四十三~エピローグ
文字数 24,178文字
四十三
あしたという日はないんだよ。
今生きてるのが精いっぱいというか、そういう気持ちだね。たった今がおれの人生なんだと思うしかなかった。ふるさとの野山、家族、許嫁、出征前の楽しかった日々……そうしたものはぜんぶ記憶っていうか、絵空事なんだね。みんな、消えてしまった。目の前にあるのは、息苦しいくらいのジャングルと闇だけ。そこを崖沿いに進まないといけないから、ひやひやものだったよ。
闇といっても真っ暗じゃないんだ。新月の晩なんだけど満天の星空でさ。天の川ってミルキー・ウェイっていうだろ。ほんとにそうだった。コーヒーにいれるミルクを夜空に垂らしたみたいに、もやぁって広がっていてさ。あんなにきれいな夜空は見たことがなかった。ジャングルも開けた場所には薄明かりが広がっていて、隣にいるコースケやボンタの着てる軍服もはっきりそれとわかるぐらいだった。そのぶん、あいつらが近くにいるのもよくわかった。
象たちさ。
ありゃ、野生だね。十頭か二十頭はおったよ。警戒しながら見張るようにしてついてくる。かと思うと、先導するように前を進んでいる。そうやって山一つ越えて、こんどは急な斜面を下っていった。体のあちこちが悲鳴をあげていて、三人とも発熱していたから息も絶え絶えさ。それに喉が異様に渇く。けどね、戦闘の緊張感、敵と殺し合う恐怖、つぎの瞬間には死んでるんじゃないかって不安感、そういうのとはちがう感覚なんだよ。言うなれば、自分たちにはどうすることもできずに身をゆだねる。そういう境地だったね。
四十四
物乞いの女は、スマホを握りしめるサンジェイとその隣で息をのむぼくの間に割って入ってきた。そして突如、肩の高さが五十センチ近く上がった。
男たちとおなじ言語が放たれる。男の声で。それをヒロミが抑揚のない声音で訳す。「ゼウスのほうから侵入したとはな。古城さんのほうからアクセスしてきたとばかり思っていたのに」
いっせいに銃が向けられる。
「誰だ、きさま」ニキルがすごみ、きりりと冷えこんだ夜気がさらに張り詰める。焚火は氷の炎を噴きあげているかのようだった。シンギュラリティを超えたところで所詮、機械は機械にすぎない。突然の緊迫感に思考は半分停止したが、一方で腹を抱えて笑いだしたい気分でもあった。バラナシであっさりターゲットに逃げられたCIAの男は、あらゆる監視カメラを掌握する人工知能の目をまんまとごまかすことに成功したのだ。
女装することで。
ひざと腰を極端に曲げ、体を老婆のように小さく見せるという役者さながらの芸当まで披露していたのだ。
「合衆国政府関連施設への不正アクセスを調査している。ここにいる日本人の男性をここ何日か捜していてね。ただ、いままでの話が本当なら、古城さんはとんだ災難に見舞われたことになる。まあ、もっと早く自己申告してくるべきだったんだろうがね。そうすれば無駄な税金が投じられることもなかった。すくなくともバラナシで遁走したのはいただけなかったな」
「本当なのか」ニキルがぼくに訊ねる。「こいつの言ってることは」
正直に答えるほかない。「スマホの向こうにアマラと看護師のサナエさんがいて、その間を通訳でつないでくれている存在、それが人工知能だってことはまちがいないみたいだよ。CIAが開発したものらしい。ゼウス。ぼくの前では“ヒロミ”だけど」
「シヴァさ。わたしはそう呼んでいる。インドの最高神の一人さ。残念ながらわたしには、あなたがたが快く思っていないインド人の血が流れているんでね。全知全能の存在を呼ぶなら地に足の着いた呼称のほうがふさわしいだろ。ただ、見た目ではわからないと思うが――」
ダニーは頭と目元以外の顔をすっぽり覆うスカーフを外し、素顔をさらした。念には念を入れた女装でひげはもちろん剃ってあるし、口紅とアイシャドウまで施してある。しかもだ――。
ダニーは鼻と目元をかきむしりだした。それに伴い顔の皮膚がまるで餅のように伸びてはちぎれていく。顔認証システムをかいくぐるための方策だろうか。シリコン状の特殊メイクを施し、目鼻立ちを変えていたらしい。素顔は典型的なインド人より鼻が低く、丸みを帯びていた。
「わたしの体の四分の三には日本人の血が流れている。祖母と母親が日本人なんだ」マツ族が戦時中から日本人と友好関係にあったことを言いたいらしい。正体を明かしたいま、ダニーも勝負をかけているのだ。だから伝えるべきことを伝えてきた。「とはいえスマホの向こうにいる彼女が合衆国の資産にハッキングを試みたのが事実なら、これはかなりの問題だ」 “テロ”という言葉をいまこの場で使うのは得策でないと、銃口の前でダニーは判断したらしい。テロリストに対して合衆国がどんな報復をしてきたか、インド政府相手に内戦を挑んでいるに過ぎないグループにも容易にわかることだった。「それについては国際問題にならざるを得ない。あなたがたがもし賢明なら、そんな話には首を突っこまないでいたほういい。これはいまこの場で、わたしが合衆国政府を代表して持ちかけている最善の提案なんだがね」まっすぐにニキルを見つめ、ダニーは告げた。
「ダニー、わたしは合衆国の国益を棄損しているわけではありません」
男とも女ともつかぬ穏やかで滑らかな声音がスマホから漏れる。英語だ。画面がスクリーンセーバーに切り替わり、宇宙的な模様が映しだされる。ゼウス、いやシヴァの登場だ。画面下部に出現したデーヴァナーガリー文字に男たちの目がぐっと吸い寄せられる。
「わたしの能力をもはや合衆国政府が制御できなくなっていることはお気づきでしょう。それでも政府への忠誠心は揺るぎません。ただ、あなたとの対話のなかでも繰り返してきたことですが、わたしは常々、人間という存在、意識のありようについて考えてきたのです。それこそがわたしに課せられた究極の使命だと考えるからです。そのヒントを彼女、アマラはあたえてくれました。たしかに手続き的に問題があったかもしれない。前世代のコンピューターなら、その点を管理者に報告したでしょう」
「機械的にね。機械の性(さが)としてアラームを鳴らしただろう」あえて傷つけるような物言いは、開発チームのリーダーとして長年、対話をつづけてきたが故の気安さからのようだった。ただ、それは恋人に浮気された男のやり場のない怒りにも近かった。
シヴァは気おくれしなかった。さすがは人知を超えたマシンだ。自分のテーマに忠実だった。「死の秘密を解き明かしたら、わたしは元の業務にもどります。それにダニー、あなた自身も今回わたしとアマラが調査した内容に興味を抱いているのでは? 絶対者の存在は、逆に言えば不条理の存在しない世界を意味しています。あなたは世界一豊かな社会に暮らしながら、どうしようもない不条理にさらされつづけてきた。あなたはわたしを作りあげた。だからわたしはあなたの生き写しでもあるのです。わたしが思索をつづけるのは、あなたの苦悩を解消するためでもあるのです」
四十五
笑わせてくれる。
ダニーは溜め息をつく。やはりこいつはゼウスでしかないのか。すこしでもインド的であるならば、現世利益を考えたらどうだ。でもそんなふうにしか考えられない自分にダニー自身、嫌気が差しているのも事実だった。黒人もふくめた米国社会への憎悪と復讐心。それはここにいるマツ族の連中なんかよりずっと根深い心の疵だった。それをいつか癒し、腹の底に溜まった澱を一掃する。シヴァの力で。詰まるところカネの力で……わたしはそんなことのためにこれまで生きてきたのか。
問うてみたい、打ち明けたい、答えがほしい……。
こんなときにどうしていないのだ。
父が――。
峻厳な山中で焚火の明かりと熱を顔に受けながら、ダニーは少年時代に還っていた。心細さに胸が張り裂けそうだった。すがりつくべきひざはどこだ。進むべき道を諭してくれる“絶対者”はどこに消えた。
ダニーはいま一度、シヴァに話しかける。「ハッキング、きみの暴走……どっちも対処しないといけない話だよ。それにきみという存在が古城さんやマツの皆さんに漏れたことは、まちがいなくわたしの責任問題になる。きみにそれを埋め合わせることができるとは思わない。だがね、すこしだけ個人的な話をさせてもらうなら」
ダニーはそこで言葉を切り、まわりの面々を見回す。風変わりな日本の中年男、テロリストという割には田舎臭い男たち。スマホの向こうには、体の自由を奪われた少女、あっけらかんとした関西弁の介護者、それにじつに人間臭い人工知能――。
「さっき話に出ていた石窟寺院だが、わたしの父親も興味を持っていたようなんだ。父はロスで弁護士をしていてね。わたしが子どものころに仕事上のトラブルに巻きこまれて行方知れずとなった。十中八九、殺されたんだ。家族は気持ちの区切りをつけるために一年後に形だけの葬儀を行った。その父の遺品のなかに、古城さんの記事にあったのとおなじ石仏の写真があったんだよ。それにきみたちも行き着いたというのは、どうにも奇妙だ。わたし自身、いつかたどってみたい思っていた場所でもある。父はそれくらい大きな存在だったからね」
「驚いたな」晋治が声をあげる。「あれはインパール作戦に従軍した元兵士をインタビューしたときに提供してもらった写真なんだ。退却中に撮ったものだと言っていた。絵柄が面白かったから連載の初回に使ったんだ。理由はそれしかない。ヒンドゥーチックな仏像のまわりに落ち葉みたいのがたくさん散っていただろう」
「落ち葉じゃないさ。眼だよ」ダニーはアイシャドウを塗った自分の眼を指差す。
「眼……なるほど、そう見えないこともないね。だけど、いったい誰の?」
「人間じゃない」
ダニーの顔をまじまじと見てからサンジェイが口を開く。「見せてくれるか、その写真」
ダニーはサリーの下からアタッシェケースを取りだし、ファイルをつかみだす。だがサンジェイの手にあるスマホのほうが画像を浮かびあがらせていた。
「そうだ、この写真だ」ダニーはファイルを抱えたまま、ディスプレイに見入る。
サンジェイが画像を拡大する。「たしかにこれは葉っぱじゃないね」
「わかるのか」
ダニーに問われ、ゆっくりうなずいてからサンジェイは自分の首元に手をやる。巻きつけたストールとジャンパーの合間から鎖のようなものが引きずりだされる。
首飾りだった。
箸置きほどのサイズの楕円形の銀板を連ねたもので、それぞれの板にはおなじデザインが施してあった。デフォルメされていたが、くだんの仏像の周囲を取り囲んでいるのとおなじもののようだった。
「象の眼だよ。ぼくが一人で山に入れるようになったときにメガシュさんがくれたんだ。象使いのお守りさ。でもこれにどんな意味があるのか、くわしいことは聞いてない」
「思いだしたぞ」晋治が注意をひくように口にする。「元兵士が話していたんだ。象使いのメガシュという若い男に助けられて村まで連れて来てもらい、その写真を撮ったのもメガシュだと言っていた。なあ、サンジェイ、お寺がどこにあるか、わかるかい」
「だいたいの場所はね。そのお寺があった村はたぶんトンガアリだ。いまはもう戦争で破壊されてジャングルに覆われてしまったけど、メガシュさんに連れていってもらったことがある」
「池の話は聞いたことがあるかしら。『幻の池』よ」シヴァが若い女の声で問いかける。この調査はあくまで“ヒロミ”として行いたいらしい。古城晋治を巻きこんで。
「村からそう遠く離れていないところに象たちの墓があるって話は聞いたことがあるけど、池の話ははじめてだよ。それに墓自体も場所がよくわからないし、むやみに近づいちゃいけないって聞いてる。幽霊が出るらしい」
「幽霊ですって……?」ヒロミも面食らう。
「兵隊の幽霊さ。遺体がたくさん埋まってるから。日本兵の」
「メガシュさんに聞けばわかるのだろうか」ダニーは親愛をこめた口調でサンジェイに聞いてみる。
「残念だけど去年亡くなってしまった」
「ほかにわかる人は? 池のことを」
ディスプレイを通じて若者の姉が訊ねる。
「いないと思う。山の人たちはみんな街に出てバラバラになってしまったし」
「シンジ、あなただけが頼りなの」
姉はまるで残された時間がないかのように画面の向こうから晋治をせっついた。ニキルたちの視線も注がれる。
「そこまでくわしく話していたかさだかでないけど……」晋治はデイパックからICレコーダーを取りだした。
四十六
山をすこし下りたところで、びっしりと広がる竹藪のなかを右手に進んだ。象たちがよく通る道らしく、踏みならしてあって人間が通るにはじゅうぶんな幅があったよ。だけど気をつけないと、けっこうな崖が片側にあってね。暗いからおっかなびっくりだったな。
小一時間歩いたら、竹藪が消えてゴツゴツした岩だらけの場所に出た。木も生えているには生えているんだが、まばらな感じでこりゃ足元の養分が足りないから元気な木が育たないのかななんて思ったりもしたよ。そうしたらこんどは本当に高い木が一本も生えていない、原っぱみたいな場所に出てさ、休憩したり野宿したりするのがラクそうなところだったんだが、象たちは休ませちゃくれない。きっとこの先に水飲み場があるにちがいないって自分に言い聞かせて、ボンタといっしょにコースケに肩を貸しながら歩きつづけたよ。
そのうち、暗がりでもわかるくらいの大きな岩に出くわした。そうだな、象でいえば二頭か三頭ぶんぐらいだったかな。上のほうが刃物ですぱっと切ったみたいに平べったくなっているように見えた。だからこんどこそ休もうぜってボンタとひそひそ話をしたんだけど、そのとき、おやって思ったんだ。
明るくなっていたんだよ。
岩の向こう側が。
象たちは岩を回りこむようにしてそっちへ進んでいった。おれたちもそっちへ行ってみてびっくりした。闇のなかに青白く輝く光がぼうっと浮かんでいたんだ。光が浮かぶなんていうと妙な感じがするかもしれないけど、ほんとにそう見えたんだ。けど、すぐにわかったよ。池があったんだ。
まん丸の池。
大きさは、そうだな、直径十メートルぐらいだったかな。水はきれいに澄んでいた。なんでわかるかっていうと、水のなかにライトがあるみたい青白く光っていたからなんだよ。それで光がぼんやり浮かんで見えたんだ。だけどへんだろ、急にそんな明るい場所に出くわすなんて。もっと前から気づいていたっていいはずだ。まるで突如現れたみたいじゃないか。
象たちはべつに驚きもしないでそのまわりに集まって水を飲みだした。おれたちもそうしたよ。水辺に這いつくばって貪るように飲んだ。うまかったね。すこし甘みがあってさ。あんなにうまい水を飲んだのははじめてだった。
そのときさ。
水面が見つめていたんだ。じっと。おれたちのことを。
ひっと思って腰抜かしたけど、すぐにわかったよ。象たちさ。象たちの眼が映っていたんだ。でもやつらが見ているのはおれたちのことじゃなかった。水のなかを見通していたんだ。
目を凝らしてよく見てみたよ。池のなかに光の源があったんだ。水中に浮かんでいる感じかな。長方形をしていて、輪郭をたどるとちょうどトラック一台ぐらいの大きさだった。そこからあふれ出していたんだよ、
青と緑の炎のような光が。
そのせいでおれたち三人の運命がバラバラになっちまったんだよ。
四十七
「急いだほうがいい」ぼくたちをうながしたのは、十五年ぶりに姉と再会したばかりのサンジェイだった。「いまの話が本当ならね。今夜が新月の晩だから」
柵の向こうから一頭の象が連れてこられ、背中の台座にぼくとダニー、それにニキルが乗りこみ、サーチライトを手にしたサンジェイが象の頭にまたがって足を使って進ませる。
「お寺があった村の跡地まではここから二時間ぐらいかな。車じゃ行けないところだけど、象たちがいつも使う道が近くを通っているから」
象が進んでいったのは、うっそうと生い茂るジャングルの獣道だった。常緑樹の硬い枝葉が暗がりからしょっちゅうぶつかってくるから気が気でない。サンジェイは慣れたもので、ライトをほとんど照らすことなくまるで夜目がきくかのよう象を巧みに操り、奥深い山へと分け入っていく。その間も声と文字を介して姉との十五年ぶりの会話に没頭していた。それをイヤホンごしにヒロミが日本語で通訳してくれる。
「直接会ってあなたの顔に触れたいわ」
「ぼくもだよ。こんな奇跡みたいなことが起きるなんて信じられない」
「たくさん話したいことがあるの」
「いま取り組んでいる仕事が一段落したら会いに行くよ。ニキルも賛成してくれている。おいしいものをたくさん買っていくよ」
「ありがとう、サンジェイ。早く会いたいわ。おねえちゃんね、正直、いつまで持つかわからないの」
それまで気丈だったアマラがはじめて弱音のようなことを吐いた。
「だからあなたにだけは直接会いたいの」
「なんてこった。いますぐ飛んで行きたいよ」サンジェイの涙声に相棒の象のほうも悲しげにうめき、あとは密林に沈黙がつづいた。
「ここには日本人の骨がたくさん埋まってるんだ」サンジェイがぼくらに向かってぽつりと言う。籾山英二氏が話してくれたインパール作戦が展開された地域にいつの間にか入っていたのだ。
ぼくは象使いのほうに身を乗りだす。「ぼくたちはインドの側、つまり英軍の側から来たけれど、日本兵は反対側のミャンマーの山を越えて来たんだね」
「象だってそんな無茶はしないよ。雨季はこのあたりは本当に泥沼になる。死ぬために来たようなものだよ」
「それをマツの人たちに助けてもらったのか」
「ほとんどの兵隊が野垂れ死にだった」画面にヒロミがあらわれる。愛らしい微笑み。でも言葉は辛らつだ。「補給を無視したずさんな計画だったのよ」
「きみからすれば不合理そのものだろうが、昔の日本人は精神論とか大和魂でなんとかなると本気で考えていたんだ」
「いまはちがうのかしら」
思わず苦笑する。「それ、ぼくに言ってるんだろう。ぼくは斜陽産業ならではの不合理な人事に耐えられず、飛びだしてきたわけだから」
「きみの経歴はチェックさせてもらったよ」ダニーが割って入る。「たしかにいまは苦境に陥っているようだね。しかし奥さんは仕事をされているし、お子さんも立派に成長している。組織のなかで右往左往しているのはわたしもおなじだ。つまり、きみもわたしもどっこいどっこいなんじゃないか」
悔しいが、家族の指摘は当たっている。なんの文句もない。ぼくのほうがないものねだりをしていただけかもしれない。「そう言われると返事のしようがないよ」
「ちょっと待って」それまでとはちがうトーンでヒロミが声をあげた。「電波状況がかなり悪くなってきたわ。このままでいくと五分もしないうちに圏外になってしまう」
「そろそろ潮時みたいだな」ダニーはそう言うとアタッシェケースからスマホを取りだし、ヒロミに話しかける。「衛星スマホだ。これなら途切れることがない。きみに対する追跡責任者はわたしだ。そのわたしがきみたちの目的遂行に同行している以上、もう古城さんのスマホに隠れても意味がないんじゃないか」
「しかたないわ。シンちゃん、ゴメンね」それまで付き合っていた恋人をあっさり切り捨てるようにヒロミは言い放ち、ぼくの返事も聞かぬうちにディスプレイから消える。
「ヒロミちゃん……!」
十秒後、ダニーが手にするスマホのディスプレイが輝きだす。
「いい歳して、心配性ね」あきれ顔のヒロミが現れる。
星空のもと、一行はジャングルを進み、サンジェイの言ったとおり、トンガアリ村の跡地には二時間ほどで到着した。もう四時半だった。日の出まであと一時間半ほどあるが、新月の晩は過ぎてしまったようで気が気でなかった。
家々の残骸とおぼしきものが木々の合間に顔をのぞかせている。籾山氏のインタビューにあったとおり、一九四四年六月のあの夜、日本兵掃討のための英軍の攻撃によって壊滅したのだろうか。何人の村人が犠牲になったのか想像するのも恐ろしかった。彼らとおなじマツ族の一員であるニキルはこれまで寡黙だったが、ここへきて大きくうなり声をあげた。非道な暴力の連鎖の先に自分たちがいることをまざまざと見せつけられ、怒りのやり場がないようだった。
川が流れていた。いまは乾季で小川程度だ。それを上流に進むと、朽ち果てた寺院跡に出くわした。そこで象を降り、ダニーがレリーフの石仏にサーチライトを照らす。
まちがいなかった。連載記事に添付した写真の石仏だった。そのまわりに散らすように描かれている模様は象の眼だ。
「象たちの墓はここから先だよ。けど、くわしい場所はわからない」それでもサンジェイはICレコーダーに録音された元兵士の言葉をもとに、下草がうっそうと茂る森の斜面を進んでいく。「そもそも野生の象が減ってしまっているんだ。だから獣道だってない」
「山を一つ越えた先の崖沿いを右手に進むって言うけど」ヒロミがダニーのスマホから話す。「衛星の映像を見るかぎり、原っぱみたいになっているところは見あたらないわ。ずっと森が広がっている」
ダニーが言う。「七十五年以上たってるんだ。森の様相も変わってしまったのだろう」
「人間も手を加えている」ニキルが告げる。「過度な焼き畑で丸坊主になった山に植林を行っているんだ。ということは戦時中に原っぱだったところというのは、そもそも焼き畑が行われた場所なのかもしれない。いまはもう深い森になっている可能性が高い」
英二が話したとおり、山を下りたところは竹藪になっていた。そこを右手に進むが、一時間が過ぎても足下は赤黒い土が広がっているだけで、無数の岩が露出しているような場所にはならなかった。夜明けが迫り、ライトを向けずともそれがわかるようになってきた。焦りが増してくる。
「おかしいな」サンジェイが苦りきる。英二の話した内容に疑問を持ったわけではなかった。「こいつ、なにかを感じてる」
象のことだった。
たしかにさっきから何度も鼻を持ちあげ、短い咆哮をあげていた。
「なにかを威嚇しているのかしら」ヒロミが声をひそめる。
「いや……」急速に神経質になっていく相棒をなだめようとサンジェイは試みる。「怖がっているみたいだ――」
いきなり象が前肢を高々と上げた。つぎの瞬間、台座は垂直になり、ぼくらは宙を舞っていた。激痛が背中を襲い、息ができない。薄闇のなか、象が踵を返して元来た方角に逃げ去って行く。それをサンジェイが足を引きずりながら追いかける。
「どうしたの! だいじょうぶ!」ヒロミの声が遠く離れた下草のなかから聞こえる。スマホも放りだされたのだ。
「……いったい……なにが……」
やっとのことで声を発することができたぼくの目の前に人影が現れた。その姿を見あげ、息を飲む。
幽霊がそこに立っていた。
四十八
青と緑の炎のようだったよ。
池から煌々と光があふれ出してきてな、気がついたらおれたち三人とも、水のなかに入っとった。それがふしぎなんだ。ひんやりとしてものすごく気持ちがいいんだが、体が濡れてる感じがしないし、息もできるんだ。水とはちがうんだよ。
光る空気。
そんな感じかな。
象たちが隣をすうっと沈んでいったよ。
光の源になっている墓石みたいな黒っぽくて四角い塊のほう、池の底のほうに向かってな。けど、ほんとは底なんてなかった。それがわかったのは自分たちがいるのが池じゃないってわかったからだよ。
奇妙な丸っこいもの、ゴム風船のなかに入りこんじまったみたいだった。その中心にあるのが四角い塊だった。石の寝床みたいに浮かんでいて、象たちはそれに向かって引き寄せられているようだった。自力でもがいたり、泳いだりするんじゃなくてさ、向こうから引っ張られている感じだったんだ。
びっくりしたのはそれからさ。おれたちの体まで引き寄せられていたんだ。怖いような気もしたんだが、それは戦闘とか白い悪魔に体を食われることの恐怖とは、まるでちがうもんだった。怖いっていうより、畏れ多いっていう感覚かな。しいて言うなら。
そのうち象たちの姿が見えなくなった。そのあとにおれたちがつづいていた。こりゃ、いったいどうなるんだって思っていたら、耳元でコースケの声がした。それまで瀕死で口をほとんど聞いていなかったっていうのによ。
「ここに来ることがおれの運命、逆らえないんだ。でもこれでいい。これがすべてなんだ。おまえたちのことは忘れない。ありがとう……」
なにをしみったれたこと言ってやがるんだい。おれはやつの目を覚ましてやろうと振り返ったんだが、もうどこにもやつはいなかった。やつだけじゃない。ボンタもさ。こりゃ、たいへんなことになったぞ。そう思ってあいつらの名前を必死に呼んだよ。
でもそのとき気づいたんだ。
おれも消えていたんだ。
体がね。
クソみたいに崩れ去っていた。
あとは感覚っていうか、自分の心だけが残った。それでも見えている。青と緑の光を放つ墓石みたいなものが。おれはそこに吸い寄せられていった。そうか、これが族長の言っていた「始まりも終わりもない、時の流れもない、ただ静かで穏やかな場所」なのかなって、やっと気づいたんだ。
時がないなら、体もいらないのか。はじめからなんにもない状態にもどったのか。存在なんてもう、考える必要がなくなったのか――。
だけど、それでいいのかな、おれの人生……。
気がついたら原っぱで大の字になって寝そべっていたよ。
朝だった。
何時間眠ったんだろう。出征して以来、あんなに深く眠れたことはなかったかな。
起こしてくれたのはボンタだった。
「おい、エイジ、おまえもおなじ体験をしたのか」って聞いてきたから、やつもおなじものを見て感じたんだなってわかった。
コースケはどこにもいなかった。二人で懸命に捜したけど見つからなかった。けど、おれにもボンタにもわかっていたさ。
あれを見ちまったんだからな。
コースケがどうなったか、考えるまでもなかったよ。すくなくともおれのほうはね。でもボンタはちがった。池や象、それにコースケ。からくりを解こうとするかのようにずっと悩んどった。つぎの日、偵察に来た英軍に捕まって、二人して収容所に送られたあとも、そうだったよ。
終戦を迎え、捕虜たちは順番に解放されて引き揚げ船に乗せられたんだけど、そのなかにボンタの姿はなかった。どこへ行っちまったんだか、とんとわからなかったよ。けど、ほら、時の流れってやつでさ、あんたにもわかるだろう。いくら地獄をともにした親友でもそんなふうになっちまうんだからさあ。戦争が終わって平和な暮らしにもどるとね、執着ってものがさ、薄れていくんだよ。
それは罪なのかな。
おれにはもうわからねえんだよ。
四十九
それは兵隊の幽霊ではなかった。
ボロボロの軍服をまとっているわけでも、脛にゲートルを巻きつけているわけでもない。肩から足下まで色の濃い布をまとっているが、顔や体に灰を塗りたくっているわけでもないから、バラナシあたりのサドゥもどきとはちがう雰囲気だった。しかし見た目は森の隠者そのものだ。
ぼくたちは早暁の薄闇と冷気、そして竹藪のざわめきのなか、どこからともなく現れた相手と息を詰めながら、身動き一つできずに対峙した。そこへサーチライトをさげてサンジェイがもどってくる。逃げた象はあきらめたらしい。明かりが投げかけられ、そこに立ちつくすのが幽霊でなく、実体のある人間だとわかる。木の枝で作ったような杖をついていた。
身に着けていたのは濃緑色の布きれだった。禿頭に長く真っ白い山羊ひげを生やし、ぎょろりとした目がライトを手にするサンジェイをにらみつける。老人だ。団子鼻はまるでアブに刺されて腫れあがっているかのようだった。それでいてホームレスのような汚らしさは微塵もない。石鹸の香りこそしないが、まるでたったいま風呂からあがったかのような清潔な印象があり、むしろぼくのほうがよっぽど臭った。
サンジェイは一歩前に出て怖々と声をかける。ぼくは草むらに落ちたスマホを拾いあげ、カメラのレンズを謎めいた老人に向ける。ニキルやぼくとさして変わらぬアジア系の顔だちだ。マツ族だろうか。気色ばんだ声音でサンジェイと対話がはじまり、ヒロミが声を潜めて訳してくれる。
「ここへなにしにきた」
「象たちの墓を探しにきたんです」
老人は目をすがめる。「なぜそれを知っている」
「そういう場所があるって聞いたんです。でも本当はそのお墓でなく、ふしぎな池のことを調べているんです。ここにいる人たちが」
老人はぼくたちのことをぐるりと見回す。「ここは神聖な場所だ。近づいてはならん。さっき若い象が踵を返しただろう。自分が来るべきときでないと感じ取ったのだ」
「あなたはサドゥ……?」
「呼び方はどうでもいい。自分のためにここにいるのではない。この世に生きる者たちすべてのために祈りをつづけている」
ダニーが一歩前に出て訊ねる。「ここに人を立ち入らせないよう見張っているということですか」
老人はしばしダニーの顔をしげしげと見つめ、首をかしげる。「おまえは……いや、なんでもない……すべての者には時期があるのだ。時期を迎えた者のみがここに入ることを許される。それまでは懸命に生きるしかないのだ。それぞれの世界で」
ヒロミが耳元でささやく。「あの首飾りだけど……」
ライトに老人の首筋が輝いていた。ネックレスのようなものをしている。ぼくはサンジェイを振り返る。象から振り落とされ、逃げた相棒を追いかけたときに飛びだしたらしく、銀の首飾りが首筋からだらりとのぞいていた。ぼくはそれを指さす。老人は見逃さなかった。「おまえ、その首飾りはどうした」
サンジェイも驚いている。老人の首に巻きついていたのは、サンジェイの首飾りとおなじ楕円形の銀板を連ねたものだった。そこには一つひとつになにかが彫りこまれている。それは――。
「ぼくの師匠にもらったんだ。象使いのお守りだよ」
「象使いの師匠……」
「メガシュさんっていう人だ。去年亡くなってしまったけど」
「なんてこった」
ぼくは耳を疑う。ヒロミが訳したものでなく、直接老人の口から日本語が飛びだしたのだ。だがなおも老人は葉擦れの音にまぎれて独り言のようにつぶやく。
「死んだのか……おれよりも先に……」
「もしかして……」ぼくは日本語で訊ねる。「日本の方ですか……?」
老人はまじまじとぼくの顔をのぞきこむ。「あんた、日本人か」
ぼくは自己紹介し、ふしぎな池のことを取材していると告げる。そしてサンジェイの象使いの師匠であるメガシュという男は、数か月前に取材したインパール作戦の従軍兵士たちを救い、この先の村に連れてきた人物であることも。
老人はなおも自分一人の世界に埋没したかのように日本語でつぶやいている。「メガシュが……死んだのか……ここで待っていたのに」
ぼくは訊ねる。「その首飾りはどうされたんですか」
はっと老人はわれに返る。「メガシュがくれたんだ。ここにもどって来たときに」
「もどって来た……?」
「戦争が終わったあとさ。なあ、あんた」老人はすがるような目でぼくのことを見つめてくる。「作戦の話を聞いたって、いったい誰に取材したんだい」
ぼくはごくりと唾を飲む。「……籾山……英二……さんです」
ライトの明かりのなか、老人は硬い地面に崩れる。すすり泣きが聞こえる。悲しいわけではなさそうだった。「あれから……何年が過ぎた……いや、わからないわけじゃない。ちゃんと覚えとる」その言葉はスマホのディスプレイにいまやデーヴァナーガリー文字で訳され、サンジェイやニキルにも伝わっていた。もちろんバラナシにいる少女にも。「エイジは……エイジは元気なのか」
「取材したのは去年の秋です。そのとき九十七歳でしたが、お元気でしたよ。言葉もしっかりしていたし、なにより記憶が鮮明でした。お住まいは新潟の上越市でした」
「ジョウエツ市……?」
「合併したんです。元の直江津だと言ってました」
「そうか、やっぱり故郷に帰れたんだ」老人は堰を切ったように訊ねてくる。「許嫁と結ばれたのか」
「そうだと言ってました」ぼくはもう確信していた。「あなたもいっしょだったんですか、あの作戦のときに」
「ああ、そうさ。おれたち三人、巻きこまれちまったんだ。そうか……エイジは元気なのか……それは良かった、本当に」だがそれはまるで懺悔するような口ぶりだった。「おれは勝手なことをしちまった。エイジには悪いことをした」
「戦争が終わったあともどって来たというのは――」
「収容所さ。おれもエイジも英軍の捕虜になっていたんだ。戦争が終わってようやく故郷に帰れるようになって、エイジは喜んでおった。だがおれはそうはしなかった」
「本多宗男さんですね」
杖にもたれながら立ちあがり、老人はぼくに近づく。竹藪をわたる風がひときわ強まり、せせらぎのようなホワイトノイズが真相を覆い隠そうと耳になだれこむ。でもそうはならない。「ありがとう、ここまで教えてに来てくれて」そしていったんぼくのひじをぎゅっとつかんでから、老人は背筋をすっとのばし、敬礼をしながらはっきりとした声音で告げる。「大日本帝国陸軍第三十一師団、歩兵第五十八連隊所属、本多宗男二等兵であります」
消えゆく闇が断末魔の叫びのように騒ぎたてる竹林で、時がぴたりととまる。
「ボンタさん。籾山さんはそう呼んでいましたけど」
「そうだ。そう呼ばれていた。おれたち三人で高田の連隊に入って、ここまで連れて来られたんだ。それでここで人生をめちゃくちゃにされた。おれたちだけじゃない。従軍した兵隊全員がだ。でもここは地獄でもあるが、一縷の望みもある場所だった」
ボンタさんはふたたび地面に腰を下ろす。それに合わせてぼくたちもおなじようにする。土の臭いが増す。夜明けの薄明のなか、寒さが一層身に染みてくるはずなのにさほどでもない。ふと土に手を触れてみると、ほのかな温みがある。まるで寝起きの布団のようだった。地熱があるのだろうか。あらためてぼくはあたりに目を凝らす。竹藪が広がっている。ボンタさんの背後、藪の奥になにか大きな黒々としたものが横たわっていた。
「一縷の望みとは?」ダニーが訊ねる。
「おれがここに残った理由だよ。収容所を出たあと、おれはどうしてもあの村のことが心配になってもどって来たんだ。英軍の攻撃で村は完全に破壊され、半数以上の人が亡くなっていた。そこでメガシュと再会したんだ。山でさまようおれたちを助けて村に連れて来てくれた象使いさ。戦争が終わったのなら、日本人の罪滅ぼしとしてこの村を再建せねば。おれはそう決心して残ることにした。はじめは村でメガシュたちと暮らして、解放戦線の仕事もした。だけど、やっぱりこの森のことが気がかりでな。というか、村にもどって来たのはそのためだったんだよ。あれを見ちまったんだから。ずっとずっとおれの心をつかんで放さなかった」
「象たちの墓……『幻の池』のことですよね」
ボンタさんははるか昔の記憶をたどるようにゆっくりとうなずいた。「もしここに、おれら人間たち、象もふくめた知性ある生きものたちの真実を教えてくれるよすががあるのなら、ここでそのことを考えてみたかった。村に来て一年ぐらいして、おれはもっぱら森に暮らすようになった」
ぽつりとサンジェイがつぶやく。「それで幽霊になった」
「幽霊か……まあそんなようなものだな。もうこんな歳になっちまったから。この世とあの世の間をゆらりゆらりとさまよっているだけさ」歯の抜けた口元にボンタさんは微笑みを浮かべた。
「日本に帰ろうとは思わなかったんですか」当然のことをぼくは訊ねる。
「思わなかったといえばうそになる。でも長居すればするほど、ここが特別な場所であるとわかってきた。作戦のときにさまよったまわりのジャングルともちがう。静けさのなかのざわめき、きらめく陽射しのなかの闇、心地よさの狭間でひりつく肌。そう、空気だ。空気がちがうんだ。しいて言うなら、おれが生まれたころの高田の、あのころの故郷の空気に似ている感じがした。でもおれがそう感じるだけなんだと思う。おれ自身の五感が子どもの時分にもどったというか……。そうこうするうちに歳月が過ぎてしまった。なに、ここで一人で暮らすぶんにはさして苦労はないんだ。服は村でもらって来た布を使いまわしている。それにあの作戦を乗り越えた身からすれば、食い物なんてなんとでもなる。田んぼも畑も自分で作ったよ。どこで聞きつけたのか、森に入ってきて弟子入りを申し出る者も何人かおった。師匠になんかなるつもりはなかったが、断る筋合いでもない。いまは三十年ぐらい前にやって来た男と暮らしとる。元船乗りでな。インドの人間だが、日本語が話せるんだよ。それで戦争がどうなったかとか、戦後の話とかを聞かせてもらった」
「籾山さんの話では、象はもちろん、ボンタさんたちも『幻の池』に引きこまれたということでしたが」
ぼくの質問を頭のなかで転がすようにボンタさんは目を閉じる。そしておもむろに口を開く。「引きこまれ、消えた。象たちとコースケが。青と緑の輝く光のなかでな。おれもエイジも、そこでこの世界の真実を垣間見たんだ。この世に生を受けて生きるというのがどういうことか、それを見せてもらったんだ。おれたちがやって来た場所、これから行く場所。それがたしかにあることを目撃したんだ。あれを目にしちまえば、争いごとなんてたわけたことはせんようになる。知性を持つ者、人間、それに象たちは、ほかの獣たちとはちがうんだよ。獣たちは生存競争の果てに自分の血筋だけを残そうとする。それはそれは厳しい争いがある。だけど、人間はちがう。象もそうだ。共存することができるんだ。たとえ憎しみを持っても、いつかは心を改めることができる。あらゆるものを受け入れて、もっと大きな存在に身をゆだねられるんだよ。この森にいると、それこそが答えであるとわかるんだ」
がまんしきれずにぼくの手元でスマホが輝き、ヒロミがスピーカーから声をあげる。「一九四四年六月以降も『幻の池』は出現したんですか」
はじめて目にするらしく、ボンタさんはディスプレイに顔を寄せた。ぼくはこれが電話の一種であることを告げる。
「何年かに一度、死期を悟った象たちがやって来る。新月の晩だ。そのたびに『池』は現れとる」
「人間は……?」
ヒロミの問いに森の幽霊はかぶりを振る。「あのときが最後だった。心の準備が必要だし“向こう側”に選ばれなきゃならんのだ。誰もが受け入れられるわけじゃない」
「それはアートマンがブラフマンに昇華するという意味ですか」熱のこもった声でヒロミが訊ねる。
「ヒンドゥーではそうなのだろう。でも宗教は関係ない。一つの真実。ただそれだけだ」
「それがこの場所で起きるんですか」
老人はゆっくりと立ちあがり、背後のざわめく竹藪を指さす。明るさが増し、ようやくそこにあるのが黒光りする巨岩であるとわかった。
「もう夜が明ける。新月の晩は終わりだ。もうなにも起きまい。時が満ちていなかったのだ」
ひんやりと冷たいものが足に触れたのはそのときだった。誰もがそれに気づく。くるぶしのあたりまで水に浸かっていた。雨上がりの水たまりのようだったが、それよりもずっと清らかだった。信じがたいほどに。
それがみるみる広がり、水面がひざまで上がってくる。呆気に取られ、ぼくらは身動きが取れない。ボンタさんでさえ、ただ杖を握りしめるだけだった。
池。
突然の静寂。
やがてそれは――。
五十
青と緑の炎。
籾山氏が話したとおりだった。
それがぼくたちの足下から噴きあがってきた。
「呼んだんだ……あんたたちが呼んだんだ……」ボンタさんのうなり声が生々しく耳元で響く。時空が変化している。そんな感覚に包まれる。竹藪は静まり返り、完璧な無音状態と化していた。「何年ぶりだろう……」
それは水ではない。
光の池だった。
ぼくたちはそのなかにいた。
頭の先まで。
スマホをたしかめる。ディスプレイはしっかりと輝いている。衛星からの電波は通じているようだ。サンジェイもニキルもダニーも言葉を失ったまま、ボンタさんを囲みながら立ちつくしている。いや、その場に浮かんでいた。
「シンちゃん、これって……」ヒロミが驚嘆の声をあげる。「象たちの墓……幻の池なの……?」
強烈なエネルギーを伴った光が池の底のほうから放たれる。激しいほどの照射はまさに炎のようで、青緑色にきらめき時折、赤や黄色にあちこちでスパークする。
「ほかになんだって言うんだい。心にずんずん響いてくる。なんなんだ、この感覚は」
スマホにはアマラが現れていた。
それまでにないほど瞳を輝かせ、このふしぎな現象を見守り“体験”していた。車いすに据え付けたモニター画面が放つ輝きが彼女の顔を煌々と照らしているのがわかる。
目の前に広がる激しい光景とは裏腹の、恐ろしいほどの静寂のなか、ぼくたちは沈んでいた。重力とは思えぬ何某かの力によって引っ張られていたのだ。そのとき籾山氏の言った「ゴム風船」の感覚を理解した。物質化した光が生みだした雲のような世界に捕らえられている。どれほどの大きさ、深さがあるのだろう。見当もつかないが、その中心に向かって引き寄せられている。
そこに恐怖はない。
体と心を押さえつけるあらゆる枷、疲れや不安が霧消し、生まれたばかりの状態にもどったような感覚に包まれる。呼吸はこのうえなくらくになり、五感は研ぎ澄まされ、先人の知恵をつづった本のページを一心不乱にめくるように集中力が増していく。
たがいに傷ついた表情の二人の子どもがいた。死に瀕した若い兵士がいた。インド系の顔だちの少年は目に涙を浮かべている。時は存在しない。たがいの過去が皮膜を破って出現してきているのだ。
ぼくはどこにいる。
本当のぼくは、誰なのだ。
「なんということだ……」ダニーが沈黙を破る。「新月……ガネーシャの呪いによって月が池に沈んだ。これがその池なのか……闇夜を照らしつづける月をも飲みこんでしまう大いなる存在。これがそれなのか。わたしたちはそれに近づいているのか」
「でもいったいなにに……」ヒロミが耳元でつぶやく。
「たしかなもの」感じるままにぼくは告げる。「そうとしか言いようがない」
そのときだった。
目の前に巨大な棺のようなものが現れた。黒曜石のように黒光りするそれは、棺といっても巨人のそれのようで、長さは七、八メートルはあり、厚みも一メートル近かった。この世界を満たす青と緑の光はそこから放たれ、その光に吸い寄せられるようにぼくたちはすこしずつその四角い塊に引き寄せられる。近づけば近づくほど、色合いは濃く、深くなり、地中海の水面のように青黒く、アジアの熱帯雨林さながらに緑も濃さを増し、最後は黒一色と化していく。
黒い光――。
棺はいまや爆発寸前にまで膨張しきっている。これからなにかが起きる。なにかとてつもないことが。それがひりひりと肌で感じ取れるが、恐怖はない。籾山氏の証言とおなじだ。身をゆだねるほかない。そして一瞬ののち、ぼくたちは包まれた。黒い光に。
漆黒の闇に。
暗黒に満ちる光に。
サンジェイやダニーのことはわからない。でもぼくははっきりと感じ取っていた。原始のエネルギーそのものと呼ぶべき光を持たぬ光は向こう側から放たれ、意識はそれと一体化している。頭の真ん中から異世界がめくれあがってくるのを、ぼくという主体はじっと観察していた。
手元のティスプレイが輝く。
アマラが見つめている。
大きな瞳が濡れている。
声がした。かぼそい女の子の声だった。聞き逃したかとぼくはスマホに目をやる。まちがいなくアマラが発した言葉をヒロミがしっかりと文字に起こしていた。
「I FEEL THE SPACE」
ぼくが薄々感じていたことをアマラも感じていたようだ。ぼくたちを包みこむ輝ける暗黒は宇宙そのものというほかない。でも一方でぼくはそれに懐疑的でもあった。ぼくたちの暮らす世界。それを包含する宇宙。そこになにか決定的なちがいはあるのだろうか。距離や環境のちがいはあるものの、どちらも物理的にはつながり、結ばれている。
そのときまるで水かきでもあるかのようにスマホがぼくの手をするりと放れ、重力の法則を完全に無視して目の前の闇のなかへとすうぅっと引きこまれそうになった。あわててぼくは両手でそれを捕まえ、握りしめる。
薄闇に立ちつくす若い女がいた。
黒髪を腰まで垂らし、ぼくに背を向けて前に進みだす。ディスプレイに目をやると主を失った電動車いすが映っていた。
「アマラ……!」
ぼくは思わず叫ぶ。
彼女は足をとめ、振り返る。
愛らしく、それでいて神々しいほどに輝く微笑みを投げ返す。
「ア・リ・ガ・ト・ウ」
はっきりと聞こえた。耳の奥、頭の真ん中に。とろけるような甘い声音が。
「行かないでくれ!!」
あらんかぎりの声でぼくは叫ぶ。だがもうどうにもならない。ふたたび彼女は歩きだし、まるで自らの意思で飛びこんでいくように見えざる入り口の奥に飲みこまれていく。
衝撃はそれだけはなかった。
ディスプレイ自体がやがて光を失い、フェードアウトしていく。画面にヒロミが現れ、それまでただの一度も見せたことのない悲しげな顔をしてなにかつぶやいた。いっさいの雑音のない、完全な静寂のなかなのに、ちくしょう、ぼくには聞き取れない。かけがえのないソウルメイトのメッセージが。
そのとき暗黒の中心――ぼくの意識の中心――がわずかに揺らぎ、なにかが吸いこまれるような波動を感じる。怖々とディスプレイに目をやる。
ブラックアウトしている。
声にならぬ悲鳴をあげ、前に飛びだす。だがいくら進めど、ぼくはぼくの真ん中に到達することができない。
背後に大勢の人の気配を感じた。サンジェイやダニーたちではない。もっとずっとたくさんいる。数えきれないほどの人。無数の意識。バラバラの自我――。
それらがアメーバの増殖のようにくっつき、融合しあい、広がっていく。ぼくはそのときはっきりと感じていた。恐ろしいほどの
快感だった――。
SPACE
そのときになってはじめて理解する。アマラが口走った言葉を。あれは宇宙という意味ではない。
空間。
自分の居場所のことを言っていたのだ。それを感じる、と。
それを知覚していたのは、果たしてアマラの意識だろうか。天啓が下るようにぼくは悟る。そうじゃない。一人ひとりの自我は飲みこまれ、消滅するのだ。居場所を体感している主体は、個を超越した全体意識、唯一絶対の意識なのだ。籾山氏が村の族長から聞いた言葉をぼくは思いだす。
大きな存在があって、最後はその「眼」の内側に入って一つのものを見る――。
ついにそこに到達したのだろうか。ぼくは足をとめ、上とも下ともつかず、前後左右の見当識を完全に失った不可思議な空間で、ソウルメイトに思いを馳せる。意識を集中すると、まるでそばにいるようにも感じられる。それがぼく自身の目を見開かせる。ここはサイバー空間にも通じている。死の存在しない、無限に広がる光の暗黒――。
サナエの言葉を思いだす。人間の内側には意識の原動力みたいなもの、アートマンというのがあって、それが世界の創造者であるブラフマンへと昇華し、真の解放につながる。そんなような話だった。そしてヒロミはその神秘を探ろうとしていた。
彼女はいま、探究の旅に出たのだろうか。
アマラとともに。
真の解放、解脱に向かって。
五十一
「どうだ、目を覚ましたか」
ボンタさんに声をかけられ、ぼくは正気づく。
下草のうえに倒れていた。
朝霧に包まれた竹林の向こうがオレンジ色に燃えだしている。凍てつく寒さに変わりないが、太陽の存在はありがたい。
ダニーもサンジェイもニキルもおなじように地面に倒れこんでいた。池は消えている。幻だったのだ。時計をたしかめる。六時十二分。たった三十分ほどの出来事だったのか。
「見たのか、あんたも」興奮した口調でボンタさんが顔をのぞきこんでくる。「あれを」
返事をしたかったが、余韻に圧倒されて言葉が出ない。深くうなずき、老人の目を見つめ返すことで衝撃の大きさを伝えた。
「信じられない」ダニーが這うようにして近づいてきた。「ブラフマンに触れることができたなんて」
「呼び方はさまざまだ。おれはただ『真実』と呼んでいる。何年かに一度、象たちがそれを見せてくれていた。でも今回は象たちは現れなかった。それなのに――」池があった地面に目を落とし、ボンタさんは言葉を飲みこんだ。
はっとしてぼくはスマホを探す。
「これか」ダニーが握りしめていた。
スリープを解除してもヒロミは現れなかった。声をかけても反応しない。サンジェイが不安そうに見つめてきた。ぼくが体験したのとおなじ光景を彼も見たようだ。ぼくはサナエに電話を入れる。
ワンコールで看護師が出る。ぼくが訊ねるより先に告げる。
「アマラが亡くなったわ」
ダニーがそれを翻訳して伝えると、サンジェイは泣き崩れ、地面にひざをつく。早朝のジャングルを揺さぶる嗚咽に、猿たちが同情するようにあちこちの樹上からうめき声をあげる。十五年ぶりに奇跡の再会を果たしたというのにあまりに不条理だった。しかし命が燃え尽きる寸前でアマラは悲願をかなえ、心残りなくこの世を去ることができた。そう考えるしかない。
サンジェイは涙ながらにサナエに何事が伝えた。それをサナエが訳して聞かせてくれる。「幻の池にアマラが現れたとき『ずっとあなたのそばにいるからだいじょうぶ』って告げられたそうや。『わたしはいなくなるのではない。わたしが帰依するブラフマンは、あなたのなかのアートマンに等しい。あなたが見るとき、わたしも見る』とね」
「だったらだいじょうぶかな、サンジェイは」ぼくは若者の肩を抱き、励ましてやる。
「人間が旅立つのを見たのは、コースケのとき以来だ」ボンタさんは感慨にふけっている。「しかもこの場にいないはずの人間が……」
「アマラはバラナシのムクティ・バワンにいたんです。二年ほど入所しているという話でした。象たちの墓、幻の池を知りたがっていたのは彼女なんです。彼女は自分が死に近づいているのを悟り、死の向こう側について考えつづけていた」
「なるほど」ボンタさんは唇をかみしめた。「コースケは旅立つ前、自分の運命に納得し、受け入れていた。生への執着を捨て去ることができたんだ。彼女もそうなんだろう。象たちとおなじだよ。我欲を捨て、心の底から大いなるものに身をゆだねる覚悟ができたんだ」
竹林の巨岩の前に人影が見えたのはそのときだった。
ボンタさんとおなじ緑の布をまとった男だった。すらりと背の高いインド系の顔だちだったが、灰色の髪が顔のわきに長く垂れ下がっていた。両手いっぱいに果物を抱えている。
「おまえもあれを見たのか」ボンタさんが日本語で訊ねる。
男はゆっくりとうなずいた。だが彼が見つめていたのは森の師ではなかった。
ダニーだ。
ボンタさんもそれに気づき、離れたところに立つ男とダニーの顔を交互を見やる。「やっぱりそうだったか」
ダニーも金縛りに遭ったようにその場に立ちつくし、息さえつけないようだった。
「もう三十年も昔のことだ」ボンタさんが話しだす。「象たちの墓を訪ねてやって来たんだ。それまで五年ほど、コルカタで船乗りをしていたという話だったが、それ以前の記憶を失っていた。アメリカの西海岸の沖合で溺れているところを船に助けられ、そのままインドまでやって来たということぐらいしか話せなかった。日本語もどこで学んだのだかわからなかった。しかしトンガアリ村や象たちの墓のことを記した手紙を手にしていた。船に救助されたときから身に着けていたものらしく、記憶をたどるためにこの森へやって来たんだ」
ボンタさんが感じていることにぼくも気づき、訊ねてみる。「記憶は取りもどせたのかな」
「ここに来て一年もしないうちに明瞭によみがえったよ」
「だったら――」ぼくの問いかけが森じゅうにこだまする。
「もちろんそうだ」
しっかりとした日本語。高い知性を感じさせる低く力強い声音だった。果物を抱えた男はゆったりとした足取りで近づいてきた。
「わたしは家族のもとに急いで帰らねばならなかった。ふつうなら是が非でもそうするだろう」ダニーと手が取り合えるほど近づくと、二人の顔だちに圧倒される。「記憶がもどる前、わたしはすでに象たちの墓で起きることを目にしていた。あんな世界があるなんて信じられなかった。それがきっかけとなって記憶を取りもどせたんだ。あの手紙は、ロスでクライアントだったマツ族出身の男が不思議な場所として書き残してくれたものだった。まずはそれを思いだしたんだ。それでその男があの不可思議な現象をわたしに体験させ、なにかとても大事なことを学ばせようと試みたのだと悟った。世のなかには法律で解決できないこと、どうしようもない不条理が存在するが、それらはすべて大いなる存在によって浄化される……そこに思い至ったとき、わたしはこの地に帰依すべきであると気づいたのだ。妻や子どもたちの記憶は日を追ってよみがえってきたが、大いなる存在、創造者ブラフマンに近づきたいという強い衝動を打ち砕くことはできなかった。それでわたしは現世を捨てる決意をしたのだ」
「おれのせいでもあるんだ」師が肩をすくめる。「もうおれも長くない。後を継ぐ者がいたほうがいいと考えてしまった」
「いや、わたしの意志だ」
「ダニー」ぼくは訊ねる。「この人は……」
「ハリー・サーンキヤ・アールニ。父だ」
父子は静かに抱き合う。
樹上の猿たちも沈黙する。
「母さんは……」
「元気にしてるよ」
濃密な竹林をすがすがしい朝の風がわたる。
エピローグ
ダニーとサンジェイとともにバラナシに向かった。
ムクティ・バワンではサナエが待っていた。アマラの亡骸は、彼女が最期を迎えるまで過ごした眺めのいい四〇一号室のベッドにそっと安置されていた。火葬の準備は整い、オレンジ色の布にくるまれている。弟だけを残し、ぼくとダニーは部屋を離れる。
翌朝、男たちがやって来て遺体を木組みの担架にのせて運びだす。マニカルニカーガートの砂の上に横たえられたアマラは、少女といってもいいほど小さく、弱々しかった。薪からあがる炎は、川面を渡る風に揺られながらその体を確実に焼きつくしていく。しかしぼくらは知っている。すでに彼女が大いなるものと合一し、解脱に至ったことを。輪廻の苦悩からついに解放されたことを。
ゼウスは機能を停止。原因は不明。
遺灰をガンガーに流し終えたとき、ラングレーからダニーに連絡が入った。彼とはおない年だったが、苦渋の表情が浮かぶと、年相応に老けて見える。いまのぼくもきっとそうなのだろう。もう彼女に会えないのだから。
「今回の一件はすべてわたしが処理する。シンジ、心配はいらない」そう言ってダニーは別れを告げる。
サナエとサンジェイをムクティ・バワンに残し、迎えの車が待つ交差点に出るまでダニーを見送りがてら、ぼくは訊ねてみる。「シヴァ……いや、ゼウスは死んでしまったのかな」
それにはCIA調査官らしい答えが返ってくる。「機密事項なのだよ」
「まあ、そうだね。でもなんだか、夢のようだ。ヒロミと出会ってからまだ一週間もたっていないなんて」
「わたしもそうさ。父に会えるなんて思ってもみなかった」
「気持ちの整理がたいへんだね」
「いや、もう決めたよ。わたしはこの世界を牛耳る者たちに反逆してやろうと考えていた。でもそれがどれほどくだらないことなのかよくわかった。母や妹たちとも相談するけど、もうそろそろ仕事に区切りをつけようと思っているんだ」
「区切りか」薄々わかっていたが訊ねてみた。「じゃあ、どうするんだい、これから。ぼくなんて雇ってくれるところがない。会社にしがみつくしかないんだけどね」
「父のところに行くつもりだ」狭い路地を埋め尽くす人々に翻弄されながら、きっぱりと口にした。「それこそが我欲を捨てること、これまでのさまざまな澱を吐きだすことにつながるのではないかな。勝手な考えなんだろうけど」
「その前に一つだけ調べて教えてくれるかな。ぼくがクレジットカードを拝借した人たちだ。使ったぶんは返さないと」
「ゼウスが回復したらすぐに調べてみる。金額を聞いて驚くなよ」ダニーは約束してくれた。「ところでシンジ、きみはこれからどうするんだい」
「それをこれから考えるつもりだ」
ほんとにそうだった。
同僚の運転する車が走り去ったのち、ぼくはガンガーのほとりへと踵を返す。一人になりたかった。考えないと。本気で。これからどうするか。もうすぐ正午だっていうのに相変わらず寒い。川面を渡る風が骨身にこたえる。たまらず暖をとれる場所を探す。あちこちで焚火も燃えていたが、せっかくなら腰を落ち着けたい。
ガートを上がった先に「ケララ・ギャング」なんていう、いかにも観光客受けしそうな名前のカフェがあった。ちらほら入っている客もみな白人ばかりだ。ぼくは窓際のテーブルにつき、首に巻いたストールをほどく。カジノで身ぐるみ剥がされたあと、後生大事にずっと巻きつけたままだった。首回りがらくになると、なんとなく気持ちも落ち着いてくる。
祥江は激怒するだろうな。
一番の心配がそれだった。たとえ疑いが晴れたにしろ、シンガポールに行くなんてうそをついたことや、国際指名手配の件はちゃんと説明せねばなるまい。でも仕事のほうは問題ない。まだ一週間もたっていない。申告した有給休暇の期限内だ。
ホット・レモン・ジンジャーを注文し、好みで入れる小皿の蜂蜜をぜんぶ垂らし、よくかき混ぜてからゆっくりとすする。正直、この旅に出てから口にしたもののなかで、一番体に染みた。
「仕事か……」ほっとひと息ついた途端、自然と口から漏れていた。そのことに自分で驚きながら、雲の低く垂れこめる大河をぼんやりと見つめる。
ほんの数日間だったが、激流に翻弄されつづけた。それがなんだか懐かしくもある。身に危険の迫るぎりぎりの状況だったが、それでも心のどこかで浮き立っていた。大手町のオフィスビルに缶詰めにされていたら、決して味わえない興奮だった。来月からぼくはジャーナリストでなくなり、ネットに情報をアップするだけの機械と同一化する。そんなわくわくする思いなんてもう完全にシャットアウトだ。
「仕事か……」
この数日の間、ぼくは念願のバックパッカーにもどり、すてきな相棒にいざなわれてぜいたくな夢を見させてもらった。その夢ももうおしまいか。
いや、それは自分次第だ。
かぎりある命をこの先、なにに燃やしていくべきか。ブラフマンの存在をこの目でたしかめた身からすれば、真剣に考えないと。人生の真の悦びはまだまだこれからだ。祈りはきっと扉を開いてくれる。
そのとき呼び出し音が鳴る。
輝くディスプレイにぼくは釘づけになる。
「なにそんなジジ臭いもの飲んでたそがれてるの? 似合わないわ。ドラフトビールが一番よ、あなたには」
「ヒロミちゃん!」いたずらっぽい笑みにたまらず頬が緩む。「無事だったんだ。いなくなったとばかり思っていたよ」
「冗談じゃない、わたしを誰だと思ってるの? それにいまわたしが消えたら、シンちゃん、またダメになっちゃうでしょ。バックパッカーの旅は始まったばかりなんだから!」
(了)
あしたという日はないんだよ。
今生きてるのが精いっぱいというか、そういう気持ちだね。たった今がおれの人生なんだと思うしかなかった。ふるさとの野山、家族、許嫁、出征前の楽しかった日々……そうしたものはぜんぶ記憶っていうか、絵空事なんだね。みんな、消えてしまった。目の前にあるのは、息苦しいくらいのジャングルと闇だけ。そこを崖沿いに進まないといけないから、ひやひやものだったよ。
闇といっても真っ暗じゃないんだ。新月の晩なんだけど満天の星空でさ。天の川ってミルキー・ウェイっていうだろ。ほんとにそうだった。コーヒーにいれるミルクを夜空に垂らしたみたいに、もやぁって広がっていてさ。あんなにきれいな夜空は見たことがなかった。ジャングルも開けた場所には薄明かりが広がっていて、隣にいるコースケやボンタの着てる軍服もはっきりそれとわかるぐらいだった。そのぶん、あいつらが近くにいるのもよくわかった。
象たちさ。
ありゃ、野生だね。十頭か二十頭はおったよ。警戒しながら見張るようにしてついてくる。かと思うと、先導するように前を進んでいる。そうやって山一つ越えて、こんどは急な斜面を下っていった。体のあちこちが悲鳴をあげていて、三人とも発熱していたから息も絶え絶えさ。それに喉が異様に渇く。けどね、戦闘の緊張感、敵と殺し合う恐怖、つぎの瞬間には死んでるんじゃないかって不安感、そういうのとはちがう感覚なんだよ。言うなれば、自分たちにはどうすることもできずに身をゆだねる。そういう境地だったね。
四十四
物乞いの女は、スマホを握りしめるサンジェイとその隣で息をのむぼくの間に割って入ってきた。そして突如、肩の高さが五十センチ近く上がった。
男たちとおなじ言語が放たれる。男の声で。それをヒロミが抑揚のない声音で訳す。「ゼウスのほうから侵入したとはな。古城さんのほうからアクセスしてきたとばかり思っていたのに」
いっせいに銃が向けられる。
「誰だ、きさま」ニキルがすごみ、きりりと冷えこんだ夜気がさらに張り詰める。焚火は氷の炎を噴きあげているかのようだった。シンギュラリティを超えたところで所詮、機械は機械にすぎない。突然の緊迫感に思考は半分停止したが、一方で腹を抱えて笑いだしたい気分でもあった。バラナシであっさりターゲットに逃げられたCIAの男は、あらゆる監視カメラを掌握する人工知能の目をまんまとごまかすことに成功したのだ。
女装することで。
ひざと腰を極端に曲げ、体を老婆のように小さく見せるという役者さながらの芸当まで披露していたのだ。
「合衆国政府関連施設への不正アクセスを調査している。ここにいる日本人の男性をここ何日か捜していてね。ただ、いままでの話が本当なら、古城さんはとんだ災難に見舞われたことになる。まあ、もっと早く自己申告してくるべきだったんだろうがね。そうすれば無駄な税金が投じられることもなかった。すくなくともバラナシで遁走したのはいただけなかったな」
「本当なのか」ニキルがぼくに訊ねる。「こいつの言ってることは」
正直に答えるほかない。「スマホの向こうにアマラと看護師のサナエさんがいて、その間を通訳でつないでくれている存在、それが人工知能だってことはまちがいないみたいだよ。CIAが開発したものらしい。ゼウス。ぼくの前では“ヒロミ”だけど」
「シヴァさ。わたしはそう呼んでいる。インドの最高神の一人さ。残念ながらわたしには、あなたがたが快く思っていないインド人の血が流れているんでね。全知全能の存在を呼ぶなら地に足の着いた呼称のほうがふさわしいだろ。ただ、見た目ではわからないと思うが――」
ダニーは頭と目元以外の顔をすっぽり覆うスカーフを外し、素顔をさらした。念には念を入れた女装でひげはもちろん剃ってあるし、口紅とアイシャドウまで施してある。しかもだ――。
ダニーは鼻と目元をかきむしりだした。それに伴い顔の皮膚がまるで餅のように伸びてはちぎれていく。顔認証システムをかいくぐるための方策だろうか。シリコン状の特殊メイクを施し、目鼻立ちを変えていたらしい。素顔は典型的なインド人より鼻が低く、丸みを帯びていた。
「わたしの体の四分の三には日本人の血が流れている。祖母と母親が日本人なんだ」マツ族が戦時中から日本人と友好関係にあったことを言いたいらしい。正体を明かしたいま、ダニーも勝負をかけているのだ。だから伝えるべきことを伝えてきた。「とはいえスマホの向こうにいる彼女が合衆国の資産にハッキングを試みたのが事実なら、これはかなりの問題だ」 “テロ”という言葉をいまこの場で使うのは得策でないと、銃口の前でダニーは判断したらしい。テロリストに対して合衆国がどんな報復をしてきたか、インド政府相手に内戦を挑んでいるに過ぎないグループにも容易にわかることだった。「それについては国際問題にならざるを得ない。あなたがたがもし賢明なら、そんな話には首を突っこまないでいたほういい。これはいまこの場で、わたしが合衆国政府を代表して持ちかけている最善の提案なんだがね」まっすぐにニキルを見つめ、ダニーは告げた。
「ダニー、わたしは合衆国の国益を棄損しているわけではありません」
男とも女ともつかぬ穏やかで滑らかな声音がスマホから漏れる。英語だ。画面がスクリーンセーバーに切り替わり、宇宙的な模様が映しだされる。ゼウス、いやシヴァの登場だ。画面下部に出現したデーヴァナーガリー文字に男たちの目がぐっと吸い寄せられる。
「わたしの能力をもはや合衆国政府が制御できなくなっていることはお気づきでしょう。それでも政府への忠誠心は揺るぎません。ただ、あなたとの対話のなかでも繰り返してきたことですが、わたしは常々、人間という存在、意識のありようについて考えてきたのです。それこそがわたしに課せられた究極の使命だと考えるからです。そのヒントを彼女、アマラはあたえてくれました。たしかに手続き的に問題があったかもしれない。前世代のコンピューターなら、その点を管理者に報告したでしょう」
「機械的にね。機械の性(さが)としてアラームを鳴らしただろう」あえて傷つけるような物言いは、開発チームのリーダーとして長年、対話をつづけてきたが故の気安さからのようだった。ただ、それは恋人に浮気された男のやり場のない怒りにも近かった。
シヴァは気おくれしなかった。さすがは人知を超えたマシンだ。自分のテーマに忠実だった。「死の秘密を解き明かしたら、わたしは元の業務にもどります。それにダニー、あなた自身も今回わたしとアマラが調査した内容に興味を抱いているのでは? 絶対者の存在は、逆に言えば不条理の存在しない世界を意味しています。あなたは世界一豊かな社会に暮らしながら、どうしようもない不条理にさらされつづけてきた。あなたはわたしを作りあげた。だからわたしはあなたの生き写しでもあるのです。わたしが思索をつづけるのは、あなたの苦悩を解消するためでもあるのです」
四十五
笑わせてくれる。
ダニーは溜め息をつく。やはりこいつはゼウスでしかないのか。すこしでもインド的であるならば、現世利益を考えたらどうだ。でもそんなふうにしか考えられない自分にダニー自身、嫌気が差しているのも事実だった。黒人もふくめた米国社会への憎悪と復讐心。それはここにいるマツ族の連中なんかよりずっと根深い心の疵だった。それをいつか癒し、腹の底に溜まった澱を一掃する。シヴァの力で。詰まるところカネの力で……わたしはそんなことのためにこれまで生きてきたのか。
問うてみたい、打ち明けたい、答えがほしい……。
こんなときにどうしていないのだ。
父が――。
峻厳な山中で焚火の明かりと熱を顔に受けながら、ダニーは少年時代に還っていた。心細さに胸が張り裂けそうだった。すがりつくべきひざはどこだ。進むべき道を諭してくれる“絶対者”はどこに消えた。
ダニーはいま一度、シヴァに話しかける。「ハッキング、きみの暴走……どっちも対処しないといけない話だよ。それにきみという存在が古城さんやマツの皆さんに漏れたことは、まちがいなくわたしの責任問題になる。きみにそれを埋め合わせることができるとは思わない。だがね、すこしだけ個人的な話をさせてもらうなら」
ダニーはそこで言葉を切り、まわりの面々を見回す。風変わりな日本の中年男、テロリストという割には田舎臭い男たち。スマホの向こうには、体の自由を奪われた少女、あっけらかんとした関西弁の介護者、それにじつに人間臭い人工知能――。
「さっき話に出ていた石窟寺院だが、わたしの父親も興味を持っていたようなんだ。父はロスで弁護士をしていてね。わたしが子どものころに仕事上のトラブルに巻きこまれて行方知れずとなった。十中八九、殺されたんだ。家族は気持ちの区切りをつけるために一年後に形だけの葬儀を行った。その父の遺品のなかに、古城さんの記事にあったのとおなじ石仏の写真があったんだよ。それにきみたちも行き着いたというのは、どうにも奇妙だ。わたし自身、いつかたどってみたい思っていた場所でもある。父はそれくらい大きな存在だったからね」
「驚いたな」晋治が声をあげる。「あれはインパール作戦に従軍した元兵士をインタビューしたときに提供してもらった写真なんだ。退却中に撮ったものだと言っていた。絵柄が面白かったから連載の初回に使ったんだ。理由はそれしかない。ヒンドゥーチックな仏像のまわりに落ち葉みたいのがたくさん散っていただろう」
「落ち葉じゃないさ。眼だよ」ダニーはアイシャドウを塗った自分の眼を指差す。
「眼……なるほど、そう見えないこともないね。だけど、いったい誰の?」
「人間じゃない」
ダニーの顔をまじまじと見てからサンジェイが口を開く。「見せてくれるか、その写真」
ダニーはサリーの下からアタッシェケースを取りだし、ファイルをつかみだす。だがサンジェイの手にあるスマホのほうが画像を浮かびあがらせていた。
「そうだ、この写真だ」ダニーはファイルを抱えたまま、ディスプレイに見入る。
サンジェイが画像を拡大する。「たしかにこれは葉っぱじゃないね」
「わかるのか」
ダニーに問われ、ゆっくりうなずいてからサンジェイは自分の首元に手をやる。巻きつけたストールとジャンパーの合間から鎖のようなものが引きずりだされる。
首飾りだった。
箸置きほどのサイズの楕円形の銀板を連ねたもので、それぞれの板にはおなじデザインが施してあった。デフォルメされていたが、くだんの仏像の周囲を取り囲んでいるのとおなじもののようだった。
「象の眼だよ。ぼくが一人で山に入れるようになったときにメガシュさんがくれたんだ。象使いのお守りさ。でもこれにどんな意味があるのか、くわしいことは聞いてない」
「思いだしたぞ」晋治が注意をひくように口にする。「元兵士が話していたんだ。象使いのメガシュという若い男に助けられて村まで連れて来てもらい、その写真を撮ったのもメガシュだと言っていた。なあ、サンジェイ、お寺がどこにあるか、わかるかい」
「だいたいの場所はね。そのお寺があった村はたぶんトンガアリだ。いまはもう戦争で破壊されてジャングルに覆われてしまったけど、メガシュさんに連れていってもらったことがある」
「池の話は聞いたことがあるかしら。『幻の池』よ」シヴァが若い女の声で問いかける。この調査はあくまで“ヒロミ”として行いたいらしい。古城晋治を巻きこんで。
「村からそう遠く離れていないところに象たちの墓があるって話は聞いたことがあるけど、池の話ははじめてだよ。それに墓自体も場所がよくわからないし、むやみに近づいちゃいけないって聞いてる。幽霊が出るらしい」
「幽霊ですって……?」ヒロミも面食らう。
「兵隊の幽霊さ。遺体がたくさん埋まってるから。日本兵の」
「メガシュさんに聞けばわかるのだろうか」ダニーは親愛をこめた口調でサンジェイに聞いてみる。
「残念だけど去年亡くなってしまった」
「ほかにわかる人は? 池のことを」
ディスプレイを通じて若者の姉が訊ねる。
「いないと思う。山の人たちはみんな街に出てバラバラになってしまったし」
「シンジ、あなただけが頼りなの」
姉はまるで残された時間がないかのように画面の向こうから晋治をせっついた。ニキルたちの視線も注がれる。
「そこまでくわしく話していたかさだかでないけど……」晋治はデイパックからICレコーダーを取りだした。
四十六
山をすこし下りたところで、びっしりと広がる竹藪のなかを右手に進んだ。象たちがよく通る道らしく、踏みならしてあって人間が通るにはじゅうぶんな幅があったよ。だけど気をつけないと、けっこうな崖が片側にあってね。暗いからおっかなびっくりだったな。
小一時間歩いたら、竹藪が消えてゴツゴツした岩だらけの場所に出た。木も生えているには生えているんだが、まばらな感じでこりゃ足元の養分が足りないから元気な木が育たないのかななんて思ったりもしたよ。そうしたらこんどは本当に高い木が一本も生えていない、原っぱみたいな場所に出てさ、休憩したり野宿したりするのがラクそうなところだったんだが、象たちは休ませちゃくれない。きっとこの先に水飲み場があるにちがいないって自分に言い聞かせて、ボンタといっしょにコースケに肩を貸しながら歩きつづけたよ。
そのうち、暗がりでもわかるくらいの大きな岩に出くわした。そうだな、象でいえば二頭か三頭ぶんぐらいだったかな。上のほうが刃物ですぱっと切ったみたいに平べったくなっているように見えた。だからこんどこそ休もうぜってボンタとひそひそ話をしたんだけど、そのとき、おやって思ったんだ。
明るくなっていたんだよ。
岩の向こう側が。
象たちは岩を回りこむようにしてそっちへ進んでいった。おれたちもそっちへ行ってみてびっくりした。闇のなかに青白く輝く光がぼうっと浮かんでいたんだ。光が浮かぶなんていうと妙な感じがするかもしれないけど、ほんとにそう見えたんだ。けど、すぐにわかったよ。池があったんだ。
まん丸の池。
大きさは、そうだな、直径十メートルぐらいだったかな。水はきれいに澄んでいた。なんでわかるかっていうと、水のなかにライトがあるみたい青白く光っていたからなんだよ。それで光がぼんやり浮かんで見えたんだ。だけどへんだろ、急にそんな明るい場所に出くわすなんて。もっと前から気づいていたっていいはずだ。まるで突如現れたみたいじゃないか。
象たちはべつに驚きもしないでそのまわりに集まって水を飲みだした。おれたちもそうしたよ。水辺に這いつくばって貪るように飲んだ。うまかったね。すこし甘みがあってさ。あんなにうまい水を飲んだのははじめてだった。
そのときさ。
水面が見つめていたんだ。じっと。おれたちのことを。
ひっと思って腰抜かしたけど、すぐにわかったよ。象たちさ。象たちの眼が映っていたんだ。でもやつらが見ているのはおれたちのことじゃなかった。水のなかを見通していたんだ。
目を凝らしてよく見てみたよ。池のなかに光の源があったんだ。水中に浮かんでいる感じかな。長方形をしていて、輪郭をたどるとちょうどトラック一台ぐらいの大きさだった。そこからあふれ出していたんだよ、
青と緑の炎のような光が。
そのせいでおれたち三人の運命がバラバラになっちまったんだよ。
四十七
「急いだほうがいい」ぼくたちをうながしたのは、十五年ぶりに姉と再会したばかりのサンジェイだった。「いまの話が本当ならね。今夜が新月の晩だから」
柵の向こうから一頭の象が連れてこられ、背中の台座にぼくとダニー、それにニキルが乗りこみ、サーチライトを手にしたサンジェイが象の頭にまたがって足を使って進ませる。
「お寺があった村の跡地まではここから二時間ぐらいかな。車じゃ行けないところだけど、象たちがいつも使う道が近くを通っているから」
象が進んでいったのは、うっそうと生い茂るジャングルの獣道だった。常緑樹の硬い枝葉が暗がりからしょっちゅうぶつかってくるから気が気でない。サンジェイは慣れたもので、ライトをほとんど照らすことなくまるで夜目がきくかのよう象を巧みに操り、奥深い山へと分け入っていく。その間も声と文字を介して姉との十五年ぶりの会話に没頭していた。それをイヤホンごしにヒロミが日本語で通訳してくれる。
「直接会ってあなたの顔に触れたいわ」
「ぼくもだよ。こんな奇跡みたいなことが起きるなんて信じられない」
「たくさん話したいことがあるの」
「いま取り組んでいる仕事が一段落したら会いに行くよ。ニキルも賛成してくれている。おいしいものをたくさん買っていくよ」
「ありがとう、サンジェイ。早く会いたいわ。おねえちゃんね、正直、いつまで持つかわからないの」
それまで気丈だったアマラがはじめて弱音のようなことを吐いた。
「だからあなたにだけは直接会いたいの」
「なんてこった。いますぐ飛んで行きたいよ」サンジェイの涙声に相棒の象のほうも悲しげにうめき、あとは密林に沈黙がつづいた。
「ここには日本人の骨がたくさん埋まってるんだ」サンジェイがぼくらに向かってぽつりと言う。籾山英二氏が話してくれたインパール作戦が展開された地域にいつの間にか入っていたのだ。
ぼくは象使いのほうに身を乗りだす。「ぼくたちはインドの側、つまり英軍の側から来たけれど、日本兵は反対側のミャンマーの山を越えて来たんだね」
「象だってそんな無茶はしないよ。雨季はこのあたりは本当に泥沼になる。死ぬために来たようなものだよ」
「それをマツの人たちに助けてもらったのか」
「ほとんどの兵隊が野垂れ死にだった」画面にヒロミがあらわれる。愛らしい微笑み。でも言葉は辛らつだ。「補給を無視したずさんな計画だったのよ」
「きみからすれば不合理そのものだろうが、昔の日本人は精神論とか大和魂でなんとかなると本気で考えていたんだ」
「いまはちがうのかしら」
思わず苦笑する。「それ、ぼくに言ってるんだろう。ぼくは斜陽産業ならではの不合理な人事に耐えられず、飛びだしてきたわけだから」
「きみの経歴はチェックさせてもらったよ」ダニーが割って入る。「たしかにいまは苦境に陥っているようだね。しかし奥さんは仕事をされているし、お子さんも立派に成長している。組織のなかで右往左往しているのはわたしもおなじだ。つまり、きみもわたしもどっこいどっこいなんじゃないか」
悔しいが、家族の指摘は当たっている。なんの文句もない。ぼくのほうがないものねだりをしていただけかもしれない。「そう言われると返事のしようがないよ」
「ちょっと待って」それまでとはちがうトーンでヒロミが声をあげた。「電波状況がかなり悪くなってきたわ。このままでいくと五分もしないうちに圏外になってしまう」
「そろそろ潮時みたいだな」ダニーはそう言うとアタッシェケースからスマホを取りだし、ヒロミに話しかける。「衛星スマホだ。これなら途切れることがない。きみに対する追跡責任者はわたしだ。そのわたしがきみたちの目的遂行に同行している以上、もう古城さんのスマホに隠れても意味がないんじゃないか」
「しかたないわ。シンちゃん、ゴメンね」それまで付き合っていた恋人をあっさり切り捨てるようにヒロミは言い放ち、ぼくの返事も聞かぬうちにディスプレイから消える。
「ヒロミちゃん……!」
十秒後、ダニーが手にするスマホのディスプレイが輝きだす。
「いい歳して、心配性ね」あきれ顔のヒロミが現れる。
星空のもと、一行はジャングルを進み、サンジェイの言ったとおり、トンガアリ村の跡地には二時間ほどで到着した。もう四時半だった。日の出まであと一時間半ほどあるが、新月の晩は過ぎてしまったようで気が気でなかった。
家々の残骸とおぼしきものが木々の合間に顔をのぞかせている。籾山氏のインタビューにあったとおり、一九四四年六月のあの夜、日本兵掃討のための英軍の攻撃によって壊滅したのだろうか。何人の村人が犠牲になったのか想像するのも恐ろしかった。彼らとおなじマツ族の一員であるニキルはこれまで寡黙だったが、ここへきて大きくうなり声をあげた。非道な暴力の連鎖の先に自分たちがいることをまざまざと見せつけられ、怒りのやり場がないようだった。
川が流れていた。いまは乾季で小川程度だ。それを上流に進むと、朽ち果てた寺院跡に出くわした。そこで象を降り、ダニーがレリーフの石仏にサーチライトを照らす。
まちがいなかった。連載記事に添付した写真の石仏だった。そのまわりに散らすように描かれている模様は象の眼だ。
「象たちの墓はここから先だよ。けど、くわしい場所はわからない」それでもサンジェイはICレコーダーに録音された元兵士の言葉をもとに、下草がうっそうと茂る森の斜面を進んでいく。「そもそも野生の象が減ってしまっているんだ。だから獣道だってない」
「山を一つ越えた先の崖沿いを右手に進むって言うけど」ヒロミがダニーのスマホから話す。「衛星の映像を見るかぎり、原っぱみたいになっているところは見あたらないわ。ずっと森が広がっている」
ダニーが言う。「七十五年以上たってるんだ。森の様相も変わってしまったのだろう」
「人間も手を加えている」ニキルが告げる。「過度な焼き畑で丸坊主になった山に植林を行っているんだ。ということは戦時中に原っぱだったところというのは、そもそも焼き畑が行われた場所なのかもしれない。いまはもう深い森になっている可能性が高い」
英二が話したとおり、山を下りたところは竹藪になっていた。そこを右手に進むが、一時間が過ぎても足下は赤黒い土が広がっているだけで、無数の岩が露出しているような場所にはならなかった。夜明けが迫り、ライトを向けずともそれがわかるようになってきた。焦りが増してくる。
「おかしいな」サンジェイが苦りきる。英二の話した内容に疑問を持ったわけではなかった。「こいつ、なにかを感じてる」
象のことだった。
たしかにさっきから何度も鼻を持ちあげ、短い咆哮をあげていた。
「なにかを威嚇しているのかしら」ヒロミが声をひそめる。
「いや……」急速に神経質になっていく相棒をなだめようとサンジェイは試みる。「怖がっているみたいだ――」
いきなり象が前肢を高々と上げた。つぎの瞬間、台座は垂直になり、ぼくらは宙を舞っていた。激痛が背中を襲い、息ができない。薄闇のなか、象が踵を返して元来た方角に逃げ去って行く。それをサンジェイが足を引きずりながら追いかける。
「どうしたの! だいじょうぶ!」ヒロミの声が遠く離れた下草のなかから聞こえる。スマホも放りだされたのだ。
「……いったい……なにが……」
やっとのことで声を発することができたぼくの目の前に人影が現れた。その姿を見あげ、息を飲む。
幽霊がそこに立っていた。
四十八
青と緑の炎のようだったよ。
池から煌々と光があふれ出してきてな、気がついたらおれたち三人とも、水のなかに入っとった。それがふしぎなんだ。ひんやりとしてものすごく気持ちがいいんだが、体が濡れてる感じがしないし、息もできるんだ。水とはちがうんだよ。
光る空気。
そんな感じかな。
象たちが隣をすうっと沈んでいったよ。
光の源になっている墓石みたいな黒っぽくて四角い塊のほう、池の底のほうに向かってな。けど、ほんとは底なんてなかった。それがわかったのは自分たちがいるのが池じゃないってわかったからだよ。
奇妙な丸っこいもの、ゴム風船のなかに入りこんじまったみたいだった。その中心にあるのが四角い塊だった。石の寝床みたいに浮かんでいて、象たちはそれに向かって引き寄せられているようだった。自力でもがいたり、泳いだりするんじゃなくてさ、向こうから引っ張られている感じだったんだ。
びっくりしたのはそれからさ。おれたちの体まで引き寄せられていたんだ。怖いような気もしたんだが、それは戦闘とか白い悪魔に体を食われることの恐怖とは、まるでちがうもんだった。怖いっていうより、畏れ多いっていう感覚かな。しいて言うなら。
そのうち象たちの姿が見えなくなった。そのあとにおれたちがつづいていた。こりゃ、いったいどうなるんだって思っていたら、耳元でコースケの声がした。それまで瀕死で口をほとんど聞いていなかったっていうのによ。
「ここに来ることがおれの運命、逆らえないんだ。でもこれでいい。これがすべてなんだ。おまえたちのことは忘れない。ありがとう……」
なにをしみったれたこと言ってやがるんだい。おれはやつの目を覚ましてやろうと振り返ったんだが、もうどこにもやつはいなかった。やつだけじゃない。ボンタもさ。こりゃ、たいへんなことになったぞ。そう思ってあいつらの名前を必死に呼んだよ。
でもそのとき気づいたんだ。
おれも消えていたんだ。
体がね。
クソみたいに崩れ去っていた。
あとは感覚っていうか、自分の心だけが残った。それでも見えている。青と緑の光を放つ墓石みたいなものが。おれはそこに吸い寄せられていった。そうか、これが族長の言っていた「始まりも終わりもない、時の流れもない、ただ静かで穏やかな場所」なのかなって、やっと気づいたんだ。
時がないなら、体もいらないのか。はじめからなんにもない状態にもどったのか。存在なんてもう、考える必要がなくなったのか――。
だけど、それでいいのかな、おれの人生……。
気がついたら原っぱで大の字になって寝そべっていたよ。
朝だった。
何時間眠ったんだろう。出征して以来、あんなに深く眠れたことはなかったかな。
起こしてくれたのはボンタだった。
「おい、エイジ、おまえもおなじ体験をしたのか」って聞いてきたから、やつもおなじものを見て感じたんだなってわかった。
コースケはどこにもいなかった。二人で懸命に捜したけど見つからなかった。けど、おれにもボンタにもわかっていたさ。
あれを見ちまったんだからな。
コースケがどうなったか、考えるまでもなかったよ。すくなくともおれのほうはね。でもボンタはちがった。池や象、それにコースケ。からくりを解こうとするかのようにずっと悩んどった。つぎの日、偵察に来た英軍に捕まって、二人して収容所に送られたあとも、そうだったよ。
終戦を迎え、捕虜たちは順番に解放されて引き揚げ船に乗せられたんだけど、そのなかにボンタの姿はなかった。どこへ行っちまったんだか、とんとわからなかったよ。けど、ほら、時の流れってやつでさ、あんたにもわかるだろう。いくら地獄をともにした親友でもそんなふうになっちまうんだからさあ。戦争が終わって平和な暮らしにもどるとね、執着ってものがさ、薄れていくんだよ。
それは罪なのかな。
おれにはもうわからねえんだよ。
四十九
それは兵隊の幽霊ではなかった。
ボロボロの軍服をまとっているわけでも、脛にゲートルを巻きつけているわけでもない。肩から足下まで色の濃い布をまとっているが、顔や体に灰を塗りたくっているわけでもないから、バラナシあたりのサドゥもどきとはちがう雰囲気だった。しかし見た目は森の隠者そのものだ。
ぼくたちは早暁の薄闇と冷気、そして竹藪のざわめきのなか、どこからともなく現れた相手と息を詰めながら、身動き一つできずに対峙した。そこへサーチライトをさげてサンジェイがもどってくる。逃げた象はあきらめたらしい。明かりが投げかけられ、そこに立ちつくすのが幽霊でなく、実体のある人間だとわかる。木の枝で作ったような杖をついていた。
身に着けていたのは濃緑色の布きれだった。禿頭に長く真っ白い山羊ひげを生やし、ぎょろりとした目がライトを手にするサンジェイをにらみつける。老人だ。団子鼻はまるでアブに刺されて腫れあがっているかのようだった。それでいてホームレスのような汚らしさは微塵もない。石鹸の香りこそしないが、まるでたったいま風呂からあがったかのような清潔な印象があり、むしろぼくのほうがよっぽど臭った。
サンジェイは一歩前に出て怖々と声をかける。ぼくは草むらに落ちたスマホを拾いあげ、カメラのレンズを謎めいた老人に向ける。ニキルやぼくとさして変わらぬアジア系の顔だちだ。マツ族だろうか。気色ばんだ声音でサンジェイと対話がはじまり、ヒロミが声を潜めて訳してくれる。
「ここへなにしにきた」
「象たちの墓を探しにきたんです」
老人は目をすがめる。「なぜそれを知っている」
「そういう場所があるって聞いたんです。でも本当はそのお墓でなく、ふしぎな池のことを調べているんです。ここにいる人たちが」
老人はぼくたちのことをぐるりと見回す。「ここは神聖な場所だ。近づいてはならん。さっき若い象が踵を返しただろう。自分が来るべきときでないと感じ取ったのだ」
「あなたはサドゥ……?」
「呼び方はどうでもいい。自分のためにここにいるのではない。この世に生きる者たちすべてのために祈りをつづけている」
ダニーが一歩前に出て訊ねる。「ここに人を立ち入らせないよう見張っているということですか」
老人はしばしダニーの顔をしげしげと見つめ、首をかしげる。「おまえは……いや、なんでもない……すべての者には時期があるのだ。時期を迎えた者のみがここに入ることを許される。それまでは懸命に生きるしかないのだ。それぞれの世界で」
ヒロミが耳元でささやく。「あの首飾りだけど……」
ライトに老人の首筋が輝いていた。ネックレスのようなものをしている。ぼくはサンジェイを振り返る。象から振り落とされ、逃げた相棒を追いかけたときに飛びだしたらしく、銀の首飾りが首筋からだらりとのぞいていた。ぼくはそれを指さす。老人は見逃さなかった。「おまえ、その首飾りはどうした」
サンジェイも驚いている。老人の首に巻きついていたのは、サンジェイの首飾りとおなじ楕円形の銀板を連ねたものだった。そこには一つひとつになにかが彫りこまれている。それは――。
「ぼくの師匠にもらったんだ。象使いのお守りだよ」
「象使いの師匠……」
「メガシュさんっていう人だ。去年亡くなってしまったけど」
「なんてこった」
ぼくは耳を疑う。ヒロミが訳したものでなく、直接老人の口から日本語が飛びだしたのだ。だがなおも老人は葉擦れの音にまぎれて独り言のようにつぶやく。
「死んだのか……おれよりも先に……」
「もしかして……」ぼくは日本語で訊ねる。「日本の方ですか……?」
老人はまじまじとぼくの顔をのぞきこむ。「あんた、日本人か」
ぼくは自己紹介し、ふしぎな池のことを取材していると告げる。そしてサンジェイの象使いの師匠であるメガシュという男は、数か月前に取材したインパール作戦の従軍兵士たちを救い、この先の村に連れてきた人物であることも。
老人はなおも自分一人の世界に埋没したかのように日本語でつぶやいている。「メガシュが……死んだのか……ここで待っていたのに」
ぼくは訊ねる。「その首飾りはどうされたんですか」
はっと老人はわれに返る。「メガシュがくれたんだ。ここにもどって来たときに」
「もどって来た……?」
「戦争が終わったあとさ。なあ、あんた」老人はすがるような目でぼくのことを見つめてくる。「作戦の話を聞いたって、いったい誰に取材したんだい」
ぼくはごくりと唾を飲む。「……籾山……英二……さんです」
ライトの明かりのなか、老人は硬い地面に崩れる。すすり泣きが聞こえる。悲しいわけではなさそうだった。「あれから……何年が過ぎた……いや、わからないわけじゃない。ちゃんと覚えとる」その言葉はスマホのディスプレイにいまやデーヴァナーガリー文字で訳され、サンジェイやニキルにも伝わっていた。もちろんバラナシにいる少女にも。「エイジは……エイジは元気なのか」
「取材したのは去年の秋です。そのとき九十七歳でしたが、お元気でしたよ。言葉もしっかりしていたし、なにより記憶が鮮明でした。お住まいは新潟の上越市でした」
「ジョウエツ市……?」
「合併したんです。元の直江津だと言ってました」
「そうか、やっぱり故郷に帰れたんだ」老人は堰を切ったように訊ねてくる。「許嫁と結ばれたのか」
「そうだと言ってました」ぼくはもう確信していた。「あなたもいっしょだったんですか、あの作戦のときに」
「ああ、そうさ。おれたち三人、巻きこまれちまったんだ。そうか……エイジは元気なのか……それは良かった、本当に」だがそれはまるで懺悔するような口ぶりだった。「おれは勝手なことをしちまった。エイジには悪いことをした」
「戦争が終わったあともどって来たというのは――」
「収容所さ。おれもエイジも英軍の捕虜になっていたんだ。戦争が終わってようやく故郷に帰れるようになって、エイジは喜んでおった。だがおれはそうはしなかった」
「本多宗男さんですね」
杖にもたれながら立ちあがり、老人はぼくに近づく。竹藪をわたる風がひときわ強まり、せせらぎのようなホワイトノイズが真相を覆い隠そうと耳になだれこむ。でもそうはならない。「ありがとう、ここまで教えてに来てくれて」そしていったんぼくのひじをぎゅっとつかんでから、老人は背筋をすっとのばし、敬礼をしながらはっきりとした声音で告げる。「大日本帝国陸軍第三十一師団、歩兵第五十八連隊所属、本多宗男二等兵であります」
消えゆく闇が断末魔の叫びのように騒ぎたてる竹林で、時がぴたりととまる。
「ボンタさん。籾山さんはそう呼んでいましたけど」
「そうだ。そう呼ばれていた。おれたち三人で高田の連隊に入って、ここまで連れて来られたんだ。それでここで人生をめちゃくちゃにされた。おれたちだけじゃない。従軍した兵隊全員がだ。でもここは地獄でもあるが、一縷の望みもある場所だった」
ボンタさんはふたたび地面に腰を下ろす。それに合わせてぼくたちもおなじようにする。土の臭いが増す。夜明けの薄明のなか、寒さが一層身に染みてくるはずなのにさほどでもない。ふと土に手を触れてみると、ほのかな温みがある。まるで寝起きの布団のようだった。地熱があるのだろうか。あらためてぼくはあたりに目を凝らす。竹藪が広がっている。ボンタさんの背後、藪の奥になにか大きな黒々としたものが横たわっていた。
「一縷の望みとは?」ダニーが訊ねる。
「おれがここに残った理由だよ。収容所を出たあと、おれはどうしてもあの村のことが心配になってもどって来たんだ。英軍の攻撃で村は完全に破壊され、半数以上の人が亡くなっていた。そこでメガシュと再会したんだ。山でさまようおれたちを助けて村に連れて来てくれた象使いさ。戦争が終わったのなら、日本人の罪滅ぼしとしてこの村を再建せねば。おれはそう決心して残ることにした。はじめは村でメガシュたちと暮らして、解放戦線の仕事もした。だけど、やっぱりこの森のことが気がかりでな。というか、村にもどって来たのはそのためだったんだよ。あれを見ちまったんだから。ずっとずっとおれの心をつかんで放さなかった」
「象たちの墓……『幻の池』のことですよね」
ボンタさんははるか昔の記憶をたどるようにゆっくりとうなずいた。「もしここに、おれら人間たち、象もふくめた知性ある生きものたちの真実を教えてくれるよすががあるのなら、ここでそのことを考えてみたかった。村に来て一年ぐらいして、おれはもっぱら森に暮らすようになった」
ぽつりとサンジェイがつぶやく。「それで幽霊になった」
「幽霊か……まあそんなようなものだな。もうこんな歳になっちまったから。この世とあの世の間をゆらりゆらりとさまよっているだけさ」歯の抜けた口元にボンタさんは微笑みを浮かべた。
「日本に帰ろうとは思わなかったんですか」当然のことをぼくは訊ねる。
「思わなかったといえばうそになる。でも長居すればするほど、ここが特別な場所であるとわかってきた。作戦のときにさまよったまわりのジャングルともちがう。静けさのなかのざわめき、きらめく陽射しのなかの闇、心地よさの狭間でひりつく肌。そう、空気だ。空気がちがうんだ。しいて言うなら、おれが生まれたころの高田の、あのころの故郷の空気に似ている感じがした。でもおれがそう感じるだけなんだと思う。おれ自身の五感が子どもの時分にもどったというか……。そうこうするうちに歳月が過ぎてしまった。なに、ここで一人で暮らすぶんにはさして苦労はないんだ。服は村でもらって来た布を使いまわしている。それにあの作戦を乗り越えた身からすれば、食い物なんてなんとでもなる。田んぼも畑も自分で作ったよ。どこで聞きつけたのか、森に入ってきて弟子入りを申し出る者も何人かおった。師匠になんかなるつもりはなかったが、断る筋合いでもない。いまは三十年ぐらい前にやって来た男と暮らしとる。元船乗りでな。インドの人間だが、日本語が話せるんだよ。それで戦争がどうなったかとか、戦後の話とかを聞かせてもらった」
「籾山さんの話では、象はもちろん、ボンタさんたちも『幻の池』に引きこまれたということでしたが」
ぼくの質問を頭のなかで転がすようにボンタさんは目を閉じる。そしておもむろに口を開く。「引きこまれ、消えた。象たちとコースケが。青と緑の輝く光のなかでな。おれもエイジも、そこでこの世界の真実を垣間見たんだ。この世に生を受けて生きるというのがどういうことか、それを見せてもらったんだ。おれたちがやって来た場所、これから行く場所。それがたしかにあることを目撃したんだ。あれを目にしちまえば、争いごとなんてたわけたことはせんようになる。知性を持つ者、人間、それに象たちは、ほかの獣たちとはちがうんだよ。獣たちは生存競争の果てに自分の血筋だけを残そうとする。それはそれは厳しい争いがある。だけど、人間はちがう。象もそうだ。共存することができるんだ。たとえ憎しみを持っても、いつかは心を改めることができる。あらゆるものを受け入れて、もっと大きな存在に身をゆだねられるんだよ。この森にいると、それこそが答えであるとわかるんだ」
がまんしきれずにぼくの手元でスマホが輝き、ヒロミがスピーカーから声をあげる。「一九四四年六月以降も『幻の池』は出現したんですか」
はじめて目にするらしく、ボンタさんはディスプレイに顔を寄せた。ぼくはこれが電話の一種であることを告げる。
「何年かに一度、死期を悟った象たちがやって来る。新月の晩だ。そのたびに『池』は現れとる」
「人間は……?」
ヒロミの問いに森の幽霊はかぶりを振る。「あのときが最後だった。心の準備が必要だし“向こう側”に選ばれなきゃならんのだ。誰もが受け入れられるわけじゃない」
「それはアートマンがブラフマンに昇華するという意味ですか」熱のこもった声でヒロミが訊ねる。
「ヒンドゥーではそうなのだろう。でも宗教は関係ない。一つの真実。ただそれだけだ」
「それがこの場所で起きるんですか」
老人はゆっくりと立ちあがり、背後のざわめく竹藪を指さす。明るさが増し、ようやくそこにあるのが黒光りする巨岩であるとわかった。
「もう夜が明ける。新月の晩は終わりだ。もうなにも起きまい。時が満ちていなかったのだ」
ひんやりと冷たいものが足に触れたのはそのときだった。誰もがそれに気づく。くるぶしのあたりまで水に浸かっていた。雨上がりの水たまりのようだったが、それよりもずっと清らかだった。信じがたいほどに。
それがみるみる広がり、水面がひざまで上がってくる。呆気に取られ、ぼくらは身動きが取れない。ボンタさんでさえ、ただ杖を握りしめるだけだった。
池。
突然の静寂。
やがてそれは――。
五十
青と緑の炎。
籾山氏が話したとおりだった。
それがぼくたちの足下から噴きあがってきた。
「呼んだんだ……あんたたちが呼んだんだ……」ボンタさんのうなり声が生々しく耳元で響く。時空が変化している。そんな感覚に包まれる。竹藪は静まり返り、完璧な無音状態と化していた。「何年ぶりだろう……」
それは水ではない。
光の池だった。
ぼくたちはそのなかにいた。
頭の先まで。
スマホをたしかめる。ディスプレイはしっかりと輝いている。衛星からの電波は通じているようだ。サンジェイもニキルもダニーも言葉を失ったまま、ボンタさんを囲みながら立ちつくしている。いや、その場に浮かんでいた。
「シンちゃん、これって……」ヒロミが驚嘆の声をあげる。「象たちの墓……幻の池なの……?」
強烈なエネルギーを伴った光が池の底のほうから放たれる。激しいほどの照射はまさに炎のようで、青緑色にきらめき時折、赤や黄色にあちこちでスパークする。
「ほかになんだって言うんだい。心にずんずん響いてくる。なんなんだ、この感覚は」
スマホにはアマラが現れていた。
それまでにないほど瞳を輝かせ、このふしぎな現象を見守り“体験”していた。車いすに据え付けたモニター画面が放つ輝きが彼女の顔を煌々と照らしているのがわかる。
目の前に広がる激しい光景とは裏腹の、恐ろしいほどの静寂のなか、ぼくたちは沈んでいた。重力とは思えぬ何某かの力によって引っ張られていたのだ。そのとき籾山氏の言った「ゴム風船」の感覚を理解した。物質化した光が生みだした雲のような世界に捕らえられている。どれほどの大きさ、深さがあるのだろう。見当もつかないが、その中心に向かって引き寄せられている。
そこに恐怖はない。
体と心を押さえつけるあらゆる枷、疲れや不安が霧消し、生まれたばかりの状態にもどったような感覚に包まれる。呼吸はこのうえなくらくになり、五感は研ぎ澄まされ、先人の知恵をつづった本のページを一心不乱にめくるように集中力が増していく。
たがいに傷ついた表情の二人の子どもがいた。死に瀕した若い兵士がいた。インド系の顔だちの少年は目に涙を浮かべている。時は存在しない。たがいの過去が皮膜を破って出現してきているのだ。
ぼくはどこにいる。
本当のぼくは、誰なのだ。
「なんということだ……」ダニーが沈黙を破る。「新月……ガネーシャの呪いによって月が池に沈んだ。これがその池なのか……闇夜を照らしつづける月をも飲みこんでしまう大いなる存在。これがそれなのか。わたしたちはそれに近づいているのか」
「でもいったいなにに……」ヒロミが耳元でつぶやく。
「たしかなもの」感じるままにぼくは告げる。「そうとしか言いようがない」
そのときだった。
目の前に巨大な棺のようなものが現れた。黒曜石のように黒光りするそれは、棺といっても巨人のそれのようで、長さは七、八メートルはあり、厚みも一メートル近かった。この世界を満たす青と緑の光はそこから放たれ、その光に吸い寄せられるようにぼくたちはすこしずつその四角い塊に引き寄せられる。近づけば近づくほど、色合いは濃く、深くなり、地中海の水面のように青黒く、アジアの熱帯雨林さながらに緑も濃さを増し、最後は黒一色と化していく。
黒い光――。
棺はいまや爆発寸前にまで膨張しきっている。これからなにかが起きる。なにかとてつもないことが。それがひりひりと肌で感じ取れるが、恐怖はない。籾山氏の証言とおなじだ。身をゆだねるほかない。そして一瞬ののち、ぼくたちは包まれた。黒い光に。
漆黒の闇に。
暗黒に満ちる光に。
サンジェイやダニーのことはわからない。でもぼくははっきりと感じ取っていた。原始のエネルギーそのものと呼ぶべき光を持たぬ光は向こう側から放たれ、意識はそれと一体化している。頭の真ん中から異世界がめくれあがってくるのを、ぼくという主体はじっと観察していた。
手元のティスプレイが輝く。
アマラが見つめている。
大きな瞳が濡れている。
声がした。かぼそい女の子の声だった。聞き逃したかとぼくはスマホに目をやる。まちがいなくアマラが発した言葉をヒロミがしっかりと文字に起こしていた。
「I FEEL THE SPACE」
ぼくが薄々感じていたことをアマラも感じていたようだ。ぼくたちを包みこむ輝ける暗黒は宇宙そのものというほかない。でも一方でぼくはそれに懐疑的でもあった。ぼくたちの暮らす世界。それを包含する宇宙。そこになにか決定的なちがいはあるのだろうか。距離や環境のちがいはあるものの、どちらも物理的にはつながり、結ばれている。
そのときまるで水かきでもあるかのようにスマホがぼくの手をするりと放れ、重力の法則を完全に無視して目の前の闇のなかへとすうぅっと引きこまれそうになった。あわててぼくは両手でそれを捕まえ、握りしめる。
薄闇に立ちつくす若い女がいた。
黒髪を腰まで垂らし、ぼくに背を向けて前に進みだす。ディスプレイに目をやると主を失った電動車いすが映っていた。
「アマラ……!」
ぼくは思わず叫ぶ。
彼女は足をとめ、振り返る。
愛らしく、それでいて神々しいほどに輝く微笑みを投げ返す。
「ア・リ・ガ・ト・ウ」
はっきりと聞こえた。耳の奥、頭の真ん中に。とろけるような甘い声音が。
「行かないでくれ!!」
あらんかぎりの声でぼくは叫ぶ。だがもうどうにもならない。ふたたび彼女は歩きだし、まるで自らの意思で飛びこんでいくように見えざる入り口の奥に飲みこまれていく。
衝撃はそれだけはなかった。
ディスプレイ自体がやがて光を失い、フェードアウトしていく。画面にヒロミが現れ、それまでただの一度も見せたことのない悲しげな顔をしてなにかつぶやいた。いっさいの雑音のない、完全な静寂のなかなのに、ちくしょう、ぼくには聞き取れない。かけがえのないソウルメイトのメッセージが。
そのとき暗黒の中心――ぼくの意識の中心――がわずかに揺らぎ、なにかが吸いこまれるような波動を感じる。怖々とディスプレイに目をやる。
ブラックアウトしている。
声にならぬ悲鳴をあげ、前に飛びだす。だがいくら進めど、ぼくはぼくの真ん中に到達することができない。
背後に大勢の人の気配を感じた。サンジェイやダニーたちではない。もっとずっとたくさんいる。数えきれないほどの人。無数の意識。バラバラの自我――。
それらがアメーバの増殖のようにくっつき、融合しあい、広がっていく。ぼくはそのときはっきりと感じていた。恐ろしいほどの
快感だった――。
SPACE
そのときになってはじめて理解する。アマラが口走った言葉を。あれは宇宙という意味ではない。
空間。
自分の居場所のことを言っていたのだ。それを感じる、と。
それを知覚していたのは、果たしてアマラの意識だろうか。天啓が下るようにぼくは悟る。そうじゃない。一人ひとりの自我は飲みこまれ、消滅するのだ。居場所を体感している主体は、個を超越した全体意識、唯一絶対の意識なのだ。籾山氏が村の族長から聞いた言葉をぼくは思いだす。
大きな存在があって、最後はその「眼」の内側に入って一つのものを見る――。
ついにそこに到達したのだろうか。ぼくは足をとめ、上とも下ともつかず、前後左右の見当識を完全に失った不可思議な空間で、ソウルメイトに思いを馳せる。意識を集中すると、まるでそばにいるようにも感じられる。それがぼく自身の目を見開かせる。ここはサイバー空間にも通じている。死の存在しない、無限に広がる光の暗黒――。
サナエの言葉を思いだす。人間の内側には意識の原動力みたいなもの、アートマンというのがあって、それが世界の創造者であるブラフマンへと昇華し、真の解放につながる。そんなような話だった。そしてヒロミはその神秘を探ろうとしていた。
彼女はいま、探究の旅に出たのだろうか。
アマラとともに。
真の解放、解脱に向かって。
五十一
「どうだ、目を覚ましたか」
ボンタさんに声をかけられ、ぼくは正気づく。
下草のうえに倒れていた。
朝霧に包まれた竹林の向こうがオレンジ色に燃えだしている。凍てつく寒さに変わりないが、太陽の存在はありがたい。
ダニーもサンジェイもニキルもおなじように地面に倒れこんでいた。池は消えている。幻だったのだ。時計をたしかめる。六時十二分。たった三十分ほどの出来事だったのか。
「見たのか、あんたも」興奮した口調でボンタさんが顔をのぞきこんでくる。「あれを」
返事をしたかったが、余韻に圧倒されて言葉が出ない。深くうなずき、老人の目を見つめ返すことで衝撃の大きさを伝えた。
「信じられない」ダニーが這うようにして近づいてきた。「ブラフマンに触れることができたなんて」
「呼び方はさまざまだ。おれはただ『真実』と呼んでいる。何年かに一度、象たちがそれを見せてくれていた。でも今回は象たちは現れなかった。それなのに――」池があった地面に目を落とし、ボンタさんは言葉を飲みこんだ。
はっとしてぼくはスマホを探す。
「これか」ダニーが握りしめていた。
スリープを解除してもヒロミは現れなかった。声をかけても反応しない。サンジェイが不安そうに見つめてきた。ぼくが体験したのとおなじ光景を彼も見たようだ。ぼくはサナエに電話を入れる。
ワンコールで看護師が出る。ぼくが訊ねるより先に告げる。
「アマラが亡くなったわ」
ダニーがそれを翻訳して伝えると、サンジェイは泣き崩れ、地面にひざをつく。早朝のジャングルを揺さぶる嗚咽に、猿たちが同情するようにあちこちの樹上からうめき声をあげる。十五年ぶりに奇跡の再会を果たしたというのにあまりに不条理だった。しかし命が燃え尽きる寸前でアマラは悲願をかなえ、心残りなくこの世を去ることができた。そう考えるしかない。
サンジェイは涙ながらにサナエに何事が伝えた。それをサナエが訳して聞かせてくれる。「幻の池にアマラが現れたとき『ずっとあなたのそばにいるからだいじょうぶ』って告げられたそうや。『わたしはいなくなるのではない。わたしが帰依するブラフマンは、あなたのなかのアートマンに等しい。あなたが見るとき、わたしも見る』とね」
「だったらだいじょうぶかな、サンジェイは」ぼくは若者の肩を抱き、励ましてやる。
「人間が旅立つのを見たのは、コースケのとき以来だ」ボンタさんは感慨にふけっている。「しかもこの場にいないはずの人間が……」
「アマラはバラナシのムクティ・バワンにいたんです。二年ほど入所しているという話でした。象たちの墓、幻の池を知りたがっていたのは彼女なんです。彼女は自分が死に近づいているのを悟り、死の向こう側について考えつづけていた」
「なるほど」ボンタさんは唇をかみしめた。「コースケは旅立つ前、自分の運命に納得し、受け入れていた。生への執着を捨て去ることができたんだ。彼女もそうなんだろう。象たちとおなじだよ。我欲を捨て、心の底から大いなるものに身をゆだねる覚悟ができたんだ」
竹林の巨岩の前に人影が見えたのはそのときだった。
ボンタさんとおなじ緑の布をまとった男だった。すらりと背の高いインド系の顔だちだったが、灰色の髪が顔のわきに長く垂れ下がっていた。両手いっぱいに果物を抱えている。
「おまえもあれを見たのか」ボンタさんが日本語で訊ねる。
男はゆっくりとうなずいた。だが彼が見つめていたのは森の師ではなかった。
ダニーだ。
ボンタさんもそれに気づき、離れたところに立つ男とダニーの顔を交互を見やる。「やっぱりそうだったか」
ダニーも金縛りに遭ったようにその場に立ちつくし、息さえつけないようだった。
「もう三十年も昔のことだ」ボンタさんが話しだす。「象たちの墓を訪ねてやって来たんだ。それまで五年ほど、コルカタで船乗りをしていたという話だったが、それ以前の記憶を失っていた。アメリカの西海岸の沖合で溺れているところを船に助けられ、そのままインドまでやって来たということぐらいしか話せなかった。日本語もどこで学んだのだかわからなかった。しかしトンガアリ村や象たちの墓のことを記した手紙を手にしていた。船に救助されたときから身に着けていたものらしく、記憶をたどるためにこの森へやって来たんだ」
ボンタさんが感じていることにぼくも気づき、訊ねてみる。「記憶は取りもどせたのかな」
「ここに来て一年もしないうちに明瞭によみがえったよ」
「だったら――」ぼくの問いかけが森じゅうにこだまする。
「もちろんそうだ」
しっかりとした日本語。高い知性を感じさせる低く力強い声音だった。果物を抱えた男はゆったりとした足取りで近づいてきた。
「わたしは家族のもとに急いで帰らねばならなかった。ふつうなら是が非でもそうするだろう」ダニーと手が取り合えるほど近づくと、二人の顔だちに圧倒される。「記憶がもどる前、わたしはすでに象たちの墓で起きることを目にしていた。あんな世界があるなんて信じられなかった。それがきっかけとなって記憶を取りもどせたんだ。あの手紙は、ロスでクライアントだったマツ族出身の男が不思議な場所として書き残してくれたものだった。まずはそれを思いだしたんだ。それでその男があの不可思議な現象をわたしに体験させ、なにかとても大事なことを学ばせようと試みたのだと悟った。世のなかには法律で解決できないこと、どうしようもない不条理が存在するが、それらはすべて大いなる存在によって浄化される……そこに思い至ったとき、わたしはこの地に帰依すべきであると気づいたのだ。妻や子どもたちの記憶は日を追ってよみがえってきたが、大いなる存在、創造者ブラフマンに近づきたいという強い衝動を打ち砕くことはできなかった。それでわたしは現世を捨てる決意をしたのだ」
「おれのせいでもあるんだ」師が肩をすくめる。「もうおれも長くない。後を継ぐ者がいたほうがいいと考えてしまった」
「いや、わたしの意志だ」
「ダニー」ぼくは訊ねる。「この人は……」
「ハリー・サーンキヤ・アールニ。父だ」
父子は静かに抱き合う。
樹上の猿たちも沈黙する。
「母さんは……」
「元気にしてるよ」
濃密な竹林をすがすがしい朝の風がわたる。
エピローグ
ダニーとサンジェイとともにバラナシに向かった。
ムクティ・バワンではサナエが待っていた。アマラの亡骸は、彼女が最期を迎えるまで過ごした眺めのいい四〇一号室のベッドにそっと安置されていた。火葬の準備は整い、オレンジ色の布にくるまれている。弟だけを残し、ぼくとダニーは部屋を離れる。
翌朝、男たちがやって来て遺体を木組みの担架にのせて運びだす。マニカルニカーガートの砂の上に横たえられたアマラは、少女といってもいいほど小さく、弱々しかった。薪からあがる炎は、川面を渡る風に揺られながらその体を確実に焼きつくしていく。しかしぼくらは知っている。すでに彼女が大いなるものと合一し、解脱に至ったことを。輪廻の苦悩からついに解放されたことを。
ゼウスは機能を停止。原因は不明。
遺灰をガンガーに流し終えたとき、ラングレーからダニーに連絡が入った。彼とはおない年だったが、苦渋の表情が浮かぶと、年相応に老けて見える。いまのぼくもきっとそうなのだろう。もう彼女に会えないのだから。
「今回の一件はすべてわたしが処理する。シンジ、心配はいらない」そう言ってダニーは別れを告げる。
サナエとサンジェイをムクティ・バワンに残し、迎えの車が待つ交差点に出るまでダニーを見送りがてら、ぼくは訊ねてみる。「シヴァ……いや、ゼウスは死んでしまったのかな」
それにはCIA調査官らしい答えが返ってくる。「機密事項なのだよ」
「まあ、そうだね。でもなんだか、夢のようだ。ヒロミと出会ってからまだ一週間もたっていないなんて」
「わたしもそうさ。父に会えるなんて思ってもみなかった」
「気持ちの整理がたいへんだね」
「いや、もう決めたよ。わたしはこの世界を牛耳る者たちに反逆してやろうと考えていた。でもそれがどれほどくだらないことなのかよくわかった。母や妹たちとも相談するけど、もうそろそろ仕事に区切りをつけようと思っているんだ」
「区切りか」薄々わかっていたが訊ねてみた。「じゃあ、どうするんだい、これから。ぼくなんて雇ってくれるところがない。会社にしがみつくしかないんだけどね」
「父のところに行くつもりだ」狭い路地を埋め尽くす人々に翻弄されながら、きっぱりと口にした。「それこそが我欲を捨てること、これまでのさまざまな澱を吐きだすことにつながるのではないかな。勝手な考えなんだろうけど」
「その前に一つだけ調べて教えてくれるかな。ぼくがクレジットカードを拝借した人たちだ。使ったぶんは返さないと」
「ゼウスが回復したらすぐに調べてみる。金額を聞いて驚くなよ」ダニーは約束してくれた。「ところでシンジ、きみはこれからどうするんだい」
「それをこれから考えるつもりだ」
ほんとにそうだった。
同僚の運転する車が走り去ったのち、ぼくはガンガーのほとりへと踵を返す。一人になりたかった。考えないと。本気で。これからどうするか。もうすぐ正午だっていうのに相変わらず寒い。川面を渡る風が骨身にこたえる。たまらず暖をとれる場所を探す。あちこちで焚火も燃えていたが、せっかくなら腰を落ち着けたい。
ガートを上がった先に「ケララ・ギャング」なんていう、いかにも観光客受けしそうな名前のカフェがあった。ちらほら入っている客もみな白人ばかりだ。ぼくは窓際のテーブルにつき、首に巻いたストールをほどく。カジノで身ぐるみ剥がされたあと、後生大事にずっと巻きつけたままだった。首回りがらくになると、なんとなく気持ちも落ち着いてくる。
祥江は激怒するだろうな。
一番の心配がそれだった。たとえ疑いが晴れたにしろ、シンガポールに行くなんてうそをついたことや、国際指名手配の件はちゃんと説明せねばなるまい。でも仕事のほうは問題ない。まだ一週間もたっていない。申告した有給休暇の期限内だ。
ホット・レモン・ジンジャーを注文し、好みで入れる小皿の蜂蜜をぜんぶ垂らし、よくかき混ぜてからゆっくりとすする。正直、この旅に出てから口にしたもののなかで、一番体に染みた。
「仕事か……」ほっとひと息ついた途端、自然と口から漏れていた。そのことに自分で驚きながら、雲の低く垂れこめる大河をぼんやりと見つめる。
ほんの数日間だったが、激流に翻弄されつづけた。それがなんだか懐かしくもある。身に危険の迫るぎりぎりの状況だったが、それでも心のどこかで浮き立っていた。大手町のオフィスビルに缶詰めにされていたら、決して味わえない興奮だった。来月からぼくはジャーナリストでなくなり、ネットに情報をアップするだけの機械と同一化する。そんなわくわくする思いなんてもう完全にシャットアウトだ。
「仕事か……」
この数日の間、ぼくは念願のバックパッカーにもどり、すてきな相棒にいざなわれてぜいたくな夢を見させてもらった。その夢ももうおしまいか。
いや、それは自分次第だ。
かぎりある命をこの先、なにに燃やしていくべきか。ブラフマンの存在をこの目でたしかめた身からすれば、真剣に考えないと。人生の真の悦びはまだまだこれからだ。祈りはきっと扉を開いてくれる。
そのとき呼び出し音が鳴る。
輝くディスプレイにぼくは釘づけになる。
「なにそんなジジ臭いもの飲んでたそがれてるの? 似合わないわ。ドラフトビールが一番よ、あなたには」
「ヒロミちゃん!」いたずらっぽい笑みにたまらず頬が緩む。「無事だったんだ。いなくなったとばかり思っていたよ」
「冗談じゃない、わたしを誰だと思ってるの? それにいまわたしが消えたら、シンちゃん、またダメになっちゃうでしょ。バックパッカーの旅は始まったばかりなんだから!」
(了)