第十七章 ㉕
文字数 2,069文字
初めて見る、彼の、大泣きの姿。
それまで、彼が―配偶者が―、
自分を、あんなに『さらけ出した』のを
見たことはなかった。
だから、最初は、驚いた…。
だけど。
話を聞くうちに…。
ただただ、ひたすら、彼の勤め先―病院―
と、同僚医師、看護師、そして、上司達に
対しての、怒りが込みあがって、きた。
柳沼が話し終える頃には。
私の方が、興奮しまくっていた…。
怒り狂っていた。
本当に、顔すら知らない、名前だけは
知っているというレベルの彼の上司達、
そして、初めて聞く名前の彼の同僚たちに
本気で、『殺意』すら憶えた…。
でも、「殴り込み、行きましょ」とも
「弁護士に相談しましょう」とも、
私の口からは出なかった。
話終えて、うなだれ、玄関先で、
しゃがみこんだままの、彼を、私は、
バッと抱きしめて……、言っていた。
「あなた。もう十分よ!
あなたは、よく闘ったし、よく、もう、
やったわ!!
スゴイわ、本当に!
だから…。
もう、そんな、……クソ病院のことは
忘れて!
辞めちゃって!!
そして……。
どっか、一緒に、本当に、あなたの手を
必要としている患者さんがいるところに
行きましょ。
私、あなたとなら、どこでも、ゼロから
…やってけるわ。
私も、どっかに働きに出るし、これまでの
貯金もちゃんとあるから、大丈夫よ!」
本音だった。
それに、本当に、もう彼に、そんな
地獄みたいな職場に行ってほしくなかった。
それに、実際問題。
ある程度の貯えは、あったし。
少しの間なら、なんとかなるという見込みは
あったから。
それに、前から、明確にではないけれど、
ぼんやりではあるけど、彼との未来像を
想っていた…。
だから、初めて、『自分の(彼との)夢』を
明確に言葉にして、彼に言ってみた。
うんうん、あの時、ああいう状態だった
からこそ、言えたのかも。
だとしたら……。いいえ、だとしなくても
すべて益なのだけど。
彼の目をじっと見つめて、まだ若かった
私は言ったもの……。
「ねぇ。私ね、前から、時々だけど、
考えてたの。
いつか、あなたと一緒に、私の生まれた
愛媛の山奥の町に行って、自然の中で
ゆったりと暮らして、そこの町の人たち
向けの眼科医院を開業して生活したい
なぁ……って」
半分、自分の夢がやっと叶うかなと
ウキウキ…、まだ本当に若かった、20代
だもの。
そして、半分は。
そういう感じで言ってあげることによって
彼を、彼の気持ちを楽にしてあげたかった
……。
そうしたら。
彼は、すすり泣きながら、
「それも良いなぁ。
ありがとう……」って。
そして、縋り付いてきて…。
私は、初めて、縋り付いてくる彼を
本当に愛おしく愛おしく思いながら、
彼の背中を優しく撫でて…。
そうしてあげることによって、少しでも
彼の痛みを拭い去ってあげたくて。
それで、その日、その夜。
彼は、そのまま、泣き疲れたのか、
私の腕の中で、眠ってしまった。
私は、まだ、赤ちゃんを抱いたことも
産んだこともないけれど、まるで、
赤ちゃんを寝かすかのように、彼を、
そっと、横にしてあげて…。
布団をかけて。
彼の仕事用の鞄をしまって。
結局、彼は、翌朝まで一度も起きずに
熟睡してくれた。
それが、「せめてもの助けだよね」
と、私は思った。
起きていたら、アイツらのことを考えて
しまうし、そうでなくても、ハッと
奴らの顔が浮かんで、苦しむもの…。
どうか悪夢を見ませんように……と
彼の寝顔を見つめて、願いながら、私は、
一人で夕食を食べた。
そして、お風呂に入って。
そっと、眠りについて……。
結局、彼は、その晩、食事もお風呂も
ナシだったから。
翌朝。
私の方が、早く起きた。
ホッとした。
横の彼を見ると。
スースー寝ているから。
悪夢とかを見て、苦しんでいる様子も
ないし、寝汗とかも大丈夫だった……
気になってみて調べてみたけど。
そして。
彼は、いつも通りの時間に起きてきた。
お味噌汁を用意している私に、彼が、
声をかけてくる。
私は、振り向いて、伝えた。
そして、火を消して。
朝すぐに用意した紙と便箋を、彼に
見せた。
彼は。
「本当に、それで良いの?
苦しくなるよ、色々な意味で……」と
心配そうな顔で訊いてきた。
彼が、誰のことを想っているのか、つまり、
私のことを想って、「病院に留まろう」と
考えることはわかっていた。
もし、私が、「そうね。ここは、大人に
ならないとね」と言えば、彼は、自分を
殺して、医師としての正義も潰して、ただ、
愛する妻のため、奴らに頭を下げるだろう
ということも。
でも、彼に、そんな『選択』してもらい
たくなかった!
私は、心底、奴ら―病院長たち―に、
腹が立っていたから!
本当に、若かったなぁ。
だから、私は、ありのままの真意を
彼に伝えた。
「私は、大丈夫!
小さいころから、そういう環境で生きて
きたんだからっ!
それで、今、大事なのは、あなたの気持ち
なのよ」
彼は、意を決したように、ペンをとり。
そして、すぐに、その朝、朝食の前に、
彼は、【退職願】を書きおえた。
それから、私と彼は、普段ではありえない
『遅い朝食』を、一緒にして。
食べながら、今後のことを色々と
話したなぁ……。
(著作権は、篠原元にあります)