おまえだけ
文字数 1,991文字
「すみません、上長。助かります」
飯山は何度も頭を下げた。手には歯ブラシや替えの下着。会社近くのコンビニで買ったものだ。
今日の退社時のこと。飯山が通勤で使う電車が、人身事故で不通になった。復旧作業に時間がかかり、終電の時間になり……結局、飯山は帰宅できなくなった。
そんな飯山に、上司が救いの手を差し伸べてくれた。
「気にするなって。社長の許可は取ってあるからさ」
「それにしても、知りませんでした。うちの会社に『仮眠室』があるなんて」
飯山がこの小さなウェブメディア系の会社に中途入社して一ヶ月。規模の割にはオフィスが広く、ビルのワンフロアまるごとを使用している。資料室から奥に足を踏み入れることすら初めてだった。
「まあな。俺も使ったことない」
その言葉に、えっ、と思った。
「でも、掃除はしてるからキレイなもんだよ。シャワーもあるし」
言われたとおり、案内された仮眠室は少々古いが手入れが行き届いていた。ただ少し、湿っぽい匂いがする。最近は風を通してないのだろう。
「ん?」
上部に磨りガラスが填められた仮眠室のドアを見た時、違和感が生じた。……少し歪んでいる気がしたのだ。
なんとなく、不安になった。
「あの、上長。仮眠室があるってことは、いわゆる徹夜とか、それが必要なくらいハードワークなんですか、うちの会社?」
求人情報には『残業なし』とあった。信じていなかったが、この一ヶ月間、本当に残業はゼロで、時に早めの退勤すら勧められた。ホワイトが過ぎると飯山は感動した――のだが。
「いやいや、無いって」
上司が笑って否定する。
「うちは社長の意向で、業界一のホワイト企業を目指してるからね。ま、その分、儲けも給料も少ないけど」
ただ、この会社の前にIT企業が入っていて、その会社が仮眠室を設えたのだ――と上司は言った。
飯山が納得すると、上司は帰っていった。ひとり残された飯山は、シャワーを使い、寝支度をした。
……にしても。
儲けがないというわりに、このオフィスは広すぎるのではないか。
今更なことを考える。家賃はいくらなんだろう。
だが、すぐに眠気が来て、飯山は備え付けのベッドに横になった。
……午前一時を過ぎた頃、
ドンドンドン!
大きな物音で飯山は目を覚ました。
「な、なんだ?」
電気をつける。ドアだ。仮眠室のドアを、誰かが、
ドンドンドン!
と、壊す勢いで叩いていた。
「だ、誰っすか? じょ、上長?」
まさか社長? ――しかし、呼びかけても返事はなく、ノックの音だけが響く。
ドンドンドン!
(うるさいな)
不快になり、舌打ちして飯山は立ち上がった。
だが、ドアに向かおうとした足がすぐに止まった。
「へ……?」
ドンドンドン!
ドアの半分は磨りガラスだ。そして室内は明るい。向こう――ドアを叩いている人物の姿が見えるはず。
だが、磨りガラスの向こうには、
人影がなかった。
ドンドンドン!
なおも叩く音がするのに、叩く人物が、目に見えない。
「……っ!」
声も出せないまま飯山は後ずさる。信じられない光景に逃げ出したくなる。
ベッドに戻って薄い布団を頭まで被った。それでもノックの音が耳朶を震わせる。
枕元のスマホを引き寄せた時だった。 ノックの音にまぎれて、わめき声がした。
お ま え だ け
『おまえだけっ おまえだけっ おまえだけっ !!』
ひび割れた男の声が、飯山を責め立てた。
意味が分からなかった。
「……ということがあったんですけど、上長」
翌朝。飯山は出社してきた事の次第を話した。
どうやら自分は気絶したらしく気づいたら朝だった。だが、夢ではないと確信があった。
出社した社長に報告すると、ああ、と嘆息した。そして飯山を社長室に入らせ、声を忍ばせた。
「実はここ、事故物件なんだよ」
予想どおりの答え。
だから相場より格安の家賃で借りているのだと言う。
「うちの前に入っていた会社が、どぎついブラック企業でな。過労死・自殺・殺人のトリプル役満だったんだと」
「さ、さつ、殺人……?」
「どうも、連日徹夜させられた社員が、クソ上司をぶち殺したらしい。で、そのクソ上司は、社員たちが何日も寝ずに作業しているってのに、仮眠室でぐうすか寝てたんだと」
怒り狂った社員の一人が抗議したが、上司は無視した。
その社員は仮眠室の鍵を壊し、上司を――
「……ああ」
腑に落ちた。
あの言葉。狂ったようにドアを叩く音に混じって放たれた、怒り恨み憎しみを綯い交ぜにした言葉。
おまえだけ
あの言葉の続きは、おそらく、
「……『休んでんじゃねぇよ』、ってか」
その後、仮眠室は閉鎖された。
飯山は何度も頭を下げた。手には歯ブラシや替えの下着。会社近くのコンビニで買ったものだ。
今日の退社時のこと。飯山が通勤で使う電車が、人身事故で不通になった。復旧作業に時間がかかり、終電の時間になり……結局、飯山は帰宅できなくなった。
そんな飯山に、上司が救いの手を差し伸べてくれた。
「気にするなって。社長の許可は取ってあるからさ」
「それにしても、知りませんでした。うちの会社に『仮眠室』があるなんて」
飯山がこの小さなウェブメディア系の会社に中途入社して一ヶ月。規模の割にはオフィスが広く、ビルのワンフロアまるごとを使用している。資料室から奥に足を踏み入れることすら初めてだった。
「まあな。俺も使ったことない」
その言葉に、えっ、と思った。
「でも、掃除はしてるからキレイなもんだよ。シャワーもあるし」
言われたとおり、案内された仮眠室は少々古いが手入れが行き届いていた。ただ少し、湿っぽい匂いがする。最近は風を通してないのだろう。
「ん?」
上部に磨りガラスが填められた仮眠室のドアを見た時、違和感が生じた。……少し歪んでいる気がしたのだ。
なんとなく、不安になった。
「あの、上長。仮眠室があるってことは、いわゆる徹夜とか、それが必要なくらいハードワークなんですか、うちの会社?」
求人情報には『残業なし』とあった。信じていなかったが、この一ヶ月間、本当に残業はゼロで、時に早めの退勤すら勧められた。ホワイトが過ぎると飯山は感動した――のだが。
「いやいや、無いって」
上司が笑って否定する。
「うちは社長の意向で、業界一のホワイト企業を目指してるからね。ま、その分、儲けも給料も少ないけど」
ただ、この会社の前にIT企業が入っていて、その会社が仮眠室を設えたのだ――と上司は言った。
飯山が納得すると、上司は帰っていった。ひとり残された飯山は、シャワーを使い、寝支度をした。
……にしても。
儲けがないというわりに、このオフィスは広すぎるのではないか。
今更なことを考える。家賃はいくらなんだろう。
だが、すぐに眠気が来て、飯山は備え付けのベッドに横になった。
……午前一時を過ぎた頃、
ドンドンドン!
大きな物音で飯山は目を覚ました。
「な、なんだ?」
電気をつける。ドアだ。仮眠室のドアを、誰かが、
ドンドンドン!
と、壊す勢いで叩いていた。
「だ、誰っすか? じょ、上長?」
まさか社長? ――しかし、呼びかけても返事はなく、ノックの音だけが響く。
ドンドンドン!
(うるさいな)
不快になり、舌打ちして飯山は立ち上がった。
だが、ドアに向かおうとした足がすぐに止まった。
「へ……?」
ドンドンドン!
ドアの半分は磨りガラスだ。そして室内は明るい。向こう――ドアを叩いている人物の姿が見えるはず。
だが、磨りガラスの向こうには、
人影がなかった。
ドンドンドン!
なおも叩く音がするのに、叩く人物が、目に見えない。
「……っ!」
声も出せないまま飯山は後ずさる。信じられない光景に逃げ出したくなる。
ベッドに戻って薄い布団を頭まで被った。それでもノックの音が耳朶を震わせる。
枕元のスマホを引き寄せた時だった。 ノックの音にまぎれて、わめき声がした。
お ま え だ け
『おまえだけっ おまえだけっ おまえだけっ !!』
ひび割れた男の声が、飯山を責め立てた。
意味が分からなかった。
「……ということがあったんですけど、上長」
翌朝。飯山は出社してきた事の次第を話した。
どうやら自分は気絶したらしく気づいたら朝だった。だが、夢ではないと確信があった。
出社した社長に報告すると、ああ、と嘆息した。そして飯山を社長室に入らせ、声を忍ばせた。
「実はここ、事故物件なんだよ」
予想どおりの答え。
だから相場より格安の家賃で借りているのだと言う。
「うちの前に入っていた会社が、どぎついブラック企業でな。過労死・自殺・殺人のトリプル役満だったんだと」
「さ、さつ、殺人……?」
「どうも、連日徹夜させられた社員が、クソ上司をぶち殺したらしい。で、そのクソ上司は、社員たちが何日も寝ずに作業しているってのに、仮眠室でぐうすか寝てたんだと」
怒り狂った社員の一人が抗議したが、上司は無視した。
その社員は仮眠室の鍵を壊し、上司を――
「……ああ」
腑に落ちた。
あの言葉。狂ったようにドアを叩く音に混じって放たれた、怒り恨み憎しみを綯い交ぜにした言葉。
おまえだけ
あの言葉の続きは、おそらく、
「……『休んでんじゃねぇよ』、ってか」
その後、仮眠室は閉鎖された。