第5話
文字数 2,408文字
C女子たちはブランド品を身につける文化を母親から受け継ぐように見えて、実は母親から洗脳されているのかもしれない。
礼子さんはそういって、初めてこのキャンパスに来た時、C女子たちが誰も洋服が似合っていない事にちょっとびっくりした、といいました。
「彼女たちは自分で自分に似合う服が選べないほど母親の支配がキツいのかもね」
といいます。
礼子さんのいう通りなら、ホットカーラーを買い与えた知美ママも、時計を譲る典子ママも、バッグを買い与える理世ママも娘をコントロールしている。私がそういうと礼子さんは頷きながら、
「自分の趣味じゃなくても、高級ブランドだったりしたら、つい受け入れてしまうでしょ。お母さんにしてみればそれでしてやったりよ。自分の趣味に強制できるんだから」
「それって結局、お金で支配してるんやん」と、私はため息まじりにいいました。「そこまでして娘を支配したいんや」
「うん。さみしいから」
と、礼子さんは肩を落としました。
私は、いなり寿司をはさんだ箸をとめました。「うちの母親と似た感じやね」
ふふふ、と礼子さんは小さく笑い、「案外、類友かもね」といたずらっぽくいいます。
ハハハハハ、と、私は笑いました。C女子たちは親と子の上下な関係をいったんフラットにして支配を解き、女同士としてつながりなおそうとしているのかもしれない。友だちみたいな母娘についてそう考えてみると、西本知美も、久保井典子も、松原理世も、彼女たちなりに母親にちゃんと愛されようとしているようで健気でした。私がそういうと、
「それは祥子がそうしたいんじゃない?」
食べて、と、礼子さんは、弁当箱に残った最後の一個のいなり寿司をすすめます。「ま、人間同士なんだから、合う合わないとか、好き嫌いとかがあって自然よ」
「親子でも?」
「そうそう。いろんな人間がいるんだから、母と娘の関係だっていろいろあるはずでしょ。なのに子どもは親を慕うものだって、そこだけ決めつけになってる」
特にいいところの家の娘だとプライドも持たされて、母娘関係がうまくいかない事が許されないんじゃない、と、礼子さんはいいます。「C女子っていうのもブランドなのよ」
「娘のプレッシャーか」
と、私はいいました。
礼子さんは頷き、母親の趣味の押しつけも親の愛情だと思えば受け入れないわけにはいかないから、といいました。「母親の愛情を受け入れられないと娘失格って感じするじゃない」
私はC女子たちと話をすれば良かった、と思いました。学生生活も残り少ないこの時期に大事な事をやり残したと思いました。彼女たちは私の友だちだったかもしれません。
「ママってね、私のママなの」
礼子さんは「フレンズ」のママは自分の実の母親だといいました。
幼い頃に礼子さんは東京の叔父夫婦のもとに預けられたそうです。なぜ大阪の親が彼女を育てなかったのか、詳しい事は話さなかったけれど、東京の「両親」は母親の兄夫婦、大阪にいる「おばさん」が実の母親である事は中学に上がる前に知っていたそうです。
大阪の「おばさん」は子どもの頃から慕った大好きなおばさんだし、東京の叔父夫婦を今も「親」と思っている、と、礼子さんはいいました。
「私には親が三人いるの」
そういって微笑んだ礼子さんはさみしそうでした。
大阪に来て、実の母親と一緒に暮らしてみたら、思ったより楽じゃなかった、といいます。洋服を買ってくれたり、手料理をしてくれたりして最初はうれしかったけれど、こうも毎週、毎日だと、これまで離れていた時間を取り戻そうとする母親の焦りばかりが伝わり、「東京にいて、離れて暮らした時のほうが『おばさん』とはうまくいってた」と礼子さんはいいました。
「ママと少し距離を取ったほうがいいんじゃない?」
と、私はいいました。特にスナックの手伝いは、体力的にも負担が多いように思います。
しかしお店は時々でも休んだほうが、といいかけた私に、「お店にいたいの」と、礼子さんはいいました。「お店はね、二人きりにならないから助かるの。お客さんが間に入ってくれる感じでね。それに『ママ』と呼べる。私、おばさんを『お母さん』と呼べないけれど、『ママ』なら呼べる」
ところで祥子はびっくりしないね、と、礼子さんはいいました。ママが実の母親であるという衝撃の事実を打ち明けたのに私が驚かないので、少しがっかりした、と、茶化すように笑います。
私は薄々わかっていたから驚かなかった、という意味の事をいいました。「だって『先生』も『専務』も礼子さんとママは似てるというし、それにスナックは人をそれっぽい呼び方で呼ぶようになるっていうし」
「そっか。『ママ』はママっぽいって事か」
うん、と、私は頷き、礼子さんの「ママ」と呼ぶ声がお母さんを呼ぶ感じに聞こえる事もあったといいました。
礼子さんは涙ぐみました。
私は慌てて自分は言葉の裏側を読んでしまう、私の悪い癖だから、と、付け加えました。
「悪くないよ」
祥子は悪くない、といって、礼子さんはポロポロと涙を落としました。
卒業した翌年の春、私はスナック「フレンズ」の閉店パーティに招かれました。
カウンターの席には斉藤さんや日根野さんがいて、ボックス席には日根野さんの事務所の人たちも来ていました。テーブルには厚焼き玉子サンドとコンソメスープが並んでいます。
祥子、と、私に抱きついた礼子さんは白のワンピースを着ていました。銀座で仕立てた礼子さんのお気に入りです。顔に疲れが見えたけれど、相変わらず美人でした。
まあ祥子ちゃん、いらっしゃい、と、出迎えてくれたママは、体がひと回り小さくなっていました。瞼や頬に影を作る独特の痩せ方をして、シルクのスカーフを巻いた頭は髪を失ったようでした。
その年の冬。
私は礼子さんから「かねてより病気療養中の母が永眠しました」という喪中はがきを受け取りました。
(了)
礼子さんはそういって、初めてこのキャンパスに来た時、C女子たちが誰も洋服が似合っていない事にちょっとびっくりした、といいました。
「彼女たちは自分で自分に似合う服が選べないほど母親の支配がキツいのかもね」
といいます。
礼子さんのいう通りなら、ホットカーラーを買い与えた知美ママも、時計を譲る典子ママも、バッグを買い与える理世ママも娘をコントロールしている。私がそういうと礼子さんは頷きながら、
「自分の趣味じゃなくても、高級ブランドだったりしたら、つい受け入れてしまうでしょ。お母さんにしてみればそれでしてやったりよ。自分の趣味に強制できるんだから」
「それって結局、お金で支配してるんやん」と、私はため息まじりにいいました。「そこまでして娘を支配したいんや」
「うん。さみしいから」
と、礼子さんは肩を落としました。
私は、いなり寿司をはさんだ箸をとめました。「うちの母親と似た感じやね」
ふふふ、と礼子さんは小さく笑い、「案外、類友かもね」といたずらっぽくいいます。
ハハハハハ、と、私は笑いました。C女子たちは親と子の上下な関係をいったんフラットにして支配を解き、女同士としてつながりなおそうとしているのかもしれない。友だちみたいな母娘についてそう考えてみると、西本知美も、久保井典子も、松原理世も、彼女たちなりに母親にちゃんと愛されようとしているようで健気でした。私がそういうと、
「それは祥子がそうしたいんじゃない?」
食べて、と、礼子さんは、弁当箱に残った最後の一個のいなり寿司をすすめます。「ま、人間同士なんだから、合う合わないとか、好き嫌いとかがあって自然よ」
「親子でも?」
「そうそう。いろんな人間がいるんだから、母と娘の関係だっていろいろあるはずでしょ。なのに子どもは親を慕うものだって、そこだけ決めつけになってる」
特にいいところの家の娘だとプライドも持たされて、母娘関係がうまくいかない事が許されないんじゃない、と、礼子さんはいいます。「C女子っていうのもブランドなのよ」
「娘のプレッシャーか」
と、私はいいました。
礼子さんは頷き、母親の趣味の押しつけも親の愛情だと思えば受け入れないわけにはいかないから、といいました。「母親の愛情を受け入れられないと娘失格って感じするじゃない」
私はC女子たちと話をすれば良かった、と思いました。学生生活も残り少ないこの時期に大事な事をやり残したと思いました。彼女たちは私の友だちだったかもしれません。
「ママってね、私のママなの」
礼子さんは「フレンズ」のママは自分の実の母親だといいました。
幼い頃に礼子さんは東京の叔父夫婦のもとに預けられたそうです。なぜ大阪の親が彼女を育てなかったのか、詳しい事は話さなかったけれど、東京の「両親」は母親の兄夫婦、大阪にいる「おばさん」が実の母親である事は中学に上がる前に知っていたそうです。
大阪の「おばさん」は子どもの頃から慕った大好きなおばさんだし、東京の叔父夫婦を今も「親」と思っている、と、礼子さんはいいました。
「私には親が三人いるの」
そういって微笑んだ礼子さんはさみしそうでした。
大阪に来て、実の母親と一緒に暮らしてみたら、思ったより楽じゃなかった、といいます。洋服を買ってくれたり、手料理をしてくれたりして最初はうれしかったけれど、こうも毎週、毎日だと、これまで離れていた時間を取り戻そうとする母親の焦りばかりが伝わり、「東京にいて、離れて暮らした時のほうが『おばさん』とはうまくいってた」と礼子さんはいいました。
「ママと少し距離を取ったほうがいいんじゃない?」
と、私はいいました。特にスナックの手伝いは、体力的にも負担が多いように思います。
しかしお店は時々でも休んだほうが、といいかけた私に、「お店にいたいの」と、礼子さんはいいました。「お店はね、二人きりにならないから助かるの。お客さんが間に入ってくれる感じでね。それに『ママ』と呼べる。私、おばさんを『お母さん』と呼べないけれど、『ママ』なら呼べる」
ところで祥子はびっくりしないね、と、礼子さんはいいました。ママが実の母親であるという衝撃の事実を打ち明けたのに私が驚かないので、少しがっかりした、と、茶化すように笑います。
私は薄々わかっていたから驚かなかった、という意味の事をいいました。「だって『先生』も『専務』も礼子さんとママは似てるというし、それにスナックは人をそれっぽい呼び方で呼ぶようになるっていうし」
「そっか。『ママ』はママっぽいって事か」
うん、と、私は頷き、礼子さんの「ママ」と呼ぶ声がお母さんを呼ぶ感じに聞こえる事もあったといいました。
礼子さんは涙ぐみました。
私は慌てて自分は言葉の裏側を読んでしまう、私の悪い癖だから、と、付け加えました。
「悪くないよ」
祥子は悪くない、といって、礼子さんはポロポロと涙を落としました。
卒業した翌年の春、私はスナック「フレンズ」の閉店パーティに招かれました。
カウンターの席には斉藤さんや日根野さんがいて、ボックス席には日根野さんの事務所の人たちも来ていました。テーブルには厚焼き玉子サンドとコンソメスープが並んでいます。
祥子、と、私に抱きついた礼子さんは白のワンピースを着ていました。銀座で仕立てた礼子さんのお気に入りです。顔に疲れが見えたけれど、相変わらず美人でした。
まあ祥子ちゃん、いらっしゃい、と、出迎えてくれたママは、体がひと回り小さくなっていました。瞼や頬に影を作る独特の痩せ方をして、シルクのスカーフを巻いた頭は髪を失ったようでした。
その年の冬。
私は礼子さんから「かねてより病気療養中の母が永眠しました」という喪中はがきを受け取りました。
(了)