神が下す罰

文字数 3,937文字

 岩場の影で双眼鏡で状況を監視しながら、エリカが口にする。
監視塔のうえに歩哨はいるけど、まったく油断しているわね。
そうだろう。政府軍としては、ザリスを経由せずに、イリーズ基地を直接アスタリア軍に襲われるとは思っていまい。

 エリカは無言でスマホを取り出し、ゴーカルが運用する無料のブラウザメールを開いた。そして保存箱に入っているメールの一つをタップして、天馬に掲げてくる。保存箱のメール本文には「今日は暑いですね~」と口語調のロシア語で書かれてあった。たった一文である。

暑いってのは、無事に完了ってこと。更新時間は11時ジャスト。今が13時40分。だから『ロシアウィーク』の記事のURLは、ちょうど2時間40分前に、目標の全メールアドレスに向けて、いかにもオーレス軍の報告文章だと装う形で無事にメールが配信されているということ。
なるほど、簡単な暗号のようなものか。メールを送信するとNSAなどに情報が補足される可能性はあるが、あえて送信しない形で、同じアカウントに入って保存箱を更新しあう形でやり取りすれば、漏洩の危険は何もない。さらに無意味な暗号を重ねれば、いかな諜報機関といえども捉えようがないということだな?
そ。まぁ簡単な話だし、こればかりはFSBの専売ってわけでもないけどね。
FSBの暗号のやり取りにアメリカ企業ゴーカルの無料メールを使うとは、なかなか乙なものだな。
別にどこでもいいんだけど。国際的にメジャーじゃないロシア系のネットサービスよりは、よほど情報の渦に埋もれてくれるでしょう。
予定時刻より若干早く着いたから少し休憩をはさんでもいいが……『ロシアウィーク』の記事送信のタイミングを勘案すれば、悪くないタイミングになりそうだ。
そうね。どうする、大統領?
ゴーだ。
最後に念押し。

『山賊作戦』、発動していいのね?

『ロシアウィーク』の記事を敵に配信している以上、すでに発動済みだ。
おかしな作戦名。
『山賊作戦』というネーミングは、俺の開発したなかで最も重要な側面だ。
ネーミングはともかく。

たしかに天馬が用意した化学兵器に致死性はないかもしれないけど……催涙ガスの分類になるわ。本当に使用していいのかってことを最終確認したかったの。イリーズ基地に隣接して街もあるし。

 1928年に発効したジュネーブ議定書において生物化学兵器の使用が禁じられているのは知られているが、1997年に新たに発行した化学兵器禁止条約においては、「暴動鎮圧剤を戦争における戦闘行為で用いること」が禁じられている。もっとも、国内暴動の鎮圧やそれに類するようなものでの使用は、明示的に条約の対象から外されているため、この内戦に適応されるのかされないのか、微妙なところだ。そのレベルの国際法であれば、エリカも天馬も理解のうえなので、念のための確認であったのだろう。

こんなガスは子供の遊びに過ぎん。即効性の強い嘔吐感を刺激するガスにすぎない。嘔吐ガスなら催涙ガスの分類だろうが、『嘔吐感を刺激するだけのガス』は催涙ガスには決して相当しないぞ。実際に嘔吐する可能性はゼロ、もちろん致死性もゼロだ。
 この『山賊作戦』のために天馬が用意していたガスは、厳密に定義すれば、生物化学兵器に相当する可能性は低い。
国際政治で大切なことは、それが『事実かどうか』じゃなく、それが『事実だと思われるかどうか』なのよ。嘔吐感を感じさせるだけで、嘔吐ガスだと思われても仕方がない。しかも事前の情報操作で毒ガス使用だと誤解させるように、こっちが煽っているんだから、また毒ガスを使ったとさらに喧伝されると思う。
エリカは誤認している。すでに現時点において、この俺が毒ガスを使ったと政府軍側は考えているし、そのような報道もなされたろう。すでに俺は毒ガスマスターで通っているんだよ。ならば、敵がばらまいたその偽情報を、今度はこちらが利用してやる番だ。

 敵が繰り出してきた攻撃を受け流し、その力をそのまま自分の攻撃に転化させてしまうのは、柔道や合気道などにおける戦いの基本姿勢の一つだ。戦争ともなればどうしても力と力のぶつかり合いになりがちだが、一歩引いて冷静に構えれば、敵の攻撃をさらなる自分の攻撃として活かす方法は必ずある。敵が天馬の毒ガスを煽ったのならば、それに反撃するのではなく、それを利用してさらなる一打を食らわせてやればいい。

 しかしエリカは小さく首をふる。

天馬が毒ガスを使用したなんて誤解されたままなのは嫌なのよ……。
それも誤解だ。俺はここが勝負だと思えば、核兵器だろうが生物化学兵器だろうが使用するのを厭わない。ただ現時点では使用しなくても完勝できるし、保有もしていない状態であるというにすぎない。
そうなの……?
俺は聖人になりたいわけじゃない。世界を変える神なのだ。
……天馬は、本当に強い男ね……。
まさか情報機関員のエリカが、妙な順法精神を発揮するとはな。
ううん、違うわ。国際法なんて利用できるかどうかだけの問題で、本質的には私も興味がない。ただ天馬が変な悪人だと思われたくなかっただけ。だって私――
神は平然と人間を罰するものだ。ならば愚民どもにとって、神罰を振りかざすこの俺は、大悪人に違いない。
…………。
 予想を超える答えだったのだろう、エリカは目を見開き、息をのんだ。
エリカ、俺についてこい。

もう一度伝えておくぞ。世界のすべてを、この俺が見せてやる。

 しばらくエリカは天馬に視線を向けたまま沈黙していたが、やがて静かにうなずいた。

 そしてエリカは無線を取り上げ、命令を発する。

化学防護部隊、前進。

 4分隊、20人で構成される白い化学防護服を着た部隊が整然と前進していった。化学防護服は本物ではない。遠目からそのように誤認されるだけの、高品質なビニール製の白いカッパだ。軍事行動だとは思えないほど、ゆっくりと敵方面に向けて行軍する。

 その異様ないでたちの白い部隊は、すぐに敵の発見するところとなった。監視塔の敵の歩哨は慌てふためき、設置された受話器から連絡を開始したようだった。こちらの作戦を発動するためには、まず化学防護部隊に気づいてもらわなくてはならない。

 敵の銃撃がほとんど当たらないギリギリまで近づいた白い20人は、そこでリュックを下ろし、悠々と設営準備を始めた。

 設営準備が終わったころ、敵兵がイリーズ基地を囲む壁のうえに姿を見せ始めた。

 イリーズ基地は2メートルほど積み上げられたブロックの壁に囲まれており、基地というにはやや大げさだ。壁があるだけで、ほかは日本にもある老朽化したRC造の、やや大きめの小学校のようなものだと天馬は感じていた。建物も3階建てで、物々しさもあるわけではない。しょせんはオーレス共和国の辺境の、中央政府から見たら辺鄙な場所にある基地であり、整備する金もないに違いない。天然の要害に上手く囲まれて作られたザリスの監視台のほうが、小さくともよほど頑強な砦に違いなかった。

全軍、ガスマスクを装備して前進開始。

 無線でそう通達したエリカは、自らもガスマスクを身に付けた。天馬も続き、すべての兵士たちが従った。こちらは普通の戦闘用の迷彩服だが、ガスマスクだけは全員に支給してあった。

 天馬の用意した生物化学兵器は何ら毒性はなく、もちろん皮膚に触れても問題はない。軽い嘔吐感をもよおす感覚があるだけのもので、実際に嘔吐はしないから、それさえわかっていればガスマスクをする必要も本来はない。ガスマスクは単なる演出上のことである。

 白い20人を起点にするように、部隊は右翼と左翼に分かれて散開し、イリーズ基地を包囲する体制を取った。それぞれ岩場に身を隠しつつ、次の命令を待っている。


――タタタタ!


 イリーズ基地のコンクリート壁のうえの敵兵が、早くもこちらに向けて発砲を開始していた。

 しばし辺りを見回していたエリカは、無線で事務的に伝える。

戦闘開始。

――タタタタタタタタ!


 こちらの発砲が始まると、エリカはすぐに次の命令を下す。

化学防護部隊、作戦開始。

 発煙筒が敵方面に向けて濛々と紫色の煙を上げ始めた。

 煙は基地に向けて大きく広がってゆく。紫色の煙が広がっていくさまは、なんだかおどろおどろしい。ただ、ほとんどの生物化学兵器は無色透明であって、こんな風に色が付けられているケースなど普通はない。

 煙が自分に向かってくるのを見た敵兵の一部は、早くも門のうえから姿を消す者が現れた。

ここで力押しするのが一番早いと思うけど……。
損害は極力抑えたほうがいい。こちらの兵を正門に向かわせろ。アスタリア軍が敵の撤退ルートをふさごうとする意図があると、敵に誤認させるのが正解に近いだろう。
 天馬の指示にエリカはうなずき、各分隊に指示を飛ばし始めた。
右翼側は、なるべく距離を保ったまま正門方面に進出して。でも実際に正門をふさぐ必要はない。逃げ出す敵兵には横から打撃!
 敵兵は、退路を断たれる可能性を早くも察知したのだろう、続々と戦線を離脱する者が増え始めていた。もともと政府軍の兵員の大半は給料をもらうために兵士になっているだけであって、戦闘意欲が弱い。ましてイリーズ基地に配属されていた兵士は、まさか戦闘になるとは想定していなかったに違いなく、攻撃を防ぐことよりも、自分が助かる道を一番に模索してしまうのは致し方のないことだ。
54分隊! 突貫してコンクリート壁を爆破!
 エリカの指示に、すかさず5人のアスタリア兵が岩場から飛び出してゆく。
左翼、援護して!

 抵抗が乏しくなっていた左翼方面の部隊が攻勢を強めてゆく。

――どうん!

 爆破音が聞こえ壁が崩れ落ちると、抵抗していた敵からの反抗はすっかり消え失せていた。

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登場人物紹介

不動天馬(ふどうてんま)

40歳ニートだが、自分を神だと主張して憚らない。引きこもり歴は実に25年にも及ぶ。近所のコンビニがライフライン。

エリカ・マリシェヴァ

25歳。ロシア連邦保安庁(FSB)の情報工作担当官。日本人とロシア人のハーフで、日本語に精通していたため、東京より呼び戻される。

イヴァ・クリチコ

15歳。アスタリア人を率いる族長。しかし亡き父を継がざるをえなかっただけであり、祖父である長老が実質的に部族を仕切っている。

プルト・カシモフ

32歳。前族長の副官として部隊を率いていた。14歳で従軍して以来、アスタリアの全戦闘に従軍してきた歴戦の兵士。天馬に反旗を翻す。

ライザ・フローレンス

24歳。世界最大級のリベラル系メディアCNMの報道特派員。無名の天馬に狙いを定めて取材を申し入れてくるが……?

ロスティスラフ・プーチン

64歳。ロシア連邦大統領。元KGBのエージェント出身であり、国際政治に多大な影響力を持っている大政治家。

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