第一話 物語の価値はどこにあるのか? #3

文字数 4,771文字


 それから、真中さんとは、ときどき放課後の図書室で話をするようになった。
 書き進められた物語を読ませてもらい、いったいこの続きはどうなってしまうのか、わたしが感想を熱く伝えると、真中さんは困ったふうに笑って、秘密だよと答える。それから、わたしたちは夕陽が射し込む奥のテーブル席で、自分たちの好きな物語のことを語り合った。真中さんは、わたしよりも多くの小説を読んでいるようだった。わたしはほとんどライトノベルしか読んだことがないので、その点は少しばかり気恥ずかしい。それでも、真中さんの口からわたしも読んだことのある本の話が出てくると、わたしたちは鈴本先生の視線から逃れるようにくすくすと笑い合い、その物語について熱く語り合った。
「あたしがさ、ここで小説を書いているのは秘密にしてくれる?」
 どうして、とは思ったけれど、単純に気恥ずかしいのだろうと納得した。
「それに、秋乃はさ、あんまりここに通いすぎるのもよくないと思うよ。綱島さんたちが、よく思わないんじゃない?」
「どうして?」
「綱島さん、独占欲が強そうだから」
 確かに綱島さんたちのグループは、わたしのことを招き入れてくれるから、一緒に帰ろうと誘ってもらえると断りにくい。だから、わたしがこうして放課後の図書室を訪れることができるのは、受付の当番だと言っても不自然ではないだろう、一週間に一度か二度くらいのものだった。
 でも、綱島さんは、いったいどんな気持ちでわたしなんかを仲間に入れてくれているのだろう。わたしみたいな人間は、どう考えてもみんなの輪の中で浮いてしまっている。
 あのときのリカ、朝からご立腹だったんだよ、と合唱の件のことで、みんなはわたしのことをフォローしてくれた。要するに、生理が来ていて朝からずっと機嫌が悪かったらしい。けれど、そうだとしたら綱島さんからもなにか言葉が欲しかった。そう思うのは、贅沢なことだろうか。
「それにさ、あたし、綱島さんと相性悪いんだよね」目下戦時中なんだ、と真中さんはくすくす笑う。「だから秋乃が、ここであたしと話をしていることは、みんなには秘密」
「秘密かぁ」
「覚えておくといい」
 真中さんはそう言って、なんだか不敵な笑顔を見せた。そんな笑い方をする女の子を、わたしはこれまで見たことがない。
「女の子同士の秘密は、物語を魅力的に見せるよ」
 確かにそうかもしれないな、と今まで読んできた小説を振り返って考える。けれど、そこでわたしは笑ってしまった。だって、それはあくまで物語上での話だった。わたしと真中さんの関係は、虚構のものではない。現実なのだから。
 それなのに、その言葉は、なんてすてきな響きを持っているのだろう。

 その日も、雨がしとしとと降っていた。図書委員の仕事があるからと綱島さんたちに断り、放課後の図書室を訪れた。カウンターの内側で本を読んでいる相原さんに挨拶をして、簡単な言葉を交わす。相原さんが読んでいるのは漫画で、美少年たちしか出てこない類のものだ。わたしとはちょっと趣味が違うから、あまり本の話が盛り上がることはない。鈴本先生に見つからないようにね、と笑いかけて、わたしは書架の奥へ向かう。
 いつも真中さんがいる奥のテーブルは、書架に隔てられていて、いちばん静かな場所だった。
 熱心にペンを動かし、もどかしそうに修正液で文字を直す彼女の作業を後ろから見守る。彼女の筆が一休みするのを待って、シャーペンやエンピツを使わないのはどうしてなのかと、そう訊ねた。消しゴムを使えば、修正液より効率よく文字を消せるのではと思った。答えは単純なことだった。
「あたし、汗っかきなの」彼女は笑って、掌をひらひらと動かした。「手汗が凄くて、エンピツとかを使うと、字がもの凄く滲んで擦れちゃって。ボールペンも、滲まないのを探すの、けっこう大変だったんだよね」
 わたしは、授業中にノートを取るとき、ゆっくりと文字を綴る人間だ。文字が掠れたり滲んだりした経験はない。それに、縦書きと横書きでは、手がノートに擦れてしまう頻度も違うのだろう。
「書き心地で言ったら、エンピツがいちばん好きなんだけれど。ほら、さらさらって紙の表面をくすぐっていくような感じがして」
 エンピツを、あまり尖らせずに削った状態で書くと、気持ちいいよね、と彼女は笑う。ボールペンはぐりぐり勢いよく殴り込んでいく感じが好きで、シャーペンはカリカリ引っ搔いて痕を刻み込んでいく感じだよ。そんなふうに楽しげに語る真中さんの笑顔を見て、わたしは笑ってしまった。紙にペンで書き込んでいく感触に関して、そんなふうに深く考えたことはなかったし、熱く語られてしまったのも初めての経験だ。
「もしかして、秋乃は、あたしを変なやつだと思ってる?」
「そんなわけじゃないの」わたしは慌てて言った。でも、拗ねたような顔の真中さんの表情が可愛らしく思えて、笑いは引っ込んでくれない。「真中さんって、やっぱり視点が違うなって思って。わたし、そんなこと考えないから」
 さらさら、カリカリ、ぐりぐり。そんな感触に、わたしは注意を向けてはいない。同じ世界に生きているのに、わたしと真中さんでは、見ているものが違う。
「そういうのって、小説を書くのに必要だからなの? 感受性、みたいな」
「うーん、感受性か」
 真中さんはボールペンのお尻を顎先に押し当てながら、考え込むように静謐な図書室の天井を見上げた。それから、瞼を閉ざし、小さく頷く。
「そうかもね。うん。世界をさ、読むんだよ」
 彼女の言葉は詩のようで、そしてわたしの心を目覚めさせる魔法みたいだった。
「世界を読む?」
「世界の、行間を読むんだ。こうして眼を閉じていると、感じない? 雨の音は静かだけれど、どこかリズミカルで、懐かしい感じがする。その音から、あたしは雨が降っているときの校庭の匂いを連想するんだ。雨水が跳ねて、スカートが湿って、太腿がすごく冷たくて、あたしは雨の中を走っている。ローファーが水たまりに踏み込んで、ぱしゃりって周囲に跳ね散って、また音が鳴る。同じように、女の子たちが冷たい雨にきゃあきゃあ言っている。街は騒がしくて、賑やかだ。空を見上げると、太陽が眩しい。これは天気雨なんだ。突然の雨に、あたしは憂鬱な気分を消し飛ばされて、雨に濡れて笑いながら走っている。鞄を頭の上で抱えて、走っているみんなも笑顔で楽しそう」
 瞼を閉ざし、優しい表情で語る真中さんを、わたしはきょとんと見つめる。
 静かな雨音は、わたしにはどこか寂しげに聞こえていた。でも、真中さんが世界の行間から拾い上げた景色は、眩しく賑やかなものだった。
「雨音に意識を傾けると、そんな景色を想像したりする。景色だけじゃなくて、音とか匂いとか思い出とか、そういうのが世界にはたくさん詰まっていて、普通は見過ごしちゃうんだけれど、ときどき行間を読むみたいにして、そこに注意を向けてみるの。秋乃も、試してみると、きっと新しい発見があるよ」
 わたしたちの間には、雨音一つとっても、こんなにも大きな違いがある。
 真中さんはペンを握り、物語の執筆を再開した。わたしは鈴本先生に頼まれて、書架の間を静かに歩き、配架と書架整理の作業を手伝った。真中さんのテーブルに近付いたとき、彼女はふと顔を上げて、なにかに耳を傾けていた。
「雨がやんでるね」
 その言葉に指摘されて、わたしはようやく気がついた。窓の外へ視線を向けると、確かに雨がやんで、美しい夕焼けの空が広がっているのが見えた。
「ほんとだ」
「もしかしたら、虹が出るかもね」
 真中さんは笑って、それからまたペンを握った。
 中断していた文章の続きを、ぐりぐりと勢いよく書き込んでいく。
 わたしは配架のための数冊の本を抱えながら、真っ白なノートの上で世界をかたち作る、神様みたいなあなたがそう言うのだから、きっと虹は出るのだろう、と心の中で考えていた。

「最近さ、秋乃、ちょっと付き合い悪くない? そんなに忙しいの? 本屋係って」
 帰り際、綱島さんにそう言われた。
 わたしの家が書店であることは、べつに隠してはいない。駅前すぐの目立つ位置にあって、この辺りの人なら知らない人間はいないくらいだ。各地の街の本屋さんが経営悪化で潰れていく中でも、立地の良さと敷地の広さから、わりと繁盛している方だと思う。
 だからなのか、綱島さんたちは図書委員のことをそんなふうに言う。本屋係。ここは貸本屋でも談話室でもありません、というのは鈴本先生が怒るときのお約束の台詞だった。
 もちろん、図書委員がそんなに忙しいわけがない。それを綱島さんに不審がられてしまって、心がざわざわと焦りを覚えた。
「べつに、そんな忙しくないよ。今日は仕事ないから、一緒に帰れるし」
「ふぅん、ならよかったじゃん」綱島さんはそう言って笑う。「本屋係の仕事って絶対ヒマでしょ。受付で人待ってるだけとかさ、絶対地獄じゃん。聞いたけど、スマホとか見てたら没収なんでしょ?」
 実際のところ、図書委員の仕事は暇でもなんでもなく、わたしにとっては幸福な時間だった。けれど、それを彼女たちは理解してくれないだろう。綱島さんを中心としたこのグループに、読書を趣味としている子はいない。話題になるのはアニメ化しているような人気のある漫画くらいなもので、小説を読むような子は一人もいなかった。だから、朝の十分間読書の時間にも、いったいなんの本を読んだらいいのか、彼女たちはいつだって困り果てている。自分で本を選んだり買うつもりもないから、そんな子たちに向けて鈴本先生が選書した本を借りて、読んだふりを続けているだけだ。どうだった? と感想を聞くと、眠くなった、とか、まったく意味がわからなかった、とか、そんな返事ばかりが返ってくる。「読書とかさ、薄暗い感じがして、向いてないんだよね、だって文字だけしか書いてないじゃん。なにが面白いわけ?」
 あくび交じりに、綱島さんは笑った。たった十分間の時間では、彼女たちを物語の世界へと誘うことはできなかったらしい。みんな、休み時間とか、帰り道とか、あるいは一緒に出掛けるために電車に乗るときには、片手にスマートフォンを持つ。そこから、SNSを見て笑って、写真を投稿して、ゲームに興じて、無料で読める漫画アプリで時間を満たしている。だから、わたしはいつだって、鞄の中に忍ばせている文庫本を彼女たちの前で取り出すことができない。
「ねぇ、あれ見てよ」
 一年生のときだった。
 教室の戸口で立ち話をしていたわたしたちは、女王様のような綱島さんの一声で、悪戯っぽく眼を向けた彼女の視線の先を追いかけた。
 眼鏡の女の子が、机に向かって、肩を小さくし、読書に耽っている。
「なんかさ、あれ、根暗な感じじゃない?」
 髪型も、お下げとか。だっさ。
 そう続けたのは、北山さんだったか、佐々木さんだったか。
 わたしたちは意地悪に唇の端を曲げて、物語の世界に浸る女の子の姿を嗤った。地味で、根暗そうで、お下げで、スカートも長くて、眼鏡で、絵に描いたようで。
「もう九月なのに、友達とかいないんじゃない? カワイソー」
 綱島さんがくすくす嗤う。
 夕陽を浴びて、なにかの話題ではしゃいでいる綱島さんたちから、数歩を遅れて通学路を帰る。わたしは、明るくて、眩しくて、綺麗で、頭が良くて、みんなの中心でいつも輝いている綱島利香という女の子の背中を見ながら、唐突に、その一年前の、みんなを真似た自分の唇の歪みを思い出した。そのとてもとてもいやな感触を──。
 あのときの彼女は、真中さんだ。
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登場人物紹介

千谷一也(ちたにいちや)……売れない高校生作家。文芸部に所属


小余綾詩凪(こゆるぎしいな)……人気作家。一也の高校へ転入


成瀬秋乃(なるせあきの)……小説を書いている高校一年生

真中葉子(まなかようこ)……秋乃の中学時代の同級生

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