第30話 松崎宿の長い白塀 久留米藩と松崎藩

文字数 1,447文字

桜馬場の途中に、間口の広い、長い白塀がある。塀の奥には、横に長い屋根の一軒家が
ある。多分、江戸時代には相当高い身分の方が住んでいたのだろう。
 この通りには人影はない、失礼を承知でお尋ねしなくては実態が分からない。玄関に向かい、呼び鈴を押した。鍵がかかり、なかなか応答がない。もう一度だけ押してみた。「ハーイ」と内部で声がする。玄関横には、大きな梁に彫刻がある。こんな作りは、あまり見たことがない。庭の玄関側と座敷側には白壁の内塀で仕切ってある。暫らくすると鍵を開け、長老の男性が顔を出した。九十歳は越えた品あるお爺様だ。
「宿場の歴史を伺いたいのですか」と訊く
と相手を値踏みするように、なかなか喋らない。土地の人の性格かなと思った。
 通りには商店もなく民家が両側に続くだけで、この家だけが蔵もあり白い塀もある。柳さんという方で、建物は百四十年前に建てられたそうだ。偉ぶりもせず「ただ古いだけの話です」と謙遜して言う。「昔は庄屋を務めていた、その先に久留米藩の一万石の出城があり、倉庫に年貢米を収納していました」後で、他の人に聴くと、この近辺の大地主だったという。
 元松崎城の近くに由緒板があった。○有馬藩の第2代藩主、有馬忠頼に子がなく、
○出石藩主(兵庫県)小出吉重に嫁いだ妹の子豊範を跡継ぎとし幕府に届け出た。
○その後、忠頼には頼利が生まれ、二代藩主忠頼が死んだ時、頼利が三代藩主となった。
○忠頼の遺言により、養子の豊範には一万石を与え、松崎に分家させた。
○豊範は松崎に館を作り、模範的な宿場を作った。
○豊範が、姉婿のお家騒動に巻き込まれ、幕府の怒りに触れ、松崎領一万石は没収された。
○豊範は久留米藩に押し込められ五十三歳で死んだ。墓は梅林寺にある。
 宿場に郵便局があり、ここが傳馬があったそうだ。馬継所の事に違いない。南に進むと街道は右に九十度曲がる、さらにその先で左に九十度曲がる。桝形構造が保存されている。
 石碑があり、柳家の軍人の功績が刻まれていた。偉い人の末裔に会え、話しを聞け嬉しくなった。お爺様は偉ぶらず、「もう古いだけです」という。しかし建物は、存在感があった。秋月街道はこの松崎宿が終点である。
秋月街道の下りにある宿場は、小倉・徳力・呼名・採銅所・香春・猪膝・大隈・千手・野町・松崎と十宿がある。
秋月城址には黒田藩の支藩はあったが、宿場はなかった。山の中を、行列を組んで歩き続ける街道は、基本的には現在の国道三二二号線が道筋であった。戦後の車社会となり、バイパスが建設され、旧道は切れ切れに存在するようになっている。いわば瀕死の状態で街道や宿場が生き延びている。
江戸時代から明治維新で革命が起き、政治体制が変わった。参勤交代が無くなり、宿場も大名行列が宿泊することもなく、存在価値が薄れてきた。現在はわずかな遺蹟が残って、面影も消えつつある。
宿場という、かつての賑やかな、店や人並みは、消滅してしまい。石碑の里程標だけが、在りし日の宿場の存在を思い起こさせる有様である。
世の中は変わっても、人間は世代を変え生き続けていく。宿場人の末裔の方が住み続けられている。古文書や遺品も所持されているようである。行政も歴史の重要性を認識し、宿場記念館を作り、後世に残していく努力が必要だと思う。
過去は消え去って行くのみである。しかし人類は過去の上に成り立つ。先人あっての現在である。歴史を大切にする心や教育は重要で必要なことである。
   令和四年九月     秋月街道 宿場の人々<完結>
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