第二話 帰り道の先客たち
文字数 15,598文字
この暑さで汗だくなのではない、チャリを漕いでいるから汗だくなのだ。朝っぱらからこれは、しんどすぎる。ただ、負けられない戦いが、ここにある。
夏の日差しのなか、人通りがあるといっても十分に余裕のある広い歩道を、二台のチャリが爆走する。国道は平地を一直線のため、テクニックは無用。マシン(自転車)のスペックとコンディション、そして脚力だけが肝要だ。
ほぼ互角の決闘は、信号待ちでその差を完璧に詰めた。追いついてきた相手の顔を、それとなく見る。涼しい顔をしているが、自分と同じく滝のような汗が額を滴っている。目が合いそうになったので、慌てて反対側を見た。目元の汗に反射して、海がキラキラと眩い。
相手について、同じ常勝丘高校に通う男子生徒ということ以外は、何も知らない。一度、全校集会の際に興味から近場を見回して探したことがあったが、見つからなかったため、恐らく学年が違う、一年生か三年生だろう。他にわかっていることといえば、いつも澄ました顔をしていて、俺と同等の脚力を持っている、それだけだ。
春のいつからだったか、しばしば登校時間にそいつを見かけるようになった。遅刻しそうだったので、全力でペダルを漕いでいたところ、同じく猛スピードのシティサイクル乗りが、前を走っていた。しかし、俺のスピードには劣る。奴を追い越し、横断歩道を三つ越えたところで信号待ちを食らった。
「あいつ、あのペースじゃ授業開始に間に合わないな……」
しかし、「ガチャッ」というブレーキ音に誘われて隣を見ると、奴が澄まし顔で自転車をふかしている(もちろんふかせないのだが、手持ち無沙汰にハンドルをグリグリとしている仕草がそう見えた)。
それ以来、奴は遅刻しそうじゃないときも、俺を見かけるなり、わざとらしく追い抜いて、あの澄まし顔を突きつけてくる。それがスタートの合図だ。こちらとしても、売られた勝負を買わないワケにはいかない。とは言っても、もちろん、「信号無視はしない」「歩行者が道を塞いでいたらお互い徐行する」という暗黙の了解のもとでレースは行われる。ちなみに、ゴールである高校の正門には毎回ほぼ同着。まだ勝敗は決していない。
今回も結果は同じだった。熱戦を繰り広げた二台のチャリが、上がった体温と夏の熱気を帯びて、駐輪場に停まる。
「あいつは?」
そう思い振り向くと、奴はいつものようにこちらを一瞥してから、足早に校舎へ入っていった。
「がっちゃん、おはよー」
ヨッシーの声に気づき、視線を移す。自分がチャリを停めたすぐ斜め前に、ヨッシーが自転車を停めていた。
「今日は随分と汗だくじゃん?」
「暑いからな、夏は人も茂る季節さ」
ヨッシーの質問に、精一杯の答えを返した。それらしく言った割にまったく意味を為さない言葉だったが、ヘトヘトの今、ついさっきのよくわからないプライド勝負を説明するのはしんどい。俺は取り出したタオルで首周りを拭きながら、顔にハテナを浮かべたヨッシーとともに、生徒用玄関へ向かった。
授業中、そつなくノートをとりつつも、脳内はいつものように釣りの計画を練る。
「今日みたいに日差しが強い日こそ、いつものポイントは絶好だ」
そんなことを考えているうちに、あっという間に放課後になった。束縛から放たれた獣のごとき喧騒のなかを、プログラムされていたかのように(帰宅部ながら)部室へ向かう。
「第3準備室」というプレートと「軽音学部」という小さな張り紙が共存しているドアの前に到着。一階の吹奏楽部の演奏と外のセミの声に混ざって、微かにリッキーの熱弁と中村の受け答えが聞こえてきた。
「面白そうだろ?」
「えー、平凡だと思う。それに……」
「中村」こと中村みさきは箏曲部の部員で、練習が始まるまでの放課後の三十分ほどをいつもここでつぶしている。小柄だがスタイルが良く、ショートカットの似合う美少女とあって男子間で人気だ。しかし、俺やヨッシーと同じくここの常連のくせして、俺たちの放課後の過ごし方を面白半分に見ている節があるので、俺は苦手にしている。まあ、リッキーは彼女にお熱なのだが。ちなみに、彼女がここに来るのがリッキー目当てだということを、悲劇(俺とヨッシーにとっては喜劇)にもリッキー本人は知らない。
会話のなかにドアを開けて入ると、二人がこちらを向いた。まだヨッシーは来ていないらしく、リッキーと中村が二脚だけのパイプ椅子を先に占領している。室内は決して涼しくないが、唯一の窓が全開で、そこから吹き込む風のおかげで心地良い。俺は窓の近くに歩み寄りながら、リッキーに質問を投げかけた。
「今日のはどんなアイデア?」
すると、リッキーは「待ってました!」とばかりに、いつものように目を輝かせて答えてきた。
「聞いてくれよ、みさきにはウケなかったけど、こんどこそ傑作を書けそうなんだ」
中村は呆れ顔だが、そんな視線におかまいなくリッキーが続ける。
「タイトルはずばり、『部屋を疑わば事件一つ』。主人公は、ある賃貸アパートの一室に入居する。そして、次々と怪奇現象に遭遇するんだ」
軽音学部は部長であるリッキー一人だけで、バンド活動ができない。そのため、文芸部の文集への寄稿を主な活動としている。もともと米澤穂信のような作家に憧れていたらしく、「ミステリー専門作家」と自称し、執筆予定のストーリーをこうして俺たちに披露してくるのが日課だ。そのため、部室の机の上は執筆用の原稿が散乱している。そのくせ、「気分転換」と称して、その横の電子ピアノで坂本龍一のナンバーをよく演奏しているため、もはや何部なのかわからない。
リッキーが身を乗り出し、饒舌になる兆候を見せた。その前にツッコミたいポイントがあったので、口を挟む。
「ポルターガイストとかラップ音? オカルトものってこと?」
リッキーがかぶりを振る。
「いや、前の住人が部屋に残していった痕跡が妙なんだよ。なぜかトイレの壁に日付が刻まれてたり、押入れの中に電話番号が書かれてたり、天井が削られてたり。そういうのに日に日に気がついていく。で、詳しく調べてみたら、過去にあった事件をリノベーションで隠そうとしたらしい。つまり事故物件だったんだ。ただ、突貫だったから、全部は隠せなかった。そこから、この部屋で起こった過去の事件を推理するんだよ」
自信満々に構えているリッキーに、またツッコミを入れた。
「それまさか、リノベーションした大家が犯人?」
「私もそう思ったの」
理解者が現れたことに喜ぶ素振りを露わな中村が、話に加わってきた。
「まあ、そういうオチで考えてたんだけどさ。なんだよ、みさきも気づいてたのか…… だめかー、あらすじだけでオチが読めるんなら、これもボツだな」
そう言い落ち込むリッキー。これもいつもの光景だ。俺は別に書き物が得意というわけではないが、一つ確かだと思うことがある。それは、小説家はアイデアマンであると同時に、そのアイデアを練ることが生業ということだ。その点、リッキーはアイデアマンだが、そこから踏み込むのが不得意なのが、いつももったいなく思える。もっとも、ネタを練る術どころかアイデアすら持ち合わせてない俺は、何も言うことはできないのだが……
それに、リッキーからすれば、なんやかんや理由をつけても、中村に自分の構想を伝えることに意味があるのだろう。
「実はさ、もう一つあるんだ。AとBとCの三人組のうち、AがBをこっそりと殺害する。でも、CがAに『Bを殺したのは俺なんだ』と打ち明けてきて……」
「お、また新ネタ?」
リッキーが新たなアイデアを披露し始めたところで、ヨッシーが部室に入ってきて会話に参加した。ドアが開いたため、ヨッシーの声とともに爽やかな風も室内に渡る。
「今日は遅いね」
「千沙ちゃんに文集について聞かれててさ」
「珍しく部長らしいことしてるじゃん」
中村の質問に答えるヨッシーに、リッキーが的確なツッコミを入れた。それに間髪入れずに、ヨッシーが続ける。
「他人事じゃないぞリッキー。そろそろ文集用の原稿提出してくれよ。部長会のとき議題になっただろ、ウチの部、今年こそは文化祭に出展しないと来年廃部なんだから」
「わかってるって。だからこうしてアイデアを練ってるんだろ」
リッキーの返答に対して、俺と中村がとぼけ顔を見合わせる。「いや、練ってないだろ!」という、心の中でのツッコミとともに。
「ところで、中村さんは部活あるとして、がっちゃんとリッキーはこれからどっか寄ってく?」
いつの間にか文芸部部長の表情が消えたヨッシーが、放課後の謳歌を意気揚々と問いかけてきた。
「今日はもうしばらく部室で執筆に勤しむよ」
「俺も今日はパス」
リッキーが返答し、それに俺も続く。窓から見える東部岳は、くっきりと夏空に映えている。程よく雲がある、絵になる空だ。
「リッキーは、まあ仕方ないか。がっちゃんは今日何かあるの?」
「釣りしたい」
「釣り!?」
ヨッシーの質問に答えた俺に、一同が声を揃えて驚いた。
「釣り竿でも持ってきたの?」
「あれ、言ってなかったっけ? ちょくちょく釣りしてたんだけど」
リッキーの質問に答えながら、俺はカバンからペンロッドを取り出して見せた。ペンロッドは、その名のとおりペンほどのサイズで、ロッドを伸ばしてリールを取り付ければ釣り竿になる代物だ。勿論、本格的な投げ釣りには向かないが、浮き釣りには十分使える。ジョーク品と言うアングラーもいるが、利便性で見ればバカにできない。
「エサは?」
「いつも魚肉ソーセージを使ってる」
中村に返事をしながら、リールも取り出して見せた。
「そんなんで釣れるの?」
「それが意外と釣れるんだよ」
ヨッシーの質問にそう答えたが、みんなは納得していない様子で、中村にいたってはいやらしくニヤニヤとしている。
「相変わらず変なことしてんね」
「別に釣り好きじゃないけど、がっちゃんがハマるくらいなら興味あるな。俺も釣り場に連れてってよ」
中村の一言に、俺はわかりやすく「悪かったな」という諦念の表情を浮かべて見せたが、直後のヨッシーの発言のおかげですぐに持ち直した。そうじゃなくっちゃな、さすが相棒! しかし、もちろんそんな素振りは隠しながら、クールに言葉を返す。
「ああ、いいよ」
「そうと決まればさっそく行こうぜ」
床に下ろしていたカバンを担いだヨッシーは、持ち前の好奇心を抑えきれないといった様子だ。
「何か釣れたら写メ送ってよ」
「オッケー」
俺とヨッシーは揃ってリッキーに返事をし、部室を後にした。吹奏楽部の演奏はいつの間にか鳴り止んでおり、セミも小休止中のようだ。「私もそろそろ部活行かないとなー」という中村の声が微かに聞こえる。
「でも、どこで釣ってんの? さっきの竿でも釣れる、いい場所なんてある?」
ヨッシーが聞いてきたので、俺は外履きに履き替えながら答えた。
「川釣りだよ」
「川? どこの?」
自分のチャリを見つけ、鍵を挿す。ヨッシーは不思議がりながら、斜め前の自転車に跨って、俺の案内を待っている。
「まあ、付いて来いって」
俺はそう言って、正門に向けてペダルを漕いだ。
「こっちに川なんてあったっけ?」
後ろのヨッシーが声をかけてきたので、振り向きながら答える。
「まずはエサを調達しないと」
「ああ、大壮に行くのか」
「大壮」とは、高校近くにある、スーパーやホームセンターなどから成る商業施設のことで、国道沿いにありアクセス良好なため、学生たちの絶好の寄り道スポットでもある。俺やヨッシー、リッキーもその例に漏れず、放課後にしょっちゅう訪れている。
徒歩で帰る学生たち、そしてセミの声の間を抜け、国道にたどり着いたら左折。大壮の駐輪場に到着し、チャリを停め、食品売り場を目指す。
店内に入ると、涼しさの塊が一気に押し寄せてきた。よく効いた空調が、外の熱射に打たれた身体を癒してくれる。店内に流れるBGMの、清涼感たっぷりなフュージョンがまた心地良い。ヨッシーも快適さに味を占めているようだ。メガネを外し顔の汗を拭いながら、サッパリとした表情をしている。
「よく考えたら、ホームセンターに専用の釣りエサがあるんじゃないの?」
メガネを掛け直したヨッシーが、ホームセンターのほうを気にしながら聞いてきた。
「イソメとか買ったところで、使い切れないからな。次の機会に使うにしろ、持ってきても放課後までカバンに入れておくわけにいかないだろ? 魚肉ソーセージなら、保存が利くし俺らでも食べられる」
「たしかに」
俺は笑いながら答え、ヨッシーもそれに納得した表情だ。
一番安い魚肉ソーセージ、そしてスポーツドリンクを二本買って、店を出た。駐輪場には、俺たちと同じく放課後を過ごしに来た学生がちらほらいる。熱をもったシートに座り、東部川方面に向けて国道を進む。帰り道を逆走する格好だ。
「これじゃあまるで、寄り道ってより旅だな」
後ろを付いてくるヨッシーが言った。声が笑っている。振り向かず、顔を見せるわけでもないのに、俺もとびきりの笑顔をしてから返した。
「ああ、そういうことだな!」
太陽とセミの声のなかを、ときおり吹いてくる海風とともに進む。左側の海と、そこに流れ込む正面の東部川が同じ煌めきのため、海と川が一つなぎに見える。
川に架かる橋の手前で右に曲がり、針路を川沿いに向けた。土手と平行する二車線がやっとの道を、踏切を目指して進む。
踏切近くのバス停まで来たところで、ヨッシーに声をかけた。
「あの鉄道橋の下が、釣りスポット」
続く道は踏切になっており、左手に伸びる鉄道橋で線路が川を越えている。バス停の脇には土手を下りられる小道があり、俺は勢いよくそこを下りた。ふと振り返ると、後ろのヨッシーは「おおっ」という表情で続きながら、あたりの景色をつぶさに見回している。
土手下の川辺はコンクリートで舗装されており、そこから七段の低い段差を下りると川だ。サラサラと、澄んだ水の流れが見ているだけで涼しい。鉄道橋の下に、二人一緒にチャリを停める。二人とも背が高いほうなので、背伸びをすれば頭をぶつけそうな高さだ。
「こんなところがあったんだな」
川を見渡しながら、ヨッシーが言った。
「こっちから帰ってるときに見つけた。今日みたいに日差しが強くても橋の下は涼しいし、たまに地元の人たちが散歩してるけど、それ以外は誰も来ないから、静かに釣りができるよ」
そう自分で言いながら、周囲の音に耳を澄ました。セミの声、川のせせらぎ……
「わざわざこっちから帰ってたの? 写真撮るため?」
「そんな感じ。こっちは国道に無い景色で新鮮だったから」
「相変わらず、何と言うか物好きだな」
そう笑顔で言ってきたヨッシーに笑顔を返しながら、ペンロッドにリールを取り付けた。ロッドを伸ばし、糸を通す。
「ウキ釣りか」
ヨッシーが、俺の手元を見ながら言った。そのとおり、仕掛けは百円ショップ製の丸ウキだ。さっき買った魚肉ソーセージをちぎって針に刺す。
「何が釣れんの?」
「いろいろ。まあ、ここは奥まで浅くて大物はいないから、小さいのしか釣れないけどな」
俺はヨッシーの質問に答えながら、水面に糸を垂らした。相変わらず太陽がその存在感を放っているが、日陰のおかげで、この空間は落ち着ける。手前の段差にゆっくりと腰を下ろすと、ヨッシーもその横に座った。腰掛けたコンクリートは熱をもっているが、チャリのシートほどは熱くない。ふとヨッシーを見た。水の中の色とりどりのハヤと、その上を漂うウキを一心不乱に見つめ、この光景を楽しんでいる。俺は視線を水面に戻した。
ヨッシーとこうして、何と言うか「悪友」と言うのがしっくりとくる関係になったのは、中学のときに、たまたま帰り道が一緒になってからだ。両者とも周囲と積極的に交流するような柄ではなかったので、同じクラスながら、数えられるほどしか会話したことのない関係だった。しかし、同じ帰路に会話が無いのはさすがに気まずく、こちらから仕掛けてみた。
「そういえば、趣味なに?」
唐突すぎる気はしたが、とりあえず会話になれば良いと思ったので、とくに考えずにそう切り出した。しかし、予想以上にヨッシーは動揺しなかったので、こちらと同じ心情だったのかもしれない。返答の本能のような口調で返してきた。
「うーん、小説書くのかな」
「へー、小説書けるんだ。どういうの書くの?」
「星新一って知ってる? その作家の作品が好きで。だからSF」
「へえー」
星新一という作家を聞いたのが初めてだったので、とりあえず打った相槌で会話が止まる。また気まずい空気になりそうだったので、再びこちらから切り出す。
「俺は、写真撮るのが趣味でさ」
勢いに任せて言い終わってから、自分が初めて誰かに写真趣味を打ち明けたことに気がついた。まさか、こんな形になるとは……
「写真かあ、いいなあ。小説書くのって、なんか陰鬱な感じだからさ、写真だったら、胸張れるよね」
「いや、写真は陰鬱でしょ」
その俺の返しが何かのスイッチだったかのように、それまでの「心ここにあらず」な場の空気が一変した。そこから、想像以上に会話は続いた。
その日知ったのだが、ヨッシーの家はうちの近所だったようで、それ以来、ヨッシーと帰り道を共にするようになった。ヨッシーとは誰よりも気が合うので、いつも自然と会話が弾む。いや、「会話が無くても気まずくならない心地良さ」と言ったほうが適当かもしれない。もちろん、クラスでもよく話すようになったが、はばかり無くくだらない話ができる放課後の帰り道のほうが、俺たちが親交を深めるうえで性に合っていた。そういった経緯から、何の巡り合わせか同じ高校に受かった現在でも、クラスこそ違えど、放課後の交流は続いている。
ただし、一つだけヨッシーと気が合わず、驚かされたことがある。俺と同じ大人しいキャラながら、高校に入学するや、こうして平然と文芸部を立ち上げたのだ。「文芸部の立ち上げ申請をしたんだけど、がっちゃんも入らない?」と誘われた際に、何を血迷ったのかと度肝を抜かされたことは、未だに記憶に新しい。
小説を書く趣味は無いし、そもそも俺はクリエイティブな物事(写真しかり)に対して、「自分の作品は自分にしか理解できない世界であり、他人に理解されなくても良い」という自己完結型(?)のスタンスで、文芸部の活動とは相容れない。そのため、「自分に文才が無いことを引け目に感じるだけだからさ。ヨッシーと一緒とはいえなあ」と、誘いは断った。しかし、ヨッシーの野心には大いに共感できる。
「早い話、学校にも執筆ができる空間があったほうが便利だし、小説書くのが好きな人が身近にいれば、そうじゃない集団に囲まれるよりはありがたい、それだけだよ。別に難しく考えてない。軽い気持ちでいいんだよ。初代メンバーなんだから、これから文芸部をどうしようと、今の部員たちの勝手でさ。どっかの歴史ある名門文芸部なんかより、気楽でいいだろ?」
以前、部を立ち上げた理由を聞いた際に、ヨッシーはそう返してきた。なんと大胆で無責任な考え方の部長、どっかの歴史ある名門文芸部が聞いたら、ブチキレてしまいそうな言い分だ。同時に、実に俺好みの、ヨッシーらしい回答でもある。つまり、ヨッシーは大人しい性格が変わったわけではなかった。本人からすれば、執筆用の書斎に学校が加えられただけに過ぎないのだ。自明として、作品を内に表現するにしろ外に表現するにしろ、落ち着ける、心地の良い活動場所が多いに越したことはない。現に、俺たちはリッキーの部室の在り方に憧れ、そこに入り浸っている。とりわけヨッシーは、「いつか文芸部もこうした空間を」という夢を描きながら――
轟音とともに、頭上を電車が通過した。我に返り、水面を見る。ウキは相変わらず、水面を寛いでいるようだ。
「釣れないな」
そう言ってきたヨッシーの手元に目をやった。まだケータイを握っていない。ヨッシーは手持ち無沙汰になると、ケータイで野球速報をチェックしだすクセがある。
「釣り糸を垂らして、風にあたりながら景色を眺めてるのが楽しいんだよ。それよりさ、お前、活動はどうなの? 存続がかかってんだろ?」
「文芸部のこと?」
ヨッシーは俺の質問にそう返したあと、困り顔で水面に視線を移しながら、大壮で買ったスポーツドリンクに口をつけた。ペットボトルの表面から、大量の水滴が垂れている。
「いくら新参の部活って言ったって、もう一年経ったんだから、相変わらず部室が与えられてないのはキツイよ。去年みたいに部員が俺だけならまだしも、千沙ちゃんが入ったしさ。早く何か実績作って、認めてもらわないとなあ」
内村千沙は、部長であるヨッシー以外の唯一の文芸部部員で、ロングヘアとメガネがトレードマークの一年生女子だ。一度、放課後の廊下でヨッシーと話しているのを見たことがある。初めての入部希望者ということで、彼女の入部当初、ヨッシーは随分と戸惑っていて、何度か彼女のことを聞かされた。
川の対岸を見つめているヨッシーに、提案を投げかけた。
「“俺たち”の部室があるじゃん。リッキーなら貸してくれるだろうし」
「知らない二年生に囲まれて、千沙ちゃん気まずいでしょ。それに、あそこの机はリッキー用にレイアウトされてるからなあ」
ヨッシーはそう言い終えてから、またスポーツドリンクに口をつけた。それにつられて、俺も自分のスポーツドリンクに手を伸ばす。まだ微かな冷たさがある。キャップを回しながら、ヨッシーに聞いた。
「千沙ちゃんは部室が無いのを納得してるの?」
「ああ、学校対抗の文学コンクールに出場できれば満足らしい。だから、いつもは家で執筆してるって。ただ、文集の構成は話し合いながら詰めたいし、何より、俺もリッキーみたいに執筆できる場所がほしい」
「まあ、せっかくの放課後だもんな」
俺の言葉を聞いて、ヨッシーが笑顔で空を見る。その様子がまるで、時間が止まったかのように感じられた。川辺が、無風と静寂に包まれる。ヨッシーの口だけが動いた。
「放課後って特別な時間だよな。学校の無い日よりも、自由な気分になれる」
何事も無かったかのように雲が動き、川の対岸の木陰から風がやって来た。緑を十分に吸っており、爽やかな香りがある。俺は笑顔で言葉を返した。
「ああ」
スポーツドリンクでのどを潤し、そのペットボトルをわきに置く。ヨッシーを見ると、相変わらず空に視線を吸い取られている。
その瞬間、ウキが「ポチャン」と音をたてた。はやる心を抑えて、竿を上げながらゆっくりとリールを巻く。
「かかったぞ!」
「ああ!」
ヨッシーの呼びかけに答えたときには、既に紡錘形の獲物が水面近くまで来ており、手応えがスッと軽くなった。水からあがってその全貌が見え、また竿が重くなる。
「フグじゃん! すげー!」
ヨッシーはそう言ながら笑い出した。なんとなく、ハヤでは無い手応えとは思っていたが、まさかフグとは! 驚きのあまり、俺も笑うしかない。
「まあ、河口だからいてもおかしくはないけど、こんなの初めてだ」
「写真撮らないと、リッキーに送る」
そう言って、ヨッシーがケータイのカメラにフグを収めた。弱らないように丁寧に針を外して、川のなるべく海側に投げると、「ポチャン」という水しぶきとともに、フグの姿は見えなくなった。
「いやー、すごいな。ホントに釣れるんだな」
「フグがかかるとは、俺も予想外だったけどね」
「その竿で大したもんだ」
ヨッシーに応えた俺の声のすぐあとに、聞き覚えのない男の声が聞こえた。ヨッシーとともに驚きながら振り返ると、青と白のポロシャツに灰色のハーフパンツという出で立ちの男が、少し向こうからこちらを見ている。年齢は四十代といったところだろうか?
俺はヨッシーの顔を見た。ヨッシーも俺の顔を見た。どうやら知り合いではないらしい。恐らく、ここを散歩コースにしている地元民の一人だろう。俺の落ち着きようを見て、ヨッシーもそれに気づいたように頬を緩めた。
「ごめんごめん。水を刺したね。釣り上げてるとこを見かけたもんで、つい」
「フグが釣れたんです、この竿で」
言葉を残して立ち去ろうとする男を、ヨッシーが呼び止める形となった。男は踵を返してこちらに歩み寄って来て、竿を指さした。
「これはミニチュア?」
「ペンロッドって言うんです。れっきとした釣竿ですよ」
俺はそう言いながら、誇らしげに竿を掲げた。さっき大物を釣り上げたばかりで、いつも以上に竿が輝いて見える。
「へえ〜。確かに、小さいけどよく出来てるね。仕事の合間に、いつもここを散歩してるんだよ。で、君がここで釣りをしてるのをたまに見かけてたんだけど、釣り上げたところに初めて遭遇してね。今日は友達も一緒だけど、釣り部か何かなの?」
そう言われて、俺とヨッシーは顔を見合わせて笑った。「次は『写真部部長』ではなく『釣り部部長』と呼ばれるかもしれないな」と思うと、自然と笑いが込み上げてくる。興味ありげに俺たちの様子を見守る男に、ワケを話す。
「俺は帰宅部で、こいつは文芸部です」
「なるほど、放課後を満喫してるってわけね。文芸部の君は、部活終わりってことか」
「いえ、『部活だけど部活にあらず』みたいな……」
「何だそれは」
ヨッシーの言葉に、男は満面の笑みで返してきた。「文芸部の部長を務めている」「部室が無い」という事情を、ヨッシーが苦笑いで説明し始める。男がヨッシーを見る表情は、どこか温かい。
「なるほど」
ヨッシーの話を聞き終わったあと、男はそう言って海のほうを眺めた。海までの距離はそう無いのに、何かとても遠いものを見つめているようだ。そして、こちらに向き直り、再び続けてきた。
「その制服ってことは、君たち常勝丘高校の生徒さんだよね? 俺も昔生徒だったんだよ。ここじゃなくてあっちの海沿いの防波堤だったけど、君らみたいに放課後に釣りに精を出してたもんさ」
「えっ、そのころは釣り部があったんですか?」
ヨッシーの質問に、男は笑いながら答えた。
「無かったよ。だから、君らを見て、そういう部ができたのか気になったんだ。ちなみに、俺はそっちの君と同じで帰宅部だったよ。しかし、文芸部を立ち上げるなんて、大したもんだ」
「さっきも話したみたいに、申請が通っただけです。部室が無いなんて、部活と呼べるか怪しいもんですよ」
「いや、行動することに意味があるんだよ。とくに若いときはね」
申し訳なさそうな口調のヨッシーを、男が笑顔で鼓舞した。
「ところで、この近くに公民館があることを知ってるかい?」
「いいえ」
男の質問に、俺とヨッシーは顔を見合わせてから、声を揃えて答えた。
「俺は向こうの東部岳の麓の一帯、東部町の町会長をしてるんだ。それで、公民館を集会所としていつも借りるんだけど、そこの二階の一角が図書室になってる。もちろん誰でも使える。ただ、そこの公民館場所が悪いから、平日はガラガラなんだ。だから、そこの机でのびのびと執筆ができると思うよ。誰もいないんだから、多少の会話も大丈夫だし」
「本当ですか!?」
男の情報提供に、ヨッシーが目の色を変えて食いついた。
「その公民館はどこにあるんですか?」
「東部岳に向かう川沿いの車道を進むと、田んぼの中にあるよ」
「それって、小さな神社が横にありませんか!?」
ヨッシーの質問に答える男に、こんどは俺が食いつく。男は相変わらずにこやかに答えた。
「ああそう、その建物だよ」
やっぱりそうだ、前を通りかかるたびに気になってはいたものの、まだ探索の足を伸ばしていなかった、あの正体不明の建物! 公民館だったのか。
「ありがとうございます!」
ヨッシーが立ち上がり礼を言い、俺もつられて立って一礼した。
「何もそんな律儀に。さて、散歩ついでに買い物をしないといけないから、そろそろお暇させてもらうよ。それじゃあ、良い放課後を、ね」
そう言葉を残して、男が国道方面に去ってから、ヨッシーに話しかけた。
「今日は大収穫だな」
「フグといい、公民館といい、だろ?」
ヨッシーの返しで、お互いの思いが同じことを確認する。俺は丁寧に竿の水気を拭きとり、チャリに跨った。ヨッシーもそれに続く。二台のチャリはぐんぐんと川上へ進み、日陰で引いていた汗がまた噴き返す。
「そういえばさっきの人、仕事の合間って言ってたけど、こんな時間に散歩なんて、何の仕事だろ?」
後ろからヨッシーが声をかけてきた。
「たぶん、工場とかだと思う。さっきあった踏切から学校のほうに行くと、小さいクリーニング工場とかが並んでるんだ」
「へえー」
俺の回答に納得した様子のヨッシーを確認して、前を向く。土手上から伸びる道との合流地点が見えてきた。日が落ちてきたとはいえ、まだまだ太陽が眩しい。
「あそこを右に曲がろう。そうすると、さっき教えてもらった公民館が見えてくる」
「オッケー。おっ」
ヨッシーが突如声をあげた。しばらく先の路肩に自転車が停めてあり、その手前の川への段差に、例の女子が座っている。いつものように、せっせと絵筆を動かしている。
「あれ、関根さんじゃない?」
「え?」
俺があぜ道へ針路をとろうとしたタイミングで、ヨッシーが声をかけてきた。
「ああ、がっちゃんは文系だからあんまり面識無いか。まあ、俺も直接話したことはないけど。美術部の友達から、あの人がいきなり美術部辞めちゃったって聞いたんだよね」
「ふーん、理系の女子だったのか。どうりで学校じゃあまり見かけないわけだ。いつもこのあたりで絵を描いてるから、美術部だったってのも納得だわ」
俺がそう返したときには、チャリは既にあぜ道に入っていた。公民館はもうすぐだ。
「すごいな、この景色」
ヨッシーが、東部岳を見ながらそう口にした。それは、数か月前に俺が抱いた気持ちと変わらない。そして、ここを訪れる度に、俺も未だにその言葉が脳裏に浮かぶ。
鳥居の横を伸びる公民館への脇道へ逸れると、ベージュの四角形のようにしか見えていなかった、その二階建ての全容が露わとなってきた。裏側に入り口があり、その両開きの扉の上には「東部公民館」と白字で書かれている。比較的新しそうな外観だが、ここ数年の新しさではなさそうだ。駐車場の隅に綺麗に並べられている二台の車は、恐らく職員のものだろう。それ以外はガランとしていたので、遠慮なく入り口付近の空きスペースに、ヨッシーと一緒にチャリを停めた。
ドアを開け、足を踏み入れる。ロビーは吹き抜けで、大壮ほどではないが空調が効いているようだ。清涼な空間はシンと静まり返っているが、耳を澄ますと、左側にある窓口から、テレビの音が微かに聞こえてくる。と、急に「カツーンカツーン」という足音が響き渡った。
「もしかして、常勝丘高校の生徒さん?」
見ると、窓口の横側の通路に、職員らしきメガネのおばちゃんが立っていた。
「はい、そうです」
「あの、何かあったんですか?」
ヨッシーの返答に続けて、こんどは俺から質問を投げかけた。
「やっぱりそうだったのね。あ、そんなにかしこまらないで。町会長さんから、『常勝丘高校の生徒さんが図書室を部室代わりに使うかもしれない』って電話があってね、気になったから、窓口から姿が見えて声をかけてみたの。図書室はふだん電気を消してるから、来たらつけて、帰るときは消していってね」
「わかりました」
ヨッシーが答えたのとほぼ同時に、職員のおばちゃんは足早に窓口の奥に戻っていった。再び、ロビーが微かなテレビの音だけに包まれる。俺はヨッシーと顔を見合わせた。てっきり、長々と利用方法の注意があるのかと思いきや、やけにあっさりだ。しかし、その放任主義が心底心地良く、二人でクスリと笑い、それから階段を上がった。
階段は右奥にあり、途中の踊り場で折り返して二階に続いている。図書室は角部屋で、廊下に面した室内窓から中の本棚が見えたので、すぐに見つけられた。入り口は廊下を左に進んだ突き当たりの右にあり、その「図書室」と書かれた扉をヨッシーが開ける。確かに照明はついていないが、それがいらないくらいに日当たりが良い。また、空調は全館にわたって効いているようで、相変わらずの涼しさだ。
「こりゃ、いい!」
他に誰もいないことを確認したヨッシーが、閲覧用の長机に手をかけながら、歓喜を口にした。その声につられて、俺も中を見回す。決して広くはないが、常勝丘高校の図書室と同じくらいの蔵書はありそうだ。
「わざわざ電話もしてくれたみたいだし、町会長さんに感謝しないとな」
「ああ、そうだな」
ヨッシーはそう返して、窓から外を見た。外には壮大な田園風景が広がっている。落ち着きのある室内とワンセットで、なんともひなびた光景だ。
「大先生は、さっそく今日からここを執筆場所にします?」
「書きかけの原稿が今日は手元に無いから、明日からかな」
ヨッシーは俺の質問に笑顔で答えて、階段のほうに歩み始めた。ヨッシーに続いて図書室を後にしようとしたが、ドアを閉める際に、ふと図書室の中を振り返る。陽光に照らされた室内が、温かに自分たちを見守ってくれているような気がした。
階段を下り、二人で窓口を覗く。「明日また来ます」とヨッシーが声をかけると、奥に座っていた職員のおばちゃんが会釈を返すのが見えた。俺とヨッシーは、込み上げる高揚感を胸に、公民館を後にした。
それにしても、部室の話をしていた矢先に部室をゲットできるなんて、ヨッシーの強運が恐ろしい…… そんなことを考えながら、画伯の家の前を過ぎる。少しして、ヨッシーが声をかけてきた。
「すごいな、今の家。庭にたくさん絵があったぞ」
「画伯の家」とは、東部町の例の画廊のような家のことである。俺はいつからか、あの家を「画伯の家」と勝手にネーミングしていた。
「描いた絵を乾かしてるんだと思う。たまにあんな風に、玄関前にキャンバスがあるんだよ。しかも、いつも違うのが」
俺がそう答え後ろを向くと、ヨッシーは「ほおー」という表情を浮かべている。そうしているうちに、チャリがボンジュールに着いた。
「ここは?」
「ここのパンが美味いんだ。食っていこう」
そう答えながらチャリを停め、ヨッシーと共にカランコロンと店内に入る。
「あら、いらっしゃい」
「こんにちは、焼き立てはどれですか?」
「アンパンを丁度出したところよ」
おばちゃん店員と俺の慣れたやり取りに、ヨッシーは少し驚いている様子だ。俺がアンパンをトレイに乗せると、ヨッシーが陳列されているアンパンの一つを指さした。それもトングでトレイに運び、二人で会計を済ませる。
「常連なんだな」
「ほぼ毎日来てるからな」
店を出て、ヨッシーの言葉に返した。チャリに跨り、二人でパンを頬張る。
「美味いな、これ」
「だろ? あ」
返事がてらヨッシーを見た際に、ヨッシーの自転車の泥除けカバーが外れかけていることに気がついた。俺のチャリほどボロくはないが、負けじと使い古されている様子なので、無理もないだろう。カバンからチャリの修理キット(百均製)を出して、その中の小型レンチで、ヨッシーの自転車の留め具を締め直した。
「な、なに?」
「泥除けカバーが外れかけてたからさ」
「修理道具持ち歩いてんの!? さすが、抜かりないな。サンキュー」
「ダテに放課後に旅してないからな」
「さながら、『放課後マスター』ってとこか」
「帰宅部なのに?」
俺が笑いながらそう返すと、ヨッシーも笑う。そんなやりとりを経てから、自由が丘住宅群への一本道に入った。
「ここ行くと、自由が丘に着く」
「え、ってことはこの道、常中に行けるの?」
「そういうこと」
気づけば日が落ちているが、まだまだ暑さは止まない。ヨッシーの自転車のオートライトとほぼ同時に、愛車のオートライトも点灯する。
「ヨッシー、今書こうとしてるのって、どんなストーリーなの?」
「中学校のイジメ対策のために、歳をとらない大人、まあ見た目が子供、頭脳は大人の『名探偵コナン』みたいな職員を毎年クラスに紛れ込ませるって話を書いてるよ。あとは、そうだなー、オナ禁してたら性欲が消滅した人の話も」
「二つ目のは絶対書いてないだろ」
俺が笑いながらそう返したとき、チャリは浅草書店の前に差し掛かっていた。ヨッシーは興味ありげに浅草書店を見たが、すぐにこちらに向き直って笑顔で話しを続けてきた。
ヨッシーから詳しい構想を聞く。さすがは文芸部部長、リッキーとは違い設定を練っている。話しは弾み、あっという間に我が家への曲がり角に到着した。
「本編が完成したら、ぜひ読んでよ。今日は釣り連れてってくれて、ありがと。また明日ー!」
「もちろん。おう、また明日!」
ヨッシーを見送り、我が家に入る。捨てるのを忘れていたアンパンの包装をゴミ箱に入れてから、いつものように夕飯や風呂、宿題を済ませ、蚊取り線香を焚いたルーフバルコニーに行き着く。その後は、目覚ましと扇風機のタイマーをセットし、ベッドへ身を投げた。
その日は夢を見た。俺が写真部を立ち上げ、部室を手に入れたという夢だ。しかし、写真部の部室は、新参者の部活ということもあって、スッキリしすぎている印象がある。輝かしいトロフィーなどが無いのはまだしも、輝きを放つピンホールレンズすら棚に並べられていない。ドアにちんけに「写真部」と書かれているのが唯一の特徴なのは、きっと軽音楽部の記憶のせいだ。廊下から見ると、数ある用務室などの部屋と見分けがつかない。誰かが部室のドアを開け、中に入ってきて――
次の日の放課後、公民館の図書室に行くと、ヨッシーが長机に原稿用紙を広げて唸っている。
「部室に行ったら、『ヨッシーならもう帰った』ってリッキーに言われて、ここだと思って」
そう声をかけると、こちらに気づいたヨッシーが顔を上げた。
「さっそく活用させてもらってるよ。静かだし、景色も良いし、快適」
ヨッシーはそう言うと、窓の外を見た。そこに映っているのは、くっきりとした夏空だ。唐突にヨッシーが続ける。
「都会の空って、汚染物質が多いせいで白っぽいらしいんだよ。この空は、俺たちだけの特権だったんだな」
「どうしたんだよ、突然? 小説家のスイッチが入って、感傷的になった?」
「まあ、そんなところ。で、どうしたの?」
「いや、ちゃんと部室になってるか様子見たくて」
「なんだよそれ。このとおり、立派に活動してるよ。次のミーティングのときは、千沙ちゃんとリッキーにもここに来てもらうつもり」
「そりゃ良かった」
ヨッシーが心からここを気に入っている様子が、心底嬉しく思える。
「じゃあ、執筆の邪魔するわけにはいかないから、俺は失礼するよ」
階段まで見送ってくれたヨッシーを背に、公民館を後にする。爽やかな風をいつも以上に感じながら、今日の帰路についた。
夏の日差しのなか、人通りがあるといっても十分に余裕のある広い歩道を、二台のチャリが爆走する。国道は平地を一直線のため、テクニックは無用。マシン(自転車)のスペックとコンディション、そして脚力だけが肝要だ。
ほぼ互角の決闘は、信号待ちでその差を完璧に詰めた。追いついてきた相手の顔を、それとなく見る。涼しい顔をしているが、自分と同じく滝のような汗が額を滴っている。目が合いそうになったので、慌てて反対側を見た。目元の汗に反射して、海がキラキラと眩い。
相手について、同じ常勝丘高校に通う男子生徒ということ以外は、何も知らない。一度、全校集会の際に興味から近場を見回して探したことがあったが、見つからなかったため、恐らく学年が違う、一年生か三年生だろう。他にわかっていることといえば、いつも澄ました顔をしていて、俺と同等の脚力を持っている、それだけだ。
春のいつからだったか、しばしば登校時間にそいつを見かけるようになった。遅刻しそうだったので、全力でペダルを漕いでいたところ、同じく猛スピードのシティサイクル乗りが、前を走っていた。しかし、俺のスピードには劣る。奴を追い越し、横断歩道を三つ越えたところで信号待ちを食らった。
「あいつ、あのペースじゃ授業開始に間に合わないな……」
しかし、「ガチャッ」というブレーキ音に誘われて隣を見ると、奴が澄まし顔で自転車をふかしている(もちろんふかせないのだが、手持ち無沙汰にハンドルをグリグリとしている仕草がそう見えた)。
それ以来、奴は遅刻しそうじゃないときも、俺を見かけるなり、わざとらしく追い抜いて、あの澄まし顔を突きつけてくる。それがスタートの合図だ。こちらとしても、売られた勝負を買わないワケにはいかない。とは言っても、もちろん、「信号無視はしない」「歩行者が道を塞いでいたらお互い徐行する」という暗黙の了解のもとでレースは行われる。ちなみに、ゴールである高校の正門には毎回ほぼ同着。まだ勝敗は決していない。
今回も結果は同じだった。熱戦を繰り広げた二台のチャリが、上がった体温と夏の熱気を帯びて、駐輪場に停まる。
「あいつは?」
そう思い振り向くと、奴はいつものようにこちらを一瞥してから、足早に校舎へ入っていった。
「がっちゃん、おはよー」
ヨッシーの声に気づき、視線を移す。自分がチャリを停めたすぐ斜め前に、ヨッシーが自転車を停めていた。
「今日は随分と汗だくじゃん?」
「暑いからな、夏は人も茂る季節さ」
ヨッシーの質問に、精一杯の答えを返した。それらしく言った割にまったく意味を為さない言葉だったが、ヘトヘトの今、ついさっきのよくわからないプライド勝負を説明するのはしんどい。俺は取り出したタオルで首周りを拭きながら、顔にハテナを浮かべたヨッシーとともに、生徒用玄関へ向かった。
授業中、そつなくノートをとりつつも、脳内はいつものように釣りの計画を練る。
「今日みたいに日差しが強い日こそ、いつものポイントは絶好だ」
そんなことを考えているうちに、あっという間に放課後になった。束縛から放たれた獣のごとき喧騒のなかを、プログラムされていたかのように(帰宅部ながら)部室へ向かう。
「第3準備室」というプレートと「軽音学部」という小さな張り紙が共存しているドアの前に到着。一階の吹奏楽部の演奏と外のセミの声に混ざって、微かにリッキーの熱弁と中村の受け答えが聞こえてきた。
「面白そうだろ?」
「えー、平凡だと思う。それに……」
「中村」こと中村みさきは箏曲部の部員で、練習が始まるまでの放課後の三十分ほどをいつもここでつぶしている。小柄だがスタイルが良く、ショートカットの似合う美少女とあって男子間で人気だ。しかし、俺やヨッシーと同じくここの常連のくせして、俺たちの放課後の過ごし方を面白半分に見ている節があるので、俺は苦手にしている。まあ、リッキーは彼女にお熱なのだが。ちなみに、彼女がここに来るのがリッキー目当てだということを、悲劇(俺とヨッシーにとっては喜劇)にもリッキー本人は知らない。
会話のなかにドアを開けて入ると、二人がこちらを向いた。まだヨッシーは来ていないらしく、リッキーと中村が二脚だけのパイプ椅子を先に占領している。室内は決して涼しくないが、唯一の窓が全開で、そこから吹き込む風のおかげで心地良い。俺は窓の近くに歩み寄りながら、リッキーに質問を投げかけた。
「今日のはどんなアイデア?」
すると、リッキーは「待ってました!」とばかりに、いつものように目を輝かせて答えてきた。
「聞いてくれよ、みさきにはウケなかったけど、こんどこそ傑作を書けそうなんだ」
中村は呆れ顔だが、そんな視線におかまいなくリッキーが続ける。
「タイトルはずばり、『部屋を疑わば事件一つ』。主人公は、ある賃貸アパートの一室に入居する。そして、次々と怪奇現象に遭遇するんだ」
軽音学部は部長であるリッキー一人だけで、バンド活動ができない。そのため、文芸部の文集への寄稿を主な活動としている。もともと米澤穂信のような作家に憧れていたらしく、「ミステリー専門作家」と自称し、執筆予定のストーリーをこうして俺たちに披露してくるのが日課だ。そのため、部室の机の上は執筆用の原稿が散乱している。そのくせ、「気分転換」と称して、その横の電子ピアノで坂本龍一のナンバーをよく演奏しているため、もはや何部なのかわからない。
リッキーが身を乗り出し、饒舌になる兆候を見せた。その前にツッコミたいポイントがあったので、口を挟む。
「ポルターガイストとかラップ音? オカルトものってこと?」
リッキーがかぶりを振る。
「いや、前の住人が部屋に残していった痕跡が妙なんだよ。なぜかトイレの壁に日付が刻まれてたり、押入れの中に電話番号が書かれてたり、天井が削られてたり。そういうのに日に日に気がついていく。で、詳しく調べてみたら、過去にあった事件をリノベーションで隠そうとしたらしい。つまり事故物件だったんだ。ただ、突貫だったから、全部は隠せなかった。そこから、この部屋で起こった過去の事件を推理するんだよ」
自信満々に構えているリッキーに、またツッコミを入れた。
「それまさか、リノベーションした大家が犯人?」
「私もそう思ったの」
理解者が現れたことに喜ぶ素振りを露わな中村が、話に加わってきた。
「まあ、そういうオチで考えてたんだけどさ。なんだよ、みさきも気づいてたのか…… だめかー、あらすじだけでオチが読めるんなら、これもボツだな」
そう言い落ち込むリッキー。これもいつもの光景だ。俺は別に書き物が得意というわけではないが、一つ確かだと思うことがある。それは、小説家はアイデアマンであると同時に、そのアイデアを練ることが生業ということだ。その点、リッキーはアイデアマンだが、そこから踏み込むのが不得意なのが、いつももったいなく思える。もっとも、ネタを練る術どころかアイデアすら持ち合わせてない俺は、何も言うことはできないのだが……
それに、リッキーからすれば、なんやかんや理由をつけても、中村に自分の構想を伝えることに意味があるのだろう。
「実はさ、もう一つあるんだ。AとBとCの三人組のうち、AがBをこっそりと殺害する。でも、CがAに『Bを殺したのは俺なんだ』と打ち明けてきて……」
「お、また新ネタ?」
リッキーが新たなアイデアを披露し始めたところで、ヨッシーが部室に入ってきて会話に参加した。ドアが開いたため、ヨッシーの声とともに爽やかな風も室内に渡る。
「今日は遅いね」
「千沙ちゃんに文集について聞かれててさ」
「珍しく部長らしいことしてるじゃん」
中村の質問に答えるヨッシーに、リッキーが的確なツッコミを入れた。それに間髪入れずに、ヨッシーが続ける。
「他人事じゃないぞリッキー。そろそろ文集用の原稿提出してくれよ。部長会のとき議題になっただろ、ウチの部、今年こそは文化祭に出展しないと来年廃部なんだから」
「わかってるって。だからこうしてアイデアを練ってるんだろ」
リッキーの返答に対して、俺と中村がとぼけ顔を見合わせる。「いや、練ってないだろ!」という、心の中でのツッコミとともに。
「ところで、中村さんは部活あるとして、がっちゃんとリッキーはこれからどっか寄ってく?」
いつの間にか文芸部部長の表情が消えたヨッシーが、放課後の謳歌を意気揚々と問いかけてきた。
「今日はもうしばらく部室で執筆に勤しむよ」
「俺も今日はパス」
リッキーが返答し、それに俺も続く。窓から見える東部岳は、くっきりと夏空に映えている。程よく雲がある、絵になる空だ。
「リッキーは、まあ仕方ないか。がっちゃんは今日何かあるの?」
「釣りしたい」
「釣り!?」
ヨッシーの質問に答えた俺に、一同が声を揃えて驚いた。
「釣り竿でも持ってきたの?」
「あれ、言ってなかったっけ? ちょくちょく釣りしてたんだけど」
リッキーの質問に答えながら、俺はカバンからペンロッドを取り出して見せた。ペンロッドは、その名のとおりペンほどのサイズで、ロッドを伸ばしてリールを取り付ければ釣り竿になる代物だ。勿論、本格的な投げ釣りには向かないが、浮き釣りには十分使える。ジョーク品と言うアングラーもいるが、利便性で見ればバカにできない。
「エサは?」
「いつも魚肉ソーセージを使ってる」
中村に返事をしながら、リールも取り出して見せた。
「そんなんで釣れるの?」
「それが意外と釣れるんだよ」
ヨッシーの質問にそう答えたが、みんなは納得していない様子で、中村にいたってはいやらしくニヤニヤとしている。
「相変わらず変なことしてんね」
「別に釣り好きじゃないけど、がっちゃんがハマるくらいなら興味あるな。俺も釣り場に連れてってよ」
中村の一言に、俺はわかりやすく「悪かったな」という諦念の表情を浮かべて見せたが、直後のヨッシーの発言のおかげですぐに持ち直した。そうじゃなくっちゃな、さすが相棒! しかし、もちろんそんな素振りは隠しながら、クールに言葉を返す。
「ああ、いいよ」
「そうと決まればさっそく行こうぜ」
床に下ろしていたカバンを担いだヨッシーは、持ち前の好奇心を抑えきれないといった様子だ。
「何か釣れたら写メ送ってよ」
「オッケー」
俺とヨッシーは揃ってリッキーに返事をし、部室を後にした。吹奏楽部の演奏はいつの間にか鳴り止んでおり、セミも小休止中のようだ。「私もそろそろ部活行かないとなー」という中村の声が微かに聞こえる。
「でも、どこで釣ってんの? さっきの竿でも釣れる、いい場所なんてある?」
ヨッシーが聞いてきたので、俺は外履きに履き替えながら答えた。
「川釣りだよ」
「川? どこの?」
自分のチャリを見つけ、鍵を挿す。ヨッシーは不思議がりながら、斜め前の自転車に跨って、俺の案内を待っている。
「まあ、付いて来いって」
俺はそう言って、正門に向けてペダルを漕いだ。
「こっちに川なんてあったっけ?」
後ろのヨッシーが声をかけてきたので、振り向きながら答える。
「まずはエサを調達しないと」
「ああ、大壮に行くのか」
「大壮」とは、高校近くにある、スーパーやホームセンターなどから成る商業施設のことで、国道沿いにありアクセス良好なため、学生たちの絶好の寄り道スポットでもある。俺やヨッシー、リッキーもその例に漏れず、放課後にしょっちゅう訪れている。
徒歩で帰る学生たち、そしてセミの声の間を抜け、国道にたどり着いたら左折。大壮の駐輪場に到着し、チャリを停め、食品売り場を目指す。
店内に入ると、涼しさの塊が一気に押し寄せてきた。よく効いた空調が、外の熱射に打たれた身体を癒してくれる。店内に流れるBGMの、清涼感たっぷりなフュージョンがまた心地良い。ヨッシーも快適さに味を占めているようだ。メガネを外し顔の汗を拭いながら、サッパリとした表情をしている。
「よく考えたら、ホームセンターに専用の釣りエサがあるんじゃないの?」
メガネを掛け直したヨッシーが、ホームセンターのほうを気にしながら聞いてきた。
「イソメとか買ったところで、使い切れないからな。次の機会に使うにしろ、持ってきても放課後までカバンに入れておくわけにいかないだろ? 魚肉ソーセージなら、保存が利くし俺らでも食べられる」
「たしかに」
俺は笑いながら答え、ヨッシーもそれに納得した表情だ。
一番安い魚肉ソーセージ、そしてスポーツドリンクを二本買って、店を出た。駐輪場には、俺たちと同じく放課後を過ごしに来た学生がちらほらいる。熱をもったシートに座り、東部川方面に向けて国道を進む。帰り道を逆走する格好だ。
「これじゃあまるで、寄り道ってより旅だな」
後ろを付いてくるヨッシーが言った。声が笑っている。振り向かず、顔を見せるわけでもないのに、俺もとびきりの笑顔をしてから返した。
「ああ、そういうことだな!」
太陽とセミの声のなかを、ときおり吹いてくる海風とともに進む。左側の海と、そこに流れ込む正面の東部川が同じ煌めきのため、海と川が一つなぎに見える。
川に架かる橋の手前で右に曲がり、針路を川沿いに向けた。土手と平行する二車線がやっとの道を、踏切を目指して進む。
踏切近くのバス停まで来たところで、ヨッシーに声をかけた。
「あの鉄道橋の下が、釣りスポット」
続く道は踏切になっており、左手に伸びる鉄道橋で線路が川を越えている。バス停の脇には土手を下りられる小道があり、俺は勢いよくそこを下りた。ふと振り返ると、後ろのヨッシーは「おおっ」という表情で続きながら、あたりの景色をつぶさに見回している。
土手下の川辺はコンクリートで舗装されており、そこから七段の低い段差を下りると川だ。サラサラと、澄んだ水の流れが見ているだけで涼しい。鉄道橋の下に、二人一緒にチャリを停める。二人とも背が高いほうなので、背伸びをすれば頭をぶつけそうな高さだ。
「こんなところがあったんだな」
川を見渡しながら、ヨッシーが言った。
「こっちから帰ってるときに見つけた。今日みたいに日差しが強くても橋の下は涼しいし、たまに地元の人たちが散歩してるけど、それ以外は誰も来ないから、静かに釣りができるよ」
そう自分で言いながら、周囲の音に耳を澄ました。セミの声、川のせせらぎ……
「わざわざこっちから帰ってたの? 写真撮るため?」
「そんな感じ。こっちは国道に無い景色で新鮮だったから」
「相変わらず、何と言うか物好きだな」
そう笑顔で言ってきたヨッシーに笑顔を返しながら、ペンロッドにリールを取り付けた。ロッドを伸ばし、糸を通す。
「ウキ釣りか」
ヨッシーが、俺の手元を見ながら言った。そのとおり、仕掛けは百円ショップ製の丸ウキだ。さっき買った魚肉ソーセージをちぎって針に刺す。
「何が釣れんの?」
「いろいろ。まあ、ここは奥まで浅くて大物はいないから、小さいのしか釣れないけどな」
俺はヨッシーの質問に答えながら、水面に糸を垂らした。相変わらず太陽がその存在感を放っているが、日陰のおかげで、この空間は落ち着ける。手前の段差にゆっくりと腰を下ろすと、ヨッシーもその横に座った。腰掛けたコンクリートは熱をもっているが、チャリのシートほどは熱くない。ふとヨッシーを見た。水の中の色とりどりのハヤと、その上を漂うウキを一心不乱に見つめ、この光景を楽しんでいる。俺は視線を水面に戻した。
ヨッシーとこうして、何と言うか「悪友」と言うのがしっくりとくる関係になったのは、中学のときに、たまたま帰り道が一緒になってからだ。両者とも周囲と積極的に交流するような柄ではなかったので、同じクラスながら、数えられるほどしか会話したことのない関係だった。しかし、同じ帰路に会話が無いのはさすがに気まずく、こちらから仕掛けてみた。
「そういえば、趣味なに?」
唐突すぎる気はしたが、とりあえず会話になれば良いと思ったので、とくに考えずにそう切り出した。しかし、予想以上にヨッシーは動揺しなかったので、こちらと同じ心情だったのかもしれない。返答の本能のような口調で返してきた。
「うーん、小説書くのかな」
「へー、小説書けるんだ。どういうの書くの?」
「星新一って知ってる? その作家の作品が好きで。だからSF」
「へえー」
星新一という作家を聞いたのが初めてだったので、とりあえず打った相槌で会話が止まる。また気まずい空気になりそうだったので、再びこちらから切り出す。
「俺は、写真撮るのが趣味でさ」
勢いに任せて言い終わってから、自分が初めて誰かに写真趣味を打ち明けたことに気がついた。まさか、こんな形になるとは……
「写真かあ、いいなあ。小説書くのって、なんか陰鬱な感じだからさ、写真だったら、胸張れるよね」
「いや、写真は陰鬱でしょ」
その俺の返しが何かのスイッチだったかのように、それまでの「心ここにあらず」な場の空気が一変した。そこから、想像以上に会話は続いた。
その日知ったのだが、ヨッシーの家はうちの近所だったようで、それ以来、ヨッシーと帰り道を共にするようになった。ヨッシーとは誰よりも気が合うので、いつも自然と会話が弾む。いや、「会話が無くても気まずくならない心地良さ」と言ったほうが適当かもしれない。もちろん、クラスでもよく話すようになったが、はばかり無くくだらない話ができる放課後の帰り道のほうが、俺たちが親交を深めるうえで性に合っていた。そういった経緯から、何の巡り合わせか同じ高校に受かった現在でも、クラスこそ違えど、放課後の交流は続いている。
ただし、一つだけヨッシーと気が合わず、驚かされたことがある。俺と同じ大人しいキャラながら、高校に入学するや、こうして平然と文芸部を立ち上げたのだ。「文芸部の立ち上げ申請をしたんだけど、がっちゃんも入らない?」と誘われた際に、何を血迷ったのかと度肝を抜かされたことは、未だに記憶に新しい。
小説を書く趣味は無いし、そもそも俺はクリエイティブな物事(写真しかり)に対して、「自分の作品は自分にしか理解できない世界であり、他人に理解されなくても良い」という自己完結型(?)のスタンスで、文芸部の活動とは相容れない。そのため、「自分に文才が無いことを引け目に感じるだけだからさ。ヨッシーと一緒とはいえなあ」と、誘いは断った。しかし、ヨッシーの野心には大いに共感できる。
「早い話、学校にも執筆ができる空間があったほうが便利だし、小説書くのが好きな人が身近にいれば、そうじゃない集団に囲まれるよりはありがたい、それだけだよ。別に難しく考えてない。軽い気持ちでいいんだよ。初代メンバーなんだから、これから文芸部をどうしようと、今の部員たちの勝手でさ。どっかの歴史ある名門文芸部なんかより、気楽でいいだろ?」
以前、部を立ち上げた理由を聞いた際に、ヨッシーはそう返してきた。なんと大胆で無責任な考え方の部長、どっかの歴史ある名門文芸部が聞いたら、ブチキレてしまいそうな言い分だ。同時に、実に俺好みの、ヨッシーらしい回答でもある。つまり、ヨッシーは大人しい性格が変わったわけではなかった。本人からすれば、執筆用の書斎に学校が加えられただけに過ぎないのだ。自明として、作品を内に表現するにしろ外に表現するにしろ、落ち着ける、心地の良い活動場所が多いに越したことはない。現に、俺たちはリッキーの部室の在り方に憧れ、そこに入り浸っている。とりわけヨッシーは、「いつか文芸部もこうした空間を」という夢を描きながら――
轟音とともに、頭上を電車が通過した。我に返り、水面を見る。ウキは相変わらず、水面を寛いでいるようだ。
「釣れないな」
そう言ってきたヨッシーの手元に目をやった。まだケータイを握っていない。ヨッシーは手持ち無沙汰になると、ケータイで野球速報をチェックしだすクセがある。
「釣り糸を垂らして、風にあたりながら景色を眺めてるのが楽しいんだよ。それよりさ、お前、活動はどうなの? 存続がかかってんだろ?」
「文芸部のこと?」
ヨッシーは俺の質問にそう返したあと、困り顔で水面に視線を移しながら、大壮で買ったスポーツドリンクに口をつけた。ペットボトルの表面から、大量の水滴が垂れている。
「いくら新参の部活って言ったって、もう一年経ったんだから、相変わらず部室が与えられてないのはキツイよ。去年みたいに部員が俺だけならまだしも、千沙ちゃんが入ったしさ。早く何か実績作って、認めてもらわないとなあ」
内村千沙は、部長であるヨッシー以外の唯一の文芸部部員で、ロングヘアとメガネがトレードマークの一年生女子だ。一度、放課後の廊下でヨッシーと話しているのを見たことがある。初めての入部希望者ということで、彼女の入部当初、ヨッシーは随分と戸惑っていて、何度か彼女のことを聞かされた。
川の対岸を見つめているヨッシーに、提案を投げかけた。
「“俺たち”の部室があるじゃん。リッキーなら貸してくれるだろうし」
「知らない二年生に囲まれて、千沙ちゃん気まずいでしょ。それに、あそこの机はリッキー用にレイアウトされてるからなあ」
ヨッシーはそう言い終えてから、またスポーツドリンクに口をつけた。それにつられて、俺も自分のスポーツドリンクに手を伸ばす。まだ微かな冷たさがある。キャップを回しながら、ヨッシーに聞いた。
「千沙ちゃんは部室が無いのを納得してるの?」
「ああ、学校対抗の文学コンクールに出場できれば満足らしい。だから、いつもは家で執筆してるって。ただ、文集の構成は話し合いながら詰めたいし、何より、俺もリッキーみたいに執筆できる場所がほしい」
「まあ、せっかくの放課後だもんな」
俺の言葉を聞いて、ヨッシーが笑顔で空を見る。その様子がまるで、時間が止まったかのように感じられた。川辺が、無風と静寂に包まれる。ヨッシーの口だけが動いた。
「放課後って特別な時間だよな。学校の無い日よりも、自由な気分になれる」
何事も無かったかのように雲が動き、川の対岸の木陰から風がやって来た。緑を十分に吸っており、爽やかな香りがある。俺は笑顔で言葉を返した。
「ああ」
スポーツドリンクでのどを潤し、そのペットボトルをわきに置く。ヨッシーを見ると、相変わらず空に視線を吸い取られている。
その瞬間、ウキが「ポチャン」と音をたてた。はやる心を抑えて、竿を上げながらゆっくりとリールを巻く。
「かかったぞ!」
「ああ!」
ヨッシーの呼びかけに答えたときには、既に紡錘形の獲物が水面近くまで来ており、手応えがスッと軽くなった。水からあがってその全貌が見え、また竿が重くなる。
「フグじゃん! すげー!」
ヨッシーはそう言ながら笑い出した。なんとなく、ハヤでは無い手応えとは思っていたが、まさかフグとは! 驚きのあまり、俺も笑うしかない。
「まあ、河口だからいてもおかしくはないけど、こんなの初めてだ」
「写真撮らないと、リッキーに送る」
そう言って、ヨッシーがケータイのカメラにフグを収めた。弱らないように丁寧に針を外して、川のなるべく海側に投げると、「ポチャン」という水しぶきとともに、フグの姿は見えなくなった。
「いやー、すごいな。ホントに釣れるんだな」
「フグがかかるとは、俺も予想外だったけどね」
「その竿で大したもんだ」
ヨッシーに応えた俺の声のすぐあとに、聞き覚えのない男の声が聞こえた。ヨッシーとともに驚きながら振り返ると、青と白のポロシャツに灰色のハーフパンツという出で立ちの男が、少し向こうからこちらを見ている。年齢は四十代といったところだろうか?
俺はヨッシーの顔を見た。ヨッシーも俺の顔を見た。どうやら知り合いではないらしい。恐らく、ここを散歩コースにしている地元民の一人だろう。俺の落ち着きようを見て、ヨッシーもそれに気づいたように頬を緩めた。
「ごめんごめん。水を刺したね。釣り上げてるとこを見かけたもんで、つい」
「フグが釣れたんです、この竿で」
言葉を残して立ち去ろうとする男を、ヨッシーが呼び止める形となった。男は踵を返してこちらに歩み寄って来て、竿を指さした。
「これはミニチュア?」
「ペンロッドって言うんです。れっきとした釣竿ですよ」
俺はそう言いながら、誇らしげに竿を掲げた。さっき大物を釣り上げたばかりで、いつも以上に竿が輝いて見える。
「へえ〜。確かに、小さいけどよく出来てるね。仕事の合間に、いつもここを散歩してるんだよ。で、君がここで釣りをしてるのをたまに見かけてたんだけど、釣り上げたところに初めて遭遇してね。今日は友達も一緒だけど、釣り部か何かなの?」
そう言われて、俺とヨッシーは顔を見合わせて笑った。「次は『写真部部長』ではなく『釣り部部長』と呼ばれるかもしれないな」と思うと、自然と笑いが込み上げてくる。興味ありげに俺たちの様子を見守る男に、ワケを話す。
「俺は帰宅部で、こいつは文芸部です」
「なるほど、放課後を満喫してるってわけね。文芸部の君は、部活終わりってことか」
「いえ、『部活だけど部活にあらず』みたいな……」
「何だそれは」
ヨッシーの言葉に、男は満面の笑みで返してきた。「文芸部の部長を務めている」「部室が無い」という事情を、ヨッシーが苦笑いで説明し始める。男がヨッシーを見る表情は、どこか温かい。
「なるほど」
ヨッシーの話を聞き終わったあと、男はそう言って海のほうを眺めた。海までの距離はそう無いのに、何かとても遠いものを見つめているようだ。そして、こちらに向き直り、再び続けてきた。
「その制服ってことは、君たち常勝丘高校の生徒さんだよね? 俺も昔生徒だったんだよ。ここじゃなくてあっちの海沿いの防波堤だったけど、君らみたいに放課後に釣りに精を出してたもんさ」
「えっ、そのころは釣り部があったんですか?」
ヨッシーの質問に、男は笑いながら答えた。
「無かったよ。だから、君らを見て、そういう部ができたのか気になったんだ。ちなみに、俺はそっちの君と同じで帰宅部だったよ。しかし、文芸部を立ち上げるなんて、大したもんだ」
「さっきも話したみたいに、申請が通っただけです。部室が無いなんて、部活と呼べるか怪しいもんですよ」
「いや、行動することに意味があるんだよ。とくに若いときはね」
申し訳なさそうな口調のヨッシーを、男が笑顔で鼓舞した。
「ところで、この近くに公民館があることを知ってるかい?」
「いいえ」
男の質問に、俺とヨッシーは顔を見合わせてから、声を揃えて答えた。
「俺は向こうの東部岳の麓の一帯、東部町の町会長をしてるんだ。それで、公民館を集会所としていつも借りるんだけど、そこの二階の一角が図書室になってる。もちろん誰でも使える。ただ、そこの公民館場所が悪いから、平日はガラガラなんだ。だから、そこの机でのびのびと執筆ができると思うよ。誰もいないんだから、多少の会話も大丈夫だし」
「本当ですか!?」
男の情報提供に、ヨッシーが目の色を変えて食いついた。
「その公民館はどこにあるんですか?」
「東部岳に向かう川沿いの車道を進むと、田んぼの中にあるよ」
「それって、小さな神社が横にありませんか!?」
ヨッシーの質問に答える男に、こんどは俺が食いつく。男は相変わらずにこやかに答えた。
「ああそう、その建物だよ」
やっぱりそうだ、前を通りかかるたびに気になってはいたものの、まだ探索の足を伸ばしていなかった、あの正体不明の建物! 公民館だったのか。
「ありがとうございます!」
ヨッシーが立ち上がり礼を言い、俺もつられて立って一礼した。
「何もそんな律儀に。さて、散歩ついでに買い物をしないといけないから、そろそろお暇させてもらうよ。それじゃあ、良い放課後を、ね」
そう言葉を残して、男が国道方面に去ってから、ヨッシーに話しかけた。
「今日は大収穫だな」
「フグといい、公民館といい、だろ?」
ヨッシーの返しで、お互いの思いが同じことを確認する。俺は丁寧に竿の水気を拭きとり、チャリに跨った。ヨッシーもそれに続く。二台のチャリはぐんぐんと川上へ進み、日陰で引いていた汗がまた噴き返す。
「そういえばさっきの人、仕事の合間って言ってたけど、こんな時間に散歩なんて、何の仕事だろ?」
後ろからヨッシーが声をかけてきた。
「たぶん、工場とかだと思う。さっきあった踏切から学校のほうに行くと、小さいクリーニング工場とかが並んでるんだ」
「へえー」
俺の回答に納得した様子のヨッシーを確認して、前を向く。土手上から伸びる道との合流地点が見えてきた。日が落ちてきたとはいえ、まだまだ太陽が眩しい。
「あそこを右に曲がろう。そうすると、さっき教えてもらった公民館が見えてくる」
「オッケー。おっ」
ヨッシーが突如声をあげた。しばらく先の路肩に自転車が停めてあり、その手前の川への段差に、例の女子が座っている。いつものように、せっせと絵筆を動かしている。
「あれ、関根さんじゃない?」
「え?」
俺があぜ道へ針路をとろうとしたタイミングで、ヨッシーが声をかけてきた。
「ああ、がっちゃんは文系だからあんまり面識無いか。まあ、俺も直接話したことはないけど。美術部の友達から、あの人がいきなり美術部辞めちゃったって聞いたんだよね」
「ふーん、理系の女子だったのか。どうりで学校じゃあまり見かけないわけだ。いつもこのあたりで絵を描いてるから、美術部だったってのも納得だわ」
俺がそう返したときには、チャリは既にあぜ道に入っていた。公民館はもうすぐだ。
「すごいな、この景色」
ヨッシーが、東部岳を見ながらそう口にした。それは、数か月前に俺が抱いた気持ちと変わらない。そして、ここを訪れる度に、俺も未だにその言葉が脳裏に浮かぶ。
鳥居の横を伸びる公民館への脇道へ逸れると、ベージュの四角形のようにしか見えていなかった、その二階建ての全容が露わとなってきた。裏側に入り口があり、その両開きの扉の上には「東部公民館」と白字で書かれている。比較的新しそうな外観だが、ここ数年の新しさではなさそうだ。駐車場の隅に綺麗に並べられている二台の車は、恐らく職員のものだろう。それ以外はガランとしていたので、遠慮なく入り口付近の空きスペースに、ヨッシーと一緒にチャリを停めた。
ドアを開け、足を踏み入れる。ロビーは吹き抜けで、大壮ほどではないが空調が効いているようだ。清涼な空間はシンと静まり返っているが、耳を澄ますと、左側にある窓口から、テレビの音が微かに聞こえてくる。と、急に「カツーンカツーン」という足音が響き渡った。
「もしかして、常勝丘高校の生徒さん?」
見ると、窓口の横側の通路に、職員らしきメガネのおばちゃんが立っていた。
「はい、そうです」
「あの、何かあったんですか?」
ヨッシーの返答に続けて、こんどは俺から質問を投げかけた。
「やっぱりそうだったのね。あ、そんなにかしこまらないで。町会長さんから、『常勝丘高校の生徒さんが図書室を部室代わりに使うかもしれない』って電話があってね、気になったから、窓口から姿が見えて声をかけてみたの。図書室はふだん電気を消してるから、来たらつけて、帰るときは消していってね」
「わかりました」
ヨッシーが答えたのとほぼ同時に、職員のおばちゃんは足早に窓口の奥に戻っていった。再び、ロビーが微かなテレビの音だけに包まれる。俺はヨッシーと顔を見合わせた。てっきり、長々と利用方法の注意があるのかと思いきや、やけにあっさりだ。しかし、その放任主義が心底心地良く、二人でクスリと笑い、それから階段を上がった。
階段は右奥にあり、途中の踊り場で折り返して二階に続いている。図書室は角部屋で、廊下に面した室内窓から中の本棚が見えたので、すぐに見つけられた。入り口は廊下を左に進んだ突き当たりの右にあり、その「図書室」と書かれた扉をヨッシーが開ける。確かに照明はついていないが、それがいらないくらいに日当たりが良い。また、空調は全館にわたって効いているようで、相変わらずの涼しさだ。
「こりゃ、いい!」
他に誰もいないことを確認したヨッシーが、閲覧用の長机に手をかけながら、歓喜を口にした。その声につられて、俺も中を見回す。決して広くはないが、常勝丘高校の図書室と同じくらいの蔵書はありそうだ。
「わざわざ電話もしてくれたみたいだし、町会長さんに感謝しないとな」
「ああ、そうだな」
ヨッシーはそう返して、窓から外を見た。外には壮大な田園風景が広がっている。落ち着きのある室内とワンセットで、なんともひなびた光景だ。
「大先生は、さっそく今日からここを執筆場所にします?」
「書きかけの原稿が今日は手元に無いから、明日からかな」
ヨッシーは俺の質問に笑顔で答えて、階段のほうに歩み始めた。ヨッシーに続いて図書室を後にしようとしたが、ドアを閉める際に、ふと図書室の中を振り返る。陽光に照らされた室内が、温かに自分たちを見守ってくれているような気がした。
階段を下り、二人で窓口を覗く。「明日また来ます」とヨッシーが声をかけると、奥に座っていた職員のおばちゃんが会釈を返すのが見えた。俺とヨッシーは、込み上げる高揚感を胸に、公民館を後にした。
それにしても、部室の話をしていた矢先に部室をゲットできるなんて、ヨッシーの強運が恐ろしい…… そんなことを考えながら、画伯の家の前を過ぎる。少しして、ヨッシーが声をかけてきた。
「すごいな、今の家。庭にたくさん絵があったぞ」
「画伯の家」とは、東部町の例の画廊のような家のことである。俺はいつからか、あの家を「画伯の家」と勝手にネーミングしていた。
「描いた絵を乾かしてるんだと思う。たまにあんな風に、玄関前にキャンバスがあるんだよ。しかも、いつも違うのが」
俺がそう答え後ろを向くと、ヨッシーは「ほおー」という表情を浮かべている。そうしているうちに、チャリがボンジュールに着いた。
「ここは?」
「ここのパンが美味いんだ。食っていこう」
そう答えながらチャリを停め、ヨッシーと共にカランコロンと店内に入る。
「あら、いらっしゃい」
「こんにちは、焼き立てはどれですか?」
「アンパンを丁度出したところよ」
おばちゃん店員と俺の慣れたやり取りに、ヨッシーは少し驚いている様子だ。俺がアンパンをトレイに乗せると、ヨッシーが陳列されているアンパンの一つを指さした。それもトングでトレイに運び、二人で会計を済ませる。
「常連なんだな」
「ほぼ毎日来てるからな」
店を出て、ヨッシーの言葉に返した。チャリに跨り、二人でパンを頬張る。
「美味いな、これ」
「だろ? あ」
返事がてらヨッシーを見た際に、ヨッシーの自転車の泥除けカバーが外れかけていることに気がついた。俺のチャリほどボロくはないが、負けじと使い古されている様子なので、無理もないだろう。カバンからチャリの修理キット(百均製)を出して、その中の小型レンチで、ヨッシーの自転車の留め具を締め直した。
「な、なに?」
「泥除けカバーが外れかけてたからさ」
「修理道具持ち歩いてんの!? さすが、抜かりないな。サンキュー」
「ダテに放課後に旅してないからな」
「さながら、『放課後マスター』ってとこか」
「帰宅部なのに?」
俺が笑いながらそう返すと、ヨッシーも笑う。そんなやりとりを経てから、自由が丘住宅群への一本道に入った。
「ここ行くと、自由が丘に着く」
「え、ってことはこの道、常中に行けるの?」
「そういうこと」
気づけば日が落ちているが、まだまだ暑さは止まない。ヨッシーの自転車のオートライトとほぼ同時に、愛車のオートライトも点灯する。
「ヨッシー、今書こうとしてるのって、どんなストーリーなの?」
「中学校のイジメ対策のために、歳をとらない大人、まあ見た目が子供、頭脳は大人の『名探偵コナン』みたいな職員を毎年クラスに紛れ込ませるって話を書いてるよ。あとは、そうだなー、オナ禁してたら性欲が消滅した人の話も」
「二つ目のは絶対書いてないだろ」
俺が笑いながらそう返したとき、チャリは浅草書店の前に差し掛かっていた。ヨッシーは興味ありげに浅草書店を見たが、すぐにこちらに向き直って笑顔で話しを続けてきた。
ヨッシーから詳しい構想を聞く。さすがは文芸部部長、リッキーとは違い設定を練っている。話しは弾み、あっという間に我が家への曲がり角に到着した。
「本編が完成したら、ぜひ読んでよ。今日は釣り連れてってくれて、ありがと。また明日ー!」
「もちろん。おう、また明日!」
ヨッシーを見送り、我が家に入る。捨てるのを忘れていたアンパンの包装をゴミ箱に入れてから、いつものように夕飯や風呂、宿題を済ませ、蚊取り線香を焚いたルーフバルコニーに行き着く。その後は、目覚ましと扇風機のタイマーをセットし、ベッドへ身を投げた。
その日は夢を見た。俺が写真部を立ち上げ、部室を手に入れたという夢だ。しかし、写真部の部室は、新参者の部活ということもあって、スッキリしすぎている印象がある。輝かしいトロフィーなどが無いのはまだしも、輝きを放つピンホールレンズすら棚に並べられていない。ドアにちんけに「写真部」と書かれているのが唯一の特徴なのは、きっと軽音楽部の記憶のせいだ。廊下から見ると、数ある用務室などの部屋と見分けがつかない。誰かが部室のドアを開け、中に入ってきて――
次の日の放課後、公民館の図書室に行くと、ヨッシーが長机に原稿用紙を広げて唸っている。
「部室に行ったら、『ヨッシーならもう帰った』ってリッキーに言われて、ここだと思って」
そう声をかけると、こちらに気づいたヨッシーが顔を上げた。
「さっそく活用させてもらってるよ。静かだし、景色も良いし、快適」
ヨッシーはそう言うと、窓の外を見た。そこに映っているのは、くっきりとした夏空だ。唐突にヨッシーが続ける。
「都会の空って、汚染物質が多いせいで白っぽいらしいんだよ。この空は、俺たちだけの特権だったんだな」
「どうしたんだよ、突然? 小説家のスイッチが入って、感傷的になった?」
「まあ、そんなところ。で、どうしたの?」
「いや、ちゃんと部室になってるか様子見たくて」
「なんだよそれ。このとおり、立派に活動してるよ。次のミーティングのときは、千沙ちゃんとリッキーにもここに来てもらうつもり」
「そりゃ良かった」
ヨッシーが心からここを気に入っている様子が、心底嬉しく思える。
「じゃあ、執筆の邪魔するわけにはいかないから、俺は失礼するよ」
階段まで見送ってくれたヨッシーを背に、公民館を後にする。爽やかな風をいつも以上に感じながら、今日の帰路についた。