第1話

文字数 2,868文字

序章  前夜 

 叔母の無神経な匂う音は車内で行き場に飢えながら優月に纏わり付くし、古いシートも軋みながら神経を引っ掻いてきて有無を言わさぬ金縛りをキメてくる。叔父の則夫はハンドルをギュッと握り運転に集中しようとしながらも、バックミラーに映るあからさまに妻の話を言葉として拒絶している姪が気になって仕方がなかった。優月は叔父のそんな表情が更に胃をムカムカさせるまでになるので、顔を背けて窓越しに見える故郷に逃げるのであった。軽くなった母を抱えながら不安に溺れそうな気持を流れる懐かしい風景が添い慰めてくれる気がした。それでも、何かすっきりしない塊が呼吸を苦しくさせた。単に、疲労から来る自意識過剰がいけないのか。

木村則夫は市役所の市民課で課長として働いており、見かけもそのまま真面目で何の害も無い一市民でしかない。しかし、時折漏らす頬から目元にかかった厭らしい表情筋が優月の感情を煽る。併せて、妻の友子が優月の母である香に対して露骨に浴びせた嫉妬の排泄場面に出くわしたことが何度もあったから、この一家全てを優月は警戒しているのだ。

「着いたよ、お疲れ」

疲れ果てて限界を超えたこの可哀そうな姉の娘をようやく自分が面倒を見るという勝手な使命感を溢れさせた叔父のナルシストな声は、肉食動物の舌舐めずりの音でしかなく、優月は「ひぃっ」と発した自らの奇声で目を覚ます。いつの間にか、気絶するように眠りに落ちてしまっていたようだ。

彼女は我に返って叔父の顔を窺ったが、にこやかに手を差し出して車から降りる手助けをしに掛かっている。身振りで断ろうとするも抱きかかえる勢いで上半身を押し入れてくるので、彼女は間一髪で反対側のドアを開けて転げ落ちるように逃げた。その時はさすがに、空振りした筋肉の無い細い腕が取り残されて空虚な視線は宙をさまよい、中年オヤジの不吉な口元が浮きぼりとなっていた。

優月は恐怖に震えながら後ろを振り返らず足早に去ろうとしたが、不発に終わった男の妻が見事なフォローアップで食らいついて来た。

「ねえねえねえ、叔母さんの家に泊ってもらっていいのよ。優月ちゃんなら、大歓迎よ。ウチの子がぜったい連れて来てっていうのよ。このまま来ちゃいなさいよ」

この女は言うべき事を全て終えるまで人にしゃべらせない人間であることは百も承知なので聞こえないふりで逃げるが勝ちだと、優月は足に力を込めてスピードを上げたつもりであったのに。

「足元、気を付けてな。一緒に行こうか」

タバコの匂いが追いかけて鼻に纏う。

「うっ」

叔父がいつの間にか横にいた。

「またか、またか、オヤジは、オヤジは私から離れろ。・・・・過去と今が、ぐっちゃぐちゃになって私の汗にたかる蠅どもメ。無遠慮に黒い脚と羽をこすれ合わせ纏い私の汗を舐めて首に巻き付くこの重い沼のごとき諦めで服従を強いるつもりなのか」

沈黙に過去が漏れ出した。

「あ~パパ、パパパパ、ごめんなさい。

才のことを勝手に妬んでいた馬鹿な私が全て悪かった。パパは娘が自分に合った資質を活かして生きていけるように、愛をもって導こうとしてくれていただけであったのね」

優月は5才の誕生日に貰った玩具のマイクを握って、ちょっとしたことで喜ぶ大人を見つけては歌う子だった。年寄りたちは大人びた子どもの仕草にかわいいだとか、将来はスターだとおだて、それらを真に受ける彼女は自信に満ちていた。

「でも、パパだけは歌っている私を一度も褒めてくれなかった。他のことは褒めるのに。強引に、どうって聞くと、聞こえないかのようにタバコを吸いに行ってしまったね。

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

痛い!

白くなれ、うっ。

「優ちゃんみたいに、うちの子、歌手になるって言って困るのよ。相談にのってもらえないかな。学園祭でもファンが大勢出来たみたいなのよ」

叔母は車から降りないままで、

「ああ、これ以上すきを与えたら更にろくなことを言わないんだ、嫌だイヤだ」

ショートの髪というより短髪の下で深みの無いビー玉の様な黒目がただ在り、その下には鼻の穴が大きく広がって、虫の脚をはみださせながらしつこく叫んでいる。。リップは濃い目のレッドで唇の皺が黒くみえてまるでゴキブリの腹踊りにしか思えなくなった。

「うっ。これが正体なのか! コイツの足が頭蓋骨の何処かを歩き回り、脳みそをカサカサと音で征服する、ハアハアハ、苦しい、あああ、義理の姉の葬式の日にさえ鼻毛ぐらい綺麗に整えてよお願いだから。2回の父の葬式のどちらでも、太っている訳でもないのに下着が肉に食い込み、黒ずんだ痣をもみほぐす親指も思い出してしまったわ。身なりから小ぎれいにする意識がありさえすれば、下衆な勘繰りのひとりマスなどする暇も少しはなくなるだろうに」

優月の胸にはそんな重い吐き気をもよおすイメージが次々と襲って来るのだった。でも、このおばさんの図々しい生命のガサツさを目の当たりにしていたから、優月は身なりを綺麗に整え、己の欲求をコントロール出来る大人に成れた。

故に反面教師となった彼女には感謝することにした。

「分かった、おばさん。ありがとうございました。だから、これ以上踏み込んでこないで。もういい、過去や今この目の前のすべてをも、見ないふりをしよう」

絶対聞こえない音量で唱える。そんな時、携帯電話が鳴り、大好きなジャニスのMaybeの呼び出しメロディに則夫は嬉しそうにしゃべりだした。

「お、今でもジャニス・ジョプリン聞くのか。お母さんも好きだったぞ」

「知ってるわ! うるさいな」と優月はイラつきそうになるも直ぐに自制したが、ふいに古いかさぶたが剥がれて、

「プロのシンガーにはなれたけど、プロというレッテル以前の音楽そのものを手にはさせてもらえないのはなぜなのか」と膿んだ肉のひだが問う。

「その、資格はどこで振り分けられるの? 

母はよくわたしたち姉弟に夫が好きであったジャニス・ジョプリンとジムモリソンになってくれと言ってくれた。ずっと憧れのジャニスという何も持たざる者ゆえにブルースを歌える、本物の才能を持つパラドクスのファンタジーの世界。私がなんとか、近づこうと頑張ってみたけどだめな境地。

パパは解っていたんだ、ワタシはジャニスなんかにはなれないことを。

弟の才だけでこの世界は十分だからって言うに決まっているんだ」

そんな思いを知る由もない叔父はチープな笑顔で妻を庇った言い訳を押しつける。

「あいつも、優月ちゃんを心配しているんだよ。これを機にいつでも来てくれよ。頼ってもらっていいんだよ」

優月は我慢ならなくなって、つい言葉が滑った。

「弟の面倒は見てくれないんですね」

そこには既製品の笑顔機能の寿命も尽きて膨張した幼虫のふくらみが垂れたような表情が曝け出された。おかげで、優月はこの人たちとは今この瞬間に縁を切る決意が出来たようなもの。
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