第二章 不向きな数学と意志の超越論

文字数 21,417文字

 だが、目の前にいる少年にそれらの能書きを長ったらしく問い掛けると単純な答えが返ってきた。
「それで良いんじゃないかな。敗北者ってそんなに悪いかな?」
 断言している割にはこちらに問い掛ける口調で少年は返答した。
 美しい白髪に加えて少年の様に凛々しく深窓の令嬢の様に可愛らしく儚げな少年は第一印象から想像も付かない程飄々としている。
「まあ、あんたから見ればそうだろうな。神の独り子と言う存在は社会的に観れば究極的敗者そのものだからな」
 聖典は実際の社会の矛盾を指摘する為に独特の思考を孕む。現実の世界では絶対に成立しない様な論理すら展開する。人類の叡智を発展させてきた戦争すらも真っ向から否定する様な言葉を聖典は語るのだ。初代教会においては理解出来る代物ではなかったとすら思う? 理解すると言うより信じるしかない。人間世界の外側にある叡智は人間には理解出来ない。ある程度は弁証法を用いて知解していた。だが、最終的に現実との整合性が問題になり、誰もが躓いた。天才、それこそ数百年に一度産まれるかどうかの天才達ですら聖典の全容を解明した試しがないのだ。
 理想と現実。
 この二つに挟まれた様々な問題に悩まされた結果、ある賢人達は論理の隙間を縫う様に独自の理論を組み立て次の世代に継承させていった。二千年近くに亘る研鑽の成果の一つが神学やキリスト教学と言われるもので、そこから更に真理への探求心から医学、物理学、数学、文学、天文学、芸術と言った分野が細かく発展した。
 と言っても順調に発展した訳ではないが。暗黒時代には教会が権力を独裁化してしまっていたので科学者は迫害もされたりした。最も古い事例の一つがアレキサンドリアの破壊だろう。多くの知識人達を殺害し、文明を後退させたことで欧州は暗黒時代に突入してしまったのだ。アレキサンドリアの破壊と教会の炭書により多くの他宗派の聖典が失われた。幸いなことに東方正教会に難を逃れた書物は東ローマ帝国の滅亡によって西方教会に回帰したのだが。皮肉にも東ローマ帝国の敗北が西方世界に多大な貢献をもたらした事実は敗北には敗北の意義があると暗喩されている様な気がして癪に障った。まるで悪が善の為に有用されるのだと言う例が歴史の中にあるなら、人生の敗北者である自分にも何か意義があるのかと夢想したくなる。
「あほらしい。敗北者に歴史を築く資格なんぞない」
「でもね、そういった人々の努力と祈りによって世界は支えられ続けられてきたんだよ」
「そんなことより、この前出した暗号もどきの発案はどうだった?」
 経緯を話すと長ったらしくなるが、惨めな自分がこの少年と知り合ったのはとある誤解からだった。平たく言えば狐に包まれた様な話だったのだ。その一件で自分は道化だと知り、今も教会のしがない信徒として関係施設で福祉関係の仕事をしている。但し、元々実学より座学を得意としていた自分が現場に入って痛感するのは己の無能さ加減であった。よく不向きだと感じることがある。かと言って精神を病んだ自分が他に出来ることがあるかと問われれば当然ない訳であって辛うじて教会に関する知識の伝達を少々役立たせる位なものだ。恐らく、他の職員からすれば良くない意味での忸怩たる想いで見られているのは当然だ。かと言って自分に仕事を手抜きする気なんぞ更々ないのも承知だ。幸いなことは一般社会では怒鳴られて鬱病になっておかしくない自分を職員の人達が耐え忍んで指導して下さっていること位か。
 だが、知己の職員達が次々退職していく中で自分も倒れ、休養している最中に感じたこともある。本当にこの職でやっていけるか疑わしい限りなのだ。そもそも、自分の様な会話を好まない人間は書斎辺りで論文の解釈でもやっていた方が気楽なのだ。確かに信頼出来る人がいると安心だ。だが、妙と言うべきか不可思議と言うべきか、誰かと一緒にいると疲れ易くなったのも事実だ。倒れている間、仕事への復帰も考えながら何か挑戦してみようと言う想いに駆られたのは確かだ。虚弱故に非常に遅々であるが、他の分野に触れて見ている最中なのだ。出来れば教会関係の職に就きたいと考えているが、狭き道である。その狭き道の殆どは今の仕事とは比べ物にならない過酷な介護の仕事の募集が殆どだ。これは困ったと言うことで少年の智慧を無理矢理借りようとしているところなのだ。
 こんな虫さえ殺さない少年だが、持っている繋がりは無視出来ない。少年曰く「そんな現状に失望しているなら僕らの所に着たら良いんじゃないかな?」と優しく提言されるもそうも行かない。自分は少年と共に活動するには役不足であるのは自覚している。情けないことだが、これは事実だ。
 だが、一方で自分は神の御意志とやらに沿わない様に逃げている気がしてならないのだ。いつか自分の信仰の発露である不条理と対面させられる予感がしてならない。教会を頼りにする反面近付きすぎない様に心掛けてもいるのだが、どうにも係わりが妙な感じになってきている。先に挙げた教会の知識の伝達もその一つだ。まるで『全てに救い』が訪れる為に神の肉体の一部として用いられようとしているかの流れだ。
 哀しいことに罪人としての自分が望んだのは冨と権力なのだ。
 それを少年に求めても少年は困った様に微笑むだけなのだが、本来頼む筋ではないことは判っている。これは甘えだ。
「で、どうだった? ウォリアー元大将の見解は?」
 マルティン・ルーサー・ウォリアーと言う特殊な立場にいる軍人と少年は知己の仲なのだ。
 その人に少し変わった素因数分解法を自分なりに提示したのだが、どういう反応を示したのか気になったのだ。
 虚素数。
 聞き慣れない言葉ではあるが、これを用いた暗号の素案を出してみたのだ。
 単純な話だ。コンピュータに使われるのは素因数分解を用いた暗号だが、これに虚数の素数を組み合わせただけの安直な発想だ。
 端的なところ、現在の暗号化システムに虚素数を織り交ぜてしまえば良いと言う発想だ。ただ、これのみに特化した場合だと従来の暗号システムをややこしくしただけなので量子を用いる。乱暴な例えだが、量子が同時に行う二つの動きに着目したのだ。二つの動きを観測すれば量子は崩れるか固定化される。観測する以前に量子にある特定正素数とある特定虚素数を当て嵌めれば良い。その素数は現在人類が知る素数の限りでも良い。又、撹乱の為に単なる整数を用いても良い。二通りの組み合わせより成る無限の数を量子の双方の向きに当て嵌めれば良い。そして、量子鍵に存在する量子の数だけ特定の方法で計算させ、素因数分解させるだけだ。計算は二組でも三組でも何組でも良い。後はそこに従来のノイマン型コンピュータに当て嵌めていた暗号化の方式でも合わせてやると尚一層解読がややこしくなる。問題は量子にどう素数を当て嵌めるか、量子の動きに虚数など当て嵌められるのかなどの課題が山積みだが、取り敢えず発案したものだけウォリアー元大将に御覧頂こうと言う訳だ。これはウォリアー元大将が属する同盟国にとっても悪い話ではない。そもそも最近の同盟国の事故など視るとどう考えても同盟国の軍事セキュリティが容易く破られている気がしてならないのだ。これは共産国、中華国が既に量子コンピュータの開発に成功していると大々的に喧伝している様なものだった。同盟国最大の強みである空軍も共産国と中華国の前にはさして恐るべき存在に映っていない。
 寧ろ、嘲うかの如くこの二国は最新兵器を次々と開発している。西側に圧倒的不利な新冷戦。民主主義の崩壊。それが今の時代だ。
 そして、敵対国を攻撃する方法も多様化した時代でもある。旧冷戦の様な圧倒的核戦力に依存した戦争の想定は最悪の想定の一つに過ぎない。ネットの撹乱、インフラの破壊、それらを行うだけで技術国を滅ぼすことが容易になった。
 だからこそ、それを護る為の暗号やシステムも必要とされてくる。興味深いのはH技研の創り出した交信技術だ。ノイズを利用した交信方法らしいが、鍵が盗まれない限り、現行のコンピュータでは絶対破り得ないとのことらしい。天才達とは発想が違うものだとつくづく思い知らされる。自分の様な凡庸以下とは歯痒いものだ。こちらが一歩進めば、あちらは千歩進んでいる。努力の差云々で埋められない不条理な真実。挫けそうだが、生きている限りは何ごとか為さねばならないと言う焦燥感から思いつくことを次々発案していくしかない。死にたくなる人生だが、何ごとかは為したいと言うのが人の性だ。なので、極めて抽象的な発案であるが、少年達に見て貰うことにしたのだ。
「うん、ごめん。とても酷いことを言うけど、ウォリアー達の部署はこの理論を現実化出来るところまで行っているんだよね」
「まあ、そんなものだよな。しっかし、恐ろしいもんだ。発案してみた私が言うのも何だが、こんなややこしい暗号を実用化出来るとはな。つくづく現代の人類が一部の技術者の掌の上で踊っているのを感じるわな」
 素数の特質が解明されかかっている時代にこんな発案も時代遅れか。実際、歴史の表舞台でもリーマン予想は近いと目されている。
 ちなみにゴールドバッハ予想もそれと並行して解かれそうだ。
 ゴールドバッハ予想とは四以上の全ての偶数は二つの素数よりなるとの仮定。つまりX=Y+Zであり、条件としてXは四以上の偶数であり、YとZは素数である。同時に二より上の素数が全て奇数であると証明すれば成立し易くなる。組み合わせは最小と比較的大まかなの使って、それらの組み合わせが全ての偶数を成立させる見込みを立たせ、素数を使うと同時に奇数+奇数=偶数であるさえ立証すれば、の話だが。
 つまるところ、素数の特質さえ解明すれば暗号として意味をなさない。それよりも量子暗号に頼った方がまだ賢いかも知れない。
「確かに怖い時代だよ。今の時代はとてもあやふやで均衡が取れていないしね。教会にとっても危機の時代と宣言してもおかしくないね」
 そうだろうな。つい百年かそこら前の時代には神の存在はあまり疑われていなかったのに、今日では神の存在を持ち出すだけ奇異な視線が飛ぶ時代になった。あたかも神と言う存在が人々にとって崇敬の対象と言うより好奇の対象になっている時代だ。ある意味、自由な良い時代であるが、ある意味では堕落した悪い時代と看做すことも出来る。自分を含めて多くの人々が神と向き合うことを止めてしまった時代でもある。神を自らの中に落とし込むのではなく装飾品として飾り付ける様な時代だ。
 そして、教会にとって危機なことはもう一つある。世界の歴史と言うものは現在でこそ欧米中心に回っているが、欧州が世界の中心に成り始めたのは五百年程前である。
 それまではアジアは中華圏が支配し、世界はイスラム教が軍事力において圧倒的な力を誇っていた。オスマン帝国はあまりに強大過ぎて欧州大陸をいつ制圧するか判らなかった程であった。
 但し、歴史の必然と言うか偶然と呼ぶべきか。
 あまりの多くの出来事が重なり、欧州は瞬く間に世界を制した。単純な流れで説明するとこうだ。
 オスマン帝国が欧州に侵攻する。
 ワラキア公が立ち上がり、オスマン帝国を撃退する。
 当時の欧州は肉の保存の為に香辛料が必要だった。しかし、香辛料はインドにしか生産されていない。当然地理上輸入にイスラム諸国を挟まなければ欧州諸国は生活必需品を手に入れられない。ここで判り易いのは欧州の生殺与奪権を持っているのはイスラム教国なのだ。
 これを回避する為にスペイン、ポルトガルが航海術を発展させ、植民地を造り、香辛料を直に手に入れようとした訳だ。
 ポルトガルは成功し、アフリカ諸国周りに植民地を形勢し、インドのゴアを植民地にし、香辛料を直に輸入することに成功した。
 一方でスペインは失敗した。コロンブスは地球を球体だと予測し、大西洋を横断すればインドに辿り着けると考えた。しかし、コロンブスが発見したのは新大陸であった。近代までアメリカ大陸原住民をインディアンと呼んだのはインドと勘違いして命名してしまった為である。
 スペインは発見したのは新大陸だと気付くと制圧を考えた。
 奇しくもアメリカ大陸先住民達は欧州の人々の姿を見て神の再来だと考えて丁重にもてなした。しかし、一番の悲劇であったのは彼らがスペイン人を侵略者だと気付いた時、欧州大陸から細菌が持ち込まれていたことだった。免疫性のないアメリカ大陸先住民は次々倒れていった。こうしてコンキスタドールつまり征服者は僅か五百程度の兵で南米大陸を制圧してしまった。そこから革命の始まりだった。南米大陸に埋まって銀はあまりにも莫大でスペインは奴隷を使って膨大な銀を世界にもたらした。貨幣革命の始まりである。当時の欧州では銀は特殊な価値を持っていた。教会において銀はある種の神聖観があった上に価値としても金より上であった。莫大な富を占めたスペインはこれにより世界最強の国に躍り出る。
 同時代。欧州は大きな問題を抱えていた。宗教改革である。神聖ローマ帝国、つまりの後のドイツを中心に新教会と旧教会が三十年に亘る戦争を繰り広げていた。戦争に疲弊した新教徒が夢見たのは北アメリカ大陸への移民だった。
 多くの民が移民した今日の同盟国の国民は元を辿れば移民が多いのは明らかだが、その中でもドイツ系の移民に起源を持つ同盟国国民はかなり多い。ウォリアー卿も元々の民族性質からしてこう言った稟議に対して厳格に応じると考えていたが、こうも一蹴されてしまうとは。
「ウォリアー卿、やはりドイツ系軍人はかなり厳格なんだろうな」
「うん? 何を言ってるの? ウォリアーはドイツ系じゃないよ。ロシア系だよ」
「は?」
 いや、待って欲しい。それはおかしい。当時の冷戦の状況からして確かに東側から西側に秘密裏に移民する人々は多かったが、その中にはKGBの息の掛かった者もいた筈だ。それにも関わらず軍人として迎えるとは。いや、そもそもからしてこの前提が間違っているのか?
「なあ、ウォリアー卿は何歳なんだ?」
「それは本人から聞いてあげて。僕から言うべきことじゃないよ」
 珍しい反応をするのを見た。少年が回答と遠回しにはぐらかすことはあったにせよ、ここまで明確に撥ねつけられるのは珍しい。我ながら少々動揺する。
「訊いてはいけないことだったか?」
「ウォリアーの出自は複雑でね。彼自身が話したいと思ったら話すと思うよ」
 それは暗に容易く触れて良い過去でないことを仄めかしている様子だった。
 元軍人の割りには耄碌と言う言葉から最も遠い人種だと感じさせられるが、案外相当な年配者なのかも知れない。
「同盟国は規格外の人物ばかり揃っているな」
「そんなことはないよ。規格外の人達は世界中にいっぱいいるよ」
「成程、それは確かにそうだな」
 近頃、盛んに報じられているのは同盟国の凋落振りが目立ち、中華国の圧倒国な経済圏ばかりが目立つ様になってきた。実際のところ、中華国は同盟国に技術的な遅れはそれ程ない。
 寧ろ、全面戦争になれば中華国が勝つ公算が高い。中華国と共産国の空軍力と同盟国と同等以上なのだから。それ以上に中華国の陸軍戦力は同盟国の陸軍を数的に圧倒している。一見すると両者に差はない様に見える。
 だが、同盟国の戦力は飽くまで世界大戦に備えた軍備なのだ。
 一方、中華国は自国の権益を守る為にしか戦費を消費していない。つまり、中華国が世界大戦型軍事予算を計上すると途方もない規模の軍隊が出来てしまうのだ。軍事とは即ち国力そのものだ。中華国が世界の工場国である以上、本気を出せば世界と戦うことが出来る戦力を用意出来るのにそうしない。彼らは強かに待っているのだ。同盟国が瓦解する日を。中華国はこれまで強かに政治を執り行ってきた。世界最大の発展途上国と自称し、世界中から資金を集めてきた。そして、その資金を元手に情報部を強化し、国内の言論統制に成功し、更には技術者を利用し、同盟国のデータに不法にアクセスし、技術を流入させてきた。そのやり方だけに固執せず、この国の情報も吸い上げるべく国営企業を通じて電脳空間の支配に乗り出してきたのだ。今日世界で売られている中華系情報機器はその多くは中華政府情報部に自動的に情報を提供する様に造られている節がある。差し詰め、中華のエシュロンと言ったところだろう。だからこそ中華国はこの技術と情報を元に様々な計画を構築出来る様になったのだ。例えば、同盟国が進めているであろう未来操作計画も中華国も必然的に行っている可能性が十分に在り得るのだ。
 世界が同盟国のエシュロン批判を行っている裏で中華国は異なる手法で同じことを正々堂々とやってのける。敵対国家である同盟国を隠れ蓑にして中華は今日もビッグデータ収集に勤しんでいる訳だ。
 その異常な進歩振りは同盟国も自覚している筈だが。だからこそ自分もこの不安定な時代に生きる者の一人としてウォリアーに提案したのだが、彼らは想像以上高度な研究をしているらしい。
「と言うことはあの案も採用されなかったか」
「駄目だよ。あんな人道に反した案、ウォリアーだって躊躇うよ」
 これと平行して出した素案がある。
「ところがそうでもないのですよ」
 突如発された声に驚き、声の方向に振り向く。
 長身の男がいた。
 だが、一体何時? 何処から?
 男は何とも言えない不気味な嗤いを浮かべた顔で佇んでいた。
 不気味。
 第一印象はその一言に尽きる。しかし、男は気に留めず言葉を続けた。
「私は良い素案だと思いましたがねえ。愚かな息子にはあの提案の価値が判らない様子で。全く些か呆れますよ。ものを視る眼がないものですねえ。愚か、実に愚かだ」
「は、はあ」
 こちらの動揺は意に介さず、悠々と男は佇んでいた。
「おやおや、私としたことが名乗り遅れました。名など多様にあるのですが、そこに居る少年のこともあるので蝿の王とでも名乗っておきましょうか」
 蝿の王。その意味するところは。
「それ以上は考えない方が宜しいのでは?」
 蝿の王のこちらの思考を先読みする様に牽制する。
「私としましてもあなたと敵対するつもりはありませんよ。いやはや、どうしてかあなたは我々寄りの考えをしていますしねえ。虚素数を用いた暗号の素因数分解だけではありませんよ。寧ろ、もう一つの案もそそられる」
 同盟国内にはキングソロモンズプロジェクトなるものが存在する。この計画には二通りの使い道がある。中華の有人軍を圧倒する自律機械軍事力、金ドル本位製を軸にした強大な経済力、エシュロンによる莫大な情報、強大な人工知能。これらを用いて世界そのものに干渉し、人類を恣意的に操るシステム。
 システムにはもう一つ使い道があるのだが、それは神のキングソロモンプロジェクトと呼ばれる代物であり、今回の提案と密接な関わりがない。
 だからこそ少年は人道に反した素案だと箴言してくれたのだろうが。
 対中華、対共産に対抗する為に上奏した邪悪なシステム。
 端的に言えば『国家超人化計画』と名称して良い。
 手始めはこうだ。現在同盟国は一部の輸入を止めているが逆のことをすれば良い計画だ。同盟国を成り立たせているのは金ドル本位制と軍事力、そして信用である。信用があるからこそ他国に出て行ったドルが投資として同盟国に戻ってくる。まずはこの流れそのものを変えなければならない。その為にナトー諸国と第三世界の協力が必要となってくる。ナトー諸国最大の強みは堅実な農業生産であり、南米大陸を中心とした諸国は原油を初めとする豊富な資源にある。
 これに対し中華の最大の強みである人口は経済規模、軍事規模の面からしても比類のない規模である。 だが、逆にこれは弱点でもある。中華国内には確かに豊富な資源がある。
 これを枯渇させるのが同盟国の目標となる。
 資源が枯渇した中華は原油と食料を同盟国、ナトー諸国への依存を必然的に高めなければならない。勿論、それまでの間、政治が正され、環境問題が改善していれば同盟国は別の手を考える必要があるが。ここで問題となるのが貿易戦争だが、直接対決は好ましくない。かつて大英帝国が三角貿易で莫大な富を築いた様にしなければ同盟国は中華の非難を一身に受けるだろう。
 ここまでが飽くまで『国家超人化計画』の前提である。これは飽くまで人工知能と人類の教育資金を集める為の手段に過ぎない。シンギュラリティはいずれ起きるものだ。
 だが、この計画は人類が人口知能を造り、人工知能が新しい知性を創ることを目的としていない。寧ろ、逆に人工知能と人類自身を有用して人類そのもの超人化させていくものだ。最終的には超人が超人そのものを進化させ、最も高度な生命に到達すると言うものだ。ここで問題となるのがその超人は同盟国のみに適用させるか世界に適用させるべきかと言う問題も出て来る。
 しかし、旧教会の見解では神が与えた遺伝を人が手を加えるのは大罪である。故にこれは世界に適用出来ない。同盟国の志願者のみにしか適用出来なくなる可能性があるのだ。こうなった場合『国家超人化計画』は最初に話題になった虚素数の話と係わりが出てくる。高度に進化した存在ふるい言語を使う必要さえ暗号言語を日常化させるのだ。より機密度の高い情報はより高度な暗号を用いるだけで良い。言うなれば国家そのもの機密に押し込めるものだが、何と言うこともない。
 この技法は同盟国、中華国、共産国の三国が推し進めていても何らおかしくない計画。
「あなたから褒められても私は嬉しくもない」
「おや、似た者同士で気が合うかと思いましたが」
「似た者同士?」
「あなたが愛する者を憎むのはそのものを愛しているからだ。神も然り、家族も然り。私も同じなのですよ。如何に邪悪と呼ばれようとこの身から憎しみは消えない。その憎しみの根源が愛だと知っても尚ですよ。ああ、全く因果なことだ。呪いだと思いませんかねえ?」
 確かに自分は神を憎む気持ちもあるし、家族に恨み言を言いたくなる時もよくある。あわよくば金だけあれば良いと言う発想に行き着きがちだ。
「しかし」
 そう言って少年のちらりと見遣る。少年は事態を静観している。まるで異物が入ってくるのを予見していた様に静寂に佇む。視線が合うと微笑み返してきた。
 本音で。
 少年の瞳がそう語っている気がした。
 確かに小細工が通用する相手ではない。
「私も憎んでいます。人々を、神を。人は解り合えない生き物です。愛を説きながら嗤って隣人を殺す生き物であることに変わりない。私も含めて自身を護る為なら同胞すら捧げる罪人、それが人間です。神も又然りです。私達に救いをもたらさず、苦難を与えてばかりなら神でない。私は人生において失敗から何も学ばなかった。だからこそ、失敗には意味がないと感じた。私に必要なのは圧倒的力と圧倒的知力、そして支配のみです。しかし」
 ここで一拍置いて少し考えを巡らす。
 しかし、その先に続く言葉を表現する技法を自分は知らない。果たしてこれが如何に意味などあるものなのか真価も量りかねている。
「どれ程罪人に身を窶していようとも避けられない感情があるのです。蝿の王、あなたが言った言葉がそれだ。少年風に言えばそれは祝福なのです」
「それを超克する術をあなたが知っても愛から逃れ得ないとでも言いますかねえ?」
 『国家超人化計画』の中に潜む邪悪な意図を蝿の王は見逃したりはしない。
 優生学と呼ばれる分野がある。だが、それは遺伝的なものであり、民族主義的なものだ。かつてヒトラーはアーリア人至上主義を掲げ優生学を有用した。ただ、皮肉なことにアーリア人至上主義を掲げた故に連合国の圧倒的物量戦力に太刀打ち出来なかっただけだ。
 『国家超人計画』はその様な狭い民族間で共有される事柄ではない。
 安易に言えば思想の優生学を用いるのだ。優秀と言う言葉はそのものの意志そのものに懸かっている。 世界を変えるのは一つの意志から派生されている。ある者はそれを一者の流出と呼び、信徒は神の御意志と謳い、ある者は真理と宣う。強大な意志は長い歳月を翔けて世界を変革する。それは良くも悪くも神や悪魔の意図が見え隠れするものなのだ。蝿の王が『国家超人計画』を悪く言わないのは思想の優生そのものが危険を孕んでいるからに他ならない。
 神は『全てに救い』をお与えになる。
 それとは真逆の思想にも到達させる恐れを超人思想は抱かせる。生命、神聖、愛を司る神の世界の真逆。死、汚濁、憎悪、無関心から導き出される一つの思想。
 人は『全てに滅び』をお与えになる。
 人が神を無視し、神そのものを超克しようとするが故に到達する思想。或いは人が意図的に神の思想を人の都合の良いものに歪曲する思想そのもの。現代の同盟国、中華国、共産国が抱える問題の一つ。最も触れてはいけない問題の一つ。その思想の片鱗を露わにする蝿の王の次に述べる言葉を待つ。
「しかし、虚数を使った暗号ですか。宜しい宜しい、実に宜しい。量子暗号鍵となるかこれからの科学の発展次第でこの萌芽が試される訳です。まあ、あなたが考え付かなくとも他の誰かが考えていたでしょう。問題は時期です。私の言いたいことは解りますよねえ?」
 もし、虚数を使った暗号が実現可能であり、その上で虚素数の利点に気付き、そこから更に応用出来れば暗号化の道が見える。
 しかし、問題は時期なのだろう。中華国は違法な方法で技術を同盟国から搾取している。そうすると今度は中華国が先端技術に取り組む。
 しかし、ここで量子暗号鍵が登場してしまえば、東側陣営は圧倒的優位に立つのだ。資源、工業力、軍人数において圧倒的な経済力を誇る中華国、共産国は旧冷戦とは打って変わって断然西側に強行的姿勢を見せ付けるだろう。何しろ、西側が得意とする技術開発、圧倒的生産力を東側が保持しているのだから恐れる訳がない。
 しかも向こうは神を信じないことを教条としている国々だ。
 蝿の王は我が意を得たりとばかり得意げに不気味に嗤い、こちらの反応を窺っている様子だった。
 差し詰め、「この生き物は次にどんな行動をするか?」と実験動物を見る様に観察していた。人と違うのは蝿の王には愛情の欠片もなさそうなところだった。塵を見るかの見下し方を印象付ける視線だ。
「ウォリアー卿とはどんな関係なのですか?」
 自分は思わず的外れな質問をしている。虚数を使った暗号は既に同盟国が実用可能な段階まで開発していると先程言われたばかりではないか。言い換えれば中華国でも共産国でも実用可能な段階にあると言って良い。本来ならばもう少し正鵠を射た質問は出来ないかと失意に落ちるが、蝿の王は何故か上機嫌だった。
「簡潔に言えば親子ですよ」
「は?」
「驚くべきことですか? 旧約聖典を御覧なさい。かつて天において英雄であった者達と人が交わっているではないですか。今日では化石が発見されても何処かの勢力が不都合と看做すのか表向きには存在していないとなっていますがねえ」
 ネフィリムのことか。上位存在と人間の混血者達。一説によると巨大な人々らしいが。
「私とウォリアーの歴史の基点はそもそもロシア革命から始まっているのですよ」
 意気揚々と語り始める蝿の王。少年は少し哀しそうな表情で蝿の王の言葉を聴いている。それに構わず続ける蝿の王。
「ロシア革命はあなたの国にとっても馴染みの深い出来事の筈でしょう? 後のソ連に散々煮え湯を呑まされたあなた方の国には忘れたくも忘れられない。いや、そもそも大日本帝国海軍がロシア帝国のバルチック艦隊を破らなければ起きる筈もない世界的革命。神はいないと宣言する国家の登場に当時の我々は胸躍らせたものです」
 ソ連と誕生は蝿の王らにとって歓迎すべき出来事であったが、教会は当然危険視しただろう。後の旧教会はソ連とナチスのどちらか欧州の覇権を握る事態になればナチスを選んでいただろうと言われた程だ。
「まあ、貴族階級は共産主義者には嫌われるのは運命の様なものでして当然の多くの大ないし中小貴族達が欧州に、同盟国に亡命したのですよ」
「それはおかしくないですか? ウォリアー卿の名前は全て英語綴りです。ロシア語は欠片も見られませんが」
「それ程大した家系ではなかったのですよ。優れた学者気質と武芸の才能に秀でた家系ではありましたが、世渡りが下手だったのですね。同盟国亡命から生活に困窮していた家系でしたからねえ。ただ」
 そこで蝿の王は下卑た嗤いを噛み締めて答える。
「盟主の孫娘がとても愛らしい少女でしたよ。あちらは生活に困窮していた。私は豊富な資産を持っていた」
 後は言わなくて解りますね、と言いたげな雰囲気だった。
 望まない結婚だったのだろう。
 そして、ウォリアー卿が産まれた。
「まあ、その辺りは不肖の息子にでも訊いて下されば宜しい。さて」
 蝿の王は少年に向き合った。
「相も変わらずのご様子ですねえ。あなたの中ではこの様な悪魔的論理を眼にしても悪は善の為に有用されるのだと宣いそうですな」
「ベールゼブブ兄様もお元気そうで何よりです」
 少年はらしくない口調で答えた。何処か皮肉を籠もった口調をすることを好む少年ではないことは短い付き合いで判るが、少しあからさまな言動だった。
「もしかして怒っているのか?」
「別に」
 やはり素っ気ない返事を返す少年。いつも微笑みながら語りかけてくる優しい印象とは少し違う面が見て取れる。
 それに対し蝿の王は余裕綽々に嗤いながら答えた。
「複雑な気持ちなのでしょう。私はウォリアーの実の父であり、この子は養父に過ぎない。口に出して言い表せない感情とは何処にでもあるものなのですよ」
 屈々と嗤う蝿の王に対し、少年は言葉の棘を以って答える。
「あなたこそ恐れているよ。あなたは怖いんだ。ウォリアーと向き合うのが。ウォリアーの中にはかつてのあなたの理想が未だ生き残っているから。だから、あなたは」
「そこまで」
 蝿の王が何時の間にか少年の目の前におり、少年の顎を手で少し持ち上げて黙らせた。
「お喋りはあまり好かれませんよ」
 そこには有無を言わせない冷徹な表情があった。恐らく、こちらが蝿の王の本来の姿なのだろう。
「そうだね。これ以上はお節介なサマリア人だね」
 少年は同意した。ウォリアー卿の過去のあれこれを詮索するのは趣味ではない様子だ。
「私としても坊やから面白い話を聴けたので今日のところは去らせて貰いましょう。ああ、それにしても坊やは不肖の息子に似ている。奇妙な運命すら感じますよ。では、又いずれ」
 蝿の王は蜃気楼の様に消えて行った。
 坊やか。ウォリアー卿も年経た化け物にすれば取るに足らない存在なのだろう。よくウォリアー卿からも若造と呼ばれる。決して若造と呼べるか微妙なのだが、向こうからすれば、世の中を知らない井の中の蛙に見えるのかも知れない。
 ふと少年を見遣る。少年は不思議そうに微笑んで尋ねてくる。
「どうかしたの?」
 ある意味、別格の存在だと感じる。
 そもそも、少年は人の範疇に収まる存在ではない。
 少なくとも大天使長ミカエルとは世界から良く知られた名前ではある。
 神の如き者の様に接する人によって様々印象のもたれ方をする鏡の様な存在である。自分にとっては愛情に満ちた存在に見える、そんな別格の存在に愛されても自分の様な罪人は栄光や冨と求めるのだろう。
誰より劣っているからこそ思想の優生学が産まれたのが必然であった。何千回敗北しようとも最期には勝っていれば良い。それこそ思想の優生学の目標であった。
 皮肉にも『全てに救い』と対極を成す命題。その源泉は何処から来ているのか? 劣等感もある。だが、それ以上に不条理と言う言葉が重なる。自分の父は愚かだ。かつて自分の父は友人の為の借金の連帯保証人になり、友人に裏切られたことが自分達の不幸に繋がった。来る日も来る日も催促の電話に怯えながら暮らしていた自分もそこにいた。家庭そのものが不安定だった。憎しみに満ち、無知であった自分は非道な行いをしていたことも憶えている。金銭の問題で弟の首を絞め、本気で殺そうとしたこともあった。今となっては恥ずべき行いだが、当時は神などと言う存在を全く信じていなかった上に無知の無知であった自分には憎しみの感情が優勢だった。もしかすると思想の優生とはそこから産まれたのかも知れない。遺伝子上の優生になれなかった自分が辿り着いた答えの一つが思想の優生そのものだったかも知れない。
 だが、それでも神は惨めな自分の人生を通して訴えかけてきている気がして他ならないのだ。
「『虚しいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことのしない人』か」
「詩篇だね」
「ああ」
 自分は間違っているかも知れない。思想の優生など神は望んでないかも知れない。人は誰かより優秀で居たがる生き物だ。これは人類の究極的問題だ。
 だが、他方で神は子の問題を瑣末と考えるのかも知れない。神は人の優劣より心の善し悪しに注目するのかも知れない。それでも人が罪人足らんとするならば、心の善し悪しより能力の良し悪しに囚われる者達になるだろう。
「なあ、少年。人は如何しても如何しよくもなく罪人だな」
「お父様の前には義しい人なんていないよ。造られた存在には必ず罪が付き纏う」
「それはあんたでもか」
「例外がある位には堕落する者は居るよ。僕だって判らない。聖別と堕落はいつも隣り合わせにいるんだ。絶対と言う保障はお父様の中にしかないよ」
 成程、正邪ははっきり区別されているより混濁をこの世界に選ばせている様子だ。だからこそ、邪悪な自分も『全てに救い』に囚われてしまう訳だ。
 虚素数。今日に至って素数の法則は解かれつつある。実際、解いた者もいるのだろう。ただ、それが表舞台に出てこないだけで。ネットで検索しても虚素数に関してのデータは少な過ぎる。まるで恣意的に隠されているかの印象を受ける。
 そして、少年の言葉が確かなら同盟国は既に素数に関する特質を凡そ掴んでいると看做して良いだろう。共産国も中華国も例外ではない。同盟国第七艦隊が不運に二度も立て続けに事故を起こしたのは不運だったからではない。共産圏は既に同盟国の暗号を破る技術を開発していた可能性が高い。ただ数の力に頼っただけとも推測出来るが、中華国の技術に対する惜しみない投資を考えると素数の原理をかなり解明していたと看做すべきだ。
 だが、しかし、虚素数。これだけはデータが少な過ぎる。虚数にはiを用いるとは微かに聞いたが、虚素数自体の研究は然程熱心行われた形跡がない。意味がないのか。未だ手を付けるべき分野ではないのか、それとも自分が世間知らずでとっくの昔に虚素数の特質は解明されていたか? 今の時代の暗号の主流は量子暗号なのだから。
 それでも素数はミレニアム問題の一つな筈だ。これが解明されることは楕円曲線暗号の瓦解にも繋がる筈だ。SRA暗号の優秀さは素数の理解不足に懸かっている。今日では楕円曲線暗号が主流になってきているが、それでSRA暗号が地に墜ちる訳ではない。今日においてSRA暗号が非主流になってきているのは膨大な計算をこなす量子コンピュータが既に開発されたからに他ならない。二千年代には16キュビットが試験的に運用された量子コンピュータは古典的で偉大なコンピュータの防御壁を超越出来る可能性を現実にもたらした。
 その為に暗号に虚素数を加えても尚安心出来ないと言うのが、支配者達の本音らしい。世界を支配する者達は秘密を大事にする傾向がある。教会も例外ではない。
 世界中は通信暗号を大事にする。そこで個人的に疑問に思ったこともある。虚素数そのものは素数の解明と共に全容を明らかにするのに何故歴史はSRA暗号に虚素数を積極的に係わらせなかったのかと言う極単純な疑問だ。
 逆に言えば、素数さえ解明すれば虚素数も同時に解明されるので、単純さを好む暗号に採用されなかっただけかも知れない。そもそも数学の素養がない自分がSRA暗号の優雅さを理解出来ないだけかも知れない。
「同盟国か……」
「ウォリアーも大変だよねえ」
 少年の素直な感想も自分の感受性を以ってすると皮肉に聞こえてしまう。凡そ百年間同盟国は世界を統治してきた。決して良いやり方と言えないが、ソ連がもたらす暗黒郷に比べれば自由をある程度謳歌出来る時代だった。
 だが、その時代は終わった。新自由主義が西側を腐敗させ、共産圏を台頭させるのは皮肉だ。臭いものに蓋をしてきた時代が終わり、混沌に満ちた時代が始まったのだ。最早、世界は同盟国を唯一の超大国と認めないだろう。
 今や経済に至っては中華国の謳歌が始まっている。早晩、軍事、技術についても同盟国と比肩し得るだろう。同盟国はソ連を倒す為にとんでもない怪物を産み出してしまった。その怪物は世界を食い物にしようとしているのだから笑えない。
「蝿の王はもしかしたら『全てに滅び』をもたらす思想を中華国に与えようとしているかも知れない」
「それはどうして?」
「同盟国と共産国は教会と言う共通点がある。だが、中華国にはそれがない、寧ろ教会を反体制の組織として強く弾圧している」
「成程ねえ」
 少年は感心した様に言葉を紡ぎ出す。決して答えは与えない、しかし助言は怠らないと言う少年独特の会話法があることに最近気付いた。
 聖霊の様に巧みな助言を与える存在だと気付いた。
 蝿の王は「人は『全てに滅び』をお与えになる」と言う価値観を根付かせたい。
 しかし、教会の価値観に染まってしまった国々では無理だ。その国が共産主義に弾圧されていても古くから人々の根に神が存在しているのだ。過酷な世界大戦を経ても、堕落する文明がもたらされても一定数の人々の信仰は崩れなかった。前世紀と今世紀が悪魔に支配されようとも屈しない者達が道を切り開くのだ。
 だからこそ悪魔は単純な答えに目を付ける。要は神の教えが浸透し切ってない国を選ぶのだ。
「かつてのローマ帝国の様に強大で栄えている且つ教会が根付いていない超大国。中華国は教会を滅ぼすのに打って付けの役処だろう」
「それだと向こう側が初めからそうなる様に仕向けたみたいだね」
「それだとまるで蝿の王が共産主義を世界各地に根付かせたみたいな言い方だな」
「珍しく鋭いね」
 少年は困った様に溜め息を吐く。
 共産主義。マルクスが提言した資本主義に対する欠陥の解決法の一つであり、人類が創り出さしたシステムとしては理想的なものだろう。
 だが、現実の共産主義は違う。多くの共産主義者が国の覇権を掌握すると腐敗していった。ある者達は自らを神格化し、逆らう者達を数百万、数千万もの人民を粛清してきた。システムとしては理想的なのに現実に直面した時、罪人としての本性を露わにすると言う矛盾を抱えたシステム。
 初めの例としてスターリンによる大粛清と個人崇拝が今日の歴史に残っている。
 後に中華国はこれに倣って文化革命を推し進めた。
 皮肉なことにこのシステムは初代教会のシステムの模倣の再現なのだ。初代教会も私有財産を持たず、信徒達は共有財産で生活していた。初代教会には粛清こそなかったが、聖霊を欺こうとして献金を誤魔化した夫婦が神によって命を絶たれている例もある。それによって人々が益々神を畏れ敬ったのも事実だ。
要するに共産主義はそこから神の名を排除し、人間の生み出したシステムとして機能する為のものである。共産主義者にとって教会や宗教はアヘンであり、教会や宗教にとって共産主義は悪夢そのものなのだ。
 教会の教えが根付かず、共産主義が根付いた中華国は蝿の王達にはさぞかし楽園に観えるだろう。
 そして、少年の言葉を推測するに蝿の王はロシア革命にも何らかの形で係わっている。全ての腐敗、暴力、放蕩には常に悪魔が付き物だが、ここまで露骨に示されるとは思わなかった。
 中華国の発展は実に巧妙だ。世界大戦後、ソ連と手を組んだと思いきや、ソ連に対抗する為に同盟国と軍事上の密約を交わす。冷戦が終わると強かに下手に出て世界中に混交経済を表明した。中華国の圧倒的に安価な人件費は世界の企業に魅力的で投資は惜しみなく行われた。
 結果、中華国は工業国として群を抜いて成長していった。それに伴い軍事費も増加の一方を辿った。手にした外貨を元手に旧ソ連の軍事技術者達を積極的に誘致した。それに依って成立した強大な軍事力を背景に国内の情報統制を行い、中央情報局は圧倒的数の力でサイバー戦争の有力者となり、同盟国からの最新の技術を盗むのも躊躇わなくなってきた。
 結果、今や、経済、軍事の両面で中華国に対抗出来る国は同盟国が辛うじて対抗出来ると言う構図が出来上がってしまった。空母の建造、南沙諸島の開発などは中華国の栄華の表れだろう。何しろ南沙諸島の制海権を中華国に奪われることは同盟国のこの国における軍事基地の東アジアの軍事的行動を著しく制限するものであって中華国はそれが判っていて制海権を握ろうとしているのだ。
 そんな危機感とは他所に少年は暢気に尋ねてきた。
「でも、何で素数になんて興味を持ったのさ? 少なくとも君は宗教的研究を好んで進めていたみたいだけど、急に暗号に興味を持ち始めたのは何で?」
「前にも言ったよな。私は職務上無能だと。何か技能を身に付けておかないとこの大不況の時代だ。世間では好景気なんぞ喧伝されているが、それでも私の足下は危ういものだ。生き辛いだろう?」
「本当にそれが理由?」
「半分はな」
 切っ掛けは些細な気付きだった。現代では溢れているスマホ。これによりあらゆる情報は入手がほぼ可能になる。ウィキリークスの存在上一部の機密情報は容易く入手されやすくなった。逆に機密度の高い情報は極端に少ない。ネットの世界でも情報統制はされている証拠だ。後は少ない情報を逆算で憶測によって組み立てれば良い。ここまで憶測を立てていたのは良い。本当に些細な切っ掛けだった。
 スマホ。これは如何なる原理にて構成されているものなのか? いや、そもそもコンピュータとは何だ? どんな基幹技術が基になっている? これは人間関係に言えた。人を理解するのは本当に難しい。自分と他者の感覚は当然差異がある。ふと俯瞰すると自分の身近な所さえ理解していない。スマホを前にすると時々自分が人間に実験されている猿に感じるのだ。その時感じる無力感、劣等感。口に出して吐くのもおぞましい。自ら人の姿をした原始的生物だと自覚させられた。かと言っても学んだところで時間の無駄にも感じた。無駄ではないのだろうが、自分の才能と真逆と感じた。自分の得意とするのは抽象的概念であって数論と言った厳格な証明を要する分野とは相性が悪い。だが、無駄ではなかった。宗教的意義からするレオンハルト・オイラーの神の存在証明公式は簡潔だが、成程基礎仮説としては申し分なかったし、今我々は享受している高度な技術は先見の明溢れる先人達によって切り開かれている事実を知ることが出来た。
 ただ、やはり残念と言うか当たり前と言うか数式や公式に対する理解はさっぱり解らなかったし、改めて自らの凡庸さとこれらの数式を理解出来る者達への畏敬と劣等感を同時に感じ取ることが出来た。
 理解出来ない。
 それは自分を苦しめると共にある邪悪な誘惑に絡め取られ、劣等感から「神は『全てに救い』をお与えになる」とは正対する理想の「人は『全てに滅び』をお与えになる」と言う着想に至ったのかも知れない。
 少年は自分に期待していたのは『全てに救い』と言う信条が世界に多様性を与え、恵み豊かな世界を創り出すのに貢献することだったのだろう。いや、今もそうなのだろう。
 だが、皮肉にも人の知恵の罠に嵌った自分が作り上げた小さな信条は思想の優生によって選民思想を根付かせ、神の愛の超克、破滅の思想そのものだ。今はこんな萌芽だから良い。
 だが、世界で憎悪が増していく時、自ずとこの信条は発展していくだろう。
「最も恐れる可能性はヒトラー以上のカリスマの誕生だな」
 しかも民族至上主義では思想至上主義となると世界にどう影響するか解らない。
「人の心を暴くのを僕は好きじゃない。でも、君との付き合いで君がどういった考え方をするか少し解っているつもりだよ。でも君の今考えていることはきっと善くないことだと僕でも判る」
「流石は私の同胞だ。私の性格を良く理解してくれている様だ。劣等感から至った『全てに滅び』の信条の危うさに気付いたか」
「『全てに滅び』?」
「人は『全てに滅び』をお与えになる」
「ああ……」
 少年は脱力した様に嘆いた。理解した同時に嘆いた。
「子冬、君はとんでもないものを共産圏にもたらしたかもね。これは同盟国にとっても危険な思想だよ」
 少年は僅かに嘆息して自分に語りかける。
「発想の逆転だね。今の不安定な世界にその劇物を投与することは世界を破壊しかねない。君はその事実を知ってこの信条を世の中に出そうと言うの?」
「私が昔から破滅思考の持ち主だったのは知っているだろう? 私は人生を辟易している。神は私に何ら地上的栄光をお与えにならないではないか。謙遜を知れと言わんばかりに惨めな人生を歩ませてくれる。私だって障がいがなく、知性に溢れ、金に困らず、家柄も立派な人間として生まれたら最高だったろうな」
「じゃあ、君は人生がやり直せるとしたら、それで良いんだ?」
「………………」
「嘘を吐くのは良くないよ。罪人としての君の本音だったとしても、君にはもう一つの感情がある筈だ。『全てに救い』に至らせた数々の存在を君は忘れたいのかい?」
「祝福とは呪いそのものだ。私に信徒としての理想に至らせたもの達が私より早く世を去る。私は毎日怯えて暮らす。私を支えてくれているものが去ると言う事実に向き合いたくない」
 少年に向かって語りだす。
「私は怖い。何時の日か全てを失うのではないか。そう怯えてばかりいる」
 何時の日か全てを失ったら『全てに救い』と言う信条を保てなくなる。だからこそ『全てに滅び』の信条の芽を紡ぎだしたのだ。自らの不条理に耐え切れなくなった時、世界を純粋に破壊し得る憎しみに身を委ねるしかない。
 もしくは自死を希うしかない。
 たとえ、天国、地獄があっても地上的な死別が哀しく空しいのに変わりない。
「私は弱い。余りにも弱すぎる。神に逃げている。だからこそ強大無比な力を欲するのだ」
「弱いのは悪いことなの?」
「世の価値基準は強さで計られる」
「それは世の中の基準だよ。僕達の、信徒達の基準じゃない。弱い? 善いじゃない。弱くてなくちゃ解らないこともあるんだよ。君自身は強かったらどんな人間になっていたと思う?」
「悪魔の様に嗤って人を殺す人間になっていただろう」
「だったら弱さそのものに感謝すべきだよ。お父様が君をそう造り上げたんだ」
「そんなもの何もならない! 私が微かな苦難を背負ったところで周りの苦難が解決したか? していないだろう! 命は不平等だ! 神は生かすべき生命を生かしていない! 私の周りのもの達は失われていくのに私だけ生き長らえるとはどういう道理だ! 私! 私こそ世を去るべき罪人なのに未だ刈り取られないとはいかなるご意志だ!」
 細く、か細く声を振り絞った。
 そして、少年に怨嗟の視線を向け、呪詛の様に言い放つ。
「生きるとは呪いそのものだ。奪うなら何故与えた? 愛など知りたくなかった。悪魔の様に嗤って人々を殺して生きたかった」
 少年は厳かに答える。
「正しき道を示され、それでも守れない。じゃあ、君の人生とは何なの? 君以外のもの達はどうでもいいのかい? お父様が君にどれ程慈悲を示したか君は知りながら不平を述べるのかい? 愛したものさえ君の為に生きてくれるならどうでもいいのかい?」
 答えは問いそのものだった。その問いは最も聴きたくない問いだった。
 自己満足だ。自分の愛とは所詮そんなものなのだ。だからこそ神に対して畏怖を覚える。少年は神が慈悲深い方と示す。確かに神は慈悲深い。こんな障がい者である自分にも人並みの生活を与えてくれるのだから。
 だが、世界を見渡すと、周囲を見渡すと皆が皆各々苦しみを抱えている様に見える。教会とモスクの関係は宗教的価値観の相違から仲違いしていると思われがちであるが、根本には貧富の格差が存在している。
 そして、それ以上に愛が欠落している。
 我々は果たして隣人を愛せているだろうか? 自分さえ良ければそれで良いのではないか。もっと言ってしまえば自分と周りのものさえ良ければ良いのだ。
「あんたの言う通りだ。私は怖いのだ。この世にいる以上、いつか全てを失う。愛するもの達さえも」
「でも、だからこそ天国は存在するんだ。別たれたもの達が再会する楽園としてね」
「皮肉なものだ。信徒でもある私が来たるべき御国より現世に執着するとは。だからこそ不信仰者と看做されるのか」
「本当に信仰を持っているのは主だけだよ。どんな存在でも造られたものは完全な信仰は持っていないよ」
 少年なりの慰めは微かに自分の心を鎮めるのに十分だった。信徒は己の惨めさを自覚するのは信仰の健全の証であると言われる。
 だが、苦痛に満ちた生の中でそれは呪いにしか感じない。それを祝福と感じるなら聖パウロの域さえ超えてしまうだろう。
 苦難を噛み締めよ。その意義の答えは見付けることは難儀である。しかし、神を放棄するより未だましである。恩寵、信仰、そして善行の内に留まれ。そうすれば、自ずと答えは近づいてくるであろう。
 だが、その答えに辿り着く前に心が死ななければ良いが。今日、自分を含め世界のあらゆるところで罪の萌芽が見て取れる。
 恐らく、この時代は境目なのだ。一つの時代が終わり、次の時代が来る。もしかしたら、次の時代はより暗い暗黒郷になるかも知れない。その候補の一つである中華帝国は自らの民族の優位性を掲げて強い経済力で各国の政治力に介入し始めている。既に中華国は二つの大陸を手中に収めていると言って過言ではない。
 戦後七十年以上、表面上は平和に見えたこの国が今大きく揺らいでいる。
 中華国は一衣一帯経済圏を築き上げようとしている。英国の欧州連合の分離も係わっていたかも知れない。世界を二分するつもりなのかも知れない。実際、中華国の情報だけ入手困難なのだ。どうにも中華国は隠しごとが好きな様子だ。この国以上に闇が深くあちらでは教会すらも大迫害されている。十字架の出版物は禁止されているし、教会そのものが党本部の意向で破壊されている。日本から派遣された教会関係者はその多くは逮捕され、尋問や拷問の類を受ける。そうすることで中華国内に潜伏している信徒を炙り出そうとしているのだ。不可思議なことにこれらはこの国ではあまり大きな話題にはなっていない。裏を返せば、この国は中華国に大きく発言する力を失ってしまったのだとも言える。
 それを都合良く捉えた中華国は積極的に信徒を迫害している。事態を憂う旧教会が使節を派遣する程、事態は深刻なのだ。そもそも旧教会本国と中華国の間に国交がないにも係わらずだ。
 これ程大きな歴史のうねりは久しいものだろう。第二次世界大戦が同盟国を覇権国足らしめた様に世界の君主国も変わりつつある。
 だが、その中で自分の出来ることなど高が知れている。仕事をし、教会の礼拝に参加する位なものだろう。時として世の中のメッセージを軽く発すること位だ。前は人類を恣意的に操作する計画について触れたが、どうも世の中の事態はそれより深刻らしいと視得る。次なる覇権国家が台頭している時代に自分が出来ることはないに等しい。
 実際。中華国の情報管理は完璧に等しい、技術を一切漏らさない、同盟国とほぼ同じ技術水準に到達しているにも係わらずだ。現実的に視て中華国が世界の経済君主になるのは十年と要らないだろう。信徒を弾圧する国ではあるが、経済的には栄えているのは事実だ。この時代は教会の黄昏に近いものだ。五百年以上繁栄していた教会が共産主義に取って代わられる。
 自由と平等の時代の喪失。民主主義の崩壊。一つの時代の終わり。今の時代がそれだ。
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登場人物紹介

ジ・オーダー……『秩序』にして『命令者』、『注文』の『騎士団』とも揶揄される存在。

子冬……少年と共に『全てに救い』を探求する者。気弱で病弱、心の病んだ者。 

少年……子冬に『全てに救い』を指し示し、共に道を歩む者。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

ウォリアー……同盟国の重要人物にして『使徒』でもある。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

毛……中華帝国の建国時のメンバーの一人。穏やかな性格で理想主義者でもある。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

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