第30話 山彦

文字数 1,059文字



 おーいと呼べば、おーいと、こたえる。
 それが、山彦。


 智雄は山男だ。大学時代から山登りが大好きで、日本の山は、だいたい制覇(せいは)した。
 険しい山ばかりでなく、家族で登れるハイキングコースを、のんびり楽しむのも好きだ。

 社会人になってからは一人で登ることが多いが、大学時代には、仲のいい友人たちと、しょっちゅう、あちこちの山へ出かけた。
 雄馬。宏。敏彦。それに……ゆかり。

 去年、ゆかりと結婚した。
 ここへ来るとき、ゆかりも誘ったが、この山には登りたくないと言った。

 まあ、それも、しかたないだろう。
 前の夫が滑落死した山だ。
 そう。敏彦の死んだ山。
 ゆかりの前夫は敏彦だ。

 大学時代の仲間内で、ゆかりはマドンナのような存在だった。
 ゆかり自身は雄馬に惹かれていたんじゃないかと思う。だが、雄馬は卒業後、すぐに別の女と結婚した。

 次に、ゆかりを射止めたのが、敏彦だった。

 だから、智雄は一人で来た。

 どうしても、今日、ここへ来たかった。
 ゆかりと結婚したことを、敏彦に報告したかったのだ。

 敏彦が好きだった、この山。
 頂上近くの(とうげ)には、両側を絶壁に、はさまれた場所がある。山脈のつながった向かいの山と、こっちの山のあいだが、深い峡谷(きょうこく)になっている。

 ここで、敏彦は死んだ。
 一人で思い出の山に登り、事故死した。
 敏彦ほどのベテランが、なぜ、こんなハイキングコースで死んだのか。
 去年の今日だ。

「おーい。としひこー」

 向こうの絶壁にむかって叫ぶ。
 すぐさま、山彦がこたえてきた。


 ——おーい、としひこー……。


「ゆかりと結婚したよー。ごめんなー」


 ——ゆかりと結婚……ごめ……。


「おまえの代わりに守るから、安心してくれー」


 ——おまえ……してくれ……。


 なんだか、声のひびきが悪い。
 今、ちょっと変な感じに聞こえた気がしたのだが。
 おまえは気をつけてくれ……とか?

 しかし、報告はできた。
 あの世にいる敏彦にとどいただろうか?

 満足して、智雄は下山することにした。
 最後に、天国の敏彦に別れを告げて。

「敏彦。じゃあなー!」

 せいいっぱい叫ぶ。
 すると、ビックリするぐらい、大きな山彦が返ってきた。


 ——智雄。うしろを見ろー!


 敏彦の声だった。
 ビックリして、智雄は背後をふりかえった。
 自分のすぐうしろに、ゆかりが立っていた。両手を伸ばし、智雄をつきとばそうとしていた。
 わッと、智雄は腰をぬかした。
 ゆかりは勢いあまって、そのまま崖から落ちた。

 多額の生命保険が自分にかけられていたことを、智雄が知ったのは、その数日後のことだ。
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