第2話 出来そこないの世界でも 1

文字数 4,891文字

 学校から帰ると、縁側を見る癖がぬけない。
 前庭に作られた小さな家庭菜園と鶏小屋。庭に面した和室からすぐに出られるようにつくられた、深い軒下の縁側はおじいちゃんの定位置だったから。

「ただいま」
 ぼくが赤い扉をあけて玄関に鞄をおろすと、母さんが台所からフワフワの天パの頭と丸い眼鏡の顔だけ、ひょいとのぞかせた。
「おかえり、拓海(たくみ)。あがる前に、二十日大根と青紫蘇、採ってきて」
 有無をいわさずぼくに命じると、竹のザルを左手で器用に投げてきた。
 ジャストで受け取ると庭へと回れ右だ。
 菜園の土から赤く食べごろになっている二十日大根を抜く。葉っぱが青虫に食べられてボロボロだ。おのれ、畑のうえを優雅に舞うモンシロチョウどもめ! それから、青紫蘇。指で茎をちぎると、すうっと涼しい香りがする。まだ蒸し暑い夏の夕暮れ時に、ここだけ爽やかな風が吹く。
 サヤインゲン、枝豆、トマト、茄子にピーマン。狭い畑には少しずつ何種類も野菜が植えられている。

 夏が一番、好きだなあ。

 声が聞こえたような気がして縁側を振り返る。
 縁側が空っぽになって、もう四年だ。じいちゃんは、ぼくが十三才のときに亡くなった。
 ふう、とため息をつくと垣根のところで自転車のブレーキの音がした。
「よっ、お手紙です」
「わ!」
 郵便配達の森さんがいた。ぼくは思わず駆け寄る。
「えーと、これはお父さんからお母さん宛。駅にお母さんが受け取りの荷物が届いているってさ、これ受取切符ね、それから」
 じらすように森さんは眼鏡をおしあげ、わざわざ帽子の角度を直してから、鞄の底をゴソゴソ。ようやく薄水色の封筒をぼくに手渡してくれた。
「お待ちかねだな」
 差出人の名前なんて見なくても分かっている。お兄さんみたいな森さんに、からかわれたくないから、頬がピクピクするけど、なんともないって顔をする。シャツで指先の土をさっと拭いて受け取った封筒をさりげなく胸ポケットにしまう。
「お父さん、輪番からまだ帰らないのか」
「来週には戻ってくるよ。今回は牧場に行ったから、肉のクーポン、もらってくるって張り切って行った」
「肉か……。つぎはオレも牧場にするかな。でも、海に行って作業するのも気持ちいいんだよな。冬に行くとしんどいけど、まかないは旨いもんが食べられるし」
 森さんは細い目をさらに細めて、あごに親指をあてた。大人は、みんなの生活を支えるために、輪番で作業に出かける。農作業もあれば、工場の手伝いもある。ぼくらも稲刈りやリンゴの収穫時には、それなりの戦力として駆り出される。
「拓海はどうする? そろそろ進路決めだろ」
「うん……」
 来年は十八だ。行き先を決めなくちゃならない。
「医専から誘いがあるんだろ?」
「まあ……」
 ザルのヘリをいじりながら、あいまいに答える。手紙のやりとりがあるのは、誘いがある証拠だ。医専は医師養成専門学校。この町にはない。手紙の差出人の住む大きな町まで行かないと……。
「望まれるのは光栄なことだ。ま、いいことばっかりじゃないのは、どの職種もおんなじさ」
 そう言うと、森さんはひらりと自転車にまたがった。
「悩めよ、少年!」
 ペダルを踏んで去っていく森さんの向こうには、山の稜線にそって風力発電の白い羽根がくるくると回る。
 田舎で便利とは言えないけど居心地のいい山に囲まれた集落から、ぼくは出ていくんだろうか? チリチリとかすかな鈴の音がして、足首に何か柔らかいものが押しつけられた。
「ミケ」
 足首に額をこすりつけていたのを止めて、にゃう、と鳴くと上目遣いでぼくを見た。
「入るか。野菜も採ったし」
 それに手紙も来たし。ぼくが歩く数歩先をミケが行く。

 かわいそうだ……

 おじいちゃん、そういうかな。
 そんなこと、ない。って、言い切る自信がぼくにはない。

 夕飯は夏野菜がテーブルに並んだ。母さんは、父さんからの手紙を何度も読み返している。
 同封された集合写真が食卓にのせられているのは、父さんの陰膳のようなものかな。父さんの椅子には、ひとあし先に食事をすませたミケが丸まっているけど。
 仔牛の手綱を持った今回のリーダーを中心にして、左右に参加者が映っている。父さんは三列目、中央付近で満面の笑顔だ。麦わら帽子、首にタオル。ずいぶん日に焼けたなあ。
「明後日には帰ってくるって。おみやげは、なんとベーコン!」
 母さんは、フサフサと髪をゆらし鼻歌でも歌いそうな感じで便せんを封筒にしまう。ぼくは、メインが鯖の水煮缶詰に鰹節をかけた献立を見ながら、ベーコンを想像して涎を飲み込んだ。魚はいやじゃないけど、あまり口に入らない肉類は、やっぱりご馳走だ。
「お昼に(まき)くん来たわよ。借りた本を返しに。それから別の本も持ってきてくれた」
 うん、とぼくがうなずく。
「槇くんは、相変わらず色白で線が細くていかにもインテリってかんじよね。あんたも、せめて髪が素直だったらよかったのに」
 うん、うん、とうなずいて黙々と食事をするぼくに、母さんは鼻にしわを寄せた。
「なーに、ノリが悪いなあ。いつもだったら、天パは母さんに似たんだ』とか言い返すクセに。テンション低い。お手紙来たんでしょ? 彼女から、かわいい彼女から!」
 いきなりな核心への切り込みに、ぐっとご飯が喉に詰まる。茗荷の味噌汁をあわてて飲む。胸を叩きながらご飯を飲みこんだぼくを、母さんはニヤリとして見た。
「か、彼女じゃないし!」
「すっごい可愛い十六才なだけで?」
 前回同封されていた写真に家族でどよめいたのは、我が家の上半期最大のトピックと言っても過言ではない。でも……。
「えんじゅさんとは……」
 それきり黙ったぼくを母さんは、さすがに言い過ぎたかと思ったみたいだ。
「ごめん、ごめん。そういえば文通の期間が、もうすぐ終わりだったね」
 うん、とぼくはうなずく。一年なんてあっという間だ。ようやく打ち解けたかなって思ったら終了だ。
「ねえ、母さん。えんじゅさんって本当にいるのかな」
「なんで?」
「みんながさ、嘘だろって。足が悪くて、それでも前向きでバレエやっています。文通できるのは一年だけだけど、もし医専に入るなら出あえる可能性があるかも、なんてさ。そんなの医専に誘うための疑似餌みたいなもんだろう、手紙を書いているのは職員のおばさんじゃないかって」
 母さんは肩をすくめた。
「さあね。嘘か誠か。拓海が信じたい方でいいんじゃないかな。たとえ医専に入っても直接会う確率は低いと思うよ。ここよりずっと、大きな街だし」
 ずきん、と胸が痛んだ。そうだ、ぼくらはきっと会うことがないだろう。住所だって『七区』ってこと以外、詳しいところは分からない。政府を介してのやりとりだから、互いの住所は知らないのだ。
「それより、拓海、明日の予定は? 土曜日だけど明日も補習なの?」
「それよりって……。母さんは、ときどき分からないね。ほしゅうってなに? 明日は河川の草刈りで生徒はみんなそれに出るけど」
 あー、はいはいと母さんは諦めたように天井を見上げた。
「高等学校二年なのに、受験に無縁だよね、今の子たちは。じゃあ、なんで今日は登校したのよ」
「ウサギと山羊の世話、あとは図書室で本が読みたかったから、だけど」
 学校に比較的近いぼくを含めた数人が、なんとなく夏休み中の飼育係になっている。
 母さんは、ふーんとだけ言うと、食事を始めた。今日は茄子の煮びたしや、さっき庭から採ってきたばかりの野菜で、サラダが作られていた。
「帰りに駅に届いた荷物、取って来て欲しい。受取票に生ものって書いてあったから配給された夏みかんだわ。みんなでジャム作って配ることになっているの」
 そういえば、今年はうちが班長だった。
「政府がわざわざ与えてくれた機会だけど、医専に行かなくてもいいよ。自転車屋さんに弟子入りしてもかまわないわ。あなたは幼い日の夢をかなえて」
 芝居がかったセリフまわしで、全力で慈母を演じなくていいよ。
「そんな昔の作文、いつまでもネタにしないで」
「ぼくが、せかいでイチバンそんけいするのは、じてんしゃやさんです」
 妙に甲高い声を作っている母さんの言葉を耳を押さえてやりすごす。
「ほんと、好きにしていいわ。最低限、食べることに苦心しなくていい世の中だから。父さんみたいに、輪番だけしてすごしても構わないよ」
 うん、とぼくはうなずく。
「もっとも、若い男が輪番だけーなんて言ったら、ここの集落の連中が手ぐすね引いて、雑用頼みにくるわよ。そうしたら、我が家はお礼のクーポン券でウハウハだわ」
 それはそれで喜ばしいことなんだろう、きっと。
 ぼくがごちそうさまでした、と手を合わせると母さんがお茶を出してくれた。
「医者は、なり手がないから、可能性がある子には、なってほしいって政府は考えるんでしょうね」
 換えが利きづらい専門性の高い仕事だから、ほかの職種と比べて休みが少ない。その代わりに、クーポンは多めに配布されるし、電車利用回数券も支給が多いらしいけど。
 でも、これからのことを考えると、どうしたって気が重い。
「まだ時間はあるから、ゆっくり考えたらいいわ。医専への入学猶予は五年もあるんだし」
 十八から五年間、入学の権利がある。
「お風呂、先に入っていい?」
 食器を流しに運んで母さんに尋ねると、どうぞと言われた。
 よくよく考えてからでも遅くない、五年もあるんだ。ただ、そのあいだの貴重な五年を何に使うんだろう。なにもせずに無為に過ごしてしまうんじゃないか。

 世界が終わるのは、ぼくが六十五歳になるときなのに。

 地球に彗星が衝突するって発表されたのは、ぼくが五才のときだった。
 そのすでに十八年前には彗星衝突が分かって、世界はそれまでの利害関係をただちに解消して水面下で協力しあったらしい。でも、どうしても避けられないと分かった時、各国で声明があったんだ。
 そうなったら、金持ちも貧乏人も関係ない。だれしも平等に終わりが訪れるとなったとき、お金はなんに価値もなくなった。
 かくて世界全体で富を公平に分けたら、以前には当たり前のようにあったものが、どんどんなくなった。
 携帯電話、パソコンや高価な精密機器、自家用車、電車の本数、飛行機の空路……。
 ゆるやかに階段を下りるように生活が変わっていった。
『豊かな生活』を知っているおじいちゃんは、だからいつも「不便だ」って言っていた。母さんはわりと平気で、増えた家事や地区の共同作業も嫌がらずにこなした。

 時計の針が何周も巻き戻って、本の中にしかなかったような「昔の暮らし」になった。
 でも、なくなったのは物ばかりじゃない。
「希望」も無くなったんだ。

「あがったよ」
 風呂上がりにリビングにいる母さんに声をかけると、一つだけ点けた電燈の下で、繕いものをしていた。テレビの放送は八時で終わって、ラジオから昔の曲が流れている。
「ミケ、寝る時間だ」
 ミケは椅子の上で伸びをしてから、鈴を鳴らしてぼくのところへ来た。小首をかしげて、だっこをせがむような顔をしているミケを抱きあげた。短めの柔らかい三色の毛におおわれた華奢な体。湿った鼻が頬にあたった。
「医専にいくなら、獣医のコースにしようかな」
「ん?」
「ほ、ほら。そしたら牧場で仕事ができるじゃない? 肉が手に入りやすくなるかなーって」
 母さんは、手元にむけていた視線を、ちらっとぼくのほうへ向けただけだった。
「いいんじゃない?」
 静かにほほ笑むと、また手を動かした。
「お休みなさい」
 ぼくはミケの前足をとって、バイバイと振って見せた。
「お休み」
 手仕事をしている母さんを見るのが好きだ。
 ここに来る前、「発表」前にマンションに住んでいた頃は、母さんは毎晩帰りの遅い父さんを待っていた。どこか虚ろな目をして。時おり父さんと怒鳴り合うような喧嘩があったのも覚えている。
 それがぼくの記憶違いだったというように、いまは穏やかな時間が流れている。
 医者になるなら、獣医になろう。
 動物は自分から死を選んだりしないから。
 ミケはぼくの腕の中で喉を鳴らして、うっとりと目をつぶった。
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