第19話 学級崩壊

文字数 2,608文字

 ディーパ、篠田さん、そして私の3人の授業になって、2か月が経過した頃だった。
 篠田さんが突然、机を叩いた。バーンと、思いっ切り。

「駄目だ、こんな教え方では」ディーパに向かって、英語で当たり散らす。「前々から言っているだろう? 語学の上達には、まずは会話だ。何度も会話を繰り返す中で、総合的なスキルが身に付くんだ。この授業は、板書が多すぎる」

 物凄い剣幕で(まく)し立てる篠田さんを()の当たりにし、板書を写す私の手が止まる。

「私は25年間、日本の大学で英語を教えてきた。その私が言うんだから、間違いない。あなたの教え方は間違っている。こんなやり方で上達は無理だ」

 ディーパは腕を組み、指先で引っ掻く。明らかに(いら)ついている。

「あのー、一言、よろしいでしょうか」
 私は後ろの席から恐る恐る、篠田さんに声を掛けた。
「このクラスの指導者はディーパです。篠田さんが意見を仰るのは自由ですが、指導法については最終的にはディーパに決定権があると思いますけど」

 篠田さんの意見を聞くならば、私の意見にも耳を傾けるのが平等というものだ。私の意見は、ディーパのやり方の尊重。

 ディーパは遅刻が多くて甘いところはあるが、教え方は上手い。複雑な文法も、シンプルに噛み砕いて教えてくれる。

 私はディーパの肩を持つので、3人の意見を平等に取り入れる方法だと、篠田さんの意見は決して通らない訳だが。

 篠田さんは私を振り返り、睨み付けた。
「あーあ。いい子だと思ってたのに。醤油だって、あげたのに」

 授業についての提言と醤油に何の因果関係が? 賞味期限切れの醤油で恩を着せられるなら、すぐにでも返したるわ。頭の上から、残りの醤油をぶっかけてやりたい。

 篠田さんはディーパに向き直り、今度はネパール語で怒鳴り始めた。ネパール語のわからない私を議論から締め出す作戦だ。5分ほど怒鳴り散らしたあと、ドアを乱暴に開けて出ていった。

「篠田さんは、何って? 説明をお願い」壁に(もた)れて顔を(しか)めるディーパに問う。

「『教え方が悪い』って、しつこく(ののし)られた。『そんなに気に入らないなら、学長に頼んで教師を代えてもらったら?』って言い返したの。そしたら『ああ、わかった。学長に文句を言ってやる。お前なんか、辞めさせてやるからな』って」

 面倒な事態になった。

 窓に近づいてグラウンドを見下ろすと、篠田さん大股で歩いていた。後ろ姿でも、プリプリと怒っている様子が伝わってくる。頭から出る湯気が見えそうだ。事務棟に直進する。たしか、二階が学長室だ。

「もういいよ。(くび)にでも何でもしたらいい。サンスクリットを教えてきて、こんな屈辱は初めて」ディーパが、机に顔を突っ伏して泣き出した。
 (むせ)び泣くディーパに近づき、傍の椅子に静かに座った。そっと腕に触れる。

「ディーパの教え方、私はすごくいいと思う。文法事項を理論立てて教えてくれてる。篠田さんは『とにかく会話が大事』って(やかま)しいけど、深い理解のためには文法も重要」

 この際、篠田さんの主張の正誤はどうでもいい。どんな理由であれ、他人(ひと)を傷付ける言動は褒められない。

「篠田さんは、板書も、ぜんぜん写さないの。ただ苛立った様子で、座ったままで」
 涙声のディーパが打ち明ける。

 知らなかった。自分の勉強に精一杯で、篠田さんの授業態度に気を取られる暇はない。

 私の見立てでは、篠田さんは自分自身に苛立っているのだ。サンスクリットが〈神に選ばれた者だけが学べる神聖な言語〉ならば、当然、篠田さんが最も優秀であるはずだ。ところが、文法が複雑になるにつれ、わからなくなってきた。

「授業に()いていけない」→「清らかな私が、脱落するはずがない」→「教え方が悪い」

 こうした独自の思考回路によって、怒りの矛先がディーパに向いた。

 ディーパの元を離れ、再び窓の傍に立った。しばらく事務棟の入り口を眺めていると、肩を(いか)らせた篠田さんが出てきた。校門を(くぐ)り、姿を消す。

 どうして、こうなるのか? リカルドとダニエルは去っていった。篠田さんも去ろうとしてる。皆と仲良くするはずだったのに。

 4人の生徒が揃っていた頃の授業を思い出す。声を合わせて(うた)を歌った。

  परोपकाराय फलन्ति वृक्षाः
  他者に与えるために 木は実を結び
  परोपकाराय वहन्ति नद्यः ।
  他者に与えるために 川は流れる
  परोपकाराय दुहन्ति गावः
  他者に与えるために 牛が乳を垂れるならば
  परोपकारार्थमिदं शरीरम् ॥
  この我が身も 他者に尽くすためにある



 利他の精神を教える詩である。木は動物に種を運んでもらうために、実をつける。牛は我が子を育てるために、乳を出す。自分のためだ。それでも世の中の仕組みは、他者の役に立つシステムで回っている。

「ちょっくら、学長のところに遊びにいってくる」

 ディーパの肩を軽く叩いてから、教室を出た。揉め事は好きではない。正直なところ、面倒だ。が、一方的な解釈で学長に抗議をされたディーパの立場を考えたら、私が汚名返上に立ち回るしかない。《現地の人を困らせる奴は死ね死ね団》団長の私としては、動かざるを得ない。

 事務棟の2階で、学長室のドアをノックする。

 部屋の中で、学長は落ち着きなくウロウロと歩き回っていた。日頃は笑顔を絶やさず温和な学長だが、いつになく困った顔をしている。

「少しお話できます? さっき、サンスクリット科の学生が、すごい剣幕で詰め掛けたと思います。その件で」
「いきなりで、びっくりしたよ。『教師を代えろ』って。座って」

 学長に指示された椅子に座る。学長は正面のデスク席に座った。面接みたいで緊張する。
「私はディーパの授業を気に入っています。一人の生徒の一方的なクレームで、教師を代えられたら困ります。私の気持ちをお伝えしたくて参りました」
「先程の学生の話だと、他に退学した学生たちも、ディーパの指導に不満だった、とか?」
 リカルドとダニエルの顔が浮かぶ。
「彼らの個人的事情もあります」特にリカルドの退学については、ディーパよりも篠田さんが原因だろう。
 学長は目を細めて頷いた。「ディーパの優秀さは、よく知っている。教師を代えるつもりはないから、安心して教室に戻りなさい」

 席を立ち、一礼した。ディーパの待つ教室へ戻る。

 以来、篠田さんの姿を見ていない。
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登場人物紹介

リカルド

クラスメイト

メキシコ人

40代半ば(当時)

神話やインドの文学に興味があり、『ラーマーヤナ』(インドの代表的な文学作品。ラーマ王子の英雄譚)を原文で読みたい

きっちりした性格

ダニエル

クラスメイト

イスラエル人

30代半ば(当時)

アメリカでカメラマンをしていた際、ヨーガを学び始める。精神世界・瞑想に興味ありいずれはサンスクリットでヨーガ・スートラ(ヨーガの経典)を読みたい

大の甘党。ディスコでの夜遊びがやめられない

篠田さん

クラスメイト

日本人

65歳(当時)

ヨーガ、瞑想の(自称)エキスパート。日本の某私立大学の英語講師を25年に亘り勤め上げた。サンスクリットを学んで教本を出版したい

本人曰く、動物をも感動させる歌声を有し、森で鹿を泣かせたことがあるらしい

ディーパ

教師

ネパール人

25歳(当時)

幼少の頃から英才教育を受け、サンスクリットをマスターした才女

3児の母でもある

宏美(私)

日本人

27代半ば(当時)

大学1年生の時にインド旅行で衝撃を受け、インドの虜に

基本的にボーっとしてる

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