放火

文字数 1,205文字

 屋上から滑空機がなくなった翌日、これまでのものとは明らかに異質な吶喊が聞こえた。その調子には敗北、無鉄砲、絶望、諦観、逃走、壊滅が含まれていた。僕と二人の女は屋上から、正門の方を眺めていた。しかし八月の光は幾重にも白い幕を下ろし、人々を影法師にして、僕たちには何が起きているのかはっきりと理解することはできなかった。
 僕たちがいよいよ「学園」の崩壊のときが来たことを悟ったのは、本校舎に火が放たれてからだった。炎は蜥蜴の舌のように僕たちが白痴のように呆然としているあいだにも、本校舎に広がっていった。
 僕たちは熱気を感じながら、「学園」の終末を感じ取っていた。ついにバリケードが破られて、「町」の人間が「学園」に侵攻してきたのだ。
「これで私たちの足掻きも終わりだ。「学園」の生徒は何かしらの処罰を受け、絹は「町」に連れ戻される。もう私たちには絹を「町」から庇う手段はない」
「そのことであなたたちを責めることはありません。いつかは「町」に戻らなければならなかったのですから」
「「学園」という居場所を失った私たちは今後、会うこともないだろう。これからはそれぞれの人生を歩まなければならない。そのときが来る前に、桑江に聞きたいことがある。人間のあいだには意識の経路が通じる。きみはそこから発展させて、無意識にも経路が通じると言ったが。ところでその経路にはコミュニケーションを阻害する力があるとも付け加えた。きみはその力の根源がどこにあるのか見つけ出したのか?」
 僕は本校舎の壁が焼き尽くされ、鉄骨が落下していく様子を眺めていた。しばらくしてから僕は朝永の質問に答えた。
「無意識の特性の一つとして、時間の非線形性があることは伝えたはずだ。しかし無意識にはもう一つ特性がある。それは無意識の任意のある二点を取ったとき、それらのあいだには平等が成り立たないということだ。無意識には人智の知ることのできない序列がある。無意識の領域において、あらゆるものは不平等だ。そもそも平等というものは言葉の上だけで成り立つものであり、人々の無意識に平等は存在しない。この世界にある平等は制度上の平等だけだ。ある範囲の事象において、平等が成り立たないとき、方程式も成り立たない。すなわち、人間の無意識を科学のように定量化することはできない。人間は外面では数値や平等を作り出したが、内面では差別と偏見による野蛮や未開から抜け出すことができていない。人と人がコミュニケーションを取るとき、必ず内面の不平等が強い影響を与える。本人も意識していない、その軽蔑や思い込みがコミュニケーションに阻害を作り出している。コミュニケーションは同等の意識を共有しなければ成り立たない。けれども人間とは根源的に不平等な生物だ」
 本校舎は炎に包まれ、床が抜け落ち、「町」に不吉な予感を響かせた。僕たちは「学園」が崩壊していく様子を眺めつづけた。
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登場人物紹介

桑江英(くわえはなぶさ)

「町」から精神的に欠落していると判断され、「学園」に収容されている青年。
自分の存在を確認するために設計上飛ぶことのできない滑空機の組立と解体を繰り返す。
物事を唯心論的な方面から解釈する癖がある。

朝永夏子(ともながなつこ)

「学園」の生徒の一人。
現代物理学に精通している。
量子力学が専門で、相対性理論と散逸構造論にはそこまで言及しない。

砂川絹(すなかわきぬ)

「町」を支配する教会の修道女。
「町」に対抗を試みる「学園」に人質として誘拐される。
宗派はカトリックで、特にトマス・アクィナスに傾倒している。

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