第31話 綺麗なお辞儀

文字数 3,714文字


 清とのデートは思いがけず楽しかった。動物を見ては可愛いと喜ぶハナに優しくいろいろ教えてくれた。

「初めてデートしましたけど…どうでした?」と清に聞かれる。

「楽しかったです。でも…あの申し訳なくて」

「申し訳なく思うことなんてないですよ。これから長い時間、一緒に過ごすんですから」

 ハナはそう言われてしまって、何も言えなくなってしまう。

「そうか…。駆け落ちでもしますか?」

 そう言われて、ハナはドキッとしてしまう。流石にその勇気は持っていなかった。

「…そのようなことは」

「僕は…絶対にあなたを幸せにします。どうか信じてください」

 真っ直ぐな視線をハナは避けることもできずに頷いてしまった。そして車で送ってもらい、家までついた。帰り際に手の甲にキスをされる。その仕草も気障なのに少しも嫌らしさがなかった。

「おやすみなさい」と言って車が去っていった。

 ハナは仕方なく家に入る。自分が今日、したことはなんだったんだろう。結局、自分の気持ちを言ったことで清を傷つけてしまっただけではないのか、と深いため息を吐いた。そのまま玄関に行く気にはなれずに裏庭の方へ回って空を眺める。
 清は本当に良い人だから、余計に心苦しい。自分さえ我慢できれば…、この気持ちに蓋をできればよかったのに、と思う。幸せな結婚を目の前にしているというのに、何て愚かな人間なんだろうと辛くなった。

「…ハナ」と呼ばれる声がして、振り向くと縁側の廊下に母が立っていた。

「お母様。すみません。戻りました」

「どうかしたの?」

「…いえ」

 母はハナの辛そうな笑顔を見て、そんな顔をさせるために育てたのではないと思ったけれど、どうすることもできないのも分かっていた。小さな頃はおてんばで、木によじ登ったり、弟をおんぶして二人で転けたりしていたのを思い出す。

「不安なの?」

「…私…大原様に…ひどいことを言ってしまいました。それなのに…大原様はお叱りもせずに」

 母の前で久しぶりにハナは泣いてしまった。清が叱ってくれた方がよかった。

「まぁ…」と母は縁側から裏庭に降りてきた。

「お母様は…お父様以外に好きな方はいらっしゃいましたか?」

 そう言われて、母はハナを縁側に腰掛けさせる。急に決まった縁談に不安を覚えるのは分かるし、英語を教えてもらっている正雄に惹かれているのも分かっていた。

「私は…お父さんとは幼馴染だったから…。山本様のこと…大原様にお伝えしたの?」

 素直に頷く娘を見て、恋ということもなく結婚したからこそ思う。恋というものを経験してみたかったと。だからハナのことを責めることはできなかった。夕暮れの涼しい風が吹き始めた。ウメがしているご飯の用意を手伝わなくてはいけないのだが、少しだけハナのために時間をとってもいいだろう、と母は考える。

「それで、大原様はなんて?」

「婚約は継続で構わないとおっしゃって」

「ハナは…大原様と結婚するのね?」

 断ることは、それこそ駆け落ちするしかなさそうだが、きっと正雄はそんな選択をしないとハナは分かる。でも胸が苦しくて、仕方がない。

「こんなことなら…言わずに胸にしまっておけば…」と手を顔に当てて泣き出した。

 ハナの背中を撫でながら、母は裏庭を眺める。小さな子供たちがよく遊んだ場所だった。少しも変わらない景色なのに、子供たちはいつしか大きくなっていた。

「ハナ…。大丈夫よ。あなたはきっと幸せになれるから」と繰り返した。

 あの頃は毎日が忙しくて、思い悩む暇もなかった。今、こうして娘と並んで夕方に泣いている。そしてその娘はいずれこの家からいなくなる。寂しさというものが胸に迫って、母の視界も少し歪んだ。

「今日はもうおやすみなさい。お腹は空いてない?」

「…大丈夫です。大原様にたくさんご馳走して頂いて」

 おてんばだった娘が声も上げずに泣いている。ゆっくり立ち上がって、部屋に行くように言う。

「お風呂は後で呼んであげるから」

 ハナは頷いて、玄関の方へ戻って行った。母はその後ろ姿をため息をつきながら見送った。


 翌日、ハナは学校帰りにキヨの家へ立ち寄った。正雄のことはもう考えないようにしなければいけないとは思ったものの、キヨに踊りを教えてもらうお願いをしているのだから、通うことは通おうと思った。

「あ、正雄さん、今、出かけてるのよ」とキヨに言われて、ハナはほっとした。

 顔を合わさなければ気持ちが乱れることもない。早速稽古をつけてもらうことにした。扇子を渡されて、持ち方や、お辞儀の仕方も教わった。ゆっくりした動きだが意外と筋肉を使うので、少ししただけで、体が重く感じた。

「あら、ハナさん、まだまだよ」とキヨが楽しそうに笑う。

「でも疲れたのなら、少し見てて」と言われて、ハナはキヨを見学することにした。

 特に化粧などしていないが、キヨの動きは美しく、そして目線まで色気があり、確かにこれは旦那様に見初められる美しさだとハナも見とれていた。正直、ハナはそんなに美しく踊れる気がしなかった。

 玄関が開いて「ただいま戻りました」と正雄の声がすると、ハナは肩が上がる。

「あら…」と玄関に出ていくキヨにハナは「私はいないことにしてください」と言う。

「どうかしたの?」と言いながら、キヨは玄関に向かった。

「お帰りなさい。お茶は必要ならお持ちしますけど」

 正雄は履き物を脱いで

「お客さんですか?」と聞いた。

 玄関にはハナの草履があったからだ。

「あ、そうなの。可愛らしい生徒さんがいらしてて」

「そうですか」

 いつもなら強引に正雄に会わせようと思うのだが、キヨはハナの様子が少しおかしかったから、何も言わなかった。きっと正雄もハナが来ていることに気づいているが何も言わない。

「お茶は結構です」と言って、二階へ上がって行った。

 その後、少し稽古をして、ハナはこっそり帰ることにした。

「どうしたの?」

「…私、忘れようと思います」

「え?」

 キヨに全部話した。自分の気持ちを婚約者に告げて、それはいたずらに彼の心を傷つけるだけだった、と。正雄のことは好きだけど、忘れなければいけないと決めたということを言った。

「そんな…」

「幸せな…結婚なんです」とハナは自分に言い聞かせるように言った。

「そうだけど。ちょっとお茶淹れるわね」とキヨは台所へ向かった。

「あの…帰ります」と言いかけたが、キヨは聞こえないふりをして、お茶の用意を始めた。

 ハナは正雄の顔を見ずに一刻も早くこの家を出なければいけない、と思いつつ、ここまで来たのはやっぱり正雄に会いたかったからだ、と思った。このままキヨのお茶を待っていては…と思い、やはり帰ることを伝えようと思った時、後ろから声をかけられた。

「こんにちは。ハナさん」

 正雄の声だった。ハナは振り向くことができずにそのままで「こんにちは。お邪魔してます」と小さな声で言う。

「清は来週、イギリスに向かうんですね」と言った。

「…はい」と振り返って、俯きがちに答える。

「代わりの先生を見つけました。来週、一緒にお伺いします。イギリス人の女性の方で、日本語も少しは話せるので大丈夫だと思います」
 
 そう言われて、思わず顔を上げて正雄を見た。顔を見た瞬間、ハナはやはり気持ちが込み上げてくる。

「ハナさんにお会いするのはそれで最後です」

(そうですか…)と口に出そうと思ったのに、涙だけが溢れた。

 何か言わなければいけないと思うのに、正雄の言うのが正しいと分かっているのに、口はまるで動かず涙だけが溢れてしまう。

「ハナちゃん…」とお茶を淹れて来たキヨが驚いて声をかける。

 お茶をお盆のまま床に置くと、キヨは慌てて手ぬぐいを差し出す。

「…ごめんなさい。あの…私…」とハナは涙を拭いた。

「お茶はいかが?」とキヨが言ったが、首を横に振る。

 そして深呼吸すると、さっき習ったように綺麗に手を三角形に床に置いて、親指を隠してお辞儀をした。

「大変、ご迷惑をおかけしました」と正雄に向かって頭を下げた。

 そしてキヨにも向き直って、同じように挨拶をして、立ち上がる。キヨも玄関まで見送った。

「またいつでもいらしてね」

「…ありがとうございます。踊り…素敵でした」

「まぁ…そんな」とキヨは無理に作るハナの笑顔に胸が突かれる。

 そそくさと帰っていく後ろ姿を見送ると、キヨは家に戻った。居間にいくと、二階にも上がらず、座り込んでいる正雄がいた。

「お茶、いかがです? 正雄さんは色男だから女を泣かすことは初めてじゃないでしょ?」とキヨは冷たく言った。

 優しい言葉ひとつもかけずに、見送ることもせずに座っている正雄にハナの代わりに何か言ってやりたかった。正雄は情けない顔で笑って

「全く…そうです。こんなことは初めてじゃないのに…」と湯呑みを持ち上げた。

 持ち上げた湯呑みが滑って、手から落ちる。

「あ、大丈夫ですか」とキヨは慌てて、さっきの手拭いで正雄を拭く。

「…大丈夫じゃ…ないですよ。情けないことに」

 熱いお茶がかかって、派手に濡れているのに、全く動かない正雄に、キヨは深いため息をついた。ハナの方が潔い、と思って「しっかりなさい」と言った。それでも正雄は畳に広がるお茶を眺めているだけだった。
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