ノーサイド

文字数 11,301文字

         

 悟は慎重にボールをセットすると、枯れた芝生を少し毟って軽く投げ上げた。
 
 ボールの位置はゴールポストに向かって大きく右に外れている、右足でキックする悟にとっては難しい位置、風は右から左、そう強くはないが更にこのキックを難しくする風だ。
 既に既定の試合時間は終わっている、時間内最後のプレー、仲間たちが最後の力を振り絞って得たペナルティキック。 点差は僅かに1点、このキックが成功すれば長かったリーグ戦を優勝で締めくくり大学選手権へと駒を進めることができる、外せばその瞬間に四年生の大学ラグビーは終わる。
(頼む、決めてくれ)仲間たちの視線が背番号10にそう語りかけているのを感じる。
 仲間たちだけではない、スタジアムを埋めた観衆、さらにはTVで観戦している人々も皆、背番号10の一挙一頭足に固唾をのんでいる。

 悟は軸足を踏み込むべき位置の芝生を蹴って目印を付けると真っ直ぐ後ろに3歩、そして左に折れて更に3歩下がると、大きく深呼吸して天を仰いだ。

 大学入ってからの4年間、苦しかったこと、楽しかったこと、悔しかったこと、嬉しかったこと……様々な思い出が脳裏をかすめる。
 いや、大学の4年間だけではない、高校でラグビーに出会ってからの7年間が走馬灯のように駆け抜けて行く。
 悟はいつものルーティン、右ひざをつき、テーピングでぐるぐる巻きになっている左ひざに手を当てて目を閉じた、(ぐらついたりしないでしっかり体を支えてくれ)と言い聞かせるように。
 そして、悟は一歩目を踏み出した。
 踏み込んだ左脚を置くべき位置を見据え、蹴るべきボールの一点を見据える、何の違和感もない……行ける。
 悟は右脚を振り抜く、ボールは向かって左のポストに向かって飛んで行く。
 角度のない位置からのキックだ、ゴールポストの間は狭い、ボールがポストの右を通れば勝利、左を通れば敗北……そしてボールは……左に逸れた……。

 審判の長い笛が響いた。

 ノーサイド。

 ラグビーでは試合終了をそう呼ぶ、試合では敵味方に分かれて激しく戦うが、試合が終われば敵も味方もない、そういう意味だ。
 だが、歓喜に沸き立つジャージと肩を落とすジャージははっきりと分かれている、お互いの健闘を称え合う場面でも足取りは明らかに違う。

「すまん」
 試合後のあいさつを終えてロッカールームに戻ると、悟は仲間にそう詫びた。
 だが。
「惜しかったな、でもここまでお前のキックに助けられた試合は何度もあった、あのキックだって俺たちがもう少し真ん中寄りでペナルティーを得られればお前は決めてくれたさ、お前のせいじゃない」
「だが、一番大切な場面で……」
「どのプレーが大事でそのプレーがそうじゃないなんてことはないさ、今日だって1点差だ、どこかでワントライでもワンゴールでも取れてれば良かった、どこかで失点を防げてれば良かった、最後のペナルティキックに勝敗が委ねられたのは、一試合を通して戦ったその結果さ」
 仲間の気遣いは嬉しい、この仲間とここまでやって来れたことを嬉しく思うし、誇りにも思う、だが、一番悔しい思いをしているのは悟自身なのだ……。 

 
 紺野悟、中学まではサッカーをやっていた。
 ごく普通の公立中学、全国レベルの強豪校とは行かないが、県内では有力校の一つに数えられるチーム、背番号は今と同じ10、トップ下の司令塔として活躍した。
 サッカーでも悟の視野の広さ、状況判断の早さと的確さ、そしてキックの正確さは光っていたのだ。
 そして、やはり公立高校に進んだ時、悟はサッカー部の練習を見学するためにグラウンドへ足を運んだ、ラグビーと出会ったのはその時が最初だった。
 その高校は公立ながらラグビー部が強く、ちょうど悟の中学と同じように、全国レベルまでは行かないが県内の有力校の一つに数えられていた、一方サッカー部は弱小で、練習を見ていても緊張感が伝わってこない、ラグビー部の充実した、気合の入った練習とは対照的だった。
 その後何度か練習を見て、悟はラグビー部への入部を決めた、まだルールも大まかにしか知らなかったが、部員たちが流す汗がきらめいて見えたし、練習を終えた彼らの笑顔が印象的だったのだ、充実感に満ちた笑顔だった。

 それから3年後。
「よう」
「うん、いつもと同じ?」
「ああ」
 悟と早紀の挨拶はいつもこれだ。
 同じ大学の同じキャンパスに学んでいるが、学部は違う。
 顔を合わせるのは学生食堂、と言っても広いので食券売り場で待ち合わせる、どちらか早く着いた方が列に並んで二人分の食券を買う、合理的な待ち合わせだ。

 早紀とは同じ中学、同じ高校を経て同じ大学に進学した。
 古い馴染みとは言えるのだろうが、特に親密だったわけではない。
 同じ中学に入学したのは学区が同じだったからと言う以外に理由はないし、同じ程度の偏差値で公立を目指すとなればおのずと高校は絞られる、県内には同程度の公立高校はいくつかあるが、通学の便を考えれば同じ高校を選ぶのはごく自然な成り行きだ。
 そして悟たちの高校からこの大学へ進学したのは、現役生だけに絞っても30名ほどいる。
 東京の大学だが自宅からも通えるし、伝統ある私学で卒業後の就職実績も良いから、この大学を目指す生徒は多い。

 悟は高校3年間をラグビー部で過ごした。
『青春を捧げた』などと言えば格好も良いが、それほど一心に打ち込んだと言うわけでもない、練習は厳しく気合を入れて真面目にやったが、そこそこの進学校でもあるので朝練や夜練などと言うものはない、週5日、放課後の2時間がラグビー部の活動時間、短時間で効率良く集中力を切らさずに練習するのが、大学時代に名門校で鳴らした監督の方針だったのだ。
 ラグビー部に入った悟はすぐに頭角を現した。
 ます、正確なキック力はチームが必要としているものだったし、サッカーで培った視野の広さ、冷静で素早い判断力はラグビーでも生きたのだ。
 

 早紀はごく普通の家庭でごく普通に育った。
 中学の部活はテニス部だったが、試合のメンバーに選ばれることなく、2年生の秋にやめてしまった、理由は高校受験に向かうため。
 早紀には受験勉強に打ち込まなければならない理由があったのだ。
 その理由とは悟だ。
 テニス部は大所帯で1年生は主に球拾い、テニスコートはグラウンドの端にあり、サッカー部が練習しているのをいつも眺めていた、その中にクラスメートの悟の姿があったから……早紀はいつも悟の姿を目で追っていたのだ。
 テニス部を2年でやめてしまったのは悟と同じ高校に進学したかったから。
 悟はサッカー部のエースだが、学業成績の方もかなり優秀だったのだ、悟の学力に追いつくには相当の努力が必要だったのだ。
 もっとも、テニスの方で芽が出る可能性もほとんどなかったことも理由の一つではあったが……。
 早紀は悟に一度も『告って』いない、悟は特別にイケメンと言うほどでもなかったがスポーツマンらしく爽やかで人懐こい笑顔の持ち主、その上勉強もできるとあっては彼にあこがれる女生徒は多かった、一方の早紀はと言えば小柄でやせっぽっちの眼鏡っ娘、スポーツは苦手な部類だし、勉強の方も中のやや上くらい、出来ない方ではないが特に出来るとみなされるレベルでもない。
 ストレートロングの髪は綺麗だと褒められるが、売りはそれくらい、並み居るライバルを押しのけて悟の彼女になれるなどとは思っていなかったのだ。
 
 中3になって悟の志望校がはっきりすると、早紀も同じ高校を目指した。
 私立や、まして男子校だったらそうは行かないが、第二グループとみなされる公立校を選んでくれたので早紀にもチャンスが巡って来たのだ。
 悟は余裕を持って合格したが、早紀にとっては簡単ではなかった、最後の数か月間は必死に勉強して何とか合格できた。

 高校に入っても悟はサッカー部に入るものだと思っていたが、悟が選んだのはラグビー部だった。
 だが、それは早紀には少しラッキーだった。
 サッカー部や野球部のマネージャーを希望する生徒は多かったが、ラグビー部はいかんせん男臭すぎる、マネージャーを希望したのは早紀一人だったのだ。
 そうして、早紀は、中学時代の「悟に一応顔と名前くらいは知られている」程度から、選手とマネージャーと言う関係になり、親しく話せる関係にまで発展した。
 そして、悟がスタンドオフとしてけん引したラグビー部は全国大会の県予選でベスト8と言う好成績を収め、早紀も選手と共に、とりわけ悟と一緒に充実した高校生活を送ることができた。
 そして、悟が明央大学への進学を志望していることを知ると、早紀も明央大学に願書を提出した……。
 

 悟は大学でラグビーを続ける気はなかった。
 ラグビー部は大学選手権にも何回か優勝している名門、部員数も100人を楽に超えるし、その多くはセレクションを経ての入学だ、高校ラグビーで鳴らした高校からだけでも各学年でチームが組める、高校時代は県内の有力校で司令塔を務め、県大会ベスト8まで牽引した悟だが、ラグビー部からの誘いがあったわけではなく一般入試での入学だ、猛者たちの間に入って芽が出るとは思えない、それよりも学生生活を楽しみながらしっかり学問も修めて良い会社に就職する、そんな4年間を漫然と想定していた。

 早紀が同じ大学に入学し、同じキャンパス内にいるのは知っていた。
 悟にとっての早紀は高校時代同じ目標に向かって一緒に戦った仲間の一人、恋愛感情こそ抱いていなかったが大事な仲間の一人であったことは間違いない。
 同じ教室で講義を受けることはなくとも、心安い相手。
 それに……小柄な眼鏡っ娘は割と好みだし、早紀のストレートロングの黒髪は高校時代から好ましく思っていたので、ランチを一緒に摂る相手としては文句なかったのだ。

「ラグビー、もうやらないの?」
「ええ? ここのラグビー部を甘く見てねぇ? 名門だぜ、部員数だって半端ないし、大半はセレクションだよ、俺なんか通用するはずないじゃん」
「そうかなぁ……」
「そうだって……それに大学の体育会だぜ、4年間をラグビーに捧げるくらいのつもりじゃなきゃついて行けないって、そこまでの覚悟は俺にはないね」
「そうなんだ……あたしはマネージャーに志願するつもりよ」
「ラグビー部の?」
「そうよ、決まってるじゃない、野球部のマネージャーになったって何して良いかわかんないよ、ラグビー部なら力になれると思うから」
「ふぅん……」
「入学から1か月経っちゃったけど、今日にでもラグビー部に行ってみるつもり、多分断られることはないだろうし」
「そりゃそうだろうな」
「紺野君も見に行くくらいはしてみたら? 血が騒ぐかもよ」
「血が騒いだところで無理なものは無理だよ……」
 そう言っては見たものの、やはり気になる。
 悟もその日の講義が終わるとグラウンドへ見学に行ってみた、あくまで見学のつもりだったが……。
 果たして早紀はグラウンドにいた。
 チームスタッフのジャンパーを着た他のマネージャーにくっついて仕事の説明を受けているらしい。
 早紀を目で追っているうちに悟の血も騒ぎ出した。
 早く受験勉強に向かわなければならないと言う焦りを感じながらも、最後の全国大会へ向けてそれなりの手ごたえを感じて頑張っていた日々……勝ち進んでいた時の高揚感と充実感……思い出と呼んでしまうにはまだ生々しい。
 そして芝生の匂い……高校のグラウンドは土だったし、県予選も1、2回戦は他校の土のグラウンドだった、3回戦に進んで県営陸上競技場の芝生を踏んだ時は胸いっぱいに芝生の匂いを吸い込んだものだ。
 そしてグラウンドを飛びかう声とぶつかり合う音、ボールを蹴る音……。
(入部もしないうちに諦めるのか? 何もしないで後悔は残らないのか?)
 悟は簡易スタンドに腰掛けながら自問自答していた。

「よう」
「うん」
「いつもと同じで良いの?」
「ああ、でもライスは特盛を頼む」
「どうしたの? 寝坊して朝ごはん食べ損ねたとか?」
「そうじゃないよ、少し体重を付けた方が良いかなと思ってさ」
「別に痩せすぎだとも思わないけど?」
「ラグビーをやるにはこれじゃ細すぎるだろ?」
「え? それじゃぁ……」

 とにかくやるだけやってみよう、壁にぶち当たって、その壁がどうやっても越えられないとわかったらその時に考えなおせばいいことだ……。
 悟はそう考えを改めてラグビー部の門を叩いた。

「あいつは何という名前だ?」
「紺野悟……一般入学生ですね」
「ラグビー経験は?」
「神奈川県立〇〇高校出身、高校時代のポジションはスタンドオフとなっていますが」
「線は細いがセンスを感じるな……キックも飛距離こそ物足りないが正確だ」
 明央大学ラグビー部は大所帯なので学年ごとのヘッドコーチを置いている。
 一年生にも強豪校からスカウトされたスタンドオフ、前田がいるが、コーチには悟の方がセンスを持っているように思えた。
 もちろん体格、体力では前田には及ばないが、体力はトレーニングでつけさせることができる、悟の身長は172センチ、バックスとしても少し小さいが不利になるほどではない、体重は食事で増やすこともできるだろう。
 総合力を考えれば悟はまだまだだ、だがセンスと言うものは教えて身につくものではなく持って生まれたものを自分で磨くしかない、悟には大きく伸びる可能性を感じたのだ。

 悟自身も手ごたえを感じ始めていた。
 自分は強豪校の出身ではない、3年生だけで15人のメンバーは組めない、高校のラグビー部は総勢25名、全員がベンチ入りし、スターティングメンバーの中にも2年生、1年生が半数いる、体格も強豪校には大きく劣る、しかし、そんな中で県大会ベスト8まで進めたのだから、そして自分はその司令塔的役割を果たしていたのだから、そう捨てたものでもない、全国大会出場と言うような勲章は持っていなくても同じ高校生だった、今も同じ17~18歳なのだ、臆することはない、体格や体力はこれからつけて行けば良い、大学ラグビーの集大成は3年後に訪れるのだから。

「よう」
「うん、今日は紺野君が先だったね」
「二限目が休講でさ……何にする?」
「パスタランチがいいかな……紺野君は特盛のランチ?」
「ああ……ところでさ」
「何?」
「俺、ラグビー部の寮に入ることにしたよ、親の了解も取れてる」
「そうなんだ、本格的に身を入れるつもりになったのね?」
「ああ、サポートよろしくな、マネージャーさん」
「任せて」
「早紀のおかげだよ」
「何が?」
「俺、大学ラグビーは最初から無理だって諦めてた、でも早紀に引っ張られるみたいにラグビー部を見学した時自分の胸に聞いてみたんだ、挑戦もしないで諦めて良いのかよってね、やってみてどうしても無理だとわかったらその時に考え直せばいいことで、最初から諦めたら悔いは残らないのかよ、ってね、いつかレギュラーになれるかどうかなんてわからないけど賭けてみる価値はある、やってみてわかったんだ」
「あたしはただ……高校でマネージャーになって3年間充実してたから大学でもやろうって思っただけ……でも紺野君がやる気になってくれたのは素直に嬉しい」
「わかんないよ、1年か2年でやめちゃうかもしれないし、最後までやってもレギュラーになれないかも知れないしな」
「でも、大学時代に悔いは残さない、それは決めたんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、それで良いじゃない」
「そうだな……ほら、食券」
「ありがと、席、一杯だね」
「テラスは空いてるじゃん、天気も良いんだ、テラスで食おうぜ」
 充実した毎日を過ごしている悟の顔は輝いて見える、この先どうなるかわからないけけれど、この顔を見れただけで幸せ……早紀はそう思った。

 それから2年。
 悟はポジション争いに勝利して3年生で背番号10のジャージを貰った。
 全てが順調……そう思った時に不運は襲ってくるものだ。
 秋のリーグ戦の最中、首位をひた走る明央は最下位のチームとの対戦。
 実力差は明らかで大量リードの終盤だった。
 パスを受けた悟は正面の敵をかわそうとフェイントを入れた、左にカットすると見せかけて右に……だがそのフェイントは予測されていた、イチかバチかのタックルが悟の左脚に横から入り、膝が不気味な音を立てた。
 膝を抱えたまま起き上がれない悟に真っ先に駆け寄ったのは早紀だった。
「大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃないみたいだ、今日はもう無理みたいだな」
「担架呼ぶわ」
「大げさだよ、それより肩貸してくれねぇ? それで大丈夫だ」
「でも……」
「大丈夫だって」
 早紀の肩を借りて医務室に、そして医師の判断で悟は病院に搬送された。
 
 『半月板損傷並びに靱帯損傷で術後4~6か月のリハビリを要する』
 それが悟の膝の診断結果だった。
 
「思ったより大ごとになっちゃったな、『今日は』どころじゃなくて『今年は』無理だったんだな」
 直ちに手術を受け病院のベッドで過ごす悟は浮かない顔だ。
「でも、来年があるよ」
 早紀は努めて明るく言ったが、語られずとも悟の胸の内はわかる。
 大学でラグビーをやる、一言でそう言うが、それは生活のほとんどすべてをラグビーに捧げると言うことなのだ、ラグビーが上手くなるためにグラウンドで汗を流し、強靭な体を手に入れるためにジムでトレーニングに励み、体重を付けるために無理にでも飯を詰め込み、世の大学生が浮かれて遊んでいる間も節制に務める、元々体が大きくはない悟だ、身体づくりにも励んで来た、それが4~6か月もまともに運動できないのではせっかく作り上げて来た体がなまって萎んでしまう。
 それに悟が出場できないとなれば同学年のライバル、前田が10番を付けて試合に出ることになる、悟のパフォーマンスが元に戻らなければ復帰した時にポジションを取り戻せるどうかもわからない。
 それでも焦りは禁物、歩けるように、日常生活に支障がない程度に回復すれば良いのではない、ラグビーができるまで回復しなければならないのだ。
 医師の作成したメニューを逸脱すれば膝を悪化させてしまい、リハビリが長引く可能性もある、焦る気持ちを抑えて地道に回復を待たなければならないのだ。

「なあ、俺、治るのかなぁ」
「当たり前じゃない、手術は上手く行ったんだし、少しづつだけどリハビリメニューも増えてるでしょ?」
「治るって、そう言うことじゃなくて、元通りにラグビー出来なきゃ治った内に入らないよ、こうしているうちにも前田は試合に出て上手くなってるんだぜ」
「それはそうかもしれないけど……」
「あ~あ、明日になったらすっかり治ってねぇかな、一日でも早くグラウンドに戻りたいよ」
 人一倍努力家の悟の事、勝手に無理をしてしまわないとも限らない。
 早紀は毎日のように病院を訪れて悟を抑え、励ました。

 翌春、悟はようやくグラウンドに戻った。
 しかし皆が基礎トレーニングに励んだ冬を悶々と過ごさなければならなかった悟は別メニューの練習、悟の定位置だったスタンドオフのポジションでは前田が躍動していた。
 元々体格とパワー、そしてキックの飛距離では前田に分がある、前田は自力でタックルを跳ね返してぐいぐいと前進して行く、そしてそれに引っ張られるようにバックス陣も前へ、前へとボールを運んで行く。
 そして練習試合でも前田はぐいぐいとチームを引っ張って、チームは好調を維持している。
 悟がスタンドオフを務めていた頃、スクラムやラック、モールから出たボールは素早くバックス陣に回した、あるいはキックを選択してボールを前に進めた。
 だが、前田は自分で走ることが多い、捕まっても容易には倒れないのでモールが形成されでボールは前へと進んで行く。
 悟がスタンドオフを務めていた時、チームはパワーとスピードのバランスが取れていた、だが前田に代わると明らかにパワー寄りのチームになっていた、それで結果が出ているのだからどちらが良いとか悪いとかではない、そういう戦い方になっているのだ。
 悟は一層不安を募らせた、自分が休んでいる間にチームは変わった、このチームに自分の居場所はあるのか……と。


「あれ? 早紀?」
「やっぱりね」
「やっぱりって何だよ」
「キックの練習しに来たんでしょ?」
「まあな」
「手伝ってあげる」
「何をだよ」
「ボール拾い、高校の時からやってるじゃない、集めておけば効率的でしょ?」
「ああ、そうだな……でもいいのか? もう夜だぜ、俺は寮住まいだから良いけど、早紀は自宅だろ?」
「大丈夫、近くのアパートに住んでる友達に泊めてもらう約束してるから」
「そうなんだ……じゃあ頼もうかな」
 キックの練習を始めた悟だが、踏み込む左脚の膝に力が入りにくいのでどうしても軌道が定まらない。
「くそう……」
「もっと近くから始めたら?」
「あまり簡単じゃ意味ないよ」
「だって左ひざに力が入らないんでしょ?」
「あ……ああ……」
「キックもリハビリからだよ」
「もどかしいけど……そうだな」
 そうやって悟は徐々に飛距離を伸ばして行った。

 秋のリーグ戦を目にしたミーティングで……。
「スタンドオフ、10番、紺野」
 監督が司令塔に指名したのは前田ではなく悟だった。
 一か月にわかる夏合宿、悟は別メニューの練習からは脱却していたが、前田とのコンディションの差は埋められなかったと感じていたのだ。
 しかし……。
「センター、11番、前田」
 前田の名前も呼ばれた、突破力を買われてのコンバートだ。

「紺野、おめでとう……スタンドオフは任せるぜ」
 ミーティング後、前田がそう声をかけて来た。
「俺はてっきり10番は前田が背負うのかと思ってたよ」
「俺もそう願っていたよ」
「願ってた? 確信はなかったのか?」
「俺のプレーはちょっと単調だからな……お前みたいにとっさの判断が出来ない、どうしたらお前みたいにプレーできるか盗んでやろうと思ってたが、俺には無理だった」
「……そうなのか?……俺にはお前みたいなパワーはない、俺も羨ましかったよ」
「合宿中に監督から言われたんだ、センターにコンバートするってな、俺としてはスタンドオフに未練はたらたらなんだが……いつでもお前からポジションを奪う準備はしておくぜ、安泰だとは思うなよ」
「わかってるよ……だけどポジションを渡すつもりはないよ」
「当たり前だ、自分からポジションを手放す奴なんかいるもんか……ボールを持ったら真っ先に俺を見ろよな、バッチリ突破してやるから」


 秋のリーグ戦、悟がスタンドオフに復帰したことでプレーに幅が出来、前田をセンターに据えたことで突破力が増した明央は6戦を終えて全勝、そして追って来る早学大は5勝1敗だが、明央に勝利すれば勝率で並び、更に直接対決の勝敗によって早学の優勝となる、事実上の優勝決定戦となった。
 試合は一進一退、シーソーゲームとなり、早学1点リードで80分が経過したが、プレーが続いている限り試合終了とはならない、明央総力を挙げての最後の攻撃に早学は防戦一方となり、思わず反則を犯してしまった、グラウンド右端近くからのペナルティキック、このキックが最後のプレーとなる。
 決まれば明央の優勝、外せば早学に優勝をさらわれる。
 勝てば大学選手権に駒を進めることができ、負ければその時点で4年生にとっての大学ラグビーは終わりを告げる。
 大学ラグビーの今シーズンを締めくくることになるキック……悟は慎重にボールをセットし、練習の成果を信じて……蹴った。

 そしてボールは無情にもゴールを外れた……。
 

「早紀?」
「きっとここに来ると思った」
 試合後、観客も、選手も、清掃スタッフさえいなくなったグラウンドに悟は現れた。
 すると、早紀が先回りしていたのだ。
「負けちゃったよ」
「惜しかったわね」
「キックの練習、付き合わせてたのに悪かったな」
「そんなこと……」

 冬の黄昏が辺りを包み、二人の影を長くグラウンドに伸ばしている。
 悟は芝生の匂いを胸深く吸った……冬枯れの芝生……悟にとってはもはや懐かしささえ感じる匂いだ。
 スタンドを見渡す……つい2時間ほど前まで、このスタンドは観客で埋まっていた。
 独走トライを決めた時に後押ししてくれた歓声が、相手ゴール前まで攻め込んでアタックを繰り返すフィフティーンの士気を鼓舞してくれた興奮が蘇る。
 だがそれも今日で終わり、明日からはあの歓声を聞くこともこの匂いをかぐこともなくなる。
 明日からは新チームになり、明央大学ラグビー部は再始動する。
 背番号10のジャージは自分が先輩から引き継いだように後輩に引き継がれるだろう、そしてそれは綿々と続いて行く、ずっと昔の過去から、ずっと先の未来まで……そして自分はその果てしないドラマ中での役割を今終えたのだ。

「悔い……残ってる?」
「いや……くやしさは当然あるけどな、悔いはないよ」
「4年間、ご苦労様」
「早紀もな」
「明日からどうするの? ヒマになっちゃったね」
「そうだなぁ、差し当たってしたいことって思いつかないや、今日の事しか考えてなかったから」
「でしょうね、大事な試合の前に余計なこと考えてたらあたしも怒っちゃう」
「ははは……それは怖いな」
「差し当たって今日これからだけど……あたしとお茶なんてどう?」
「早紀と?」
「嫌?」
「そんなことないよ、そう言えば早紀とは10年来の付き合いなのにお茶も一緒に飲んだことなかったな」
「1回だけ、あるよ」
「あったっけ?」
「悟がラグビー部の寮に入るって決めた日、ラグビーに本腰を入れるって決めた日……学食のテラスで」
「あれって、缶コーヒー飲んだだけじゃなかったっけ」
「そう、でもあたしには大切な思い出なの、あの時3限目をサボってテラスで話し込んだでしょ? ラグビーの事ばっかりだったけど、ラグビーに打ち込むって決めた悟の顔が輝いて見えた、それだけであたしは幸せだったから」
「……」
 悟は早紀を見つめた…………夕日を浴びた早紀は美しく輝いて見えた。
 思えば早紀はずっとそばにいてくれた……ケガで苦しんでいる時もずっとそばで支えてくれた……ラグビーの事しか頭になかった俺に一言の文句も言わずに……。
「忘れててごめんな、今日これからのお茶は俺もずっと憶えておくよ、多分、一生」
「ありがとう……」
「行こうか」
「うん」
 悟は早紀の肩を抱いてグラウンドを後にした。
 




「こんなチビの眼鏡っ娘でいいの?」
「あれ、知らなかった? 俺って小柄な眼鏡っ娘ってタイプなんだぜ」
 一週間後、悟から早紀へペンダントのプレゼントがあり、それと一緒に『俺と付き合って欲しいんだ』と言う言葉も……。
「ホントに? 気を使ってない?」
「全然……あ、そう言えば……」
「何?」
「早紀の髪って綺麗だよな、中学の時からずっとそう思ってたんだ」
「そういうことは……もっと早く言ってくれればよかったのに……」
 そう言って顔を伏せた早紀の頬をきらめくものが一筋流れ、ひとつのドラマのエピローグは新しいドラマのプロローグへとつながって行った……二人だけのドラマへと……。


           (終)
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