神が下す罰
文字数 3,937文字
エリカは無言でスマホを取り出し、ゴーカルが運用する無料のブラウザメールを開いた。そして保存箱に入っているメールの一つをタップして、天馬に掲げてくる。保存箱のメール本文には「今日は暑いですね~」と口語調のロシア語で書かれてあった。たった一文である。
1928年に発効したジュネーブ議定書において生物化学兵器の使用が禁じられているのは知られているが、1997年に新たに発行した化学兵器禁止条約においては、「暴動鎮圧剤を戦争における戦闘行為で用いること」が禁じられている。もっとも、国内暴動の鎮圧やそれに類するようなものでの使用は、明示的に条約の対象から外されているため、この内戦に適応されるのかされないのか、微妙なところだ。そのレベルの国際法であれば、エリカも天馬も理解のうえなので、念のための確認であったのだろう。
敵が繰り出してきた攻撃を受け流し、その力をそのまま自分の攻撃に転化させてしまうのは、柔道や合気道などにおける戦いの基本姿勢の一つだ。戦争ともなればどうしても力と力のぶつかり合いになりがちだが、一歩引いて冷静に構えれば、敵の攻撃をさらなる自分の攻撃として活かす方法は必ずある。敵が天馬の毒ガスを煽ったのならば、それに反撃するのではなく、それを利用してさらなる一打を食らわせてやればいい。
しかしエリカは小さく首をふる。
しばらくエリカは天馬に視線を向けたまま沈黙していたが、やがて静かにうなずいた。
そしてエリカは無線を取り上げ、命令を発する。
4分隊、20人で構成される白い化学防護服を着た部隊が整然と前進していった。化学防護服は本物ではない。遠目からそのように誤認されるだけの、高品質なビニール製の白いカッパだ。軍事行動だとは思えないほど、ゆっくりと敵方面に向けて行軍する。
その異様ないでたちの白い部隊は、すぐに敵の発見するところとなった。監視塔の敵の歩哨は慌てふためき、設置された受話器から連絡を開始したようだった。こちらの作戦を発動するためには、まず化学防護部隊に気づいてもらわなくてはならない。
敵の銃撃がほとんど当たらないギリギリまで近づいた白い20人は、そこでリュックを下ろし、悠々と設営準備を始めた。
設営準備が終わったころ、敵兵がイリーズ基地を囲む壁のうえに姿を見せ始めた。
イリーズ基地は2メートルほど積み上げられたブロックの壁に囲まれており、基地というにはやや大げさだ。壁があるだけで、ほかは日本にもある老朽化したRC造の、やや大きめの小学校のようなものだと天馬は感じていた。建物も3階建てで、物々しさもあるわけではない。しょせんはオーレス共和国の辺境の、中央政府から見たら辺鄙な場所にある基地であり、整備する金もないに違いない。天然の要害に上手く囲まれて作られたザリスの監視台のほうが、小さくともよほど頑強な砦に違いなかった。
無線でそう通達したエリカは、自らもガスマスクを身に付けた。天馬も続き、すべての兵士たちが従った。こちらは普通の戦闘用の迷彩服だが、ガスマスクだけは全員に支給してあった。
天馬の用意した生物化学兵器は何ら毒性はなく、もちろん皮膚に触れても問題はない。軽い嘔吐感をもよおす感覚があるだけのもので、実際に嘔吐はしないから、それさえわかっていればガスマスクをする必要も本来はない。ガスマスクは単なる演出上のことである。
白い20人を起点にするように、部隊は右翼と左翼に分かれて散開し、イリーズ基地を包囲する体制を取った。それぞれ岩場に身を隠しつつ、次の命令を待っている。
――タタタタ!
イリーズ基地のコンクリート壁のうえの敵兵が、早くもこちらに向けて発砲を開始していた。
しばし辺りを見回していたエリカは、無線で事務的に伝える。
――タタタタタタタタ!
こちらの発砲が始まると、エリカはすぐに次の命令を下す。
発煙筒が敵方面に向けて濛々と紫色の煙を上げ始めた。
煙は基地に向けて大きく広がってゆく。紫色の煙が広がっていくさまは、なんだかおどろおどろしい。ただ、ほとんどの生物化学兵器は無色透明であって、こんな風に色が付けられているケースなど普通はない。
煙が自分に向かってくるのを見た敵兵の一部は、早くも門のうえから姿を消す者が現れた。
抵抗が乏しくなっていた左翼方面の部隊が攻勢を強めてゆく。
――どうん!
爆破音が聞こえ壁が崩れ落ちると、抵抗していた敵からの反抗はすっかり消え失せていた。
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