第13話 ガリア 紀元前52年
文字数 2,756文字
ガリア・オーヴェルニュ地方 ジェルゴヴィア
「ヴェルキンゲトリクス」
馬に跨り街を去り行く男を、呼び止める幼い姉妹の姿があった。
妹の名はソフィー。
見事な金髪に青い瞳をした可愛らしい少女であった。
姉の名はパトリシア。
彼女も又、美しい金髪に青い瞳を持つ愛らしい少女であった。
ぱっちりとした二重まぶたを持つソフィーの瞳は、大きな宝石のようにきらきらと輝き、その瞳に人々は清らかな優しさを感じていた。
パトリシアの瞳は、アーモンドのような凛々しい目尻と涼しげな目元を備えていた。パトリシアの切れ長の目は、彼女を年齢以上に大人びた存在に見せかけていた。
姉は12歳、妹は8歳、二人には18歳になる逞しい兄がいた。
しかし今、『ヴェルキンゲトリクス』と呼び止められた男は彼女達の兄ではない。ヴェルキンゲトリクスは、彼女達の叔父にあたる、屈強な肉体と強い意思を兼ね備えた20代の男であった。
「ヴェルキンゲトリクス。行かないで」
姉妹は手を握り合い泣きながら、立ち去る男の後を追いかけて行く。
金色の巻き髪に丁寧に櫛を入れ花を飾る美しい姉妹の呼び止めに、ヴェルキンゲトリクスは馬を止め、大地に両足を降ろした。
ヴェルキンゲトリクスが二人の少女に歩み寄る。
「ソフィー。パトリシア。ローマ軍との戦いを高らかに唱えたが故に、部族の長老達は僕を街から追放すると命令を下した。だが、僕は必ず帰って来る。君達が心配する事など何もないんだ!」
ヴェルキンゲトリクスは軽々と少女を持ち上げると、器用に二人を両腕に抱き抱える。
「いいかい、君達も祈っていておくれ。全ガリアの部族が一つに纏 り、力を合わせてローマ軍を追い払う日が来る事を」
ヴェルキンゲトリクスは二人にそう話した。
ヴェルキンゲトリクス。
彼はガリア・オーヴェルニュ地方を治める部族王の息子であった。
しかし、ガリアに侵攻するローマ軍に徹底抗戦を唱えた部族王は、同じ部族の親ローマ派勢力により暗殺されてしまう。
オーヴェルニュでは部族王の暗殺と共に、反ローマ派の勢力は次々と粛清 されていった。だが、ヴェルキンゲトリクスが考えを変える事はなかった。
機敏 で隙 を見せないヴェルキンゲトリクスを殺害する事は難しく、かと言って反ローマ派の王子を放置して置く事も出来ずに、親ローマ派は彼の追放を決めたのである。
幼い姉妹との間で大切な話を交わしたヴェルキンゲトリクスは、抱き抱えていた二人の少女を、ゆっくりと大地に降ろした。
「それでは、また逢おう!」
少女に告げると、ヴェルキンゲトリクスは再び馬上の人となった。
二人は去り行くヴェルキンゲトリクスの後姿を見詰めていた。いつまでも二人で、その場に立ち尽くしていた…
それから一月後の、星空の美しい夜。ジェルゴヴィアの街は、チャリオットの行き交う喧噪 に引き裂かれる。
「ソフィー。パトリシア」
眠りに就いていた姉妹の寝室に、兄のヴェルカツシヴェラヌスが突然入って来る。
兄の突然の訪問に驚く二人を、ヴェルカツシベラヌスは素早く担ぎ上げ、納屋 の奥へと運んで行く。
「あら、お母様も…」
藁 の隙間に身を隠す母の姿を見て、パトリシアが驚いた声を上げる。
「いいかい、三人ともここに隠れているんだ。静かにして、物音を立てないようにして。ヴェルキンゲトリクスが仲間を引き連れ、今この街を制圧しに来ている。明日になれば又、オーヴェルニュ族は反ローマ派が主流の部族に変わっている事だろう。ガリアがローマになど従属してたまるか!」
自らも戦いの装束 に身を包んだ兄は、ソフィーとパトリシアの頭を撫でると、暗い納屋から出ていった。
「ヴェルキンゲトリクスが帰って来た!」
幼いソフィーは、この状況にみじんの不安も見せずに、唯ヴェルキンゲトリクスの帰還を喜んだ。
「ソフィー静かにして」
母親がソフィーを制する。
「親ローマ派の兵士に見つかったら大変な事になるのよ!」
姉のパトリシアも、喜び燥 ぐ幼いソフィーを注意した。
「そうね、静かにするわ。だけどヴェルキンゲトリクスにまた会えると思うと嬉しくて。パトリシアだって同じ気持ちでしょう?」
ソフィーはパトリシアの耳元に寄り、小さな声で尋ねた。
「勿論よ。だけどヴェルキンゲトリクスが負ける事もあるのよ」
「いいえ決してそんな事にはならないわ。ヴェルキンゲトリクスに適う戦士は居ない。ヴェルキンゲトリクスは誰よりも強いもの」
思わずソフィーの声が大きくなる。
「二人共、もうお喋りは止めて。黙って藁の中に隠れていて」
前王の娘でもある二人の母親は、厳しい表情で二人に言い聞かせる。
(明日になればヴェルキンゲトリクスはオーヴェルニュ族の王になる。そしてきっと何時か、ヴェルキンゲトリクスはガリア全土の王に成るんだから)
ソフィーは心の中で呟いた。
パトリシアは星空が美しいあの夜の事を、つい昨日の事のように鮮明に覚えている。
あの日、ソフィーの予想通りに、ヴェルキンゲトリクスは親ローマ派の長老達を街から追放しオーヴェルニュを制した。
それは、若く美しい新オーヴェルニュ王誕生の瞬間でもあった。
翌朝、隠れていた納屋で、兄と共に私達を迎えに来てくれたヴェルキンゲトリクスに、私もソフィーも夢中で飛びついて再会の喜びを表した。
ヴェルキンゲトリクスは私達を軽々と抱き上げると、『ほら、約束通りに帰って来ただろう』そう言って笑った。
戦いの余韻 がまだ残る上気した頬の兄ヴェルカツシヴェラヌスの隣に、細くしなやかな肉体を持ち、同じ姿をした二人の若者が立っていた。
「ヴェルキンゲトリクス。あの人達は誰?」
幼いソフィーは物怖 じもせずに、私達が聞きたかった事をいとも簡単に尋ねる。
「ああ、紹介しよう。彼等はセラヌリウスと言って、北の深い森を越え私のもとに来てくれた双子の客人だ」
私達は二人を見比べる。
全く同じ顔形をした二人は、体型までもが正に瓜二つであり、同じ髪型に同じ服装で身なりを整え、静かな微笑を浮べていた。
「彼等はとても知恵が深く知識も豊富だ。親ローマ派に対する掃討 の奇襲作戦も、彼等の知恵に頼る所が多かったのだよ」
ヴェルキンゲトリクスは、セラヌリウスと呼ばれる若い二人の男を呼び寄せ、私達に紹介した。
「二人とも名前までがまるで同じなの?」
幼いソフィーが尋ねる。
「そうなのだよ!」
ヴェルキンゲトリクスが微笑みながら答えた。
セラヌリウス兄弟は夜明けの森のような透きとおった印象を私に与えた。
幼い私達は、これでこの国に幸せが訪れるのだと思っていた。しかし、ヴェルキンゲトリクスを待ち受ける本当の戦いは、ここからが始まりであったのだ。
昨夜の出来事は、全ガリアの存亡を懸けた戦いの、ほんの序章にしか過ぎなかったのである。
「ヴェルキンゲトリクス」
馬に跨り街を去り行く男を、呼び止める幼い姉妹の姿があった。
妹の名はソフィー。
見事な金髪に青い瞳をした可愛らしい少女であった。
姉の名はパトリシア。
彼女も又、美しい金髪に青い瞳を持つ愛らしい少女であった。
ぱっちりとした二重まぶたを持つソフィーの瞳は、大きな宝石のようにきらきらと輝き、その瞳に人々は清らかな優しさを感じていた。
パトリシアの瞳は、アーモンドのような凛々しい目尻と涼しげな目元を備えていた。パトリシアの切れ長の目は、彼女を年齢以上に大人びた存在に見せかけていた。
姉は12歳、妹は8歳、二人には18歳になる逞しい兄がいた。
しかし今、『ヴェルキンゲトリクス』と呼び止められた男は彼女達の兄ではない。ヴェルキンゲトリクスは、彼女達の叔父にあたる、屈強な肉体と強い意思を兼ね備えた20代の男であった。
「ヴェルキンゲトリクス。行かないで」
姉妹は手を握り合い泣きながら、立ち去る男の後を追いかけて行く。
金色の巻き髪に丁寧に櫛を入れ花を飾る美しい姉妹の呼び止めに、ヴェルキンゲトリクスは馬を止め、大地に両足を降ろした。
ヴェルキンゲトリクスが二人の少女に歩み寄る。
「ソフィー。パトリシア。ローマ軍との戦いを高らかに唱えたが故に、部族の長老達は僕を街から追放すると命令を下した。だが、僕は必ず帰って来る。君達が心配する事など何もないんだ!」
ヴェルキンゲトリクスは軽々と少女を持ち上げると、器用に二人を両腕に抱き抱える。
「いいかい、君達も祈っていておくれ。全ガリアの部族が一つに
ヴェルキンゲトリクスは二人にそう話した。
ヴェルキンゲトリクス。
彼はガリア・オーヴェルニュ地方を治める部族王の息子であった。
しかし、ガリアに侵攻するローマ軍に徹底抗戦を唱えた部族王は、同じ部族の親ローマ派勢力により暗殺されてしまう。
オーヴェルニュでは部族王の暗殺と共に、反ローマ派の勢力は次々と
幼い姉妹との間で大切な話を交わしたヴェルキンゲトリクスは、抱き抱えていた二人の少女を、ゆっくりと大地に降ろした。
「それでは、また逢おう!」
少女に告げると、ヴェルキンゲトリクスは再び馬上の人となった。
二人は去り行くヴェルキンゲトリクスの後姿を見詰めていた。いつまでも二人で、その場に立ち尽くしていた…
それから一月後の、星空の美しい夜。ジェルゴヴィアの街は、チャリオットの行き交う
「ソフィー。パトリシア」
眠りに就いていた姉妹の寝室に、兄のヴェルカツシヴェラヌスが突然入って来る。
兄の突然の訪問に驚く二人を、ヴェルカツシベラヌスは素早く担ぎ上げ、
「あら、お母様も…」
「いいかい、三人ともここに隠れているんだ。静かにして、物音を立てないようにして。ヴェルキンゲトリクスが仲間を引き連れ、今この街を制圧しに来ている。明日になれば又、オーヴェルニュ族は反ローマ派が主流の部族に変わっている事だろう。ガリアがローマになど従属してたまるか!」
自らも戦いの
「ヴェルキンゲトリクスが帰って来た!」
幼いソフィーは、この状況にみじんの不安も見せずに、唯ヴェルキンゲトリクスの帰還を喜んだ。
「ソフィー静かにして」
母親がソフィーを制する。
「親ローマ派の兵士に見つかったら大変な事になるのよ!」
姉のパトリシアも、喜び
「そうね、静かにするわ。だけどヴェルキンゲトリクスにまた会えると思うと嬉しくて。パトリシアだって同じ気持ちでしょう?」
ソフィーはパトリシアの耳元に寄り、小さな声で尋ねた。
「勿論よ。だけどヴェルキンゲトリクスが負ける事もあるのよ」
「いいえ決してそんな事にはならないわ。ヴェルキンゲトリクスに適う戦士は居ない。ヴェルキンゲトリクスは誰よりも強いもの」
思わずソフィーの声が大きくなる。
「二人共、もうお喋りは止めて。黙って藁の中に隠れていて」
前王の娘でもある二人の母親は、厳しい表情で二人に言い聞かせる。
(明日になればヴェルキンゲトリクスはオーヴェルニュ族の王になる。そしてきっと何時か、ヴェルキンゲトリクスはガリア全土の王に成るんだから)
ソフィーは心の中で呟いた。
パトリシアは星空が美しいあの夜の事を、つい昨日の事のように鮮明に覚えている。
あの日、ソフィーの予想通りに、ヴェルキンゲトリクスは親ローマ派の長老達を街から追放しオーヴェルニュを制した。
それは、若く美しい新オーヴェルニュ王誕生の瞬間でもあった。
翌朝、隠れていた納屋で、兄と共に私達を迎えに来てくれたヴェルキンゲトリクスに、私もソフィーも夢中で飛びついて再会の喜びを表した。
ヴェルキンゲトリクスは私達を軽々と抱き上げると、『ほら、約束通りに帰って来ただろう』そう言って笑った。
戦いの
「ヴェルキンゲトリクス。あの人達は誰?」
幼いソフィーは
「ああ、紹介しよう。彼等はセラヌリウスと言って、北の深い森を越え私のもとに来てくれた双子の客人だ」
私達は二人を見比べる。
全く同じ顔形をした二人は、体型までもが正に瓜二つであり、同じ髪型に同じ服装で身なりを整え、静かな微笑を浮べていた。
「彼等はとても知恵が深く知識も豊富だ。親ローマ派に対する
ヴェルキンゲトリクスは、セラヌリウスと呼ばれる若い二人の男を呼び寄せ、私達に紹介した。
「二人とも名前までがまるで同じなの?」
幼いソフィーが尋ねる。
「そうなのだよ!」
ヴェルキンゲトリクスが微笑みながら答えた。
セラヌリウス兄弟は夜明けの森のような透きとおった印象を私に与えた。
幼い私達は、これでこの国に幸せが訪れるのだと思っていた。しかし、ヴェルキンゲトリクスを待ち受ける本当の戦いは、ここからが始まりであったのだ。
昨夜の出来事は、全ガリアの存亡を懸けた戦いの、ほんの序章にしか過ぎなかったのである。