第9話

文字数 2,196文字

 そのお話は五年前のある日、突然誰かの頭に宿りました。
 少しして、また他の誰かの頭に。そしてまた。
 不思議なことに、そのお話を宿した人たちは誰もが、それがお方様から与えられたお話だと、少しも疑うことなく信じました。
 だからその人たちはそれをとても大切なお話だと、他の人たちに伝え、伝えられた人たちが更に他の人に伝え、瞬く間にこの狭い地下空間に広がっていきました。
 そしてそのお話に登場する一人の男性、それが選ばれし方です。
 お方様を救うために身を削り、ケガレに染まり、すべてを失いながらも進み続けたその男を、お方様は選ばれました。
 その選ばれし方は、お方様に力を与え、お方様は力を使ってこの世界を更に明るくし、そして僕たち子どもを生み、今に続くまで生み続けていると言われています。 
「それが本当にあったことだとしたらどうだ?」
 アトリの言うことがだんだんと怪しくなってきました。本の読みすぎで頭がおかしくなってしまったのでしょうか。
「アトリ、いいか。物を知らない俺だって、その話がただの作り話だってことくらい知っているぞ。大丈夫か?」
 アトリがジッと僕の顔を見ながらニヤリと笑いました。
「ある筋からの情報によると、五年前にお方様に起きた問題、それは選ばれし方が原因らしい」
 僕はたぶん、かなりけげんな顔つきをしていたと思います。
「選ばれし方とお方様が会って、お方様は力を得られた。それで地上に戻ることを志向されたんだ。だから思考の伝達を中断させられた。この地下都市を存続させたい人たちによって、強制的にね」
 相槌を打つことも忘れていました。内容があまりにも、自分の常識とはかけ離れた次元の話に思えて、何と答えていいのか、分かりませんでした。
「選ばれし方は存在する。どこかにいるはずなんだ。俺は見つける。そのためには地上に行くことも厭わない」
 この世界ではこんな思想はかなり危険視されます。お方様も不可侵、首脳部も不可侵、地上の話は厳禁、地上へ行くなんてもってのほか、それがこの国の常識なのです。
「なんでそんな話を俺に」
「イカル、お前には他の奴らにはない能力があるんだよ。自分で気づいているかどうかは知らないけど。お前は状況を見て、どうすればいいのかが分かる。それも自分のことだけじゃなく、みんながどうしたらいいのか、それを理解するカンみたいなのがある。だからお前はみんなを導くことができる。そして正しくみんなを導くには、いろんな情報を聞いておく必要がある。いろんな情報をもとに適切な判断を下すんだ。そのために、俺はお前に話をしている」
 自分の能力と言われても何ら実感がない話でした。ただアトリが僕を高く評価してくれているようなので、ちょっと嬉しく、ちょっと気恥ずかしい気がしました。

 アトリの部屋を出て、エレベーターに乗り込むと、少しためらった後、ツグミの名を唱えました。でもエレベーターは静かに停止したままでした。再びツグミの名を口にしました。しかし始動する気配はありませんでした。天井付近から音声が聞こえました。
「行き先を声に出してください。またはドアの横にある地図上の行き先に触れてください」
 ドア横のタッチパネルを見てみると、大まかな周辺地図が映っていました。しかし目的地はもとから分からなかったので、もう一度、名前を呼んでみました。でも動きません。再び音声が流れはじめたので、あきらめて自室に戻ることにしました。
“あいつ、また何かしでかしたのか?名前を変えた?まあどうせまた明日会える。明日会ったら少し文句言ってやろうかな”
 少しだけ落ち着かない気持ちを抱えて、僕は自室に戻っていきました。 

 この地下世界は、もちろん照明がなければ昼夜を問わず真っ暗になります。だからあたしが目を覚ました時も、周りは真っ暗でした。
 そしてやっぱり、ひとりぼっちでした。何の解決策も用意されていない状況でした。あたしの元気は少しずつ、休むことなく、身体のどこかから漏れていくように思われました。
 のどが渇いていました。お腹がすいていました。でも、どうしようもありませんでした。だからなるべく生きることを制限するしかありませんでした。なるべく動かないように、なるべく何も考えないように。でも、時々悪い予感が頭の中をよぎります。そんな予感がつのると気分が悪くなりました。しかたなく我慢の限界に達した時、部屋の隅だろう場所に這っていき、吐きました。と言っても空腹だし、のども乾いていたので、大した量をもどした訳ではなく、少し胃液のようなものを吐き出しただけでした。ただ、口からのどにかけて、言いようもなく不快な味が染みつき、しばらく残っていました。その味が、更にあたしの気分を落ち込ませたことを覚えています。
 とてもみじめな気分でした。このままあたしは、誰にも知られずに死ぬことになるのかもしれない。死んで腐りかけた頃に発見されて、その腐臭と醜い身体を人目にさらすことになるのかもしれない。 
 自分の生命力の低下を感じていました。怖かった。このまま誰もこなかったら、そう思うと怖くてたまりませんでした。ここで死ぬの?そう思うとごく自然にイカルの顔が脳裏に浮かんできました。
「助けてよ、イカル、助けてよ」
 その夜も泣きながら眠りにつきました。
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