4.八百万以上いるかもしれない

文字数 1,810文字

シンガポールには新年が四度くる

西暦の新年、華人が祝う春節、イスラム歴新年、インドの祝祭ディワリ。新年だけでなく、それぞれ時節の催し事もあるので、毎週のようにお祭り気分です。春節には魚生(魚のサラダ)を食べ、元宵節には湯圓(甘いスープに入ったお団子)を食べ、端午節には肉粽(角煮肉の入ったちまき)を食べ、中秋節には月餅を食べ(月餅はそれぞれのホテルが趣向を凝らしているので色とりどり)、…私は中国語学習者であったため華人文化を中心に過ごしていましたが、ディワリになればリトル・インディア(インド人街)は鮮やかなイルミネーションに飾られ、インド人クラスメートたちはお洒落をして登校してきます。カンポングラム地区(別名アラブ・ストリート)を訪れる機会はあまり無かったのですが、白亜と黄銅が熱帯の木々に映えるサルタン・モスクや、赤茶色と翡翠色に塗られた建物の壁を横切って、スカーフを着けたお母さんと子供、女の子の友達同士が仲良く歩くさまは、うっとりするような麗かさです。

国立シンガポール大学エクステンション、つまり社会人学部の普通語科は、当時オーチャード・ロードの南の端、ペナン・ロードと交差する辺りのビルにありました。ちょっとした緑地帯で、白いドーム屋根のナショナル・シンガポール・ミュージアム、モダンなSMU(シンガポール経営大学)キャンパスと並び、木々に隠れるように教会が建っています。檀家制における仏教徒(つまり信心はあまり無い)からすると、なんだか秘密の花園のように見えるのですが、シンガポールではキリスト教も広く受け入れられています。フィリピンから来た人たちの大部分はクリスチャンですし、華人のクリスチャンも多くいました。普段厳しくも快活な台湾人の老師(先生)が、時々空き教室でお祈りをしているのを見かけた記憶が有ります。日本占領時代、日本語と中国語を話せる台湾人が(台湾は先に日本の統治下に入り、日本語教育が行われていた)マレーシア・シンガポールで日本軍の通訳として働いていたため、以前シンガポールでは台湾人はあまり歓迎されなかったそうです。そんな話をしてくれた老師も、移民してきて辛いことや哀しいことが沢山有ったんだろうなあ、と静かなその姿に思ったのでした。またシンガポールではクリスマスも大いに盛り上がるのですが、丁度雨季の頃なので、クリスマス・ショッピングで賑わうオーチャード・ロードも、時々冠水しかけます。

*とは言え、シンガポールのショッピング・モールやMRT駅は地下通路で繋がっていることが多く、雨の日にも快適にショッピングができます。念のため…

シンガポール人は風水も大好きです。風水に基づいた建築物やモニュメントも、ここかしこでシンガポールの景観を形づくっています。CBDの高層ビル群に囲まれて、黄金の水滴を振り撒く『富の泉』にはあまりご縁が有りませんでしたが、風水・縁起物・パワーアイテムを売るお店が一同に会するフー・ルー・コンプレックスには、クラスメイトたちと遊びにいったことがあります。それこそ中層デパート全てが縁起物・パワーアイテムで埋め尽くされている、なんともヴィヴィッドに濃い空間で、オーラ占いをしてその人に必要なパワーストーンのブレスレットを作ってくれるお店も有りました。先日仕舞い込んでいた小物入れからこのブレスレットを発見し、ここまで無事にこられたのも、シンガポールで良い気を貰っていたお陰かも?有り難や。

シンガポールの場合、多宗教・祭祀が共存しているというより、何かこう一人のなかに、幾つもの拠りどころが存在しているような気がします。植民地時代から大量の移民流入、厳しい経済競争のなかで、シンガポール人自身が培ってきたものなのでしょうか。

この間、リトル・インディアで仙人みたいな人に会ったの

学校の休み時間、日本人のクラスメイトがぼそりと言いました。全身に衣を巻いて、裏道の影に座っていたその人は、重篤な病を抱えているようでもあり、政府が粛々と“保護”を取り仕切る路上生活者なのかも知れず、インド人街の人々はただ受け入れているようだったそうです。この国は、生き延びるために己れにも個人にも課してきたことが多く、耐えられるだけの体力が有るうちはいいけれど、最後には自分を守らなければならない。家族と同郷のコミュニティと、心のうちに輝いている、あの信じるものだけが救いなのかもしれません。
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