第1話

文字数 1,995文字

羅風は美しい葦毛の馬だ。立ち姿はすらりとしているのに脚はどっしりと太く、一度走れば風のように速かった。これで気性が良ければ後世まで語り継がれる名馬だっただろうに、羅風は希代の暴れ馬だった。機嫌が良くても十間も走らないうちに乗り手を振り落とし、荒れている時は手綱を取ることさえ困難だった。
葛城の殿が藤永新雅に羅風を下賜したのは、体のいい厄介払いだった。一国の主ともあろうものが馬一頭をてなづけられないのでは外聞が悪いが、潰して食ってしまうには惜しい馬であった。そこで目をつけられたのが、うだつの上がらない一人の旗本だ。
博打狂いの先代の借金を不問にしてもらった負い目があるため、藤永家の跡継ぎは殿に頭が上がらない。それをいいことに、褒美と称して使い古しの武具など不要なものを押し付けるのが慣例となっていた。
律儀に

を使う姿が、忠義を通り越して卑屈だと笑われているのには、新雅自身も気づいていた。だが、まさかこんなじゃじゃ馬まで押し付けられることになるとは。
新雅は古びた面頬の下でため息をつき、手綱にかけた指を固く握る。

「どうした、藤永。そんな浮かぬ顔では、羅風に振り落とされかねぬぞ」
前を行く馬上から振り向いて声をかけたのは、葛城家の若君だ。元服したての少年らしい声と嘲るような表情が、ひどく不釣り合いだった。
そんなことを口に出すわけにもいかず、新雅は頭を下げる。
「申し訳ございません。これで戦に臨むのは初めてでして、いささか緊張しているようです」
「ふん、情けないことじゃ。これで先鋒が務まるものか」
「いけません若君、あまり藤永殿をいじめては」
と窘める取り巻きも口先だけで、藤永を盗み見ては笑いを漏らしている。なにせ、他の面々が落ち着いて駒を進めているのに、新雅は一人だけ跳ねる馬に乗っているのだ。並んだ隊列からひょこひょこと頭を上下させている様は滑稽極まりないだろう。
このままどうにか手綱を握り続けたとしても、合戦が始まると同時に振り落とされて物笑いになるのがせいぜいだ。落馬しても、足軽とやりあうような泥臭い戦いにはならないだろう。隣国の諌山勢の力を削ぐというのは名目だけで、若君の初陣を手堅い勝利で飾るのが今回の戦の目的だ。だからこそ、羅風に乗れと言う若君の要求にも二つ返事で従ったのだ。それが自分を笑いものにする算段だと分かっていても。

もう一度ため息をつこうとしたとき、遠くで開戦を告げる鐘の音が響いた。
その瞬間、羅風の体がひときわ大きく跳ねる。新雅が声を上げる間もなく、羅風は走り出していた。敵陣とは、全くの反対方向へ向かって。
「藤永殿、どこへ行くつもりか! 敵に背を見せるとは武士の名折れじゃ!」
「見よ、もうすでに手綱も手放して居るわ!」
耳障りな笑い声が、あっという間に遠くなっていく。誰かの言葉通り、新雅は手綱を放して羅風の首にしがみついていた。そうでもなければ、瞬く間に振り落とされていただろう。
羅風は己の首に絡む重石にも構わず、猛然と走り続けていく。頃合いを見て落馬しようにも、この勢いで地面に叩きつけられれば死にかねない。途中から、新雅は目を開けることも諦めていた。とにかく、羅風が早く脚を止めることだけを神仏に祈っていた。
肌を撫でる風が不意に静かになって、新雅は恐る恐る目を開く。そこは、山中に開けた淵だった。振り返れば、木々の隙間から葛城の城が見下ろせる。おそらくここは、城の裏山の中腹あたりだろう。
戦が始まる前に逃げ出した不名誉さを嘆く気すらなかった。新雅はそうっと羅風の背から降りると、鞍と手綱を外してその辺にうちやる。どちらも殿から賜ったものだが、今更惜しむものでもない。これだけの暴れぶりを見せれば、羅風を野山に放したと言っても殿は納得するだろう。最初からこうすることができたのなら、それが一番よかったのだが。
羅風は新雅を一瞥もせず、淵に頭を突っ込んで水を飲んでいる。身軽になったその姿は、なぜかとても美しく見えた。

羅風と別れて妙に軽い気持ちで獣道を下っていると、新雅は一人の農民とすれ違う。ちょうど良いので里に下る道を尋ねようとしたが、どうも様子が不自然だ。厳しく問い質すと、男は小刀を取り出して自らの首を掻ききった。その持ち物を改めれば、諌山勢の斥候であることはすぐに知れた。
新雅は敵軍の策を事前に見抜いたとして、殿から大いに称賛された。褒美に賜った刀はぴかぴかとして少しだけ居心地が悪く、けれど大層誇らしかった。栄進のきっかけを作った暴れ馬のことなど、すぐに人の口からは消えてしまった。

それから後に、新雅は一度だけ山中で羅風らしき馬を見かけたことがある。
(うまや)にいたころよりも一回りほど痩せて毛並みも乱れていたが、堂々とした立ち姿は変わらなかった。その馬は澄んだ黒曜の瞳で新雅を見つめた後、小さくいなないて木々の中へ消えていった。
美しい馬だと、やはり思った。
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