第1話
文字数 2,281文字
秋深まるある日の昼下がり。僕はやるべきことを全部放り出して、ただただ公園のベンチに座っていた。季節を錯覚しそうなくらい強い日差しが地面を照らしていて、屋根がある日陰にいても十分暖かい。僕は厚手のニットなんて着ているものだから今にも汗が噴き出しそうなくらいだった。
だからって別に移動するわけでもなし。そのまま何もせずぼーっとしていると、しばらくして日傘をさしたおばあちゃんがやってきた。80代くらいか。僕のばあちゃんよりちょっと上品な感じ。服装とかそういうことじゃなくて佇まいや雰囲気がどことなくそう思わせた。
「こんにちは。お隣いいかしら?」
「あっはい。」
僕は素早く荷物を膝に置き左端に寄った。
「ありがとう。」
そういっておばあちゃんは日傘をたたみ右端の方に座った。
「無理やり悪いわねぇ。近くに住んでるんだけど、外出するとここに腰掛けるのが日課になってるもんだから。」
「いえいえ。僕はそろそろ帰りますのでごゆっくり。」
気まずくなる前に、と席を立とうとすると、
「あらあら気を遣わないでいいわよ。別に私の椅子じゃないんだから。それよりもし時間があるのならちょっと話し相手になってもらえないかしらね?」
「話し相手、ですか?」
「ほら、一人暮らしなものだからね。誰かと話す機会なんてほとんどなくてねぇ。あなたみたいな若者と会話することなんて今を逃したらもう生きてるうちにないかもしれないし。」
少し寂しげに僕を見るその目元に、最近会ってない田舎のばあちゃんが重なった。
「いいですよ。全然。暇ですし。」
「まぁうれしいわ。あなた名前は?」
「えーっと、サイトウです。」
「サイトウくん、ね。私はエノモトっていいますからどうぞよろしくね。」
そう言いながらおばあちゃん、もといエノモトさんは手袋を外し右手をゆっくり僕に差し出した。だけど僕はその手からあからさまに目を逸らしてしまった。
「ああごめんなさいねぇ。気になるかしら?」
「いえ、こちらこそすみません。」
「いいのよ。もう60年近くこれだから今更何も気にならないわ。本当にね。」
エノモトさんが右手を開いて僕に向けると薬指と小指が根本から綺麗にないのがわかった。
「事故とかですか?」
「えぇ、そう。若い頃に。」
と優しい笑顔でエノモトさんは答えた。
「それは…なんていうかとても…。」
こういう状況は初めてだから何を言えばいいかよくわからず僕は口籠った。でもエノモトさんは特に表情を変えることもなく同じ笑顔のまま続けた。
「あぁそうだわ。これも何かの縁だわね。サイトウくんには特別に一つ面白い話をしようかしらね。」
「はい?」
「この何十年と誰にも話したことはないんだけれど。実を言うと事故ってのは表向きの理由でねぇ。この指が無くなった本当の理由はある"取引"をしたからなのよ。」
「取引、ですか???」
何か物騒な話だろうか。僕は最大級に不可解って顔をしたと思う。
「そう。…あれは23歳の時だった。何もかも諦めて死んだように生きていた私の前にある日突然"それ"は現れたわ。」
エノモト劇場の開演を悟った僕は、少し前のめりになって静かに大きく頷いた。
「そして"それ"は言ったのよ。"お前は今この瞬間、最も不運で最も幸運なやつだ"とね。恐れやら驚きやらで声も出せず黙って話を聞いていれば、要するに何かを差し出せと。その代わりそれに見合った才を与えてやるという話なのよ。」
「なんだろう。物騒だけどどこかファンタジーのような話ですね。」
「そうかしら。無一文だった私が何を差し出せばいいのかと尋ねれば、今まで会った人間は魂やら寿命やら家族を差し出したなんていうじゃない。私は怖くなった。だいたいきちんとした取引ができるかどうかもわかったもんじゃない得体の知れない化け物に何を渡せば良いって言うのか。とにかく頭を悩ませたわ。」
「断る、という選択肢はなかったんですか?」
「そうねぇ。断ることもできたのかもしれないけれど。その時は頭に浮かばなかったわね。目の前のものに対する怖さもあったけど、なにより欲が出たのね。かけらでも"才能"が欲しかったのよ。喉から手が出るほどに。何もかもうまく行かなくて自暴自棄になっていた頃だったから余計かしらね。」
「何か目指すものがあったんですか?」
「物書きの端くれでねぇ。でもちっとも芽が出なかった。」
「なるほど。」
「才能は欲しいくせに大きなものを差し出す度胸なんかない。その時ふっと思ったのよ。指くらいならちょうどいいんじゃないかしらって。」
「命には関わらないけど、何かと使う部分ですもんね。」
「ええ。それで左の指を5本か、右の指を2本かと迷って、結局この右の薬指と小指に決めたというわけ。」
「なんだろう。その選択なんとなくわかる気がします。だけどそれで本当に才能を手に入れたんですか?」
「指2本なんかじゃ大した才能にはならなかったけれどね。おかげで食べるのには困ってないし、何より好きなことをしてこの年まで生きているんだからありがたい話よねぇ。」
「へぇーすごい!やっぱりファンタジーだ!」
「とまあ、こんな老人の身の上話でも暇つぶしくらいにはなったかしら?」
「はい、面白かったです。」
「それはよかった。」
「お礼ってわけじゃないんですけど。特別な話をしていただいたので、僕も一つ面白い話をしますね。」
「あら嬉しいわ。ぜひ聞かせてちょうだい。」
「驚かないでくださいね。僕、今20歳なんですよ。でも実は中身は30歳なんです。」
エノモトさんは面白いくらい思いっきり困惑の表情を浮かべた。さて次は、サイトウ劇場の幕開けである。
だからって別に移動するわけでもなし。そのまま何もせずぼーっとしていると、しばらくして日傘をさしたおばあちゃんがやってきた。80代くらいか。僕のばあちゃんよりちょっと上品な感じ。服装とかそういうことじゃなくて佇まいや雰囲気がどことなくそう思わせた。
「こんにちは。お隣いいかしら?」
「あっはい。」
僕は素早く荷物を膝に置き左端に寄った。
「ありがとう。」
そういっておばあちゃんは日傘をたたみ右端の方に座った。
「無理やり悪いわねぇ。近くに住んでるんだけど、外出するとここに腰掛けるのが日課になってるもんだから。」
「いえいえ。僕はそろそろ帰りますのでごゆっくり。」
気まずくなる前に、と席を立とうとすると、
「あらあら気を遣わないでいいわよ。別に私の椅子じゃないんだから。それよりもし時間があるのならちょっと話し相手になってもらえないかしらね?」
「話し相手、ですか?」
「ほら、一人暮らしなものだからね。誰かと話す機会なんてほとんどなくてねぇ。あなたみたいな若者と会話することなんて今を逃したらもう生きてるうちにないかもしれないし。」
少し寂しげに僕を見るその目元に、最近会ってない田舎のばあちゃんが重なった。
「いいですよ。全然。暇ですし。」
「まぁうれしいわ。あなた名前は?」
「えーっと、サイトウです。」
「サイトウくん、ね。私はエノモトっていいますからどうぞよろしくね。」
そう言いながらおばあちゃん、もといエノモトさんは手袋を外し右手をゆっくり僕に差し出した。だけど僕はその手からあからさまに目を逸らしてしまった。
「ああごめんなさいねぇ。気になるかしら?」
「いえ、こちらこそすみません。」
「いいのよ。もう60年近くこれだから今更何も気にならないわ。本当にね。」
エノモトさんが右手を開いて僕に向けると薬指と小指が根本から綺麗にないのがわかった。
「事故とかですか?」
「えぇ、そう。若い頃に。」
と優しい笑顔でエノモトさんは答えた。
「それは…なんていうかとても…。」
こういう状況は初めてだから何を言えばいいかよくわからず僕は口籠った。でもエノモトさんは特に表情を変えることもなく同じ笑顔のまま続けた。
「あぁそうだわ。これも何かの縁だわね。サイトウくんには特別に一つ面白い話をしようかしらね。」
「はい?」
「この何十年と誰にも話したことはないんだけれど。実を言うと事故ってのは表向きの理由でねぇ。この指が無くなった本当の理由はある"取引"をしたからなのよ。」
「取引、ですか???」
何か物騒な話だろうか。僕は最大級に不可解って顔をしたと思う。
「そう。…あれは23歳の時だった。何もかも諦めて死んだように生きていた私の前にある日突然"それ"は現れたわ。」
エノモト劇場の開演を悟った僕は、少し前のめりになって静かに大きく頷いた。
「そして"それ"は言ったのよ。"お前は今この瞬間、最も不運で最も幸運なやつだ"とね。恐れやら驚きやらで声も出せず黙って話を聞いていれば、要するに何かを差し出せと。その代わりそれに見合った才を与えてやるという話なのよ。」
「なんだろう。物騒だけどどこかファンタジーのような話ですね。」
「そうかしら。無一文だった私が何を差し出せばいいのかと尋ねれば、今まで会った人間は魂やら寿命やら家族を差し出したなんていうじゃない。私は怖くなった。だいたいきちんとした取引ができるかどうかもわかったもんじゃない得体の知れない化け物に何を渡せば良いって言うのか。とにかく頭を悩ませたわ。」
「断る、という選択肢はなかったんですか?」
「そうねぇ。断ることもできたのかもしれないけれど。その時は頭に浮かばなかったわね。目の前のものに対する怖さもあったけど、なにより欲が出たのね。かけらでも"才能"が欲しかったのよ。喉から手が出るほどに。何もかもうまく行かなくて自暴自棄になっていた頃だったから余計かしらね。」
「何か目指すものがあったんですか?」
「物書きの端くれでねぇ。でもちっとも芽が出なかった。」
「なるほど。」
「才能は欲しいくせに大きなものを差し出す度胸なんかない。その時ふっと思ったのよ。指くらいならちょうどいいんじゃないかしらって。」
「命には関わらないけど、何かと使う部分ですもんね。」
「ええ。それで左の指を5本か、右の指を2本かと迷って、結局この右の薬指と小指に決めたというわけ。」
「なんだろう。その選択なんとなくわかる気がします。だけどそれで本当に才能を手に入れたんですか?」
「指2本なんかじゃ大した才能にはならなかったけれどね。おかげで食べるのには困ってないし、何より好きなことをしてこの年まで生きているんだからありがたい話よねぇ。」
「へぇーすごい!やっぱりファンタジーだ!」
「とまあ、こんな老人の身の上話でも暇つぶしくらいにはなったかしら?」
「はい、面白かったです。」
「それはよかった。」
「お礼ってわけじゃないんですけど。特別な話をしていただいたので、僕も一つ面白い話をしますね。」
「あら嬉しいわ。ぜひ聞かせてちょうだい。」
「驚かないでくださいね。僕、今20歳なんですよ。でも実は中身は30歳なんです。」
エノモトさんは面白いくらい思いっきり困惑の表情を浮かべた。さて次は、サイトウ劇場の幕開けである。
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