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文字数 1,105文字

 モリスが思わず振り返ると、そこにしれっとレイモンドが立っていた。馬車はやってしまったらしい。

「すまないね。ちょっと試したんだ。悪く思わないでくれたまえ」

「つまり、あの、従姉妹というのは……」

「僕の従姉妹は領地に引っ込んでるよ。ロンドンには年に数回しか出てこない」

「ということは……」

「そう。僕が変装してたんだ。自宅と、勤め先の名は聞いていたから、通勤ルートを割り出すのは簡単だった。そこでひと芝居打ってみたのさ。コルセットやらカツラやら、あれでなかなか苦労したんだぜ。気づかれなかったところをみると、あんがい上出来だったようだね」

 なんということか。失恋もくそもない。最初から騙されていたというわけだ。
 横で様子を窺っていたライアンが、思わず笑い出した。

「な、なんで、そんなことを……?」

 真っ赤になりながらもなんとか質問をひねり出す。上出来もなにも……という恨み節は、喉元まで出かかったが、なんとかこらえた。

「ホッブス夫人は僕の母親代わりをしてくれた大切な人でね。ずる賢い人間とは関わり合いになってほしくない」

 レイモンドは、あっけらかんとしたものだった。

「ずいぶん凝り性なんですね」

「いやあ、なにしろ、退屈してて。社交界なんてのはどうにも性に合わなくてね。君たちみたいな人々を観察してるほうが楽しい」

「観察……。楽しい……」

 金持ちの道楽というやつなのだろうか。呆れて物も言えなかった。

「あ、それと、君、君」

 ひとしきり笑ったあと、仕事に戻ろうとしていたライアンに、レイモンドは声をかけた。

「君、僕と専属契約しないか」

「掃除人の?」

「違う違う。副業の提案だ。君はなかなかの観察眼を持ってると見た。定期的に、君が見た人々の話を聞かせてほしい」

 そう言って、チップ以上のコインを渡す。ライアンは目を見開きながら、頷いた。

「よしよし。これでしばらくは退屈しないぞ。モリス君、どうだい、仲良くしようじゃないか。そういえば君たちが行く、パブとかいう酒場。一度行ってみたかったんだ。連れて行ってくれないか。もちろん奢るよ」

 楽し気に言う姿に、モリスはとうとう呆れて、息を吐いた。
 貴族だの上流だのというのは、もっとツンケンとした高慢な人々だったはずだが、どうやらこの変わり種のお貴族さまは、庶民の生活に興味津々らしい。
 ある種の無邪気さに毒気を抜かれ、なんだかもう、騙されたと言って怒る気が失せた。
 それに、ライアンにも運がめぐってきたらしいのが、なにより嬉しかった。それでまあ、気乗りしないながらも、馴染みの酒場へと案内することにした。
 自分のおかしな失恋もどきの傷を癒すのにも、酒は必要だろう。
 たぶん。


<完結>
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