第6話

文字数 5,031文字

   俊也3

 今日のバイトは遅番で、夜10時からの閉店処理はチーフの由紀恵さんに任せ、俊也は「お先に」と通用口を出た。空を仰ぐと、月がもう一段、肉を落としている。何かと言っては空を見上げるのは、間宮あさみとLINEをやり取りするようになってからの癖だ。それまで自分は、会社でもがき始めてから、地面ばかり見て歩いていたような気がする。思わぬ、間宮効果だ。
 でも、このところ何日か、間宮からLINEが来ていなかった。満月の夜が最後だから、――かれこれ1週間になろうとしている。これだけ間隔が空いたことは、無かったような気がする。
 そういえば、と俊也は思う。
 ここ数か月、間宮からのLINEは何と言うか、心がこもっていない、心ここにあらず、という感じで、文面は短く、写真もただ月が浮かんでいるだけ、みたいなのが多かったんじゃないか。このあいだの満月の時も、振り返ってみれば、素っ気ない文章だった。
 今や、バイトが終わった後は、[店を出る→空を見上げる]、そして、[→スマホでSNSを――つまりは、間宮からのLINEが入っているかどうかをチェックする]、ここまでが、俊也の一連の動作になっている。
 それでスマホをみると、やはり今夜も間宮あさみからのLINEは来ていない。
 俊也はそれで、少し、間宮とのLINEの履歴を遡ってみる。
 4月後半くらいから、少しずつLINEの間隔が開き、文章は短くなり、写真はおざなりになり……。
 漠然と感じていたことが、裏付けられていくようだった。
 ――どうしたのかな。あるいは、もう飽きたのかもしれない。
 それは、寂しくはあるけれど、仕方のないことなんだろう、きっと。自分と間宮とがともに過ごした時間は1年間、それももう2年前のことで、しかも別に恋人だったわけでも、特に親しかったわけですらなく、単なるサークルの4年生と1年生だっただけだ。
 俊也はスマホを切り、家路に着こうとした。
 まさにその時、スマホのバイブが振動した。
 俊也は急いで、もう一度、スマホを取り出す。
 間宮からだ。
 でも、その内容は、空の話でも月の話でもなかった。
「先輩、一生懸命がんばっても、いくらがんばってみても、どうしてもうまく行かない時、いったいどうしたらいいんでしょう」。
 文面をみて、俊也は思わず息を止めた。止めて、その短い一文をじっと見つめ、心の中で何回も繰り返し読んだ。
 それはまさに、会社を辞めてから、俊也自身がずっと問い続けてきた疑問だった。いまだに解くことの出来ない疑問だった。
 努力を惜しまず、がんばって、がんばって、がんばること。それでも自分は、うまくいかなかった。会社で自分は、やればやるほどズレていく感覚がよく分かって、でも、がんばり続けるしか方法を知らなくて、結局、そのまま突き進んで、壊れた。
 あの時、どうすれば良かったのか、何が正解だったのか、今も分からない。パワハラを訴え出ればいい、なんていうのは、その場の空気を知らないからこそ簡単に言えることだ。あれは、そんなに単純なものではなかった。だって、パワハラだなんて、気付かなかったのだ。被害を受けている本人が。ただただ、自分の力不足、努力不足だと思い、必死になった。
 そんなにきつかったのなら、逃げればよかった? 壊れる前に、さっさと辞めればよかった?
 どこをどう探しても、自分の中からは、そんな選択肢は出てこなかった。なぜなら、困難にぶつかったら何とか活路を見出せるようにひたすら努力し、がんばる、それが自分だから。そういう自分を簡単に否定することなど出来なかった。もしあそこで逃げていたら、自分を形作ってきた、それまでの生き方すべて、つまりは、大学生のとき、高校生のとき、中学生のとき、もっと前、それを否定することになり、あの時の自分に、そんなことはとてもで出来なかった。だから、選択肢はただ、がんばるしかなかった。それは、自分を壊す一本道だった。
 がんばっても、がんばっても、うまくいかない。それどころか、却って自分を追い込んでしまい、どんどん事態は悪くなってしまう。でも、逃げてしまうような才覚も(そうだ、逃げられるというのは一種の才覚なのだ)ない。じゃあ、どうしたらよかったのか。あの時、何が正解だったのか。
 考えれば考えるほど迷宮に入っていく感じがして。窒息しそうになって。それで、――俊也はもう、考えるのを停止した。もしかしたら思考停止は、生存本能だったのかもしれない。今になって、俊也はそう思う。
 つまりは、間宮のLINEへの答えを、俊也は持ち合わせていなかった。
 だから、俊也は既読を付けることができず、ただスマホの画面を見ているしかなかった。
 そうするうち、間宮からの新たな着信が入る。
「今日、私たちのサークルの廃部警告を受け取りました。コロナ禍が2年目にはいり、1年生、2年生が一人も入部しませんでした。3年生も減っていって今は3人だけです。夏休み明けまでに下級生が入らないと、来年度の部室と予算の確保が出来なくなるそうです。」
 それを読んで俊也は心を決め、LINEに既読を付けた。
 間宮からのLINEはまだ続いた。
「30年の伝統を持つこのサークルを存続させようと、私たちは、本当に一生懸命に新入部員の勧誘をしました。去年も、今年も。でも、ダメでした。」
 俊也は、努力が営業成績に結び付かず、プレッシャーが積み重なっていった会社での日々を思い出す。あるいは自分の営業方法は正直すぎたのかもしれない。がめつさや悪どさが足りなかったのかもしれない。実績の上がらない俊也からは、人も離れていく。周りからの当たりもきつくなっていく。直接罵倒を繰り返したのは上司だったけれど、同僚や派遣さんたちも、影で俊也のことを「使えない」と冷ややかに言い放っていることは、すぐに俊也の耳にも入ってきた。
 間宮のLINEは続く。
「そうするうち、3年生までが、一人、また一人とサークルに出てこなくなりました。サークルに出てきてと言われるのが鬱陶しかったのかもしれないけど、そういう人たちは、私とわざと会わないようにして、避けているのだと分かりました。1年生の時には10人以上いた同級生がそうやってどんどん減って、今はもう3人です。」
 間宮のLINEを読んでいて、俊也の胸の奥の方が熱くなった。
 それは、ここ久しく経験していなかった感情だった。
 怒りではない、哀しみでもない、同情でもないし、感動とも違う。
 そういうすべてが少しずつ入って、それで、居ても立っても居られない。そういう感じ。
 気がつくと俊也は、スマホを持っていない左掌を、爪が食い込むくらいに強く握っている。
「毎晩、先輩も同じ月を、星を、見ているんだなあと思いながら、LINEして、それでよし、がんばろうって。でも、もうダメなんでしょうか。がんばったけど、でも、私たちが、私が、このサークルを終わらせてしまうんでしょうか。」
 俊也は、夜の空を見上げた。
 この月、星。同じものを、今、間宮あさみも見ている。
 この東京の空の下で。
 もしかすると、涙に暮れながら。
 俊也は、何も考えられなくなり、LINE通話を押していた。
 ほとんど呼び出し音が鳴る間もなく、通話が繋がる。
「間宮」
 俊也は呼びかけた。
「岡崎さん?」
 間宮あさみは、まさか通話が来るとは予想していなかったようで、驚きを隠さない。
「うん、俺」
「私あの……」
 声を聞くのも、話をするのも、1年半ぶりだった。
 ずっとずっとSNSで繋がってはいたけれど。間宮がこんな状況に置かれ、苦しんでいることにはまったく気がつかなかった。
 LINEで夜空を報告しあっても、俺は自分のことばかりだった、俊也はそう思った。
 自分はあの時ああすればとか、こうすればとか。それは、結局、自分のことでしかなく。
 そうじゃなく、もう分かんないんだし、少し、自分のことは措いておこう。それで、自分が誰かのために、大切な誰かのために、何でも良い、出来ることをやってあげる。
 何が出来る?
 こんな自分に何が?
「間宮。LINE、読んだ」
「すいません、愚痴っちゃって。このところずっと、LINEするたびに愚痴りそうになって、でもそんなLINE送っちゃいけないと思って、自制してたんですけど、でも何かもう、どうにもならなくなって。ごめんなさい」
「こっちこそ、何も知らないで、気付かないで、悪かった」
「いえ、そんな」
「よく分かんないんだけど、俺のいたサークルでもあるし、何か、間宮の力になれないだろうか?」
「え、そんな、でも」
「間宮、俺さ、――会社、辞めたんだ」
 少し間があってから、
「ええ。そうらしいってことは、先輩方から聞きました」
 ためらいがちに、間宮はしずかに答えた。
 それは、そうだよな、と俊也は思った。こちらから触れて回らなくても、知り合いのネットワークは意外と広いものだ。
 間宮は続けた。
「退職して、その後どうしているかはでも、誰も知らないみたいで。私も知りません。知らないけど、いや、知らないから、このLINEだけが、先輩と繋がっていられる細い線みたいに思ってました」
「――うん」
「あの――、時々、愚痴を聞いてもらえますか? それだけできっと、私」
「分かった、もちろん、いいよ。それで、何か手伝えることが出てきたら、その時、また考えよう」
「一緒に、悩んでもらえますか?」
「一緒に悩もう」
 通話を切ってから、しばらくは、ぼんやりしていた。
 新卒で入社して3か月で体調に明らかな異常が出始め、半年ももたずに退職、その後、音信不通になった先輩。
 ああ、もしかしたら、間宮あさみは、俺の状況を正確に想像していたのかもしれない。
 だから、間宮は、空の話ばかりLINEして来たのかもしれない。
 家に籠っていないで。
 外に出ましょうと。
 月が毎日、その容貌を変えるように。
 誰もがみな、昨日と同じ自分ではないのだから。
 変わってしまうし、変わっていくことも出来るのだから。

「あれ? 岡崎くん、まだいたの? どうしたよ、青年!」
 いきなり後ろから、由紀恵さんに声をかけられた。
 ドラッグチェーン・ハナコの閉店処理が終わって、出てきたのだろう。
「いやちょっと、知り合いと電話してて」
 俊也は、つい、由紀恵さんから目を逸らす。
「ふーん」
 由紀恵さんはそこを突っ込もうとはせずに、
「あ、そうだ、あのさ」
 俊也の腕をぱんぱんと掌ではたいた。そういう仕草をみると俊也は、ああ、この人は俺のことを子供と思ってんだろうなと、感じる。まあ、実際に、由紀恵さんからみれば、そうなのだろう。
「岡崎くん、MVの話聞いた?」
「え? MVって、何ですか? 何か、新しい販促品?」
「違うよ」
 由紀恵さんは、また、俊也の腕をはたく。
「ミュージック・ビデオ。陽菜ちゃんって、音楽やってるでしょ? MVを作るんだって。それで、私、出演依頼を受けたのね。陽菜ちゃん、岡崎くんにも出演してもらうように頼むって言ってたよ」
「ええ? 聞いてないですよ、それ」
 また、あの女は勝手なことを、と俊也は思う。
「あ、じゃ、私、先走っちゃったかな。でも、出るでしょ? 私も出ようと思って。岡崎くんも出ようよ。良い記念になるよ。じゃね、ダンナと子供が待ってるから、先行くよ。またね」
 それで、由紀恵さんは、いつものようにつんのめるようにして駐輪場へと早足で去って行く。
 先週、由紀恵さんのおばあさんが転倒して大腿骨を骨折、救急搬送されたという。由紀恵さんの母親は腰を悪くして動けず、由紀恵さんのダンナはコロナ禍で被害の大きかった観光関係でボーナスがほとんど出なくて住宅ローンはどうやら延滞しているらしく、でも、由紀恵さんは変わらずに快活なのだ。快活に笑い、MV出演を楽しみにしている。
 ふと、間宮あさみに、由紀恵さんと会わせてあげたいと、俊也は思った。それから、なぜか、大嫌いな兄を未だに慕っているから、だから嫌いな陽菜や、それに公園のミミズク男とも、間宮を会わせたいと思った。
 由紀恵さんについてはともかく、ほかの二人については、なんでそんな気持ちになるのか、俊也にはさっぱり分からない。
 強いて言えば、――そうだ、世界は予想外の出来事に溢れている、それをここ数か月で知った。その発見を、間宮あさみにも教えてあげたい、ということなのかもしれない。俊也は、そう思った。
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