第1話

文字数 1,998文字

 暗くて狭くてホコリ臭い場所。
 いつも体育座りで、再び扉が開かれるのをじっと待っていた。
゙結衣、大丈夫か?゙
 暗闇の向こうから、彼の声が聞こえる。
 立て付けが悪い物置小屋の引き戸は、子どもの力で開けるのは相当難しい。
 それでも彼は、精一杯の力を振り絞り、戸をこじ開けた。
 光が差した方へと、私は手を伸ばす。
 彼はいつも、私を暗闇から連れ出してくれた。







「結衣?」
「…宏太くん?」
 上京して半年。やっとこの仕事に慣れてきた頃に、彼は店の常連さんに連れられてやって来た。
「あれ、ほたるちゃんって宏太の知り合い?」
「ほたる?」
 私は咄嗟に名刺を差し出した。
「七瀬ほたるです。お久しぶり」
 彼は目を丸くしていた。


 宏太くんは遅いピッチでブランデーを呑んでいる。こういう場所は慣れないのか、盛り上がっている他の人たちとは距離を置き、気付いた時には私と1対1になっていた。
「ねぇ、結衣ってさぁ…」
「七瀬ほたる。ここでは源氏名で呼んで」
「…ななせほたる」
 宏太くんは言いにくそうに口の中で繰り返した。
「えっと、ほたる、さん?は、ここで働いて良いの?きみってまだ…」
「うん。でもここしかなかったの。居場所がなかった私を、ママが拾ってくれた」
「はぁ、そっか…」
 宏太くんが戸惑うのも無理はない。私はまだ17歳。本来ならこんな場所で働いて良いはずがないのだ。
「帰省した時に母さんから聞いたよ。いろいろ大変だったんだね」
「まぁね。一家離散、お母さんもお父さんも生きてるのかすら分からない」
 明け透けに言うと、彼の表情は暗くなった。
「…ね、宏太くんはどんなお仕事してるの?」
「ああ、不動産関係だよ。言ってもまだ1年目だけど」
「へぇ、さすがエリートだね」
 6歳上の宏太くんは昔から優秀で、大学も東京の名門へ行ったはずだ。
「私とは住む世界が違うね」
 彼は聞こえなかったふりをした。


 それから、宏太くんは週末になると店を訪れ、いつも私を指名してくれた。アフターに誘われることもあったけど、それは断った。何だか同情されているみたいで嫌だった。

 
 いつものように宏太くんの接客をしていると、そいつは突然現れた。ずいぶんみすぼらしくなったけど、見間違えるはずがない。
「お父さん、なんで…」
 奴は下卑た笑みを浮かべた。 
「探したぞ、結衣。こんな綺麗になってなぁ」
「やめてよ、勝手に出てったくせに…」
「あの時は悪かった。だから父さん、お前を迎えに来たんだ」
「今さら何?あんたなんて父親でも何でもない」
「はは、そんなに嫌か…」
 乾いた笑いを零し、彼は懐から何かを取り出した。暗がりの中で光るそれは、ナイフだった。周囲から悲鳴が上がる。
 ナイフが私目掛けて振り下ろされる。私は目をぎゅっと瞑った。しかし、痛みは訪れない。目を開けると、宏太くんが私の前に立ちはだかっていた。
「宏太くん…!」
「結衣っ、走って!」
 宏太くんに腕を引っ張られ、走り出す。ボーイに取り押さえられたのか、後ろからお父さんの喚き声が聞こえてきた。
 店を飛び出し、私たちは歓楽街を駆け抜けた。ヒールでよろめきながらも、必死に宏太くんの速度に合わせる。
「宏太くん、血が…!」
 その時、彼の腕から血が伝っていることに気付いた。
「こんなの、大丈夫だよ」
「ごめん…、宏太くんごめん…!」
 泣きじゃくる私を励ますように、彼は私の手を力強く握り直した。
 

 ホテルに駆け込み、受け付けで借りた応急セットで宏太くんの腕の処置をする。あまり深い傷ではなかったのが不幸中の幸いだ。
「ごめんなさい。巻き込んでしまって…」
「結衣は悪くないよ」
 宏太くんは笑った。
 もともと予兆はあった。この仕事を始めて間もなくして、電話がかかるようになった。一度も出てはいないが、きっとお父さんだったのだろう。はたまた闇金の人間か。
 結局、私はどこまで行っても逃げられないのだ。暗澹とした気持ちが、虫食いのように胸の中に広がる。息苦しい。
「…ねぇ、結衣。俺のお気に入りの場所に行かない?」







 宏太くんの運転で2時間ほどすると、灯台のサーチライトが見えてきた。
「朝焼けが綺麗なんだ。来たことある?」
「ううん、初めて」
 駐車場で停まり、車を降りる。海の向こうでは、夜明けの気配が首をもたげていた。手を繋ぎ、砂浜を歩く。宏太くんの手は、昔よりずっと大きく、昔と同じように温かい。
 あの頃と同じだ。宏太くんが私を連れ出したことに気付き、お父さんが追いかけてくる。上手くまけると、何だか可笑しくなって、二人して笑った。二人なら、このままどこまでも走って行けそうな気がした。
 あなたと一緒に生きたい。しかし、そんな淡い想いは、そっと胸の裡に閉じ込めた。
 そして、夜は静かに明けた。太陽が昇ってくる。
「ねぇ、私は幸せになれるかな?」
「…きっと大丈夫だよ」
 微笑んだ彼を、私は直視できなかった。
 私には、あなたはあまりに眩しい。
  
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