あなたの嘘を晴らします。

文字数 3,425文字

 そこには自分の嘘を晴らしてくれる女が居るという。
 今まで勤めていた大手商社を辞めて、新しい仕事の求人情報を探していた僕がその情報を目にしたのは、新宿にあるハローワークの掲示板の片隅にあった、『あなたの嘘を晴らします』と鉛筆で書かれた小さな張り紙を見たからだ。特にする事も未来への希望も無く、別に明日死んでも構わないと思っていた僕はその事に興味を持ち、張り紙に鉛筆で書かれた事をスマートフォンのカメラで撮影し、同じく張り紙に鉛筆で書かれた住所をナビアプリに入力してしてその場所に向かった。
 嘘を晴らしてくれる女が居るという場所は、繁華街からも住宅街からも離れた、新しさや清潔感とは無縁の一角、古ぼけた一軒屋が立ち並び、雑草が伸び放題の未舗装の地面には使われなくなった家財道具やゴミなどが路上に置かれている。例えるなら戦後の焼け跡がそのまま残り、復興から取り残されたような場所にあった。嫌な記憶がそのまま残って風化してしまったような場所を見回すと、古い木造アパートのコンクリート塀に『あなたの嘘を晴らします』というハローワークと同じ言葉がA4紙ほどの大きさの紙に鉛筆で書かれセロハンテープで張られていた。
 僕はその張り紙の前まで進み、背伸びをしてコンクリート塀の向こうのアパートを覗き込んだ。すると、アパートの外側にある一室の扉が開いたままであることに気付いた。あそこだろうかと思い、移動して扉の向こうを覗くと、三畳一間ほどの部屋の中に、髪を肩まで伸ばした色白の一人の女が座っていた。肌の色や艶からして、僕と同世代だろうか。女は僕に気付いていたが僕を見ようとせず、目を伏せたまま何の反応も示さなかった。
「嘘を晴らしに来たのかい?」
 女は僕に気付くなりそう言った。ハッとした僕は何も考えずに扉をあけ、部屋に入った。
「そうだ。ハローワークの張り紙を見てここに来た」
 僕がそう答えると、背後の扉が勝手に閉まった。埃っぽく空気が澱んだアパートの三畳一間は、僕と女以外誰も存在しない空間になる。
「嘘を晴らしてくれるんだよな。どうやって晴らすんだ?金は幾らかかるんだ?」
「お金なんか必要ないよ。お金が必要な嘘は、お金や行動で解決が効くよ。ここはお金で解決できない嘘を晴らす場所だよ。見返りは基本的に要らない」
 女はそう淡々と答えた。議員バッジを付けた人間に聞かせたい台詞だった。
「じゃあどんな嘘だ」
 僕は問いただした。
「まだ純粋で汚れていない時期の嘘を晴らしてあげるんだよ」
 女はそう答え、伏せていた目を上げて僕を見た。その瞬間、僕の中に目から何かが入って来た。


 気が付くと、僕は通っていた小学校の教室に居た。クラスは六年一組。あと数か月で中学校に進学する時期に過ごしていた教室だ。それと同時に、自分の姿形が当時の状態、十二歳の自分に戻っている事に気付いた。そして僕がなんでこの場所に居るのかと考え直してみると、僕は同級生の女子である沢村さんに、面白い本があるから薦めようとして学校に残ったのだった。彼女が好きだという気持ちを打ち明ける事を添えて。
 僕は昂る気持ちを抑えながら、教室で沢村さんを待った。放課後の静寂が満ちて全てが落ち着き払おうとしているその瞬間に、背後の扉が音を立てて開いた。
「ごめん関口君。待った?」
 沢村さんはその言葉と共に教室に入って来た。振り向くとそこには、縞模様のワンピースに身を包み、亜麻色がかった髪をカチューシャでまとめたその姿は、まさに僕が初めて知った恋の相手そのものだった。
「いいや、本を読んで時間を潰していたから」
 僕はそう出まかせの嘘をついた。本当はただぼうっとして席に座っていただけなのに。
 沢村さんは僕の隣までやって来て、僕の事を覗き込んだ。まだ花を咲かせようとしている蕾から放たれる仄かに甘い香りが、僕の鼻先へと漂ってくる。まだ女を知らないから、僕はどうその感覚を処理していいのか分からなった。
「それで、貸してくれる本は?」
 沢村さんは僕にそう質問した。僕は突然の出来事に戸惑い、こう答えた。
「貸すんじゃないよ、あげるんだよ。ずっと手元に置いて欲しい本だから」
 僕はそう答えた。そして机の中から一冊のカバーが掛けられた本を取り出して、両手で沢村さんに渡した。
「これ、いろんな人たちの伝記がまとめてある本。ちょっとお堅いかもしれないけれど、子供向けの学習本だから大丈夫」
「そう、ありがとう。関口君は頭いいものね」
 沢村さんはそう答えた。同級生に自分をほめられたのは初めての体験だったのだ。
「じゃあ、大切にするね」
 沢村さんはそう言って、その場を離れようとした。その瞬間、僕の身体は意識とは別に「待って」という言葉を喉から発していた。
「なに?」
 沢村さんは微笑んで僕に聞き返す。彼女が好きだという気持ちを打ち明けたいという気持ちが頂点に達して、爆発しそうになる。だがその気持ちを直に伝えてしまったら、今目の前にいる沢村さんの笑顔が汚され、彼女の全てが壊れてしまう。そんな気がした。
「いいや、何でもない」
 僕が言えた言葉はそれだけだった。すると沢村さんは満足そうに微笑んで僕の元を去って行った。もう沢村さんと同じ場所で同じ時間を過ごす事もない。という事実を受け入れながら、自分の気持ちに嘘をついた僕は教室に一人残った――。



 気が付くと、僕はまたあの古いアパートの一室に居た。どれくらいの時間が経過したのかは分からなかったが、悪夢から覚めたような倦怠感と重さが僕の身体に残っていた。
「あんた、自分に嘘をついたんだね」
 目の前にいた女はそう答えた。その言葉に対する僕の反論は無かった。
「そうだ。自分の気持ちに嘘をついた」
「それでよかったのかい?」
 女はまた聞き返してきた。そして僕は沢村さんのその後を語る事にした。
「よかったかどうかは分からない。でも、それから俺と沢村さんは別々の中学校に進学した。沢村さんは両親が離婚してお父さんに引き取られたんだが、待っていたのは虐待と暴力だった。だから現実逃避の為にグレたらしくて、中学で援助交際やら何やらに手を出したらしい。最後は違法薬物とアルコールを過剰摂取して、意識を失って死んだらしい。聞いた話によると、子どもが産めない身体になっていたとか。まだ十七歳で、本を貸してから五年程度しか経っていなかった」
 僕は沢村さんに降りかかった悲劇を簡単に話した。さっきの出来事が頭の中で掻き混ざって滅茶苦茶になり、僕の目元を熱くさせて、胸の中に隙間風を吹かせる。
「それで、あんたの方はどうなったのさ」
 女が質問する。
「俺は私立の中学に入って、そこからエスカレーター方式に大学まで行ったよ。でも、それは幸せとか順風満帆とか言う物では無かったよ。優秀な人材として他人に褒められる事は、自分に嘘をついて本当の事を言わない事だった。だから大手商社に入ったけれど、入社して八年で辞めた。嘘をついてばかりの人生だって気付いたから」
「そう」
 女は同情する事も僕を見下す事もせずにそう答えた。
「これで終わりか?」
 僕は女にそう言った。
「最後に一つ、あんたに必要だった物を見せるよ」
 女がそう答えると、閉じていた筈の背後の扉が開いた。人の気配を感じた僕が振り向くと、そこには本を貸した時の姿形の沢村さんが居た。
 僕は取り乱して彼女の元に駆け寄ろうとしたが、沢村さんはそのまま何処かに消えてしまった。そして僕の頭の中にこう囁いてきた。
「私の事を好きでいてくれたんだね。すごい嬉しかった。ありがとう」
 その言葉は僕の心に深く染み込んできて、甘いような苦いような余韻を持って消えていった。すると僕は涙を流して、その場に立ちすくんだ。
「俺もありがとう。忘れない」
 僕が言えたのはそれだけだった。すると背後の女が満足そうなため息を漏らした後、僕に声を掛けた。
「これで、あんたの中の嘘を晴らしてあげたよ。これで良かったかい?」
「ああ、十分だ。大切な人への嘘を晴らしてくれてありがとう。これからは誰にも嘘をつかない自分になるよ」
 僕は自分の中から湧き上がる熱い気持ちと、過去の自分の清らかさを感じながら、そう答えた。

                                     (了)
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