第6話 人はきっと知恵の実を食べる

文字数 3,975文字

 その日の夜、二人はカナの町にある食堂で夕食を取った。愛心は異世界の食事に期待はしていなかったが、一応メニューを選ぶ事ができ、主食は麦粥、黒パン、白パンから、メインの料理を鳥か豚、イノシシの中から選ぶ事ができた。スープは野菜スープしかなかったが、玉ねぎがたっぷりと使われており、またチーズやデザートの果物なども何種類かあった。店主は獲れたてのイノシシを勧めてきたのでヤンはイノシシのステーキを注文したが、愛心は無難な豚肉を注文した。代金はもちろんヤンが持った。料理はどれも十分美味しかったが、飲み物がワインかビールしかなく、愛心はパサパサしたパンをスープで流し込まなくてはならなかった。
 食事が終わると、ヤンは給仕に空いた皿の片づけと新しいワインの入った壺と陶器のカップを持ってこさせ、それから愛心に聖書を読み聞かせるよう頼んだ。

 「宿で休む前に、もう何章か読んでくれんかね?」
 「ここで、ですか? これから宿屋に行くんですよね」
 「あの宿はケチ臭くての、夜中にあまり明かりを使わせてくれんのじゃ。ほれ、食事代と宿代、それから飲み物代で三章分でよいぞ」
 「私は、まだワインを飲めないんです。だから、二章読で」
 
 愛心はショルダーバッグから聖書を取り出した。小さいのにずっしりと重い。本を読むだけで食事代と宿代になるのなら安いものだった。
 愛心はページを開く。食堂の照明は天井に吊るされたいくつかのランタンとテーブルの上に置かれたろうそくのみ。室内は全体の薄暗く、愛心は目を細め小字で印刷された聖書を読み始めた。

 「じゃあ読みます。創世記という部分の第二章です。『こうして天と地と、その万象とが完成した。神は……』」

 愛心は創世記の第二章と続けて第三章を読んだ。ヤンは一人でワインを飲みながら熱心に愛心の声に耳を傾けていた。
 食堂には一人暮らしの職人や他の旅人らしい者たちがいたが、ヤン以外に愛心の言葉に耳を傾けるものはいない。

 「『神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道をまもらせた』、ここまでが第三章です。次も読みますか?」
 「いや、そこまででいい」

 ヤンはカップの中のワインを飲み干してから目を閉じ、ゆっくりと愛心から聞いた話を頭の中で整理した。本を閉じた愛心は、やることが無くなったので、空になったヤンのカップにワインを注いでみる。真っ赤な液体がろうそくの炎を反射しながら陶器のカップに注がれていく。

 「人が木の実を食べて賢くなり、それ故に神に楽園を追放されたというのは何とも面白い話じゃな。知恵をつけることを神が望まないというのは、知識神の神官であるワシには何とも居心地の悪い話じゃの」
 「ただの昔話ですよ」

 愛心がそう言うと、ヤンは「ふむ」と呟き、それから自分のカップに新しいワインを注ごうといし、既にカップに並々と赤い液体が入っていることに気が付き、疑問の目を愛心に向ける。

 「私が注ぎました。迷惑でしたか?」
 「いや、ありがたいの。気が利くのはいいことじゃ。して、アコはこの話にどう思う?」

 そう問われ、愛心は黒い本の表紙を見た。アダムとイブがエデンの園を追われたという話を聞いたことはあった。

 「この本の神様を信じる人は、最初の人が知恵の実を食べたことが人間の罪だと言っていました」
 「罪とは?」
 「私もよくわかりません。人間は生まれながらにしてすでに罪を犯しているとか言われた気がします。知らない人が勝手に私たちの祖先になって、しかもその人の犯した罪を子孫が永遠に償い続けるなんて、バカみたいな考えだと思います」
 「ふむ、なるほど。その罪に対する罰が、神の楽園からの追放か。人間が毎日汗水たらして働き、女性が命がけで子供を産む様になったのは神の言いつけを守らなかったことによる罰か。実に興味深い」
 
 ヤンは店員を呼び、銅貨を数枚渡してチーズを注文した。

 「楽園におれば、苦労して稼いだ金でワインのつまみを買う必要もないわけじゃな。まあ、料理も労働だとすると楽園にはろくな食べ物がなかったに違いないの」

 木の皿の上にチーズと、干しぶどうのようなもの、それにミルクが一杯運ばれてきた。ミルクの入ったカップは愛心の前に置かれる。どうやらヤンが気を利かせたらしい。

 「ワシは二年程前から各地を回って知識を集めておる。色々な町や村を訪れると、それは悲惨な生活をしている者たちを見る事もある。その度に思っていたのじゃ。なぜ人はあれほどまでに苦しみ、悲しまなくてはならないのかと。その本を書いた者は、苦しみは最初の人が受けた始まりの神の罰としたわけじゃな。自分たちに原因があるのではなく、遠い祖先に神から与えられた罰だと思うしか苦しみから逃れる術がなかったのであろうな」
 「そうかもしれませんね。苦しい時に、すがるものが無いから神様を頼ったり、神様のせいにしたりする、それは理解できます」

 愛心はカップのミルクを一口飲んでみた。日本で牛乳とは少し風味が違う。後になって、それは牛乳ではなく山羊乳だったと知るのだが、今の愛心には変わった味の牛乳だとしか感じられなかった。

 「ふむ、そして面白いのは木の実、おぬしは知恵の実と言ったか。その話じゃの。もしワシが最初の男なら、蛇に唆される目に木の実を食べておったな。アコよ、おぬしならどうする?」
 「私は神様なんて信じませんけれど、やるなと言われていたなら、やりません」
 「ふむ、そうかもしれんの。ところでアコよ、どうしておぬしはワインを飲まないんじゃ?」 
 「私の国では二十歳になるまでお酒は飲んではいけないことになっているんです」
 「ここはおぬしの国ではないだろうに、律儀な話じゃ。ほれ、一口飲んでみんかね」

 そう言うと、ヤンは愛心用に用意されていた空カップにワインを注ぎ、愛心の前に差し出した。愛心は断るのも悪い気がしてカップを受け取ると口に近付けた。とりあえず臭いを嗅いでみるが、アルコール臭と刺激的な果実の香りに目の前がクラクラした。愛心はワインを口にするのを諦め、カップをテーブルに戻した。

 「やっぱり、私には合わないと思います。匂いがキツイです」
 「ふむ、そうか。では一つまじないをかけてやろう。目をつぶっていなさい」

 愛心は言われるまま、目をつぶった。ヤンがテーブルの上で何かをしている気配を感じたが、それが何であるかはわからなかった。

 「ほれ、目を開けてみ? そしてもう一度ワインの香りを嗅いでみるんじゃ」

 愛心は言われるままに目を開き、もう一度カップを手に取って鼻に近付けた。控えめに息を吸い込むと、先ほどとは違う香りがした。正確には果物の強烈なにおいがずいぶんと少なくなっていたのだ。

 「匂いが変わりました。何をしたんですか?」
 「銅貨をワインに入れるとな、なぜか香りが落ちるんじゃ。ワインには古い銅貨の汚れを落とす力があるのじゃが、特定の果物の香りにも作用するらしくての」
 「ええと、お金をこの中に入れたんですか? なんか汚い……」
 「問題はないと思うんじゃがの」

 そういってヤンは愛心からカップを奪うように受け取り、満足そうに自分の口の中に流し込んだ。

 「ふむ香りが変わると味も変わるものじゃの。そして、おぬしも木の実には手を伸ばすということが証明できたの」
 「どういうことですか?」
 「このワインから香りが消えた時、おぬしは何をしたのかワシに尋ねたよの。つまり、それが知りたいということじゃ。最初の人もきっとそう思ったのじゃろう。知識を与える木の実、それを食べずにいられる人間はおらんて」
 「その理論のもって行き方、ちょっと強引です」

 愛心は不機嫌おすに頬を膨らませて抗議した。

 「そうかも知れん。だがの、こう考えてみると面白い。人は楽園を追い出された時から人になったのじゃ。だから、今の人が人であろうとすれば、何度でも木の実を食べて楽園から追い出される。同じように、人が人である限り人生の苦しみも無くならない、きっとその本を書いた人はそんな事を言いたかったんではないかの」
 
 ヤンは満足そうに壺に残っていたワインを全てカップに注いだ。

 「ここのワインも悪くはないが、南に行くともっといいワインを出す地域がある。ワシはの、もっと美味いもの食べたい。おぬしの持っている本についてももっと知りたい。もっと、もっとじゃ。この欲望がワシの苦しみの根源かもの」
 「なら、贅沢をしなければいいじゃないですか」
 「どうかの。贅沢ならせずに済むが、何かを食べたいとか、屋根の下で眠りたいという欲望は消せんじゃろ? もしできるのなら、アコはいまワシの前ではなく、どこか野原にいるじゃろうて」
 「……それは生きるのに最低限必要なことじゃないですし」
 「生きることに最低限必要なこと、食べて、寝て、子供を持つ、動物と同じそんな生き方をしようとしてもやはりより多くの食べ物、より安全な寝床、よりたくさんの子供が欲しくなる。人は土から創られたそうじゃが、土のままなら生きる苦しみはなかったろうにのう。じゃがワシは考える事も求める事もできない土塊はいやじゃの。まあそれは昔話。人間は猿から進化したというのが二十四柱の神々の教えでワシはそれを信じておるからの。あるいは知恵の実を食べて猿が人になったのかもの。ほほほっ」

 ヤンは楽しそうに笑うと、そろそろ宿に戻ろうかと言って席から立ち上がった。愛心はヤンに言いくるめられたようでモヤモヤとしながら、老人に続いて立ち上がり、食堂の外に出た
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