第1話

文字数 2,486文字

序章  前夜 1

 叔母の無神経な匂う音は車内で行き場に飢えながら鬼無優月(きなしゆづき)に纏わり付く。叔父の則夫はハンドルをギュッと握り運転しながら、バックミラー越しに姪をチラチラ覗く。その目つきに動揺した彼女は、軽くなった母を抱えながら窓越しの懐かしい風景に慰めを求めた。
 木村則夫は市役所の市民課で課長として働いており、見かけもそのまま真面目な何の害も無き一市民でしかない。しかし、時折漏らす頬から目元にかかった厭らしい表情筋が優月の感情を煽る。併せて、妻の友子が優月の母である香に対して露骨に浴びせた嫉妬の排泄場面に出くわしたことも、この一家全てに対して警戒を抱かせた要因にあった。
「着いたよ、お疲れ」
疲れ果てて限界を超えたこの可哀そうな姉の娘をようやく自分が面倒を見られる。使命感を溢れさせた叔父の声は、肉食動物の舌舐めずりの音でしかなかった。
「ひぃっ」
優月は自らの奇声で目を覚ました。いつの間にか、気絶するように眠りに落ちてしまっていた。
我に返った彼女は、手を差し出して上半身を押し入れてくる則夫から逃れて、反対側のドアから転げるように脱出する。
空振りした筋肉の無い細い腕が取り残されて空虚な視線は宙をさまよう。中年オヤジの不吉な口元を浮かべる様相に、優月は身震いしながら足早に離れた。
「ねえねえねえ、ちょっとちょっと待っておくれ」
友子が夫の不手際をカバーするかのように声を上げた。
「叔母さんの家に泊っていきなさいよ。優月ちゃんなら大歓迎。ウチの子がぜったい連れて来てって。このまま来ちゃいなさいよ」
この女は言うべき事を全て終えるまで人にしゃべらせない人間であることは百も承知。聞こえないふりで逃げるが勝ちだと優月は思った。
「さらば。あっ、うっ、臭い」
タバコの匂いが優月の鼻に纏わり付いている。
「足元、気を付けてな。一緒に行こうか」
則夫が横にいた。
「遅かったか。私から離れて。無遠慮に黒い脚と羽をこすれ合わせ纏い私の汗を舐める蠅は消え去れ」
怯えた心の叫びが誘い水となり、幼き頃の闇記憶が滲み出て、優月喜劇団公演が脳内リプレイされるのであった。

 ― あ~パパ、パパパパ、ごめんなさい。
才のことを勝手に妬んでいた。馬鹿な私が全て悪かった。パパは娘が自分に合った資質を活かして生きていけるように、愛をもって導こうとしてくれていただけであったのね」
優月は5才の誕生日に貰った玩具のマイクを握って、ちょっとしたことで喜ぶ大人を見つけては歌う子だった。年寄りたちは大人びた子どもの仕草にかわいいだとか、将来はスターだとおだて、それらを真に受けた彼女は自信に満ちていた。
「でも、パパだけは歌っている私を一度も褒めてくれなかった。他のことは褒めるのに。しつこくパパの為だけに歌っても、聞こえないかのようにタバコを吸いに行ってしまったね。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい ―

「だからね、優ちゃんみたいに、うちの子、歌手になるって言って困るのよ」
友子の話は続いていた。
「うっ」
「相談にのってもらえないかな。学園祭でもファンが大勢出来たみたいなのよ、うふふ」
「ああ、これ以上隙を与えたら更にろくなことを言わないんだ。嫌だイヤだ」
優月の心の目には叔母は俗物の雷様にしか見えない。ショートの髪というより短髪の下で深みの無いビー玉の様な黒目がただ在り、その下には鼻の穴が大きく広がって、虫の脚をはみださせながらしつこく叫んでいる。リップは濃い目のレッドで唇の皺が黒くみえてまるでゴキブリの腹踊り。
「うっ。これが正体なのか! 
コイツの足が私の頭蓋骨の裏側の何処かを歩き回り、脳みそをカサカサと音で征服する。
ハアハアハ苦しい、あああ。義理の姉の葬式の日にさえ鼻毛ぐらい綺麗に整えてよ、お願いだから。2回の父の葬式のどちらでも、太っている訳でもないのに下着が肉に食い込み、黒ずんだ痣をもみほぐす親指芸を披露した。思い出してしまう。身なりからでも小ぎれいにする美意識があれば、下衆な勘繰りのひとりマスなどする暇も少しはなくなるだろうに」
優月の胸にはそんな重い吐き気をもよおすイメージが次々と襲って来た。でも、このおばさんの図々しい生命を目の当たりにしていたから、優月は身なりを綺麗に整え、己の欲求をコントロール出来る大人に成れた。
「分かった、おばさん。ありがとうございました」
反面教師となった彼女には感謝することにした。
「だから、これ以上踏み込んでこないで。
もういい、過去や今この目の前のすべて、見ないふりをしよう」
聞こえない声量で唱えるその時、携帯電話が鳴った。大好きなジャニスの「Maybe」の呼び出しメロディに則夫は嬉しそうにしゃべりだした。
「お、今でもジャニス・ジョプリン聞くのか。お母さんも好きだったぞ」
「知ってるわ! うるさいな」と優月はイラつきそうになるも直ぐに自制したが、ふいに古いかさぶたが剥がれてスポットライトが舞台を照らす。

― プロのシンガーにはなれたけど、プロというレッテル以前の音楽そのものを手にはさせてもらえないのはなぜなのか。膿んだ肉のひだが問う。
「その、資格はどこで振り分けられるのだ」
母はよくわたしたち姉弟に夫が好きであったジャニス・ジョプリンとジムモリソンになってくれと言ってくれた。ずっと憧れのジャニスという何も持たざる者ゆえにブルースを歌える、本物の才能を持つパラドクスのファンタジーの世界。私がなんとか、近づこうと頑張ってみたけど辿り着けない世界線。パパは解っていたんだ。私はジャニスなんかには成れないことを。
弟の才だけでこの世界は十分だからって言うに決まっているわ ―

優月喜劇団公演中を知る由もない叔父はチープな笑顔で妻を庇った言い訳を浴びせていた。
「あいつも、優月ちゃんを心配しているんだよ。これを機にいつでも来てくれよ。頼ってもらっていいんだよ」
優月は我慢ならなくなって、つい言葉が滑った。
「弟の面倒は見てくれないんですね」
そこには既製品の笑顔機能は壊れ、腐った頬から厭らしい正義の正体を洩らす大人がいた。
優月はこの人たちと縁を切る決意が出来た。

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