タンザナイト――3―5
文字数 3,077文字
それを貰う事はわかっていた。
しかしいざそれのために戻ろうと思うと面倒に思え、結局それをもって研究室まできてしまった。
それというのはリボンで結われたたった一本の白い花だ。
ドアを開けると、白衣を着た舞奈が真面目な顔で机に向かい合って作業をしていた。机にはさも当たり前かの如く、ジュースとお菓子が並んでいる。
「あ、もう戻ってきたんだ。そんな私に会いたかったの?」
「いや、あ、はい。それでいいです」
特に理由なんかなかったが、否定しても面倒くさそうなのでそういうことにした。
「それで、そのお花は」
「これはさっき――」
「私にくれるの?」
花が好きなのか、言葉を遮って笑顔で聞いてくる。
「話聞けよ。これはさっき公園で知り合いに貰ったんだよ」
俺の言葉で舞奈の顔から笑顔が消え、瞳も髪も蒼色に染まり、宝石のような瞳からは憎悪や殺気が感じられる。
自分が何をしたのか全くと言っていいほどわからないが、非常にまずい状況だということくらい理解できる。
舞奈はそっと立ち上がると、シンクへ向かい水を流す。
水の流れる音だけが研究室の中にこだまする。
お願いだから何か喋ってくれと念じても、当然届くわけもなく舞奈は微動だにしない。
普段なら何気ないであろう一秒がやけに長く感じる。
「舞奈さ――」
舞奈が手刀で空を切ると、それに合わせたように自然に流れていたはずの水が形を変え、流れを変え、俺の持っていた花をばらばらに切り裂いた。
「まじかよ」
床に広がる花の残骸を見て思わず呟いていた。
水を使った工作機械があると、テレビで見たことはあるがそれに似たようなことをしたのだろう。
金属を加工できるくらいなのだから、身体に当たっていたと思うとぞっとする。
「酷いと思わない? 陽平は私の彼氏なんだよね、恋人なんだよね。それっていつの話? 昨日の話だよね。それ昨日の話だよね。流れのまま乗せられてって、そんなところもあったのかもしれない。それを見抜けなかった私にも問題があるのかもしれない。そうだよね、昨日帰りたがってたもんね、他に女がいるから、そうだよね。だったら最初からそう言ってよ。違う、違うよ、そうじゃないよ。ちゃんとした彼女がもういるのに他の女を受け入れないでよ、そんな軽いことしないでよ。何がしたいの、相手をぬか喜びさせるのがそんなに楽しいの? ふざけないでよ、そうやって楽しく遊んで、陽平はそれでいいのかもしれないけど傷つく方の事も少しは考えてよ。私が先かその女が先かわかんないけど、相手がいるんだったらちゃんと断ってよ」
そう叫んで振り返った舞奈の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「これ、多分完全に私が悪者じゃん。やだな。全然頭の中も言葉もまとまんないし、自分で何言ったのかももうわかんないし」
気圧されてしまい黙って聞いていたが、どうにも、浮気だとか二股だとかと勘違いしているらしい。
おそらくまた花が原因なのだろう。
花に興味の無い俺からすれば、たかが花一本で皆してなにをそこまで神経質になっているのだろう、というものだ。
「舞奈、この花くれたの他の彼女とかじゃなくて知り合いの男の子なんだけど」
「ねえ、五月蠅い。黙って、出てって」
「いや、だから――」
「静かにして、黙って、出てって言ってるの」
どうやら、話を聞くつもりは全くないらしい。
「勝手に勘違いして、出てけって少し身勝手じゃないか」
身勝手だな、そう感じるところは出合った時からあったが、流石に今回は少なからず苛ついたので言わせてもらった。
「五月蠅い、落ち着くのに時間が欲しいの。整理するのに時間が欲しいの。その後ちゃんと話聞くから、今は出てってよって。ああもう、それくらいわかってよ」
黙れと出てけしか言われていないのにそこまで察しろなんて無理な話だ。少なくとも俺にはそれ程高度な意思疎通能力はない。そのことを指摘したとしても余計ヒステリックになるだけだろうから、そうなれば手に負えなくなる。
こちらを向こうとしない舞奈の事を見ていると、自分でも驚くほど荒い溜息が出た。自分で思っている以上に苛ついているのだろう。
頭を掻きむしると、また荒い溜息が出る。
このままここにいても、話は全く進まないのだろうという事で、俺は大きく息を吐いて部屋を出た。
日高研究室と書かれたプレートを横目で見ながら深呼吸する。
何度も溜息を吐いたり深呼吸したおかげか一度は落ち着いた。しかし、落ち着いたことで、寧ろ苛立ちやもやもやが大きくなっていく。
何故あそこまで言われなければならないのか。俺が悪いのか。俺が何をした。
誰かとすれ違うまでには気を静めなければ、なんて思うが一向におさまらない。
なんならいっそ、目の前に張られたガラスか樹脂かわからない透明な壁を破壊して、意味のない言葉を喚き散らしたいくらいだ。それなのに、理性が無力なお前にはそんなこと出来やしないし、実行する力もないぞと語りかけてくる。ああ、全く、破壊衝動のまま実際に鎚を振り下ろし壊すことが出来たのなら、どれ程楽になれるのだろう。
どこにぶつければいい。何をすればおさまる。そもそも、俺は何故ここまで苛立っている。
帰ってから一人で愚痴ろうか、或いは気分転換に眠ろうか。
兎に角帰るまでの間くらいは落ち着いていようと、力強く握りしめていた拳をほどき、めいっぱい大きな深呼吸をする。
「よし」
どれのおかげか、思いの外軽くなる。
ただ軽くなっただけで、もやもやは胸の中に残っている。堪らず、またも頭を掻きむしる。きっと今頃、髪の毛がぼさぼさになっているだろうと、手櫛で髪を適当に整えてからようやく一歩を踏み出した。
部屋に着いてからはまず、愛梨さんが帰ってきてないことを確かめ、いないとわかると息を吐きながら唸るように低く声を出して、そのままソファへ倒れこむ。
泳ぐように手足をばたばたさせてから起き上がる。
「あああああ、なんなんだよ。出てけだけで伝わるわけないだろ。馬鹿か。ってか、俺の話も聞かずに勝手に勘違いしたのに、何で俺が責められてんだよ。ほんっとう、意味わかんねえ。もう、あああああ」
唸りながら両手でふとももをばしばし叩くと少し痛かった。
「ああもう、ああああああもう、勝手に勘違いしたのはお前だろ。馬鹿かよ。あんなの当たったら死ぬわ。馬鹿かよ。出てけだけで伝わるか。馬鹿かよ。悪者はお前で間違いねえよ、間違えないんだよ。勝手に勘違いしたんだからな」
言い終えると、力が抜けて横になる。
「惨めだ」
舞奈に殆ど何も言い返さず、言われるがままに研究室を出て、誰も聞いていない今ここでぐだぐだ文句を言っていることが、だ。
そのまま喧嘩していれば、何か、例えば気分や状況は変わっていたろうか。
隅に畳まれていた敷布団を広げ、布団に包まる。
寝て起きた時、嫌なことは忘れていますように、とそれだけの簡単なことだ。
しかし時間的にも眠くなく、まだ愚痴り足りないという気分のせいで、まるで眠れない。
眠れないことで無意味に腹が立つ。
仕方がないので広げたばかりの布団を片付けてソファの上で横になると、布団を広げて寝ようとした時よりもずっと眠くなる。
もう一度広げるなんて気力はないし、広げたところでどうせ寝れないだろうから、このままでいよう。
しかしいざそれのために戻ろうと思うと面倒に思え、結局それをもって研究室まできてしまった。
それというのはリボンで結われたたった一本の白い花だ。
ドアを開けると、白衣を着た舞奈が真面目な顔で机に向かい合って作業をしていた。机にはさも当たり前かの如く、ジュースとお菓子が並んでいる。
「あ、もう戻ってきたんだ。そんな私に会いたかったの?」
「いや、あ、はい。それでいいです」
特に理由なんかなかったが、否定しても面倒くさそうなのでそういうことにした。
「それで、そのお花は」
「これはさっき――」
「私にくれるの?」
花が好きなのか、言葉を遮って笑顔で聞いてくる。
「話聞けよ。これはさっき公園で知り合いに貰ったんだよ」
俺の言葉で舞奈の顔から笑顔が消え、瞳も髪も蒼色に染まり、宝石のような瞳からは憎悪や殺気が感じられる。
自分が何をしたのか全くと言っていいほどわからないが、非常にまずい状況だということくらい理解できる。
舞奈はそっと立ち上がると、シンクへ向かい水を流す。
水の流れる音だけが研究室の中にこだまする。
お願いだから何か喋ってくれと念じても、当然届くわけもなく舞奈は微動だにしない。
普段なら何気ないであろう一秒がやけに長く感じる。
「舞奈さ――」
舞奈が手刀で空を切ると、それに合わせたように自然に流れていたはずの水が形を変え、流れを変え、俺の持っていた花をばらばらに切り裂いた。
「まじかよ」
床に広がる花の残骸を見て思わず呟いていた。
水を使った工作機械があると、テレビで見たことはあるがそれに似たようなことをしたのだろう。
金属を加工できるくらいなのだから、身体に当たっていたと思うとぞっとする。
「酷いと思わない? 陽平は私の彼氏なんだよね、恋人なんだよね。それっていつの話? 昨日の話だよね。それ昨日の話だよね。流れのまま乗せられてって、そんなところもあったのかもしれない。それを見抜けなかった私にも問題があるのかもしれない。そうだよね、昨日帰りたがってたもんね、他に女がいるから、そうだよね。だったら最初からそう言ってよ。違う、違うよ、そうじゃないよ。ちゃんとした彼女がもういるのに他の女を受け入れないでよ、そんな軽いことしないでよ。何がしたいの、相手をぬか喜びさせるのがそんなに楽しいの? ふざけないでよ、そうやって楽しく遊んで、陽平はそれでいいのかもしれないけど傷つく方の事も少しは考えてよ。私が先かその女が先かわかんないけど、相手がいるんだったらちゃんと断ってよ」
そう叫んで振り返った舞奈の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「これ、多分完全に私が悪者じゃん。やだな。全然頭の中も言葉もまとまんないし、自分で何言ったのかももうわかんないし」
気圧されてしまい黙って聞いていたが、どうにも、浮気だとか二股だとかと勘違いしているらしい。
おそらくまた花が原因なのだろう。
花に興味の無い俺からすれば、たかが花一本で皆してなにをそこまで神経質になっているのだろう、というものだ。
「舞奈、この花くれたの他の彼女とかじゃなくて知り合いの男の子なんだけど」
「ねえ、五月蠅い。黙って、出てって」
「いや、だから――」
「静かにして、黙って、出てって言ってるの」
どうやら、話を聞くつもりは全くないらしい。
「勝手に勘違いして、出てけって少し身勝手じゃないか」
身勝手だな、そう感じるところは出合った時からあったが、流石に今回は少なからず苛ついたので言わせてもらった。
「五月蠅い、落ち着くのに時間が欲しいの。整理するのに時間が欲しいの。その後ちゃんと話聞くから、今は出てってよって。ああもう、それくらいわかってよ」
黙れと出てけしか言われていないのにそこまで察しろなんて無理な話だ。少なくとも俺にはそれ程高度な意思疎通能力はない。そのことを指摘したとしても余計ヒステリックになるだけだろうから、そうなれば手に負えなくなる。
こちらを向こうとしない舞奈の事を見ていると、自分でも驚くほど荒い溜息が出た。自分で思っている以上に苛ついているのだろう。
頭を掻きむしると、また荒い溜息が出る。
このままここにいても、話は全く進まないのだろうという事で、俺は大きく息を吐いて部屋を出た。
日高研究室と書かれたプレートを横目で見ながら深呼吸する。
何度も溜息を吐いたり深呼吸したおかげか一度は落ち着いた。しかし、落ち着いたことで、寧ろ苛立ちやもやもやが大きくなっていく。
何故あそこまで言われなければならないのか。俺が悪いのか。俺が何をした。
誰かとすれ違うまでには気を静めなければ、なんて思うが一向におさまらない。
なんならいっそ、目の前に張られたガラスか樹脂かわからない透明な壁を破壊して、意味のない言葉を喚き散らしたいくらいだ。それなのに、理性が無力なお前にはそんなこと出来やしないし、実行する力もないぞと語りかけてくる。ああ、全く、破壊衝動のまま実際に鎚を振り下ろし壊すことが出来たのなら、どれ程楽になれるのだろう。
どこにぶつければいい。何をすればおさまる。そもそも、俺は何故ここまで苛立っている。
帰ってから一人で愚痴ろうか、或いは気分転換に眠ろうか。
兎に角帰るまでの間くらいは落ち着いていようと、力強く握りしめていた拳をほどき、めいっぱい大きな深呼吸をする。
「よし」
どれのおかげか、思いの外軽くなる。
ただ軽くなっただけで、もやもやは胸の中に残っている。堪らず、またも頭を掻きむしる。きっと今頃、髪の毛がぼさぼさになっているだろうと、手櫛で髪を適当に整えてからようやく一歩を踏み出した。
部屋に着いてからはまず、愛梨さんが帰ってきてないことを確かめ、いないとわかると息を吐きながら唸るように低く声を出して、そのままソファへ倒れこむ。
泳ぐように手足をばたばたさせてから起き上がる。
「あああああ、なんなんだよ。出てけだけで伝わるわけないだろ。馬鹿か。ってか、俺の話も聞かずに勝手に勘違いしたのに、何で俺が責められてんだよ。ほんっとう、意味わかんねえ。もう、あああああ」
唸りながら両手でふとももをばしばし叩くと少し痛かった。
「ああもう、ああああああもう、勝手に勘違いしたのはお前だろ。馬鹿かよ。あんなの当たったら死ぬわ。馬鹿かよ。出てけだけで伝わるか。馬鹿かよ。悪者はお前で間違いねえよ、間違えないんだよ。勝手に勘違いしたんだからな」
言い終えると、力が抜けて横になる。
「惨めだ」
舞奈に殆ど何も言い返さず、言われるがままに研究室を出て、誰も聞いていない今ここでぐだぐだ文句を言っていることが、だ。
そのまま喧嘩していれば、何か、例えば気分や状況は変わっていたろうか。
隅に畳まれていた敷布団を広げ、布団に包まる。
寝て起きた時、嫌なことは忘れていますように、とそれだけの簡単なことだ。
しかし時間的にも眠くなく、まだ愚痴り足りないという気分のせいで、まるで眠れない。
眠れないことで無意味に腹が立つ。
仕方がないので広げたばかりの布団を片付けてソファの上で横になると、布団を広げて寝ようとした時よりもずっと眠くなる。
もう一度広げるなんて気力はないし、広げたところでどうせ寝れないだろうから、このままでいよう。