第6話

文字数 1,828文字

 ふと思えば、母親の常軌を逸した行動を他人に相談したことがなかった。家庭内でこんなひどい有様になっていることを、何より私自身がおかしいと思えなかったのだ。これが普通の家庭の様子だと思っていた。両親の離婚は周囲でも普通のことだったし、親と喧嘩して家出して、友人の家に泊まって反省して帰るなんて話も聞いていた。だからこれは私の随分遅めにきた反抗期というやつで、成長の過程にあるべき至極普通の反応なのかと思った。親を嫌いになるなんて一度は誰もが通る道。それが大学生になってやっと来ているのかと。
 私には反抗期というものがなかった。父親はともかく、偉大なる母に反抗すれば悲しませてしまうし、母親の望む「良い子」ではない。自分のことよりもまず母親を、この世で最も尊重しなければならない。母親が望む行動をして、母親のご機嫌を取るのが、この世に生ませてもらった子どもの役目であるべきだと本気で信じていた。洗脳されていたのかもしれない。

 その日を境に、大学の図書館で心理学の本を読み漁った。普段から図書館には入り浸っていたので本の場所は分かっていたが、今まで見なかったジャンルだったので種類の多さにびっくりした。虐待を受けた子どもが、将来どのように育つことが多いのか。日常的に暴力にさらされ続けた子どもは、真似して周囲に暴力を振るって自分の思い通りにさせることもあると読んだときは、幼い頃に言うことの聞かない妹の頭を叩いたり頬をつねったりする情景が思い起こされた。私って、虐待を受けていたのか。親を守ったり機嫌を取るのは子どもの役割なんかじゃなかった。自分の機嫌ぐらい自分で取るのが大人なんだと初めて知って衝撃が走った。そして、このスパイラルは悲しいことに続いてしまうことも知った。どうやら私の母親の場合、子どもへの愛情が無い訳ではなく、愛情の注ぎ方をどこか掛け違えていて、悲しいことにその価値観がガチガチに固まってしまっているのではないかと勝手に分析した。本で得た知識をもとに話し合いを試みてみたが、
 「親の育て方にケチ付けんのかよお前は!目障りだから今すぐ出て行けよ!」
 と包丁を振り回し始めたので一日近くの公園で夜を過ごした。殺されると思ってぼろぼろ泣きながら、着の身着のままで出てきたので、寒くて凍えそうだった。閑静な住宅街の中にある公園で、木が生い茂った広い公園だったから誰もいなくて、うろつく変な人も警察も居なかったから声かけられなくて良かったと思った。補導なんかされたら今度こそ家に入れてもらえなくなる。お金もないのに一人暮らしなんかできないし、「お前は何をやってもダメで大雑把だから、一人暮らしなんかできる訳ない」と母親に言われ続けていたからか、私は自立できない人間だと思い込んでいた。毎日不安で眠れなくて、アルバイトと勉強を両立しても自立なんかきっとできなくて、まだまだ私は精神的に未熟者で馬鹿でクズでダメだから親のもとで暮らしていかなきゃいけないのかと、そんなことばかり考えていたら日が昇ってきた。家の窓が暗くなっていることを確認すると、ドアをそっと開けて中に入った。もしかしたら、寝たと見せかけて包丁を持って待ち構えているかもしれない。慎重に中に入ったけど既に寝息を立てて両親は寝ていたのでホッとした。

 身近な大人の客観的な意見をもっと欲しいと思い、とりあえず母親側の親戚と会う機会があったので、それとなく相談してみた。外面は良くても家では物や罵声が飛んできて落ち着けないこと、家出したくても行く当てがないこと、金銭的な余裕もないからどうすればいいか分からないこと。信じてくれる人もいれば、信じてくれない人もいた。「親を大切にしないなんて可哀そう。愛情持って育ててるのに、そんなこと言われたら悲しくなる」そんな意見でちょっと在佐久間に押しつぶされそうになった。でも、まあ、当たり前だ。母親側の親戚だから、母親の味方をするだろうし、こんなクソみたいな愛情の与え方しか知らない母親を育てたのはこいつらだもんなあと、今までの自分では考えられないことを考えられるくらい、本で培った知識が私の心を守ってくれた。たぶん、祖母や義祖父(母親の家系は何度も離婚を繰り返すので、親戚がいっぱいいる)がゆがんだ愛情で育てたから母親もこんな風に育ってしまったんだろう。精神的に未熟でも、子どもを産めば戸籍上の親にはなれる。実際に子を育て、教育できるかは別なのだと実感した。
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