第2話 トライアル

文字数 1,796文字

 どうやらあのタイミングは絶妙の妙だったようで、その後しばらくは女性車掌さんを見かけることもなければ、総武線に抜かれることもなかった。

 時には進行方向の左側、つまり市ヶ谷から飯田橋の間とかで総武線を追ったりもしてみるのだが、散った後の濠の桜同様、空しい結果に終わるばかり。進行方向右側の席、要するに運転席に車掌が腰を下ろしていることが多いことがわかったところで、その座しているのが男性車掌ばかりとあっては気力も失せてくる。

 桜の枝が青々とし始めた頃には、総武線が通っても大して反応することもなくなり、半ば上の空の態。連休をどう過ごすか、というのもなくはなかったが、彼の頭を今よぎっているのは、試作を繰り返していた仕切り板、カタカナで書くところのパーティションボード、そのハンパ品をどう捌くか、にあった。
 「通勤途中でスケッチするなんてこともないだろうし、な・・・」
 単なるボードではなく、ホワイトボードを兼ねた間仕切りをいくつか作ってきてそろそろひと月が経つ。自分で希望して大型の事務用品を扱うようになったのはいいが、大きければいいというものでもない。試行と思考の錯誤とでも言った状態が続き、とうとう通勤時間にもシワ寄せが及ぶ。カスタムメイド系の商品ではあるが、基本形も必要。ならば形を組み合わせてはどうか、と試していたら、端材のような板が各種できてしまった、という次第である。

 使えるシーンを模索するために今朝は現物を持って移動している。冷蔵庫にマグネットで止めるタイプ、いわゆるミニボードのような一枚を小脇に抱え、思案に暮れる三雄。しかし思案中の乗客にこの線の曲がり具合はあまり好ましいものとは言えなかった。

 四辺は未加工だが、その用途からしてそれなりに重厚にできている。考え事をしていると足元は思いがけず安定を欠いていたりするが、この重量感が加わればバランスを崩すのは容易い。飯田橋のカーブでのちょっとした揺れは大きく作用し、あわや転倒・・・いや、辛うじて踏みとどまることができたのは、この偶然のおかげ、かも知れない。

 斜めになったドア窓の先に見えたのは先だっての女性車掌さん、だった。飯田橋を出て、運転席に着いた時分、いい角度で一方的な対面を果たせたのである。が、
 「前がつかえないことには」
 再現を期すとなると、それしかない。ブツブツ言いながらも、足はいつしか反対側のドアへ。そして胸がざわつく感じがするのを確かめるように手を当ててみる。

 彼の胸ポケットには、これまで担当していたジャンルの一品、お気に入りのボードマーカーが忍ばせてある。彼がその存在に気付いた時、列車はトンネルに進入、そして暗くなるのを逆手にとるようにある閃きが脳裏を掠めるのだった。

 可能性はなくはないが、またあの位置・あのタイミング、というのはどうかと思う。自分としては一時停止という現象はできることなら回避したい。それでも、こう念じたくなってしまうのは何故なのだろう。そうこうするうちに窓の外は明るくなり、減速モードになる。隣線を黄色いのが入ってくる気配はなかった。否、程よい加速で音を立ててくるのが斜め上から聞こえてきたではないか。

 落ち着きがなかった分、列車も気ぜわしく走っているように感じていた。実はいつもよりも速度が落ちていて、交差する部分で黄色いのに追いつかれていたのである。

 三雄はあわてつつも、閃いた通りにボードとマーカーを手に取り、文字を並べ始めた。
 『今日も爽やかでイイですね』
 「爽」の字が少々怪しかったが、とにかく二行分綴って、最後尾に抜かれる手前で掲示することに成功。

 誰に宛てた伝言だかが不明なのが惜しまれるが、当の車掌さんはどうやら気付いたようで、微笑みながら敬礼して返す。入線する速度がちょうど同期し、しばらく目に留めてもらえたのがまた良かった。何事も試してみるものだ。彼なりの商品企画魂のようなものが報われた瞬間だったとも言える。

 御茶ノ水には朱いのがやや先に着いた。ここで降りて、しかと見送ることもできた訳だが、こういう日に限って、神田直行デーだったりする。オフィスが二つあるのが恨めしく思うのはこういう時をおいて他にない。

 万世橋駅があった辺から、高い位置を走っていく総武線を見送ってみる。まだ名も知らぬ車掌さんがにこやかに運転席に着いていることは残念ながら見て取れない。

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登場人物紹介

並岡三雄(なみおか・みつお)、文具・事務用品の中堅メーカー勤務

佐方安季(さかた・あき)、車掌、主に中央・総武線各駅停車に乗務

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