氷河期にアイスクリーム

文字数 3,851文字

 高校のときの話です。
 吹雪の音が聞こえていました。雪や風でごうごうごうごう。それはひどくいやな、不安を煽るような音でした。おびただしい数の雪の粒が、窓にぶつかって潰れてはすぐに風に飛ばされて、なんだか切なくなりました。そんな日でした。
 田中イヌイットが机に突っ伏して泣いているので、ヴァイキング吉井が心配そうに寄って行ってやさしく背中に手を置き、こう声をかけました。
「なあ、だいじょうぶか?どうした?」
 これを聞いたクラスメイトたちは「”どうした?”ではないだろう」と思いました。それは明らかでした。おそらくですが、ヴァイキング吉井以外の全員が、田中イヌイットが何に涙を流しているのかを知っていました。
「ああ、だいじょうぶだよ。だいじょうぶだけどさ。ただ、悲しくて。あんなに立派だった鈴木が、まさかシロクマに食われてしまうなんて」
 鈴木とは、鈴木ノーザンライトのことです。鈴木ノーザンライトは大変優秀で、とくに雪合戦とノルディックスキーでは毎回立派な成績を残していました。
「そうだな。鈴木のぶんも、俺たちは立派に生きていかなきゃならねえな」
「なあ、吉井。あいつ、エインヘリヤルへ行けたかな?」
「ああ。行ったとも。あいつならシロクマとだって立派に戦ったに違いないだろう。エインヘリヤルへ行けないわけがない」
「そうだよな。ありがとう」
 田中イヌイットはすこし落ち着いたようでした。そこへ高橋ダイヤモンドダストが、ムックリを演奏しながらやってきました。高橋ダイヤモンドダストは、高校生のくせにムックリ奏者として地元ではちょっと有名でした。明るい性格のいいやつですが、たまに遠くを見つめて真面目な顔をしているのは、マンモスに踏まれて亡くなった彼の父を思っていたのだと思います。彼の父親もまた素晴らしいムックリ奏者でした。高橋ダイヤモンドダストはムックリのその難解な音で、私たちに何かを問いかけていました。ただ、私たちにはその問いかけがなんであったかわかりませんでしたし、いまでもまだわかっていません。高橋ダイヤモンドダストは、やはりムックリを演奏しながら教室を出て行きました。田中イヌイットは演奏に感動して、また泣いていました。
 そしてそのとき私がどうしていたかといえば、窓際の席のユキオンナ土屋の方を見ていました。なにか別のことを考えていないと、田中イヌイットのように泣いてしまいそうだったからです。ただ私の泣きたかったのは、田中イヌイットの言ったような学友を失った悲しみのためではありませんでした。あるいは言葉が違っただけで、こころは同じだったのかもしれませんが、私にそれを知る術はありませんでした。私はその場所に立っていました。私の方へ走ってくるシロクマを見ていました。それが近づいて段々とおおきくなるのを。そうして開いた口の白い牙を。鈴木ノーザンライトの無力は、私の無力でした。私が悼んだのは、学友の鈴木ノーザンライトの死でなく、私によく似た影のひとつが、私の可能性のひとつが失われたこと、つまりそれは私の死でした。
 私の視線に気が付いて、ユキオンナ土屋もこちらへ向きました。彼女は私の様子がわかって、聖母の慈愛を持って私を見つめ返しました。こころが彼女の方へ引っ張られて身体が熱を失ってしまい、私の足は凍傷になりかけました。
 ユキオンナ土屋は、白い肌で、目が美しく、しかも窓の外ばかり見ていたので、私は彼女が好きでした。私も彼女もこころに永久凍土がありました。それを互いに語ることはありませんでしたが、この永久凍土がなければ私たちが近づくことはなかったように思います。私たちにとって言葉というのはあまり重要ではありませんでした。実はユキオンナ土屋と私はただ二度だけしか互いの声を聞いていないのです。私が彼女に気持ちを伝えたときと、その何週間かあとに、彼女が静かな声でユキオトコを雪山に帰したことを教えてくれたとき、それだけです。ユキオトコというのは、他校の生徒で、彼とユキオンナ土屋はおだやかに交際していたようでした。ですが、ある日、窓の外から戻った彼女の視線が、離れた席で彼女を見つめる私を見つけたとき、私は悪魔のようにあたたかな雨を降らせて彼女のこころの雪原を歩くユキオトコを溶かしてしまいました。彼女はユキオトコと別れて、それから私たちは視線だけで交際をはじめました。実際に言葉を交わすことはなく、手もつなぎませんでした。そしてそのほうがずっとほんとうでした。ただ、問題なのは、吹雪のなか一緒に帰ったりすると、私たちがもっと近づきたいと思ってしまうことでした。白い視界に私たちしかいないからです。私は彼女を運命の女だと思って溶かすほど見つめていたし、雪のなかでは彼女のユキオンナの本能が私の体温を欲するから、あんまり近づき過ぎると互いに致命傷を負うのです。
 教室の戸が開く音がして、鳴海パウダースノー先生がなんとなく不器用な感じのする足どりで教室へ入ってきました。鈴木がシロクマに食われたのは、自分たちにも責任があると思っているのです。それは学校の方針として、シロクマやマンモスの狩りを推奨していたからでした。
 私たちの通った輪厚高等学校は、イシュカル第三学区では一番の進学校であったので、強い生物をなぎ倒してより高みに行くようにと、入学したその日から耳にクラーケンができるほど口うるさく言われるのです。先生たちは、生徒たちのことを思って、強くなれ、強くなれ、と言うのですが、鈴木ノーザンライトの一件のようなことがあると、自分たちの方針に自信を持てなくなってしまうのです。子どもたちの健やかな成長が一番で、強くなるのは二番目ではないか、と。
 いまとなっては、直接的には責任がないのに、しっかりとうろたえていたその姿を立派だとも思うのですが、その頃の私は学校の方針に否定的で、鈴木ノーザンライトのことはまったく学校の責任だと思っていました。強い大人になれないと人生は終わりだ、みたいな調子でいつも言うのだから、真面目な彼が無理をするのも必定じゃないか、と。
 鳴海パウダースノー先生は、終始気まずそうにしながら授業を終えて、そのあと最後に村井シュウセツが彼に質問しに行くと、これに答えているうちに少し気持ちの軽くなったようでした。みんなもちょっとずつ元気になって、六時限目の終わるころには、みんないつも通りになっていました。ヴァイキング吉井は馬鹿みたいなジョークを言っていたし、卑怯者のラストペンギン国本は高田ササメユキをいじめる作戦を立てていました。それぞれが色を取り戻しはじめていました。私は、悲しみの色が私たちをひとつにしたように感じていましたが、その悲しみの色さえ皆同じではありませんでした。談笑も聞こえはじめていました。
 もちろん、私たちは悲しんで足を止めてばかりはいられません。しかし、私は海を流れる氷のうえで、どこへ行くこともできず、ただ考えていました。どうして私たちは笑いと悲しみを同時に持っていられないのだろう、と。
 私たちは、アザラシのコートを着て、帽子をかぶり、耳当てをして、手袋をはめて、学校を出ました。雪が風の勢いに乗って私たちを打ちました。白の世界。口を開けると、口のなかに雪が入ってきました。私たちは雪に足を取られるようなことはなかったけれど、それでも積もった雪のせいで歩きづらかったので、通学路の長い下り坂をのろのろ進みました。田中イヌイットはやはりまだ元気がないようでした。ヴァイキング吉井が、田中イヌイットの背中を叩いて、「おい、あんまりくよくよするなよ」と言いました。
「吉井だって、くよくよすることはあるだろう?こういう日はみんなあるじゃないか。くよくよもさせてくれよ!」
「いや、おれもくよくよすることはあるけどよお。近くにいるやつが、くよくよしていると、どうも、くよくよするな、って言っちまうんだよなあ。どうしてだろうなあ」
「いや、いいよ。ちょっとおれの言い方もよくなかった」
「まあ、元気が一番ってことだな」
 田中イヌイットとヴァイキング吉井の会話はちぐはぐですが、これで友情が成り立っていたのだから不思議です。
 そんな会話のあとに、ヴァイキング吉井がもう一度「元気が一番だー」と言って、コートやら手袋やら制服やらをぜんぶ脱いで鞄に詰めて、シャツと短パンになり吹雪のなかを走りはじめました。田中イヌイットと私もそれに続いてシャツと短パンになり、走って転がるように坂を下りました。三人で馬鹿みたいに笑いながら駅まで走りました。駅の構内へ入ると、暖房がきいていて温かでした。私たちが、さてコートを着ようと鞄を開けたとき、なんでもいいときにやめられないヴァイキング吉井が、私と田中イヌイットを引きずって外に出して、「そこで待ってろ!」と言って、走って駅のなかへ入りキヨスクでなにかを買って出てきました。アイスクリームでした。かたちだけソフトクリームでまったくソフトでないアイスクリーム。
「おれのおごりだ」
 ヴァイキング吉井は、田中イヌイットと私にアイスクリームを手渡すと、自分のを高く掲げました。私たちも同じようにアイスクリームを掲げました。
「鈴木ノーザンライトに!」
「鈴木ノーザンライトに!」
「鈴木ノーザンライトに!」
 私はつらいとき、このときの寒さと、かたいソフトクリームの味を思い出します。
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