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 最寄り駅で電車を降りて、改札を出た。そのまま自宅に向かおうとして、そういえば、と冷蔵庫の中にあるものを思い出そうとして立ち止まる。

 小路優一がアルバイトから帰る時間には、自宅最寄り駅のスーパーマーケットはすべて閉店している。冷蔵庫の中のもの思い浮かべながら、とりあえず駅前のコンビニに寄って夕飯の献立を考えることにする。

(卵はまだあって、ネギも残りがあったはず。キャベツはそろそろ使い切りたいな――)

 極端に倹約家というわけではないが、こういうときの買い物はなるべく最小限に済ます。おかずが寂しいときや、翌朝の牛乳の賞味期限が怪しいときに限っている。親元を離れ都内の大学に進学して二年でそういった生活スキルはだいたい身についた。

 大事なのはリズムだ。

 料理も掃除も洗濯も、決して毎日頑張る必要はない。少しずつの作業量を、だいたいの間隔で、しかし途切れないように回していく。昨日はこうしたから、今日はこう。明日はこうすればいいから、週末はこう。

 回るようになってしまえば、あとはほとんど「そういうもの」になる。当たり前のことになって、心地よく日々が動いてゆく。そう悟った。

 優一はコンビニの店内をぐるりと周ってすぐ、レジにカゴを置いて会計を済ませた。

 自分とほぼ同じ世代の若いコンビニ店員が発する「ありあしたー」という適当な日本語を背中に聞きながら店を出る。小さなビニール袋をひとつ下げて、家路についた。

(店員の挨拶も、リズムだ)

 優一は、ぼうっと考える。客が来たらこう、レジに商品を置かれたらこう、会計が終わったらこう。その積み重ねが彼らの仕事になって、生活になる。リズムに乗って楽器を鳴らすように、日々の暮らしを作る。

 優一が暮らしているのは通っている大学から数駅ほど離れた、各駅停車しか停まらない都内の街。数軒しかない飲み屋街を通り抜けて歩く。冬を迎えて肌寒くなってきたからか、カウンター席がむき出しの居酒屋には厚いビニールカーテンが昨日から設置されるようになった。この時間にシャツとジャケットでは、そろそろキツいかもしれない。

 路地をいくつか抜けてすぐ。少し古めの八階建て分譲賃貸マンションは、この近辺で最も背の高い建物だ。エントランスを抜け、エレベーターで上がって五階。外に面した廊下からは、通ってきた駅前商店街が見える。

 鍵を開けて玄関。続く暗い廊下の右手ドアは風呂やトイレと脱衣所。左手は優一の自室。廊下突き当たり奥、閉じたドアの隙間からリビングの明かりが漏れ出ている。

「ただいまー」

 靴を脱ぎながら奥に向かって声をかけてみるが反応はない。スリッパに履き替えてリビングに入る。フローリングには、寒くなったので毛足の長いラグを敷いたばかりだ。シンクなどのキッチンスペースが併設された部屋中央に、座卓とソファ。

 さらに奥、バルコニーに続く大きな窓の手前には窓に向かって大きめのパソコンデスクが置いてある。デスクにはデュアルディスプレイの両側に無骨な黒いスピーカー、キーボード、七十六鍵のシンセ、そして優一にはよくわからない箱型の機材がいくつか。ほどほどに整った部屋の中で、その部分だけが異彩を放っている。電源が入ったままの二つのディスプレイにはたくさんの波形が帯状に並んでいる。

 ――が、そのパソコンの持ち主が見当たらない。

 優一は部屋を見渡して、シンク横のスペースにビニール袋を置いた。

 そっとソファに歩み寄り、背もたれ側から座面を覗き込む。

「仁子、ただいま」

 ソファには、手足をきゅっと丸めてタオルケットにくるまって、少女がひとり寝息を立てていた。優一が声をかけると、眉根に皺を寄せて身じろぎ、ややあって目をうっすら開ける。

 その様子を背もたれ側からじっと見守って、優一の口元に自然と笑みが浮かぶ。それどころか、ぶふ、と息も漏れ出てしまう。

「帰ったよ」

 優しく声をかけるが、仁子は再び目を閉じてしまう。すぐに、規則正しい寝息が漏れ始める。

「起きてからご飯作るから。ゆっくり寝てな」

 ボブカットの黒髪をそっと撫でる。よかった、と思う。

 優一はソファの背もたれに顎を乗せて、にんまりと笑みを浮かべて妹を見下ろす。

 はー。めちゃくちゃかわいい。

 数束の黒髪を張り付かせた白い頬っぺた。無防備に開いたピンク色の唇。くるまっているタオルケットからちょこんとはみ出した細い指。すべてが優一にとっては愛しい。愛くるしい。
 
 再び撫でたくなるが、ぐっとこらえる。うっかり起こしてしまっては悪い。

 ふと視線を動かし、デスクの上でかすかなうなりを上げるパソコンとディスプレイを見やった。電源がつきっぱなしということは、恐らく優一が帰ってくるまで制作作業を続けて、力尽きてしまったのだろう。

(今日も頑張ったんだなあ)

 優一はなるべく音を立てないようソファから離れ、パソコンデスクに向かった。黒いメッシュの椅子に腰掛けて、スピーカーの上に置いてあったヘッドフォンを取り上げる。両耳につけて、デスク上のインターフェースにジャックを挿した。

 キーボードのスペースキーを押して再生する。ディスプレイに表示されているの波形の上を、細い線が左から右へ移動する。両耳に音楽が溢れる。

 パソコンデスクの一式は優一の持ち物ではなく、すべて仁子のものなので、わかるのはこのパソコンで動いているのが音楽制作ソフトであることのみ。その扱いについてはおぼろげにしか知らない。

 優一と同居している妹の仁子は、音楽家だ。少なくとも優一はそう思っている。
 
 まだ二人とも実家にいた頃から、仁子がひとり黙々と部屋に篭ってパソコンで音楽を作り、インターネットのコミュニティで人気を博していたことを優一は知っている。それだけで、優一には純粋に「すごいな」と思う。数々の音を組み合わせて構築し、数分間の作品を作り上げる。それだけで、優一にとっては十分に「音楽家」と呼ぶに値する偉業だった。自分も高校生時代にはギターを弾いていたこともあったが、とてもかなわない。

「うちの仁子は、すごい」

 その思いに打ちのめされ、仁子が制作にのめり込むあまり高校に行かなくなってしまっても、優一だけは味方だった。両親の激しい叱責からかばい、上京したてで住んでいたアパートを解約して二人暮らしができるこのマンションに引っ越し、仁子を呼び寄せた。

 もともと、溺愛に近いくらい妹には甘かった。それは認める。しかし唯一の兄妹を、可愛がってはいけない法などない。どれだけ地元の友人たちに馬鹿にされても、それだけは揺るがなかった。思春期に異性の話で盛り上がる周囲を尻目に、仁子が独り立ちするまではそういうのは無理だと決めたと伝えると、ほとんどの友人たちはドン引きして苦笑いを浮かべた。あの眼差しは記憶に新しい。

 さすがに小学生の頃から一緒に風呂に入ることはなくなったが、それでも常に仁子は心配の種であり、羨望の的だった。常に一緒にいたいという気持ちは今もある。からかいの言葉は既に麻痺して受け付けない。何がシスコンだ。うちの妹の兄になってから言え。妹は可愛い。妹は正義。

 妹の作る音楽は、名曲。

 そう思いながら、優一はヘッドフォンから流れる音楽に身をゆだねていた。背もたれに浅く腰掛けて、カーテンの隙間から半円型の月を見上げて――。

 ずどん、と震動がきて、一瞬。

 ヘッドフォンの音楽と混ざったその音が、現実のものと気付くのに数秒かかった。そして、どしん、と再び震動。

(地震!?)

 素早くヘッドフォンを外して、揺れを感じようと仁王立ち。座卓を挟んだ目の前のソファに小さく横たわる仁子を凝視しながら、すぐにそちらに駆け寄れる姿勢で周囲の様子をうかがう。幸い、仁子の眠りは深いようで、起きる気配はない。

『うるせーー! くっそつまんねえーーー!!』

 隣だ。鉄骨鉄筋SRCの壁を突き抜けて、どんがらがっしゃん。どすん、ばたん。震動と騒音。

 都内のマンションで隣人との交流など稀だ。外の廊下やエレベーター、エントランスで出会えば挨拶を交わすといった程度の付き合いしかない。

 ここに住み始めてから、ここまでのあからさまな騒音を耳にしたことはなかった。何が起こっているのかわからず、優一はとりあえずそのままの姿勢で耳をそばだてる。

 確か隣人は女性のひとり暮らしだったはず。一限の講義に出かける際に、エレベーターですれ違った。ぼろぼろに疲れた顔の若い――自分より少しだけ年上だと思われる――女性が、自宅の隣の部屋に帰るのを見たことがある。ぼろぼろではあったが、顔立ちは整った、いわゆる美人タイプの女性だったことは覚えている。

『もういいってーー! 帰れよバカーーー!!』

 隣から響いてくる罵声を、あの女性が放っているとしたらヤバい。どうやら酔っ払っている様子だし、プライベートだし、聞いてはいけないものなのかもしれない。

『あたしデリバったんだからもう充分だろーー! どうせいつものこと~とか言うんだろーー!!』

 怒声の内容は良くわからない。それでも、異変ではある。

(さすがにこれは……)

 優一は仁子がまだ眠ったままであることを横目に確認しながら、急いで部屋を出た。ビルケンのサンダルを引っ掛けて外に出る。隣家のドアに近づく。

『◎★○■☆ーーーー!!』

 女の怒鳴り声は変わらず激しい。玄関ドアの向こうから、もはや意味を成さない勢いだけの罵声がくぐもって響いている。部屋にいたときには気付かなかったが、どうやら男性が介抱しているようで、「まあまあ」や「そうだね、はいはい」などと子供をあやすような声も聞こえてくる。

 こういうときはマンションの管理会社に連絡するのが正しい対応なのだろうが、深夜のため連絡はつきづらいだろうし、また即時に対処してくれる保証もない。警察……は、なんとなく気が引ける。事件性があるかないかは、現時点ではわからない。

(事件っちゃあ事件だけどさ……)

 とはいえ、自分にとって最優先すべきは、すやすやと眠る仁子の邪魔をしたくない、という一点だ。かわいい妹の、一生かかって眺め続けてもいいと思うほどの天使のような寝顔を強制的にシャットダウンするようなマネは、絶対にしたくない。

 意を決し、ギャンギャン騒いでいる隣家の、インターフォンに指を伸ばす。

 ばたん!

 ――と同時に、優一の眼前に突然、ざんばら髪の女の顔が現れた。

 絶句。ばっくんと思い切り跳ね上がった心臓の勢いが激しすぎて、優一はインターフォンのボタンに指を伸ばしたまま固まった。静かにしてもらえませんか妹が起きちゃうんで、という苦情をスタンバイさせていた喉の奥から、代わりに「んがッ……?」と音が鳴った。

 目の下がほのかに赤い女の顔と、しばらく見つめ合う。潤んだ瞳はとろんと溶けて、何も見えていないかのように精気がない。半開きの口からは猛烈な酒臭さと、「ああ?」という疑問の声が漏れ出る。身に付けているブラウスの胸元がはだけて、ずぶずぶにだらしない。

 それでも、と優一の脳みその冷静な部分がぎゅるっと動いて判断する。

 それでも、とんでもない美人だ。

「おいおい~、ちょっと真理亜さん待って……んん??」

 女の後ろから場違いなほど呑気な声色の男が呼びかけて、優一はハッと我に返り状況を把握する。インターフォンを押す直前に玄関のドアが開いて、この女が顔を出したのだ。

 出会いがしらに優一はインターフォンに指を、女はドアノブを内側から掴んだままの姿勢。優一はあまりに突然のことで動けず、女は酔っているためか判断が遅く、互いに硬直してしまった。

「あ、あの……」

 優一はようやく何かしら発言しようと口を開く。

 その途端、女の溶けた瞳に一瞬にして光が点った。にいっと口の端を持ち上げて笑顔になる。

「お隣さん、だよね?」

 恐怖にも似た妙な感情が、ぞくっと優一の背中を撫でた。
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