第1話

文字数 1,999文字

 ピピピッ、ピピピッ……
デスクの上のスマホが鳴った。
残業続きの一週間だった。金曜日は定時で帰ると決めていたのに、結局このアラームを聞く羽目になっている。アラームはいつも定時の二時間後にセットしていた。
(さぁ、帰るとするか……)
フロアにはまだ数人の男性社員が残っていた。
「お先に失礼します」
彼らの邪魔にならないように静かにオフィスを後にした。9階から降りてきたエレベーターは空っぽだった。
(9階にはまだ残業している人がいるのか……)
 外に出ると里子は両手を空にあげグイーっと背伸びをした。気持ちを切り替える為の儀式みたいなものだ。それから左側にある信号が青に変わったことを確かめて駅へ向かって歩き出した。マスコットがバッグで揺れている。

 里子が小さかった頃、よく母がペンギンの絵本を読んでくれた。そして水族館で本物のペンギンを見てすっかり虜になってしまった。
(ペンギンさんみたいに上手に泳げるようになりたい)
 閉園のアナウンスに駄々をこねる里子に両親は売店でマスコットを買ってくれた。
 そして小学校に上がりスイミングスクールに通うことになるのだが、帰り道、交差点で事故に遭いカバンにつけていたマスコットを無くしてしまったことがあった。病室でペンギン、ペンギンとうなされるので母が事故現場を探してくれた。そして水たまりに落ちていたマスコットを見つけて寝ている里子の隣におき回復を祈ってくれたそうだ。目覚めた時に隣にちょっと汚れたペンギンがいたことはハッキリと憶えていた。
 それからというもの、里子が体調を崩す度に両親は過度に心配した。事故の時に無事を祈り続けてくれたことは後々何度も聞かされていた。だから交差点は誰よりも注意して横断することにしていた。
(ふーっ、無事に渡れた……)
 そう思った瞬間、背中でクラクションが鳴りキキーッというブレーキ音がした。
(歩行者信号は赤に変わっているはず……)
振り向くと自転車と女の子が倒れていた。側にペンギンのマスコットがついたリュックが転がっている。
 過去がフラッシュバックした。
 一瞬時間が止まった。
里子は咄嗟にバッグにつけていたペンギンのマスコットを握りしめ念力を送った。
(止まれ、時間よ止まれ)
 そして気がつくと女の子のすぐ手前で車は停車していた。
 時間が再び動き出した。
運転手の男性が降りてきて駆け寄る。
「大丈夫?怪我はない?」
女の子は泣いている。
「足が痛い……」
里子も車が来ないことを確認して駆け寄った。
「どの辺が痛い?」
「足首……」
(捻挫か、もしかすると骨折しているかもしれない……)
女の子を歩道まで抱えて連れていった。
「交差点の手前で止まれーという声が聞こえたので減速していました。ぶつからなくて良かった。失礼ですがあなたは?」
「たまたま歩道を歩いていた者です。近くに夜9時までやっている病院がありますので、このまま連れて行きます」
「そうしていただけるとありがたい。私は急用がありまして病院まで送ることはできますが、その後はちょっと……」
「大丈夫です。すぐそこですから私がおぶって連れて行きます」
男性は何度も頭を下げ、別れ際に連絡先を書いたメモをくれた。
(佐々木さんって言うんだぁ。ちょっと見た目は怖そうだったけど思ったよりいい人なのかもしれない)
里子は泣いている女の子をおんぶして話しかけた。
「名前はなんていうの?」
「ゆかり……さのゆかりです」
「お家はどこ?お家の電話番号教えてくれる?」
「この先のニュータウン。お父さんの携帯は……」
「じゃ、かけてみるね」
里子は病院に着く手前で電話をかけた。事情を話すとすぐに行くと電話が切れた。
「お姉さん、ありがとう」
安心したのかもう涙は乾いていた。

 病院に着くと事情を話し、すぐに診察してもらった。どうやら軽い捻挫のようだ。待合室で待っていると男性が飛び込んできた。目が合い真っ直ぐにこちらへやってきた。
「白井さんですか?この度はゆかりが大変お世話になりました」
「いえいえ、偶然通りかかっただけですからお気になさらずに。軽い捻挫だそうです……あと自転車は五丁目の交差点のところにおいてありますので」
里子はゆかりちゃんに会わずに病院を後にした。車のことは敢えて言わずにおいた。余計な心配事はない方がいい。
 佐々木さんには報告をいれておいた。安堵した様子が電話口にもわかった。
 
 里子は帰り道、フラッシュバックしたときのことをぼんやり思い出していた。
佐々木さんは交差点に入る前に止まれという声を聞いたと……私が念じる前だ……そういえば私が事故にあった時、母は念力を使ったと言っていた。人間に与えられた神秘の力だと。念力……時間がスローモーションに感じた瞬間……そうか、両親が助けてくれたんだ……
(ゆかりちゃんのペンギンは無事だったよ、ありがとう)
 里子は星空を見上げ両手をあげてもう一度、思いっきり背伸びをした。
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