第3話 『寄り道』

文字数 2,050文字

 時刻が22時を回った頃、好子は「よく飲んだね。すごく楽しかった」と引き上げの合図を出した。
 祐典は、その合図に正しく答えず「この通りの屋台って、遅くまでにぎわっているんだな」と言うと、好子もその応答に正しく答えず「さあ、明日は大事な視察の仕事でしょう。東京に来るだけで疲れただろうから、早めに休んで明日頑張って働いて! 私も明日、友達と劇団の舞台を観に行くんだ。東京ってこういう観劇とかライブとかがたくさんあるから、その点はさすがって思っちゃうな」と言い、荷物を手にして店員に会計の合図を出した。
 会計は、好子がどうしてもと自分が払った。
 祐典が「少しは払わせろよ」と言うと、好子は「お返しはまた、お願いするから」と言った。
 
 予約したホテルの場所をスマホで調べると、すぐ近くの国際通りに面したホテルだった。
 好子は「歩いて5分かなあ。私は電車で帰るからホテルまで送るね」と言いながら歩き出した。
 ホテルまで送るねと言ったとき、好子が微笑んだ気がした。
 ――微笑みになぞかけがあるのか。
 しばらく歩くと、ホテルの名前が壁面に書いている結構な大きさの建物が見えた。
「ホテルあそこだ。結構いいホテルなんだ。さすが働き盛りの大人のチョイス!」と自分で上手く表現できたと言いたげに好子は大きく笑った。
「今日はありがとう。何だか高校時代にタイムスリップしたよ。あの頃、お酒が飲めていたら、もっとこんな夜が過ごせていたのにな」と祐典も笑いながら言った。
 好子とは違って上手く表現できなかった。微笑みの謎かけにも上手く答えられなかった。本当は、ホテルの部屋でもう少し飲みたい気持ちがあったのに。
 好子は「あの頃は、こんな夜はなかったけど、今はない優しい気持ちになれる純粋な夜があったはずだよ」とハンドバッグを反対側の肩にかけ直しながら言った。
 そして「人生の波の交わりが、いつかまた思わぬところでやってきたら、今夜のことを懐かしんで飲もうね。この東京の街でね」と言い、握手ではなくプロ野球の選手がホームランを打った後、ベンチで交わす肘タッチを求めてきた。
 好子は、第一のふるさとでとは言わなかった。もう広島には帰るつもりはないのだろう。この東京で、これからも大都会の荒波に揉まれて、俺が知ることのない出会いと別れを重ね、たくましく生きていくんだと手慣れていない肘タッチを返しながら祐典は思った。
 結局、もう少し部屋で飲まないかと言えなかった。あの時、何も言わずに強引にホテルに連れて行ったのは、今はもうできない「青い春の時代」の振る舞いだったのだと祐典は思い、駅に向かう好子に手を振った。


 高校2年生の11月、好子とつきあって半年ほど経った時、祐典は好子を広島市内のラブホテルに連れて入った。
 当時、男連中の恋話には、いつもあのホテルは全面鏡張りだとか、安い割に清潔で良かったとか、女の子とつきあったら必ず通過しないといけない儀式のように、ラブホテルに行った話が登場していた。
 祐典は、そんなことは俺にはできそうにないとその都度思っていたが、家に帰ると、引き出しに置いていた勉強用の雑用紙に聞いたホテルの名前と場所をメモしていた。
 そんなある日、好子の塾の帰りに公園で待ち合わせて、今日のできごとを話した後、キスを交わして、安い割に清潔だとメモしていたホテルに向かって歩いた。そのホテルが公園から近かったこともあるが、心のどこかで皆と同じように儀式を通過したいという思いが、キスをしたことで高ぶっていた。
「1時間だけちょっと、寄り道して帰ろう」
 祐典は、こんな時に彼女の手をとった方がいいのか、黙って連れて行けばいいのかが分からなくて、ただただ人に見つからずに無事部屋にたどり着くことだけを考えてホテルの中に入っていった。
 好子は、何も言わずついてきた。
 今のラブホテルは、タッチパネルを押して誰とも会わず部屋に入ることができるが、当時はフロントの人に選んだ部屋番号を言わなければならなかった。
 部屋に入ると、初めて好子は口を開いた。
「男子ってこんな部屋に興味津々なんだね」
 祐典は何も答えず、ベッドの側にある古ぼけたソファーの椅子に腰掛けて、鞄に入れていた炭酸の抜けたペプシコーラを飲んだ。
 好子は、ソファーではなくベッドに腰掛けて、周りを見渡しながら「全面に鏡があるんだね」と興味というより驚きに近い声をあげ、ベッドでトランポリンを楽しむように何度も座り直していた。
 祐典は、改めて部屋を見渡して「ここも全面鏡張りじゃないか。あいつ正確に言ってなかったな」と舌打ちしながらつぶやき、紺色のスイングトップを脱いだ。
 その後……、何もなく部屋を出ることになった。
 好子は、ひとしきり部屋の中でカーテンを閉めたり、冷蔵庫を開けたり、風呂を見たりした後「祐くん、もうバスなくなっちゃうよ。今度いつかゆっくり来ようね」と言って荷物を持って部屋を出ようとしたのだ。
 祐典は、友人たちが語っていた儀式を通過できなかった。
 
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