第6話 おばばの冷や水

文字数 1,703文字

 万年様の声に、なで肩をキュッと縮めたおばば様は、居心地悪そうに目をしばしばさせた。

 あれだけの距離で、おばば様の「うんち」呼ばわりが届いたとは思えない。だって、ひそひそ声だったのだから。これは万年様の聴力の(すご)さなのだろうか。

「失礼を(つかまつ)りました。あの……今日は連れがいるのです。このばばでは手に負えない相談事で……それで、あの……万年様のお力に」
 おばば様はしどろもどろになった。その口から発するたったの一言で、場の雰囲気をガラリと変えてしまうほどの力を持つ、あの千年おばば様が緊張している。

「連れなどとっくに見えておるわ。構わん、上がってこい」
 僕が見えている? 背中を向けて丸まっていたはずの万年様に、本当に僕の姿が確認できたのだろうか。

 僕はおばば様を見た。おばば様は、よかったの、と(うなづ)いた。

 赤い花を咲かせた木が、涼し気な影を作る校門を見上げた。日向はじりじりするほどの暑さになってきた。



 ──チャトラン、あれはね、夏には赤とか白の花が咲くのよ。百日紅(さるすべり)っていうの。
 いつだか涼音さんが公園で教えてくれた、幹がつるんとした木に違いない。

 姿勢を低くして、狙いを定めるようにお尻をフリフリしたおばば様は、これまでの動きとはまったく違う、驚異的な勢いで跳躍した。

 カシュカシュカシュ!

 もう少し、もう少し!

 カシュカシュ!

 つやつやとした石でできた校門に、どう考えても爪は立たなかった。
 あまりの痛々しさに、見て見ぬふりをした僕は、ものすごく熱心に顔を洗った。

 僕たち猫族は、高いところはもちろん、うんと低いところから仰向けに落とされても、くるっと反転して着地する能力を持っている。あの高さから、まさかお尻から落ちるとは信じがたいことだった。だけど、おばば様の跳躍は目が覚めるほどに美しかった。

「おばば、なにを騒々しくしておるのじゃ」
「あ、いえ」
「年寄りの冷や水か?」
「あ……いえ」

「中に入れ。植込みのところにレンガが積んである」
「万年様、なぜそれを先に……」
「やっぱり()びおったか。相変わらず向こう見ずじゃな。わしがレンガのことを言う前に、ばばが勝手に跳んだのだろう? それは、わしのせいか?」
「あ、いえ、すべてはばばの責任でござります」

 よれよれと小学校の校門を通るおばば様に僕も続いた。植込みに入ると確かにレンガが積まれている。それもいい具合の階段状に。
 うんこらしょ。おばば様は小さな声で前足を踏み出した。

 おばば様がレンガを伝って上がっていったのを見届けて、僕はもう一度外に出て校門を見上げた。

「久しいの、ばば」万年様のやさしげな声がした。
 その声を合図に、僕は跳んだ。
 ふわりと着地した頭の上には、意外なほど近くに百日紅(さるすべり)が枝葉を広げていた。
 
 万年様がキッと振り返って僕を見た。
「挟み撃ちかお前たち。卑怯だぞ!」いや、なにも攻撃しようなどとは……。
 瞬間、その姿に僕は息を呑んだ。

 神々しいばば様とはまた違った、圧倒的な存在感。攻撃的な威圧感とはまったく違う重厚な凄み。釘付けになって動けない僕の代わりにおばば様が口を開いた。

「失礼をば、まだ若いもので礼儀を欠くことがあったらお許しください」
 こっちへ、おばば様が目で示し、僕は恐る恐るおばば様の隣に向かって足を踏み出した。

「おまえ、なにをしておる?」万年様が首を傾げた。
「あ、いえ」
「普通に歩け」
「あ……頭が真っ白になってしまって」あまりの緊張に、僕は歩き方を忘れた。
「歩けんのか? 右の前足、すぐさま右の後ろ足。左の前足、すぐさま左の後ろ足じゃ。尻尾は躊躇いなく真っ直ぐ立てろ」
「はい」

「前足だけではやがて腹ばいになることがわからんのか──ばば」
「あ、はい」
「ひょっとして、おまえの子か」
「いえ、違います」

 雲ひとつない空に、雀がチュンと鳴いた。
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