32 愛しい彼

文字数 1,691文字

 無自覚だとでもいうのだろうか?
 花穂はため息をつくとぎゅっと奏斗に抱きついた。
 ”どうしたんだよ”と不思議そうな顔をしながら、花穂の背中に両手を回す彼。
「やんなっちゃう、これだから色男は」
「その呼び方やめて」
 心底嫌そうな顔をする彼の首筋に唇を寄せ、髪を撫でる。
 すると、気持ちよさそうに花穂の肩に顔を埋める奏斗。
「奏斗は撫でられるの好きよね」
「子供だと思ってる?」
「ううん。でも可愛い」

 花穂はつき合っていた頃に想いを馳せる。
 初めての夜、ぐったりと横たわる奏斗の髪を撫でると彼は何故か嬉しそうに微笑んだのだ。自分とは恋愛からつき合ったわけではないのに、好意があるのではないかと錯覚するほどに穏やかな笑顔。
 今思えば、奏斗は疲れ切っていたのだと思う。
 あることないこと噂され、始終注目を浴びる。否定しないから余計にいろんなことを言われたに違いない。

 きっと見た目のせいで勝手なイメージを持たれていたに違いない。
 それでも自分らしくいたかったから、自分を曲げなかった。

──”遊び人”ね。
 ずいぶんなことを言ってくれるじゃない。

 女遊びをしていたどころか、花穂が初めての女性。
 女性経験のない彼は、あの日凄く戸惑っていたのだ。

「俺は」
「うん?」
「花穂の手が好きなだけ」
「嬉しいこと言ってくれるのね」
 花穂の手が彼の背中に滑る。顔を上げた奏斗と目が合う。
 もう片方の手で彼の頬を撫でる。
 まるで子猫の様だなと思う。小さいわけでも、子供でもないのに。
 花穂は気持ちよさそうに目を閉じる彼に口づけた。
「もう、どこへも行かないでよ」
「ええ。奏斗の傍にいるわ」
 優しい旋律が二人を包む。
 あの頃は絶対に手に入らないと思っていた。

──わたしはつき合い方を間違っていた。
 もっと理解してあげることが出来たなら、こんなに傷つかなくて良かったのに。ううん、誰よりもわたしが彼を傷つけてばかりいた。

「二度と放してなんてあげないわ」
「いいよ」
 唯一信じた相手は恋のライバルとなり、彼には安らげる場所なんてどこにもはなかった。
 きっと誰かに心から愛されたかったに違いない。
 幻想の自分ではなく、本当の自分を。

──わたし、酷い女よね。
 自分のことしか考えてなくて。
 フラれる覚悟もできないで。

 何度悔やんでも悔やみきれない。
 それほどに彼が好きなのだ。
 自分がちゃんとしていれば、彼は誰も傷つけずに済んだ。
 人は傷つけられることよりも、傷つけることのほうがずっと辛い。
 それがかつて愛した人ならなおさら。

 とはいえ、彼女たちにも人生はあるのだ。このまま現状維持と言うわけにはいかない。

「愛美と話すよ」
 いつまでも逃げているわけにはいかないし、と彼は言う。
 ストーキングの件については、彼女が絡んでいることは間違いない。すんなり終わりにはならないだろう。
 一緒に行こうか? と言えば、
「こじれるだけだから」
と彼。

 結菜には会ったが、愛美がどんな人物なのか花穂にはわからない。
 花穂はこうなった原因が自分にあるとしても、発端が彼女にあるなら会う必要があると思っていた。
 今日まで奏斗が終わりにできなかったのだから、また繰り返す可能性はある。愛美に感じているのが愛ではなく、責任だと自覚しても。

──確かに、奏斗は意思の弱い部分もあるわ。
 でも強く出られない理由が”責任を感じている”だけなら、終わりにできたはずなのよ。

 これは憶測でしかないが、奏斗は何かしら愛美に対して恐怖を感じているのではないかと思う。
 人には大なり小なりトラブルを避けたいという気持ちがある。それを感じずにただひたすら我が道を進む人と言うのは、無鉄砲がアホだろう。

──何か他に弱みでもあるのかしら?
 会えばわかりそうな気がするのよね。

 諦められないとはいえ、恋人のいる元カレに平気で復縁を迫る相手。きっと一筋縄ではいかないだろう。

──それに関しては人のこと言えないわね。

 心の中で苦笑いしつつ、
「奏斗。もう一回しましょうよ」
と囁けば、あからさまに嫌な顔をされる。
「嫌なの?」
「まだするの……」
 彼はため息をついて、切なげに眉を寄せたのだった。
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