幻紫蝶

エピソード文字数 1,013文字

 ある日の昼休みの時間に、ぼくは木造校舎の廊下を独りで歩いていると校内で最も美しい同級生の深崎喜世子(ふかざききよこ)とすれ違った。すると、一羽の蝶々がどこからともなく、ひらひらと舞い降りてきた。その蝶々はぞっとするくらい真紫だった。ぼくは「うっ」と思わず足を止めて、その蝶々に視線を移した。その時だった。それまで優雅にひらひらと落ちてきた蝶々が眼にも止まらぬ速さでぼくの鼻穴に飛び込んできた。「くっ、くさい」ぼくは低い叫び声をあげて、鼻をつまもうとしたが、その暇はなくぼくは強い衝撃を鼻に感じて思わず千鳥足となった。

 これが、たった一瞬の出来事なのである。深崎喜世子はぼくをみて、にやりと微笑んだ。なんともいえない不吉な予感に背筋がぞっと凍るように感じた。

 ぼくは再び黙ったまま歩いた。
 錯覚だったのか。でも、あれはたしかに蝶々だった。いや、あれはただの紙屑だったのかも知れない。蝶々が鼻穴に飛び込んでくるわけがない。いや、そうではない。この眼ではっきり見たのだ。紫の蝶々だった!

 どこをどう歩いたのか、いつの間にかぼくは真っ暗な音楽室へ通ずる廊下を歩いていた。ぼくはそっと手を鼻にあててみた。ここへあの紫の蝶々がぶつかったのだ。まだありありとあの時の鈍い衝撃波が残っている。ぼくはその日、彼女のことばかり考え続け授業を受けてもさっぱり頭に入らなかった。

 この時からである。すべてのものが粉々に破壊され、ぼくが彼女の下僕としての人生が始まったのは――。

 紫の蝶々の幻想が毎日着実にぼくの精神と肉体を(むしば)んでいった。紫の蝶々から必死に逃れようと思って、ぼくは「忘却の彼方」へ置き去りにしようとしたが、忘れようとすればするほど、記憶はいよいよ鮮やかに蘇る。ぼくはもう完全に紫の蝶々の幻想から逃れることが出来なくなった。深崎喜世子は紺色の競泳水着を着たまま毎晩ぼくの夢枕に現れる。豊満な胸と尻を包み込み美しい流線型を描いた彼女のからだは妖艶なスポーツカーのボディのようだった。なぜかぼくは、降参の旗色と同じ白いブリーフだけを履いていた。そして、彼女は月光に照らされたまま氷のような冷たい表情で、ぼくの耳元でそっと囁くのだ。「ウフフフ……頭蓋骨固め、袈裟固め、飛龍裸絞めで、貴方をたっぷりと可愛がってあ・げ・る」

 
 ぼくは虜になった――汗ばんだ彼女の腋からあらわれた幻の紫の蝶々に……
 


 
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