暁の巫女は朔の夢を見る

エピソードの総文字数=6,753文字

〈櫟〉は南端に大海を抱き、大河を抱える穀倉地帯だ。そして西には北部から長く伸びる真赭山脈がそびえていた。山の麓には関所があり隣には国境警備を兼ねた靫負所がある。
 国境の街と言う意味では北部の〈壇〉と似ているが、温暖な気候と大河、そして南部の海はこの地域に大いなる恵みをもたらす。土地は肥え、海からもたらされる幸は人々の懐を温める。東に隣接する〈檜葉〉と同じく豊かな領地で、皆がこぞって欲しがる土地だった。
(〈櫟〉か)
 故人のため頭から抜けていたが、紫苑に最初に接触したのは櫟井佐輔。この土地の人間だ。
 葵の殺害当時調べられているはずだろうが、紫苑との繋がりは見つからなかったため、単独犯として調査は打ち切られていた。
「もうすぐ国境です。先ほどの伝達ではそれらしき二人組は通過していないとの事です」
 是近の言葉に、地図を凝視していた朔は、ほっとしながら目線をあげる。
 だが、ふいに青々とした海に点在する小さな漁船が目に入り、ひらめいた考えに朔は青くなる。

 漁港に隣接し、活気づいた宿場町。小柄な少年が、一人の大柄な青年に抱えられて大暴れをしている。角髪は解けてしまい、背の中程までの長さの金髪はぐしゃぐしゃになっている。
 馬車の上で朔との別れに泣きながら寝入っていた瑠璃は、辺りに漂う磯の香りと、視界に入る覚えのない景色に仰天して飛び起きた。そして慌てて辺りを見回しても近くに是近の姿は無く、朱利だけがニコニコと笑いかけていたのだ。
 わけが分からず逃げ出そうとした瑠璃を、朱利はにこやかな笑顔のまま拘束、拉致し、〈壇〉とはまるで逆方向の〈櫟〉に連れ去った。
「朱利! ふざけるのもいい加減にして。離しなさいよ! どこに連れてく気!?」
 瑠璃が何度尋ねても、朱利はのらりくらりと躱して、まったく取り合わない。
「そんなに睨むなよー。可愛い顔が台無しだよ?」
「誰か助けて! この人、人さらいです!」
「兄弟喧嘩なんですよ。どうぞお気になさらず」
 怪訝そうに見守る見物人に、朱利は明るい笑顔で飄々と言ってのけると、波止場に止まっていた小振りな漁船の一隻に乗り込んだ。
「舟ってどういうこと。どこに行くの」
「蘇比だ」
「――そ、蘇比!?」
 目を丸くする瑠璃を朱利は静かに見下ろす。視線の鋭さに瑠璃は一瞬暴れるのを止めた。
「蘇比へ向かうには〈壇〉か〈櫟〉から真赭山脈を越えるかの二つしかない――と思われているけれど、海を渡るのが実は一番早いし楽なんだ。どうやらあいつが答えに辿り着くのも時間の問題みたいだし、山越えは怪我人には辛いだろうから、今回は海を行くよ」
 労るように背の傷を撫でられると寒気がした。それは多分冷たい海風のせいではない。
「関所も通らないで――こんなことをして無事だと思っているの」
 靫負所には不法な出入国を取り締まる役目がある。海を自由に行き来できるはずがないし、きっと捕まると思いついた瑠璃は一瞬ほっとした。
 だが朱利はにやりと笑った。
「〈櫟〉は随分前から蘇比と密かに繋がっていてね。協力を仰いで国外への脱出の手はずは整えてある」
「〈櫟〉と蘇比が?」
 南部と蘇比という異国が繋がっている。瑠璃の頭にある事がひらめいた。別れ際、朔が気にして手に持っていた瓶。瑠璃も以前気にしたことがあった謎。毒の入手先だ。
 南部で作られた毒に、異国製の瓶。二つが繋がったとしたら。
(事件は、まだ解決していなかった?)
 瑠璃の全身に鳥肌が立った。
「もしかして、中宮に毒を授けたのは――」
 問いには答えずに余裕の笑みで朱利は微笑み「そう焦るなよ。舟を出したらゆっくり説明するから」とさらりと言うと、瑠璃を舟の上に下ろして結わえられていた綱を解く。
 緩やかに陸から離れる舟の上、よろめいた瑠璃の前で彼は舞うように優雅に礼をとった。
「ようこそ、瑠璃姫(・・・)。皆ずっと君を捜していた。君の母が蘇比からいなくなってから」
 口調と態度ががらりと変わった朱利にもだが、その内容にも瑠璃は仰天する。
「ひ、ひめ?」
「倖姫は蘇比の大切な巫女姫だ。瑞穂になんか渡せない。蘇比に連れて行く」
「連れて、って――でも朱利は国から追い出されたって――」
「そうでも言わないとすぐに追い返されるからね、表向きはそういうことにしていた。だが実際は潜入していただけだ」
「潜入?」
 不穏さに眉をしかめる瑠璃を見て、朱利は楽しげに笑う。
「もう二十年前のことだ。当時の倖姫であった〝朱嶺〟が占った。次代の偉大なる倖姫が瑞穂に現れると」
「朱嶺――お母さんが?」
 朱利は「君の母さんは未来までも占える希少な巫女姫だったんだ」と頷く。
「だが、朱嶺は国を飛び出し、蘇比は国の宝を失った。蘇比の王族は必死に探したがとうとう彼女は見つからなかった。でも諦めずに今度は次代の倖姫を探す事にしたんだ。他の巫女の新たな占では、司祇が瑞穂の皇子ということしかわからなかったが、司祇の傍には、彼に引き付けられた倖姫が必ず現れる。だから彼を見張りたかった。――だけど、あの宮には身元の確かな者しか入れない。入れたとしても異国出身の者が東宮の傍まで近寄る事はほぼ不可能だろう?」
 必死で朱利の言葉を飲み込みながら瑠璃は頷く。瑠璃だってそのための身分を手に入れるのに十年かけ、やっと朔と再会を果たせたのだ。
「ならば司祇を宮から外へと誘い出そうというのが最初の作戦だった。寵姫の葵さえいなければ、今上帝は後ろ盾のない皇子を見放し、里に返すだろうってね」
「ちょっと待って。それじゃあ、もしかして朔のお母さんを殺したのは――」
 朱利は首を横に振る。
「それはまぎれも無く紫苑だ。俺たちは彼女の耳元で囁いて〝知恵〟を授けただけ。あの女は本当に簡単に動いてくれる絶好の〝駒〟だった」
「――なんてこと」
 〝知恵〟――それが毒だという事か。
 あまりの事に言葉を失う瑠璃を気にせず、朱利は淡々と話を続ける。
「だが目論みは外れ、司祇は宮に残った。そのせいで、俺は倖姫を取り戻すために十年も瑞穂にいることになったんだ。しかもあの女、血迷って司祇まで殺そうとした。毒殺しようとしたと聞いた時は随分焦ったよ。倖姫が見つかる前に司祇が死ねば、全てが終わるから。……まぁ、彼女の暴走のおかげであいつに近づくことができたとも言えるけれど、もう駒の役割は終わりだ。君たちが欲しがっていた証拠を用意して、罪を全部かぶってもらったよ」
「証拠ってまさか」
 瑠璃の頭の中に不意に紫苑が煽った毒の瓶が浮かぶ。
「君たちは大元の毒を探していたはずだ。あっさり見つかってよかっただろう?」
 頷く朱利に唖然としていると、彼はにっと笑って瑠璃の頭を撫でる。そしてそのまま瑠璃の髪を愛おしげに梳いた。
「やっと無事に君という宝を取り返した。まさかこんなに近くにいるとは思わなかったし、随分遠回りだったけれどね。――長かったな」
 朱利は懐かしそうに海の向こうに広がる陸地を見る。
 その顔がいやに雅びに見えて、これは誰だ――ふいに疑問が泡のように浮かび上がった。
「あんたは一体、何者なの」
 震える声で問う。
「俺? 俺は――」
 ふ、と唇の端に端麗な笑みを浮かべた朱利に、瑠璃は思い出す。初めて彼が暁天の倖姫の歌を唄ったとき、彼がどこかの貴公子のようだという感想を抱いた事を。
 過去に思いを巡らせる瑠璃の耳に、その答えが唐突に響いた。
朱璃王子殿下(・・・・・・)! ご帰還をお待ちしておりました!」
 どこに潜んでいたのか、飛び出して来た船員たちが涙ぐみながら床に膝をつく。
「帰還とは、随分気が早いな」
「舟が出ればもう同じ事でございます」
 感極まる船員に囲まれたまま、瑠璃は「……おうじ?」呆然と繰り返す。
「末のだけれど、一応ね」
 言いながら彼は烏帽子をとった。髻を解くと佩いていた剣を取り、鬱陶しいとでも言うように瞬く間に項で髪を切り落とす。
 陽光が彼の赤い短髪を照らし、宝玉のように輝いた。
「だが倖姫を手元に得られれば、王位も手に入れられる。君はそれだけの宝だ」
 彼には野心がないと誰もが思っていたと思う。だが違った。王位という目的のために己を偽って十年をかける。これを野心と言わずなんと言うのだろう。
 身震いしながら、瑠璃はそれでも反抗する。
「朔がいなければあたしは力を使えない。知ってるはずよ」
 だが朱利は不敵に笑った。
「倖姫が司祇を選ぶ。それがどういう事か、君はもう気がついているはずだ」
「――どういうこと」
「瑠璃。俺を愛せ(・・・・)
 そう低く囁いて朱利が瑠璃に顔を寄せる。端正な頬が傾けられ、唇が触れそうになったとたん、おぞましさを感じた。
「嫌!」
 顔を背けると朱利は瑠璃を引き寄せようとする。そのとき、
「るう! 屈んで!」
 遠くから怒りを孕んだ声が聞こえ、瑠璃はとっさに彼の腕を抜けて身を伏せる。風を切る音がした直後、飛んで来た矢を避けた朱利が海の方へと重心を崩す。瑠璃が思わず目の前にあった足をすくうと、朱利はそのまま海へと落ちた。
「この悪童(がき)、なにしやがる!」
 朱利を助ける船員。あぶれた者が武器を取り瑠璃に襲いかかる。朔がさらに矢を射かけて威嚇する。体勢を低く取り、揺れる舟の上を船首まで移動した瑠璃だったが、やがて際まで追いつめられる。
 足元を氷のような風がすっと吹き抜けた。温暖な南部とはいえ、霜月の海は泳ぐには冷た過ぎるのだ。
「るう、今行くから! そこで待っていて!」
 朔が矢を射ながら、舟を近づけさせている。だが、
(これ以上近づいたら、朔が危ない!)
 直感した瑠璃は、ためらわなかった。まとっていた狩衣を脱ぎ捨てると、朱利が落ちたのとは逆方向の海へ身を投げた。
「るう!?」「瑠璃!!」
 朔と是近の叫び声が聞こえる。
 全身を針に突かれるような感覚に瑠璃は呻く。どんどん水を吸う残りの衣を脱ぎ捨てて小袖姿になる。身を切るほどの冷たい水を掻き分ける。
 波にのまれる度に、意識が持って行かれそうになる。だが、その度に『るう、今助ける!』と遠くで叫ぶ声が瑠璃を叱咤した。
 やがて温かい大きな手が瑠璃の手を掴む。力強く舟に引き上げられたかと思うと、直後息が止まるほどの力で抱きしめられた。
「るう――なんて無茶するんだ!」
「さ、朔」
 彼も海に飛び込んだらしくびしょ濡れだった。震えで噛み合ない歯を必死で操りながら瑠璃は訴える。
「構わない。他の男には今の君を見せられないし、――あぁ、こんなに冷えきってる」
 彼はもどかしげに自分の上衣を脱ぐと、濡れた小袖を体に貼付かせた瑠璃に被せる。そして水の滴る髪をぐしゃぐしゃと乱暴に拭った。
「ごめん。人任せでは駄目だった。自分で守らなければ駄目だった。――傍にいて。一生」
 それはどういう意味? もう彼の役に立つことは出来ないと思っていた瑠璃は目を見開いた。
「で、でも。帯刀は、解任するのでは?」
「もう帯刀にはさせない。今度は僕が守る番だから」
 涙声に聞こえて顔を上げようとするけれど、頭を胸に抱きしめられて出来なかった。
「いやよ。守るのは、あたしよ」
 そこは譲れずに、瑠璃は抵抗するが、朔も折れない。
「いいや、僕だ」
 訴えと共に朔の腕に力が入り、顔が近づく。伏せられる涼やかな眼差しに瑠璃の心臓が暴れる。だが唇が触れる直前になって、是近が「殿下には何度も助けて頂き感謝していますが――さすがにそこまでです」と無理矢理二人を引きはがした。
 不満そうな朔を是近は人を殺せそうな目で見たが、ふいに海の方へと視線を移した。
「大嘘つきのお見送りをしますか?」
 朔と瑠璃は水面に浮かぶ小舟を見た。
 そこでは赤い髪の長身の男がこちらをじっと睨んでいた。彼は見た事もない紅の衣装――おそらくは蘇比の服を羽織り、海風に紅の短髪をなびかせている。
 異国風の容貌、威風堂堂とした態度はもう、瑠璃の知っている『朱利』ではなかった。
 小舟はこちらに戻る事はせず、ゆらゆらと波に漂い沖に流れて行く。
 諦めの良さを不思議に思い、ふと後ろを見ると、おそらくは靫負所の役人だろう、大勢の武者が舟に帆を張り海に出ようとしていた。
 豆粒のようになって西の海へ消えて行く元同僚を眺めていると、ふいに瑠璃の頭に彼の言葉が浮かんで来た。
『倖姫が司祇を選ぶ。それがどういう事か、君はもう気がついているはずだ』
 そして、続けて蘇った声に不覚にも顔が赤くなる。
『俺を愛せ』
(あれは、あたしが愛した人が、司祇だという意味? つまり――)
 力の発動条件を思いついたとたん、ぼっと全身に熱が広がった。
「るう、どうした? あ、顔赤い! 熱が出たのかも」
 朔がおろおろと額に手をやるが、瑠璃はその手の大きさと温かさに余計に熱が上がるのを感じていた。


 季節は巡り、厳しい冬が通り過ぎ、そして民が待ち望んだ春が辺りに穏やかな空気を運んで来ていた。
 日華門(にっかもん)付近の陣座(じんざ)には、張り切って素振りをする少年が一人。新年と共に十七歳になった瑠璃は、相変わらず角髪を結い、狩衣をまとった童男姿を続けている。
 近衛府の役人の詰め所であるそこでは、桜が蕾を綻ばせ、時折白い花びらをはらはらと風に漂わせている。遠くに見える真赭山脈も雪の衣を脱ぎ、萌黄の衣装へと衣替えを始めている。
 瑠璃の背の傷はもうほとんど痛まないが、寝込んだ分鈍った体は半年を過ぎてもなかなか昔のような切れを取り戻さない。
(あーあ。倍は練習しないとだめね)
 東宮付きの女房にと推薦する朔の懇願も押しのけて彼女が勝ち取ったのは、近衛舎人(このえとねり)――要するに近衛府の下っ端武官の地位だ。
 是近は帯刀長に見事復帰したというのに、瑠璃だけが怪我を理由に推薦をもらえず、試験さえ受けられなかった。
 だが、いざという時に彼を守れる手段は多い方がいいと思った瑠璃は、どうしても女房ではなく武官として彼の傍にいたかった。
 幸い先の除目では、大幅な人員の異動があった。中立であるはずの近衛府の人間が中宮に肩入れしていたことが発覚したため、帝が一度衛士の見直しを決意し、人員の整理と共に大規模な募集をかけたのだ。地方から有能な衛士を募り、自ら考案した試験を実施した。
 武術馬術だけでなく、政への知識、意識まで問われるような試験だったのだけれど、瑠璃は、この好機を逃すものかと必死に勉強してなんとか合格を果たした。
(一からやり直しだけど、諦めないんだから)
 息をついた瑠璃は、聞き慣れた二つの足音に気が付いて、梨壷の方角を見やる。
 そこには予想どおり狩衣に身を包み颯爽と渡殿を歩く朔の姿があった。後ろからは厳つい顔をした護衛の是近も顔を出す。

 瑠璃が任官された後、朔は稽古だと理由を付けて率先して顔を見せるようになった。
 彼は、瑠璃が話さずとも朱利が企てた陰謀の核心に辿り着いたそうだ。だからこそ心配で目が離せないと言う。
「暁、相手して」
 彼は庭に降りて来ると、瑠璃の目の前に立った。日課になった手合わせ。弓で勝っているだけでは満足しないで、剣でも瑠璃を越えるつもりらしい。
(あたしの仕事が無くなるじゃない)
 と彼の企みに呆れつつ、そうはさせないと引き受ける。
「承りました」
「今日こそは一本とるから。一本取ったら、約束は覚えてるよね?」
「わかってます。手加減しませんよ?」
 朔は瑠璃と目が合うとにっと微笑む。雲間から光が射したかのような笑顔を見て、瑠璃はたとえようもない幸福感に満たされた。 

 幼い瑠璃が守ると誓ったのは、彼のこの〝笑顔〟だった。彼の命だけではない。彼の心までもを守りたいと思っていたのだ。
 己の望みをようやく思い出した瑠璃は、新たに芽生えた覚悟と共に朔がくれた約束を抱きしめる。
『――傍にいて。一生』
 くすりと笑うと瑠璃は心の中で答えた。
(傍にいるわ。そしてずっと守ってあげる……なんて言ったら、また怒るかしら)
 朔の言う約束とは、『一本取ったら、何でも一つだけ言うことを聞く』というものだ。きっと武官を辞めろとでも言うのだろう。だけどそうはいかない。幼い頃からの夢なのだ。絶対に譲れない。
(いつかまた帯刀に任命してもらうんだから。嫌って言っても絶対よ)
 そう思いながら、瑠璃はうららかな陽光に包まれる朔に向かって、にんまりと微笑んだ。

《完》

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