第1話

文字数 1,566文字

 今を去ること30数年前、世間はバブル経済崩壊直前の好景気だった。
 忘年会シーズンの夜、都心でタクシーを拾うのは至難の業で、一万円札を持った手を振ってもタクシーは見向きもせずに素通りして行った。
 そんな中で、東京の秋葉原にあるM記念病院の外科は、現在の働き方改革の求める職場とは対極の hard (ハード)training (トレイニング)な外科研修に(ひた)っていた。ちょうど「24時間戦えますか?」と当時、流行(はや)りのコマーシャルそのものだった。
 研修医は殆ど病院に寝泊まりしていた。そんな12月のある日、
 「今度のクリスマス・イブの夜、夜景の見える席を二つゲットしましたっ!」
と、『Tokyo Walker』を手にしたひとりの研修医が目を輝かせていた。帰宅も滅多にできない生活をしていて、彼女?に会えるのが余程嬉しかったのだろう。こみ上げる喜び、期待、楽しみが若さでごちゃ混ぜになったような顔をしていた。
 年末の(あわ)ただしさが続いた25日の朝、その研修医がしょぼんとしていた。
 「こいつ、彼女に振られたんですよ。柄にもない(くわだ)てすっから、天罰が当たったんだ。」
とは、上級医の言葉だった。今の時代なら、暴言に近い乱暴な言葉だ。
 聞くと、席の予約の確認の電話を入れていなかったので、予約が取り消されていたらしい。当時も予約はしたが当日現れない "no show" が問題になっていて、店は予約の確認を求めていた。その研修医はそれを知らなかったのだ。
 とぼとぼ歩くふたりの入る店はなく、タクシーを拾うにも拾えず、電車を乗り継いで御茶ノ水駅までたどり着き、聖橋(ひじりばし)の橋のたもとのおでん屋の屋台に入ったそうだ。…。以後、話に尾ひれがついて、しばらくの間、医局で笑いの種になった。
 その研修医が結婚した。相手はその時の彼女だった。
 …。失意のどん底でヤケクソで聖橋のたもとのおでん屋の屋台に入った。3方がビニールのカーテンで覆われていて3つの長椅子はほぼ満席だった。サラリーマンが殆どで、若い二人は場違いの感があった。
 「(あい)済みません。少し席を詰めてもらえますか?」
 「おう、いいよっ!」「はいよ。」
 「どうした?」
 「それが…。」
 彼の話に皆は爆笑し、盛り上がったらしい。
 「そんな高い店に彼女を連れて行く男にはロクなのがいねえな。下心(したごころ)、見え見え。」
 「ここは安くていいぞ、お嬢さん。ワイン1本分の値段で好きなだけ飲めっから(笑)」
 彼は臨機応変に場を盛り上げ、彼女も話題に入れるように配慮してくれたらしい。
 「物事に柔軟に対応できる大きな人で、私のことにも気遣ってくれる優しい人だと思った。」
とは、結婚披露宴の余興で、新婦の友人が新婦へのインタヴュー形式での質問の答えだった。

 時代は変わった。今、”婚活” と称して結婚を前提とした出会いの機会が多い。1回目のデートでどこへ行ったか?何をご馳走してくれたか?などの情報が溢れているように思う。
 研修医が夜景の見える素敵な店に行く。「わあ、夜景がきれい」「この料理、素敵」「このワイン、美味しい」でなかなか「あなたが素敵」にたどり着かない。「あなた」より「インスタ映え」が中心になりがちだ。
 おでんの屋台に入る。夜景などなく薄暗い。料理はおでんでインスタ映えもしない。ワインはなく瓶ビールか日本酒だ。出るも出ないも「あなた」が前面に来る。
 前途を夢見る若い人たちよ、この人だ!と思う人とは、1度はおでんの屋台、ガード下の赤提灯に入ってみることをお勧めする。

 さて写真は庄内のとある店で撮ったふたつのワイン・グラスだ。

 残念ながら庄内の夜は漆黒の世界で、夜景、ネオンはない。でも、店のライトに照らし出される赤ワイン、白ワインの光を堪能できるような店はある。
 ぜひ、足をお運びあれ。
 んだんだ!
(2022年5月)
 
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