文字数 2,424文字

 トーノと出会って一日目――その、出会う数分前。
 初めて学校をサボったオレは、立ち入り禁止の看板を踏み越え、とにかく誰にも見つからないよう奥へ入り込んだ。
 条件に合う木。それを探し求めて。
 理想的な木はすぐ見つかった。ロクに剪定されていないおかげで葉が生い茂り、幹も枝も申し分なく太い。
 ここにしよう。
 そう決めて学生鞄を開ける。弁当箱の横に丸めて束ねたロープがあった。家から持ってきたものだ。
 踏み台の代わりになりそうなものを探していると、ふいに後ろから声がかかった。

「ねぇ、そこの君。そんなことをする前に、ちょっと、俺の命を(たす)けてくれないかな」

 まったく予期せぬ他人の介入に、口から心臓が出るかと思った。
 振り向いて目を凝らすと、男が横たわっていた。そいつがトーノだった。
 咄嗟にロープを茂みの中に放り投げると、悪巧みを見咎められた子どもみたいにドキマギしながら返事した。
「そんなこと、って……?」
 見られた。止められる。理由を追及される。
 そう怯えていたのに、トーノは途切れがちに言った。
「そんなことはそんなことだよ……そこ、その辺にある、薬をとってくれないかな……」
「薬?」
「俺の命を繋ぐ薬なんだ。それを飲まないと、……っ!」
 トーノは胸を抑え、何かに耐えるように息を詰めて全身を強ばらせた。腹がめちゃめちゃ痛い時によくやるポーズに似ていた。
 苦しげな吐息に急かされて、オレはためらいつつも薬を探した。ヤツの言うとおり、ピンク色のピルケースが即座に見つかった。
 拾い上げると、恐る恐るトーノに近づき、「これでいいのか」と声をかけた。

「……飲ませ、て」
 紙のように白くなった顔で頼まれた。
 つるんとしたラムネみたいな薬を一錠だけ出すと、半開きになったトーノの口の中に入れた。紫色になった口唇に、指先が触れたのを覚えている。
 喉仏がゴクリと鳴り、胸が上下した。水がいるかと思ったが、無事飲み下せたようだ。
 しばらく苦しげに喘いでいたが、おもむろに呼吸音が正常になり、硬直していたその身体がゆるくほどけていった。
 ロウソクを吹き消すような細い息を吐き、トーノはまばたきを繰り返すと、ゆっくり上体を起こした。
 そしてぎこちない笑みを向け、

「どうもありがとう。助かったよ。君は命の恩人だ」

 演劇の台詞のような、虚構めいたお礼だった。
 落ち着いて見ると、その容姿も舞台俳優みたいに整っていることに気づいた。

「恩人さん、名前は? 俺は遠野永一郎」
「千風……享」

 夢かと疑うほど現実感の無い展開のせいで、頭がぼぅっとしていた。
 訊かれるまま答えると、トーノがちょっと驚いたように眉を上げた。
「ちか、ぜ。――可愛い名前だね。千風って呼んでいい?」
 名前ではなく名字の方を可愛いって言うのは、珍しいんじゃないか。
 この時点で、変わったヤツだという印象がついた。
 それに何だmさっきまで死にそうだったのにこののほほんっぷりは。元気じゃねーか。
 戸惑うオレに、
「千風は、何でこんなところにいるの? ここは病院の敷地内で、しかも立ち入り禁止区域だよ。無断で入ってきたのなら不法侵入で、警察を呼ばれてしまうよ」
 幼児を叱るような口調で、斟酌のないド正論を言われ、カチンと来た。救けてやったのにこの言い草。
「何だよ、口止め料でも払えってのか」
 そんな発想が出たのは、ひとえに前日の夜に起こった親との言い争いのせいだった。
 口止め料、つまり金。金、金、金! その圧倒的な威力に打ちのめされていたオレは、嫌悪感をめいっぱい込めて吐き捨てた。

「あいにくオレは金なんか持ってねーよ! ほら!」
 と言って鞄をわざわざ取りに行き、スカスカの中身を披露する。
 今朝は家族の誰とも顔を合わせたくなくて急いで出た。うっかり財布を入れ忘れ、教科書と弁当くらいしか入ってなかった。
「じゃあ、これで黙っておいてあげる」
 オレの剣呑な態度にも怯まず、トーノはひょいと弁当箱をつまみ上げた。
 母さんの手作り弁当。昨夜あんなに揉めたのに、オレはひどい言葉を投げつけたのに、母さんはいつもと変わらず用意してくれた。つい習慣で、ひったくるように持ってきた弁当。

「いいかな?」
 トーノが窺う。
「……いいよ」
 オレは微かな胸の痛みを覚えながら、そう答えた。

「いただきます」
 言うが早いか、トーノは遠慮なく弁当を食べ始めた。
 さっきまで死にかけていたくせに旺盛な食欲で、あれは演技だったのではと疑心暗鬼になった。
「うまいー。ハムの入った玉子焼き、甘ったるいミートボールに、ちくわきゅうりがうまじょっぱくて、ふりかけだらけの米も全部うまい。死に損なった後だから余計に」
 オレの心を読んだとしか思えない言葉に、ギクッとなる。
「さっきは本当に助かったんだよ。まだしゃべられるうちに服用できてよかった。俺、あの痛み止めがないと死ぬんだ」
 と、座り込んだオレの足元にあるピルケースを箸で指し示す。

 あっさりと出てきた『死ぬ』という単語。昨日までのオレの日常ではどうってことなかったのに、それは今や身近で、実感を伴っていた。
「痛すぎて死んじゃうんだよ。そういう病気で病状なんだ」
「病気……?」
「うん」
 あっけらかんとしすぎているから、まだ少し疑っているけど、どうしても訊きたいことがあった。

「……死ぬほどの痛みって、どんなのなんだ……?」
「うん? そうだなぁ、死ぬほどの痛みっていうより、死んだ方がマシな痛みって感じかな。痛いのから逃れたくて、身体が死ぬことを選ぶ、みたいな」

 その答えに、オレはしばらく動けずにいた。
 苦痛から逃れるために死を選ぶ。
 まさにそれは、オレのことだったからだ。

 そう。

 オレはその時、自殺しようとしていたんだ。
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