第四章 誘拐事件決着(五)

文字数 2,145文字

 銀行からの帰り道、左近の事務所に移動した。さっそく次の仕事の話題になった。
「次の依頼だけど、とある組織の暗殺者の影武者よ」
 本当に暗殺する側の仕事だった。
「マジですか? まさか、本当に暗殺しろとか、いいませんよね」
「勘がいいわね。もちろん、暗殺込みの仕事よ」

 確かに三百万ドル級の仕事なのかもしれない。だが、暗殺しろとか、技術的にも心理的にも無理だ。
「俺ができるのは対象の空気を纏うところまで。空気を纏ったからといって、技術までコピーできる保証はありませんよ。暗殺は不可能です」
 左近が当然だといわんばかり提案した。
「そこはプロについて訓練を受けてもらうわよ」
「俺は影武者であって、暗殺者じゃないんです。人殺しは御免ですよ」

 左近がとんでもない言葉を普通に口に出した。
「別に殺さなくてもいいのよ。殺されてもいいから」
 等々力は感情を抑えて控え目発言する。
「左近さん、こういう言い方を女性にしたくないですけど、もう言わせて貰います」

 等々力は正直に怒りをぶちまけた。
「貴女、気が狂っているでしょう。殺されたら、いくらお金を貰っても合いませんよ。そんなの、子供でもわかるでしょう」

 左近はどこまでも冷静に仕事の話を続けた。
「だから、そこは振りでもいいのよ。殺される演技よ。殺された振りなら、問題ないでしょ。今回の仕事はプロの暗殺者になりすまして、ライバルの暗殺者と戦うのが仕事。できるんなら、ライバルを殺して生き残ってもいいし、殺されたと思わせてもいいのよ」

 殺された振りならできる。できるけど、簡単ではないだろう。
 相手がグルのヤラセなら、難しくない。だけど、話では、プロが本気に殺しに来る。当然、殺しのプロの目を欺く、殺された振りとなると、厳しい。

 等々力は全くやる気がしなかった。代替案を出すように見せかけて断ってみた。
「全く気が進まない仕事なんですけど。別に、ライバルを殺してもいいなら、本当の暗殺者を百万ドルで雇って、戦ってもらえばいいでしょう」

「依頼人が引き受けた仕事の依頼上、そうはいかないらしいのよ。今回の依頼人は、ある組織の暗殺者。でも、普通に相手と戦うと勝てる可能性は五分五分。だから、影武者である等々力君を囮にして、敵が等々力君を狙っている間に、不意を衝いて始末する作戦なのよ。それに、これは等々力君に縁がある話でもあるのよ」

 等々力に暗殺者の知り合いなんていない。いや、一人いた。でも、まさか――。
 等々力は有り得ないとは思ったが、一応は聞いた。
「まさか、依頼人って、軍曹?」
「違うわよ。いくら私でも、そんな無茶な仕事は引き受けないわよ」

 等々力はホッとした。軍曹は隠家ごと機銃掃射を受けたうえに、ミサイルで吹き飛ばされたはず。
(これで生きていたら、映画のヒーローか化物だよな。でも、だとしたら、縁がある人って、誰だろう?)

 左近がすぐに言葉を続けた。
「暗殺者のターゲットが、軍曹なのよ」
(この女、正気か? というか、軍曹、建物にミサイルを撃ち込まれても生きていたの)

 等々力は状況を整理した。
「つまり、こういう成り行きですか。影武者の依頼人は軍曹のライバルで、暗殺者。俺はライバルの暗殺者として、軍曹の前に立ちはだかるって、仕事ですか」

 左近が笑顔で褒めた。
「よく、できました」
「よく、できました――じゃないでしょう! 軍曹の立場になってみてくださいよ。誘拐した金持ちの青年が、実は壮年の武器商人でした。そうして次に現れたら、敵対する組織のライバルの暗殺者でしたって、絶対に信用しませんよ」
「大丈夫よ。よくある話だから」

 等々力は即座に反論した。
「ありませんよ、そんな状況、絶対ないですよ。俺ですら、クレイジーだと思いますよ」
「有り得ない状況だから、人は信用するのよ。それに、話は着々と進んでいるの。もう、坂道を転がり出した雪玉のように止められないわ。このままだと、等々力君、軍曹の所属する組織と、依頼人の所属する組織から狙われるわよ」

 瞬間的に思った。
(あ、この女、やりやがったな)
 きっと、狙われるのは本当だが、狙われるようにしたのは、左近が誘導した流れだ。
 等々力は一応、依頼人の調書を見て、さらに驚いた。
 依頼人は中国人女性で、名前をチャン・リーとなっていた。チャン・リーは短い髪を後ろで結わえた、目つきの鋭い女性だった。

「影武者って、女性の暗殺者ですか」
「そうよ。裏の業界では鷹の目・リーで通っているわ」

「ライバルっていうくらいだから、軍曹は戦う女性だと知っているんですよね」
「そうなるわね。鷹の目・リーは、女性である点とドラグノフ狙撃銃を好んで使う点以外、素性不明の暗殺者。業界で有名ではないけど、知る人は知っている存在よ。私も今回、依頼人があの鷹の目・リーだと聞いて、裏を取るのに苦労したわ」

 等々力は、なぜか笑いが込み上げてきた。こんな無茶苦茶な話があるだろうか。狂気の沙汰とは、こういう仕事をいうのだろう。
 左近が笑顔で評した。
「よかったわ、引き受けてくれるの、じゃあ、明日から早速、訓練を受けてもらうわよ」
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