桜の舞う頃に

文字数 5,165文字

 なんでこうなったのか、ぼくには未だにわからないのだ。
 きっかけが何だったのかもわからない。ただ、気が付いたらそうなっていたとしか言いようがない。
 夜の春風が、ぼくの伸びっぱなしの前髪を揺らす。ぼくの座る桜の木の枝を揺らす。花を散らす。
 ぼくは結局、彼らの机に手紙は入れられなかった。教卓に忍ばせることもできなかった。
「ああ……そっか」
 だから、こうなったのかもしれない。ぼくは両腕を胸から少しずつ離していって、そして、抱えた手紙を、パッと優しく放り投げた。舞い散る花に混ざって、くすんだ白が落ちていく。
ぼくは自分の生っ白い首を飾るザラザラした茶色を撫でて、落ちる手紙を追うように、勢いをつけて桜の枝から飛び降りた。

 刹那の間に見えた校舎が、月に照らされて気持ち悪く闇に浮かんでいて、ぼくは『ああこれこそ本当の姿なんだ』と、そこで過ごした日常を思いながら目を閉じた。

 ● ● ●
 
「それこそ、お前の本当の姿だよ。似合ってるよ、なあ、みんな」
 そう思うだろ? とぼくの前でふんぞり返る伊屋橋(いやはし)くんは、クスクス笑っている取り巻きたちを振り返ることすらせずにそんなことを言う。その声に、ぼくの張り付いた喉では何も返せない。ぼくは何も言えずに、無理やり引き抜かれた上、ハサミで適当に切れ込みを入れられてしまって到底履くことのできない姿となった制服のズボンを見つめていた。
絞村(しめむら)ぁ、良かったなぁ。超おしゃれじゃんそのズボン!」
 取り巻きの一人がはやし立てる。すると伊屋橋くんは、心底楽しそうに顔を歪ませる。
「お礼は?」
 ぼくはズボンを手繰り寄せながら伊屋橋くんを見る。長い前髪の隙間から見える彼は、なんともすっきり晴れやかな表情をその顔に乗せていて、『憂さ晴らし』――つまるところ、そう言う事なのだろう。
「……りが、と……ござ……ます」
 聞こえないなぁ、と彼が言う。その一言にヒートアップしたように、周囲がうるさくなる。
 聞こえてくるのは、取り巻きたちの揶揄いを多分に含んだ大声と、更衣室から帰ってきた女子生徒の蔑むような――「うわ、きっも」――低い声。
「高二にもなってよ、お礼もちゃんと言えねぇのかよ! 土下座しろよ土下座!」
 この言葉を誰が言ったのか、ぼくにはわからない。
始まった土下座コールに頭を押さえつけられて、ぼくは、床に額を擦りつけた。


 ● ● ●

 多分、これは憂さ晴らしだったのだろう。

 厳格な父親と、典型的な教育ママの母親に挟まれて。俺は、イイ子にまっすぐに、親二人が期待する通りの枠に嵌って生きてきた。
勉強もできて、容姿も悪くない。運動だってそつなくこなす、自慢の息子。
それが、伊屋橋家の中での俺の役割だった。
 反抗せず、噛みつきもせず――そうやって、心に灯った負の感情を押し殺し、良い息子を演じれば演じるだけ、俺の中に澱が溜まっていった。
 澱が溜まれば、演じることもできなくなる。両親からの失望を恐れた俺は、家以外の場所ではいつも苛立っていて、焦っていた。澱が溜まりに溜まって、そして、『自慢の息子』という枠から溢れてしまいそうになった時に……俺に話しかけてきたのが、ソイツだった、というだけの話なのだ。
 あの日の事はよく覚えてる。
 高校一年の、終わりの頃。寒い冬の日だった。
 その日、どうしても早々家に帰るのが嫌だった俺は、親には「塾で特別講義がある」と伝えて友人と何でもないことを駄弁って時間を潰していた。
 俺の席はちょうど教室の入り口の側で、友人たちは俺の机の前に陣取っていた。ゲームの話とか、昨日のテレビの話とか、今日の授業がどれだけ怠かったか、放課後は何をするか――そんなことを話して心地よさを感じていたところに、ぼそぼそと、声が投げかけられたのだ。
「あの……通れない……」
 見ればそこにいたのは陰気に服を着せたような同級生で、それが絞村だった。
「通れない……」
 絞村は、何も答えない俺たちに自分の声が聞こえなかったと思ったらしい。もう一度同じ言葉を繰り返した。
 
 俺に言ったわけではなかったかもしれない。だって、扉の前に立っていたのは俺の友人だったんだから。恐らくそっちに言った言葉だったのだろう。
 しかし――しかし、俺は、絞村の長い前髪の向こうに隠れるその瞳と目が合った瞬間に……彼の弱弱しい声が紡ぐ言葉が、溜まった澱を溢れさせたのを確かに感じたのだ。

「気に入らないな」

 たった一言で良かった。それだけで、俺の周りの人間は、嬉々として遊び始めた。
 それからは坂を転げるように簡単に、絞村は『クラスに居てもいなくても変わらない人間』から『何をしても許されるもの』へと変わっていった。
 
 ● ● ●

 それを、私は『クラスに居てもいなくても変わらない人間』として、静かに眺めていた。

 ● ● ●

 絞村は、遊び甲斐があった。
 何をしても泣かない。何を言っても泣かない。動じない。
 そんな姿が、俺の周りの連中の心に火をつけたようだった。
 みんなゲームが好きだったから、『誰が絞村を泣かせるか』を競い合っていたような雰囲気もあった。俺はそんなみんなと絞村を眺めながら、自分の中に溜まった澱が少しずつ消えていくのを心地よく感じていた。
 誰もが――クラスの誰もが、徐々に手を染めていった。クラスの殆どに広まったのは、高校二年の頃だろう。あの頃にはもう、手の付けようがないくらいになっていた。
 一度、誰か――絞村本人だったのかも――が先生に告げ口をしたことがあった。その日のホームルームで先生は全員にプリントを配った。そこに書かれていたのは『このクラスでいじめがありますか?』という問いかけのみで、ホームルームを十分だけ伸ばし、先生はこれをみんなに書かせた。
 まあ、それでどうなったという事もないんだけど。
 多分、みんな面倒だったんだと思う。部活に入っているやつらはさっさとホームルームを終わらせたがっていたし、それ以外はさっさと家に帰りたかったのだろう。先生の「全員書けたか?」と聞いた時、否を言うやつはいなかったし――なんなら、ペンが紙に文字を刻む音も響くことはなかった。
 俺はチラリと絞村を見たが、ヤツは真っ青な顔でペンを握って、しかし何も書けなかった様子だった。
 その次の日。
 俺の周囲は「絞村が先生にチクった」と決めつけていた。その日は少し、ソイツらのやり方は苛烈だったかもしれない。
 誰だったか、絞村にこう言った。
「お前がチクったんだろ」
 それに対して、絞村は初めて――反抗を見せた。
「……てない」
「聞こえねーんだよ!」
「……ってない。ぼく、チクってない……」
 前髪の向こうの目が俺を見ていて――俺にはそれが、こちらを睨みつけている目に見えて。
 気づいた時には、俺は手にハサミを持っていて、俺の口は友人に「こいつのズボンを脱がせ」と命じていた。
 
 そうして自分で手を下したら、俺の中に溜まっていた澱が、吹き飛ぶように消え去ったことを良く覚えている。

 ● ● ●

 ぼくは、周囲と話すのが苦手だった。
 母をして、『もう少し整理して話してみて』と言われるくらいには、人に物を伝えるのが苦手だった。
 小学生の頃なんかは、家の外では一言も話すことができなかった。音読で指されても、何も声が出ない。漢字が読めないわけではない。声が、どうしても絞り出せなかったのだ。結局、先生は何か声を出さなければいけないような質問で、ぼくを指名することは無くなった。
 中学になると、ほんの少しだけ声を出せるようになった。蚊の無くような小さな声でも、それでも音読ができた。小学生の頃はよく弄られたものだが、その頃になると、同級生たちはぼくに興味を示さなくなっていた。それがとてもありがたくて――その時、『ああ、ぼくは一人でいるほうが気が楽なんだ』とわかった。でも、それでは駄目だと思う自分もいて――だけどどうにもできなくて。
 高校では、ぼくはもう、透明人間だった。
 誰に話しかけることもなく、誰に話しかけられることもなく。
 心地よかった。とても、心地よかった。誰に期待されるでもなく、こういうキャラだよね、と押し付けられることもなく。とても静かで、平穏だった。

 その平穏も、高校一年の最後の頃には終わってしまったわけだけれど。

 ● ● ●

 俺はいつも通り、家に長く居たくなくて、「学校で受験勉強をする」と言って早くに家を出た。いつも通り通学路を歩いて、いつも通りに学校について――いつも通りではなかったのは、学校の校庭だった。
 校庭に咲く一本の桜。他より少し赤い色で花を咲かせるその桜の前に、人だかりができている。そのほとんどが部活の朝練などに参加する生徒だったが、見知った姿もちらほらあって、そいつらは全員、桜を見上げていた。
 俺は首を傾げながらその人だかりに近付いて――鞄を取り落とした。
「みなさん、下がりなさい! 教室に行きなさい!」
 ヒステリックな女教師の叫び声すら、俺の耳は意味のある言葉としてとらえられない。
 俺は、他の生徒と同じように、金縛りにあったように、動けなくなってしまった。
 桜の緋の舞い散る中に、黒い何かが揺れている。足元には垂れ流された物が水溜りを作っていて、その周りに――白い手紙が。
 
 なんでこんなことに。だって、そんなにひどいことなんて、おれは。
 たぶん、これはゆめだ。おれはまだ、いえのべっどでねむっていて――。

 揺れる絞村を見上げながらそんなふうに現実逃避する(考える)俺に、風に舞った白い姿の現実が叩きつけられる。

 顔にぶつかったそれには、確かに、俺の名前が、彼の声のように弱弱しく震える文字で。

 ● ● ●

 私は、徐々に増え始める人の群れの中で、唯一の冷静な人間だったんだと思う。
 先生たちが喚きながら生徒を学校内に押し込もうとするのを横目に見て、持ち前の存在感の無さを使って、揺れる絞村くんに近付いた。ここまで来ると、彼の足元の物の匂いが鼻を刺すが、私はそれを無視して、スカートを揺らし、地面に落ちた彼の鞄を手に取った。重さなんてない鞄を開けると、そこには、一通の手紙が入っていた。

 ごめんなさい、と。

 手紙が謝罪から始まるのはなんだか絞村くんらしい気がする、なんて思いながら私は手紙を読み進める。
 書かれていたのは、『なんでこうなったのかわからない』という事と、『今までされたこと』と、『みんなに手紙を書いた』という事。そして最後の方に、震えの酷くなった文字と水滴の跡と共に『母親への謝罪』と――それからなんと、『伊屋橋くんへの謝罪』だった。

 きっとぼくが何か気に障ることをしたか言ったんだと思う、と。

 彼は一体どんな気持ちでコレを書いたんだろう。そう思いながら、私は彼の遺書をポケットに大切にしまい込んだ。

 それから私は、絞村くんの周囲に散った白い手紙たちの宛名を確かめることにした。幸い、先生たちは徐々に増える生徒への対応と、警察やら救急やらへの電話に忙しくて私のことなど気にしていない様子だった。だから、私はじっくり手紙を見つめる。
 伊屋橋くんと、その取り巻きたちの名前。それから、クラスの女子の名前。男子の名前。私たちのクラスの授業を受け持っていた先生の名前に、担任の名前まで。
 彼の文字で、しっかり書かれている。

 私は一通りそれを見て、耐えきれずに笑ってしまった。

「ひどいなぁ、絞村くん」

 私は、彼が虐められるのを、ただ見ていただけだ。そう。彼に救いの手を伸ばすこともなく、ただ眺めていただけ。
 なんとなく、彼が耐え忍ぶ姿を見ているのが好きだったのだと思う。
 そして、いつの日か、彼の怒りが、悲しみが爆発するのを待っていたのだと思う。

 そして、今日が来て。彼は、クラスメイトから先生まで手紙を書いて逝ったわけだけれど。

「私の名前がないじゃない」

 私と同じように、彼に手を差し伸べなかった女子の名前が、男子の名前が、そこにあるのに。
 私の名前だけが無くて、私は彼から見ても『居ない存在』だったんだなぁ、と思うと、なんだか私は無性に泣きたくなって――だから私は、彼が遺した手紙を全て拾い集め、そして鞄に詰め込んで、彼ができなかったであろうことを、やってあげることにした。

 その年は、クラスから何人かいなくなって、先生が何人かいなくなって、でも私はやっぱり、透明人間のままだった。
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