☆☆☆

文字数 9,191文字

 西瓜の香りがする。
 文芸部員としては、ここは「密なる大気がその内に西瓜の芳香を孕んでいる」とか、「雨に濡れた木々の葉に西瓜の匂いがそっと寄り添っている」なんて言い回しを使えば様になるんだろうなと思わなくもない。
 けれども、今はシンプルに「西瓜の香りがする」って言った方がしっくりくる。
 幼い頃からそうだった。この季節、雨が降る時には決まって西瓜の香りを感じる。
 赤く熟れた切りたての、瑞々しい果肉の香り。何故なのかは知らない。人一倍鼻が利くほうでもないのだけれど、わたしの嗅覚は確かにそんな香りを感じている。
 明け方から降り始めたらしい雨はまだ止まない。
 天気予報では雨脚は次第に強くなり、夜中まで降り続けると言っていた気がする。つまりは一日中ぐずついた天気というわけだ。
 雨の降る日は天気が悪いと言うけれど、わたしはそうは思わない。アマガエルもたまには天然水百パーセントのシャワーを浴びたいだろうし、プラタナスの並木だって水遣りをして欲しいと思っているに違いない。
 全国を周りながらアマガエルに一匹一匹シャワーを浴びせる人や、ジョウロを使って並木に一本一本水をあげる人なんて見たことがない。
 だからたまには雨の日だって必要なのだ。
 なんてことを思いながら、ぼんやりと窓の外を眺めていると、授業に集中していないことを見透かされたのかいきなり指名された。
 よりによって苦手な積分の問題だ。
 スカートの裾を揺らさないよう出来るだけ優雅に立ち上がって、ええ今は数学の時間ですといった顔つきで黒板まで歩いて数式とにらめっこをしたけれど、解答は出てこなかった。
 数学教諭があなたは持ち時間を使い切りましたという風に、手のひらを差し出して着席を促す。手の中に短く縮こまったチョークだけが残った。
 雨の降る日は決して天気が悪いわけではない。
 しかしながら、雨の降る日に運の悪い出来事が起きることもある。
 人生最悪の出来事というわけでもないのだけれど。

 放課後の校舎に人通りが少ない。いつもは遠慮会釈なく響いてくる吹奏楽部のパート練習も聞こえてこない。流石は試験前日だな、と呑気なことを思いながら渡り廊下を歩く。
 北校舎の階段を上履きの靴底を鳴らさないように上がって、真っ直ぐに続く廊下をゆっくりと進む。別に咎められるようなことはしていないけれど、派手な音を立ててはいけない。何故って、わたしがそう決めたから。
 案の定部室の扉は施錠されていた。鍵は職員室にある管理ボックスの中で、試験前なので正式に申請しても使用許可が下りるはずはない。
 仕方ないなあ、と心にもないことを思いながら合い鍵を取り出す。わたしたち文芸部員に代々伝わる、この世界に二本しかない合い鍵のうちの一本だ。先輩方に感謝しながら解錠して、これまた音を立てないように中に滑り込む。
 地区随一の蔵書量を誇る書棚の前に立って、スクバの中から美咲から託された手紙を取り出す。少し癖のある字が語り掛けてくる。

――天より下りて四界に遊び 地より四層重なりて座す

 大仰な言い回しだけれど、書架は七段あるから要するに真ん中の段ということだ。

――刻は弓手より行き過ぎ 蠍座の月三の日

 弓手、というのだから左から始めればいい。蠍座は十月二十四日からだからそこから三日目。一年に当てはめてざっと計算して、左から二百九十九番目になる。
――汝の求める物は其処に在るであろう わっはっは

 最後の笑い声は余計な気がするけど、美咲らしいといえば美咲らしい。
 よし、と軽く気合いを入れて、棚の中段に収められた本を左から一冊ずつ数えていく。二冊ずつ数えてもいいのだけれど、先を急ぐのは何だかもったいない。海賊の隠し財宝は困難の末に勝ち取るものなのだ。
 順番に背表紙の列を辿っていると、ふと「図書館は巨大な霊廟だ」と言ったのは一体誰だっただろうかという思いが頭を過ぎった。
 古典とか名作と呼ばれる本の著者のほとんどは亡くなっている。本の中にはもうそれ以上進むことはない思考や想いが綴られている。形になってしまってから、流れる時間が止まっているという意味では、存命している著者の本であっても同じことだ。
 図書館が霊廟ならば、本の背表紙は墓銘碑なのかも知れない。
 などと脈絡もなく考えていたら、うっかり数え間違いそうになった。慌てず慎重にいかなくては。見つけ損なって最初からやり直しなんて美しくない。
 根気は最後まで続く。と思っていたのだけれど、二百八十を数えた辺りで急激に萎んでしまった。このわたしとしたことが、美咲の術中に見事にはまり込んでいたことに気が付いてももう遅い。
 十九冊飛ばして目的の本の天に指を沿わせる。何ということはない。目指す宝は、書架の右端に素知らぬ顔で立っていた。美咲の手紙の末尾に書かれた「わっはっは」という笑い声が、彼女の声で脳内再生される。
 ええい。悔しい。
 それでも宝物はもうこの手の中にある。ずっとずっと読みたいと思っていて、探しても探しても自分では中々見つけられなかった本、アントニオ・ヴァレッリの『修道女ロクサーヌの述懐』。とうとう美咲が見つけてくれたのだ。
 表紙を開いて扉をめくるのももどかしく、目次など飛ばして本文に目を走らせる。喉がごくりと音を立てる。視線が泳ぐ。身体が震え出す。一瞬息が止まる。
 そして、堪らずわたしの口から、ふえあ、という声が漏れる。
 や。ら。れ。た。
 何ということだろう。わたしは文字通り穴の開くまで紙面を見つめた。
 ページに連綿と印字されていたのは。

――くんくんぺろぺろしたい

 その一文だけだったのだ。

 少女が大気圏を突き破って地上に激突した。それも派手なスクリーントーンの背景とマーチと御神輿わっしょいを従えて。最初の印象はそんな感じだった。
 入学式を終えて各自教室に入り、担任の到着を待っている時、彼女は教室の後ろ扉をスパン、と文字が浮かび上がりそうな勢いで開けて現れた。
「いやあ。あたしが乗るはずだった電車が、許可してないのに目の前でドア閉めて勝手に発車しちゃったんだよねえ」
 明るい声に思わず噴き出した。それってつまりは電車に乗り遅れたってことじゃないの。そう突っ込みたかったけれど、それは自重した。
 肩の上で切り揃えられたショートボブがサラサラと揺れていた。彼女は特に悪びれる風もなく、自信たっぷりに机の間を一つだけ空いている席に向かって歩いた。
 わたしの席の隣を過ぎる辺りで白いものがひらりと床に落ちた。ハンカチだった。四つに折りたたまれた布地の端に、少し癖のある字で名前が書かれていた。まるで少女漫画や少年マンガのボーイミーツガールみたいな展開だな、と思いつつも、拾い上げて彼女に手渡そうとした。
「落ちたよ。えと。ワタヌキ……四月朔日さん」
 その時、彼女はわたしの方を向いて、にぱあ、と本当に音が出そうな顔で笑った。
「あたしの名前をすんなり読んでくれるなんて、あたしって有名人?」
 文学少女なのだ。舐めてはいけない。難読名字なんかお手のものだ。(さっか)から旦来(あっそ)まで抜かりはない。ひいては不来方(こしかた)なんかも楽々読み下せる。だからといって自分の子供にキラキラネームなんか付ける気はないけど。
「名前は?」
 彼女は真っ直ぐな眼差しで訊いた。
「わたし。霧島紗綾」
「あたしは美咲。よろしく」
 少し躊躇ってから、彼女の差し出した右手を握った。しっかりとした力がわたしの手のひらを握り替えしてきた。眼差しと同じく真っ直ぐな力だった。
 そんな風にしてわたしと美咲の時間が始まったのだ。

 カストルとポルックス。連理の枝。比翼の翼。割れ鍋に綴じ蓋。恋人とも夫婦とも違うのだけれど、美咲とわたしは幼馴染みのように馬が合った。性格も背の高さも食べ物の好みも普段聴いている音楽の趣味も別々なんだけれど、不思議と衝突することは少なかった。
 シェル・シルヴァスタインの絵本に『ぼくを探しに』というのがある。一切れだけ切り取られたピザのような形をした主人公が、足りない自分の欠片を探して旅をする話だ。
 あちらこちらと彷徨った末に、自分にぴったりと合う欠片を見つけた主人公は自由自在に転がることを覚える。美咲と出会ってからのわたしはそんな感じだった。
 笑わせたり笑わされたり。教えたり教えられたり。支えたり支えられたり。いや。わたしの方が支えられることがずっと多かった気がする。
 愛用のカナル型イヤホンをわたしにプレゼントしてくれたのは美咲だ。
「はい。これ」
 出会ってからまだ日の浅い頃、美咲は朝の昇降口でさりげなくわたしに包みを渡した。
「え? 何?」
「うん。誕生日プレゼント」
「誕生日って……。わたしの誕生日は今日じゃないし、まだずっと先だよ?」
「いいのいいの。今日渡したかったからそれでいいの」
 何だか強引に押し切られてしまった。
「ね。開けて開けて」
 そうわたしに促しながらも、美咲は自分で包みに手を掛けてどんどんパッケージを開いていく。美咲は瞬く間に束ねられたコードを解いて、わたしの両耳にイヤーピースを差し込むと、ふわっと微笑んだ。
「うん。似合ってる」
 わたしはされるがままだった。美咲は納得したようにうんうん頷いてから、左耳に繋がるコードを引いてポンとL側のイヤホンを外すと、わたしの後頭部にそっと手を添えて少しだけ右向け右させてから低い声で囁いた。
「これなら不自然じゃないでしょ?」
 その言葉の意味に気が付いた時、わたしの目は中秋の名月よりもダチョウの卵よりも丸くなっていたに違いない。心臓がトクンと音を立てた。
 美咲はほんの数日わたしと過ごしただけで見抜いていたのだ。無意識のうちにも繰り返してしまうわたしの癖の原因に。
 わたしの右耳は少し聴力が弱い。咄嗟の時だったり、誰かの話を集中して聞こうとする時、わたしは首を右に軽く倒して左耳を相手に向けてしまう。
 その音を拾おうとする仕草が、理由を知らない人の目には、まるで小動物が小首をかしげるように映るらしい。
 あざとい。媚びてる。自分で可愛いと思ってる。
 中学の時は陰で散々に言われていた。日を重ねるにつれ、自分から弁解しようなんて気持ちは起こらなくなっていった。それでも少しずつ心に刻まれていく傷が痛んだ。
 高校デビューしてから中学の同級生たちは少なくなったけれど、また同じことが続くことは予想出来た。
「じゃ。先に行くね?」
 美咲は身を翻して歩きだした。ショートボブがしゃなりと揺れた。わたしはしばらくその背中を眺めてから、ふう、と一息ついてから教室に向かった。
 お節介だなんて思わなかった。押しつけがましいとも思わなかった。それよりも、ああ、彼女は誰かに嫌われるかもしれないなんて全然気にしなくって、自分の思った通りに行動する人なんだ。そう思った。

 木の下を通りかかると、時折枝葉に溜まっていた雫が纏まってこぼれ落ちてきて、傘を持つ手にリズミカルな振動を伝えてくる。
 篠突く雨というわけでも土砂降りというわけでもないのだけれど、雨脚は結構強い。履き慣れたローファーにも降り注ぐ雫が、皮の縫い目から中に忍び込んでくる。
 校門を過ぎ、敷地の境目に巡らされたフェンスを辿り、学校裏のいつもの公園へと向かう道すがら、わたしは美咲の渾身の作を読み続けた。

――くんくんぺろぺろしたい くんくんぺろぺろしたい くんくんぺろぺろしたい くんくんぺろぺろしたい

 文面はその一文の繰り返し。それでも決して飽きることはない。美咲は知っているのだ。わたしが紙面から何をどれだけ読み取ることが出来るのかということを。
 このページは四十字×十六行、フォントはリュウミンR‐KLで文字サイズ十二Q。こっちのページからは、四十二字×十七行、フォントが石井中明朝体OKLで文字サイズ十一・五Q。そして今度は四十二字×十八行、フォントは凸版明朝体W3で文字サイズが八・五ap。様々なライトノベルレーベルの書式が使われている。
 舐めてはいけない。わたしは古典名作、純文学からライトノベルまで活字については雑食性なのだ。悔しいか、美咲。
 水溜まりを一つ迂回しながら、それにしても、と思う。本当によく出来ている。中身もさることながら、紙質も装丁も市販されている有名出版社の文庫本そのものだ。本が出版される前に、中身を白紙にして装丁見本が作られたりするのだけれど、美咲はそれをどこからか手に入れてこんな風に仕上げたのだろうか。それとも同人誌専門の印刷所に細かく指定して発注し、ワンオフで作り出したのだろうか。
 そのどちらもあり得る。美咲はこういったことをするのに労力は惜しまないし、大真面目に巫山戯るのにお金を掛けることを躊躇わない。

――くんくんぺろぺろしたい くんくんぺろぺろしたい くんくんぺろぺろしたい くんくんぺろぺろしたい ぺんくんぺろくろしたい くんくんぺろぺろしたい ろんくんぺろぺくしたい くんくんぺろぺろしたい

 御丁寧なことにところどころ文字を入れ替えている。なんなんだ。ぺろくろって。ろんくんぺろぺくって。この戯け者。
 これが本当に、長年修道院で厳格な生活をしてきた修道女の最期の述懐なのだとしたら。何だか笑える。
 雨の公園には人っ子一人いない。わたしは藤棚の下に入って傘を畳んでお気に入りのベンチに座る。ひんやりとした感触が、プリーツスカート越しに伝わってくる。腰を落ち着けて美咲の本をまた読み始める。
 ゆっくりとした時間が過ぎていく。

 遠くから五時の時報を伝える市役所のサイレンが聞こえる。「七つの子」のメロディが、もうお家に帰りなさいと告げてくる。紙面から顔を上げてみる。
 もう半分は読み終えただろうか。古印体と隷書の入り交じった文面に少し目が疲れてきた。
 わたしは制服のネクタイを外して傍らに置いてから、湿り気を帯びたローファーを脱いで足を伸ばした。
 目を閉じて少し上を向くと、棚を覆う藤の葉の隙間から、ぽつり、またぽつりと落ちてくる水滴がおでこに当たる。何だか心地いい。
 しばらくそうしてから、ポータブルプレーヤーの電源を入れてみる。臨場感たっぷりのピアノ曲が再生される。やっぱりこのイアホンは高性能だ。
 こんな日にはショパンがよく似合う。間違ってもモーツァルトなんかではない。そもそもわたしはモーツァルトが苦手だ。嫌いなんかじゃないけれど、好んで聴く気にはなれない。
 その理由を前に美咲に訊かれたことがある。
「だって。春の田んぼみたいなんだもん」
わたしの答えに美咲は首をかしげた。
「春の田んぼ?」
「うん。オタマジャクシがうじゃうじゃ」
「オタマジャクシが。うじゃうじゃ」
 わたしの言葉を繰り返してみてから、美咲はケラケラと愉しそうに笑った。
「音符が。多いって。ことね?」
 息継ぎをしながら美咲はそう言った。
「ピアノの下にバケツを並べとくと見る間に一杯に」
「真っ黒なオタマジャクシがぴちぴちびちびちびち」
 想像してしまったらしく、美咲は伸びやかな身体をくねらせて笑い続けた。
 それから美咲はモーツァルトの曲が流れたるたびに、一緒に入った喫茶店でパフェを頬張っている最中も、映画のシリアスなシーンの真っ只中でさえも「ぴっちぴっちぴっちぴっち」と口ずさむようになった。
 ひょっとするとよくない影響を与えたかも知れない。ちょっとだけ反省している。わたしも一緒になって口ずさんでいたんだけれど。

――くんくんぺろぺろしたい くんくんぺろぺろしたい くんくんぺろぺろしたい したいったらしたい くんくんぺろぺろしたい はすはすれろれろもしたい くんくんぺろぺろしたい くんくんぺろぺろしたい

 一枚一枚とページの残りが少なくなっていく。何だかもったいなくて、ページを繰る手の速度が落ちてしまう。味わっていたい。このままずっと。
 それでもいつか終わりはやって来る。
 プレーヤから流れる曲の変わり目と、最後のページをめくるタイミングがぴったりと合わさった。もちろん申し合わせたわけではない。偶然と言えば偶然。それは分かっているのだけれど、そこに何かの必然があるようにも思えた。
 最後のページには紙の真ん中に一行、それまでとはほんの少しだけ違った言葉が横たわっていた。

――くんくんぺろぺろしたい?

ショパンの「エチュード十の三ホ長調」がページの余白を埋めていく。こんな時にこの曲だなんて、もし神様がいるのだとすれば悪戯にも程がある。一体誰なんだ。「別れの曲」なんて呼び名を付けたのは。

――くんくんぺろぺろしたい?
――くんくんぺろぺろしたい?
――くんくんぺろぺろしたい?

 クエスチョンマークが語り掛ける。美咲の声が蘇る。
 うん。したい。したいよ、美咲。美咲と一緒に。

――ずっとずっと紗綾をくんくんぺろぺろしたい。

 涙は流れなかった。だってあの日に全部流してしまったのだから。

 ノックをしてから、なるべく音を立てないようにドアをそっと引いた。中に入り、わたしの手を離れたドアがのっそりと後ろで元の場所に戻っていくのを感じながらゆっくりと近づく。
 まるで世界一まずいケーキを口に突っ込まれたような、芥川龍之介の肖像写真よりも不機嫌で凶悪な顔がこちらをにらみつけていた。
「似合ってるよ」
 わたしの言葉を聞いても、美咲はハシビロコウのマスクを被ったまま、はい、わたしは本物なのですと言わんばかりに身動き一つしなかった。
 ここは根比べかな、と半ば諦めかけた時、美咲の右手が素早く動いた。
「どうだ」
 マスクを剥ぎ取った美咲が得意そうな顔をする。おでこに「まるがりーた」と書かれた冷却シートを貼り付けてそんなこと言われても返答に困る。
「こんなのもあるよ?」
 美咲は細くなった手で今度は「パイパン」と書かれたシートに貼り直してみせる。流石に噴き出した。
 わたしはスツールを引き寄せてベッドの横に陣取った。
「いい子にしてた?」
「そりゃもちろん」
 スキンヘッドになった美咲が微笑んだ。
「本格的に薬物治療始めるんだ。まだらになっちゃったらいやだから。看護師さんに頼んでやってもらった」
「そうなんだ」
 ショートボブも似合っていたけれど、これはこれで素敵だ。わたしは遠慮せずに美咲の頭を撫で回しながら訊いた。
「ドナーはまだ見つからないの?」
「うん。中々ね」
 美咲は自分にも言い聞かせるように答えた。声は震えていなかった。
 それからしばらく他愛のない話をした。面会時間のぎりぎりまで、地球に住んでいる人たちの大半にとって、実にどうでもいい話をし続けた。
「由貴」
「ん?」
「あたしね。一つだけ心残りなことがあるんだ」
「何?」
 美咲は少し枯れた声で呟いた。
「バージン捨てられなかったこと」
「ほほう」
 そう応えるしかなかった。それはそうだ。他に何と応えればいいのだろう。
「別に気持ちいいことがしたいとか、あたしたちの年頃ならみんなやってることなのよとか、そんなんじゃないんだ」
「うん」
「あたしの臍帯血をね。使ってもらいたかったなって」
「そう」
 こんなになっても、移植治療を必要とする名前も顔も知らない誰かのことが考えられるんだ。美咲らしい。本当に美咲らしい。
 そのまま美咲は少しうつむいて黙り込んでしまった。美咲の両目がわたしの腰の辺りを見つめたまま動かなかった。病室の中はあまりにも静かで、点滴の音が聞こえる気がした。
「美咲?」
 返事はなかった。
「美咲?」
 もう一度呼びかけた。
「うん……」
「どした?」
「うん……。こうして見てるとね」
 美咲はわたしのスカートを見つめたまま言った。
「見ている間に由貴の股間からニョッキリ生えてこないかと思ってね」
 わたしが美咲のつるっぱげ頭に空手チョップを繰り出そうと腰を浮かせるのと、「ごめん」と美咲が頭を下げるのがほぼ同時だった。二人のおでこがゴンと鈍い音を立ててぶつかった。一瞬視界に白い光が走った。涙がにじんだ。
 二人でおでこを押さえながら笑った。美咲も、わたしも、痛くて可笑しくて涙を流して笑った。声を上げて笑った。涙はいつまでたっても止まらなかった。

 すっかりと暗くなってしまい、少し肌寒くなった。わたしは点った街灯の明かりをぼんやりと眺めた。プレーヤーからはイギリスのロックバンド,コールドプレイの「ウォーターフォール 〜一粒の涙は滝のごとく」が聞こえてくる。ピリオドになるよりはカンマになるんだって歌っている。
 空を見上げた。未だに雨を降らせ続ける鈍色の雲は闇にまぎれて見えなかった。それでもその上には星がきらめいているのだろう。
 思ってみる。星々の間を舞う美咲のことを。その名前の通り、天敵である猛禽類のいない空を思いのままに羽ばたく小鳥のように、自由気ままなその姿を。何だか少し羨ましくなる。

  屑の星 粒の星 名のない星々
  美しいものたちよ
  わたくしが地上の宝石を欲しがらないのは
  すでに
  あなた達を視てしまったからなのだ

 ふと茨木のり子の「夏の星に」の一節が頭に浮かぶ。
 わたしと美咲との距離は大きく隔たってしまって、もう同じ時間を過ごすことは出来ない。わたしがこの世を去ったとしても、美咲と同じ場所に行けるのかは分からない。
 美咲の遺した世紀の贋作を握りしめてみる。確かなのは手の中のこの感触だけだ。
 西瓜の香りがする。雨は強く降り続けている。
 ねえ。美咲。知ってる? 新鮮な鮎は西瓜の香りがするんだよ。赤く熟れた切りたての、瑞々しい果肉の香りが。だから漢字で香魚とも書くんだよ。
 わたしは想像する。この雨の中を鮎が群れなして泳ぐ光景を。その中をどこまでも歩いて行く自分の姿を。美咲が星の間を飛び回るのならば、わたしは雨粒の間で足を進めるんだ。
 うん。悪くはない。
 もう少しここで生きていける。
 わたしはそんな風に思うのだ。


※本文中のライトノベル文庫本書式・フォントについては宇佐見尚也さんの同人誌『ライトノベル×レイアウト』(2008年12月29日・NMTP・発行)を参照いたしました。
※本作のアイコンにアルフェッカさん(Pixiv ID=1879872)から画像をお借りしました。
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