第三章 日本のガチンコバトル

文字数 7,321文字

第三章 日本のガチンコバトル

懍が言う通り、イーヨーは日本人の妻がいた。名前を阿部聡美と言った。イーヨーは妻の実家で暮らしていた。阿部家は、旧家を思わせる大きな家で、そのあたりで言ったら結構力のある家であった。

聡美は、保育士として公立の保育園で働いていた。クラス担任をしているわけではなかったが、年齢的に若いから、他の保育士からこき使われることも多く(正確には多いと聡美自身が思っており)、生活は決して楽ではなかった。まあとりあえず、夫のイーヨーも暴力的な人ではないし、自身の両親もいるので、まだ幸せなのかと思っていた。と、いうより、無理やりそう思っていた。

友人に生活がつらいと言えば、優しくておせっかいを焼くのが大好きな、外国人の旦那様がいるのだから、贅沢をいうもんじゃないと言われた。どうやら、彼のおせっかいぶりは、友人たちにも目撃されているらしく、ショッピングモールで、足の悪い人を手伝っていたくらい優しいのだから、あんたにも優しくしてくれるでしょ、とか言って、友人は自分の悩みを全くわかってくれなかった。他人に優しいのだから、あんたにはもっと優しいんじゃないのとか、そんな推測をしてくれたが、実は、これこそ聡美が一番つらいことであった。イーヨーは、懍がアーガハーン四世の教えであると解説した、互いに干渉しあわないという思想に凝り固まっていて、聡美の事にはほとんど構わなかったのであった。それは、確かに中東では、女性は男性の付属品程度しかみなされず、四六時中支配されているという現状がはびこっているので、そこから解放してくれるという点で、素晴らしい発想になるが、日本の聡美にはただ、放置されてしまっているしか、見えないのだった。それに、イーヨーが男性でも女性でも全く気にしないで誰にでも手を出すというところも、聡美には不満であった。しかし、年をとった聡美の両親は、他人を助けるというイーヨーを大いに賞賛し、今時の日本人にはめったに見られない特徴を持っているので、お前も見習えよ、なんてことを言っていた。

当然、イーヨーは、年を取って動き辛くなっている、聡美の両親にも積極的に手を出した。なんだか、自分の夫というよりも、両親の使用人という言葉がぴったりだった。

で、そのイーヨーが、日ごろから両親にばかり手を出していて、自分の下にやってくるのはめったにないにも関わらず、青柳懍という人が率いる製鉄所を手伝いに通うと言いだし、さらにはその近隣にある知的障碍者施設にも手伝いに行くと言いだしたので、聡美はさらに気が遠くなった。両親は、働き者の彼を大いに応援して、体に触るほどでなければ、手伝いに行ってもいいよ、と言ったので、彼はその日から、喜び勇んで働きに行ってしまった。そうなると、彼は終電に間に合わなくなったので、製鉄所に泊めてもらうことも多くなり、余計に聡美は寂しさを増した。それに、携帯電話とかスマートフォンも普及していなかった地域の人であったため、いくらメールを出しても返ってこないことのほうが多かったのだ。彼には、携帯電話を確認する習慣などまるでなかった。

聡美の保育士という仕事も忙しい仕事の一つと言えるが、ここがもしかしたら男女の違いなのだろうか、女性の聡美は、仕事で不満を持つと誰かに話したくなってしまうが、男性のイーヨーには、そういう気持ちは起こらないらしく、どんなに忙しくても平気で仕事をこなしていた。イーヨーに愚痴を言っても何も返ってこなかった。

休日も恐ろしく退屈であった。保育園は教育機関であるから、基本的に土日は休みである。中には、サービスで休日に開園しているところもあるが、公立の保育園であれば、そのあたりはまだ徹底していない。歳をとった両親は、趣味的な活動に没頭し、老人会などの仲間とカラオケに出向いたりしてしまって、外出していることが多い。聡美がどこかへ行くには、同年代の友人と行くしかないが、友人たちは聡美くらいの歳であると、大体子供を連れてどこかへ出てしまう。そうなると、夫であるイーヨーとどこかへ行くしか選択肢はないが、イーヨーは製鉄所で手伝いがあるからと言って、休日にも出て行ってしまうのだった。本人の話では、実家は農家だったので、農作業をするには曜日など関係なかったことから、休日をあまり特別な日であるとは思っていないとのこと。彼には、「土曜日曜は仕事をしない」という感覚は存在していなかった。そうなれば、聡美は休日何もすることはなく、自動的に洗濯や炊事などをやる役目を強いられた。年老いた両親や、夫であるイーヨーが、朝早くに出て行ってしまうと、聡美は部屋の中に取り残されてしまう日々だった。出かけると言ったら、近くへ食料の補給をするために買い物に行く程度であった。

なぜ自分だけこんな目に会わなきゃいけないんだろ、と考えることも多かった。ある新聞記事で、日本の女性の地位は、中東の女性とあまり変わらないという記事が載っていたことがあったが、そういう女性救済者がもっと増えてくれればいいのにと思った。

その日も、夫や両親が出かけてしまったのを「見送って」、彼女は一人で買い物に出かけた。

たまには贅沢してもいいじゃないと思って、近隣のスーパーマーケットはやめて、大掛かりなショッピングモールに出向いた。こちらの方が、人は多いし、様々な店はあるので、多少寂しさはやわらぐかもしれなかった。やってはいけないと知っていたが、安売りの洋服屋で、上着とスカートを買った。

聡美が、店の中をなんの目的もなくうろついていると、エスカレーターの前で、車いすに乗った男性が、こんな事を言っているのが聞こえてきた。

「ねえねえ、お願いだから二階まで上げてくれないかな。でないと、家電屋までいけないんだ。」

エレベーターを使えばいいじゃないか、と思ったが、エレベーターは故障中と貼り紙がしてあったのを思い出した。

「だって、エレベーターがいつまでも故障したまま直らないし、エスカレーターは登れないし、だったらあげてもらうしかないじゃないか。」

と、彼は引き続きそう言っている。殆どの人たちは、彼のこの訴えを無視し、あるいは聞こえていても聞こえないふりをして通り過ぎていく。

多分、夫であればすぐにああいいよと言って手を出すのだろうが、聡美はどうしても彼を手伝う気にはなれなかった。確かに女性が人間を持ち上げるのは、ちょっと難しいところでもあるので、それを利用して逃げることは可能である。福祉意識の強い女性であれば、自分ではできないが、できる人を探そうかなんて言う人もいるかもしれない。学校の先生とか、介護関係に所属している女性であれば、より迅速にそういう事ができるだろう。勿論、保育士も、子供を育てるというところでは、ある意味模範的な職種と言えるから、こういうケースには積極的にかかわろうなんて、普段は子供たちにもそう言っている。しかし、今回聡美は、そうしようという気にならなかった。

聡美が、黙ってその場を通り過ぎようとしたとき、聡美と同じくらい、つまり、夫のイーヨーと同じくらいの男性が、近くのお茶を販売している店から、つかつかと彼の前に現れて、

「いいえ、助けてもらえるという、甘ったれた発想はしないほうがいいですよ。」

と言った。聡美はその発言に興味を持ったので、しばらくその場にいた。

「何を言ってるんだ。甘ったれてなんかいないよ。僕らはどうやったってエスカレーターを上ることはできないんだから、できる人にお願いしているだけだい。」

彼も負けじとその人に言い返している。

「お願いをするのが間違っているのです。もともとあなた方は、誰のおかげで生かしてもらっているのか、をしっかり考えて、それに基づいて行動するべきですよ。」

と、その人は言った。

「へえ、じゃあ、僕が新しい電球を家電屋に買いに行くという行為もいけないのか?悪いけど、電球がなかったら、手元が暗くなって、作業もできないんだけどなあ。もし、君が言うように、悪事だというのなら、なんで悪事になるのか、説明してもらえないもんだろうか?」

「当り前じゃないですか。そうやって、障碍者の権利を堂々と主張すること自体、単なる甘えに過ぎないのですよ。いいですか、よく考えてみてください。あなた方は、ただ消費するだけで、それを作ったのは誰なのか全く考えていないで権利を主張するから困るのです。その車いすとかそういうものにしろ、すべて私たちが作ったものですよね。作った側からしてみれば、お礼の一言位あってもいい物なのに、全くそういう態度を示さないばかりか、それが当たり前だと格好つけて主張している。しかも、自分で行動することは何一つできないのに、です。ここを抑えていないから、そうやって甘えの発想が出てくるんですよ。いいですか、あなた方ができないことを、私たちは何十倍も苦労してやっている。あなた方は、それをただエサを与えられるカッコーのひなのように、みんな持って行ってしまうでしょ。そこを理解してくれれば、ご自身がどういう風にふるまえばいのか、くらいわかると思うんですけどね。」

その男性は、教育者のように語り掛ける。聡美は、その話を聞いて妙に納得してしまった。

「そんなこと知らないよ。とにかく、僕の問題は、新しい電球を買いに行かないと、台所が暗くて晩御飯の支度ができないこと、電球を買うには二階の家電屋に行かないといけないこと、そして、エレベーターがぶっ壊れているせいで、二階へたどり着けないことだ。権利も何も関係ない。ただ必要なだけ。誰のおかげなんて考える暇があるなら、早く台所に電球をつけて、晩御飯を作ることのほうが先。そのために電球を買いに行くだけだ。その、どこが悪いというんだよ。」

「なんですか、障害のある癖に、我々と同じように考えられては困りますな。」

「同じようにって、同じも違いも何もないよ。晩御飯を作らなかったら、僕も母ちゃんもご飯が食べられなくなるだろ。そのためには電球で台所を明るくしなきゃいけない。その電球が切れて新しいのを買いに来た。まさか、障碍者は真っ暗やみの中でご飯の支度をしろ、とでもいうのかよ。」

「はい、まさしくそうしなきゃいけないのではないでしょうか。それこそ、あなた方が誰のおかげで生きているのか、を自覚するいい機会では?いいですか、この際だから言っておきますが、あなた方は税金で食べているようなものですから、その税金は誰が支払っているのか、しっかり自覚して感謝するべきでしょう。それもわからないのでは、頭が悪いとしか思えませんね。」

「税金なんてどうでもいいよ。払える人が払えばそれでいいでしょ。それよりも電球を買いに行きたいんだけどな。でないと、晩御飯の時間に間に合わなくなっちゃうからさ。こんな無駄話は、時間の無駄だぜ。」

「はあ、わがままな障碍者もいるもんだ。全く、社会の恩恵をこれだけ受けておきながら、全く感謝しないなんて、こっちの働き甲斐もみんななくなりますよね。これだから、介護職の離職が増えても仕方ないですねえ。」

「そんなことはどうでもいいの!必要なのは電球だ。そのためには、二階の家電屋へ上がること。そんな時に税金の話なんかしている暇はないんだよ!そんな暇があったら、さっさと二階へあげてくれ。逆を言えば、それさえしてくれればいいんだ。」

「いやですね。あなたみたいなわがまますぎる障碍者なんて、相手にすることはできませんね。」

「そうかい!電球を買いに行くのはそんなに悪事かい!」

車いすの男性がでかい声で突っかかると、もう一人の車いすの男性がそこにやってきて、

「杉ちゃん、いまタクシー頼んできたから、吉原の家電屋さんで電球を買ってこよう。」

と言った。

「なんでだ、面倒くさい。家電屋があるのなら、ここで買ったほうが早い。」

「そうだけど、僕らにはできないこともあるんだよ。」

「できなかったらできる人に何とかしてもらえばそれでいいじゃないか。それをお願いして何が悪いのさ。第一、口に出して言わなかったら、お願いもできないじゃないか。それに、ここで買わないと、ご飯を作る時間がなくなる。」

確かに、このショッピングモールから、吉原はちょっと遠い。タクシーというか、車で行くと、30分近くかかってしまう。

「じゃあ杉ちゃん、ご飯はやめて、コンビニで弁当でも買っていこう。」

「コンビニの弁当はまずいし栄養的によろしくない。ご飯は手作りで作るのが一番いいよ。」

ずいぶん古い考えを持っている障碍者だなあと、聡美は笑いたくなってしまった。自分なんて、何度コンビニで済ませてしまおうと考えても、年老いた両親が、塩分が高いからと言って、取りやめにしてしまうことが多く、それは許されないことだった。

「全く、古いものを正しいと思い込んでいるなんて、あなたは知的障害のかなり重いほうに区分されますかな。」

先ほどの男性が、そう付け加えた。

「知らないよ、そんなこと。馬鹿であることは知っているが、障害の名前とかそんなものは全く知らないし、知りたくもない。そんなの口にしたって、何も意味がないと思うから、あえて聞く必要だってないと思う。」

「馬鹿ということは、つまり知的障害と言ってよろしいのですかな。」

「知るか!そんなことはどうでもいいんだ!ただの馬鹿と名乗ればそれでいいんだ!」

杉三がこう主張すると、お茶屋の男性は声高らかに笑った。

「全く、それすら知らないで、のらりくらりと生きているのでは、相当障害が重いと思われますな。養護学校で、障害の自覚の仕方も習わなかったのですかな?」

「養護学校なんていかないさ。学校は百害あって一利なしなのは、他の友達からもさんざん聞いてらあ!それに、教育なんて、何もならないで、傷つくだけだもん!」

「はあ、、、。そういう事を教えてもらって、障碍者が誰のおかげで生きてこれたのかを学ぶことも拒否して、のらりくらりと生きているなんて、これこそ究極の国家の邪魔者としか言いようがありませんね。全く、あなたみたいな人がいるから、日本はだめになりますな。」

「とっくにダメになってらあ!単に必要なことだけやってくれればそれでいいのに、変な理論を持ち出して、僕らが買い物をしてはいけないなんて、高らかに笑っている奴がいるだけでもおかしいよ。」

「では、どこの国家なら、ダメにならないと思いますかね。」

「しらない。強いてあげるなら、毎日太陽と月を眺めて暮らしている、原住民くらいなもんだろうよ。」

お茶屋の男性は、笑いをこらえるのに必死なようだ。まあたしかに、この答えは、突発的である。それにこの答えの意味を本当に理解できる日本人は、ほとんどないのではないかと思う。

「杉ちゃん、タクシーが来たから、変なガチンコバトルはやめて、電球買いに行こう。」

蘭は、杉三にもう帰ろうと促した。その顔は、穴があったら入りたいという感じだった。

「迷惑をかけました。杉ちゃん、というかこの人は、一度主張を始めるとなかなか止まらなくなってしまうのです。しまいには、常識はずれのことまで口走るので、僕も困っているのです。」

「ああ、いいですよ。お兄さん。本当に、覚えの悪い弟さんを持って、本当に苦労をしていると思いますが、これからも頑張ってくださいませ。」

先ほどの口調とはガラッと違う口調で、お茶屋の男性は言った。まるで、労をねぎらっているような、そんな感じの口ぶりだった。

「よく間違われるんですけどね、僕と彼は血のつながった兄弟ではないのです。まあ、彼をけん制するのは自動的に僕の役目になりますので、よく僕が彼の兄のように見えてしまうのだと思いますけど。」

蘭がそう説明すると、お茶屋さんの男性は、さらに優しそうな顔になる。

「そうですかそうですか。それではなおさら大変でしょうね。本当は、ご家族がそういうしつけをするものなのですが、それすらしていないということは、彼の一族はよほどなまけた家庭ということになりますな。まあ、それを、無理やり押し付けられて、こうして、彼の買い物に付き添うなんて、頭が下がります。これからも頑張って、彼を介護してください。」

「は、はい。」

蘭さえも発言に困ってしまうほど、この男性は雄弁だった。

「まあ、僕らは、主従関係ではなく、友達だからねえ!」

杉三が口を挟むと、

「あなたは、もうちょっと、一般社会を勉強してから、出直してきてくださいませよ。いいですか、あなたのような人が、我々にどれだけ迷惑をかけているかを知ってください。そうして、障碍者がどのようにふるまえばいいのか、それをしっかり学んできてください。」

と、男性は言った。

「まあ、することはするが、机の上と、講義室の中で勉強する気はさらさらありません。そういうところでする勉強は、大体実生活では役に立ちませんから!役に立たない知識ばっかり持ってたら、頭がパンクして使い物にならなくなるからね!まあ、別のやり方で、そういう教訓を得て戻ってきますよ!」

杉三はそう言い返して、ため息をついている蘭と一緒に、タクシーが止まっている駐車場へ向かって移動していった。その顔は、まるで悪人をやっつけて、ようようと主君の下へ帰っていく軍人にそっくりだった。

「少しもわかってないですね。」

お茶屋さんの男性も、敗北したというか、がっかりした感じで、自身の売り場へ戻っていった。たぶん、障碍者にここまでやり込められるのは、初めてだったのだろう。

聡美は、このガチンコバトルをはじめから終わりまで見ていたが、思わず敗北したお茶屋さんの男性に拍手を送ってしまいたくなった。まあ、そうしても、どこの誰なのかもわからないから、全く通じないのは知っていたが。
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