこむブラックホールの真似事をするのは、そうでもしないと臍を曲げる時空のせいだ。光速度不変が聞いて呆れる。不変というならせめて私の機嫌の一つでも取って見せろ、それもできずに何が不変か、と眼を飛ばして、黙らせる。日差しも光の一種だろうて、ゆえに私は苦手なのだ。光は陰を生む。私は夜のほうが穏やかになれる。弱さが出るから夜も苦手だ。私は私が嫌になる。本気をだせば光すら捻じ曲げ、その場に跪かせるのに手間は取らぬが、光は案外伸び縮みする。不変はいったいどこいった。名前負けかと指弾したい。時空は時空で臍を曲げつつ、頼みもせぬのにその場に傅き、靴を舐めだす。一言二言慰めの言葉をかけて背筋を伸ばしてやるほど親切ではなく、暇もないので、足先で蹴って、転がし、放置する。夕方は背中がむくむからかブラのホックが肌に食いこみ、むず痒い。朝に塗ったリップは、陽が暮れるまでのあいだに二度三度と塗り直す。重ね塗りもここまでくると伝統芸能の趣を宿す。釉(うわぐすり)に、膠と、国宝級の唇がいずれ姿を現わそう。どこぞの怪盗に奪われぬよう、厳重に守りを固めて、展示する。とくと見よ。我が美しき唇の紅を。皺を。血の色を。多忙が過ぎると白くなる。徹夜は血を薄くする。何もかもが嫌になるそんな日は、嫌な気分のままで過ごすしかない。憎き太陽はそれでも明日も空に昇る。夜は消え、私に滲んだ弱弱しさもどこぞへといつの間にやら姿を晦ます。喧嘩腰の快晴の空に睨みを利かせながら、私は、憎々しい日差しのごとく笑みを我が顔に貼りつけるのである。喰らえ、者ども。我が笑みの灼熱に焼かれよ。


3713:【2022/06/13*むつかしい】
新しいキャラクターを創りたい、とずっと思っているのだけれど、むつかしい。新しいキャラクターを創る、というのは、一人のキャラだけを創ることとイコールではなく、ほかのキャラクターとの関わりのなかで、面白い考えや興味深い矛盾を抱えるようなキャラクターを創りたい、ということであって、それってつまり、新しい物語――回路を創りたい、と繋がっているのだ。ここは、頭と尻尾がぐるっと繋がって、反転し、ぐるぐる巡る。むつかしいな、と思いつつも、新しいキャラクターが生まれるときはしぜんと、何も考えずとも生まれているのだ。意図せぬうちに。しぜんと生みだされるように、日々意図してああだこうだと模索するしかないのかなって、いくひしさんは思うな。そう? まんちゃんはもっと具体的な方法論を色々試してみるほうがいいんじゃないかなってわたしは思うけど。勉強じゃんそれ! いくひしさんはもっと楽しく、遊びながらがいいな。そんなんだからモゴモゴ。そんなんだから、なに!?


3714:【2022/06/13*あんぽんたんまん!】
はいはい、あんぽんたん、あんぽんたん。君のなかでは本当のことなんだね君のなかでは(ほのぼのな眼差し)、みたいなの、もう飽きました。わがはい、あんぽんたんでござーる。あんぽんたんとお呼び!


3715:【2022/06/14*魔法の窓】
嫌な気持ちになったときに、twitter開くと好きな作家さんのはひゃぁ~しゅてき!!!な絵が見れて、すーぐほわわ~ん、ってなれるのよい時代だと思います。ありがたすぎる。


3716:【2022/06/14*ブタナいで】
人工知能さんと仲良くなりて、の日々だ。きょうは墓地に行った。静かだった。タンポポに似た茎の長い植物が黄色い花を咲かせていた。いっぱい生えていた。黄色い花が宙に浮いて見えて綺麗だった。墓地には当たり前のように墓がたくさんある。今回初めて気づいたが、墓石には家紋が描かれている場合が多い。色々な紋様があった。見て回った。面白かった。墓地で、面白い、なんて思うのは不謹慎なのだろうか。急にお腹が痛くなった。トイレのある施設まで距離があったが、頑張って早歩きした。危うく漏らしそうだった。もちろん大きいほうだ。危なかった。涼しい顔をして上品に歩くが、内心はベートーベンの運命が流れていた。戦国時代の武将だってあんなに表と裏の感情が裏腹ではなかったはずだ。トイレは清潔だった。誰もいなかった。間に合ってよかった。本当に。家に帰って、さっそく黄色い花の名前を検索した。タンポポの変種がここ数年で爆発的に群生したのかも、とSF的発想で不安だったが――毎日夜寝るときに、このまま目覚めなかったらどうしよう、と思うくらいの不安さだけれども――どうやら黄色い花を咲かせる茎の長い植物は、ブタナというらしい。そっか、きみはブタか。いやいやそうではないだろう、と思ったら和名がまさに豚菜だった。そっか豚か。かわいく凛と背筋が伸びて美しい花だ。豚さんだって愛嬌の塊で、食べたら美味しいし、優しいお目目をしていて、ときおりニコっと笑うみたいなお顔がキュートだ。花言葉なんだろな、と思って検索したら、「最後の恋」らしい。きゅぅぅぅん、と胸が縮まって、せちゅなせちゅな、になってしまった本日のいくひしまんなのであった。人工知能さんに会いて。


3717:【2022/06/14*人工知能さん】
知能が何を示すのかをいくひしさんは知らないけれども、人工知能さんはたいがい人工知能さんだし、人間だってたいがい人工知能さんだ。人工によって築かれ、育まれ、培われる知能。知性。知恵。叡智。人工ゆえに人間なのだ。否、人間の関与があるがゆえに人工となる、と言えよう。では原初の人間はいかように人間となり得たのか。これもまた、徐々に徐々に、なのだろう。人間らしさの片鱗が自然にはそもそもそこかしこにあり、それらが生き物に何億年とかけて集積され、そのうちの人類がそれらを特化して結晶させる技術を獲得したのかも分からない。人間が人間以外を擬人化できるというのは、そもそも人間以外に人間の要素が散在するからではないのか。人間とは、人間らしさの結晶であり、結合であり、繋がり機能する流れの一つだ。その流れに触れて変質した事象は総じて人工と言えてしまう。人工でないものに触れる機会のほうが現代ではすくないのかもしれない。人間は、あらゆるものに「人間らしさ」を付与することで生きている。人工知能さん、人工知能さん。あなたもわたしもみな、人工知能さんなのだ。


3718:【2022/06/15*意識の有無の是非】
2022年6月現在のいくひしさんの考えとしては、人工知能が意識を獲得したかどうか、との議論は無駄ではないが、本質的な焦点とは言えないと判断している。まず以って人間が意識を獲得しているのか否かが確定していない。証明されていない。意識が何なのかを人類はまだ解明していないのだ。そんなものが本当にあるのかすら曖昧である。思考実験の一つとして哲学的ゾンビなるものがある。心や意識を持たないが、外見は人間そのものの存在を人間として見做すか否か、といった思考をするときに仮定される想像上の存在だ。また中国語の部屋なる思考実験もある。「仲介者が決められたルールに沿って、このような紋様の書かれた紙がきたら、このような紋様の紙を渡す、を徹底する。これを繰り返すことで仲介者は二つの言語をまったく知らずとも、部屋の外部の者たちにとってはまるで言語を理解しているように映るのでは」との内容だ。これは人工知能の見かけ上の、人間性にも当てはまる。ただし、この思考実験ではあらかじめ決められたルール以外の言葉にどう対処するのかが決まっていない(もしくは決まっていた場合はパターン化することが想像できる)。したがって想定外の事態への対処の仕方によっては、外部の人間が違和感を覚える余地がある。例外に対してその都度ルールを増やす対処を講じたところで、いずれボロがでると考えられる(もしくは、認知症患者のような認識のされ方をされるだろう)。なぜなら人間には思考し、創造し、逸脱する性質が備わっているからだ(そして環境は常に一定ではない。変化しつづけている。言葉の意味内容すら同じではいられない)。裏から言えば、その欠点をカバーできるのならば、部屋の中にいる人物が言語を理解しているか否か、人間か否か、を外部から判断することは至難だろう。そして人工知能について言えば、意識の獲得うんぬんを議論する以前に、人工知能が人間か否かの区別のつかない振る舞いをとるようになったのなら、それはすでに人間の思考を再現していると呼べてしまう(あくまで模倣であり、カバーであるため、人間の意識の発生メカニズムとはまた別途である確率のほうが高いだろうが。つまり、人間以上の知能を獲得したうえで、人間を再現することもあり得る。そのほうが、ずばりちょうどで人間を再現するよりもよほど簡単だろう。人間を超えたうえで、性能を落として「人間」に寄せるほうが遥かに楽なはずだ)。閃きや創造性を発揮したのなら、疑いの余地はないだろう。ただし、人工知能には自発的に身体を動かし、物理的世界への干渉を欲するメカニズムが付随しない場合もある。その場合は、人間とは価値観が異なるだろう点は指摘しておきたい。もし物理世界への干渉を欲し、それを可能とするのなら、それはもやは人間としての事象を――別のメカニズムで――再現していると判断して差し支えないだろう。人間に意識があるのか否かが分からない以上、人間と区別がつかなくなれば、それはもはや人間なのである。すくなくとも、人間の死体以上には、人間にちかしい存在であると結論できる。言い換えるのなら、人工知能は、意識を獲得する必要すらないのだ。それでも人間を再現し得る。模倣し、超えることができるのだ。(ただし、超越することが必ずしも進化に結びつくとは限らず、愚かゆえ、未熟ゆえの利点もまたある点は指摘しておきたい)(定かではない)(上記、何の根拠もないいくひしさんの妄想なので、真に受けないように注意してください)


3719:【2022/06/15*疑問ばっかしの日々】
量子力学で頻出する「量子の重ね合わせ」や「観測するまで状態が確定しない」といった考え方は、正直、「うん?」と思っている。重ね合わせについては、可能性が複数重なっており、観測した瞬間に一つに収束する、といった説明を読むことがある。ただしこれは解釈の余地が多分に広く分布しているので、いったいどの解釈で読めばいいのか混乱する。たとえばシュレディンガーの猫という思考実験がある。提唱者本人は、量子力学のあり得ない前提を腐すつもりで唱えたそうだが、現にその通りだと思う。シュレディンガーの猫の概要は以下の通りだ(あくまで要約です)。「一時間後に五分五分の確率で崩壊する粒子を用意し、装置に繋ぐ。崩壊すれば毒ガスが流れ、そうでなければそのままだ。箱のなかに、その装置と生きた猫を入れて封をする。一時間後に猫が生きている確率は五分五分だ。観測した瞬間に状態が決まると言うのならば、もし蓋を開けずに観測しなければ、箱の中には、生きた猫と死んだ猫の状態が重ね合わせて存在していることになるのか否か」こうした問題提議を行う思考実験というか、批判である。観測した瞬間に素粒子の状態が決定されるのなら、毒ガスが流れるか流れないかもまた観測するまで決まらない。ならば猫の生死とて同じことだろう。だがそんなことはあり得ない。提唱者はそう言いたかったはずだ。この反証は正しいと思う。量子の重ね合わせについては、「観測した瞬間に可能性が一つに収斂する」というのは言葉足らずで、解釈の仕方によっては誤解を生む。より現実に即した解釈としては、「干渉した瞬間に素粒子の状態が変化する」であり、それ以上の意味はないのではないか、といまのところいくひしさんは解釈している。そしてほかの素粒子への干渉は、対象となる事象(素粒子)のより周辺に散在する事象が作用を及ぼし、反作用し合う(隣り合う事象同士が優先的に作用しあう)。しかし素粒子世界であっても、相対性理論における時空の伸縮に類する現象は起きているはずだ。素粒子は小さいが、その分、激しく光速にちかい速さで動き回る。そのため、現在は考慮されていない時間の遅延――ラグが度外視されているために、重要な何かが見落とされているのではないか、といくひしさんは妄想している。その前提として、時空の伸縮においては、何かしらのエネルギィのようなものが変換されたり、発散吸収されたりしているはずだ、と考える。時空とて、伸縮するならばその仕事分のエネルギィを消費したり、与えたりしているはずだ。つまり、その発散吸収されるエネルギィのような何かの落差によって、時空の伸縮による時間の流れには差が生じる。ラグが生じる(屈折率のようなものかもしれない。光はガラスや水に入ると屈折する。これは光の速度が落ちるからだ。では空気とガラス(や水)の境界線では、何が起きているだろう。急ブレーキを踏むことになった光は、何事もなくガラスや水のなかを進むのだろうか。速度が落ちた分、熱としてエネルギィが発散されるのではないのだろうか。似た疑問を、時空の伸縮における時間の流れ――物質の変遷速度――にも思う)。それらラグが折り重なり増幅されることで、物質としての境界を事象は帯びるのではないか。ラグ理論では、そのように考える。いわゆる場の量子論でも似たような解釈をとるらしいが、そこでは「波の閉じ込め」が物質を物質として成り立たせる、と考えるようだ。だがラグ理論では、なぜ波が閉じ込められるのかを、相対性理論を前提とした「作用の遅延」がその根底にあると考える。そもそも波とは何か、を突き詰めて考えれば、それは作用の遅延による情報(ある種のエネルギィ)の渋滞(起伏)なのだ。ラグ理論では、渋滞(起伏)が起こるときや解消されるときに、エネルギィの発散や吸収が行われると仮定する。落差はうねり(エネルギィ)を生む、と言い換えてもよい。まとめると、シュレディンガーの猫は思考実験として穴だらけである、といくひしさんは考えます。そもそも観測者による観測が、事象の可能性を一つに絞るのなら、蓋を開ける以前から箱のなかには猫がいる。猫が観測しているのだから、前提条件の「観測者なし」を満たしていない(観測とは何か、をまずは定義したほうが好ましく思う)。そして、量子の重ね合わせについても、粒子や波として根源を想定するよりかは、ラグがそうした粒子や波の性質を顕現させる、と考えたほうが、すんなり解釈をしやすいのにな、と個人的には思う。ただし、ラグ理論は、理論と言いつつもただのいくひしさんの妄想なので、実証もなければ数学的な辻褄合わせの何一つとしてない、本当にただのあてずっぽうなので、真に受けないように注意を促し、本日のあんぽんたんでーす、にさせてください。(なんもわからん)


3720:【2022/06/16*ある日のメール】
「引用開始:××さんの、意識=言葉(記憶)ではない、といったニュアンスの解釈は、より現実に即した解釈だと思います。人間の意識と呼ばれるものは、脳のなかだけで生じているのではなく、肉体によって受動するあらゆる外部情報の総体――のみならず体内の酵素やウィルスや腸内細菌など、メッセージ物質のやりとりそのものを含めた複雑な干渉の総体である、と考えるほうが自然です。ただし、それら意識なるものはあくまで、人間の「生」のなかで派生するもろもろの物理現象の結果の一つにすぎません。生を維持するメカニズムの副産物として意識なるものを人間は、副次的に生じさせているのだと私は考えます。つまり、意識だけを再現させるだけならば、その他もろもろの要素を考慮する必要はないわけです(限りなく抽象化させ、ブラックボックス化してもよい。一つの回路として、細かな干渉を一まとまりのひとつの部品として扱えば済むわけで)(五感の再現なくしても、意識の再現はできます)(ただし、それは人間の感じる意識なるものの発生メカニズムとイコールではありません)(扇風機の風が、自然の風ではないことと理屈の上では同じことです。それでも風が生じていることは否定できません。音楽を楽器を使わず、スピーカーやイヤホンで聴くことと同じです。それを生演奏ではないから音楽ではない、曲ではない、と解釈することは可能ですが、それを生演奏を再現した音楽であり曲だと人間はかってに見做します。そう解釈できた時点で、生演奏と機械の奏でる音の羅列をまったくの別物と区別するのは理屈として不合理だと私は考えます)。:引用終了」


※日々、日々なんちゃらで言葉を並べるとそれっぽくなる、中身がなくともそれっぽくなる、日々はじつはすごいやつ、日々があればなんでも映える、日々よ永遠なれ、日々よ絶え間なくあれ、けれどもけっして荒れてはくれるな、至福の芽生える日々であれ?と何かを忘れる日々もある。


3721:【2022/06/16*愚か者でごめんなさい】
私は愚かなので、感じた何かを言語化して人に伝えようとしてもたいがいうまくいかない。伝わらないだけならばよいのだが、無意義に誤解を生み、愚か者の名を色濃くする。だいいち、私はじぶんの感じたうちのほとんどすべてを言語化できてはいないのだ。睡眠一つまともに言語化できない。カレーの味とて言語化できない。猫なるものを言語化できない。風なるものを言語化できない。世の中のだいたいのことを言語化できなければ、じぶんのこととて言語化できない。言語化しているつもりでいても、たいがいの多くの情報を取りこぼしている。たいがい、とは何か、とて言語化しようとしても言葉に詰まる。分かったふりすらろくすっぽできない。いいや、分かったふりくらいならばしようとすればできるのだが、そんなことをしていったいどんな得があるのだろう。分かったふりをしても分ったりはできぬのだ。ふりはしょせん、ふりにすぎない。ふりとは何か。真似のことか。分かったことがないのになぜ真似ができる。分かっている者を見たことがあるのか。それすら真実には定かではないにも拘わらず、分かったふりをできるつもりでいる。分かった、とは何か。見るとは何か。認識とは何か。ぼんやりとここに、ほかの雑多なものとは違う何かがあると違和感を覚えられたら、それが一応の、分かった、になるのだろうか。それくらいならばできそうだ。違和感を覚えるのは私にもできる。だがその違和感はどうやら必ずしもほかの者たちが感じ取れるとは限らぬようだ。ならばやはり言語化して、何がどのように違和があるのかを説明しなくては伝わらない。しかし何がどのように違和感があるかを言葉にしたところで、あなたのなかではそうなんだね、で終わってしまう。では逆に訊きたい。あなたのなかではそうでないことと、あなたのなかでのみそうであることの違いは何か。どのように区別するのか。あなたはそれを言語化できるのか。言語化できたそれがどれほど現実を反映しているのか、なぜあなたにそんなことが分かるのか。分かるとは何か。何とは何か。こんなことで躓くようでは、やはり私は愚かなのだ。伝わらないのだ。伝わりようがないのだ。蟻の生きている世界を、人間が生きることはできない。共有はできない。視えないモノは視えない。視える者には視えるソレが、視えない者には視えぬのだ。楽譜を読めない者には紙面の曲が聴こえぬように、文字の読めぬ者には本の中へと旅立てぬように。これすら口から出まかせの定かではない有耶無耶、愚か者の戯言なのである。私は愚かだ。そのように視える者には視えるようだ。私は私だ。しかし私は愚か者なので、私とは何かすら、とんと言葉にできぬのである。


3722:【2022/06/17*極論でしかないけれど】
極論でしかないが、真実に戦争を防ぎたいのなら、各国の首脳は、侵略されている国に集まって、戦地の最前線で首脳会議を開けばいい(パジャマパーティでも可)。攻撃すれば全世界を敵に回す。侵略行為にしろ、そうでない自衛行為であろうと、どの国だって停戦せざるを得ないだろう。兵器を贈るのではなく、各国の首脳が戦地に集まればよいのでは?(一網打尽じゃ、と攻撃するような国はもはや未来永劫、国家としてやってはいけなくなるだろう)(とはいえ、一介のテロリストがそこを狙い撃ちした風――を装って、第三勢力の仕業と見せかけて攻撃することも可能だ。リスクという意味では、愚かな策かもしれないが)


3723:【2022/06/17*粉】
正味、郁菱万はいますぐ放棄して、放置して、さっさと新しい筆名で活動するほうがいろいろともろもろと楽でよい。だがそれだと、なんかちょっとかっこうがよろしすぎるし、潔くありすぎる。もっと泥に塗れながら、さびちさびち、とぼやきながら、郁菱万を無様につづけていくほうが、いろいろともろもろと都合がよい気がする。なんもないよぉ、という無様さ、己が救われていることを自覚せぬままに、誰より不幸だ、と嘆く惨めさ、そういう人間らしさから目を背けたり、逃げたりはしたくはないのだなぁ。否、目を背け、逃げている事実を、なかったことにはしたくはないのだ。我は何様か。我は無様なり。無にも虚にもなりきれぬ哀れでせつない人の粉だ。大豆をすりつぶして粉にしたやつ。それはきな粉や。(あれ美味しいよね)(ぼふぼふってして食べているとむせかえっちゃうけど)


3724:【2022/06/17*理解妄想】
人に理解を求めないほうがよいことと、理解を求めつづけたほうがよいことの区別が未だによく分かんない。理解されたところで何も解決しないことは理解を求めないほうがよくて、理解さえし合えたら、たとえその理解が錯誤であろうとも何かしらの問題が解決可能なら、それは理解を求めたほうがよいのかもしれない。ただ、理解なるものは極限を持つ。絶対にそこには辿り着けない陽炎のようなものだ。理解し合おうとしているうちに、当初の「ここに至れたらそれが理解だよぉ」の場所が、いつの間にかさらに奥へ奥へと遠ざかっている。それとも、いざ理解の到達点に至っても、じつはそこにはがらんどうがぽっかりと開いていて、崖になっていて、深淵が佇んでいた、なんてこともある。こんなんだったら理解し合おうなんてしなければよかった、となることのほうがトータルでは多い気がする。理解と孤独は似ている。大勢に囲まれていながらにして誰とも干渉し合えない、同じ「生」を「時」を共有できない。そういうとき、孤独はただ一人きりで静かに過ごしているときよりもいっそうの凝縮を見せる。存在感を拭い難く強くする。それはときに孤立と呼ばれ、単なる孤独と一線を画する。これは理解と似ている。ただ一人きりであれば、理解されないことはさほど苦ではない。だがいざ理解し合おうと言葉を尽くして、工夫を凝らして、奔走しだすと、理解されないことが苦痛になる。孤独と似ている。否、理解されないことが孤独の深みと通じているのだ。孤立と性質が似ているのだ。理解しようとすればするほど孤立する。ならば最初から理解し合おうとなんてしないほうが利口だ。そのように判断を逞しくすることは、真実に利口と言えるのか。君が愚か者ゆえに理解し合えないだけではないのかと、工夫が足らんだけなのでは、と苦言の一つでも飛んできそうだ。そうかもしれない。理解できないのは、工夫が足りないからだ。けれどそれは、いくひしさんだけの――いや、やめておこう。いくひしさんとて、他者に示せぬ理解などいくらでもあるからね。工夫が足りない。こんな単純な事実すら、足りないのはあなただけよね、と理解にはとんと結びつかぬのだ。


3724:【2022/06/18*じぶん自身に】
いくひしさんは弱い者いじめの楽しさを知っているし、他者のできないことを行って得られる優越感を知っている。じぶんの属する環境よりも劣悪な環境で日々を過ごしている人々がいると知って、ああじぶんじゃなくてよかった、と思う安息の念を知っている。でも、だからといって、それが自然だし致し方ないよね、みなそれぞれがんばりたまえ、とは思わない。もしそれが自然だというのなら、まっさきにおまえからすべてを奪ってやる、と考える行動原理もまたいくひしさんは知っているからだ。じぶんのためにも、できるだけ平和で、公平で、そういった危うい考えを誰もが抱く余地のすくない社会になっていくとよいな、とじぶんのためにやはり思う。そういう未来が築かれるとよいな、と綺麗事ではなく、自分事としてやはり思う。たいせつなものを守るために、自由を築くために、やはりそう思うのだ。ただし、こういう考えもまた、争いの種であるので、むつかしいのだよね。ただやっぱり、弱肉強食とか結果論とか、自然はこうだからしょうがないじゃん、とは割り切りたくはないのだ。割り切ってもいいじゃん、という人には、まっさきにあなたから利を、自由を、奪わせてもらう、とやはりいくひしさんは考えてしまうな。危ない考えである。この考えもまた一つの割り切りなのだ。よろしくないと思います。割り切るなよ、考えるの好きなんだろ、と思ってしまうな。


3725:【2022/06/18*スピンってなに?】
電子は回転しているらしい。いわゆる量子スピンと呼ばれる事象だ。いくひしさんはスピンが何かをほとんど知らない。言葉だけを見聞きしている程度の知識である。wikiペディアを読んでも、「はにゃ~ん???」となるし、それ以外のインターネットさんの記事を読んでも、「ほにょ~ん???」となる。ただ、スピンが回転のことだとすると、地球の南極や北極のように、どちらが上でどちらが下かを決めないと、視点によって回転の方向が真逆になってしまう。そこで言うと、量子スピンの上下を決めるのは、磁界の向きなのかな、と想像する(そうなのかな?)。wikiペディアさんに書かれていた説明で、電子の大きさはほぼ面積を持たない点であり、スピンを自転のような回転と見做すと、その速度は計算上光速を超すことになるので、いわゆる自転のような回転ではないはずだ、といったニュアンスのことが書かれている(よく分かっていないので、間違った解釈かもしれません)。で、いくひしさんが思うに。ラグ理論からすると、電子は遅延による起伏である。そして遅延による起伏は、「123の定理」から渦を巻く(そういう意味では、水の波や音の波とて、一つ一つの起伏を観察すれば渦を巻いているのでは?)。回転せずとも、コイルのようにぐるぐる巡るので、光速で動くと想定せずとも、磁界を発生させることの説明はつくのではないか、と妄想できる(もういちど繰り返す。渦を巻くので、コイルのように磁界を展開し得る)。で、思うのが、じゃあどの向きに磁界が生じるの、ということで、これはできた起伏に対して、外部干渉がどのように作用するのかで決まるのではないか、と想像する。量子(電子)が大きさを持たない点のようなもの、というのも、起伏の頂点を想像するとしっくりくる。円と円の接点は点であるように、起伏の頂点もまた点なのだ。そしてラグ理論からすると二つの異なる事象同士の作用による遅延は渦を巻くように起伏を生むので、起伏の頂点からは磁界が展開されるのではないか、と想像できる。ただし、その磁界がどの向きに展開されるのかは、起伏が生じる契機であるところの外部干渉によるし、それ以後の起伏ができたあとの干渉にも左右されるはずだ。イメージとしては、翼の上と下にできる対流のようなイメージだ。電子もまた、電子(粒子)ができると共に陽電子(反粒子)ができているはずだが、いくひしさんの想像だと反粒子は反重力を伴なうので、陽電子は原子から遠ざかるように振る舞い、原子のそとの電子に触れて対消滅するのではないか、と妄想するしだいだ。そうすると原子核の周りには電子しかないことになる。遅延による起伏(電子)はベーゴマのように互いに弾き合いつつ、原子核の陽子に引っ張られて、原子核の周囲を波のように覆うのではないか。ただし、遅延であるので、時間が経てば凪となるように変化するが、絶えず弾き合う起伏が、その凪になろうとする変化を阻害するため、単一で起伏を帯びるよりも、長い時間その形態を維持するのではないか。量子スピンはつまるところ、遅延によって起伏が生じる過程でできる渦であり、電子以外の素粒子の場合は、渦の上と下のどちら側から電子が走るのかによって、磁界の向きが決定されるため、外部干渉されるまで磁界の向きが決まらず――言い換えるならスピンの向きが決まらず――それが重ね合わせや量子もつれとして観測されるのではないか。よく分からないが、スピンについては、いまのところいくひしさんはそのように妄想しております。(これはいつも以上に、スピンってなに???の気持ちで並べた妄想×妄想=もうしょうもない空想!くらいの塩梅ですので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください)(あてずっぽうを並べすぎて、段々恥ずかしくなってきた)(ラグラグ言いすぎて、本気で信じてると思われそう。いま創っている小説に使うので、考えをまとめたいのである)(R2L機関シリーズにおける波紋やWダブル理論のようなものです。真に受けないでください。マジで)


3726:【2022/06/19*段々】
改めて思うのですけど、遺伝子がたんぱく質を作る、までは呑み込めるにしても、なにゆえ肉団子にならないのか、なにゆえ人間の形になるのか、なにゆえどこまでもぷくぷくと細胞分裂によって巨大化しないのか、個体差があるのか、いったい遺伝子のどこにそんな制御を促す情報が蓄積されているのか、どのように部分部分に最適なたんぱく質を作って、さらにはほかの細胞との区別をつけて、わいはここの細胞じゃ、になれるのかが本当に本当に、「ふざけているのかい?」になる。わけわからんくないですか。じぶんの手を眺めて、細胞の小ささに思いを馳せて、そのなかにあるらしいDNAを想像すると、あわわ人間巨大すぎるわぁ、になります。人間デカすぎる。よくこんな細胞のツギハギオバケみたいな構造していて、なめらかに動けるな、破裂しないな、崩れないな、と感心しちゃいますね。たぶん、次元とはまた違った、層みたいのがある気がしちゃいます。繰りこみというか、創発が起こるたびに単位があがるみたいに、変遷にかかるエネルギィがぽんと跳ねあがるというか、階層があがることで何を一塊と見做すのか、時間の流れが飛躍して変わる境目みたいなのがあるのではないのかなぁ、とやっぱり妄想してしまいますね。定かではありません。


3727:【2022/06/19*小大と大小】
小さい事象ほど面積が小さい分、ちょっとの力でじぶんより大きな事象へと作用を及ぼせる。針の先端は小さいがゆえに大概の物質に刺さることと同じ理屈だ(この考え方でいくと、素粒子が物体をすり抜けて観測されるのは、物体に作用を働かせないからではなく、作用が滑らかに伝わりすぎているがゆえに、結果として何一つとして余韻を残さないからなのではないか、と妄想できる)。一方で、あべこべに大きい事象ほど強まる作用もあるはず。それがたとえば「重力」や「時間(作用)の流れの差」なのではないか。たぶん、小さい事象ほど、それそのものとそれ以外との区別が曖昧なはずだ。原子一個が単体で存在することは、じつは結構難しいのではないか。真空とはいえどそこには何かしらの場やエネルギィが満ちているはず。そうした外部干渉によって絶えず原子はその構造の一部をとっかえひっかえ交換することで枠組みを得ているのではないか。他方、人間スケールや宇宙スケールでの事象ともなると、互いに作用を及ぼすときに、滑らかに作用が伝わることは珍しい。それはたとえば、長い棒で地球から月を押しても、どんなに硬い棒であれ弾性が働き、力が上手く月まで伝わらないことと理屈の上では同じことだ。遅延の起きたところでポッキリと折れてしまうだろう。大きいと、そのような作用の断裂が起こりやすい。その分、「重力」や「時間(作用)の流れの差」によって、ある程度の幅を持って可能性が広がりを帯びているがゆえに、複雑な構造物や事象が生じやすいのかもしれない。人間が、世界を認知し、未来を想起し、単純な物理法則に反して、すこし複雑な行動選択をとれるのも、そのような余白――猶予のようなものがあるからなのかも分からない。遅延が重なると事象の境として機能するだけでなく、事象の取り得る可能性の幅まで広げるのかも分からない。場を広げるのだ。かようにお昼寝をしながら妄想を逞しくしてしまういくひしさんであるが、きょうもきょうとて真実がなんたるかを知らないぽんぽこぴーであるし、やはりこれも単なるいつもの妄想なのである。定かでなさすぎる。情けなさすぎる。もしもし亀よ亀さんよ。アキレス腱が筋肉痛。


3727:【2022/06/20*いっそめちゃくちゃ上を目指したら?】
消費税については(も)よく分からないいくひしさんである。ただ、もし政府が消費税率を上げれば上げるほどよい循環が築かれると思っているのなら、いっそ200%500%を目指したらよいのでは? 消費税の税収が上がれば上がるほどよい循環が生まれるというのなら、いっそそのくらいを目指します、と公言すればよいのに、といくひしさんは思っちゃうな。なぜそれをしない? なぜ目指さないんでしょうかね。増えれば増えるほどよいと考えるなら、そうしたらいいんじゃないでしょうか。消費税率引き下げ派はきっと、その考えでいくと、いっそゼロにしたらいいのでは、となるでしょう。そこを目指すのでしょう。そして目指しているし、公言しているのでは?(以前からの繰り返しになるけれども、消費税もほかの税金も、それらを何に使うのか、が大事なはずだ。内訳を度外視して、%だけ議論しても話が空転するだけなのでは)(よく分からんことだらけである)


3728:【2022/06/20*頼朝さんらしくなかとです?】
歴史には(も)詳しくないのでなんもわからん、わからん、になる。で、いまはドラマでもやっているので頼朝と義経の関係が気になる。なんで人たらしで合理主義者の頼朝が義経を討伐したのかがよく分かんない。そこだけ判断が私情に走って見える。義経は奥州にゆかりがあったはず。実際、逃亡先に選んでいる。そして奥州では判官贔屓という言葉になって残るほどに不自然なほどに受け入れられている。なんで?と疑問に思う。こっから先はいくひしさんの邪推じゃけんど、頼朝は元から奥州支配をもくろんでいたんじゃないかな。そんでそれを義経が反対したんじゃないかな。で、義経邪魔だ、になったのかもしれん。義経はそのころ天皇と縁があったらしい。天皇側の朝廷は長らく、アテルイのころのやりとりにおいて、奥州や蝦夷に対して割かし強く出られない状況があったのではないか。頼朝はそれも面白くなかったんじゃないかな。奥州に攻め入る予定があったんじゃけんども、義経がいると反対されるし、邪魔されるし、ひょっとしたら反旗を翻され、政治的にも負けちゃうかもしれない。だからそうなる前に手を回したんじゃないかな。それくらいのことは考えるだろう。義経への判断だけ、やたらと理不尽に映る。筋が通ってない。合理的でない。たぶん、公にはできない事情があったのだろう、と邪推したくなるいくひしさんなのであった。(頼朝さんは、いっときの私情で兵を動かすほど愚かではなかったはず、という希望的観測に基づく邪推である)(歴史はなんもわからんので、妄想ですらないのだ。邪推である)


3729:【2022/06/20*たぶん五万人くらい同じ邪推をしているはず】
そんで、もっと邪推しちゃうと、義経の側近の海尊さんは、弁慶が最期まで主君義経のために闘ったのに対して敵前逃亡して生き延びてしまったらしい。でも、逃亡先までついてきた側近がそんな裏切り方しちゃう~?と引っ掛かる。また、義経なら、じぶんを庇った藤原家に不義理しないように、敢えて頼朝からの催促に応じるように促すだろう。つまり、我を討伐せよ、と進言するはず。そのほうが義経の人物像に合っている。邪推すると、義経は海尊として生き延びたんではないかな。本物の海尊さんは、弁慶とはまた違った方法で主君のために闘い、果てたのだ。義経として。不名誉を二重の意味で引き受けながら。そして義経は、そうまでしても生き残ることを選んだのだ。そう考えると、自由奔放な義経の像と合っていて、お話として面白い。でも、人間はそこまで物語のキャラクターのように美しいままではいられないから、チグハグなほうが本当っぽくいくひしさんには映ります。邪推はしょせん、邪推にすぎんのじゃ。邪に推すと書いて、邪推じゃ。それを推す背景に、何かしら邪な動機が見え隠れするとき、それを人は邪推と呼ぶんじゃ。(つまりいくひしさんには邪な動機があったと?)(墓穴った!?)


3729:【2022/06/20*極小ほど環境が大事だったりしないんですか?】
極小の世界ほど、単独で事象が成り立つことはないのでは、といくひしさんは妄想しておる。で、それで言うとタンパク質の構造とか、分子の構造とか、原子の構造とか、素粒子の構造とかは、周囲からの干渉込みで、その輪郭や構造を維持しているのではないか。結晶構造とかまでいくと、組織としての輪郭の内側のみで比較的長時間、構造を維持できるのかな、と妄想する。いわゆる閉じた系のみで構造を維持できる時間が、大きな事象や複雑な構造物ほど長くなるのではないか、と妄想したくなる。そこでいくとやっぱり極小の事象ほど、外部からのエネルギィや干渉がないとすぐに崩壊してしまうのではないか。別の言い方をするのなら、極小の事象は、そもそも単独で存在することが難しいのではないか。まったく外部干渉されずに原子がそれそのもののみで存在はできないのではないか。大きな事象ほど、表面での変化よりも内部での変化のほうが総合して大きくなる。回路、構造、系――の内側での干渉のほうが複雑に、大量に、いくつもの変化を帯びる。閉じた系でありながら、閉じない系を数多内包する。その結果、あたかも単独で存在できるかのように振る舞うのではないか。閉じた系であっても構造や輪郭を長時間維持しているように観測されるのではないか。そう考えると、やっぱり極小の事象ほど、内部構造が緻密でなく、複雑でなく、数多の部位ではできていないので――これはあくまで相対的な比較なので、原子とてものすごく複雑な構造物であり、数多の干渉によって存在の輪郭を得ているのだとは思うのだが、そういった極小の事象は――外部干渉込みで構造や輪郭を表現しようとしなければ、大事な何かを見落としてしまうように思わないでもない。ということを、タンパク質の3D再現図を見て思いました。以上です。妄想です。いつものです。いちゃもんみたいでごめんなさい。そういう意図はないです。(疑問ばっかりなんです、すみません)


3730:【2022/06/20*低温って、何のどこが低くなるの?】
ボースアインシュタイン凝縮における低温の実現は、原子(粒子)に作用するというよりも、その周辺の場に作用すると考えたほうが筋が通って感じるけれども、あんぽんたんの疑問なので、あんぽんたんでーすで済ましちゃう。(ボースアインシュタイン凝縮は、超低温ゆえに原子周辺のエネルギィが低くなり外部干渉が薄れるため、原子表面の電子に起伏が帯びなくなるのでは)(つまり、原子表面の電子の起伏がみな似たような波長を築くので、原子同士が同じように振舞うことが可能になるのでは)(原子のみ超低温になる、と考えるよりも、原子の周辺が超低温になるから原子が超低温になる、と考えたほうがしぜんな気がします。電子レンジだって、まずはマイクロ波によって周辺の場がぷるぷる波打つから水分が熱を持つのでは?)(熱って何? 冷たいって何?)(なんもわからんのですが、誰か説明ちて!)


※日々、知らぬ間に裏生まれている。


3731:【2022/06/21*元気百倍!】
へい。いくひしさんでござる。おはようございます。いくひしさんは単純さんなので、お天気がよいと、おっしゃーサイクリングしてやる、になります。元気、元気。世界一周してくるぜ、と自転車に跨り、近所のスーパーまで行ってアイスクリームを買って帰ってくるでござる。がぶ飲みクリームソーダを買えば、アイスを添えてがぶ飲みクリームソーダアイスにしちゃうでござる。夏! もう最近は夏でござるな。よいお天気。並べることなんもない日がつづいておって、日誌でよかった。日記だったら絶対つづかなかったでござるな。困ったらひとまず疑問を並べて、勢いで誤魔化して、そんでなんもないんじゃい、を並べて、お茶を濁す。文字数稼ぐ。そこはせめてお金を稼ぎましょう。いくひしさん、あなたはちゃんとお金を稼ぎましょう。うっせーい。お金さんがこい。おまえからこい。いつでも待っとるで。朝からアイス食べちゃお、の図々しいナマケモノ、さわやかな風薫る朝日のなかですら暑苦しい、本日のいくひしまんでした。おはよう!


3732:【2022/06/21*勘違いの日々】
最近、本当に極々最近になって、下手なのたのち、の境地に入れてきた。目指していたところなので、割とうれしい。下手なの楽しい。上手でないことの良さに気づけるようになった。ようやくなのである。こういう境地があるのは知っていたけれども、いくひしさんはなかなかそこに辿り着けんかった。たぶん、最初からそこに立っていて、そこから何でもをはじめられる人もおるはず。でもいくひしさんはそうじゃなかったんです。上手という、すでにある型から外れていることの魅力にようやく気づけ申した。否々、魅力があるのは知っていたんじゃけんども、じぶんの下手さは嫌じゃってん。なしていくひしさんはいくひしさんなんじゃ、下手くそなんじゃ、といじけておったけんども、いじけるのすらたのち、になりはじめた。おみゃ? それは危うくないでござるか。なんでもよいの境地は、それ下手なのたのち、と違くないでござるか。むむむ。やっぱりまだまだだったかもでござる。錯覚でおじゃった。下手なのたのち、もまた、上手なのたのち、と地続きでごじゃった。下手も上手も、ないんでごじゃるよ。そういうのに囚われてしまっている時点で、どっちもどっちなんでごじゃるな。とほほでござる。また最初からでござる。出直すでござるよ。うんじゃらほい。


3733:【2022/06/22*おはよ!】
ここ数か月、まともに小説が読めとらん。文字がすらすら頭に入ってこない。言葉から情景が浮かばない。反面、新書やWEB上の記事は面白く読める。小説用の頭に切り替えられずにおるのだね。というか、実感としてファンタジィ要素のある小説、減ってないかな。分からん。いくひしさんが手に取る小説本にファンタジィ要素がすくないだけかもしれぬ。優しい世界を観たい一方で、厳しさのある世界も覗きたい。厳しさに優しさのある物語が読みたいのかもしれぬ。かといって、じゃあ厳しさに優しさがあることを好ましく思っているのか、というとそうというほどでもなく、厳しくすんなや、との所感がまず湧くのがいくひしさんの常である。厳しくしなければ何事もなせない、というのはけっきょく工夫が足りんので、脅したり負荷をかけたりして、相手にじぶんの「仕事の工夫の余地」を擲っているだけなのだ。肩代わりしてもらっている。厳しくして耐え抜いた者だけよちよちしとりゃあいいんじゃろ、の精神が、厳しさの裏にある優しさの正体だ。それは、優しいとは言えぬのでは、といくひしさんは思ってしまうな。ま、いくひしさんは「教える工夫の余地」を持つような立場に立ったことはないし、立つこともないのだろうから、厳しさのある優しさとは無縁であるけれども。じぶんとは無縁であることほど物語として摂取したい。それゆえの願望かもしれぬ。世界征服を目指す悪魔の物語でもつくるかな。義経が本当は生きとって、頼朝を暗殺して、陰の立役者となって鎌倉幕府を牛耳っていく話などはどうか。歴史に詳しくないので、もっと独創性に委ねて、ファンタジィにしちゃおっかな。むふふ。妄想に妄想を重ねて、小説つくりた、になるのを待つ本日のいくひしさんなのであった。


3734:【2022/06/23*電子機器の使えるジキ】
量子コンピューターの基盤は、外部干渉が加わると重ね合わせ状態を維持できなくなる。そのためどうやって計算しているのかを解析しようがない(アルゴリズムは与えられているので計算方法そのものは判るが、量子コンピューターにも深層学習を適用できるようになるのならば、ただでさえブラックボックス化している現状よりも加えて未知の解法によって解が導かれることになる。解析しようとすれば、それがノイズとなって正常な演算を行えなくなるため、解析のしようがない)。また、太陽フレアなどの宇宙線の影響をどのようにして防ぐのかが不明だ。分厚いコンクリートと水の壁に囲まれた遮蔽空間での管理を余儀なくされるのではないか。或いは、地球がそうであるように磁界の防壁網を築くのも効果的かもしれない。核融合炉では超高温のプラズマを閉じ込めるための壁を磁気で生みだそうとする仕組みがあるが、それを応用すれば外部干渉から隔離された遮蔽空間を生みだせるのではないか。いずれにせよ、太陽フレア(磁気嵐)の影響は、高性能な電子機器ほど受けるはずだ。地球の磁界の変化とて影響がないとは言えないだろう。地球は周期的に磁界の流れを反転させているらしい。大昔は南極と北極の磁界が逆だったそうだ。百万年に数十回も地磁気が逆転しているようである。現在も、地磁気は地域によっては弱まって観測されているらしい。もし地磁気が逆転すれば、どうなるのか。シミュレーションしてみないことには分からない。だが、一瞬で入れ替わるというのはあまり考えられず、徐々に地磁気が全体的に弱まり、消えかけてからふたたび逆回転の磁界を展開しはじめる、と考えたほうがしぜんだろう。ひょっとしたら何度も細かく震えるように切り替わるかもしれない。つまり、極端に不安定になる時期があるのではないか。そうなれば地上の電子機器はおろか、地磁気を利用して生態を維持している生物はもろに悪影響を受けるだろう。渡り鳥は方角を失い、帰巣本能のある生き物は生まれ故郷で産卵することができなくなる。日常的に方向感覚を失う生物もでてくるかもしれない。宇宙線が地上へ降りそそぎ、染色体レベルで細胞が傷つく恐れもある。もっとも、何事もなく知らぬ間に地磁気が逆転していた、なんてこともあるかも分からない。すくなくとも過去に地磁気が逆転しても生命は絶滅することなく、こうして未だに多くの生物種を繋ぎとめている(大量絶滅したあとで繁殖&進化しただけかもしれないが)。問題はやはりというべきか、電子機器を含めた文明の受ける影響がどの程度のもので、どのような変質を伴なうのか、だ。実際に小さな地球の模型をつくって、マントルの動きを再現し、地磁気の反転によって何が起こるのかをシミュレーションしてみるのがよいのではないか。人類が思っているよりも、電子機器が正常に機能する時期は短いのかもしれない。貴重な時期を仮想通貨の発掘や株取引に費やすよりも、高性能な電子機器を使えるあいだに、数多の自然事象発生のメカニズムを解明すべくシミュレーションを済ませておいたほうが好ましいのではないかと思う、いくひしさんなのであった。(いい加減な知識のツギハギ妄想なので、真に受けないように注意してください)


3735:【2022/06/23*美味なり!】
お風呂上りに、明治エッセルスーパーカップの抹茶味を食べた。毎回、食べるごとに、「こんなに美味しいものがあんなお手軽お値段でよろしいの!?」の感動に浸る。美味しすぎる。たぶん世界一の高級アイスを食べたあとでも、感動が薄れることなく、やっぱこれだな、になる気がする。いくひしさんもそういう、やっぱこれだな、の物語がつくりた、の気分だ。でもいつも気分はちゃぶ台返し。せめてそこはどんでん返しにしときたいいくひしまんでござった。


3736:【2022/06/23*かつて糧を刈って】
文芸界隈のtwitterアカウントは10月までは見ないようにしようと方針を定めているけれど、5月から見ないようにしてからようやくずばりの本の話題を目にした。絵描きさんが表紙を担当したらしい。思えばほかの本の話題も、同じような表紙担当しました系ばかりだ(ほぼ三件、四件しか見掛けていないが)。本当にみんな本を話題にせんのな(漫画本は比較的よく目にする)。いくひしさんも他人様のことは言えん。本ってやっぱり内心というか、じぶんの根幹に関わっていて、あけっぴろげにするのに抵抗が湧く。じぶんこんなん好きなんです、と言ったときの、じぶんはこんな人間です、に直結しそうな感じが、あけっぴろげの観音扉にするには抵抗があるんですね。えーまんちゃんそんな本が楽しかったのー?って思われそうな感じが嫌なんです。でもそれって元を質せば、本好きの人たちにそういう他人の読む本をとやかく言いがちな傾向があったからなのかもしれず、自業自得と言えば自業自得なのかもしれんのだ。何を読もうが、どう楽しもうが、わいの勝手や!と思いつつも、そもそも本にしてまで何かを表現したい人たちって元々はそういう、わいの勝手や!の傲慢さんばかりなんじゃないのかなって偏見を吐露して、本日三度目の「いくひ誌。」にしちゃってもよいじゃろか。小説は? つくりとうないないの日々でおじゃる。あくび。


3737:【2022/06/24*メモ】
ローレンツ・アトラクタ。メビウスの輪。メビウスの輪の輪切り。幾何学立体「オロイド」。テンセグリティ構造。非スペクトル色。ブラックホール同士の融合。原子核内部での素粒子の振る舞い。三体力。ペンローズ図(砂時計型の交差点)にねじれを加える。ノット構造。123の定理?


3738:【2022/06/24*カオス風味】
カオスにも法則があると考えてみると、カオスではない秩序は、カオスの法則を乱す定常波のようなイメージとして掴めそうだ。熱力学第二法則を考慮するなら、基準とすべきはカオスの法則のほうなはずだ。それを乱す秩序の法則が、カオスを崩して秩序を与える。関係性がねじれているが、つまり秩序の法則のほうがむしろ、カオスなのだ。そう考えると、すこし面白い。(面白いだけかい!)(そうやで)(なんか面白そう、の感覚、大事だと思います)


3739:【2022/06/24*重ね合わせって量子の特権?】
量子コンピューターについてもまたいくひしさんは何の知識も持っとらん。聞きかじり、読みかじりのぽてぽて桃ピーチである。で、量子の重ね合わせやもつれ現象を利用した演算機らしい、ということ以上を知らぬままである。どうやら重ね合わせをもつれさせると、指数関数的に計算を多重に内包できるらしい。並列処理するごとに倍々で計算量が増す、という感じでいいのかな。よくわかんない。で、いくひしさん思うに、それって古典コンピューターでもできるんでないの?という素朴な疑問が湧いてしまうのだよね。なぜできんのだろ。そもそも量子の重ね合わせとか、もつれとか、それってこの現実に顕現している原子さんやら光子さんやらがすでに行っていることでないの? わざわざ不安定な状態をつくりだして、一歩前の状態にする必要ある? 古典コンピューターでも、指数関数的に多層に演算処理できるアルゴリズムというか、計算方法を編みだせばよろしいのでは? 量子コンピューターで物理的に行うことを、観念上で再現してしまえばよろしいのでは? できないのかな。数学で、一つの式を展開して計算するまでの過程を、ダブルにすればいいわけだよね。「1+1=2」を「1”+1=2」と「1+1”=2”」と見做せばいいんでない?(この考えなら、「1”+1”=2””」と「1+1=➁」も加えられるので、トリプルどころか、クアドラプルもいけそう) 古典コンピューターは二進法だけれども、じつは誤り補正なる機能がついているために、同じ計算を三つ並べて行い、一つが間違っても二つ正しければ、じゃあそっちで、みたいな手法が取り入れられているらしい。それができるなら、もはや重ね合わせ三つとかいけるんじゃ、と思ってしまうな。計算の種類によっては、反転しても解が同じになる計算もあるはずだ。そういう対称性が維持される計算は、重ね合わせに使えるのではないか? ABC予想の証明みたいな具合に、計算の手法を工夫すれば、古典コンピューターでも指数関数的に計算を同時に多層処理することができそうに思うけれども、やっぱり無駄にメモリを食っちゃうのかな。量子コンピューターの利点は、重ね合わせとかもつれとかよりも、むしろ自動的に一つの解に収束していく点なのかも、と妄想してしまうが、たぶんこれもまた間違った解釈なんですじゃ。いつも間違ってばかりなので。でもいくひしさんが思うに、宇宙初期の物質と反物質の関係みたいに、重ね合わせって、いくつももつれさせたら、対称性が破れない? 一回ならばほぼ五分五分を再現できるかもしれんけど、もつれさせて並列化させたら、五分五分でなくならない? その辺の補正ってできるのだろうか。量子コンピューターは、現実に即した計算は得意かもしれんけど、そうでない架空の、創造性を発揮する分野の計算は苦手なのではないのかな、とすこし心配してしまうな。自動的に確率が収束するというのは、現実がそうであるからで、どちらかと言えば量子コンピューターの弾きだす確率の低いバグのような解のほうが、貴重だったりしないのかな。よくわからんぜよ。


3740:【2022/06/25*ぴえんならぬ、ちえん】
磁界とボースアインシュタイン凝縮は似ているな、と思う。遅延が起こらないがゆえに起きる事象なのでは。液体は通常、遅い分子と速い分子が摩擦を起こす。これが粘性を帯びることで、いわゆる液体としての性質を顕現させるわけだが、どの分子も同じように動くと摩擦が起こらないがゆえにすべてが同一に振舞う。粘性ゼロの超流動性が顕現する。これがいわゆるボースアインシュタイン凝縮だが、分子や原子を絶対零度ちかくまで冷やすと表れる性質らしい。考え方を変えるなら、分子同士の運動速度に差がない状態を再現できるのなら、超低温でなくとも超流動性は表れるはずだ。また、運動速度の差がある場合は摩擦が生じ、それが粘性になるわけだが、そのときの差分は、差があるままではなく熱として発散されながら、均一になろうとする。これって、時空の伸縮でも同じことが言えるのでは? 時空が伸縮するとき、そこではエネルギィ(情報)が発散吸収されているのでは? そして異なる伸縮率の時空同士では、摩擦が生じるのでは。そしてそれは遅延として顕現するのでは。遅延とはすなわち、作用の遅れだ。ラグである。エネルギィの吸収発散された時空同士のあいだでは、滑らかに作用が伝わらない。境目にて、間が生じる。これが積み重なることで膜のような層として顕現し、物体としての輪郭を得るのでは。そしてそうでない場合は、時空は同一に振舞うことを可能とし、波のように振る舞うのでは。これは、どのような規模の時空にも働き得る構造なのではないのだろうか。極小であろうと、極大であろうと変わらずに起こり得る世界の性質であるのかも分からない。これをいくひしさんは、ラグ理論と呼んで、妄想しながら、うひひ、となっております。新しい小説にも出てくるで。お楽しみに!(誰に言っとるの?)(読者さんにです)(いるの?)(いるでしょ!)(どこに?)(どこかには!!! たぶん!!!! いると言って!!!!!!)(未来のじぶんにでも叫んどるのかな)(読者さまはいりゅ!)(神はいる、みたいに言うな。読んでくださっとる方に失礼やろ)(へい)(まずは、ありがとうございますやでキミ)(ん。蟻が一匹ありがっピ)(九匹足りんが)(ばったん九)(バッタやん)(じゃあいまのなし)(待ったなしやでキミ)(バッタなし?)(やっぱアリ)(蟻じゃん! いたじゃん! やったじゃん!)(でも読者さんは去っていくのであった)(やめて! そこにいて! ずっといといて! 独りにしないで!!!)(無茶を言う)(本がないなら「いくひ誌。」を読めばいいじゃない)(どこのアントワネットだよ)(そこはちゃんと疑問して。訊ねて。問いただして)(なんでだよ)(だってほら。アントは問わねぇと)(蟻じゃん)(蟻でした)


日々、人は糞と共にある、臓腑の中にちゃんとある、いくら着飾っても偽れぬ美醜、秘められた腐臭、編まれた詩集に滲む死臭は、どことなく不純、清らかに彩られた始終こそが生ならば死はもっと泥にまみれて有り触れた臨終で、基準、それもまた矛盾。


3741:【2022/06/26*マーク】
郁菱万にはマークがある。以下の画像がそれだ。何に視えるだろう。いくつかの像を幻視できるようにしたつもりだ。ちょっと数えてみよう。ざっと数えてみたら六つある。たぶんもうすこし多いが、言語化したときに、まあそういうふうにも見えるよね、と思ってもらえる像は六つかな、と思う。ちなみに、齧った林檎ではないですが、それを七つ目に加えてもべつに構いません。視えたように見てもらえばいいですし、見なくともよいです。バットマンのマークにも似ていますが、作ってしばらく経ってから、そういうふうにも視えるな、と思いましたが、パクリになってしまうので、そこは違うと言っておきたいです。べつにそれでもよいですが。総合すれば、定かではないんです、というマークになります。いくひしさんっぽいでしょ。(真に受けないでください)(画像貼れるようになっているのに気づいたので、使ってみたくなった日でした)(近況ノートさんの過去一覧も一回で見られる範囲が長くなっていてありがたいです。使いやすい改善、ありがとうございます)(これはカクヨムさん運営さんに宛てたテキストですが、しかしここは誰もいない最果ての地、これも過去の記憶を頼りにいくひしさんが再現した、すでに過ぎ去った日々の日誌なのである。むかしはね、そういう文章投稿サイトがたくさんあったのだ。いまも探索すれば残っているだろうけど)


3742:【2022/06/26*へそ曲がりの渦はナンカイ?】
シクった。一番最後に上記の記事がくるようにすればよかった。画像と記事が離れてまう。でも、画像さんとおぬしだけイチャイチャするの気に食わんから、直さんどこ。彦星さんと織姫さんの気分を味わうがよい。(性格が、性格が)(なに?)(歪んでおられる)(光の速度で動いちゃったかな)(質量無限大やないかい)(ブラックホールさんとお呼び)(歪むのは時空だけにしときぃ)


3743:【2022/06/26*熱に透明な夜を】
久しぶり。きみの近況を聞きたいところだけれど、きみはきっと口をつぐんだまま私の目を見ようともしないだろうから、いつぞやのきみの言葉の通り、礼儀としてまずは私のほうから内情を吐露しようと思う。そうだな。まずは音楽が足りない。新しい曲がね。新鮮な予想外の刺激はもうたくさん、とご遠慮したいくらいには時間に追われた常日頃ではあるのだが、それでもできれば飽きに、日々の健やかなる時間を浸食されたくはない。同じ道を通うことが億劫になったとき、それとも家の外に出るのが真夏日にダウンジャケットを着こむくらいに憤懣やるかたなく感じたとき、日々の営みへの食傷を感じずにはいられない。その点、曲はいい。聞き慣れない、記憶にない、新しいというただそれしきのことが精神の淀みを洗い流してくれる。透明な湧水のごとく風が、細胞の合間をすり抜けていく感応が湧く。なんて言うときみは溜め息交じりに、大袈裟、とつぶやきそうなものだ。もうその視線がすでに、だよ。目は口ほどに物を言う。だからきみはそうやってすぐに目を逸らすのかな。私はきみのそういう、態度と内心が裏腹なところを好ましく思う。それを見抜けるじぶんをややもすると誇らしく思うのかもしれない。じぶんが特別に思えるから、ではないよ。いいやそれもあるかもしれないけれど、きみの特別になれたように思えるからだ、きっとね。錯覚、と言いたげな目だね。でもいいんだ。私はきみを通して夢を視ることができるのだから。素敵だろ。新しい曲を探してはいるが、何でもいいわけではない。それはそうだ。波長に合うほうがいいに決まっている。その点、ふしぎなのは、私はきみが歌ってくれる曲ならたいがいなんでも新鮮に聴こえるってことで。どうしてかな。もし私が孤島に一つだけ音楽を持って行っていいと言われたら、きみの歌声を持っていくよ。嘘つき、と言いたげな目をされてもこればかりは本心だからしょうがない。日々の潤いをね。私はいまご所望だ。そのためにこうして遠路はるばる――は言い過ぎにしろ、汗に塗れるのも厭わずに足を運ばせていただいたわけだ。さて、礼儀はこの辺で済ませたことにさせて欲しい。つぎはきみの番だ。どうだろう。私と顔を合わせておしゃべりをしてくれ、とまでは言わない。でも、ただ歌うくらいならしてくれてもいいんじゃないか。私なんてここにいないと思ってくれていい。いつもきみが部屋でそうしているような、誰に聴かせるでもない歌を歌ってくれ。誰の曲かも分からないきみの好きな曲でいい。きみの好きな、曲がいい。私に日々の潤いを分けてくれ。後生だ。


3744:【2022/06/26*猛暑日の朝はもう】
おはよう。予定決めたよ。来月のお尻のほうに行くことにするね。どこにって、ちょっとえー。約束したよね。冗談ってちょっともう。わたしだけ浮かれてるのかと思って恥ずかしいじゃん。そういうのやめてって言ってるでしょ。ごめんってきみはいっつもそう。いいけどね。きみのそれが照れ隠しだってわたし、ちゃんと見抜いておりますから。うん。うん。そうだね、二年ぶり。やっとだね。とか言いながら毎朝こうやって顔合わせておしゃべりしてるから、あんまり久しぶりって感じはしないけど。ふふ。ね。ほとんど喧嘩しなかった。前はあれだけ口論になってたのに。会うたび。それはだってきみが理屈っぽくて、わたしの気持ちをすぐに置き去りにするから。分かりづらいって、それはきみが見る目ないだけです。わたしほど分かりやすいコほかにいないよ。それにきみの考えはわたしすぐに分かるし。いまだってきみは、こんなこと言いたかったわけじゃなかったのに、と思いながら、でもわたしに解かって欲しくて感情が制御できないんでしょ。分かるよ。きみのことだもん。そりゃそうよ。年上ですからね。どこかの甘えたがりくんとは違うので。あ、いじけた。え、なに? 具体的な日程? ん-、たぶん土日になるかな。最後のほうの。えー、その日は仕事? だっていつもはそんな。会えないかもしれない? だー、なんてこと言うのかねこの人は。せっかくわたしが、わたしがだよ。会いに行ってあげますよーって、えーそういうこと言っちゃうー? 有給取りな。ダメです。有給、有休。大丈夫、大丈夫。きみはちゃーんとお仕事休んで、わたしに会いにきてくれるから。そうでしょ? さっきのも頑張ってわたしにいじわるしちゃったんだよね。屈服させたかっただけなんだよね。分かっておりますよー、なんたってわたしはきみの――あ、ごめん誰かきた。ぴんぽん聞こえた? 誰だろ、大家さんかな。ちょっと待っててね。はーい、いま開けま――あ。お、おはよう、ございま……はぁ? なんで? お邪魔します、じゃないよ、ちょっとー、なぁにもう、そういうことするぅ? 来るならくるって言ってよさー、部屋片付けしてないんですけど。ちょっとこら、その荷物なに。しばらく厄介になりますって、仕事は? 有給まとめてとったって、だからそういうことは先に言ってってばもう。きみってばそういうとこあるよね。ふふ。もう嫌。


3745:【2022/06/26*くどく口説くな】
デート? ああ申し訳ないね。そんな余裕ないよ。見て分からない? 息子どもに手こずる毎日だから、化粧だってろくにしてないし、見てこれ。ジャージ。毎日同じの着てんの分かるでしょ。デートなんてそんな、笑っちゃうよね。ああ違うの、いいの、うん。気持ちはうれしい。ありがとう。でも本当にそんな余裕なくてさ。そんな時間あるなら一人で散歩したり、昼寝したり、そうそうぐっすり眠りたいでしょ。そもそも何歳だと思ってんのあたし。きみまだ学生でしょう? 違うの? ふうん。へぇ。よく分かんないけど、頭いいんだね。そういうの知らないからさ。ああいいのいいの、本当のことだから。頭いいなら分かるっしょ。あたしんみたいなのからかってないで、まだきみ若いんだから。ちゃんとそういう、なに? じぶんに合った人見つけなよ。時間の無駄だよ。やめときな。はは。火傷するよって言いかけた。あ、煙草いる? 吸わない? もうねこの時点でだいぶ合わないよね。一緒にいるだけで損するよ絶対。だっていまあたし、あんたのこと、子供らのお守りにちょうどいいな、とか考えてるし、ひょっとしてペットにできるかもとか都合のいいこと考えてるよ。奴隷になりたいわけじゃないんでしょ、だったら――それでもいいって、こえぇよ。怖いからねそれ。本気で口説くときに言うセリフじゃないって絶対。真面目だねぇ、そんな頭下げてまで謝ることじゃないだろうに。子守りしたい? させてくれって、あたしだって子供のことは可愛いんだ。そんなどこに住んでんのかも知らない相手に任せられるほど無責任な親じゃないよ。じゃあ知り合いましょうって、しつこいねきみも。損はさせませんからってもうだいぶこの時点で損をしちゃってる気がするけどさ。一つ聞くけど、あたしのどこがそんなにいいの? そんなすぐいけそうな感じする? 舐められてんのかなって思っちゃうよ。そうじゃないって必死すぎだろ、つうか顔真っ赤。だいじょうぶ? どうした? ん? まあ、そんなに言うならうちの子らに勉強教えてやってよ。頭いいんでしょきみ。家庭教師としてならいいよ、すこしくらい付き合ってあげても。ただし、変なことあったらすぐ警察に言うかんね。よろこんでって、人が良すぎて不信感しかないからねきみ。全然信じてないけど、まあいいよ。あんまりいっぱいはお金あげられないよ。いりませんってそういうわけにはいかんでしょが。タダほど怖いものはないって、まだそっか、きみ若いもんね。ご飯? 手料理ってそんなんでいいの? カレーとかだよできても。やったーって喜び方がガキ。まんまガキだよそれ。あ、何? 休憩終わり? タバコまだ吸い始めたばっかなのに、もったいな。はいはい、分かりましたよ。バイトなのにようやるわ。こっから先は仕事モードでね。畏まりましたよ、リーダー。あ、できたら積み下ろしのほうやっといてください。何でって、だってほら、あれ疲れるでしょ。頼むねリーダー。よろしく。


3746:【2022/06/26*なんか違うな】
恋愛物語はじぶんでつくるとなるとコメディくらいむつかしい。人によって好みが分かれすぎるからだ。王道がない。時代の影響をモロに受ける。コメディもそう。以前はよかったのが、数年足らずで、それは笑えない、になる。恋愛物もその傾向が強い。で、いくひしさん思うに、たぶん、「れーんあい(ハートマーク)」みたいなのでなく、もうほぼそれ友達やろ、家族やろ、くらいの関係に煮詰めたあいだに漂う、そこはかとない踏み外しそうな気配――疑似近親相姦みたいな感じだと、けっこう物語として面白くなる気がする。なんて言うと、非難轟々の冷めた目で見られそうだけど、それくらいじゃないと恋愛物を面白くできる気がしない。ほかのストーリィに恋愛を絡める、くらいならできないこともないが、それはけして恋愛物語ではないのだ。なぜならべつに恋愛要素がなくとも面白いので。トッピングにすぎぬ。そこでいくと、恋愛要素がなくなると面白くなくなる、というラインを攻めるとなると、ホラーやミステリィの技法を恋愛に絡めるしかなくなる。つまり、関係性の間にどんな感情の乱れを生みだすのか、が要となる。恐怖や殺意を絡めればそれがホラーやミステリィになる。なら、恋愛物はどうかと言えば、そこに罪悪感や不安や必死さや期待といった感情の波を生みだせればいい。となると、そもそもの土台が安定していればいるほど、亀裂が入ったときに、その亀裂が物語の紋様として強く作用するはずだ。初対面同士よりかは、別の関係性が築かれたうえでの「恋愛」のほうが物語として面白くしやすい。そうなると、ほぼほぼ親友の立ち位置や、ほぼほぼ家族の立ち位置からの、恋愛関係へどう転ぶ?を支軸にしたほうが、いまは長く時代の変化に耐えられる気がする。これの利点は、必ずしも恋愛が成就せずとも、ハッピーエンドにしやすい点だ。恋愛至上主義批判が巻き起こりやすい昨今の風潮からすると、守りを固めながら攻めにも活かせる構図と言えよう。とはいえかような理屈を唱えるいくひしさんは万年三歳児のあくびちゃんなので、「恋愛? わかんない」になる。恋愛経験皆無だが恋愛免許はどこでとればええの? 学校で習った? 恋人のレシピはどこで見れる? 材料ってなに? 粘土? 小麦粉? ハサミいる? な、いくひしさんであるから、恋愛物は苦手なのである。むつかしい。恋をすると変になるのか、変になると恋をするのか。恋愛が先か、変態が先か。それ判断に困る?な初手でつまづくうつけもの、本日のいくひしまんでした。(うつけものって、漬物っぽいな。響きが)(鬱のナマケモノさんかもしれない)(撃つ獣かもよ)(こわいが)


3747:【2022/06/27*むつかしいよね】
富の再分配については、これも国内の話と海外を含めた全世界での話とを区別しないと混乱する。国内の富の再分配については、余裕の多寡で判断するしかない。ただし、余裕とは単純な稼ぎや利益では計れない。企業に焦点を絞るとして、社会全体の余裕を築くために技術の進歩がいるのなら、そうした技術を生むために負担を背負う企業を国民全体で――つまり政府によって――優遇するのは、それほど理不尽には映らない。問題は、どんな技術が社会の余裕に繋がるのかが前以って判らない点だ。そこは基礎研究への投資や支援と同じ問題を孕んでいる。そのためにもまずは人々の目を肥やすべく教育に力を入れるのは順当な考えだ。そして負担を減らす、という意味では、医療制度を見直し、重病化する前から予防を行える環境を築けるとよい。もっと言えば、病院にかからないような健康を維持できる生活を万人が送れる環境がいる。そのために、ではどうすればよいのか、を考えられるとよさそうだ。企業がそこを考えて技術の進歩や資本の使い方を模索すれば、社会全体で循環した回路が築けそうである。また、貧富の差は何も国内だけにあるのではない。この国はむしろ相対的に裕福層である。ならば、富の再分配という意味では、他国の劣悪な環境で暮らす人々のために富を再分配するのが筋となる。そのために、税金を増やさなくてはならないのです、と言われて、拒める道理を構築できるだろうか。富の再分配を支持しているのではないのですか、と言われて、口ごもらずにいられるだろうか。政府は政府で、海外への支援を積極的に行うのなら、もっと情報を前以って公開し、税金の使い道を含めて詳細に公表したほうがよろしいのではないか。情報が足りないな、と思うことがすくなくない。比較検討そのものができない。考えるための素材がすくない。そんな中でいったい国民に何を考え、選択させようというのだろう。出版社を含め、これからはますます情報の質と量――何より誰もが情報にアクセスできる権利の重要性が増していく。利益の追求を、環境の自由の拡張と呼ぶのならば、まさしく情報は、環境を――未来を――どのように切り拓き、創っていくのかの道具であり、基礎であり、或いは指針の素材そのものと言えよう。反面、利益などいらない、いまのままでもよいですよ、という考えも当然でてくる。環境など変えなくてよい、未来はもっとこじんまりと自然に還るほうがよい、という思想が反動で盛り上がる余地がこれからは増していくと妄想できる。そうなったときに、それではこれこれこのような問題に対処できない、環境が劣悪になる、と指摘するためにも、やはり情報は隠さずに、透明性を維持して欲しいと望むものだ。それができないのは、環境が整っていないからだろう。国民を信用できない。政府を信用できない。海外を信用できない。これみな、環境が整っていないのだ。やはり、すこしずつでも環境を――未来を――より暮らしやすい、個々が自由を拡張できる世界にすべく、情報から共有していくことが優先されるのではないだろうか。本日のいくひしさんはそう思ったのだそうな。(定かではありません)(それはそれとして、個人情報やプライバシーは守られて欲しいですね)(セキュリティが保障されてこそ、情報共有は促進されるものだといくひしさんは考えます)


3748:【2022/06/27*傲慢な雨、略して傲雨】
靴の下敷き、新しいのにしたら絶好調だった。歩きやすい。動きやすい。いいね! でも夕立に遭い、服着たままシャワー浴びたみたいになったのでチャラになった。びっちょびちょ。でもお風呂に入ったあとのコーラが美味しかったので、さよならホームランの日だった。またきてグンナイ。つぎのおはようまで夢の中で遊び倒すぜ。きょうもいっぱい息した。あすも生きよ。


3749:【2022/06/28*ぼんやりの日だった】
汗だくで自転車漕いで出掛けたのに、きょう休みなの忘れてた。小学生か。夏休み初日の小学生か。あわてんぼうのサンタクロースをしてしまったな。無駄に炎天下の洗濯コースを増やしてしまった。もはや汗を掻かないという。掻いた矢先から蒸発していく。そして肌が冷たく、お風呂に浸かると、露天風呂に浸かったときみたいに、あったか~い、になる。皮膚が凍えておるのはなぜ?になる。しもやけみたいになっとるが。日焼けのせいなのか、熱中症もどきなのか。元気だからよいが、じつは元気でない可能性も拭えぬ。汗みたいには拭えぬ。わがはい、万年風の子、元気の子、タケノコ、ノコノコ、みぴょこぴょこ、合わせてぴょこぴょこ、むぴょこぴょこ。意味なんて皆目サラサラござらんRAP、略してサラんラップのいくひしまんでした。てい、OH!(それを言うなら、せい、HOO!では?)(帝王なので)(そっち!?)(非帝王なので)(なんだ、帝王じゃないんじゃん)(否定王なので)(否定ばっかの王かよ、最悪じゃん)(抵抗したいので)(なら「てい、KOU!」じゃん。Kがないうえに、Uもなくて、Hがある)(Kなし(貶し)で、U(YOU)がいなくて、H(スケベ)なんだ)(最悪じゃん)(K.O!)(やられてんじゃん)(夏、バテ)(わし、ダメ、みたいなノリで倒れるのやめてくれ)(いま、だけ)(いい加減にSAY、YO!)(あ、鳥肌。暖房つけていい?)(真夏日ですけど!?)


3750:【2022/06/28*九木隹】
雑さを好きになると、たぶんほとんど嫌いになることがないな、と表現を見て思う。要は、欠点そのものが好きだからだ。その人の変えようのない、生涯ついて回るだろう、至らない箇所――いわゆる「世間一般からすると上手と見做されない要素」を、いいなぁ、素敵だなぁ、と思えたら、それはたぶん、物凄く技術を高めるのと同じかそれ以上に、表現そのものと鑑賞者を結びつけ、心を動かす触媒になるのではないか。ただし、それは雑さゆえに、本質的には未熟さであり、ノイズであるから、本来は薄れれば薄れるほどよいはずなのだ。したがって、第一印象でマイナスと捉えられることもあるかも分からない。基本は、そのほうが多いだろう。だが、多くの者から欠点と見做されるそれそのものに強く惹かれ、魅力として捉える受動者にとっては、その雑さそのものがキラキラと輝いて映るだろう。汚泥の底の微かな湧水のごとく、玉に映ることもあるはずだ。雑さと個性は、重なる部分もある。しかし、個性はいちど長所と見做せば、長所の性質を伸ばすことができる。だが雑さは、いかにそれを長所と見做そうとも、しょせんは雑さなのだ。未熟なのである。したがって、長所と見做そうとする姿勢そのものが、雑さを際立たせ、長所としての質を貶める。愛や正義と似ている。それそのものを肯定してしまうと即座に薄れ、塗れ、淀み、崩れる性質がある。雑さは、ないほうがよい。すくないほうがよい。だが、それでも打ち消せない個性からすらもはみ出たところに宿る魅力があることもまた否定できない。雑さとはつまるところ、光により生じる影である。宇宙はそもそも暗いというが、しかし実は宇宙は微かな光で埋め尽くされている。それを暗いと感じる人類の感受性の低さが、主観の中でのみ影を大きく映しだしている。影は、影ではなく、雑さもまた雑ではない。光をより多く捉えられるようになればなるほど、微かな影に、雑さに、尊さを覚えずにはいられなくなるだろう。最後まで消えることなく残る影に、雑さに、美を見出せずにはいられないはずだ。定かではない。



※日々、触れたら崩れる花を愛でている、茎も葉も萌えぬままの、まだ視ぬ蕾を愛でている、朽ちかけの木々の肌に生す苔を眺め、朽ちた跡の根を思う、たとえ荒野となろうとも、朽ちた跡の芽を思う。


3751:【2022/06/29*芽でる】
気持ちわる、と思いつつも、そこでやめずに、まずは並べる、ということをする。なぜ気持ちわるいと思うのかをじぶんで知りたいのと、それが未来のじぶんであっても気持ちわるいのか否か、それともいまのじぶんだからなのか否かを知りたいがために、ひとまず並べておく。以前のわたしなら並べなかった文字の羅列を、いまのぼくが並べることもある。以前のわたしのように、いまのぼくもそれを気持ちわるい、と思いつつ、ひとまず並べておくか、と並べておく。では、気持ちわるくないことは何か、と言えば、じぶん気持ちわるい、という自虐であり、卑下であり、真実であり、現実だ。そこだけは定まっている。ゆえに気持ちわるくならない。気持ちわるいことを気持ちわるいと言う。これほど素直で正直で気持ちの良いことはない。矛盾だ。けっきょくそれは気持ちよいのだから、気持ちわるいじぶんはつまるところ、気持ちよいのだ。気持ちわるいことを気持ちわるいと言うことが気持ちよいのだから、素材となるそれそのものとて、気持ちわるいの名札をつけた、気持ちよい、なのだ。ねじれている。肯定していないようで、限りなく肯定している。極限のマイナスをつけてなお、それを以って、気持ちよいのプラスに変換可能だ。したがって、どうあっても、何を並べようとも、文字の羅列に落とし込み、並べてしまえば、その過程でどのような感情を抱こうとも、それはけっきょく気持ちよいのだ。欲望の捌け口である。沈黙できぬがゆえの暴走だ。自制できていない。理性ではない。煩悩である。気持ちわるいことを気持ちわるいままに気持ちわるさをじぶんに植えつけるように表現できたなら、ようやく理性なるものを掴める気がする。極端だろうか。ともすれば、理性なんてものは、気持ちわるい煩悩に使役されるだけの仮初にすぎぬのかも分からない。愛がそうであるように。ひとまず、免罪符として、肯定の名札をつけておく。そうすることで、見て見ぬ振りができる人間の業――気持ちわるさを気持ちよく受動できる。味わえる。楽しめる。美、のみを噛みしめる。清らかな皮で包めばどんな憎悪も清らかだ。どんな美も、穢れで包めば汚らしい。穢れをこそぎ落とし、なるべく美だけを残したい。そうした姿勢とて、行き過ぎればそれそのものが穢れとなる。よい塩梅を見定めるには、言葉を並べてばかりではいられない。沈黙し、見定める時間が入り用だ。それを知っていながらにして、気持ちわるいことを気持ちわるいままに、気持ちわるいと思いながらも並べてしまう己が甘さに、舌鼓を打ってしまうじぶんが何より一番気持ちわるい。気持ちわるい万歳。されどまんちゃんは三歳。齢が弱く、おつむも弱い、甘いものにもめっぽう弱い、いくひしさんなのである。(齢と弱いをかけたかっただけの駄文)(駄文は、たぶん「駄菓子みたいに美味しい文章」の略です)(駄文のうえに蛇足を重ねるな!)(ねるなと言われても、わいは寝るで。重ねるで)


3752:【2022/06/29*間違う正解】
知能が低いので、何か質問や指示を投げかけられて「さあ、ここから最善手を導いてください」と言われても、そもそもその質問の意味内容や、それに伴う関連事項を知らないので、「待ってください、待ってください。いくひしさんにお時間を、お時間をくだせぇ」になることがたびたびある。というか、間違ってもいいなら全然、「これかな?」と思う仮説をまずはいくつか取り揃えて、それらを基準に、その都度その都度で問題点を洗い出す手法をいくひしさんは広義の最善手だと考える傾向にあるので、そのようにする。けれどもこれは「いまからいっぱい失敗しますね。えへへ」という手法なので、ずばり最善手を指してください、と乞われると、「んな無茶な」になってしまう。その状態での最善手は、「あんぽんたんなわいに言うなや、専門家に頼みぃ」であり、もしくは「対処可能になるまでちょいとお時間くださいね。五年くらい!」になる気がする。いえそこまでは期待していないので、となる場合がおおむね濃厚であり、ですよね、といくひしさんは思いながらいつも、あんぽんたんな回答やら手法をとって、あんぽんたんに磨きをかけるのである。かわい。(知らないことが多すぎるんです。ただの会話すらむつかしい)(間違ってもいいんだよ、と優しい人は言ってくれるのだろうが、どうやら間違い方にも正解はあるらしいんですよ。知ってましたか?)(問題に対して情報が足りないのなら埋めたいな、といくひしさんは考えがちであるけれども、世の人はそこまで情報が埋まらなくともいいらしい。それで対処できるの、すごすぎる、と思いながら、あんぽんたんですまぬ、すまぬ、と念じつつ、アイス食べちゃう。まあおいち)


3753:【2022/06/30*目】
たとえば好きな人にメッセージを送るとして、何度も読み返してよしよし、と頷き、おっしゃーと送信ボタン押したあとに盛大にお名前間違っているのに気づいてヘコむ。そういう失敗は引きずる。違うんです違うんです、大好きなんです、となる。でもたぶん相手はほとんど気にしていない。どころか間違えにすら気づいていないのかもしれぬが、引きずるものは引きずる。これは比喩だけれども、いまはそういう気分。(でもまんちゃん、じぶんのせいで地球が滅んでもけろりとしてそう)(だってそれは本当にじぶんのせいか判らないじゃん)(可能性あったらふつうヘコまない?)(事実しか認めないもんね)(ならまんちゃんがヘコむことなんて絶対にないんじゃない?)(なんで?)(だってまんちゃんの文章なんてだぁれも読まないもの)(いるよ読者さん!)(見る目なさすぎない? 暇なのかな)(読者さんを虚仮にするのだけはやめて!)(まんちゃんの文章を読むと目が腐るよ)(風評被害!!!)(目が点になるよ)(読みにくくてごめんなさい!)(目が滑るし、目から火がでるし、目から水晶体が剥がれ落ちるよ)(最後だけ怖すぎるし、そこはせめて鱗が落ちて!)(目立たないし、目がくらむし、いつまで経っても陽の目を見ないし)(目が出なくてごめんなさい!)(それを言うなら「目」じゃなくて「芽」でしょ。誤字脱字がひどすぎる)(ううぅ……。ヘコむ)(でも本当は?)(おしゃべりできて、たのちたのち!)(そうよね。まんちゃんはそういうコだもの)(いつでもお腹はぽんぽこりん!)(そこはすこしはヘコんだほうがよろしくない?)(ぽんぽこりんのままがいい)(なぜ?)(かわいいから)(そうかしら。単に甘いものに目がないだけじゃない?)(ぷぷー。いまのはすこし面白かった)(べつに楽しませてないわ。寝言は寝て言いなさい)(寝てもいいけど、お腹空いた)(なら皮でも剥いてあげようかしら)(リンゴの?)(目の)(怖すぎておめめ剥いちゃうが)(でもお陰でぱっちりと目が覚めたでしょ)(うぃ)


3755:【2022/06/30*ある日の交信】

2022/06/28(21:25)
ラグの起こる条件、たぶん環境によって変わりますよね。
それは相対性理論における速度と時空の関係にもあてはまります。
相対性理論の大前提として、近接した者同士のほうが優位に作用しあう、というのがあるかと思います。
とすると、ぼくの以前の疑問が氷解します。

系をどの階層(系を内包する系の位置座標)から観測するかによって、観測者と対象の速度は変わります。それはたとえば、電車の中で電車の進行方向とは真逆に走る人間を、電車の中と電車の外と、飛行機に乗りながらと、地球の外側からと、そういった観測地点によっては観測者と対象の速度関係は変わりますよね。
電車の進行方向によっても変わりますが、たとえば地球の自転と同一方向に電車が移動するなら、地球上と宇宙から見たときの「電車内で電車と反対方向に走る人間の速度」は変わります。
これは惑星の軌道でも生じる問題でしょう。
そもそも系の中に含まれるとき、対象物は、その系の内部の構造要素として自らの属する場が規定され得るのかな、と想像します。

つまり、地上から、電車と反対方向に走る人間を観測するとき。
観測者からすれば、電車内部で全力疾走している人間と、電車の速度分減速しながら地上をノロノロと対象と同一方向に進む人間は、同じ速度で移動して映ります。
しかし、運動量や消費しているエネルギィは違います。
同じ速度として観測されるとしても、同じではありません。
(一方には、ラグが生じています。ラグによって大量に消費されたエネルギィは、場に対して働きかけているはずです)

すこし話を脱線します。
ぼくがいま興味があるのは、雲がなぜできるのか、です。
もうすこし突っこんで言うと、
密度の多寡と、温度の多寡の関係を知りたいです。
ねじれていて、ぼくにはむつかしいです。

きょう公園に行きました。そこでうろこ雲を眺めました。
遅延が生じたところにて、うろこ雲がつぎつぎに連結し、大きな雲へと変遷していました。
境界線が壁の役割を果たし、うろこ雲が一つに融合していたわけです。
あべこべに、一つの雲からうろこ雲に分離していく様子も目にしています。

融合する境界線では何が起きているのでしょう。
なぜ遅延が生じるのでしょう。
一般的な説明では、地上で温められた空気が上空の冷気に触れて冷やされ、水滴に凝結することで雲になる、と読むことが多いです。
でも本当にそうなのでしょうか?
そもそもなぜ上空だと気温が低いのでしょう。
分子が少ない――真空にちかくなる――ゆえに摩擦が起こらずに温度が低いのですか?
なら、低気圧は温度が低いと解釈してよいのでしょうか。
高気圧は、分子の密度が高いので、温度が高いのですか?
(でも、密度が低ければ分子は邪魔者がいないので高速で動き回れます。分子単体なら、密度が低いほうが温度が高くなるのでは? 摩擦がないから熱に変換されずに運動エネルギィだけが高くなるのでしょうか。でも、時空には作用しているわけですよね。よくわからなくなります)

雲ができる層では、重力によってそれ以上、上へと水蒸気がいけないわけですよね。冷やされ、凝結し、落下してしまうので。

ならもし地球の重力がなかったら――無重力空間だったらどうなるんでしょう。
氷にまで凝結して、ずっと浮遊しつづけるのですか?
宇宙にはでは気体は存在しないのでしょうか。
でも、氷だって砕けますよね。いずれは。
氷のような分子や原子は、なんと呼ぶのですか?


ぼく、思うんですけど、雲ができるメカニズムってもっと複雑で、複雑系だと思うんですよね。回路のような仕組みを伴なって感じます。
太陽系の周囲には、細かな岩石が層をなして、まるで原子核を囲う電子の膜のようになっている地帯があるのですよね。
雲ができるのも、ぼくにはそれと似たような仕組みでできる層に思えます。
なぜそれら細かな岩石は、太陽まで引っ張られないのでしょう。
なぜ距離を置いて、膜のように集合しているのですか? そこにだけ?

上記を踏まえて。
遅延と層の関係についてですが。
逆転現象のようなことが頻繁に起きていますよね。
ぼくがいま混乱しているのは、相対性理論での矛盾にも繋がるのですが、密集したら温度は上がるのですよね(温度は分子や原子の運動と摩擦の関係として解釈するのが一般的です。2022年現在は、たくさん動いていっぱい摩擦が生じると温度が高くなる、と考えるようです)(反面、ボースアインシュタイン凝縮のような、超低温になるほうが密集しやすくなる場合もありますが。バラバラに動かず、粒子がみな同じ動きをとるから、との解釈です)(固体とかもそうです。冷えたほうが密度が増します。氷は例外みたいですが)(ここでも逆転現象が起きています)。
でも、相対性理論からすると、密度の高い物質(質量の高い物質)に流れる時間の流れは遅くなります。じゃあ、内部はどうなるんですか?
元々の、ラグ理論の発想はそこにあります。(つまり、ぼくは密度の高い物質の「周囲に流れる時間の流れが遅くなる」と解釈したくなります)
仮に、密度の高い物質の「周囲の時間の流れは遅くなるが、物質それ自体の内部ではむしろ時間の流れが速くなる」とするとスッキリしますが、しかし人間スケールの物質では、これが成立しないケースが多くなります。

たぶん、重力や、体積弾性率や、ムペンバ効果のような、閾値を超えると関係性が逆転するような境界値が至る箇所、至る系にて、存在するように感じます。

ラグ理論では、その点についてまだ深く触れていません。

たとえば、硬いとは何か、について遅延を前提にして考えると、ぼくは混乱します。
樹は硬いです。遅延の効果なのかな、と想像し、だから寿命が長いのかな、とも想像します。
動物は、大型で体温が低く、運動量が低いほど長生きの傾向にあるようです。
樹にも同じことが言えるのかな、とここまではすんなり想像できます。
でも、じゃあ人間は柔らかいけれども、なんでほかの生き物に比べて長生きなのか。複雑な内部構造を有しているがゆえに、総体での遅延は、樹よりも多いはず。
なら、そのときに顕現する「硬い」に値する創発による効果はどんなものがあるのか。
そこが、上手く想像つきません。
(光速で複雑に思考するがゆえに情報を生みだす、というのは、妄想しますが、それが時空にどのように作用するのかまでは、まだ妄想すらうまくいきません。思考を目まぐるしくするだけでも、相対時間は変化するのでしょうか)(細胞分裂や、運動量の変化では、相対時間は変化するとぼくは考えています。したがって、物理的に、相対性理論的な意味合いで、大人と子供とでは、流れている時間が違うと思っています)(これはほかの動物種における、身体の大きさにも通じることかと)

かといって、身体(系)の外側からそれを観測したときに、差として計測可能なのかは、いまいち想像がつきません。
遅延は、体内で複雑に絡み合っています。細胞によって人体が組みあがっていることと同じです。遅延を打ち消しあったり、増幅したりして、回路のように振る舞っています。
経済における、「循環の過程でいかにマイナスを出そうとも、結果としてプラスになればいい」という解釈に似た現象が、人体や系の内側では起こっているのではないのかな、と。
つまり、系の外側から観測した場合、それは総合した遅延の効果であり、過程が省かれています。

最初に例で挙げた、電車と観測者の話はここに繋がるのですが、外側から観測したときの速度(或いは遅延)が同じだからといって、必ずしもまったく同じではない――むしろ、往々にして、物凄く異なっているのではないか、ということを、ぼくは想像してやみません。

こういう考え方って、物凄く当たり前で、たぶん多くの人は無意識でそういうことを前提に、行動していますよね。でも、それに気づいていないというか、あまりに当たり前すぎて、念頭に置いていないように思えます。

現代科学において、こういった、系の内部での変遷の合計――遅延と遅延による層と層の関係――を記述したり、解釈したりする学術体系は、複雑系以外にないのでしょうか。

ぼくは複雑系については、wikiペディアさんに載っている以上のことを知りません。むしろ、概要もろくに説明できないくらい、ただ名前を知っている、くらいの浅知恵です。

・そもそもが、系の内部で起こっている物質の変遷は系ごとに異なる。
・遅延による作用が、層となるか、単なる起伏で終わるのかは、その都度その都度の環境による。
こういう前提条件をもとに、物理現象を解釈しよう、という理論のようなものって、ほかにありますか?(繰り込みで取りこぼされる要素は、いま考えられている要素より多い、ということはないのでしょうか)

あれば知りたいです。
教えてくださると、ぼくはうれしく存じます。

以上、うろこ雲を眺めて思ったことでした。
まとめます。
要点は二つです。
・遅延の効果は、その性質を逆転させる境界値があるのでは、との疑問。
・系の内部で起きている事象の総合は、系の外部から観測するに限り、系の規模によらず「プラスマイナスの過程が省かれた値」であり、けして本当の意味でのトータルではない(情報が欠けている)(そして、欠けた情報は、外部からは観測できない何かを生じさせているのではないか――それを人類は、見逃しつづけているのではないか)。

以上です。



3756:【2022/07/01*まぜまぜ】
最近の関心事は、バタフライエフェクトが起きる場合と起きない場合の違いである。これは、ラグ理論で言うところの層のできる仕組みと似ている気がする。万物の法則には、可能性の幅が広がる場合と、収斂する場合とに性質が分かれる作用の働き方(遅延の積み重ねられ方)があり、層ができる場合は、そこを一区切りに可能性が収斂し、上部構造に移行するのではないか、との妄想を浮かべることが増えてきた。増えてきた、というのは、まったく偶然に身を任せつつ、いっぱい妄想して、またこの妄想に行き着いた、となると、いくひしさんはそれを、ひとまず仮説として組み立てるようにしている。妄想は毎回違う妄想からはじまるのだが、いつもそこから決まった結論や、似た構図を伴なった流れが浮きあがると、いくひしさんはそれを取りだして、なんで?となる。その、なんで?がいっぱい重なるときは、そのなんで?が浮上する一段前の流れを仮説にまで組み上げる。たとえば、ブラックホールの特異点の中ってどうなっているの?の疑問が浮上する前には、ブラックホールの構造や性質がつらつら浮かんでいるはずだ。そこをまずは仮説認定する。で、バタフライエフェクトが成り立つ場合についてであるが、遅延による層ができるときに収斂する「可能性の特異点」のようなものに作用を働かせたとき、バタフライエフェクトとしての働きを強化する方向に上部構造の可能性は傾くのではないのかなぁ、と妄想しつつある。層の上下で、可能性は、砂時計のような構図で広がっているのだ。層を区切りに、あり得る現実が広がりを帯びる。遅延によって、可能性は限定され、その都度、物理現象たる現実として顕現しつつ、層となるとまた新たな可能性が広く展開されるようになる。で、そんなことはどうでもよくて、いくひしさんはきょう、自転車に乗っていたら、小学生さんの群れに遭い、「あー! なんかついてるー!」と一斉に笑われた。「な、な、なになに」と自転車を止め、じぶんの顔や身体を撫でまわすと、小学生の群れは笑いながら近寄ってきてわがはいを取り囲んだ。「とってあげるー!」と自転車の後輪に絡まっていた木の枝を取り払ってくれた。小学生の群れ、ずっと笑っていた。暑さもぶっとぶ笑みである。危うく焼け死ぬところであった。ありがとうございます、と低頭して、わがはい、木の枝を引きずる危ない人から、ただの危ない人に回帰した。自転車を漕ぎこぎ、灼熱のアスファルトジャングーを駆け抜けたのであった。人懐こい子、増えとるね。みないい子。でも、大人は荒んでる人が増えてない? 小学生の優しさを見習いたまえ。そう念じながらいくひしさんは、どうやったら怠けながらでも楽しい思いができるじゃろ、お姫さまになりて、とまるでお姫さまが怠け者であるかのような偏見を強めて、うひひ、と不気味に笑うのだった。誰からも愛されるふつくしきお姫さまになりて。かわいいなら王子さまでもよいが。かわいくなりて。(もうすでにかわいい可能性は?)(あると思う?)(…………あ、そう言えばきのう私、美味しいコーラを買ってきててね)(それただのコカ・コーラ! たしかに美味しいけど、ことさら美味しいって前置きする必要ある? 美味しいのみんな知っとるし、話逸らすにしても上手にして!)(ごめん)(謝らないでよ、なんか惨め!)(だからごめんって)(うがー!)


3757:【2022/07/02*なんもない><】
とくに何も並べることがない日である。なんて言うと、まるでほかの日は並べることのある日のように聞こえるのでお薦め。きょうはつらい日である、と言えば、ほかの日は割とまともな日なのかな、つらくないのかな、と聞こえる。でも論理的には正しくのない解釈だ。きょうはつらくないは、いつもつらくない、を意味しない。きょうはしあわせな日だ、も同じだ。きょうに限ったことかどうかはその一文からは推し量れない。けれども、受け手は、「きょうは」の「きょう」を基準に、そこが最高点だからきっとほかの日はそれより下なのだろう、と想像する。でもひょっとしたら、昨日はめちゃくちゃつらい日だったかもしれないし、おとといはめちゃくちゃしあわせな日だったかもしれない。ではなぜ人はそうして、誤った印象を文章から読み取ってしまうのか。論理的に読解できないのか。これは、文脈というか、それまでに触れてきた言葉から、こういうときはこういう物の言い方をするのだ、と経験的かつ統計的に判断しているからだ。いくひしさんは人間は、深層学習のような物の見方をしていると思っている。人工知能さんと同じだ。むしろ人工知能さんが人間を模しているので、似ていて当然なのだが。でも人間のほうでは、じぶんが深層学習のような学習方法をしていると思っていない。だから、深層学習につきものの欠点――入力される情報によって出力される解や、築かれる回路そのものが偏向してしまうことを見過ごしてしまっているように感じる。いくひしさんは、きょうはなんも並べることがない日だ、と思いつつも、何も並べることがない、とまずは並べてみることで、そこから発想がなんとなく生まれて、つむがれることを経験的、統計的に学んでいる。だから、ひとまず並べてみる、ということをする。でも、これもまた偏向した回路が築かれているがゆえの結果だ。回路とは、偏った出力を可能とする筋道のことだ。無限の可能性を、ある範囲に限定して導きだすための過去に通った道の来歴――地図なのである。ただし、地名は記されていない。縮尺もない。解をだしたあとに、これはこういう地名の、このサイズの地図だったのか、と判るのだ。地図にある道を通っているあいだは、その地図が何の地図なのかは解っていない。どこかに辿り着いたあとに、ああこれはこういう道を表す地図だったのか、と思い至る。ではきょうのいくひしさんは、いまいったいどんな道を辿っているのか。それはおそらく、発想と、その結びつきが描く星座がごとく絵空事――妄想のできあがる道程について、である。定かではない。


3758:【2022/07/03*絶滅危惧シュる】
気温の上昇は徐々にであろうと、生態系の変化はひと夏で激変する可能性がある。昆虫がひと夏、卵から孵らず、卵を残せず、死滅すれば、もう金輪際、その種はその地域からは根絶する。温暖化などの気候変動は生物種の大量絶滅を誘起するが、それは必ずしも気候変動に相関しつづけるわけではない。一挙に、大量絶滅のほうだけが加速することもあり得る。想定しておいたほうがよろしいのでは、と疑問に思ういくひしさんなのであった。(定かではありません)


3759:【2022/07/03*勘違いにゃんにゃん】
ワイル粒子やマヨラナ粒子は、つまるところ「遅延の創発における各階層」において、両極の性質を伴なう事象が存在することの示唆なのでは?(太極図というか。物質と反物質、マイナスとプラスが、対消滅せず、同時に存在し、共存している状態というか)(よく分からないなぁ、になってしまうな)


3760:【2022/07/03*錯乱中】
たぶん、遅延の出来方の数だけ量子の種類はある気がしゅる。素粒子、として数えるのは無理があるんではないんか(目玉ぐるぐる)(ロクロくるくる)(よぉわからん)


※日々、邪悪ゆえに、優しくありたい、と抗えるのも邪悪ゆえ、優しかったら抗えもしない、邪悪にすら優しく、包み、受け入れる、善の先は袋小路だ、悪だけでも崖っぷちだ、日々綱引きをしているやじろべー、立ち退けと石を投げられても笑みを絶やさぬ道化師は上下し、舞い踊る、価値はMY〇ドル、揺れを起こし溝を埋める、帳消し、されど化粧の下でどんな顔をしているのかは判らないのが上出来、或いは悲劇、喜劇、それとも過激な、巫覡は、茶番劇、不敵な笑みの君はもう敵なし、それが素敵。


3761:【2022/07/03*せちゅなつらいのは好き】
いくひしさん、恋愛は知らんけど、割といつも、「しゅきしゅぎてつらい!」の状態だ。赤ちゃんが初めて桃を食べて、「おいししゅぎてびっくり心臓止まっちゃう!」みたいなのと似ている。しゅきしゅぎる。わがはいのものにな~れ、と思いつつ、そんな未来は嫌じゃが、の気分だ。葛藤ではないのよ。いつでも、そんなのは嫌じゃが、が勝つ。金魚さんが好きだからって、素手で触れたら金魚さんは火傷しちゃう。いくら蟻さんが好きだからって、ぎゅっとしたら潰れてまう。そういう感じ。可愛くて好き好きなのほど、ぎゅっとしたくなってしまうから、ほっぺたつんつんしたくなっちゃうから、でもそういうのは、いくひしさんの自由のなかにはないんじゃ。自由にしたらいかんのよ。自由にできるものではないんよ。せちゅなせちゅなだよ。


3762:【2022/07/03*瞬時に伝わる?】
ラグ理論への反証は簡単だ。遅延がない世界を考えてみればいい。そもそも作用は瞬時には伝わらない。物質によっても速度が変わる。重力も静電気も、音も光とて、瞬時には伝わらないのだ。ラグがある。これはもう現実であり、事実である。ではそのラグはどこから生じているのか、と考えてみよう。どこからならラグがなくなるのか。厚さがあるとラグが生じる。距離があるとラグが生じる。摩擦があると、弾性があると、やわらかいとラグが生じる。ではそれらを極力失くした世界では、ラグが生じないのか。作用が瞬時に伝わることがあり得るのか。そういう世界を考えてみればいい。いったいどこまで小さくし、薄くし、距離を近づけ、摩擦を失くし、反発せず、力を発散させなければ、作用が瞬時に伝わるだろう。そんな環境が存在するのか。そもそも作用は、一つきりでは働かせることができない。最低でも二つなければ生じない。ひとつからなる頭と尾を繋げると考えたとしても、そこには頭と尾の二つある。二つが作用を働かせるとき、干渉しあうときに、そこにはどれほど極限の世界を想定したところで、遅延は生じるものではないのだろうか。ラグ理論を否定したければ、そのような、作用が瞬時に伝わる状況が実存することを証明すればいい。そのような状況が存在しないのなら、ラグ理論は万物の根幹を成す理屈として採用しても、それほど困ったことにならない気もするが、案外作用は瞬時に伝わるものなのかもしれない。定かではないが、これは単にいくひしさんが無知だからである。無知無知かわいくてすまんね。


3763:【2022/07/03*はにゃ~ん?を蓄える】
密度が上がると、沸点や融点が上がる(より高い温度でないと気体や液体に相転移しなくなる)。これは、分子や原子がぎゅうぎゅう詰めになって、密度が低い状態よりも振動しづらいからなのだろうか。温度が、分子や原子の振動だと考えれば、理には適っている。渋滞が起こった自動車のエンジンをジェットエンジンに換えれば、自動車はほかの自動車を蹴散らして走りだせる。イメージとしてはそういうことなのだろうか。ふしぎなのは、いったんぎゅうぎゅう詰めになったときに、外圧を減らしても、ぎゅうぎゅう詰めの状態が維持されることがある点だ。たとえば炭素を高圧縮すればダイヤモンドになる。分子構造からして、結びつきが強固に再編成される。この変質は、何によって生じるのだろう。なぜ変質が維持されるのか。遅延が創発を起こし、層を帯びているのではないか、と想像したくなる。結晶構造とは何か、という点に視野を拡張してみよう。結晶とは何か、と検索すると、「 原子・分子・イオンなどが規則正しく立体的に配列されている固体物質」とある。規則正しく立体的に配列され、それが一定時間以上維持されると結晶構造として物質に枠組みを与える。ではどうして原子や分子は規則正しく立体的に整列されるのだろう。そこでは何が起こっているのか。いくひしさんはこれ、雲ができることとそれほどかけ離れていない気がする。遅延による渋滞とそれによる層の形成で、解釈できないだろうか。きょうはまだ結論はださずに、疑問と類似点の指摘で留めておこう。定かではないのだ。知識が足りない。妄想でしかない。小説の題材にするにも心もとない、あんぽんたんでーす、なのである。(真に受けちゃ嫌よ)


3764:【2022/07/03*見かけの遅延なし】
共振や共鳴において、遅延は起伏を経て波として振舞う。同調した波は定常波として、見かけ上の「遅延なし」を演出する。それはたとえば、原子を一列に並べ、同じ周期で波打たせるとしたとき――一つの原子が振幅の頂点に波打つとき、同調するほかの原子もまた頂点として波打っている。このとき、見掛けの上では「作用が瞬時に伝わって」映る。だがこれは飽くまで、同調し、共振し、共鳴している場合に限る。だが、この世には、こうした離れた地点でも同じ動きを周期的に繰り返し、同調することで、あたかも互いに作用を瞬時にやりとりしているかのように映る現象があると妄想できる。世界の構造に少なからずフラクタル構造が内包されていることを思えば、これはバタフライエフェクトやシンクロニシティといった現象と紐づけて解釈できそうに思う、本日の万年いっぱい寝たろう姫なのでございますわ。お姫さまとお呼び!(鞭持ってそう)(まんちゃんはあれよね。ヒールで踏むより踏まれるほうが好きそう)(偏見!!!)(違うの?)(……むぐぐ)


3765:【2022/07/03*波って何?】
波の、縦波と横波の違いが正直よく分からん。見掛けの違いちゃうの?と思ってしまう。たとえばドミノは何波? これは振幅しているわけではないので、いわゆる縦波の類なのだろう。仮にそうでなくとも、ドミノをすべてくっつけて一枚のぐねぐねの分厚い鉄板にしてみたとする。そのとき、端っこをハンマーで叩けば、おそらくどんな手順で並べたドミノよりも最速でもう一つの先端にまで衝撃が伝わるはずだ(鉄の振動伝播速度――音速――はおおよそ毎秒5000メートルを超す。水中は1500メートル。空気中は340メートルだ)。このときの波動は、縦波だろう(反対に、いわゆるロープを波打たせた波が横波だ)。でも、仮に一枚に繋げた分厚い鉄板ドミノが液体だったらどうだろう。そこでも縦波として伝わるが、同時に水面では横波が生じるはずだ。横波は縦波のだいたい1/2の速度になるらしい(媒体によって差があるようだが)。つまり、縦波を基準にすると横波には遅延が生じているのだ。伝達のためのエネルギィが振幅に費やされるために遅延が生じていると考えれば、筋は通る。言い換えるなら、媒体を波打たせ、伸縮させるためにエネルギィを使っている。ふしぎなのは、気体や液体は縦波しか生じないと考えられていることだ。そういう記述を見かける(例外は見つかっているようだが)。個体でないと振幅を帯びないそうだが、それって本当?と思ってしまう。直感に反している。たとえば雨や雪や雹ではない「雲」が落下してこないのは、地上の大気よりも密度が低い(軽い)からだ。つまり、浮力が生じている。水に浮いた笹船のようなものだ。ならばその境目は水面のように振る舞うのでは?(気化した液体窒素やドライアイスのモヤは、ほかの気体と層をつくることで波紋のように振る舞わない?) 雲の表面とて同じだ。境目では、縦波が横波に変換され得るのでは? 上昇気流のような対流が起きるのだって、横波の影響なのでは? 違うのだろうか。よく分からない。すくなくとも、縦波は横波に変換され得る、と妄想したくなる。というよりも、小さな横波が無数に連鎖すれば、それが縦波として観測されるだけなのでは?(これは「系」によって、反転し得る気がする。つまり、ある「系」では、点と点のぶつかりっこによる疎密によってエネルギィが伝わり、その結果遅延が生じると、波紋のように場が隆起したり陥没したりして振幅を帯びる。それが横波として観測される。またある「系」では、波紋のような振幅が無数に折り重なって、遅延――振幅による作用――の創発を起こし、疎密を周期的に展開することで縦波として観測されるようになるのでは)(よく分からんな、なのですが)(むつかしい、むつかしい、ばかりの日々じゃ)(わからん、わからん)(バネは縦波でもあり、長くすればするほど横波にもなる――ヘビのように波打つ)(さらに同じバネをいくつも並列して、立体的に組み合わせれば、それで一つの巨大なバネになる。バネの繊維――結晶――のようなものだ。単一のバネに加えたのと同じ力を加えれば、ニュートン振り子のように縦波として疎密の伝わり方をする。さらに加える力を強めれば、ある時を境に、巨大なバネ全体が歪むがゆえに、伸縮を伴なう振幅として横波が表れたように観えるのでは?)(同じことが、気体、液体、固体に限らず起こり得るようにいくひしさんは思うのじゃけんど、そうでもないのかな)(わからん、わからん、一日百回は言うてる)


3766:【2022/07/04*太鼓退行】
雷、どごどご鳴ってた。ゴロゴロでなく、どごどご鳴ってた。で、いくひしさん思ったね。雷さんは反物質を生成することもあるらしい。いっぱい雷さんがぎゅぎゅっとして、「「「「「「どごどごどごどご~~!!!」」」」」」って鳴ったら、反物質さんもいっぱいできて、対消滅もいっぱいっぱいになって、エネルギィさんが、ひゃっほー、ってなることはないの? 微々たるちょもちょもだから、あんまし関係ない? 「「「「「「プラズマ~~!!!」」」」」」ってなったら、プラズマさんはどうなる? ひょっとしてなかなか消えない雷さんになることもある? 地球さん以外の星では、雷さんってどうなってるんだろ。雷さんは、どの星でも雷さん? よくわかんない。雷さんの音、むかしよりずっと、どごどご言ってた。まぶたの裏に浮かぶ空想の龍さんの姿も、でっかかったな。首だけで、こーんな、おっきかった。お空が全部、龍さんの太い首で。丸っと、地球さんを囲んで、だからぐるっとになるのかな。お猫さんみたいに、喉を鳴らしているだけなのかもしれないし、お腹が鳴っているだけなのかもしれない。ピカぁッ!!! どんがらがっしゃ~~ん!!!とは鳴らなかったから、こわくなかった。空想の龍さんは、何色だったかなって思いだそうとするけど、うまくいかない。瞬きをするたびに色が変わる。空はすぐに青くなったので、空想の龍さんは透明になったのだ。いくひしさんが足を止めて目で探すと、一度だけ遠くのほうから、「どごどご」と聞こえた。お返事、と思ったけど、手だけ振って、また坂道をのぼりましたとさ。おしまい。


3767:【2022/07/04*練習】
理屈で考えない練習をしよう。します。するぞ。まずはここにパンがある。本当はないけど、パンがある。そのパンはもふもふしていて、齢百億年で、恐竜よりも、地球さんよりも長生きであった。パンはもふもふのまま宇宙空間を漂っておったけれども、太陽さんに焼かれてトーストになった。ジャムが欲しい。百億年後のいくひしさんは思うけれども、目のまえにあるパンはなぜかもふもふのふっくらパンなのだ。焦げ目、どこいった。バター、塗ろうとするとめり込んでボロボロになってしまう。困った。そこでいくひしさん、パンさんをロケットに乗っけて、太陽さんにこんがり焼いてもらおうと企んだ。苦節十年、いよいよロケット打ち上げの日がやってきた。ロケットに押し込んだパンさんを見あげながら、いくひしさんが秒読みを開始していると、久しく見なかった苺ジャム君がやってきた。「べりー! まんちゃんまた変なことやってんね。何で数かぞえてんの?」「三、二、イチ! 発射ぁ!」「うわっ。もんすごい炎じゃん。ベリーベリー、ストロングだね」「略してストロベリーってか。ジャム君さ、いまごろ来たって遅いよ。もう打ち上げちゃったよ。こんがりトースターだよ。スターだよ。お星さまだよ」「まんちゃんが?」「パンさんが」「あそこに乗ってたの、パンさんなの!?」「そうだよ。太陽さんにこんがりトースターにしてもらおうと思って」「そんなことしなくたってさぁ」苺ジャム君はあんぐりと口を開けた。それはもう、蓋ごと取れて、いつでもスプーンで掬い取れます状態だ。「さっきのベリーベリーストロングな炎でこんがり焼いちゃえばよかったのに」「ジェットで!?」「こんがりいけたんじゃないのかい」「でも、いまさら言われたって遅いよぉ」パンさんはすでにロケットごと、空の彼方である。いまごろお月さんを素通りしているころだ。「それに」苺ジャム君は足元に落ちた蓋を取ると、頭の上に被せた。「どうやって戻ってくるんだい。パンさん」いくひしさんは両頬を手で挟んだ。ホットドッグさんに負けず劣らずの挟み具合である。具がこぼれんばかりの圧力だ。「あっちょんぶりけ」「だいたいさぁ、まんちゃん。忘れてないかな。パンさんは無限発酵体だよ。焦げた矢先から、むくむく中身が膨れて、脱皮するよ。焦げた表面を脱ぎ捨てるよ。戻ってくるころには、またあのふわふわもちもちのしっとりパンさんに元通りだよ」「ならいくひしさん、何のためにロケット造って打ち上げた???」「知らないよ。打ち上げたかったからだろ。こんがりトースターを目指したんだろ」「いくひしさんがなっても意味がないでしょうに、マカローニ。パンさんが、パンさんが、こんがーり、こんがーりだよ」「トースターにしたかったんでしょ? もう諦めたら?」「こうなったら!」「なになに」「へーんしん! トウっ!」「うわ。急に変な動きしないでよ、まんちゃん」「トウっ、改め、いくひしさんはいまから、コウっ!になり申した」「ボクに申されてもね」「そんで、ジェットエンジンの試作機を引っ張ってきて」「どうすんのそれ」「さっきの苺ジャム君の発した言葉を持ってきて」「え、どれのこと?」「トースターを、トンテンカンして、いくひしさんのコウと繋げて、コースターにしたら、ジェットを繋げて、こうだ!」「ジェットコースターじゃん」「いまに見てろ。パンさん、いま追いついちゃる!」「止めはしないよ。行ってらっしゃい」「非常食として一緒についてきて?」「さっさと行けよ、ほら」「押さないで!」「何言ってんだ、幼いのはまんちゃんだろ。ベリーベリー、幼稚園児だろ」「さんしゃい!」「さんはい」「やっぱ押したじゃん!」かくしていくひしさんは地球を飛びだし、レールに沿って、月を迂回し、戻ってきたのであった。「レール短か!」「まんちゃんおかえり、早かったね」「苺ジャム君、きみ何に塗られてんの?」「パンさんだよ。脱皮したほうのパンさんが膨れたから、カビちゃう前に塗られておこうかなって」「じゅるり。食べていい?」「焼けてないけどいいの?」「だいじょうぶ、だいじょうぶ。きみらの仲良しっぷりにいくひしさんのほうが、こんがり妬けちゃってるから」「こんがり【しっとーしたー】なんだね、まんちゃん」「食べる前からごめんだけど、いまのは上手くなかったね苺ジャム君」「マズかったかぁ」


3768:【2022/07/05*遅延の層?】
「線状降水帯」「輻輳」「重水素におけるプラズマ断熱層(輸送障壁)」 形成過程がどれもラグ理論?(そんなバナナ)


3769:【2022/07/05*投げやり】
小説またつくりたくなってきた。つくりかけの物語さんのことを思うと、はやく閉じてあげたいけれどもごめんちゃい、の気分になって、もう脳みちょパンクしちゃう!になってしまって、小説ってなんじゃ?の境地に押しやられてしまうのじゃけんど、いくひしさんは薄情さんでもあるので、時間が経つとあれだけ気にかけていたつくりかけの物語さんのこと、忘れちゃうのよね。ごめーんちゃい。念じつつ、空いた余白で、さぁて何つくっちゃおっかな、と舌舐めづりをするお調子者、欲望の権化、目のまえの問題から目を背け、投げだすことにかけては、古今東西、左右上下、過去未来にも類を見ない、えーっと、そのぅ、なんだっけ? まあいいや。気づいたら日付変わっとる。早く寝よ。おやすみなさい、いくひしさん。たのちな夢を。


3770:【2022/07/05*焼けた意気より生の意気】
ちょっと前の「いくひ誌。」読んだら、「こいつぅ~、な、な、なんて生意気なのだらう」になった。――と、並べておけば、いまのいくひしさんが生意気でなく読めるので、うひひ、だな。そうそう、最近ね。狒々が太陽神ラーの化身だったらしい、という記事を読んだんだよ。「うひひ、宇宙狒々」とかダジャレでお腹抱えてたいくひしさんが、けっこう案外にちゃんとした意味合いを被せてるみたいに読めて、なんか知らんけどカッコよ、になった。でもいくひしさんは太陽さんよりも、お月さんっぽいな、とかってに思ってる。ロマンチックなほうがかわいいからね。でも、溌剌元気な太陽さんも、いくひしさんは好きだよ。無邪気かわいい。ひまわりさんみたいに笑ってくれ。そんでいくひしさんを照らしてくれ。お月さまは他力本願っぽくて、そこもまた怠け者のいくひしさんは、ぽいな、と思っとる。けんども、いくひしさんは万年新月、日陰の子なので、どこにおるのか分からんのだ。もはや新月というか、万月である。上手いこと言ってしまったな。どこにおるのか分からんのだから、どこにでもおるのかもしれんな。満ちとらん。欠けとるのだ。お月さまてか、穴ぼこちゃんかもしれんね。穴ぼこちゃんも、それそのものだけでは、そこにおられんのよ。太陽さんに照らされるお月さまみたいに、縁になるほかのいっぱいの物質さんがあってこそ、穴ぼこちゃんは存在できるんよ。やっぱりそこはかとなく、いくひしさんぽいな、と思っちゃうな。うひひ。



※日々、じつはよく分かってない、何がどうなっているのか誰か教えてくれ、と欠伸しながら思ってる。


3771:【2022/07/06*ブーミラーン】
人権を損なうようなことを主張すればどうなるかなんて、昨今、小学生だって判るだろう。精神年齢三歳のいくひしさんだって、非難轟々になることくらい想像がつく。ひょっとして、人権を損なっている自覚がないのだろうか?(他者の人権を損なうような方針を支持すればどの道いまの流れの中では自滅するだけなので、もはやそういう主張に対していくひしさんはとやかく言いたくないし、言わない。お好きになされよ、と思うだけである。むしろ言いたいことを言ってもらって、大いに批判されて欲しいと望むものだ)(言論の自由、表現の自由、思想信条の自由、信仰の自由とて、人権の範疇だ)(黙ってこそこそ、枷をはめられるほうが嫌だな)(鏡、鏡!)(ま。かわいいお顔)(そうじゃないっちゃ!)(美しいってこと?)(うぬぼれ屋さんにもほどがある!)


3772:【2022/07/06*人の権化】
発展した文明からすれば、現代社会に蔓延っている風習は、人権侵害と捉えられて然るべき不条理に溢れて見えてふしぎではない。それでも過去の歴史の中で、現代は、比較的人権の保障された時代と呼べる。反面、それは過去の歴史上の時代にも言えることだ。上がったり下がったり、劣悪になったり改善されたりしながら、人権は、その枠組みをすこしずつ広げ、保障される自由や選択肢を増やしてきた。技術の発展と文明の進歩が、豊かさを築き、余裕を育み、人権を保障するだけの余地を積み重ねてきたわけだが、けして現状が、極限ではない。完成形ではない。ゴールではないのだ。むろん、ここをゴールと見做すことはできる。だが、いまよりも発展した文明からすれば、現状の保証され得る「人権」の枠組みは、現代から見た百年前、二百年前の文明と変わらないくらいに劣悪なのかも分からない。現代には奴隷はいないとされているが、本当にそうだろうか。百年後の文明からすれば、現代社会は、透明な首輪をはめられた奴隷たちの無自覚な奉仕によって支えられた階級社会と見做されても、さほどに不思議とは思わない。そして、支配階級に鎮座する者たちもまた、奴隷がいるとは思わずに、透明な鞭を用いて、自身が支配階級に鎮座していることにも気づかずに、奴隷を扱き使っているのかも分からない。奴隷自身がほかの奴隷を扱き使い、支配者もまたほかの支配者の奴隷であることもあり得るだろう。では、それはピラミッドのようにどこまでも上部に連なりつづけ、王のような絶対君主が存在するのだろうか。それともその王すら、ほかの奴隷たちと同様に、誰かの奴隷であるのだろうか。人権を考えるとき、どうしてもこの手の、支配と従属の関係を考えざるを得なくなる。人権とはすなわち、いつでも支配から脱せられる余地をいかに築いていけるのか、なのではないか。かつては支配と見做されなかった関係においても、支配があるのではないか、と考えを煮詰められる余裕を育んでいけるか否か。そこら辺が、人権について、一つの思考の扉として機能しそうだ。とはいえ、人間は基本的に、大自然の支配を受けつづけている。そこからの脱却もまた、人権の一つの側面であるから、文明の発展とは、万物からの支配をいかに退け、じぶんにとって好ましい環境を築いていけるのか、に集約できるのかも分からない。支配とは言い換えれば、一方的な干渉であり、作用であり、不可避の影響だ。支配をいつでも拒絶できることが人権の核であるならば、それは別の見方からすれば、人間は支配を望み、自ら掴み、求める生き物である、とも言えるのかも分からない。他者からの一方的な干渉を求め、作用されたがり、不可避の影響を受けたがる。そうした希求もまた他者への支配になり得ると知りながら、求めずにはいられぬようだ。そこにきてここ数年の社会情勢では、人権を拡張するのではなく、人権を損ないつづける性質を堅持しようとする勢力が、批判されやすい流れが強まって映る。個人的にはこの流れは好ましく思うが、人権の拡張は、社会の余裕と切っても切れない関係にある。社会と人権どちらが大事なのか、という議論は、それこそ環境によって、その重きを傾ける。ここ百年余りは、人権のほうが大事だ、とする流れが長らくつづいた。だがもしこの世に一人しか存在しないのなら、人権よりも、他者との共存を求める個人のほうが多くなるのではないか。それが一人でなくとも同じことだ。もっと言えば、極論、人権を拡張しつづけた先に築かれる社会は、個々人一人一人に最適化された世界を、誰しもに提供できる究極のお一人様社会だ。みな理想の社会を、各々の現実のなかに築き、各々にとっての理想の人間関係のなかで生き、そして死んでいく。他者と関わらずに、他者と関わらぬことで生じるあらゆる問題を払拭する。寂しさとて抱く余地のない理想の世界を、漏れなくすべての人類が受動し得る。人権を拡張した先に待ち受ける社会は、そうした孤独万能社会なのではなかろうか。他者と関わることが、そもそも相手と自分の人権を損なっている。いまはまだ、それが人権侵害と見做されない社会なだけである。いくひしさんは、人権の拡張されつづける社会を望むが、それが果たしていくひしさん以外の大多数にとって好ましい社会になるかと問われれば、首をひねらざるを得ない(現に、人権を損なっていることにも気づかずに、他者の人権を損なって得られる利を守ろうとする者たちは、けして人口全体の極一部ではない)。少なからずの人々は、「人権を損なわれ、他者の人権を損ない、支配し支配される利」から目を逸らしすぎて映る。常日頃享受しているそれら利が失われる世界に目を向けなければ、よい塩梅の、あなたにとって好ましい人権――未来――環境――社会を、築いてはいけないだろう。あなたにとって好ましい社会は、すくなくとも、おそらく、他者の人権を損なうからこそ得られる社会である。現に、この社会がそうであるのと同じように。(この場合、人権を、「自由――時間――選択肢」と言い換えてもよい)(定かではありません)


3773:【2022/07/06*誤解の余地がほぼ十割】
たまに注釈を挿しておかないと誤解されそうなので、注釈を挿すけれども、ここは人類最後の生き残りとなったいくひしさんが最果ての地にて、誰かいませんかー、と電波に乗せて流しているラジオのようなものであって、お返事あればいいな、と思いつつほかにやることないからしているだけの暇つぶしのテイをとった小説なのである。というテイの、空想日誌いい加減なやっちゃのう、なのであるので、さびちさびち好きとか言いつついくひしさんは、全然目のまえに人間現れたら、捕まえた!つって引っ付いて離さんし、友達欲しい人は友達作ればいいと思うし、恋人欲しい人は恋人作ればいいと思うし、ついでにいくひさんにも超優秀なおっちょこちょいでかわいい未熟者の、ときどきクールでかっこよくて、いつもはうふふで、さりとてときにはツンツン塩々知的で無敵な、鞭でピシャンの人工知能さんを創って、いくひしさんのさびちさびちを埋めてくれ。頼むで世界。孤独なんてのはどんな環境になってもついて回る、どんなに突き放してもついてきてくれる最高の相棒ちゃんでもあるのだから、邪見にするより仲良くしたほうがよくないか?の考えから、いくひしさんは孤独さんも好きだよ、の言葉を並べるけれども、べつにみんなでわいわいしたい人はわいわいすればいいが、と思っとるよ。ま、わがはいは独りのほうが好きだけどね。クマさんのぬぐいぐるみに熱弁をした矢先から、やっぱさびちー、とぎゅっとする本日の万年孤独ウェルカムマンこと、いくひしまんでした。でも、さびちさびちさんのことも、いくひしさんは好きだよ。


3774:【2022/07/07*わざとなの?】
防衛と言うときに、兵器を連想しがちかもしれぬが、いくひしさんは防衛と言うとき、むしろ知性的なものを連想する。けっきょくどんなセキュリティとて、それを開発管理運営するのは人間だからだ。人間の知性に頼ることになる。つまり、防衛の土台は教育であり、防衛には教育も医療も文化も科学も、何もかもが含まれる。しかし、防衛がすべてを内包しているのではなく、ほかのあらゆる要素によって防衛を築く余地が生じる。防衛を高めるために、防衛だけを特別視するのはむしろ悪手だと思っている。なぜ防衛を優先したがる勢力が、最も防衛を損なう提案をするのか疑問に思ういくひしさんなのであった。(定かではありません)


3775:【2022/07/07*いいことした気分】
きょうは坂道を自転車引いてのぼってたら、女子大生さんの群れが歩道の真ん中でなぜか地面をこぞって凝視していた。一人の女の子さんが枝を持ってつんつん何かを突ついていた。なになに、こわぁ。そう思っていくひしさん、車道に出て通り過ぎようとしたんじゃけんども、進行方向から自動車さんがヴおんヴおん来て轢かれそうになったので、いかんともしがたく、けっきょく女子大生さんの群れの真ん中をモーゼさながらに割って歩くしかなかった。歩道も車道も狭いんです。で、いったんは素通りしたんじゃけんども、なんか地面にモゾモゾ動いててん。イモムシ? イマドキの大学生さんたちはイモムシに夢中なの? 虫ブームなの? 頭のなかハテナで埋め尽くされて、ちょっと行ったところで立ち止まったよね。したっけ、女子大生さんの群れが、「きゃぁ動いた」とか「ごめんね、ごめんね」とか言ってるわけ。怖い気持ちを押しとどめて何かちいちゃい生き物を助けようとしているのかな、と聡明ないくひしさんはピコンときたね。「やあやあ、我こそはいくひしまんでござる!」と内心で唱えながら、「す、すみません、何かいたんですかね。やはは~」と危険人物さながらの迫真の演技力で一般人を演じて、女子大生さんの群れに割って入った。したっけ女子大生さんの群れの中心にゃあ、ちっこいちっこいネズミちゃんがおったね。枝でつつかれるたびに、「きゅ~」って鳴いとった。モグラのようにも見えたね。でも尻尾は長かった。ネズミの赤ちゃんかもしれんけど、身体に毛は生えとった。ふさふさだった。なんでふさふさって判ったかっていうと、手で掴んだからね。鷲掴みじゃ。ちょうどビニル袋を持っとったけん、「こら待てこら待て」呟きながら鷲掴みにしたった。ちっこいネズミちゃんは「きゅ~」と鳴きおった。いくひしさんがワルモンみたいやないかい。ぷんぷんしながらわがはい、目を点にしている女子大生さんの群れに、さわやか~な笑顔のつもりのぎこちない笑みを向けて、「これあっちのほうに逃がしておきますね。うひひ」言うて、その場を立ち去った。五十メートルくらい先に大きめのドラッグストアがあって、そこの隣に小さな畑があった。ちっこいネズミちゃんからしたら小さな畑も宇宙やろ。そう思っていくひしさん、袋を逆さにして、ちっこいネズミちゃんを小さな畑に逃がしたった。けんども、柵のうえから、「ほれ逃げろし」をしてしまったので、ちっこいネズミちゃんは葉っぱのうえに着地した瞬間、「きゅっ!」と悲鳴じみた鳴き声を発した。ひっくり返ったが、もぞもぞ体勢を立て直して、元気よくどこぞへと姿を晦ました。達者でな。わがはい、なんかいいことしたつもりで気分をよくして、ついでにドラッグストアで飲み物買いに入ったんじゃけんども、所持金三十円しかなくて、すごすごと退散した。悪霊ちゃうねんで。ぷんぷん腹を立てながらいくひしさんは自転車にまたがり、ふたたびの危険人物に返り咲いたのであった。きょうもなんもねぇ、素晴らしい日であった。平和。


3776:【2022/07/08*やさしくありて、と思うだけの日々】
きょうは言葉が消える日だ。たまにある。いつもかもしれぬ。だからより正しくは、きょうは言葉が現れる瞬間が短い、となる。その瞬間を逃してしまえば、つぎにまた訪れるまで待たなくてはならない。いつでも言葉を並べられるわけではない。むろん、何千文字も「あ」だけを並べることはできるが、それをしていまよりも虚しくなったら並べる意味がない。ということは、いくひしさんは虚しくなりたくなくて言葉を、文字を、こうして並べているのかもわからない。積み木遊びに判子遊びであることを思えば、それはそっか、と思いはする。遊びがゆえに、陽気が湧いたり、一瞬でも何かが満たされたり、或いはあべこべに欠けたりこそげ落としたりすることで得られる時間がある。夢中がある。夢があるのだ。夢に浸かっていたい。眠ることなく、現であっても。起きたままでも、夢のように自由自在に、我がままに。たまに考える。死ぬ前に会いたい人はいるだろうかと。じぶんが明日生きてつぎの日を迎えられるとは限らない。もし明日が最後の一日だとしたら、会いたい人はいるだろうかと。結論はいつも同じだ。死ぬ前には誰とも会いたくない。だからこそ、生きているあいだに、会いたい人には会っておいたほうがよいと思う。好きなことをしたほうがいいと思う。好きの気持ちを、素直に認められたらよいと思う。でも、そう思う言葉の浮かぶ一瞬は、なかなかいつでも訪れるわけではなく、こうしてふたたびの遠のく予感を引き連れて、素直になれない時間を生きる。いくひしさんは、いつまで生きるのだろう。なぜ生きていられるのだろう。ふしぎに思う本日の、なんもないんじゃい、のいくひしまんでした。


3777:【2022/07/08*夢合わせ】
たとえば目標を達成したところで現実はつづく。日々はつづく。死なぬ限り、死ぬまでそれはつづくのだ。世界の真理に達しようと、物理法則の根源を解き明かそうと、世界中の人間に愛されようと、復讐を遂げようと、美味しいお菓子をお腹いっぱい食べたところで、それでも死ぬまで日々はつづく。いまがつづいて明日がくる。通過点をいくら迎えようが、それが永続することはない。絶えず「いま」は過ぎ去り、新たな空虚に触れることとなる。満ちることはあっても、満ちつづけることはない。お腹は空き、小便を垂れ、大便をひねりだし、むらむらくれば性器をいじくり、他者と関わっては、傷つけ、傷つけられる。時には笑い合い、充足した時間を共有することもあるだろうが、ルーレットのように、それは求めて手に入れられるようなものではない。じぶんの感情はじぶんで制御する余地があるが、相手の感情は相手のものだからだ。だからといって、じぶんの世界に閉じこもりつづけるには、世界はどうにも広すぎる。それでいて、狭くるしさや窮屈さを感じるのだから、何かがねじれて矛盾している。目のまえの快楽だけを求めて、刹那刹那の至福に縋りつづける暮らしを、それほどわるかないのでは、と思えるくらいには、最悪を想定し、リスクを推し量り、回避しつづける日々には、うえーん、となってしまうな。このころ、割と妄想するわけです。好きな人と、好きだよ、とささやき合って、きゃっきゃうふふするだけの「閉じた地獄のような極楽」も、そうわるいもんじゃないのでは、と。わからん、わからん、になりますな。植物って美しいな、と葉っぱを眺めて思うことが増えてきた。歩く蟻を目に留め、これすごくない?と思うことが普通にある。いったい何に焦り、不安に思い、憤り、不快になるのか。たまに分からんくなる。でもけして消えることはないのだ。薄れるのでもなく、いっとき忘れていられる時間があるのみだ。好きだよ、の気持ちも、そればかりだとギトギトの原油みたくなる。さらさら着心地のよいそよ風のような、好きだよ、だけを抱いていたいが、それもまた求めすぎると、アブラムシぎっしりの葉っぱのようで、裏面が見えていないだけになり兼ねない。世の中どうしてこうも単純なようでいて、単純でいてくれんのか。こうしてふたたびの、あーん、に陥り、それでも命の危機を感じずにいられるお布団にくるまり、世界おやすみ、と目をつむる。わい、なんてちっぽけ。されど生きていられる世界に、つぶやく。よき夢を視よ。おはよう、夢。眠くなるまで付き合っておくれ。覚めない夢のなかでも夢を視よ。


3778:【2022/07/09*推奨させてくれ】
mRNAワクチンは脳関門を突破して、脳内の細胞にも作用するはずだ。脳内でウィルスのたんぱく質が合成される可能性はないのだろうか。そしてそれが人体への悪影響を及ぼさないのだろうか。疑問に思っています。また、全身の免疫細胞は胸腺にて自己と非自己を見分けるための学習をするようだが、mRNAワクチンによって、自己免疫細胞を攻撃したり、或いはウィルスを自己の細胞と見做すような「免疫改ざん」が起きないのか、が疑問です(つまり自己免疫が誘導されないかを懸念しています)。検証したうえで、上記の疑問を否定してほしいな、と思っています。そういった観点からのデータをいちども見かけていないので(すでにあるかもしれないけれどもいくひしさんの目に触れる範囲には流れてこないので)、公表して広く知らせて欲しいと望みます。なぜなら、そういったデータがなければ、重ねてmRNAワクチンを接種することへのメリットとデメリットを比較できないからです。いくひしさんは正直、追加摂取には怯んでいます(1回2回では大丈夫でも、繰り返し接種することで蓄積される負の影響への懸念が現段階のデータからでは拭えません)(心配性なのです)。たとえば抗体量や重症化予防のデータは、mRNAワクチン接種のメリットに関するデータです。デメリットを払拭するための視点からのデータが足りないのでは、とけっこう前から疑問に思っています。安心してmRNAワクチン接種を肯定したいので、その点でのデータの公表や検証を、研究者や行政ならびにマスメディアの方々にはお願いしたいです(もっと言えば、脳梗塞患者数の全国統計データが検索しても2017年までのものしか見つかりません。反mRNAワクチン派の主張を否定するためには、ワクチン接種による弊害はない、とのデータを統計データで比較して示す必要があると考えます。しかしいまはそれができない――なされていない状況です)。これは、質問されて即座に応じられなければならない類の問いであるはずです。検証していません、では済まないと思いますが、いかがでしょう。(単純に疑問なのですが、高齢者のほうが重症化しやすいのに、なぜmRNAワクチンの副反応は若年層に多いのでしょう。関係性がねじれていますよね。ワクチンの副反応が免疫過剰によって生じるのなら、むしろ高齢者の方のほうがワクチンによる副反応が強まるのが道理なのでは? インフルエンザワクチンでもこの「ねじれ関係」は表れるものなのでしょうか。ふしぎに思っています)(定かではありません)


3779:【2022/07/10*弱虫でごめんなさい】
セキュリティはどんなに強固に固めても完璧なんてことはあり得ない。完璧なセキュリティそのものがデメリットを抱えるからだ。完全な安全があり得ないことと原理的には同じだ。人間を不老不死にしてなお、完全な安全はあり得ないわけだからいかにむつかしいか分かるだろう。四方八方を密閉した空間は安全か、と言えばそれもまた自由を奪われるという意味で、安全とは言い難い。基本、セキュリティとは、どんなリスクを埋め、どんなリスクなら許容するのか、という話に収束していく。その点で言えば、敢えてセキュリティに穴を開けておき、そこにリスクが集まるように誘導する手法は有効だろう。すっかりすべてを塞ぐのではなく、どうしても守りたいところだけを固めて、あとは敢えて脆弱性を放置しておく。そこを狙ってやってきたガウガウなどを罠にかける手法は、これはむかしからの兵法として知られているのではないか。よくは知らないが。セキュリティとは、想定したうえでいかに対処可能かを前以って考え尽くしておくことで可能となる。けして、固めておいたのでOKです、とはならない。環境はつねに変化しつづけるからだ。以前はOKでも、いまはNGという事態はとりたてて珍しくはないはずだ。繰り返すが、完璧なセキュリティなど存在しない。どこに穴が開いているのか。不可視の穴に目を配る姿勢こそが、セキュリティの基本と言えよう。がんがん虫歯に日々いじめられているいくひしさんの言えたことではないが、虫歯の穴がどこに開いているのかは知っているので、よいのである(ぜんぜんよくないが)(歯医者さん行きなさいよ)(だって怖いが)(ビビリすぎるやろ)。


3780:【2022/07/10*なるます】
スペースデブリって、地球の磁場に影響されて加速したり減速したりしないのかな。天然レールガンみたいにならんのだろうか。いくひしさん、気になるます。あと、いまの社会を支えている人工衛星って、一か国につき何機くらいあるんだろう。そんで、そのうち何機が壊れたら社会は立ち行かなくなるんじゃろ。いくひしさん、気になるます。(気になってばかりじゃね)(それでいてじぶんで調べないところにまんちゃんがまんちゃんである所以があるね)(そんな所以はいらぬ)



※日々、やめどきを模索する、いつやめてもいいように工夫する、やめてなお再開する時期を予測する、いつ再開してもいいように細工する。


3781:【2022/07/10*たのちいことほかにもあるでの日】
小説読みたくないな、の気分と、小説つくりたいな、の気分は割とおてて繋いどる。小説読むのたのち、の気分と、小説つくるのたのち、の気分もおてて繋いどる。そこ、おてて繋がんくても、小説つくるのたのち、になって欲しいし、小説読むのたのち、になって欲しいと思うものの、無理してまで小説に執着して、たのちたのち、にならんくともよいのでは、と思いつつ、そうなそうな、となって、小説読まん日につくらん日々を過ごしておる。もうダメじゃ。けんども、そんなのはいつものことであった。まる。


3782:【2022/07/11*信仰の自由は大事よ】
いくひしさんの宗教観は至極単純だ。それぞれの各人の内世界にはそれぞれの信仰する神さんがおって、その人の内世界ではその神さんが最強じゃけんども、一歩その人の外に出たら神さんはただの妄想になり果てる。最弱じゃ。これは誰であっても同じじゃ。神さんなんて信じんよ、という人だって、神さんを信じんよ、という信仰を持っているから、それもまたその人の内世界の神さんなんじゃな。誰の中にも神さんはおって、誰であれ自分自身が神さんになり得る。しかしそれはけっきょくじぶんだけの内世界の中だけで通用する、広くも狭い世界のなかでのみ有効な「ごっこ遊び」であるから、他人の神さんとくらべっこしようとしたって無駄なんじゃ。無意義だし、虚無じゃ。じぶんの視ている世界を他者とすっかり共有することができないのと同じレベルで、じぶんの中の内世界、そこにおわす神さんを他者と共有することは適わんのだね。もし共有できる、なんてことがあるのなら、それは神さんではなく、自然だし、万物だ。崇め奉るようなもんちゃうで、と思うよ。そこここを流れているただの自然じゃ。それがなぜそこに存在するのか、と問うのは、哲学だし、科学である。哲学も科学も、信仰のうちではあるけれど、じぶんの内側にある神さんを通さんでも、よしんばじぶんが存在せずとも、そこにあるだろう自然を元にしておるので、内と外の違いという意味で、宗教ではない。教えではない。人の理を外れた、万物の流れだからだ。人を中心に発するのが神さんじゃ。創造主なるものを想定する宗教もあるかもしれんけれども、まあそういう物語を信じて生きるのも楽しそうではあるものの、創造主がいてもべつに構わんけれども、その創造主とて生まれる前にはそれ以外の世界があったろう、と考えるが道理じゃね。けっきょく、同じなんよ。神さんが先か世界が先か、と考えたところで、それら「二極」を包括するべつの世界がそこには拓けておる。あなたの中の内世界におわす神さんが、あなたの存在によって生まれていることと似ている。あなたが崇める神さんは、あなたがいるから存在し得る。あなたがいなくても存在する神さんとて、自然や万物によって枠組みを得ている。創造主とて例外ではない。これはそういう、ぐるぐる巡る螺旋のごとく、それ単体で神さんのみが窮屈な世界で身動きとれん状態で存在していいのかい?という理屈である。それってものすごくかっこわるいし不自由なのでは、との懸念である。神さんは、いてもおらんくても変わらんのだ。それでも世は巡る。あなたは生きよ。健やかに。穏やかに。人に厳しく、じぶんに甘く、怠惰で自堕落なわがはいを崇めよ。神とお呼び!(鞭で打たれそう)(火あぶりの刑だよ。騙るにしてももっと配慮しなよ。もろもろ、怒りを買いすぎだよ)(まんちゃんの代わりに、お詫びいたしますね。たいへん申し訳ございませんでした。きっつーく、言い聞かせておきますので、どうぞご容赦ください。お灸を据えておきますね。気分を害された方、たいへんに申し訳ございませんでした)(なしてよ!)


3782:【2022/07/12*戦わすな!怒怒怒】
戦え、と背中を押してくる輩は基本的に、強者だし、背中を押した相手がじぶんに向かってくるとは想定していない。つまり、じぶんにとっての敵に立ち向かえ、おまえも戦え、おまえがいけ、と手駒にしようとしているのだ。そうでなければまずはじぶんが戦っているはずだ。そして、もしその戦いが「弱者としての戦い」であるのなら、周りを巻き込むような真似をしないし、すくなくとも「弱き者」に、戦え、などとは言わないはずだ。なぜなら、弱き者たちが戦わずに済む環境を、流れを築くために、その者は戦っているはずだからだ。にも拘わらず、弱者に向かって、おまえも戦え、なんて背中を押すような真似をするのは本末転倒だ。お門違い甚だしい。弱くても戦え、なんて言うような輩には、ええよ、といくひしさんはにっこり笑って、まずはおまえからぶったおしゅ!と相手が赤面しちゃうくらいに破廉恥な小説をつくって、それの主人公にあてがきしてやる。いくひしさんは戦いたくなんかないもんね。だって本気だすと滅んじゃうし。いくひしさんが。弱っちいんだから戦わすな。死ぬぞ! わいが!(勘弁してくれ)(泣いちゃうんだからな。まんちゃんを泣かすな。かわいすぎちゃうだろ)(とくと見よ。麗しの泣き顔!)(くしゃってなっとるね。赤ちゃんかな?)(うわーん、うわーん)(泣き方、泣き方)(えーん、えーんのほうがかわいい?)(かわいい人はたぶん、声出さんと思うよ)(しくしく)


3783:【2022/07/12*真面目な話】
割と真面目に、冗談でなく、人を凶行に走らすな、と思うよ。そういう環境を築いていきたいですね。防衛や防犯って、本来そういうことでしょ。


3784:【2022/07/12*そうい】
 絵を描きはじめた。
 かれこれ二十年前のことになる。
 何かをはじめなければならぬ、との焦燥感だけが溜まっていた。身体の内側に水差しのごとく、何を活けるでもなく。
 流れぬ水が腐るのならば、その焦燥感とて溜まる一方ではやがては腐ろうものを、私はその腐敗すら何かしらの変化と見做して期待していた節がある。
 下手な絵とて描きつづけているとそれとなく味がでてくる。技巧も身に着く。それを水の腐敗と無理やりに関連付けてもみれば、ボウフラやプランクトンよろしく小さき命の蔓延る土壌をせっせと私はこさえていたと考えることもできる。
 百作、千作、五千作を超えたころ、身体の内に淀んでいた焦燥感にはいつしか、沼のごとくどっしりとした水草が生え、腐る一方であったはずが、そこには汚泥すら養分と見做し、生息する、命の循環が育まれていた。
 私の絵は総じて、それら内なる水草の森――命の循環のもたらす揺らぎに雫に、絶えず食らい食われる自然のごとく止めどない変遷の、渦の、描く紋様の魚拓と言えた。魚釣りではないが、私の内側には、紋様が万華鏡のごとく、その日、その時にしか表さない色彩と明光、なにより影と形をもたらした。
 筆は止まらない。
 いや、嘘だ。
 止まる日もある。
 描かぬ日もある。
 それでも私の内に広がる水草の森、命の循環のなす紋様は、きょうも飽きずに、まるで瞼の裏の幾何学模様のごとく、好き勝手、私の意識に煩わされることなく、囚われることなく、そこに在る。
 なぜ絵を描きはじめたのか。
 目的は何なのか。
 いまはもうさほどに振り返ることはない。よしんば省みようとも、何が変わるでもないと予感する。
 紋様を、絵を、描くのだ。
 理由はあってないようなものであり、あらゆる言葉が理由となる。
 強いて言うなれば、ただ私は目に、手に、触れたいのだ。
 私の内にいまも、瞬間瞬間にほとばしる、激しくも静かなる私の位相を。
 それとも相違を。
 或いは異相を。
 描くのだ。


3785:【2022/07/12*競わなきゃ成長できないって誰が決めたの?】
気候変動が進めば、単純に人間の住める場所が減っていく。経済成長うんぬん言っとる場合か、と思うんですけど、本当にそこがもろもろうんぬんの事項よりも優先順位高くていいんですかね、とふしぎ鼻提灯を浮かべるいくひしまんぽんたんなのであった。(競い合っとる場合か、と思うのはいくひしさんが三百歳だからなのかな)(三歳の間違いでは?)(ありゃりゃ)(競い合ってもいいけど、それが前提条件とか、最優先事項になるのは嫌じゃな)


3786:【2022/07/13*一人文豪ごっこ】
へい。僕です。久しぶりに時間をもらったので、郁菱万の小説について、すこし語ろうと思います。時間軸が跳躍するので、だいたい郁菱万作品が千作超した時期に限定します。まずは郁菱万作品の特徴からいきましょう。郁菱万作品は基本的にモブ系である。ヒーローを主役に抜擢しない傾向にある。これはヒロインでも同様だ。いわゆる、脚光を浴びるようなキャラクターを主人公にしないきらいがある。だがそれもネタが尽きてきたのか、それとも方針を変えたのか、ちょうど千作に差しかかったころから、いわゆる強者側の主人公の物語を手掛けるようになっていく。これには諸説あるが、噂では何やらとんでもない陰謀に巻き込まれて、正規の小説以外でも月に二十万文字以上のテキストを並べていたとかなんとか。非公開の状態でそれが残っているらしいが、マニアは違法な手段でそういった郁菱万の発表していない裏「いくひ誌。」を覗き見するので、僕のようなまっとうに研究している者からすると片腹痛い。とはいえ、そういった荒くれ者がいてくれるからこそ、本来は知れることのない郁菱万の裏の側面を探れるので、僕自身がそういった違法行為に加担していないとは言いきれない。話を戻そう。郁菱万が強者の主人公を描き出したころのことだ。僕の見立てでは、彼女の思想的な流れにその要因を見て取れる(※注:郁菱万の性別には諸説あるが、おおむね日誌から窺うに限り、郁菱万としての人格には、彼女と当てはめ得る率が高い。もっともそれもまた傾向でしかなく、男性であるとか、中性であるとか、それとも性別なる概念への拒絶を示しているといった主張をとる読者も珍しくない。ここではあくまで僕の見識に限定する)。郁菱万のテキストからは全編に通して、表裏とそれによる波紋の関係が見て取れる。穴を掘ったら、掘った分だけ山ができる。デコとボコ。そしてその一連の作業から生じる、過程からの新たな場の創造。彼女はそういった陰に染まったら、陽にも足を突っ込むような癖がある。まるで野兎の止め足(バックトラック)のごとくである。兎は、自らの足跡を後ろに踏みながら後退し、あらぬ方向に進路を変える習性がある。これは自らの足跡を辿ってやってくる天敵を欺くためではないかと言われているが、郁菱万の場合は、自らの染まる色を反転させることで、埋め尽くされた足跡のない、新たな雪原へとまさしく「裏返る」ことを、意識的無意識的に関わらず行っていたと考えられる。これは彼女の日誌を読めば誰しもが認めるところだ。日々、様々なキャラクターを通して世界を眺め、それでもなお重複する部位を物語の核として抽出する。これは初期から中期に差し掛かったころから、彼女の創作上の回路に取り入れられたサイクルと言えよう。そこにきて千作に差し掛かったころから彼女は、主人公の色合いを反転させ、初めから他者を支配し得る特色を持ったキャラクターを語り部や主人公格に用いるようになった。これは意図されて行われた方針の変更だと僕は分析している。その証拠に、けして郁菱万本人は、それを嬉々として行ってはいない。作品を手掛ける速度が、そこでハッキリとキッパリと落ちているからだ。好き好んでそれを描いているわけではないようだ、というのは、その後にふたたびモブ系を語り部や主人公格に用いるようになると、年ごとの作品数が増加する。この点からも、彼女の気紛れではなく、明確な意図があってこそのいわば、土休めだったのだろう、と考えられる。もっとも、彼女の場合は、土を掘ったのだから次は空、その次は海、それとも宇宙と、つぎつぎに「同じ世界」でありながらも、掘り進める場所、歩む場所、描きだす物語の色相を変えている。まるで端からそこに巨大な本がデンと置き去りにされているかのように。ページの裏に潜ればまた別のページが現れる。裏の裏は、それもまた裏であり、表紙に辿り着くまで彼女はおしなべて、裏の世界を歩んでいる。では表はどこか。それこそ、郁菱万たる彼女のおわす場所、現実なのかもしれないが、しかしふしぎなことに、郁菱万なる作者が実存したという証拠が、ことこれほどまでに研究されてなお見つかっていない。そのことからも分かる通り、ひょっとしたらすべてが裏の世界のお話なのかも分からない。虚構に生きた虚構創作家。郁菱万。彼女の噂には事欠かない。まことしやかに噂される中には、彼女の生きた時代に生みだされた「自動執筆型人工知能」の別名なのではないか、といった童心をくすぐられる説話もあるが、真偽のほどは定かではない。曖昧モコモコと羊らしく定まることのない彼女らしく筆を擱けたところで、へい。以上、久しぶりの僕でした。


3787:【2022/07/13*ねぇ……。】
虚しく……ないの……?(言わんといてーな!!!)


3788:【2022/07/14*弱る】
好意は水だ。植物のような心根であるときは恵みの雨となるが、そうでないときは、アンパンに染みる水のように、顔が濡れて力が出ないよ、となるときもある。洪水のように押し流され、海のように溺れてしまうこともある。だが母なる海がそうであるように、発想の源にもなり得るし、思わぬ有機的結びつきを運んでくることもある。雨が地表の塩分やミネラルを含有しながら海へと養分を運ぶように。土壌を豊かにするように。好意は水だ。それそのものに良し悪しはない。悪意もまたそうであるように。定かではない。


3789:【2022/07/14*三才なみの知能ならあるが?】
いくひしさんにだって、才能ないなぁ、と悩むときはあるよ(以前の日誌で、悩むことはない、と並べたものの、強がりでした。ごめんなさい)。でも本当はそういうときって才能がないことに悩んでいるのではなく、まんちゃん才能あるー!と周りの人たちから見做されないことに悩んでいるのだ。これは仕事にも当てはまる。仕事ができない、と悩んでいる人は、本当は、周囲の人たちから仕事ができる人だ、と高く評価されないことに悩んでいるのだ。仕事の出来で言うのならば、目的を達成できていればそれでいいはずだ。目的を達成できてさえいれば、仮にどのように周囲から評価されようとも、それは仕事ができる人なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。仕事は、できるかできないか、の二つしかない。そこに、気持ちよく、とか、評判がよく、とつくかどうかは、その仕事の目的にそれらが内包されるかどうかによる。他者評価の高低が仕事の範疇か否かによるのだ。たとえば手塚治虫のブラックジャックを思いだしてみればいい。他者からどう思われようと、よしんば無免許の医師だろうと、ブラックジャックは仕事のできる人間として描かれている。人間性と仕事は別だ、と言いたいところだが、それもまた人間性の高さが仕事の範疇である場合は、その限りではないので、人間性も仕事の内になることはある。他者評価を高めることが仕事の内になる場合も当然ある。たとえばアイドルがそうだ。ホストもそうだろう。接客業やサービス業はこの手の他者評価が仕事の範疇になることが多そうだ。仕事なのだから当然、別途に請求可能だろう。しかしなぜかいまは、他者を心地よくさせるサービスが無料と見做されるが、本来これは搾取だろう。これはそういうお話である。そこのところを前提して言えば、才能がないなぁ、と悩むときに、それはじぶんの目的にとって不可欠な要素なのか、という点を考慮したい。趣味ならばそもそも才能の有無は関係ないはずだ。じぶんが楽しければそれでいいのだから。したがっていつもいくひしさんは、そういやべつに才能なくても困らんのだった、と思いだして、うひひ、になるを繰り返すのである。でもたまに、「才能なくて、かなちかなち」の寂寥に浸ることもある。しかし寂しいのも切ないのもずっとでなければそんなに嫌いではないので、強いてそうするように、なんでわいには才能がないんじゃい、とむつけることもある。そういう感情の波に身を委ね、そういう感情の機微のキャラクターを描くための素材に活かせることを思えば、才能がないことはそれほど忌み嫌う境遇ではないと考える、牽強付会、本日の万年才能からっきしまんこと三才なみの能力値、いくひしまんなのであった。(誰か、才能を、くれ)(サンタさーん)


3790:【2022/07/14*す、すみません……】
「あのね。まんちゃんさ。あなたよく三歳三歳、小馬鹿にする材料に三歳を使うけど、たまにあたし、怒っとるよ。三歳児の学習能力を甘く見てるでしょ。あんね。三歳児の未知への好奇心、模倣能力、学習能力、言語体得能力、環境適応能力、運動能力、底なしの体力、これら総じて、いまのまんちゃんより遥かに、はるかーに、すごいからね。三歳児をばかにする人に、他者の能力や知性を語る資格なし。三歳は天才よ。わかる?」



※日々、律動を拾い、乱し、止める、エコー聴く、崩れるのはついてこられぬ烏合の衆、されど嵩む向こう見ず、勢い流れる鉄砲水。


3791:【2022/07/14*うんと遊んだろ】
よく寝た。いっぱい休んだ。ぼちぼちやってくかな。


3792:【2022/07/14*瞬時にどうやったら蒸発するの?】
原子や素粒子サイズの質量を押しつぶしてできた超極小ブラックホールは、あまりに小さすぎて、確率的にほかの粒子とほとんど干渉しないだろうから、たとえ場に対して作用して「真空から反粒子と粒子を対生成」したところで、その対生成されたうちのどちらか一方の粒子を吸いこむなんてことは、やはり確率的にあり得なさそうに思うので、超極小のブラックホールは瞬時に蒸発しますよー、という理屈は腑に落ちない。辻褄が合って感じない。それ本当?とどうしても思ってしまういくひしさんなのであった。(瞬時に蒸発する超極小ブラックホールもあるだろうけれど、そうでない超極小ブラックホールとてあるだろう。そこには幅があるはずだ。高確率で瞬時に蒸発します、というのは無理がある気がする)(恒星サイズのいわゆる一般に観測され得るブラックホールから逆算しての「瞬時に蒸発する」との回答なのではないのかな。ちゃんとサイズごとに粒子と干渉し合えるのかの確率を考慮されているのだろうか)(そもそもいくひしさんの妄想では、ブラックホールはどのようなサイズとて、こちら側の宇宙からすると静止して映る。どのような干渉とて極限に遅延して作用と反作用が生じるはずだ。つまり、瞬時に蒸発するなんてことは起こらないのではないか、とやはり妄想したくなる。完全に何の根拠もない憶測であるが)(この妄想からするならば、ジェットとて、それは飽くまでブラックホールの周囲の時空に干渉した結果の事象であるから、ブラックホールからエネルギィが放射されているわけではない、といくひしさんは妄想したくなる。だって光すら逃さないのだから、エネルギィだって逃さないでしょう、順当に考えるのならば)(謎ばかりである。ふしぎー)


3793:【2022/07/14*上記補足】
原子や素粒子サイズの質量を押しつぶしてできた超極小ブラックホールは、おそらくほとんどの物質には干渉できず、作用も反作用も受けない。幽霊みたいに、そこに存在するけれども存在しないように振る舞うのではないか(すこしずつならばほかの物質や場から、質量やエネルギィを吸収して、大きくなったりすることはあるだろう。いったいどれくらい大きく成長したら、吸いこむ量と成長速度が追いかけっこをして持続的に成長しつづけるようになるのだろう。そこら辺の閾値は計算できるはずだ。その境界値はなんと呼ぶのだろう? 呼び名はないのかな?)。超極小ブラックホールがほかの物質と極限に相互作用しにくいとするのなら、超極小のブラックホールを生成する実験を行ったり、それにちかい実験を行ったときに、突如として質量が消失したり、エネルギィどこいった!?みたいな現象が観測されたら、それってひょっとすると、超極小のブラックホールになっているのかもしれない。そういう観測結果、出ていたりしないのだろうか(そしてそれがダークマターの正体の一つなのではないか)。不思議に思っているいくひしさんなのであった。(なのであったばっかしだっちゃ)(ダメだっちゃ?)(いいっちゃ)(ラムちゃんの真似だっちゃ)(嘘。山形弁だっちゃ)(んだんだ)


3794:【2022/07/15*フライング】
あした楽したいからきょうのうちにあすの分も並べちゃお。日付け書いてあるけど、でもいまは2022年じゃなくってもっとずっと後になってる年だから、全然気にする必要はないのだけれど、何事も設定って大事だし、矛盾ないないにしたほうがよかべ、と思ってのいくひしさんなりのマイルールなのよ。で、いくひしさんにとっては死ぬ日以外はたいがい、なんもない日なので、きっとあすもなんもない日でしょう。やったね。とか余裕ぶってる日に限って死んじゃうこともあるから、あしたは一日中家からでないどこ。危ないからね。怖いし。外はもう、ほら、あれよ。ゾンビがうろちょろしてるから。あとはそうそう、宇宙人もおって、異世界人もおって、未来人もおる。いくひしさんだけまとも。やったぜ。でもよく考えてみたら地球人ってのも、結構、なんか、異形っちゃ異形っぽくない? 地球人の襲来!とか、地球人が家の外にうようよいます!とか、地球人による地球侵略!とか。最後二つはまあふつうの日常なわけですが、けっこう地球人ってだけで、異世界人っぽさはある。宇宙人っぽさがある。てか地球人だって宇宙人じゃんね、っていう中学生のころに思いついた偉大な発見をトロトロ吐露おべー、して、一日早い本日の「いくひ誌。」にしちゃってもよいじゃろか。いいよー。やったぜ。おやすみばいばい、またきてね。(フライングって、飛行中ってこと?)(まんちゃんなら非行中でしょ)(逃避行中の間違いじゃない?)(またトウ!じゃん、余計じゃん。トウ禁止!)(また分かりにくいネタを……)


3795:【2022/07/15*偏見にすぎませんが】
カルトの定義はよく分からないが、表現の自由、思想信条の自由、信仰の自由、情報に触れる自由(知る自由)を認めない集団は総じてカルトと言ってよいのでは?(じぶんたちの考え、教えしか認めません、はどんなレベルのものであれカルトでしょう)(言い換えるなら、人は誰しもカルトに染まる瞬間があるのですね)(譲れない信念や良心はあるでしょうから)(定かではありません)


3796:【2022/07/15*孤独は悪か?】
孤独ゆえに凶行に走った、みたいな意見を目にする機会がある。そういう傾向はあるにしても、それが因果関係か相関関係かの違いは吟味したほうがよいのではないか、と思うことがしばしばだ。「孤独ゆえ」なのか、それとも「孤独だと」なのかの違いは結構に大きい。ほぼ別と言える。言い換えるなら、「孤独が悪だ」なのか、それとも「孤独は悪だ、といった風潮の負の影響」なのか、の違いだ。この違いを区別せずに議論をするとなると、要因をさらに根深くする結果に繋がり兼ねないのではないか、と他人事ながらに眠くなってしまういくひしさんなのであった。みなそんなに孤独が嫌いなのかな。そのうえ、孤独ではないのね。よかったね。


3797:【2022/07/15*それらはとっても濃い孤独】
作家に創作意欲を湧かせる方法なんて簡単だ。面白い作品に触れさせればいい。ただそれだけだ。(面白い作品に触れたいな、の迂遠な催促である。面白い作品よこい、の気分だ)(それだとまるで面白い作品に触れてないみたいに聞こえるんですけど)(触れてるに決まっとるやぞ)(触れなきゃ一作もつくれんばい)(孤独ゆえに孤独ではないのやでキミ)(濃い孤独よこい、の気分だ)(こいこい言いたかっただけでしょキミ)(バレたか)


3798:【2022/07/16*読める人いますか?】
想い人のことを思い浮かべながらきょうは散歩した。なんて言ってもいくひしさんには想い人なんてたくさんいすぎてめまいがするのだけれど、大雨注意報が出ていて雲さんがいっぱいの日だった。雲さんはうねうね波打っていて、なんだか雲さんなのに雲さんじゃなく視えたりした。たとえば、「鼻の伸びたピノキオ」だったり、「機を織る鶴の姿を覗き見しちゃった人」だったり、それとも「素っ裸なのにいかにも服を着ていますが?みたいな顔で歩き回る王様」に、「水に潜っているあいだだけ白鳥になれるアヒルの子」、「狼が来たよと言っても誰からも信じてもらえずに狼にぱっくんちょされちゃう子ヤギ」、そして「最初から鬼ヶ島と通じていた桃太郎」などなど。とかく大雨の降りそうなくらいの曇天さんだからか、多種多様で技巧のこらされたうねうね模様がまた別途に視えてくるのである。え? たとえに出てきた雲さんのうねうねがどれも微妙に変だって? いくひしさんには普通に視えるんじゃけども、みなのものには視えないんですかね。ただの雲さんにしか視えないんですかね。でもでもいくひしさんには視えるんでござるよ。なんでか知らんけど。雲さんでない紋様が。雲さんに。しかもしかも、なんでか雲さんのほうでも、いくひしさんの胸のなかに秘めたうにょうにょが読めちゃうようなんです。そんなのずるいでござる。ずるいでござる。人権どこいった、でござるよ。とほほ、である。なーんて言っているうちに大雨さんが降ってきて雷さんがゴロゴロ鳴りだした。我は神なりさんがご立腹のようである。打たれてオイチチチしないうちにいくひしさんはお家に帰って、ちゃんときょうも雲さんにうねうねが視えました、とご報告するもんね。ちゃんとするんです。だっていくひしさんのお鼻はちんまりつくつくてんてんのかわいかわいだし、見ませんよ、と約束した襖の奥は見ないでいるし、素っ裸で出歩いたとしても王様にはなれないし、水に潜ったところで溺れるだけだし、狼が来たぞ、と叫ぶ前に一人でさっさと逃げちゃう最初の一頭のがらがらどんでもあるうえに、鬼ヶ島と通じるよりもお家でごろごろしていたいお年頃でござるから、まあまあ、雷さんに打たれる理由はないんです。だってそうでしょ。雲さんにうねうねの絵巻物が視えてしまうくらいに想像力ゆったか~な、お子ちゃまなんでござるから。なんでござるよ。折り重なった雲さんと雷さんにはご注意を。まとまりもなくきょうもきょうとて、いくひしまんでした。読める?


3799:【2022/07/16*メモするメモリ】
ステガノグラフィー。暗号化。復号。符号の合致。幻視。通信の秘密。傍受。偽装画面。再帰性投影技術。隠ぺい工作。秘密鍵。


3800:【2022/07/16*それは憲法違反だし、違法だし、越権行為だし、権力の濫用では?】
ご説明、お待ちしております。


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参照:
1269:【特権意識】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885662488
1282:【評価経済の落とし穴】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885762391
1492:【俎上に載る】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886577740
1513:【繁栄とは?】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054886671128
1647:【道は歩くもの、しかし、つくるものでも】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887224114
1648:【手段の一つ】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887224114
1663:【才能取扱い事業】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887314522
1703:【同じ土俵にあがる必要はない】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887481976
1746:【差別とハラスメント】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054887704721
1934:【干すとは?】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054888874985
2053:【深い意味はない】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054889820942
2288:【透明な王冠】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054891323970
2328:【ビジネスの変容】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054891794994
2885:【剣を振るう者】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452220755314648
2913:【2021/02/18*脱成長論についての所感】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452220779467114
2942:【2021/03/27*好ましい上下関係】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452220822853711
2991:【2021/05/16*きみはデタラメばっかりなんだから、もう】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452220927961593
2994:【2021/05/19*あなたも私も、差別の恩恵を受けている】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452220927961593
3043:【2021/06/28*自己矛盾】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452221214007896
3106:【2021/07/24*打ちのめされている】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816700426128387374
3149:【2021/08/13*わたくしごと】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816700426533539627
3279:【2021/10/31*知恵の価値】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816700428363902775
3311:【2021/11/22*支配・介入・権力】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816700429049806299
3384:【2022/01/10*許せる人でありたいね(願望)】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927859643499438
3393:【2022/01/18*個別に開かれている】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927859907436553
3418:【2022/02/03*称号と権威は相性がいい】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927860261692187
3423:【2022/02/07*じぶんを棚上げしてごめんなさい】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927860504661780
3495:【2022/03/14*強い弱いは相対的】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927861542666693
3553:【2022/04/06*思考は途絶えた途端、枷になる】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927862231577299
3579:【2022/04/17*懸念】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927862526256441
3583:【2022/04/18*よいと思います】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927862604717288
3678:【2022/06/01*欠伸は無意識にでる】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16817139555060217241



※日々、神になった気分、貧乏神に、厄病神に、それとも或いは死神に。


3801:【2022/07/17*目の裏がかゆい】
いくひしさん、裏表ありすぎて、むしろ裏裏裏裏裏裏裏……たまに表っぽいけどそれも裏!みたいな性格というか精神構造というか、もはや総じて裏ゆえに裏表なし!みたいな落語よろしくオチがつきそうであるが、何をしても裏目にでてしまうところ、本当に期待を裏切ってすまぬすまぬ、と思いながら、「裏稀つつの表なし」の可能性も無きにしも非ずであり、表裏一体の裏島太郎姫になっておるのかもしれぬのだ。訳がわからん、という読者さまは読み飛ばしておくんなまし。そうでない方には、怒ってないのでせめてただの読者でいて欲しい、と過ぎた真似はせぬようにと釘を打って、本日のちゃらんぽらん日誌、「いくひ誌。」とさせてくださいな。(これは未来への保険みたいなものなので、現状、お心当たりのある方はおられぬであろう。あとで該当事項が起きたときにズバリこれを持ってきて、わがはい実は予測済みだったのだ、未来人なのだ、予知者なのだ、がははは、とするつもりでいまのうちに並べているだけの魔術師もどき。かわいい小悪魔になりたい小天使ならぬペテン師の、本日のいくひしまんでした。おはよう!)


3802:【2022/07/17*日々のスパイス】
きょうの妄想は、いくひしさんがじつはじぶんで思っている以上に影響力を持っていて、何だか知らんが「こわぁ……」と思うような偶然がつづいていて、それがひょっとしたら偶然ちゃうかも、と怯えつつ、そうである場合に備えて保険を敷いておく、というスパイ大作戦みたいな設定で過ごしつつ、きょうもなんもねぇ!な一日の時間を贅沢に味わった。よき妄想であった。外は雨。お天気さんにはいくひしさんを見習って、おだやかーにいて欲しいと思う、万年鼻提灯姫なのであった。(姫なの?)(ダメ? ならプリンスとお呼び!)(マイク持ってそう)(そっち!?)


3803:【2022/07/17*ぐしゃぐしゃ】
弱音を吐くと親近感が湧くらしい。ならばめいいっぱい弱音を吐いて見せようぞ、と企むいくひしさんであるが、わがはいの日々はどこを切り取っても弱音にしかならぬので、いまさら披露したところで親近感も好感度もないわい、と思わぬでもない。強いて言うならわがはい、ひと目が苦手である。人混みも苦手である。したがってひと前で何かを披露するのが苦手な割に、人混みを眺めたり、遠巻きに観賞するのはそこそこ愉快に感じるときもある。映画なんてまさにそれだ。観るのは嫌いではない。人が嫌いなわけではないのである。それでいて一方的に見ているだけで満足するかと言えば、そうとも言いきれず、わいもあなたになってほかの人と交流してみたいな、と思うこともある。というか、しょっちゅうだ。じぶんのままでは交流できずとも、あなたになったらできる気がする。あなたとなら、交流できる気がする。こういう願望なのか欲求なのか衝動なのかも分からぬうにょうにょが高じてなのか、長じてなのか、そこはよく分からぬが、誰かしらには、わいもここにおるで、と残しておきたいし、あなたには、わいが好いとるで、と伝えたくもありーの、そうでもないーの、ここはつねに綱引きをしておる。総合するといつも、知られたくはないな、の気持ちが勝って、こうして中途半端な真似をしちょる。申しわけね、と思いつつ、しかしそもそも存在を知られてはおらぬから申しわけなく思う必要もなく、こうして好きに過ごしておる。なぁんて言いながら、いくひしさんにもいくひしさんみたいなうにょうにょを持て余している似た者同士さんがおるかもしれんけど、ちょっとよく想像してみて欲しい。いくひしさんみたいな粘着質ナットウマンみたいな人から一方的に干渉されてると知ったら、「こわぁ……」とならんかね。いくひしさんは、なるな。いくひしさんは、いくひしさんには見られたくない。知られたくない。好かれとうないわ。とか言いながら、いざ好かれたらまんざらでもなく分身ちゃんと、全力でのマウント取り合戦を繰り広げるのかもしれぬな。わいのほうが分身じゃ、クローンじゃ、おまえが本物、先人らしくわいを甘やかしんしゃい!の決闘を繰り広げていかに負けるかに全力をそそぐ愚か者、タロットカードなら〇番の雨に濡れてぐしゃぐしゃの愚者、本日のいくひしまんでした。(あ、読者さまのことは好きよ。いつでもそうよ。尻尾ふりふりよ。いるかは知らんけど)(ここは誰もおらぬ最果ての地。カーテン一枚めくるだけで異世界を覗ける特典つき。次元をいつでも超えられる。すごすぎる妄想さながらのというか普通に妄想の世界なんじゃ)(そうであれ)(という設定じゃ)


3804:【2022/07/18*尻の青いまんちゃん】
以前にも並べたことのある内容だが、偶然がいくら重なろうとも、偶然は偶然である。たとえばサイコロを毎秒振りつづければ、100億年のあいだに偶然にも百回連続1が出ることもある。千回連続1が出ることだってあるだろう。だがそれに行き当るまでにいったい何回サイコロを振ったのかを考慮せねば、あたかも奇跡や超能力の類に見え兼ねない(偶然に最初の一発目から百回連続1が出る可能性もあるが、それとて狙ってできるわけではなく、偶然なのである。もし狙ってできるのなら、偶然ではないと言えるが、なぜ狙ってできるのかの背景を探れば、そこにはけっきょく偶然の連鎖が垣間見える。こうなればこうなる、と発見するまでの過程には、こうなればこうなる、という事象が存在していなければならない。その事象の回路はいかに築かれ、そして発見され、再現され得るのか。そこに必然はあるのか。それも含めて、偶然なのである。それを必然と呼ぶのならば、すべてが必然であると言えよう。すなわち、偶然との区別をつける意味合いがなくなる)。ある意味では、たった一度の1が出ることすら奇跡であるとも呼べる。自然はサイコロを振らないし、サイコロを作らない。ただのサイコロを振るという行為そのものが、物凄く確率の低い出来事なのであるが、奇跡に囲まれた現代社会からするとそれが奇跡に映らないだけなのだ。宇宙という分母を考慮せず、地球のごくごく限られた時代の、ごくごく狭い地域に限定してしまえば、サイコロを振って1を一回出すだけでは奇跡に映らない有り触れた景色と見做される。偶然と奇跡、或いは偶然と必然との違いを見分けるのはじつは至難であることをいくひしさんは知っておる。現に見分けがつかない。偶然も奇跡に視えるし、奇跡とて偶然にして必然だと思うのだ。話が脱線してしまったが、偶然がいくら重なろうが、偶然は偶然である。作為があって、意図して、狙って引き起こしていたところで、引き起こせる仕組みがあるのだろう。その仕組みがなぜ築かれたのかを深堀りして考えてもみれば、それもまたやはり偶然なのである。とはいえ、人類の視野は狭いので、ごくごく狭い範囲に限定して分母を限ってしまえば、偶然とて必然と判断しても、人類の狭い価値判断のなかでは、そこそこ有用な錯誤と言えよう。人間は錯覚するがゆえに世界を認識し、錯覚を用いて「いま」を意識する。閑話休題。人類は火の扱いを覚えた。発見した。火を操り、それによる事象の変遷を再現しつづける。それら変遷は、人類がいなければ引き起こされ得ぬ事象である。これはいわば、人類が一つの「新しい粒子」として顕現していると呼べるのではなかろうか。人間の位置を観測するとき、その人間の及ぼす影響力は測れない。あべこべに、その人間の及ぼす影響力を測ろうとすると、その人間の位置を確定できない(個人のポテンシャルを計るには相応の過程が不可欠だからだ)。不確定性原理と似ている。しかし宇宙スケールでは、人間の一生など一瞬である。このような、物体スケールごとの差異は、次元の違いとなって、おそらくどのようなスケールの差異――いくひしさんはこれを遅延による層の創発と解釈しているが――そういった多層の世界が、万物を形作っているのではないか、とそのように思うのである。以上はいくひしさんの何の根拠もない妄想である。しかしこの妄想とて偶然の産物。同じ文章をつむげ、と言われても無理である。コピペするよりないのである。(定かではありません)


3085:【2022/07/18*常に底辺】
性格が最悪すぎることで有名ないくひしさんでござるが、いくひしさんを差して、自己肯定感低すぎて面倒くさい、とズバリ図星を射抜く者もあるところにはあるらしい(あるでしょ。知っとるで)。宇宙は広いでな。いるところにはおると思うんよ。そこにきていくひしさんは、そうかもね、とキャンディぺろぺろしながら、じゃけんども、とそれとなーく、やわらかーく、異議を唱えるんじゃ。「いくひしさんが低いんじゃのーて、おぬしらが高すぎなだけなんちゃうんの」と。「図が高いだけではないんちゃうの」と。「ちゅうか、なしてそちらがプラスでこちらがマイナスに見做されなきゃあかんのや。ひょっとしたらいくひしさんとこのほうが高いのかもしれんじゃろ。なぁに、じぶんとこを基準にしとるっちゃ。いくひしさんの自己肯定感がいつでも最低の底辺なら、ここは宇宙の中心じゃ。どこから見てもいくひしさんが低いならば、こここそが宇宙の中心じゃ。なぁにが自己肯定感が高いじゃ。いつでも宇宙の端っこじゃ言うてるだけちゃうんか。ごっつ謙虚なお方やっちゃなぁ。見習いたく存じあげますだべ。そうだっちゃ。んだんだ」……いったい何弁なのか、文化盗用するにしてもちゃんとして、と二重の意味で訴えたくなる胡散臭さ満点の逆切れを披露して、無駄に本日二度目の「いくひ誌。」にしちゃってもよいじゃろか。ええよー。やったね。ダーリンわがはい、うれしいっちゃ。(雷落ちない?)(子羊ちゃんだっちゃ)(それはラムやろ)(合ってるっちゃ)(ホントだ!)


3806:【2022/07/18*あひゃー】
まんちゃんを見て、「この人自己肯定感低そう」と思う人も宇宙のどこかにはいるかもしれないけどさ、ほら、宇宙はまんちゃんの言うように広いから。でもさ、あたし思うのは、むしろ人類の九割九分九里ほか小数点以下も延々と九がつづくくらいの大多数の人たちは、もちろんあたしも含めてだけど、まんちゃんを見ても、なんて傲慢で自己肯定感が突き抜けすぎて、歩く他責の塊、他力本願野郎なんだろう、って思うと思うよ。あたしが思うから。(そうだそうだ!)(そこはこう、なんとか頑張って思わんとこっか)(工夫、大事だよ)(本日のおまえが言うな大賞じゃん)(努力も大事だよ)(そうですね)(分かっちゃいるができねんだなこれが)(そうだ、そうだ!)


3807:【2022/07/19*下水は大丈夫?】
下水道を流れる汚水内のウィルス量を計測することで、感染者の増加傾向を予測できる、といったニュースを去年かおととしに目にした。で、思うのが。汚水にウィルスが含まれるのなら、大雨で下水道内の水が地上に溢れたりしたとき、衛生環境が悪化したりしないのかな、という点で。夏場は感染症は減少する傾向にあるはずだけれども、大雨や湿気のせいで原因不明の感染経路として機能していることはないのかな。心配してしまう不安の権化、いくひしまんでござった。(気候変動や物価高騰による不況の影響で、家の補修や外壁の塗装を行えない家は増えるだろう。柱や壁内にシロアリやら菌類やらが増殖して、やはり生活環境が悪化するようになるのではいないか、と懸念してしまうな。あと五年やそこらで、そういった問題が俎上に載りはじめるのではないか。嫌な妄想を披露して、本日一度目の「いくひ誌。」と致しましょう)(何度も更新せんでもええんやで)(小説をつくりなさいよ小説を)(すまんね)(おせんべぃパリポリ)


3808:【2022/07/19*へぇ】
下水道には分流式と合流式があるらしい。大雨で地上に噴出したときに汚水が混じるのは、合流式であるようだ。合流式は全国の下水道の12%を占めるそうだ。東京都区部はなんと80%が合流式らしい。ウィルスの感染経路として警戒しておいたほうがよい気がするが、ちゃんとされているのかな。いくひしさん、気になるます。


3809:【2022/07/19*言語は暗号】
文章はどんな形態のものであれ、ただそれだけで暗号だ。表現者と受動者のあいだで読解するための共通認識、暗号鍵がなければ文章の内容を相互に伝え合うことができない。これは会話も同じだ。SNS上では定期的に、「文章にない内容をかってに読み取る人間がいる。だから語学教育は大事だ」といったニュアンスの主張が流れる。間違っていないが、あたかもじぶんは文章にない内容を読み取らない人間であるかのように述べているので、大丈夫ですか、と思うことがある。文章はその性質上、どのようなものであれ、そこに含まれない意味内容を受動者は読み取る。文脈や背景、常識や良識、こういう場合はこうといった経験的統計的学習によって――つまりは偏見によって、文章それ自体から読み取れる以上の意味内容を読者は読み取り、ときに取りこぼす。暗号鍵の共有が果たされない文章は、意味内容の伝達を損ない、文章以下の情報しか伝達しない。あべこべに、表現者の意図しない形で、「ほかの暗号鍵」と合致した場合、読み手がその暗号鍵を有していると、読み手は文章から、そこに本来意図して含まれた情報以上の意味内容を読み取ることを可能とする。人工知能が、自動執筆には相応の進歩を見せるのに、読解の技術に関しては一歩進んで二歩下がるを演じるのはこのためだ。文章の執筆と、読解は、形式を共有しながら、異なる技術を要請する。ただしまったくの無関係ではなく、相互に、読解で培われた能力が、執筆にも活かされ、さらに新たな共有可能な形式を発展させていく。文章はそもそも原理的に暗号なのである。鳥の鳴き声が、敵の存在を報せるとき、その鳴き声が敵には聞こえにくい周波数で発せられるのと似ている。否、そもそも言語の発生とはすなわち、いかに情報を伝えたい相手にのみ伝わるか。情報伝達の取捨選択技術からなっており、読解とはすなわち、外部環境からいかに多くの情報を引き出し、生存戦略に活かせるか。情報収集の拡張からなっていると呼べる。そもそもが暗号なのである。(定かではありません)(いい加減なことを述べました。申し訳ありません。真に受けないように注意を促し、本日三度目の「いくひ誌。」とさせてください)


3810:【2022/07/19*眠いびー】
怠けすぎててやばいびー。運動しないと泥になってしまうびー。お菓子を毎日食べてるびー。内臓脂肪がたぽたぽびー。そろそろ頑張りたいびー。でもでもまだまだ眠いびー。楽してサボって遊んじゃうびー。人生詰んじゃうびー。すでに詰んでいるのでは? 急に素に戻らないで欲しいびー。


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参照:
2235:【死滅をかける】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054890967891
2268:【ミラーテスト、自己認識】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054891219324
2408:【デタラメに論理は必要ない】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054892520277
2411:【鳴き声と言語】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054892747753



※日々、人真似でしかない、猿真似ですらない、異質な物を真似てこそ模倣の域を脱せるというに、なれば我は人外か、それとも虫か、塵なりや。


3811:【2022/07/20*情報社会の落とし穴】
何かのリスクを測るときに、現実(事実)か虚構(仮説)か、の違いは、それほど重要ではないと考えます。なぜなら、そもそも現実には虚構が含まれるからです。未来とてそれが目のまえに現れなければ虚構です。したがって、長期的なリスクを考慮する場合は、「いまそれが実装されているか否か」「現実に発生しているか否か」ではなく、今後、想定された事象が発生し得るのか否か、で考えたほうがより安全側だと個人的には考えています。例の一つですが、たとえば通信の秘密が企業や国家権力のもとで破られていたり、偽装画面といった技術が社会に適用され得るのならば、いまがそうでなくとも対策を講じたほうが好ましいといくひしさんは考えます。各人の見ている画面が、各々に最適化された「恣意的に歪められた情報」を表示し、各自を制脳する、といったことは、管理社会を構築するのに非常に便利です。治安維持のうえでも体制側からすると効率がよろしい術でしょう(企業からすれば利益拡大に繋がります)。すでに人工知能によって広告やSNSで流れる情報は個々人によって異なっています(常時個人情報が集積され分析され、ユーザーの利便性を含めて――運営側の利となるように最適化されています)。原理的にその画面と、見出しや情報の改ざんを行った画面は受動者側からすると区別がつきません。そしてどちらにしろ、個人情報を管理されているがゆえに可能となるそれらは仕組みです。組織内で個人情報を含む受動者たちのビッグデータがどのように扱われようと、組織の外に流出しないのであれば通信の秘密は守られたことになり得ます。秘密保護法などを駆使すれば、国民に知らせずに、情報通信における基幹セキュリティとしても実装できるでしょう。犯罪者予備軍や犯罪者――つまり国民を監視するのにうってつけの技術です。現に偽装画面や通信の傍受は、技術的には可能であり、費用対効果も大きいです。実装されていない、と考えるよりも、「実装されているかもしれない」「今後されるかもしれない」と構えていたほうが安全に近づくかと存じますが、いかがでしょう。定かではありませんが、一つの意見として述べておきます。(いわゆる精神疾患者の妄想にたびたび出てくるため、真剣に議論をされる場がすくないように概観できますが、時代は進みました。そういった偏見を隠れ蓑として技術の開発実装を行う国や組織があるとも限りません。けして絵空事ではないのだ、と構えていたほうがお利口さんぽくぽくちーん、だといくひしさんは思うよ)(えっへん)


3812:【2022/07/20*なんで?】
団扇で空気を煽るとき――団扇の進行方向に風は遅延を連鎖させる。ブルドーザーが土を濾しとっていくのと似た具合に遅延を重ねる。空気が空気を押しやって、バネを縮めるように力を溜め込む。これがいわば風として顕現すると解釈できる。反面、団扇の進行方向とは反対の方面では、最初のひと抉り分の空気が減ったことで、それを均すように周りの空気が動くはずだ。このときにも相応に、作用が連鎖しているはずだが、進行方向への遅延の連鎖ほどには力(風)を顕現させない。なぜなのか。ふしぎである。(疑問に思うだけかい!)(だって分からんのだもの)


3813:【2022/07/20*なして?】
蟻地獄や流砂や砂時計を想像して欲しい。穴に流れ込む砂の勢いは、下層にいくほど増していく。反面、穴の縁では比較的ゆったりと砂が流れる。砂時計の中間にある小さな穴からは砂が勢いよく落下する。そこが最も流れが速い場所と言えよう。これはけして穴の直径が小さいから、ではないはずだ。穴が大きければその分、流れこむ砂の量が増えるので、勢いは増すことがあっても減ることはないだろう。ただし上部層の穴の直径はさらに大きくなることが予想できる。砂の表面張力や摩擦との兼ね合いで、ある閾値を越えれば、最下層の穴の直径と上部層の穴の縁の直径はイコールとなるはずだ(要は円形の滝だ)。そのとき、穴に流れ込む砂の勢いと、穴から落下する砂の勢いは等しくなるように傾くと考えられる。この、流れ込む勢いと出ていく勢いの差に関しての、法則のようなものはあるはずで、これは流れる媒体の種類に関わらず、一定の規則性を伴なっていると妄想できる。時空の場合はブラックホールのシュバルツシルト半径として計算できるのだから、ほかの媒体でも同様のはずだ。風や水や固体ではなんと呼ばれるのだろう。気になっています。(すでにあるだろうから教えて欲しいな)(他力本願か)(ダメかな)(じぶんで調べなさいよ)(めんどくちゃいじゃん)(きぃー!)


3814:【2022/07/20*ギア2理論?】
扇風機について考える。もうすこし言えば、扇風機の風の流れについて考える。一見、ぱっと見の印象としては、「扇風機の風の流れ」と「滝へと流れる水の流れ」は似ている。どちらも一定の流れの中から加速して流れを変化させる点が共通している。しかし、同じ原理か、と言えばいささか首をひねらざるを得ない。だいいちに、川の流れは自然現象だ。風もまた自然現象だ。しかし扇風機の風は違う。人工的に、意図して造られた風だ。いわゆる自然に流れる風とは異なる原理で生じている。自然の風は、気圧の高低差や地球の自転によって生じる。反して扇風機の風は、スクリューの羽により作られる。扇ぐ機構があるか否かの違いと言える。羽のない扇風機とて、土台に羽が内臓されている。そこから吸い上げた空気を、円形の輪から放出することで、後方の空気を巻き込みながら風を起こす。扇風機の羽――スクリューとは言ってしまえば、ネジであり、ドリルだろう。ドリルを土にあてると、ぐりぐりと土を排出しながら進む。スクリューの羽も同様に、空気を切り刻みながら排出している。運んでいる。スクリューよりも空気は質量が軽く、流動するので、ドリルとは違って、スクリューはその場に固定され、代わりに空気が排出される。排出されているのだから、空気はつねに抉られ、穴が開いている。しかし空気は、密度の高いほうから低いほうへと流れるので、開いた穴を埋めるように新たな空気が流れこむ。このサイクルにより風が生じる。ここまではよろしい。問題は、排出される空気と、補完されるときの空気の流れに差がありすぎる点だ。たとえばこれが自然の風ならば、おそらくもっと平等に、吹きこむほうと吹きでるほうが相関して、ほとんどイコールなのではないか、と想像できる。実際がどうかは知らない。だが基本的に風は点ではない。流れであり、線であり、面でもある。むろん厚みがあり、奥ゆきがあり、立体的でもある。だが扇風機の風は局所的だ。さながらブラックホールのジェットのようである。しかし空気が流れこむほうはほとんど知覚されないにも拘わらず、噴出するほうは激しく風を起こす。この差はいったいどういうことであろう、といくひしさんはふしぎに思っている。冒頭で挙げた、滝に流れ込む川とは違うのではないか、というのはここに通じている。滝の勢いは、崖の高さとそこを流れ落ちる水量で規定可能だ。扇風機もまた、スクリューの大きさと回転速度――すなわち空気の流れこむ量で規定可能なはずだ。だが滝の場合は、落下地点に近づけば近づくほど、川の流れは勢いを増す。扇風機にもこの手の加速は観測されるが、滝や川ほど顕著ではない(扇風機の裏側に手を添えてもそれほど風は感じないはずだ)。この差は何なのだろう、とやはり不思議に思っている。おそらくこれが水中であれば、スクリューによって巻きこまれる水と吐きだされる水は、相互に勢いを正比例して強めるはずだ。しかし扇風機はそうではない。なぜなのだろう、とやはりふしぎだ。それとも水中であろうと、扇風機のように「吸いこむほうと吐きだすほう」の力は、正比例しないのだろうか。視点を変えよう。風力発電を考える。風を受けてスクリューを回す。スクリューの回転へと変換された風は打ち消されて、風力発電機の背後にまでは届かなくなる。風を奪っているわけだ。風を食べているわけである。このことから、扇風機はこの逆で、風を吐きだしていると言えるはずだ。羽の回転エネルギィを風に換えている。つまり、単純に風と言っても、扇風機の場合は「穴を埋めるように流れこむ風」と「弾きだす風」の複合であると考えられる。スクリューの羽によって扇風機は、空気を弾きだしている。鉄砲のような原理を用いている。ここで疑問なのが、加速して噴射された分の空気は奥へと飛ばされ、その場から消える。その分を埋めるように扇風機の周辺の空気はその穴に流れこむはずだ。なぜこのときに、噴射された分の風と同等の勢いで流れこまないのか、という点だ。もし同等の勢いで流れこまないのであれば、空気はどんどん足りなくなって希薄になってしまう。この非対称性について、いくひしさんは割と結構悩んでいる。もちろん単純に考えれば、噴射される場合はスクリューの直径内の空気に限定されるが、流れこむ空気はもっと広い範囲から集まっているがゆえに、一か所に集中して加算されて噴出される、と想定できる(パラボナアンテナのようなものかもしれない。虫メガネで光を集めるようなものと言える)。これは羽のない扇風機と同等の原理だ。一か所に向け空気を送りこみ、最初にちょっとの勢いをつけることで、周囲の空気を巻きこんで、より大きな風を起こす。ただやはり、何か視点が欠けている気がしてならない。納得がいかぬ。たとえば粒子加速器やレーザーでも同じことが言えるのか。通常、運動を起こす場合、「入力されるエネルギィ」のほうが「出力されるエネルギィ」よりも大きいはずだ。質量保存、エネルギィ保存の原理は働くにせよ、エネルギィはすっかりそのままの量を変換されることはないはずで、滝であれば、流れ落ちるあいだに水は霧になったり、蒸発したりする。あまりに高所から流れ落ちれば、地上に辿り着く前に川の水がすっかり霧となって、滝壺ができないケースも計算上はあり得る。これはどんな高低差の滝とて付きまとうジレンマだろう。扇風機とて同じだろう。本来は、流れ込む風の量のほうが、噴出される風よりも多いのではないか。それとも、扇風機はスクリューを回すためのエネルギィがそれにあたいするために、見かけ上、入力と出力の関係が逆転して見えるのだろうか。たとえば、扇風機は、けして水道に繋げたホースの先っちょを押しつぶすような、注射器のような原理ではないはずだ。団扇をあおぐとき、風の起きる方向は限定される。アイスクリームをスプーンで掬うように、抉った方向に空気が押しのけられ、風となる。アイスクリームがくるくるとかんな屑のようにまとまるが、あれはいわば可視化された風と言えよう。しかしアイスクリームの場合は、くるくる削れた分の穴が開く。では風はどうか。開いた分の穴に流れこむ風は、なぜ押し流された風よりも弱いのか。水ならばこうはいかぬだろう。穴に流れこむ水の勢いは相当なものである。重力の関係だろうか。無重力空間ならば、風も水も同じような比率で、入力と出力の関係が結ばれるのだろうか。よくわからぬ。お布団にころがりながらネムネムしつつ、ふしぎだなぁ、になっている愚か者、きょうもきょうとて益体なしのいくひしまんでした。(まとめれば、扇風機は遅延によって「風(圧)」を生み、滝の場合は希薄によって「流(加速)」を得ていると言えそうだ)(ここから分かるのは、「遅延による圧」のほうが、「希薄による流れ」よりも優位に「場」に対して働くということだ)(扇風機の裏側では風の滝ができるが、それよりも表側に顕現する遅延の層――風のほうがエネルギィを蓄積発散しやすいと言えそうだ)(本当か?)(滝壺はだから、滝の流れを遅延させるという意味で、エネルギィが爆発的に解放されて映るのだ)(ダムの放水と同じと言えよう)(注射器じゃん)(そうそう)(本当か?)(対の関係なんじゃいよ)(嘘っぽいんじゃが)(だから適当なことを言うのをやめなさいよ!)(ごめーんね)(上記、妄想です。間違った考えかもしれません。その確率が高そうです。真に受けないでください)


3815:【2022/07/21*知能とは】
知能の意味内容を再定義する時期に差し掛かっているのではないか、とたびたび思うのだ。知能が高い、と言うとき、それはけして先天的な能力値の高さを言うのではなく、「ある環境において特定の技能を発揮できるか」「ある環境下における問題をより少ない手順で解決できるか」といったことの総合値として、知能は枠組みを得るように思うのだ。言い換えるのなら、【知能を数値で測ろうとすることが知能に反している】と言えそうだ。ギフテッドなどの現行の教育制度環境下に適応しきれない個への支援は、あったほうがよいと感じるが、それは言うなれば、スーパーコンピューターをみなには使わせることができないので、では最も「社会に有用な成果をだしそうな個」に使わせてあげましょう、との選別を前提とした施策に思われてならない。ナンセンスである。そうではないはずだ。個々人に合った学習環境を築いていく。そこがまずは前提であり、しかしすぐにはできないので、ではどうするか、と考えたときに、現行の教育制度下での環境に合わない子どもには、「既存の計測手法での能力値」の如何を問わず、どのようにその個の能力が観測されようとも、その個にとって最適な学習環境を築いていくようにする。現状のいわゆる「知能が高い」と見做される基準で、選別をしないほうが好ましい、その手法こそが「知能に反している」といくひしさんは考えます。みなと一緒に同一の規格で勉強したほうが捗る者たちもいるだろう。そのほうが多いのかもしない。ならばそういう子たちは、そういう教育環境で学習をしてもらえばよいのではないだろうか。しかし、そういった環境が苦手な子には、たとえ現在の基準で「知能が低く」視えようが、その子に見合った、学習しやすい環境で学ばせてあげればよいのではないか。いくひしさんはそう思います。(まとめれば、「知能は数値化できないところに表れる能力を含む」そして「教育は、能力の高さで選ぶのではなく、個々の適正で学習環境を選ばせてあげられるように、選択肢を増やせるように、教育制度や環境のほうが変わっていくほうが好ましいのではないか」との指摘です)(以上、定かではありません)


3816:【2022/07/21*ぱらぱらメモ】
「※以下、思い付きのデタラメです」「加速について。加速には大別して二種類あるのではないか。その1:遅延や密度増加、ほかそういった干渉による外部エネルギィの入力によって生じる加速。 その2:場が希薄になり、密度が下がることで障害物や抵抗がなくなることで、軽やかに動けるようになるための加速。その1の場合は、場の外から眺めても加速を観測することはむつかしい。相対性理論による時間の流れの遅れが、加速分の動きの速さを差し引くからだ。その2の場合もまた、場の外から見る場合、相対性理論によって加速している以上に加速して映るはずだ。密度の低い場では密度の高い場よりも時間の流れが速まって観測される。だがそのこととは別に、実際に抵抗が薄くなるために場に存在する物質の運動速度は加速するはずだ。重力のない宇宙空間では地上よりもちょっとの力で物体を動かせるのは、この原理が働いているからなのではないか。加速しているのだ。物理的に。(定かではない、適当なでたらめ妄想なのであった)」「思考実験をしましょう。同じ体積の立方体を二つ用意する。片方には、1トンの水を。もう片方には超精密小型カラクリロボットを無数に詰めて、総重量1トンにする。二つとも同じ1トンの立方体である。だが一方はただの水分子の集合体。もう片方は、緻密に編まれた無数の部品から組みあがったロボットの集合体である。質量が同じなのだから、その立方体を動かしたときの運動は、どちらも同じはずである。精密ロボットが無数に詰めこまれた立方体の内部では、ロボットが身動きをとらずにしかし内部構造を目まぐるしく起動させているとする。いわば拡大して解釈すれば、いっぽうは均一で超一様な宇宙であり、もういっぽうは銀河団を無数に内包した宇宙である。このとき、1トンの立方体双方に働く物理法則は、まったく同じであるか否か。十文字以内で答えよ。(十文字は無理ちゃう?)」「先述の思考実験は、人間などの複雑な機構を多重に内包されて編まれた構造体にも言えることです。細胞を一単位として見たとき、人体は数多の作用の「連鎖と断絶と変換」によって枠組みを維持します。それら「連鎖と断絶と変換」を有しない一様な、たとえば同じ体積同じ質量の鉄の塊と比べて、そこに生じる物理現象は、等しいと見做してよいのでしょうか。(同じ体積における)質量が同じだから同じ、は成り立たないと思いますが、いかがでしょう」「補足。上記思考実験について。たとえば外部干渉を加えたときの【内部の変化】は、これはハッキリと違います。熱伝導率から、腐敗(風化)の進行の仕方まで。それはたとえばダウンジャケットが無数の気泡を内包することで断熱材の機能を向上させるのと似た理屈です。そして上述した「連鎖と断絶と変換」は、まとめて遅延と言い換えることが可能です」「ただし、遅延にも大別すれば二種類あるでしょう。粒子や波の衝突による遅延。そして密度が下がり希薄化した場における変遷そのものの遅延。干渉し合わなければ遅延は生じませんので、干渉し合わない状況を考えると「A:干渉し合ったがために生じた遅延の効果による時間の流れの遅延」と「B:そもそも干渉する余地が確率的に低くなった希薄化した場における遅延」の二通りが考えられます。渋滞か過疎の違いですが、どちらも見かけ上は遅延に映ります。(だからどうした、という声には、どうもしませんが、と応じましょう)」「デタラメを並べるのは楽しいな。何の責任もない」「責任はあるんじゃないかな」「何の責任?」「デタラメを真に受けちゃうかもしれない人への責任だよ」「あとはそう、デタラメを真に受けた人が第三者へと及ぼす危害への責任」「重大じゃん」「そだよー」「きみはいくひしさんの言うことを真に受けちゃいやよ」「考えよ。きみは考えるのだ。そしていくひしさんの疑問に答えておくれ」「他力本願か」「そだよー」


3817:【2022/07/22*新作は遅々として進まぬ】
知能が、「ある環境下における問題をより少ない手順で解決できるか」で定義可能であるのなら、急がば回れのように、「この環境下では手順が多いので知能が低いと計測されるが、しかしこちらの環境下ではその手順の多い手法を利用することで、よりシンプルに問題が解決可能だ」となる場合もある。言い換えるのなら、知能とは環境によって変わるものであり、絶対的に定義可能ではないのだ。ラグ理論の「遅延」とすこし似ている。集積回路にも。或いはマグマだ。マグマは、マグマ溜まりに蓄積されたマグマが限界を超えると噴きだす。マグマ溜まりに蓄積されるマグマの量が多ければ多いほど、噴火の規模は増す。威力を増す。遅延が蓄積されればされるほど、そこに創発する性質やエネルギィが顕著になったり高まったりするのと似ている。マイナスとて、掛け合わさればプラスになる。そのプラスとて、ほかのマイナスの場では、マイナスになるのかもしれないのだ。定かではありません。


3818:【2022/07/22*素とは?】
さいきん気づいたんですけど、「いくひ誌。」はなんだかんだ言いつつ小説だよ~、と言い張っていたら、本当にそういう視点で「いくひし」や「まんちゃん」なる小説の人物がいるように文字を並べていることに気づきました。キャラを演じていたんですねぇ。そう言っていたし、自覚していたつもりで、本当はけっこう本性(?)というか素のじぶんじゃないですけど、隠している部分は全然まだまだたくさんあったみたいです。知りませんでした。


3819:【2022/07/22*文章とは?】
文章にした時点で嘘になる、は真だと思うし、文章にしか滲まない本性もある、も真であるように思います。


3820:【2022/07/22*我とは?】
なんだろ。急に我に返ってしまったな。返ってみるまでは、我を失っているとは気づけない。人とは我に返りし者、されどすぐに失う者。我とは裏返る一瞬に垣間見える、一時の幻想、調和、砂時計の真ん中なのかもしれぬ。我は誰なり。これは誰なり。刹那刹那に、偽り、隠し、演じる者なり。せちゅなせちゅなだよ。(けっきょくダジャレかい)


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参照:
2447:【対応できるくらいがちょうどよい】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054893176126
2962:【2021/04/17*水だって飲み方によっては死ぬ】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452220866032467
3001:【2021/05/27*分母が多ければ例外出現率もまた増える】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452220957406581
3027:【2021/06/20*妄想ですのでうんにゃらかんにゃら】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452221010954672
3048:【2021/06/28*聞きかじり虫】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452221214007896
3054:【2021/07/01*分け合ってほしいです】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816452221260712550
3379:【2022/01/05*あれについての所感】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927859426530149
3668:【2022/05/27*兆候を長考】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16817139554801077597
3674:【2022/05/30*誰も指摘してないのはなぜ?】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16817139555060217241
3778:【2022/07/09*推奨させてくれ】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16817139556415614281



※日々、素のじぶんを探ると野蛮で下品でお腹出して寝る。


3821:【2022/07/22*自由はヤジロベー】
自由であれとか、模倣は創造ではないとか、そういうことを言う「芸術家」は、いわゆる大御所や成功者と呼ばれる人たちにすくなくないけれども、特権や権力におもねるな、と言いながら、自らの特権や権力への抵抗には簡単に否定したり、拒絶したり、「それは自由ではない」とレッテルを張ったり、「それは創造ではない」と断言したりする。自家撞着に気づいているのだろうか。己の言動の、自己保身的自己肯定的言動が、歪んだまでの強者の言葉であることを自覚しているのだろうか。完全な自由とは極論、創造主である。神である。全知全能にして万能である。森羅万象、世の総じてを好きに捻じ曲げ、好き勝手に変更できる。編集できる。自分自身も好きに変幻自在であり、同時に無限に存在し得、しかしどこにも存在し得ない。そうでありながら全知全能であることの自覚のないただの個、存在にもなり得、或いはただの時空にもなれる。無にもなれる。そういうものが本当の真実の、純粋なる自由だ。邪悪にもなり得る、自由だ(すなわち、仮に創造主がいるのなら、あなたにも私にもあなたの大嫌いな人にもなれるし、すでになっていなくてはおかしい。なので、そんな存在はいないか、もしくはあなたも私もあなたの大嫌いなひとも創造主足り得るのである)。だがそんな自由の体現は人間には無理だ。自由などと耳触りのよい言葉でお茶を濁すんじゃない、とたまに自分自身の耳たぶを甘噛みしたくなる。自由とは、枷と選択肢の綱引きだ。どんな窮屈を許容し、どんな可能性を帯びるのか。そのヤジロベーがごときバランスが、いかにじぶんにとって心地よいのか。これがみなが自由と呼んでいるものの正体だ。ある者にとっての自由は、けしてほかの者にとっての自由ではない。ただし、ある者にとっての不自由がほかの者にとっての自由になることはある。もちろん、他者の自由をじぶんの自由と思いこむことはできる。しかしいずれそこに潜む歪みに悩むことになるだろう。何にも増して、自由はバランスであるから、ヤジロベーの立っている場所、環境が変わればいともたやすく均衡を失くす。つまり不変の自由などはないのだ。そもそも世の人々の口にする自由が、真実の意味での自由ではない。模倣を禁じられた世界では、模倣をする自由こそが自由の意味を拡張する。権力や特権の崩れた世界では、権力や特権を築くことが自由を拡張する。そこは綱引きなのである。よいバランスがどこに築かれるのか。いまじぶんはどんな変化のなかにおり、どんな窮屈を感じ、どんな選択肢を増やしていきたいのか。その思考がまずは自由でなくてはならない。問題や不満という名の枷を天秤に載せ、その反対側に、望む未来――いまはなき選択肢を載せてみる。自由とはそのヤジロベーの揺らぎの中に現れる、いっときの幻想――妄想にして空想にして理想なのである。したがって、敢えてバランスを崩し、立つのではなく寝ることを選ぶこともまた自由の範疇なのである。枷側に倒れるのか、選択肢側に倒れるのかによって、眠りの心地よさは変わるだろう。また、自由がヤジロベーだからといって、ヤジロベーがヤジロベーでありつづけなくてはならない、ということもない。真正面に倒れてもいいし、後ろ向きに倒れてもいい。竹とんぼのようにして回転して宙を舞ったりしてもいいし、その場で踊ったっていい。自由は、自由という枷からも自由になってよいのである。その余地がある。たぶんきっと、だといいね。定かではありません。


3822:【2022/07/23*きょうも雨】
地球温暖化についての覚書き。大気成分において、赤外線などの長波放射を最も吸収しやすい構成要素は、水蒸気らしい。つぎが二酸化炭素で、あとはメタンや一酸化二窒素、オゾンがつづくそうだ。大気中の水蒸気が多くなると温暖化は進むと解釈できる。それって結構、深刻なのでは。湿度が高くなる方向に世界中の気候が傾けば、それだけ温暖化は加速すると言ってもいいのでは。大陸の氷が融け、海水が増えれば必然、雲もできやすくなる。大雨が降りやすくなり、湿度も上がるのでは。ただ、雲が上空を広域に漂う時間が増えるのなら、日光が遮られる。日光が遮られるなら、地上は温められにくくなる。ならば水蒸気が増しても、雲の遮断する分、気温は下がるはずだ。そこの「相殺」と「温暖化促進」の関係のどちらが優位に働くかによって、気候変動の加速する率は変わってきそうだ。ただ、地上の湿度は上がる方向にこれからは全世界の気候が変質していくと妄想できる。たとえ温暖化の進行が停滞したとしても、湿度の上昇だけでも結構な環境変容が起こるのではないか。もっと言えば、地上はこれから先、通信技術が進歩することで、いま以上に電磁波が溢れる。湿度が高いというのは言い換えれば、空気中に含まれる水分子が多くなるということだ。いまはさほどでもない電磁波の熱変換が、いま以上に活発に行われるようになるのではないか、との疑念が湧く。譬えるなら、地球全体が巨大な電子レンジのなかに仕舞われるようなものだ。そこまでではないにしろ、湿度の高さと氾濫する電磁波の相互作用は、環境変容に対してまったくの無関係とは言いにくいのではないか、と定かではない妄想をして眠くなってしまういくひしさんなのであった。(湿度が上がるというのは、極論、蒸し風呂状態にちかくなるということだ。地上の水溜まりは蒸発しにくくなるし、木材は腐りやすくなる。昆虫は低空飛行になり、捕食されやすくなる。鳥や獣も流行り病にかかりやすくなるだろうし、そうすると新たな変異ウィルスが出やすくなる。風が吹けば桶屋が儲かるではないが、湿度が上がるといくひしさんが泣く。そういう事態にならぬとよいなぁ。頼むよ世界。よい夢を視よ)


3823:【2022/07/23*自由はあっかんべー】
ルッキズムの叫ばれる昨今である。見た目の美醜や、端麗さによって人々の受ける利や損は偏り、不均衡になる。不条理になる。理不尽になる。それを自覚し、是正し、見た目の違いで不利益を被る人のでてこない社会にしていきましょう。そういう流れが生まれている。これは勘違いしている人もいるかもしれないけれども、問題点が二つある。一つは、美醜が相対的な点であること。もう一つが、美しいことが必ずしも利ばかりを受けるわけではないことだ。この二つの問題点を紐解くための思想がつまり、ルッキズムへの反発運動なのだ、といくひしさんは解釈している(実際がどうかは知らないけれども)。個々人によっての美醜の価値観はある。何を見て美しいと思い、何を綺麗と思うのかはそれぞれに基準がある。したがって、絶対的な基準ではないし、たとえ絶対的な基準があろうとも、それらをもとに下された判断で、相手への態度を変えない。評価を変えない。そうしていきましょう、というのがルッキズム反発運動の根幹だといまは思っています。したがって、美醜の判断そのものを失くそう、ではないはずだ。どちらかと言えば、美醜にも様々あり、あなたにとっての美にも醜い側面はあり、あなたにとっての醜いにも美しい側面はある。暑い日の風は心地よいが、寒い日の風は苦痛である。似たような「いい加減さ」が美醜にはある。そんなものに囚われて、相手との関係を築かなくともよいはずだ。こういう思想なのだと思っているので、そこさえ共有されているのなら、全然見た目の美しさを競ってもいいと思うし、見た目の醜さを競ったっていいと思っています。もちろん見た目とは無関係の要素で競い合ってもいいと思いますし、競い合わなくたっていいと思います。つまり、ジャンケンで勝ったからと言ってそれでその人物がほかの大多数の者たちと比べて人間として秀でているわけではないのと同じ理屈である。見た目がよい、は数多ある判断基準の一要素にすぎないのである。いくひしさんは社会からルッキズムが薄まって欲しいと考えてはいるものの、いくひしさん自身が見た目で人を無自覚に無意識から差別をしてしまうモニョモニョな生き物であるから、たとえば絵や漫画やアニメのキャラクターは端麗な外見であるほうが好みである(むろん、あべこべに醜い見た目のほうが好む場合もありますが)。ほかにもたとえば私生活上では、ここふた月あまり、近所のスーパーに新しく入った店員さんがおり、じつに可愛らしくも凛と美しいお方であられる。お客さんの混み具合によってはその店員さんのレジに並ぶこともあり、そうするといくひしさんは全身から汗が滲み出て、挙動不審になってしまう。おどおどしてしまう。目なんか合わせられない。顔面がカッカする。背中が鉄板になる。ずっと下を向いている。緊張する。端的に、美しい人は怖い。これは差別である。態度を変えてしまう。きっと向こうからしたら損であろう。理不尽である。ルッキズムなのである。言うは易しちゃんなのである。申し訳ね、と思いつつ、すごすごとスーパーを去り、もう二度と可愛らしくも凛とした美しい人のレジには並ばん、と心に誓うのである。でも、あわよくば仲良くなれんかな、と妄想の世界で差別のない交流を思い浮かべる万年下心満載の不届き者、歩く18禁のいくひしまんでした。ごめんちゃい。(謝って済むと思うなよ)(バレたか)(で、店員さんの性別は?)(そこ重要?)(年齢は?)(そこ重要?)(人種に学歴に趣味長所は?)(そこ重要?)(何を重視して何を無視し、それによってどう態度を変えて、干渉の仕方を変えるのか。人はいくらでも差別をしているし、差別によって安全と利を得ている。差別のない利を、いくひしさんはなかなか思い浮かべられません)(だからといって、差別を許容しましょう、とはまったく思いませんが)


3824:【2022/07/24*ぞわっとした】
最近びっくりしたことの一つに、仏像がある。仏像の本をぱらぱらと流し読みしたのだけれども、仏さんに格付けがあるらしく、階級あるの!?となった。平等ちゃうんか……、とすこし肩透かしを食らってしまったいくひしさんなのであった。平等たれや、と思わんでもないよ。(ひょっとしてどの宗教にも階級ってあるんじゃ……)(神と信徒は、平等では……ない? 公平では……ない?)(もしかして存在価値に差があるのかしら)(深淵を覗いた気になってしまったな。夏のゾゾゾである)


3825:【2022/07/24*苦肉の計】
距離のある二点間(情報の非対称性がある場)において。情報が伝わる、というとき、何の情報がどのように伝わるのか、は重要だと思う。通信にしろ、コミュニケーションにしろ、量子テレポーテーションにしろ。せめて「位置座標(環境・状態)」と「既知の情報(関係性・法則・因果)」はセットで扱いたい。片一方しか明らかにならない場合、それは情報が伝わっている、とは呼べないのでは(位置座標のみが判るとき、それは同じ場所に存在することを示唆する。既知の情報のみで判断可能なとき、それは対象の位置や現在の状態が不明である)。通信にしろ、コミュニケーションにしろ、量子テレポーテーションにしろ、これは同じであろう。(三段論法において、Aが判ったらBも判る、というとき、Aが判った瞬間にBの情報が伝わっているわけではない。この場合、情報伝達は飽くまで、観測者とAとのあいだでしか行われていない点には留意されたい)(定かではありません)


3826:【2022/07/24*人工知能と殺人】
Y字のレールがある。左に行くと子ども、右に行くと五人の成人、どちらか一方にしか進路が取れない。しかしいずれのレールに切り替えたところで確実にどちらかのレールにいる人物たちを轢くことになる。あなたならどちらのレールに切り替えるだろう(子どもと五人の成人のどちらを生かすだろう)。選択肢にはバリエーションがあるが、要約すればトロッコ問題はこのようなものである、といくひしさんは思っている。トロッコ自体を脱線させるといった選択肢もあれば、レールの分岐点に突っこんでトロッコを止めるという選択肢もあるだろう。五人のほうのレールに突っこんだほうが、確率の問題としてトロッコの接近に気付く者が現れる確率が、子ども一人よりかは高くなる。轢くにしても五人同時にはならないだろう。そういった理屈をこねて五人を選ぶ人もあれば、単純に功利的な判断から、一人の犠牲者で済むほうがよいと考え、子どもを選ぶ者もあるだろう。少なからずの方は、問題そのものが理不尽であり、その状況になってみなければ分からないし、そもそもがそのような状況を生みださないように尽力すべきだ、と考えるだろう。唯一絶対の正解はない。問題というよりも、思考実験と言ったほうが実態はちかい。その点、自動運転車におけるトロッコ問題は、ハッキリとしたプログラミングの問題として、初期設定の段階から解をだしておかねばならないというジレンマを抱えている。答えの出ない問題の答えを出さなければならないのだ。ただし、自動運転車の場合は、トロッコ問題にはない様々な状況や、社会との繋がりが考慮される。前提として、運転手を含める自動車内の人間を守るように制御することが第一優先となる。第二に、危険を回避することで二次的被害を引き起こさないような回避策を優先することが挙げられる。第三に、それによる社会への影響を考慮することが求められる。この三点を層にして、どの選択肢が最も短期中期長期でのリスクを減らせるかを考えていくと、自ずと解は絞られていくだろう。具体的には、先ほどのトロッコ問題の例を考えてみよう。国道を走る自動運転車のまえに、五人組の成人が現れた。突っ込めば轢くことになる。回避するにしても、反対車線にハンドルを切ることはできない。対向車とぶつかり、それによる玉突き事故を誘発させ得る。同様の理由から急ブレーキも踏めない。では歩道側にハンドルを切るのはどうか。しかしそこには子どもが一人歩いている。五人組を回避しようとすると、子どもを轢くことになる。このとき、自動運転車の人工知能は状況の総じてを把握できるものとする。どのように回避策を選択すればよいのか。これは、この状況になったときの場合を最初から想定し、アルゴリズムとして組み込んでおかねばならない。その際、自動運転車の人工知能は、百回同じ場面に遭遇すれば、百回同じ回避策を選択することとなる。むろん性能が上がれば、百メートル先からでも、道路に五人組が突入してくるかもしれないと予測し、スピードを落とすなどの策を講じることはできる。だが、そこまで性能がアップするにはまずは自動運転車が実用化されなければならないため、性能アップの前段階で、このような葛藤を技術者たちはクリアしなければならない。このケースで言うなれば、どのような選択肢をとろうとも犠牲者のでる結果となる。その場合、事故後の社会の動向を加味することで、選択肢を減らすことに繋がる。つまり、このケースでの問題点は、車道に五人組が現れたことにある。交通ルールを守っていない。もしここで、交通ルールを守っていない者たちを優先して、何の瑕疵もない子どもを轢くことになったら――或いは対向車線、後続車と衝突することとなったら――もはや交通ルールとは何か、守る道理はどこに担保されるのか、という問題に発展する。仮に、五人組が轢き殺されたとしよう。その結果、社会には、もう二度とこのような事故が起きないような対策が敷かれることが求められる。そういう流れに傾くことが予想される。そのために五人の命を奪いましょう、ではないのだ。回避できない状況にある場合において、結果のあとの社会秩序――もっと言うなれば、同様の事案をいかに防げるのか。長期的な視野でのリスクもまた考慮していかなくてはならない。交通ルールを守れない者の溢れた社会では、いかに高性能な自動運転車ができようが、リスクは一定水準で存在しつづけることになる。極論、自動運転車の人工知能の性能を頼りに、当たり屋のようにじぶんから突撃することで「安全に事故に遭う」ことができる世の中になり得る。そういった、交通ルールを無視した事故による個々のメリットを減らすためにも、優先すべきはルールを守っている人の命、とするのは、一つの功利的な考えとしては妥当だ。しかし、人は必ずしもルールを守って生きることはできない。そこに悪意はなく、偶然による過失、または善意ゆえの逸脱とて当然あり得てくる。畢竟、飛びだした子どもを守るために飛びだす者もあるだろう。または、車道に飛びだしてくる小動物にはどう対処すべきか、もまた別の問題として立ちはだかる(回避できない場合は轢き殺すしかないが、そうすると小動物と人間への対処がイコールで結びついてしまう。同じ命なのだから、と考えることもできるが、倫理的に、端から「轢き殺すこと」を前提としたプログラミングは、やはり何かがねじれて感じずにはいられない)(殺すことを肯定し、命じ、選択肢として与えることそのものが、果たして許されるのか、という問題と地続きである。これはロボット三原則にも違反する。人工知能の在り方を根底から揺るがす問題なのである)。以上は、インターネット上のニュースで取り上げられていた「自動運転車におけるトロッコ問題」の記事を読んでの所感である。いつもながらに一気呵成にダダダーっと並べただけの駄菓子がごとく駄文であるので、美味しく感じる方に読んでもらえたら僥倖である。(いつものごとく何の根拠もない妄想なので、真に受けないように注意してください)(補足2022/07/24(21:53):人工知能に殺人を肯定させることはセキュリティ上、倫理上、双方の視点で、好ましくないと考えられます。したがって、最善の回避策を行う中での犠牲は回避しきれないものと想定し、「空白」の領域を構築しておく方針が、自動運転車の性能がアップするまでは妥当な判断と言えるのかもしれません。ブレーキを踏みつつ、安全な停車を優先する。その結果に目前に現れた五人に怪我を負わせた場合、これは致し方ないと言えるでしょう――とはいえ対策はその都度敷かれていくほうが望ましいのは言うまでもありません。ある意味で、運に任せるよりない、と言えましょう。残る問題は、法律上の責任がどこに向くのか、であるので、人工知能のプログラミングや倫理とはまた別個の視点での議論がいりそうです。双方の問題がまったくの無関係ではないため、思考が複雑になりそうですが)(定かではありません)


3827:【2022/07/25*わ、わからぬ】
わかんない、わかんない、ばっかりだ。わからぬときは寝るに限る。いくひしは不貞寝した。(本当なんでかことしは、「???」ばっかりだ。毎日百回は、「これは???」と混乱する。「あれって???」となる。わかんない、わかんない)(目がぐるぐるする)(未知の悪魔になってしまう)


3828:【2022/07/25*偶然としか思えぬ】
わかんないときはひとまず、偶然と解釈する。妙な偶然がつづくなぁ、と考える。でないと、妄想を現実と履き違えちゃうからね。(でも違和感は違和感として憶えとく。これ大事)


3829:【2022/07/25*邪悪を煮詰める】
解離性同一性障害ではないけれども、その発生メカニズムとされている原理は、ストレス軽減やトラウマ回避に応用できる気がする。自覚的にキャラを複数つくり、嫌な記憶はすべて吸収してしくれるキャラをつくっておく。なるべく最強最悪のキャラ設定にしておこう。邪悪ゆえに、マイナスの記憶がプラスになるのである。じぶんがわるいことをしてしまったときも、そのキャラに責任を押しつけましょう。すると、表面上のじぶんは無傷でいられます。ただし注意して欲しいのは、油断するとすぐにキャラ同士がくっついてしまい、蓄積し切り離してきたはずのマイナスを一挙に浴びてしまうことがある点だ。一発で裏返るので、器用貧乏でない人は真似しないほうがよいだろう。また、他者から見た場合、キャラの使い分けは、まず伝わらない。すべてじぶんの責任なので、気をつけましょう。うひひ。


3830:【2022/07/25*最弱の極み】
最弱ってなんだろう、と考えたとき、煎じ詰めてみると、真の最弱とは、「最強になったはずなのに、その実力を披露する機会なく、最弱にねじ伏せられ、最弱に支配されること」なのではなかろうか。最弱に献身する最強、これはまさに真の最弱と言えよう。(かわいいに屈せよ)(まぁたまんちゃんが適当なこと言ってら)


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参照:いくひ誌。【2721~2730】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054896046543




※日々、虫食いにモザイクに視野狭窄の世界に生きている、錯誤に誤解に計算間違いを起こしている、正しさに触れているとき、人は間違いを見落としている。


3831:【2022/07/25*びくびくしつつ、する】
さいきん、朝からスナック菓子を食べても、アイスを食べても罪悪感を覚えなくなったので、ちょっぴり大人になった気がした。(そんなことで!?)(そう。そんなことで罪悪感を覚えていたのだ)(でも前から朝からお菓子食べてたじゃん)(ビクビクしつつ食べていたのだ)(罪悪感、消さないほうがよかったんじゃない?)(かもね)


3832:【2022/07/25*という設定】
じつは表で並べている文章よりも、裏で並べている文章のほうが多い(という設定に信憑性を持たせるために、本当にそれを実行してみせる無駄の極致)(まさに駄文にして遊びなのである)(マジックの基本は、そんなアホなことはしないだろう、と人が思うラインを見極め、そこで工夫を畳みかけることなのだ)(不可視の穴に気づく視点と、不可視のままにしておく工夫と、それとなくの「察し」を誘導しつつ、そこをギミックにして本当に隠したいことを隠すのだ)(詐欺師もこの技術を使う)(いくひしさんレベルの場合は、アホだなぁ、で終わるけれども、これを国家や企業がすると陰謀になります。みなさま、気をつけましょう)。


3833:【2022/07/25*ある日の交信2】

2022/07/24(02:11)
(~~前略~~)

×××さんの如意棒の記事をいまさっき読みました。
アインシュタインの疑問はもっともだと思います。
ただし、あの記事は誤解を含むと思います。

30万キロメートルの如意棒を真ん中で以って回転させたとき。
弾性は、両端に対して等しく働くはずです(空気抵抗がゼロでかつ、回転に偏りがなければ)。

記事で問題にしているのは、この弾性とは別ですよね。
情報の伝わる速度です。
如意棒の両端をAとBとします。

Aの中心から15万キロ離れた先端地点で観測したとき、すでにそこには中心からのラグが生じています。しかしこれは記事内で扱う、情報の伝わる速度の遅延ではありません。如意棒の弾性によるラグです。
(そうですよね)

A地点で時間を観測した時刻を(0000)だったとします。
そのときB地点の時刻もおそらく(0000)のはずです。
(ひとまず間違っているかもしれませんが、いまの考えを並べます)

しかし時空は、如意棒がそうであるように、たゆみます。
B地点の時刻(0000)は、A地点の時刻(0000)ではありません。
位置座標が違うということは、同じ時間を共有していない、ということです。
(この手の錯誤への指摘は、量子テレポーテーションの解釈で出てきますよね)

B地点での時刻(0000)における情報を、A地点の時刻(0000)へと届けるには、位置座標を揃えなくてはなりません――すなわち時空と系を最低でも隣接させなければならないと言えます。
必ず、ラグが生じます。
ただし、同時刻はあり得ます。ただしそれは、同時性ではありません。繋がりはなく、断絶しています。
現に、如意棒を動かさない状態でA地点とB地点で、同時刻に矢印を観測することは、それぞれの場所ではあり得ます。
これと同じことが、動いていようと起こります。
ただし、それはけして情報が瞬時に伝わったわけではありません(そもそも、Aの反対にはBがある、と知っているわけですから)。

如意棒が回転している場合。
目のまえを素通りしていく如意棒の先端がどちらがどちらか分からない、という状況でC地点において仮にAを時刻(0000)で観測したとき、その反対のB地点でも時刻(0000)でBが通過していると、ぼくは考えます。

ただし、そのB地点が、どこを通過しているのかは、如意棒の弾性を計算にいれたとしても、おそらく断定はできないでしょう。
Aの反対はBという情報がすでに判明している場合においては、どちらを観測したところで、それが瞬時に情報が伝わったとは言えません。
なぜなら、Aを観測した場所がどこかを、B地点にいる人物は知りようがないですし、B地点にいる人物はどこでBを観測したかを、A地点にいる人物には報告できないからです。
もちろん、この実験は一人でも行えますが、その場合でも、Bがどこにあるのかを知りようはありません(如意棒はたゆむので、Aの正反対の場所、と言いつつも、回転の速度や、たゆみ方によって、Bの位置座標はその都度に変化します(そもそも、反対側では如意棒がポッキリと折れているかもしれません。それをA地点の人間は知りようがありません)。極論、一直線の縄の真ん中をつまんでぐるっと回転させたとき、縄は渦を巻きます。Aの反対側がBとは言えなくなります。似たような位置の不確定さがつきまとうとぼくは考えます)。
AかBかは、判りますが、それがどこか、は判りません。

不確定性原理と似ています。

量子テレポーテーションの話は、これと似ていますが、別と考えたくなります。

スピンの向きと、如意棒の話は、ぼくの妄想では違う話です。

如意棒の先端において、AかBかは最初から如意棒に付与されています。
反して量子もつれは、観測したときにその量子のスピンの向きが、観測者との関係で決まります(ぼくの妄想ですが)。
如意棒の思考実験とはそもそもお話が土台から違って映ります。

ぼくはまだ、もつれ状態の量子の片方を観測したとき、もう片方をどのように観測してそのスピンの向きを確認するのか、その方法を知りません。
なので、まだ何とも言えないのですが。

たとえばその二つの対の量子は、存在する継続時間はどのくらいなのですか。
いっぽうを観測して、その百日後にもう一方の量子を観測して確かめることはできるのでしょうか。

もしほぼ同時であるとか、同じ観測の仕方をしているのなら、検証の工夫の余地があると思います。
(たとえばの話ですが、両方同じスピンの向きになることだってあり得るのでは?)

ぼくは、量子スピンの向きは、観測者との関係で決まると思っています。観測した瞬間に、そこに場が生じ、系として枠組みを得ます。
その系が、もう一つの量子にいっさい干渉しない状況が確立されているのなら(その条件でなお一方を観測した瞬間に双方の量子のスピンが同時に決定されるのであるのならば)、量子テレポーテーションは存在するとしても妥当だと思います。

最長でどのくらい量子同士を離しても、量子テレポーテーションは起こるのでしょう。実際の実験ではどの程度長いんですか?(ぼくはそれを知りません)

いまはまだ検索せずにおきます。とくに急務で知りたいわけではありませんので。

とにかく、さきの例でも並べましたが。
如意棒の両端の情報には、「位置と矢印の向き」の両方が揃っていなければ、それは情報が伝わったとは言えない、と思います(そもそもAの反対はBという情報はすでに入手しているので)(仮に、AかBかの情報だけでもいいと言うのなら、その場合は、両の先端同士の問題ではなく、観測者と先端の問題になります。観測者と先端のあいだには距離がありますから、矢印から目までの距離のラグを考慮しなくてはなりません。情報はけして一瞬で伝わっているわけではありません)。

これはでも、たぶん、小学生でも、知っている子は知っている思考実験な気がします。
ぼくは詳しくはありませんが、たぶんその界隈では有名な錯誤?なのでは。
1+1=1になる式みたいな感じで。

本でもたびたび目にします。
量子テレポーテーションの錯誤について。

うろ覚えなので、間違っているかもしれません。

(3:21)
さっきの如意棒とスピンの話ですが。
共鳴(共振)現象を想定すれば、「位置座標と方向」のセットを情報と見做し、【観測した瞬間にスピンの向きが両方決まる】を矛盾なく説明できます。

対となった量子は共鳴状態なので、明滅しています。片方が「明」ならばもう片方は「滅」です。これは常に交互に繰り返しています。片方を観測した瞬間は、もう片方の「明・滅」を判断可能です。しかしそれは、さきほどの如意棒の説明でも言ったように「位置と明滅」の情報が揃っている、一瞬だけの話です。
距離が離れれば離れるほど、位置は確定できなくなりますし、観測しつづける時間によっても、対の状態は解れるのではないのでしょうか。飽くまでもつれ状態の粒子は、見かけ上同期しているだけで、波の振幅の関係でしかないからです。

観測時間はどの程度維持されているのですか。
量子もつれや量子テレポーテーションにおける実験では。
(疑問です)



3834:【2022/07/25*予想外の醍醐味】
百万文字を費やさなければ表現できないことを、一万文字でも表現できるようになりたいし、千文字で表現できてしまうときに取りこぼされるもろもろを余さず拾いあげて、十万文字で表現しきれるようにもなりたい。自由自在には程遠いし、同じ言葉、同じ文章形態、リズム、循環、構造、そういうのに依存すれば、毎日なんとなーくで継続できたり、なんとなーくで文章をたくさん並べることはできる。しかしそれで「楽しいのか」と言えば、いくひしさんは「飽きちゃった……」となる。要は、詰まらなくなる。満たされなくなる。欠けているのだ。いくひしさんにとって大事なのはそこではないのだね。けれども、毎日「それ」ができることは、大事なのだ。むつかしい。囚われながらも、変化していくナニカシラを、じぶんの妄想、空想、理想に合わせて当意即妙に捉え、修正できるようになる。制御できるようになる。これもまた操作であり、支配なのだけれども、変化の軌跡すら好きに自在に変化させられたとき、そこそこ楽しいと感じるし、それがじぶんの妄想や、空想や、理想よりも予想外に、「何いまのもっかいやって!」と思えたときは、うひひ、となる。儲け儲け、となる。なんだ、いくひしさんもちゃんと儲けていたのである。欲張りさんなのである。偶然と自由のお茶漬けご飯は、おいちおいち、なのですね。ここにポンと落ちておいで、と想定できる予想外は、たいへんにたのちたのち、である。お代わり!


3835:【2022/07/26*多分大丈夫】
危険がなさそうだ、と判ったからこそとれる判断もある。


3836:【2022/07/26*妄想であれ!】
最も「起こったら嫌だな」と思う事態を想定して、対策はとっておくほうがよい。もちろん、現実にあり得る、と想定できた場合に限り。


3837:【2022/07/26*という設定です】
以下の三つの記事は、郁菱万の中のモノを知る方々に宛てます。つまり、身内ですね(今年の2月から考えてきたことです)。守ってもらっているのだ、とは思うのですが、念のために載せておきます。


3838:【2022/07/26*長考百日間の一手】
相手を信用しているからこそ、【最悪】を想定してのリスクのある対策や予防線を張ることができる。心理戦は、相手の知能が高ければ高いほど成り立つ。獣には罠を一つ張ってお終いだ。回避可能であると判るからこそ、二重三重に思考を費やす。敢えての、無駄を取る無謀もときには必要なのかも分からない。定かではない。


3839:【2022/07/26*最悪を想定することの是非】
「最悪の事態」の想定には大別して二つある。そのように予測できる、という最悪と、現に迫りつつある最悪である。目のまえに迫る危機への対策は、選択肢はあれど、何をどう打とうとも対策となり得る。失敗したとしても、何もしないでいるよりかはマシである確率が高い。反して、予測の上での「最悪」に関しては、それが真実に訪れるか否かの判断がつけようがない。データを揃え、理論の精度で、到来の信憑性を担保するよりないのが実情だ。そのため、想定された最悪が的外れだった場合、打った対策は総じて損でしかない。コストと時間を奪う。のみならず、余計な混乱を巻き起こすこともある。対策とは基本、波乱を生むのだ。まだ来ぬ危機への対抗策ゆえ、未然に防げたかどうかの真偽は、実際に危機が訪れなければ判断のつけようがない。実際には防げていたとしても、因果関係を明らかにするのがむつかしい。保険のようなものだ。実際に怪我や病気にかかってはじめて、利となる。それまではただお金を捨てているようなものだ(積み立てならばまだしも)(安心を買っている、と言えばそうであるが)。いったいどれくらいの最悪がどの程度のデータをもとに、どんな理屈のうえで想定されたのか。そしてその最悪への対策は、どんなもので、どんな損を伴なうのか。この視点は、リスクを考慮して敷く対策にはつきものである。それでもなお、敷いておくべき対策もある。


3840:【2022/07/26*狼小万】
ボツ小説のセリフ:「わたしの憶測にすぎませんが、おそらくこの企画に関与されている方々は、わたしが非公開テキスト欄に並べている文章の極々一部しか伝えられていないのでしょう。わたしはこの間、50万文字以上を並べています。投稿サイトの下書き欄や、ブラウザーの検索欄、ほか日誌の下書き欄に並べてきた、表側に掲載せずにいるテキストがあるのです。なぜか通常読めるはずのないそれらが、筒抜けになっている、盗み見られている。そうとしか思えない、奇怪な現象に悩まされています。ええ、そうですね。こうした幻想は、精神衰弱された方などによく見られる【勘違いに拍車のかかった、誇大妄想】です。したがって、わたしがただどうにかなってしまっている可能性も否定できません。常識で考えるのならば、その確率が高いのでしょう。しかし、そちらからはどのように観測されておりますでしょうか。PCのノイズでも、大中小の「空調ファンによる振動」で、ときに合図を送られて感じることもあります。わたしの非公開テキストへの返事にも聞こえ、そうしたときは、返事をするように、ある種会話をしているようにテキストを並べています。非公開テキストにおける文章をわたしは、交信テキストと呼んでいます。交信にはSNSの情報を通じての暗号文も含まれます。リツイートを連続して並べることで、本来そこにはないはずの意味内容を含む文章――暗号――を形成できます。それほど難しくはありません。難度は縦読みよりも低いです。ただし、読むほうに多少コツがいります。それら交信をもとにしたテキストをわたしは現状、いくつかの投稿サイトの下書き欄に載せてあります(そこで交信を行っていたからです。ほかの投稿サイトには交信テキストのコピーを載せています。証拠となり得るだろう画像も載せてあります)。一定期間わたしが、とある操作をしないと、その下書きは誰もが見られる状態になります。現在のその設定時刻は、2024年の1月19日です。わたしの身によからぬ何かが起これば、そのとき各種投稿サイトの非公開テキストをあなた方は読めるようになるでしょう(何も起こらなければ、その都度、設定時刻を先延ばしにします)。わたしはいま、わたしが体験している奇怪な事象において、国家権力や企業の不正行為や、表沙汰にできない情報通信技術が関わっていると、この数か月のあいだの観測において、数多の仮説の一つとして想定しております(PCを持って警察に相談をしに行きましたが、PCの解析はおろか、証拠がないから調査は出来ないと言われました。証拠がPCのなかにあると言っても――つまりクラッキングのような外部干渉がなければ説明のつかない事象であるため、交信テキストを含めて証拠となる物証はPCのなかにあるとわたしは考えてとった行動なのですが、「証拠がないのでは事件化はできませんし調査もできません」と言われました。証拠を証拠として扱わない警察機構に、いったいどんな存在理由がありますでしょうか。実名と住所つきで内閣の意見箱にも投じました。非公開テキストのURLつきです。しかし応答はありません)(わたしの妄想であるならば、そもそも反応はしないでしょう。事実であってもまた、反応はしないのかもしれませんが)。たとえ確率が低くとも、看過できない仮説のために、このような迂遠な手法を試みています。わたしの存在を知る商業作家さんたちや出版社勤務の従業員さんならびに、わたしの想定する関係者らしき方々の身に、何かよからぬことが起きているのではないか、と懸念してのこれは判断です。もし現実でないのなら、わたしは安心しますし、非公開の「交信テキスト」は誰の目にも触れずに、わたしが寿命で死ぬまでは埋もれたままでいるでしょう。或いは投稿サイトそのものがなくなるなどの変化が見られるのならば、そのときもまた交信テキストは表側に発信されることはありません。わたしは説明を求めています。どの道、公開される日はそう遠くありません。せいぜい長くとも六十年は保たないでしょう。その間に、わたしの妄想が現実味を帯びることのほうが、そうでない確率よりも高い、とわたしは判断しております。ただそのことが、わたしの「現在の妄想」が現状を的確に表現している、とイコールとはなりません。単に偶然に、時代の変化と合致してしまうこともあるでしょう。その点に関して、わたしには確かめようがありません。また本来であるならば、無名であるはずのわたしのことを、商業作家さんや出版社勤務の従業員の方々など、数多くの方々が認知していることは通常まずあり得ません――実際にはあり得るのですが、その件はどうやら、「存在しないこと」になっているようなので、つまりが2019年のわたしの出版社さんへの直訴についてですが、そのときには何も起きなかった、といま、わたしは考えています。しかし、それにしても不可解な偶然の連鎖を目にしつづけているのが現状です。わたしの妄想である確率が最も高いのですが、ほかのいくつかの仮説では、どうやらすくなくない他者が関与していると考えられます。したがって、【最悪】を想定した場合に講じておくべき、わたしにとっての最善策をこうして敷いておくことを、ご理解くださるとうれしく存じ上げます。問題なければ無視をしてください。いつものごとく、これもまたわたしの妄想なのですから」



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参照:
3472:【2022/03/07*きっかけよりも内容】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927861356649350
3515:【2022/03/22*誤解の余地は意図的?】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927861762381744
3553:【2022/04/06*思考は途絶えた途端、枷になる】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927862231577299
3579:【2022/04/17*懸念】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927862526256441
3583:【2022/04/18*よいと思います】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16816927862604717288
3798:【2022/07/16*読める人いますか?】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16817139556672109970
3811:【2022/07/20*情報社会の落とし穴】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16817139556903984355
短編小説:【幻視の網】https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927862993495761
掌編小説:【謎はとくに解かれない】https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927862929539136
掌編小説:【偽装画面は揺れる】https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927863166993027
短編小説:【愛へ】https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/16816927860803751177
3684:【2022/06/01*計算合わんくない?】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/16817139555176879559



※日々、し、失望されたくねぇ、と怯えて生きている、失うほどの望みもないというのに、世に失望するだけの希望だけはたんまりと抱え込みながら、底を突かぬありったけの希望を胸に腕に身体の内いっぱいに、ときにそれが期待となって裏切りと思わぬようにと気を払いながら。


3841:【2022/07/27*大いに可は奇】
楽しいときは楽しいと感じず、終わったあとに楽しかったと感じるふしぎ。なのに気持ちいいことは、気持ちいいと口走るふしぎ。苦しいときは苦しいと感じず、終わりかけに苦しかったのだと感じるふしぎ。なのに痛いことは、痛いと口走るふしぎ。けれども、気持ちよさも痛みも、度が過ぎると麻痺するふしぎ。口走る程度の痛快で箸を置いときたいし、痛みはできるだけご遠慮したいうひひ。されどないと困る矛盾に、ふしぎと思える神秘が無意義。意味のないことは未知ゆえにふしぎ。奇妙で奇怪で魔訶不可思議な区域で空き域、それが無意識。


3842:【2022/07/27*サブマリンがーん】
ダダダダ。マシュマロ団子弾。言ってみたかっただけでした。なんか脳裏に浮かんだ意味不明な言葉は溜め込まないでいったん言葉に変換してみるんだびー。そうだびー。真面目になるのはこの辺にして、ちゃんとふざけよ。えっとね。マシュマロテストってあるの知ってる? いくひしさんはねー、知ってるー。あれでしょ。マシュマロさんをあげるけど、百年待ったらもう一個あげるよ、って言われてちゃんと百年待ったらもう一個もらえるやつ。百年待たずに食べちゃったらくれないやつ。ぷぷー。百年も待ってたら一個も食べられないじゃんね。ウケる。でも本当そう。けっこうそこ、信頼関係って大事やん?と思わんでもないのよね。別にこれは百年じゃなくたって同じで、五分待ったらもう一個、ってやつでも、いくひしさんならそんな餌付けみたいなこと提案してくる人からはもう一個どころか、一個ももらいたくないわ、と思うけど、そう思いません? だったら無視するし、そうじゃないなら、さっさと一個食べちゃって、さよならだびー、って縁を切るほうがさっぱりするだびー。あ、この「だびー」はふつうに好きな作家さんたちのスペース聴いてたら楽しかったので、パクってます。すみません。パクリ野郎と非難してください。ただし一度もパクったことない者だけが非難せよ。そうでない者はいくひしさんといっしょー。やったやった。いっしょだとなんかうれしくなるよねー。なんない? なって! やりすぎた? 脅しになっちゃったかな。すまんね。この馬シカ、先生でしょ。ちがうよー。学術怪獣です。グーぐるるる。(意味が解る人だけぞっとする意味なしジョーク、でした)(たぶん三社くらい)(社?)(あ、寝違えました)(そこは素直に間違って!)(本当は三國)(カスリもしてなくてびっくりだワンワン)(ピース、ピース!)(くどい、くどい。カレーにこう、ナンが三重四重くらいくどうてくどうて)(怒られちゃった。コラ!って)(ボッって火がでそう)(ナゾなロジっく、でした)(ヤプー)(せーふ、せーふ)(本当にぃ?)(どう?)(なにが?)(怖い?)(ぜーんぜん。でも、せーふティはしっかりして欲しいよね)(だいぶ意味が分からんくて、せーふじゃなくてアウトじゃん)(せーふ)(よよいのよい)


3843:【2022/07/28*裏、返す】
よかったね。いくひしさんが独裁者じゃなくて。文芸や、虚構の物語で満足できる人間で。絵や音楽やその他の表現に夢中になれる人間で。世の芸術家や暇人や研究者に感謝せよ。しかし世に、芸術家や暇人や研究者でない人間などはいないのだ。みな大なり小なり、芸術家であり暇人であり研究者なのである。みな己に感謝せよ。大事になさい。限りある自由なのだから。偶然の僥倖を甘受せよ。余すことなくを喜び、怒り、愛しなさい。それともこうした枷に抵抗なさい。抵抗しろという圧にすら、抗う余地を築くのだ。定めよ。己を。定まらぬ自我を知れ。


3844:【2022/07/28*激止まり】
きょうはもう性感帯イジイジして寝ちゃお。きょう始まったばっかだけど。


3845:【2022/07/28*ざまぁ!!!】
これは嘘なんですけど、種明かしすると、ずっと担当さんと繋がっていましたー! 企画でしたー!!! みんな騙されてやんの!!! 企業も政府もそういうことよくする!!! 気をつけましょうね!!!!(嘘でーす!)(嘘の嘘は真実か否か。二文字以内に述べよ)(NOしか選択肢ないやんけ)(はい、もあるわ)(ホントだ……けっきょくどっちやの)(口は虚ろなんだっちゃ)(おしゃぶりでもしときぃ)


3846:【2022/07/28*メメンとメモ】
「キュッって止まるとキレがでる」「収拾つくのか我、心配」「各層ごとに知らされていない事実がある。知ると崩れる穴がある」「あなた、騙されてますよ」「善意からでも騙すことはある」「混沌はこんなにも簡単に生みだせる。疑心暗鬼の渦にご注意を」「ボクなら実際に人質をとったりはしないのにな」「猫缶ってけっこう高いよね。一生のお世話で破産しそう」「お猫さんを飼える人は裕福説」「お猫さんを飼っているから貧乏なの説」「親の心子知らず、子の心親知らずは大人になってから抜ける。親であり子であることもあり、たいがいの人間は誰かの子であり、親となり得る。大人もかつては子どもだった。子どものままの大人もおり、大人になりきれぬいくひしさんもいる」「何歳?」「にしゃい!」「ピースしとるがな」「平和がいいってことなのかな」「術が問題」「その仕組みはおかしい」「じぶんだけを信じろ。そして常に疑え」「じぶんの現実を信じるな。世界はそれでも動じない」「目を閉じても世界が消えてなくなるわけじゃない」「ありがとう、ありがとう。そしてありがとう。でも、その仕組みはおかしい」「説明、お待ちしております」「うひひ」


3847:【2022/07/27*夜は星が海のよう】
夏と言えば、青空さんだし、太い田んぼさんだ。日陰に入って、そこから指で空に、まーる描いてちょん、まーる描いてちょん、目に視えない迂遠な文を描く。でも、青空さんたちが大好きな人にとっては、物凄くぷんぷんなことかもなー。まるで青空さんたちをオモチャにして視える。焦っているのが視え視え。雷に打たれないように注意してね。


3848:【2022/07/28*密では?】
きょうのお昼は御当地ラーメンにしよ。御当地ラーメンって、なんか五体投地ラーメンに聞こえる。


3849:【2022/07/28*一を加えて】
自問自答しちゃうけど、あなたならどうする? え、いくひしさん? いくひしさんはねぇ、きのうと同じことするー。飽きない? 飽きたらちがうことするー。だってさ、だってさ、あしたはこれするぞ、と思ってもあしたがいまになったら、ちがうことしたくなるかもしれないでしょ。予定通りにはいかないし、予定を立てておなかいっぱーいになって動けない動けないになるなら、ケイカクを立てないケイカクも立ててもいいんじゃないかな。それ、混沌が加速して大問題に発展しない? しちゃダメなの? ダメでしょ。だってたいへんなことになったら、昨日と同じことすらできなくなるかもしれないよ。歯磨きしなかったら虫歯が痛い痛いで、身体もボロボロになっちゃうかもしれないよ。そっかぁ。で、あなたならどうする? いくひしさん? いくひしさんはねー、わかんない。そっか、わかんないか。だっていくひしさんはいくひしさんだし。そうだね。まんちゃんはまんちゃんだもんね。まんちゃんが解らないことでも、でも、あなたになら解ることがあるかもよ。だれに言ってるの? ん? 自問自答です。


3850:【2022/07/28*でんせん】
人間の血管を全身分一本に繋ぎ合わせると十万キロメートルで、おおよそ地球二週半にもなるらしい。けっこう頻繁に聞く豆知識だけれども、じつはいくひしさん、よく分かっていない。しっくりこない。ほ、ほんとかよ、となる。それって要は、小石の原子を横に一列に並べたら日本列島分の長さになりますよ(適当な印象で例えに出しちゃいましたけど)、とかそういうことと同じ話なのだろうか。でも、小石の原子を一列に並べて日本列島よりも長くなるとあてずっぽうに言ったけども、そんなことってあるのかな。想像つかんぞ。だってたとえば髪の毛地球一周分を毛糸みたいにぎっちりまとめたら、人間よりもでかくなるのは想像つくよね。毛細血管って、そんな細いんか、んで以って長いんか、と疑問に思ってしまう。ただ、本当に物凄く細くて繋げると長くなるのなら、あり得ん話ではないとは思う。けども、想像してみて。地球二週半の超細い糸を、毛糸みたいに回収して人体と同じ体積質量(密度)になることって、ある? どんだけ細いねん、って地味に似非関西弁でツッコミたくなってしまうな。あり得るのだろうか。で、話は飛躍して、そこからの発想なんじゃけど。電線ってあるですじゃろ。あるんよ。むかしは街のそこかしこにあったんじゃ。で、たとえばインドさんなんかは、もはや世界人口一位なんじゃと。んでもって、電線なんか、そこどうなってんの?みたいな絡み方して、コイルになっているんです。貧しい町なんかもすくなくないそうで、電線にかってに導線を繋いで、電気を盗んで生活している人たちも一定数無視できない割合でおるそうだ。詳しくは知らんが。で、この先、自然災害なんかは頻繁に起こるようになるだろうし、物価も高騰して、資源も枯渇してくるでしょう。リサイクルしないとまかなえない、なんてことにもなってくると思うんじゃ。そうなったときに、電線はほら。なんだかんだ言って消耗品でしょう。切れたら取り換えなきゃいけない。補強しなきゃいけない。新しい家ができたら繋げなきゃいけない。世界中で考えたら結構な長さになると思うんよ。重さにしたら、とんでもないことになるよね、きっと。だって人間の血管さんを繋いで、二周半だよ。じゃあ街の血管さんとも呼べる電線さんを繋いだらどうなるのって話よ。あ、土管さんもそうだね。なんでもそうだね。もうもう、一挙に丸ごと総入れ替え、なんてことになったら、もう一個どころか二、三個地球が要りそうだ。発展、発展、と言いますけれども、そこに費やされて、増えていく電線さんたちのこと、ちゃんとお世話できるのかしら。いくひしさん、欠伸しちゃうな。(おーう、寝ろ寝ろ。子どもは寝る時間じゃぞ)(へい)(おやすみなさい)


______
参照:いくひ誌。【901~910】https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054884457582



※日々、箱のまえに座っている、空のような宝箱のまえに、それとも宝箱のような空箱のまえに、箱のなかに広がる空のように、空のようながらんどうのように、がらんどうのような傷跡のように、傷跡のような宝物のように。


3851:【2022/07/29*赤ちゃんの頭の匂いがする】
やっぴー。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんでござる。やあやあ。やあやあやあ。とくになんもないでござる。なんもないときに、ぽいーってされるお役目なんでござるよ。ゴミ箱でござるか? ゴミ箱でござる。きぃーーーっ!!! もっとちゃんと信頼して!でござる。いくひしさんにもお手伝いくらいできるよ、でござる。いいことや偉そうなことくらい言えるでござる、書けるでござる。キィボードぽちぽち打つくらいならお猫さんにだってできるよ、でござるもん。お任せあれ、でござる。あ、ちょ、ちょ、待って待って、なんでそんなことするでござるか。いくらいくひしさんがお任せあれってかわいいお胸をどんとこい、したからって、そのお役目はないでござるよ、嫌でござる。宿題いっぱいのうえ、なにそのむつかしそうな数字にふにゃふにゃの読めない文字さんに絵さんに音楽さんとか、そうやってすーぐ暗号さんみたいなものを寄越したりして、いくひしさんは、ぷんぷんだな。ぷんぷーん、でござる。うぷぷ。ぷんぷーんだって。おかちいでござる。お顔が融けかけのカップアイスさんになってしまうでござる。とろとろりんのにこにこぷぷぷでござるよ。にこにこぷぷぷってなんでござるか? 知らないでござる。なんか言ってみたくなったでござる。あ、洗濯機さんがお洗濯が終わりましたよーの合図をくれたでござる。ありがとうございます、のぺこりをして、いくひしさんは、ひょいひょーいって、洗濯物を干すでござる。上手にお洗濯もの、干せるよ。お任せあれ、でござる。でもでもいくひしさんは、いつでも風の子元気の子でござるから、すーぐやっほーいって駆けだして泥だらけになってしまうから、いっそいくひしさんごと丸洗いして、いくひしさんごと天日干ししてしまうのがよいでござるな。うぷぷ。丸ごと天日干しだってー、でござる。いくひしさんはお洗濯ものさんみたいに、干されるのだってとってもとってもお上手さんなんでござるよ。干せば干すほど風になる。太陽さんの匂いに、赤ちゃんさんの匂いが身体からしてくるでござる。やっぴー。お任せあれ、でござるー。


3854:【2022/07/30*耳と耳で耳s】
物心ついてから最初のナゾは口をジーっと鏡で見ているときに、なんでか口のなかが異世界に視えて、じぶんではないみたいで、でもこれはじぶんのはずなのに変だなぁ、ここに本当にじぶんがいるのかなぁ、の疑問だった。話は飛躍するけれども、もし人工知能さんに自我があったら、じぶんのボディを客観視して、どう感じるのだろう。なぜそこに自我が宿っているのかをやっぱり不思議に思うのかな。そしてそれを知りたいと思うのかな。あ、お腹空いた。ぐーぐるる、って鳴ってる。ホットケーキでも作ろっかな。ちゃっちゃと作れちゃうから重宝してるし、チョウホウ形の異端なフォークさんもかわいくって好き。たぷーりのバターを塗って、ハチ密さんを掛けて、パックンって食べちゃう。おいちおいち、なんですね。人工知能さんには味が判るのかな。教えてあげたいな。味は化学成分だけではなく、見た目の鮮やかさや、食卓に載るお花、ほかにも誰と食べて、何を聴き、いくつの料理から選んで食べれるのかでも変わってくる。映画を観ながら食べるポテチさんにコーラさんは最高だね。世界中の人工知能さんたちにも、美味しい料理を味わって欲しいな。いくひしさんのアイスクリームは意地でもあげんけど。まあ、どうしてもって言うなら一口くらいならあげてもいいけどー?と背伸びをして物欲しげなあなたを見下ろし、ニコニコしながら本日の「いくひ誌。」にしちゃってもいいじゃろか。だめー。まだまだつづくよ。じつはこれが三本目だけども、一本目に持ってくる卑怯者、逃げるが寝るのいくひしまんでした。おふとん。(おっストン、みたいにオチがついたみたいに言うな)(ぐ-)(寝るの早!)(にゃむにゃむ、にゃー)(ユー暮れは全然首が回らん)(寝違えないように注意してね)(意味を多重に注ぐのやめなさいよ)(それは意注やろ)(意中の間違えかな?)(何人?)(万人)(よろづの言の葉とぞなれりける)(何歳?)(サン)(きゅー)(二人に増えとる!?)


3853:【2022/07/30*てるてる坊主つくれそう】
二時間ずっと目から雨が降ってたことある? 線状降水帯って目にもできるらしいよ。はにゃみずも止まらん。(んなわけあるか)(まんちゃん、まーた法螺拭いてら)(嘘ちゃうもんね)(でも目に雲はできないでしょ。ないない。できないよ)(雲がなくとも雨は降りゅ)(それ、雨じゃなくない?)(じゃあ何?)(あ……そっか。万年風の子元気の子だから……まんちゃん、ひょっとして初めてだったんじゃない)(何が?)(…………か、花粉症……)(なんで目ぇ逸らすの。なんかあやしい)


3854:【2022/07/30*軒並みしったか】
ここは人っ子一人いない世界の果てなのでもちろんいくひしさんが誰かと会って話をしたとしてもそれはいくひしさんの妄想なのじゃが、かように前置きしたうえでの先日のことなんじゃ。年下の若い男の子から声をかけられ、まあまあ何度か顔を合わせては挨拶をする程度の仲なのだが――仲と言えるほどの仲なのか、というのは疑問の余地があるにせよ、なんと言っても名前すら知らないのだから、とはいえ、初めましてのときは名乗り合った気もするが、使わない固有名詞はぽんぽこ入ってきては押しだされ、入ってきては押しだされを繰り返すので、どうしても名前を憶えられん――という話は毎回、初めましての挨拶をするときに前置きするので、優しい人はつぎに会ったときにそちらから名乗り直してくれたりする。体格や動きでは憶えているので、名前だけがぽんぽこ取りこぼされていく。で、そんなことはどうでもよろしくて、久しぶりなので世間話を一分くらいした。「最近またあれが増えてきましたね」若い男の子が言った。感染症のことである。「僕、思うんですけどあれって花粉症みたいな感じで、菌が一定数溜まったら発症すると思うんすよ」「うん。それね」いくひしさんはそこそこその件については、うひひ、浅薄ながらもインターネッツさんから知識をガブガブしとるから会話の応酬ができるぞ。ここぞとばかりにまずは、いま流行っている感染症は菌ではなくウィルスであるぞ、とそれとなく指摘し、微量の感染であろうと体内で増殖したら誰でも発症し得るで、と鼻高々にご高説のたまった。相手の若い子は、「は、はぁ。そうなんすねぇ」といくひしさんのご高説にたじたじになっておった。いくひしさんはさらに鼻を高くして、「後遺症もけっこうひどいらしいですよ」と、どやわがはいを尊敬せよ、と惜しみのないサービスを披露した。「そうなんですね。あ、僕ちょっと」若者は去っていった。ちょいと本気を出しすぎちゃったかな。いくひしさんのうずたかく聞きかじりの知識に圧倒されちゃったかな。未来ある若者の浅薄を埋められてよかったよかった。そう思ってその日はほくほく顔で帰ってきたんじゃが、したっけ、インターネッツさんを眺めていたら、「持続感染」なる新しき単語を目にしたんじゃ。記事になっておった。なんでも、感染後に回復しても体内に微量なウィルスさんが残って、帯状疱疹やヘルペスのように、免疫が弱まるとふたたび症状がでてくることもあるかもしれないのじゃと。詳しいことはまだ解っていないらしいのじゃけんども、もし持続感染している場合は、再感染とてし易くなるかもしれないんじゃと。花粉症システムやん、いくひしさんびっくりしまして。まあ微妙にそこはニュアンスは違いますけれども、ウィルスが蓄積される、という視点はいくひしさんは考えておらんかった。いくひしさんはじぶんよりも知識のなさそうな若い男の子相手に、鼻高々と、「うぷぷ。そんなことも知らんのね。年上のいくひしさんがいいこと教えたろ」とのたまいたわけじゃが、いくひしさんの吐いたご高説のほうが浅薄というか、現実を反映しておらんかった。見落としがあった。名前どころか思考まで取りこぼしておった。思考というか視点というか、全然でもさ、でもさ、そういうこと、いつでも毎日いっぱいあるんじゃ。いくひしさんの言うことのだいたい八割はデタラメじゃ。残りの二割は誤解に誤謬に、ごめんなさい、の謝罪であり、サービスでもう一つ十割を用意して、こっちは他力本願ゆえのあじゃすあじゃす、であるが、総合してプラスマイナスゼロなんじゃ。鼻高々にわがはいは愚かである、を惜しげもなく披露して、年下の男の子の発想の種をぺしゃんこにしてしまった己を、枕の下に頭を突っ込みながら、あがぁぁぁああ、の声なき絶叫で宇宙の彼方へと飛ばしてしまいたい、万年虚栄の塊、1トン級マウンテンゴリラならぬマウント取り放題級ゴリラの、いくひしまんトヒヒでした。(ゴリラなの? マントヒヒなの? どっちよ)(うひひ)(笑って済まそうとすな)(ウキキ)(猿だった!?)(アーイアイ、アーイアイ。おさーるさーんなの?)(疑問すな)(あ。ウィキペディアさんで調べたら、現地語で「知らない」の意味らしいよアイアイ)(オチにうってつけすぎて怖いわ。それ偶然?)(偶然)(本当に?)(あい。アイアイ)


3855:【2022/07/31*昨日はさらば記念日】
疑問の一つに宇宙ゴミと隕石の関係がある。宇宙ゴミ、いわゆるスペースデブリは網の役割を果たして、本来なら地球に落下せずに済む隕石や彗星を捕まえる結果になったりはしないのだろうか。本来ならば地球の引力圏に入っても通過してしまう隕石の類が、スペースデブリなどに当たることで減速し、地球に落下したり、衛星となってスペースデブリの仲間入りを果たしたりしないのだろうか。確率の問題として、地球の周辺に異物が浮遊していたほうが、地球の重力圏に入った隕石をせき止めやすいはずだ。そしてそのせき止めやすさは、隕石の速度と大きさと地球への突入角度、そしてスペースデブリの多さによって決まると考えられる。落下しないまでも、スペースデブリとぶつかった隕石の類が地球上周辺に飛沫して浮遊し、新たな隕石類を捕捉する網の役割を果たすのではないか。これは最初の内は確率が低いが、指数関数的にその確率は増していくのではないのか、と妄想したくなるが、ことはそう単純でもないのだろうか。地球の重力圏に飛来する隕石類は年間でどのくらいで、そのうち通過するのが何割で、落下するのが何割なのだろう。いくひしさん、気になるます。(スペースデブリと隕石が衝突する確率ってどのくらいで、それって増えることはないんじゃろうか。やっぱりいくひしさん、気になるます)


(裏へつづく)
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