夢枕

文字数 849文字

 朝起きたときのつかの間
 自分の名前も来歴もぼやけているひととき
 靄に包まれた寝ぼけた頭が
 それでも想い出すあの人は誰だろう
 自分の名前や来歴を置いて
 真っ先に思い出すあの人は誰だろう
 そんな些細な記憶の作用で
 自分が恋い焦がれていることに気づいた

 眠る前にも思い浮かべ
 目覚めてすぐにも呼び戻す
 記憶に残るあの人の姿
 その顔の輪郭
 意志の宿る瞳
 形を自在に変える黒髪
 触れたおぼえのある指先
 夢を自ら選べるなら
 眠りのあいだも慈しみたい
 記憶に残るあの人の姿

 会えない無聊を慰めるために
 心惑わす幻像に覆いをかけて
 静かな音楽を思い浮かべる
 でもだめだ
 旋律が途切れる合間に
 あの人の声が聴こえる
 あの人の呼ぶ名前が
 自分のものだとしばらく気づけない
 その声があまりにも好ましくて
 その音色に込められた感情を汲み取るのに忙しくて
 意味は遅れてやってくる
 間近で話していても
 衛星中継のような時差が
 距離ではなく感情によって生じてしまう
 いまもまた時差によって
 いつかに発せられたあの人の声が
 まどろんだ頭に届いてしまう
 幻聴に悩まされた病者は恢復しても
 消えてしまった声を懐かしむことがあるという
 いまはその気持ちが痛いほどよくわかる
 傍らの声が消えてしまうぐらいなら
 病むことのみが生きる望みだ

 あの人は眠るときに
 目覚めたときに
 誰かを思い浮かべることはあるのだろうか
 それが自分であればと願うが
 そうでなくてもかまわない
 あの人が安らかに眠り
 すこやかに目覚め
 なにがしかの幸福に包まれていてくれるなら
 星宿はすべて正しい位置にある
 いずれは死ぬ身だとしても
 不死のような上機嫌で
 この世を信じることができる

 幸いあれという祈りが
 あの人を煩わせないような形で
 叶えられるのを願う
 あの人の姿と声と魂が
 写真や蓄音機や信仰によらない形で
 とこしなえに残されることを願う
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